ライデン夫人へ ─ グレッヒ神父からの五つの質問

二〇〇二年四月四日

 ライデン夫人へ

 あなたの著作についての教理省の「通達」に関して、あなたはラッツィンガー枢機卿猊下にあてて二〇〇〇年七月六日に手紙を出されました。枢機卿はあなたの手紙に注目され、協力者と共に、あなたの出版物に含まれる主張の意味を明白にする機会をあなたに与えることに決定しました。この目的のために、教理省がこれらの主張の正確な解釈について、より明確な考えを持つことが出来るよう、私は会話と文書の両方の形であなたと個人的にコンタクトを取るように指名されました。あなたはローマカトリックの信者ではないので、教理省の管轄下に入るものではなく、あなたを個人的に非難するつもりはないことを、始めからはっきりさせておきたいと思います。しかしながら、多くのカトリック信者が「神のうちの真のいのち」に従っていますので、あなたの著作によって鼓舞された信仰の実践や教義上の点に関して、どういう立場を取るべきかを知る権利を有します。
 私たちは、あなたが慈善活動をなさっていること、ローマの司教との一致へとすべてのキリスト教徒を導こうと努力されていること、あなたが聖母マリアに対してとても深い信心をお持ちであること、神をクリスチャン以外の人々にとってさえも愛の神であるとして示していること、キリスト教徒の間に存在する合理主義や堕落について反対していらっしゃることを承知しています。
 あなたの最新の本では、初期の頃のものに含まれていたような不明瞭な表現も払拭(ふっしょく)されたと思われます。これにもかかわらず、あなたが何をなさっているのかということについて教理省がより明確な理解を得る助けになるいくつかの質問に、できるだけ明瞭にお答えいただけますれば幸いです。

一、カトリックにとっても正教会にとっても、ただ一つの啓示が認められ、それはイエズス・キリストにおいての神の啓示であり、それは聖書と伝統の中に含まれているということをあなたもよくご存知でしょう。カトリック教会の中では、正式に承認されているルルドやファチマにおける「私的」な啓示さえも、真剣に受けとめられてはいますが、教会が属している信仰箇条ではありません。それでは、あなたの著作はどちらの意味での啓示であり、あなたの傾聴者や読者は、どのように受け入れるべきだとお考えでしょうか?

二、あなたは正教会に属していますが、その教会の司祭や主教にローマ教皇を認め、カトリック教会と和解することを熱心に勧めておられます。このことによって不幸にも、あなたはご自身と同じ教派のいくつかの国では歓迎されません。この使命をなぜ引き受けるのですか? ローマ司教についてどのようなお考えをお持ちで、将来のキリスト教徒の一致についてどのように予見されますか。あなたの著作を読むと、あなたはどちらの教会にも明確な態度を取らずに、教会の枠を越えた立場に立っておられるような印象を受けます。たとえば、あなたはカトリック教会でも正教会でも御聖体を拝領するにもかかわらず、結婚のステータスにおいてはoikonomia*の慣習に従っておられるようです。すでに申し上げたように、私たちにはあなたの良心に判決を下す権利は全くなく、個人的にとがめる目的でお聞きするものではありませんが、あなたのカトリック信奉者の中には、これらの態度を相対主義的な見地で解釈し、自分たちの教会の規律を無視する誘惑にかられる心配があることを、ご理解下さるでしょう。
 *正教会の教会法上のやりくり(訳注)。

三、「通達」の中に見られるように、あなたの初期の著作の中には聖三位の位格に関しての用語に混乱がありました。あなたはご自分の教会の教えに同意していると、私たちは確信しています。これらの表現について、はっきりと説明がお出来になりますか? 信仰の問題を扱う場合には、「神のうちの真のいのち」の読者の心の混乱を避けるために、標準の公教要理にある公式の用語に従うことが有用ではないでしょうか?

四、protology(起源論)と終末論に関しても難しい問題があります。霊魂が体に吹き込まれる前には、どのような意味において「神のビジョン」を持つのですか? また、キリストの再臨と死者の復活に関連し、人類救済の歴史の中で、新しい聖霊降臨をあなたはどのように考えられますか?

五、「神のうちの真のいのち」運動の本当のアイデンティティは何ですか。この運動はその信奉者に何を要求しますか。それはどのように組織されていますか?

 ライデン夫人、これらの質問によってお仕事を中断させて申し訳ありませんが、私たちがあなたのよい仕事と意図を高く評価していると自信をお持ち下さってけっこうです。しかし、ラッツィンガー枢機卿にあてたあなたの手紙に答えるために、あなたがお気づきにならなかったかもしれない、あなたの著作の中にある曖昧な表現を明らかにすることが、私たちの務めだと感じました。これはあなたの著作に従う際に良心の葛藤を経験するかもしれないカトリックの読者に対する私たちの義務です。どうぞ、ゆっくり時間をかけてお答え下さい。あなたが書き始める前にあなたと私が会って、何回か非公式にお話しすることが出来ればなおさらよいでしょう。

 聖霊があなたに光を与えて下さることを祈り、あなたが信頼なさっている霊的指導者や神学者の方々に助言を求めて下さい。私たちの質問が、カトリックと正教会の双方からあなたの書物がもっと受け入れ易くなるために、その意味合いをあなたがより深く理解する助けにもなると確信しています。私はその意味合いを明瞭にさせるため、個人的に喜んでお手伝いしましょう。
 枢機卿から、あなたにご挨拶申し上げます。枢機卿は、あなたの手紙にあったリクエストにお答えするという任務を容易にするよう、あなたが満足な答えを提供して下さると信頼しております。

敬 具   

 

ローマにて 教理省顧問 プロスペロ・グレッヒ神父 
(聖アウグスチノ修道会) 


プロスペロ・グレッヒ神父様へ ── ヴァッスーラの回答

ローマ 二〇〇二年六月二十六日

 プロスペロ・グレッヒ神父様

    二〇〇二年四月四日付の教理省、ジョセフ・ラッツィンガー枢機卿猊下の
    代理人プロスペロ・グレッヒ神父様の手紙へのヴァッスーラ・ライデンの回答

 プロスペロ・グレッヒ神父様へ

 まず第一に、二〇〇二年四月四日付の手紙の中で大変ご丁寧に私の著作と活動について質問され、それは一九九五年の「通達」に含まれた批評のいくつかの点を繰り返すものですが、その質問に答える機会を与えて下さいましたことに深く感謝致します。

「すべての霊を信じないで、それが神から出たものかどうかを、試しなさい」(一ヨハネ4・1)という務めと責任を、最も聖なる教理省が負っていることを私は承知しています。私の所に来て、神的体験をしたと主張し、私の体験と一緒にしてほしいと願う多くの人びとに私自身も今まで出会いましたので、ここ数年の間に識別という仕事の複雑さや、それがいかにデリケートであるかということを私は理解してきています。慎重を要し、かつ責任が重いという理由で、私はこれらのことに言及しないという原則をつらぬいてきています。従って、信者たちをどんな害からも守り、不確かな体験から信仰の純粋性を保ち、同時に、教会に益をもたらす真実のカリスマを擁護していくという貴省の仕事の重要性を、私は敬意のうちに受けとめております。

 イメージや詩的、または象徴的なスタイルで書かれているために、不明瞭と思われる表現のいくつかをはっきりと説明し、光をあてる機会を与えて下さいましたことにも感謝致します。私がギリシャ正教徒でありながらカトリック教徒に話しかけるということが一般的ではないということも同様に承知していますが、これも秩序からはずれていると見るのではなく、キリスト教信徒間の仲たがいを癒すための私のささやかな貢献と見なしていただけますように謹んで希望します。「神のうちの真のいのち」(TLIG)と題される十二巻の本に示される広範な展望を明言するのに私には限界がありますが、それに対してあなたが寛容、善意とご理解を示して下さることも確信し、全くの誠実さと明噺さをもって勿体なくも私に差し出された質問に対して、私は最善の努力をしてお答え致します。

質問一:TLIGと啓示との関係
              (前掲の質問参照)
 私は神学はおろか公教要理(カテキスム)さえ一度も学んだことはなく、私が初めて神から召されて回心したころは、前記にあるような神学的ニュアンスの違いも全く知りませんでした。聖霊の優しい導きが続けられるに従い、徐々にこれらの違いを教えられました。この神のお召しの最も初期のころ、私はとても混乱しており、私の守護の天使が現われた時にこう言いました。
「でもよく分かりません、私たちにはすでに聖書が与えられているのに、どうして今さらメッセージが必要でしょう? 」私の天使は答えました:「では本当に聖書の中で言い尽くされていると思うのですね?」私は言いました、「そうです。ですからこういったことの理由が分からない。何も新しいことは書かれていないし。」そのとき天使は答えました:「神がこれらのメッセージをお与えになりたいのです。」私は言いました、「私でなければならない理由があるでしょうか?」天使は答えました:「いいえ。神はあなた方皆を愛しておられる。これらのメッセージは、あなたの起源はどうであったかを思い出させる手立てに過ぎません。」('86・8・7『私の天使ダニエル』三九頁参照)

 私たちは聖書を持っているのに、神が私たちに今お話しなさりたい理由はどこにもないと、プロテスタントの牧師さんはあるとき私に言いました。混乱して、私はキリストに言いました。「主よ、牧師さんの中には、あなたがこのように私を通して御自身を現わすことができるということを聞いたり信じたりすることを拒絶している人がいます。彼らは、あなた、イエス様がすべての真理をもたらし、聖書以外のものは何もいらないし、これらの仕事はすべて偽りだと言います。」キリストの返事は次のようでした:

 御父が私の名のもとに送られる、弁護者、聖霊がすべてを教え あなた方に伝えたすべてを思い出させると言った。新しい教義を与えてはいない、真理を思い出させ 道を逸(そ)れていった者たちを、全き真理に、連れ戻しているに過きない。私、主は、あなた方に思い出させるすべを 与え続け 弁護者、聖霊はみことばを思い出させる方として 常にあなた方のさ中に留まろう。そこで我が聖霊が 話しかけても 驚かないように。 これらの語りかけは 回心を促し 私のやり方を思い出させようと 恵みによって与えられた('88・12・20、『神のうちの真のいのち』III90-91頁)。

 それから十一年後、私たちの主は次のように書くことを私に頼まれました:

 これらすべてのメッセージは天の高みに由来し 私によって霊感与えられたもの。 教えるとしても 誤りを指摘するためにも有益に用い得る。 教会を一致へと導き 人びとの人生を道案内して聖なる生き方を教えよう。 与えた啓示*をよりよく説明する*1ためにも与えられている。 それらはあなた方皆を新たにする 驚くべき恵みの 尽きざる源('99・7・30、前掲III90-91頁)。

  *聖書。 *1 同時に「理解する」という言葉も聞こえました。

 私はただ一つの啓示が認められると信じていますし、それに反することを言ったこともなく、私の著作にもそのようなことを見つけ得ないでしょう。TLIGの読者がメッセージを聖書以上のものとみなすことを私は期待していませんし、TLIGの本に書かれた何ものも、私の話を聞き私の著作を読むすべての人に、そのような考えを抱かせることはないと確信しています。それどころか、私が証しをする際には聖書がたびたび引用され、時にはメッセージそのものよりも多いくらいです。メッセージは聖書に注意を集中させ、その真理によって生きるよう明確に絶え間なく強調しています。著作は、教会を通して伝えられた聖書と伝統に基づく、唯一キリストによる啓示の表現であり、それを思い出させるものです。著作はこの啓示に目を向けるよう訴える以外の何ものでもありません。それどころか、これらの著作によって読者が、これらを聖書以上のものととらえるように影響を及ぼしたことは一度もなく、神の御言葉をもっとよく理解することを助けられたとの証しが得られています。しかもなお、神は教会の利益のために必要であると判断なさる時には、ご自身の聖なる御言葉を私たちに思い出させることがお出来になります。これらのご好意は、これは正にご好意によるものなのですが、既知の真理に光明を投げかけ、またはその真理を明らかにし、よりよい理解を与えて下さいます。

 では、どうして神様はあまりにも限界があり、ふさわしくなく、教会のことに関して全く無関心、無知で、神様を熱望したこともなかったような者に、「ご自身の御言葉を思い出させるもの」を受け取らせるのかと尋ねることができます。司祭や神学者が、このことに召されていないのでしょうか。はい、私はそう信じますし、神様の召し出しを受けて務めを果たしている司祭や神学者と競い合おうと意図したことは決してありません。にもかかわらず、神様は、私が全く予期しなかったことに、神様の方からの直接の働きかけによって私を召された、と私は信じます。

 第ニバチカン公会議において、神様がご自身の教会に授けたさまざまな賜を通して一般信徒たちが良い知らせを広めるために貢献することがいかに重要であるかを強調していることを、私は最近学びました。教会憲章(Lumen Gentium)の中で公会議は、キリストの預言的な役務には一般信徒も参加するとはっきり述べています。キリストは「聖職者たちだけでなく、一般信徒によってもこの役務を遂行される。従って主は、証し人(あかしびと)として人びとを立て、真正な信仰認識(sensus fidei)と御言葉の恩寵を彼らに与えられます」(LG35)。それゆえ、すべての一般信徒は神様からいただいたカリスマに従ってこの福音伝道の任務の一役を担い、これらの賜を通して、「キリストがどれほどお授けになるかに従って」証し人となり、同時に教会の使命のための生きた道具となります。

 カトリックの基礎神学のほとんどの伝統的な研究においては、熟考の概念としての Revelation(大文字のRで始まる)と、経験の概念としての revelation(小文字のrで始まり、たびたび複数形で表わされる)とを区別しています。私の慎ましい経験を啓示として話す時には、経験によって得られた見地からの小文字で始まる revelation のことを意味しています。

 私の経験を、Revelation と匹敵するような教義上の見地から書かれた啓示として話してはいません。他の「私的啓示」や「預言的啓示」と同じように、私の仕事は伝えられている信仰に何も付け加えるものではありません。それどころか、神様の私への召命の目的は、伝えられている信仰がいかに豊かな真理に裏打ちされたものかを指し示し、もっと深くこれに潜心し、この真理によって生きるためなのです。

 第ニバチカン公会議の公会議文書 Dei Verbum は、公の啓示は完成された完全なものであり、「どんな新しい公の啓示も私たちの主イエス・キリストの栄光ある再現を前にしては期待されない」(Dei Verbum 4「神の啓示に関する教義憲章」)ことを明確にしています。他方で同憲章は、神の民はこの真理の理解を絶えず深めていく必要があることも明確にしています。

 この使徒たちから出る聖伝は、教会において聖霊の援助によって進歩する。実際、伝えられた事物やことばの理解は、それを心の中で思いめぐらす(ルカ2・19および51参照)信者たちの黙想と研究によって、あるいは霊的なことがらについての体験の深い理解によって、あるいはまた、司教職の継承とともに真理の確かなたまもの(カリスマ)を受けた人たちの宣教などによって、深くなる。要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的な真理の充満を目ざして進む(Dei Verbum 8)。

 ジョセフ・ラッツィンガー枢機卿猊下は、キリスト教的預言と啓示の関係について、預言はキリストの啓示の完成によって終了するべきだとする命題は誤解を含んでいると、とてもはっきり仰しゃいました。枢機卿の見解はキリスト教的預言についてのインタビューの中で、そしてファチマの第三の秘密の公開に関する論評の中でも表わされました。そのインタビューから直接引用させていただくことをお許し下さい。

 本質的に啓示とは、私たちにご自身を与えて下さり、私たちと共に歴史をつくりあげ、私たちすべてを呼び集め、再び一致させて下さる神そのものです。それは伝達的な次元と認識する構造をも本質的に持つ出会いの展開です。これはまた、啓示の真理を知るということをも意味します。もし正確に理解されるならば ── 十字架の聖ヨハネが美しい言葉で表現していますが ── 神様が直接に語られる時には、他に加えるものは何もないのですから、啓示はキリストと共にその目的を果たしました。神の御言葉(Logos)についてこれ以上言うことは何もありません。主は完壁なやり方で私たちと共にあり、神はご自身以上に私たちにお与え下さり、語りかけて下さる偉大なものは何もお持ちではありません。しかし、この神がご自身を与えて下さったというまさに欠けるところのない完全さ、すなわち主が、神の御言葉(Logos)が肉において現存(げんぞん)するということ(神が人となったこと・訳者注)は、この神秘に私たちがより深く入っていこうと努力し続けなければならないことをも意味します。これは私たちが希望を持つように促します。キリストの来臨は、神の御言葉(Logos)の中に何が与えられているかということを常にさらに深く認識し、徐々に発見していく始まりです。このように、イエスがヨハネ福音書の中で聖霊が来られると言われるように、人類を完全な真理へと導く新しい方法が始まりました。キリストご自身が肉体をまとって来臨したのは、ほんの第一歩にすぎないと説明されるように、イエスの告別の言葉(昇天の前のイエスのことば、訳者注)に基づく聖霊神学的なキリスト教論は私たちのテーマにとっても重要です。本当の来臨は、キリストが場所や限定された特定の肉体という束縛(そくばく)に縛(しば)られずに、復活された方として霊の内に私たち皆のもとに来られる時に実現します。それによって、真理を十分に理解することがさらに深いものとなっていきます。教会の時、すなわち、キリストが霊の内に私たちのもとにおいで下さる時は、まさにこの聖霊神学的なキリスト教論によって決定されるということを考えますと、希望と呼びかけの要素として、預言的な要素が当然欠けたり、次第に薄れていくようなことがあってはならない、ということが私には明らかに分かります(30 Giorni, 1.1999)。

 同様に、私の著作に聖書と同じくらいの地位や権威があるものと主張するつもりは全くありません。聖書は全く誤りのない方法で霊感によるものです。書くように呼ばれる時、主は私に触れられ、主と共に旅をするように私の魂に直接働きかけて下さったと私は慎んで信じておりますが、聖書と同じ意味のインスピレーションではなく、結果に絶対に誤りがないわけでもありません。しかしだからといって、私の著作に教義的な誤りがあるという意味ではないとも私は信じています。

 マリー・ユージーン神父様の『私は教会の娘』という本の中で彼は、神様はどのようにその霊魂に合わせて下さるかということを思いださせています。

お用いになる人間の中にこのように根づかされた神様の直接行動は、その人の心理にみごとに適応しています。この神の適応は、主の介入の重要な特質として強調されるべきです。主の光を私たちに与えるために人間的しるしを用いて語られることに同意される神は、私たちにもっと確実に達することができるように、これらのしるしの選択において私たちの気質や個々の必要にご自身を適合させるというところまで身を低くして下さいます。純粋さと簡素さを保ってきた信仰には、主は信仰を生き生きとさせるような外的に輝かしいしるしという言語でお話しになるでしょう。合理主義によって用心深く批判的になっている信仰には、主はもっと知的な言語をお使いになるでしょう。

 ラッツィンガー枢機卿は仰しゃいました。「たとえ神様と言語やイメージを通して内的接触を得ることが出来たとしても、それは真正な神秘主義の場合においてさえ、常に人間の霊魂の可能性とその限界如何にかかっています」。かくして、私は神の御言葉を努力することなしに、言い換えれば、自分を強いることなしに経験します。それはただ来るのです。私はこのような語りかけ(内的言葉)を、二つの形で受け取ります。この現象をどう表現したらいいのか、また神にはどうしてこのような事がお出来になるのか、私が完壁によく知っているというつもりは全くないということに、ここで留意して下さい。しかし、この下記の説明が私に出来る最善のことです。

一、内的な言葉、特に内的語らい、という介在を通して。私の知覚する言葉は、私の耳を通して聞くものよりもずっとはっきりした実体のある言葉です。たった一つの単語ですら、理解力だけでは人間の言葉にす早く置き換えることは決して出来ないほどに、深遠な意味を抱含します。私を教えるために与えられた神の言葉や導きはどれも、学校教育のように多分時間が限られているために十分に全部説明されなかったり、人間は完全でないために忘れられてしまったり、十分には理解されないような仕方では与えられません。しかし、神からの導きや御言葉はある時の流れの中で与えられ、心に刻み込まれますので、忘れるということは困難です。明るい光が遠く広くに光を放つように、その光は果てしなく広く広がりますので、瞬時に言葉そのものよりもはるかにして豊かな知識を与えます。与えられた言葉は、他の支流に分かれて様々な違った至る所に導きながらも、それが一つの川から常に流れているような、広い川のようです。その内容は、学校でのどんな通常の授業でも、私が学ぶには何ヵ月もかかったでしょう。私は言葉をとても強く経験するのですが、それを書面の形にしたり、その言葉を表現する方法は、私の言語や表現能力の限界如何によってしまうことをも同時に認識しています。

二、神の御言葉を受け取る二番目の方法は、全く言葉を発せずに私の知性の中に投げかけられる理解の光を通して行われます。それはまるで、神様ご自身のお考えを私の考えの中に送り込むようです。私は即座に神が何をお望みで、何を仰しゃりたいのかを知るのです。そこで私は、自分の言葉を選びながら、できるだけ上手にこの「表現されていないメッセージ」を書き留めねばなりません。

 後になって、スウェーデンの聖女ブリジッタも、同じような方法で彼女のメッセージを書き留めたということを、ここローマで聞きました。

 主はなぜ、ご自身で私の手をわざわざつかんでまで、メッセージを書き留めるというこの特別な形を選ばれたのでしょうか? 私にはまったく分かりません。私がなぜかお尋ねした時、主は仰しゃいました。「私はこの方法が好きだから」と。ですから、これがどうやって起こるのか知りません。しかし、神学者でもありながら筆跡学者でもあり、筆跡を研究した方々は、これを「ヒエラティック体」と呼び、私が書く方法と、いわゆる自動書記と呼ばれる方法の間には多くの根本的相違があるということを説明していることを、私は指摘しておきたいと思います。アビラの聖テレサのようなよく知られた神秘家は、体や、時には体の一部の悦惚状態を経験したということを、後になって知るようになりました。私の手がとらえられるというのは、そのゆるやかな形であると信じますし、こうすることに主はご自身の目的がおありになると信頼しています。

質問二:正教会に属するクリスチャンとしての自分と、ローマ・カトリック教会との関係
              (前掲の質問参照)

この一致を勧める仕事を取り上げた動機
 もし私が私たちの主の現存を経験しなかったのであれば、私たちの主が正教会に和解を望んでいらっしゃるという理解を彼らにもたらすために、正教会に直面する勇気も熱意もなかったでしょうし、彼らから私に向けられた反対や批判、迫害を耐え忍ぶことも出来なかったと思います。神の介入のごく初期のころ、私は全く混乱し、惑わされているのではないかと恐れました。神がこの現在の私たちの時代に、実際に人びとにご自分を表現なさることがお出来になるとは、生まれてこのかた一度も聞いたことがありませんでしたし、そのことについて尋ねることが出来る人は一人もいませんでしたので、この確信のなさが本当に一番大きな十字架でした。このために、私は打ち払おうとしましたが、その経験は去ろうとはせず、後になりゆっくり時間と共に、これはすべて神の御(み)わざだけによるものだと確信し、自信を持つようになりました。といいますのは、その中に神様の御(み)手を見始めたからでした。反対や批判に直面することを恐れなくなり、私の至らなさにもかかわらず私が不足しているところは主が必ず補なって下さり、主の御わざはいつも栄光の内に成し遂げられることを知り、私たちの主に全き信頼を持っているのはこのためです。

 正教会の司祭、修道士、主教たちに、教皇を認めローマ教会と誠意をもって和解するようにと話を持ちかけるのは、私たちの主がメッセージの一つの中で、「強い流れの中を反対の方向に泳ごうとしているようなものです」と仰しゃるように、簡単な仕事ではありません。しかし、私たちが分裂していることによって私たちの主がどれほどお苦しみになるかを目にした後には、この十字架を背負って欲しいと頼まれた時、主の要請をお断りすることは出来ませんでした。それゆえに、私はこの使命を受け入れましたが、たくさんの火をくぐらなかったわけではありません(そして今もくぐっています)。

「この使命をなぜ引き受けるのですか?」とあなたはお尋ねになりました。私の答えは、私は神に召され、主を信じ、主に応じたからです。従って、私は神の意志を行いたいのです。キリストの最初の言葉の一つは、「あなたの家と私の家と、どちらの家のほうが大切ですか?」でした。私は、「あなたの家です、主よ。」とお答えしました。主は仰しゃいました、「私の家を甦らせ、美しく飾り、一致させなさい。」

 正教会の聖職者の中には、全く私を拒絶している方々がいます。その理由は、第一に私*を信じないから、第二に私が女であるから、第三に女性が話すべきではないから、と言うものです。修道士の何人かは私を疑っており、私は多分、教皇にお金をもらって送り込まれたトロイの馬であろうとか、帰一教会(ユニアト**)教徒だとさえ言っている方もいます。多くの方がたは和解やエキュメニズムについて耳にしたがりません。もしローマ・カトリックの信者と一緒に私が祈れば、それは異端だと考えます。彼らが、どちらの教会にも参与(コミット)せずに教会の枠を越えた立場に立っている、と見るところはそこにあります。私は精一杯、完全に自分の教会にコミットしていますが、もし私がエキュメニカルに生き、一致を促進するために他のキリスト者と一緒に祈ったとしても、それは異端でも罪でもありません。著作の中で、私たちの主が言われるように、一致への鍵は謙遜と愛です。諸教会の人びとの多くが、まだこの鍵を持っていません。ギリシャ正教会の一般信徒、町中の一般司祭から、人里離れた修道院の修道士に至るまでの多くは、今日に至ってもまだローマ・カトリック教会は異端で危険だと考えます。彼らは生まれた時からこれを信じるように教えられていますが、それは間違いです。しかし、彼らの頑(かたく)なさも回心、および彼らを曲げて下さる聖霊の力を通して、また忠実な信者の祈りを通して変わることが出来ると、私は信じます。私たちの集いでは、この心の変容を神に祈ります。
 * 私たち正教会の教理の本の中で、トゥレムベラス氏による一九九七年に出版された第一巻の七九頁に、〈啓示とは、神の存在、本質、意志の神秘について、ご自身の分別をわきまえた被造物にその限られた知的能力に応じて知らせるために神が取られる行動である・・・と定義されている〉にもかかわらず。
**東方帰一教会:ローマ・カトリックの教皇を首長と認めながら、東方式典礼・慣習を保持する一派(訳注)。

 それにしても、彼らだけが曲がればよいという問題ではありません。皆が謙遜と愛の内に曲がらなければなりません。どの教会に属する人びとも、進んで自分たちのエゴと頑さに死ぬべきであり、こうしてこの謙遜な行為と真理への従順を通して、キリストの現存(げんぞん)が彼らの内に輝くようになるでしょう。この謙遜な行為を通して、教会の過去と現在の過ちが洗い流され、一致が成し遂げられると私は信じます。私は正教会に語りかけるという希望を決して失わず、これがいつも私が彼らの所へ戻り続け、私の証しをする理由です。私の証しは、私たちの主の次の言葉を思いださせようとするものです。「みんなを一つにしてください。あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。あなたがわたしをお遣わしになったことを、この世が信じるためです」(ヨハネ17・21)。このようにして、障害を乗り越え、いくつかのエキュメニカルな祈りのグループがアテネとロドスで、正教会の司祭も共に加わって形成されました。これらすべての祈りのグループはロザリオを祈ることから始め、そして他の祈りをします。それでも正教会の聖職階級から私が受けるのは上にあげた理由による拒絶ばかりではなく、私たちの主はかなり多い数のギリシャ正教の聖職者の友人を私に与えて下さいました。

ローマ司教
 私たちの主は、キリスト教の三つの主なグループであるカトリック、正教会、プロテスタントのキリスト信者を象徴する三本の鉄の棒の内的ヴィジョンを私にお与えになり、それらは頭が触れ合えるよう曲がるようにと呼びかけられ、また触れ合うためには曲がらなければならないということをお示しになりました。主が御父に向かって、「すべての人を一つにして下さい」と祈られて以来、主がずっと熱望されてこられた一致に達するためには、この一節が言わんとする態度が必要です。TLIGのこの箇所は、キリストがご自分の教会に授与された真理を、様々なキリスト教徒のグループが保持してきた程度に差違があってはならないとする、存在論的なレベルでの一致について言おうとしているのではありません。このクリスチャンの兄弟間での謙遜への呼びかけは、一致への汎キリスト教的アプローチを意味するべきであるとか、真理を取り引きすることにより(たとえば商人のように売ったり買ったりして)同じ水準の相対論的真理へと導びくことによって一致が進むのだと、私が主張しているというのは本当ではありません。それどころか、私はたびたび真理にとどまることが大切だと話してきましたし、私が話す以上にメッセージは、上記に述べられたように、キリストによるただ一つの啓示の中に示された福音の真理によって生きることを呼びかけるもの、に他なりません。著作にはそれとは反対の態度に対する多くの警告が含まれ、「にせエキュメニズム」を生命のないキリストのイメージを広めるトロイの馬と描写するほどです:

さまざまな色に塗りたくられ、商人たちが崇(あが)めるように強いて従わせようとするこの像は 私ではない。それは我が聖性と神聖の概念を卑(いや)しめる歪(ゆが)んだ人間的わざの発明、偽りのエキュメニズム、すべて聖なるものに対する挑戦。この商人たちの罪ゆえに私は苦しむ('90・10・22、前掲V十一頁)。

 一致についての多くのメッセージは、エキュメニズムの次の二つの極めて重要な見地を一つにまとめます:他のキリスト教徒に対して謙遜と愛の含みある霊的態度と同時に、キリストの真理への断固とした探求です。一つの例は、聖母マリアが一致の構造について話される一節に見られます:

神の国は口先だけの言葉ではありません。神の国は心のうちなる愛、平安、一致と信仰。それは心の中で一つに結ばれた主の教会なのです。一致の鍵とは愛と謙虚。イエスが分裂をあなた方に勧めたことはありません。ご自分の教会の分裂を望まれてはいませんでした('91・9・23、前掲V二〇七頁)。

 同じ節のさらに先を読みますと、イエスが真理についてこう語られます:「一途に、死を賭して真理を擁護しなさい。時おりあなたは傷つく、だが正に霊魂を清く素直に保つに十分なだけしか私は許さない」('92・6・5、'97・9・25、'98・6・22など何度も繰り返されています。)

 私は特にアメリカ、オランダ、スイスで、とてもリベラルで、教皇に反対しているカトリックの聖職者に会う機会が何回かありました。私は、キリストからもたらされた力強いメッセージを通して、彼らの考えが如何に混乱しているかを示して、できるだけ上手にペトロの座を弁護し、それを彼らに説明しなければなりませんでした。最後には、これらの司祭の多くは、どれほどこれらの説明を高く評価するかを私のところへ言いに来ました。ただ、そのうちの一人か二人は同意せず、彼らは私がカトリック信者よりもカトリック的だと言いました…教会の間の一致に関する多くの箇所がありますが、教皇に反抗している多くのカトリックの聖職者が教皇に対する忠実さを取り戻すことが出来るように、特に書かれたかなりの箇所があります。これは初期の頃の一例です:

私、主は、いかなる教会の分裂も望まない。あなた方は、私のために、一致し 私の名のもとに私を愛し、従い 証しするように。私が愛するように互いに愛し合い、一致し 一人の牧者のもとに一つの群れとなるのです。あなた方皆が知っているように 私はペトロを選んだ、権威を与えて。皆も知っているように 天の御(み)くにの鍵をペトロに渡した。ペトロには私の仔羊と羊の面倒を見て、養うように頼んだ*。この権威は私が与えたもの。私の望みをあなた方に変えてもらいたくはなかった('88・3・19、前掲II一六三頁)。
 *ヨハネ福音書21・15-17。

 将来の一致について話されたもう一つのメッセージの中では、もっとはっきりと書かれています:

ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏(しゃく)を置く、そして「どうして道案内など必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う:羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えた、ではなぜこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中に見出そう*。こうして教会を一致させ 一つの群れとなるよう腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを造りだしている。私のからだはあなた方に引き裂かれてしまったが、こうあってはならない! 皆を一致させる('88・5・16、前掲II二二二頁)。
 *ヨハネ福音書21・15-17。

 他のメッセージでは、教皇をキリストの代理者、または教会の代理者として話します。これは一つの例です:

教会全体のために祈りなさい。我が教会の芳(かんば)しい香りとなるように そしてこれは御言葉を宣言するすべての人たちのために祈るようにということを意味している、私の代理者である教皇をはじめ あなたの時代の使徒と預言者、聖職者修道者から信徒にいたるまで、私が今述べた皆が一つのからだ、私のからだの部分であると進んで理解するように('90・1・10。他にも'89・6・1、'90・3・2、'90・10・10、'91・3・18、'93・4・20、'93・12・20、'96・4・15、'96・10・22、96・12・20)。

 ペトロの役割が様々な東方の諸教会の代表者たちの役割とどう関連してくるのかということは、著作の中では言及されていませんから、これについて私は話すことが出来ません。しかし私は、回勅『キリスト者の一致*』の中で、教皇がこの種のディスカッションに口火を切られたと存じています:

それでも、ローマ司教の首位権についての疑問が、今は研究の主題として取り上げられるようになったのは意義深いことであり、励まされます。このことは進行中であるか、将来取り上げられるでしょう。この問題が、カトリック教会が他の宗派の教会や教会の諸共同体と取り組んでいる神学的対話の中だけで主要なテーマとして取り上げられるだけではなく、もっと一般的なエキュメニカルな運動の中においても取り上げられることは、同様に意義深いことであり励まされることでもあります。サンティアゴ・デ・コンポステラで開催された世界教会協議会の、信仰と秩序に関する委員会の第五回世界大会の代表は最近、委員会が「キリスト教徒の一致のための普遍的奉仕を論題として新しい研究を始める」(一四八)ことを勧めました。何世紀にもわたる激しい論争の後で、他の宗派の教会や教会の諸共同体は、この一致への奉仕について、ますます新しい目を向けようとしています(一四九)。
 同じ回勅は、二つの宗派が完全な交わりのうちにありながら両者の違いを認めつつ東と西が再び結ばれる必要を認証しています:

これらすべての点からみて、カトリック教会は東と西の間のあふれんばがりの霊的親交こそを強く望んでいます。最初の一〇〇〇年間の経験の中に、これに対するインスピレーションを見つけます。その時代は聖霊の交わりのうちにキリストを通して唯一の神である御父に対する讃美が、驚くべきほど色々な言語やメロディーですべての人びとから捧げられましたので、違った経験の教会生活が発展していったにもかかわらず、それによってキリスト教徒が相互関係を通して、どこの教会でも自分の教会にいる時と同じように感じられる、と確信することを妨げられることはありませんでした。霊的、倫理的生活ばかりではなく、使徒たちの後継者である司教の指導のもとに行われる様々な宣教や奉仕活動における、教会の真の構造に関する共同体の心臓であり、モデルである聖体拝領を祝うために、皆が一緒に集まりました。初期の公会議は、多様性を認めたうえでのこの持続する一致を雄弁に証しています。*
 *教皇ヨハネ・パウロニ世の回勅『キリスト者の一致』(Ut Unum Sint)、エキュメニズムヘのコミットメントについて89。
 **同回勅、エキュメニズムヘのコミットメントについて61、使徒的書簡『東方の光』(Orientale Lumen 1995.5.2)参照。

 著作の中では、東と西に関する構造的問題について話されていませんが、東の教会の重要性についての言及は多くあります。それに関して、ペトロの役割の重要性は断固として強調されるべきだと言うことは、後のメッセージの中で、霊的刷新は東の教会によって十分鼓舞され得るという洞察と対(つい)になっています。それによって、キリストの御からだはなぜ、東と西における教会という両方の肺で呼吸することが必要であるかが、ますます明らかになります:

西の家よ、我が霊に照らされ、体がらくに呼吸するには二つの肺が必要であり、私のからだは一つの肺では不完全だと悟った。 我が甦りの霊があなた方を一つに結ぶようにと祈りなさい、だがその前に私はどれほど苦しまねばならないか!*('96・11・27、前掲VIII二三七頁)。 *私は同時に、「その前に私たちはどれほど苦しまねばならないだろうか!」と理解しました。「私たち」とは、イエスと共に教皇ヨハネ・パウロニ世のことを意味していました。

他の同様のメッセージ:
東の家と西の家が手を結び会う日を祈りなさい、ちょうど左右そっくりの一組の手が祈るために合わさり、祈っているときは同じように美しく天に向けられているように。同じからだに属したこの二つの手が、一緒に働き、互いに能力と資源を分かち合ってほしい…その二つの手で私を高く挙げなさい…('95・6・15、前掲VIII五九-六○頁)。

 別のメッセージでは、キリストの御からだを統一するために二つの家に再び心が通い合うようにするための東の役割について話されます:

聴いて書きなさい:東の岸から栄光が輝き出よう。 それゆえ西の家に言う:東に目を向けなさい。あなたの家の背教と破壊を 激しく涙することはない。 狼狽(ろうばい)しないように、明日は東の岸辺の我が若枝と一緒に食べて飲むであろう。 あなた方を私の霊が引き合わせる。 東と西は一つの王国になるとは聞いていなかったか? 一つの日取りを受け入れると 聞いていたであろう?*
 *キリストが一致に関するすべてのメッセージについて言われており、復活祭の日付を統一するよう、私たち皆を呼んでおられると私は理解しました。このことだけがキリストを「settle 落ち着がせ」、一致へのキリストの渇きをいやすようです。私たちが復活祭の日付を統一するなら、あとはご自分がすべてなさる、とキリストは約束されました。

私は手をさしのべて棒切れに次の言葉を刻む:西の岸辺、ペトロの家と彼に忠実なすべての人びと。それから、別の棒にはこう刻もう:東の岸辺パウロの家と、彼に忠実なすべての人びと。そして西方の家の者たちが:「主よ、どういう意味ですか」と尋ねるなら、こう答える:「パウロの名と彼に忠実な者たちの名を刻んだ棒を取り上げ ペトロと彼に忠実な者たちの棒を合わせ、一つに束ねる。二本とも一本の棒にして束ねて持とう。私の新しい名をもって束ねよう。これが西と東の懸け橋となる。我が聖なる名が懸け橋となる、こうしてあなた方は橋を渡り 持ち物を交換しあう。もはやどちらも離ればなれでなしに、ともだって活動し 私が皆の上を治める。

私が計画したことは確かに起ころう、そして人が、娘よ、これらのしるしは私からでないとあなたに言うなら、こう言いなさい:「心配はいりません、主は聖所であると同時につまずきの石だとは聞いていませんでしたか? 二つの家を倒すことができる岩ですが 一つの家として再び立ち上げることもお出来になると?」('94・10・24、VII一八一-二頁参照)。

 再び、このメッセージはペトロの役割と権威を少しも損なうものではなく、世界が信じるように、キリストの御からだの西側と東側の部分を一体にする重要性を強調しています。

キリスト教一致の将来
 メッセージは、正教会とカトリックの両方の伝統の中で知られている、ローマの司教であるペトロの首位権を確証していますが、管轄権の問題については何も話されていません。この問題について話すようには召されていないと信じますので、そうすることをどんな形にしろ私は控えます。

 私の召命は、教皇の重要性を確証することであり、一致の内側からの組成を構築し強化するための促しとなりながら、彼に従わず反抗しがちな人びとに対して教皇の座を擁護することです。私の一致への主な取り組み方は、霊性を通した一致です。メッセージは私たちの内側と外側の両面における一致への呼びかけです。─個々の教会の内部、そして教会間の両方における一致の霊的原動力を強めるという呼びかけです。

 主はこのことについて話さないことを選ばれ、また、このことについて私に光を与えるご好意を示されませんでしたので、教会が一致したときの将来の構造がどのような様子なのかを私は知りませんが、それは霊性を通して実現されると私は信じます。いろいろなエキュメニカルな集いで、その将来の一致の恵みを前もって味あわせていただいていると信じます。

 例えば二〇〇〇年の三月に、主は私たちの祈りのグループが、聖誕地であるベトレヘムで集うことをお許し下さいました。四五〇人の人びとが、地のあらゆる所からやって来ました。そうです、五五ヵ国以上の十二の違う宗派の教会から、平和と一致のための国際的祈りの集いへです。私たちは、一つの家族として集まりました。十二の宗派の違う教会から来た七五人の聖職者たちが私たちと集まっただけでなく、この祈りの集いのことを聞いた他の聖職者たちが、聖地からも私たちに加わりました。「神のうちの真のいのち」の著作に感動したユダヤ人とパレスチナ人によって、このエキュメニカルな集いはコーディネイトされました。彼らはキリストの購いと、私たちの時代におけるキリストの救いの計画を信じ、この集いの実行を自発的に引き受けてくれました。パレスチナ人とユダヤ人が私たちの時代に如何に戦っているかを知るとき、彼らの和解は、分裂しているキリスト教徒の間に平和をもたらす集いのために働くよう、この二つの民族を結びつけた聖霊の力を示すしるしです。聖書が言うように、「神のみ心にかなった生活という実を結ぶ種は、平和をもたらす人によって、平和のうちにまかれます」(ヤコブ3・18)これは、私たち皆にとっての教訓です。

 私たちはいつか、キリスト教徒の間にもたらされる一致がどのようなものであるかを前もって味わい、それを生きました。私たちは、違う宗派の教会の聖職者たちによる一致についての講話を聴きました。彼らの講演は、一つの声と一つの心から来ているように響き合いました。彼らが話している間、私たち皆が一つであることを大いに熱望しているのを感じました。一致に対する信者と聖職者たちの渇望を理解し、目の当たりにしました。しかし、私たちはそれと同時に、私たちの分裂がキリストの神秘体に生じさせた大きな外的な傷も感じました。

 私たちの大多数は、この分裂にあきあきしています。と言いますのは、主の愛の碇に従っていないからです。キリストは、私たちの分裂を見ることに、もっと捲(う)み疲れておられます。キリスト教徒の間での完全な一致を訴えながら、共に結びついたこれらすべての国々の喜びの喝采と歓呼は、この分裂が罪であるだけではなく、神を証しすることと反対でもあることを暴露しました。しかし、一致に対する一番大きな罪は、復活際の日取りが同じではないことです。私たち皆が一括した声で同じ日に、「キリストは甦られた」と一緒に叫ぶことができる時、どんなに素晴らしいでしょう。私たちは皆「み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように」と唱えます。イエス・キリストは、御血によって私たちを共に一つにしてくださったのですから、この一致をどうして否定できるでしょうか。「実に、キリストご自身こそ、私たちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つになさったかたです。キリストは、ご自分の体によって、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き、かずかずの規定を伴うおきてからなる律法を無効にし、二つのものをご自分に結びつけることによって…」(エフェソ2・14-15)。もし神が、私たちが一つになることをお望みであるならば、どうして私たちは神に「ノー」と言えるでしょうか? それは、私たちの心が頑(かたく)なになったからでしょうか。教皇が、「私たちを一つにする要素は、私たちを分裂させる要素よりもずっと多い」と仰しゃったときの言葉を、私たちは忘れてしまったのでしょうか。ですから、私たちはそれらの要素を取り上げ、完全な一致への道を平らにするために使うべきです。

御聖体と御聖体の分かち合い
 カトリック教会の公教要理には、御聖体に関して聖アウグスチヌスを引用して、次のように書かれています。

この神秘 [御聖体] の偉大さを前にして、聖アウグスチヌスは:「ああ、なんと素晴らしい敬神の秘跡よ! ああ、なんと崇高な一致のしるしよ! ああ、なんと尊い愛の絆よ!」と叫んでいます。そのことを考えると、主の食卓を共にすることを妨げる教会の分裂は大きな悲しみをもたらします。だから、主を信じるすべての人の完全な一致の日が訪れるようキリストに祈ることが、緊急に求められているのです(CCC 1398)。

 主は私たちが和解し、再び一致することをしきりに促されます。ある有名なカトリックの枢機卿が、その枢機卿のローマでのミサに出席したニューヨークの私の友人でもある正教会の司祭に最近言ったように、信仰と礼拝の表現の仕方が違うにも関わらず、私たちは同じ秘跡をもち、実質的には同じ信仰を分かち合っているのですから、カトリックと正教の間で主の食卓を一致して囲むというこうした一致を再び獲得することは可能に違いないと言うのが、私の確信です。私たちの主の燃えるような愛は、主の御からだの完全な一致にたいする主の切望が如何に深いものであるかを私に経験させて下さり、私たちの愛と霊的交わりの欠如に主が苦痛を感じていらっしゃると私は信じます。従って、私には主の御からだが再び一致するのを見ること以上に大きな切望はなく、私たちキリスト教徒は、もし本当にイエス・キリストを愛しているのならば、キリストの御からだの分かれている部分の一致のために、私たちにできる限り働いて、すべてやれることはやるべきだと私は確信しています。
 一方で、この一致が簡単には実現せず、私たちの主の奇跡を通してしかなされないであろうことを私は知っています。私たちは、一致を促すために出来ることはすべてしなければなりませんが、主が聖霊の御わざであるその一致を私たちにもたらして下さると約束なさいました。そしてそれはかつて一九九二年に言いましたように、ベルリンの壁の崩壊のように突然やって来るのです:多くの世代が未だ目撃したことない不思議を慈しみと義によって行っておられます、そして一致はあけぼののように訪れ それは共産主義の崩壊のように突然訪れるでしょう ─ それは神によって与えられ くに民は偉大な奇跡、歴史上の祝された日と銘打つでしょう('90・1・10、前掲IV九二頁)。

 キリストがお一人であり、一つの聖なる御からだしかお持ちでないという意味で、キリストの教会は一つです。分裂しているのは教会の民なのです。聖書によれば、私たちの間で信仰、愛、礼拝の一致が実現するのを妨げている障害、キリスト教徒を分離させているこうした否定的な障害を、もしクリスチャンが乗り越えることが出来るならば、神の御子が「あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内にいるようにしてください。あなたが私をお遣わしになったことを、この世が信じるためです」(ヨハネ17・21)と言われたときに、既に願われた祈りを御父はお聞きくださるでしょう。

 この恩寵を待つ間、私は現在の情勢の中でその原則にできるだけ従い、どの教会のメンバーの良心も侵害すべきでないと確信しています。質問の中には、次のようにあります。「あなたの著作を読むと、あなたはどちらの教会にもコミットせずに、教会の枠を超えた立場に立って居られるような印象を受けます…」。書かれた書物の中には、私が両教会の枠を超えた立場に立っているという印象を与えるような根拠がありません。あなたがそう書かれたのは、もっと実践的なレベルの上での事でしょうか。
 私の信仰実践の立場はどうかと申しますと、私は正教の信徒であり、私の教会に完全に参加しています。私が以前住んでいたバングラデシュのダッカのように教会がない場合でない限り、近くに正教の教会がある場合には、必ず日曜日の聖体礼儀(ミサ)に与らないことはありません。現在住むローマに引っ越してくる前までは、スイスに十一年間住んでいました。もちろん私が旅行中でない限りは、毎週日曜日に地元の正教会へ行きましたし、ローザンヌのギリシャ人司祭アレキザンダー・イオシフィデス神父様をはじめ、その教会にいて私を定期的に見かけていた信徒たちは私の証人です。外国では、私が従うべくプログラムされていてそこで証しをするような旅行中は時々、そう言う事は稀だと付け加えますが、私が話をするように招待してくださったその所のカトリックの司祭や司教が、私が話すのと同じ場所で公開のミサを続けるようにプログラムされていることもありえます。その場合には、プログラムにあるミサに与る人びとと共にそこに残り、そこで御聖体を拝領します。

 ここローマでは、中心街からもローマの中心にあるギリシャ正教の教会からも、かなり遠く離れたところに私は住んでいます。トレ・フォンテーヌにスラブ正教の教会があり、そこに行ったこともありますが、私には言葉が分かりません。それで時折り、一年のうちの半分は家を空けますので、私の家から三キロのところにあるマドンナ・デル・ディヴィーノ・アモーレ教会で御聖体を拝領します。

 カトリック教会の公教要理(カテキスム)に、「ご聖体を〈聖なるものとして〉受ける聖体拝領は、ある適当な条件のもとに教会権威の承認を得た上で、可能であるばかりでなく勧められる」(CCC 1399)と、繰り返されているように、第二バチカン公会議が私にこうすることの許可を与えていると信じます。

 第ニバチカン公会議の布告の中(『カトリック東方諸教会に関する教令』26)では、「誠意をもちながらもカトリック教会から分離している東方のクリスチャンが、自発的に願い出て正しい意向をもって望む時には、ゆるしの秘跡、御聖体の秘跡、病者の塗油秘跡…を受けることが認められる」と述べられています。

 カトリックの教会法には、次のように述べられています。

カトリックの奉仕者は、カトリック教会との完全な一致を有していない東方教会の信者が、自発的に求め、かつふさわしく準備している場合、ゆるしの秘跡、聖体の秘跡及び病者の塗油の秘跡を適法に授与することができる。かつ当該の秘跡に関して、上記東方教会と同等の条件下にあると使徒座が判断するその他の教会の信者に対してもこの規定は適用される(Canon 844.3)。

 教皇ヨハネ・パウロニ世の「キリスト者の一致」と題された前記回勅の書簡では、次のように述べられます。

『東方カトリック諸教会に関する教令』は語ります。「東方教会の兄弟たちに関しては、司牧上の経験から、教会の一致を傷つけず、避けるべき危険をともなわず、かえって救霊の必要性と魂の霊的善が切実に要求する、個人個人に関する種々の事情が考慮され得るし、また考慮すべきことを示している。したがってカトリック教会は、諸秘跡および聖なる事物に共にあずかることによって、すべての者に救霊の手段とキリスト者間の愛徳の証明を与え、時、所および個人個人の事情に応じて、よりゆるやかな行動様式を採用してきたし、今もそうしている。これらの事を考慮にいれて、聖なる教会会議は、「われわれの了見のきびしさが人々の救いの妨げにならないために」、またわれわれから分かれてい東方諸教会との一致を促進するために、次の行動様式を定める。」(第二バチカン公会議『東方カトリック諸教会に関する教令』26)。

 宗教改革後の諸教会との関係はどうかといえば、物事はもう少し複雑です。TLIGを読んだ多くのプロテスタントの家庭で育った人びとは、彼らの自由な選択によってカトリックに改宗しましたが、御聖体に関する問題におもに原因があります。イエスは彼らの秘跡の正当性についてメッセージの中で述べていませんが、主は、プロテスタントの人々がイエスの御母を愛し、ペトロの役割を認めるように今再び促しておられます。

ヴァッスーラ、教会を一致させる時が来た。再び一つとなりなさい 愛する者たちよ、このいにしえの廃墟を建て直しに来なさい、私自身の手で打ち立てた土台 古い基(もとい)を立て直しなさい。我が母を尊ぶように、御言葉(みことば)である私が 誰にもまして尊んでいるように。そうならば 塵と灰であるあなたが御母を 天の元后として認め、尊ぶのを私が望まないだろうか? 被造物が御母の大切さを殆んど知らないのを見て 今日私は深く悲しんでいる。 ルーテルの名のもとにある人びと そして全く自分を切り離してしまった人びとは、ペトロのもとに戻りなさい('87・12・22、前掲II七九頁)。

 他のメッセージの中で、御聖体の神秘の偉大さと、その中に居られるキリストの神聖の現存を見ようとしないそれらのキリスト教徒をキリストは叱責(しっせき)しておられます。

…そこで我が神秘を受け入れない聖職者たちにはこう言う:「正気を取り戻し私を真剣に探し求めなさい。一方では、我が母に対する敵意も克服するように。どの民も 私の肉と血は御母に由来すると知ってほしい。 そう、私のからだはまこと聖なる乙女、純粋な血に由来する。母の名は祝されるように! 私を受けにくる地上すべての貧しい者たちを救い 不滅のいのちを与えようと私はパンになり私自身を与えた。そしてこの聖体拝領を通して 私を受けるすべての者たちを聖化し、神性となし 我が肉の肉、骨の骨とさせる。(…)我が神性を通して私は人を神とする(…)今日の私は人に裁かれている。あなた方を覆い、荘厳に飾って、変容を遂げさせ、神となし得る衣装*は、我が神秘を把握できない諸教会に拒まれている…今日もまた天から私は叫ぶ:「兄弟たちよ、どうして我が神性を見くびるのか? 自分たちこそ何が正しいかを知っていると言うなら、どうしてその霊は 我が教会を略奪するのか?(…)私が真に制定した仕方でミサ聖祭をたて 神聖な神秘に与れるよう 私はあなた方を招いている(…)彼らは私の力を認め、その畏るべき権威を宣言し、私に讃美をうたい、我が全能と力ある不思議を承認する、だが聖体のうちなる私の神性と現存の荘厳を測るとなるや 私は蹟きの石となってしまう('00・10・16にイエスが話されます)。
*キりストを表す象徴的なよび名。

結婚に関する状況
 あなたの質問のあとの方では、私が時どきカトリック教会で御聖体を拝領することについて次のように言及しておられます。「あなたのカトリックの信奉者の中には、これらの態度を相対主義的な見地で解釈し、自分たちの教会の規律を無視する誘惑にかられる人々も出るかもしれないという心配があります」と。上記に私が引用しました教会法によれば、私はカトリック教会の教会法に全く従っていることが証明されますので、カトリック信者が相対主義的に反応する理由を私は見出しません。
 私は離婚を勧めているわけではありませんし、カトリック教徒の間で離婚者の再婚を許可するような教義を奨励するように努めてもいません。私の離婚と民事による再婚は、私が回心する以前のことです。回心の後、TLIG-メッセージの光に照らされて、私の結婚の状況が正統ではないことが分かりました。しかし、私以外の人は誰もこの事情を知りませんでしたし、公に遺憾の意を表わしたのは自分からしたことです。実際、誰もそのことについて何も知らなかった時に、自分自身の事情を自分で非難しました。自分の間違いを悟りましたので、ローザンヌの私の教会の権威者に申し出て、正教会の結婚の規定に従って、すべての手続きを済ませるための過程を経ました。このように、私は他の正教会のキリスト教徒と同じように、私の教会とその規定とに問題のない正教会の信徒であり、そういう者として上に述べた原則により、自分自身の教会でもカトリック教会でも御聖体を拝領することが許されています。カトリック教会の結婚に関する規定を軽視しているわけでは、決してありません。
 御参考までに、この文書と共に私の結婚証明書を添付します(添付1)。

質問三:聖三位の位格に関しての用語の混乱
              (前掲の質問参照)
 この点に関して、最善を尽くして言葉のジレンマについて説明致しますが、私は神学者ではありませんので専門的な方法で自分を表現できませんし、公式の用語で天よりの言葉を受け取るわけではないということを思い出して下さい。主は、私が理解できるような仕方で私に伝達することが出来るようにご自分を順応させて下さり、ご自分を表現なさったことは明白です。それにスコラ神学でお話しになるのでもありません、けれど「わたしと父は一つである」(ヨハネ10・30)と地上にいらした時に言われた主も、そうはされませんでした。そして、聖パウロが「主は霊である」(2コリント3・17)と書いた時にも神学的な言い方はしませんでした。ルルドのベルナデッタにマリア様は、その地方の方言でお話しになりましたが、それは正統なフランス語ではありませんでした。聖霊によって書かれた聖書でさえも、聖ルカの洗練されたギリシャ語と聖マルコの簡素な言語の間には、著しい違いがあるということを私は学びました。シエナの聖カタリナはかつて『対話』の中で、「あなたは私の創造主、永遠の三位一体。私はあなたの被造物、あなたの御子の御血によって、あなたは私を新しく造られたものとなさいました」と説明しました。キリストを三位一体の御子と呼ぶのは異端的に聞こえますが、私たちはこの部分をできる限りよい意味で受け取ろうとします…

 ですから、キリストが初期の頃に神学者のような言語ではなく、私のレベルの語彙(ごい)を使うのは、完全に正常なことです。ときどき私は、個人的な神の体験から出た言葉で表現し、他の人にはどう聞こえるだろうかとか、誤解されるかもしれないということを、あまり批判的に熟考することなく、私に来た思いのままの言葉で私の感じたことを口に出します。神の神秘を明瞭に表現することだけでも私にとってはむずかしく、ましてやこのような神の神秘をふさわしい伝統的な言語でどう表現すべきかということは、なおさらです。それと反対に、神学者たちは何世紀にもわたる議論によって注意深く洗練された語彙を使います。

 質問が初期の著作の中の厳密にどの部分のことを引き合いに出しておられるのか私にはわかりませんが、キリストを"父"と呼んだことに関してではないかと想像できます。キリストは御父の御子です。啓示のこれらの部分の中で、著作は存在論的、ないし教義的な方法でキリストの位格について言及しているわけではありません。むしろ、イエスが弟子たちに向かって「子たちよ」(ヨハネ13・33)と言われたときに使ったのと同じ言語、愛情のこもった父親のような言語です。イザヤ書の中で救世主のことを「驚くべき助言者、力ある神、永遠の父」(イザヤ9・5)と、すでに描いています。

 もともとの初期の頃から、父と子と聖霊を取り違えたことは一度もありません。キリストの現存(態度)は私にとって、父親のような愛情のこもったものでした。ある箇所で、私がイエスに"父よ"と呼びかけた時、それは主が私に父親のような話し方をされたからでした。父親が自分の子供たちに忍耐と愛情をもって、彼らの成長と発達のためにある事がらを説明し、教えている時のような場合でした。キリストの言葉の一例をあげましょう。

霊のうちに成長しなさい ヴァッスーラ、成長しなさい あなたの仕事とは 私と御父によって与えられたすべてのメッセージを伝えることだからです。 英知が あなたを教えるであろう。「はい、お父さま。」あなたが私を父と呼ぶのは 何と麗しいことか! あなたの唇から、父、お父さんという、この言葉を聞きたいと切に願っていた!('87・2・16、前掲I六九頁)。

 最も聖なるイエスの名の連祷の中では、イエスのことを「来たるべき世の父」と呼んでいます。聖霊降臨のミサの続誦の中で、聖霊を「貧しい者の父」と名指します。

 さらにもいくつかの類似点をあげるために、私の正教会の伝統にとってとても大切で、重要な神学者ならびに聖人でもある聖シメオンを私は選びました。彼はこう言っています。「乳離れした人びとにとって主(キリスト)はご自分の子供たちの成長と発達を見守る愛情のある父親の役割を果たします(神学倫理講話4・269 - 270)。

 また、主が私に聖三位一体の一致について教えたかった初期の頃のある特定のメッセージを、批判者は引き合いに出しているのかも知れません。問題になるかもしれないメッセージは「私は父であり 子なのです、さあ分かったか? 私は唯一、唯一の神であって、すべてなる者」('87・3・2、前掲I八六頁)。この箇所で主は、最も聖なる三位一体の完全な存在論的一致、どのように三つの神の位格が分かたれていず、本質において完全に一致しているかということを、私が理解するのを望まれました。聖シメオンが彼の讃歌45・7-21の中で言っているように「三位が一つとなり、三位であっても一致している…。主よ、このような神であられるとどうして私が知ることが出来たでしょうか、主人であり保護者であり父でもあり、兄でもあり王でもある神よ…?」徐々に時間とともに非公式の用語は結晶化され、もし混乱した人があったとしても後には、もっと明らかになりました。

 教皇ベネディクト十四世が、ずっと以前に教会の教父や聖人の著作の中で問題のある箇所がある場合に注意を向けられ、次のように指示されたことを思い出して下さい。

…これらの人々が言ったことは可能な限り良い意味でとらえるべきです…ある文中のはっきりしない点は、もっと明らかな箇所で別の説明がなされているでしょう…著者の考えを特定の言いまわしの中からではなく作品の文脈全体の中から探しなさい、:博愛心が厳格さに伴うべきです:同意しない見解についての判断は、個人の見解を根拠としてではなく、その教義の妥当性に従って下されるべきです(索引の前書きより)。

 初期の頃のメッセージの一つの中で私は、イエスがどうやって私に「聖三位一体がどんな風であるかの図案を作るように」頼まれたかを話します。私は光のビジョンをいただいたことを描写しています。その光から一つの光が出てきて、それからもう一つの光が出てきて三つになります。そこで私は次のように注釈します。「御子が御父の中におられる時、彼らは一つです。聖三位一体は一つであり同一なのです。彼らは三つであることもできるが、三つすべてが一つにもなり得るのです。結果は唯一の神です。」この陳述は、御子が御父より「光よりの光」として生まれたことを宣言するニケア信条にさかのぼる隠喩を用いていることを私は知りました。このイメージはそれ以来キリスト教思想の中で古典的になりました。例えば、神学者であるシメオンは、「初めにあった方、すべての時代の前に御父より生まれ、聖霊と共にあり、神でありみことばであり、三つが一体であり、三つながら一つの光である方」(讃歌12、14-18)と書いています。

 時々御父である神が話されますが、「私の子イエス」等の言葉に言及しますので聖書を知っているどの読者にも、話されているのは実に御父であるということが明白になります。そして、その同じ日にキリストがメッセージを続けるために私を呼ばれ、話されるという場合もありえます。聖書を知っている読者は主が御傷や十字架のことを話されますので、話しておられるのがキリストであることを理解します。例えば、御父が初められたメッセージで、あとになって御子が続けられるような場合は、"後で" というような言葉が通常入っています。もし私がそれを読む方々を助けるような言葉を入れなかったのであれば、それは言葉遣いから、三位のうちのどの方が実際に話しておられるかが明瞭だと私には思われたからでした。読者の方々からその問題について説明を求められたことはありませんし、私にそのことで混乱したと伝えて来た方は一人もいません。ただ二人のアメリカの聖職者の方々がメッセージを間違って読み、私に一度も会うことなく、繰り返しニュースレターの中で彼らの見解を公表しました。

「神のうちの真のいのち」の著作の一節でキリストはこう言われます:「私は三位一体です。」ここでキリストはひとつである三位一体の神的本質と同一であると表明されています。キリストは三位一体の内の一方(ひとかた)です。本質的に一つであり、三つの位格のそれぞれが神性を交流し合うとして、キリストは話されます。

「神のうちの真のいのち」の一節で次のように話されているのはキリストでした。「祝福を受けなさい 我が子よ、あなたの聖なる父が愛している 私は聖三位」、そして付け加えられました。「よく識別した。」私はイエスが、「あなたの聖なる父」と仰しゃったとき識別したのです。ちょうどある装飾的な絵画のように、イエスが「三重」に見えたのです、一人から他が発していて、皆そっくりで三人が同じであるように。「私は聖三位、三位一体」('88・4.11、前掲II一八七頁)(唯一の、分かちがたく、一つの本質、一つの実質。)もしイエスが仰しゃったとされる最初の表明だけを見るならば、主がご自分を御父として、それから三位一体全体と同一であると表明されているのではないかと訝(いぶか)るかもしれません。しかし、さらに読み進めるならばそうでないことは明らかです。

 キリストは三つの位格がどうやって分かちがたく完全に一つであるかということ、聖三位一体の一致を、私に教えようとなさいました。三位一体の一致は三つの位格が分かちがたい(離れがたい親友のように!)という事実に第一に基づくものではなく、それぞれの位格が同じ独特の神的本質を共有され、相互関係においてはじめて区別されるという事実に由来します。

「神のうちの真のいのち」の他の一節の中で、キリストはどうやって三位のそれぞれのうちに、一つであり、同じ実質である三位一体が認められるかを、私に教えられます。「…私は豊かであろう? 至高者であろう? 父の腕の中にいて安心していなさい。私、三位一体は唯一である(実体として)…」("89・7・25、前掲III二一二頁)

 正教会の伝統的な考え方でこれを表わすためには、バジル・クリボスケンの聖シメオンについての本に再び目を向けるのが有益です。ここでは私が表現しようとするよりも、もっとよい言葉で表現されています。「神は名前を超越している。神は三位でありながら唯一であり、その一致は表現され得ない」(二八四頁)。そして聖シメオンからの引用:

どんなに様々な名前であなたのことを呼ぼうとしても、あなたは一つの存在… この一つの存在は三つの位格を持つ一つの本質、一つの神性、一つの神は一つの三位一体であり三つの存在ではない。しかしながら唯一であってもその位格は三つである。それらは本質的には互いに同質であり、全く同じ力を持ち、同じ存在であって、そして私たちの理解を越えた仕方で混乱することなく一致している。それがまた、各々は互いに区別され、分離はなく独立し、一つのうちに三つの位格(讃歌45、7-21)。

 そしてTLIGの他の一節で、キリストは神の神的一致を強調します:「私は - 救う - 者 私は贖い主、私は唯一なる三位一体、私は恵みの霊…」('89・7・28、前掲III二一七頁)。

 ここでイエスは、ご自分が聖霊と共に御父の内にあり、同様に御父とご自身は聖霊の内にあることを私に語っています。主、御子は聖霊と共に御父の中にあり、共に永遠に御父の中にとどまります。キリストの次の言葉を思い出すことができるでしょう:「…神は霊である、神を礼拝する人は、霊と真理とにおいて礼拝しなければならない」(ヨハネ4・24)。聖パウロの言葉もきわめて重要です:「この主は〈霊〉であって、主の〈霊〉があるところには自由があります」(二コリント3・17)。

 御父が御子や聖霊から、御子が御父と聖霊から離れ、あるいは聖霊がその派生した方との一致から除外されるということは決してないでしょう。このようにして「私は すべてが一つである聖なる三位一体」という表現がなされ、著作の中でこれと同じような他の表現も見いだせるのです。同様にTLIGの他の一節の中で、私は次のように明確に記しました。「御子が御父のうちにおられます。ただ一つです。三位一体は一つであり 同一です:三つの位格でも唯一の神:一つであられ、三つであられます」('87.11.23、前掲II五三頁参照)。
「神のうちの真のいのち」の著作の中にしばしば出てくるこれら二つの表現について特に説明したいと思います:キリストが話されます:「…聖三位が唯一同じであるように、あなた方も一致しなさい」('89・10・10、前掲IV一八頁)。あるいは別の言い方では:「私の群れが一つとなるように祈りなさい、御父と私が唯一 同じであるように」('89・3・29、III一五〇頁)。

 ここで、とても重要な要素(ファクター)をあげます。キリストが"the same"という言葉を使われる時、その意味が変ってしまうので、もしこの言葉がイタリア語やフランス語に翻訳された場合同じものではなくなってしまいます。翻訳には弱点があるということを指摘しておきたいと思いますが、私がこの責任を負うことはできません。英語(著作が書かれたもともとの言語)では、"同じ人"という意味ではなく、「本質」や「実体」として「一致している」のを意味し「同等な」という意味です。

 そして三位一体が一つの声で順番に話す箇所がありますが、それであってもそれはとても明白です。例えばここにそうした一節があります。

「恐怖の中から発したあなたの叫びは天を貫いて 三位一体の耳もとに届いた…我が子よ!」父の声は歓び溢れ、天に響き渡った*。(*ここからは御子が話されました)「ああ…今こそ この傷の中に彼女を引き込もう 私の聖体を食し 聖血を飲ませよう。 彼女は私の花嫁となり 永遠に私のものとなる。 彼女に抱いている愛を現そう するとその唇は私を渇き求めるようになり 心は私の頭を休ませる台となろう。」その後すぐさま聖霊が話されました。「そして私、聖霊は彼女に降り 真理と我々の深みとを現そう。 彼女を通し 最大の賜は愛であることを世に思い出させる。」そして聖三位は一つの声で話されました。「それでは祝おうではないか! 天はこぞって祝おう!」('90・12・12、前掲V四〇頁)。

 最も聖なる三位一体の神秘、三つの位格がそれぞれの区別される特性を持ちながら唯一であること、また三位の交わりはキリスト教の信仰の中でも一番大きな神秘の一つです。しかし三位一体が無限の神秘であるという事実の前に私たちはたじろいで、その驚くべき素晴らしさをほめ讃え、それについて話すことを避けるべきではありません。たとえ人間の言語では決して三位一体でありながら一つでもある方の美しさと偉大さを表現することは出来なくても。このもっとも聖なる三位一体の神秘は、私たちの信仰にとって、一番中心をなすもので、他の信仰上のすべての神秘の上に位置し光をなげかけています。再びカトリック教会の公教要理に、このことは最もはっきりと指摘されています。

 至聖なる三位一体の神秘は、キリスト者の信仰と生活の中心的な神秘です。それは、神ご自身のうちなる神秘です。したがって、信仰の他のすべての神秘の源、それらを照らす光なのです。「信仰の諸真理の順位」の中で、もっとも基本的で本質的な教えです。「救いの全歴史は、まことの唯一の神、父と子と聖霊が自らを啓示し、罪から離れる人間と和解し、一致する道と方法との歴史にほかなりません」(CCC 234)。

質問四:protology (起源論)と終末論
              (前掲の質問参照)

起源論(プロトロジー)
 私はどんな形にしろ輪廻転生を信じていません。それどころか私の著作は輪廻転生やニューエイジに反対です:「サタンの教義では輪廻を信じるように教える、だが輪廻はない。彼らは宗教の外観を保っているが その内なるカ - 聖霊と聖体の秘跡を 受け入れない」('92・4・19、前掲VI六二頁)。あなたが問題とされている一節は下記かも知れません。

…次に、このまばゆい光のさ中、霊魂は かつてあのほんのわずかな一瞬に垣問見た、あなたが創造された瞬間を見る…彼らは 御手にあなたを最初に抱いた方を見よう。あなたを最初に見た眼を見よう。あなたを形造り 祝福した御手を見よう…彼らはあなた方の創造主、最も愛深い御父を見よう…('91・9・15、前掲V一九二頁)。

 この一節は詩的で神秘的な言語で書かれています。ここで言われていることは決して霊魂の先在のことではありません。むしろ神が創造のまさにその瞬間からどの霊魂をもいかに祝福し愛して下さっているかについて述べられています。私たちは神の肖(かたど)りとして造られ、私たちの魂の奥深くには神の刻印が押されていて、聖アウグスチヌスが「心は神のために造られた、神の内に休むまで決して安らぐことはない」と言うとおり、人間は創造主に対して生まれながらにしてあこがれを持ち、神だけがそれを満たすことがお出来になる、と私は信じます。この文を通して私がお伝えしようとした大切なことは、「私たちは受胎の瞬間から私たちの存在の奥深くに神の肖りをいただいている」ということです。

終末論
 私がキリストの再臨の前に新しい秩序、物質的な「新しい天と新しい地」を確立して間違った種類の千年王国論を提唱しようとしている、と言われます。これは間違いであり、メッセージの中のどこにも見つけられません。カトリック教会の公教要理(カテキスム)の中に書かれているように、カトリック教会がこのような種類の千年王国論を強く非難していることを承知しています。

歴史を超越した形で行われる最後の審判を経た上で到来するはずのメシア時代への希望が歴史の中で実現される、と主張する人々が現れるたびごとに、この反キリストの偽宗教はこの世に姿を現してきました。教会は、いわゆる千年王国論として述べられた、終末的な、み国に関するこの歪曲された説明を、その緩和された形をも含めて、排斥しました。とくに政治的な形で提示された世俗的メシア観は「本質的に邪悪」な説である、として排斥しています(CCC 676)「公教要理」参照。

「神のうちの真のいのち」の著作の中には、新しい天と新しい地や、第二の聖霊降臨、時には新しい聖霊降臨という用語が使われる多くの箇所がありますが、それらは比喩的に理解されるべきです。これらの言葉はキリストの再臨の前に歴史の第二のご計画が確立される形で、この私たちの普通の歴史との断絶が起こるということを意味するのではありません。この言葉は、キリストが聖霊の力で私たちを内側から刷新して下さるであろうという絶大なる希望を表わしています。それは私たちが非常に熱望している信仰の復興であり、教会の刷新です。そしてこの刷新から私たちが望む実(み)は、キリストの御からだの分裂が癒されることです。すでに教皇ヨハネニ十三世は第二の聖霊降臨を祈った時に、このような刷新を心に描いていました:「おお 神なる霊よ、私たちの時代に第二の聖霊降臨によるあなたの奇跡を新たに送って下さい。」そしてまた、私たちの現教皇ヨハネ・パウロニ世は、二〇〇一年九月八日付の、カルメル山の至聖童貞マリアの兄弟会の修道院長であるジョセフ・チャルマー神父様にあてた手紙の中でのように、その用語を何回かの機会に使っています。「…あなたの上に神の豊かな恵みがあるように析ります。第二の聖霊降臨のように聖霊があなたの上にくだり、あなたを照らしますように、それによって天の父、慈悲深い御父の御旨をあなたが悟ることができますように。このようにして、あなたは男女に、彼らにとって分かりやすく効果的な形で話すことができるでしょう」(使徒行録2・1-13を参照)。

 同様に、私の著作で、主が私たちの霊魂の中に玉座を建て、主の王国を築くことが出来るよう、信仰が復興されることを比喩的な言語でこう述べています:「来て学びなさい 渇く者は誰にでも 無償でいのちの泉から水を与える(黙示録21・6)こうして内なる私の玉座を築いたとき 新しい天と新しい地は実現しよう」('95・4・3、前掲VIII三〇頁)。

 私たちに約束されている刷新はすでに始まっており、恩寵を通してのみ神のあわれみが私たちの上にあって、今までの歴史の中では決してなかったように全人類に聖霊がそそがれ、太陽の光線によって私たちが癒されるように、この時代に神の恩寵が私たちの上に輝くため、この刷新は成長し続けると私は信じます。

 主は私にご好意をお示しになり、今の時代の私たちキリスト教徒の信仰の状態を見せて下さいました。それは嘆かわしいもので、そうとしか言いようがありません。多くのメッセージはキリスト教徒の世界にふりかかっている背教を描いて悲嘆にあふれています。しかし主は聖霊の働きによって刷新、変容と、再生が起こるであろう(起こっている)ことを私たちと分かち合い、私たちに希望を与えてくださいます。神への渇きが聖霊を通して神の恩寵によって与えられるでしょう。何ヶ所かから引用しますと:「今の時代は我が聖霊が あなた方を重い背教から引き上げ、婚姻を結ぶ時代です。 時代の悲惨さは もうあなたからは 剥(は)げ落ちるであろう。 私自身の手でその弔い布を脱がせ 婚礼衣装をまとわせるであろうから…」('90・10・20、前掲V八頁)。「全被造物を新たにし、あなた方皆を我が聖霊によって刷新する」('91・6・27、前掲V一四九頁)。


「御国が来ますように」という主の祈りを祈る時に、私たち皆が願い祈るような御国がいつ実現され、主がどの程度まで御国を建てることがお出来になるかどうかということについては、私の著作の中でふれられていません。私はもうすでに、私たちの内側でそれが始まっていると信じますし、その成長には、いつも私たちの協力と善意が含まれます。刷新は、もうすでに始まっているのですが、誰も止めることのできない海の潮の干満のように、ゆっくりと来るのだと私は信じます。

 新しい聖霊降臨、あるいは第二の聖霊降臨は私たちの刷新の希望です。被造物を新たにする聖霊があふれ出すことです。「神のうちの真のいのち」の中では、黙示録21章と対比されています。ここで一節を引用します:

来て学びなさい: 渇く者は誰にでも 無償でいのちの泉から水を与える こうして内なる私の玉座を築いたとき 新しい天と地は実現しよう。 あなたを私の王国 そして永遠のいのちへと引き入れるのを 我が聖霊に許しなさい。 悪霊がもはや力を及ぼし 死なせることのないように…我が聖霊が土を耕し 地上でエデンの園をあなたの内につくるのを許しなさい、我が聖霊に新しい地をつくらせ その土壌を豊かにして、悪霊の所領だった、もとの地が消えゆくように。そうするなら我が栄光がふたたびあなたの内を照らし 聖霊の種子蒔いたすべての聖なる種子は芽吹いて我が聖なる光の内に育っていこう。(…)そこで我が聖霊にあなたの霊魂を もう一つの楽園 私ども〈至聖三位一体〉が住まう新しい地とさせなさい…

(私の質問)新しい天はどうでしょう?

新しい天? それも内に見いだされよう、我が聖霊が聖性をもってあなたを治めたとき。 私の玉座で伴侶なる、我が聖霊は天に煌々(こうこう)と輝く太陽のように あなたの闇夜に輝き、こうしてみことばを与えられたあなたは私の望むように考えて語り、望む姿と思いにそって すべてを言い現そう。 父の霊があなたの内で語られているがゆえ 行うすべても私どもの似姿となる。そしてその新しい宇宙は 我が聖霊をともなって勇ましく我が栄光のために残りの星々(人びとを象徴)を征服しに出ていく そして私の法を守らず、あなたの時代にとっておいた希望と聖性を知らないまま、束の間の影のようにすっかり私から引き離されていた人びとをも征服しよう。

新しい天は、祭壇よ、至聖なる天の高みから、我が聖霊が皆の上に注がれたときに訪れる。 そう、あなたのうちに聖霊を送って 一つの天国を形造る、こうして私は この新しい天で三たび誉れを受けよう…そして我が聖霊を受けた人びとの足取りが、正されるにつれ、彼らの闇と陰鬱さの中にも光が射し込み まばゆい星となって回復し いつまでもその闇夜を明るく照らしだそう。 間もなく、あなた方皆の内に 我が玉座の栄(は)えある栄光が輝きいで今の天と地は消えてなくなる('95・4・3、前掲VIII三〇 - 三一頁)。

 ご覧の通り、これはすべて象徴的形象的言語、もしくは詩的言語によって刷新や新しい聖霊降臨を描いています。神はむしろ、控え目な方法で働かれますので、神からのセンセーショナルな出来事を決して待っているべきでないと私は人びとに説明してきていますが、主の言語は表現豊かで、力強い場合もあるのです。新しい聖霊降臨のような多くの出来事は、私たちの頭上に目に見える炎や同様の物が現れることとしては予期すべきでありません。神様が働かれる時、それは穏やかな目立たない方法でなされ、センセーショナルな出来事を予期した多くの人々は、すぐにはそれらに気付かないほどでしょう。

質問五:運動としてのTLIGとは?
              (前掲質問参照)

「神のうちの真のいのち」は運動ではなく使徒的呼ぴかけです。
「神のうちの真のいのち」は運動ではなく、事務所も構えていません。誰であろうとすべての人びとに対して和解と一致をただ呼びかけるものです。呼びかけはクリスチャンにだけ向けられたものでなく、その中にクリスチャン以外の人びとも引き入れ、この人びとはクリスチャンになっていきます。「神のうちの真のいのち」の霊感あふれる著作を読んだ後に、その霊性は三位一体に基づく観想的霊性であり、全くキリスト教的な霊性であるにもかかわらず、ユダヤ人、イスラム、仏教、ヒンディ教徒の何人かは洗礼を受けました。キリストは御父にこのことを祈り言いました、「私は彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって、私を信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17・20)ですから恩寵を通して、神は多くのドアを開けて下さっています。例えば最も初期の頃からこの使徒的仕事が生じるであろうと私は言われました。

時が来たなら、神はメッセージを示すに必要な平安と力を下さいます。あなたが皆にメッセージを見せることを神は望まれるでしょう…('86・8・6、『私の天使ダニエル』三六頁参照)。恐れることはありません。あなたはイエス・キリストのために働くことになります。他の人々の霊的成長を手助けするでしょう…('86・8・7、前掲三八頁)。私の聖なる霊に満たされると他の人々を導いて来れるようになり 何倍もあなた方の数は増える…('86・9・5、イエスが話される)。こうしてあなたを呼ぷことによって 他の人々も導くつもりでいる、私を捨て 我が声が聞こえないすべての人たちをも。そうした理由で この呼びかけは書かれた形になっている…('86・11・18、御父が話される)。

 広島の仏教僧もメッセージを知るようになり、彼らのお寺で話すように私を招待してくれました。そこにはカトリックの司教も同席していました。それは原爆記念日でした。彼らに完全にキリスト教的なメッセージが贈られました。私は彼らに黙想のために壁に掛けられる巨大なロザリオとファチマの聖母の像を差し上げましたが、彼らはその聖母像を庭に据えました。

「神のうちの真のいのち」を読んだユダヤ人たちは、洗礼を求め、彼らのうちの一人は「神のうちの真のいのち」の第一巻をヘブライ語に翻訳しました。それは今出版社にあり、もうすぐ出版されます。彼らは皆イスラエルに住んでいます。

最近バングラデシュのダッカの、野外の広場で人びとに講演を求められました。彼らはその集いを、祈りをもって始めるという招きを受け入れたイマームを招待し、多くのイスラムの人びとが参加しました。そこにはヒンズー教と仏教の代表者と共にカトリックの司祭も同席しました。メッセージは再び(「神のうちの真のいのち」の霊感あふれる著作をもとにした)全くキリスト教的なものでした。私が話した中心的で本質的なメッセージは、神を愛として明らかにし、神と、また隣人と和解して互いに尊敬し合うことを学ぶということでした。集会が終った後には、二人のイスラム教徒がクリスチャンになり洗礼を受けることを望みました。「私はすべてのくに民がみことばを聞くように望んでいる。あなたを指導し行くべき道を示す…」('87・1・10、『私の天使ダニエル』一二一頁)。

観想的教え
 霊感によって書かれたこの著作は読者に神を知り、神を理解することを教えます。多くの人びとは神を信じてはいますが神を知りませんので、神と親密な関係を持つように私たちを励まし、そうすることによって神と一致した生活へと私たちを導きます。キリストの内に、聖霊を通してこのように結ばれますと、信者は一つの同じいのち、キリストのいのちを生きるように招かれます。

 聖書にはこう書かれています:「知恵ある者はその知恵を誇るな。力ある者はその力を誇るな。富ある者はその富を誇るな! 誇る者は、むしろこのことを誇れ。私を理解し、私を知ることを」(エレミヤ書9・22-23)。

祈りのグループの形成
「神のうちの真のいのち」の著作は、心からの素朴な祈りを実践し、絶えず神の内に、そして神も私たちの内に生きることである絶えまない祈りに、私たちの生活を変えていくように教えています。しかし世界中で祈りのグループを形成することにも強く呼ばれています。六十ヵ国以上の国々の人びとが、私が証しをするように集いを催しましたから、これらすべての国々で祈りのグループが形成されています。それぞれの国にはいくつかのグループがあります。例えばフランスには「神のうちの真のいのち」の霊性に触発された四八のエキュメニカルな祈りのグループがあります。より大きな国であるブラジルには三〇〇以上のエキュメニカルな析りのグループがあり、どの祈りのグループも、クリスチャンとは言っても正教会、ルーテル教会、聖公会、バプテスト派だったりしますが、すべての人びとがロザリオを一緒に唱えることから始めます。

「どんなにこの日が待ち遠しいか! あなたを全人類に送る日が、皆も私を愛することを覚え もっと私を理解するようになる。英知はその富を全人類と分かち合うであろう…」('87・1・25、イエスが話されて)。

教会の教えに忠実であることを鼓舞される
 著作を読む人は、教会に忠実であり続けることを学びます。「たとえあなたが教会から追放されたとし窓からよじ登り、決して教会を捨ててはいけません。」と私は人びとに話します。著作は、御聖体訪問をし、崇敬(すうけい)のうちにイエスと共にいる時間を過ごすことを私たちに教えています。教会の秘跡を守り、伝統を保ち、自己放棄、悔い改め、断食することを学び、特に告解の秘跡にあずかるようにと私たちに教えています。もし可能であれば、毎日ミサに与りたいと私たちが熱望するように導きます。御聖体の重要性について説明しています。

この聖体拝領によって私を受けるすべての人を聖化し、神とさせ 我が肉の肉、骨の骨とならせよう。私を拝領するなら、私は神聖なゆえ、あなたと私は、霊的に一致し、一つの体となる。 私たちは血縁となる、私は我が特性にあなたを与らせて神々とさせられるがゆえ。 我が神性を通して 私は人間を神性なものとする…('00・10・16、イエスが話されて)。

活動:読者によって運営されている慈善の家
 一九九七年、ベトレヘムのキリスト降誕地の外に立っている時に、私は恵みによって聖母のヴィジョンをいただいたあと、マリア様が霊的食物だけでは十分ではなく、貧しい人びとのことを考え彼らを養ってもいかなければいけない、と言われるのを聞きました。
 そこですぐこのことを私たちの析りのグループに知らせますと、多くの人びとが貧しい人びとに食物を提供するためのチャリティーハウスを開くために自らすすんで助けてくれました。それらは"ベス・ミリアム"(マリアの家)と呼ばれています。バングラデシュに一ヵ所、ベネズエラに四ヵ所、ブラジルに三ヵ所、フィリピンに二ヵ所、ケニアには一つの孤児院があります。プエルトリコに一ヵ所、インドに一ヵ所、ルーマニアに一ヵ所、ウクライナには一つの孤児院が間もなくオープンします。このことについての情報を同封しています(添付2)。すべての仕事はボランティアによってなされています。ベス・ミリアムは献金だけによって運営されています。それぞれのハウスは関連するどんな組織も持たずに、すべてその地域の人びとによって始められた、その地域に根ざしたハウスです。彼らは自分たちでハウスを維持し、同じ人びと(祈りのグループ)がハウスを運営し、貧しい人びとに仕えるという任務を引き受けています。彼らは貧しい人びとに食物を提供するためだけでなく、医療奉仕、衣料、子供たちの教育にも発展していっています。最後に、それらは絶えざる祈りの精神によって運営され、いつも本質的にエキュメニカルな活動です。

できる限りどこにでも 私どものベス・ミリアム(マリアの家)を立ち上げなさい。 虐(しいた)げられた人びとを引き上げ 孤児を助けなさい、私を擁護し、極貧から救い出し、私の避難所となり 私を養い、私の重荷と疲れを取り除いてほしい、私を支え 励ましてくれるように。我が兄弟の 最も小さい者にしてくれることは、私にしている…我がいのちを支える者たちを祝福する、彼らが徳に秀で 愛深いように、私が共にいる…('02・3・27、イエスが話されて)。

福音を述べ伝える呼びかけ
「神のうちの真のいのち」に感動した読者の何人かは、神の福音を広めることに貢献するために、世界各地に出かけてその証人(あかしびと)となれると感じます。言葉と信仰の感覚という恵みを聖霊から与えられ、聖霊の従順な道具となった彼らは、今や世界中に出かけて証しをし、人びとを祈りの生活へと招き、祈りのグループを形成するように教えることが可能です。目的は人びとの生活を変え、絶え間のない祈りの生活を生きるように導くことです。ダッカの祈りのグループの数人は、村々(イスラム教徒)に出かけて行ってメッセージを声に出して読みます。多くの人が信じ、クリスチャンになることを望みます。

「一人ひとりを、愛のかまどの 生ける松明(たいまつ)としたい。 今や私を尊び 愛のために 愛をもって伝道するように」('89・1・27、前掲III一〇八頁、イエスが話されて)。

処女マリアに対する信心
 マリアの汚れなき御心はイエスの聖心と決して離れることなく、イエスの聖心と完全に一致していますので、「神のうちの真のいのち」は私たちを神の母の子となるように導きます。私たちのこの母は私たちの支えであり、私たちはそれを知っています。祈りのグループに参加するすべての人びとは、プロテスタント、カルヴィン派その他どの宗派であろうと、皆聖母、および聖人たちを尊敬し彼らに祈るように教えられています。

「私の心が 常に彼女の心で和らぎを得 その心に好意を示してきたかに気づいたか? あなたの王を身ごもった、この心が私に求める何であろうと どうして拒めよう? 御母の心を祝福するなら私の心を祝福しているがゆえ すべての信徒は彼女の心を祝福する」('96・3・25、前掲VIII一五六頁、イエスが話されて)。

「神のうちの真のいのち」の会
 いくつかの国々にTLIGの組織的な会があるにしても、それは福音を述べ伝えるこの仕事を支えるためと、本を出版することに関連した法的な目的だけのためにあります。ある国々での会を創設したとしても、それはただその地元の法律に従うためです。一つの例をあげますと、TLIGの名前に関連して郵便私書箱を開設する。しかし私は決して運動を作りあげようと考えたことはありません。本は三八の言語に翻訳されましたが PARVIS 出版だけは、そこの編集者がそれが規則だと言うので例外ですが、他のどこからも印税をいただいていません。このお金は慈善活動や、資力を持たない第三世界の国々で、出版費用や証しをする旅行費用を賄うことなどに回されます。

他の活動
 二年毎に、祈りのグループのボランティアがエキュメニズムに関する国際シンポジウムを開催するために、すすんで私を助けてくれます。同時に巡礼の旅としてこれを行っています。
 今までに、シンポジウムは四回開催されました。二〇〇〇年に聖地で(教皇様が聖地に来ておられるときでした)行われたものが一番大きく五十八ヵ国から四五〇人の人びとが参加しました。十二の異なった教会から七五人の聖職者も加わって下さいました。今年はエジプトで行おうとしています。

 何といっても、私は主の家を愛し、何よりも私は神を愛しています。私は主が与えて下さった恵みを神に負っています。主は私に一度言われました。「私はあなたに無償で与えたのだから、無償で与えなさい。」そこで、これを私は実行しようと努力しています。私は聞きたいと望む人には誰でも主の御言葉を無償で伝えます。

 私の著作と活動に関しての疑問に光を注ぐことを私に許可して下さったことに、もう一度感謝致します。www.tlig.orgのウェブ・サイトをこ覧になれば、もっと多くの情報を得られます。私の仕事を説明するこの機会を設けて下さったことに、もう一度感謝しつつ、ジョセフ・ラッツィンガー枢機卿猊下、タルチジオ・ベルトーネ司教閣下、ジャンフランコ・ジロッティ司教閣下、また教理省顧問団の司教各位にも私からのご挨拶を、あなたが親切にも伝えて下さるようにお願い致します。この内容が、ご期待にそう仕方でなされたようにと願っております。このほか何か質問がおありでしたらそれも喜んで、口答か書面かでお答えします。そしてTLIGの書物の中に含まれる特定の表現を明確化させるために、あなたが与えて下さる提案を私は受け入れる用意があります。必要であれば、私の本の新版に、そのような説明を加えることもできます。

 私の心からの敬意と誠意こめた祈りとご挨拶をお送りします。

キリストのうちに、  

ヴァッスーラ・ライデン 

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