東京外大の宇沢弘文講演会 - 哲人が論じた米国､東大､フリードマン
先週末(10/16)、東京外大で宇沢弘文の講演会があり、多磨（府中）キャンパスまで遠出して聞きに行った。府中キャンパスは西武多摩川線の多磨駅の近くにあり、都心から離れた不便な場所に立地している。多磨駅前には何もなく閑散としていて、駅から大学までの間に学生街らしい風情を感じるものが何もない。引っ越して時間が経ってない事情もあるのだろうが、およそ大学らしい雰囲気がそこに感じられないのである。今回の企画は単発のものではなく、西谷修が代表を務めるＧＳＬが主催する一連の公開シンポジウムの一環で、過去にも金子勝を招いて開催している。どうやら、このＧＳＬの活動には文科省から多額の助成金が出ているようで、入場無料でありながら、イベント告知用に立派なカラーのポスターとリーフレットが印刷され、大量に配布されている様子が窺えた。研究活動そのものの意義は認められるが、この助成金の使い方は国民として納得ができない。税金の無駄づかいに見える。政府を批判する知識人が、その趣旨や目的の啓発活動をするのなら、政府のカネに頼らず手弁当でやるのが道理ではないのか。そう言えば、立岩真也の「生存学」研究にも同様のカネが拠出されていて、本人が得意満面でそれを吹聴していた。西谷修は、文科省の官僚に何と言って助成金を申請し、どんな成果報告を上げているのか。成果報告は文書なのか対面なのか、納税者として気になるところだ。
巨費を投じた告知宣伝が成功して、不便な多磨キャンパスの教室は満席（250人）の盛況だった。東京外大は脱構築アカデミーの一大拠点で、中野敏男や米谷匡史や岩崎稔がいる。日本の脱構築社会科学の御大であり、そして大塚久雄の末弟であるはずの、偉大な山之内靖の手で壮麗なシューレが築かれた。周辺にはＩＣＵがあり、中央線周辺は脱構築主義の学閥エリアの趣がある。と言っても、今やアカデミーは脱構築ならざるものはなく、新自由主義が濃いか薄いかの違いであり、学舎に新自由主義（右）が薄ければ、脱構築主義（左）の牙城や伏魔殿に見えるというアクセントだけかもしれない。門をくぐり研究講義棟に入ると、１階ホールのスペースで大学が学生のために就職説明会のイベントを催していて、小分けにしたブースに各企業の担当者が立ち、その前に黒い上下を来た学生たちが大勢座っていた。事情はよくわからないが、外大の学生でさえこの時期に就職が決まっておらず、黒いリクルートスタイルで神妙に畏まっている姿に衝撃を受ける。三田の商学部や外大が内定を取れずに、一体どこの学生なら企業に採用されるのか。外大まで行って、こんな目に遭うのか。ただ、説明会に参加している企業は、共同通信だの神戸製鋼だのキャノンだの一流企業ばかりが出揃っていて、それだけが唯一の救いのようにも思われた。
宇沢弘文は、定刻から少し遅れて教室に入ってきた。実物を見るのも、話を聞くのも、これが初めてだ。あの独特の風貌も圧倒的だが、体格も大きく、日本人という感じがしない。一高のラグビー部で左ロックを担当していたと言うだけあって、がたいのデカさに驚かされる。現在82歳。遠方まで足を運んだ動機は、もう本人を見る機会がないかもしれないと思ったからだった。加藤周一は２年前に死んだ。講演会に一度行こうと思いながら、情報に接する度に怠けて、結局、その機会を失ってしまった。後悔している。東京に住んでいると、いつでも行けるという感覚があり、また次でいいやと安易に見送ってしまうのである。加藤周一の講演会も、年に一度はネット上で情報を見ていた。その市民集会の告知情報からは、確かに事務局の緊張した何かが行間から伝わっていた。私が尊敬する知識人は、どんどん80歳を超えた高齢者になり、次から次へと鬼籍へ入って行く。『始まっている未来』の共著の内橋克人も78歳。その下の世代に人がいない。知識人らしい知識人がおらず、尊敬できる学者がいない。どれもこれも、学者ではなく学術官僚だ。文科省からゼニカネをもらいながら、口先で軽く政府批判をやっている。今はどうか知らないが、そのうち東大も岩波も官僚の天下り先になるだろうし、本郷と霞ヶ関を行ったり来たりする頻度が多いほど、有能で有名な研究者という話になるだろう。
宇沢弘文の話の中で最も印象的だったのは、そのマッカーサー論とハルバースタム論の件だった。宇沢弘文は堂々と言うのである。ハルバースタムは殺されたのだと。朝鮮戦争を扱った『The Coldest Winter』を書き上げた直後、今から３年前、ハルバースタムが交通事故で死んだ報は日本にも届いた。私はまだ本を読んでないが、宇沢弘文は、あれは間違いなく暗殺だと確信しているのである。事故死する直前、朝鮮戦争論を書き終えたハルバースタムは、次の著作であるイラク戦争論の執筆のために精力的な取材を続けていた。ハルバースタムがイラク戦争論を出版していたら、米国内での影響は甚大なものがあっただろう。宇沢弘文によれば、『The Coldest Winter』はマッカーサー批判の書で、マッカーサーの人格を生い立ちに遡って検証し、グロテスクな保守反動性を暴いた書なのだと言う。卓越した指導者として賞賛される英雄像の常識を打ち砕く問題提起の書だった。宇沢弘文の講演によって、私は初めてボーナス・アーミー事件という史実を知った。ソンミ村虐殺事件に負けないほどの米国現代史の恥部である。ボーナス・アーミー事件で鎮圧の指揮を執り、フーバーの命令を無視して、幼児虐殺を含む殺戮劇をワシントンＤＣで敢行したのが、後のＧＨＱの司令官になるマッカーサーだった。米国のタブーを破ったため、ハルバースタムは殺された。宇沢弘文は、「あの国では本当に殺されるのだ」と言う。思い起こしたのは、７年前のサイードの死で、私はあの病死を暗殺だと今も疑い続けている。
マッカーサーの占領政策について、戦後教育を受けたわれわれは、それを「民主化」の表象と観念で捉えている。その占領政策に否定的な議論を発していたのは、江藤淳のような右翼系の論者だった。アカデミー一般は、ダワーの『敗北を抱きしめて』以降、脱構築的な作法で、すなわち総力戦体制論からの戦後日本批判のコンテクストでシニカルに批判する流儀が見られたがが、右翼的な正面からの政治批判の主張になっていない。宇沢弘文のマッカーサー批判と占領政策批判は、むしろ江藤淳的な直截性を持った一刀両断の発言だった。今日の惨状に至るパックス・アメリカーナの日本支配は、マッカーサーの日本統治に始まるものなのである。日本を米国の奴隷にするオペレーションは、ＧＨＱの占領統治から始まり、岸信介と日米安保を経て、中曽根康弘を経て、プラザ合意と構造改革協議を経て、小泉純一郎を経てと、ずっと一貫して連綿と続いているものなのだ。ＧＨＱの中には、確かにＥ.Ｈ.ノーマンもいるし、ベアテ・シロタもいるが、今日、宇沢弘文的な視角で全体を再定義する必要があるように思われる。宇沢弘文の話は、もし名もなく肩書きがない者の発言だったら、ネットの中のジャパン・ハンドラー批判の言説と全く同じ中身のもので、その点も大いに考えさせられた。やはり、あらゆるものは米国（ＣＩＡ）の陰謀だと疑う態度でよいのだ。長く米国で暮らし、米国の本質を知っている宇沢弘文は、その真実を理解しているのである。
シカゴ大学時代の経験談も面白かった。宇沢弘文は、その生涯をかけて、まさに生々しくフリードマンと対決した経済学者である。そして、世界的な知識人の巨人であり、日本も世界も、もっと宇沢弘文を高く評価しなければならないし、評価してよい。ノーベル経済学賞が贈られてよく、これまで授与されてない方がむしろ不思議だ。ホール（欠落）としか言いようがない。1966年、日本がまだ発展途上国の頃、宇沢弘文はシカゴ大学で学生紛争を調停するという英雄的偉業を成し遂げていた。当時、米国の学生は成績の悪い順番で徴兵されベトナムの戦場に送られていて、学生たちはそれに抗議、成績票を徴兵局に送付しないよう大学に求め、本部棟を封鎖する行動に出ていた。宇沢弘文は学生と大学の間に割って入り、教授に学生の成績を付けない特別措置を提案、シカゴ大学は全学教授会を開いてそれを了承、学生たちは封鎖を解除した。本来なら宇沢弘文には解雇処分のペナルティが下されるところだったが、当時のプロボーストだった法学部長（フォード政権で司法長官になった）が人物で、その提案の普遍的意義を是として超法規的に宇沢弘文を守った。フリードマンのシカゴ大学の意外な一面であり、古きよき米国を感じさせる逸話であり、大学の自治とは何かを示す象徴的で画期的な出来事である。米国と日本の関係の問題について、宇沢弘文の考え方は私と全く同じだが、学問論や知識人論においても、まさに宇沢弘文と私は同じで、この哲人の存在を頼もしく思う。
頼もしく思うけれど、日本はなぜ80年代から90年代に、宇沢弘文という財産を国家として活用しなかったのかと、それを思うと残念でならない。90年代に出て来たのは、慶応経済新自由主義者の一団で、加藤寛、島田晴雄、竹中平蔵が跳梁跋扈し、彼らが最初にマスコミを占拠し、次に霞ヶ関（官僚）を改造し、そしてアカデミー（東大）をも改造してしまった。吉川洋もそうだが、伊藤隆敏とか伊藤元重がそこで蠢いていることを、宇沢弘文はどう思っているだろうか。「今の東大は腐りきった最低の大学だ」と言い切った。90年代、日本が宇沢弘文を必要としなくなった頃、ヨハネ・パウロ２世が宇沢弘文を必要とし、知恵袋のように助言を求めていた。ベルリンの壁の崩壊の時期、ヨハネ・パウロ２世の資本主義・社会主義論は世界の人々の心を捉えたが、その思想が発せられるに当たっては宇沢弘文の貢献が大きかったのだ。この世界的な知性を日本は無駄にしている。日米構造協議における「10年間で420兆円の公共投資」の問題も出た。さすがに宇沢弘文だと思った。これは、貿易赤字に苦しむ米国が日本経済を弱体化させるために要求した政策で、その公共投資は、産業開発や技術革新に寄与しない「無駄なことに使うこと」が条件だった。日本はこれを受け入れ、地方の農業基盤整備などに使う。現在の国の借金900兆円は、私はここに原型があると考えている。この問題は、昔はよく議論されたが、最近のエコノミストは誰も指摘しようとしない。目を伏せている。昔の日本の経済学と経済学者は本当に素晴らしかった。日本は経済学の国だった。政治学で丸山真男のような世界的が学者が出ないように、経済学で宇沢弘文のような学者は日本からは出ないだろう。溜息ばかりだ。
