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http://books.chosun.com/site/data/img_dir/2010/10/09/2010100900221_0.jpg満州事変当初はヒロヒトの裁可なしで起きた。
1931年9月18日、関東軍は、日本が運営する南満洲鉄道の路線を
わざわざ爆破する自作劇を通じ、満州侵略を本格化した。
事件直後、関東軍司令官の本庄繁は独断で攻撃命令を下し、主要戦略拠点を掌握した。
引き続き関東軍は、
朝鮮駐屯軍を増援部隊として、鴨緑江(アムノッカン)を越えさせて満州に送ってほしい、
と東京にある参謀本部に要請した。
この問題に対し、3日後に東京で内閣会議が開かれている時、
朝鮮駐屯軍司令官の林銑十郎も、やはり独断で部隊に国境を越えることを命令した。
参謀総長の金谷範三は、直ちにヒロヒトに対し、
現地司令官が裁量権を発揮し、このようなことが起きたと報告した。
「大元帥」である日王の統帥権者を侵害したことに対し、ヒロヒトは
『今回は仕方ないが、今後は注意しなさい』と話した。
しかし、以後続いた戦勝の報告に鼓舞されたヒロヒトは
『もし必要であれば、私は事件が拡大することに対し、同意もし得る』と話した。
翌年には「勅語」を通じ『皇軍の威力を国内外に宣揚した』と関東軍を賞賛し、
以後数年の間、満州事変に功績がある軍人、および官吏3000人に勲章を与え、昇進させた。
中・日戦争は、ヒロヒトが積極的に主導した戦争だった。
戦争の契機になった蘆溝橋事件は、満州事変の時と同じく、現地の部隊長の独断で勃発した。
しかし、ヒロヒトはこれを事後裁可し
『中国軍を膺懲し、主要地域を安定せしむるに任せよ』という勅命を下した。
国際法で禁止された化学兵器の使用を指示したのもヒロヒトであった。
彼は1937年7月28日、化学武器使用を初めて許可し、
宮中に設置した「大本営」を通じ、毒ガス使用を375回以上許可した。
ハワイの真珠湾への空襲はヒロヒトの作品と言っても過言ではない。
ヒロヒトは1941年10月、強硬な対米戦争論者の東条英機を首相に任命した。
開戦を反対した前首相の近衛文麿は、後日このように述懐した。
『私が総理大臣として陛下に開戦の不利を申し上げると、
すぐにそれに賛成され、翌日御前に出て行くと、若干戦争に傾かれていた。
それからは、より一層戦争論側に傾かれた。