第三巻 涼宮ハルヒの退屈

【Volume 3 — Suzumiya Haruhi no Taikutsu】



 

CONTENTS

 

プロローグ
涼宮ハルヒの退屈
笹の葉ラプソディ
ミステリックサイン
孤島症候群
あとがき

 

プロローグ

 

 涼宮ハルヒと言うよりは俺が憂鬱だったのではないかと思われるSOS団発足記念日は思い起こせば春先のことであり、やはりハルヒではなく俺がすっかり溜息づくしだった自主映画撮影にまつわる出来事はいちおう暦上で秋になってのことだった。

 その間約半年の時間が経過しているのも当然ながら、夏休みを挟んだその半年間にハルヒが手をこまねいて時が過ぎるままに任せているわけもなく、当たり前のように俺たちは理不尽かつわけの解らない事件とか事件なのかどうかも解らない事件モドキみたいなものにさんざん巻き込まれていたのは言うまでもないだろう。

 何と言っても季節が季節だ。気温の上昇とともにそこら中から虫がやたら出てくるのと同様に、ハルヒの頭の中からも謎のような思いつきがまろび出て、出てくるだけならまだしもその思いつきを俺たちの手でもって何とかしなければならないという不条理な事態が待ち受けていたのは、ホントどうしたものだろうね。

 古泉や長門や朝比奈さんがどう思っているのかはよく解らないが、少なくとも俺の自覚症状としては気力体力充分なパラメータを保持しているにもかかわらず、何だかすっかり腹一杯喰いすぎて自重では動けなくなった小さくて丸っこい動物のような気分を毎度のように味わわされていて、こうなれば最後、坂道をコロコロ転がり落ちるだけである。

 今も転がっている最中なのかもしれないな。

 なんせハルヒは頭の中が常に愉快な事で満たされていないと決まってロクでもないことを考え始めるという他人にすれば迷惑この上ない習性を持っている。とにかく何もしなくていい、みたいな状況が我慢ならないらしい。何もないなら無理矢理することを探し始めるような奴なのだ。そうして俺の経験上、ハルヒが何かを口走って俺たちが安寧の心地に浸ったことはない。これからもないかもしれない。なんてヤツだ。

 いい悪いは別にして、何よりも退屈を嫌う女、それが涼宮ハルヒであった。

 というわけで憂鬱が溜息に移り変わる間の半年間、俺たちSOS団がこうむることになった退屈しのぎのアレやコレやをせっかくなのでここで紹介したい。何がせっかくなのかは俺にだって知れたことではないが、語っても損をすることはないだろうし、せめで誰か一人にでも俺の抱えることになったこの名状しがたい気分を共有してもらえたら本望だ。

 そうだな……、まずあのマヌケな野球大会のことから始めようか。

 

涼宮ハルヒの退屈

 

 ある日の「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」、略してSOS団のアジト(正確にはまだ文芸部部室)で、涼宮ハルヒは甲子園で一番クジを引いた野球部キャプテンの選手宣誓のような溌剌さとともに高らかに宣言した。

「野球大会に出るわよ!」

 六月であり、放課後であった。あの、俺にとっては悪夢のような事件から二週間後のことでもあり、おかげでろくすっぽ勉強に集中できなかったため悪夢そのものだった中間試験の結果が返りつつある初夏の頃でもあった。

 そのくせハルヒはどう控えめに見ても全然授業を真面目に聞いていないのに一人で成績学年ベスト10に名を連ねているのだから、この世に神がいるのだとしたら、そいつには人を見る目がまったくないか、よほどの根性悪に違いない。

 ……まあ、そんなのはどうでもいいんだ。今、ハルヒが叫んだセリフのほうがよほど問題だ。

 なんつった、今こいつ?

 俺はこの部屋にいる俺以外の三つの顔を見回した。

 最初に見たのは、中学生みたいな童顔の上級生、朝比奈みくるさんだった。白い羽を背中に付けたら今にも天へと帰っていきそうな顔立ちの、とんでもなく可愛いお方である。そのお顔と小柄な身長に似合わず、これまたとんでもなくグラマラスであることを俺は知っている。

 なぜか唯一この高校の制服を着ていない朝比奈さんは現在、薄ピンクのナース姿に身をまとい、麗しい唇を形良く半開きにしてハルヒを見つめていた。彼女がナースの恰好をしているのは看護学生でもなければコスプレマニアというわけでもなく、単なるハルヒの指令によるものだ。またどこかの怪しいネット通販で入手したのだろう、ハルヒが持ってきて強制的に朝比奈さんにあてがったのである。万人が思い浮かべるであろう「いったいそれに何の意味があるのか?」という問いには、こう答えよう。

「ねーよ、んなもん」

 かつてハルヒは、「この部室にいる時は常にこの衣装を着ていなさい。絶対よ!」などと命令調で明言し、朝比奈さんは「そそ、そんなぁ……」と、半泣きになりつつも生真面目に言いつけを守っているのだった。あまりのいじらしさに時々後ろから抱きつきたくなるほどだったが、まだやったことはない。誓ってもいい。

 ちなみに二週間ほど前はメイド服が標準で、今もそのメイド衣装は部室の片隅でハンガーに掛けられてぶら下がっている。こっちのほうが可愛いし似合っているし俺の趣味に合致しているので、そろそろ原点に回帰して欲しいと俺は考えている。たぶん、朝比奈さんならリクエストに応じてくれるだろう。悩ましくも恥じらいながら。うん、実にいいね。

 その今はナースの朝比奈さんは、野球がどうしたとかいうハルヒの宣言を聞いた後、

「え……?」

 カナリアの挨拶のような可愛らしい声でリアクションしたきり、絶句を続けている。無理もない反応だ。

 俺は次に、この場にいるもう一人の女子の顔へと視線を向けた。

 背丈は朝比奈さんとどっこいどっこいだが存在感ではヒマワリとツクシくらいの違いがある長門有希は、いつものように何も聞こえていないかのごとく、分厚いハードカバーを開いたままページからまったく視線を逸らさない。数十秒おきに指が動いて頁をめくるので、ようやくこいつが生きていることが解るくらいだ。日本語を覚えたてのセキセイインコでももう少し喋るだろうし、冬眠中のハムスターでもこいつよりは身動きすると思うね。

 いてもいなくても同じような奴なので別に力を入れて描写するところでもないのだが、一応紹介しておくと、こいつは俺やハルヒと同じ一年生で、この部室が本来所属するクラブの生徒、一人しかいない文芸部員だ。つまりSOS団なる我等が同好会は、文芸部の部室に間借りというか実は寄生も同然にここを根城にしているのである。もちろん学校側の承認はまだ受けていない。この前出した創部申請書は生徒会から門前払いをくらった。

「…………」

 無反応な長門の顔をずらすと、その横に古泉一樹のニヤケハンサム面があった。面白そうな顔をして、俺に視線を投げかけている。意味もなくむかつく。長門に輪をかけてこいつなんかどうでもいい。この謎の転校生男----もっとも謎がどうのと言っていたのはハルヒだけだったが----は、前髪をパサリと払って、いまいましいまでに整った顔を笑いの形に歪めた。そして俺と目が合うと、殴りたくなるくらい様になるしぐさで肩をすくめて見せた。殴って欲しいのか、こいつは?

「何に出るって?」

 誰も反応しないので、いつものように俺はしぶしぶハルヒに訊き返した。どうしてみんな俺をハルヒの通訳係にしたがるんだ。迷惑この上ないぞ。

「これ」

 得意満面の表情でハルヒが俺に差し出したのは、一枚のチラシだった。チラシにいい思い出のない朝比奈さんが密かに身を縮めるのを視界の脇に捕らえながら、俺はその紙切れに書かれている文字を音読する。

「第九回市内アマチュア野球大会参加募集のお知らせ」

 この市における草野球チャンピオンチームをトーナメント方式で決定しようとかなんとか。主催は役所で、毎年おこなわれている由緒正しい催しなのだそうだ。

「ふーん」

 と、俺は呟いて顔を上げた。ハルヒの輝かしいまでに朗らかな顔がスマイル百%で至近距離にあった。俺は思わず半歩ほど後ずさり、

「で、誰が出るんだ、その野球大会に」

 解ってはいたが訊いてみた。

「あたしたちに決まってるじゃない!」とハルヒは断言してくれる。

「その『たち』というのは、俺と朝比奈さんと長門と古泉も入っているのか?」

「あたりまえじゃないの」

「俺たちの意思はどうなるんだろう」

「あと四人、メンツを揃える必要があるわね」

 例によって自分に都合の悪い話が耳に届かない奴である。ふと思いついた。

「お前、野球のルール知ってるのか?」

「知ってるわよ、それくらい。投げたり打ったり走ったり滑り込んだりタックルしたりするスポーツよ。野球部に仮入部したこともあるから、一通りはこなしたわ」

「仮入部って、何日くらい行ってたんだ」

「一時間弱かしら。てんで面白くなかったからすぐに帰ったけど」

 その面白くなかった野球大会に、なぜ今更しかも俺たちが出場しなければならないのか。あまりに当然の疑問に対し、ハルヒは次のように答えた。

「我々の存在を天下に知らしめるチャンスだわ。この大会で優勝したら、SOS団の名前が一人歩きしていくきっかけになるかもしれないじゃないの。いい機会よ」

 こんな団の名がこれ以上耳目を集めることだけは勘弁してもらいたいし、だいたい一人歩きさせてどうするつもりなんだ。何が、いい機会、なんだ。

 俺は困り果てていたし、朝比奈さんも困っていた。古泉は「なるほどなるほど」などと呟きつつ、ちっとも困った顔をしていない。長門は困っているのかどうなのか、ひょっとしたら話すら聞いていないのかもしれないが、いつもの無機質な表情で陶器のように固まっていた。

「ねっ、ナイスアイデアでしょ? みくるちゃん」

 いきなり振られて、朝比奈さんはうろたえつつ、

「えっ? えっ? でででも……」

「なにかしら?」

 水辺で水を飲む子鹿に近づくアリゲーターの動きでハルヒは朝比奈さんの背後に回ると、腰を浮かせていた小柄な看護婦もとい看護師姿にいきなり後ろから抱きついた。

「わきゃ! ななな、何を何を……!」

「いい、みくるちゃん、この団ではリーダーの命令は絶対なのよ! 抗命罪は重いのよ! 何か意見があるなら会議で聞くわ!」

 会議? いつも一方的にハルヒがわけの解らんことを俺たちに押つけるために開かれるミーティングみたいなやつのことか?

 ハルヒはもがく朝比奈さんの首に白蛇みたいな腕を絡めつつ、

「いいでしょ野球。言っとくけど狙うのは優勝よ! 一敗も許されないわ! あたしは負けることが大嫌いだから!」

「わわわわわ……」

 朝比奈さんは目を白黒させながら顔を赤くしてぶるぶる震える。スリーパーホールドすれすれの抱きつき技で拘束し朝比奈さんの耳をはむはむ噛みながらハルヒは、うらやましい想いが顔に出ていたんだろう、俺をじろりと睨みつけた。

「いいわね!」

 いいも悪いも、どうせ俺たちが何を言っても無視するつもりのくせに。

「いいんじゃないですか」

 古泉が同調しやがった。

 おいおい、そんな爽やかに賛成票を投じるな。たまには反論の一つでもしてやれよ。

「じゃっ、あたし、野球部行って道具もらってくるから!」

 小型竜巻のような勢いでハルヒが飛び出していき、解放された朝比奈さんは椅子の背もたれにへたり込み、古泉は述懐した。

「宇宙人捕獲作戦やUMA探索合宿旅行とかじゃなくてよかったじゃないですか。野球でしたら我々の恐れている非現実的な現象とは無関係でしょう」

「まあな」

 この時は俺もいったん納得した。いくらハルヒでも野球するのに宇宙人や未来人や超能力者が必要であるなどとは言い出すまい。ならば発見できるはずのない超常現象を探して町中をうろうろするより(SOS団のメイン活動がそれなのだ)、草野球に興じているほうが多少はマシかもしれん。朝比奈さんもコクコクうなずいているし。

 結果的にその推測の矢は完全に的を外し、外しただけだったらいいのだがその的の掛かっていた壁を貫通してどこまでも飛んでいくことになったのだが、そのことを俺が悟るのはもうちょい後だ。

 ようするに、と俺は思う。野球でなくても、自分の目を引くものなら何だってよかったんだろう。第一、ハルヒによって旗揚げされたSOS団という恥ずかしい名称を持つこの同好会未満の非公認学内団体自体がすでにこいつの単なる思いつきの産物である。なんせ正式名称が「世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団」というやたら長い上に恐ろしく独りよがりで抽象的という謎の団なのだ。もっと小マシなネーミングにしようとした俺の目論見はあえなく玉砕し、爾来、改名の機会は訪れていない。

 以前、それは何をするクラブなのかと訊かれたハルヒは、まるで敵将の首を討ち取った足軽兵のような顔でこう答えた。

「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」

 元から奇行で学内に轟いていた涼宮ハルヒの名が、完全に変人の代名詞として殿堂入り確定となったセリフである。

 とまあ、こんな調子で、カラスが光物をちょろまかすように、猫が小さくてチョロチョロ動く物体を見ると反射的に飛びついてしまうように、台所でゴキブリを発見した人が殺虫剤を探すように、たまたま見かけて気の惹かれたものならドッジボールでもゲートボールでもポートボールでも何でも、「これする!」と言い出したことだろう。草ラグビー大会じゃなかったことを喜ぶべきだったかもしれない。野球より大人数を揃えないといけないからな。


 つまりハルヒは、ただ退屈だったのだ。


 いったいどのような交渉の果てか、ハルヒは野球用具一式を抱えてつむじ風のように戻ってきた。小型の捨て犬が入れられていそうな段ボールの中身は、ボロボロのグローブ九個と、あちこちぼこぼこの金属バット、薄汚れた硬式ボールがいくつか。

「待て」

 と俺は言ってチラシをもう一度よく見た。

「これは軟式野球の試合だぞ。硬式を持ってきてどうするんだ?」

「ボールはボールでしょ、同じことよ。バットで叩いたら飛ぶわよ、絶対よ」

 俺だって野球なんか小学生の頃に校庭で遊んだとき以来だ。だが、軟式と硬式の違いくらいは解る。硬式のほうが当たれば痛い。

「当たらないようにすればいいじゃない」

 お前が何を案じているのかさっぱり解らん、みたいな顔でハルヒは簡単に言った。

 俺はあきらめて、

「それで、その試合とやらはいつなんだ」

「今度の日曜」

「明後日じゃねえか! いくらなんでも急すぎるだろ」

「でも、もう申し込んじゃったし。あ、安心して、チーム名はSOS団にしといたから。そのへんは抜かりないわ」

 俺は脱力して、

「……他のメンツはどこからかき集めるつもりだ?」

「そこらを歩いているヒマそうなのを捕まえればいいじゃない」

 これを本気で言っているんだからな。そしてハルヒが目を付けそうな人間は、一つの例外を除いて、みんな普通ではないのである。その数少ない例外は俺。そして俺は、これ以上理解できない身の上の人間と知り合いになるつもりはない。

「解った。お前はじっとしてろ。選手集めは俺がする。とりあえず……」

 俺は一年五組の男どもの顔を思い浮かべる。俺が声をかけてついてくるような奴……。谷口と国木田くらいだな。

 俺がそう言うと、ハルヒは、

「それでいいわ」

 自分のクラスメイトを「それ」扱いし、

「いないよりはマシでしょ」

 他の連中は涼宮ハルヒの名前を出した途端に逃げ出すだろう。えーと、あと二人どうするか。

「あのう」

 朝比奈さんが控えめに片手を挙げた。

「あたしのお友達でよろしければ……」

「じゃ、それ」

 ハルヒ即答。誰でもいいようだ。お前は何も知らないからいいかもしれんが、俺はちょっと気になる。朝比奈さんの友達? いつどこの友達だ?

 疑問が顔に出たのをめざとく見つけたのだろう。朝比奈さんは俺に向かって、

「大丈夫です。このじ……けほん。クラスで知り合ったお友達ですから」

 安心させるようなことを言ってくれた。すると古泉が、

「では僕も友人を一人連れてきましょうか。実は我々に興味を抱いているある人物に心当たりが----」

 とか言い出したので黙らせた。お前のツレなんか来なくていい。どうせけったいな野郎に決まっている。

「俺がなんとかする」

 誰でもいいんなら、俺にも知り合いは他にもいる。ハルヒは鷹揚にうなずいて、

「じゃあ、まずは特訓ね、特訓」

 まあ、話の流れ上、そうなるのだろうな。

「今から」

 今から? どこで?

「グラウンドで」

 開けっ放しの窓から、おっしゃばっちこーい、とか言っているような野球部員たちのかけ声が小さく響いていた。


 ところで、いきなり言うのも何なんだが、実はこの部室に集っていた俺以外の四人はそれぞれにそれぞれの理由で普通の人間じゃない。自分の実体に自覚皆無なのはハルヒだけで、他の三人は三人とも自分の正体を頼みもしないのに明かしてくれ、また俺に理解するよう促した。その三つの主張は俺の常識が地球あたりだとすると冥王星軌道の外くらいを回っているような理解不能ぶりだったわけで、しかし俺は先月末に実地を伴った体験によって、どうもそれが事実っぽいことを知らされていた。知りたくもなかったが、いつのまにかハルヒの配下に組み入れられて以来、俺の希望が通ったことはほぼないと言っていい。

 単純に言えば、朝比奈さんと長門と古泉がこの学校に存在するのは、ハルヒがいるからなのである。なぜか皆さん、ハルヒになみなみならぬ関心をお持ちのようだ。

 俺にはただのナチュラルハイ女にしか見えないが、そう思っているのは俺だけであって、そんな俺の確信も少々揺らぎつつある昨今である。

 誓って言おう。どうかしているのは俺の頭じゃない。

 世界のほうなのだ。


 そんなこんなで俺は、それぞれに常軌を逸した立場の他の団員とともに土埃舞う運動場で立っているというわけだ。

 練習場所を追い払われた野球部員たちが迷惑そうに俺たちを見ている。当たり前だ。いきなり珍妙な一団が現れたと思うと、首領格の女がセーラー服を翻しながらバットを振りかざして意味不明なことを叫び、あっけに取られているうちに野球部割り当てのグラウンドスペースを占拠され、何が何だか解らないうちに球拾いとボールトス係りになることを命令されてしまったのだから、これが迷惑でなくてなんだろう。

 おまけに俺たちは普通の制服姿で、ナースが一人混じっているような集団なのだ。

「最初は千本ノックね」

 ハルヒの予告通り、ピッチャーズマウンドあたりに横一列になった俺たちに、ノックの雨が降り注いだ。

「ひー」

 朝比奈さんはグローブを頭にかぶってうずくまり、俺はそんな彼女の身体にボールがぶつからないように決死の覚悟で白球に立ち向かう。それにしてもハルヒの打球はほとんど殺人的に鋭い当たりの連発だ。何をやらせても一丁前にこなしやがる。

 古泉はいつもの微笑みを浮かべつつ、けっこう楽しそうにノックをさばいていた。

「いやあ、久しぶりですよ。懐かしいな、この感触」

 ハルヒの乱れ打ちを軽やかなステップで処理しながら、古泉は白い歯を俺に向けた。そんな余裕があるなら、朝比奈さんをかばってやってくれ。

 長門はと見れば、棒立ち状態で正面を向いていた。自分に向かって飛んでくるボールにも委細かまわず、ただ突っ立っている。耳の横数ミリを掠める球にも微動だにしない。たまにラジコンみたいな動きで左手にはめたグローブをゆっくり動かし、直撃コースを取る打球だけをキャッチしてはポトリと落とす。もうちょっと動けよ。それとも動体視力の良さを褒めてやるべきだろうか。

 他人を気にしていたのが悪かったか、イレギュラーバウンドした硬球が俺のグラブを掠め股下を抜き、朝比奈さんの膝小僧を直撃してしまった。不覚。

「わきゃあ!」

 朝比奈ナースバージョンさんは悲鳴を上げて、

「痛いー……ですー」

 しくしく泣き始めた。もう見てられん。

「後を頼む」

 俺は古泉と長門に言い残し、朝比奈さんに介添えして、白線の外に出た。

「こらぁ! どこ行くのよ! キョン! みくるちゃん! 戻りなさぁい!」

「負傷退場だ!」

 ハルヒの制止に手を挙げて、俺は朝比奈さんの腕を取りつつ保健室へ向かった。埃っぽい部室や、荒れたグラウンドより、ナース服が似合うことだけは間違いない。

 片手を目に当てて涙に濡れた瞳を隠していた朝比奈さんは、廊下を歩いている最中にすがりついている相手が俺だと気付いたようで、

「きゃっ!」

 録音しておきたいくらい可愛い声を出しつつ飛び退き、うっすらと赤くなった顔で俺を見上げた。

「キョンくん、だめ、わたしと仲良くしたりなんかしたら……、また……」

 また、どうなるんでしょうね。俺は肩をすくめて、

「朝比奈さん、もう帰っちゃっていいですよ。ハルヒには、足の打撲で全治二日と言っておきます」

「でも……」

「いいんですよ。悪いのはハルヒです。朝比奈さんが気に病む必要はありません」

 手をヒラヒラさせながら俺は言った。朝比奈さんはうつむき加減に俺を上目遣いで見る。涙目が色っぽさ二倍増しだ。

「ありがとう」

 腰砕けそうになる可憐な微笑みを投げかけて、朝比奈さんは名残惜しそうに振り返り振り返り、その場を去った。ハルヒもこの健気さを見習えないもんかね。いい感じになると思うのに。


 グラウンドに戻ると、シートノックはまだ続いていた。呆れたことに、守備についているのは野球部員たちで、古泉と長門はバックネット裏でぼんやり立っている。

 俺に気付いた古泉が快活な笑顔で

「やあ、どうも。お帰りなさい」

「何やってんだ、あいつは」

「見ての通りです。どうも我々では手応えがなかったようでしてね、先ほどからあの調子です」

 まさに広角打法。ハルヒは宣言した通りのポジションに宣言した通りの球を打ち込んでいた。

 俺たち三人はすることもなく、延々とハルヒのナイスバッティングを鑑賞し、このイカレ女がやっとバットを置いて満足そうに額の汗を拭うあたりまで付き合った。古泉が愉快そうに言う。

「驚きですね。本当にちょうど千本ぴったりですよ」

「そんなもん数えているお前のほうが驚きだよ」

「…………」

 無言で長門はきびすを返し、俺もそれに倣った。

「なあ」

 俺は小柄なセーラー服姿の横顔に提案した。

「試合当日だがな、雨を降らせてくれないか。雨天中止になりそうな、デカイやつを」

「できなくはない」

 長門は淡々と歩きながら言った。

「ただし推奨はできない」

「なぜだ?」

「局地的な環境情報の改竄は惑星の生態系に後遺症を発生させる可能性がある」

「後遺症って、どれくらい後だ」

「数百年から一万年」

 えらく遠大な話だな。

「じゃ、やめといたほうがいいな」

「いい」

 五ミリほどうなずいて、長門は決まり切った歩調で歩き続けた。

 背後を振り返ると、ハルヒは制服のままマウンドに上がって、投げ込みを開始しているところだった。


 二日後。日曜日。午前八時ちょうど。

 俺たちは市営グラウンドに集合した。陸上競技場に隣接する野球場は合計二つ。一回戦は五イニングまで。夕方までにベスト4を決め、準決勝と決勝は来週の日曜日にやるという二週がかりの大会だ。出場チームは無数だが、どうにも場違いなことに、全員学校のジャージで集まっているのは俺たちのチームくらいであって、他の参加者たちはほとんどがちゃんとした野球のユニフォームを着ていた。関係ないが長門の制服以外の姿を俺はこのとき初めて見た。

 後で聞いたのだが、この草野球大会はけっこうな歴史を持つ(九回目だけど)それなりに真面目なトーナメント戦らしい。だったらハルヒが受付に来た段階で断って欲しかった。

 ちなみに谷口と国木田は電話一本、二つ返事で快諾した。谷口は朝比奈さんと長門目当てで、国木田は「なんか面白そうだね」と参加を決めやがった。、単純な奴らで助かる。

 朝比奈さんが連れてきた助っ人の二年生は鶴屋さんとおっしゃる、かつてのハルヒくらいに髪の長い元気な女の人で俺を見るなり、

「キミがキョンくん? みくるからよっく聞いてるよっ。ふーん。へえーっ」

 などと言って、朝比奈さんをなぜか慌てさせた。何を言われているんだろう、俺。

 そいでもって俺が連れてきた第四の選手は、今、ハルヒとにらめっこをしている。

「キョン、ちょっと来なさい」

 ハルヒは俺を剛腕でもって大会本部テントの脇に連れて行くと、

「何考えてんの、あんた。あんなのに野球やらせる気なの?」

 あんなのとは失礼な。あんなんでも、俺の妹だぞ。

「小学五年生、十歳って自己紹介されたわ。あんたの肉親と思えないほど素直そうな子ね。いいえ、そんなことよりね、リトルリーグ部門ならいいけど、あたしたちが出るのは一般部門なのよ!」

 俺だって何も考えずに妹を連れてきたわけではない。これでも深謀遠慮した結果なのである。俺はこう考えたのだ。実のところ、俺はせっかくに日曜日に朝っぱらから起きだして運動するなんて全然乗り気ではないのである。本日ここまで来てしまったのは不可抗力のたまものだ。ならばせめてこの乗り気のしない時間を一刻も早く終わらせたいと感じるのは当然の心理的働きで、ようはとっとと負けてさっさと帰ってしまえばいいのだ。妹を混ぜなくてもこのメンツならまず一回戦での敗北は確実だが、万が一と言うことがある。こっちを率いているのは誰あろう涼宮ハルヒだからな。まかり間違って優勝でもしてしまったら、また面倒なことになるような気がする。確実に負ける要因を入れておく必要があるだろう。ドシロウトの小学生女子を入れておいたら、これは間違いなく負ける。勝つほうがおかしい。

 ハルヒには言えないが、俺は俺なりに人並みの脳味噌を持っているのである。

「ふん、まあいいわ」

 ハルヒは鼻を鳴らしてそっぽを向き、

「ちょうどいいハンデね。あんまりボロ勝ちしても悪いし」

 どうやら勝つつもりらしい。どうやってだろう。

「ところでだな。まだ打順も守備位置も決めてないんだが、どうするんだ」

「ちゃんと考えてきたわ」

 満面に得意という言葉を浮かび上がらせて、ハルヒはジャージのポケットから紙切れを取り出した。メンバーを今日初めて知ったのに、何を基準に決めたのかと思っていたら、

「これで決めたら文句ないでしょ」

 紙に描いてあるのは八本の線。それが二枚。俺の目には作りかけのアミダクジに見えるが、錯覚か?

「何言ってんの? アミダに決まってるじゃないの。打つ順番と、守るところの二種類ね。それから、あたしはピッチャーで一番だから」

「……おまえが考えたのは、決める方法だけか」

「なに、その顔。なんか不満あんの? 民主的な方法でしょ。古代ギリシャじゃクジ引きで政治家選んでたのよ!」

 古代ギリシャの政治制度と現代日本の草野球の打順を一緒にするな。しかもお前だけ自分の好きなようになってるじゃないか。それのどこが民主的だ。

 ……まあ、いいか。余計に早く負けることができそうだ。さっきルール説明を聞いたところ、十点差が付けばその時点でコールドゲームらしい。今のうちに帰り支度でもしておこう。なんせ、一回戦の相手は去年まで三年連続ディフェンディングチャンピオンの優勝候補筆頭だしな。


 上ヶ原パイレーツ。近所の大学の野球サークルである。どちらかと言えば硬派に属するサークルのようだ。シリアスだった。全員が勝ちにきていた。試合前の簡単な練習でそれが解った。皆さん、気合が入りまくりの大声を出しつつ、バックホームの連携や、ダブルプレーのフォーメーション確認までしている。本格的だ。端的に言うと目の色が違うって奴だ。俺たちは間違った場所に来てしまったんじゃないだろうかと一瞬周囲を見渡して、ここが野球大会開催地である市営グラウンドであることを再確認しなければならなかったほどである。

 負けちまえばいいとは思っていたが、だんだん現実から逃避したくなってきた。相手チームに謝りたくなってくるほど、こっちのチームはしょぼいのだ。

 俺が敵前逃亡の方策を練っていると、ハルヒが一同を整列させて、

「作戦を授けるわ。みんな、あたしの言うとおりにしなさい」

 監督みたいなことを言い出した。

「いい、まず何としてでも塁に出るのよ。出たら、三球目まで盗塁ね。バッターはストライクならヒットを打ってボールなら見逃すの。簡単でしょ? あたしの計算では一回に最低三点は取れるわね」

 ハルヒ頭脳の計算によればそうなるらしいが、この自信の根拠はどこから来るものなのだろう。もちろんどこからも来てなどいない。根拠のない自信を体現した存在、それがこいつなのである。しかし、世間ではそういう奴のことを「バカ」と言うのではないだろうか。そしてこいつはただのバカではない。バカ世界的食物連鎖の頂点に君臨する、バカの女王なのだ。

 アミダクジ神の宣託によって決定した我が『チームSOS団』のスターティングメンバーをお知らせしておこう。

 一番、ピッチャー、涼宮ハルヒ。二番、ライト、朝比奈みくる。三番、センター、長門有希。四番、セカンド、俺。五番、レフト、妹。六番、キャッチャー、古泉一樹。七番、ファースト、国木田。八番、サード、鶴屋さん。九番、ショート、谷口。

 以上である。補欠なし。マネージャーもなし。応援もなし。


 整列して挨拶の後、さっそくハルヒがバッターボックスに入った。ヘルメットの存在をすっかり忘れていた我々は、運営委員会からセコハンの白ヘルを借りていた。自前のものと言えば、ハルヒが人数分持ってきた黄色のメガホンくらいである。

 ツバをついと指で上げ、ハルヒは野球部からパクってきた金属バットを構えながら不敵に微笑んだ。

 プレイボールを審判がコールし、敵チームのピッチャーがワインドアップモーションに入る。

 その第一球目。

 コキン。

 小気味よく金属音が響き、白球がぐんぐん飛距離を稼ぐ。猛バックするセンターの頭上を抜いて、フェンスにワンバウンドで直撃。ボールが内野に返った時、ハルヒはすでにセカンドベースに到達していた。

 別に驚きはしなかった。ハルヒならこれくらいのことはする。朝比奈さんと古泉も同意見だろうし、長門はたぶん驚くという感情がない。だが、俺たち四人以外のメンツは例外なく驚きの表情で、ガッツポーズを繰り返すハルヒを眺めていた。特に敵チームが。

「ピッチャー全然大した球じゃないわよっ! あたしに続きなさい!」

 ハルヒが威勢よく叫んでいる。が、これは完全に逆効果だった。どうやらバッテリーは女だからと言って手加減する気分は早くも絶無になったようだ。

 二番手の朝比奈さんがぶかぶかのヘルメットをかぶって、おずおずという感じでバッターボックスに立つ。

「よ、よろしくお願い----し、ひん!」

 言い終わらないうちにインコース高めに直球が決まった。なんて野郎どもだ。朝比奈さんにデッドボールをかましたら承知せんぞ。即、乱闘だ。

 続く二球目を、朝比奈さんは地蔵と化して見送った。バッターアウトの宣告を受けると、ホッとしたようにベンチに戻ってくる。

「こらーっ! 何でバット振らないのよ!」

 ハルヒが何か言ってるが、放っておけばいい。朝比奈さんが無事で何よりだ。

「…………」

 三番は長門。金属バットの先端を地面に引きずりながら黙々と打席に向かい、

「…………」

 すべての球を見逃して、あっさり三振、また黙々と戻ってくる。そしてネクストバッターボックスの俺に、

「…………」

 メットとバットを手渡し、黙々とベンチに座って、元通りの置き人形になった。

 ハルヒの怒声がやかましい。まあ、朝比奈さんや長門に期待するほうが間違いだ。

「キョン! あんた絶対に打ちなさいよっ! 四番でしょ!」

 クジ引きで決まった四番に期待しないで欲しいものだが。

 俺は長門を見習って、黙って打席に立った。

 一球目は見逃してストライク。これは驚き、やたら速いぞ。ボールが空気を切り裂くシュルシュルシュルなんて音までしてる。何キロ出ているのか知らないが、目にも止まらぬとはこのことだ。実際、投げた、と思ったらもうキャッチャーミットに収まっていた。ハルヒはこんなのを長打にしたのか?

 二球目。とりあえず振ってみた。金属バットは無益に空を斬った。空振り。かすりもしない。かする気もしない。

 三球目。うわ、球が曲がった。カーブというやつか? 見送れば完全にボールになる外角球に手を出してジ・エンド。三者連続三振。スリーアウト、チェンジ。

「アホーっ!」

 敵チームがベンチに戻っていくなか、左中間で手を振り回しながらハルヒが怒鳴っていた。

 面目ない。


 俺たちの守備は、はっきり言ってサバンナ地帯の蟻塚以上に穴だらけだった。

 特に外野がひどい。ライトの朝比奈さんとレフトの俺の妹はフライが上がったら最後、まず取れない。試合前の守備練習でそれが解った。なので、ライトに球が飛んだらセカンドの俺が、レフトはショートの谷口が、全力で走って球の落ちるところまで行かねばならない。朝比奈さんはボールが自分めがけて飛んでくるのを見るや、グローブを頭に載せてしゃがみ込んでしまうのだからしかたがないし、妹のほうは、嬉しそうに走ってボールを追いかけるものの、その三メートル横に球が落ちたりして、これまたどうしようもない。

 センターの長門は捕球は完璧だが、自分の守備範囲に飛んできたものにしか反応せず、しかもいちいち動作が緩慢なので、ライナーで横を抜かれると二塁打は堅い。

 …………すみやかに負けて帰ろう。それがいい。

「しまっていこーっ! おーっ!」

 ハルヒが一人で気合を入れている。その球を受けることになったキャッチャーの古泉が付けているプロテクタやレガース、ミットもまた借り物であることは言うまでもない。

 相手チームの一番打者が審判に一礼してバッターボックスへ。

 ハルヒはオーバースローから一球目を投じた。

 ストライク。

 キレ、スピード、コントロールともに申し分のない見事なストレート。完全にど真ん中だったが、バッターのバットをピクリとも動かせない迫力に満ちた本格的な球だった。

 もちろん、俺以下、SOS団のメンバーは驚かない。こいつがサッカー日本代表に突然指名されたところで驚きやしないだろう。ハルヒなら何を可能にしても不思議ではない。

 しかし相手チームの一番打者はそうはいかなかったようで、続く二球目も茫然として手を出せず、三球目にようやくバットを振ったが、あえなく三振。どうもバッターの手元で微妙に変化するクセ球のようだった。ハルヒの性格同様、タチが悪い。

 凡退した一番手にアドバイスを受けた二番打者は、バットを短く持って当てにくる構えだ。しかし二球ファールしたあげく、これまた空振り三振。

 これには俺も不安になってきた。この調子で最終回までいくんじゃないだろうな。が、さすがはクリンナップの一角、三番手の打棒がハルヒ渾身のストレートをジャストミートした。いくらなんでもストライクゾーンに直球しか投げなければ打たれるだろ。

 突っ立ったままピクリとも動かない長門の遥か上空をボールは越え、場外へと消えた。

 内野を一周する敵の三番手を、ハルヒはまるでイアソンに裏切られた王女メデイアのような目で見つめていた。

 ともかく、これで一点のビハインド。


 続く四番に二塁打を許し、五番が国木田のエラーで一、二塁、六番にはライト前に落ちるテキサスヒットで二点を献上、七番が放った三塁線強襲の当たりを鶴屋さんが軽快にすくい上げ矢のような送球、バッターランナーをアウトにして、やっとチェンジ。

 一イニングが終わって2-0。意外に苦戦している。善戦などしてもらっては困るのだが。早いとこ十点取ってもらって直帰と行こう。


 こちらの五番から七番、妹、古泉、国木田は順調に三者凡退し、落ち着くヒマもなく二回の裏の守備が始まった。

 敵は、我がチームSOS団のウィークポイントが外野にあると見抜いたようだ。あからさまなアッパースイングで打ち上げることだけを狙ってきた。その度に俺と谷口はひたすら外野へダッシュして捕球を試みるのだが、成功率は十%くらいのもんで、しかも異様に疲れる。ま、朝比奈さんの窮地を救うためならこれくらいは軽いもんさ。脅えて丸くなっている朝比奈さんは、これはこれでとても可愛いからな。

 そんなこんなで結局、この回は五点取られた。7-0。あと三点だ。次の回で終わりにできるだろ。


 三回の表。こちらの攻撃。

 長い髪を後ろで束ねた鶴屋さんがファールで粘っている。運動神経のいい人のようだったが、ついにはキャッチャーフライを打ち上げて、バットでメットをこんこん叩きながら、

「むずいわねーっ、バットに当てるだけで精一杯」

 それを見ながらハルヒが眉を寄せ何かを考える風情だが、こいつが考えることは大方ロクでもないことに決まっている。

「ふうん。やはりアレが必要のようね……」

 ハルヒは口を尖らせて、おもむろに審判へこう言った。

「ちょっとタイム!」

 それから、メガホンを手に行儀よく座っていた朝比奈さんの首根っこをつかむと、

「ひっ!」

 小柄なジャージ姿をずるずる引きずり、ベンチ裏へと消えた。朝比奈さんと一緒にボストンバッグを手に持っていたが、その中に何が入っていたのかは、ほどなくあきらかとなった。

「ちょちょっと……! 涼宮さんっ! やっやめっ……てぇ!」

 朝比奈さんの可愛い悲鳴が切れ切れに聞こえると同時に、

「ほら、さっさと脱いで! 着替えるのよ!」

 ハルヒの居丈高な声が風に乗って運ばれてきたからだ。またこのパターンか。

 果たして、再び登場した朝比奈さんは、これ以上なくこの場にふさわしい衣装を身につけさせられていた。鮮やかなブルーとホワイトを基調としたツートンカラーのノースリーブにミニプリーツ。両手には黄色のポンポン。

 完璧なまでのチアリーダーだ。こんな衣装をどこから持ってきたんだろう。謎だ。

「似合うなあ」

 国木田が呑気な感想を漏らし、

「みくるー、写真撮ってもいいー?」

 ケラケラ笑いながら鶴屋さんがデジカメを取り出した。

 ついでに言うと、ハルヒも同じ衣装を着ていた。自分一人で着ればいいのに……とは俺は思わなかった。朝比奈さんのチアガール姿は、はっきりいって物凄く可愛かったからだ。何着ても可愛いんだけどね。

「ポニーテールのほうがいいかしら」

 ハルヒは朝比奈さんの髪を撫でながら後ろでまとめようとして、俺の視線に気付き口をアヒルみたいにした。ポニー中止。

「さ、応援しなさい」

「えええ、どどうやってですか……?」

「こうやってよ」

 ハルヒは朝比奈さんの背後に回ると、華奢な白い腕を取って、かんかんのうよろしく両手を上下させ始めた。まるで不思議な踊りだな。耳元でハルヒが「言え、言いなさい!」とか何事かを大声で囁いている。

「ひいいー、皆さん、打ってくださぁい! お願いだからーがんばってえぇー!」

 ファルセットで叫ばされている朝比奈さんだった。少なくとも谷口だけは頑張る気分になったようで、ネクストバッターボックスで無闇に素振りをしているが、いくら気合を入れたところで相手ピッチャーの球を打てるとは思えない。

 案の定、谷口はすぐにすごすごとベンチまで戻ってきて、

「ありゃあ、打てねえな」

 こうして打順が一巡、再びハルヒがバッターとして立った。

 チアリーダー姿のままで。


 以前、ハルヒと朝比奈さんがバニーガールの扮装で並んでいたときも目に悪い光景だったが、これまたインパクト的に似たり寄ったりだ。

 現に相手バッテリーはどこを見ていいものやら困り果てている。朝比奈さんは何もかもが良いが、ハルヒは性格以外のものがほとんど良いのだ。ツラとスタイルも。

 突如としてコントロールを乱したピッチャーの、甘く入ってきた棒球をハルヒは見逃さない。またしてもセンターを抜くスタンディングダブル。送球が乱れる間に、三塁まで陥れた。ハルヒにスライディングされた三塁手の視線の先が気になるところだ。

 そして次のバッターはハルヒを凌駕する魅惑の美少女チアガールなのである。おどおどとバットを構える朝比奈さん。幾多の男ども(俺含む)の視線を浴びて、羞恥のあまりほんのり上気している。いい。

 すっかりヘロヘロ球しか投げられなくなった相手投手だが、やはりと言うか、それでも朝比奈さんは打てない。わざわざ打ち頃の球を山なりで投げてくれるっていうのに、

「えい!」

 バットを振るときに目をつぶっているんだから、当たるものも当たらないだろう。

 そうこうしているうちにツーストライクまで追い込まれ、すると三塁ベース上で、ハルヒが両手をバタバタさせ始めた。何やってんだ、ありゃ?

「どうやらブロックサインを出しているようですね」

 古泉が悠然と解説する。

「サインなんか決めてたか?」

「いいえ。ですが、この状況で涼宮さんが選択しようなサインプレーはだいたい想像がつきますよ。あれは多分、スクイズをせよと言ってるんでしょう」

「ツーアウトからスリーバンドスクイズのサインか? どこかの永世監督でももうちょっとましな采配をするぞ」

「察するに、朝比奈さんがヒットを打つ可能性はほとんどゼロですから、まさかするわけないスクイズをして相手チームの意表をつけば、ひょっとしたら内野手がエラーをするかもしれず、また朝比奈さんでもバットになんとかボールを当てるくらいなら出来るだろうと思ったのではないですか」

「完全に読まれているけどな」

 内野手全員、前がかりの守備位置についてスタートダッシュの体勢である。ハルヒのジェスチャーに問題があるんじゃないだろうか。あれはどう見てもバントの動作だ。

 果たして、スクイズは失敗に終わった。そもそも朝比奈さんはスクイズとは何かを知らなかったようで、ハルヒのモロバレなジェスチャースクイズにも「え? え?」と首を傾げているうちに見逃しの三振、スリーアウトチェンジ。

 飼い主に怒られることを覚悟した子犬のように、しおしお戻ってくる朝比奈さんをハルヒは呼び止めた。

「みくるちゃん、ちょっとこっちに来て、歯を食いしばりなさい」

「ひぃえぇ……」

 ハルヒは朝比奈さんの震えるほっぺたを両手でつまむと、びよんと引っ張り、

「罰よ、罰。みんなにこの面白い顔を見てもらうがいいのよ!」

「やへへぇ……ひはいへぇ……」

「アホか」

 俺はメガホンでハルヒの頭を叩き、

「意味不明なサインを出すお前が悪い。一人でホームスチールでも何でもしろ、バカ」


 その時だった。

 ぴろりろぴろりろ。古泉がジャージのポケットから携帯を出して液晶ディスプレイを眺め、片方の眉を上げた。

 朝比奈さんはびっくりする顔で、左耳を手で押さえて遠くの方を見る目つき。

 長門は、真っ直ぐに真上を見上げた。

 守備位置に散る間際、古泉が俺を呼び止めて、

「まずいことになりましたよ」

 聞きたくもなかったが、言ってみろ。

「閉鎖空間が発生し始めました。これまでにない規模だそうですよ。ものすごい速度で拡大しているとのことです」

 閉鎖空間。

 俺もすでにお馴染みの灰色の世界。忘れるもんか、あの薄暗い空間に閉じこめられたおかげで、俺は一生もんのトラウマを背負うことになったんだからな。

 古泉は微笑みを崩さずに、

「つまりこういうことです。閉鎖空間は涼宮さんの無意識的ストレスによって発生します。そして今の涼宮さんは非常に不機嫌です。ゆえに閉鎖空間は発生し、彼女の機嫌が直らない限り拡大し続け、あなたもよくご存知の『神人』も暴れ続ける、と、そういうことですね」

「……つーことは、ハルヒは、野球に負けているから、という理由でヘソを曲げているわけか。あのアホみたいな空間を作ってしまうくらいに?」

「そのようです」

「子供か、あいつは!」

 古泉はコメントしなかった。ただ、薄く笑っただけである。俺はため息をつく。

「でたらめだな」

 そう言った俺を眺めて古泉は、

「何を今更言ってるんですか、それも人ごとのように。大いにあなたが関わっている、これは事件なのですよ。打順を決める際、我々はクジを引きましたね?」

「確かにアミダクジで決めたからな。それがどうした」

「その結果、あなたは四番になった」

「別に嬉しくもないぞ」

「あなたが嬉しかろうがプレッシャーを感じようが、それは涼宮さんにはどうでもいいことです。問題なのは、あなたが四番を引いたという事実なのです」

「解るように喋ってくれ」

「簡単なことです。涼宮さんがそう望んだから、あなたは四番バッターになったのですよ。これは偶然ではありません。彼女はあなたに四番の働きをしてもらいたいと考えているのです。そして、あなたがまったく四番らしからぬことに失望を感じている」

「悪かったな」

「ええ、僕も困っています。このままでは涼宮さんの機嫌は悪くなる一方、閉鎖空間もまた増え続けるという筋書きです」

「……で、俺はどうすればいいんだ」

「打って下さい。できれば長打、ホームランなら最高でしょう。それもどでかいヤツを。バックスクリーン直撃弾で手を打ちますがいかがです?」

「無茶を言うな。ホームランなんかゲームでしか打ったことないぞ。あんな曲がる球を打てるわけないだろうが」

「そこをなんとかしていただきたい、と我々一同、切に願う所存ですよ」

 願われたところで俺はランプの精でも猿の手でもないのだからどうしようもないだろ。

「この回でコールドゲームにならないように、全力を尽くしましょう。ここで試合が終わるようなことがあれば、世界が終わってしまうことと同義です。なんとしてでも二点以内に収めなければね」

 セリフの割には危機感のない顔つきで、古泉はそう言った。


 三回裏。ハルヒはそのままの衣装でマウンドに登った。当然、朝比奈さんもチアの恰好でライトにいる。

 剥き出しの手足を惜しげもなくさらけ出し、ハルヒはランナーがいてもいなくても変わりないワンドアップ投法で球を投げるのだった。

 最初の打者のライナー性の当たりは、たまたま長門の正面をついてアウト、しかし二人目の大フライには見向きもせず、左中間を転々と転がる間にスリーベース。カッカ来ているらしいハルヒの投じる球は相変わらずの球威だったが、直球オンリーではそりゃ打たれるわな。さすが優勝候補。この後、ヒット二本と国木田のフィルダースチョイスであっさり二点を追加され、もはや絶体絶命である。しかもランナーは一、二塁。あと一点で試合は強制終了。そして世界はどうなるのか解らない。

 カン。白球が舞い上がる。ライト方向に。落下予測地点では朝比奈さんがおろおろしている。考えているヒマはない。俺は何度目かの全力疾走で右翼へと駆ける。間に合え!

 ダイビング、そしてキャッチ。グラブの先端にかろうじてボールが引っかかっている。

「おりゃ!」

 そのまま二塁ベースカバーに入った谷口に全力投球、てっきり長打になるものと思い込んでいたランナー二人は、タッチアップも待たずに次の塁をすでに回り終えていた。捕球した谷口がベースを踏んで、アウト。ダブルプレー。

 なんとか首は繋がった。ああ疲れた。

「ナイスプレー!」

 朝比奈さんの賞賛の眼差しを受けつつ、谷口と国木田と妹と鶴屋さんが俺の頭をグラブで叩きまくるのにピースサインを返しながら、ハルヒのほうを窺うと、奴は難しい顔をしてスコアボード(と言っても移動式のホワイトボードだが)をにらみつけていた。

 ベンチに座り込んでタオルをかぶった俺の横に古泉が来て、

「さっきの続きですが」

 あんまり聞きたくないな。

「実は対症療法はあります。あなたが前回、涼宮さんとともにあちらの世界に行ったとき、どうやって戻ってきましたか?」

 だからそれを思い出させるな。

「あの手を使えば、ひょっとしたらうまくいくかもしれません」

「断る」

 くくく、と古泉は喉を鳴らした。なんか腹立つぞ、お前。

「そう言うと思っていました。ではこうしましょう。ようは勝ちさえすればいいのです。妙案を思いつきましたよ。たぶん、うまくいくと思います。彼女とは利害が一致するはずですから」

 にこやかに言って古泉は、ぼーっと白い円の中で佇んでいる長門の方へと向かった。動くものと言えば微風に揺れるショートヘアだけの長門の耳に何かを囁きかけるふうである。不意に、長門はするりと振り返り、俺を無感動な目つきでじっと見つめた。

 あれは、うなずいたのか? 頭を支える釣り糸が切れた人形みたいに顔がかくんと上下して、てくてくと打席へ。

 ひょいと左横を見ると、今度は朝比奈さんが長門を凝視している。

「長門さん……、とうとう……」

 少しばかり青い顔で気になることを言った。

「あいつがどうかしましたか?」

「長門さん、呪文を唱えているみたい」

「呪文? 何ですか、それ」

「えーと……禁則事項です」

 ごめんなさい、と朝比奈さんは頭を下げた。いやいいです、禁則事項ならしかたないっすよねえ。はあ、どうやらまた例の非現実的なことが始まろうとしているようだ。

 長門の呪文とやらに、俺は思い当たるふしがあった。

 やたら暑かった五月の夕暮れ。あの日の教室に長門が乱入してこなければ、確実に今頃の俺は墓の下で惰眠中だ。その時も長門は凄まじい早口で呪文みたいなものを呟きながら、俺を殺そうとした襲撃者を撃退したのだった。そう言えばその頃の長門は眼鏡っ娘だったな。

 今度はいったい何をするつもりなんだろうか。

 すぐに解った。

 バット一閃、ホームラン。

 ろくに力を入れず振ったとしか思えない長門のバットは、ピッチャーの剛球を真芯で捕らえ、高々と宙を舞わせたあげく外野フェンスの向こうへと消えせしめた。

 俺は仲間たちへと視線を向けた。古泉は優雅に微笑みながら俺に会釈を返し、朝比奈さんは少しばかり硬い表情で、でも驚いてはいない。妹と鶴屋さんは無邪気にも「すごいねーっ」などと感心している。

 が、その他の連中は総員口ポカン状態だった。もちろん相手チームもな。

 小躍りしながらホームベース付近に駆け寄ったハルヒは、淡々とダイアモンドを一周してきた長門のメットをばんばん叩きながら、

「すごいじゃないの! どこにそんな力があるの?」

 長門の細腕を取って折ったり曲げたりさせている。無表情に、されるがままになっている長門だった。

 やがてベンチまで歩いてきた長門は、俺にバットを手渡して、

「それ」

 使い古しの金属バットを指差し、

「属性情報をブースト変更」と言った。

「なにそれ?」と俺。長門はしばらくじっと俺を見つめながら、

「ホーミングモード」

 それだけ言って、すたすたベンチに帰ると、隅っこのほうに座って足元から分厚い本を拾い上げ凝視し始めた。

 現在9-1の四回表。どうやらこれが最後のイニングになりそうだった。


 ピッチャーはショックから抜けきれない表情をして、それでも俺の目からは充分に速い球を投げ込んできた。

 そして俺は長門の言葉の意味を知る。

「おうわっ!」

 バットが勝手に動いた。釣られて俺は腕と肩が泳ぐ。キン。

 当たっただけに思えた俺の打球は、風に乗ったみたいにふらふらとどこまでも飛んでいきスタンドをオーバーし、芝生を越えて第二グラウンドまで飛んでいった。ホームラン。あんぐり。

 なるほど、ホーミングモードね……。

 俺は自動追尾能力と飛距離倍増機能を獲得したらしいバットを放り出すと、せいぜい早足で走り出した。

 二塁を回って顔を上げると、ベンチで両手を振り上げるハルヒと目が合った。すぐにそっぽを向きやがる。お前も妹とか鶴屋さんみたいに喜べ。見たとこ、谷口と国木田は愕然で、朝比奈さんと古泉と長門は黙然で、敵チームのナインは愕然たる面持ちであった。

 非常に申し訳ない気分であるのだが、対戦相手の愕然はさらに続くことになる。

 俺の妹がよろよろと次の打席へ。メットが大きすぎて顔の半分以上が隠れているため真っ直ぐ歩くのも怪しい。俺が用意したこの敗戦用秘密兵器は、第一球目をフルスイングして柵越え弾を放った。つまり、いわゆる一つのホームランというやつだ。

 いくら何でもデタラメ、嘘っぱちにもほどがある。大学生の投げる時速130キロ(推定)の球を、小学五年生のチビ娘がメインスタンドまで運んでしまったのだから、これは現実の出来事とも思えない。

「すごいわ!」

 ハルヒはまったく現実を疑っていなかった。とっとこベースを回ってきた妹を振り回しながら喜色満面、

「素晴らしい才能ね! 将来性充分だわ! あなたならメジャーも狙えるわよ!」

 ぶんぶん回されながら妹はきゃあきゃあと喜んでいる。

 何というか……まあ、これで9-3。


 俺はベンチで頭を抱えていた。

 ホームラン攻勢は依然として続行中だ。現在のスコアは9-7。一イニング七連続ホーマー。おそらく大会史上に残る本塁打記録ではないだろうか。

 大飛球を飛ばして戻ってきた谷口は、

「俺、野球部に入ることにしたぜ。この俺のバッティングセンスがあれば甲子園も夢じゃねえ。なんたって、バットが勝手に球に当たるような気すらするんだぜ!」

 その横で国木田は能天気にも、

「いやぁ、ほんとだねぇ」

 などと和やかに言ってるし、鶴屋さんは妙にしゃちこばっている朝比奈さんの肩を叩きながら大笑いしてるし、とことん単純な奴らで大助かりだ。

「真っ向勝負よ!」

 ハルヒがバットをかざしてそんなことを言っているが、それは本来はピッチャーのセリフなんじゃないのか?

 もう聞き飽きてきたというのに、またコキンという金属音がとどろき、球はバックスクリーンにぶつかって跳ね返った。

 これで9-8。この時までに相手ピッチャーは三人代わっていた。同情されたくはないだろうが、思うことにする。可哀想に。

 打者一巡して朝比奈さん、長門、俺と連続して本塁打を打ちまくり、ついに逆転9-11。十一本連続本塁打。さすがに俺はそろそろどうにかしないとヤバイのではないかと思い始めた。相手チームの視線が、俺たち選手ではなく、このバットに向けられているような気がしてきたからである。魔法のバットか何かと勘違いされているんじゃないだろうか。あながち間違いでもないのだが。

 俺は次打者の妹にバットを渡す前に、ベンチの端で本を読んでいる長門を連れ出した。

「もう充分だ」

 俺は言った。長門は表情のない漆黒の瞳で、いつもは十秒に一回くらいしかしない瞬きを珍しく連続させ、

「そう」

 と、答え、俺が持つバットのグリップエンドに細っこい指を当て、口の中で早口言葉を唱える。聞き取れやしなかったが、聞き取れたところで意味が解るとも思えないのでかまわん。

 すい、と指を離した長門は、そのまま何も言わずにベンチの定位置につき、また本を広げ始める。

 やれやれ。


 妹、古泉、国木田の三人は、今までの打撃が嘘だったみたいにバットを沈黙させて三者連続三振に終わった。実際、インチキだったわけだが。

 忘れていたが、実はこの試合は時間制限があった。一回戦に限れば九十分打ち切りなのである。今日中にそれなりの試合をこなそうとすれば無理もない主催者側の配慮だ。よって、次の回はない。この四回裏を抑えきれば、我々の勝ちとなる。

 いいのか? 勝っちまって。

「勝たなくてはならないでしょう」と古泉。

「仲間からの連絡によりますと、おかげさまで閉鎖空間の拡大は停止の傾向にあるようです。停止しても『神人』はあのままですから、どうやったって処理しなくてはならないのですけどね。それでも増え続けなくて、こちらとしては助かります」

 しかし、ここで逆転されたらサヨナラ負けを喫するぞ。その結果ハルヒの機嫌がどうなるのか、無用な想像力を働かせるほど俺は勤勉ではない。

「そこで提案です」

 古泉は歯ブラシのCMに推薦したくなるほどの白い歯を見せつけながら、俺にその提案とやらを囁いた。

「本気か?」

「えらく本気です。この回を最小失点で切り抜けるには、それしか手は残されていません」

 再び、やれやれ。

 守備位置の変更が審判に伝えられた。

 キャッチャーは古泉に代わって長門。古泉はセンターへ。そして俺は、ハルヒとポジションチェンジしてマウンドに立っていた。

 古泉にピッチャー交代を告げられたハルヒは最初ゴネていたが、リリーフが俺だということを聞いた途端、複雑な顔をして、

「……まあ、いいわ。でも打たれたら全員に昼飯奢りだからね!」

 とか言いつつ、セカンドへ後退した。

 長門は立ったままひたすらぼーっとしているだけだったので、俺と古泉でプロテクタやらフェイスマスクやら付けてやった。こんなダウナー系にキャッチャーやらせて大丈夫か?

 とことこと長門はホームベースの後ろまで歩いて、ぺたんと座り込んだ。

 さて、試合再開だ。時間がないので投球練習も割愛されている。俺はぶっつけでいきなり人生初のピッチャーをしなくてはならない。

 とりあえず、投げてみた。

 ぱすん。

 どうにか届きましたという感じの頼りない球が長門のミットに収まった。ボール。

「まじめにやれーっ!」

 そう叫んでいるのはハルヒだ。俺はいつですこぶる真面目さ。今度はサイドハンドで投げてみよ。

 二投目。すこしは幻惑されて欲しかったのだが、バッターには通用しなかった。俺のヘナチョコストレートに猛然とバットが襲いかかる。しまった、打撃投手並みに打ち頃の球を投げちまった……!

 ぶうん。

「ストライク!」

 審判が高らかに呼ばわった。空振りしたんだからストライクにもなるだろう。ただ、バッターは信じられないというような顔で、長門の手元を見ている。

 気分は解る。そりゃそうだ。俺の軟弱ボールが、バットにぶったたかれる寸前に軌道を変えて三十センチも降下したなら誰でも不信感を覚えていい。

「…………」

 座り込んだままの長門が手首のスナップだけで球を返した。ふわふわと飛んでくる気の抜けたボールを受け取り、俺は投球モーションに入った。

 何回投げてもハーフストレートにしかならない。そして三球目はとんでもない大暴投のすっぽ抜け----の、はずが、数メートル飛んだところで針路修正、明らかに慣性と重力と航空力学を無視した機動で曲がり、加速までして一気にミットを目指し、スパン。いい音がして、長門の小柄な身体が揺らいだ。

 バッターは目を剥いているし、審判もしばらく声を出さなかった。ややあって、

「……ストライク、ツー」

 自信なさそうにコールした。面倒なのでちゃっちゃっと行こう。

 もう俺は適当に投げた。狙いも何もない。力も全然入れていない。にもかかわらず、俺の投げた球は、バッターが見送れば必ずストライクコースに、振りに来たらかすりもせずに変化するのである。

 秘密は俺が投げるたびに何かをブツブツ呟いている長門にある。それはあまりにも秘密なので、俺にすら仕組みが解らない。おそらく以前、俺の命を救ったり教室を再現したりさっきバットをどうにかしたような、何からの情報操作をしているのだろう。

 おかげで、ほとんど扇風機を相手に投げているのも同然である。今日のMVPは長門有希で決定だ。

 あっという間にツーアウト、最後の打者もツーナッシングまで追いつめた。こんなに簡単に俺がストッパーやってていいのだろうか。すまん、上ヶ原パイレーツ。

 いまや真っ青になっているラストバッターに、俺は渾身でもなんでもないひたすら普通の球を投じた。

 軌道修正、ストライクゾーンへ。打者は思いっきりバットを振る。再軌道修正、外角低めへ。バットが空中に残像を残して一回転、三振アウト、ふう、やっと終わっ……てなかった。

「!」

 ボールが転々とバックネット方向へ。調子に乗って曲げすぎたようだ。長門のミットを掠めたホップしてからフォークのように落ちるというミステリアスボール(命名、俺)は、ホームプレートの角にワンバンして、あらぬ方向へと転がっている。

 振り逃げだ。

 最後のチャンスとばかりにバッターは走り出す。しかし長門はミットをそのままの姿勢で固定し、フェイスマスクをかぶった状態で黙々と座り込んでいるだけだ。

「長門! 球を拾って投げろ!」

 指示する俺を無感動に見上げて、長門はゆらゆらと立ち上がり、転がり逃げるボールを追った。とてとてと。降り逃げバッターは一塁を蹴り、二塁を陥れようとしている。

「早くーっ!」

 ハルヒがセカンドベースの上でグラブを振り回してる。

 やっとでボールに追いついた長門は、拾い上げた軟式を海亀の卵でも見るような目つきでじっとみて、それから俺を見た。

「セカンド!」

 俺は自分の真後ろを指差す。そこにハルヒがいて、大声を上げている。長門はミリ単位のうなずきを俺に返して----、

 ビュン。俺の側頭部を白いレーザービームが掠めた。髪の毛何本かが持っていかれる。そのレーザーが、長門が手首の動きだけで放った送球であることに気付いたのは、球がハルヒの手首からグラブを、吹っ飛ばし、グラブに填り込んだままセンターまですっ飛んでいくのを見てからだった。

 ハルヒは自分がさっきまで填めていたグラブが消え失せたことに目を見はり、ランナーのほうはと言うと、セカンド手前で仰天のあまり、コケていた。

 センターの古泉がグラブを拾い上げてボールを取り出し、誰に対しても同じニコニコ顔で歩いてきて俯せ状態の打者走者にタッチして、謝った。

「どうもすみません。我々、少しばかり非常識な存在なんですよ」

 その非常識な存在に俺まで数えられているんじゃないんだろうな、と思いながら、俺は深々と嘆息した。

 試合、終了。

 上ヶ原パイレーツの皆さんは男泣きに泣いておられた。よくは知らんが、後で大学のOBから折檻でも受けるからだろうか。女子小学生が混じっている、女のほうが多いような高校生の素人チームに負けたのがよほど悔しいのか。その両方だろうね。

 一方で、そんな敗者の哀愁をまったく考慮しないハルヒは、はしゃいでいるように見えた。SOS団設立を思いついたあの日と同じくらいの笑顔で、

「このまま優勝して、それから夏の甲子園に乗り込みましょう! 全国制覇も夢ではないわ!」

 というようなことを真面目に叫んでいる。乗り気そうなのは谷口だけだったが。俺は勘弁してくれと思っていたし、高野連だってそう思うだろう。

「ごくろうさまです」

 いつの間にか横に来ていた古泉が、

「ところでこれからどうします? 二回戦もやりますか?」

 俺は首を振った。

「ようするに負けたらハルヒはご機嫌斜めになるわけだろ? てことは勝ち続けなきゃならん。さらに、てことはまた長門のインチキマジックの世話になる必要がある。どう考えたって、これ以上、物理法則を無視していたらマズいだろうよ。棄権しよう」

「それがいいでしょう。実は僕もそろそろ仲間の手伝いに行かなくてはならないんですよ。閉鎖空間を消すためにね。『神人』退治の人手が足りないようでして」

「よろしく言っといてくれ。あの青い奴にも」

「伝えましょう。それにしても今回のことで解りましたが、涼宮さんをあまりヒマにさせておいてはダメのようですね。今後の課題として、検討の余地があります」

 それでは後はよろしく、と言って、古泉は二回戦進出辞退を告げに運営本部テントまで歩き出した。

 やっかいなほうをさり気なく俺に押しつけやがった。しょうがない。

 俺は、朝比奈さんに無理矢理フレンチカンカンを踊らせて自分も踊っているハルヒの背中をつついた。

「なによ、あんたも一緒に踊る?」

「話がある」

 俺はグランドの外にハルヒを連れ出した。存外ハルヒはおとなしくついてきた。

「あれを見ろ」

 俺はベンチでうずくまっている上ヶ原パイレーツの選手たちを示して、

「気の毒だと思わないか?」

「なんで?」

「たぶん、彼らはこの日のために辛く厳しい練習に耐えてきたんだ。四年連続優勝がかかっていたんだからな、相当重圧もあったとこだろう」

「だから?」

「中にはベンチ入りすら出来なくて涙を飲んだ選手もいたに違いない。ええと、ほら、あのネット裏に立っている五分刈のにーちゃんなんかそんな感じだ。なんて気の毒なのだろう。彼にはもう出番がないのだ」

「それで?」

「二回戦は辞退しよう」

 俺はきっぱりと言った。

「充分楽しんだだろう? 俺はお釣りを誰かにやりたいくらいだ。後は飯でも食いながらバカ話でもしているほうがいい。実はもう足とか腕とかはガタガタのボロボロなんだ」

 それは本当だ。内外野を行ったり来たりしていたせいで、実にもうヘトヘトなのである。精神的にもな。

 ハルヒは得意の表情、拗ねたペリカンのような表情になって、俺を上目で黙って見続けた。俺が落ち着かない気分になりかけたとき、

「あんたは、それでいいの?」

 いいともさ。朝比奈さんも古泉も、おそらく長門もそう思っていることだろう。妹はさっきから素振りの練習をしているが、あいつは飴玉一個でバットを投げ出すさ。

「ふうん」

 ハルヒは俺とグラウンドを交互に見ながら、しばらく考えて、あるいは考えるフリをして、ニヤリと笑った。

「ま、いいわ。お腹空いたし。お昼ご飯に行きましょう。あたし思うんだけど、野球ってすごく簡単なスポーツだったのね。こんなにあっさり勝てるなんて思ってもなかったわ」

 そうかい。

 俺は反論せず、ただ肩をすくめた。


 相手チームのキャプテンは二回戦進出の権利を譲渡すると申し出たとき、涙ながらに感謝してくれた。それを見て俺はまた申しわけなく思う。こちとら、かなり無理なイカサマで勝ちを盗んでしまったからな。

 そそくさと立ち去ろうとした俺を、そのキャプテンは呼び止めて、耳元でこう囁いた。

「ところで、キミたちの使っていたバット、いくらでなら譲ってくれる?」


 というわけで古泉を除いた俺たちは今、ファミレスの一角を占拠して飯を食っている最中だ。

 妹はすっかりハルヒと朝比奈さんに懐いてしまい、二人の間で危なっかしくナイフをハンバーグに突き刺している。谷口は国木田と真剣に野球部に入ることを相談しているが、まあ好きにすればいい。鶴屋さんの興味は今度は長門に向いたみたいで、「あなたが長門有希ちゃん? みくるからよっく聞いてるよっ」とか話しかけて黙々とBLTサンドを頬張る無口な下級生に無視されている。

 みんな頼みすぎなくらいに注文しているが、それもそのはず、ここでの払いは俺の奢りになっていた。

 素晴らしい名案を思いついたみたいな口調で、ハルヒがそう宣言したからである。なんでそんなことをハルヒが思いついたのかはさっぱり解らない。こいつの思考がトレースできたためしもないから、いちいち俺は驚きはしないし、面倒なので抗議もしなかった。それどころか、晴れやかな気分ですらあった。

 なぜなら、どういうわけか俺のポケットには、けっこうな臨時収入があったからである。

 上ヶ原パイレーツの健闘を祈りたい。


 数日後のことになる。

 放課後、俺たちはまた部室棟の一室で、いつものようにノーマルな日常を送っていた。

 メイド衣装の朝比奈さんが淹れてくれた玄米茶を飲みながら、俺は古泉相手にオセロをしていて、その横では長門が図書館から借りてきたらしい分厚い辞典みたいな哲学書を読みふけっている。ちなみに朝比奈さんの今日のいでたちは俺の要望によるものだ。ナースよりはメイドさんに給仕されるのがいいだろ、やっぱり。その朝比奈さんは盆を抱えて俺たちの対戦を目を細めて観戦している。

 ここしばらく変わりない、いつもの俺たちの風景である。

 そして雄大な黄河の流れのように悠然たる一時を、ぶちこわしにするのはいつも涼宮ハルヒだった。

「遅れてごっめーん!」

 意味もなく謝りながら、ハルヒが冬場の隙間風のように飛び込んできた。

 その顔面全体を覆うスマイル状の仮面が不気味だ。こいつがこんないい顔で笑い出すと、なぜか俺が疲れるカラクリになっているのである。不思議な世界だな、ここは。

 予想通り、ハルヒはまたまた唐変木なことを言い出した。

「どっちがいい?」

 俺はオセロの黒石をパチリと置いて、古泉の白石を二枚ひっくり返し、

「どっちとは?」

「これ」

 ハルヒが差し出した二枚の紙切れを、不承不承受け取った。

 またしてもチラシだった。見比べる。一つは草サッカー大会のお知らせで、一つは草アメリカンフットボール大会のお知らせだ。こんなもんを印刷した業者を真剣に呪うね、俺は。

「ホントはね、野球じゃなくてこの二つのどちらかにしようと思ってたのよ。でも野球のほうが日程が早かったからね。で、キョン、どっちがいい?」

 俺は暗澹たる思いに駆られて部室に視線を彷徨わせた。古泉は微笑苦を浮かべてオセロの石を指で弾き、朝比奈さんは泣きそうな顔でふるふると首を横に振っていて、長門は面を書物に伏せたまま動くのは指だけだ。

「でさ、サッカーとアメフトって何人でやるスポーツ? この前の連中だけで足りる?」

 ハルヒのハレーションを起こしそうに明るい笑顔を眺めながら、俺はどっちのほうが選手が少なくてすむのだろうかと考えていた。

 

笹の葉ラプソディ

 

 そう言えば五月もやたら暑かったが七月の今日も輪を掛けたように暑くて、しかも湿気も格段に向上しており俺の不快指数をいたずらにあおっていた。この高校の安っぽい校舎はエアコンなどという上等な機能とは無縁である。一年五組の教室内はアメニティの概念を設計者が持っていなかったとしか思えないような温熱地獄への待合室となっていた。

 付け加えると今週は期末テストを間際に控えた七月の一週目で、俺の中の愉快な気分はブラジルあたりを彷徨って当分戻ってきそうにない。

 中間テストも散々だったが、このまま行くと期末もまともな結果を迎えるとは言い難く、それは俺がSOS団の活動にかまけすぎて学業に専念できないからに違いない。そんなもんにかまけたくもないのだが、ハルヒが何か言い出すたびに意味もなくアチラコチラをうろちょろしなければならなくなってしまうという法則がこの春から俺の日常となりつつあって、そんな日々に段々慣れ始めている自分がちょっとイヤだ。

 その西日射す教室での休み時間である。真後ろの席にいた女が俺の背中をシャープペンでつついた。

「今日は何の日か知ってる?」

 クリスマスイブ前夜の小学生のような顔で涼宮ハルヒは言った。こいつがこんな感情豊かな表情を浮かべ始めるのは何かロクでもないことを考えているというシグナルである。俺は三秒だけ考えるフリをしてから、

「お前の誕生日か?」

「ちがうわよ」

「朝比奈さんの誕生日」

「ちがーう」

「古泉か長門の誕生日」

「知らないわよ、そんなの」

「ちなみに俺の誕生日は----」

「どうでもいい。あんたって奴は、今日がどんなに大切な日なのか解ってないのね」

 そう言っても、俺にしてみればただ暑い平日でしかないのだが。

「今日は何月何日か、言ってみなさい」

「七月七日。……もしやとは思うが、七夕がどうとか言い出すんじゃないだろうな」

「もちろん言い出すつもりよ。七夕よ七夕。あんたも日本人ならちゃんと覚えていないとダメじゃないの」

 ありゃもともと中国の伝承だし、本来の七夕は旧暦で言えば来月だ。

 ハルヒはシャープペンを俺の顔の前でチッチッと振って、

「紅海からこっちはひっくるめて全部アジアなのよ」

 どういう地理感覚だ。

「W杯の予選だって一緒くたにされているじゃないの。それに七月も八月も似たようなものよ。夏よ夏」

 ああ、そう。

「いいからちゃんと七夕の行事はしなくっちゃね。あたしはこういうイベント事はしっかりやることにしてんの」

 しっかりやるべきことは他にもありそうな気もするけどな。それ以前になぜ俺にわざわざ宣言する必要があるのだろう。お前が何をしようと知ったことではないぞ。

「みんなでやったほうが楽しいからね。今年から七夕は団員全員で盛大にやることにしたのよ」

「勝手に決めるな」

 そう言いながらも、ハルヒの無意味に得意げな顔を眺めていると反論するのもバカらしくなってくる。

 しかして本日の授業が終わり、終業のベルが鳴ると同時にハルヒは教室を飛び出していった。

「部室で待ってないさいよ! 帰っちゃダメよ!」と言い残して。

 言われなくとも部室に行くつもりだった。少なくとも一日一回はお姿を目に入れておきたい方がおられるからな。一人。


 部室棟二階、文芸部に間借りと言うより寄生しているSOS団のアジトには、すでに他の団員たちが揃っていた。

「あ。こんにちは」

 そう言ってにっこり微笑むのは朝比奈みくるさんだった。俺の安らぎの元である。もし彼女がいなければSOS団など、ルー抜きのカレーライス並みの存在価値しかあるまい。

 この七月から朝比奈さんのメイド服はサマーバージョンに衣替えを果たしている。どこからか知らないが衣装を持ってきたのはハルヒで「あ……どうも。ありがとうございます」と、生真面目にも礼を言った朝比奈さんである。今日もSOS団付きのメイドさんとして、かいがいしく俺に玄米茶を淹れてくれた。それを飲みながら室内を見渡す。

「やあ、調子はどうですか」

 長テーブルにチェス盤を置いてプロブレム集を片手に駒をいじっていた古泉一樹が顔を上げて会釈した。

「俺の調子は高校入学以来、狂いっぱなしさ」

 オセロも飽きてきましたからチェスでもやりましょう、などと言って先週あたりに古泉が持ってきたのだが、あいにく俺はルールを知らず、他の誰も知らなかったので一人寂しく詰めチェスをしているのは、テストも近いってのに余裕でいいことだ。

「余裕と言うほどでもないんですけどね。これは勉強の合間の頭の体操ですよ。一問解くたびに脳の血行がよくなります。是非ご一緒にいかがですか?」

 別にいい。俺はこれ以上考えることを増やしたくない。今変なことを覚えるとその記憶ぶん、覚えておかなければならない英単語が脳からまろび出るような気がするからな。

「それは残念。次は人生ゲームか魚雷戦ゲームでも持ってきましょうか。そうですね、みんなでできるやつがいいかな。何がいいと思います?」

 何だっていいし、同時に、何だってよくない。ここはボードゲーム研究会ではなく、SOS団なのだ。ちなみにSOS団の活動方針は俺にだって謎であり、そんな謎の団でいったい何をすればいいのかは未だに解らない。別段解りたくもないし解らないことはしないほうが無難なのだ。ゆえに俺は何をする気にもなれないのである。我ながら完璧なロジックだ。

 古泉は肩をすくめて再びプロブレム問題集に戻った。黒のナイトをちょいとつまみ、盤面の新たな場所に移動させる。

 この古泉の横では、B級アニマトロニクスよりも表情に乏しい長門有希がひたすらに読書をやっていた。この無口で無愛想な宇宙人モドキの趣味趣向はとうとう翻訳小説から原書になったようで、今はタイトルすら読めないヒゲ文字の古くてやたら厚い魔術書みたいなもんを読んでいる。古代エトルニア語か何かで書かれているに違いない。長門なら線型文字Aで書かれている碑文でも平気で読むだろう。

 俺はパイプ椅子を引いて腰を下ろした。すかさず朝比奈さんが目の前に湯飲みを置いてくれた。この暑いのに熱いお茶もなかろう----などと罰当たりなことは決して考えることなく、俺は感謝の気持ちを持って玄米茶をすすった。うーん、熱くて暑い。

 部屋の片隅でハルヒがどこからかギッてきた扇風機が首を振っているが、焼け石に熱湯をかけているくらいの効果しかあげていない。どうせなら職員室から業務用クーラーでもパクってくればいいのに。

 俺は長テーブルではたはたしている英語の教科書から目を逸らすと、パイプ椅子の上で背筋を反らして大きく伸びをした。

 どうせ家に帰っても勉強しないのだから、放課後の部室でやっておこうと試みたものの、やりたくないもんは場所がどこであれ、やりたくないのだ。やりたくもないことをするのは肉体的にも精神的にもよろしかろうはずもない。つまり、やらないほうがよほど健やかな生活を送ることができる。よし、やめ。俺はシャープペンを転がして教科書を閉じて、精神安定剤を眺めることにした。厭世観に囚われた心を癒してくれる俺の精神安定剤は、メイドさんの姿をとってテーブルの向かいで数学の問題集を解いていた。

 真面目な顔で問題集を見つめてはノートにちょこちょこと書き込みをして、物憂げな顔で考え込み、パッと何かを思いついた顔になってはまた鉛筆を走らせる、という行動を繰り返しているその彼女は、もちろん朝比奈みくるさんである。

 見ているだけで和むね。街頭募金に小銭以外の貨幣を投じてもいいくらいの優しい気分になってきた。朝比奈さんは俺が観察しているとも気付かず熱心に数学の勉強にいそしんでいる。動作の一つ一つが微笑ましく、実際に俺は微笑みを浮かべてしまった。アザラシの赤ん坊を見ているような気分。

 目が合った。

「あ。な、なんですか? わたし、何か変なことしてました?」

 朝比奈さんは慌てたように身繕いする。その仕草がまた良くて、俺が何かエンジェリックな修辞を言おうとしたその時、

「やっほーいっ!」

 荒々しく扉が開かれ、ぶしつけな女がどこまでもぶしつけにやって来た。

「めんごめんご。遅れてごめんね」

 謝ることはない。誰も待ってなどいなかったからな。

 ハルヒはぶっとい竹を肩に担いでがさがさ言わせながら登場した。青々と笹の葉の茂った生々しい竹である。こんなもん持ってきて何をするつもりだ。貯金箱でも作るつもりか。

 ハルヒは胸を張って答えた。

「短冊を吊るすに決まっているじゃないの」

 ホワイ、なぜ?

「意味はないけど。久しぶりにやってみたくなったのよ。願いごと吊るし。だって今日は七夕だもんね」

 ……いつもながら本当に意味がないな。

「どこから持ってきたんだ?」

「学校の裏の竹林」

 あそこは確か私有地だぞ。この竹泥棒が。

「別にいいじゃないの。竹は地下で繋がっているんだし、表面の一本くらいなくなってもどうってことないわ。タケノコを盗んだんなら犯罪かもしれないけど。それよりヤブ蚊にさされちゃってカユいのなんの。みくるちゃん、背中にかゆみ止め塗ってくんない?」

「あっ、はいはい!」

 救急箱を手にした朝比奈さんがパタパタを駆け寄る。見習いナースさんのよう。塗り薬のチューブを取り出して、セーラー服の裾からハルヒの背中に手を差し入れた。前屈みになっているハルヒは、

「もうちょっと右……行き過ぎ。あー、そこそこ」

 顎の下を撫でられている子猫のように目を細めていたが、青竹を窓際に立てかけるとハルヒはやおら団長机の上に立ち上がり、どこからともなく短冊を取り出して、実にご機嫌な笑みを浮かべた。

「さあ、願い事を書きなさい」

 ぴくりと長門が顔を上げた。古泉は苦笑を広げ、朝比奈さんは目を丸くしている。藪から棒というか、今回は竹林から笹か。ハルヒはスカートの裾を翻して机から飛び降り、

「ただし条件があるわ」

「何だ」

「キョン、あんた、七夕に願い事を叶えてくれるのって誰か知ってる?」

「織姫か彦星じゃねえの」

「正解、十点。じゃ、織姫と彦星ってどの星のことか解る?」

「知らん」

「ベガとアルタイルでしょう」

 古泉が即答した。

「そう! 八十五点! まさしくその星よ! つまり短冊の願い事はその二つの星に向かって吊るさないといけないの。解る?」

 何が言いたいんだろう。残りの十五点はどこの部分だ?

 えっへん、とハルヒはなぜか偉そうに、

「説明するわ。まず光の速さを超えてどっかにいくことはできません。特殊相対性理論によるとそうなっています」

 いきなり何を言い出すのか。ハルヒはスカートのポケットからノートの切れ端を取り出して、ちらちらとメモを見ながら、

「ちなみに地球からベガとアルタイルまでの距離は、それぞれ約二十五光年と十六光年です。てぇことは、地球から発した情報がどっちかの星に辿り着くまでには二十五年ないし十六年かかるのは当然----よね?」

 だからどうした。それにしてもわざわざそんなことを調べてきたのか?

「だから、どっちかの神様が願い事を読んでくれるのはそれくらいの時間がかかるってことじゃないの。叶えてくれるのもそんくらい後のことになるでしょ? 短冊には今から二十五年後か十六年後くらいの未来に叶えてくれそうなことを書かなきゃならないのよ! 次のクリスマスまでにかっこいい彼氏ができるようにっ! とか書いても間に合わないわ!」

 手を振り回して力説するハルヒ。

「おい、待てよ。往きに二十年くらいかかるんだったら、復路も同じだけの時間がいるだろう。じゃあ願い事の成就は五十年後か三十二年後の話じゃないか?」

「神様だもの。それくらいは何とかしてくれるわよ。年に一度だもの、半額サマーバーゲンよ」

 そういう所だけ都合よく相対論を無視し、

「さ、みんな。話は解ったでしょ。短冊は二種類書くのよ。ベガ宛とアルタイル宛のね。で、二十五年後と十六年後に叶えて欲しい願い事をしなさい」

 無茶なことを言い出した。だいたい二種類も願いをしようという心づもりが図々しい。それに二十五年後や十六年後に自分が何をしてるのかも知れないのに、どんな願いをせよと言うのだろう。せいぜい年金制度や財政投融資が破綻せずにちゃんと機能していますようにとかじゃないだろうか。そんな願いを掛けられて織姫彦星の両人もいい迷惑だろうな。ただでさえ年一でしか会えないのに、そんなもん自国の政治家に何とかしてもらえ、てな気分に、まあ俺ならなるね。

 しかし、いつものようにしなくてもいいことばかりを考えつく奴だ。頭の中にホワイトホールでも入っているんじゃないだろうか。こいつの考える一般常識はいったいどこの宇宙の常識だろう。

「そうとも言えませんね」

 古泉がハルヒの肩を持つようなことを言う。ただし小声で、俺だけに聞こえるように、

「涼宮さんは言動こそエキセントリックですが、ああ見えて常識というものをよく理解していますよ」

 古泉はいつもながら爽やかな微笑を俺に向けつつ、

「もし彼女の思考活動が異常であるならば、この世界がこんなに安定しているわけはありません。もっと変哲な法則の支配する奇妙な世界になっているはずです」

「なんでそんなことが解るんだ」と俺。

「涼宮さんは世界がもっと風変わりになることを望んでいます。そして彼女には世界を再構築できるだけの力もあります。あなたもよくご存知のはずですよ」

 確かにご存知だともさ。疑ってはいるが。

「しかし今のところこの世界はまだまだ理性を失っていません。それは彼女が自分の願望よりも常識を重んじているからなのです」

 幼稚な例題ですが、と古泉は前置きして、

「たとえばサンタクロースがいて欲しいと考えたとします。ですが常識的に考えればサンタさんは存在しませんね。厳重に施錠された深夜の屋敷に侵入し誰にも見咎められることなくプレゼントを置いて姿をくらますなどということは少なくとも現在の日本を舞台とするなら不可能です。聖クロース氏はいったいどうやって子供一人一人の欲しがるものを知るのでしょうか。一晩で全世界の良い子宅を回る時間的余裕もまた然りですよ。物理的にあり得ないことです」

 そんなもん、真面目に考える奴のほうがどうかしている。

「まさにその通りです。ゆえにサンタクロースは存在しないのです」

 反論するのはハルヒの片棒をかつぐみたいで不愉快だったが、俺は疑問を口にする。

「もしそうだとするなら、サンタ同様に宇宙人も未来人も超能力者もいやしないんじゃないのか? なんでお前はここにいるんだ」

「涼宮さんは、だから、自分の中にある常識にイラだっているのだと想像できます。超常現象が頻発するような世界であって欲しいという想いを常識の部分が否定しているのです」

 じゃあ結局あいつは非常識が勝ってるんじゃないか。

「抑圧しきれない想いが僕や朝比奈さんや長門さんのような存在をここに呼び、僕に妙な力を与えたのでしょう。あなたはどうなのかよく解りませんけどね」

 解らなくて結構。少なくとも俺はお前と違って自分が普通の人間であるという自覚に確信を持っているのだ。

 それが幸せなのか不幸なのかは未だに解らないが。

「そこっ! 私語は慎みなさい。いま真面目な話をしてんだからねっ」

 俺と古泉がこしょこしょしてたのが目障りだったのか、ハルヒが目を三角にしながら叫んで、しかたなく俺たちはハルヒが配った短冊と筆ペンを持って席に着いた。

 ハルヒは鼻歌混じりにペンを動かしているが、長門は短冊を見つめたままじっとしていて、朝比奈さんはケーニヒスベクルの橋問題を解こうとするかのように困った顔をしている。古泉は、「さて、悩みますね」と軽やかな口調で言いながら首を傾げていた。三人とも、そんな真剣そうに考えることじゃないだろう。適当にやりすごせばいいのさ。

 ……よもや、本当に書いたもんが実現するとか言わないでくれよ。

 俺は筆ペンを指でくるくる回して視線を横に向けた。ハルヒが伐採してきた竹は、開け放した窓から突き出て葉を逸らしている。ときおり気まぐれに吹く風に揺れてサラリサラリと音を立てているのが涼しげだった。

「ねえ、書けた?」

 ハルヒの声に振り返る。奴の手前のテーブルには次のように書かれた短冊がある。

『世界があたしを中心に回るようにせよ』

『地球の自転を逆回転にして欲しい』

 なんか、躾のなっていないイタイ子供みたいなことを書いてやがる。ウケ狙いならまだいいのだが、笹の葉に短冊を吊るすハルヒの表情はどこまでも真剣だった。

 朝比奈さんは可愛らしくも丁寧な文字で、

『お裁縫がうまくなりますように』

「お料理が上手になりますように』

 実にいじらしいことを依頼していて、朝比奈さんは吊るした短冊を拝むようにして手を合わせて目をつむった。何か勘違いしてるっぽい。

 長門の短冊は味気ない。『調和』『変革』という殺風景な漢字を習字の手本のような楷書で書いたのみである。

 古泉はと言うとこれも長門と似たり寄ったりで、『世界平和』『家内安全』なる四文字熟語を意外に乱暴な筆致で記していた。

 俺? 俺もまたシンプルだ。なんせ二十五年後と十六年後だ。そんときの俺はもうけっこうなオッサンで、たぶん、その頃の俺はこんなことを願っているはずだろうさ。

『金くれ』

『犬を洗えそうな庭付きの一戸建てをよこせ』

「俗物ねえ」

 俺のぶら下げた短冊を見てハルヒが呆れたようにコメントした。こいつにだけは呆れられたくないな。地球逆回転よりは遥かに人生の役に立つだろう。

「ま、いいわ。みんな、ちゃんと書いた内容を覚えておくのよ。いまから十六年後が最初のポイントよ。誰の願いを彦星が叶えてくれるか勝負よ!」

「あ……はい。はい」

 朝比奈さんが真面目な顔でうなずいているのを窺いながら、俺は元いたパイプ椅子に腰を落ち着けた。見ると長門はとっくに読書に戻っている。

 ハルヒは長い笹竹を窓から突きだして固定すると、窓際に椅子を引き寄せて座り込んだ。窓枠に肘を載せ、空を見上げている。その横顔はどことなく憂いの成分が含まれているように感じて俺は少々とまどった。感情の起伏が激しい奴だ。さっきまで叫んでいたのに。

 俺は試験勉強を再開しようと教科書を開き、関係代名詞の種類を覚えようと試みた。

「……十六年か。長いなあ」

 背後でハルヒが小さく呟いた。


 長門は黙々と洋書の直読み、古泉は一人チェスに戻って、俺が英訳の丸暗記をしている間、ハルヒはずっと窓際に座って空を眺めていた。そうやって黙ってじっとしていたら絵にならないこともないのにな。すこしは長門を見習うつもりでも出てきたのかと思ったが、しおらしくしているハルヒは、それはそれで相当に不気味だ。俺たちが困りそうなことを考えているに決まっているだろうからだ。

 とは言え今日ばかりはなぜかハルヒは妙にテンションが低かった。お空を見上げて吐息のようなため息をついていたりする。ますます不気味だ。今静かにしているぶん、反動が怖い。讃岐に流されたばかりの崇徳上皇も最初の二、三日はこんな感じだったに違いない。

 かさり、と紙の擦れる音がして目を上げる。俺の正面で問題集とにらめっこしていた朝比奈さんが、片手の人差し指を唇に当てて右目を閉じ、余った短冊を俺に差し出していた。朝比奈さんはハルヒのほうをチラと窺い、さっと手を引っ込めた。そのままイタズラを成功させた童女のような顔で下を向く。

 俺もまた共犯意識丸出しで、朝比奈さんがくれた短冊をささっと手元に引き寄せて見た。

『部活が終わっても部室に残っていてください☆ みくる☆」

 と、ちまちました字で書いてあった。

 もちろんその通りにするとも。


「今日はこれで帰るわ」

 ハルヒがそう言って、さっさと鞄を手にして部室から出て行った。どうも調子が狂うね。いつもは燃費の悪いディーゼルトラックみたいな奴が、今日はソーラーカー並みの殊勝さだ。今日の俺にとっては好都合だが。

「では僕もこれでおいとましましょう」

 古泉もチェス駒を片づけて立ち上がった。そんで、俺と朝比奈さんに目礼してから文芸部室を後にする。

 長門もぱたんと本を閉じた。おう、お前も追随してくれるか。ありがとう……と俺が感謝の念を抱いていると、長門は猫みたいな音のしない足取りで俺の前までやって来て、

「これ」

 紙切れを差し伸べた。また短冊である。俺に渡されても天の川まで配送できやしないぜ、と思いながら目を落とす。

 意味不明な幾何学模様が描かれていた。なんだこれは、シュメール文字かなんかか? こんなもんエニグマに読み込ませても解読できそうにないぞ。

 俺が眉間にシワを寄せて絵とも文字とも着かない○とか三角とか波状線とかを注視しているうちに、長門は身体を半回転させて帰り支度、そしてすたすたと部室から出て行った。

 まあいい。俺はその短冊をスラックスのポケットにしまい込み、お待たせしましたとばかりに朝比奈さんへと向き直る。

「あ、あのぅ。一緒に行って欲しいところがあるの」

 誰あらん朝比奈さんのお誘いである。断ったりしたらバチが当たる。行こうと言うのなら溶鉱炉の中だって飛び込もうじゃないか。

「いいでしょう。どこに行くんですか?」

「その……ええと……三年前に、です」

 どこへと訊いているのに返ってきたのは、いつ、の話かいな。しかし……。

 三年前。またそれか、という感じだった。だったものの、俺は多大なる興味を引かれた。そういえば朝比奈さんは一応正体不明の自称未来人なのだった。あまりの可愛さにすっかり忘れていたが。しかし三年前? そこに行く? ってことは、つまるところタイムトラベルなのか?

「そう----そう、です」

「いやあ、行くのはやぶさかではありませんが、でも何で俺が? 何しに?」

「それはその……行けば解ります……たぶん」

 なんだそりゃ。

 俺の不審が若干量、顔に出たのだろう。朝比奈さんは慌てたように手をバタつかせたのちに、目を潤ませながら俺を拝んだ。

「お願いです! 今は何も訊かずにうんって言ってください。でないとわたし……その、その、困ります」

「えーと。じゃあ、いいですけど」

「ほんとっ? ありがとう!」

 朝比奈さんは飛び上がらんばかりに喜んで俺の手を握りしめた。いやあ、朝比奈さんの喜びは俺の喜びでもありますよ、はっはっは。

 思い起こせば朝比奈さんが告白したところの「未来から来た」発言は、はっきり言や自己申告でしかない。成長したもう一人の朝比奈さんがいかにもそれっぽく登場したりしたおかげですっかり信じ込んでしまったものの、あれが何らかのトリックである可能性も否定できない。なら、これは朝比奈さん未来人説を補強するうってつけの機会ではないか。

「で、タイムマシンはどこなんですか?」

 机の引出しにでも潜り込めばいいのかと思ったが、そのようなギミックはないのだとおっしゃる。では、どうやって時間を跳躍するのか。朝比奈さんはもじもじとエプロンドレスの前で指を絡ませて、

「ここから行きます」

 え、ここで? 俺は人気の絶えた部室を意味もなく見回した。二人っきりである。

「はい。椅子に座って。目を閉じてくれます? そう、肩の力を抜いて」

 従順に従う俺である。まさか後ろからガツンとはやられないだろう。

「キョンくん……」

 背後から朝比奈さんの潜めた声が耳の後ろにかかる。柔らかい吐息だった。

「ごめんね」

 嫌な予感がして目を開けようとした瞬間、不意の暗転。立ちくらみの強烈な奴が俺の意識を奪い去った。完全なるブラックアウトが訪れる間際、やめときゃよかったかな、とちょっとだけ思った。


 意識が復活したとき、俺の視界は九十度ほど狂っていた。本来ならば縦になっているべきものが横になっていて街灯が左から右に生えているのを見て、ああ俺は今横になっているのだなと考え、すぐに左の側頭部がやけに暖かいことを発見した。

「あ。起きた?」

 天使のような声がして、俺は完全に覚醒した。左耳の下でモゾモゾしているこれは何だろう。

「あの……。そろそろ頭上げてくれないと、わたし、ちょっと……」

 朝比奈さんの困ったような声だ。身体を起こして、俺は自分の位置を確認した。

 夜の公園のベンチの上だ。

 何と言うことだ。俺は、朝比奈さんの膝枕で寝ていたようだった。そして寝ていたが故に、その記憶がないのだった。もったいない。

「もう、脚が痺れちゃってたいへんです」

 朝比奈さんは恥ずかしそうに笑いながらうつむく。どこで着替えたのかメイドさん衣装から北高のセーラー服に早変わりしている。夕方から夜中になっているんだから着替えるヒマはあっただろうが、俺はどんくらい寝てたんだ。というか、なんで寝てたんだ。

「時間跳躍の方法を知られたくないからです。ええと、禁則ですから……。怒った?」

 いやあ全然っすよー。ハルヒのやったことなら殴ってますが、朝比奈さんならオールオッケーです。

 それにしても、さっきの部室の椅子に座って目を閉じたと思ったら、いきなり夜の公園にいるとは。それもこの公園には少々思い出があるぞ。いつぞや長門に呼び出されて来たのもこの公園だった。ここは変わり者たちのメッカなのか?

 俺はバリバリ頭を掻いた。まず訊いておきたいことがある。

「今はいつです?」

 俺の横でベンチにちょこんと腰掛けている朝比奈さんは、

「出発点から三年前の、七月七日です。夜の九時頃かな」

「マジですか?」

「マジです」

 真剣なお顔をなさった。

 えらく簡単に来ちまったもんだよな。しかしその言葉を鵜飼いの鵜のように丸呑みするほど俺は単純じゃないのだ。どこかで確認することが必要だ。117にでも電話するか。

 俺がそう伝えようとすると、不意に左肩が重くなった。びく。俺の肩に朝比奈さんの頭が載っている。くったりした朝比奈さんが身体をもたせかけており、これは何の意思表示であることだろう。

「朝比奈さん?」

 返事はない。

「あのー……」

「すう」

 すう?

 首を前方斜め八十五度くらいひねって見ると、朝比奈さんは目を閉じ唇を半開きにして、くうくう寝息を立てていた。なんだなんだ。

 ガサガサ----。

 突然、背後の植え込みが不自然に揺れて俺の心臓を脅かした。なんだなんだ。

「ちゃんと寝てますか?」

 言いつつ暗い植え込みから出てきたのは……、またしても朝比奈さんだった。

「あ。キョンくん、こんばんは」

 朝比奈さんゴージャスバージョンである。隣で眠る朝比奈さんより何年か年長の、あちこち成長しまくっている朝比奈さんだ。可愛さそのまま、グラマー度に大幅なプラス修正を施した妙齢の美人。前にも一回会ったことがある。あの時と同じ白いブラウスと紺色ミニタイトのコーディネイトで、その朝比奈さんは俺たちの前まで進み出た。

「ふふ。こうして見ると……」

 大人版朝比奈さんは眠り姫朝比奈さんの頬をぷにぷにとつっついて、

「子供みたい」

 朝比奈さん(大)は、手を伸ばして朝比奈さん(小)のまとうセーラー服を懐かしそうに撫でさする。

「この時のわたしはこんなだったの?」

 俺は朝比奈さん(小)の微かな吐息を腕に感じたまま身動きできず朝比奈さん(大)を唖然と見上げるのみである。

「ここまであなたを導いたのはこの子の役目で、これからあなたを導くのはわたしの役目です」

 にこやかにおっしゃる大人の色気朝比奈さんに、俺はアホの子のような口調で、

「あー……。これはいったい……」

「詳しくは説明できません。理由は禁則だから。なのでぇ、わたしはお願いするだけです」

 俺は、俺にもたれてくうくう言っている朝比奈さんへと首を向けた。

「眠らせました。わたしの姿を見られるわけにはいかないので」

「なぜです?」

「だって、わたしが今のこの子の立場だったときに、わたしはわたしに会ってないもの」

 解るような解らないような理屈だ。魅惑の朝比奈さんは片目を閉じて、

「そこにある線路沿いに南に下ると学校があります。公立の中学校ね。その校門前にいる人に協力してあげて。すぐ行ってあげてくれますか? そっちのわたしは、ゴメンですがオンブして行ってください。あまり重くはないと思うけど」

 ロールプレイングゲームの村人みたいなことを言う。見返りにどんなアイテムをくれるんだろう。

「見返り……ですか? そうね、んー」

 大人版朝比奈さんは形のいい顎先に指を当てて考え込み、それから大人っぽく笑う。

「わたしから差し上げられるものはありません。でも、そっちで眠っているわたしにチュウくらいならしちゃってもいいよ。ただし寝ている間にしてね」

 ものすごく魅力的な交換条件だ。揉み手をしたいくらいである。朝比奈さんの寝顔は何かしてしまうたくなるように愛らしい。が

「それはちょっと……」

 心情的にも状況的にもそれは俺の主義に反する次第である。こういうときには理性的な自分の性格がうっとうしくなるね。

「時間です。わたしはもう行かないと」

 今回のアドバイスはそれだけですか。

「あ、それから、わたしのことはこの子には内緒にしておいてください。約束、ね。指切りする?」

 伸ばされた朝比奈さん(大)の小指に、俺は無意識のうちに指を絡めた。一分くらいそうしていただろうか。

「さよならキョンくん。またね」

 明るく言って朝比奈さん(大)は闇の中へと歩き去った。すぐに見えなくなる。今回はやけに簡単に帰っちゃったな。

「さて」と俺は独り言。さっきの大人版朝比奈さんと俺は、どれくらいぶりに再会したのだろうか。前回に奇妙なヒントをくれたときとほとんど変化していないように感じる。ひょっとしたらあの時より以前の彼女だったのかもしれない。解らん。解るはずもない。解るのは、あの雰囲気からして再び違う時代の朝比奈さんとは会うことになりそうだということくらいだった。


 背負った朝比奈さんは軽いわけでもなかったが重いと言うのもアレかというような重量で、自然と俺の足取りも緩やかになる。耳元ですうすう寝息をたてる無邪気な顔がけっこう罪作りだ。吐息のかかる首筋がウズウズしてかなわない。

 俺は通行人の目をはばかるようにして(はばかりようもないが)さくさくと大人版朝比奈さんが示した道筋を辿った。徐々に人通りのまばらなる道を十分ほど歩いたか。ひょいと角を曲がったところに目的地があった。

 東中学校。谷口とハルヒの母校として俺にはお馴染みだ。ついでにお馴染みの人間が校門に張りついていた。いましも鉄製の門によじ登ろうとしているその小柄な人影を、俺は見紛うことがない。

「おい」

 声を掛けてしまってから訝しむ。なぜそいつが誰か解ったのか我ながら不思議だ。後ろ姿だし、背丈も一回りほど小さい。黒いストレートヘアは中途半端に長かった。

 ひとえに夜の学校に校門をよじ登って侵入せんとするような知り合いが他に思いつかなかったせいでもあるのだが。

「なによっ」

 やっと三年ほど過去に来た実感が出てきた。本当の話、俺は過去に来たらしい。

 門にへばりついたまま振り返ったその顔は、俺の知り合いのSOS団団長よりは確実に幼い。しかし間違えようもない目の輝きはどこまでもハルヒ色をしていた。Tシャツに短パンのラフな恰好をしていてもその印象は変わらない。三年前の今、涼宮ハルヒ中学一年生。朝比奈さんが協力しろと言ったのはこいつのことか。

「なに、あんた? 変態? 誘拐犯? 怪しいわね」

 ぼけた街灯の光がわずかに周囲を白く照らしている。細部の表情までは窺い知れないものの中一ハルヒはあからさまに不審人物を見る目になっていた。夜中に学校へと忍び込もうとしている女と、眠りこける少女を背負ってウロウロしている俺とどっちがより怪しいか。あまり考えたくない問題だが。

「おまえこそ、何やってるんだ」

「決まってるじゃないの。不法侵入よ」

 そんな堂々と犯罪行為を宣言されてもな。居直りにもほどがあるぜ。

「ちょうどいいわ。誰だか知らないけどヒマなら手伝いなさいよ。でないと通報するわよ」

 通報したいのはこっちだ。だがしかし、アナザー朝比奈さんとの約束がある。でも何だな、過去に来てまで俺に付きまとうのか、涼宮ハルヒという存在は。

 ハルヒはぴょんと鉄扉の内側に飛び降りて、閂を固定していた南京錠を開けた。何でお前が鍵を持ってるんだ?

「隙を見て盗み出したの。ちょろいもんだわ」

 完璧に泥棒だ。ハルヒは校門の鉄扉をゆっくりとスライドさせて、俺に手招きをした。三年後より頭半分くらい低い背丈に歩みより、俺は朝比奈さんをかつぎ直した。

 東中学は正門入ってすぐがグラウンドになっていて、その向こうに校舎がそびえている。ハルヒは真っ暗なグラウンドを斜めに横切るように歩き始めた。

 暗がりで幸いだった。このぶんでは俺と朝比奈さんの顔もよく見えていまい。三年後のハルヒは、よもや俺と朝比奈さんとに中一時代に会っていたなどとチラリとも考えていないようだったから、そうであってくれないと困る気がする。

 ハルヒは運動場の隅っこまで真っ直ぐ前進すると、体育用具倉庫の裏へ俺を連れて行く。錆だらけのリアカーに車輪付き白線引き、石灰の袋が数個転がっていた。

「夕方に倉庫から出して隠しておいたのよ。いいアイデアでしょ」

 自慢してハルヒは自分の体重くらいありそうな粉袋を荷台に積み込み、取っ手を持ち上げた。リアカーを危なっかしく押している手つきがやけに子供っぽく思えた。中一じゃ子供も同然か。

 俺はこんこんと眠り続ける朝比奈さんを慎重に降ろすと用具倉庫の壁にもたせかけた。しばらくそうしててください。

「代わってやるよ。それよこせ。線引きはお前持て」

 そんな協力態勢を見せたのが悪かったのだろうか。ハルヒは使えるモノは狂ったロボットでも使うといった具合に、俺をこき使った。この性格は昔も今も変化しておらず、おそらく内面的性格も三年の月日では少しも成長しなかったと見える。

「あたしの言うとおりに線引いて。そう、あんたが。あたしは少し離れたところから正しく引けてるか監督しないといけないから。あっ。そこ歪んでるわよ! 何やってんのよ!」

 見ず知らずのはずの高校生に平気で命令する気合いは、やはりどこまでもハルヒらしい。もし俺自身が初対面で、こんな女子中学生に出くわしたら真性のヤバイ奴だと思ったことだろう。

 長門や朝比奈さんや古泉に出会う前だったなら。

 宿直の教師が出てきたり付近の住人の通報を受けたパトカーがやってくることもなく、俺はハルヒ指示のもと、三十分ほどグラウンドを右往左往して白線を引いていった。

 谷口の言っていた突如グラウンドに出現した謎のメッセージが、まさか俺が書いたものだったとはな。

 俺は苦心の末描ききった模様群をしらじらと眺めて黙り込んでいるとハルヒが横にやってきて、白線引きを奪い取った。微調整のように線を加えながら、

「ねえ、あんた。宇宙人、いると思う?」

 突然だな。

「いるんじゃねーの」

 俺は長門の顔を思い浮かべる。

「じゃあ、未来人は?」

「まあ、いてもおかしくはないな」

 今は俺自身が未来人だ。

「超能力者なら?」

「配り歩くほどいるだろうよ」

 無数の赤い光点が脳裏をよぎる。

「異世界人は?」

「それはまだ知り合ってないな」

「ふーん」

 ハルヒは白線引きをがしゃんと投げ出すと、ところどころを粉にまみれさせた顔を肩口で拭って、

「ま、いっか」

 俺は落ち着かない気分になった。もしや、ヘタなことを言ってしまったのではないだろうか。ハルヒは俺を上目づかいに見て

「それ北高の制服よね」

「まあな」

「あんた、名前は?」

「ジョン・スミス」

「……バカじゃないの」

「匿名希望ってことにしといてくれ」

「あの娘は誰?」

「俺の姉ちゃんだ。突発性眠り病にかかっていてな。持病なんだ。所構わず居眠りをするんで、かついで歩いていたのさ」

「ふん」

 信じていない顔でハルヒは下唇を噛んで横を向く。話を逸らそう。

「それで、これはいったい何なんだ」

「見れば解るでしょ。メッセージ」

「どこ宛だ? まさか織姫と彦星宛じゃないだろうな」

 ハルヒは驚いたように、

「どうして解ったの?」

「……まあ、七夕だしな。似たようなことをしている奴に覚えがあっただけさ」

「へえ? ぜひ知り合いになりたいわね。北高にそんな人がいるわけ?」

「まあな」

 こんなことをしようとするのは今でも後でもお前だけさ。

「ふーん。北高ね」

 なにやら思案げにハルヒが呟いて、しばし漬け物石のように沈黙したかと思ったら、いきなりきびすを返した。

「帰るわ。目的は果たしたし。じゃね」 

 すったすったと歩き出す。手伝ってくれてありがとうのセリフもなしか。無礼極まりないが、いかにもハルヒがやりそうなことだ。しかも結局名乗りもしなかったし。俺としてもそっちのほうが助かるね。なんとなく。


 いつまでもこんなところにいるわけにもいかないので、俺は朝比奈さんを起こしにかかった。ハルヒがほったらかしにしたリアカーや石灰を倉庫の裏に戻した後のことだ。

 子猫みたいな寝顔の朝比奈さんは、ついうっかりナニかしてしまいそうなくらい可愛らしかったが、ぐっと堪えて俺は緩やかに上下する肩を揺すった。

「みゅう……。ふぁ。へっ? ……なん」

 目を開けた朝比奈さんは、ひとしきりキョロキョロしたのち、

「ふぇふっ!」

 とか言いながら立ち上がった。

「なななな……なんですかココ、何がどうして今はいつですかっ!」

 何て答えればいいんだろ。俺が脳内で解答を模索していると、朝比奈さんは「あっ」と叫んでよろめいた。暗い中でも白い顔がますます青ざめるのが見て取れる。

 朝比奈さんは身体中を両手で探りながら、

「TPDDが……ありません。ないよう」

 朝比奈さんは泣きそうな顔になって、まもなく本当に泣き出した。目に手を当ててベソをかく彼女の姿は迷子になった幼女のようであったが、微笑ましい気分になっている場合ではなさそうだ。

「TPDDってなんですか?」

「ひくっ。……禁則項目に該当しますが……。タイムマシンみたいなやつです。それを使ってこの時代まで来たのに……どこにもないの。あれがないと、元の時間に帰れないぃ……」

「ええと、何でないんでしょうか」

「解りません……。なくなるはずがないのに……。なくしちゃった」

 彼女の身体を触っていた違う朝比奈さんを思い浮かべた。

「誰かが助けに来てくれたりは----」

「あり得ません。ぅぅぅ」

 涙ぐみつつ朝比奈さんは何やら説明してくれた。時間平面上の既定の出来事はすでに決定しているはずなのでTPDDが存在するならば確実に手元にあり、それがないということはすなわちそれが既定の出来事であるから『無い』のはすでに決定された既定なのである……とかなんとか。なんのこっちゃ。

「つまり、俺たちはどうなるんですか?」

「うっうっうっ。つまり、このままです。わたしたちは、この三年前の時間平面上に取り残されて、元の時空には戻れません」

 そりゃ一大事だな、と胸の内で唱えながらも、俺は今ひとつ緊迫感に欠けていた。大人の朝比奈さんはこの事態に対する警告を何もしていなかった。TPDDとやらを掠め取り、現況を作り出したのはおそらく彼女だ。朝比奈(大)さんはそのために過去に来たのだと俺は推理する。既定事項ね。この朝比奈さんよりさらに未来の朝比奈さんにとってはこれが既定だったんだな。

 俺はしくしく泣いている朝比奈さんに目を転じてグラウンドへと視線を彷徨わせた。ハルヒ考案俺作製の謎の白線がのたくっている。何も知らずにこれを見ることになる明日の東中関係者にはさぞかし不気味なことだろうな。これがどこかの宇宙人に対する罵倒語になってないことを祈るね……などと考えかけた俺の頭に天啓が舞い降りたのはその時だ。

 なにぶん暗かった。校庭は不確かな街灯の明かりがぼんやり照らしているだけだし、描いた白線はとにかくデカくて、離れてみないと全容が解らない。

 だから、気付くのが遅れた。

 俺はポケットを探って長門から渡された短冊を取り出した。そこにある謎の幾何学模様。

「何とかなるかもしれません」

 そう言った俺を朝比奈さんは涙目で見て、俺は短冊を見続ける。

 そこに描かれている文様は、たった今ハルヒと俺が共同で校庭に書き殴った空へのメッセージと同じものだったのだ。


 そそくさと東中を立ち去った俺たちが足を止めたのは、駅前の豪華分譲マンションの前である。

「ここは……長門さんとこ?」

「ええ。いつから地球にいるのか詳しく訊いていませんが、あいつのことですから三年前にもこの世にいたでしょう……たぶんね」

 マンションの玄関口で708号室を呼び出してみた。ぷつん、と音がして、インターホンに誰かが出たことを如実に示す。おどおどする朝比奈さんの手の温もりを袖に感じつつ、俺はマイクに言った。

「長門有希さんのお宅でしょうか」

『…………』とインターホンは応えた。

「あー。何と言ったらいいものか俺にも解らんのだが……」

『…………』

「涼宮ハルヒの知り合いの者だ----って言ったら解るか?」

 電線の向こうで凍り付くような気配がした。しばらく沈黙。そして

『入って』

 カシャンと音を立てて、玄関の鍵が開く。おっかなびっくり状態の朝比奈さんを連れて、俺はエレベータに乗り込んだ。七階へと上昇、目指す部屋はかつて俺が訪れた708号室である。ベルを押してすぐに、だが、ゆっくりと扉が開いた。

 長門有希がそこに立っていた。俺は現実喪失感覚に襲われた。俺と朝比奈さんが過去に跳んできたってのは本当なのか?

 そう思ってしまうほど、長門は何一つ違っていなかった。ちゃんと北高のセーラー服を着て、無表情に俺を見つめる眼差しや、体温や気配を感じさせない無機質な姿も俺の知っている長門とまったく同じものだった。ただ、最近の長門になくて、この目の前の長門にあるものがある。俺がこいつと最初に出会ったときにかけていた眼鏡。

 いつしか眼鏡っ娘でなくなった長門が以前かけていた眼鏡が、この長門の顔に引っかかっていた。

「よお」と俺は片手を上げて愛想笑い。長門は例によっての無表情。朝比奈さんは俺の背後で隠れるようにして震えている。

「入れてもらっていいか?」

「…………」

 無言で長門は部屋の奥へ歩き出した。イエスという意味だと解釈して、俺と朝比奈さんは上がり込ませてもらうことにした。靴を脱いでをリビングへと向かう。三年後と変わらず殺風景な部屋だ。長門は突っ立って、俺たちが入ってくるのを待っていた。しょうがないので俺も立ったまま、事情を説明することにした。どこから話せばいいのかね。ハルヒと出くわした入学式の日のことからかな。それだと長くなるな。

 俺はところどころをはしょりながら、一通りのことを説明した。眼鏡を通して無感情な視線が俺を見つめる中、五分ほど話しただろう。我ながら要領を得ないハルヒ物語のあらすじだと思うけども。

「……で、だ。三年後のお前はこんなもんを俺にくれたんだ」

 俺が提出した短冊を長門は瞬き一つせずに眺めて、奇怪な文字群に指を這わせた。バーコードを読み取っているような動き。

「理解した」

 長門は簡単にうなずいた。本当かよ。いや待て、それより気がかりなことが発生した。

 俺は額に手を当てて考え考え

「俺はとっくに長門と知り合っていたわけだが、三年前……今日のお前……つまり今のお前だ。お前は俺たちと出会うのは今日が初めてなんだよな」

 我ながら何言ってんだかななセリフだ。しかし長門は眼鏡の端を光らせながら答えた。平然と。淡々と。

「そう」

「それでその……」

「異時間同位体の該当メモリアクセス許可申請。時間連結平面帯の可逆性越境情報をダウンロードした」

 何一つとして解らない。

「現時点から三年後の時間平面上に保存する『わたし』と、現時点にいるこの『わたし』は同一人物」

 それがどうした。それはそうだろう。だからと言って、三年前の長門が三年後の長門と記憶を共有しているわけはない。

「今はしている」

 どうやって?

「同期した」

 いや、解らんけど。

 それ以上答えず、長門はゆっくり眼鏡を外した。無感動な瞳が二つ、俺を見上げて瞬きする。それは確かに見慣れた本好き少女の顔だった。俺の覚えている長門有希だ。

「何で北高の制服着てんだ? もう入学してんのか」

「してない。今のわたしは待機モード」

「待機って……あと三年近くも待機しているつもりなのか?」

「そう」

「それはまた……」

 えらく気の長い話だ。退屈じゃないのか? しかし長門は首を横に振る。

「役目だから」

 清浄な瞳は、真っ直ぐに俺に向かっている。

「時間を移動する方法は一種類ではない」

 長門は感情なしの声で喋った。

「TPDDは時空制御の一デバイスでしかない。不確かで原始的。時間連続体の移動プロセスにはさまざまな理論がある」

 朝比奈さんが手を握り直した。

「あのう……それはどういう」

「TPDDを用いた有機情報体の転移には許容範囲であるがノイズが発生する。我々にとってそれは完全なものではない」

 我々ってのは情報思念体のことだろう。

「長門さんは完全な形で時間跳躍できるの?」

「形は必要ではない。同一の情報が往復できさえすれば充分」

 現在過去未来を行ったり来たりね……。

 朝比奈さんにできるのだったら、長門にもできるのかもしれない。たぶん、長門のほうが余計に余分な力を持っているのだろうからな。それどころか長門と古泉を比べても、朝比奈さんは一番物が解っていないのではないかと実は疑い始めている。

「それはいいんだけどさ」

 俺は朝比奈さんと長門の間に割って入った。今はタイムトラベル談義をしている場合ではないだろう。俺と朝比奈さんがどうやったら三年後に帰れるのかが問題だ。

 だが、長門は簡単にうなずいた。

「可能」

 そして立ち上がると、居間の隣の部屋へと続く襖を開けた。

「ここ」

 和室だった。畳敷き。畳以外の何もない殺風景さは長門の部屋らしくて納得だが、こんな客間に通されて俺はどうしたらいいんだ? もしやどこかにタイムマシンでも隠されているのか? などの疑問を感じていると、長門は押入れから布団を取りだして敷き始めたそれも二組。

「まさかとは思うが……。ここで寝ろって言うのか?」

 長門は掛け布団を抱えたまま俺を振り返った。アメジストのような瞳が俺と朝比奈さんを映している。

「そう」

「ここで? 朝比奈さんと? 二人で?」

「そう」

 横目で窺うと、朝比奈さんは及び腰になって、ついでに真っ赤に顔を染めていた。そりゃそうだろうね。

 しかし長門は構うことなく、

「寝て」

 そんな単刀直入な。

「寝るだけ」

 まあ……そのつもりだけど。俺と朝比奈さんはどちらからともなく顔を見合わせた。朝比奈さんは顔を赤くして俺は肩をすくめる。ここは長門にすがるしかない。寝ろと言うなら寝させてもらう。目が覚めたら元通りの世界にいたってことになれば簡単なんだけどな。

 長門は壁際の蛍光灯スイッチに手を掛けて、何事かを呟いた。おやすみではなかったと思いかけた時、パチリと音がして電気が消えた。

 しゃあない寝るか、と布団をかぶった。


 と思ったら、また点いた。パチパチと瞬いて蛍光灯が光量を安定させていく。ん? 何だこの違和感は。窓の外はさっきと同じ暗い夜空。

 上半身を起こすと、朝比奈さんも両手で掛け布団の端を握りしめつつ起きあがった。

 端整な童顔に浮かんでいるのは困惑の表情である。二つの瞳が「?」と俺に問いかけているがもちろん答えられない。

 長門が立っている。さっきと同じ、スイッチに手を掛けた状態で。

 その顔に長門らしからぬ、感情めいたものがあるような気がして、俺はマジマジと白い顔を見やった。何かを伝えたいのに葛藤によって何も言えないでいるような、ずっとこいつの無表情に付き合っている奴でないと判別できないだろう微細な感情だ。俺の気のせいでないという保証もないが。

 隣で空気を吸う音がして、見ると朝比奈さんが右手首に巻いたデジタル腕時計をなにやら操作していた。

「えっ? うそ……! えっ? ほんとうに?」

 俺は彼女の腕時計をかすめ見る。まさかそれがTPDDとやらではあるまいな。

「違います。これはただの電波時計です」

 標準時電波を受信して自動時刻合わせできるやつか。朝比奈さんは嬉しそうに微笑んで、

「よかった。帰って来れました。わたしたちが出発した七月七日……の午後九時半過ぎです。本当によかった……はふ」

 心底安堵し切った声だった。

 戸口で佇む長門はあの長門だった。眼鏡っ娘以前以後で分類するなら確実に以後の、ほんの少し硬さが緩んだ長門有希だ。三年前のこいつに出会ってそれが解った。俺がハルヒに連れて行かれて文芸部室で対面した長門より、目の前の長門は確かに変化を遂げている。たぶんだが、本人にも解らないくらいの。

「でも、どうやって?」

 茫然としている朝比奈さんに、長門は無感動な口調で、

「選択時空間内の流体結合情報を凍結、既知時空間連続体の該当ポイントにおいて凍結を解除した」

 日本語とも思えないことを言い、言葉を句切ってから言い足した。

「それが今」

 立ち上がりかけて朝比奈さんは、くたくたと両膝をついた。

「まさか……。そんな……なんてこと……。長門さん、あなた……」

 長門は黙っている。

「どういうことです?」と俺。

「長門さんは----時を止めたんです。たぶん、この部屋ごとわたしたちの時間を、三年間もの間。そして今日になって時間凍結を解いたのね……?」

「そう」と長門は答えて肯定の仕草をした。

「信じられません。時間を止めるなんて……わわわ」

 朝比奈さんは腰を砕けさせたまま息を吐いた。そして俺は考えた。

 どうやら俺たちは無事に三年後に帰ってきたらしい。朝比奈さんの反応を見る限りそれは確かだ。裏表のない人だからな。それはいい。三年前からもとの時間に帰還を果たした理屈が、時間を止めたってのも----信用しよう。今の俺は何が出てこようともだいたい納得できる包容力を体得している。それもいい。いいことずくめだ----が。

 俺がこの長門宅を訪れたのはこれが初めてではない。一ヶ月あまり前にも招待されて上がり込んだことがある。ただしその時は居間止まりで、この客間には入ってもいないしこんな部屋があるとも知らなかった。だから、えーと、つまりどうなるんだ?

 俺は長門を見た。長門は俺を見ている。

 ----つまり、俺が最初に訪問してこいつの電波話を聞いていたとき、この隣の部屋には別の『俺』が寝ていたのだ。

 なんてこった、そういうことになるじゃないか。

「そう」と長門。俺は眩暈に襲われる。

「……おい。要するに、じゃあお前は、あの時、大概の事情を知っていたんだな? 俺のことも、今日のことも」

「そう」

 俺にしてみれば長門との最初の出会いは、ハルヒがSOS団の樹立を思いついた新緑の季節のあの日だった。だが、長門はそれより早く、三年前の七夕の日に俺に会っていたことになる。それは俺にとってはついさっきの事なのに、もうそれから三年が経過しているのだと言う。頭がおかしくなりそうだ。

 俺と朝比奈さんは仲良く揃って茫然自失の体であった。いつも器用な真似ばかりすると思っていたが、まさか時間まで止めてしまうとは思いもしなかった。無敵じゃないか、それって。

「そうでもない」

 否定の動作。

「今回のは特別。特例。エマージェンシーモード。滅多にない。よほどのことがないと」

 そのよほどのことが、俺たちだったわけだ。

「ありがとよ、長門」

 とりあえず礼を言っておく。それくらいしかやりようがないな。

「別に、いい」

 愛想の欠片もなく長門はうなずいた。そして俺に、あの幾何学模様の短冊を突きつけた。受け取ると、紙の質が歴然と劣化していた。三年くらい放っておけばこんな感じになるだろうというまさにそんな感じ。

「ところでさ。この短冊の模様なんだけど、なんて書いてあるか読めるか?」

 何の気なしに尋ねた。ハルヒのデタラメメッセージが何者かに読めるとは思っていない。だからそれは単なる冗談のはずだった。

「私は、ここにいる」

 長門は答えた。俺は虚をつかれる。

「そう書いてある」

 俺はやや混乱しつつ、

「ひょっとしてだが……その地上絵か記号みたいなの、どっかの宇宙人が使っている言語になってるんじゃないだろうな?」

 長門は、答えなかった。


 長門の部屋を辞した俺と朝比奈さんは、まばらな星が舞う夜空の下を歩いていた。

「朝比奈さん、俺が過去に行くことに何の意味があったんですか?」

 朝比奈さんは懸命に何かを考えているふうであったが、ついと顔を上げると消え入りそうな声で

「ごめんなさい。わたし、その……実は、ええと……よく解っていないんです……。わたしはその、下っ端……いえ、末端……いえ、その研修生のようなもので……」

「その割にはハルヒの近くにいるようですが」

「だって、涼宮さんに捕まってしまうなんて、考えてもみなかったもの」

 ちょっと拗ねたように言う。そんな顔も可愛いですよ、朝比奈さん。

「私は上司というか、上の人というか……その人の命令に従っているだけなの。だから自分でもしていることの意味が解らなかったりするんです」

 恥じるように話す朝比奈さんを見ながら、俺はその上司とやらは大人版朝比奈さんなのではないかと考えていた。根拠はない。未来人の知り合いはノーマル朝比奈さんと彼女しかいないから、なんとなくだ。

「そうですか」

 呟きながら首をひねる。それにしても解らない。あの大人版朝比奈さんは、俺にヒントを教えに来てくれたくらいだから俺たちがこれからどうなるのかを知っているはずだよな。でも、この今の朝比奈さんには何も教えてやっていないようだ。どういうことなんだ。

「うーむ」

 呻吟してみたものの、朝比奈さんに解らんもんがおれに解るわけがない。長門も言っていた。時間移動のプロセスには色々あるとかなんとか。未来人には未来人なりの規則や法則があるのだろうよ。いつか誰か教えてくれるさ。すべてのオチが付くときに。

 朝比奈さんとは駅前で別れた。小さな人影は何度も俺にお辞儀をしながら、名残惜しそうに去っていく。俺も帰路につこうと歩き始めて、その時やっと俺は鞄を部室に置きっぱなしにしていることに気付いた。


 翌日。つまり七月八日だ。俺の意識ではちゃんと翌日なのだが、どうやら俺の肉体的には三年と一日ぶりの学校ということらしい。手ぶらで登校した俺は真っ先に部室へ向かい、自分の鞄を拾い上げてから教室に行った。俺より先に来たんだろう、朝比奈さんの鞄はすでになかった。

 教室にはすでにハルヒがいて、殊勝な顔付きで窓の外を眺めている。いつ宇宙人が舞い降りるかと指折り数えて待っているような雰囲気だ。

「どうした。昨日からやけにメランコリーだな。毒キノコでも拾い食いしたのか?」

 声を掛けて俺が席に着くと、ハルヒはわざとらしく嘆息しやがった。

「別に。思い出し憂鬱よ。七夕の季節にはちょっと思い出があるのよ」

 思わず背筋が寒くなった。が、それは一体何だ----とは、俺は訊かない。

「そうかい」

 ふいっとハルヒはまた雲の観察に向かった。俺は肩をすくめる。爆弾の導火線で火遊びするつもりはない。それが見識ある常識人の行動というものなのさ。


 放課後の文芸部室改SOS団アジトである。

 ハルヒは一言、「笹っ葉、片づけといて。もう用無しだから」と命じて帰っちまった。机の上に投げ出された『団長』と書かれた腕章がうら寂しい。なに、明日になればまた元のイカレ女に戻って俺たちに無道なことを言い出すに決まっている。そういう奴だ、アレは。

 朝比奈さんの姿もない。いるのは長門有希と、俺とチェスの対戦をしている古泉だけだった。熱心に布教活動をする古泉の熱意に負けて一応駒の動かし方だけは教わった。

 オセロでは分が悪いと見てチェスを持ってきたのかと勘ぐったのは早とちりだったようだ。

 古泉はオセロ同様、激しく弱かった。

 俺は古泉のポーンを自分のナイトで取りながら、無表情な顔で興味津々に盤面を覗き込んでいる長門の横顔に目をやって、

「なあ、長門。俺には全然解らないんだが、朝比奈さんはちゃんと未来人なんだよな?」

 長門はゆるりと顔を傾げた。

「そう」

「それにしては、過去に行ったり未来に帰ったりするプロセスにツジツマが合ってないような気がするんだが……」

 そうだとも。過去と未来に連続性がないと言うのなら----俺たちが三年前に行ってそこで眠り続けることで現在に戻ってきたのなら、今俺たちのいる『ここ』は俺たちが出発した『昨日』からの世界とは違う世界のはずだ。しかし結果として俺はハルヒにいらぬ知恵をつけてしまい、どうやらその知恵がハルヒを北高に呼んだり人間以外探しをさせてしまった……可能性がある。それもこれも俺が三年前に行かなかったらああなっていなかったかもしれない。ということは過去と未来にはやはり連続性があるということになる。それは前に聞いた朝比奈さんの説明と矛盾する。俺だってそれくらいの知恵は回るぜ。

「無矛盾な公理的集合論は自己そのものの無矛盾を証明することができないから」

 淡々と長門は言って、それでもう充分だろうというような微妙な表情を作った。お前はそれで充分説明したつもりなのかもしれないが俺にはスッパリと理解できん。長門は白い喉をさらすようにして俺を見上げ、

「そのうち解る」

 と、だけ言い残して定位置に帰って読書を再開する。代わりに古泉が口を開き、

「こういうことですよ。今、僕のキングはあなたのルークによって王手をかけられています。困ったなあ、どこに逃げましょうか」

 言いつつ古泉は黒のキングをつまみ上げると、ひょいと制服の胸ポケットに落とし込んだ。手品師のように両手を広げて、

「さあ、この僕の行動のどこに矛盾があったでしょうか」

 俺は白いルークを指で弄びながら思った。アホみたいな禅問答に付き合うつもりも、抽象的で頭のよさげなことを言って自らの虚栄心を満たすつもりもない。だからそんなことは言わないのさ。

 とにかく----。ハルヒが矛盾の塊であるのは間違いなさそうだ。そしてこの世界もな。

「もっとも我々の場合、キングにたいした値打ちはないのですよ。より重要性があるのは、あくまでクイーンなのでね」

 黒のキングが消え去った升目に俺は白のルークを置く。クイーンナイトの8。

「……次に何が起きるのかは知らんが、もっと頭を使わなそうなことが起きて欲しいもんだな」

 長門は答えず、古泉は微笑んで、

「無事平穏が一番だと思いますが、あなたは何かが起きたほうがいいのですか?」

 俺は鼻を鳴らして勝敗表の自分の名が書かれている欄に○を一つ書き込んだ。

 

ミステリックサイン

 

 予想通り、ハルヒは期末試験期間中にステイタスをメランコリー状態から回復させて、また好き勝手に振る舞うようになっていた。俺はと言えばその反作用で押し出されたブルー色をバトンタッチされたような鬱々真っ盛りだ。答案用紙が配られるたびにどんどん悪化していくような気がするね。この俺の憂鬱を共有できるのは谷口くらいだろう。中間テストでは赤点レーダーに引っかかるかどうかというギリギリ低空ラインを仲良く飛び回った戦友である。人はせめて自分よりアホな奴がいて欲しいよなと思いがちな動物だ。いてくれたら相対的に安心できるからな。絶対的に見ると安心している場合ではないのだが。

 俺の後ろの席でテストを受けていたハルヒは、なぜかいつも時間が余るようで試験終了三十分前にはたいてい机で寝息を立てていた。

 いまいましい。

 テスト期間中にはすべての部活動は中止され、今日あたりに再開されるのが普通なのだが、なぜかSOS団は頼まれたわけでもないのに年中無休で昨日も一昨日も営業していた。学校お仕着せの理論はSOS団的部活動には通用しないようである。当たり前だ、最初の第一歩から間違っている。この謎の団は部活でも何でもないので問題ないのだ。それがハルヒ理論である。

 先日もそうだ。せっかく俺が勉強意欲を限界まで高めたちょうどいいタイミングだったのに、俺はハルヒに袖を引っ張られて部室へと連れて行かれた。

「ちょっとこれを見なさい」

 そう言ってハルヒが俺に示したのは、いつぞや他部から強奪してきたパソコンのディスプレイだった。

 しかたがないので見た。何かわけの解らない落書きをドローイングソフトが表示していた。円の中に酔っぱらったサナダムシがクダを巻いているような絵とも文字とも絵文字ともつかないものである。幼稚園児が描いたとしか思えない。

「なにこれ」

 正直に言った。

 途端、ハルヒはアヒルのような口をして、

「見て解らないの?」

「解らんね。全然解らん。これに比べたら昨日の現国の試験のほうがまだ解るくらいだな」

「何言ってんの? 現国のテスト、すごく簡単だったじゃないの。あんなのあんたの妹でも満点取れるわ」

 実に腹立たしいことを発言し、

「これはね、あたしのSOS団のエンブレムよ」

 と答えて、立派なことを成し遂げた直後のような誇らしげな顔をした。

「エンブレム?」と俺。

「そう。エンブレム」とハルヒ。

「これが? 徹夜明けで休日出勤を二ヶ月連続やって万年係長候補が迎え酒をしながら歩いた跡にしか見えないけどな」

「ちゃんと見なさいよ。ほら、真ん中にSOS団って描いてあるでしょう」

 そう言われてみるとそんな気がしないでもないようなあるようなでも大声では言いかねるくらいには見えないでもないね。さて俺はいくつ否定後を連ねたかな。自分でも数える気がないので誰かヒマな奴が数えてくれ。

「一番ヒマなのはあんたでしょう。どうせ試験勉強もしないくせに」

 さっきまではする気満々だったんだ。が、言われてみれば今は確かにねえな。

「これをSOS団サイトのトップページに載せよう思ってるの」

 そう言えばそんなもんもあった。トップページしかないショボクレサイトだが。

「訪問者が増えないのよ。遺憾を覚えるわ。不思議なメールもちっとも来ないしね。あんたが邪魔したせいよ。みくるちゃんのエロ画像で客を呼ぼうと思ったのに」

 朝比奈さん懸命のメイド画像のすべては俺の物であり、他の誰にも見せる気はない。はした金で買えない物はこの世にちゃんとあるものさ。

「あんたの作ったこのサイトだけど、ほんっと、しょうもないわよね。賑やかすものが全然ないのよ。だからあたしは考えたの。SOS団のシンボルみたいなものを貼り付けたらどうかって」

 とっととネットから撤退しろよ。こんなアホなHPを間違って見てしまった奴が気の毒だ。コンテンツが何もないので更新されることもなく、あるのは『SOS団サイトにようこそ!』という画像データとメールアドレス、アクセスカウンタくらいである。そのカウンタは三桁に達していない上に、そのうちの九割はハルヒが自分で回しているみたいなもんだぞ。

 俺はハルヒが起動したブラウザに手作りサイトが出てるのを眺めながら、

「お前が日記でも書いたらどうだ? 業務記録を付けるのは団長の仕事だろ。宇宙船の船長だって航海日誌をつけるんだぜ」

「いやよ、めんどくさい」

 俺だってそんな面倒なことをしたくない。ここでの一日を描写しても、長門がどんな本を読んでたとか古泉と五目並べで勝利したとか朝比奈さんは今日も可愛いとかハルヒは口を閉じて黙って座ってろとか、それくらいのことしか書くこともなかろう。書いていて楽しくないものが読んでも楽しいとは思えない。ゆえに俺はそんな誰にとっても娯楽とほど遠いことはしないのさ。

「さ、キョン。このシンボルマークをサイトの頭に表示するようにしなさい」

「お前が自分でしろ」

「やり方わかんないもん」

「だったら調べろ。解らんからって他人任せにしてたら永遠に解らんままだぜ」

「あたしは団長なの。団長は命令するのが仕事なのよ。それにあたしが全部やっちゃったらあんたたちのする事がなくなるでしょう? 少しはあんたも頭を使いなさいよ。言われたことをやってるだけじゃ人間進歩しないわよ」

 お前は俺にやれと言っているのか、するなと言っているのかどっちなんだ。日本語は正しく使ってくれ。

「いいからやんなさい。そんな詭弁じゃあたしは騙されないからね。有り難がるのは紀元前のヒマなギリシャ人くらいよ。ほら早く!」

 これ以上夜明けのカラスみたいにやかましく鳴くハルヒの声を聞いているのも夥しく耳障りだったので、俺はしぶしぶHTMLエディタを起動すると、子供が暇つぶしで描いたようなハルヒ画伯イラストを適当なサイズに縮小してからファイルに貼り付け、そのままアップロードした。

 確認のためブラウザをリロードしてみる。必要のないSOS団エンブレムは、ちゃんとネット世界にその足跡を残しているようだった。チラリと見たアクセスカウンタの数字は、やはりまだ二桁のままだった。このままハルヒしか見ないサイトでいたらいい。こんなマヌケサイトを作ってるのが俺だと知られたくないからな。


 そんなことがあったりした俺の憂鬱を誘う日々も、何とか今日で第一段階を終了し、つかの間の休息が明日から始まろうとしていた。その休息の名を試験休みという。夏休みまでの準備期間であり、俺の解答用紙に教師がバツマークを朱入れするための時間でもあることだろう。

 くそいまいましい。

 くさくさしていてもしかたがないので、俺はSOS団が巣くった上にアジト化している文芸部部室へと足を運んだ。せめて朝比奈さんを眺めて安らぎを得ようとしたのである。

 長門は黙って本を読み、古泉はニヤつきながら一人で詰め将棋をし、朝比奈さんはメイド姿で給仕をしてくれ、ハルヒは何かわけの解らないことを言ったり喋ったり喚いたり叫んだりしていて、俺はうんざりとその言葉に耳を傾けるという構図がここ最近のパターンだった。

 最近も何も、最初からこうだったような気もするが。

 俺は沈んだ気持ちでドアをノックした。舌足らずな朝比奈ボイスで「はぁい」と返答があることを期待したのだが、部屋から湧き出したのは、

「どうぞ!」

 投げやりなハルヒの声であり、入ってみるとハルヒしかいなかった。団長机に肘をついて、コンピュータ研を脅迫して手に入れたパソコンをなにやら操作している。

「なんだ、お前だけか」

「有希もいるわよ」

 確かに長門はテーブルの隅で本を広げ、いつものように置物となっていた。あいつはこの部室の付属物みたいなものだから人数に入れなくていいのさ。SOS団に入るという言質もなかったし、正式には文芸部員だ。だがここは言い直しておくべきだろう。

「なんだ、お前と長門だけか」

「そうだけど、なんかクレームでもあるわけ? なら聞いてあげるわ、あたしはここの団長だもんね」

 俺のお前に対するクレームを箇条書きにしたらそれだけでA4ノート両面はびっしり埋め尽くされることになるぞ。

「あたしこそがっかりよ。ノックなんかするから、てっきりお客が来たんじゃないかと思ったじゃない。ややこしい真似しないでよね」

 朝比奈さんの生着替えをうっかり目撃しないように気をつけているんだよ。あの迂闊で愛らしいかたは、ドアに施錠することをなかなか覚えないからな。

 それにお客って何だ? どんな客がこの部屋を訪れるって言うんだ。

 するとハルヒは、俺を蔑みの表情で見つめた。

「あんた、覚えてないの?」

 思わずギクリとした。三年前の七夕がどうとか言うつもりじゃないだろうな。

「あんたがやったことじゃないの。あたしの許可も得ずにね」

 何のことかなぁ。

「部室棟の掲示板に、あんたが貼ったポスターのことよ」

 ああ、あれか。俺は安堵の息を吐く。

 生徒会に何とかSOS団を認可させようとして俺がでっち上げた架空の活動方針がある。不思議探し団では話になるまいと判断した俺は、よろず悩み相談所としてSOS団を存続させるべく生徒会に働きかけたのだ。執行部の連中にはアホかと言われてあっけなく終了したが。

 しかし俺はすでにポスターまで手書きで作っていた。何と書いていたかよく覚えていないが「相談ごと受け付けます」くらいだったと思う。せっかくだからと目に付いた掲示板に貼っておいたのだ。どうせ誰か見たとしてもSOS団に悩みを相談しに来るような気の違った奴はいまいと踏んだわけである。どうやら正解だったらしく、今のところ依頼人は皆無であり、とてもいいことだ。

 にしても、ハルヒはそんなことを覚えていて、実際に客が来るのを待っているのか? 今日の帰り際にでも剥がしておいたほうがよさそうだな。本当に変な悩みを持つ生徒が来たらややこしいことになるだろうから。

 俺が心の片隅で決意していると、ハルヒがマウスをぐるぐる回しながら、

「それより、これ見てよ。何か変なの。パソコンの調子が悪いのかしら」

 ハルヒの髪の横から覗き込む。ディスプレイが嫌々のように映しているのは、我等がSOS団ホームページだ。だが俺が作ったものとは微妙に違っていた。ハルヒの手によるヘタクソな落書きエンブレムが、ギャザー処理されたみたいに歪んでいたし、カウンタやサイトロゴも吹っ飛んでいる。試しにリロードしてもそのままだ。まるでモザイクでもかけたみたいな異常なデータ表示。

「こっちのパソコンじゃないな。サーバに置いてるファイルが狂ってるみたいだ」

 ネットには詳しくないが、その程度は解る。ひょっとしてと思いローカルに置いてあるサイトをブラウザで見ると正常に表示されるからな。

「いつからこの状態なんだ?」

「さあ。この何日かメールチェックだけでサイトは見てなかったから。今日見たらこんなんになってたのよ。どこにクレーム付ければいいの?」

 クレームを付けるまでもない。修正は簡単だ。俺はハルヒから奪ったマウスを操作して、保存していたトップページのファイルをサーバにある同名のデータにすべて上書きした。再表示してみる。

「うむ?」

 サイトはクラッシュしたままだった。何度か繰り返してみても同じ結果。どうやら俺では手に負えない電脳技術的異常が発生しているようだった。

「おかしいでしょう? アレかしら、噂に聞くハッカーとかクラッカーとか言うやつ?」

「まさか」と俺は否定する。どこからもリンクされず誰も見ないようなサイトをクラッキングするようなヒマ人がいるとも考えにくい。何かのエラーだろ。

「ムカツクわ。誰かがSOS団にサイバーテロを仕掛けているんじゃないかしら。いったいそれは誰? 見つけたら裁判なしで三十日間の社会奉仕活動を宣告するわ」

 ぷんすかしているハルヒから目を離し、俺は不透明光学迷彩をまとっているような長門に視線を向けた。こいつなら何とかしてくれるんじゃないだろうかと思う。俺の中には勝手にコンピュータに詳しそうな長門のイメージが構築されているが、パソコンをいじっているところを見たことがない。いやむしろ、読書シーン以外がほとんどないと言うべきか。

 そこにノックの音。

「どーぞっ!」

 ハルヒの返答に扉を開けたのは、古泉だった。いつもの清涼感を極めたスマイルで、

「おや珍しい。朝比奈さんはまだですか?」

「二年は余分に試験があるんじゃない?」

 俺たち一年の期末最終日は三限までだった。さっさと帰宅すればいいのに、なんで揃いも揃ってこんなところに集まりたがるんだろ。俺ってこんな友達少なかったか? それとハルヒ、ノックに対するツッコミを古泉に入れないのはどういうわけだ。

 古泉は鞄をテーブル横に置くと、戸棚からダイヤモンドゲームの盤を取り出して、俺に誘いの目を向けた。俺は首を振り、古泉は肩をすくめて一人ダイヤモンドを開始した。

 朝比奈さんのお茶が待ち遠しいね。

 こんこん。

 またノックの音がする。その時、俺は団長机の前に座らされてFTPソフトと格闘していた。背後にはハルヒがいて、見当違いかつ思いつきのような注文をあれこれ発しており、その無理難題に俺が答えさせられているというわけである。

 だからそのノックは俺には救いの鐘の音だった。

「どーぞっ!」

 ハルヒがまた大声で言い、扉が開かれる。順番からみて来たのは朝比奈さんだろう。

「あ、遅れちゃってごめんなさい」

 控えめ謝辞を告げながら現れたのは、無翼の天使、朝比奈さんに違いなかった。

「四限までテストがあって……」

 言わなくてもいい言いわけを言いながら、ためらうようにドア付近で佇んでいる。なぜかそのまま入ってこようとせず、ためらうように、

「ええと、その……ですね」

 俺たちの視線が朝比奈さんに集中した。長門までが自分を見ていることに気付いた朝比奈さんは、たじろいだように後ずさり、それから思い切ったようにこう言った。

「あ、あの……お客さんを連れてきました」


 そのお客さんは喜緑江美里さんと言う、おとなしく清楚な感じの二年生だった。

 彼女は今、朝比奈さんの淹れたお茶の表面に視線を固定し、顔を上げずに座っている。その横に朝比奈さんが付き添いのように並んで椅子に腰掛けていた。さすがにメイド衣装には着替えてはいない。少し残念。

「するとあなたは」と、ハルヒが面接官みたいな顔をしてボールペンをくるくる回していく。二人の二年生の正面を陣取り、横柄な口調で、

「我がSOS団に、行方不明中の彼氏を捜して欲しいと言うのね?」

 ハルヒは唇の上にペンを挟んで腕組みをした。まるで何かを考えているような仕草だが、俺には解っていた。こいつは今にも笑い出しそうになるのを堪えていやがるのだ。

 何と言うことか、来るわけないと楽観していたのに、悩み相談者第一号が来てしまったのである。ハルヒ的には小躍りしたいような状況だろう。

「はい」と、喜緑さんは湯飲みに向かって話しかけている。

 その様子を俺と長門と古泉は、端のほうで見守っていた。二人の二年生を前にしたハルヒは、

「ふうむ」

 わざとらしく唸って俺に目配せをした。

 俺はつくづく自分が恨めしくなる。あんなポスターを作るんじゃなかったよ。なんて書いたっけ、人に言えない悩み相談受付けます……だったかな。でもな、まさか本気にする生徒がいるとはなあ、普通思わないだろ?

 にもかかわらず本気なのかどうなのか、喜緑さんはポスターを見てSOS団の活動目的を、よろず悩み相談所か便利屋稼業と誤認してしまったようだ。確かに文字通りに解釈すればそうなるかな。ああ思い出した、俺のでっち上げ活動内容は「学園生活での生徒の悩み相談、コンサルティング業務、地域奉仕活動への積極参加」だった。今のところどれ一つとしてSOS団には無縁のものだ。草野球大会を掻き回した以外、なーんもしてねえもんな。

 しかし、たまたまそんなことが書いてあるポスターを目にしていたせいで喜緑さんは我々の存在に思い至ったようで、悩んだあげく同学年である朝比奈さんに声を掛け、ともどもにここを訪れたと、そういうことになるらしい。

 で、その悩み事なんだが。

「彼がもう何日も学校に来ないんです」

 喜緑さんは誰とも目を合わせることなく、湯飲みの縁を見つめてそう言った。

「めったに休まない人なのに、テストの日まで来ないなんておかしすぎます」

「電話してみた?」とハルヒ。口元が笑い出すのを止めるためか、ボールペンの尻を噛んでいる。

「はい。携帯にも家の電話にも出なくて。家まで行ってみたんですけど、鍵がかかったままで。誰も出てきてくれませんでした」

「ふふふーん」

 他人の不幸を喜ぶ奴はロクデナシなのは事実だが、ハルヒは今にも歌い出しそうな上機嫌オーラを発していた。つまり、こいつはロクでもない奴なのである。証明終わり。

「その彼氏の家族は?」

「彼は一人暮らしなんです」

 喜緑さんはお茶に喋りかける。人と目を合わせて話すことの出来ない性質があるようだ。

「ご両親は外国にいらっしゃると前に聞きました。私は連絡先を知りません」

「へー。外国ってカナダ?」とハルヒ。

「いいえ。確かホンジュラスだったと思います」

「ほほーう。ホンジュラスね。なるほど」

 何がなるほどだ。どこにある国か知っているのか疑わしいね。えーと……メキシコの下くらいだっけ?

「部屋にいる気配もなくて。夜中に訪ねても真っ暗でしたし。わたし、心配なんです」

 喜緑さんはわざとのように淡々と言って、両手で顔を覆った。ハルヒは唇をうねうねさせながら、

「むう。あなたの気持ちは解らないでもないわ」

 嘘吐け。恋する少女の気持ちがお前に解るわけがない。

「それにしてもよく我がSOS団のところに来たわね。まずその動機を教えてよ」

「ええ。彼がよく話題にしていたんです。それで覚えていました」

「へえ? その彼氏って誰?」

 ハルヒの問いに、喜緑さんはその男子生徒の名前を呟いた。どっかで聞いたような気もするが、知り合いにいないような気もする。ハルヒも眉を寄せて、

「誰だっけ? それ」

 喜緑さんは微風のような声で、

「SOS団とは近所付き合いをしているように言っていましたけど」

「ご近所さん?」

 ハルヒは天井を見上げる。喜緑さんは、首を傾げる俺と朝比奈さん、それから古泉と長門へと首を巡らせ、ただし視線を合わせないようにして、また湯飲みを見つめた。そして、

「彼は、コンピュータ研の部長を務めていますから」

 と言った。


 まったく忘れていた。あの気の毒な部長氏か。朝比奈さんへのセクハラ写真を撮られ(無理矢理に)、それを盾としたハルヒに最新機種を譲渡させられ(強引に)、泣く泣く配線までしていたコンピュータ研究部の憐れむべき上級生だ。いや、憐れむ必要はないか。こんないい雰囲気の彼女がいるんだったら、たいていのことはチャラになるだろう。そういや、あんときの使い捨てカメラはどこに仕舞っておいたかな。

「うん、わかった!」とハルヒは簡単に請け負った。「あたしたちが何とかするわ。喜緑さんあなたツイてるわよ。依頼人第一号として、特別にタダで事件を解決してあげるから」

 金を取っていたら学内奉仕活動にならないな。しかし、これは本当に何かの事件なのか? 例の部長が単にヒキコモリになってるだけじゃないだろうか。喜緑さんみたいな恋人がいて何の不満があるのか知らんが、そんな奴は放っておいて自然治癒を待つのがいいと思うぞ。

 もちろん俺はそんなことは言わず、喜緑さんは彼氏の住所をメモ用紙に残して、実体化した幽霊のような歩調で部室から出て行った。

 廊下まで見送った朝比奈さんが戻ってくるのを持って、俺は口を開いた。

「おい、そんな簡単に引き受けちまっていいのか? 解決できなかったらどうするつもりだよ」

 ハルヒは、だが機嫌良くボールペンを回している。

「できるわよ。きっとあの部長は二ヶ月遅れの五月病で引きこもっているんだわ。部屋に乗り込んで二、三発ぶん殴って引きずり出せばいいだけの話よ。すんごく簡単」

 本気でそう思っているようだ。まあ俺もそう思うけど。

 俺は新しいお茶を淹れ直している朝比奈さんに訊いた。

「喜緑さんとは親しいんですか?」

「ううん、一回も話したことなかったです。隣のクラスだから合同授業の時に顔を見るくらい」

 俺たちに相談するくらいなら教師か警察に言えばいいのに。や、すでに言った後なのかな。それで相手にされずに朝比奈さんに声をかけたのか。そんなところだろうと思うね。

 のんきに茶を啜る俺たちに何の緊張感もなかった。ハルヒは無闇に高揚して、もっと大々的

に依頼を募集し片端から解決することを考えているようだ。一学期が残り少ないことを嘆きつつも、チラシ配布計画第二弾を強行しかねない調子である。それはやめとけ。

 長門がパタリと本を閉じ、俺たちはハルヒ言うところの調査に赴くことになった。


 部長氏の一人住まいは、ワンルームマンションだった。立地から考えて大学生がメイン住人だろう、可もなく不可もなさそうな三階建ての建物で、新しいとも古いとも言えないちょうどよさげな色合い。見た目は非常に普通である。平凡。

 住所を書いたメモを手に、ハルヒは階段をたかたか上がっていく。俺と他三人も、黙ってセーラー夏服の背中を追いかけた。

「ここね」

 鉄扉の前でハルヒは表札の名前を確認している。喜緑さんの告げた彼氏の名前がプラケースに差し込まれていた。

「何とか開けられないかしらね」

 ノブをガチャガチャして施錠を確認してから、ハルヒがインターホンを押した。順序が逆だろう。

「裏からベランダに上がったらどう。ガラスを叩き割れば入れるじゃない?」

 冗談で言っていることを祈らせてもらう。この部屋は三階だし、俺たちは空き巣狙いの少年犯罪グループではない。俺はまだ前科は欲しくないぞ。

「そうね。管理人さんとこ行って鍵を借りましょう。友達が心配して来たって言えば貸してくれるわ」

 お前は友達のフリが得意だからな。しかしこの部長、一人暮らしなんかしときながら彼女に合い鍵も渡していなかったのか。ナスビのヘタだけ取って実を捨てているようなもんだろそれじゃ。

 カシャン。

 涼しい音がして振り向くと、長門が無言でノブを握っていた。

「…………」

 液体ヘリウムみたいな長門の目が俺を見つめている。ゆっくりと長門はドアを引き、部屋への入り口が口を開いた。停滞していた内部の空気が、なぜか冷気を伴って俺たちの足元にわだかまる----ような気がした。

「あら」

 ハルヒは目を丸く、唇を半円にして、

「開いてたの? 気付かなかったなあ。ま、いいわ。さあ上がりましょ。きっとベッドの下とかに隠れてるから、みんなで引っ張り出して捕獲するの。抵抗が激しければ最悪、息の根を止めていいわ。依頼人には蜜蝋に漬けた首を届けましょう」

 パソコンをぶんどった自責の念など微塵も感じていないらしい。サロメじゃあるまいし、首だけもらっても置き場に困るだけだ。

 勇躍、部屋に押し入った俺たちは、そこに無人のワンルームを見ることになった。ゴキブリ一匹いやしない。ハルヒはバスルームやベッドの下も覗いていたが、少なくとも人間の姿はどこにもなかった。長門の部屋、それも客間一つ分のさらに四分の一程度の広さだが、あの殺風景な何もなさと比べると生活レベル四倍増だ。本棚と衣装ケース、卓袱台みたいな机とパソコンラックがきっちり整理整頓して置いてある。窓を開けてベランダを確認しても洗濯機しか隠れていない。

「おっかしいな」

 ベッドの上で跳ねながら、ハルヒは首を傾げている。

「部屋の隅で膝を抱えて丸くなっていると思ったのに、コンビニに行ってるの? キョン、あんた他にヒキコモリが行きそうな所って知ってる?」

 コンピュータ研部長はヒキコモリ確定か。中南米あたりを旅行中なんじゃないか? それか本気で行方をくらましているのか、だ。ここに来る前に部長のクラス担任教師に話を訊いてくるべきだったな。

 俺が本棚に並ぶパソコン関連の書籍を眺めていると、不意にシャツの背中を引く者がいた。

「…………」

 長門が無表情に俺を見上げていて、ついっと顎を横に振った。何の意思表示だ?

「出たほうがいい」

 小さく、長門は俺に囁いた。今日初めて聞く長門の声だった。ハルヒと朝比奈さんは気付いていないが、古泉だけが俺の耳元に顔を寄せた。

「僕も同感です」

 真面目な声を出すな、気色悪い。しかし古泉は取り繕った笑顔で、目だけを笑わせずに、

「この部屋には奇妙な違和感を感じます。これに近い感覚を僕は知っている。近いだけで根本的に違うような気もするのですが……」

 ハルヒは冷蔵庫を勝手に開けて、「ワラビ餅発見! これ、賞味期限昨日になってるわ。もったいないから食べましょ」などと言いながら袋を破っている。朝比奈さんはおろおろしながら、ハルヒに差し出されたコンビニ菓子を毒見させられていた。

 俺も自然と小声になった。

「何に近いって?」

「閉鎖空間です。この部屋はあそこと同じような香りがする。いえ、香りというのは比喩表現です。肌触りといいますか、そういう五感を超えた感触です」

 お前は超能力者かと反射的にツッコミを入れそうになって自制した。こいつはマジな超能力者だったな、そう言えば。

 長門が空気をほとんど震動させない声で呟いた。

「次元断層が存在。位相変換が実行されている」

 わかるかっての。

 そうも言いたかったんだけどな。もし長門が不意打ちのように悲しそうな顔でもしたら俺はこの場で腰をぬかすかもしれないので言わないほうが吉だ。やれやれ。

 ともあれ、さっさと撤退したほうがよさそうだな。俺は古泉と長門に合図をしてから、半透明な餅を貪りくっているハルヒへと顔を向けた。


 全員でマンションから出ると、ハルヒは空腹を理由に本日解散を宣告し、一人で帰っていった。喜緑さんから持ち込まれた事件は一時棚上げ、「そのうちなんとかなるでしょ」という無責任な発言によって思考も停止、今日のところは宙に浮くこととなった。

 もう飽きたらしい。

 昼飯がまだなのはハルヒだけではないが、俺は帰宅するように見せかけて、いったん全員と別れたのち、十分経過をイライラしながら待って再び部長氏のマンション前に舞い戻る。

 三人の団員たちはすでに揃いぶみで俺を待っていた。物知り宇宙人と理屈っぽいエスパー野郎は、なんかすでに解ったような顔をしていたが、朝比奈さんは、

「あの……どうしたんですか? 涼宮さんに見つからないように再集合って……」

 きょとんと俺を見上げてくる。長門と古泉を見る目が不安の色を強めていた。俺を一番待っていてくれたのは朝比奈さんだ、そう思うことにしよう。

「この二人はさっきの部屋が気になるみたいです」と俺は応えた。

「そうなんだろ?」

 微笑と無表情が同時にうなずく。

「もう一度行けば解ると思いますよ。ねえ、長門さん?」

 何も言わずに長門はフラリ歩き出した。俺たちもついていく。足音もなく階段を移動する長門は、音もなく部長宅のドアを開け、音もなく靴を脱いで部屋の中央に進んだ。

 決して広くないワンルームは、四人が立って並んだだけでもう満員だ。

「この部屋の内部に」

 長門が切り出した。

「局地的非浸食性融合異次元空間が制限条件モードで単独発生している」

 …………。

 しばらく待ってみたが、説明はそれだけだった。そんな適当に辞書引いて目に付いた単語を並べただけのような語句で言われても辞書を持っていない俺にはどうすることもできないんだが。

「感覚としてはあの閉鎖空間に近いものですね。あれは涼宮さんが発生源ですが、こちらはどうも違う匂いがします」

 古泉が長門をフォローするようなことを言った。いいコンビだ。付き合うといい。長門に読書以外の趣味も教えてやれ。

「その件に関しましては後で考えさせていただきます。それより今はする事がありそうですね。長門さん、部長さんの行方不明はその異常空間のせいですか?」

「そう」

 長門は片手を挙げると、目の前の空間を撫でるような仕草をした。

 嫌な予感が背骨を上って俺の脳を刺激する。おそらく俺は「待て」と言うべきだったんだろう。しかし俺がそのたった二音を発声する前に、長門はテープの早回しニ十倍速みたいな音で何かを囁いて、途端、目の前の光景が瞬きする間に変化を遂げていた。

「はひっ!?」

 飛びついてきたのは朝比奈さんで、俺の左腕を両手で抱きしめてくれた。しかし俺はせっかくの感触を味わうヒマもなく、自分の居場所を必死で確認しようとしていた。

 ええと、俺がいたのは部長の手狭なワンルームマンションだ。決してこんな薄気味悪い場所じゃない。黄土色の靄がたなびき、地平線が見えないくらいだだっ広い平坦な空間ではないのだ。誰だ、俺をこんな所につれてきたのは。

「侵入コードを解析した。ここは通常空間と重複している。位相がズレているだけ」

 長門が解説している。まあ、こんなことができそうなのはこいつくらいか。そんな長門とまともに会話できるのは古泉くらいで、

「涼宮さんの閉鎖空間ではないようですが」

「似て非なるもの。ただし空間データの一部に涼宮ハルヒが発信源らしいジャンク情報が混在している」

「どの程度です?」

「無視できるレベル。彼女はトリガーとなっただけ」

「なるほど。そういうことですか」

 俺と朝比奈さんは仲良く蚊帳の外である。全然困らない。むしろ有り難い。このまま俺たちを元の世界に戻してくれたらもっと有り難がってやるのだが。

 朝比奈さんは俺にくっついて恐々と周囲を見回している。彼女にとってこの空間は予期しないものだったらしい。俺も同様に、八方に視線を飛ばして観察してみた。呼吸はできるが、この黄土色の霞みたいなものは吸い込んでも大丈夫なんだろうか。靴下越しにひんやりとした床の温度が足裏に伝わる。床なのか地面なのか、黄土色の平面がどこまでも続いていた。六畳くらいのあの部屋にこんな収納スペースが付帯しているとはね。異次元空間化。まあ、そろそろそんな雰囲気のものが出現するとは思っていた。我ながら冷静である。

「ここにコンピュータ研の部長がいるのか」

「そのようですね。この異空間が自室に発生してしまい、どのようにしてか閉じこめられてしまったのでしょう」

「どこにいるんだ? 姿が見えないが」

 古泉はただ微笑んで長門に顔を向けた。それが合図だったのか、長門はまた片手を挙げた。

「待て!」

 今度は間に合った。俺は生真面目にも固まってくれた長門に、

「何をするか教えておいてくれないか? せめて心の準備期間は欲しいぜ」

「何も」

 長門は喋るガラス細工のように回答し、斜め上七十五度くらいを指していた手の指を握りしめ、改めて人差し指だけを伸ばした。それから一言、

「お出まし」

 俺は長門の指先が指す先へと視線を向けた。

「うーん」

 思わず唸るね。

 黄土色の靄がゆっくりと渦を巻いている。靄を構成する粒子の一粒一粒が一箇所に集合しようとしているような渦巻きだ。俺は人体に侵入してきた病原体みたいな気分になってきた。どうもこの黄土色の渦は白血球的な役目を自らに課しているのではないかというイメージがどこかから湧いてくる。朝比奈さんの手が温かいのだけが俺の心の慰めだ。

「明確な敵意を感じますね」

 のんびり言う古泉の声には緊張したところがなく、故障中のアンドロイドのように突っ立っている長門も手を伸ばしたまま無反応。だからと言って俺は安心できない。こいつらは自分の身を守るすべがありそうだが、俺にはない。朝比奈さんにもないみたいで、俺の後ろに隠れている。こういう時こそ未来的なアイテムでも出してもらいたいんですけど。光線銃とか持ってないんですか?

「武器の携帯は厳禁です。あぶないです」

 震える声の朝比奈さん。それは解るね。『この』朝比奈さんに武器を持たせても、役に立たないだけならまだしも電車に忘れてきたりするかもしれない。大人になったら少しは改善されるのかと思いきや、考えてみれば『あの』朝比奈さんもけっこう粗忽者だったし、根っからのオッチョコチョイなのかもな。

 そんなことを考えていると、靄の形が徐々に固形物の様相を呈してきた。たぶんこれにも何かの理屈があるんだろう。知りたくもないが、しかしなぜか俺は黄土色の塊がどんな形を取ろうとしているのかが解りかけてきた。

「……ひ」

 朝比奈さんだけが脅えていた。確かにあまり気持ちのいい外見ではないし、街中では滅多に見かけない。俺だって田舎のばーちゃん家の縁の下で見かけたのを最後にもう何年もご無沙汰だ。

 カマドウマという虫をご存じであろうか。

 知らんというかたには、ぜひこの目の前の光景を見せてあげたい。細部に至るまでよく解るぞ。

 なんせ、全長三メートルはありそうなカマドウマだからな。

「なんだ、こいつは?」と俺。

「カマドウマでしょう」と古泉。

「それは解ってる。俺は幼稚園時代に昆虫博士として有名だったんだ。実物を見たことはないがウマオイとクツワムシの区別だってつくぞ。そんなことはいい、これは何だ?」

 長門がポツリと漏らした。

「この空間の創造主」

「こいつがか?」

「そう」

「まさか、こいつもハルヒの仕業か」

「原因は別。でも発端は彼女」

 どういうことかと訊きかけて、俺は長門が俺の言いつけを愚直に守っていることに気付いた。

「……もう動いてもいいぞ」

「そう」

 するりと手を下ろし、長門は実体化しつつある巨大カマドウマを見つめた。焦げ茶色をした便所コオロギが、俺たちから数メートル離れてた場所に降り立とうとしている。

「おや。不完全ながら僕の力もここでは有効化されるようですね」

 古泉が片手に持っているのは、ハンドボール大の赤い光球だった。どっかで見て以来、二度と見たくないと思っている紅玉だ。掌から出してきたらしい。

「威力は閉鎖空間の十分の一といったところですか。それに僕自身が変化することはできないようですね」

 なぜか古泉は、見飽きた爽快スマイルを長門に向けて、

「これで充分だと判断されたのでしょうか?」

「…………」

 長門はノーリアクション。重ねて俺が尋ねた。

「それより長門よ。あの昆虫の正体は何だ。部長はどこにいる?」

「あれは情報生命体の亜種。男子生徒の脳組織を利用して存在確立を高めようとしている」

 古泉が眉間に指を当てている。考えているようにも見えたし、なんかの思念集中の様にも見えた。顔を上げた古泉は、

「ひょっとして、部長さんは巨大カマドウマの中ですか?」

「そのもの」

「このカマドウマは……そうか、部長氏がイメージする畏怖の対象なのですね? これを倒せば異空間も崩壊する。違いますか?」

「違わない」

「解りやすいメタファーで助かりますね。ならば、ことは簡単です」

 解りやすくもなければ簡単でもなさそうだが。俺と朝比奈さんにも解るように言え。

「その時間は今はないようですが?」

 語尾を上げるな、優しく微笑むな、その赤い球をどこかにやれ、それから俺の腰にしがみついている朝比奈さんを何とかしてくれ。このままでは俺がナントカなりそうだ。

「ひょええ」

 朝比奈さんは震えるばかりか、俺の行動範囲をも奪っている。これでは俺が逃げられないじゃないか。

「その必要はないでしょう。すぐ済みますよ。そんな確信がなぜかするんです。<神人>を狩るよりも楽そうだ」

 実体化を終えたカマドウマは、今にも飛び上がらんとせんばかりだ。何メートル飛ぶかな。測ってみたい気も……やっぱりしない。

 俺はぶっきらぼうに言った。

「さっさとやれ」

「了解しました」

 古泉は紅玉を放り上げると、バレーボールのサーブのように叩きつけた。正確無比に飛んだ赤いハンドボールは、化けカマドウマの真正面から激突し、紙風船が破裂したような音を立てた。攻撃の仕方もマヌケだが、相手も相当マヌケだな。少しは反撃するかと覚悟していたのに、カマドウマは逃げも跳びも怪音を轟かすこともなく、ただ静かにそこでじっとしていた。

「終わりですか?」

 古泉の質問に、長門が首肯。ほんとにさっさと終わってくれたもんだ。

 巨大カマドウマは元の霧状態へと拡散して、さらにどんどん薄くなっていく。四方で揺らめく黄土色の靄も消えていく。足裏の冷たい感触もだ。

 その代償のつもりか、見慣れた制服姿の男が登場した。仰向けに倒れ伏すコンピュータ研の部長氏。

 パソコンラックの前で椅子からずり落ちたみたいな格好で目を閉じている。生きてはいるようだな。脇に屈み込んだ古泉が首筋に手を当てて、俺にうなずいて見せた。

 ワンルームマンションの一室である。どこにあの広大な空間があったのかと思うね。

 何はともあれ、よかったことだ。灰色だろうが黄土色だろうが、広いところに閉じこめられるのはもうけっこう。


「約二億八千万年前のことになる」

 そう言って説明し出した長門の宇宙的怪電波を、かみ砕いて煎じ詰めれば次のようになる。

 二だか三畳紀だかに地球に降下した『そいつ』にとって、当時の地上には依り代となるものがなかった。存在基盤を失ったそいつは自己保存のために冬眠に就くことにした。地球に自分が存在できるような情報集積体が生まれるまで。

「地球にはそれにとっての存在手段がなかった。それは活動を凍結し、眠りに就いた」

 やがて地上に人間たちが生まれ、人間たちはコンピュータネットワークを生み出した。この稚拙な(と長門は言った)デジタル情報網は、不完全ながら苗床として利用することが可能だった。ただし充分ではなく、そいつは半覚醒状態に留まった。しかし目覚めを促す出来事が起こる。そいつにとっての目覚まし時計代わりになったのは、ネットに流された一つの起爆剤。それは通常の数値では測ることの出来ない情報を持っていた。この世界には存在しないデータである。異界の情報データ。そいつにとって、それこそが待ち望んでいた依り代だったのだ……。

 長門は淡々と語り終えた。

 話しながら部長宅のパソコンをいじっていた長門が、SOS団オンラインサイトを表示させ、破損したSOS団エンブレムをモニタに映し出す。

「涼宮ハルヒの描いたインヴォケーションサインがきっかけ。扉となった」

「……このSOS団エンブレムは、さっきの、そのアレか、召還魔法円か何かになってたのか」

「そう」と長門は首を縦に動かした。「このSOS団紋章は、地球の尺度に換算すると約四百三十六テラバイトの情報を持っている」

 そんなことはない。十キロバイトもなかったぞ。あの画像データは。しかし長門は平然と、

「地球上のいかなる単位にも該当しない」

「すごい確率ですね。たまたま描いたシンボルマークがそっくりそのまま該当したのですから。まさに涼宮さんです。天文学的数字をものともしません」

 古泉は本気で感心しているらしい。だが、俺は本気で恐怖しかけていた。何を恐怖するかって?

 ハルヒは大概の事を単なる思いつきでおこなっている。SOS団結成もそうだろうし、メンバー集めだってそうだ。朝比奈さんはマスコットキャラにうってつけだからで、古泉は転校してきたからで、長門は最初から居た。でもって、朝比奈さんは未来人で古泉は超能力者で長門は宇宙人モドキだった。出来すぎている。実際、古泉は偶然ではないと言い、ハルヒがそう望んだからだなんていうタワゴトをほざいている。俺だってもう少しで信じるところだったがそうはいかん。なぜなら俺自身は単なる普通人だからだ。それだけで充分反証になるだろう。古泉の理屈では俺にだって秘められた電波プロフィールがないとおかしいことになる。なるはずなのだが……。

 無意味だと思っていたハルヒの行動のすべてに裏があるとしたらどうだろう。それは本人も知らない意味だ。たまたま頭に思い描いた自作文字がどこかの宇宙人へのメッセージになっているような。猫にキーボードを叩かせて意味の通る文章が生み出されるような。そんなのの確率はいかほどのものだ?

 確率統計の壁をやすやすと突破して無意識のうちに正解に辿り着く涼宮ハルヒという迷惑女、こいつが俺をパシリか何かと考えてSOS団に参入させたのならまだマシだ。ああ、そうだとも。俺自身にバカくさい謎の裏設定があることになっている、と考えるよりも全然いい。それで、あるのか? 俺になんか知らん素っ頓狂な変な能力かあるいは素性が。

 だから俺を選んだのか? 俺の知らない俺の秘密なんてのが、実はあったりするんじゃないだろうな。

 俺が恐れるのは次の一点だ。


 俺は何者なんだ。

 俺は古泉を真似て肩をすくめてみた。やれやれ、ってやつだ。自分の役割は自分が一番よく解っている。早い話、俺はSOS団唯一の良心なのだ。そうに違いない。他の団員三人とは本質からして異なるのさ。ハルヒを説得してまっとうな高校生活を送らせるために俺はSOS団にいるのだ。あいつに非合法な部活をやめさせ、自主解団させることが俺の任務なのだ。よくよく考えれば、それが平和な世界へと辿り着くための早道だ。いや、一本道なのだ。

 世界をハルヒの思うとおりに変えるより、ハルヒの内面世界を変えるほうがまだ簡単で誰も困ることがないだろう。

 もっとも、俺があいつに妙なインスピレーションを与えなければSOS団もなかったのかもしれんけどさ。そこはほら、ええと、ケースバイケースだよ。なんとかやってみせるって。いつの日のことになるかとか、なんで俺がそんなことをせにゃならんのかとか、俺にも解らないけどな。

 それはいったん横に置いておく。

「それで結局あのカマドウマは何だったんだ」

 とりあえず尋ねておかないと話が終わりそうにない。長門はいかにも二酸化炭素を吐くついでだというような口調で、

「情報生命体」

「お前のパトロンの親戚か?」

「遠い昔に枝分れした。起源は同一だか異なる進化を遂げ、滅亡した」

 と思ったら、ここに生き残りがいたわけだ。よりによって地球で冬眠することはないだろう。海王星あたりで寝ていたらいいのに。凍ったように眠れただろうに。

 インターネットの発達が邪神モドキの温床になるとはね。ふと思いついた。俺は床にへたり込んでいる小柄な上級生に、

「朝比奈さん、未来のコンピュータはどの程度まで進化しているんですか?」

「え……」

 朝比奈さんは唇を開きかけて止まる。どうせ禁則とやらだろうから期待していなかったが、応えたのは別人だった。

「このような原始情報網は使用されていないはず」

 長門が空気を読まずに言った。パソコンを指差し、

「地球人類程度の有機生命体でも、記憶媒体に頼らないシステムを生み出すことは容易」

 長門は視線を横にずらした。そこには朝比奈さんがいて、青ざめていた。

 そうなんですか?

「それは……その……」

 口ごもり、朝比奈さんはうつむいた。

「言えません……」

 呻くような声で、

「否定も肯定することも、あたしには権限が与えられていません。ごめんなさい」

 いやそんな。謝ることでもないっすよ、マジで。別にどうしても知りたいと思いませんし----こら古泉、何でお前が残念そうな顔をしていやがるんだ。

 俺は朝比奈さんを救うべく、話題を変えることにした。えーと、何があったっけな、そうだ。

「おかしなことがある」

 自分に全員の注目が集まるのを待って、

「俺はハルヒがアホ絵を映しているときに居合わせたが、何も起こらなかったぞ。だいたいハルヒが絵を完成させたときになんでそいつは出てこなかったんだ?」

 答えたのは古泉だった。

「あの部室ならとっくに異空間化していますからね。何種類もの様々な要素や力場がせめぎ合い打ち消しあって、かえって普通になってしまっているくらいです。飽和状態と言ってもいいでしょうね。すでに限界まで色んなものが溶けて容量を満たしているわけですから、それ以上溶け込む余地はないというわけです」

 なんて理屈だ。というか文芸部室はそんな恐ろしげな魔窟になっているのか。まったく気付かなかったぞ。

「常人には余計なセンサーが付いていませんから。そうですね、そのままでも無害だと思いますよ。多分ね」

 やれやれだ。夏でも体感気温が涼しくなるくらいならいいのだが、知らないうちに気がヘンになってるとか首吊り用ロープを探しているとか、俺は嫌だぜ。

「心配しなくとも大丈夫ですよ。そうならないように、僕や長門さんや朝比奈さんも心を砕いてがんばっていますから」

 三人ががんばっているから、そんなことになってるんじゃないだろうな。

 古泉は微笑み、「さて?」とでも言うように首を傾げて両掌を上向けた。

 俺はパソコンの画面へ目を戻す。壊れたSOS団のシンボルマークを見ているうちに、なぜか気になった。マウスを操作してカーソル移動、画面の下へ、

「げっ」

 アクセスカウンタが映っている。なぜかそれだけは正常化して、ビジター数を叩き出している。俺が最後に見たそこの数字は三桁なかった。今、我がSOS団サイトのカウンタは、一十百千……なんと三千近く回っていた。なんだこれは。どこかに晒されているのか?

「ハイパーリンクがあちこちに張られている」

 長門が静かに言う。

「この情報生命体はそうやって増殖する。とても稚拙。サインを見た人間の脳へ自情報を複写し、限定空間を発生させる仕組み。なるべく大勢の人間が必要」

「では、これを見た人間……三千人近くが、部長と同じことになってるのか」

「そうでもない。この召還紋章はデータが破損している。正しい情報元を参照した人数はそれほど多くない」

 たぶんサーバ異常だと思うが、それで助かったな。

「何人くらいだ? 怪しいリンクをクリックして、まともに模様を見ちまったアホは」

「八人。そのうち五人は北高の学生」

 ならばその八人も、黄土色時空に引き込まれているんだな。カマドウマとは限らない、何かのメタファーとやらが支配する空間にさ。助け----まあ、行く必要があるだろう。古泉が長門にそいつらの住所を訊いているし(なぜそんなことを長門が知っているのか俺はもう驚いたりはしないぜ)、朝比奈さんも二人についていくつもりのようだ。なら、俺も行かないとダメだろうな。一番悪いのはハルヒだが、この魔法円みたいなのをネットに垂れ流してしまったのはこの俺なんだし、その尻ぬぐいくらいはしてやったほうがいい。

 俺の寝覚めが気分のいいものになるためにも。

 北高の被害者たちはともかく、他の三人を救い出すには、どうやら新幹線に乗らないといけないみたいだけどな。


 さて。

 テスト休み明けのことだ。後は夏休みを待つばかりとなった部室での一幕。

 ハルヒは、部長氏が学校に来ていることを教えてやると、

「ふうん。あっそ」

 といっただけで教室を飛び出し、今頃学食でたらふく喰ってることだろう。古泉と朝比奈さんはまだ来てない。

 ちなみに例のハルヒ考案SOS団シンボルマークは、長門がリテイクしてくれたものを貼り付け直した。今度は上手くアップロードできたのは、さて、なんでだろうね。これから見る奴はよーく目を凝らすといい。ハルヒのヘタクソ絵とほとんど違わないが、注意深く比べると「ZOZ団」と描いてあるのが解るはずだ。たったそれだけの違いで、変な物が出るか出ないかの瀬戸際なのだ。

 今回の警句は、見知らぬアドレスのリンクをほいほいクリックするなってことにしたいと思うのだがどうだろう。

 そんなことを考えつつ、俺はテーブルの端で数字が羅列した専門書を読んでいる長門をぼんやりと眺めていた。

 こうして長門の顔を見ていると、ひょっとしてと思えてくることがある。

 ハルヒの召還画像にこいつがいつ気付いたのかは解らないが、データを破壊してくれたのはこいつなのではないか?

 もう一つ、この事件を持ち込んでくれた喜緑江美里さんのこともある。ついさっき、コンピュータ研の部室で尋ねたところ、ここの部長には彼女はいないはずなのだそうだ。数日間の記憶喪失に悩んでいたものの、元気そうになっていた本人がそう言った。どうも嘘を吐いている様子はなかったし、ズバリ喜緑さんの名前を出してもポカンとするだけだった。こんなリアルな演技ができるほど部長氏は芸達者ではないよな。

 俺は疑う。

 喜緑さんがSOS団に来たのは、果たして本当に依頼のためだったのだろうか。考えてみれば、あまりにもタイミングが良すぎた。ハルヒがイタズラ描きをして、俺がサイトに貼り付ける。それを見た何人かが情報生命体とやらに異次元に連れて行かれる。訪れた喜緑さんに話を訊き、俺たちが部長宅へ向かう。そして、何とか退治する。

 絵に描いたようなシナリオだ。その中心にいたのはいつも長門だ。この万能宇宙人端末が喜緑さんをどうにかすることで俺たちに事件をもたらしたのだとしても、クドいようだが俺たちはちっとも驚かない。

 依頼人ごっこを演じることで、ハルヒの退屈をほんの少しでも解消させてやろうと考えたのかもしれない。この程度の事件なら、俺たちを巻き込まなくても長門一人で終わらせることができたはずだ。いつもはそうなのか? 誰にも言うことなく陰でひっそりと、何かおかしなモノを未然に防いだりしているんじゃないだろうな。

 窓から吹き込む風が長門の髪と本のページを巻き上げた。白い指がそっと本の端を押さえ、白い顔は伏せられたまま目だけが文字を追っている。

 それとも。俺たちを巻き込んだのは長門の希望だったのだろうか。殺風景な部屋で何年も暮らす宇宙人製の有機アンドロイド。無感情に見えるだけで、やはりこいつにもあるのだろうか。

 一人でいるのは寂しい、と思うことが。

 

孤島症候群

 

 肩の痛みも忘れるほど唖然とした。

 現在の俺は腹這いの姿勢から身体を起こすこともできず、自分の目に映った光景にただ驚愕しているところだ。俺が動けないのは背中に余計な錘が乗っていて、そいつが退かないからである。しかしそんなことは気にならないくらいだ。扉をぶち破った勢いのまま俺に覆い被さっている古泉も、やはりこの部屋の光景を目にして俺同様の驚きに打たれているのだろうな、さっさと降りろ----とも、俺は考えることができなかった。それほど俺は愕然としていたのだ。

 まさかである。まさか本当に起きてしまうとは、これはもうシャレだと言って笑ってすませられないぞ、どうすんだ。

 窓の外が光った。数秒後、雷の鳴る重低音が俺の腹に届く。本格的な嵐が、昨日から引き続き島全域を覆っている。

「……そんな」

 呟きが聞こえた。俺や古泉と一緒にこの部屋のドアに体当たりを敢行し、開いた拍子にもつれ合って転がり伏せった新川さんの声だった。

 ようやく古泉が俺の上から退いて、俺は横に転がるようにして半身を起こす。

 そして、今もってなお信じがたい光景を改めて凝視した。

 扉近くの絨毯の上だ。そこに人間が一人、さっきまでの俺みたいに転がっている。朝になってもダイニングルームに降りてこなかった館の住人、かつ主人でもある壮年男性。昨夜、リビングで俺たちと別れて、階上に向かったときと同じ格好をしているからすぐ解る。この真夏の島で、かっちりした背広なんぞを必然性もなく着込んでいたのは彼一人だ。先ほど呟き漏らした新川さんの雇い主、この島と館の所有者である……。

 多丸圭一氏だった。

 圭一氏は、驚愕の表情を顔に張り付かせて倒れている。ぴくりとも動かない。動かないはずだな、どうやら彼は死んでしまっているようだから。

 なぜ俺にそんなことが解るのか? 見れば解るだろう。胸の上に突き立っている物が何か、見覚えがある。晩飯に出てきたフルーツ籠に大量の果物と一緒になって混じっていた果物ナイフの柄だ。

 賭けたっていい。その柄の下には、金属製の刃が続いているに違いない。でなければ、目と口を開きっぱなしのまま動かない人間の胸にそんなもんが直立するわけはないからな。つまりナイフが圭一氏の胸に突き刺さっているというわけだ。

 たいていの人間は心臓を刃物で抉られたら死ぬだろうと俺は思っている。

 今の圭一氏の状態がまさにそれだった。

「ひえっ……」

 脅えきった小さな悲鳴が、破壊されたドアの向こうから聞こえた。振り返って見る。朝比奈さんが両手で口元を押さえていた。よろめくように後ずさるその肩を、背後にいた長門が押さえてやっている。いつでもどこでもどんな時でも無表情な長門は、ちらりと俺に視線を向けて、考え込むように顎を引いた。

 もちろん、俺たちのいるところにはこいつもいるに決まっている。

「キョン、ひょっとしてさ……この人」

 ハルヒも驚いているようだった。朝比奈さんの横から部屋の中に頭を突っ込んでいたハルヒは、どうやら永眠中の圭一氏を暗闇の中の猫みたいな瞳で見つめていた。

「死んでるの……?」

 珍しく小声で、さらに珍しく緊張したような声である。俺は何か言おうとして振り返った。古泉がいつもの微笑みをどこかにやってしまった難しい顔で立ちつくしている。廊下にはメイドの森さんの顔もあった。

 唯一、昨夜まで館にいたのにこの場にいない人がいる。

 圭一氏の弟、多丸裕さんがいなかった。

 こじ開けた部屋の内部に物言わぬ館の主人が一人、失踪者が一人。これは何を意味するのだろうか。

「ねえ、キョン……」

 ハルヒがまた言った。今にも俺にすがりつくんじゃないかと錯覚したほど、見慣れない不安な表情で。

 また、稲妻が光って部屋を照らし出した。昨日から嵐は佳境に入っている。雷の音とともに、荒れた波が島肌を削る効果音までついてきた。

 ここは孤島だ。それから嵐。おまけに密室で、そこにはナイフで刺された館主人が転がっているというこの情景。

 俺は思わずにいられない。

 なあ、おいハルヒ。

 この状況を作り上げたのは、お前なのか?

 俺はSOS団団員が総出でこんな場所に立ち会うハメになった、そもそもの原因へとフラッシュバックした。

 まだ夏休みになっていなかった。あの日のことを………。

 ………

 ……

 …


 それは夏真っ盛りの七月中旬頃であった。太陽に有給休暇をやりたいくらいの酷暑が今日も続いている。

 俺はいつものようにアジト代わりの文芸部室で、朝比奈印の熱いお茶を飲んでいた。返ってきた期末テストの結果からなんとか立ち直ろうとしていたのだが、来るべき補習のことを考えるとどうしたって気楽に構えることはできない。こういうときは現実逃避をするに限る。

 俺はすべての現実が嘘っぱちに過ぎないという理屈を瞬時にいくつか考えて、さてどれを選ぼうかと迷っている最中だった。

「あの、どうかしました?」

 追試の前日に月の裏側から極悪なエイリアンが集団で降下して国会議事堂を叩き潰すという嘘ストーリーへの耽溺を中止し、俺は我に返った。

「難しい顔をしてますけど……。お茶、美味しくなかった?」

「とんでもない」

 俺は答えた。相変わらずの甘露でしたよ。茶葉は安物ですが。

「よかったぁ」

 夏服メイド姿の朝比奈さんは、くすりと小さな吐息を漏らした。その安心し切ったような微笑みに俺もまた微笑み返した。あなたの喜びは俺の喜びでもあるのです。朝比奈さんの微笑みに勝る万能薬はたとえ徐副が蓬莱山に到達していたとしても入手できなかったことでしょう。俺の心は今や摩周湖の透明度よりも澄み切り脳内に天の御使いたちが管楽器を吹き鳴らす光景すら幻視するありさまなのですよ……。

 と、小鳥を前にした聖フランチェスコのような熱意を込めて説こうとしたのだがやめておいた。意味のない修飾語の連続が面倒になったわけではなく、邪魔な野郎が無駄に軽快な声で割り込んだからだ。

「やあどうも。期末テストはどうでしたか?」

 古泉がテーブルに広げたモノポリーのルーレットを回しながら訊かなくてもいいことを訊いてきた。おかげで俺は再び月の裏へとワープしかけ、衛星軌道でなんとか意識を静止した。お前はそこで一人モノポリーでもおとなしくやっていればいいんだ。部屋の隅っこで静かに読書している長門の爪から垢でも分けてもらえ。

 パイプ椅子の上に百科事典みたいなハードカバーを広げている長門は、夏服セーラーを着たガラス製仮面みたいな顔のまま息もしないような雰囲気でページに視線を落としている。どっちかといえばデジタルっぽい存在のくせに、アナログな情報入力が好きなのは何か理由でもあるのだろうか。

「…………」

 それにしても全員ヒマだな。

 とっくに短縮授業になっていて学校の営業も午前で終わりだってのに、なんだってこんな所に集まっているんだ? それは俺もだが、俺にはちゃんとした理由があるぜ。一日一杯、朝比奈さんのお茶を飲まないと俺は死ぬ身体になってしまっているのだ。おかげで土日は禁断症状で苦しんでいる。

 というのは冗談だ。断るまでもないのだが、一応言っておかないと冗談の通用しない奴がいることを俺は高校に入学して学んでいるんでね。この数ヶ月で学んだことがそれだけという俺が言うんだから間違いない。冗談と本気の線引きはちゃんとしておいた方がいい。でないとロクでもない目にあう恐れがあるからな。

 今の俺みたいに。

 俺は通学鞄を開けると購買部から身請けしたハムパンを取り出して、お茶請けにすることにした。

 夏休みまでのカウントダウンをするくらいしかないこの時期に、俺たちが部室で猫溜まりの猫のようにダマっているのには理由がある----わけがない。自信を持って言えるね。理由もなく発足したようなSOS団だ、そんなもん最初からねえ。強いて言うならばその理由のなさこそが理由だな。理由があっては困るのだよ。どうせ唐変木なことしかしないのなら、まだ無意味であったほうが頭も痛まないというものだ。考える必要もないからさ。

「あたしもお弁当にしますね。今のうちに」

 いそいそと自分の分のお茶を用意した朝比奈さんは、実に可愛らしい弁当箱を出してきてテーブルの俺の向かいに着席した。

「僕ならお構いなく。学食で済ませてきましたから」

 尋ねてもいないのに古泉が爽やかに断りを入れ、長門は食い気より読書欲をもっぱらとしているらしい。

 朝比奈さんはふりかけでスマイルマークを描いて白いご飯をつつきながら、

「涼宮さんは? 遅いですね」

 俺に訊かれても。どっかその辺でバッタでも捕ってるんじゃないですか。夏ですし。

 古泉が代わりに答えた。

「先ほど学食でお見かけしましたよ。感嘆すべき健啖でした。食べた分がすべて栄養に回るのだとして何エルグになるのか想像もつきません」

 そんなもん計算する気にもならんね。何ならこのまま夕食まで食堂に篭もっていればいい。

「そうもいかないでしょうね。今日は何か重大な発表があるみたいですよ」

 どうしてお前がそんなに朗らかでいられるのか俺には解らん。あいつの重大発表とやらが有益であったためしはないからな。お前の記憶容量は五インチFD以下なのか?

「だいたいなんでお前がそんなことを知ってるんだよ」

 古泉はバックレ顔で、

「さて、それはなぜでしょうね。お答えしてもいいのですが、涼宮さんは自分の口から言いたいのではないでしょうか。僕がフライングして彼女の興を殺ぐようなことになれば大問題です。黙っておきますよ」

「俺だって聞きたくもなかったね」

「そうですか?」

「ああ、そのお前の口ぶりで、あのアホがまたアホなことを企画しているらしいと知れたからな。俺の心の平和があと何分の命だったかは解らんが、たった今平和じゃなくなったのは確か、」

 だ、と続けようとした俺のセリフは、どかんと開いたドアの音にかき消された。

「よし、みんなそろってるわね!」

 ハルヒがスペクトル分光器みたいに目を輝かせて立っていた。

「今日は重要な会議の日だからね。あたしより遅れて来た奴は空き缶蹴りで永遠に鬼の役の刑にしようと思っていたところよ。あなたたちにもそろそろ団員魂が芽生えてきてるみたいで、それはとてもいいことよ!」

 今日が会議の日などであることを俺が聞いていないのは言うまでもない。

「ずいぶんのんびりだったな」

 イヤミのつもりだったのだが、

「いい? 学食でたらふく食べるコツはね、営業終了間際に行くことよ。そしたらおばちゃんが余りそうな分もオマケしてくれるのね。でもタイミングが重要なの。待っているうちに売り切れちゃってたら目も当てられないからね。今日はアタリの日だったわ」

「そうかい」

 食堂なんぞ滅多に利用しない俺からしたら、そんなどうでもいい情報を得意満面に聞かされてもそれくらいしか言うことない。

 ハルヒは団長机の上にとすんと腰を降ろした。

「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」

「お前が言い出したことだろ」

 しかしハルヒは俺を無視して、行儀良く箸を使っている朝比奈さんを名指しで呼んだ。

「みくるちゃん、夏と言えば何?」

「えっ」

 口を隠してモゴモゴしていた朝比奈さんは、本人の手作りらしきオカズを飲み下した。

「夏ですか……。うーんと、盂蘭盆会……かなあ」

 いやに古風な答えに、ハルヒは目を瞬かせた。

「ウランボン? 何それ。クリムボンの間違いじゃないの。そうじゃなくて、夏と言えば即座に連想する言葉があるでしょう」

 何だろう。

 ハルヒは当然だと言わんばかりの口調で、

「夏休みよ夏休み。決まってるじゃない」

 そのまんま過ぎる。

「じゃあ、夏休みと言えば?」

 第二問を出題し、ハルヒは腕時計を見ながら「カッチ、コッチ」と口効果音。

 つられた朝比奈さんも慌てて考えているようだ。

「えーと、あーと、う……海っ」

「そうそう、かなり近付いてきたわ。では海と言えば?」

 何なんだこれは。連想ゲームか?

 朝比奈さんは頭のカチューシャを斜めにしながら、

「うみ、うみ、えーと……あっ、お刺身?」

「全然違うわよ。夏からどんどん離れてるじゃないの。あたしが言いたいのは、夏休みには合宿に行かなければならないってことよ!」

 俺は見れば見るほどムカの入る古泉の微笑を睨んだ。お前の言っていた重大発表ってのはこれのことか。

「合宿だと?」

 ハテナマーク付き呟きに、ハルヒは大きく首肯した。

「そ、合宿」

 部活持ちの奴なら合宿の一つもするだろうが、我々がそんなもんをして何になると言うんだろう。まさかどっかの山奥で見つかるはずのないUMAを俺たちに捕獲させようってんじゃないだろうな。

 朝比奈さんと古泉と長門を順に見て、それぞれに驚きと微笑みと無を見出してから言った。

「合宿ね……何のだ?」

「SOS団の」とハルヒ。

「だから何しに行くんだよ」

「合宿をするために」とハルヒ。

 はあ?

 合宿をするために合宿に行く。

 それは頭痛が痛いとか悲しい悲劇とか焼き魚を焼くとかいうのと同じではないだろうか。

「いいのよ。この場合、目的と手段は同一のものなわけ。それに頭痛ってのは痛いものでしょ? 頭痛が甘いじゃおかしいもんね。だいたいあってるわ」

 日本語が乱れようと標準語が河内弁になろうと知ったとこではないが、それより問題は合宿とやらだろう。

「どこに行こうと言うつもりだ」

「孤島に行くつもりよ。それも絶海のっ、ていう形容詞がつくくらいのとこ」

 さて、夏休みの課題図書に『十五少年漂流記』があるとは聞いていないが、いったい何を読んだらそんなことを言い出せるんだろう。

「候補地を色々と考えてみたんだけどね」

 ハルヒは喜色満面である。

「山か海かどっちにしようと悩んだのよ。最初は山のほうが行きやすいかなって考えたんだけど、吹雪の山荘に閉じこめられるのは冬しか無理だし」

 グリーンランドにでも行けばいい……ではなく、なんでまたそんなことする必要があるのかが疑問だ。

「閉じこめられるためにわざわざ山荘に行くのか?」

「そうよ。そうじゃないと面白くないからね。でも雪山はいったん忘れなさい。冬の合宿に取っておくから。この夏休みは海に、いいえ! 孤島に行くわよっ!」

 やけに孤島にこだわるな、とは思ったが、それはまあ反対する気はない。反対したところで無駄であることもさることながら、この季節柄、海はなかなか魅力的な場所である。それで、その絶海の孤島とやらにはちゃんと海水浴場があるんだろうな。

「もちろん! そうだったわよね、古泉くん」

「ええ、あったと思いますよ。監視員も焼きトウモロコシの屋台もない自然の海水浴場ですが」

 さっそうとうなずく古泉を俺は疑問形の視線で眺めた。なんでお前がそこで出てくるんだ。

「それはですね」

 古泉が言いかけるのをハルヒが遮った。

「今回の合宿場所は古泉くんが提供してくれるからよ!」

 机の中に手を突っ込んだハルヒはごそごそまさぐったのち、無地の腕章を出してきた。そこにマジックで「副団長」と書き入れて、

「この功績によって古泉くん、喜んでちょうだい、あなたを二階級特進してSOS団副団長に任命されることになったわ!」

「拝領します」

 うやうやしく腕章を受け取る古泉は、俺に横目を流し込んでウインクしやがった。言っておくが羨ましくもなんともないぞ。そんなもんノベルティとして作ったとしても誰も欲しがりやしない。

「というわけ。三泊四日の豪華ツアーよ! 張り切って準備しときなさい!」

 ハルヒはそれだけで話は終わったと言いたげな顔で、俺たちの理解を誘ったと思い込んでいるようだった。もちろん違うぞ。

「いやちょっと待てよ」

 俺は朝比奈さんと長門を代表するために一歩ほど前に出た。

「それはどこの島だ。招待だぁ? なんだそれは。古泉がどうして俺たちを招待なんぞするんだ?」

 謎の転校生としてハルヒに定義された古泉だって怪しい奴だが、その背後にいるらしい『機関』というアホっぽい組織はもっと怪しい。俺たちを連れて行った先がどこかの研究所で、ハルヒや長門あたりを生体解剖しようという罠ではないだろうな。

「僕の遠い親戚に、けっこうな富豪である人がおられましてね」

 と、古泉は人畜無害な笑顔を見せた。

「無人島を買い取ってそこに別荘を建てるくらいの金を余している人です。実際に建ててしまいましてね。その館が先日落成式を迎えたんですが、誰もそんな遠いところまでわざわざ行こうという知り合いはおらず、親類中から訪問者を募った結果として僕にお鉢が回ってきたというわけです」

 そんな怪しい島なのか。俺は遠い昔に読んだ気のするロビンソン・クルーソーのジュブナイルを思い出した。

「いえ、元はただの小さな無人島です。僕たちはこれから夏休みですし、どうせならSOS団全員で出かけたほうが何かと楽しそうですしね。その別荘の持ち主も、喜んで迎えてくれるそうですよ」

「そういうことよ!」とハルヒ。

 俺たちを困惑させるときによく浮かべる絶頂の笑いを浮かべている。

「孤島なのよ! しかも館よ! またとないシチュエーションじゃないの。あたしたちが行かずに誰が行くって感じだわ。SOS団合宿inサマーにふさわしい舞台よね!」

「なんで?」と俺。「お前の好きな不思議探しと孤島の館に何の関係があるんだ」

 しかしハルヒは一人で自分の世界に入り込んでいた。

「四方を海に囲まれた絶海の孤島! しかも館つき! 古泉くん、そのあなたの親戚の人はとてもよく解ってるわ! うん、話が合いそうな気がする」

 ハルヒと話が合うような人間は例外なく変態だから、きっとその館とやらの主人も変態なんだろう。こいつと話が合ったらの場合だけど。

 ハルヒの主張を聞いているのか長門は不明だが、朝比奈さんは昼食を中止して軽く驚いているようだ。

「だいじょうぶよ、みくるちゃん。お刺身なら新鮮なのが食べ放題だから。そうよね?」

「計らいましょう」と古泉。

「そういうわけだからね」

 ハルヒは再び団長机から無地の腕章を取り出した。どんだけ予備があるんだ。

「行くわよ孤島! きっとそこには面白いことがあたしたちを待ち受けているに決まってるの。あたしの役割も、もう決まっているんだからね!」

 そう言いながら腕章にマジックで書き込んでいる。その乱暴な文字は、俺の目には「名探偵」という三字の漢字に見えた。


「何を企んでいるのか聞かせてもらおう」

「何も」

 しれっと否定する。

 重大発表を終えて満足したハルヒが退散し、朝比奈さんと長門も部室から出て帰宅の途についている。残っているのは俺と古泉だけだった。

 古泉は長めの前髪を指で弾き、

「本当ですよ。僕が言い出さなくても涼宮さんはどこかに出かけるつもりだったでしょう。夏休みは短いようで長いですからね。あなたは海より山でツチノコを探すほうがよかったですか?」

「何だ、ツチノコって----いや、いい。ツチノコの説明はするな。それくらいは解ってる」

「三日ほど前ですが、駅前の本屋でたまたま涼宮さんと出くわしましてね。熱心に日本地図を眺めていましたよ。もう一冊、未確認生物を特集したオカルト雑誌も広げていましたっけ」

 UMA探索合宿旅行か、それはそれでぞっとしないな。ハルヒのことだ、本当に何かを発見しそうで怖い。

「でしょう? 涼宮さんはどうやら何かを捕まえに行くつもりのようでした。僕が感じた限りでは比婆山脈が第一候補のようでしたね。だったらまだ海辺で日光浴をしているほうが、我々全員にとって最大公約数的幸福ではないかと考えたのです。そのアテもあったことですし」

 よくもそんな都合のいいアテがあったものだ。まあ確かに炎天下の山歩きよりは、浜辺で水着の女子部員を鑑賞しているほうが地獄とユートピアくらいの差はあるな。

「決め手となったのは個人所有の無人島だってことらしいです。クローズドサークルが、とか言っていましたね」

 当然、俺は尋ねる。知らないことは素直に訊くのが一番だ。

「クローズドサークルって何だ?」

 古泉はまったくイヤミでない、これがイヤミなのだとしたら見るほうの目がどうにかしていると俺でさえ解るような笑みを広げた。

「やや意訳気味かもしれませんが」

 微笑んだまま古泉は一拍置いて、

「閉鎖空間と言っていいでしょうね」

 俺の表情のどこが面白いのか解らないが、古泉はくっくっと笑い、

「それは冗談です。クローズドサークルというのはミステリ用語ですよ。外部との直接的な接触を絶たれた状況のことです」

 もっとまともな日本語を喋れ。

「古典的な推理劇において登場人物たちが置かれることになる舞台装置の一つですね。一例を挙げますと、たとえば我々が真冬にスキーに出かけたとします」

 そういやハルヒも雪山が何とか言っていたな。

「その雪山で宿泊するところまではいいのですが、そこで記録的な大雪が降ったとしましょう」

 んなとこ行くんだったらあらかじめ天気予報には注意しそうだが。

「さて困りました。吹雪と積雪に阻まれて下山することができません。また、誰かが新たに山荘に来ることもできません」

 なんとかしろ。

「なんともできないからクローズドなのです。そしてそのような状況下で事件が起きます。最もポピュラーなものが殺人事件ですね。ここで舞台が生きてくるというわけです。犯人もその他の人物も建物から逃げ出すことはできません。また、外部からも新たな登場人物が来ることもありません。特に警察がやってくるなどもってのほかです。科学捜査などで犯人が判明してもちっとも面白くありませんからね」

 毎度のことだが、こいつは何を言ってるんだろう。

「おっと失礼。つまりではですね。涼宮さんの今回のテーマは、そのようなミステリ的状況の当事者となることなのです」

 それが島なのか。

「そう、孤島です。島に何らかの理由で閉じ込められ脱出不可能となった中での連続殺人でも夢想しているのではないでしょうか。クローズドサークルとして、吹雪の山荘か嵐の孤島かという、公権力の介入をキャンセルする舞台としては双璧を誇っていると言ってもいいでしょうね」

「俺はお前が妙に楽しそうなのが気がかりだがな」

 ハルヒが熱暴走するのは夏に限ったことでもないだろうが、お前まで奴の傍若無人を後押しすることはないだろう。別に俺が副団長の座をもらえなかったからむくれているんじゃないぞ。

「実は僕もそのような舞台が好きなものですから」

 人の好みにイチャモンをつける気はないが、一つだけ言わせてくれ。俺は全然好きじゃない。

 だが、古泉も俺の好みに頓着せず、論文を読むような口調で続けた。

「名探偵について考えてみましょう。普通に一般的な人生を送っている人々は、そのまま普通にしていれば奇妙な殺人事件に巻き込まれることは稀ですね」

「そりゃそうだ」

「しかしミステリ的創作物の名探偵たちは、なぜか次々に不可解な事件の数々に巻き込まれることになっています。何故だと思いますか?」

「そうしないと話にならないからだろう」

「まさしくね。大正解です。そのような事件はフィクション、非現実的な物語の世界にしかありません。ですがここでそんなメタフィクショナルなことを言っていては身も蓋もありませんね。涼宮さんは、まさにフィクションの世界に身を投じようと考えているようですから」

 そういえばSOS団はそのためにあいつが作ったんだな。

「そのような非現実的なミステリな事件に遭遇するには、それにふさわしい場所に出かけなければならない。なぜなら創作上の名探偵たちは、そうやって事件に巻き込まれるからです。いわば事件の当事者となる必要があるわけですよ。放っておいても事件が向こうからやってくるには、肉親か関係者に警察のお偉いさんがいるとか、主人公が警察官そのものとか、シリーズを経て数作目を待たなければなりません」

 なるほどな。長門がSF好きなのは解っていたが、お前はミステリ好きだったんだな。そんでハルヒはどっちも好きなんだろう。

「素人が探偵役をしようとしたら、まず周囲に発生した事件に意図せずして巻き込まれ、かつ明快に解決しなければならないのです」

「そんな都合よく事件が身近で起きるわけないだろ」

 古泉はうなずいた。

「ええ。現実は物語のようにはいきません。この学校内で興味深い密室殺人が発生する確率は低い。ならば、発生しやすそうな場所に行けばいい、と涼宮さんは考えたに違いありません」

 本末転倒という熟語が俺の脳裏で点滅した。

「それが合宿の舞台となる、今回の孤島です。なぜか知りませんが、そういう場所は殺人事件の劇場としてうってつけだと世間的に考えられているのです」

 どこの世間だ、それは。えらく狭い世間もあったものだ。

「言い換えれば名探偵の現れる所に、奇怪な事件は発生するのですよ。たまたま出くわすのではなく、名探偵と呼ばれる人間には事件を呼ぶ超自然的な能力があるのです。そうとしか思えませんね。事件があって探偵役が発生するのではなく、探偵役がそこにいるから事件が生まれるのですよ」

 俺は誤ってウミウシを踏んづけた時のような目を古泉に向けた。

「正気か?」

「僕はいつでもほどほどに正気のつもりです。名探偵やクローズドサークル云々は僕がそう考えているわけではなく、涼宮さんの思考パターンをトレースしてみただけです。つまりですね、解りやすく言うと彼女は探偵役になってみたいんですよ。合宿の目的がそれなんです」

 どうやったらあいつが名探偵なんぞになれるんだ。事件を自作自演して犯人役と探偵役を兼ねるんならできるだろうが。

「それでも僕はツチノコ狩りや猿人探しよりはいいと思いましたね。僕は涼宮さんには知り合いが島に別荘を建てていて招待客を募集しているとしか提言しませんでしたよ。もちろん殺人事件を期待しているわけでもありません。僕はね」

 古泉の爽やかな笑みは、いつ見ても腹立たしい。ひょいと肩をすくめる動作もな。

「涼宮さんにささやかな娯楽を提供しているだけです。そうでもしないと、彼女が退屈を紛らわすためにどんなことを考えるか解りませんから。だとしたら、あらかじめこちら側で舞台を調えているほうが幾らか対処のしようもあるということです」

「こちら側ね」

 憮然とする俺に、古泉は取り繕うように返した。

「この件に『機関』は無関係ですよ。一応報告はしましたけど。僕は超能力者の一員でありますが、それ以前に一人の高校生なのです。いいじゃないですか、合宿も。実に高校生らしい世界です。親しい友人たちとの旅行は心躍るイベントでしょう?」

 ハルヒが単なる旅行に心を躍られているだけならいいんだがな。これが普通の温泉地とか陸続きの海岸とかならいいのだが、なんせ孤島だぜ? ハルヒのことだ、台風の二つくらいを呼び寄せちまうかもしれない。

 ……まあ、いくらあいつでも殺人事件を起こすほど狂気に侵されてはいないだろう。でなけりゃ北高はとっくに死体の山になっているだろうからな。それよりも重要なことがあるような気がして、俺は沈思黙考する。

 夏で海で三泊四日。そこには白い砂浜があり、太陽も好調に炎上してくれていることだろう。ならば今の酷暑も少しは勘弁してやろうじゃないか。がんばれ太陽。

 さて、今から朝比奈さんの水着姿を拝む準備をしておかないといけないな。


 気前のいいことに宿泊費用はタダなのだと言う。食費もロハでいいらしい。俺たちが払うのは往復のフェリー代くらいであった。

 そして俺たちは、港のフェリー乗り場に集合して乗船時間をいまや遅しと待ちわびているのだ。

 ハルヒはよほど急いで合宿に行きたかったようだった。一学期の終業式は昨日であり、つまり今日は夏休み初日である。古泉とその親類はいつでもいいみたいだったが、休みに入るなり早速遠出しようとは、いかにもせっかちなハルヒの性格をよく表していると言える。ハルヒの顔を見ずにすむ日々をゆっくり過ごせると思ったのだが、それすら許さないのが涼宮ハルヒという存在そのものであり、その意義でもあった。

「フェリーに乗るなんて久しぶりだわ」

 サンバイザーを斜めに被り、ハルヒは波止場の際で鉛色の海面を眺めている。ベタつく潮風に黒髪を遊ばせながら乗降口の先頭に並んでいる。

「おっきい船ですね。これが水に浮かぶなんて不思議」

 両手でバッグを持つ朝比奈さんが、船体を見上げて感嘆するように言っている。白いサマードレスに麦わら帽子をかぶっている姿がとことん愛らしい。ちゃんと顎の下で帽子のヒモを結んでいるのも朝比奈さんらしいね。彼女の子供みたいな双眸は、中古のフェリーがまるで遺跡から発掘された古代の葦舟であるかのような輝きを見せていた。彼女の時代には船は水に浮いていないのかもな。

「…………」

 その後ろでは長門がぼんやりした顔で船の横腹に書いてある企業名を見つめている。珍しいことに、長門は制服を着ていなかった。クロスチェックのノースリーブで黄緑色の日傘を差して薄い影を落としている。病弱な少女が久しぶりに退院してきたばかりのような雰囲気だった。どっかでインスタントカメラでも買ってきて撮っておきたい。谷口あたりに高く売れそうだ。

「晴天に恵まれてよかったですね。絶好の航海日和と言えるでしょう。船室は二等ですが」と、古泉は言う。

「相応だろ」

 パーティションもろくにない大部屋である。何時間もの長旅だったが個室なんか俺たちには十年早いさ。たかだが高校生の合宿旅行である。

 本質的に問題なのは、これが合宿でもなんでもないということだな。合宿のための合宿なんざ、意味のある行動とは言えまい。だいたい通常のクラブ合宿には引率の顧問教師が必要なんではないだろうか。SOS団にそんなもんはいない。学校から認可されていない部活なのだから、いたらかえって驚くね。北高では顧問がいないと同好会すら認められないことになっているわけで、これは俺の勘だがSOS団の顧問になろうとする教師がいたとしてもハルヒが必要とするとも思えない。必要なんだったらとっくにどこからか拉致して来ているだろうからな。俺たちがそうであったみたいに。

 俺が大あくびをする横に、朝比奈さんがとことこと近寄ってきた。丸い目をさらに丸くしている彼女は、

「あんな大きな船がどうやって浮いているんですか?」

 どうやってって、浮力以外の何で浮くんでしょう。朝比奈さんがいた時代には理科の授業はなかったのだろうか。

「あっ、そうか。浮力。そ、そうですよね。なるほどー灯台もと暗しってやつですね」

 いったい何をそんなに納得したのか、朝比奈さんは今にもユーレカと叫んで風呂桶から飛び出しそうな顔でうんうんうなずいている。

 試しに質問してみよう。訊くだけなら害になるまい。

「あのー朝比奈さん、未来の船は何か画期的な方法で浮いているんですか?」

「うふ。あたしが言えると思う?」

 訊き返され、俺は首を振った。ぜんぜん思いません。突っつき先をちょっと変えて再度の質門。

「海はあるんでしょうね」

 朝比奈さんは帽子の縁をちょいとつまんで傾けた。

「ええ。あります。海はあるわ」

「そりゃよかった」

 近未来か遠未来かも知れないが、地球がオール砂漠化していないようで何よりだ。そこの海の成分が今よりマシになっているといいんだけど。

 俺が未来人からさらなる有益な情報を聞き出そうと意気込んでいたというのに、

「キョン! みくるちゃん! 何してんの、時間よ!」

 ハルヒの叫びが乗船時間を知らせた。


 ところで集合時間に俺は遅れて来てしまっていた。朝、自宅から出ようとしたところ、持ち上げたスポーツバッグがやけに重い。不審を覚えて開けてみたら、着替えや洗面用具の代わりに俺の妹が入っていたのである。昨夜うっかり口を滑らせたおかげで俺がハルヒたちと旅行に出かけることに感づいた妹は「あたしも行く」と喚き散らしており、おとなしくさせるまで二時間くらいかかったのだが、ついに密入国を計画したらしい。俺はバッグから妹を叩き出すと、中身をどこに隠したのかを問いつめ、黙秘権を行使する妹を宥めたりすかしたり絞めたりしているうちに時間を喰ったのだった。お前には土産を買ってやらん。そのための金は、他のSOS団が喰っているフェリー内売店の弁当に化けたからな。

 二等客室、フラットルームの一角を陣地としたSOS団の面々は、俺が買わされた幕の内弁当を食べながら歓談をおこなっていた。喋っているのはもっぱらハルヒと古泉だけだったが。

「あとどれくらいで着くの?」

「このフェリーで約六時間ほどの旅になります。到着した港で知り合いが待っていてくれる手筈になっていまして、そこから専用クルーザーに乗り換えて三十分ほどの航海ですね。そこに孤島とそびえ立つ館が待っているというわけです。僕も行ったことがないので、どのような立地なのかはよく知りませんが」

「きっと変な建物なんでしょうね。設計した人の名前は解る?」とハルヒはワクワクという擬音を背景にして尋ねた。

「そこまでは聞いていませんね。それなりに有名な建築家に頼んだというようなことは言っていたような」

「楽しみだわ。すっごく」

「期待に添えることができればいいのですが、僕も下見をしたわけではないのではっきりとは解りかねます。しかし、無人島に個人所有の別荘を建てようなどと考える人間の建てた代物ですし、どこか特殊なのではないですかねえ。だといいですねえ」

 古泉はそう言うが、俺は別にそうであって欲しくない。もしハルヒの望み通りに図面を引いたとする。それは多分、三日くらい徹夜続きの上にアル中で朦朧としたガウディが居眠りしながら設計したような建物になるだろう。俺はそんな奇怪な屋敷で宿泊したいとは思わない。普通の旅館がいい。朝飯に焼き海苔と生卵が出てくるような純和風のやつがさ。ナントカ館なんて名前が付いていたら、それこそハルヒは自分が殺人犯になってでも事件を起こそうとするかもしれないだろ?

「島! 館! SOS団の夏季合宿にふさわしいったらないわね。これでこの夏休みの第一歩は完璧な出だしだわ」

 浮かれているハルヒを中心にして、俺たち団員はただただ無言を押し通すしかなかった。


 波に揺られる以外することもないので、俺たちは古泉発案によるババ抜きをひとしきり楽しんで、全敗した古泉が買ってきた人数分の缶ジュースを受け取り、ひたすらに黙々と飲んでいた。

 なんだか行く手に待ち受ける孤島だとか館だとかに、正体不明な不吉な響きを感じずにはいられず、それは朝比奈さんとも共有すべき予感であるようだ。

 二口くらいで飲み干したハルヒは、

「みくるちゃん、顔色悪いわね。船酔い?」

「いえ……その……。あ、そうかも」

 答える朝比奈さんに、ハルヒは、

「それはよくないわね。外に出たほうがいいわ。デッキに上がって潮風を浴びてくればすぐ直るわよ。ほら、行きましょう」

 そう言って朝比奈さんの手を取った。ニヤリと微笑みながら、

「心配しなくてもいいわよ。海に突き落としたりしないから。んん……それもいいかしら。船上から忽然と消え失せる女の乗船客」

「ひ」

 固まる朝比奈さんの肩をどやしつけ、

「嘘よ、うそうそ。そんなのちっとも面白くないもんね。せめて船ごと流氷に激突するとか、巨大イカに襲われるとかしなきゃね。事件なんて言えないわ」

 後で救命ボートの位置を確認しに行こう。この真夏に流氷がこんな日本近海まで出張してくるとは思えないが、未知の水棲怪獣がどこからか浮上するくらいはやりそうだ。出てきたら退治してくれよ、というメッセージの篭もった俺の視線をどう受け取ったのか、古泉は微笑み返して長門は壁を見つめたままだった。

 ハルヒは一人でまくしたてている。

「やっぱ事件は孤島で起きるものよね! 古泉くん、このあたしの期待を裏切らないわよね!?」

「どのような出来事を事件というのかは定かではありませんが」

 古泉は柔和に答えた。

「愉快な旅行になることを僕も願っていますよ」

 心にもないことを言っている奴特有の、あやふやな微笑を古泉は浮かべていた。いつもの表情と言えばそうなのだが、俺はスマイル仮面の真の顔を見極めようと超能力野郎をじろじろ眺め、すぐにあきらめた。こいつの笑顔は長門の無表情と同じで、何の情報も持たないのだ。まったく、少しは喜怒哀楽をはっきりさせて欲しい。ただしハルヒほどはっきりしなくてもいい。

 でたらめなハミングを歌いながら、ハルヒは朝比奈さんをせっついて船底から出て行った。朝比奈さんが何度も振り返りつつ、俺について来て欲しそうな顔をしていたが、俺の錯覚かもしれないし調子に乗って後をつけるとハルヒが気分を害しそうな気もするのでやめておいた。

 いくらハルヒでも朝比奈さんが海に落っこちようとする前には助けるだろう。俺は天井を見上げてそう願い、鞄を枕にして横たわった。朝も早かったことだし、少し眠らせてもらうことにする。


 夢の中では何かファンタジーなことをしていたような気がするのだが、記憶に定着させる前に俺は叩き起こされ、ハルヒからの命令電波を受信した。

「何寝てんのよバカ。さっさと起きなさいよ。あんたは真面目に合宿するつもりあんの? 行きの船の中でそんなことじゃこれからどうするつもり?」

 寝ているうちに乗り継ぎの島に到着したようで、俺は何か取り返しのつかない損をしてしまったような気になった。

「初めの一歩が重要なのよ。あんたは物事を楽しもうっていう心意気に欠けているの。見なさい、みんなを。合宿に向ける気持ちが瞳の輝きとなって溢れているじゃない」

 ハルヒが指差す先には、下船に向けて荷物を抱え始めている三名の下僕たちがいた。

 そのうちの一人、スマイル少年が、

「まあまあ涼宮さん。彼は合宿のための英気をやしなっておいでだったのですよ。おそらく今日は徹夜で我々を楽しませてくれるようなことを考えているのではないでしょうか」

 古泉のしなくてもいいフォローを聞きながら、俺はどこに瞳の輝きがあるのかと自動人形のような長門の顔を観察し、朝比奈さんの小動物のような瞳を拝見し、

「もう着いたのか」と呟いた。

 何時間もの船旅。ここにいるのはSOS団のメンツたち。いや、他の連中はどうでもいいが、朝比奈さんと優雅な船底での何かをおこなうまたとない機会を、俺はみすみす欲求に赴くままの睡眠によって消し去ってしまったわけだ。

 うお。いきなりケチがついた。俺の夏休みはこんなんでいいのか。本日現時点での思い出はババ抜きくらいしかないぞ。潮風に冷やかされつつ二人して語らう憩いの時間は?

 いぎたなく眠ってしまった数時間前の俺の胸ぐらつかんで蹴りを入れたい気分だよ。

 俺が半分寝ぼけながら自己批判を脳内で繰り広げていると、

 ぱしゃん。

 フラッシュの光に目が眩んだ。

 音がした方向に視線をやれば、そこには朝比奈さんがいてカメラを構えている。可憐に微笑む童顔の天使は、

「ふふー。寝起きの顔撮っちゃいました」

 悪戯を成功させたおしゃまな幼稚園児のような顔で、

「寝顔も撮っておきました。よく寝てましたよ?」

 途端に俺は元気になった。朝比奈さんが俺を隠し撮りする理由とはなんだろう。ひょっとしたらどうしても俺の写真が欲しかったからではないか。可愛らしい写真立てに入った俺の写真を枕元に置いて夜ごと「おやすみなさい」を言うためではなかろうか。それがいい。そうしよう。

 いやだなあ、言ってくれたら写真なんかいくらでも差し上げるのに。何なら自宅のどこかに仕舞われているアルバムごと進呈しても何ら差し支えない。

 しかし、俺がそう申し出ようとした時だ。朝比奈さんは持っていたインスタントカメラをハルヒに手渡した。

「キョン、何あんたニヤニヤしてんの? バカみたいだからよしたほうがいいわ」

 ハルヒは事故現場のスクープ写真をどこの新聞社に売りつけようか考えているような顔をして、カメラを自分の荷物にしまい込んだ。

「みくるちゃんには今回、SOS団臨時カメラマンになってもらうことにしたの。遊びの写真じゃないのよ。我がSOS団の活動記録を後世に残すための貴重な資料とするわけ。でもこの娘に好きなように撮らせたらしょうもないものばっかり撮りそうだから、あたしが指示するってわけよ」

 それで、俺の寝顔と寝起き顔のどこに資料的価値があるってんだ?

「合宿の緊張感を持たずにマヌケ面で寝ているあんたの写真を晒すことによって後の世の戒めとすんの! いい? 団長が起きてんのに下っ端がぐうぐう寝てるなんて、モラルと規律と団則に違反するんだからね!」

 ハルヒは怒ってるのか笑ってるのかどっちかにしろと言いたくなる表情で俺を睨みつけていて、どうやら団則なんかいつ作ったんだという俺の疑問をぶつけても無駄のようであた。どうせ明文法ではないだろうし、ここは小川の水のように流されておこう。

「わかったよ。寝顔にイタズラ描きされたくなかったら、お前より早く寝るなってことだろ? その代わり、俺がお前より遅く起きていたらお前の顔に髭くらい描いてもいいんだろうな」

「なによそれ。あんたそんな子供みたいなことするつもりなの? 言っとくけど、あたしは気配に鋭いほうだから眠ってても反撃するわよ。それから団長にそんなアホなことをする団員は死刑だから」

 なあハルヒ、いまどき先進国じゃあ死刑制度を採用している国のほうが少ないみたいだぞ。その点に関してはどう思う?

「なんであたしがよその国の刑法なんかを論評しないといけないのよ。問題は外国で起こってるんじゃないの。これから行く不思議な島で起こるの!」

 起こす、の間違いでないことを祈りながら、俺は自分の鞄を引き寄せた。

 船がぐらりと揺れる。波止場に停まる準備段階に入ったようだ。他の乗船客たちもぞろぞろと通路を出口付近に向かいつつある。

「不思議な島ね……」

 俺たちが向かうのはパノラマ島か何かか? せめて突然浮き上がったり泳ぎだしたりする島じゃなければいいのだが。

「だいじょうぶですよ」

 古泉が俺の心中を察したような顔でうなずいた。

「何の変哲もない、単なる離れ小島です。そこには怪獣も狂気におかされた博士もしません。僕が保証します」

 こいつの保証はいまいちアテにならない。俺は長門の白い顔に無言をして問いかけた。

「…………」

 長門も無言で返してくれた。いざとなれば怪獣退治くらいならこいつがしてくれるだろう。頼むぞ、宇宙人。

 船がもう一度大きく揺れ、

「きゃ」

 朝比奈さんがバランスを崩してよろけるのを、長門は静かに支えてやっていた。


 フェリーを降りた俺たちを、執事とメイドが待ち受けていた。


「やあ、新川さん。お久しぶりです」

 と言って、朗らかに片手を上げたのは古泉だった。

「森さんも。出迎えごくろうさまです。わざわざすみませんね」

 そして古泉はあっけに取られている俺たちを振り返り、舞台俳優が二階席の客まで届かせんとするばかりの大袈裟な動作で両手を広げて、いつもの微笑みを四倍に広げた。

「ご紹介します。これから我々がお邪魔することになる館でお世話になるだろうお二人が、こちらの新川さんと森さんです。職業はそれぞれ執事と家政婦さん、ああ、まあそれは見れば解りますか」

 解ろうとも言うものだ。俺は改めて御辞儀したまま固まっている二つの異形の主を見た。ここは、まじまじ、という擬音とともに描かれる状況だろう。

「お待ちしておりました。執事の新川と申します」

 三つ揃いの黒スーツを着た白髪白眉白髭の老紳士が挨拶して再び一礼。

「森園生です。家政婦をやっております。よろしくお願いします」

 その横の女性もぴったり同じ角度で頭を下げ、何度も練習していたのかと疑いたくなるほどぴったり同じタイミングで顔を上げた。

 新川氏は、歳をとっておられるのは解るが実年齢不詳の容貌で、森園生なるメイドさんはこっちはこっちで年齢不詳なかたである。俺たちと同年代に見えるのは若作りのなせるわざか、単なるファニーフェイスなのか。

「執事とメイド?」

 ハルヒが虚をつかれたように呟いているが、俺も同じような心境だ。よもやそんな職業がマジで日本に現存していたとは知らなかった。てっきりとっくに概念上の存在になって化石化しているものだとばかり。

 なるほど、古泉の後ろで腰を低くしているお二人は、確実に執事とメイドに見えた。少なくとも、そう紹介されて「ああ……そうっすね。確かに」とうなずかされてしまう程度にはハマっている。特にメイドさんのほう、森さんとかいったか。その女性はどこから見てもメイドだった。なぜならメイドの衣装を着込んでいるからである。毎日のように文芸部室でメイドな朝比奈さんを見ている俺が言うのだからここは信用しといてくれ。しかも新川氏と森さんの衣装はハルヒの意味のないプレイの賜物ではなく、どうも純粋に職業的な必要性からそのような恰好をしているらしい。

「ふぁ……」

 気の抜けた声を出したのは朝比奈さんで、彼女はビックリ眼で二人----どちらかと言えば森さん----を見つめていた。驚き半分、戸惑い三十%とといったところだ。残り二十%は、さて何だろうね。どことなく羨望のような気がしたが、ハルヒの強制に従っているうちに本物のメイドに対する憧れでも生じているのかもしれないな。

 その頃長門は、何一つ感想を言うこともなければ顔色一つ変えずに、旧石器時代の黒曜石製鏃のような瞳を大時代的な職業に就いているらしい出迎えの二人に注いでいた。

「それでは皆様」

 新川氏がオペラ歌手みたいな豊かなテノールで俺たちを誘った。

「こちらに船を用意してございます。我が主の待つ島までは半時ほどの船旅になりますでしょう。なにぶん孤島でございますので、不便かと存じますがご容赦のほどを」

 また森さんともども御辞儀をする。俺は何かムズ痒い。こんな丁寧な対応をされるほど俺たちは偉い人間ではないと教えてあげたいくらいだ。それとも古泉はどっかの御曹司の息子か何かなのか? こいつの特技は不定期エスパーだけだと思っていたが、まさか自宅に帰れば「坊ちゃん」とか呼ばれているような家柄なのだろうか。

「全然かまわないわっ!」

 俺の頭の中を回りだしたクエスチョンマークの数々を一気に離散させるような声でハルヒが豪語している。見れば、ハルヒはトンマなスポンサーから莫大な資金を搾り取ることに成功したインチキ映画プロデューサーのような笑顔になっていた。むむ。

「それでこそ孤島よね! 半時と言わず、何時間でも行っちゃっていいわ。絶海の孤島があたしの求める状況だもの。キョン、みくるちゃん、あんたたちももっと喜びなさい。孤島には館があって、怪しい執事とメイドさんまでいるのよ。そんな島は日本中探してもあと二つくらいしかないに違いないわ!」

 二つもねえよ。

「わ、わあ。すごいですね……楽しみだなあ」

 棒読みで口ごもる朝比奈さんはいいとして、本人を目の前にして「怪しい」という形容詞をつけるハルヒの口は無礼極まる。しかし言われたほうもニコヤカに微笑んでいるので、もしや本当に怪しいのかもしれない。

 まあ、怪しいのはこのシチュエーション全体であるし、怪しさにかけてはこっちのSOS団も人後に落ちないのでお前が言うなの世界なのかもしれないが、何もそこまでハルヒを有頂天にさせるような筋書きにならなくてもよさそうなものだ。

 俺は新川執事と何事か談笑している古泉を眺め、両手を揃えて控えめに立つ森メイドさんを見つめ、それからなんとなく気になって彼方の海へと目をやった。波穏やかにして無事快晴。今のところ台風は来ていないようである。

 果たして俺たちはもう一度本土の地を無事踏むことができるだろうか。

 長門のひんやりした無表情が、とても頼もしく見えた。情けないことに。


 新川氏と森さんが俺たちを案内したのは、フェリー発着場からほど近い桟橋の一つだった。てっきりポンポン船あたりを想像していたのだが、俺たちが足を止めた所で波に揺られているのは、地中海にでも浮いているのが絵になりそうな自家用クルーザーである。値段を聞く気にならないくらいの豪華そうなシロモノで、乗ったからにはカジキマグロの一本でも釣り上げないといけないような気分に襲われる。

 ぼやぼやしているのが悪かった。ひょいと飛び乗ったハルヒは放っておくとして、おっかなびっくりの朝比奈さんと、淡々とぼーっとしている長門は古泉のエスコートで船に乗り込み、その役は俺がやりたかったのにと呻いても失われた時間は戻ったりはしなかった。

 キャビンに通された俺たちが、なぜ船の中にこんな洋式応接間があるのかと感じる前に、クルーザーが緩やかに動き出した。近年の執事は船舶免許も持っているようで、操縦しているのは新川さんだ。

 ちなみに森園生さんは俺の真向かいに座って、柔らかな微笑みで船内の調度品のようになっていた。シックでクリティカルなメイドスタイルである。ハルヒが部室で朝比奈さんに着せているのよりも若干過剰さが薄いような気もするが、あいにくメイド衣装業界に詳しくないのでよく解らない。

 落ち着かないのは俺だけでなく朝比奈さんものようで、さっきからメイドの衣装をチラチラ眺めつつそわそわしている。メイドさんのなんたるかを実地に見聞きして、部室でのおこないの参考にしようとでもしているのだろうか。変なところで真面目な人だからな。

 長門は真正面を向いたままじっと固まっているし、古泉は悠然たる面持ちで余裕の笑顔を保ったままで、

「いい船ですね。魚釣りもスケジュールに組み込んだほうがいいでしょうか?」とかいうことを誰に言っているのか提案していた。

 それで、ハルヒは----。

「それで、その建物はなんて呼ばれているの?」

「と言いますと?」

「黒死館とか斜め屋敷とかリラ荘とか纐纈城とか、そんな感じの名前がついているんでしょ?」

「いえ、特に」

「おかしな仕掛けがいっぱい隠されていたりとか、設計した人が非業の死を遂げたとか、泊まると絶対死んでしまう部屋があるとか、おどろおどろしい言い伝えがあるとか」

「ございません」

「じゃあ、館の主人が仮面かぶってるとか、頭の中がちょっと爽やかな三姉妹がいるとか、そして誰もいなくなったり」

「しませんな」

 執事氏の声が付け加えた。

「今のところは、まだ」

「じゃあこれから起こる可能性はかなり高いわね」

「そうであるのかもしれません」

 適当に返事してないか、この執事さん。

 出発と同時にハルヒは操縦席へとよじ登り、上記のような会話を新川氏と繰り広げているという案配である。エンジンと波切り音にまじって聞こえてくる話を小耳に挟んだところ、どうもハルヒは過剰な期待を孤島の館に持っているようだ。それにしても、なんでまたたかだか離れ小島にいちいち怪奇性を求める奴なんだ。あいつは。泳いで飯食ってダラダラして仲間内の友愛をひとしきり深めたところで気持ちよく帰途につく、ってな感じで充分だろうに。俺はそう思い、切実に願った。

 手遅れだったかもしれない。

 まさか執事とメイドが出てくるとは市民プールでヨシキリザメに噛まれる以上に思わなかったから、仮面の主人や妙に怪しい言動を取る他の客がいたりしても、とっくに驚けない境地に近付こうとしている。古泉め、次はどんなビックリ箱を披露するつもりなのか。

「わっ! 見えてきた! あれが館?」

「別荘でございます」

 一際デカいハルヒの嬌声が轟き、俺の心に雷鳴となって突き刺さるのであった。


 その別荘とやらは、見た目、実に普通であった。

 太陽はそろそろ斜めに傾いでいるものの夕方になるにはまだ時間がある。日中に日差しを浴びて、どこか光り輝いているように思えた。なんせ別荘なんざ俺とは生涯無縁の存在だと思っていたことだし。

 切り立つ崖の上に鎮座しているその建築物は、金持ちが避暑地あたりに建てそうないかにもな造りで別段不審なところもなく、ヨーロッパの古城を移築してきたわけでもなく、蔦が絡まるレンガ色の洋館でもなく、変な塔がにょきにょき付属しているわけでもなく、ましてや忍者屋敷のようなギミックが隠されているわけでもなさそうである。

 案の定、ハルヒはトンカツだと思って食べたらタマネギフライであったような顔つきとなって、その別荘(ハルヒ的には館)を遠望していた。

「うーん。思ってたのとかなり違うわね。見かけも重要な要素だと思うんだけど、この屋敷を設計した人はちゃんと資料を参考にしたのかしら」

 俺はハルヒと並んでデッキにて島の風景を観賞した。ハルヒによってキャビンから引きずり出されたのである。

「どう思う? キョン、あれ。孤島なのに普通に建ってるわよ。もったいないと思わない?」

 思うさ。何もこんな所に別荘を持たなくてもいいだろう。コンビニに行くまで自家用船に乗って往復一時間もかかるんじゃあ、夜中に腹減ったときどこに行けばいいんだ? ジュースの自動販売機もなさそうだしさ。

「あたしが言ってるのは雰囲気の問題よ。もっとオドロオドロした館だと信じてたのに、これじゃあまるっきりの閑静な行楽地じゃないの。あたしたちはお金持ちの友達の別宅に遊びに来たわけじゃないのよ」

 俺は風になびいて頬をちくちく刺しているハルヒの髪の毛を払いのけ、

「そういや合宿だったな。何の特訓をするんだよ。冒険家の真似事か? 無人島に漂流したときのシミュレーションでもするつもりか」

「あ、それいいわね。島の探検を日程に入れておくわ。ひょっとしたら新種の動物の第一発見者になれるかもよ」

 いかん、ハルヒの目が輝きを増すようなことを言ってしまった。頼むからいらんもんが出てくるなよ、島。

 俺が緑に覆われた小島に向けて念を送っていると、

「ここいらの島々は、大昔に海底火山爆発による隆起によってできたものらしいですね」

 言いながら古泉がのっそりと出てきた。

「新種の動物はさておき、古代人の残した土器のかけらくらいは出てくるかもしれません。原日本人が航海の途上で立ち寄った形跡があるやもです。ロマンを感じますね」

 古代のロマンと、真新しそうな別荘にはどうも連続性がないような気もするが、俺はツチノコ探しも穴掘りもごめんだぜ。二手に分かれようじゃないか。ハルヒと古泉は島で冒険家、俺と朝比奈さんと長門とで海辺でたわむれる。ナイス・アイディーア。

「あれ、誰かいるわ」

 ハルヒが指差したのは、これも新造されたばかりと思しき小さな波止場だった。どうもこのクルーザー専用のハーバーらしく、他の船の姿はない。その防波堤みたいな場所の先端に、一つの人影がこっちに向かって手を振っていた。男性のように見える。

 反射的に振り返しているハルヒが、

「古泉くん、あの人が館のご主人? ずいぶん若いけど」

 古泉も手を振りつつ、

「いえ、違います。僕たち以外の招待客ですよ。館の持ち主の弟さんでしょう。前に一度だけ会ったとこがあります」

「古泉」と俺は口を挟んだ。「そういうことは先に言っておけよ。俺たち以外に呼ばれている人がいるなんて初耳だぞ」

「僕も今知りましたから」

 しれっと古泉はかわして、

「でも心配することはありません。とても良いかたですよ。もちろん、館の持ち主の多丸圭一さんも含めてね」

 その多丸圭一氏というのがこんな僻地に別荘を建て、夏の仮住まいとしている酔狂な人物であるとは聞かされていた。古泉の遠縁の親戚筋で、こいつの母親の従兄弟くらいに相当するとかなんとかだった。何だかよく知らないが、バイオ関係の分野で一山当てて、今は悠々自適の生活なんだとか。きっとどう使っていいのか解らないくらいの金を持っているに違いない。でなければこんなもん建てるとは思いがたいからな。

 専用のハーバーに向けてクルーザーが減速している。人影の表情がつかめるまでに近付いてくる。若い感じの恰好をしていた。二十歳過ぎくらいだろうか。これが多丸圭一氏の弟であるらしい。

 執事が新川氏で、メイドが森園生さん。

 残すは、真打の館の主人、多丸圭一氏その人だけだ。

 登場人物はこれで打ち止めってことでいいか?


 思えば朝から何時間も船に揺られっぱなしだった。おかげで今も地面が揺れているような気がする。

 クルーザーから大地に一時帰還を遂げた俺たちを、その青年が快活な笑みとともに出迎えた。

「やあ、一樹くん。しばらくぶりだったね」

「裕さんも。わざわざご苦労様です」

 会釈する古泉は、続いて俺たちの紹介に入った。

「こちらの皆さんは僕が学校でとてもお世話になっているかたがたです」

 お前の世話なんかした覚えはないが、古泉は横一列となった俺たちを一人一人指差して確認しながら、

「この可憐なかたが涼宮ハルヒさん。僕の得難い友人の一人です。いつも自由闊達としていて、その行動力を僕も見習いたいくらいですよ」

 なんて紹介文だ。背筋に汗が浮いてくる。ハルヒも、おいお前。何猫被って如才なく殊勝に御辞儀しているんだ。船酔いで脳組織が欠落でもしたのか?

 しかしハルヒは目も眩みそうなよそ行きの笑みで、

「涼宮です。古泉くんはあたしの団……いえ、同好会に欠かせない人材です。島に誘ってくれたのも古泉くんだし、頼りになる副団……いえ、副会長なんです。えへん」

 俺の寒気を無視し、古泉は続いて他メンツの紹介を続行する。いわく、

「こちらが朝比奈みくるさん。見ての通りのかたでして、愛らしく美しい学園のアイドルな先輩です。彼女の微笑みはもはや世界平和を実現するレベルですね」

 とか、

「長門有希さんです。学業にすぐれ、僕の知らないような知識の宝庫と言えるでしょう。やや無口ですが。そこがまた彼女の魅力であるとも言えます」

 という歯の浮きそうなプロフィールを並べ立て、もちろん俺もまた古泉の結婚相談所に登録するような誇張文句の餌食となったがここでは割愛させていただく。

 さすが古泉の親類と思いたくなる良くできた微笑で聞いていた裕さんとやらは、

「どうぞいらっしゃい。僕は多丸裕。兄貴の会社を手伝っているしがない雇われ者だ。キミたちのことは一樹くんから何度か聞かされたよ。急な転校で心配していたんだが、いい友達ができたようで何よりだ」

「皆様」

 新川氏の朗々たる渋い声が背後で発せられた。

 振り向くと大きな荷物を抱えた執事氏と、森園生さんが船から降り立っていた。

「ここでは日差しがきつうございます。まずは別荘のほうに足を運ばれてはいかがでしょう」

 新川氏の言葉に、裕さんがうなずいた。

「そうだね。兄貴も待っているし、荷物を運び込もうか。僕も手伝おう」

「僕たちなら大丈夫です。裕さんは新川さんと森さんを手伝ってください。本島で買い込んだ食材がたんまりあるそうですよ」

 古泉の笑みに裕さんも笑みで返した。

「それは楽しみだね」

 そのような当たりも障りもしやしない一幕の後、俺たちは古泉の先導のもとに崖の上の別荘へと向かった。

 思えばこの時から、何か変な気分がしていた。

 とまあ、これはアトヅケのイイワケだが。


 富士山八合目の登頂路みたいな階段を登り切った所に別荘はあった。ハルヒには悪いが館とか屋敷と言うよりはまさに別荘と言いたい佇まいである。

 三階建ての白っぽい建築物だが平べったい印象を受けるのは、とにかく無駄に横幅があるせいだろう。どんだけ部屋数があるのか数えてみたい気もする。おそらくサッカーチームが二つ同時に宿舎にできるくらいはありそうだ。生い茂る木々を切り開いて土地を確保したようだが、どうやってこんなところまで建築資材を運び込んだのだろう。ちょっとした規模のヘリンボーン作戦が必要なんじゃないだろうか。金持ちのすることは解らん。

「どうぞこちらへ」

 古泉が執事見習のように俺たちを玄関へと招く。ここで一同、整列。いよいよ館の主人との対面が果たされようとしているのだ。緊迫の一瞬である。

 ハルヒは折り合いのつかない差し馬みたいに前がかりになっていた。胸の内では形容しがたい期待がトグロをまいて舌をしゅるしゅる出しているのが解る。朝比奈さんは可愛らしく髪の毛を撫でつけて第一印象を良くする配慮に余念がなく、長門は普段通り陶器製の招き猫のように汗一つかかずぼんやりと立っていた。

 古泉は一度俺たちを振り返り、浅薄な笑みを浮かべつつドア付近のインターフォンを無造作に押した。

 応答があり、古泉が挨拶の文句を述べている。

 待つこと数十秒、扉がゆっくりと開かれた。


 言うまでもなく、そこに立っていた人物は鉄仮面を被っているわけでもなければ目出し帽にサングラスを掛けているわけでもなく、突然俺たちを襲撃することもなければ面妖な薀蓄をいきなり吐いて戸惑わせることもなく、ごく普通のオッサンに見えた。

「いらっしゃい」

 多丸圭一さんと言うらしい何成金か何長者かは知らないが、その普通のオッサンはゴルフシャツにカーゴパンツというさばけた恰好で、俺たちを迎え入れるように片手を広げた。

「待ってたよ、一樹くん。と、その友人の皆さん。まったく正直なところ、ここは酷く退屈な場所でね。三日目となればすぐ飽きる。誘って来てくれたのは裕以外では、一樹くんだけなんだよね。おおっ」

 圭一さんの視線は俺の顔を上滑りして朝比奈さん、ハルヒ、長門の順に固定され、

「これはこれは。なんとも可愛らしい友達もいたものだね。一樹くん。なるほど噂には聞いていたが噂に違わぬ美人揃いだ。この殺風景な島も、さぞ華やかになるな。素晴らしいよ」

 ハルヒはにっこりと、朝比奈さんはぺこりと、長門はじっと、おのおの三者三様の反応をして、心底歓迎しているようなジェスチャーを交えて笑う圭一さんを、世界史の時間なのに教室に現れた音楽教師を見るような目でみていたが、やがてハルヒが一歩進み出て、

「今日はお招きいただき、まことにアリガトウございます。こんな立派なお屋敷に泊まれるなんて、物凄くありがたいと思います。全員を代表し、ここにお礼申し上げます」

 まるで作文を読み上げているような口調、かつ普通より一オクターブ高い声で言った。こいつはこの猫かぶりを合宿中ずっと続けるつもりなのか? ボロが剥がれて牙を剥が出しになる前に頭上の透明猫を捨てたほうがいいと思うのだが。

 多丸圭一さんもそう思ったのか、

「キミが涼宮さんかい? あれま、聞いていた噂とは随分違うね。一樹くんによるとキミももっと……。ええ、何と言ったかな? 一樹くん」

 話をいきなり振られても古泉は慌てず狼狽せず、

「フランクな人、でしょう。そう伝えた覚えがありますから」

「そういうことにしておこう。そう、そのフランクな少女だとばかり」

「あっそう?」

 ハルヒは見えない猫の仮面をあっさり剥いだ。部室以外の教室では滅多に見せないとびきりの笑顔で、

「初めまして館のご主人! さっそくですけど、この館、何か事件が起こったことある? それにこの島、現地の人たちからナントカ島とか呼ばれて恐れられている言い伝えとかない? あたしはそういうのが趣味なのよ」

 初対面の人間に奇矯な趣味を披露するな。と言うか、家の持ち主を捕まえて事件があったほうがいいようなことを言うな。追い返されたりしたらどうするんだ。

 だが、多丸圭一氏はどうにも太っ腹なことにおかしそうに笑っただけで、

「キミの趣味には大いに同調するけど、事件はまだ起こったことがないよ。つい先日完成したばかりの建物だからね。島の来歴については私も知らないな。特に不吉とも聞いていないが。無人島だったしね」

 おおらかに人間味を見せつけて、「さあ」と奥へと手を差し伸べた。

「立ち話もなんだからどうぞ中へ。洋風だから土足のままでかまわないよ。まずは部屋へ案内したほうがいいかな。本当なら新川にガイドを申しつけるところだが、まだ荷物運びの途中のようだ。やむを得まい。私が自分をもってその役を任じよう」

 そう言って、圭一氏は自ら俺たちを導いてくれた。


 さて、ここいらでこの別荘内の見取り図や部屋割り表を提供したいところだが俺に絵心がないのは小学校低学年時代に判明しているので遠慮しておく。簡単に説明すると、俺たちが宿泊する部屋はすべて二階にあり、多丸圭一さんの寝室と裕さんが寝起きする客間は三階である。それだけ等親が近いという表れかもしれない。執事の新川さんと家政婦森さんは一階に小部屋を構えている……。

 ということになっていた。

「この家、名前か何かはついてるの?」

 ハルヒの問いに圭一さんは苦笑い。

「とりたてて考えてはいないな。いいのがあるんであれば募集するよ」

「そうね。惨劇館とか恐怖館ってのはどうかしら。それでもって部屋一つ一つにもコジャレた名前を付けるのがいいわ。血吸いの間とか、呪縛の部屋とか」

「お、それはいいね。次までにネームプレートを用意しておこう」

 そんなうなされそうな名前の部屋で眠りたくないんだが。

 俺たち一行はロビーを通り抜け、高級木材製の階段を上がって二階に到達する。ホテルかと思うような造りで扉がズラズラ並んでいた。

「部屋の大きさはさほど変わらないがシングルとツインがある。どの部屋でも好きに使ってくれたらいいよ」

 さてどうするか。俺は誰と相部屋になってもいいが、メンバーは五人なので二つに分けると一人余りが出てしまい、どう考えても長門がひっそりと取り残されそうだった。かと言って俺がルームメイトに名乗りを上げたところで、長門は気にしないだろうがハルヒの逆突きパンチによって瞬殺されるのがオチだ。

「まあ、一人一部屋ということでいいではないですか」

 古泉が最終結論を出した。

「どうせ部屋にいるのは寝るときだけでしょう。部屋間の移動は各自の自由意思ということで。ちなみに、鍵はかかりますよね?」

「もちろんだ」

 多丸圭一さんは微笑ましくうなずいた。

「部屋のサイドボードに置いてある。オートロックじゃないから鍵を忘れて出ても閉め出されることはないだろうけど、なくさないようにしてくれたらありがたい」

 俺なら鍵なんか不要だ。就寝時にだって開け放しておくさ。皆が寝静まってから朝比奈さんが何らかの理由で忍び込んでくるかもしれないからな。それに盗られて困るようなもんは持ってきてないし、わざわざこんな犯人特定のしやすい状況で窃盗を試みる奴なんかいないだろう。いたとしたらそのコソ泥はハルヒで間違いない。

「では私は新川たちの様子を見てくるよ。今のうちに邸内を自在に散策してくれたらいい。非常口の確認を怠らないようにね。それでは」

 それだけ言って圭一さんは階下へ向かった。


 多丸圭一氏の印象を、ハルヒはこう語った。

「怪しくないのが逆に怪しいわ」

「じゃあ見るからに怪しかったらどうなんだよ?」

「見たままよ。怪しいに決まっているじゃないの」

 つまりこいつの主観では、この世に怪しくないものなどなくなるのである。ISOもびっくりの判断基準だ。将来JAROに勤めるといい。仕事しまくりの生活を送れることだろう。

 適当に部屋割りして荷物を置いた俺たちは、ハルヒが自室に選んだツインルームに集合していた。一人でツインを独占しようとするのは非常にハルヒ的な振る舞いで、つまりこいつは遠慮とか奥ゆかしさとは無縁の性格をしているのだ。

 ベッドに腰掛ける女性陣三人組と化粧台に座る俺、古泉は泰然と、腕を組み壁にもたれて立っていた。

「解ったわ!」

 やおらハルヒが雄叫びを上げ、俺はいつものように脊髄反射のツッコミを入れた

「何がだ」

「犯人」

 そう断言するハルヒの顔は、なんか知らんがミステリアスな確信に満ちあふれている。

 しぶしぶ、俺は他の三人の意見を代表して言った。

「何の犯人だ。まだ何も始まってなどいないぞ。到着したばかりだろうが」

「あたしの勘では犯人はここの主人なのだわ。たぶん、一番最初に狙われるのはみくるちゃんね」

「ひいっ」

 朝比奈さんはマジでビビっているようだった。鷹の羽音を聞いた仔ウサギのように、ピクピクとして隣にいた長門のスカートをつまんでいる。長門は何もコメントせず、

「…………」

 音もなく視線を空中に据えているのみだ。

「だから何の犯人なんだ」俺は重ねて尋ねる。「というか、お前はあの多丸圭一さんを何の犯人にしたてあげるつもりだ」

「そんなの知るわけないじゃないの。あれは何かを企んでいる目つきだわ。あたしの勘は良く当たるのよ。きっとそのうち、あたしたちをサプライズな出来事に巻き込んでくれるに違いないわ」

 単なるサプライズパーティーならいいんだが、ハルヒの期待するものはチャラけたオチの付く誕生会のごとき居心地の悪くなるような寒い演出ではなさそうだ。

 想像してみる。突如として人好きのする笑顔を剥ぎ取り、狂気に目をギラつかせながら肉切り包丁片手に宿泊客たちを切り刻まんとする圭一氏。おそらく島の森林奥にあった古代人のドルメンをうっかり傾けたなんかして封じられた太古の悪霊に取り憑かれてしまい命じられるままに俺たちを供物にせんとドアを叩くオッサンの姿。

「んなアホな」

 俺は差し上げた片手を水平移動して、何もない空中にセルフツッコミを入れた。

 いくらなんでもこの古泉の知り合いがそんなことにはなりそうにないな。『機関』とやらもそうそうバカ揃いではあるまい。事前に現場検分くらいはしているはずだ。古泉もいつもの無害スマイルを絶やさないし、新川執事や森園生さん、多丸裕さんもホラーの住人とはほど遠い印象だ。だいたい今回のハルヒの願望はスプラッタではなく推理物ではなかったのか。

 起こるのだとしたら連続殺人の一つや二つくらいだろう。それだって、こうも都合よく発生するとは思えない。外は快晴だし波浪注意報も出ていない。別にこの島は閉ざされた空間になっているわけでもないしさ。

 それにいくらハルヒでも、心底人死にがでることを望んでいるわけではないだろう。もしハルヒがそんな奴なら、たいていのことには付き合ってきた俺でも、そろそろ満タンになりつつある容量の小さな堪忍袋がパンクするぜ。

 俺のささやかな心配を、まったく読み取ることもなくハルヒは無邪気な声を上げた。

「まずは泳ぎね。海に来たら泳ぐ以外の何もすることはないと言っても過言ではないわ。みんなでばーっと沖をどこまでも泳いでいきましょ。誰が一番最初に潮にさらわれるか、勝負よ!」

 やってもいいけどな。海難救助隊がすぐ横でスタンバイしてくれているのならさ。

 しかし到着したばかりだと言うのに、もう行動するのか。少しは船旅の疲れを癒そうとは考えないのだろうかね。もっともハルヒは疲れていないかもしれないが、自分を基準にして物事を進行するのは少しでいいから遠慮してくれい。

「なーに言ってんのさ。たとえアポロン神殿に貢ぎ物を捧げたとしても太陽は立ち止まってくれたりはしないのよ。水平線に沈む前に行動を起こさなきゃ時間がもったいないじゃん」

 ハルヒは両腕を伸ばして朝比奈さんと長門の首を抱え込んだ。

「あわふ」と目を白黒させる朝比奈さんと、「…………」と無反応の長門。

「水着よ水着。着替えてロビーに集合ね。うふふふひひひ。この娘たちの水着はあたしが選んであげたのよ。キョン、楽しみでしょう?」

 あんたの考えている事なんてまるっきりお見通しよ、みたいな顔でハルヒは薄気味悪く白い歯を見せる。

「その通りだとも」

 開き直って胸を張った。半分以上、それが目的で来たからな。誰にも異議を唱えさせたりはしないぞ。

「古泉くん、ここのプライベートビーチは貸し切りなんだったよね!」

「ええ、そうです。見物人は浜辺の貝殻くらいのものでしょう。人跡未踏の砂浜ですよ。ただし潮の流れは速いので、あまり沖合いには出ないほうがいいと言っておきましょう。先ほどの勝負が本気なのだと仮定しての話ですけど」

「まっさか。冗談よ冗談。みくるちゃんなんかあっと言う間に黒潮に乗ってカツオのエサになっちゃいそうだもんね。みんな、いい? 調子に乗って遠くまでいっちゃたらダメよ。あたしの目の届く範囲で遊びなさい」

 一番調子に乗っているハルヒに保護者役を任せていいものかね。ここは俺が一肌脱いでしかるべきだろう。少なくとも朝比奈さんから二秒以上視線を外すことのないように気をつけるとしよう。

「そこ! キョン!」

 ハルヒの人差し指が俺の鼻先に突きつけられ、

「ニマニマ顔は気持ち悪いからやめなさい。あんたはせいぜい半分口開けた仏頂面がお似合いよ。あんたにはカメラは渡さないからね!」

 あくまでハイテンション、傍若無人エクスプレスなハルヒは笑いながら宣言した。

「さあ、行くわよ!」


 ということで、やっと来た。

 海岸であり、砂浜だった。日差しは傾きかけているが熱光量は確実に夏のそれである。押し寄せる波が砂を洗い、綿菓子みたいな白い雲が彼方の紺碧の背景をゆっくりと移動していた。むうっと鼻をつく潮風が俺たちの髪をなびかせ、おいでおいでをせんばかりに海面上を緩やかに吹き進む。

 プライベートビーチと言えば耳触りがいいが、要するにわざわざ貸し切るまでもない人里離れた単なる島の浜辺であり、海水浴にこんなところまで来ようなどという人間がいるとしたらインチキ旅行雑誌に騙された外国人観光客くらいのものだろう。言うまでもなく、見渡す限り俺たち五人以外の人影は皆無であり、水鳥の一羽も飛んでいない。

 そのようなわけなので、ハルヒたち女性組の水着姿を目に入れる栄誉に浸れるのは、岩場に貼り付いているフジツボくらいのものであった。俺と古泉を除けば。

 ビーチパラソルの影にゴザ敷いて、俺が朝比奈さんの照れくさそうな仕草に目を細めていると、ハルヒが横から朝比奈さんをすばやく掠め取り、

「みくるちゃん、海では泳いでこそナンボの世界よ。さあ行きましょう。光を浴びないと健康にも悪いからね!」

「いやあのあたしあんまり日焼けはその、」

 尻込みする朝比奈さんに構わず、ハルヒは白く小柄な上級生とともに波打ち際に突進し、ダイブ。

「わっ、辛い」

 そんな当たり前のことに驚く朝比奈さんにバシャバシャ海水を浴びせかけるのだった。

 そのとき長門は。

「…………」

 ゴザの上に正座して、水着姿のまま広げた文庫本を黙々と読んでいた。

「楽しみかたは人それぞれですよ」

 ビーチボールに息を吹き込んでいた古泉が口を離して俺に微笑みかけた。

「余暇の時間は自分の好きなように過ごすべきです。でないとリフレッシュの意味がないでしょう。三泊四日、せめてゆっくりのどかな合宿生活を楽しもうではありませんか」

 好きなように過ごしているのはハルヒだけではないだろうか。一方的にじゃれつかれている朝比奈さんがのどかな気分を味わっているとは到底思えないが。

「こらキョン! 古泉くん! あんたらも来なさい!」

 ハルヒのサイレンみたいな声が俺たちに投げかけられ俺は立ち上がった。告白すると、決して嫌々ではない。ハルヒはともかく、朝比奈さんの側に近づけるのは俺の本望である。膨らませたビーチボールをポンと弾いた古泉からパスを受け、俺は灼けた砂の上を歩き始めた。


 適度な肉体的疲労を覚えながら別荘に戻り、一風呂浴びて部屋で休んでいたら空は星空が支配する時間となって、森さんが我々を食堂に案内した。

 晩餐の時間である。

 その日の夕食はそりゃもう豪華なもんだった。別に朝比奈さんが特に望んだというわけでもないだろうが、刺身盛り合わせが一人につき一舟あるだけでも貧乏性の俺は思わず居住まいを正してしまう。これで食費宿泊料無料? 本当にいいのだろうか。

「全然けっこう」

 と多丸圭一氏は笑顔で請け負ってくれる。

「こんなところまで足を運んでくれたねぎらいだと思って欲しいね。なんたって私は退屈だからね。いや私だって人を選ぶよ。だが一樹くんの友人なら大いに歓迎だ」

 出迎えてくれたときと違い、圭一氏はなぜか正装をしていた。ダークスーツに身を包み、ネクタイをウィンザーノットに結んでいる。出てくる料理は和洋折衷、何かのカルパッチョだかムニエルだかナントカ蒸しだかがじゃかすか出てくるが、器用にナイフとフォークで口に運んでいるのは圭一氏ただ一人だ。俺たちは最初から箸を使わせて貰っている。

「すんごく美味しい。誰が作ってるの?」

 ハルヒが大食い選手権に推薦したくなるほどの食欲を見せながら訊いた。

「執事の新川が料理長も兼ねている。なかなかのものだろう?」と圭一氏。

「ぜひお礼を言いたいわね。後で呼んでちょうだい」

 すっかり高級料理店に出向いた食通気取りになっているハルヒである。

 一口食べるたびに目を丸くしたりする朝比奈さんや、小食に見えて意外と食い続ける長門、爽やかに裕さんたちと談笑する古泉を眺めていると、

「お飲物はいかがですか?」

 給仕係りに徹していたメイド姿の森さんが、細長い瓶を手にして微笑みかけていた。どうやらワインらしい。未成年に酒を勧めるのもどうかと思うが、俺は試しに一杯所望することにした。ワインなんか飲んだことないが、人間、多少の冒険心は必要だ。それに森さんの蠱惑的な微笑を見ていると断るのは気分的に悪いような気になったし。

「あ、キョン一人で何もらってんの? あたしも欲しいわよ、それ」

 ハルヒの要求により、葡萄酒に満たされたグラスが全員に行き渡った。

 何となく、それが悪夢の始まりだったような気がする。

 この日、俺が発見したのは、朝比奈さんがまったくアルコールに耐性がないということと、長門が恐ろしいばかりのウワバミであるということと、ハルヒがどうしようもない酒乱であることだった。

 調子に乗って杯を傾けた俺の記憶もけっこうあやふやだったが、最後の方でハルヒは瓶をつかんで放さずラッパ飲みしながら圭一氏の頭をバンバン叩きつつ、

「いやーあんた最高! 呼んでくれたお礼にみくるちゃんを置いていくわ! もっとちゃんとしたメイドに教育してやってよ。もう、てんでダメなのこの娘」

 というようなことを叫んでいたような覚えがあるようなないような。

 本物メイドの森園生さんは、卓上に酒瓶をボーリングのピンのように並べると、フルーツ籠のリンゴや梨を器用に剥いてデザートを振る舞ってくれていて、部室オンリーの偽メイド、朝比奈さんはすでに真っ赤な顔をしてテーブルに突っ伏していた。

 長門は森さんが持ってきた酒類をバッカバッカと空けているが、体内でいったいどんなアルコール分解処理がなされているのか、長門の顔色は何一つ変化せず、鯨が海水を飲むように次々と瓶の中身を空にしていた。

 興味深そうな顔をした裕さんが、

「本当に大丈夫なのかい?」

 そう心配して長門に話しかけていたことは記憶の端っこに引っかかっている。

 その夜、すっかり前後不覚になった俺は古泉に付き添われてベッドに辿り着くことができたようだ。後で古泉が苦笑混じりに言っていた。他にも俺はハルヒとともに何か恥ずかしい醜態を演じていたようなのだが、なんせ記憶にはないし、聞かなかったことにして記憶することも拒否した。古泉得意の冗談だったということにしておこう。

 それどころではないことが翌日にあったからな。


 二日目の朝。天気はいきなり嵐になった。


 横殴りの雨が建物の壁を叩き、強風の吹きすさぶ音が耳に不吉な音となって聞こえている。別荘の周囲の森が、妖魔でも棲んでいそうな具合に鳴動していた。

「ついてないわねえ。こんなときに台風が来るなんて」

 窓の外を見ながらハルヒがこぼすように言っている。ハルヒの部屋だ。全員が集まり今日は何をして過ごそうかと密談の最中だった。

 朝食後のことである。朝の食卓に圭一さんはいなかった。なんでも、氏は特に朝に弱く、寝起きが最悪のため午前中にベッドから起きあがるのはほとんど不可能である、というのが新川さんの説明だ。

 ハルヒは俺たちを振り返り、

「でもさ。これで本当に嵐の孤島になったわ。一生もんの状況よ。やっぱり起こるかもしれないわね、事件」

 びくんとする朝比奈さんは不安そうに目を泳がせているが、古泉と長門の顔は平常営業だ。

 昨日あれほど凪いでいた海は波浪警報状態で、とても船を出せる許容範囲を超えている。明後日もこのままだと、俺たちは不本意にもハルヒの本位によってこの島に閉じこめられる。クローズドサークル。まさか。

 古泉は安心させるような笑みで、

「足の速い台風のようですし明後日までには何とかなるでしょう。突然やって来たように、去ってしまうのも突然ですよ」

 天気予報ではそうらしいな。だが、昨日の時点で台風が来るなんて情報はどこからも入っていなかったぞ。この嵐はどいつの頭から湧いて出てきたものなんだ?

「偶然ですよ」

 古泉は余裕をかましている。

「一般的な自然現象です。夏の風物詩と言えるでしょう。大型台風の一つくらい、毎年やってくるものですよ」

「今日は島の探検をしようと思ってたのに、これじゃ中止ね」

 ハルヒは恨めしそうに言った。

「仕方ないわ。屋内でできそうなことして遊びましょう」

 どうやら合宿のことはハルヒの脳裏から吹っ飛んで行っているようで、すっかり遊び方面にシフトしているらしかった。そのほうがありがたい。島の反対側に行ったら岸壁に巨大生物の死体が打ち上げられているのを見つけたくはないからな。

 古泉が意思表明をしだした。

「確か遊戯室があったはずです。圭一さんに言って使わせてもらいましょう。麻雀とビリヤードと、どちらがいいですか? 卓球台も言えば出してくれるでしょう」

 ハルヒも同意して、

「じゃあピンポン大会。リーグ戦総当りでSOS団初代ピンポンチャンピオンを決めましょう。ビリの人は帰りのフェリーでジュース奢りだからね。手抜きは許さないわよ」

 遊戯室は地下一階にあった。広々としたホールに雀卓とビリヤード台、ルーレットやバカラの台まである。古泉の親類は裏でカジノでもやってんのか。ここはその賭場になってるんじゃないだろうな。

「さて?」と古泉はとぼけた笑みで答え、壁際で折りたたまれていた卓球台をスライドさせてきた。

 ちなみに俺との激戦のすえハルヒが優勝を飾ったピンポン大会の後は、麻雀大会が開催の運びとなった。古泉以外のSOS団メンバーはやり方を知らなかったので教わりながらのプレイである。途中で二人の多丸氏も参加して、なんとも賑やかな麻雀となったことは確かだ。ルールを曲解したハルヒは自分で勝手な役を考案し『二色絶一門』『チャンタモドキ』『イーシャンテン金縛り』などの謎の役で次々と俺たちからアガり続けた。まあ笑えたから許してやる。ノーレートだったしさ。

「ロン! たぶん一万点くらい!」

「涼宮さん、それ役満ですよ」

 俺は密かに息を吐いた。前向きに考えることのほうがよかったかもしれん。普通に旅行を楽しむのが一番だ。この展開では胡乱な大海獣が出てくることも森の奥から原住民が出てくることもないだろう。何といっても絶海の孤島だ。外から変なもんがやってくることはない。

 そう思い、俺は安堵することにした。多丸圭一氏も裕さんも、新川・森の使用人さんコンビも古泉の知り合いにしては普通の人間に見える。妙な事件が発生するには、ちょっと登場人物が足りないだろう。

 そういうことにしておきたい、と俺は思ったのだ。

 しかし、そうは問屋が卸さなかった。この場合の問屋がどんな業種で何を取り次いでいるのかは解らないが、もしどこの問屋かが解っていたら俺はそこに一年くらいの業務停止命令をくだしたい。

 事件は三日目の朝に起こった。


 遊んで喰っての二日目は滞りなく進み、ますます天候の悪化した夜、録画再生したみたいに一日目と同様の宴会が催された。三日目、俺はガンガンに痛む頭を持てあましながら起床するハメになり、古泉が起こしに来なければ俺もハルヒも朝比奈さんもそのまま昏々と眠り続けただろう。

 カーテンを開ける。その三日目の朝、豪雨と暴風雨はひっきりなしに続いていた。

「明日、帰れるんだろうな」

 フラフラする思考を冷水洗顔で真っ直ぐな歩行が可能なまでにし、俺は階段を転げ落ちないように注意しながら降りていった。

 食堂には俺と似たような表情をしているハルヒと朝比奈さん、いつもの表情の長門と古泉が揃ってテーブルに着いていた。

 多丸圭一、裕さんの兄弟はまだ来ていない。連日の二日酔いがピークに達しているのかもしれないな。二人のグラスの上で瓶を逆さにしていたハルヒの姿が頭に蘇る。普段でも傍若無人なのに酒の力によって無敵となったハルヒの暴挙の数々に俺の頭痛はさらに二段階ほどパワーアップし、金輪際酒を飲むのは止めておこうと決心を固めた。

「あたし、ワインはもうやめておくわ」

 昨夜の反省から、ハルヒもしかめ面で表明した。

「なぜかしら、夕ご飯以降の記憶が全然ないのよね。それってすごくもったいないことじゃない? 時間を損したような気分がするの。うん、あたしは二度と酔っぱらったりはしないからね。今晩はノンアルコールデーよ」

 通常に言って高校生が飲んだくれてていいはずはないから、ハルヒにしてはまともな提言をおこなったと褒めてやるべきだろう。ただまあ、ほろ酔いでポワポワしている朝比奈さんはとても色っぽかったので、その程度ならいいのではないかと考えなくもない。

「では、そうしましょう」

 太鼓持ちみたいにすぐさま賛同する古泉が首肯して、ちょうど朝食の載ったワゴンを押してきた森さんに、

「今晩は酒抜きでお願いします。ソフトドリンクオンリーでよろしく」

「解りました」

 うやうやしく森さんは一礼し、テーブルにベーコンエッグの皿を並べていた。

 俺たちが食い終える頃になっても、多丸氏兄弟は食堂に現れることがなかった。寝起きが極端に悪いらしい圭一さんはともかく、裕さんまで登場しないのはどうしたことかと思っていると、

「皆様」

 新川氏が森さんを伴って俺たちの前に進み出た。その執事的な落ち着いた顔からは、読み取りにくいが若干の困惑の色が混じっているような気がして、何だか嫌な予感がした。

「どうしました?」

 訊いたのは古泉である。

「何か問題でも?」

「はい」と新川氏。「問題と呼べることがあったのかもしれません。先ほど森を裕様の部屋へやったのですが」

 森さんがこっくりとうなずいて執事氏の言葉を継いだ。

「部屋に鍵がかかっていなかったものですから、勝手ながら開けさせていただいたのですが、裕様がどこにもおられません」

 鈴の鳴るような声でそうおっしゃる。森さんはテーブルクロスを見つめつつ、

「部屋はもぬけの殻でした。ベッドで眠られた形跡もありませんでした」

「しかも、主人の部屋へ内線で連絡を試みたところ、返答がございません」

 新川さんのセリフに、ハルヒはオレンジジュースのグラスから手を離して、

「何それ。裕さんが行方不明で、圭一さんが電話に出ないってこと?」

「端的に申しますと、そういうことでございます」と新川さん。

「圭一さんの部屋に入れないの? 合い鍵くらいあるんでしょう?」

「他の部屋のスペアキーは私が管理しておりますが、主人の部屋だけは別でございまして、予備の鍵も主人しか持っておりません。仕事関係の書類等も持ち込まれておりますので、用心のために」

 嫌な予感が暗雲となって俺の心の三分の一ほどを覆い始めた。起きてこない館の主人。いなくなったその弟さん。

 新川氏は上体をわずかに折りながら、

「これから主人の部屋まで赴こうと私は考えております。よろしければ皆様もご同行願えないでしょうか。なにやら不穏な気配を感じるのでございます。杞憂であればよいのですが」

 ハルヒは素早く目配せを俺に送った。何のアイコンタクトだろう。

「行ったほうがよさそうですね」

 あっさりと古泉が立ち上がる。

「もしや、病気か何かで起きあがれない状態にあるのかもしれません。ひょっとしたらドアを破る必要があるかも」

 ハルヒがぴょんと椅子から立ち上がり、

「キョン、行きましょう。胸騒ぎがするわ。さあ、有希も、みくるちゃんも!」

 この時のハルヒは、いつになく生真面目な表情をしていた。


 手短に語ろう。

 三階の一室、圭一氏の寝室をいくら叩いても返答はなく、古泉がドアノブを回しても鍵が開くこともなく、樫でできた重い扉は一枚の壁となって俺たちの前に立ちはだかった。

 ここまで来る間に多丸裕さんの部屋も覗いてみたのだが、確かに森さんの言うとおり、ベッドのシーツも乱れておらず、誰かがここで一晩を過ごした雰囲気には到底見えない。彼はどこに行ってしまったのか? 二人して圭一さんの部屋に篭もってでもいるのか?

「内側から鍵がかかっているということは、部屋の中に誰かがいるということです」

 古泉が顎に指を当てて思案顔をし、いつになく緊張感のこめられた声で、

「最終手段です。このドアを体当たりして破りましょう。一刻を争う事態になっていないとも限りません」

 そうして俺たちはドアに向けてスクラムを組み、タックルを繰り返すことになったのだ。俺と古泉、そして新川さんの三人で、だ。長門ならピッキングの一つくらいやってのけてくれそうだったが、こうも衆人環視の中でインチキマジックを発動させるわけにもいかない。SOS団の女子三人とメイド森さんが見守る中、俺たち男衆三人は何度となく体当たりを敢行し、俺の肩の骨がそろそろ悲鳴を上げようとした時----。

 やっと扉が弾けるように開いた。

 雪崩をうって俺、古泉、新川さんはそのままの勢いで室内に倒れ込み、そして----。

 そう、かくて冒頭のシーンに戻るわけだ。やっとタイムテーブルが現在に追いついた。ではそろそろ時間をリアルタイムに戻すとするか。

 ………

 ……

 …


 というような回想を終え、俺は床から身を起こした。目の前に横たわるナイフ付き圭一さんから目を逸らし、鍵の部分が弾け飛んだ扉を眺めた。この屋敷も新築なら扉もぴかぴかだな……なんて、現実から目を逸らすようなことを考える。

 新川さんが主人の身体に屈み込み、指先を首筋に当てた。そして俺たちを見上げ、

「亡くなられておられます」

 職業意識から来るのか、落ち着いた声で言った。

「ひえ、えええ……」

 朝比奈さんが廊下にへたり込んでいる。そうだろうとも。俺だってそうしたい。長門の無表情が今は救いに思えるくらいだ。

「大変なことになりましたね」

 古泉が新川さんの反対側から圭一氏に歩み寄った。しゃがんだ古泉は、慎重な手つきで背広姿の圭一氏に手を伸ばし、そっと上着の襟をつまみ上げる。

 白いワイシャツに赤黒い液体が染みこみ、不恰好な模様を形作っていた。

「おや?」

 怪訝そうな声を出す。俺もそれを見た。ワイシャツのポケットに手帳が入っている。ナイフはスーツの上から手帳を貫通し、さらに体内へ到達しているようだった。この凶行を実行した人間は、よほどの腕力で事に及んだらしい。ここにいる女性たちの仕事ではなさそうだ。ああ、ハルヒのバカ力なら可能かな。

 古泉は沈痛なオーラを声に滲ませて、

「まずは現場保存が第一です。とりあえずこの部屋を出ましょう」

「みくるちゃん、あなた大丈夫?」

 ハルヒが心配そうに言っているのもむべなるかな、朝比奈さんはどうやら気絶していた。長門の細い足にもたれるように、座り込んだままぐったりと目を閉じている。

「有希、みくるちゃんをあたしの部屋まで運びましょう。そっちの手を持って」

 ハルヒが妙に常識的なことを言っているのも動転の表れかもしれない。長門とハルヒに両側から抱えられた朝比奈さんは、ずるずる引きずられて階段へと姿を消した。

 俺はそれを確認し、とりあえず周囲を観察した。

 新川さんは苦渋に満ちた顔で主人の躯に合掌し、森さんも悲しげな顔をひっそりと伏せている。そしてやはり、多丸裕さんはどこにもいない。外は嵐。

「さて」と古泉が俺に話しかける。「ちょっと考えるべき事態が発生したようですよ」

「何だ」と俺。古泉はふっと唇を笑みに戻した。

「気付いていないのですか? この状況は、まさしくクローズドサークルですよ」

 そんなもんとっくに知っている。

「そして、一見すると殺人事件でもあります」

 自殺には見えないからな。

「さらに、この部屋は密室になっていました」

 俺は首を巡らせて鍵のかかっている窓を眺めた。

「出入り不能な部屋で、犯人はどうやって犯行をおこない、出て行ったのでしょうか」

 そんなもん犯人に訊けよな。

「まったくです」と古泉は同意した。「その辺りのことは裕さんに訊かねばなりませんね」

 古泉は新川さんに警察への連絡を依頼して、改めて俺に向き直る。

「先に涼宮さんの部屋に行っておいてください。僕も後で行きますので」

 そうしたほうがよさそうだ。ここで俺にできることはあまりない。


 ドアをノックする。

「誰?」

「俺だ」

 扉が細く開き、ハルヒの顔が覗いた。なにやら複雑な表情で俺を招き入れる。

「古泉くんは?」

「もうすぐ来るだろ」

 ツインベッドの片方に朝比奈さんが寝かされている。通りすがりの王子でなくてもキスしないといけないような気分になる寝顔だが、やや息苦しそうな表情なのは絶賛気絶中なので仕方がない。

 その傍らでは、長門が墓守のような顔をして椅子に座っている。そうしておいてくれ。朝比奈さんから離れないように頼むぞ。

「ねえ、どう思う?」

 ハルヒの問いは俺に向けられているようだ。

「どうって?」

「圭一さん。これって殺人事件なの?」

 客観的に己の置かれた立場を見つめてみたら答えも自ずと導き出されるであろう。俺はそうしてみた。鍵のかかった部屋をぶち破って入ったらピクリともせずに倒れている館の主人がいて、その胸からはナイフの柄が生えていた。嵐の孤島に密室殺人。できすぎだ。

「どうやらそうらしい」

 数秒間のタイムラグ、俺の答えにハルヒはほわっとした息を吐いた。

「うーん……」

 ハルヒは額に手を当てて、自分のベッドに腰を落とした。

「まさかなあ。こんなことになっちゃうなんて、思いもよらなかった」

 呟いているが、それこそまさかだな。さんざんお前は事件を熱望するようなことを言ってたじゃないか。

「だって、本当になるとは思わないもん」

 ハルヒは唇を尖らせ、すぐに表情をあらためた。こいつはこいつでどういう顔をしていいか悩んでいるようだ。喜んではいないようで一安心だ。俺が第二の被害者の役割を押しつけられるようなことになったらたまらんからな。

 俺は天使の寝顔を見せている上級生を見つめた。

「朝比奈さんの調子はどうだ」

「だいじょうぶでしょ。気絶しただけよ。なんだかすごく素直な反応で感心するわ。みくるちゃんらしいわよね。ヒステリーを起こされるよりマシだけどさ」

 どこか上の空っぽくハルヒは言った。

 嵐の島で発生した密室殺人。旅行先で、たまたまそんなもんに出くわしてしまう確率はいかほどのもんだろう。しかし俺たちはSOS団であってミステリ研究会でも推理小説同好会でもない。まあ確かに、不思議を探し求めるのがハルヒ的SOS団の活動理念だから、今現在の俺たちの境遇はそれなりにマッチしているのかもしれないが、実際に出くわしてしまうとなると話は別の方向にスライドする。

 これもハルヒが望んだから起きた事件だと言うのか?

「ううむむむ。困ったことになったわね……」

 ベッドから足を下ろし、ハルヒはうろうろと部屋の中を行ったり来たり。

 どうもだが、エイプリルフールのつもりで言った冗談が本当になってしまって困惑する悪戯小僧のような風情を感じさせる。カラだと思って逆さにした瓢箪から特大の駒が転げ落ちてきてしまったような雰囲気だ。俺にとってもあまり気分のいい雰囲気ではないな。

 さて、どうするか。

 できれば俺も朝比奈さんの隣で添い寝したかったが、ここで現実逃避をしていてもしかたがない。善後策を講じなければならないだろう。古泉はどうやるつもりなのか。

「うん、やっぱりじっとなんかしてられないわ」

 やはりと言うべきか、ハルヒは力強く断言して俺の前に立ち止まる。真面目な表情で、ハルヒは俺に挑みかかるような視線を向けてきた。

「確認しておきたいことがあるの。キョン、あんたもついてきなさい」

 朝比奈さんをこのままにして部屋を出たくないんだが。

「有希がついてるから平気よ。有希、ちゃんと鍵を閉めて、誰が来ても空けちゃダメよ。わかった?」

 長門は沈着冷静な顔で俺とハルヒをじっと見つめ、

「わかった」

 起伏のない声で返答をよこした。

 ツヤ消し処理された瞳が一瞬、俺の視線と直線を結んだとき、長門は俺にしか解らないような角度でうなずいた----ような気がする。

 おそらく俺とハルヒに危険が降りかかることはないんだろう。もし何かさらに異常な事態になるようなら、長門だって黙って座っていたりはしない。俺は先だっての、コンピュータ研部長の部屋に行ったときのことを記憶から引っ張り出して、そう思うことにした。

「行くわよ、キョン」

 俺の手首をひっつかみ、ハルヒは部屋から廊下へと第一歩を踏み出した。

「それで、どこに行くんだ?」

「圭一さんの部屋よ。さっきは観察する余裕がなかったから、もう一回確認しておくの」

 ナイフを胸に突き立てて転がる圭一さんと、白いシャツにべったりついた血糊を思い出して、俺は躊躇するものを感じる。あまりしげしげと見るべき光景ではないぞ。

 ハルヒは歩きながら言った。

「それから裕さんがどこ行ったのかも調べないと。ひょっとしたらまだ建物の中にいるかもしれないし、それに……」

 これだけの騒ぎだ。もし裕さんが事件と何の関係もないのであれば、姿を現していないとおかしい。現れないということは二つの可能性が考えられる。

 ハルヒに引かれるまま、俺は階段を上りながら、

「裕さんが犯人でとっくに別荘から出て行ったか、あるいは裕さんも被害者になっちまってるか……だな」

「そうよね。でも裕さんが犯人じゃなかったら、ちょっぴりイヤな展開よね」

「誰が犯人でも俺はイヤだがな……」

 ハルヒは俺を横目で見る。

「ねえキョン。この館には多丸さん兄弟を除けば、新川さんと森さん、それからあたしたち五人しかいないのよ。その中に犯人がいるってことになるじゃないの。あたしは自分の団員を疑いたくなんかないし、警察に突き出したりしたくはないわよ」

 しんみりした声に聞こえた。

 なるほど、仲間内に殺人犯がいることを懸念しているのか。そんな可能性を俺はまったく考慮していなかった。朝比奈さんは問題外として、長門だったらもっと上手くやるだろうし、古泉なら……。そういえば、多丸さんに最も近いところにいるのは古泉だ。親戚だとか言っていた。まるっきり赤の他人である俺たちより立場的に親しいのは間違いない。

「いや」

 俺は自分の頭を小突いた。

 古泉だってバカではない。こんな状況でわざわざギリギリなことはしやせんだろう。状況がクローズドサークルになったからといって、その状況に合わせるように殺人事件を起こしたりするほど頭がすっ飛んでいるわけではないと思う。

 そんなことを考えつくのは、ハルヒくらいでいい。


 三階、圭一さんの部屋の前では、新川執事氏が歩哨よろしく仁王立ちに待ちかまえていた。

「警察に連絡しましたところ、誰の立ち入りも許可しないようにとのことでございます」

 慇懃に頭を下げる。部屋の扉は俺たちがぶち破った状態で開け放たれ、新川さんの身体の脇からわずかに圭一さんの爪先が見えるのみだった。

「いつ来るの? 警察」

 ハルヒが質問し、新川さんは丁寧に答えてくれた。

「嵐が収まり次第とのことでございます。予報によれば、明日の午後には天候の回復が見込まれるようですから、その頃あたりになるのではないでしょうか」

「ふーん」

 ハルヒは扉の向こうにチラチラとした視線を送っていたが、

「ちょっと訊きたいんだけど」

「何でございましょう」

「圭一さんと裕さんって仲悪かったの?」

 新川さんはザッツ執事と言いたくなるような立ち振る舞いをわずかに変化させた。

「正直申し上げまして解りかねますな。なんとなれば、私がここに仕えるようになりましたのは、この一週間程度のことでございますので」

「一週間?」と俺及びハルヒ。

 新川さんはゆったりとうなずいた。

「左様です。執事であることには変わりはございませんが、私はパートタイム、臨時雇いの執事でございます。夏のホンのひととき、二週間ばかりの契約でございました」

「つまり、この別荘のみってことなの? 昔から圭一さんのとこにいたんじゃないのね?」

「左様で」

 新川執事は圭一さんがこの島で過ごす期間だけの期限付き執事だったわけだ。したらば、もしや。

 俺の疑問はハルヒの疑問でもあったようで、

「森さんもそうなの? あの人も臨時雇われメイドなのかしら」

「おっしゃるとおり、彼女も同時期に採用を受け、ここに来ましてございます」

 なんとも豪毅なことだ。圭一さんは、サマーバカンスのためだけに執事とメイドを雇ったことになる。なんか金の使い方を間違えているような気もするが、それにしても執事とメイドね……。

 心の端で微細な引っかかりが転げ落ちようとした。俺はそいつをすくい上げてやる。そして新川さんの顔を注意深く観察してみた。生真面目という単語に鎧われた老紳士にしか見えない。おそらくそれは正しいのだろうが、しかし……?

 俺は何も言わず、その小さな引っかかりを胸にしまい込んだ。後であいつに会ったときに投げつけてやる言葉だな、これは。

「なるほどねえ。使用人にも正社員と派遣があるわけね。なんだか参考になったわ」

 何の参考にするつもりか、ハルヒは合点がいったようでうなずき、

「部屋に入れないんじゃしょうがないわ。キョン、次に行くわよ、次に」

 また俺の腕を取って、ずかずかと歩き始めた。

「今度はどこに行くんだよ?」

「外。船があるかどうか確かめるの」

 この台風の中でハルヒと二人でそぞろ歩きってのは気が進まないな。

「あたしはね。自分の目で見たものしか信用しないの。往々にして伝聞情報には余計なノイズが混じっているものなのよ。いい? キョン。重要なのは一次情報なわけ。誰かの目や手を通した二次情報は最初から疑ってしかるべきなの」

 そりゃまあ、ある意味もっともな意見と言えるだろうが、それでは自分の視界に入る以外のものほとんどが信じられないことになっちまうな。

 俺が情報メディアの有用性について考えているうちに、ハルヒは俺を一階へと運び込んでいて、降りたところに森園生さんがいた。

「外に出られるのですか?」

 森さんは俺とハルヒに言って、ハルヒも言い返した。

「うん。船があるかどうか調べようと思って」

「ないと思われますが」

「どうして?」

 うっすらと微笑して、森さんは答える。

「昨晩のことです。裕様の姿をお見かけしたのは。その時、裕様は何かにせき立てられるようなお急ぎのようで、玄関口へと向かっておられたのです」

 俺はハルヒと顔を見合わせ、

「裕さんが船をかっぱらって島を出て行ったと言うんですか?」

 森さんは薄い微笑みをたたえた唇を動かし、

「廊下ですれ違っただけですし、裕様が実際に出て行ったところを見たわけでもありません。でも、わたしが裕様を見たのは、それが最後です」

「何時頃?」とハルヒ。

「午前一時前後だったと思います」

 俺たちがへべれけとなって熟睡していた時間帯だ。

 圭一さんがスーツ姿で床に転がるハメになったのも、その頃であると当確サインを出していいものだろうか。


 扉を開けると散弾のような雨粒が叩きつけてきた。風雨に押されて重くなったドアをなんとかくぐり抜けて外に出た途端、俺とハルヒは数秒と保たずに濡れ鼠となっている。水着で来ればよかったかな。

 暗灰色の雲に覆われた空が水平線まで切れ目なく続き、俺はいつぞやの閉鎖空間を思い出した。どうもこういうモノクロの世界は好きになれそうにない。

「行くわよ」

 雨のせいで髪とTシャツを身体に張り付けながら、ハルヒは雨中行軍を敢行する。俺もついて行かざるを得ない。ハルヒの手はやはり俺の手首を握りしめていた。

 羽根を付ければ高く舞い飛ばされそうな風の中、俺たちは豪雨の恰好の餌食となりつつ、波止場の見える位置までじわじわ進んでいった。、うっかりすれば崖の下へと転落する恐れがある。さすがの俺もこりぁヤバイと感じるようになってきた。自分だけ落っこちるのもシャクなので、俺はハルヒの手首を握りかえしてやる。こいつとなら、落ちても生還の確率が上昇するように思ったのでね。

 やっとの思いで俺たちは階段の頭頂にたどり着いた。

「見える? キョン」

 風に紛れがちのハルヒの言葉に、俺はうなずき返した。

「ああ」

 波止場はほとんど冠水状態で、打ち寄せる巨大な浪波だけが岸辺で動くすべてだった。

「船がない。流されてたんでなければ、誰かが乗って行っちまったんだろ」

 俺たちが島から脱出できる唯一の交通手段。あの豪勢なクルーザーは眼下に広がる海面のどこを探しても見あたらない。

 なんともはや。

 かくして、俺たちは孤島に隔離されたってわけだ。


 俺たちは再び這うような速度で別荘まで戻り、ようやく扉の内側に入れたときには全身まんべんなく濡れネズミとなっていた。

「お使いください」

 気を利かせて待機していたらしく、森さんがバスタオルを差し出してくれた。控えめな口調で、

「どうでしたか?」

「あなたの言う通りみたい」

 黒髪をタオルで擦っていたハルヒは憮然とした面持ち。

「クルーザーはなかったわ。いつからないのかは解んないけど」

 森さんはそれが地顔なのか、蛍に光みたいな微笑みをずっと浮かべている。多丸圭一氏殺傷事件に何らかの動揺を感じているのだとしても、彼女の穏やかな顔からはプロフェッショナルなまでに覆い隠されていた。短期のメイドの雇い主に対してだから、それが普通なのかもな。

 廊下に水滴を落として歩くことを森さんに詫びつつ、俺とハルヒはそれぞれの自室に着替えのために戻ることにした。

「後であたしの部屋に来てよね」

 階段を上がっている途中でハルヒは言った。

「こういうときはみんなで一塊りになっていたほうがいいわ。全員の姿が目に入っていないと落ち着かないもの。それに万一……」

 言いかけてハルヒは口を閉ざす。何が言いたかったのか、なんとなく解ったような気がして俺もツッコミを封印する。

 そのまま二階に到着すると、廊下に古泉が立っていた。

「ごくろうさまです」

 古泉はいつもの微笑で俺たちに目礼を送ってよこした。ハルヒの部屋の前である。

「何してんの?」

 ハルヒが訊くと、古泉は微笑を苦笑に変化させ、ひょいと肩をすくめた。

「今後のことをご相談しようと涼宮さんの部屋を訪問したのですが、長門さんが中に入れてくれないのです」

「どうして?」

「さあ」

 ハルヒは扉をガンガンとノックした。

「有希、あたしよ。開けてちょうだい」

 短い沈黙の後、長門の声が扉越しにこう告げた。

「誰が来ても空けるなと言われている」

 朝比奈さんはまだ失神中のようだ。ハルヒは首にかけたタオルを指先で弄ぶ。

「もういいわ。有希、開けてったら」

「それでは誰が来ても開けるなという命令に反することになる」

 唖然とした顔でハルヒは俺を見て、また扉に向かった。

「あのさ有希。誰もってのは、あたしたち以外の誰もってことよ。あたしとキョンと古泉くんは別なの。同じSOS団の仲間でしょ?」

「そうは言われなかった。わたしが言われたのは誰に対してもこの扉を開けてはいけないという意味の指示だと、わたしは解釈している」

 長門の静かな口調は、筆記係に託宣を教える女神官のようであった。

「おい、長門」

 たまりかね、俺は口を挟んだ。

「ハルヒの命令はたった今解除された。なんならその命令は俺が上書きする。いいから開けろ。頼むからさ」

 木戸の向こうにいる長門はコンマ数秒ほど考えたようだ。かしょんと内側の鍵を捻る音がして、ドアがしずしずと開き始めた。

「…………」

 長門の瞳が俺たち三人の上を通り過ぎ、無言のまま奥へと退いた。

「もう! 有希、少しは融通をきかせなさいよ。そのくらい意味をちゃんと把握してちょうだい」

 古泉に着替えるまで待つように言って、ハルヒは部屋に引っ込んだ。俺も乾いた服が恋しくなっていた。いったん退散させてもらおう。

「じゃあな、古泉」

 歩きながら俺は考えていた。

 さっきのやり取りは、もしや長門流のジョークだったのではないだろうか。言葉の意味をはき違えた、解りにくく面白くもないジョーク。

 頼むぜ長門。お前は表情も顔色も変化なしだから、いつも本気だとしか思えないんだよ。冗談を言うときくらい笑顔の一つくらいしてもいいんだぞ。なんなら古泉のように意味もなく笑ってろ。絶対その方がいい。

 今は笑っている場合ではないけど。


 濡れた服を脱ぎ捨て下着まで替えて再び廊下に出ると、古泉の姿はすでになかった。ハルヒの部屋まで来てノックする。

「俺だ」

 開けてくれたのは古泉だった。俺が足を踏み入れて扉を閉めると同時に、

「クルーザーが消えているそうですね」

 古泉は壁にもたれて立っている。

 ハルヒがベッドに上で胡座を組み替えた。さすがにハルヒもこの事態を喜んでいるわけではなさそうで、むっつりとした顔を物憂げに上げ、

「なかったわよね、キョン」

「ああ」と俺。

 古泉は言った。

「誰かに乗り逃げされたようですね。いや、もう誰かなどと言っても仕方がないでしょう。逃げたのは裕さんですよ」

「なぜ解る?」と俺は問い、

「他にいませんから」

 古泉は冷然と答えた。

「この島には僕たち以外の人間は招かれていませんし、その招待客の中で館から姿を消したのは裕さんだけです。どう考えても、彼が乗り逃げ犯で間違いないでしょう」

 古泉は滑らかな口調で続ける。

「つまり、彼が犯人なんです。おそらく夜のうちに逃げ出したのでしょうね」

 眠った痕跡のない裕さんのベッドと、森さんの証言。

 ハルヒが先ほどの会話を古泉に教えてやると、

「さすが涼宮さん。すでにお聞き及びでしたか」

 古泉はべんちゃらを言い、ふうむと俺は無意味に唸った。

「裕さんは何かに脅えるような急ぎようだったということですが、それが裕さんを見た最後の目撃証言で合ってます。新川さんにも確認しました」

 それにしたってさ、真夜中に台風の来ている海に乗り出すなんて、ほとんど自殺行為じゃないか?

「それほど急ぎの用が発生したのでしょう。たとえば殺人現場から逃げ出す、というような」

「裕さんはクルーザーの運転ができるのか?」

「未確認ですが、結果から考えてできたのでしょう。現に船はなくなっているのですから」

「ちょっと待ってよ!」

 ハルヒは挙手して発言権を得た。

「圭一さんの部屋の鍵は? 誰がかけたの? それも裕さんなわけ?」

「そうではないようです」

 古泉はやんわりと否定の仕草。

「新川さんが言っていた通り、あの部屋の鍵はスペアを含めて圭一さんが管理していました。調べたところ、すべての鍵は室内にありましたよ」

「合い鍵を作っていたのかもしれん」

 俺が思いつきを言うが、古泉はそれにも首を振った。

「裕さんがこの別荘に来たのも、今回が初めてのはずです。合い鍵を作る余裕があったとも思えません」

 古泉は両手を広げて、お手上げのジェスチャー。

 室内に無言が停滞し、暴風と豪雨が島を削る不協和音が小さく遠くの出来事のように空気を振動させている。

 俺とハルヒがコメントする言葉もなく沈黙していると、古泉がそれを破った。

「ただし、裕さんが昨夜に犯行に及んだとしたら、おかしなことになります」

「何が?」とハルヒ。

「さきほどの圭一さんですが、僕が触った彼の肌はまだ温もりを失っていませんでした。まるで、ついさっきまで生きていたように」

 不意に古泉は笑みを浮かべた。そして朝比奈さんの侍女のように控えている沈黙の精霊みたいな姿に言った。

「長門さん、僕たちがあの状態の圭一さんを発見したとき、彼の体温は何度でした?」

「三十六度三分」

 間髪入れず、長門は答える。

 待て、長門。触れてもいないのにどうして解る? それも質問を予期していたような反射速度でさ……などと俺は言わない。

 この場で疑問を持つだろう唯一の人間はハルヒだが、考え込むのに忙しいのか、そこまで頭が回っていないようで、

「それじゃほとんど平熱じゃないの。犯行時間はいつになるのよ」

「人間は生命活動を停止すると、およそ一時間につき一度弱ほど体温を低下させていきます。そこから逆算した圭一さんの死亡推定時刻は、発見時からだいたい一時間以内ってことでしょう」

「待て、古泉」

 さすがにここはツッコムところだ。

「裕さんがどっかに行ったのは夜の事じゃないのか?」

「ええ、そう言いました」

「だが、死亡推定時刻はさっきから一時間以内くらいだって?」

「そういうことになりますね」

 俺はこめかみを押さえた指に力を込める。

「すると、裕さんは台風の夜に別荘を出て、いったんどこかに潜んでおいてから朝に戻ってきて、圭一さんを刺して船で逃げたのか」

「いえ、違います」

 古泉は余裕でかわした。

「仮に死亡推定時刻に幅を取り、俺たちが発見するまでに一時間少々かかったと推定しましょう。ですが、その頃、僕たちはとっくに起きだして食堂に揃っていました。その間、僕たちは裕さんの姿はおろか物音一つ聞いていません。いくら外が台風とは言え、それでは不自然ですよ」

「どういうことなのよ」

 ハルヒが不機嫌そうに言った。腕組みをして、睨むような視線を俺と古泉に向けている。俺を睨んでも何も出てこないぞ。教えを請うのならこっちの微笑みくんに言え。

 古泉は言った。軽く、世間話でもするような口調で。

「これは事件でもなんでもないです。単なる悲しむべき事故なんですよ」

 お前の態度は悲しんでいるように見えないが。

「裕さんが圭一さんを刺したのは間違いないと思われます。出ないと裕さんが逃げ出す理由が解りません」

 まあ、そうなんだろうな。

「どのような事情や動機があったか知りませんが、裕さんはナイフで圭一さんに襲いかかりました。おそらく、背後に握った手を隠しておいて正面からいきなり突き刺したのでしょう。圭一さんは身構える時間もなく、ほぼ無抵抗に刺されたのです」

 見てきたようなことを言う。

「しかしその時、ナイフの切っ先は心臓まで達していなかったのですよ。肌に触れていたかどうかも怪しいですね。ナイフは圭一さんが胸ポケットに入れていた手帳に突き立ち、そして手帳しか傷つかなかったのでしょう」

「え? どういうこと?」

 ハルヒが眉の間に皺を刻んで言った。

「じゃあなんで、圭一さんは死んじゃってたのよ。別の人が殺したの?」

「誰も殺してはいません。この事件に殺人犯はいないんですよ。圭一さんがああなったのは、単なる事故なのです」

「裕さんは? あの人はなぜ逃げたの?」

「殺したと思い込んでしまったからです」

 古泉は悠然と答え、人差し指を立てた。こいつはどこぞの名探偵になったつもりなのか。

「僕の考えをお教えします。経緯はこうですよ。昨夜、殺意を持って圭一さんの部屋を訪れた裕さんは、圭一さんをナイフで刺す。しかしナイフは手帳に阻まれ、致命傷にはなりえなかった」

 何を言い出すのかと思ったが、しばらく聞いておいてやろう。

「しかしここでややこしいことが発生します。圭一さんはてっきり自分の身体が刺されたと思い込んだんですよ。ナイフが手帳にぶつかっただけでも相当な衝撃があったことでしょう。加えて、刃物が自分の胸から生えている様を見て、精神的なショックがあったことも類推できます」

 俺は古泉の言いたいことが段々理解できるような気になってきた。おいおい、まさか。

「その思い込みの力により、圭一さんは気を失ってしまいます。くたくたと、この時は横向きか後向きに倒れたんですね」

 古泉は息を継ぎ、

「それを見た裕さんも、殺したと信じ込みました。後は簡単、逃げ出すだけです。どうも計画性はなさそうですから、何かの拍子に殺意が芽生え、とっさにナイフを振るってしまったのでしょう。それで、嵐の夜だというのにクルーザーを奪取したのです」

「え? でもそれじゃあ……」

 言いかけたハルヒを古泉は制して、

「説明を続けさせてください。意識を失った圭一さんのその後の行動です。彼は朝までそのまま気を失い続けていました。起きてこないのを不審に思った僕たちが、部屋の扉を叩くまでね」

 あのときまで生きていたのか……?

「ノックの音で目を覚ました圭一さんは、起き上がりドアへ近付きます。しかし極度の寝起きの悪さで、彼は朦朧としていたことでしょう。意識がはっきりしていなかったのですよ。半ば無意識のうちに扉に近寄り、そこでようやく思い出しました」

「何を?」と、ハルヒ。古泉は微笑みを返し、

「弟に殺されかけたことをです。そして目蓋の裏にナイフを振りかざす裕さんが蘇った圭一さんは、とっさに扉に鍵を掛けてしまったのです」

 我慢できず、俺は口を挟んだ。

「それが密室状態の真相だと言うんじゃないだろうな」

「残念ながら言うつもりです。気絶したまま眠りに就いた圭一さんには時間の感覚が失せていたのです。裕さんが再び戻ってきたのではと思い込んだんですよ。たぶんタッチの差だったんでしょう。僕が通路側からノブを握ると、内側から施錠されたのはね」

「殺人犯がトドメをさしに来たとして、わざわざノックするわけないじゃないか」

「このときの圭一さんは何せ朦朧としていましたから、混濁した頭ではとっさの判断がくだせなかったんですよ」

 なんて強引な理屈だ。

「さて、施錠を終えた圭一さんは扉から離れようとしました。本能的に身の危険を感じたのでしょうね。悲劇が起きたのはこの時です」

 古泉は首を振り、さも悲劇を語るように、

「圭一さんは足をもつれさせ、転倒してしまいました。こう、倒れるようにです」

 古泉は身体を折って前のめりのジェスチャー。

「その結果、胸の手帳に突き刺さっていただけのナイフは、床に倒れた勢いで柄を押し込まれることになったのです。刃は圭一さんの心臓を貫き、彼を死に至らしめた……」

 俺とハルヒがバカみたいに口を開けるのを尻目に、古泉は力強く言った。

「それが真相ですよ」

 なんだって?

 そんなアホみたいなことで圭一さんは死んでしまったのか? そんな都合良く何もかもが進むか? ナイフが丁度いい感じに刺さるのもアレだが、本当に殺したかどうか裕さんにだって解りそうなものだが。

 俺が反論を頭で組み立てていると、

「あっ!」

 ハルヒが大声を出したせいで俺は飛び上がった。何だ突然。

「古泉くん、でもさ……」

 言いかけてハルヒは固まった。その面が驚きに彩られているが、何に驚いたんだ。古泉の話に納得できないところでもあったのか?

 ハルヒの目が俺の方を見た。俺と目が合うと慌てたように逸らし、古泉を見ようとして思い留まるような仕草をして、なぜか天井を見上げ、

「んん……。なんでもないわ。きっとそうなのね。うーん。何て言うのかしら」

 意味不明な呟きを漏らしたかと思うと、それきり黙り込んだ。

 朝比奈さんは眠り続け、長門はぽつねんとした視線を古泉に注いでいた。


 いったん解散。俺たちはそれぞれの部屋に戻ることにした。古泉の話によると嵐が収まりしだい警察が駆けつけるだろうということだったので、それまでに荷物をまとめておこうというわけだった。

 俺は適当に時間を潰した後、思惑を一つならず抱いて、とある部屋を訪ねた。

「なんでしょうか?」

 着替えのシャツを畳んでいた古泉が顔を上げ、俺に笑顔を向ける。

「話がある」

 俺が古泉の部屋を訪れた理由はただ一つ。

「納得がいかん」

 そうとも。古泉の推理では説明できない部分がある。それは致命的な欠陥だ。

「お前の説明では、死体は俯せで発見されるはずだ。しかし圭一さんは仰向けに倒れていた。これをどうフォローする?」

 古泉は座っていたベッドから腰を上げ、俺と向き合うように立った。

 微笑み野郎はあっけらかんと、

「それは単純な理由です。僕が皆さんに披露した推理は、偽りの真相ですから」

 俺も大仰なリアクションはしない。

「だろうな。あんなもんで納得できるのは意識のなかった朝比奈さんくらいだ。長門に訊けば全部教えてくれそうだが、それはルール違反しているみたいで俺が気に入らん。本当にお前が考えていることを言ってみろ」

 端整な顔を笑いの形に歪め、古泉は低く耳障りな笑い声を上げて、

「では言いますと、さきほど述べた真相ですがね、途中までは合っていますが最後の部分で違うのです」

 俺は無言。

「圭一さんが胸にナイフを突き刺したまま扉に近付いてきた……それまではいいでしょう。反射的に鍵をかけたのもね。違うのはそこからですよ」

 古泉は椅子を勧めるような仕草をしたが、俺は無視した。

「どうやら、あなたは気づいたようですね。おみそれしましたと言うべきでしょうか」

「いいから続けろ」

 古泉は肩をすくめ、

「僕たちはドアを体当たりで破りました。正確には僕、あなた、新川さんです。そして扉は開かれた。勢いよく、内側に」

 俺は黙って先を促す。

「それがどのような結果をもたらしたか、あなたはもうお解りでしょう。扉のすぐ側に立っていた圭一さんは、開け放たれたドアに身体の前面を打たれた。ナイフの柄も」

 俺は脳裏にその光景を思い描いてみた。

「そうやって押し込まれたナイフが、圭一さんを死に追いやったのですね」

 古泉は再びベッドに座り、挑むような目つきで俺を見上げた。

「つまり犯人は……」

 古泉は囁くように微笑とともに言った。

「僕とあなたと新川さん、ということになります」


 俺は古泉を見下ろしている。ここに鏡が有れば、俺はさぞ冷たい目つきをした自分の顔を見ることができるだろう。そんな俺を気にするようでもなく、古泉はまだ言っている。

「あなたが気付いたように、涼宮さんもこの真相に気付いている。だから言いかけてやめたんですよ。彼女は僕たちを告発しようとはしなかった。仲間を守ろうとしてくれたのかもしれませんね」

 もっともらしい顔の古泉だった。だが、俺の納得はまだである。こんなトンチキな第二推理に惑わされるほど、俺の大脳新皮質はまだ耄碌していない。

「ふん」

 俺は鼻を鳴らし、古泉を睨みつけてやった。

「悪いが、俺はお前を信用できねえな」

「どういうことでしょうか」

「チャチな推理に続く第二の真相を狙ってるんだろうが、俺はそんなもんに騙されたりはしないってことさ」

 今の俺はちょっと格好良くないか? さらに言ってやろう。

「考えてみればいい。根本的な問題をだ。殺人事件そのものに着眼すればいいだけの話さ。いいか? そんなもんがこんな都合のいい状況で起きるわけはないんだ」

 今度は古泉が黙って俺を促す番だ。

「台風が来たのは偶然か、でなければハルヒが何かしやがったんだろうが、それはこの際どうだっていい。問題となるのは、事件によって死体が一つ転がるってことなのさ」

 ここで間を空け、俺は唇を舌で湿らせる。

「お前はこう主張するかもしれん。ハルヒが望んだから事件が起きたのだとな。だが、口で何を言おうとハルヒは死者の出るようなことは望みやしない。それくらいのことはあいつを見てれば解る。てーことは。この事件を起こしたのはハルヒじゃない。そして、いいか? 俺たちがその事件現場に出くわしたのも偶然じゃない」

「ほう」と古泉。「では何です?」

「この事件……と言うかこの小旅行。SOS団夏合宿と言ってもいいだろうが、今回の件で真の犯人として指摘されるべきはお前だ。違うか?」

 虚をつかれたように笑い顔をフリーズドライさせた古泉の時間が数秒間停止した。しかし----。

 くすくす笑いが古泉の喉からまろび出る。

「参ったな。なぜ解りました?」

 そう言って俺を見る古泉の目は、文芸部室で見るものと同じ色を浮かべている。

 俺の脳味噌も伊達に灰色をしていなかったらしい。俺は幾分ホッとしながら言った。

「あの時、お前は長門に死体の体温を訊いた」

「それが何か?」

「その体温で、お前は死亡推定時刻がどうのとか言い出したな」

「いかにも、言い出しました」

「長門はあの通り便利な奴だ。お前も知ってるとおり、たいていのことはあいつが教えてくれる。お前は長門に体温じゃなくて死亡推定時刻を訊くべきだった。いや、推定じゃない。あいつなら死亡時刻ジャストを秒単位で教えてくれるだろうさ」

「なるほど」

「もし死亡時刻を訊いていたなら、長門は死んでいないと答えたはずだ。それにお前はあの状態の多丸氏を一度も死体と呼ばなかったな」

「せめてものフェアプレイの精神です」

「まだあるぞ。俺はこれでも見るべき所は見ている。圭一さんの部屋のドアの内側だよ。お前の言い分では、扉はナイフの柄にかなりの力でぶつかったはずだよな。人間の体内にナイフをめり込ませるほどの威力でだ。そんな力が働いたら、ドアにだって少しは傷なり凹みなりが出来たはずだろ。だがそんなもんはなかった。傷一つない、まっさらな扉だったぜ」

「素晴らしい観察眼です」

「それからもう一つ。新川さんと森さんのこともあるな。あの二人はここに来てまだ一週間足らずだと言う話だ。一週間前に雇われて、それからこの島にいる。だったよな?」

「そうですよ。それが何かおかしなことになりますか?」

「なるね。なるとも。お前の態度がおかしいだろうが。ここに来た最初の日を思い出せ。フェリー乗り場に迎えに来てた新川さんと森さんを見て、お前が言った言葉だぞ」

「さて、僕は何と言いました?」

「久しぶり、と、お前は言ったんだ。おかしいだろ? どうしてあの二人に対してそんなセリフが出てくるんだ。お前はこの島に来るのは初めてだとも言っていた。彼らとも初対面のはずだ。何で新川さんと森さんを、あらかじめ知っていたような挨拶ができるんだ。そんなわけねえじゃねえか」

 古泉はくっくっと笑った。

 それは告白の笑みでもある。俺は脱力と同時にすべてを了解し、古泉は話し始める。

「そうです。今回の事件はすべて仕込でした。大がかりな寸劇だったんですよ。あなたに気付かれるとは思いませんでしたが」

「なめるな」

「これは失礼を。ですが、意外であったことは認めますよ。いずれ何もかも告白しようとは思っていましたけど、こうも早くつまびらかになってしまうとはね」

「てことは、多丸さんや森さんや他の全員がグルだったんだな。どうせ『機関』とやらの仲間だろう」

「そうです。素人にしては名演技だったと思いませんか?」

 胸に刺さったナイフの刃は途中で折った細工がなされたもの、赤い染みは血に見せかけた塗料、もちろん圭一さんは死んだフリで、いなくなった裕さんとクルーザーは島の反対側に移動しただけ。

 と、軽やかに古泉は真相を激白した。

「なぜこんなことを計画した?」

「涼宮さんの退屈を紛らわせるために。そして僕たちの負担を減らすために」

「どういうことだ」

「あなたには言っておいたはずですよ。つまり、涼宮さんに変なことを思いつかせないように、あらかじめ彼女に娯楽を提供しようと言うことです。当分、涼宮さんは今回の事件で頭がいっぱいになるでしょうから」

 ハルヒは俺たちが犯人になってしまったと思い込んでいるようだが、それでいいのか?

 あの後、ハルヒは妙におとなしくなっていた。何かを考え深げでもある。不気味だ。

「では予定を繰り上げますかね」と古泉は言う。「こっちの計画では、フェリーで本土の港に戻ったときに多丸圭一、裕氏の両名と新川さん、森さんの計四人が出迎えてニッコリ----というオチを用意していたのですが。もちろん『機関』のことは伏せて僕の親類というところはそのままですが」

 マジでサプライズパーティだったわけだ。

 俺は溜息をつく。その冗談がハルヒに通用するといいんだが、もしハルヒがマジギレしたらお前が押さえ込めよ。俺は逃げるからな。

 古泉は片目を閉じて微笑んだ。

「それは大変ですね。早めに謝っておいたほうがよさそうです。多丸氏ともども、頭を下げに行くとしますか。死体役もそろそろ疲れる頃合いでしょう」

 俺は黙って窓の外へ視線を飛ばした。

 ハルヒはどうするだろう。騙されたことに怒り狂うか、素直に趣向を楽しんで笑い転げるか。いずれにしろ、今のどっちつかずな精神状態はもっと解りやすい方向に向かうだろうが。古泉の苦笑を滲ませた声で、

「刑事や鑑識役を演じる予定になっていた方々もいたんですが、せっかくの準備が無駄になりましたね。にしても、こんな淡泊な終わり方をするとは想定外でした。本来なら屋敷内の捜索とか現場検証とかも予定表にはあったのですが……。上手くいかないものです」

 それだけ考えが足りなかったからだろうさ。

 曇り空を眺めながら、この天気は数時間後にどのような晴れ模様になるだろうかと俺は考えていた。


 結果として、古泉から副団長の肩書きが取られることはなかった。台風が大急ぎで一過した青空の下、帰りのフェリーの中でハルヒは終始ご機嫌さんであり、駅前で全員解散になるまでそれは持続していた。シャレをシャレとして楽しめるだけの頭がハルヒにあってよかったことだな。

 その代わり、古泉は船内の売店で人数分の弁当と缶ジュースを買わされてはいたが、それですんで安いもんだと俺は思う。

 おそらく最初からすべてを知っていたらしい長門は慎ましく無反応を守りきり、気絶から醒めた朝比奈さんは「ひどいですー」と可愛く拗ねて見せたが、古泉と多丸兄弟、及び使用人役の二人が頭を下げるのを見て、「あ、いいです。気にしてませんからっ」と慌てて謝り返していたことも挿話として付け加えておく。

 ところで、本土を目指すフェリーのデッキで全員の集合写真を撮ろうと並んでいたとき、ハルヒはこんな注文を付けていた。

「冬の合宿も頼むわよ、古泉くん。今度はもっとちゃんとしたシナリオを考えておいてよね。今度は山荘に行くんだから。それから大雪が降らないとダメだからね。次こそはこれぞってくらい館っぽいのじゃないと今度は怒るからね。うん。今からとても楽しみだわ!」

「ええと……、どうしましょうね?」

 まるで第二次世界大戦末期のヨーロッパ西部戦線に送り込まれたあげく一個分隊で連合軍の総大将を生け捕りにしてこいと総統直々に命令された新米ドイツ軍士官みたいなあやふやな笑みを形作り、古泉は救いを求めるような顔を俺に向けてきた。

 俺は同点で迎えた優勝決定戦のロスタイムに味方ゴールへファインシュートを放ったディフェンダーを見るような目をしつつ、心にもないことを言うことにした。

「さあな。俺も期待してるぜ、古泉」

 せめて俺に見抜かれるような、しょうもないオチでないことくらいは期待してやってもいいだろう。

 日常に退屈したハルヒが、非日常な現象を発生させないためにも。

 

あとがき

 

 詳しい事情は解りかねますが巻末にあとがきが載るのは風が吹けば桶屋が儲かるくらいに疑念の余地もないほどデフォルト仕様のようであり、なおかつ「何ページ書いてもいいですよ」と狂喜乱舞するようなことまで言っていただけたのですが、それはまたの機会に譲るとして、今回はせっかくですので収録された各話ごとにあとがきじみたものを書いてページを埋めたいと思います。

 全体的な感想としては、「一年が経つのは早いが二ヶ月が経過するのはもっと早い」という、死ぬほど当たり前のことに終始することになるので割愛し、以下つれづれなるままに。


「涼宮ハルヒの退屈」

 表題作にしてSOS団の連中が最も早く活字となったのがこれでありました。確か「涼宮ハルヒの憂鬱」が世に出る二ヶ月ほど前にザ・スニーカーに掲載されたんじゃなかったでしょうか。

 いくら何でも本編が出る前に後日談を載せるのはいかがなものかと一人不安になっていたのですが、そのような些末な心配をしていたのはまさに僕一人であったらしく他の誰も疑問を持っていなかったようなので一安心です。なにせひたすら勢いのままに書いてしまった話しなため、これまたいいのでしょうかと心配していたのですが、結局どこからも誰からもいいとも悪いとも言われず少なくとも僕の耳には届かず、じゃあまあいっかと自分を慰めている次第です。

 ちなみに僕が人生で草野球に参加したのは、記憶にある限りでは十回もありません。フライの捕れないセカンドとしてザルの名を欲しいままにしていたのは言うまでもないでしょう。ヒット打った記憶もないことに今更気付き、遅まきながら愕然としています。


「笹の葉ラプソディ」

 最初につけた仮題は「朝比奈みくるの困惑」というものでした。それじゃイマイチシリーズタイトルが解りにくいという話だったので、このようなサブタイトルになりました。この時はまさか読み切り短編の掲載が続くとも思っておらず、雑誌掲載時の最後のページに「次号に続く」みたいなことが書いてあって仰天した覚えは鮮明に残っています。

 いちおう未来人がいるんだし、タイムトラベルの一つもしないと話になるまいと思いつつ書きましたが、このエピソードが次巻以降のなんとなく伏線っぽいことになりそうな気配に----なって欲しいとぼんやり考えています。


「ミステリックサイン」

 わけあってアイデア出しから書き終えるまでの私的最短時間記録を作ったように思います。いったい連中に何させましょうかねえと言いながら、気付いたらこんな感じになっていました。この辺りからシリーズタイトルそのものを「がんばれ長門さん」にしようかと思い始めたのですが、それだとストーリーがまったく動きそうになかったので断念しました。でもまあ、メンツの中では一番活躍してくれそうなキャラではあります。我ながら期待しています。いやホント、頼むよ長門さん。ところで眼鏡はどうしましょう。あったほうがいいのでしょうか。

 コンピュータ研部長にももうちょっと活躍していただきたいところですが、今のところ漠然とそう思っているだけなのでどうなることかと。


「孤島症候群」

 本当は「ミステリックサイン」よりも前に書き始めてて、こっちが掲載される予定にまでなっていたのですが、書いているうちになぜかどんどん長くなってしまうという自己責任による諸事情で文庫のオマケ書下ろしという体裁になりました。そんなわけでこの本の収録作品で最も長いページ数を誇るという、なんとなく帯に短しタスキに長し的なオマケとなってしまい、反省するところ大であります。いつもどうにかしようと思ってるんですが、思うだけなら楽勝であって実際に思い通りになることなど人生振り返ってみても数えるほどしかありません。そのような理由により現在の僕は脳ミソがアメーバー状になっています。

 誰か僕を孤島の豪華宿泊施設に一週間ほど泊めてくれないものでしょうか。証人の役くらいならなんとかこなせないこともないと思います。ほぼ一日中眠っていることでしょうが。


 こんな感じで三巻目を出していただくことができました。これもひとえに皆様のおかげであると申せましょう。皆様のところには本当に様々な方々の名称や役職やニックネームをルビにして並び称したいのですが、とにかく不特定多数の読者様を含め僕が知ることのできた方々や名を知りようもない方々すべてを含む皆様ですので、とうてい記載し切れるものではなく、伏してお詫び申し上げつつ厚く御礼申し上げます。

 

角川源義

 

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以って体験した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた。これは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。

 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化と秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。