第六巻 涼宮ハルヒの動揺

【Volume 6 — Suzumiya Haruhi no Douyou】



 

CONTENTS

 

ライブアライブ
朝比奈ミクルの冒険 Episode 00
ヒトメボレLOVER
猫はどこに行った?
朝比奈みくるの憂鬱
あとがき

 

ライブアライブ

 

 俺が高校に入学した年。

 涼宮ハルヒという名前を持つ人型の異常気象が北高で猛威を振るい始めたその年は、思えば色々あったもので、ありすぎるあまりいちいち思い出すのも面倒なくらいになっているのだが、いったんメモリーアルバムを遡れば、まあ本当になんやかんやとやってきたものだよなと我ながら呆れ返りたくなりつつも、そんな記憶の中に刻まれていたエピソードの一つに実はこんなものもあったという話をさせていただこう。

 

 それは夏の残した熱が列島の上空にわだかまり続け、まるで四季の移り変わりを操る気象兵器を誰かが誤作動させているのではないかと疑えるくらいに暑かった、暦上では秋のことである。

 その日、文化祭当日。

 頭の調子が年中調子ハズレな監督兼プロデューサーが撮影開始を宣言してからすべての作業が終了するまで、出演者及び雑用係のカオスフレームをむやみに悪化させる特殊効果を発揮していたような、そんな底と間が抜け気味な迷惑映画ももっぱら俺のおかげで一応の完成を見せていた。

 文化祭初日の今日はその公開初日でもあり、『朝比奈ミクルの冒険エピソード00』と題された映画とも朝比奈さんのPVとも知れぬシロモノは現在、視聴覚室で絶賛上映中のはずだ。

 はずだというのは他でもなく、俺はあのシュールレアリズムの極致に挑戦したようなバカ映画に自分の名前がクレジットされているところなどこれ以上見たくもないので、DVテープを映画研究部の連中に渡したあたりで部外者になることを決め込んでいたのである。

 幸いにも細かい交渉や宣伝行為は渉外活動となると、より以上に活発化するハルヒが団長自ら元気よく率先してやってくれている。

 ハルヒの奇行にそろそろ慣れ始めている北高生や教師どもはいいが、ヒマな父兄や一般人たちが校内をうろついているってのに、春先にも登場した例のバニーガール姿で宣伝ビラ撒いてんのもどうかと思うものの、おかげで無気力教室一年五組に属する俺やハルヒとは違い、それなりに行事参加している朝比奈さんと長門と古泉もそれぞれ自分たちのクラス企画に朝から従事できているのである意味御の字と言える。

 いまや俺の気も晴れ晴れとして澄み切った水面を映す明鏡のごとき心境だ。映画のデジタル編集が終わった段階で俺の背負い込んだ仕事もめでたく終了しているし、やや睡眠不足気味の頭をふらつかせながら長門の占いと古泉の演劇をチョロリとひやかす余裕もあるくらいだ。しょぼい県立校のさびれた文化祭とはいえお祭はお祭で、いつもと違う雰囲気を満喫するのも悪くない。

 今日の俺には決して看過できない使命がある、そしてその使命は一枚の紙片となって俺の手に握られているのだ。

 それは何かとは言うまでもない。朝比奈さんのクラス企画による焼きそば喫茶の割引券である。

 どんな安茶葉だろうと彼女が給仕してくれるだけで天上の甘露に早変わりするのだから、その同じ手で差し出された焼きそばも高級中華料理店のまかない程度にはなるに違いなく、俺の腹を鳴かせるには充分な期待値が脳裏でゲージを上昇させているというわけだ。こうして校舎の階段を上る足取りもまるで翼つきの靴を履いているようだぜ。

 しかし、そんな階段を突き抜けて天まで昇ろうかという気分の俺に、同行者がぬるま湯のような声をかけてきた。

「どうせなら無料招待券のほうがよかったんだがな」

 こんなイヤゴトを言いやがる口の持ち主は谷口以外にこの場にいない。ロケで池に飛び込ませちまった義理もあるし、せっかくなので誘ってやったというのにこれ以上何を求めると言うんだろうね。

「俺はノーギャラで水中ダイブさせられたんだぜ? ついでに言えば試写会にも招待されてねえ。まさか俺のシーンがカットされてるんじゃないだろうな。ずぶ濡れの代償が焼きそば三十パーセントオフ程度じゃ割に合わねえな」

 つべこべ抜かすな。朝比奈さんがわざわざ呼び出してくれてまでくれた割引券だぞ。それにノーギャラ出演が一番割に合ってないのはその朝比奈さんなんだ。今すぐアカデミー賞の選考委員にかけあってオスカー像を特別授与してあげたいくらいだ。

「不服なら来るな。とっとと帰れ」

 そう言った俺に、もう一人のツレが、

「まあまあ。いいじゃん谷口。どうせ食べ歩きするつもりだったんだろう? ありがたくご相伴にあずかろうよ」

 国木田だった。古泉とはまた別の意味で優等生面をしたこのクラスメイトは、

「それにキョンと一緒に行けばサービスしてくれるかもしれないよ。キャベツ多めとかさ。谷口もそのほうがいいだろ~」

「まあな」

 谷口はあっさり答えた。

「だが味にもよるな。なあキョン、朝比奈さんが料理すんじゃねえよな」

 そういえば給仕係だと言っていたような気がするが、それがどうかしたのか。

「ああ、なんとなくだが料理が下手そうなイメージがあるんでな。砂糖と塩を素で間違えてもあの人なら不思議じゃねえような」

 こいつといいハルヒといい、朝比奈さんを何だと思ってるんだ。いくらマスコット的メイドキャラ担当でも、今時そこまでドジな人間は幻想世界にしか住んでないぜ。せいぜいタイムマシンをなくしてオロオロするくらいのものだろう。未来人としてそれもどうかとは思うが。

「楽しみだね」と国木田。「コスプレ喫茶だっていう噂を聞いたよ。映画のウエイトレスとか、いつだったかのバニーガールにも驚いたけど、今度はどんな格好をしてるのかなあ」

「まったくだ」

 それには谷口も深く肯いた。こいつらは俺ほど朝比奈さんのメイド姿を見慣れていないからな。いちおう憐憫の情を感じておこう。

 階段から廊下に足を踏み出しながら、俺も思い描いていた。ウエイトレスと言えば映画で使用したパッツンパッツンのセクハラ衣装しか思い浮かばないくらいに脳みそが毒されていたから、ここでまともな衣装をまとって楚々と焼きそばを運んできてくれる朝比奈さんを眺めることは、まさしく網膜と心の洗濯という以外に何があろうか。いつも思うんだが、ハルヒの趣味は装飾過剰なんだよ。バニーの扮装で校門前に立てるくらいの剛構造の神経だから、あいつ自身にとってはちょうどいいのかもしれないが、そんな神経が誰の体内にも通っていると思ったら大間違いだ。

 朝比奈さんのクラス有志による手作りウエイトレス衣装か……。

 こればかりは谷口にならうしかないな。楽しみだ。まったくもって。

 

 今日の校舎内の廊下には緑色のラバーシートが安物の赤絨毯のように敷かれていた。そのため普段は上履きを強いられる校舎だが、外来の一般客に配慮して文化祭の今日明日だけは土足を許されている。歩いている人影もそれなりに多彩だった。特に文化系部員でそれなりの発表機会がある生徒の保護者なんかは来てそうだし、付近の住民には格好のヒマつぶしの場だろう。行く高校が違っちまった中学時代の友達を招待しているパターンも多かろうね。特に山の下の女子校生徒をおびき寄せるにはほとんど年に唯一くらいの機会だ。出会いを求めてるのは何も谷口のような男どもだけではないさ。

 北高の制服以外の姿が目立つ廊下を、俺たち三人は撒き餌につられるイワシのように回遊し、二年の教室が並んだ校舎の一角、モグラ叩きゲーム屋と創作風船工作室に挟まれた教室の前で足を止めた。

 鉄板をこがす芳しい香り、入り口前に置かれた『焼きそば喫茶・どんぐり』という立て看板。そしてどの教室よりも長い蛇のごとき列。いや、それより真っ先に目と耳に飛び込んできたのは、

「やぁっ! キョンくんとその友達たちっ! こっちこっち、いらっしゃ~いっ!」

 十メートル離れていても聞き間違えることのない大声と晴れやかな笑顔だった。こんなに明るく笑える人間は、迷惑なことを思いついたハルヒを除けば俺の知り合いではただ一人である。

「三名様ご来店っ。まいどっ!」

 鶴屋さんだった。しかもウエイトレスの扮装の。

 通路に持ち出した机の前で手を振る鶴屋さんは、どうやらチケットの売り子をしているらしかった。ひょっとしたら客寄せ係兼任なのかもしれない。

「どうだいっ。この衣装、めがっさ似合ってると思わないかなっ? どうにょろ?」

 行列の横に身を乗り出した鶴屋さんは、俊敏に俺たちへと近寄ってきた。

「それはもう」

 俺は意味もなく低姿勢になりながら鶴屋さんを見つめた。

 うかつにも朝比奈ウエイトレスバージョンを妄想するのに忙しすぎて鶴屋さんも同じクラスだということを失念していた。谷口と国木田もカレイを釣ったと思っていたらその尻尾にヒラメが齧り付いて上がってきた釣り人のような顔になって、髪の長い上級生をマジマジと眺めている。無理もない。誰のデザインだか知らないが、彼女のクラスには凄腕の服飾専門家がいるらしい。俺たちの映画で朝比奈さんが着せられたウエイトレス衣装とは趣を異にするその服は、派手すぎず地味すぎず、着ている中身の人間を引き立てる役割を完璧に果たしつつ、かつ決して主張しすぎることもなく、しかし相互作用で着る者の魅力度をMAX付近にまで引き上げる素晴らしいアジャストぶりを発揮する、オブ・ザ・イヤーを進呈すべき仕事と言えた。

 ようするにこんな抽象表現で逃げるしかないくらいのベストマッチだってことさ。鶴屋さんでこうなんだから、朝比奈さんを一目見るや否や気を失ってしまうかもしれんな。

「盛況ですね」

 と、言葉をかけると、

「わはははっ。入れ食いさっ」

 鶴屋さんはスカートの裾をちょいとつまみ上げ、周囲の視線をはばかることない率直さ加減で、

「格安の材料で作った下手っび焼きそばなのに、こんだけ客集まるんだからもうボロもうけだよっ! 笑いが止まんないねっ」

 本当に嬉しそうに笑う人だ。俺は行列に並んでいるのが男ばかりである理由を推理するまでもなく悟りきっていた。鶴屋さんの笑顔を見ていたら不思議と俺まで愉快な気分になってくるからな。世の中、騙されやすいのは決まって男のほうである。

 列の最後尾についた俺たちに、鶴屋さんは無料スマイルを振りまきながら、

「料金先払いでよろしく! ちなみにメニューは焼きそばと水だけだからねっ。焼きそば一つ三百円、水道水はタダで飲み放題!」

 もらった割引券を差し出すと、

「えーと、三人だよね? じゃ全部で五百円でいいやっ。大サービス!」

 受け取った硬貨をエプロンスカートのポケットに落とすと、代わりに焼きそばのチケットを三枚俺に押しつけ、

「そいじゃ、ちょろんと待っててー。すぐに順番回ってくるからねっ」

 鶴屋さんはそう言って、ポケットの小銭をジャラジャラ鳴らしながら入り口の机に戻っていった。その後ろ姿が列の先頭に消えてから、

「元気だなあ。毎日あのテンションでよく疲れないよね」

 国木田が感心したように声を上げ、谷口は声をひそめてこう言った。

「キョン、前から思ってたんだが、あの人はいったい何者だ。お前と涼宮の仲間の一人でいいのか」

「いーや」

 部外者だよ。お前たちと同じ、困ったときの人数合わせゲストだ。ちょっとその割には、妙に前に出てくるお人だけどさ。

 

 鶴屋さん的解釈における〝すぐ〟とは約半時くらいのものらしい。三十分ほど待ってようやく列の前がはけ、俺たちは入室をかなえられた。ちなみに待っている間中も行列に加わる客が引きも切らず、その全員が男だというのが何とも言えない現象だった。列の一部を形成する俺が言うことでもないが。

 教室内は半分が調理場、もう半分が客用テーブルになっていて、数台のホットプレートが必死に焼きそばをジュウジュウ言わせていた。調理しているのは白い割烹着の女子生徒たち、包丁をふるって材料を切り刻んでいるのも全員女で、いったいこのクラスの男子たちはどこで何をしているのかと疑問が浮かぶ。

 後で鶴屋さんに聞いたところ、哀れな男どもは女子の単なる使い走りとして足りなくなった食材や紙皿を買いに行かされていた。給水や野菜の水洗いを命じられていたようで、いやぁそれなら仕方ない。アクエリアンエイジはすぐそこまで迫っている。

 席までは鶴屋さんが案内してくれた。

「さ、その空いてるとこに座っててっ。おーい、水三丁一つ」

 その掛け声に、可憐な美声が答えた。

「はぁい。あ、いらっしゃいませえ」

 お盆に水道水の入った紙コップを載せてやってきた極上ウエイトレスが誰だか、この際俺が言わずとも解るだろう?

 無料の水を俺たちに配り終えた彼女は、盆を両手で抱えるようにしてペこりとお辞儀をしてから、

「ようこそ、ご来店ありがとうございます」

 にっこりと微笑み、

「キョンくんと、そのお友達の……えーと、エキストラの……」

 俺以外の二人が同時に反応した。

「谷口です!」

「国木田です」

「うふ。朝比奈みくるです」

 教室の壁から『写真撮影はご遠慮願います』という手書きポップがぶら下がっている理由も解るというものだ。うっかりそんなもんを許可した日には、ちょっとしたパニックに陥りかねない。

 そんくらい朝比奈さんは可愛かった。予想通りに俺の意識が遠のきかけた、それ以上の言葉を費やす必要もないくらいにな。グッドデザイン賞を差し上げたいくらいのウエイトレス衣装を着込んだ朝比奈さんと鶴屋さんとが並んで立っていると、もはや壮観さもここに極まれりといった感じで、おそらくだが天国とはこういう風景があちこちにあるような場所を指すんだと思うね。

 朝比奈さんは盆を小脇に挟んでから、焼きそばチケットを取り上げて半分に切り取り、その半券を残して、

「少々お待ちくださぁい」

 見とれる男どもの視線を独り占めにしながらぱたぱたと調理場へと向かった。

 鶴屋さんが笑顔で解説するところによると、

「みくるは食券のもぎり役なのさっ。あとは皿を下げる役と水注ぐ役ねっ。それしかさせてないよ! 蹴つまずいて焼きそばひっくり返しそうだからっ。人気者なのはよいことだよっ」

 至言です、鶴屋さん。

 

 料理を運んできたのは別の二年生ウエイトレスだった。そうして出てきた焼きそばはキャベツ多めの代償のように肉少なめで、うまいかどうかと言われると普通にソースの味がした。朝比奈さんは次々にやってくるお客のテーブルをコマドリのように回って紙コップを配ったり半券切ったりと大忙しで、途中で一回だけ俺たちに冷えていないお冷やのおかわりを持ってきてくれたのが目一杯のサービスだ。鶴屋さんも店頭と教室内をニコヤカに行ったり来たりしており、とてもじゃないが長っ尻できる雰囲気ではない。

 てなわけで、焼きそばが到着してからものの五分くらいで食い終えた俺たちは、早々にその場を退散する以外に道はなく、これでは何かを食ったという気分もあまりない。

「どうする?」

 と訊いてきたのは国木田だ。

「僕はキョンたちの作った映画が観たいなり自分がどういうふうに映ってるのか確認もしときたいしね。谷口は?」

「あんな映画、別に観たくもねえ」

 へらずロを叩いて、谷口は制服のポケットから文化祭のパンフレットを取り出した。

「焼きそばだけじゃ全然足りん。俺は科学部がやってるバーベキューパーティに参加することにするが、その前にだ」

 ニヤリと笑い、

「滅多にない絶好の機会だ。ナンパしようぜナンパ。私服着てる女が狙い目だぜ。探せば三人くらいで固まり歩いている連中がきっといる。そういうのに声かけたら意外にホイホイついてくるというのが、俺の経験によって知り得た法則だ」

 何が法則だ。成功率が限りなくゼロに近い経験則が役に立ってたまるか。

 俺は即座に首を振った。

「遠慮する。お前ら二人でやってろ」

「ふん」

 谷口が気に入らない笑みを浮かべやがるのも、国木田がしたり顔でこくこく肯くのもまとめて神経に障るが、何と言われようと俺はこたえたりしない。別にナンパしてるところを特定の誰かに目撃されたら困ったことになりそうだからではなく、ええと、つまりだな。

「かまわねえよ。キョン、お前はそういう奴だ。いや、イイワケはいらん。しょせん友情なんかそんなもんさ」

 わざわざ溜息までつく谷口に、国木田はやんわりとした口調で、

「てゆうかさ谷口。僕もナンパはよしとくよ。すまないけど一人で成功させて、後でその娘の友達でも紹介してくんない? それが友情ってもんじゃないかな」

 何やら論理のすり替えみたいなことを言って、

「じゃ、また後でね」

 さっさと歩き去る国木田。残された谷口はアホみたいな顔をしていたが、俺も国木田の行動を模倣することにした。

「じゃあな、谷口。夕方にでも成功率を教えてくれ。成功してたらの話だが」

 

 さてと、次にどこへ行こうか。

 部室に戻っても誰もいないか、あるいはいるのはハルヒくらいだろうし、あいつと二人で学内を歩き回るようなことになれば著しく世間体を損なう結果しか生まないように思われるので、俺の足は自然と別の方向を向いていた。ひょっとしたら未だに校門の前で宣伝ビラを配るバニーガールをやっているかもしれなかったが、さすがに誰かが止めただろう。いつかのように部室で一人ぷんすかしているかもしれない。頼む、今日くらいは別行動をさせてくれ。明日はオフクロと妹がやってくる予定になってるんで、しゃしゃり出てきたハルヒと何だかんだとありそうだからさ。

 プログラムシートを改めて確認してみる。面白そうな出物はそんなになかった。学内アンケート結果や国産タンポポと外来種の分布研究などというやくたいもない展示なぞにはハナから行く気がないし、各学年に二つくらいある映画上映はもう心の底からウンザリ気味、素人の学芸会や段ボール製の迷路屋敷にも興味なしだ。他校チームを招いてのハンドボール部対抗戦なんてやる意味あるのか? 担任岡部だけは張り切ってやってそうだが。

「ヒマ潰しになりそうなのは……」

 ふと目が止まった。文化祭で唯一、規模の大きな催し物がある。たぶん誰よりもこの日のために練習していたのはそこへの参加者だろう。思えばこの何週間か、夕方になるとうるさく鳴り響いていたラッパの音。

「吹奏楽部のコンサートくらいか」

 パンフを再確認する。残念ながらそいつは翌日の開催になっていた。講堂を使用する部はけっこう多いらしいな。演劇部とコーラス部も明日にやるようだ。で、今日は何をやっているかというと----。

「軽音楽部と一般参加のバンド演奏大会ね」

 ありがちだったし、やってんのは既成ミュージシャンのコピーバンドがほとんどだろうが、たまにはライブでの音楽鑑賞も悪くないと俺は考えた。たぶん俺が映画作製にかけた百倍くらいの情熱と努力の結実がそこにあるだろう。その成果を耳にしつつ、ぼんやり物思いにふけることにしよう。少なくともその間は自分がかかわったアレな自主製作映画を忘れ去ることができるに違いない。

「一人でじっとしている時間も必要だよな」

 そんなふうに、のどかに考えていた俺の思いを粉々に打ち砕く出来事がそこで待っているなどと、思いつくのはちょっと予測不可能というものだった。

 この世には限度というものがあり、俺もまだまだ甘かった。リミットをやすやすと無視してのける存在を知っていたはずなのに、つい忘れてしまうのだ。つい先日も限ナシな現象の渦中にあったというのに、これも常識人の限界というものだろうか。非常識な展開にハマって初めて知る己の浅はかさよ。是非とも後代の教訓として生かして欲しいものだ。誰がそんな教訓を真面目に受け入れてくれるかどうかはさておくとして。

 

 扉の開け放たれた講堂からはやかましい騒音が大音量で鳴り響いていた。まるで天界で風神雷神が好き勝手に演奏会を開けばこうなるみたいな音響効果で、ロック魂に溢れたライブ会場としてはチープだが、ノリさえよければテクニックなんか納豆に薬味が入っているかどうかくらいの些末な問題だ。入っているにこしたことはないが、別に薬味を喰いたいんじゃなくてメインは納豆なんだから薬味の味まで最初からつけてろなんて注文するのは納豆に失礼だろ。

 館内を見回すと、所狭しとパイプ椅子の並んだ講堂の客数は正味で六分入り、主催者発表で八分といったところか。壇上ではどっかで聞いたことのあるようなポップスをノーアレンジで演奏する素人バンドががんばっていた。がんばっているというのが解る時点でちょっとアレだが、放送部員がミキシングやってるのも問題があるような気がするぞ。

 照明はステージに集中しているため周囲はやや薄暗い。一列丸ごと空席になってる部分を探し当て、その端っこに腰を落ち着ける。

 プログラムによると軽音楽部の部員バンドと一般参加の二部構成になっているらしい。今やってるのから何組かは軽音の連中だ。パイプ椅子の最前列付近だけはオールスタンディング、中には身体でリズムを取っている奴もいたが、おそらく関係者の身内かサクラなのだろうと俺は判断した。にしても、ぼんやり聴視するにはスピーカーの音量がデカすぎたな。

 頭の後ろに手を組んで眺めることしばし、オーラスの曲の間奏でボーカル担当がメンバー紹介をリズムに乗せておこない、俺はそいつらが軽音楽部二年生の仲良し五人組であるという三日後には忘れていそうな情報を知った。

 音楽を語れるほど俺の知識レベルは深くなく、また演奏者たちに真面目な思い入れがあるわけでもなかったので何を気にすることもなく、まさに気晴らしにはもってこいだ。

 ゆえに、俺はリラックスし切っていた。

 なので、まばらな拍手に送られて五人組が手を振りながら舞台袖に退場し、入れ替わるように次のバンドメンバーがやって来たとき----。

 目を疑ったのもやむをえまい。

「げっ」

 講堂の空気が一気に変わったのが解る。ずざざさ----っ。その場にいた全員が精神的に十メートルほど下がっていく音がSEとなって頭に響く。

「何をやってるんだ、あの野郎!」

 ステージの上手から譜面台を提げてマイクスタンドに歩いてくる人間に心当たりがあるどころの話ではなく、そいつは見覚えのあるバニーガールの衣装をまとい、見覚えのある顔とスタイルでスポットライトを浴びていた。

 頭につけたウサミミをピョコつかせ、肌も露わな扮装でそこにいるのが誰か、両眼を誰かと交換したとしても同じ名前しか出てきやしないだろう。

 涼宮ハルヒだ。

 そのハルヒがなぜか、真面目な顔をして壇上の中央に立っているではないか。

 だが、それだけならまだ良かったのだ。

「げげっ」

 遅れて現れた二人目を見た俺の肺の中から、空気が一気に漏れ出した効果音だと思ってくれ。

 ある時は邪悪な魔法使いの宇宙人、またある時は水晶玉を手にした黒衣の占い師。

「…………」

 もはや出す声もないな。

 長門有希が、さんざん見飽きた例の黒帽子に黒マントの衣装のまま、どういうわけだかエレキギターを肩にかけて立っている。いったい何を始めようと言うんだ。

 これで朝比奈さんと古泉が登場したら逆に安心したような気もするのだが、三人目と四人目は知った顔でも何でもない女子生徒だった。あまりの見かけなさと割と大人びている雰囲気から三年生かとあたりをつける。一人はベースギターを持って、もう一人はドラムセットへと向かっていき、どうやらこれ以上の追加人員はない模様である。

 何故だ。ハルヒと長門の文化祭用衣装には目をつむろう。しかしだ、どうしてあの二人が軽音楽部の部員で組んだはずのバンドの中に混じってて、しかもハルヒがまるで主役みたいな位置取りでマイクを握りしめているんだ?

 俺が増え続けるクエスチョンマークと格闘している間に、総勢四人からなる謎バンドのメンツはそれぞれポジションに着いたようだった。聴衆たちがざわめき、俺が唖然として見守る中、ベースとドラムの二人は緊張した顔でボソボソトコトコと音を出し、長門はピクリともせずにギターに手を添えている。いつもの無表情も変わりなく。

 そしてハルヒは譜面台にスコアらしき紙の束を置いて、ゆっくりと会場を見回した。客席のこの暗さでは俺の姿を発見できたとは思えない。ハルヒはマイクの頭を叩いてスイッチが入っていることを確認すると、ドラム担当に振り向いて何やらセリフを発した。

 挨拶も前振りもMCもない。ドラムスティックがリズムを取って打ち鳴らされたかと思うと、いきなり演奏が始まって、そのイントロだけで俺は腰が砕けそうになった。長門がマーク・ノッブラーかブライアン・メイかと思うようなギターテクで超絶技巧を開始したからだ。しかも聴いたこともないような曲だった。なんだなんだ----と思っていると、追い打ちをかけるかのようにハルヒが歌い出した。

 朗々と、月まで届きそうな澄み切った声で。

 ただし、譜面台に載せたスコアを見ながら。

 一曲目の間中、俺は状態異常から回復することがなかった。RPGに〝唖然〟という名の補助魔法があったら、かけられたモンスターはおそらくこんな感じになるのではないだろうか。

 ステージ上のハルヒは振り付けなしのほぼ棒立ちでひたすら歌声を響かせているが、譜面を見ながらでは、そりゃ踊りようもないだろう。

 そうこうしているうちに最初の曲は終了した。普通はここで歓声なり拍手なりを入れとくべきなんだろうが、俺と同様に会場にいるすべての観客は口と腕を仲よく石化させている。

 事情がまったく解らない。俺は何故ハルヒが? と思っていて、次いで長門のあまりのメロディアスなギターテクニックにも驚嘆しており、これは他の軽音楽部関係者と同じ疑問を共有していただろうと推測する。ハルヒを知らないそれ以外の一般客は、何故バニーガールが? てなことを思っていたのではないだろうか。

 会場は絨毯爆撃後の整壕のように静まりかえっていた。まるでオンボロ船の甲板でセイレーンの歌声を聞いた船員のような固まりようだが、よく見るとベースとドラムの女子生徒も似たような顔でハルヒと長門を見つめていた。あっけにとられているのは聴衆だけではないらしい。

 ハルヒはじっと前だけを見て待っていたが、やがてわずかに眉をひそめてまた後ろを見た。慌てたようにドラム担当がスティックを振り、すぐに二曲目が始まった。

 

 様々な人間を置いてけぼりにしつつ、ミステリアスなバンド演奏は三曲目の途中に差し掛かっていた。

 ようやく慣れてきたのか、俺にも歌詞と曲調に耳を澄ます余裕ができてきた。アップテンポのR&Bだ。初めて聴くはずだが耳に馴染みやすく、それなりにいい曲のように思える。ギタリストがめちゃめちゃ巧いからかもしれないし、付け加えてやるならば、ハルヒの声も、うむ、まあ、何というか、いつも大声で叫び慣れているからでもなかろうが、少なくとも人並み以上なのは認めてやらねばなるまい。

 観客たちも当初の石化状態から徐々に解放されつつあり、今度は別の意味でステージに引き込まれているようだ。

 ふと見回せば俺が席に着いた時より客数が増えている。ちょうど、その中の一人が近づいてくるのが目に入った。平服を着たデンマーク騎士みたいな格好をしているそいつは、

「どうも」

 特設スピーカーの大音量にかき消されまいとする配慮か、俺の耳元に顔を寄せて来た。

「これはどうしたことですか?」

 古泉である。

 知らん、と俺は叫び返し、古泉の服装に目をやった。お前まで文化祭用の服で歩き回っていやがるのか。

「いちいち着替えるのも面倒なので舞台衣装でうろつかせてもらっているのですよ」

 どうしてこんなところにいやがる。

 古泉は壇上で熱唱するハルヒに穏やかな視線を飛ばし、前髪を弾いた。

「噂を聞いたものですから」

 もう噂になってるのか。

「ええ。あのような格好をなさっておられますしね、話題にならないほうが不思議ですよ。人の口に戸は立てられません」

 北高の誇る問題児、涼宮ハルヒがまた何かやってる----、みたいなニュースがすでにして八方に飛び交っているらしい。あいつのプロフィールにまた一つ新たな事項が加わるのはいいのだが、そのオプションにSOS団とか俺の名まで刻まれるのは今回ばかりは筋違いだぞ。

「それにしても巧いですね、涼宮さん。長門さんもですけど」

 古泉は微笑しながら聞き惚れるように目を閉じている。俺はステージに目を戻し、ハルヒの姿から何かを読みとろうとするかのように観察した。

 歌や演奏に関してはほぼ古泉と同意見だ。ボーカルが譜面台と歌詞カードを用意して唄っているというライブらしからぬ光景を除けばな。だが、それ以外にも俺は何だか原因不明の引っかかりを感じていた。

 何だろう。この妙にむず痒い感覚は。

 

 それまでのアップテンポとうってかわり、演目上のアクセントのように挿入されたバラード調の四曲目が終わった時、不覚にも俺は歌詞と楽曲に感服しかけていた。ここまで心に染み渡る歌を聴いたのは久しぶりだ。そう感じたのが俺だけではない証拠に、周囲の観衆も咳払い一つせずに聴き入っていて、曲が終了した後の講堂は沈黙に包まれている。

 今や満員となった客席に向かって、ようやくハルヒは歌詞以外の言葉をマイクに吐きかけた。

「えー。みなさん」

 ハルヒは幾分硬い表情で、

「ここでメンバー紹介をしないといけないんだけど、実はあたしと----」

 長門に指先を向け、

「有希はこのバンドのメンバーじゃありません。代理なのです。本当のボーカルとギター担当の人はちょっと事情があって、ステージに立てなかったの。あ、ボーカルとギターは同じ人ね。だから正式のメンバーは三人だけ」

 観客は静かに耳を傾けている。

 ハルヒはすっと譜面台から離れて、ベースのもとに歩いていくと、その女子生徒にマイクを突きつけた。彼女は面食らったような顔をしていたが、ハルヒに何事かを囁かれ、上ずった声で自分の名を告げた。

 次にハルヒはドラムセットに向かって打楽器担当者にも自己紹介をさせ、すぐにステーシ中央に戻ってきた。

「このお二人と、今ここにいないリーダーの人が本当のメンバーね。なわけだから、ゴメン。あたしに代役が務まったかどうかは自信ないわ。本番まで一時間しかなかったから、ぶっつけなの」

 ハルヒはバニーのウサミミをひょいと揺らすくらいに頭を動かし、

「そうね、代役なんかじゃなくって、本物のボーカルとギターがやってる本当の曲が聴きたい人は 後で言ってきて。あ、テープかMD持ってきてくれたら無料でダビングするってのはどうかしら。いい?」

 ハルヒの問いに、べーシストがぎこちなくうなずいた。

「うん、決まりね」

 壇上に上がって初めてハルヒは笑顔を見せた。あいつなりに緊張してたんだろう、ここに来てようやく呪縛が解けたような、いつも部室で俺たちに見せているような----とまではいかないが、それでも50ワットには達してそうなスマイルだった。

 ハルヒは黙々といつもの無表情を維持する長門に瞬間微笑みかけ、それからスピーカーのコーンを吹き飛ばすような声量で叫んだ。

「ではラストソング!」

 

 後で聞かされた話になる。

「校門で映画の宣伝ビラを撒いて、なくなったから部室に戻ろうとしてたのよ」

 と、ハルヒは言った。

「そしたら下駄箱のあたりで何か揉めてたのよ。そう、あのバンドの人たちと生徒会の文化祭実行委員がね。何だろうと思ってさ、近づいてみたわけ」

 バニーでか。

「格好なんかどうでもいいわよ。とりあえず聞こえてくる話を総合すると、そのバンドをステージに立つ立たせないで揉めてたのよね」

 そんなん下駄箱の前ですることもないだろう。

「それがね、軽音楽部の三年生バンドで三人組で、そのうちの一人がボーカルとギターを兼ねたリーダー格だったんだけど、文化祭当日になって高熱を出したのよね。扁桃炎だって言ってたわ。声もほとんど出ないくらいで、見た感じ立ってるのがやっとみたいな」

 そりゃアンラッキーだったな。

「ほんとね。おまけにさ、ふらついた拍子に自宅の部屋で転んで、右の手首を捻挫までしてたのよ。ステージに立つなんて全然無埋って感じ」

 それなのに学校まで来たのか。

「うん。本人は死んでもやるって涙ながらに訴えててね、でもどう見ても病院に直行させないとダメだからって実行委員の連中が両側から、こう、グレイタイプのエイリアンを運行するみたいに。なんとか強引にでも連れだそうとして、で、下駄箱まで」

 しかし、そんな状態でどう演奏するつもりだったんだ? そのボーカル兼ギターさんは。

「気合いでよ」

 お前ならそれで何もかもを可能とするんだろうが。

「だってこの日のために必死に練習してきたのよ。無駄になるのが自分だけならいいわよ。でも他の仲間たちの努力まで無駄になっちゃうじゃん。イヤよね、やっぱり」

 まるで自分が努力したような言いぐさだな。

「曲だってそうよ。既製品じゃないのよ? 自分たちで作曲して作詞したオリジナルなわけ。どうにかして発表したいじゃない。譜面が口をきいたらきっと『してっ』って、そう言うはずよ」

 それでお前が腕まくりして出て行ったのか。

「袖はなかったけどね。ま、この学校の文化祭実行委員なんて先生の言うことを聞くだけの無能ぞろいだから、そんな奴らの言うこと聞くことないわ。でもねえ……。いくらあたしでも、その時のリーダーさんの顔色見たらこりゃダメだなって思ったのよ。それでこう言ったの。『なんだったらあたしが代わりに出ようか』って」

 よくオッケーしたな。その人もベースとドラムの人も。

「歌だけなら簡単よ。その病気のリーダー、ちょっとだけ考えるような間があったけど、『そうね、あなたなら出来るかもしれないわね』って言ってしんどそうに微笑んだわ」

 ハルヒの顔と名前を知らない北高生はいない。ハルヒがどんな女であるのかも。

「でもって速攻その人は教師の車で病院行き、あたしはデモテープと譜面をもらってひたすらコード進行を身体に刻み込むことにしたの。なんせ一時間しかないし」

 長門は?

「うん、あたしが弾いてもよかったんだけど、本番まで時間がなかったものね。主旋律を覚えるので精一杯だったからギターは有希に頼むことにしたのよ。知ってる?、あの娘、ああ見えて万能選手なのよ」

 知ってるとも。お前以上にさ。

「占いしてるところに押しかけて、理由を言ったらすぐについてきてくれたわ。譜面を一度見ただけなんだけどビックリ。さっと眺めただけで全曲を完璧に弾いたわよ。有希、どこでギターなんか習ったのかしらねえ」

 たぶん、お前に言われた瞬間にさ。

 

 それから二日ほど時は進んで月曜日になる。

 俺のスケジュールにない予定外のことがあった文化祭が終了した週明け、四限目を前にした休み時間のことである。

 ハルヒは俺の後ろの席で機嫌よくノートに何やら書き殴っていた。あんまり内容を知りたいとも思わないのだが、どうもSOS団プレゼンツの自主製作映画が上々の客入りだったことに気をよくして、さっそく続編の構想に入っているらしく、俺は俺でどうしたらそんな妄想をハルヒの頭から取り除けるかと悩んでいたところだった。

「お客さんが来てるよ」

 トイレから帰ってきた国木田が声をかけてきた。

「涼宮さんに」

 ハルヒが顔を上げるのを見た国木田は、教室の外を指差して臨時メッセンジャーボーイの役目を終わらせた。さっさと自分の席に戻っていく。

 開け放たれたスライドドアの外に、三名ほどの大人びた女子生徒が立っているのが見える。うち一人は片手に包帯を巻いていて、他の二人には見覚えがあった。例のバンドの人たちだ。

「ハルヒ」

 俺は顎をしゃくって戸口を示し、

「お前に言いたいことがあるらしいぜ。行ってやれよ」

「ん」

 意外にもハルヒは躊躇うような表情になっていた。ゆっくり立ち上がったものの、なかなか歩き出そうとしない。しまいにはこんなことまで言い出す始末だ。

「キョン、ちょっと一緒に来て」

 なんで俺が、と反駁する間もなくカッターシャツの首根っこをつかんだハルヒは、バカ力で俺をひきずりながら教室の外に出た。三人の上級生の顔がほころぶ。

 ハルヒは俺を強引に隣に立たせておいて、

「扁桃炎はもういいの?」

 俺が初めて見る三年女子に言った。

「ええ。だいぶ」

 その人は喉を撫でるように触れてから少しハスキーがかった声で答え、

「ありがとう、涼宮さん」

 深々とお辞儀をした。三人揃って。

 

 聞けば、彼女たちのもとには全校(特に女性層)からオリジナルデモテープを所望するリクエストが殺到しているのだそうだ。現在、ダビングMDをせっせと配布しているところなんだという。

「びっくりするくらいの数よ」

 その数を聞いて俺も驚いた。ハルヒのボーカル、長門のギターというバッタモン演奏ではない彼女たち本来の楽曲を求める人間たちがそこまでいるとは、確かに予想外の波及効果だ。

「全部、あなたのおかげ」

 三人は有能な下級生に向ける笑顔を寸分の違いもなく見せていた。

「これであたしたちで作った曲を無駄にせずにすんだ。本当に感謝してる。さすがは涼宮さんね。軽音としては文化祭が最後の思い出になるだろうから自分でやりたかったけど、でも棄権するよりも何倍もよかった。あなたには下げる頭もないくらい」

 作り笑いではない微笑をたたえた三年生の先輩女子から言われるのは、俺がその対象となっているわけでもないのに妙に気恥ずかしい体験だった。だいたいどうして俺がハルヒの横に立ってないといかんのだ?

「何かお礼できたらと思うんだけど」

 と言うリーダーさんに対して、ハルヒはバタバタと手を振らせた。

「いいっていいって。あたしは気持ちよく歌えたし、いい曲だったし、生バンドつきのカラオケをタダでしたようなもんだから、お礼なんかもらったらかえって後ろめたいわ」

 ハルヒの口調におやと思う。どことなくあらかじめ用意していたセリフを読んでいるような気配がする。上級生相手にタメ口なのはこいつらしいが。

「だから気にすることなんかないわよ。それより有希に言ってあげて。あの娘にはあたしが無理矢理やらしちゃったようなもんだし」

 長門のクラスには先に行った、と彼女たちは答えた。

 それによると、感謝と賞賛の言葉を無表情に聞いていた長門は、ただ一回だけうなずいて、黙ってこちらの方角を指差したという。情景が目に見えるようだ。

「じゃあ」

 最後にリーダーさんは、

「卒業までにそのうちどこかでライブをするつもりだから、よかったら見に来てね。そちらの……」

 俺を見てやんわりと目を細め、

「オトモダチと一緒に」

 

 しかし、どうして彼女たちのもとに原曲を求める声が次々と押し寄せたのだろうか。

 これまた後で聞いた話になる。その謎とも言えないような小さな疑問は、こういう時にだけはよく喋る奴が明かしてくれた。役に立つ野郎だ、まったく。

「涼宮さんの歌とリズムセクションの間に微妙なズレがあったのに気づきましたか? 正確に言うと涼宮さんの唄うメロディラインと長門さんのリフ、その二つとベース・ドラムの間にですよ」

 と、古泉は言った。

「ほとんど無意識でしか感じ取れないレベルですがね。なにしろぶっつけ本番とは思えないほど四人の演奏は息が合っていました。驚くべきは涼宮さんの音感です。デモテープを三回ほど聴いただけだという話でしたよね」

 プロ級の腕前で完璧に弾きこなしていた長門にも驚いてやりたかったのだが、あいつならそれくらいは平気でするからな。

「ですが、それも完璧とはいかなかったのですよ。何と言ってもオリジナル楽曲でしたからね。自分たちで作った曲を何度も反復練習していたメンバーと、緊急登板した涼宮さんでは元々の下地が違います」

 当たり前だろう。

「ええ。つまり本来のバンドメンバーであるベース及びドラムと、大急ぎで覚えなければならなかったメロディを独自にアレンジして唄っていた涼宮さん、その歌声に合わせてギターを弾いていた長門さんの四人によるコラボレーションは、微小ではありますがズレを発生させていたんです。それが聴いていたオーディエンスの心に引っかかるものを残したのですよ。ただし識域下レベルでね」

 あいかわらず、もっともらしいことを言う。心理学用語で解説すれば何でもありだとか思ってないか?

「分析した結果ですよ。解説を続けますと、そうして二曲目三曲目と演奏が続くにつれて聴衆の無意識的引っかかりは大きくなり、いよいよ最後の曲になりましたが……。その前に涼宮さんがしたことはなんですか?」

 本来のボーカル兼ギターメンバーがステージに立てなかったから、自分と長門が急造の代役で----みたいなことを言ってからベースとドラム二人のメンバー紹介しかしてなかったが。

「それで充分だったんですよ。その瞬間に謎が解けたんです。胸につかえていた奇妙な疑問がね。ああなるほど、この奇妙な違和感はそれだったか----と」

 言われてみれば……だな。腑に落ちないでもない。

「涼宮さんのボーカルも長門さんのギターもまったく悪くないものでしたし、むしろ高校の軽音楽部レベルを軽々と超越していましたが、観衆はこう思ったのですよ。にわかボーカルとギターでこれほどのものなら、オリジナルメンバーの演奏ではいかほどのものになるのだろうか----」

 MD希望者が殺到した理由がそれか。

「涼宮さんはうまく唄いきりましたよ。ほぼ完璧にね。ですが完璧すぎなかったことで、かえって好結果を生んだんです。さすがと言うべきでしょう」

 そうかもしれん。ハルヒとたまたま出くわしたことは、あの三年生バンドの人たちにとっては確実にいい結果だったろう。

 でもな。じゃあ俺たちはどうなんだ?

「さて。僕たちと申しますと?」

 この学校で誰よりもハルヒに深入りしちまっているSOS団団員にとってはどうなんだよ。あいつと出会ったことで、俺たちにもそれぞれ〝いい結果〟なんてのが待っていたりしてくれてるのか?

「さあ、それは終わってみないと解りません。そうですね、すべてが終わったときに、そんなに悪くなかったと思うことができたら幸せですね」

 

 三人の三年生は四限が始まるチャイムギリギリで帰って行った。

 不可解にもハルヒは複雑な顔をして自分の席に戻り、その顔のまま四限目の授業を上の空で聞き続け、昼休みになるや教室からさっと姿をくらませた。

 俺は国木田とともに谷口のイイワケ、「いや、マジで文化祭にはロクな女が来てなかった。俺が思うに、この高校は立地条件が悪すぎるぜ。もっと平地にねえと」とか言ってる話を聞き流しながら弁当をかき込む作業に没頭し、空になった弁当箱をカバンに放り込んでから席を立った。

 意味はない。ただ何故か無性に腹ごなしの散歩をしたい気分だったのだ。

 しばらくブラブラと歩くままに進んでいると、どういうわけか俺の足は中庭に向いていた。部室棟へと続く渡り廊下から道を外れて、ところどころがハゲかけた芝生を歩く。すると偶然にも、ハルヒが寝ころんでいるところに出くわした。

 黒髪と組んだ両手を枕にして、雲の観察を熱心にしているふうである。

「よう」

 と、俺は言った。

「どうした。さっきの休み時間からやけに殊勝な顔をしてるじゃねえか」

「なによ」

 ハルヒは上の空のような返答を寄こし、まだ雲を眺めている。俺も同じようにしてみた。つまり、何も言わずに黙って空を見上げたのだ。

 そうやってどのくらい沈黙していただろうか。三分もたっていないと思うが体内時計には自信がないからな。

 どうでもいいような沈黙合戦ののち、最初に口を開いたのはハルヒだった。なんとまあ、いかにもしぶしぶ話をしてやってるんだというような声色だったが、

「うーん、なんか落ち着かないのよね。なんでかしら」

 ハルヒの口調に素直な戸惑いを感じて、俺は苦笑しそうになった。

「俺が知るわけないだろ」

 それはな、お前が人から感謝されることに慣れていないからなのさ。面と向かってありがとうなんて、言われそうにないことばっかお前はやってるもんな。今回のバンドの助っ人も、ひょっとしたら余計なことをしちまったのかとひそかに気に病んでたんじゃないか? お前なら声帯に穴が空いてようが両手を骨折してようが、周囲が制止しようとすればするほど何としてでもステージに立ってそれこそ気合いで何とかしてしまうだろうから、誰かの助太刀を仰ごうなんて考えたりもしないよな。

 だがどうだい? あの上級生さんたちの役に立った気分はさ。結果的に彼女たちのオリジナル曲を求める人間が大いに増えて、それもこれもお前が実行委員に敢然と立ち向かったからこそなんだ。彼女たちの感謝の言葉は本心からのものだったろう。きっとお前のやったことは最良から二番目くらいに的確な処置だったのさ。どうだハルヒ? これでお前も善行に目覚めたろ?

 以降の人生を世のため人のために働くように心がけたらどうだ。

 ……なーんてことを俺は言ったりしなかった。思っただけである。だからこの時、俺がやったのはただハルヒの横に立ってふと空を見上げることくらいさ。文化祭終了をきっかけにしたように、途端に秋めいてきた山風が細い雲を追い立てている。

 ハルヒも無言でいた。わざと作っているに違いない表情はちょっとした不機嫌を表示していたが、頭の中ではまた別の表情があるのだろう。

「何よ」

 寝そべったままハルヒは俺に視線だけを向けてきた。

「なんか言いたいことがあんの? なら言いなさいよ。どうせロクなことじゃないんでしょうけど、黙って溜め込むのは精神に悪いわよ」

 パンチのきいた目の光である。

「別に。なんも」と俺。

 ハルヒは上体を起こして芝生をプチプチ千切ると俺に向かって投げつけた。しかし気象を操る神は俺に味方する気になったようで、不意に逆巻いた吹き下ろしの風が緑色の破片をハルヒの顔へと逆襲させる。

「もう!」

 ぺっぺっと口に入った芝生を飛ばしながらハルヒは再び寝ころんだ。

 何となく気になって俺は部室棟を見上げた。ここからだと文芸部の窓が見える。もしや、そこに細っこくて髪の短い人影が立って俺たちを見下ろしているんじゃないかと思ったのだが、そのような情景は目に入ってこなかった。そりゃそうだ。

 またもや沈黙がひとしきり続き、ややあってポッリとした声が、

「ライブもいいものよね。あんなのでよかったのかなって少しは思うけど……。けど、そうね。楽しかったわ。何ていうの? いま自分は何かをやってるっていう感じがした」

 バニーでステージ立って譜面見ながらぶっつけ本番をやってのけ、あげくに楽しかったと言い放てるんだからお前の根性レベルは上限なしだな。解ってはいたけどさ。

「だから、あのケガしてた人も実行委員に最後まで粘ってたのね」

「きっとそうだな」

 俺は俺で少なからずしんみりしていたのが悪かった。やはり油断していたのだろう。

「ねえ!」

 それまでメロウな雰囲気をまとっていたハルヒが、突然飛び上がって俺に顔を近づけてきたとき、反射的にたたらを踏んじまったんだからな。おまけに特上の笑顔へと百面相を遂げたハルヒが、高らかな声で次のように言ったとあっては。

「ねえ、キョン。あんた何か楽器弾ける?」

 とてつもなく嫌な予感に最大速度で襲われ、俺は全速力で首を振った。

「できん」

「あっそう。でも練習次第でどうにでもなるわ。なんたって後一年も時間があるんだからね」

 おいおい。

「来年の文化祭、あたしたちもバンドで参加しましょうよ。軽音楽部じゃなくてもオーディションに受かれば出れるみたいだし、あたしたちなら楽勝だわ。あたしがボーカル、有希がギターで、みくるちゃんはタンバリンを持たせてステージの飾りになってくれればいいわよね」

 いやいや。

「もちろん映画の第二弾も作らないといけないから、うん! 来年はいそがしくなるわよ。やっぱ目標数値は常に昨年対比を上回らないといけないのよね!」

 待て待て。

「さ、行くわよ。キョン」

 おい、いや待て。どこへ。何のために。

「機材をもらいによ! 軽音楽部の部室に行けば余ってるのが何か落ちてるわ。それにあの三年生バンドの人たちに作曲方法とか聞いとかないと。善は急げ」

 急ぐときこそあえて回るべきではないかと俺が考え込むのも無視し、ハルヒはがっと俺の手首をつかむと、引きずるようにして歩き始めた。

 大股で。威勢よく。

「安心しなさい。作詞作曲プロデュースはあたしがやったげるから。もちろんアレンジと振り付けもね!」

 やれやれだ。またもやハルヒの脳内にしかない謎のスイッチがカチリと音を立てて変なところにハマったらしい。UFOでももう少しソフトだろうと思える力任せのアブダクションを受けながら、俺はもう一度宙を見上げて助けとなりそうな人影を求めた。

 部室の窓辺には誰も立っていない。達人級ギタリストでもある魔法使いみたいな宇宙人は、今頃はのんびりと読書に励んでいるらしかった。まあ、秋だしな。

「自分の足で歩きなさいよ。ほら、階段なんか三段飛ばしで!」

 振り返ったハルヒは輝かしい瞳に楽しいことを思いついた時の色を存分に広げ、歩調の速度をさらに増し、ついには走り出した。しょうがないので俺も走る。

 何故かって?

 ハルヒの手が俺から離れるには、まだ時間がかかりそうだったからさ。

 

 そんな感じで、一年目の文化祭は季節の移り変わりとシンクロしたような慌ただしさとともに通り過ぎて行ったわけだが、ハルヒの頭の中にはまだお祭り騒ぎの余韻がわだかまっているらしく、その余韻の背景で「前売り券絶賛デザイン中」とか「全米を震撼させる(予定)」とか「構想一年、撮影一ケ月(ほば決定)」とかのキャッチコピーがタイポグラフィックっぼく文字を躍らせているようだった。

 ようするに来年の文化祭に向けてアホ映画二作目をせっせと考え始めているのだ。気が早いにもほどがあるだろう。

 俺としては担いで歩いていた重い荷物をようやくの思いで届け終わり、やっと帰れるとばかりに安息の心持ちでいたところにさらに重量を増した荷物の配送予約が入ったようなもので、獣道で、ベンガルトラに待ち伏せされていた小動物のように怯える主演女優と一緒に恐れおののくしか手がないのだが、それも先だって上映された映画があんまりなシロモノだったせいだ。

 どれほどあんまりだったのかは、まあ、以下の通りである。

 

朝比奈ミクルの冒険 Episode 00

 

 彼女の名は朝比奈ミクルと言い、ごく普通の健気で可愛らしい少女であるが実は未来人である。どこかで聞いたような名前を持つ朝比奈みくるという人物とは単なる他人の空似に過ぎず、そこに同一性はないことをあらかじめ断っておきたい。

 それはさておき、朝比奈ミクルの正体は未来から来た戦うウエイトレスである。なぜウエイトレスが未来から来るのか、なぜウエイトレスの扮装をしなくてはならないのか、そのようなことは些末な問題に過ぎず、端的に言えば何の意味もない。ただそうなっているからであるとしかここでは説明不能であり、そこに有意性を持たせることの出来る人物は存在しないであろう。

 ……どこかから木霊する天の声がそのように主張しているだけだからである。

  さっそくだが、そんな朝比奈ミクルの普段の日常を垣間見ることにしてみよう。

 彼女の普段着はバニーガールスタイルである。なぜならミクルの通常業務は、地元商店街における客寄せ用呼び子ということになっているからだ。彼女は夕方になるとバニーガールの衣装に身を包み、商店街の店先でプラカードを掲げつつ店の軒先で嬌声を張り上げるという、いわゆるバイトによって生計を立たせているのだった。

 わざわざ未来から来るのであれば、もっと効率的な稼ぎの手法を知っていそうなものだが、この物語においてそのような現実的な配慮はまったく皆無のまま進行を遂げることになるので、展開上、余計な期待感を生じさせる前に今のうちに説明しておいた方がより親切設計と言えるだろう。

 つまり彼女は、バニーガールに身をやつした戦う未来人のウエイトレスなのである。

 何の意味があってそんな扮装をしなければならないのか、という疑問は最後まで解消されないのでこれも先だって断言しておく。ようするに意味などないのであり、たとえあったとしても永遠に明かされないだろうから、それはないも同然であるわけで、結果からすれば同じ事だ。

 そんな朝比奈ミクルは、今日も今日とて、元気にバニールックに身を包み、商店街の軒先でプラカードを掲げて呼び子に邁進しながら糊口をしのいでいる。

「お急ぎのところすみませえん! 今日は生きのいい白菜が大量入荷でーす! タイムサービス、タイムサービスなのでーす! 今から一時間ぽっきりで白菜一玉半額セールでっすー! そこの奥さーん、買ってあげてくださーい!」

 八百屋さんの前で引きつり気味の声を上げているミクルの姿を見ることができる。背の低い小柄な身体をぴょんぴょん跳ねさせているせいで揺れているのはウサミミだけでなく、彼女の身体の一部もそうであったが、八百屋さんの購買層である主婦たちにそんな色仕掛けまがいの効果があるのかどうかと思われる部分でもあるものの、ミクルの必死な姿と一途な雰囲気は万人の微笑みを誘う境地に達しており、通りがかった人々は思わず人の良い笑顔を生み出して財布の紐をついつい緩めてしまうのであった。

「ミクルちゃん、今日も精が出るね」

 という台本じみた言葉を通行人たちに投げかけられつつ、ミクルは蛍光ピンクのヒマワリのような笑顔で、

「は、はいっ! がんばってます!」

 がんばりすぎのコスチュームで明るく返答し、商店街に無垢なる魅力を振りまいている。

 その魔力たるや予定していた今晩のメニューを変更し、白菜鍋にさせてしまうぐらいのパワーを誇っているというから驚きの一言だ。

「数に限りがありま-す。お急ぎくださーい」

 そのうち八百屋さんの前には黒山のような人だかりが生まれ、たちまちのうちに白菜は品切れを迎えることとなった。

 店主に呼ばれて奥に引っ込んだミクルは、青果店経営森村清純さん(46)に日当の入った封筒を手渡された。

「いつもすまないねえ。少ないけど、これ、取っといて」

 苦労の数が紋となって顔を覆う森村さんのゴツい手から茶封筒を受け取ったミクルは、

「そんな、ぜんぜんです。あたしこそいつもごめんなさいです。こんなことくらいしかできなくて……」

 ペコペコ頭を下げてどこまでも謙虚な姿勢を崩さない勤労少女であった。ミクルは封筒を大きく開いた胸元にそっとねじ込みながら、

「それじゃ、次はお肉屋さんのところに行かないといけないので、これで失礼します。失礼しました!」

 プラカードを抱え、ミクルは商店街を駆け出し始める。今や彼女はこの商店街になくてはならないマスコットキャラとして地域住人に愛され、親しまれる存在であった。

 がんばれミクル。去年出来た大型デパートに取られた客数を商店街に取り戻すのだ。地域の活性化と個人店舗の命運は、ひとえにミクルの双肩にかかっている。

 そんな煽りの一つでも入れてあげたい気分になってきた。

  とは言うものの、ミクルは一地方都市の寂れかけた商店街を救うために未来からやってきたわけではない。あくまでバニースタイルは世を偽るかりそめの姿であり、本職は戦うウェイトレスであることを忘れてはいけない。どっちでもいいような気もするが、ここではそうなっているのだから仕方がない。

 物語は天の声の絶えざる思いつきの産物によって、行き当たりばったりに進行することになっているからである。

 それでミクルの本当の目的だが、その重要な任務が何であるかと言うと、すなわち一人の少年を陰ながら見守ることであった。

 その少年の名を古泉イツキと言い、ごく普通のどこにでもいそうな高校生であるが実は超能力者である。どこかで聞いたような名前を持つ古泉一樹という人物とは単なる他人の空似に過ぎず、そこに同一性がないことはあらためて言うまでもないだろう。

 超能力者とは言ったものの、古泉イツキ本人はその自覚がない。どうやら何かをきっかけにして秘めたるスーパーナチュラルパワーが覚醒するらしいのだが、今のところそれは未然に防がれて主観的にも客観的にも一般人と何ら変わらない高校生活を送っている。

 今日もまた、イツキは学生鞄をぷらさげ能天気スマイルを浮かべつつ帰宅の途上にあった。その彼の通学路は、まさにこの商店街のメインストリートにあるわけである。

「…………」

 イツキの後ろ姿を、物陰からひっそりと覗く影があった。その影には頭から伸びた長い耳が二つあり、ほとんど裸体に近いシルエットをしていることから、それがミクルであるのは誰の目にもあきらかで、だいたいひっそりと覗きたいのであればそんな目立つような衣装はふさわしくないようにも思われるが、何と言っても彼女の通常モードはバニーガールなのであるからどうしようもない。

「ふう」

 と、ミクルは息を吐いた。イツキの無事な姿に安堵したようでもあり、憧れの上級生になかなか声をかけることのできない下級生が思わず漏らした溜息のごときもののようでもあるが、考えると腹が立つので後者の可能性は無視するものとする。

 イツキの後ろ姿が遠ざかるのを見送り、ミクルは 『牛ハラミ肉百グラム98円(ハートマーク、牛のオリジナルイラスト入。)』とマジックで手書きされたプラカードを提げ、どこか憤然とした面持ちで商店の間をイツキとは反対方向に歩き出した。

 店先から口々にかけられる慰労の言葉にいちいち御辞儀をしながら、辿り着いた先は薄暗い文房具店である。ここの店主こそが商店街の組合長でもある、今のミクルに居住スペースを提供している鈴木雄輔さん(65)であった。

「お帰りミクルちゃん。お疲れかい?」

 どことなく棒読みに近い節回しで言いながら、鈴木さんは好々爺然とした笑顔でミクルを出迎える。

「えーと、平気です。今日はお客さんも多くて……。えーと、その、大繁盛でした」

「それはいいことだなあ」

 鈴木さんに会釈一つをして、ミクルは店の内部にある急な階段を上っていく。短い廊下の奥にある四畳半一間の畳敷きが、ミクルのこの時代の宿ということになっていた。

 鈴木さんは他に自宅を構えているので、この部屋は元々空き部屋であったのだ。どういう過程があったのかは解らないが、未来から来たミクルはここに居を構えているのだ。

 襖を閉めたミクルは、のろのろとバニーガールの扮装を解き始めた。

 残念ながらこのシーンはカットされ、次のシーンはぶかぶかのTシャツをまとったミクルがせんべい布団に潜り込むところで始まり、また終わった。

  一方で、古泉イツキを曰くありげな雰囲気で見つめるもう一つの影も存在した。

 その影の名は長門ユキと言い、ごく普通でもなければ一般的な少女にも見えないが、それもそのはず実は悪い宇宙人の魔法使いである。幅広のトンガリ帽子にマント姿という、およそ時代の流行にも日常着の範囲そのものにも外れた格好をしていることからもその片鱗はうかがい知ることができるというものだ。ちなみにどこかで聞いたような名前を持つ長門有希という人物とは単なる他人の空似に過ぎず、そこに同一性は欠片もないというこの説明もだんだん面倒になってきた。

「…………」

 感情が一筋も刻まれていない無表情でユキが立っているのは、高校の屋上である。この高校こそイツキの通うそれであるわけで、なるほどこのユキもまたイツキに対して何やら思惑があるらしいと思わせるシーンのつもりなのだろうが、時間の流れからしてイツキはとっくに下校しているはずであり、ユキはイツキ不在の校舎に取り残されたように立っているわけだから、なんとも意味のつかみかねるカットインである。

 先ほどの商店街では夕方だったような気もするのだが、この時ユキの上空にある太陽はほぼ南天に位置して日差しも真っ昼間のような気がするのは、これはもう気がするという曖昧な範疇を逸脱して、はっきりと昼休みに撮影されたからである。いかに監督が時間の流れを気にせずに撮影を強行し、編集の段階で大いなる苦労が降りかかったかが、こういうところからも知れ渡るであろう。

 それはこの後の展開も同様である。

  時間の関係でそこに至るいきさつはまるっきり描かれることはないのだが、とうとうミクルとユキは最初の対決を迎えることになった。

 なぜか場所は森林公園であり、意味もなくミクルはいったん神社で鳩と戯れたのち、ここにやってきた。

 当然バニーガールの衣装ではなくミニスカートすぎるウエイトレスの衣装を着込んでいる。髪をツインテールに結い、グラマー度を強調しまくって余りある格好のミクルは、いかにも重そうにオートマチック拳銃を両手に握りしめている。その表情には、ある意味であきらめにも似た決意が滲み出ており、かえって哀愁を漂わせていたがそれが演技指導によるものではなく自分の今の境遇についての感情の表れであるのも見ての通りである。

 かたや、暗黒の衣装に全身を固めた長門ユキのほうは、自分の境遇にさしたる感想もないようで、ただぽつんと直立して星マーク付きの魔法の棒を持っている。

 向かい合って立つ二人の少女は、視殺戦というにはあまりにも薄弱なにらみ合いを繰り広げていたが、ミクルのほうが終始おどおどしているのは勝つ見込みが少ないと自覚しているからだろうか。

「えいっ!」

 ミクルは闇雲に拳銃を構え目を閉じながら続けざまに引き金を引き絞る。銃口から迸る小さな弾丸が次々とユキを襲った。しかしその大半はユキの横を虚しく通り過ぎ、的に向かって飛んだものは五指で足りるだろう。

 もちろん的となっているユキも迫り来る脅威を放置などしない。(スターリングインフェルノ)という大層な名前の付けられた魔法棒を左右に振って、そのことごとくを打ち落とす。

「ううっ……」

 長くを待つまでもなく、拳銃は弾切れをおこして沈黙する。

「こ、こうなっては奥の手ですっ! とうりゃっ」

 奥の手にしては出すのが早すぎのような気もするが、ミクルは可愛いかけ声を放って拳銃を投げ捨て、ぱっちりと目を見開いた。

 紺碧色に輝く左目を存分に見せつけて、Ⅴサインにした左手の指を顔の横に当てる。

「みっみっ、ミクルビーム!」

 一声叫ぶやウインクしたその瞳から必殺の光線が放たれた。恐るべき殺人光線は光速でもって空間を横切り、その途上にある一切の物質を貫通する----はずであったが、それを快しとしない人物がいた。

 長門ユキである。

 コマ落としをしたわけでもないのに瞬間移動を果たしたユキは、右手を差し出しミクルビームをつかみ取る。微かにジュッというナチュラルなサウンドエフェクトが届く前に、地を蹴ったユキはミクルに肉薄していた。

「ひえっ!?」

 迫り来る黒い影に腰を引かすミクル。ユキは黒衣姿がブレるほどの速度でミクルを迫撃、ミクルの顔を無造作につかんでそのまま地面に引き倒した。

「あぎゃっ……ななな長門さ………!」

 手足をバタバタするウエイトレス衣装、それにのしかかる長門ユキ。

 いったいこの後、事態はどのような急転直下を迎えるのか。果たしてミクルの運命は? イツキはいったい何のために出てきたのか?

 すべての謎に含みを見せたまま、しばらく主演女優二人による大森電器店CMをお楽しみください。

 …………。

 

 そのCM開けは、ウエイトレスミクルがしょんぼりと歩いているところから始まる。

「ミクルビームが通用しないなんて……。なんとかしなくちゃ」

 というようなことを呟いているのは、例の商店街でのことである。とぼとぼ歩きのミクルは乱れた服装で文具店まで戻り、家具もろくすっぽない小部屋へと引っ込むと、また着替えをするようだ。どうも変身ヒロインというわけでもないようで、衣装はいちいち脱いだり着たりする必要があるらしい。

 次に襖が開いたとき、ミクルは再びバニーガールとなって登場、うつむきかげんに階段を降りていく。

 どうやら闘いの勝敗はともかく、今日もバイトに出かけなくてはならないらしい。真面目なのか抜けているのか、いや単なる努力家なのか、涙を誘うような境遇もあったものであり、このへんはミクルの実体に何となく近いような気もする。

 ところでその頃、古泉イツキは相も変わらずの何も考えていないような顔で空虚に道を歩いていた。

 その前に姿を現したのが神出鬼没の怪人黒マント、長門ユキである。ユキは肩に三毛猫を乗せていて、猫は爪を出してユキの黒衣にしがみついている。ユキより猫のほうがバランスに気を遣っているような気配を感じるが、元々気配がないのがユキの特徴なので、この時イツキの行く手を遮ったのも突然のことであった。

 さすがに驚いたような顔をつくったイツキは、猫付き魔法使いの前で立ち止まり、

「何者です?」

 もっと適切なセリフがあってもよさそうなものだったが、とりあえずここではそう言うことになっていた。

「わたしは」

 ユキはタメを持たせて喋った。

「魔法を使う宇宙人である」

 猫を見つめながらイツキは応えた。

「そうなんですか」

「そう」

 ユキも猫を見つめている。

「僕に何の用です」

「あなたには隠された力があるので、わたしはそれを狙っている」

「迷惑だと言ったらどうします?」

「強引な手を使っても、わたしはあなたを手に入れるだろう」

「強引な手とはなんでしょうか」

「こうするのだ」

 ユキは(スターリングインフェルノ)をゆらーりと振った。途端、その星マークから稲妻のような透過光が発射される。

「危ないっ!」

 横から飛び出してきたバニーガールがイツキにタックルを決めた。もつれ合って転がる二人の人間。稲妻は宙を飛んで電信柱に弾けて消えた。

 イツキに覆い被さるバニーなミクルという実に腹立たしい状況が完成し、どういう思惑があるのかユキは追加攻撃をしかけなかった。

 転がった拍子に頭を打ったミクルが目を回しているからかもしれない。イツキに肩を揺さぶられて黒目に戻ったミクルは、

「いたたた……」

 側頭部をさすりながら立ち上がり、果敢にも長門を指差しながら、

「あなたの思うとおりにはさせません……!」

 と叫んだ。

 ユキはじっとミクルを見つめていたが、やがて肩の三毛猫の髭に感情のない視線を向け、またミクルを見つめて呟いた。

「ここはひとまず退散しておく。けれど次はそうはいかないのだ。その時までに自分の戒名を用意しておくことだ。今度こそわたしは容赦を失ってお前を討ち滅ぼすだろう」

 ミクルにそんな時間的余裕を与える意味が何一つ解らないが、ともかくユキはそう言って背を向けた。てくてくと歩いていく黒い姿が小さくなっていく。

 イツキが言った。

「あなたは誰ですか?」

「えっ?」

 ホッとした表情だったミクルは途端に顔色を変化させ、

「あっ、えー……。あたしは通りすがりの、バニーガールです! それだけなんです! じゃあさようならっ」

 ユキの後ろ姿を追うように駆けていく。

「あの人はいったい……」

 イツキが無駄に遠い目をしながら言って、画面は意味もなく白い雲へとパンした。

 

 次のミクルVSユキ、そこは湖畔の際での事だった。

 言うまでもないことかもしれないが、ここに至る過程は省かざるを得ない。何かまあそれっぽいアレやコレやがあって、再戦の火蓋が切られることになったんだろう多分。

「こここんなことではっあたしはめげないのですっ! わあっ悪い宇宙人のユキさん! しんみょうに地球から立ち去りなさいっ……。あの……すみません」

「あなたこそこの時代から消え去るがいい。彼は我々が手に入れるのだ。彼にはその価値があるのである。彼はまだ自分の持つチカラに気付いていないが、それはとてもきちょうなものなのだ。そのいっかんとしてまず地球を侵略させていただく」

「そそそそんなことはさせないのですっ。この命にかえてもっ」

「ではその命も我々がいただこう」

 今回のユキは猫連れでない。代わりに他のものを連れていた。どこかから連れてきたらしい高校制服姿の男女であり、活発そうな少女が一人、途方に暮れた顔つきの少年が二人で計三名を数える通りすがりの人間だ。

 少なくとも髪の長い少女だけはミクルの知り合いであったらしく、

「あっあっ、鶴屋さん……。ま、まさか、あなたまで……。しょしょ正気に戻ってください!」

「そんなカッコしてるみくるに正気に戻れとか言われてもなあっ!」

 一瞬、素で答えた鶴屋さんは、口元をわざとらしく歪めて、

「みくるーつ。ごめんねえ。こんなことしたくないんだけど、あたし操られちゃってるからぁ。ほんと、ごめんよう」

「ひい」

「さあ、ミクル。かくごしろ~」

 まったく鬼気の迫らない演技でミクルににじり寄る鶴屋さんと他二名。

 後ろの方でユキが棒を振って指揮する感じを出している。その指示棒から出る念波か電磁波かは知らないが、とにかくそのような意味具合のシロモノによって、鶴屋さんと他二名は自意識を喪失した木偶人形として操作されてしまっていた。

 恐るべし長門ユキ。なんて卑怯な手を使うヤツなのであろう。これではミクルは手を出せない。どうするんだ、ミクル。

「ひええ、ひえええ」

 どうしようもなかった。

 哀れ、ミクルは両手両脚を鶴屋さん他二名によって押さえ込まれ、そのまま緑色に濁った池へと放り投げられた。何の手違いか、他二名のうち不真面目そうな少年も池の縁からダイブを敢行していたが、それはついでの出来事だ。放っておけば勝手に這い上がるだろう。

「ひ、あぶぅっ……はわぁ……っ!」

 足が届かないほどの深みであったらしい。ミクルは恐怖におののいた顔で必死に水しぶきを上げていて、焦りのあまりかまったく前進することはなかった。このままでは遠からず池の底で魚につつかれるという非常にマズい末路が待っている。しかしミクルは泳げないのか、泳げないことになっているのか、必死に水面をバシャ、バシャしているだけである。朝比奈ミクル最大のピンチだ。

 しかしそこはヒロイン、ちゃんと救いの手は差し伸べられることにはなっていた。

「どうしました?」

 横から楓爽と登場したのは古泉イツキだった。水面ギリギリにしゃがみこんだイツキは、マンガチックなまでに見事な溺れ方をするミクルに腕を伸ばした。

「つかまってください。落ち着いて。僕まで引っ張り込まないようにね」

 ところで、イツキは今までどこに隠れていたのだろうか。池の周辺は平坦な地面のみであって身を隠せそうな障害物は皆無であり、出てきたタイミングから逆算すると、ミクルが池に叩き込まれるのをすぐ側で眺めていたとしか思えない。不思議な事はまだあって、先ほどまで棒を振っていた黒衣のユキとその手勢三名もいつしか姿を消している。トドメを刺す絶好の機会だというのに、いったいどこに消えたのか。

「大丈夫ですか?」

「……うう……つめたかったあ……」

 イツキに池から上げられたミクルは、けはけはむせながら四つん這い。

「あんなところでいったい何をしていたのですか?」

 イツキが問うが、ミクルは答えずにぼんやりと見返すことしばし、やっとセリフが出てきたようで、

「えっあっ…………その。悪い人に池にそのう……。えーと」

 ここでどこからか響く声でも聞こえたのか、ミクルは「うっ」と呻いて倒れ伏した。そう、ここは気絶しなければならないことになっている。

「しっかりしてください」

 抱き起こそうとするイツキの腕の中で、ミクルはぐたりと身体を弛緩させた。普通、こういう場面に出くわせばイツキのような役回りとなった人間は救急車を呼ぶか周囲の民家まで助けを呼びにいくかすると思うのだが、不届きにもイツキはミクルを背負うと、いずこへかと歩き出した。意識の失せた美少女を貴様どこへ連れて行く気だこの野郎と言ってもイツキの足取りには迷いがない。

 強烈な命令電波によってリモートコントロールされているかのように潔く、イツキはミクルをどこかへ連れ去ろうとしていた。

 どこへだ。

 彼の自宅ということになってる家へであった。

 細かい情景描写は割愛するが、でかくて優美な日本的邸宅であることは間違いなく、純和風な広々としたイツキの自室にミクルは運び込まれる始末となった。

 ここで注目すべきは、イツキがロングT一枚のミクルをお姫様抱っこしているという暴挙もさることながら、どう見てもミクルが風呂上がりとしか思えない風情であることだ。ところで気絶している人間が一人で入浴することが可能とは想像できないことから、と言うことは、ミクルはこのイカサマスマイル野郎の手によって身体を洗われた以外に何かあるだろうかという疑問が生じ、疑問はいささかの停滞も見せずに激怒に変化して場合によっては容易に殺意へと転換するものであるわけで、今がまさにその時である。

 イツキはユキに狙われる心配よりも全校生徒の約半数から身を守ることを考えたほうがいい。

 溺れて失神した少女を、意識がないのをしめたものと自室に連れ込んだだけでも犯罪に近いというのに、そのまま風呂にまで入れたとなるとこれはもう犯罪を超えて人間の根元的な罪悪の一種に数えられるに違いなく、そのような行為を働いた人間いやイツキは一寸刻み生殺しの刑に処したところでどこからもクレームは付かないに違いない。誰かやって欲しいものだ。

 さて、イツキはなぜか敷いてあった布団にミクルを寝かせ、その側に陣取ってあぐらをかいた。腕組みをして何かを考えているようである。賭けてもいい。こいつは何も考えていない。

 それを証拠に、外なる声の指令に従い言いなりとなってミクルの顔ににじり寄っていくではないか。後一センチ接近したら登場する予定のないキャラが突如としてフレームインし、古泉……イツキなる少年を蹴り飛ばすところだったが、幸いにしてこの場に現れても不思議でない人物が制止をかけてくれた。

「待つがよい」

 そう言いながら窓から身を乗り出している出来損ないの死神見習いみたいな少女は、長門ユキその人だった。言い忘れていたがここは二階である。それまでどこに待機していたのかと少々の疑問も残るが、そんなもん茶漬けの最後の一口のように飲み込んでしまうことを希望する。

 死神モドキと言いつつ今は喪服の天使程度に見えなくもないユキは、転げ落ちるように部屋へと侵入し、すっくと立ちはだかると、

「古泉イツキ。あなたは彼女を選ぶべきではない。あなたの力はわたしとともにあって初めて有効性を持つことになるのである」

 淡々とした口調でそう言って、二十四時間平静継続中の黒い瞳をイツキに向ける。イツキはイツキで、ユキが窓から現れたことには驚かないくせに、

「えっ。それはどういうことですか?」

 言葉尻だけを捉えて、深刻な顔つきをしたりしている。

「今は説明できない。しかしいずれ理解を得ることもあるだろう。あなたの選択肢は二つある。わたしとともに宇宙をあるべき姿へと進行させるか、彼女に味方して未来の可能性を摘み取ることである」

 記憶によると、確か三割くらいはユキがアドリブで言っているセリフである。それは本当にイツキにのみ投げかけているセリフで合っているのか? その長門の……ユキの言葉にどれほどの含蓄があるのかは判断保留するとして、イツキは難しい顔をして考え込む。

「なるほど。どっちにしても彼……いやこのシーンでは僕ですか、僕が鍵となっているのですね。そして鍵そのものには本当の効力はない。鍵はあくまで扉を開ける効果しかないものです。その扉を開けたとき、何かが変わるのでしょう。おそらく、変わるのは…………」

 言いかけてイツキは言葉を句切り、なぜかカメラ目線で含みのある視線を送ってきた。こいつは誰に向かって何を言っているつもりなのだろうか。

「それは解りましたよ、ユキさん。ですが今の僕には決定権はない。まだ結論を出すには早すぎると僕は考えます。保留って事で、今回は手を打ちませんか? 僕たちにはまだ考える時間が必要なんです。あなたたちがすべての真実を語ってくれるなら別かもしれませんが」

「その時は遠からず来るだろう。しかし今ではないことも確かだ。我々は情報の不足をなによりも暇痕とする習慣がある。可能性の段階では、明確な行動は取ることができないのだ」

 意味不明な会話であったが、イツキとユキの間には他人には理解不能な共通認識が芽生えたようだった。ユキはゆっくりとうなずくと、ミクルの赤い顔をした寝姿に一瞥を与え、また窓によじのぼってポトリという感じで姿を消した。二階から落下したのではなく、ひさしに乗っただけなのであるがとりあえず姿は見えなくなった。そしてまた、イツキは思案に暮れるような顔をして眠り続けるミクルを見つめ続けるのだった。

 果たして目覚めたミクルは自分が置かれた状況を正しく認識し、狼狽したり手近なものをイツキに投げつけたりするのだろうか。男と二人きりで、しかも自分は意識不明、着ているものはシャツ一枚、何かされたと勘違いしてイツキに食ってかかる事態に発展しないとも限らない。ぜひそうなって欲しい。そんな人々の期待を大いに引っ張りながら、ここでCM第二弾、主演女優二人によるヤマツチモデルショップの店舗プロモーションフィルムをご堪能ください。………。

 

 そのCM開け、物語は起承転結で言うところの転部分に発展する。これまでのバトルチックな展開は影を潜め、どんな意図が働いたのか一転してラブコメになってしまうのである。ミクルはイツキの家に居候することに決定され、以降は思わず悶絶したくなるような二人の煮え切らない同居ストーリーへと転落した。その有様たるや、見ているこっちが恥ずかしさのあまり卒倒するくらいの甘甘なシロモノであった。

 イツキのためにいそいそと下手な料理を作るミクル、学校に出かけるイツキを玄関で見送るミクル、ひょんなことで指が触れ合い大袈裟なアクション付きで頬を染めるミクル、掃除や洗濯に励むミクル、帰宅したイツキを嬉しそうに出迎えるミクル……。

 なんとかしてくれ、と叫びたくもなろうと言うものだが、そんな叫びは誰の耳にも届かなかったようで結果としてなんともならず、イツキとミクルの純情恋愛模様が延々と繰り広げられることになった。俺と代わってくれ、古泉。

 ちなみに古泉イツキは妹と二人暮らし、という設定がいつの間にか出来ていたらしく、急遽どこからか引っ張ってこられた小学五年生十歳、いや先月誕生日だったから十一歳の小娘が意味なく画面上をフラフラしてはイツキとミクルにまとわりついていたりしており、物語そのものにまた一つ謎なシーンが刻まれた。妹を出す意味がどこにあったんだろう。

 そうこうしているうちに、イツキを巡るミクルとユキのわけの解らない闘いは、イツキの学校へと移り変わることとなった。

 

 なんと、ユキがイツキの高校に転校してきたのだ。どうしてこんなまどろっこしい話になるのかはさっぱり解らないが、黒衣を脱ぎ捨てたユキは正攻法よりも搦め手を使ってイツキを籠絡することにしたらしく、ミクルそっちのけでイツキに迫るやり方もかなり奇策を弄したものとなった。下駄箱にラブレターを入れることを手始めに、二人分の弁当持参で昼休みに押しかけたり、イツキが出てくるのを下校時間までじっと待っていたり、隠し撮りしたイツキの写真を財布に忍ばせたりと、イツキに対する精神攻撃を怠らない。しかしそれらは奇策ではなく正道じゃないのか。

 無論のことだがミクルもまたユキへの対抗措置を発動させた。早い話、彼女もまた転校生となってイツキの高校へ乗り込むことにしたのだ。だったら物語の最初から潜り込んでいればいいじゃないか。ミクルの存在理由はイツキを守るためなのだから、はなっから同じ高校に通っていてもおかしくないというか、むしろそうしておくべきだろう。

 全然説明がないので不思議としか言いようがないことに、ミクルもユキも校内では裏付け不明のレーザー光線やビーム兵器などで戦うことはなかった。この時点になると、もはや二人の目的は「どちらが早くイツキの心を奪うことができるか」になっているとしか思えない。

 物語は自身の行く先を完全に見失い、単なる一人の少年を軸とした二人の少女に上る恋のさや当て合戦の様相を呈していた。

 もちろん圧倒的に不利なのはユキのほうだ。何と言ってもミクルにはイツキと同じ屋根の下で暮らしているというアドバンテージがあり、どこで暮らしているのかも解らないユキには決して踏み越えることのできない高い壁が旬奴の侵攻を阻む長城のようにそこに存在する。

 このビハインドを挽回すべく、ユキは秘策でもって打って出ることにした。

「……」

「うわ、何ですか?」

 ところかまわずイツキに抱きつき始めたのである。スキンシップによるイツキの精神的動揺を誘う作戦であると思われるが、当のユキはあくまで無表情に行動するため、そこに情緒的な感情があるのかどうかは計りがたく、なんとなく不気味ですらあった。

 なんつったって行動と表情にまるで一貫性がないからな。ミクルはそんな二人の姿を目にしてはジェラシーに苦しむという演技を見せることになっていたものの、傍目からはイツキがどうなってしまおうとどうでもいいような顔に見えなくもないのでイマイチ情感に欠けていた。

 実は本当にイツキのことなんかどうでもいいのかもしれない。

 実際問題、そろそろ全員揃ってアップアップしている頃合いだったしさ。

 

 そんな愉快な学園シーンに飽きたのだろう、学校内での不戦協定を結んでいるらしいミクルとユキは、間欠的に本来の職分を取り戻す習性でもあるのか、ちょくちょく戦うウエイトレスとエイリアンマジシャンの扮装に着替えると、小競り合いのようなショボい戦闘をそこかしこで繰り広げることになっていた。

 どうも迷走の度合いは物語の進行とともに深く大きく拡大している模様である。

 団地の裏庭で戦うミクルとユキ、+ユキの使い魔猫シャミセン。

 学校裏の竹林で火花を散らし合うミクルとユキ、+シャミセン。

 どことも知れない民家の玄関先で取っ組み合うミクルとユキ、それを退屈そうに眺めているシャミセン。

 イツキの家の居間をドタドタと駆け回るミクルとユキ、それを見て笑っている妹と妹に抱かれたシャミセン。

 などの、まるで挿入する必要のないシーンが割り込まれたかと思うと、また何事もなかったかのように学園三角関係が始まったりもして脱力を誘うのだった。

 そのようにしてミクルとユキの間を右往左往するイツキであったが、そんな姿に様々なところから怨嗟の声が集中するのも当然である。それはもっぱら男子生徒の声をしているわけで、しかし物語を操る神のごとき超監督はそのような雑音などリング下に蹴り落として頑ななまでに己の信念を貫き続ける。

 よってストーリーはこの期に及んですら、まるでブレーキの存在を知らないチンパンジーが運転するレーシングゲームのように曲がり角のたびにクラッシュし、また一から直線運動を開始するがごときデタラメな展開を爆走するのであった。

 しかしながら、さしもの超監督も、ここまで御都合主義と思いつきのみでやってきたのはいいとして、そろそろオチを付けなければいつまで経っても終わりそうにないということに遅まきながら気付いたようだ。

 まさに今更であり、とっくに手遅れになっている気がしてならない。

 ともかく、これではラチがあかないと思ったのであろう、物語は登場人物たちが何をやっているのかよく解らないまま細切れになりつつも終着地点めがけての突進を余儀なくされた。

 やにわに当初の目的を思い出したユキは、ミクルに最終決戦を申し込むことにしたのである。

 ある朝、ミクルの下駄箱に投じられてた封筒には、「ケリをつけよう」とプリンタが吐き出したような明朝文字の躍る便せんが入っていた。

 だがしかし、何をどう考えてもユキが本気でミクルを討ち滅ぼそうとしていたら、こんな告知をするまでもなく今まで何度となくその機会があったはずである。にもかかわらず、ユキは手をこまねくまま何もせず、ただの無表情キャラとして一般的な高校生を演じたり、小競り合いに終始していたのだから宇宙人の考えることは解らない。こいつはいったい何がしたいのか。

 何がしたいのか解らないのはミクルも同じで、ユキからの果たし状を受け取ったミクルは決意を秘めた悲壮な顔つきとなって手紙を握りしめ、どこか遠くを見る目をしては「うん」と力強くうなずくのだった。何を理解してうなずいたのかは、何度も言うようだがさっぱり解らない。解っているのは画面に最後になっても登場しない誰かさんだけだろう。

 撮ってる俺にだって理解不能だが、ありがたいことにこの世のあらゆる物事には終焉という宿命があらかじめ組み込まれており、人を永遠という名の無間地獄から救い出してくれていた。

 そしてクライマックスが訪れる。

 

 ここで再び友情出演となった鶴屋さんは、ミクルが暗い顔をしているのを見答めた。

「どしたのミクル。そんなオッサンのストーカーに困ってるような顔しちゃって。水虫の告知でも受けたのっ?」

 教室の隅っこでうずくまるミクルは、

「いよいよこの時が来たのです。あたしは最後の闘いに赴かないといけません」

「そいつはスゴイねっ。任せたよミクル! 地球をよろしくっ!」

 鶴屋さんはあっけらかんと言って、しばらく顔をぴくぴくさせていたが、ついに堪えきれずゲラゲラ笑い始めた。

「……がんばります……」

 ミクルはかろうじてマイクが拾えるくらいの小声で呟く。

 ところでこんな疑問だらけの話にあらためて疑問を呈しても無駄だとは思うがミクルと鶴屋さんはいつからの知り合いなのだろうか。鶴屋さんの初登場は池での操られシーンだが、そのときミクルと鶴屋さんは互いの名前を知っていたわけで、ということはミクルが転校してくる以前からの知り合いだった以外に考えられない。だとしたら、あの時のユキによる精神操作攻撃はもっと後に持ってくるべきだったのではないだろうか。少なくともミクルと鶴屋さんが友人であるという設定があってこそ映える戦闘シーンだったろうし、それまでに二人が親しくしているような映像を入れていないのは、はっきり演出上のミスであると断言していい。

 もちろん、やかましく喚き立てる天の声は自身の無謬性を何よりも確信しているので、そのような指摘に耳を貸すわけもなく、その都度脳内でフラッシュした映像を撮影することに最大の熱意を捧げて、本能が命じるままの行動はとどまるところを知らず、俺のような通常人類は心身ともに疲弊していくのだった。

 

 てなわけで、決戦場は校舎の屋上であった。

 黒い魔法少女の衣装で待ち受けるユキは、肩にシャミセンを乗せて昼休みの屋上にぽつんと立ちつくしている。

 待つこと数秒、屋上へ出ずる扉が開き、ウエイトレスコスチュームのミクルが姿を現した。

「ま、待たせましたか?」

「待った」

 ユキは正直に答えた。事実、この時のミクルの着替えは女子トイレの個室でおこない、そのためだか知らないがけっこうな時間をふいにして、撮影スタッフの俺も待たされていたのだ。

「では」

 正直なのはそこまでで、ユキは決められていたセリフを吐いた。

「これですべての決着をつけようではないか。我々にはあんまり時間が残されていないのだ。遅くとも、あと数分で終わりにしないといけない」

「それはあたしも同感ですが……。でもっ! イツキくんはきっとあたしを選ぶと言ってくれます! うう……恥ずかしいですけど、あたしはそう信じます!」

「あいにくだが、わたしは彼の自由意志を尊重する気などない。彼の力はわたしに必要なものである。ゆえにいただく。そのためには地球の征服も厭わないのだ」

 ではさっさと地球征服に乗り出して、したおいた上でイツキの身柄を押さえてしまえばいいだろう。そしたら誰も抵抗しようもないし、ミクル一人ががんばったところで人類の多数決がイツキ引き渡しに動けば、いかな戦闘美少女でもその意見を覆すのは難しいだろうに。

 だいたい地球を征服する力があるのなら、イツキの一人くらい何とでもなったのではないだろうか。

「そうはさせません! そのためにあたしは未来から来たのです!」

 ああそうだった。ミクルは未来人ウエイトレスだっけ。しかしここまで未来から来たという設定がまるで生かされていないのもどうかと思うね。

 ここでまた一通り、ミクルとユキの透過光ぶつけ合い演舞が繰り広げられた。

「とりゃあ」とか「ほわらっ」とか言いながらビームやワイヤーやミサイルやマイクロブラックホールを目から出しているのがミクルで、一貫して無言のままスター棒を振っているのがユキである。

 CGでは出せない味もある、という命令電波により屋上ではドラゴン花火や爆竹が惜しげもなく点火され、火花や爆音が申し分なく放出された。商店街の廃れた玩具店の倉庫から拠出されたものであったが、ちゃんと火はついてチャチい火柱とうるさいだけの破裂音を立ち昇らせたその結果、階下から教師が何人も駆けつける次第となって、俺たちはメッチャ怒られた。

 学校内で火遊びしてたらそりゃ指導を喰らって当然だ。

 俺の内申書に変なマイナスが施されることになれば、その分は全部監督に回していただきたい。なんなら朝比奈さんや長門に古泉の分を加算しても、あいつなら楽勝でカバーできるだけの成績を維持してのけることだろう。黙って座っているだけなら文句の付けようがない奴だからな。

 そんな撮影係の心の呟きを無視しつつ戦闘は続行される。

 屋上からの撤収を要求する教師たちに向かって、この重要なシーンの撮影を妨害するようなことは学内における生徒の自由意志を迫害する学校側の横暴であり場合によっては告訴も辞さない、と監督が強硬に主張したためである。

 本当にやりそうで恐い。

 ともあれ、火を使うなという負け惜しみのような小言を残して数名の教師は屋上から引っ込み、入り口の扉口で観客化することとなった。見物人が増えた弊害として、ミクルはますます縮こまる。

 そんなこんなで、ミクルはいよいよ窮地に立たされることとなった。ミクルの放つ攻撃は何一つユキに通用せず、平気な顔で前進するユキから逃げるように後ずさったミクルはついに屋上の鉄柵まで追いつめられた。

「安心するがいい。あなたの墓碑銘はわたしが刻んでやることにする。あの世ではせいぜい善行を積み、来世の糧とするがよいだろう」

 ユキは棒を突きつけ、ミクルに別れの言葉を発した。

「では、さらばだ」

 その途端、スターリングなんだっけから途轍もない光源が生まれ、安っぽいフラッシュが幾度か輝いた。

「ひーえーっ」

 頭を抱えて丸くなるミクル。

 どういう攻撃なのかは理解不能だが、とにかくスゴイ技ということになっている。一見ただ画面がチカチカしているだけ、しかしその攻撃力はミクル一人くらいなら跡形もなく原子分解させるほどの恐怖の魔法なのだった。

 ここで盛り上がらないと他に盛り上がるところがないので一つよろしくお願いしたい。

「うひーっ。きょわーっ」

 ひたすら悲鳴を上げ続けるミクルである。

 この最初から最後まで役立たずなヒロインぶり、本来なら呆れ果てるところだが、でも可愛いから全部許す。

 しかし誰が許したところで、このままではミクルは物語から退場することになってしまう。

 正義が悪に滅ぼされ、主義主張が勝敗を決める上での決定項目にはなったりしないという、権力があるもんの勝ち、みたいな現代社会を諷刺する一種の皮肉をテーマとしたストーリーで終わってしまうのだろうか。

「……!」

 当然そうはならないのである。正義側に与して最後まで生き残るべき登場人物は物語のオチが付く前にあっけなく消え去ったりはしない。見えざる神の手は悪を駆逐するために降臨し、現実としてあり得ないほどのタイミングで主要キャラの窮地を救うことになっていた。監督の思い描いたシナリオではそうなっている。

 この時ミクルを救うために飛び込んだ神の手は、言うまでもなく古泉イツキの姿をしていた。そりゃそうだ、他にいないもんな。何の伏線もなく新キャラが出るには残り時間は少なすぎる。

 すんでのところでイツキはミクルを身体ごと引っ張り、ユキの攻撃をかわさせることに成功した。えらくゆっくり飛んでたんだな、ユキの魔法光は。

「だいじょうぶですか、朝比奈さん」

 そう言いながらイツキはユキに相対して片手を差し出し、

「彼女を傷つけることは僕が許しません。ユキさん、どうかやめてください」

 へたりこんだミクルの前に立ちはだかり、かばう姿勢のイツキに対し、ユキはしばらく考えるような仕草で肩の猫を見た。どうせ手に入らないのならイツキもミクル共々滅殺してしまおうと計算しているのだろうか。

 が、答えを出したのは思わぬヤツであった。

「考えることはないだろう。この少年の意思を奪ってしまえばいいのだ。仄聞したところ、キミにはそのような人間操作能力があるそうではないか。まず少年を操り人形としたうえで安全地帯に誘導したのち、この敵なる少女を滅ぼしてしまえばいいのだ」

 シャミセンが喋り、俺大慌てである。あれほど喋るなと言っておいたのに、なんてことをしてくれたのか。今晩はエサ抜きだ。

「わかった」

 一人冷静なユキが星マークの先でシャミセンの額をコツンと叩いて、猫はその口を閉ざした。

 それからユキは誰に言うでもなく、

「今のは腹話術」

 と断ってから、スターなんとか棒を振り上げる。

「くらうがよい。古泉イツキ。あなたの意思はわたしの思うがままになるであろう」

 チープなSEを発して、星マークから稲妻光が放射された。

 

  語らなくてもバレバレだとは思うが、いちおうラストバトルの趨勢をお伝えしておこう。

 早い話が、ここでイツキのポテンシャルパワーが発揮されたのである。絶体絶命の局面に陥ったイツキは、自分でも意識していなかった秘密の力を覚醒させ、惜しみなく潜在能力を解放させたのだ。その手の能力はしばしばコントロール不能なことが多いのでこの場合も同じであり、イツキの放ったおそらくエモーショナルな部分を源泉とする理屈不明の秘密の力は、ユキの攻撃を跳ね返し、最大ゲージで黒衣の宇宙人を襲った。

「…………無念」

「にゃあ」

 という感じのセリフを残し、ミステリアスなユキとシャミセンのコンビは、そのまま大宇宙の彼方へと吹き飛ばされた。いやにあっけない断末魔であった。

 ユキとシャミセンの最期を見届けたイツキは、

「終わりましたよ、朝比奈さん」

 優しげな声を投げかける。

 ミクルは恐る恐る顔を上げ、まぶしいものを見つめる目でイツキを見た。

 イツキはミクルの身体に手を回して立たせてやると、屋上の鉄柵に手を掛けて空を見上げた。つられたようにミクルも遠くの雲へ視線を注ぎ、カメラもまた青空に向けられた。

 どうもシーンの繋がりに困ると空を映してごまかそうというのが見え見えだな。

 というわけでようやくラストシーンへと場面は転換する。

 秋なのに桜が満開となった並木道を、ミクルとイツキが寄り添い合って歩いている。ウェイトレス衣装と学生ブレザーのカップルで、お似合いなのがかえってムカつく。

 都合のいいことに、ここで不意なる強い風が吹きすさんで舞い散った桜の花びらが渦を巻いた。こればかりは天然の演出だった。

 ミクルの髪に降りた桜色の花弁を、イツキが微笑みながら取ってやる。ミクルは照れくさそうに目の下を赤く染めて、ゆっくりと目を閉じていく。

 カメラはそんな二人の姿から唐突に焦点を外し、いきなり向きを変えると青い秋晴れの空を映し出した。しかしまた空か。

 適当にパクってきたエンディングテーマがイントロを奏で始め、スタッフロールが流れ出す。

 最後の最後に別撮りした天の声のナレーションが入り、こうしてSOS団プレゼンツ、『朝比奈ミクルの冒険エピソード00』は物語を徹底的に混迷させたままのエンディングを迎えた。

 こうも最初から最後までグダグダにしてしまった映画もそうそうあったもんではないだろうし、第一こんなもんを映画などと言ってしまっては真面目に映画作りを志している人々に失礼だと思うのだが、どうしたことか興行的には成功したらしい。当初、映画研究部作品との二本立てで上映されていたこの映画は、やがて映研作品を押しのけて堂々と視聴覚教室のプロジェクターを独占することになってしまった。観衆の声がそう要求したからのようだが、そこに天の声も混じっていたというのも大きかったようだ。ほとんど朝比奈さん人気だろうが。

 気の毒な映研作品は、視聴覚準備室で細々と上映されることになったという話である。

 入場料を取っているわけではないので誰が儲かることもないのだが、この結果論的な成功に気をよくした監督兼プロデューサーは、すっかり鼻高々となって続編の製作を立案し、さらに『朝比奈ミクルの冒険ディレクターズカットバージョン』を新たに編集した上で、DVDに焼き直して売りさばこう、などとも主張しており、現在俺と涙目の朝比奈さんとで必死に止めようとしているところだ。

 今はただ、来年の文化祭までに我らが団長の興味が映画以外の何かにアンテナを向けていることを切に祈る次第である。

 何をやろうと言い出そうが、どれだって同じような末路が待ちかまえているだけかもしれないし、まあ、それもこれもそん時までにSOS団がまだここにあったらの話だ。

 ……あるのだろうか?

 今度、未来人に訊いておこう。それが禁則事項に該当しないことを願いつつ、俺はそう決意するのだった。

 

ヒトメボレLOVER

 

 人騒がせな一本の電話が始まりの合図だった。

 毎年のことだが過ぎるや否やあっという間に終息するクリスマスムードは今や余韻すらなく年明けへのカウントダウンが刻一刻と迫り来るものの、またハルヒが何かをやらかすつもりらしいハッピーニューイヤーにはそれなりの猶予がある冬休みのことである。

 その時、俺は年内に終えておかなければならない自宅の大掃除をひたすら先送りしつつ、部屋でシャミセンと格闘しているところだった。

「暴れるな。じっとしてろ。すぐすむから」

「にゃる」

 抗議声明を発するのも無視し、俺はすっかり冬毛に生え替わってふかふかしている小さな肉食獣を小脇に抱える。

 いたく気に入っていたGジャンを無惨なボロ布に変えてくれて以来、人並みの物覚えを持つ俺はそれを教訓として定期的にシャミセンの爪を切ってやることにしているのだが、シャミセンのほうも猫並みの物覚えを持っているらしく、俺が爪切り片手ににじり寄ろうとすると素早く逃げ出そうとしやがる。

 とっつかまえてからがまた一苦労で、殴る蹴る噛むなどの抵抗を企てる三毛猫を押さえつけ、ムリヤリ出させた手足の爪をすべて適度な長さに切り終える頃には俺の両手に無数の歯形が残されることになるのだが、肉体の傷とは違ってGジャンの刺繍は元に戻ってくれたりはしないので気分が晴れたりもしない。まったく、異様に聞き分けのよかったお喋り猫状態が懐かしい。あの時の素直なお前はどこに行ったんだ?

 まあ、もう一度喋り出すようなことがあったら、それはそれでよくないことの前兆だろうから、猫は猫猫しく「にゃあ」とでも鳴いているのが筋にあっているとも言えるが。

 俺がシャミセンの右手の爪切りを終え、今度は左手に移ろうとしていると、

「キョンくんー、電話ー」

 部屋の扉を勝手に開き、妹がやって来た。片手にコードレスホンの子機を握りしめ、俺とシャミセンの人類と猫属の尊厳と威信をかけた抗争を見てニパッと笑う。

「あ、シャミ-。爪切ってもらってんの? あたしがする」

 シャミセンは迷惑そうに目を逸らし、人間そっくりの鼻息を漏らした。一度だけ妹に任せてやったことがある。俺が両手足を押さえる係で妹が切る係という役割分担だったが、この小学五年生十一歳には遠慮とネイルカットのセンスがまるっきり欠けていたらしく、あまりの深爪にその後しばらくシャミセンがハンストを起こしたくらいだった。それに比べりゃ俺のほうが格段にマシだと思うのに、毎回暴れ倒すのはやはり猫の額の中身は猫程度といったところか。

「誰からだ?」

 爪切りと引き替えに受話器を受け取る。それを見たシャミセンがここぞとばかりに身体をねじり、俺の膝を蹴って部屋から逃げ出していった。

 妹は嬉しそうに爪切りを握りながら、

「えーとね、知らない男の人。でもキョンくんの友達だって」

 それだけ言うとシャミセンを追って廊下に消えた。俺は電話に目を落とす。

 さて誰だろう。男と言うからにはハルヒや朝比奈さんではないだろうし、古泉なら妹も知っているはずだ。谷口や国木田他の友人連中だって家のじゃなく携帯を鳴らす。くだらんアンケートやキャッチセールスなら承知せんぞ、と思いながら俺は保留ボタンを押した。

「もしもし」

『おお、キョンか。俺だ。久しぶりだな』

 野太い声が第一声を放ち、俺は眉をひそめた。

 誰だ、こいつ? お世辞にも聞き覚えがあるとは言えない声だが。

『俺だよ俺。中学んときに同じクラスだっただろう? もう忘れたのか。俺はこの半年、ずっとお前のことを思い出しては溜息をついていたのに』

 何を薄気味悪いことを言いやがる。

「名を名乗れ。お前は誰だ?」

『中河だ。一年前までの同級生くらい覚えておいてくれてもいいじゃないか。別の高校に行った元クラスメイトなど記憶にも値しないか? ヒドいヤツだ』

 本当に悲しんでいるような声である。だがな。

「そうじゃない」

 俺は記憶の蓋を開けて中三時の自分史を瞬間的に回想した。中河ね。確かにそんなヤツもいた。えらくガタイのいい長身で、相応の肩幅もある体育会系の男だった。ラグビー部かなんかにいたような気がする。

 しかし、と俺は電話を見つめ直した。

 同じクラスになったのは三年の時だけで、しかもそんなに親しくしてはいなかった。なんとなく教室でも所属するグループが違うってやつだ。顔をあわせたら「おう」とか「やあ」とかはそりゃ言ってたが、毎日のように会話してたかどうかと言えば明確に否だった。卒業して以降、中河の顔も名前も思い出すことはさっぱりなかったな。

 俺は床に落ちていたシャミセンの爪を拾い上げながら、

「中河か、中河ね。久しぶりっちゃあ久しぶりだな。よう、どうしてた? 確かどっかの男子校に行ったんだよな? で、何でまた俺に電話してきたんだ? 同窓会の幹事にでもなったのか」

『幹事なら市立に行った須藤だが、そんなことはどうでもいい。俺はお前に用があって電話したんだ。いいか? 俺は真剣なのだ』

 いきなり電話してきといて何に真剣だと言うんだ。やにわにそんなこと一言われてもこっちには話が見えねえが。

『キョン、真面目に聞いてくれ。お前にしか言えないことがある。俺にとってお前が唯一の命綱なんだ』

 大げさだな。まあいい。用件を聞かせてもらおうか。それほど仲良くもなく中学出てから疎遠だった元同級生に電話してくるはどの用事とやらを。

『愛しているんだ』

「…………」

『俺は本気だ。真面目に悩んでいる。ここ半年、寝ても覚めてもそればかり考えているのだ』

「…………」

『あまりの思いの大きさにほとんど何一つ手につかなかったくらいだ。いや、そうじゃない。何とか己に打ち勝とうと勉強にも部活にも打ち込んだ。おかげで成績も上がったし部活では一年目にしてレギュラーになれた』

「…………」

『それもこれも愛するがゆえなのだ。解るかキョン? この俺の煩悶する胸の内を。中学のクラス名簿をめくってお前んちの電話番号を探し、いざ電話しようとして何度躊躇したことか。今でも俺の身体は小刻みに震えている。愛だ。強大な愛の力によって俺はお前に電話をかけている。解ってくれ』

「いやあ、中河……」

 俺は乾ききった唇を舐めた。一筋の冷や汗がこめかみをつたう。やべえぞ、こいつは。

「……すまないが、お前の愛とやらは俺には重すぎるな……。マジですまんとしか言いようがない。残念だがお前に応答する言葉を俺は持ってねえ」

 背筋が凍るとはこのことだ。言っておくが俺は超完全にオーソドックスなヘテロタイプである。アッチ系の趣味はハチドリの体重ほどもない、というかあってたまるか。潜在的にも無意識的にも俺はノーマルなんだ。ほら、なんだ、そう! 朝比奈さんの顔と姿を思い浮かべて身体がぽかぽかしてくるしな。これが古泉だと殴りたいだけだ。つーこって俺はバイでもないってことだ。な? な?

 誰に語りかけているのか解らないようなことを思い浮かべつつ、俺は受話器に向かって言った。

「というわけでだな、中河。お前との友情は継続してもいいが……」

 もともと友情と呼べるほどのものもなかったと思うが。

「愛情のほうはどうしようもない。悪い。それじゃあな。お前はお前で通う男子校でよろしくやってくれ。俺は北高でノーマルライフを適当に楽しむ。久しぶりに声が開けて嬉しかったよ。同窓会で会ったら素知らぬ態度を貫き通すから安心しろ。誰にも言いやしない。そいじゃ……」

『待て、キョン』

 中河はいぷかしげな声で、

『何言ってんだ。勘違いするな。俺はお前なんか愛しちゃいないぞ。何を勝手に思い違いをしてるんだ。気味の悪いヤツだな』

 さっきの「愛してるんだ」ってのは何だよ。誰に向けた言葉だ。

『実は名前は解らない。北高の女子生徒であることは解っているんだが……』

 こいつの言っている事情が俺にだってまだよく解らんが、しかし少しはホッとする。最前線の塹壕の中で休戦協定締結を知らされた下っ端兵士のような安堵感だ。男の知り合いからの告白なんてのがマジだったら、それは恐怖以外のなにものでもないね。俺のケースではな。

「もっと解るように話してくれ。誰を愛しちまったんだって?」

 紛らわしいにもほどがある。もう少しで逃亡先のリストアップに入るところだった。

 だいたいな、高一の分際で真面目に愛を語ろうなんざ、それこそ頭がイッちまっていると言うべきだろう。口に出すのも恥ずかしいね。愛だって?

『今年の春……五月頃だ』

 と、中河は勝手に語り始めた。どことなく陶酔しているような口調である。

『その人はお前と一緒に歩いていた。目を閉じれば蘇る。ああ……その姿のなんと可憐で美麗なことだっただろう。それだけではない。俺はその人の背後に後光が差しているのが見えた。錯覚ではない。そう、それはまるで天国から地上に差し込む光のようだった……』

 陶酔の声はなにやらケミカル系のドラッグでもやってんのかというような危ない響きを持ち始めていた。

『俺は圧倒された。今までの人生で感じたことのない感覚だった。まるで電流が走り抜けたように……いや! 特大の雷に打たれたかのように俺は立ちつくした。何時間もそうしていたらしい。らしいというのは時間の感覚がまったくなかったからだ。気がつけば夜になっていた。そして思ったのだ。これが愛なのだと』

「ちょっと待てよ」

 アンドロメダ病原体患者の寝言みたいな中河のセリフを整理してみよう。それによると、五月に俺と誰かが連れ添って歩いていて、そいで中河はその誰かを見て愕然とした。誰かとは北高の女子で……って、そうすると候補は何人も挙がらないな。

 今年の春に俺が街中を一緒に歩いていた女なんて、我ながら言うのも何だがそんなに多くない。北高限定なら妹も除外できるからSOS団女子三人のうち誰かに決まっている。

 と、いうことは……。

『運命の出会いだった』

 中河はますます酔いしれた声色で、

『いいかキョン。俺は一目惚れなどというオカルトみたいなもんを信じてはいなかった。自分ではバリバリの唯物主義者だったつもりだ。しかしそんな俺の蒙を啓いてあまりあることが発生したのだ。一目惚れはある。あるんだよ、キョン』

 なんで俺がお前にそんな言い聞かせられるようなことを言われねばならんのだ。一目惚れだと? 外面に騙くらかされているだけじゃねえのか。

『いいや、違う』

 いやにキッパリと断言しやがるな。

『俺は顔やボディラインなんかに騙されたりしない。あくまで重要なのは内面だ。俺は彼女の内面を一目で見抜いたのだ。一目で充分だった。あの強烈なインパクトは何にも代え難いものだった。言葉で言い表せないのが残念だ。とにかく俺は恋に落ちた。いや、墜ちた。今ではどこまでも墜ちていきたい気分だ……。解るか、キョン?』

 それこそこっちが「いいや」だな。

「まあ、それはいいが」

 俺はいつまでも続きそうな中河の譫言に終止符を打つことにした。

「お前が衝撃だか何だかを受けたのは五月のことなんだよな? ところで今はもう冬だ。とっくに半年以上が経ってるが、その間お前は何をしてたんだ?」

『ああ、キョン。それを言われると俺もツライのだ。この半年間は俺にとって苦行そのものだった。精神の休まるときがなかった。ずっと迷い続けていたのだ。いったい俺のどこに彼女にふさわしい部分があるのだろうかと、そればかりを考えていた。正直言うとな、キョン。彼女のそばにお前がいたことを思い出したのはごく最近なのだ。思い出したからこそこうして名簿を引っ張り出して電話をしているのだからな。それほど彼女は光り輝いていた。こんな思いをしたのは人生において他にない』

 名前も知らない女をパッと見ただけでコロリといかれ、そのまま半年以上も一人でうなっているだけとは恐れ入るね。

 俺は朝比奈さん、ハルヒ、長門の順に顔を思い浮かべながら核心に触れることにした。実を言うとそろそろ電話を切りたく思っていたが、この中河の話しぶりではいくらガチャ切りしても何度でもリダイヤルしかねない勢いだ。

「お前が惚れたという女の人の風体を教えろ」

 中河はしばらく押し黙ってから、

『髪は短かった』

 思い出しつつ話すようにゆっくりと、

『眼鏡をかけていた』

 ほう。

『北高のセーラー服がとてつもなく似合っていた』

 ううむ。

『そして、光り輝くようなオーラをまとっていた』

 それはよく解らない。しかし、

「長門か」

 これは意外だった。てっきりハルヒか朝比奈さんのどちらかだろうと思っていたのに、よりによって長門とはな。さすが谷口が目をつけたAマイナーだけのことはある。俺なんか初対面時には無口で風変わりな部室のアンティークドールくらいにしか思っていなかったのに、さすが目ざといヤツはどこにでもいるようだ。今は違うぜ、俺の長門に対する印象はこの半年間で大きく様変わりしている。

『ナガトさんと言うのか』

 中河の声は妙に弾んでいた。

『どんな字を書くのだ? ぜひフルネームを教えてくれ』

 長門有希。戦艦長門の長門に、有機物の有、希望の希だ。そう言ってやると、

『……いい名前だ。雄大なイメージを思わせる長門型に、希みが有ると書いて有希か……。長門有希さん……。まさに思った通りの清澄で未来の可能性に満ちあふれた姓名だ。凡庸でもなく、かといって突飛すぎてもいない。俺のイメージ通りじゃないか』

 どんなイメージだ。一目見ただけで構築した独りよがりな妄想だろう。そういや内面がどうしたとか言っていたが、一目惚れのどこに内面が関係するんだ。

『俺には解ったのだ』

 いやに自信に満ちた断言である。

『これは妄想なんかじゃない。確信なんだ。外見や性格なんかどうでもいいんだ。知性であり理知なのだ。俺は彼女に見た。大いなる神のごとき理性をだ。あれほどハイブロウな女性に人生で二度と巡り会うことはないだろう』

 あとでバイブロウを辞書で引こうと考えながら、俺の首のヒネリはまだ取れない。

「だから、どうしてパッと見でそんな高尚なことが解ったんだよ? 一言も口きいてないし遠目から見ただけなんだろ?」

『解ってしまったのだからしかたがないだろう!』

 何で俺が叫ばれなきゃならん。

『俺は神に感謝している。それまで無宗教だった自分を恥じているほどだ。とりあえず近所の神社に毎週の参拝を欠かさないようにして、たまに教会で慨悔もしているぞ。それもカトリックとプロテスタントの両方だ』

 それじゃかえって不信心者だぜ。拝めばいいというものではないんだ。信じる神は一柱にしておけ。

『それもそうだな』

 中河は普通に答え、

『ありがとうキョン。おかげで決心がついた。俺が信じるのはただ一人の女神でいい。長門有希さんがまさにそれだ。彼女を俺の女神として、終生違わぬ愛の誓いを----』

「中河」

 戯れ言がいつまでも続きそうだったので俺はヤツの言葉を遮断した。気味の悪さもさることながら、なんだか妙にイライラしてきたからである。

「だから何なんだ。お前が電話してきた理由は解ったさ。それで? そんな告白を俺に聞かせてどうしようってんだ」

『伝言を頼みたい』

 と、中河。

『長門さんに俺の言葉を伝えて欲しいのだ。頼む。お前しか頼りにならない。彼女と並んで歩いていたお前だ。少しは彼女と親しいのだろう?』

 親しいといえば親しいさ。同じSOS団の団員で今や仲良くハルヒの衛星群と化しているからな。それにこいつに見られた俺と長門の姿、五月で眼鏡で制服だって言ってたか。なるほどアレだ。第一回SOS団パトロールで俺と長門が図書館に行った時だろう。やたらと懐かしい思い出だが、あの時に比べたら今の俺は長門のことを百倍以上もよく知っている。知り過ぎちまったかと反省しているくらいだぜ。

 若干のしみじみした気分を味わいながら、俺は中河に尋ねた。

「ところでお前、俺が長門と歩いてるのを思い出しといて----」

 ちょっと言いにくいが、

「ええとだな、俺とあいつがただ親しいだけだとしか思わなかったのか? …たとえば、何だ、俺と長門が付き合っているとかさ」

『まったく思わん』

 中河は躊躇の一片もなく、

『お前はもっと変な女が好きだったはずだ。中三の時の……何と言ったか忘れたが、あの奇妙な女とは続いていないのか?』

 長門を指して変じゃないというのも違和感ありありだが、それよりこいつは何を勘違いしているんだ。そういや国木田も誤解しているようだったが、あいつとはただの友達で、よく考えたら中学を卒業して以来会ってない。しばらくぶりに思い出した。年賀状くらいは出しといたほうがいいかな……。

 なぜか墓穴を掘ってる気分になってきたので、話を変えることにする。

「で、何て伝えるんだ? デートの誘いか? それとも長門の電話番号を教えたほうがいいか?」

『いや』

 中河の返事は重々しい。

『現時点の俺は長門さんの前におめおめと顔を出せるほどの何者でもない。まったくもって不釣り合いだ。だから、』

 一拍の間があって、

『待っていて欲しい…………と、伝えてくれ』

「何を待つって?」と俺。

『俺が迎えにいくのを、だ。いいか? 俺は現在のところ、何の社会性もない一介の高校生に過ぎない』

 そうだろうとも。俺だってそうさ。

『それではダメなんだ。聞いてくれ、キョン。俺はこれから猛勉強を開始する。いや実際もうしているのだが、そうやって現役で国公立大のどこかに入る』

 目標を高く持つのはいいことだ。

『志望は経済学部だ。そこでも俺は勉学に打ち込み、卒業時には第一席を獲得する。そして就職先だが、あえて国家公務員一種や超一流企業ではなく中堅どころの会社に職を得ようと思っている』

 よくもまあそこまでリアルなのか絵空事なのか解らん青写真を描けるものだ。この会話を鬼が聞いていれば笑いすぎで腹膜炎を起こすかもしれない。

『だが俺はいつまでもプロレタリアートの地位に甘んじるわけではない。三年………いや二年であらゆるノウハウを吸収し、独立開業するつもりだ』

 止めやしないので存分にやってくれ。もしそん時に俺が路頭に迷ってたら雇って欲しいね。

『そうやって自分の興した会社が軌道に乗るまで五年……いや三年で何とかする。その頃には東証二部に上場も果たし、年度ごとに最低十パーセントは利益を上げていく計画だ。それも粗利でだぞ』

 だんだんついていけなくなってきた。しかし中河は調子よく、

『その頃には俺も一息つけるようになっているだろう。そこで、ようやく準備が整ったというわけなのだ』

「何の準備だ?」

『長門さんを迎えに行く準備が、だ』

 俺は深海に住む二枚貝の仲間のように沈黙し、中河のセリフは大シケの波のように押し寄せる。

『高校を卒業するのに後二年、大学卒業までに四年、就職してからの修行期間が二年で開業から上場までが三年、合計して十一年だ。いや、キリのいいところで十年でいい。その十年間で俺は一人前となり----』

「アホかお前は」

 と俺が言うのも解ってもらえると思う。どこのどいつが十年もおとなしく待っていたりする? おまけに会ったこともない男をだ。突然誰とも知らない野郎から十年でいいから俺の迎えを待っていてくれと言われて、そのままじっとしているヤツがいたらそいつは人間以外の何かだ。そしてもっと悪いことに長門は人間以外の何かなのである。

 俺は小さく舌を打った。

『俺は本気だ』

 マズいことに本気の声をしている。

『命をかけてもいい。真剣だ』

 声に切れ味があるのだとしたら電線があちこち断線しているような声である。

 どうやってごまかそう?

「あー、中河」

 俺はひっそりと本を読んでいる長門の線の細い姿を思い浮かべながら、

「これは俺の私見だが、長門は裏ではけっこうモテる女だ。引き合いが多くて困るほどだぜ。お前の女を見る目がなかなかの慧眼なのは誉めてやってもいい。だが、十年も長門がフリーでいる可能性はほとんどゼロだ」

 デマカセだけどな。十年後のことなんざ俺にだって解るものか。俺自身の進路だって不明確なのにさ。

「それにそんな重要なことなら長門に直接言えよ。気が進まんが、手引きしてやってもいい。ちょうど冬休みだし、一時間くらいならあいつも時間を空けてくれるだろうし」

『それはダメだ』

 中河は不意に小声となって、

『今の俺ではダメなんだ。きっと長門さんの顔を見るなり卒倒してしまうだろう。実は最近も遠くから見たことはあるんだ。駅近くのスーパーマーケットで偶然な……。夕方だったんだが、その後ろ姿を一瞬捉えただけで、俺はそのまま閉店まで店内に立ちつくしていた。直接顔を合わすなんて……とんでもないことだ!』

 いかん、中河は完全に脳が桃色になる病気にかかっている。将来設計まで完了する始末だから相当の重篤である。手の施しようがあればいいんだが、切った張ったの騒ぎに巻き込まれた日にはゴメンと謝って遁走するしか手だてがない。

 しかもこんなアホなことを親しいとも言えない俺に電話してきて声高らかに叫び出すようなヤツだ、次に何を言い出すか解らんのが恐ろしい。そんなヤツはハルヒ一人でも手に余ってんのに、長門も罪作りなことをしてくれるよな。

 やれやれ。俺は中河に聞かせるつもりで溜息をつき、

「いちおうは解ったよ。長門に何て伝えればいいのか、もう一度教えてくれ」

『ありがとう、キョン』

 中河はいかにも感動したように、

『結婚式には必ずお前を呼ぶ。スピーチも頼む。それも一番手でだ。一生お前のことは忘れない。もしその気があるのなら、俺が将来立ち上げる会社で相応のポストを用意して迎えようじゃないか』

「いいから早く言え」

 気が早いにもほどがある中河の声を聞きながら、俺は肩に受話器を引っかけて白紙のルーズリーフを探し始めた。

 

 翌日の昼過ぎ、俺は北高へ至る坂道を黙々と上っていた。標高が上がるごとに吐く息の白さも際だち、しかし冬休みだってのに何で学校に向かっているのかというと、SOS団の全体ミーティングは定期的に開催されるからである。

 ついでに今日は部室の大掃除も兼ねていた。メイドな朝比奈さんがまめに清掃しているとは言え、エントロピーは増大するという格言に従って部室には雑多なものがどんどん運び込まれては秩序を乱し、そんなカオスの元凶になっているものこそ、目についた物を何でもかっぱらってくるハルヒ、次々と新しいゲームボードを運び込む古泉、分厚い本を矢継ぎ早に読破してしまう長門、日々完璧なお茶くみ係になるべく精進を続ける朝比奈さん----なんと俺以外の全員だ。そりゃ放っておけば散らかり放題になるよ。そろそろ余計な備品を各自の自宅に持って返るよう提言する頃合いだろう。最低限、朝比奈さんのコスプレ衣装だけは何としても保全するとして。

「あー、うっとうしい」

 足取りが軽やかであらざるのは言うまでもなく、ブレザーのポケットに余計な紙切れが入っているからだった。

 中河の長門へ向けた愛の言葉を言われるがままに羅列した口述筆記。バカバカしくて何度シャーペンを放り出そうとしたことか。こんなこっ恥ずかしいことをてらいもなく言える男はベテランの結婚詐欺師にもいないだろう。何が十年待ってくれだ。コントか。

 山颪に向かって歩くうち、お馴染みの校舎が見えてきた。

 

 俺が部室棟に辿り着いたのは、ハルヒが設定した集合時間の一時間前だった。

 最後に来た人間が全員に奢るというSOS団ルールを恐れてのことではない。適用されるのは学外での待ち合わせだからな。

 昨日の電話の最後に中河は、

『書いた文章を渡すだけではダメだ、それではただの代筆だ。また読んでくれるかどうかも解らない。彼女の前でお前が読み上げてくれ、さっき俺が語ったのと同じ熱意を込めて……!』

 などという無茶な要求をした。俺にはヤツの言うとおりにする謂われも純朴さもないが、あれだけ懇願されては元々が性善説の信奉者である俺のこと、ほんの少しだが情にほだされないわけでもない。それにはその場に長門以外の誰もいないというシチュエーションが必要だった。一時間も前に来たら、さすがに長門以外のメンツはまだ来ていないに違いなく、長門は間違いなくそこにいる。必要なときにそこにいなかったためしのない宇宙人製アンドロイド、それが俺の知っている長門有希であるから。

 形ばかりのノックの後、沈黙が返答として返ってきたのを確認してから扉を開く。

「よっ」

 不自然に軽快な挨拶だったかな? と自分にダメだししながら、もう一度、

「よう長門。いてくれると思ったぜ」

 静謐な真冬の空気が部室を満たす中、長門は体温を感じさせない等身大フィギュアのようにひっそりと席につき、病名みたいなタイトルのハードカバーを広げて読んでいた。

「…………」

 表情のない顔が俺を向き、片手がこめかみに触れるように上がって、またすぐに降りた。

 まるで眼鏡を押さえるような仕草だったが今の長門は裸眼であり、眼鏡なしのほうがいいと言ったのは俺で実行し続けているのはこいつだ。今のは何だ? 半年前あたりのクセが蘇ったりでもしたのか。

「他の連中はまだか?」

「まだ」

 長門は簡潔に答えると、再び二段組みにびっしりと書かれた改行の少ないページに視線を落とした。空白が多いと損だと感じるタイプなのかね。

 俺はぎこちなく窓に近寄り、部室棟から見える中庭へ目をさまよわせた。休み中のこともあって校舎に人の気配はほとんどない。グラウンドで寒さ知らずの運動部員たちが元気にハッパをかけている声だけが、立て付けの悪い窓ガラス越しに聞こえてくる。

 立ったままで目を長門へ滑らせた。いつもの長門だった。白皙の顔色も揺るぎのない表情も。

 考えてみれば眼鏡っ娘枠が長らく空きっぱなしだ。そのうちハルヒが新たな眼鏡少女を連れてくる布石を打っちまったかもしれないな。

 そんなどうということもないことを考えながら、俺はポケットをまさぐって折りたたんだルーズリーフを取り出した。

「長門、ちょっとばかり話がある」

「なに」

 指先だけを動かして長門はべーシをめくり、俺は深く息を吸った。

「お前に惚れたとぬかす身の程知らずが現れたので、その言葉を俺が代理として告げることにしたいのだが、どうだろう。聞いてやってくれるか?」

 ここで「いや」と言ってくれたら俺はすかさずルーズリーフを破り捨てる計画だったのだが、長門は無言で俺を見上げていた。氷の色をした瞳ではあるものの、俺を見るときに限っては雪解け水くらいに温まっているように感じるのは俺が都合よく解釈しているせいだろう。

「…………」

 長門は唇を閉ざして俺を凝視する。まるで外科医が被験者の患部を観察しているような目つきだった。

「そう」

 と呟くように言って瞬きもせずにじっと固まる。そのまま待っているようだったので、俺はしかたなく中河のセリフを書き留めた紙片を広げた。読み上げる。

「拝啓、長門有希さま。いても立ってもおられず、このような形で思いを告げる無礼をお許しください。実は私はあなたに一目会ったその日から----」

 長門は俺を見つめたまま聞いていた。だんだんと変な気分になってきたのは俺のほうである。ほとんど目眩をともなうほどの中河作愛の言葉を吐いているうちに、バカバカしさがピークに至ろうとしていた。何やってんだ俺は。気は確かか?

 中河の人生設計が終盤にさしかかり、ゆくゆくは郊外に一軒家を構えて二人の子供と一匹のウエストハイランドホワイトテリアとともに優雅なスローライフを満喫するという未来日記を読んでいる俺を、長門はただ黙然と眺めているのみだった。なんだか自分が途方もなくくだらんことをしているような実感が沸々と湧いて出る。

 というか、くだらん。

 俺は棒読みを停止した。これ以上、妄言を読み上げていては俺の精神がおかしくなる。どうやら中河とは永遠に分かり合えそうにないな。こんな脳みそが茹だりそうなセリフを出力するやつとは付き合いが成立しそうにない。中学時代にそれなり程度の仲だったのも道理だ。一目惚れに半年以上の潜伏期間、と思ったら突然のメッセンジャー依頼に、かくも狂った愛の告白ではね。うん、もうどうしようもねえ。

「まあ、そういうことなんだが、だいたい解ったか?」

 対する長門は、

「わかった」

 こくりとうなずいた。

 マジで?

 俺は長門を見つめて、長門は俺を見つめていた。

 沈黙という熟語が羽を生やして俺たちの間を飛び回っているような静かな時間……。

「…………」

 長門は首の角度をやや傾けて、しかしそれ以上のアクションを取ることなく、ただ俺をじっと見続けていた。ええと何だろう。次は俺が何か言う番なのか?

 俺が懸命に語彙を探っていると、

「メッセージは受け取った」

 俺から視線を逸らさずに、

「しかし応じることはできない」

 例によっての淡々とした声で、

「わたしの自律行動が以降十年間の連続性を保ち得る保証はない」

 そう言って唇を結んだ。表情は変わらない。視線も俺から外れない。

「いやぁ……」

 先に根負けしたのは俺だった。首を振るふりをして吸い込まれそうな漆黒の瞳から目を解放する。

「そうだよな。普通に考えて十年は長すぎるよな……」

 待機時間以前の問題だとは思うが、とりあえず俺はホッとしていた。この安堵感の出所は何かと考えてみるに、早い話が俺は長門が中河でも誰でもいい、他の男と陸まじげに歩いている姿など見たくはないのである。ハルヒ消失事件でのあの長門のイメージがちょっとばかり俺の頭に残存しているのも否定できないかな。中河はそんなに悪い男ではなく、むしろいいヤツの部類だったと思うが、それでも俺は俺の袖を柔らかい力で引っ張ったあの長門の不安そうな表情をまだ明確に記憶している。

「すまん長門」

 俺はルーズリーフをくしゃくしゃに丸めながら、

「よくよく思えば、こんなもんを律儀にメモってきた俺が悪い。中河には電話の時点できっぱり断るべきだったよ。すっぱりと完膚無きまでに忘れてやってくれ。このアホには俺からきっちり言っておく。ストーカーになるようなヤツじゃないから、その点は安心してくれていい」

 まあ、朝比奈さんに彼氏ができるようなことがあったら俺はそいつのストーカーになるかもしれんが……。

 うむ? なるほど、そういうことか。

 俺は自分の胸にあるモヤモヤの正体に思い当たった。

 朝比奈さんにしろ長門にしろ、余計な男が俺たちの間に割り込んでくるのは率直に言ってムカが入る。気にくわない、というごく単純な理屈で、俺は安堵しているらしかった。我ながら解りやすい。

 ハルヒ? ああ、あいつに関しては何も心配していない。ハルヒに言い寄るような男はそれだけでハルヒ的不合格者だし、もし天変地異でも起きてあいつに男ができるようなことになれば、宇宙人やら未来人やらを追い求めることもなくなって地球にも優しく、仕事も減って古泉もさぞかし楽になることだろう。

 そして俺の巻き込まれ型な人生からもエキセントリックなパートが大いに削減されるに違いない。いつかはそうなるのかもしれないが、今この時じゃないのは確実だ。

 俺は部室の窓を開けた。二人分の体温で温もりかけた部屋に指を切るような冷たい冬の大気が舞い込んできた。俺は大きく振りかぶり、丸めた紙切れを思いっきり遠投する。

 ふわりと風に乗った紙製即席ボールは、急角度の放物線を描いて降下した。校舎と部室棟を繋ぐ渡り廊下、その横に広がる芝生に音もなく落っこちる。そのうちに風に吹かれて転がっていき、建物沿いにある溝にでもはまって枯葉とともに朽ちてボロボロになる未来を予測していたのだが----。

 なんということだろうか。

「やべ」

 ちょうど渡り廊下をこっちに歩いていた人影が進路を転換して芝生に降りてきた。そいつはチラリと俺のほうを見上げると、タバコのポイ捨てを咎めるような眼差しを作り、すたすたと歩いて投げ捨てたばかりの紙ボールを拾い上げた。

「おい、よせ! 見るな!」

 俺の儚い抗議もむなしく、頼んでもいないゴミ拾い主は、しわくちゃのルーズリーフを広げて黙読を開始した。

「…………」

 と、長門は黙々と俺を見続けている。

  唐突だが、ここでシンキングタイムだ。

  Q・1 その紙切れには何が書いてある?

 A・1 長門への愛の告白である。

  Q・2 誰の字で書いてある?

 A・2 俺の字である。

  Q・3 事情を知らない第三者がそれを読んだらどうなる?

 A・3 誤解するかもしれない。

  Q・4 ではハルヒがそれを読んだなら?

 A・4 考えたくもないね。

  そうやって涼宮ハルヒは数分間、ルーズリーフをためつすがめつしていたが、やがて顔を上向けて俺に強い視線をぶつけ、どういうつもりなのか、不気味にもニヤリと笑った。

 ……決定。今日は厄日になりそうだ。

 

 十秒後、とんでもない勢いで部室に走り込んできたハルヒは俺の胸ぐらをつかみ上げると、

「何考えてんの? あんた、バカじゃないの? 今すぐ正気に戻してあげるから、そこの窓から飛び降りなさい!」

 と、笑顔のままで叫んだ。ま、ちょっとは引きつったような笑みだったが、俺を開け放した窓へ引きずろうとする力はエネルギーに換算するとそれだけで今日一日の暖房分くらいの容量が込められていて、そのパワーは俺が大急ぎで状況説明をしようとセリフを考えている最中も翳ることがなかった。

「いや、だからこれはだな。俺の中学に中河という野郎がいて……」

「何よ、他人のせいにすんの? あんたが書いたんでしょ、これ」

 ハルヒはぐいぐい俺を引き寄せ、十センチくらいの距離から並はずれて大きな瞳で睨みつけてくる。

「いいから放せ。まともに話もできねえだろうが」

 そうやって俺とハルヒが揉み合っているところに、間が悪く第四の人影が登場した。

「うぁ」

 朝比奈さんが目を皿のようにして扉の隙間に立っていた。上品に口を押さえ、

「……あの……。お取り込み中ですか? 出直したほうが、その、いいでしょうか……?」

 取っ組み合ってはいますが別に取り込んでなどはいませんし、ハルヒと揉み合っていても何一つ楽しくはなく、どうせ同じ目に遭うならあなたがいい----ので、どうぞお入りください。朝比奈さんの入室を拒む権限など過去未来を通じて俺にあろうはずがなく、そのつもりもないのである。

 だいたい長門が何事もないように座っているんだから、朝比奈さんも堂々と入って来てくれればいいのですよ。ついでに助けてくれたら御の字ですが。

 俺がハルヒと格闘しながら朝比奈さんに微笑もうとしていると、

「おやおや」

 最後にやってきた団員が朝比奈さんの横から顔を出した。

「早く来すぎてしまいましたかね?」

 明朗快活な微笑を見せつつ前髪をかき上げ、

「朝比奈さん、どうやら僕たちはお邪魔虫のようですので、ここはいったん退散して、お二人のおそらく犬も喰わないようなやり取りが一時的収束を迎えてから再訪することにしましょう。自販機のコーヒーくらいなら奢らせてもらいますよ」

 待て、古泉。これが痴話ゲンカに見えるようならお前は今すぐ眼科に直行しろ。それから、どさくさに紛れて朝比奈さんを誘うんじゃない。朝比奈さんも、おずおずとうなずいてる場合じゃありませんよ。

 ハルヒはバカ力で俺のシャツを絞り上げ、俺はそのハルヒの手首を握りしめている。このままでは筋肉痛になりそうで、たまらず俺は叫んだ。

「おいこら、古泉! どこに行く、助けろ!」

「さあ、どうしましょうね」

 古泉はここぞとばかりにすっとぼけ、朝比奈さんは驚いた子ウサギみたいに身を固まらせて目をパチクリしており、さりげなく古泉が腰に手を回してエスコートしようとしているのにも気づいていないようだった。

 一方の長門はどうしているかと見ると、こちらはいかにも長門らしく我関せずとばかりに早々と読書に戻っていた。元はと言えばお前の話をしていてこうなっちまったんだから、少しはフォローの言葉を発してくれよ。

 そしてハルヒはギリギリと俺を締め上げながら、

「あたしは情けないわ。こんな間抜けな手紙を書くようなバカが団員から出ちゃうなんて、もう! 引責辞任ものよ。裸足で履いた靴の中にゴキブリが巣を作ってたくらいの気持ち悪さだわ!」

 そう叫びつつもハルヒの顔は不可解な笑みに強ばっていた。まるでこういう場合の表情の作り方を知らないかのようでもあったが、

「ここに来るまでに十三通りの罰ゲームを考えついちゃったわよ! 手始めにアジの干物をくわえて塀の上で近所の野良猫とナワバリ争いをさせてやるから! 猫耳付きでっ」

 朝比奈さんがメイド衣装でそれをやるんだったら絵にもなるだろうが、俺がやっても都市伝説的な特殊救急車を呼ばれるだけだ。

「猫耳属性の持ち合わせはねえよ」

 俺は開けっ放しの窓へ顔を向け、吐息を漏らした。

 すまん、中河。何もかもネタばらししないと丸めた紙に続いて俺が窓からダイブするハメになりそうだ。俺としても本意ではないのだが、このハルヒの誤解を放置していたら自然界の機嫌までが悪くなる恐れがある。

 俺は団長殿のつり上がった目を覗き込みながら、爪切りを拒否するシャミセンに言い聞かせる口調で言った。

「聞け。つーか、まず手をどけろ。ハルヒ、お前のトサカ頭にも解るように解説してやるからさ……」

 

 十分後。

「ふうん」

 と、ハルヒはパイプ椅子に胡座をかいてズルズルとホット緑茶をすすっていた。

「あんたも変な友達を持ったものね。一目惚れすんのは自由だけど、そこまで思いこむなんてよっぽどだわ。バッカみたい」

 恋は人を盲目にも脳疾患にもさせるのさ。まあ、最後のフレーズには俺も異論はないが。

 ハルヒはシワだらけになったルーズリーフを摘み上げ、ヒラヒラと振った。

「てっきり、あんたがアホの谷口と組んで有希をからかおうとしてんじゃないかと思ったわよ。あいつならやりかねないし、有希はおとなしいしさ、騙されやすそうだもん」

 長門以上に騙されにくい存在など銀河レベルでもそうはいないように思ったが、俺は口には出さずに聞いていた。そんな自制している雰囲気を少しは感じたのか、ハルヒは俺をキツイ目で一瞥し、ふっと表情を緩めた。

「まあね。あんたはそんなことしないわよね。小細工をする知恵も機転もなさそうだもん」

 誉めているのかクサしているのか解らんが、少なくとも俺はそんな理性の足りない小学生みたいなことはしないね。いくらあの谷口でも年相応の分別はあるだろうよ。

「でも……、」

 と、口火を切ったのはSOS団が誇る小柄な妖精兼天使である。

「ちょっとステキですね」

 朝比奈さんはどことなくウットリとした顔で、

「こんなに誰かに好きになってもらえたら、少し嬉しいかも……。十年かぁ。本当に待ち続けることができる人に会いたいですね。なんだかロマンチック……」

 顔の前で指を組んで潤みがちな目をキラキラさせている。

 朝比奈さんの言うロマンチックと俺が学んだロマンチックが同じ意味を持っているかどうか定かではないが、きっと別物のような気がするね。未来では言葉の意味も変容している可能性がある。船が浮力で浮いているのを言わなきゃ解らなかった人だからな。

 ところで今日の朝比奈さんは普通にセーラー服をお召しである。メイドやらナースやらの衣装をまとめてクリーニングに出していたからで、アマガエルの着ぐるみもその中に入っている。俺とハルヒが朝比奈さんの香りが染みこんだ大量のコスプレ衣装を抱えて持っていったとき、クリーニング店のおっちゃんが不必要なまでにジロジロと俺とハルヒを交互に見ていたのが何となくトラウマだ。

「中河の実物はロマンチックとは縁遠い感じですけどね」

 俺は湯飲みに残っていた冷めかけのお茶を一気に飲み干し、

「間違っても少女マンガの主役にはなれそうにないゴツゴツした動物系です。動物占い的には熊っすね。胸元に月の輪がありそうなヤツだ」

 言いながら中学時代の印象でぴったりのキャッチコピーを思いついた。

「そう、気は優しくて力持ちみたいな」

 それほど接点はなかったが、イメージ的にそんなんだ。とにかく身体の発育だけはよかった。朝比奈さんとは別の意味で。

 これもヤツには謝っておかねばならないだろうが、中河の発した言葉を書き留めた俺の筆による恋文は止める間もなく----すまないがその気力を俺は失っていた----ハルヒが情感豊かにさっき読み上げてしまい、それを受けて朝比奈さんとは別の感想を述べたのが古泉だった。

「なかなかの名文だと思いますよ」

 作り笑いめいた微笑も相変わらずに、

「何よりも具体的なのがいいですね。やや理想論めいていますが、それでいてきちんと現実を見据えている実直さも好感度高しです。突発的な一時の熱意に自失している感があるものの、迸る勢いが行間から立ち上っている様子も見て取れますし野心的でもあります。言葉通りの努力を続けていれば、きっと中河氏は将来ひとかどの人物になるのではないでしょうか」

 安物の精神分析医みたいなことを言った。他人の人生だと思って、いい加減な予言をするんじゃねえぞ。責任を取る立場じゃないんだったら俺だって適当なことはいくらでも言える。お前はインチキ占い師か。

「ですが」

 古泉は微笑みをくれる。

「このような文言を発するのもかなりの度胸ですが、書き留めるあなたも人間がよくできていますね。僕なら指が拒否するところです」

 それは何か、婉曲な言い回しで俺を罵倒でもしているのか。俺はお前とは違って友達思いなんだよ。結果の分かり切っているキューピッド役を辛うじてパートタイムでやる程度にはな。

 俺は肩をすくめ、それを古泉への返答としてから、

「長門の返事ならお前が来る前に聞いたさ」

 ハルヒと古泉を等分に眺めつつ長門のコメントを代弁する。

「十年は長すぎるってさ。当然だろ? 俺だってそう思うぜ」

 その時、それまで存分に寡黙さを発揮していた長門が、

「見せて」

 細っこい指を差し伸べていた。

 それを見て俺は意外に思う。ハルヒもそうだったようで、

「やっぱ、気になるの?」

 ハルヒは不揃いな前髪を持つ唯一の文芸部員を覗き込むように、

「キョンの書いたやつだけど、記念にもらっておくといいわ。今時こんな回りくどいのか直接的なのか解らないようなコクりなんてそうそうないから」

「どうぞ」

 ハルヒから渡されたシワシワのルーズリーフを、古泉は長門にバトンリレーする。

「…………」

 長門は目を伏せるようにして俺の字を読んでいた。何度も。目が同じ場所を上下している。そうやって噛みしめるように黙読していたが、

「待つことはできない」

 うんうん。そうだろうとも。

 しかし、続く言葉として長門は、

「会ってみてもいい」

 誰もが絶句するようなことを呟き、とりわけ俺が顎をガクリと垂らしていると追い討ちのように、

「気になる」

 そう言って、俺をじっと見つめた。いつもの目の色で。

 俺がちゃんと知っている、変わりのない手作りガラス工芸品みたいな正気の瞳で。

 

 大掃除は大したこともなく単なる掃除で終わった。本棚に並んだ書籍の処分を提言したところ、イエスともノーとも言わない長門は黙ったまま俺を見つめることを続行し、その目の色がどことなく悲しそうに思えた俺はそれ以上何も言えなくなり、古泉のゲームコレクションの中でゴミ箱に居場所を移したのは、一回やったきりでそれも雑誌のオマケについてきた紙製のスゴロクだけだった。

 朝比奈さんは元々私物を茶葉以外に持っておらず、ハルヒは自分が持ち寄ったあらゆる物体の破棄を「ダーメ」の一言で拒絶した。

「いいかしらキョン。何であれ使わずに捨てるなんてもったいないことをあたしはしないのよ。再利用できるものだったら何度も使って、最終的にどうしようもないくらい劣化でもしない限り、やっぱりあたしは捨てないの。それがエコロジーの精神よ」

 将来、こういうヤツがゴミ屋敷を形成することになるんじゃないかね。エコのことを考えるならお前は生存活動以外の何もしないほうがいいと思うけどな。

 ハルヒは長門と朝比奈さん、それから自分にも三角巾をかぶせてハタキと箒を配り歩き、俺と古泉にはバケツと雑巾を譲与して窓拭きを命じた。

「年内にここ来るのはこれで最後なんだから、ピッカピカにして帰るのよ。年明け、あたしたちが来たときに健やかな気分になれるようにね」

 言われるままにガラス拭きを実行する俺と古泉である。その最中、部室を片づけてるんだかホコリを撒き散らしてんだか解らない三人組の北高少女を眺めつつ、俺の相方が囁き声で言った。

「ここだけの話、長門さんに接近したがっている『機関』以外の組織はいくらでもあります。今や彼女は涼宮さんやあなたと同じくらいの重要人物ですからね。特に他のTFEIたちの中でも長門さんはオンリーワンなポジションにいます。そうなったのは最近のことかもしれませんが」

 窓枠に腰をかけ、体温を容易に奪い去る風に対抗して濡れた手に生暖かい息を吹きかける俺は無言でガラスに濡れ雑巾を這わせた。

 何のことやら----。

 とぼけるのは簡単だ。最近、俺は長門や朝比奈さんと一緒に、ここのハルヒと古泉があまり関わらない事件に遭遇したばかりであって、その結果として今があるからには完全無視を決め込むわけにはいかない。

「なんとかするさ」

 俺は表面的には軽快に応えた。

 今度のは俺が持ち込んだイザコザだ。俺自身で解決すりゃいい。

 ガラスの内側を拭きながら、古泉は小さく笑い声を漏らしたようだった。

「ええ。今回ばかりはあなたに一任させてもらいますよ。僕は年末から年始にかけて行くSOS団雪山旅行の準備に大わらわですからね。加えて言わせてもらうと、あなたは涼宮さんと仲よくケンカすることでストレス発散できるのかもしれませんが、あいにくと僕にはその相手もいないのですよ」

 どっちがトムキャットだ。

 しかし古泉はハンサム面の唇をひん曲げて、

「僕だってそろそろ人畜無害な仮面を脱ぎ捨てて、いつの間にか固定されてしまったこのキャラ性を一新したくなる頃だと思いませんか? 同級生相手に丁寧口調を続けるのも、けっこう疲れるものなんです」

 じゃあ止めればいい。お前のセリフ内容にまで俺は口出ししようとは思わん。

「そうもいきませんね。今の僕こそが涼宮さんの望む人物設定でしょうから。彼女の精神に関しては僕はかなりの専門家なんです」

 古泉はこれ見よがしに嘆息し、

「その点、朝比奈さんが羨ましくなりますよ。なにしろ彼女は自分を何一つ偽らなくてもいいのですから」

 お前、いつぞや朝比奈さんの振る舞いはフリかもしれないみたいなことを言ってなかったか?

「おや。僕の言うことなどを信用するんですか? そこまであなたの信頼を勝ち取れたのだとしたら、苦労のかいがあったと言うものですが」

 相変わらずのバックレぶりだ。信用ならん口ぶりも一年が終わろうとしているのに変化してない。長門すらけっこうな内面変化を遂げたというのにお前は相変わらずだな。朝比奈さんはあのままでいいさ。別の朝比奈さんと何度か出会っているもんだから、彼女が肉体的にも精神的にも向上してんのは最早既定事項だ。

「僕が何かしらの変化を見せるようなことがあれば」

 古泉はせっせと手を動かしつつ、

「それはよくない兆候ですね。現状維持が僕の本分です。僕の真剣な姿など、あなたが見たくなるとも思えませんが」

 ああ、見たくはないとも。お前はいつでもニカニカ笑いながらハルヒの金魚のフンとしてアフターフォローか前段階仕込みに明け暮れるのがお似合いだ。今度行く雪山の山荘での寸劇も期待させてもらっている。それで充分だろう?

「これ以上ないくらいの誉め言葉ですね。そう受け取っておきますよ」

 本気なのか戯れ言なのかは知らないが、ともかく古泉はそのようなセリフを吐いて、窓ガラスに白い息を吹きかけた。

 

 その夜のことだ。

 ベッドの上でトグロを巻いているシャミセンの寝顔を見つめて優しい気分に浸っているうちに、この優しさの源は何に由来するのかと考えつつ、ついでに恋愛感情とスケベ心の相違点について考察を深めたあげく、これぞという結論が天啓のように閃いたその時、

「キョンくん、電話ー。昨日の人ー」

 妹がまたしても電話の子機を持って部屋の扉を開いた。

 クラシックな名曲をイージーリスニング化したメロディを奏でる受話器を俺に渡すと、妹はそのままベッドの脇に座り込んでシャミセンのヒゲを引っ張っている。

「シャミシャミ~、シャミの毛だらけでお母さんブツブツ~♪」

 薄目を開けて妹を睨みながらも無視する態勢のシャミセンと、嬉しそうに唄って引っ張り続ける妹を見ながら俺は電話を耳に当てた。それまで俺は何を考えていたのだっけ?

「もしもーし」

『俺だ』

 中学時代の同級生、中河はハヤる心の内を押し隠せない様子で、

『どうだった。長門さんの返答は? 聞かせてくれ。たとえどんな内容でも覚悟はできている。言ってくれ。キョン……!』

 当落線上にある衆院選の立候補者がニュース速報をやきもきしながら聞いているような口調だった。

「残念ながら、かんばしい返答は得られなかった」

 俺は妹に向かってしっしっと手を振りながら渋い声を演出した。

「待てやしねえってさ。十年後の未来なんざ想像もできない、保証しかねる----ってなことだった」

 事実を伝えるだけだから俺の舌も滑らかに回る。ただ、会ってみてもいい……と呟いた長門の問題発言をどうしたものかと考えていると、

『そうか』

 中河の声は意外にもサバサバしていた。

『そうだろうな。俺もそう簡単にオッケーされるとは思っていなかった』

 俺が手を振り続けていると、キテレツな歌詞で歌い続ける妹は唸り声を上げるシャミセンを強引に抱き上げて部屋を出て行った。また自分の部屋で一緒に眠るつもりだろうが、一時間もしたらシャミセンは辟易した顔で再び俺の部屋に戻ってくることになるだろう。構い過ぎるとイヤがる性質は普遍的な猫の特性だ。

 妹の退室を見て、俺は電話に問いかけた。

「お前、俺にあんな恥ずかしい文面を読ませといて言うことはそれだけか?」

 あらかじめ返事を予想していたのだったら伝言なんか俺に依頼するなよ。

『物事には順序というものがある』

 準備運動抜きで結婚の申し込みをしたヤツにそんな諭すように言われたくはない。先手の第一手目で王手をかけるようなルール無視ぶりだったろうがよ。

『まるで知りもしない相手から真実の愛を訴えかけられても困るだけというのは俺も承知している』

 承知してるんなら初めから言うな。地雷があると解っていてそこに足を踏み入れるのは爆発物処理班を除けばマイナーな趣味の持ち主だけだ。

『だが長門さんはこれで俺に対し、少なからず興味を抱いてくれたはずだ』

 計画的犯行だったとは少しは恐れ入ってもいい。長門に「気になる」なんてことを言わしめるような人間は確かに中河が最初だ。それだけあのメッセージに破壊力があったということだろう。なんせ恥ずかしさなら現時点での地球一を保証してやりたいくらいだからな。

『そこでだ。キョン、もう一つ頼みがある』

 まだ何かあるのか。俺のボランティア精神は色々あってそろそろ底をつきかけようとしているのだが。

『俺が高校でアメフト部に入っているのは知っているか?』

 初めて聞いた。

『そうか。実はそうなんだ。それで頼みというのは他でもない、今度俺の高校で他の男子校のアメフト部と対抗戦をするんだ。ぜひ長門さんと連れだって見に来てもらいたい。もちろん俺はスタメンで出る』

「いつだ」

『明日だ』

 だからハルヒみたいなヤツは一人でいいと言っているだろう。どうしてもっと余裕のある日程を考えないんだ。

『長門さんが十年待てないというのだから仕方がない。かくなる上は、俺の勇姿を見せてグッときてもらうしかない』

 なんちゅう短絡的なアイデアだ。それからこっちの都合も少しは考えろ。それでなくとも年末年始は色々あるんだ。

『何か不都合でもあるのか?』

 俺に不都合はない。何の予定もなくポッカリ空いた一日だ。長門も空いているだろう。だから不都合なんじゃないか。このままではお前の勇姿とやらを見に行かねばならないハメになる。

『いいじゃないか。来てくれ。親善試合とは言え実質的な真剣勝負なんだ。明日の試合は隣町の男子校アメフト部と毎年やってる対抗戦なんだが、勝つと負けるとでは俺たち部員にとって平和に年が越せるかどうかレベルの違いがある。もし負けたら地獄の冬休みが待っているのだ。大晦日も正月もない練習三昧の毎日だ』

 中河の声色はシリアスで、ある意味悲壮でもあったが俺にしてみりゃ他人事だ。俺は俺で年末年始にやらなければならない面倒なことが山積みなんだよ。雪山の山荘に行くまであとそう何日もない。

『キョン、お前の予定なんかどうでもいい。長門さんだ。頼むだけ頼んでくれ。彼女がイヤだと言うのなら俺もあきらめる。だが千分の一でも可能性があるのなら俺はそれに賭けたいのだ。自らアクションを起こさないとどんな夢でもかないはしないものだからな』

 よっぽど嘘っぱちを言ってやろうかと思ったが、そこまで徹しきれないのが俺の弱いところだ。

「解ったよ」

 俺はベッドに寝転がりながら気のない息を吐いた。

「長門にはこれから電話して訊いてみる」

 予感があった。長門はノーと言わないだろう。

「お前の高校はどこにあったっけ? もし長門がオッケーたらそこまで連れて行ってやる」

 別のヤツらもついてくるかもしれんが、まあそれはいいだろう。

『ありがとう、キョン。恩に着る』

 嬉々として中河は自分の高校への道順を告げ、試合開始の時間を教えてくれてから、

『お前は縁結びの神だ。結婚式では司会を頼んでもいい。いや、最初の子供の名付け親になってく----』

「じゃあな」

 冷たく言って俺は電話を切った。これ以上中河の言葉を聞いていたら脳に細長い虫が湧きそうだ。

 俺は家電の子機を床に置くと、自分の携帯を手にして登録してある長門宅の番号を呼び出した。

 

 そして翌日がやってきた。あっさりと。

「遅いわよ! 言い出しっべのくせして最後にやってくるなんて、やる気あんの? あんた」

 ハルヒが笑顔で俺に人差し指を突きつけている。お馴染みの駅前、SOS団待ち合わせの場所である。他の三人、長門と古泉、朝比奈さんも俺を待っていた。

 本来なら俺が連れて行くのは無口な有機アンドロイドだけでいいわけだが、だからと言って本当に二人きりで試合観戦に行くわけにもいくまい。のちのち団長に知れたらどんな罰ゲームが待っているのか想像するのも恐ろしい。だったら全員巻き込んじまえ----というわけで俺は長門の返答を聞いたのち三人に誘いの電話を入れた。全員が話に乗ってきたのは年末だってのにそれほどヒマだったか、それとも長門に一目惚れするような男に並々ならぬ興味があったからか。

 なんせ真冬のことだから全員厚着で集合している。特筆すべきは朝比奈さんの格好で、真っ白なフェイクファーコートを着込んだ彼女はモコモコというかモサモサというか、まるで雪山を無邪気に跳ねる白ウサギのような愛らしさだった。一目惚れするんだったらどう考えてもこっちだ。

 長門は制服の上に地味なダッフルコートをまとい、その上フードもかぶっていた。さすがの宇宙人モドキも地上の寒さはこたえるものと見えるが、

「…………」

 自分への告白相手を見物に行くとは到底思えない無表情は変わりない。

「さ、行きましょ。どんな顔した男なのか、あたしけっこう楽しみだわ。アメフトの試合見るのも初めてだしさ」

 ピクニック気分なのはハルヒだけでもないようで朝比奈さんもニコニコ、古泉はニヤニヤしている。そして俺は表情に乏しく、当の長門は表情皆無である。

「バスの路線図は調べておきました。その男子校まではここから時間にして三十分ほどですね。乗り口はこちらです」

 古泉が旅行会社の添乗員のような口調で俺たちを先導し、俺はますます口数を少なくする。

 楽しんでやがるな。こいつもハルヒも、ひょっとしたら朝比奈さんも。

 歩きながら古泉はごく自然な動作で俺に歩み寄り、いわくありげに耳元で囁いた。

「それにしても、あなたもよくよく妙な友人をお持ちですね」

 続く言葉を待っていたのだが、古泉は微笑を振りまきながら先導役に戻った。

 中河が妙だって? そうかもしれない。長門を一目見たきりで遠雷に打たれたように感じる人間は一般性からほど遠いところで生きているヤツに違いはなかろう。

 バスターミナルまで歩く間中、俺はずっと憮然としていた。

 何か、気に入らん。

 

 民営のバスに揺られること半時、降りたった停留所から数分のところにその男子校はあった。そして、とっくに試合は始まっていた。

 俺の寝坊のせいでバスを二本ほど乗り逃してしまっていたから、到着したのは中河が言ってた試合開始時間の十五分後だ。

 どうやら校舎内には入れないようで、敷地に沿って歩いてるとすぐに金網フェンスに囲まれたグラウンドに出くわし、アメフトの練習試合はそこでやってた。

「わあ、広い運動場ですね」

 朝比奈さんが感嘆するのもうなずける。山を削って無理から作ったと思われる北高と違い、平地にあって金もありそうなこの私立男子校のグラウンドはやたらに面積が広かった。それも俺たちが立っている位置から一階程度低い場所にグラウンドは設置されており、ちょうど観戦には具合がいいような立地条件になっている。俺たち五人以外にも通りすがりみたいなおっさんとか、グルーピーみたいなどこかの女子生徒たちがダンゴになって私立男子校二つによる対抗戦を嬌声とともに眺めていた。

 白と青のユニフォームとヘルメットがぶつかり合う音を聞きながら、俺たちは空いた空間に五人で並ぶ。

 長門はまだ無言で無反応なままだった。

 この時は、まだ----。

 

 アメリカンフットボールのルールを俺はざっくばらんにしか知らない。いつだったか草野球大会をほぼ無努力で一勝したことに味をしめ、ハルヒが次に持ってきたチラシが草アメフトと草サッカーの大会参加届けである。結局どちらにも参加することはなかったのだが(いろいろ紆余曲折があった果てにな)、その時万が一に備えてアメフトのルールもちょいと調べてみた。簡単なようで奥が深く、とてもじゃないが俺たちがおいそれとできるスポーツではないということだけは解った。

 実際、こうして眺めていてその推測は正解だったと実感する思いである。

 攻撃側はラグビーボールとどう違うのかが解らないがとにかく楕円形のボールを一センチでも前進させようと投げたり手渡したり抱きしめてダッシュしたりしており、対する防御側はそのボールを一センチたりとも前進させないようにボールを持つヤツに猛然と襲いかかり、そうはさせじと攻撃側のオフェンスラインがブロックし、あちらこちらでガッチンガッチンとプロテクタがぶつかり合う音が発生していた。

 まあ、確かにアメリカンな感じがするスポーツではある。

「へー」

 ハルヒはフェンスにしがみつくようにして入り乱れる選手たちに視線を注いでいた。

「それで、中河くんってのはどれ?」

「ユニフォームに82って書いてあるヤツだ。白いほう」

 昨日の電話で聞かされた通りの説明をする。タイトエンド、ってのが中河のポジションだった。オフェンスラインの端っこあたりにいて、ブロックとパスキャッチを兼ねるような役職である。中河はガタイの割にはやけに俊敏に動いており、なるほど、まさにうってつけと言える。

「あれ? 選手がそっくり入れ替わってるけど、どうして?」

「攻撃専用と防御専用の選手がいるんだよ。中河は攻撃専門」

「メットかぶってるから頭突きはアリなんでしょうけど、どこまでやっていいの? 立ち技オンリー? 総合格闘ルール?」

「どっちにせよ、そんなルールはない。頭突きもなしだ」

「ふうん?」

 興味津々な瞳をグラウンドに向けているハルヒだった。北高にアメフト部はないが、もしあったらこいつはそこにも仮入部して部員たちを困らせていたに違いない。やたら迅速で周囲を無視した突破力に秀でているヤツだから役に立っていたかもしれないが。

「いかにも頭に血の上りそうな威勢のいいスポーツね。冬にやるにはピッタリかも」

 ハルヒの感想を聞きながらこっそり長門のほうを窺ってみると、別に何を考えてもいなさそうな顔でぼんやりとボールの行方を追っていた。とりたてて中河を注目しているわけでもなく、ただひたすらにぼんやりしているように見えた。

 俺たち五人は突っ立ったまま、しばらく男子校同士のつばぜり合いを観戦していたが、

「あの、お茶、どうですか?」

 朝比奈さんがカバンから魔法瓶と紙コップを取り出して、

「寒いだろうと思って、あったかいのを用意してきました」

 微笑む朝比奈さんはほとんど天使そのものだ。ありがたく頂戴しますよ。寒空の下でじっと試合観戦ってのも冷えるだけですし。

 そうして俺たちは朝比奈さんが手ずから淹れてくれた妙な味のするお茶をすすりつつ、真冬だというのに熱っぽくぶつかり合うアメフト部員を眺めていた。

 

 そんなこんなで漫然とプレイ進行を見ている間に第二クオーターが終了してハーフタイムとなった。中河たち白いユニフォームチームは俺たちから見てグラウンドの対岸に集合し、ヘッドコーチらしき体格のいいおっさんからしきりと怒号を喰らっている。遠目で顔はよくわからないが、こちらに背を向けている82番の背番号が一団の中で見え隠れしていた。

 試合のほうは、どちらかと言えば地味な展開で進んでいるようだ。派手なロングパスが通ったりランニングバックが三十ヤード独走するということもなく、両チームともファーストダウンを取るのがやっとといった有様で、点数はフィールドゴールでポツポツと加点するに留まってタッチダウンによる得点は未だにゼロである。それだけ戦力が拮抗しているということでもあるだろうし、ディフェンスチームが互いにがんばっているということでもある。

 ところで地味で退屈な展開が大嫌いな人間を俺は一人ほど知っており、その名を涼宮ハルヒという。

「なんか、あんまり面白くないわ」

 その場で足踏みしながら、ハルヒは唇を尖らせる。吐く息が思いっきり白いのはハルヒだけでなく俺たち全員がそうだ。

「あいつらは動き回ってるからいいかもしれないけど」

 ハルヒは両手で自分を抱きしめるようにして、

「じっとしてるあたしたちは寒いだけよ。近くに喫茶店はないの?」

 ピクニック気分も木枯らしに吹かれてどこかに飛んでいってしまったらしい。朝比奈さんのお茶も野外では無限ではなく、すでにしてとっくに切れていた。それ以前に半分が愛情で構成されているであろう朝比奈印のお茶もあまりの寒さにあっという間に冷たくなってしまい、身体を暖める役にはあまり立たなかった。加えて今日は今年一番の寒波が押し寄せている。芯から凍えそうな冷気に歯を鳴らしているのはハルヒだけでなく俺や朝比奈さんもだ。平然としているのは暑さ寒さを年中ものともしない長門くらいのものさ。

「やっぱ、何であれ指くあえて見てるだけじゃ本質的な面白さなんて解んないのよ。あたしも混ぜてもらおうかしら。あのボールを投げる役くらいならあたしでも出来そうだわ」

 ハルヒは体温を奪っていく風に目をすがめながら、

「それくらいしないとずっと寒いだけよ。キョン、何かいいもの持ってない? カイロとか、トウガラシとか」

 そんなアイテムを持っていたら自分で使っている。どうしても身体を暖めたいなら学校の周りをマラソンで一周するか、おしくらまんじゅうでもすればいいだろ。経済的で、しかも健康的だ。

「ふんだ。いいわよ、カイロならここにちょうどいいのがあるしさ、しかも等身大の」

 おもむろにハルヒは後ろから朝比奈さんに抱きついて、突けば折れそうな首に手を回した。

「わっわっ。何ですかあ」

 と、もちろん朝比奈さんは狼狽する。

「みくるちゃん、あなた暖かいわねえ。ふわっふわっしてるし」

 処女雪的白さのフェイクファーに顎を埋め、朝比奈さんのバックを取ったハルヒは小柄で部分的にふくよかな肉付きを誇る上級生を抱きしめ、

「しばらくこうしてましょ。ふふふ、キョン。羨ましい?」

 当たり前だろう。どうせなら真正面から抱きしめ合いたいがな。

「ふうん?」

 ハルヒはアヒル口を作ったのち、

「ど……」

 言いかけて口を閉ざし、軽く息を吸い込んでから、

「それ、みくるちゃんと?」

 ハルヒの小悪魔めいた表情と、その腕に抱擁されて白黒させている朝比奈さんの瞳を同じ時間だけ見比べて、俺は何と回答しようかと考えた。そうやって考え続けていると斜め後方から助け船が登場、

「何でしたら僕とおしくらまんじゅうでもしますか」

 俺たちの会話に混じりたくでもなったのか、古泉が気色悪いことを気色の悪い笑みを浮かべながら言い出した。

「マラソンでも構いませんが、ここは男同士、気兼ねなく揉み合ったところで僕は別に気にしません」

 俺が気にするわい。何度でも言っておくが俺にソッチの趣味はない。古泉はおとなしくアメフトの実況解説役をやってればいいのだ。今回のは俺と長門と中河の問題でお前はオマケ以下の存在だからな。ちなみに現状を見る限りハルヒと朝比奈さんはオマケそのものだが。

 俺は横目を泳がせた。

「それはどうでもいいんだが……」

 肝心のメイン、長門はいつもの調子で黙りこくり、ひたすら視線をグラウンドに落としたまま身じろぎもしない。中河の姿を目で追っているような雰囲気は感じたが、本当にヤツを見ているのかどうかも定かではない。

 一方の中河もそうだった。オフェンスユニットとしてせわしなく動いているときも、ラインの外に出ている間も、まったくこちらに目を向けていない。せっかく長門を連れてきてやったのに気にならないのかね。ハーフタイムの今も円になった選手同士で何やら真剣っぽい気配のミーティングをやってやがる。それだけこの試合に賭ける情熱と勝利への渇望が何より勝っているということなのか。

 それともワザとか? 中河の話が本当ならば、あいつは長門の姿を遠目に見ただけで忘我のあげく自失までしてしまうということだった。いくらなんでもそれは大げさだと思うが、もし言葉通りなら大事な試合の最中に立ちつくしちまうのはいかにもマズい。

「ま、いっか」

 と俺は呟いて、短い襟足を風にそよがせている長門の後ろ頭を見つめた。

 この試合が終わって、中河が学校から出てきたらそこで会わせてやればいい。このままつつがなく後半が終了し、その時に中河の学校が勝っていたらヤツも自由の身になるだろう。

 昨日、長門は『会ってみてもいい』と言った。ならば会わせてやっても誰かが困ることもない。実を言うとあんまり気は乗らなかったが、だからといって他人の希望や要求を無下に握りつぶすほど俺は悪人ではないつもりだ。こうして聞く耳も二つほどちゃんと付いている。

 の、だが。

 残念ながらつつがなくとはいかなかった。試合再開を告げる笛が鳴り、第三クオーターが始まって五分と経たないうちに----。

  中河は救急車で運ばれることになった。

 

 ヤツの負傷退場の顛末を記しておこう。だいたいこんな具合だ。

 後半の幕開けは相手チームのキックオフから始まった。リターナーが自陣二十ヤードまで進んだところで取り押さえられ、そこから中河チームの攻撃が開始される。

 敵味方が揃って腰を落とす最前列、その端っこに中河もいた。センターの真後ろにいた白ユニフォームのクオーターバックが何やら暗号通信めいた掛け声を左右に発して、それはまさしく暗号通信だったらしく中河は一列目のラインからつつつっと横に移動した。その途端、ボールを受けたクオーターバックが二歩三歩とバックステップを踏み、敵チーム側のガードとタックル、ラインパッカーどもが野獣のような突進力で襲いかかる。

 中河はいったんダッシュしてから素早くインに切れ込んでターン、捕球を待ち受ける構えだがこれはフェイクだったらしく、ボールを構えた司令塔が手首のスナップをきかせて投じた相手は、中河のさらに外側にいたワイドレシーバーだった。

「あっ」

 声を上げたのはハルヒか朝比奈さんか。

 ライフル弾のように回転しながら飛んでいくボールは、しかし予定通りの軌跡を描くことはできない。敵チームのラインバッカーが猛然とジャンプ、だがこれもインターセプトには至らない。かろうじて指先に触れるに留まってターンオーバーは回避、とは言え軌道の変更と減速を強制され、ふわーり、とボールは誰もが予想しなかった地点へと墜ちていく。

 その時だった。

 地蔵菩薩よりも動くことのなかった長門が手を動かすのを俺は見た。

「…………」

 長門はかぶっていたフードの端に触れ、ちょいと押し下げて目線を隠す。だが隠しきれない部位、唇が小さく動いたのを俺の視界は見逃さなかった。

「--------」

 確かに長門は何かを呟いた。短く。

 それは目の隅での出来事だった。俺の目の焦点は目下のところグラウンドに合わされている。

「おっ」

 俺は身を乗り出して目を見張った。

 ボールの軌道がわずかに変化したような気がしたからであり、まさにその落下予測地点へ中河が素晴らしい瞬発力で走り込んでいたからだ。俺の視界の中心で中河は華麗に跳躍した。空中を漂っていたボールをしっかとキャッチ、やや体勢を崩したもののそのまま地面に着地----

 とも、いかなかった。

 中河のジャンプと同時に、中河のマンマークについていた相手ディフエンスのコーナーバックも素晴らしい跳躍を見せていた。狙いはただ一つ、連中が命の次くらいに重要視しているボールである。

 その敵選手が幅跳び選手のように助走をつけて宙を飛んだのは、中河がボールをつかむと同時のことだ。空中ではいかなる方向転換もままならないのは羽の生えていない人間なら当然の始末で、結果その選手はジャンプの頂点にいてエネルギー量ゼロ状態、後は落ちるだけだった中河とまともに激突した。その衝撃がいかばかりであったかは、二人ともがその勢いのままに弾け飛んだことからも容易に想像できようというものだ。

 敵のコーナーバックは九十度回転して背中からグラウンドに落っこち、そして無防備な体勢でいた中河は綺麗に縦の半回転をおこなって頭から落下した。

「ひえっ!?」

 これは朝比奈さんの疑問形悲鳴。

 俺も声を上げかけていた。明らかに中河は人間が地上にぶつかるにしては決してやってはいけないような落ち方をした。トゥームストーンパイルドライバーというか、犬神家のスケキヨというか、頭頂部からまともにだ。プロレスにはマットがあり犬神家なら沼がある。だが、中河の下には硬く素っ気のない茶色の地面があるのみだった。

 聞きたくもなかったような、イヤ~ぁな音が映像にやや遅れて俺たちのもとにまで届けられる。

 ゴガン!

 よくてヘルメット、悪ければ頭蓋骨にヒビが入ったんじゃないかと思えるような鈍い音だった。

 主審の吹く笛が鳴り渡って時計が止まる。中河の身体も止まったままだ。倒れ伏した中河はボールを親の形見かと思うくらい強く抱きかかえたポーズで停止していた。いや、もうピクリともしない。ちょっとシャレにならん気がしてきた。

「だいじょうぶかしら、あの人」

 ハルヒがフェンスにかぶりつきとなって眉をひそめる。

「ひええ」

 朝比奈さんはホラー映画のスプラッタシーンを見るようにハルヒの肩に半身を隠して、

「あ……担架が……」

 怖々とした声で言った。

 大勢のチームメイトたちに囲まれていた中河の仰臥姿が、大急ぎで運ばれてきた担架に乗せられてサイドラインの外に出る。それでもまだボールを抱きしめているのだから見上げた根性だ。これで中河のチームが奮起して敵チームに勝利しないとウソだと思えるくらいの名退場シーンである。

 担架の上でメットを外された中河は、どうやら最悪の事態だけは免れたようだ。周囲の呼びかけに反応して目を開けているし、質問にうなずいたりしている。起きあがろうとしてまた崩れ落ちたりもしているが、少なくともちゃんと息はあるらしい。

「軽い脳震盪でしょう」

 古泉が病状を説明する。

「さほど心配はないと思います。この手のスポーツではたまにあることですよ」

 医者でもないのにこの遠距離からよく解るものだ。本当にその通りならいいが頭はけっこうヤバイ部分だぞ。そんな俺の懸念はチームの監督だか顧問教師とも共通だったらしく、まもなくして救急車のサイレンが近づいてきた。

「ついてないわね、あんたの友達」

 ハルヒは慨嘆するように、

「有希にいいところを見せようとしてたのにケガじゃあね。はりきりすぎたのかしら」

 同情しているらしい。こいつは本気で中河と長門がうまくいっちまえばいいと思っていたのか? ちょっと前までコンピュータ研への一時レンタルにも難色を示していたのに。

 俺がそう言うとハルヒは、

「あたしはね、キョン。恋愛感情なんて病気の一種だと思ってるけど、人の恋路を面白がって邪魔するようなことはしないわよ。幸せの基準なんて人それぞれなんだもの」

 中河に好かれて長門が幸せになるかどうかは解らないけどな。

「あたしから見て不幸のどん底にいるような人だって、その人自身が自分は幸せだって思っているのなら幸せなのよ」

 俺は肩をすくめてハルヒの一言多い恋愛論を受け流した。申しわけないが朝比奈さんにろくでなしの恋人ができるようなことになって、いくら朝比奈さんが幸せそうにしていたとしても俺は心中穏やかでいられる自信がないね。真剣に恋路を邪魔する振る舞いに及ぶかもしれん。しかしそんな俺を誰が責められようか。

「お友達、平気だといいですね」

 朝比奈さんはモコモココートの前で手を合わせ、真面目に祈念する表情である。決してツクリではない。かように誰にでもお優しいお人なのだ。朝比奈さんに祈られたら、たとえ全身打撲の複雑骨折だったとしても三十分で治る。だから中河も大丈夫だ。

 やがて到着した救急隊員たちの手によって中河は救急車の中に運び込まれた。割れ物注意シールが貼ってある段ボール並みに慎重な扱われようで。

 手際よく中河を搬入し、後部ドアを閉じるが早いかサイレンが復活して発車、目に痛い光を振りまきながら赤色回転灯が遠ざかっていく。

「…………」

 普段より無口度が五割増しになっている今日の長門、黒曜の瞳が走り去る救急車を見る様は、あたかも肉眼で赤方偏移を確認しょうとしているかのようだった。

 

 さて、どうする?

 長門への中河プレゼンテーションは当事者の退場をもって中止を余儀なくされたわけだが、再開された練習試合を最後まで見届けるのも気が進まない。なにしろ寒すぎるうえに当初の目的が中絶されてしまったのだから俺たちがここに立っている理由は二次的なものに過ぎず、本来の一次的目標はそろそろ病院に到着した頃だろう。

「あたしたちも病院に行けばいいじゃん」

 と言い出したのはハルヒである。

「当初の目標が病院行きなんだから、そこに行けば話は統くわよ。心配した有希がお見舞いに行くってシナリオね。あんたの友達も感激するわ。それに病院なら暖房も効いてるでしょ。どう、これ?」

 さも素晴らしい思いつきのように言うのはいいが、俺はとうぶん病院の門をくぐりたいとは思わない。ハルヒと出会って以来、俺のトラウマは増すばかりである。

「あんた、友達が気にならないの? 言っとくけど、あんたが救急車で運ばれたときはあたしは心配してあげたわよ。あくまでそれなりにだけどねっ」

 俺の腕をぐいぐい引っ張りながらハルヒはぶっきらぼうな口調で、

「みんなに迷惑かけたんだから」

 俺を伴って歩き出したハルヒだったが、数歩進んで立ち止まる。

「ところで、あの救急車はどこの病院に行ったの?」

 俺に聞かれても知らん。

「僕が調べますよ」

 携帯電話をかざした古泉が微笑みつつ請け負った。

「しばしお待ちください。すぐにすみますので」

 古泉は俺たちに背を向け、何歩かほど離れてからボタンをプッシュ、小声で囁いたり相手の声に耳を傾けていたりしたが、ものの一分強で携帯をしまった。笑顔を俺たちに向けて、

「搬送先が解りましたよ」

 どこにかけたのか知らないが119番でないことは賭けてもいいな。

「僕たちがよく知っている病院です。道順を説明するまでもないでしょう」

 怒涛のような予感が押し寄せ、シーツの白さとリンゴの赤が俺の目の奥で蘇る。古泉は俺に華やかな笑みをくれると、

「ええ、そうです。この前まであなたが入院していた総合病院ですよ」

 お前の叔父の知り合いが理事をやってる、ということになっているあそこか。俺は古泉を睨みつける。偶然の仕業なんだろうな、それは。

「偶然です」

 俺のワニ目にクスリ笑いを漏らしてから、

「いや、本当に。奇遇ですねえ。まったく、僕も驚いていますよ」

 いまいち信用ならんからその笑顔も信頼性皆無だ。

「じゃ、その病院まで行きましょ。どっかでタクシー拾えない? 五人いるんだし、割り勘なら安くつくわ」

 きっそく仕切り始めるハルヒだったが、

「涼宮さん。僕はそろそろ今度の雪山について打ち合わせをしたいと考えていましてね。お見舞いはこちらのお二人に任せて、朝比奈さんと僕とでその件について詰めておくのはいかがです? 明確な日程とか持っていく荷物とか、細部のツメがまだ未定ですから。細かなスケジュールもそろそろ最終案を出しておかないと」

 古泉のセリフを聞いてたたらを踏んだ。

「え、そうなの?」

「そうです」

 古泉は噛んで含めるように、

「大晦日はもうすぐそこですよ。年越しを雪の山荘で過ごそうという一大イベントです。本当なら今日はSOS団冬合宿のミーティングに当てたいくらいだったのですが、こうして予定外のことが入ってしまいましたからね」

 悪かったな。

「いえ別に。その代わりと言っては何ですが長門さんはあなたにお任せしますよ。取り急ぎ病院に駆けつけてお二人で中河氏に対面を果たしてください。そこでの出来事もあなたの判断で、いかようにもどうぞ。僕と涼宮さんと朝比奈さんはいつもの喫茶店にいますから、その後で来てください……ということでどうでしょう、涼宮さん」

 んー、とハルヒは唇をウネくらせていたが、

「ううん、そうねえ。あたしが病院行ってもしょうがないのは確かよね。キョンの友達が興味あるのは有希だけなんだもんね」

 少し拗ねたような顔をする。

「いいわ、キョン。有希と一緒に友達を見舞ってあげなさい。あんなラブレターをよこすヤツだもの、有希を見れば五秒で元気ハツラツになるわ」

 そこでハルヒは俺に指を突きつけ、

「でもね! ちゃんと後で全部スッキリ報告するのよ! いいわね!?」

 怒り笑いのような表情で言った。

 つうこって、集合地点にバスで戻ってきた俺たちはここで二派に分かれることになった。俺と長門はバスを乗り継いで私立の総合病院へ、ハルヒ以下の三人は近くの喫茶店に常連客をやりに。

 長門がまったく振り向かないので俺が一念発起して振り向いてやると、ハルヒたち三人も同じように振り返ってて、ジェスチャークイズのような真似をしながら歩き去っていった。何のボディランゲージなんだといぶかしく思うのも早々に、俺は冷たい雰囲気をダッフルコートにまとわりつかせた道連れに顔を向けた。

 さてさて----。

 簡単に言おう。気になることが磯辺のフジツボ並みに俺の心臓に付着している。長門に一目惚れした中河がここぞと言うときに都合よく負傷したりするのも気がかりだが、古泉が待ち合わせ場所で言った「あなたもよくよく妙な友人を……」の『よくよく』の部分がさらに気にかかる。俺は変態的な特質を持つ友人に心当たりはあまりない。強いて言えば古泉くらいしか該当しない。いったいヤツは中河の何を指して『妙』などと表現したのか。

 それにプラスして長門が呟いた謎の呪文。中河の事故が起こったのはその直後で、どれだけ鈍い頭脳の所有者でも、いままでのパターンさえ記憶していれば何かあると思うのは当然の流れだろう。そう、俺がリリーフエースをやって三者連続三振を記録できる程度には長門は芸達者なのだ。

「…………」

 長門はフードの奥に顔を引っ込めて語ることはないが、その答えはすぐに明らかになる。

 

 受付で事務員に尋ねたところ、中河はすでに治療と検査を終えて病室に移動しているとのことだった。大事には至ってないが検査入院ってことになったらしい。俺は背後霊のようについてくる長門を伴い、教えられた病室へと通路を進んだ。

 さすがに病室まではカブっておらず、中河がいたのは六人部屋である。

「中河、元気か」

「おお、キョン」

 水色の病院服を着てベッドに横たわる元同級生がいた。見たとこどうもないようで、中河はスポーツ刈りの頭もそのままに昼寝から覚めたパンダのように身体を起こし、

「ちょうどよかった。さっき検査が終わったところなんだ。様子見で一泊することになった。落ちたときは頸をやっちまったかと吐き気がしたが軽い脳震盪ですんだとも。コーチには電話を入れて明日には退院できそうだからわざわざ来ることもないと----」

 喋っているうちに俺の背後霊に気づいたようだ。極限まで目を見開いて、

「そちらの方は……ま、まさか……」

 まさかも何もない。

「長門だよ。長門有希。喜ぶだろうと思って連れてきた」

「おおおっ………」

 中河は屈強な体躯をベッド上で弾ませ、いきなり正座した。元気そうで何よりだ。このぶんでは頭の中も無事だろう。

「中河ですっ!」

 怒号のような自己紹介だった。

「中原中也の中に黄河の河で中河です! 以後お見知りおきを!」

 将軍に初めて目通りした外様大名みたいな平伏ぶりである。

「長門有希」

 笑わない声が淡々と名前を告げた。ダッフルコートを脱ごうともせず、フードすらかぶったままだ。見かねて俺は頭を覆うフードをつまんで背中に垂らしてやった。わざわざ対面しに来たんだ、顔くらい見せてやってももったいなくはない。

 長門は何も言わず中河のほうけた顔を凝視し続け、十数秒が経過したあたりで、

「うん?……あー」

 中河のほうが何故か怪訝な表情へと変化した。

「長門さん……なのですね」

「そう」と長門。

「春頃にキョンと一緒に歩いていた……?」

「そう」

「駅前のスーパーでよく買い物を……?」

「そう」

「そうなの……です……か……」

 中河は顔を曇らせる。泣いて喜ぶか感激で卒倒するかのどちらかだと思っていたのに、なんだ、この歯切れの悪い雰囲気は。

 長門が中河を見る目は、水族館で動かないカレイを見るような感じだったが、中河の長門を見る目も道端でマンホールのフタを見てるような気配がした。

 そうやって微妙な見つめ合い合戦もすぐに破綻し、先に目を逸らしたのはやっぱり中河だった。

「……キョン」

 小声のつもりだろうが同室の入院患者にも丸聞こえだろ。しかし人目をはばかるように指をちょいちょいと動かして俺を呼ぶ仕草を無視してのけるわけにもいくまい。

「何だよ」

「ちょっと……その、お前と二人で話したい。でだな、その……あれだ」

 ちらちらと長門を窺う目線で解る。長門に聞かれたくないようなことを言いたがっているらしい。

 俺が長門へ向き直る前に、

「そう」

 以心伝心というわけでもなかろうが、長門はすっと身体を返すと、ベルトコンベアで運ばれているような足取りで病室から出て行った。

 中河はスライドドアが閉じられたのを見て、ふっと息をつき、

「あれは……本当に長門さんか。本物の?」

 ニセ長門にはまだお目にかかっていない。変質した本人には出会ったことがあるが、それも終わった話である。

「喜べよ」と俺は言った。「お前の十年後の花嫁候補が来てくれてんのに、もっと感激したらどうだ」

「うう……むむ」

 中河はひとしきり唸るようにうつむいて、

「長門さん……だよな。間違いなく。双子でもそっくりさんでもないのだな」

 何を言ってやがる。眼鏡がないとダメとかいうことじゃないだろうな。お前は最近にも長門と遭遇したんだろう? なら長門は俺の要請通りにグラスレスだったはずだ。眼鏡フェチだから今のはダメだなんてイイワケは聞きたくないぞ。

「そうじゃない」

 中河は思い悩んでいる顔を上向けた。

「うまく言えない……。ちょっと考えさせてくれ、キョン。すまないんだが……」

 それっきり中河はベッドに座り込んだまま呻吟し始めた。やはり頭を打ってどこかおかしくなっちまったのか? 反応が不可解過ぎるし話も続かない。何を言っても「ううむ」と上の空だし、一心不乱に考え事をしているようでもある。最後のほうは頭痛を堪えるように頭を押さえだしたので、これはいかんと俺も退室することにした。

「中河。そのうちわけを詳細に聞かせてもらうぞ。このままじゃあ----」

 俺がハルヒに報告する内容も完全に空疎なままになってしまう。事実を伝えてもハルヒが目の端を吊り上げるだけの結果が待ち受けていることだろう。

 病室を出ると、長門は廊下の壁に背を付けるようにして待っていた。俺に黒ビー玉みたいな目を向け、また床に落とす。

「行くか」

 小さくうなずいて、長門はおとなしく俺の背後霊に戻った。

 ----何だったんだ、いったい。

 無口を保つ長門の前をハンミョウのように歩きながら、俺はバスターミナルへと急ぎ足で向かった。

 

 その後の喫茶店での一幕は語るべきこともないいつもの情景だった。冬休み旅行の日程表を広げたハルヒが声高らかに何か言っていて、うなずきマシーンとなった古泉が無難な相づちをうちまくり、朝比奈さんは美味しそうにダージリンティーのカップにちびちび口をつけ、俺は憮然と、長門は黙々と意見を求められることのない聞き役に徹していただけだ。

 支払いを割り勘で終え、今日のSOS団課外活動はこれにて終了。自宅に戻った俺を待っていたのは、

「あ、キョンくん一、いいところに帰ってきたよ。電話ー」

 片手に電話子機、片手にシャミセンをぶらさげた妹の笑顔だった。俺は電話とシャミセンの両方を受け取って自室に引っ込んだ。

 予想していた通り、電話の主は中河だった。

 

『非常に言いにくいのだが……』

 病院の公衆電話からかけていると断った上で、中河は言葉通りに言いにくそうなニュアンスを声にこめながら、

『結婚の約束を解消したい、と彼女に伝えてもらえないだろうか』

 多重債務に苦しむ中小企業の社長が支払い日の延長を申し込んでいるような声だった。

「わけを言ってもらおうか」

 俺は機嫌の悪い債権者が無策な経営者に対面したような声で、

「一方的に二人の世界を夢描いておいて、たった一日で破棄するつもりか。お前の半年間は何だったんだ? 長門と間近で会った途端に心変わりかよ。説明の状況次第で俺のお前への対応も変わってくるぞ」

『すまない。俺にもよく解らないのだが……』

 本心からすまながっているように中河は言う。

『病院に駆けつけてくれたことはとても嬉しい。感謝したい。だが、その時俺は長門さんに以前の光やオーラを感じることができなかった。どこにでもいそうな普通の女の子に見えた。いや、どう見ても普通の女の子だった。いったいどういうわけなのか俺にも不思議だ』

 俺は長門の無常を思わせる顔を思い描いた。

『キョン、あれから考え続けていたんだが、何とか思いついた結論は一つだけだ。俺は長門さんに一目惚れしたのだと思っていた。しかし今ではそんな感情がどこにもないんだ。ということは、俺は手ひどく間違ってしまったんだとしか思えないんだ』

 どこで間違ったんだって?

『一目惚れ自体が間違いだった。冷静に考えたら見ただけで恋に落ちることがあるとも思えない。俺はずっと勘違いをしていたらしい』

 ほう。では中河、お前が長門に見たという後光やエンジェルズラダーや落雷の衝撃ってのは何だったんだ。見るだけで硬直しちまうっていう妙な現象は?

『解らん』

 中河は百年後の今日の天気を予想せよと言われた気象予報士のように、

『見当もつかない。今となれば、すべて気のせいだったとしか……』

「そうかい」

 ぶっきらぼうに言いながらも中河を責める気は毛頭なかった。実のところそんなに驚いてもいない。だいたい予測した通りに物事は進んでいたからだ。最初中河の妄言を聞かされたときから、俺はこうなるんじゃないかと思っていた。

「よく解ったよ、中河。長門にはそう伝えておく。あいつなら気を悪くしたりはしないさ。もともと乗り気じゃなかったみたいだからな。一瞬で忘れてくれる」

 溜息のような呼気を受話器が吐き出し、

『そうか。だと、ありがたい。くれぐれも申し訳ないと謝っておいてくれ。どうかしていたよ』

 きっとそうだろう。疑問の余地もないほど中河はどうかしていた。で、今は正常値に戻っている。誰かが状態回復系の呪文をかけてくれたのかもな。

 そこから俺と中河は適当な四方山話をとってつけたようにして、そろそろテレカの残高がなくなりそうだといったところで互いに別れを告げた。まあ、またどっかで会うこともあるだろう。

 電話を切った俺は、すぐさま別の番号にコールした。

「今すぐ会えるか?」

 電話に出た相手と落ち合う場所と時間を指定しながら、俺はすでにマフラーとコートを拾い上げていた。コートの上で寝そべっていたシャミセンがコロコロと絨毯を転がって俺に非難の目を向けた。

 昨日は厄日、そしてあっち行きこっち行きを繰り返して多忙を極めた本日もこれでようやく終わりそうだ。

 

 ママチャリを走らせて行った先は、変わり者のメッカとして俺にはお馴染みになっている、長門のマンション近くの駅前公園だった。五月初めに長門に呼び出されたのもここだし、朝比奈さんに連れて行かれた三年前の七夕で目覚めたのもここだ。つい先日にも俺は二度目の時間遡行で朝比奈さん(大)と並んで座った。思い出すね。ありし日の追憶ってやつをさ。

 入り口付近に自転車を止めて公園内に踏み込む。

 その思い出ベンチに腰掛けて待っていたのは、ダッフルコートをサンドピープルみたいに着込んだ人影だった。そこだけ外灯に照らされて闇から浮き上がっているかのように見える。

「長門」

 俺はまっすぐ見つめてくる小柄な仲間に声をかけた。

「急に呼び出してすまなかったが、中河の心変わりはさっきの電話で言ったとおりだ」

 長門は自然な挙動で立ち上がり、うつむき加減に呟いた。

「そう」

 俺は長門の黒目を見据える。

「そろそろタネ明かしといこうぜ」

 自転車をけっこうな速度で飛ばしてきたら身体は暖まっている。冬の夜空の下でも当分は気力のほうも保ちそうだった。

「中河がお前に一目惚れしたまでは俺も納得できる。そういうヤツも中にはいるだろうさ。だがな、今日になって突然あいつが心変わりしちまったってのはどうにも不自然だ。おまけに今日の試合……負傷して病院に運ばれた中河が、まるでそのせいだったみたいにお前への恋愛感情を無くしたのも偶然とは思えない」

「…………」

「何か細工しただろう。お前が試合中に何かしでかしたのは解ってる。中河のあのアクシデントを演出したのは、お前だ。違うか?」

「そう」

 あっさりと答え、長門は面を上げて俺に視線を向けた。そして

「彼はわたしを見ていたのではない」

 論文を読むような口調で、

「彼が見ていたのは、わたしではなく情報統合思念体」

 俺は黙って聞いている。長門は同じ声で続けた。

「彼はわたしという端末を通じて情報統合思念体とアクセスする超感覚能力を持っていた」

 吹きつける風で耳が痛くなってくる。

「彼には自分の見たものが理解できなかっただろう。有機生命に過ぎない人間と情報統合思念体では意識レベルが違いすぎる」

 ……後光が差しているのが見えた。まるで天国から地上に差し込む光のようだった----と中河は表現していた。

 長門は無感情に解決編を語り続ける。

「おそらく彼はそこに超越的な叡知と蓄積された知識を見たのだろう。読みとれた情報が端末を媒介した片鱗でしかなかったとしても、その情報圧は彼を圧倒させたと思われる」

 勘違い、か。俺は不揃いな長門の前髪を眺めながら嘆息した。中河が長門の内面だと感じたシロモノは、実は情報統合思念体の一端だったらしい。俺だって詳しくは知らないが、長門の親玉は人類とは比べものにならない歴史とか知識量とかへンテコな力を持っている。そんなもんにうっかりアクセスした日には、なるほど確かに茫然自失してもおかしくはない。ブラクラを踏んづけてパソコンがフリーズするようなものだ。

「中河はそれを恋だか愛だかと錯覚したんだな」

「そう」

「お前は……あいつのその感情を修正したんだ。アメフトの試合中だな」

 うなずきを返すザンバラなおかっぱ頭。

「彼が持っていた能力を解析し、消去した」

 と、長門は答え、

「情報統合思念体に接続するには個人の脳容量は少なすぎる。いずれ弊害が顕在化すると予想した」

 それは解る。長門を一瞬見かけただけで忘我していたという中河のリアクションもさることながら、半年以上経ってから十ヶ年計画を滔々と述べ出すようなイカレ具合だからな。放っておいたらどこまで暴走するか想像するのも恐ろしい。

 だが、解らないことだってまだあるぞ。

「どうして中河にそんな力があったんだ? お前を通じて情報統合思念体を見ちまうような、そんな特殊技能がもともと中河にあったのか?」

「彼がその能力を得たのは、おそらく三年前」

 やっぱりそこに戻るのか。長門や朝比奈さんや古泉がここにいる理由、その原因を作った三年前に起こった何か。いや、ハルヒが起こしたらしい何かが……。

 ここで俺は気づいた。

 超感覚能力と長門は言った。だとしたら……そうか。ひょっとしたら、中河は今の古泉のような超能力者候補だったのかもしれない。三年前の春頃、ハルヒは確かに何かをやりやがった。時空の断裂を発生させたり情報を爆発させたり超能力者を発生させたりという得体の知れん何かをだ。だとしたら中河が今の古泉のような立場にいてもおかしくはなかったのだ。古泉のいわくありそうな態度もこれで理解できる。すでに知っていたのか昨日今日で調べたのかはともかくとして、あいつは中河の持っている半端な能力に気づいていたに違いない。それで『妙な友達』なんてことを俺に言いやがったのだ。

「かもしれない」と長門。

 あるいは……、俺は肉体的なものだけではない寒気を感じた。何も三年前の一時期に限定することはない。もしかしたらハルヒは今でも継続して超自然的な影響力を他人に与え続けているのか? 秋に桜を咲かせたり神社の鳩をリョコウバトに変化させるような、そんな何かを。周囲の人間たちに。

「…………」

 ぼんやりと棒立ちしていた長門は答えず、それどころか話はすんだとばかりに歩き始めた。同じく突っ立ったままの俺の横をかすめて、成仏を決意した浮遊霊のように宵闇に溶け込もうとしている。

「待ってくれ。一つだけ訊いていいか?」

 その後ろ姿に言葉で形容できない何かを感じて俺は声を飛ばした。

 長門に一目惚れして恥ずかしい伝言を俺に託した中河。俺の知る限り長門にあそこまで直接的な愛の言葉を吐いたのは中河が最初のはずだ。昨日、部室で俺が読み上げたプロポーズの文句を聞いて、こいつはどう思っただろう。お前が好きだと熱烈な告白を受け、将来をともに過ごそうと言われ、そして結局は勘違いの賜物だったと解って何を感じただろうか。

 そんな疑問が俺の胸中を満たし、ついつい言葉となって唇からこぼれ出た。

「残念だったか?」

 最初の出会いから半年以上、共有する思い出がいくつもある。それはハルヒも朝比奈さんも古泉も同じだが、長門が絡んでいた事件は特に多くてほとんどすべてだったと言えるし、ついでに最も内面の振り子が大きく振れていると思えるのもこいつだった。ハルヒなら何かあっても自力で何とかする。朝比奈さんはあのままでいいし古泉はどうでもいい。だが----。

 言わずにいられなかった質問を俺は発する。

「告白が間違いだったと解って、少しは残念だと思わなかったか?」

「…………」

 長門は立ち止まり、かろうじて振り向いたと形容できる程度に首を横向けた。不意をつくように舞った風が、さらりとした長門の髪を散らして横顔を隠す。

 冷え切った夜の風は俺の耳を切るように吹いている。しばらく待っていると、静かで小さな言葉が風に乗って届けられた。

 「……少しだけ」

 

猫はどこに行った?

 

 一年の最終時点に向けてひたすら漸近していた冬休みの中盤、本来なら俺たちは古泉とその一味が協力して編み出した推理ゲームを楽しむことになっていたのだが、鶴屋さんの別荘についたその日に例の白昼夢みたいな謎屋敷にさまよい込むことになってしまい、おまけに長門がスキー場で倒れるというハルヒ大騒ぎな事態まで引き起こしてしまった。

 幸い、通常空間に復帰した長門はすぐさま状態を回復したが、ともあれバタバタしてたのが大晦日イブで、カレンダー的には十二月三十日だ。

 明けて次の日、つまり大晦日。

 予定通り、かねてからの計画が実行される運びとなった。夏休みに孤島に行った際、古泉がやらんでもいいのにやりやがったサプライズイベント、着地に失敗した推理ゲームのウインターバージョンである。前回と違うのは最初からゲームであることがバレバレになっている点だが、この合宿旅行のメインイベントは実はこれだったのだ。雪山での遭難とか、幻の館とか、偽者丸出しの朝比奈さんとか、オイラーさんのナントカ定理とか、熱出して昏倒する長門なんてのは誰の予定にもなく誰も望んでいないインシデントだった。実際にハルヒ的にはなかったことになっているのでアレを仕組んだ何か解らん野郎には一言ザマミロと言ってやりたい。長門だけではダメだとしても、そこに俺と古泉----朝比奈さん(小)は微妙だが----あたりが加わればなんとかなるんだ。それに今俺たちがいる別荘には、なんだかタダ者ではなさそうな鶴屋さんと古泉の組織仲間までいる。これでなんともならないほうが不自然だぜ。

 てなわけで。

 ようやくSOS団的な、というかハルヒ的な行事が事前の準備に従って始まろうとしている。

 一年の終わりが果たしてこれでいいのかという疑問はぬぐい去れないものの、そんな疑問を感じているのも俺だけらしいので少数派はむなしく口を閉ざすのみさ。

 ちょいと確認しておくと、今回の登場人物は俺、ハルヒ、長門、朝比奈さん、古泉、鶴屋さん、妹、三毛猫シャミセン、森さん、新川さん、そして今日になってから来るはずの多丸圭一さんと裕さん兄弟だ。

 ハルヒ言うところの古泉主催ミステリツアー第二弾が始まろうとしていた。

 

 大晦日の朝。森さんと荒川さんが作ってくれた朝食をたいらげた後、俺たちは鶴屋家別荘の一階に集合した。そこは吹き抜けになっている共有スペースである。まるで能か狂言をするために設えられた檜舞台じみた二十畳くらいのフローリングに、八人くらいは余裕で着ける大きな掘りゴタツが設置されている。ようは泊まり客が自由に集まってわいわいするための空間だ。当然床暖房付きで、壁の一角にある静音性にすぐれたファンヒーターも温風を吐き出してくれているから、共有スペースと通路を遮るようなものが何もなくとも暖かい。

 窓から見えるスキー場上空はエアブラシで青インクを吹き付けたアクリル板のような快晴を誇っていたが、本日のスノースポーツは一切が禁止されていた。

「有希がまだちょっと心配だから、今日は家ん中で遊んでることにする」

 という禁スキー令がハルヒの口から発布されたからである。もっとも長門本人はすでに普通に無表情な顔をして、看病のごり押しをしようとするハルヒに「なんともない」と言うことすらあったのだが、一度決定された団長の決意は翻ったりしない。

「いいから! 最低でも今日は外でちゃだめよ。あたしが完治を見極めるまで、激しい運動と精神が高ぶるようなこともしてはいけないからね。いい?」

 長門はハルヒのむやみにデカい目をじっと覗き込んでから、勢揃いしている俺たちにも視線を向けた。自分はかまわないがあなたたちはどうなのか、と問いかけているように見えたのは俺だけではないようで、

「長門さんを一人で残して出てしまうのも気がかりです。僕は賛成ですよ。一人を救うために全員が命運をともにする……、なかなか美しい話ではないですか」

 古泉が爽やかに言って、正団員でないはずの鶴屋さんと妹も快く受け入れた。妹の両手にぶら下がっているシャミセンの意見は不明だが、何も言わなかったところを見ると文句だけはないらしい。

「予定を繰り上げましょう」と古泉は窓に視線を走らせて、「本当は夜に始めて午前〇時前に終了する予定でしたが、もっと早めてもいいですね」

 今すぐ始めるわけにはいかんのか。うずうずしているハルヒの目の輝きに俺の視神経細胞がやられる前にさ。

「実は雪が降り出してからでないと少々都合が悪いのです。予報では昼以降に雪となっていますから、それまでお待ちください」

 猫が要ると聞いていたから俺はくそ重いシャミセンを持ってきたんだが、雪が降らないと困るってのはどういうことだ。雪ならそこら中に積もりまくっているだろうが。

「降り続いている状況が必要なのです。いえ、これ以上はまだ言えません。いわゆるトリックに関わってくるものですから」

 そう言って古泉は妹の腕で大人しくしている三毛猫を見て微笑み、ヒーターの横に置いていたリュックサックを持ってきて、

「こんなこともあろうかと、各種ゲームを用意しておきました。丸一日は室内で遊び続けることができますよ」

 少しは期待していたのだが、次々と現れたのはアナログなボードゲームだった。ひょっとして、古泉は電子機器が嫌いなのか?

 俺たちは遊んでりゃいいとして、気になるのは森さんと新川さんである。昨日から完全な執事兼料理長として別荘内のすべてを取り仕切る新川さんに、かいがいしく奉仕してくれるメイドの森園生さんだったが、その正体は古泉の所属する謎のハルヒ監視組織『機関』とやらの一味である。

 昨晩、二人のあまりの使用人ぶりに、少しは料理やら片づけやらを手伝ったほうがいいかと気にしてみたところ、

「いえ、結構でございます」

 丁寧に拒否する二人組だった。

「これが私どもの仕事でございますれば」

 あれ? この人たち、本当の執事とメイドさんだったっけ? そのフリをしている古泉の組織仲間が本職であってたよな。

 俺の疑念を感じたのか、新川さんは営業用の仮面を取り外した笑顔を作り、

「職業訓練のたまものでございます」

 と、俺に言い、そんなわけで共有スペースにはお二人の姿はない。今も厨房でいそがしく働いておられるだろう。

 さらなる正体不明の残りの二人、バイオか何かで一山当てて孤島を買い取るくらいの多丸圭一さんとその弟の裕さんが登場したのは、ハルヒがボードゲームで人生の頂点を極め、億万長者となって俺たちを債務まみれにした後、昼食が終わって腹ごなしにバツゲームを賭けた神経衰弱大会をしていた午後二時頃だった。

 

 俺たちのいる共有スペースに、出迎えに行ってた新川さんに案内されて彼らはひょっこりと顔を見せた。

「雪のせいで列車のダイヤが遅れていてね、朝には来るはずだったんだが」

 どう見ても普通のオッサン、多丸圭一さんは夏と変わらぬ人のよさそうな笑顔だった。

「やあ、皆さんお久しぶり」

 こちらは見るからに好青年な多丸裕さんが、古泉を上回りそうな快活な笑みで手を振り、次に鶴屋さんに、

「はじめまして多丸です。ご招待ありがとう。鶴屋家の別荘に招かれるとは光栄だな」

「いいって、いいってー」

 鶴屋さんはかるーく言った。

「古泉くんの知り合いで、余興してくれるってんだから全然いいよっ。あたしはそんなんが大好きだ!」

 どんな相手でも初対面から十五秒で仲良くなってしまえる鶴屋さんである。おそらく朝比奈さんのクラスでもこんな感じなのだろうな。その二年のクラスにいる男子がうらやましくなってくるじゃないか。

 すかさず、森さんと新川さんが多丸兄弟に頭を下げた。

「ようこそ、いらっしゃいました」

「まさか冬にも世話になるとはね」と圭一さんが苦笑い。「よろしく頼む、新川」

「昼食はいかがなさいますか」

 森さんが薄い微笑みで問いかけ、裕さんが答えた。

「電車の中で食べたからいいよ。まずは部屋に荷物を置いてきたいね」

「かしこまりました。荷物は私がお運びしましょう」

 新川さんが丁寧にうなずき、ふと古泉に目配せした。

「では皆さん」

 立ち上がった古泉は、結婚式の司会者のように、

「宴もたけなわですが、これよりゲームを始めたいと思います。多丸さんたちは着いたばかりで申しわけありませんが」

 古泉にしてはやや笑みが固かった。うまくやる自信がないのか、それともよほどマヌケなオチが待っているかだな。

「あらかじめお断りしておきますが、殺されるのは圭一さんだけです。連続殺人に発展する予定はありません。そして犯人も一人です。複数犯の可能性はないと考えてください。動機は考慮しないでいいでしょう。意味がありませんから。もう一つ、今から----」と壁掛け時計を指差し、「----つまり午後二時から三時までの間、新川さんと森さん以外の方々はこの共有スペースから動かないでください。裕さんもこの場にいてください。所用がありましたら今のうちにお願いします。皆さん、いいでしょうか」

 全員がうなずいた。

「二時ジャストまで、あと七分ありますがよろしいですね。それでは始めます」

 古泉がうなずきかけたのは、多丸圭一さんへであった。

「では」

 夏に続いての死人役、全員の注目を浴びた圭一さんは、照れくさそうに頭をかきながら立ち上がって、まるで俺たちに言い聞かせるように言った。

「私の部屋は母屋の外にある小さな離れなんだったね」

「はい。ご案内します」と森さん。

「しばらく仮眠をとらせてもらうよ。実は朝がけっこう早くてね、やや睡眠不足なんだ。風邪気味かな、鼻の調子もあまりよくない」

「そういえば、圭一さんは猫アレルギーでしたね。そのせいではないでしょうか」

 いくら芝居だと言え芝居じみすぎているな。

「かもしれないね。ああ、気にしなくてもいい。そんなに重度のものではないんだ。狭い部屋で一緒にこもっていたら辛いだろうが、こういう広い空間ならまずまず平気だ」

 さらに念を押すように、

「そうだな、四時半頃に起こしに来てくれないか。いいかい、四時半だよ」

「かしこまりました」

 森さんはペこりと頭を下げ、次いで背筋を綺麗に伸ばした歩き方で、

「どうぞ、こちらに」

 森さんの背を追うように、やたら説明くさいセリフを述べ終えた圭一さんは廊下の奥へと消えた。妙に白々しい空気が共有スペースにたなびいている。

「私も、これで。裕さんのお荷物は私が」

 新川執事氏が腰を直角に折り曲げるようなお辞儀をし、鞄と上着を手に速やかに去っていく。

 三人を見届けてから、古泉はまじめくきった咳払いを一つして、

「というわけで序盤はこれで終わりです。三時までこのフロアスペースにて自由にお楽しみください」

「ちょっと待って」

 異議申し立てをしたのはハルヒである。

「離れって何? そんなのあった?」

「あるよ」と鶴屋さんが、「この母屋とは別にね、ちっさい建てもんがあるんだっ。あれ、見てなかったっけ?」

「見てないわ。古泉くん、手がかりを隠しておくのはダメよ。ちゃんと教えてくれてないとさ。みんなで見に行きましょうよ」

「どうせ後で見ることになるのですが……」

 早くも予定が崩れかけ、古泉は微笑みも弱くなる。しかし時計を見つめてすぐに修正可能と踏んだようで、

「解りました。このくらいなら問題ありません」

「こっちさ!」

 鶴屋さんが先頭を切って歩き出した。当然、ぞろぞろとみんなでついていく。シャミセンを抱えた妹まで来た。この一人と一匹が推理の役に立つとは思えないが。

 共有スペースから出ると、そこには中庭に面した通路が待っている。外側の壁は透明ガラスがはめこみになっているせいで、庭の様子がよく見えた。

 いつの間にか雪が降っている。

 積雪の具合は膝が埋まるぐらいだろう。どこか日本庭園を思わせる気配を感じさせるが、雪に埋もれているおかげで全面真っ白だ。その白い風景の中に、小さな庵みたいな建物がポツンとある。

 一分ほど歩いたか、鶴屋さんは庭に出るドアを開いて指差した。

「あれが離れ小部屋。昔はウチの爺さんが瞑想すんのに使ってたやつさ。人嫌いな爺さんでねっ、母屋の喧噪から逃れるためとかいっちゃって、ここ来るたびにこもってたよ! だったら来なきゃいいのにさ、でも誘わないとむくれるし、困った爺さんだったな」

 どこか懐かしく言う鶴屋さんだった。

 俺は何一つ見逃すまいと観察する。母屋のこのドアから庭の離れまで、渡り廊下が伸びていた。ただし壁などはない吹きさらしで、あるのは屋根だけだ。そのため母屋から離れに至る石畳の上は雪の侵略から守られていた。それも静かに雪の降っている今日のような天候なればこそだろう。猛吹雪ならこうもいくまい。

 開け放たれたドアから忍び込む氷点下の大気が室内着の俺たちを凍えさせた。特にシャミセンが機嫌を損ね、ぬくい寝床に戻ろうとジタバタしている。妹はそんなシャミセンを面白がり、止める間もなくスリッパのまま渡り廊下に出ると、抱えたシャミセンを積もっている雪に近づけた。

「ほら、シャミー、雪だよー。食べる?」

 釣り上げられたカツオのように暴れたシャミセンは、妹の腕からジャンプすると、

「うにゃあら」と呻いて不機嫌な胸の内を主張し、ダッシュで母屋の奥へ姿を消した。床暖房の上で長く伸びに戻ったのだろう。

「あら」

 圭一さんの案内を終えた森さんが、ちょうど石畳の上を体重がないような足つきで戻ってきた。年齢不明な美貌の微笑みが、

「どうかなさいましたか。圭一様なら、あの部屋におられますが」

「それは確か?」とハルヒ。すでに疑っている顔をしている。

「確かです」古泉が答えた。「そういうシナリオですから」

 

 俺たちが共有スペースに舞い戻ったとき、時計の針は午後二時ちょうどを指していて、古泉はどこか安堵したように息をつく。

「もう一度言っておきます。皆さんは三時になるまでここから移動しないようにしてください。どうしてもというかたは僕までよろしく」

 古泉は隅に置いていたリュックに近寄ると、またしても中から荷物を出してきた。他に出すつもりがあるなら今のウチに出しておけ。

「ん」

 ふと気になった。シャミセンの姿が見えない。古泉が荷物を置いている角、ヒーターの近くだが、その吹き出し口前に置かれている座布団がここ最近の猫の指定席で、とっくにそこでふて寝しているかと思っていたのに。しかしそんな疑問は、

「その間、これでお楽しみください。涼宮さん、よろしいですか?」

 という古泉のセリフによってかき消された。

「そうね」とハルヒはなぜか自慢げに、「ちょっと早いかもしれないけど、どうせだからやっちゃってもいいわね。貸して、古泉くん」

 手渡された紙袋から、ハルヒは妙なものを取り出した。どうやら絵が描いてあるものが数枚ほど、プラス同数の封筒だ。その中身と掘りゴタツの上に広げられたブツを見て、俺は何とも言えない郷愁を感じ始めた。

「福笑いよ」とハルヒ。「子供の頃にやったでしょ? 本当は明日する予定だったけど、時間がもったいないし今しましょ。それにこれはただの福笑いじゃないのよ」

 見たら解る。顔の輪郭と言い髪形と言い、それはどう見ても俺たちの顔をかたどった似顔絵だった。目や鼻などのパーツがなくても解るくらい良く描けていた。ハルヒが得意そうな理由がわかったよ。

「あたしが作ったんだからね。手作りよ、手作り。鶴屋さんの分もあるわ。来ると解ってたらあんたの妹さんのぶんも作ってたんだけど、あ、裕さんも、ゴメン。顔よく覚えてなかったのよね」

「いや、いいよ」と裕さんはごく自然に、「ないほうがいいような気がするんでね」

「かもね」

 ハルヒはにやりとして俺たち団員を見回した。

「いい? 自分の顔で福笑いやってもらうわ。やり直しはなしよ。それで、完成した顔は糊付けして部室の壁に掲示することになるから真剣にやんなさいよ。でないと、永遠に変な顔が部室に伝え続けられることになるんだからね」

 なんちゅうこと考えやがる。感心してやるべき達者なハルヒの絵心により、福笑いの似顔絵は各自の特徴をよく捉えていた。普通に目鼻を並べたら確かにデフォルメされた俺たちの顔が浮かび上がる。それだけに、ちょっと真剣にやらざるをえんな。

 しかしこいつ、いつの間にこんなもんを作ったんだ。

「まず、誰からする?」

 ハルヒの問いに、鶴屋さんだけが勢いよく手を挙げた。

 

 タダ者でなさそうな鶴屋さんも透視能力はなかった。タオルで目隠しされた彼女は実に見事に笑える自画像を作り上げて、全員の爆笑を誘い、完成品を見て自分でも死ぬほど笑い転げた。笑い袋でもここまで笑わんだろうね。

 二番手は古泉、如才のないハンサムフェイスもこうなりゃ形無しだ。目隠しを取った古泉は自分の作品を見て情けなさそうな顔をしたが、次に俺の番が待っているとあってはおちおち笑ってもいられない。

 なんという緊張感に満ちた福笑いだろうか。俺が気構えを整えていると、

「ちょっと失礼します」古泉が俺に囁きかけてきた。「新川さんたちと明日以降の打ち合わせ等がありますので席を外します」

 そのままささっと共有スペースから出て行く。何の打ち合わせだか知らんが、今はそれどころではない。俺の部室に飾られる似顔絵がどうなるかは、今からの俺の空間把握能力によって決定されるのだ。

 

 俺の福笑いは大笑いな結果に終わった。まあいい。ここで無難なものを作って空気がしらけるほうが無粋ってやつだ。鶴屋さん、ちょっとあなた笑いすぎですが。

 俺がタオルを持ってハルヒと鶴屋さんのゲラ笑いを憮然として聞いていると、古泉が戻ってくるのが見えた。反射的に時計へと視線が飛ぶ。

 午後二時半を少し回ったところだ。

「失礼しました」

 何のつもりか、古泉はどこかに行っていたシャミセンを抱いて戻ってきた。何に利用した?

「いえ、キッチンで森さんにまとわりついていたものですから」

 そのまま古泉は三毛猫をヒーター前の座布団に置き、猫は温風を浴びて丸くなる。満腹状態にさせて曖かいところに置くのが猫をおとなしくさせる一番の対策だ。

「どうなりました?」

 古泉は俺の横に座って掘りゴタツ上の有様を一瞥する。鶴屋さんと古泉、俺の似顔絵が妹の手によって糊付けの憂き目に遭っていた。こんなもんを飾るくらいなら他に飾るものがあるだろうが。朝比奈さんのコスプレ等身大写真とかさ。

 さらに時間は進み、福笑いは朝比奈さん、長門と続いた。何をしても可愛らしい朝比奈さんはビクビクした手でパーツを手探りし、結果、笑えるものの可愛らしい似顔絵を作り上げ、そして長門は意外にも最もシュールな福笑いを完成させて鶴屋さんをひっくり返らせた。もちろん長門は何が受けているのかさっぱり解らないような顔をして、じっと自分の愉快な顔を覗き込んでいる。

 そうこうしているうちに、

「皆さん、もうすぐ三時です」

 古泉は唐突に言う。

「ここでいったん休憩時間を挟みたいと思います。三時から四時まで、またここに居てもらう必要がありますから、トイレ等所用があったら今のウチにお願いします」

 俺と長門と裕さん、そして古泉以外の全員がフロアから姿を消した。長門は自分の福笑いをためつすがめつし、裕さんは面白そうにそんな長門の横顔を見ている。

 俺は古泉に向かう。

「事件はいつ起こるんだ?」

「それより窓の外を見てもらえますか」古泉は外を指し、「雪が降っているのが見えるでしょう? それを覚えておいてください。まあ降ってなくとも降っていたという設定にすればいいのですが、割と好都合ですので」

 俺が古泉の緩んだ笑みを眺めていると、女性陣四人が戻ってきた。この中で一番犯人臭いのはどう考えても裕さんだ。他に役がないからな。今んとこ怪しい素振りは見せてないが。

 ハルヒが掘りゴタツに足を突っ込みながら、

「古泉くん、次はあれやりましょうよ。出してきてくれる?」

「解りました。あれですね」

 またしてもリュックに移動する古泉だった。今度は手作りの何が出てくるのかと、俺も後についていく。ごそごそやっている古泉の手元を後ろから覗き込むと、古泉は素早く俺を見上げ、手品師の手腕でまたしても大判の紙を取り出した。

「どうぞ、涼宮さんに渡してください」

 ヒーターの風を受けてはためくそれは、折りたたんだデカい紙である。広げようとして俺はふと違和を覚えた。このカサ張る紙にではない。俺の目の前にはリュックに手をかけた古泉がいて、すぐ横にヒーターがある。ついでに満ち足りた様子で眠るシャミセンの背中が座布団の上にある。

 別におかしくはないが、どこかが妙だ。何より、俺が近づいたとき、古泉は少し慌てたような顔をしなかったか? 

「キョン、早く持ってきてよ! 何してんのよ」

 不承不承、俺は謎の紙を持ってコタツに戻り、遅れて古泉もやってくる。

 時計は午後三時ちょうどを指している。

 

「あたしと古泉くんで作ったのよ」

 ハルヒの得意は絶頂に達しているようだ。そんな顔をしている。

「SOS団用のスゴロクよ。一マス一マス手書きしたんだから、ありがたくプレイしなさい」

 ちなみに最初の一振りで俺のコマが止まったマス目にはこんなことが書いてあった。

『キョンに限り腕立て三十回』

 他にも、『次に止まった人と野球拳をすること』とか、『団長を気分良くさせる言葉を五種類以上言う』とか、『全員の質問に正直に答える(みんなはなるべく恥ずかしい質問をすること)』などの、すべてのコマがバツゲームみたいなハルヒ特製スゴロクである。

 すったもんだが発生するのも当然と言える。野球拳のマスには朝比奈さんと裕さんが止まったが、野球拳の意味を知らないらしくキョトンとしている朝比奈さんにさせるわけにもいかず、しょうがないので代わりに俺がやった。他にも俺の疲れる仕組みになっているとしか思えないマス目のオンパレードで、開始から一時間後に鶴屋さんが最初にゴールした時点でもうフラフラだ。

 見かねたわけではないだろうが、古泉が待ってましたとばかりに声と手をあげた。

「みなさん、今ちょうど午後四時になりました」

 生番組のタイムキーパー並みに時間を気にする古泉は、

「ここからは自由時間です。ただし四時三十分前にはここに集合するようにしてください。それと、できれば外出はご遠慮願います。むろん、犯人以外の人はという意味ですけどね」

「では、ちょっと失礼するよ」

 多丸裕さんが意味ありげに微笑んで席を立った。

「部屋で荷物を片づけてくる。いや、五分ほどで戻るよ」

 そう言った裕さんがフロアから消えた後、「キッチンに行く」と言ってハルヒと鶴屋さんも出て行き、数分後に二人して茶菓子とジュースを抱えて戻ってきた。それ以外に掘りゴタツから動くものはいない。誰だって犯人にされるのはイヤだからな。冤罪となればなおさらだ。

 ちなみに裕さんが本当に五分で帰ってきたことも申し添えておく。

 

 午後四時半過ぎだった。

 森さんが共有フロアにやってきて、こう告げたのである。

「圭一様が起きてこられません」

 不安げな顔を演技しながら、

「離れの部屋まで行ったのですが、応答もなく、扉には鍵がかけられています」

「待ってたわ」

 ハルヒは颯爽と立ち上がり、

「まずは現場がどうなってんのか見とかないとね」

 古泉がツアーコンダクターよろしく、先頭に立って通路を行く。ついていく俺たち。

 中庭に出る扉を開くと、人数分の外履きがすでに用意されていた。つっかけて離れに向かう渡り廊下を歩くと、離れのドアの前で新川さんが待っていた。

「状況は?」とハルヒ。

「森が申したであろう、その通りでございます。扉は内側から施錠され、鍵は圭一様とともに室内にございます。ちなみに合い鍵はない、ということになっております」

「そういうことです」と古泉が注釈、

「ですが、扉をぶち破る必要はありません。合い鍵がないものとして考えてくれるだけでいいんですよ。新川さん、鍵を」

 新川執事が掌を差し出すと、まさしく鍵が載っている。

「これは本来はない鍵です。そういうことにしておいてください」

 古泉が扉を開き、まっ先にハルヒが踏み込んだ。

「やあ」

 と、手を挙げたのは圭一さんだ。敷かれた布団の横に伸びていた多丸兄は、胸元を指差しながら、

「また刺されてしまったよ」

 胸にナイフの柄が突き立っている。いつかも見た、刃のないトリック用小道具だ。

「誰に刺されたの?」とハルヒ。

「それは言えない。何せ死体だからね。死者は語る口を持たない」

 と、圭一さんはパタリと手を畳に置いた。

「いいでしょうか」と古泉がまたしても、「よく室内をご覧ください。部屋の鍵はここ、机の上に置いてあります。もちろんこれは最初から圭一さんが持っていたものです。ということは犯人は扉から出たのではありません」

 そして縁側に面した窓に近づき、

「こちらは閉まってはあるものの、鍵自体はかかっていません。つまり犯人の脱出口はここです。そして、外には雪が積もっています」

 古泉は実際に窓を開け、俺たちは庭へと首を突き出した。

「犯人の逃走経路を説明します。扉から出たのではない以上、犯人はここから出たということで間違いありません。しかし雪の上を歩けば当然足跡が付きますが、見た感じありませんね。窓の上を見てください。この離れは四方に庇が突き出ていまして、その真下は雪も薄く積もっているだけです。その雪の上、離れの壁に沿って歩いて犯人は渡り廊下に戻りました」

 俺は古泉が指差す地面を見つめ、次に空を見上げた。雪がしずしずと降っている。

「犯人の足跡は降り続ける雪が隠したのです。この降り方では……そうですね、三十分では足りないと言っておきましょう」

 古泉は全員の理解を確認するように、

「そういう設定です。ご了承ください。死体役は何も言えませんが、マスターの僕は少なくとも嘘は言えません」

「ふうん」

 ハルヒは雪と古泉を見比べていたが、顔を引っ込めて腕組みした。

「それだけ?」

 答えず、古泉は布団を指差した。ぽこんとした膨らみが掛け布団にあり、見ているとモゾモゾ動きだした。まさか……

 布団を引っぺがしたのはハルヒだった。

 そして、出てきたそいつに向かって、

「シャミセン?」

 突然の光を浴びて目を細くしたのは、俺ん家の飼い猫で間違いなかった。

 

 再び俺たちは掘りコタツにいる。

 森さんと新川さんは後ろで不動に立っていて、死体役を終えた圭一さんだけお役ご免、今頃ダイニングでホットコーヒーをくゆらせているはずだ。

「整理してみましょう。圭一さんが部屋に引っ込んだのが二時ジャストのことです。死体となって発見されたのがつい先ほど、四時三十分ですね。この二時間半の間に犯行がおこなわれたことは間違いありません。部屋の扉は内側からロックされ、鍵は室内にありました。繰り返しますが合い鍵はないものとしてお考えください。縁側の窓の鍵は開いていましたから、犯人はそこから部屋を出たと思われます」

 古泉の状況説明である。

「窓から出て足跡を残さず、渡り廊下に達することは不可能です。足跡がないということは、ついていたはずの足跡は降っていた雪によって埋もれたとみてかまいません」

 古泉は妹の抱いている三毛猫を見て、

「さらに、現場には死体の他にシャミセン氏もおられました。さて、思い出しましょう。こうして発見される以前、猫の姿を最後に見た時刻はいつだったでしょうか?」

 俺が見たのはトイレ休憩が告げられた直後だ。古泉がリュックからハルヒ手製のバツゲームスゴロクを出したとき、その横で丸くなって眠っていた。

「へえ? そうなの?」

 ハルヒは額を指で突っつきながら、

「そういやあたし、この三時間くらいシャミセンを見た覚えが全然ないわ。ここにいたっけ?」

「いたような気がしますけど……」朝比奈さんは控えめに、「ええと、福笑いの最中に何度か見かけましたよ。お座布団の上で寝てました」

「あたしもそれが最後だね!」と鶴屋さん。「お手洗いに立つときにさ、猫にゃんがそこで丸うなってんのを見たよっ。スゴロクんときにはいなかったと思うな!」

 どうやら目撃証言を検討してみるに、俺が見たのが最後の姿のようだ。てことは、シャミセンには三時から四時半までのアリバイがない。

 俺たちがスゴロクに興じているうちに目を覚まして、ノソノソとどこかに行ったというわけか。そいでもって圭一さんの部屋に上がり込み、布団の中で居眠りしていた……と。

 ん? そんなはずないな。

「こいつが自分から離れまで行くとは考えられん」と俺は主張した。「外に出しただけで暴れるような寒がりだぞ。雪を見てビクついてたりもしたし、だいたい母屋から外に出るドアを自分で開けたとは思えねえな」

「そうでしょうね」

 古泉は軽やかに首肯し、

「誰かに連れて行かれたと思うのが普通です。圭一さんか、犯人かに」

「圭一さんなわけないよね」

 ハルヒが首を伸ばして、

「猫アレルギーとかって言ってたの、あからさますぎるけど、あれ伏線よね。まるで取って付けたような」

「もちろんこの推理劇上の設定です。そうしておかないとちょっと困るものでね。つまり、猫を部屋に持っていったのはあくまで犯人でないとダメなんです。これはヒントでもありますね」

 古泉のセリフに、ハルヒが手を挙げた。

「ちょっと待って。じゃあこういうこと? シャミセンは三時までここにいて、その後の行方は不明。犯人が離れを出たのは最低でも四時半以前だけど、足跡が雪で隠れるのにかかった三十分を考慮して四時以前でいいわ。そいで犯人がシャミセンを連れて行ったということは、ようするに圭一さんが殺されたのは三時から四時、その一時間の間のどこかってことよね」

 そうなるな、確かに。

「確かに、じゃないわよ。おかしいわ。四時以降にここを出て行ったのはあたしと鶴屋さんと裕さんだけだもん。でもあたしと鶴屋さんは一緒にいたから犯人じゃないし、怪しいのは裕さんだけど、雪が足跡を隠すのに三十分以上かかるんだったら裕さんにも無理」

 そうなるな。

「そうなるな、じゃないでしょ。それだとここにいたあたしたち全員のアリバイが立証されちゃうのよ。その一時間、あたしたちはずっとここに揃っていたわよね」

 三時から始まったスゴロクの参加者は、俺、ハルヒ、朝比奈さん、長門、古泉、妹、鶴屋さん、多丸裕さん、の八人だ。三時前の休憩から自由行動開始の四時まで、誰一人この場を離れた人間はいない。知らんうちに消えていたのは猫だけだ。

「まさか、新川さんか森さんが犯人なの?」

 ただちに使用人役二人への事情聴取がおこなわれることになった。ハルヒはすっかり刑事口調で、

「では新川さん、あなたの三時以降のアリバイを教えてちょうだい」

 新川執事氏は慇懃に一礼して、

「私は二時過ぎからキッチンにおりました。昼食の片付けおよび、今晩のディナーと夜食の準備と明日の朝食の仕込みのためでございます」

「それを証明してくれる人がいる?」

「わたしでよろしければ」メイド衣装の森さんが清らかな微笑みを浮かべつつ、「調理の手伝いをするために、わたしがずっとついていました。四時半にわたしが圭一さんを起こしに行くまで、新川の姿を見失ったことはありません」

「私も同様に」と新川さん。「少なくとも三時から四時半の間、森がキッチンから出て行くことはなかったと確信をもって証言するしだいでございます」

「ようは互いが証人ってわけね」

 ハルヒはうんうんと首を動かしながら、

「でも、二人が共犯なんだとしたらアヤシイことこの上なしね。あるいはどっちかがどっちかをかばって偽証してる可能性もあるんじゃない?」

 ハルヒの輝く目が解説を求めるように古泉に向けられた。

「それはありません。犯人はあくまで単独犯という前提ですし、新川さんと森さんは決して嘘の証言をしない設定です。ついでに言ってしまいましょう、このお二人は犯人ではありません。ゲームマスターの僕が保証するのだから間違いありませんよ」と古泉。

「じゃ、誰だっていうの?」 ハルヒは嬉しそうだ。「全員のアリバイが完璧なんだもん、誰にも圭一さんを殺せなかったことになるわ」

 古泉も少し嬉しそうだった。ハルヒはこいつの突っ込んで欲しいポイントを的確に突いたらしい。微笑みを振りまいて、

「ですから、それを解き明かしてもらおうというのです。でないとゲームになりませんからね」

 

「まず考えないといけないのは、どうしてシャミセンが必要だったのかってとこね」

 勝手に司会進行役を買って出たハルヒが、妹の腕の中でうつらうつらしている三毛猫の鼻先をつっついた。

「だって意味ないもん。猫の手を借りてまで犯人はいったい何がしたかったのかしら」

 こいつが喋り出しでもしたら格好の証人になるんだけどな。なにしろ目撃者だ。

「そうね、あたしが思うに犯人はシャミセンがそこにいないと都合の悪いことがあったんだわ」

 そんくらいは俺だって解ってる。だからその悪い都合とは何かを考えているわけだ。

「猫、猫……うーん」朝比奈さんが可愛く呟きながら顎に手を当てている。「ねこ。三毛猫。みけ。ううん、猫さん、猫ご飯」

 あまり有益なことは考えていないらしい。

 何となくすべてにおいて鋭そうな気のする鶴屋さんは、お菓子屋のマスコットみたいに舌を出して目を斜め上に向けていた。それが考えるときのポーズなのか、ちょっと面白い顔のまま腕組みをして黙っている。

 黙っていると言えば長門である。現在この時点に限って言えば、こいつには黙っていてもらったほうがきっといい。俺もまた確信をもって証言するしだいであるが、長門は古泉が考え出したようなカラクリなど最初から見抜いているに違いない。全員がギブアップした最終段階で厳かに真相を告げる役を振ってやろう。

「シャミセンのアリバイがネックなのよね。いっそ最初から姿を見せなかったとかならよかったのに……。密室トリックなの? 雪を利用した時間限定の密室……うん?」

 ぶつぶつ言っていたハルヒが急に顔を上げた。古泉の微笑を見つめ、裕さんの余裕の表情を眺め、次にシャミセンの眠そうな顔を見つめる。

「時間限定……。アリバイ……。あっ、そうか」

 ハルヒは不意をついて俺に向かい、

「キョン、アリバイと言えば何?」

「刑事ドラマ」と即答してから俺は反省し、「えー……。二時間サスペンス」と口走ってさらに猛省し、次なる言葉を思考の果てに求めようとして時間を無駄に過ごした。

「トリックよ!」

 ハルヒが自分で答えた。

「アリバイトリックに決まっているじゃないの。シャミセンはトリックに使われたんだわ」

 どんなトリックだ。

「少しは考えなさいよ。いい? シャミセンのアリバイがあやふやなのはいつ?」

 三時過ぎから四時半までだ。俺が見たのを最後に共有スペースから殺人現場にテレポートしていた。

「その時間帯はもういいわ。それよりもっと前のことを思い出しなさいよ」

 三時以前か? この別荘内を適当にうろうろしてたんじゃないだろうか。いや、違うな。

「古泉、お前があいつを抱いて来たのは、あれは何時だった?」

 ハンサムフェイスの無料スマイルが、若干鋭角になったように思えた。

「二時半を少し回ったあたりでしたかね」

「どっから連れてきた」

「キッチンです」

 古泉は森さんに微笑みかけた。

「そうでしたね?」

「はい」

 森さんも微笑んでシャミセンを見た。

「後かたづけをしていたところ、こちらの猫さんが足もとにじゃれついて来たのです。誘惑に負けて残り物を差し上げたのですが、ますます離れがたく思われたようで……。そこに通りがかった古泉さまが、猫さんを連れて行ってくれました」

 明日以降の打ち合わせ、と言って古泉が中座したことを思い出した。

「それは二時半でした?」

 そう訊いた俺に、質素な衣装のメイドさんは思わずたじろぎそうになるほどの艶やかな笑みを何故か向けた。

「ええ……、そうですね。時計を確認したわけではないので正確な時刻までは解りませんが、二時半ほどであったと思います」

「シャミセンはいつからいました?」

「二時頃、離れからわたしが戻ったとき、キッチンで毛繕いをしておられました」

 なるほど、そこは合っているというわけか。妹の手を飛び出して別荘内を闊歩していた我が家の三毛猫は、キッチンで森さんから食べ物をもらい、二時半くらいに古泉によってここに運ばれて、ヒーターの前の座布団で惰眠を開始したということになる。

「二時から三時までのアリバイはあるんだな」

 一時間の存在証明か。そこから離れに行くまでに、シャミセンは何を見たのか。

「きっとそこにトリックがあるんだわ」

 ハルヒは目を細めて喉を撫でている。まるでそこまで何かが出かかっているというように、

「確かなのはその一時間だけで、あとが曖昧。特に三時以降にどこで何をしていたのか解らないってのがミソなのよ。猫のアリバイ、シャミセンはいつ犯人の手に落ちたのか……」

 ハルヒが難しい顔をして、俺もとりあえず顔だけは付き合ってやる。妹は不思議そうに俺たちを見上げ、裕さんは無言で微笑んでいる。彼は真相を知ってんだろうな。犯人候補一番手だしさ。

「ヒントを出したほうがいいですか?」

「ちょっと待て」

 俺は古泉の口出しを制して考えてみた。

 圭一さんが離れの部屋に行ったのが二時頃。

 三毛猫の姿を最後に見たのが三時頃で、四時半に圭一さんの部屋で発見されるまで誰も見かけることはなかった。

 犯人が窓から出て母屋に戻ったのだとしたら降雪で足跡が消える時間内に違いないから、犯行時間は推定で三時から四時の間でいい。

 しかし三時から四時までの間、裕さんを含めた俺たち全員はこの吹き抜けフロアにいて、誰も出て行かなかった。四時以降は裕さんとハルヒと鶴屋さんが出た。

 よし、解った。俺は納得とともにうなずいた。

「ヒントをくれ」

 古泉は肩をすくめ、

「まっさきに気づくとしたら、僕はあなたかあなたの妹さんだと思っていました」

 と、言っただけで口を閉ざした。

「なんだと?」

 それのどこがヒントだ。俺と妹よりハルヒや鶴屋さんが目ざとくないとは思いがたいが。

「あっ、そっかっ!」

 ハルヒに次いで声を上げたのは、晴れやかな顔に戻った鶴屋さんだった。

「そうだよ、ハルにゃん! 猫にゃんのアリバイが犯人のアリバイなんだよっ!」

 鶴屋さんはすっかり解った顔をして、

「そうそう、そうなんだっ! だから猫はここにいないとダメだったんだよっ。どこでもいいんじゃなくて、離れでもなくて、みんながいたこの空間にさっ」

 何を言い出したのかさっぱりだった。俺と朝比奈さんがきょとんとする間で、しかしながらハルヒには通じたらしい、飛び上がらんばかりの声を出した。

「それよ! うん、それだわよ鶴屋さん、ナイス! つまりその一時間くらい、猫は常に誰かが見ているような状態になくちゃならなかったんだわ。犯人はそうしないと自分のアリバイがなくなっちゃうわけだから」

「だねっ!」

 鶴屋さんは指をぱちっと鳴らし、

「シャミが本当にいなくなったのは三時じゃなくて二時半なんだよっ。シャミのアリバイなし状態は一時間半じゃなくて実際二時間だったんだね!」

「ってことは犯行時間も三十分前倒しされるわけね。二時半から四時の間……いいえ、二時半から三時の間の三十分間……つて言うか、本当の犯行時間は二時半でいいんだわ。そうよね?」

「そうだよっ」

 待ってくれと言いたい。なにやらテンションの高い二人組が二人だけで真相に肉薄したようだが、俺たち置いてけぼりグループの立場はどうなるんだ。何が何やら解らんぞ。

「鈍いわね。キョン、シャミセンが三時から四時半まで行方不明で、犯行現場の部屋の中にいるのを見つけて、それで困ったのは誰?」

 俺たちだろ。

「じゃあさ、それで得したのは誰?」

 誰も得してないんじゃないか?

「そんなわけないでしょ! シャミセンを連れてって離れに閉じこめたのは犯人なのよ。意図的にしたってことは、それって絶対得することなの。じゃあどういう部分で得したのかしら?」

 挑む目つきのハルヒだった。まるで真犯人が探偵を見る目みたいだな。

「あ!……」と俺は言った。「シャミセンがその部屋にいたということは……。犯人が連れて行ったんだから、シャミセンが俺たちの前から姿を消していた間が犯行時間なわけで……」

「そういうことよ」

 え、何が。

「え、何が、じゃないわよ。みんなそう思うじゃん。それがトリックの種なの。犯人はシャミセンのアリバイがない時間と、その時間帯をあたしたちに勘違いさせる必要があったってわけ」

「三時以降四時以前は全員アリバイがあるよねっ」鶴屋さんが引き継いだ。「でも二時以降だとどうだい? あたしたちはこっから出ないようにって言われて、ホントにそうしてたよね?」

「その犯人からすれば、二時から三時の間のアリバイを確保する必要があったのよ」と、またハルヒ。「シャミセンがここにいるように見せかけなければならなかったわけ。なんでなら、三時以降から四時半までのシャミセンの不在が、逆説的に犯人のアリバイを証明してくれるからよ。だってシャミセンはここと犯行現場に同時に存在することはできないんだから、ここにいたってことは犯人が連れて行ったのはその時間じゃないってことになるわ。でもって、最後にシャミセンを見たのはあんたで、それが三時頃。犯人が猫連れで離れに行ったのは三時以降……って思わせることが犯人の仕掛けたトリックに決まってるじゃん」

「ってなると犯人に当たるのは一人しかいないっさっ。二時半前後のアリバイが曖昧で、三時前後に猫にゃんに一番近かった人だっ!」

 鶴屋さんがカラリとした笑顔で、

「キョンくん、いいかいっ? 逆に考えてみよっ。圭一さんが二時に引っ込んでからあたしたちが踏み込む四時半まで、犯行機会のあった人を捜せばいいんだよっ。したらば、一人を除いてみーんな不可能なのさ。ところが犯行時間を三時以降にしちゃうとその一人にもアリバイはちゃんとある。じゃあ間違ってんのは犯行時間のほうさ!」

 負けじとハルヒもカラリとした笑顔、

「そうそう。圭一さんは三時以前に殺されたの。シャミセンが離れの部屋に連れてかれたのもその時よ」

「待ってくれ」と俺。「俺が三時に見たシャミセンをどう説明するんだ。朝比奈さんが寝てるのを見たっていう三時前のシャミセンは? まさか分裂していたわけじゃないだろう」

「あんた、まだ解んないの?」

 ハルヒは勝ち誇る笑顔になって、

「今から犯人の行動を説明するわね。森さんと新川さんは犯人じゃないし、偽証の心配もないっていう前提の話だけど、ゲームマスターのお墨付きをもらってるから無視するわ」

 どうやら解っていないのは俺と朝比奈さんと妹くらいのようだった。

 そんな俺たちを見て、ハルヒが得意そうに、

「犯人は二時から三時の間にこの共有スペースを出て、キッチンにいたシャミセンを捕まえた。そこからシャミセンを持ったまま離れの圭一さんの部屋を訪れる。そのとき鍵がかかっていたかどうかはどうでもいいわ、とにかく犯人は部屋に入って圭一さんを刺したわけ。扉を内側から施錠し、シャミセンを残して窓から縁側に出る。そこから渡り廊下に移動して母屋に戻った。もちろん手ぶらで」

「待て」と再び俺は言った。「じゃあ俺の見たシャミセンはどうなるんだ。ヒーターの前の座布団で寝ていたシャミセンは」

「だからそれ、シャミセンじゃなかったのよ」

 ハルヒはちらりと鶴屋さんを見て、鶴屋さんが意見に賛同する表情を作るのを確認して、

「論理的帰結よ。犯人はただ一人、その犯人が一人きりで行動できたのは二時半前後の数分間で、他の全員にはどの時間帯でも母屋と離れの往復は不可能なんだから、どんなアリバイがあったってその人が犯人なの。そのアリバイを崩すにはどうしたらいい? もう解るでしょ、シャミセンが二時半前後から行方知れずだったってことにしたらいいのよ。だとしたら、あんたが見たシャミセンは偽物以外に説明つかないわ」

 鶴屋さんが首をにゅるりと突き出した。

「でさ、訊くけどキョンくんっ。二時半から三時にかけて、キョンくんが見たシャミは本当にシャミだったかい?」

 そう言われると俺も言葉に詰まる。見たのは後ろ姿くらいだったからだ。抱き上げられた三毛猫に、こちらに背を向けて座布団で眠る三毛猫。それが俺の見たすべてである。

 しかし偽物だって? どういう偽物だ。シャミセンのクローン猫がどこかでひそかに開発されていたとでも言うのか。

「知らないわ」と、ハルヒは悠然と答えた。「言ったでしょ、論理的帰結って。二時半から三時にかけてそこの座布団で寝てた三毛猫はシャミセンじゃない。シャミセンのはずはないのよ。クローンでも人形でもそっくりさんでもいいけど、あんたん家の三毛猫ではないことは確実よ」

「ねえ、ハルにゃん、もうみんな解ってると思うんだけど、犯人の名前を言っちゃおうよ。でないと先に進みそうにないよっ」

 楽しげに言う鶴屋さんに、ハルヒは軽やかにうなずいた。

「そうね、特にキョンなんてこのままにしておいたら冬休み中このことばかり考えているわ。せーの、でいいわね?」

「そだね。つーこってっ、犯人は」

 まるで二連装式の速射砲のようなコンビネーションを見せ、ハルヒと鶴屋さんは笑顔を一人の人物に向け、息を合わせて犯人を指名した。

「古泉くんっ!」

 名だたるバウンティハンターコンビにウィンチェスターを突きつけられたお尋ね者のように、古泉は両手を挙げた。

「そうです」

 言いながら、やはりな微苦笑をたたえつつあきらめたように、

「僕が犯人役でした。もう少し時間をかけて考えて欲しかったのですが、涼宮さんと鶴屋さんの二人がかりでは致し方ありませんね」

 ハルヒは笑顔で唇を尖らせた。

「どうして三時からあたしたちを自由に行動させなかったの? 四時じゃなくてさ。そしたら犯人の特定にもっと手間取ったと思うわ」

「その通り、まさに犯人の特定が困難になるからの措置です」と古泉の解説。「もしあなたたちの誰かが三時以降に五分以上----これは離れとこことの平均的な往復時間です----その時間にほぼ一人きりになるような状況が発生したら、その誰かを容疑者リストから排除することができなくなってしまいます。つまり、犯人には成り得ないと明確に否定することができなくなるのです。そのくらいなら、いっそ全員を容疑者に成り得なくしたほうがいいと判断しました。ゲームが難しくなりすぎますからね」

 もっともらしいことを言ってるが、単に思いつかなかっただけじゃないか?

「シャミセンの影武者はどこに用意してたの?」

「僕の部屋です。事前に新川さんが運び込んでいてくれました。共犯というわけではありませんよ。設定上は僕が自分の手で運んだことになっていますから」

 古泉は終業時間を迎えた重労働バイトのような表情で、

「殺害後、離れからここに戻るまでの間に部屋から取り出したのです。あとはお解りですね」

 二時半過ぎに古泉が抱いてきたのがそいつだったわけか、しかし----。

「その猫は?」とまたしても俺は訊く。「偽猫はどこに行ったんだ。俺が最後に見てから、今まで姿も形もなくなっているシャミモドキはどこにいるんだ? よくそんな都合よく姿を消せたな」

 古泉があきらめたようにハルヒに目配せをして、我らが団長は颯爽と歩き出した。フロアの隅、ヒーターが設置されている角へと。

「キョン、そんときのことをよーく思い出して。あんたが座布団で寝ている三毛猫を見たとき、横に古泉くんがいたんでしょ? 古泉くんはリュックからスゴロクを取り出して、あんたに渡したんだったわよね。あんたはスゴロクを持って掘りゴタツに戻ってきて、あたしたちはあんたの手元に意識を集中させてた。その隙に、古泉くんは寝てた猫をリュックサックに素早く入れたわけよ。だからさ、」

 ハルヒは壁際に立てかけられ、ヒーターの温風を浴びているリュックを持ち上げて、

「今もこの中にいるはずよ」

 逆さにされたリュックの口から、その言葉通りにコロンと毛玉のような物体が転がり落ちた。

「シャミセン?」

 俺が口走ってしまうほど、その猫はシャミセンにそっくりだ。体形といい模様といい、まんまシャミセンのコピーキャット。ただ一つ高確率で違うのは、そいつはメスだってことだな。三毛猫のオスは世界的にも珍しく、なぜ珍しいのかは生物の先生にでも聞いてくれ。

 その偽シャミセンはぼんやりと床に座っていたが、やがて尻尾をピンと立てて妹のもとに歩き出し、抱かれているシャミセンの鼻面をくんくんと嗅いだ。我が家の三毛猫のほうは、まん丸い目で雌猫を凝視していたが、妹の手をふりほどくと相手の尻尾に鼻先をくっつけ、そのまま二匹とも相手の尻尾を追うようにぐるぐると回り、十秒後にはパンチの応酬にまで至った。

「こらー、シャミー」

 ぐるるると喉を鳴らすシャミセンを妹が抱き上げて、雌三毛猫のほうはしばらくキョロキョロしてから、どういうわけか長門の膝の上にひょいと乗ってうずくまった。

「…………」

 長門は無表情に視線を落とし、催促するように自分を見上げる猫と視線を合わせていたが、やがておずおずという感じで手を伸ばす。

 怖々と背を撫でる長門の手に満足したように、偽猫は目を閉じて丸くなった。確かに似ていたが、やはりちょっと違うな。俺だってシャミセンと暮らし始めて二ケ月になるし、自分とこの猫とそうでないやつの顔を簡単に見間違えるほど----、

「それで俺と妹かよ。まっさきに気づきそうだっていうのは、このことだったか」

「ええ。あなたが近づいて来たときは冷や汗が出ましたよ。もし気づかれたときは、真相を耳打ちして共犯になってもらうつもりでした。ですが、あなたの顔をうかがった限り全然気づいてなさそうだったものですから」

 悪かったな。これはシャミセンへの詫びだ。

「何が苦労したかと言いまして、その猫を探すのが一番労力を使いました」

 ナビゲーター古泉の補足説明である。

「シャミセン氏にそっくりな三毛猫ですが、これが探してみるとなかなかいないわけです。三毛猫ならどれでも同じようなものだと思っていたのですがね、見込みが甘かったですよ。全国津々浦々を飛び回り、ようやく似た模様のノラ猫を見つけ出したわけですが、そっくり同じとまでは至らない。やむを得ず部分的に一時的な毛染めをおこないました。しかも、それで仕事が終わったわけではありません。芸の仕込みが必要でしたから」

 何の芸を持ち合わせているんだ?

「犬で言うところの『待て』です。勝手にウロウロされると台無しですから、僕が合図するまでひたすらじっと寝たふりし続けるという芸を教え込んだんです。座布団の上で三十分、それからリュックの中で一時間半、その間に鳴いたり動き出したりしてもらっては不都合でした」

 しみじみと古泉は首を振っている。本当にそんな仕込みが可能だったとしたら、そいつはとてつもない芸達者な猫になる将来性を秘めている。催眠術を猫にかけられるくらいに特訓したほうがまだ簡単だったかもしれんな。

「僕がその猫につけた名前はシャミセン二号です。通称、シャミツー。他にいい名が思い浮かばなかったものですから」

 よく解らんイイワケをしておいて、古泉は咳払い。

「以上をもちまして推理劇は終了です。正答者は涼宮さんと鶴屋さんのダブル受賞でいいですね。のちほど賞品を進呈します」

 古泉はゆっくりと礼をした。

「これにて今回の余興を終わらせていただきます。皆様のご協力に感謝します。別荘を提供してくれた鶴屋さん、死体役となってくれた多丸圭一さん、ミスディレクションのためだけにキャスティングしてしまった裕さん、そして色々お世話になった新川さんと森さんには特にお礼申し上げます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました」

 ハルヒと鶴屋さんが猿みたいに拍手を始め、つられて妹、いまいち解ってない顔の朝比奈さんが続き、猫を膝に乗せた長門が音もなく拍手しているのをみて、俺もしかたなく手を打った。

 ご苦労さん、古泉。

 

 賞品はメッキ加工された小さなトロフィーだった。マンガチックな猫が逆立ちしている姿がかたどられ、よく見たらシャミセンっぽかったが、トロフィーを手にしたハルヒと鶴屋さんは肩を組んでVサイン、しょうがないので写真を撮ってやる。シャミセン二号一号もついでにな。

 しばらくすると森さんと新川さんが早めの年越しソバを運んできてくれた。きっそく箸をつかんだハルヒと鶴屋さんが豪快に喰っている傍らで古泉は箸が進まないようだが、そういえばこいつが何かをむさぼり食っているところを見たことがないな。

「どうでした、今回の寸劇は」

 なんと珍しい、昨日の夢幻館でも見せなかった不安的なスマイルで俺に訊いてきた。シナリオの出来にはお世辞を言う気にもならないが、

「あんなもんじゃないか」

 俺はダシのきいたソバつゆとともに長ネギを飲み下し、

「ハルヒの機嫌もいつもと同じようによさそうだ。満足してんじゃねーかな」

「だとしたら何よりです。考えたかいがあったというものですよ。まさに涼宮さんの接待のためにやったようなもんですから」

 俺にはややこしくてもう一つスッキリ解消とはいってないが。解ってないのは朝比奈さんもそうであるらしく、メモ帳に線を引きながら、

「これが二時で、こっちが三時、猫さんがいたのは二時から三時……じゃなくて三十分? ううん? ねこねこ」

 とか言いながら困った顔でソバをちゅるりとすすっている。解っていないやつの最先端、妹は何一つ聞いていなかった顔なのに、やけに楽しそうにドンブリをかき回していた。

 待て状態の雌三毛を膝に乗せたまま、長門が本来の食欲を取り戻しているのを見て俺はホッと息を吐く。何と言っても全員いつも通りが一番で、あまりいつも通りではない古泉はいかにも同情を誘うように、

「冬合宿が企画されてからこっち、ずっとこればかり考えていたんですよ。おかげで解ったことがあります。僕は犯人にも計画犯罪にも向いていません。探偵役も誰かに譲ります。僕に合っているのは解説役ですよ」

 俺としては、その解説役もそろそろ廃業して欲しく思っている。ようはお前が解説にしゃしゃり出てくるような事態にならなければいいんだ----とか願っているうちに閃いた。

「今回の殺人劇だがな、わざわざ実演しなくてもよかったんじゃないか? そういう設定さえあればいいんだろ? だったら問題編を冊子にして配ればすんだ話じゃねえか」

 古泉はソバが喉に詰まったような表情で考え込み、偶然のバッティングで出血しそのままドクターストップをかけられたタイトルマッチの挑戦者のような声で、

「……そうだったかもしれません」と負け惜しみを言った。

「でさぁ、古泉くん」

 ハルヒが年越しソバのお代わりを森さんに要求しながら、

「次の夏も頼むわよ。孤島、雪山、ときたから次の舞台は今度こそもっとケッタイな館がいいわ。変な名前のついているところに行きましょうよ。何なら外国でもいいわね。そうだわ、城なんかどう? 石造りの古城なんてぴったりじゃない?」

 古泉と俺の願いを同時に強制廃棄するようなことを言いながら、ハルヒは箸をタクトのように振り回した。

「それならいいとこ知ってるよっ。うっとこのおやっさんの知り合いで外国に城持ってる人がいたなー」

 鶴屋さんがしないで欲しかった同調をして、ハルヒはよりいっそう調子に乗った。

「聞いた? みんな、夏までにパスポート取っとくのよ。いいわね!」

 俺と古泉は顔を見合わせ、息まで合わせて嘆息した。ハルヒと鶴屋さんコンビ相手のタッグマッチに挑むにはなんと力不足な相方であるかと互いに認め合った証拠である。俺はハルヒの国外脱出をなんとかして断念させる役、古泉は万一の時のSOS団付き劇作家だ。正体不明の敵を相手にしているほうがマシに思える始末である。

 そろそろどうにかしておかんとこのままではSOS団海外支部ができかねない。そんな手に負えないような出来事には、ちょっとなって欲しくないな----と俺の語学力が耳の奥で呟いた。

 

 これだけテレビをちらりとも見なかった大晦日は人生初かもしれない。

 スゴロクの二周目を今度は森さんたちも含めた全員で実行し、ハルヒが楽しんだり俺が疲れたりしているうちに夜となって豪勢なディナーと歓談の時間も終了、あれよあれよというまに夜も更けて気づけばもう今年も終わりだ。

「明日、一眠りして起きたら書き初めと雪上羽根つき大会をしないとね」

 雑煮くらい食わせてくれよ。

「お正月だもの。それくらい基本よ、基本。待ちきれなくて福笑いとスゴロクはやっちゃったけど」

 ハルヒは壁の時計を見つめながら、

「初詣にも行かなきゃマズいわ」

 別にマズくはなかろう。いくら神仏の度量が広いとはいえ、ハルヒにはあまり来て欲しくないんじゃないかと思うね。映画のロケやった神社から俺たちの出入り禁止を宣告する回状が出ているだろうし。

「何言ってんの。せっかく宗教がチャンポンになってる国にいるんだから、全部の行事で遊ばないと損じゃない。それにクリスマスを祝っときながら新年を祝わないなんて、コース料理を注文して食器だけ眺めて帰るくらいのもったいなさよ。だから初詣は欠かせないの」

 それなら別荘の庭先にカマクラ作って賽銭箱と祠を設置したらいい。もちろんカマクラ内にいるのは巫女装束の朝比奈さんだ。わざわざ既存の神社に行かずとも、俺など一晩中拝み続ける自信があるぞ。そのうち噂を聞きつけた参拝者が引きもきらない状態になるだろうから、賽銭箱の中身もさぞかし潤うに違いない。

「バッカ」

 ハルヒは朝比奈さんの肩を抱き寄せ、

「巫女さんも捨てがたいけど、みくるちゃんには振り袖を着せたいのっ! でも合宿から帰ってからでいいわ。ありったけの寺社仏閣にお参りしましょう。あ、もちろん有希にも着せてあげるからね。ついでにあたしも着るし」

 朝比奈さんの耳たぶを噛んで赤くさせておいてから、ハルヒは時計を見てうなずいた。

「みんな、時間よ」

 ハルヒの指揮に従い、俺たちは円を作るように並んで正座した。SOS団五人は言うまでもなく、鶴屋さんも円を構成する一員に入れられていて、彼女の横には妹と猫二匹も座らされている。おまけに多丸兄弟と執事とメイドさんのエキストラカルテットまでがハルヒの誘いによって加えられていた。いいのか、この人たちは? へタすりゃ準団員として顎でこき使われるハメになるぞ。

 だが俺の気配りをよそに、全員の顔には各種様々な意味を持つ笑みが浮いていた。それはそうだろう、こんな時、あえてしかめ面をしている奴はカレンダーを知らない人間くらいであり、俺は知ってる。だから文句を言う理屈に思い当たるフシはない。

 ハルヒの号令に従い、俺たちは深々とお辞儀をして口々に決まり文句を放った。毎年代わり映えしない、でも代わったとしたら寂しくも思えるだろう、五・五・五からなる定型句を。

 

朝比奈みくるの憂鬱

 

 宝くじを買って何の見返りもない確率と同じ程度に、予想通りやっぱり何だかんだとあった冬休みもつつがなく終了し、このクソ寒い季節にもかかわらず安普請のせいでよりいっそうクソ寒く感じる我が学舎たる高校へとシブシブ登校し始めてしばらく経った頃の話である。

 世界的温暖化のせいか雪がつもる光景が滅多に見られなくなったのはまだ大目に見るとして、そのぷん屋内における暖房も中途半端なため南極基地よりも寒々としているんじゃないだろうかと思える教室と卒業までつき合わねばならないのかと思うと、まったく心の底から行く高校を間違ったと中学時代の己の不明を恥じ入りたくなるが、来てしまったものはしかたがない。

 今日もまた、俺は放課後の時間を無為に過ごすべく、部室棟の一角に位置するSOS団の本拠地へと向かっていた。

 本来は文芸部の部室であるはずの旧館の一角だが、とうとうSOS団のアジトとして占有化されたまま年まで越してしまい、庇貸して母屋乗っ取られるをこれほど解りやすく体現した事例も他にないように思われる。今や全校生徒から文芸部の存在が忘れ去られているような気がしてならないが、一応の文芸部員であるはずの長門がああだから俺が気にする材料にもならないし、俺が気にしないようなことをハルヒが気にするわけもない。

 何にせよアフタースクールにおける俺の居場所はここであり、ここにしかないのは認めねばならないようだ。たまに無断で下校してやろうかと思わないでもないものの、翌日教室で待っている後ろの席にいるヤツが授業の間中殺人光線を俺の背中に照射し続けるであろうことを想像すると、そんな思いつきもたちまち雲散霧消するというもので、なんせこのリスク計算結果は実体験を元に弾き出されたものなのである。この経験が人類を正しい道に誘う役に立つかどうかは解らないが。

 てなことを考えつつ、部室の前にやってきた俺は習慣化した動作で扉をノックした。無断でドアを開けるとそれなりの確率でパラダイス的光景を目にすることができるのだが、むしろこれはそのような事態を避けるための準備運動である。

 いつもなら「はぁい」という舌足らずな声が答えてくださり、地上に降臨した天使か妖精か精霊のいずれかによるボランティアかと思うような麗しの美少女上級生が、控えめな笑顔で扉を開けてくれるのがほとんどといってもいいくらいの毎放課後の儀式でもあった。

「--------」

 待てど暮らせど返答がない。

 ということは室内には天使も妖精も精霊もおらず、アナログゲーム好きのニヤケハンサム野郎も不在で、いたとしても沈黙を友とした動かない読書マニアくらいだろうことが推理できる。ハルヒがいないことなら命の次に大事なものを賭けてもいいくらいだ。

 ならばとばかりに俺は遠慮なくノブを握り、自宅の冷蔵庫にするのと同じくらいの気軽さでドアを開いた。

 当然ハルヒはいない。古泉もいない。長門さえいなかった。

 なのに----。

 朝比奈さんがいた。

 メイド衣装に身を包んだグラマラスで小柄な二年生、その可憐な横顔。帯を手に持ったままパイプ椅子に腰掛けて、なぜか心ここにあらずといった風情でぼんやりしているのは我らが愛すべき朝比奈さんで間違いない。

 なんだろう。あまり似つかわしくない雰囲気を漂わせているじゃないか。

 彼女は俺が入ってきたことにも気づかないようで、視線を虚空に惑わせながら、ふと緩慢な溜息をついた。そんなアンニュイな仕草すら、何度も撮り直したテイクさながらに絵になるお人だ。いいね。

 しばらく見惚れてから声をかける。

「朝比奈さん?」

 その効果はてきめんで、

「えっ、あっ。ふぁ、はいっ!」

 飛び上がった朝比奈さんはビックリ眼で俺を見て、中腰のまま箒を身体の前に抱きしめた。

「ああっ。キョンくん……いつの間に……?」

 いつの間にって、ちゃんとノックもしましたが。

「え。そうなの? やだ、全然気づかなくて……ご、ごめんなさい」

 恥じ入るように頬を染め、慌てたようにバクバクと、

「ちょっと考え事を……そのぅ、してました。やだ、ほんと」

 駆けよった掃除用具入れに箒を仕舞ってから、改めて俺を見上げてくる。この目がまたよいのである。いやもう何もかもがいい。朝比奈さんバンザイだ。気をつけてないとうっかり抱きしめそうになる。そうしないといけないんじゃないかという気がしてならないほどだ。この際だからやっちまおうか、いやまて後先を考えろ、という脳内悪魔と天使による壮大な肉弾戦が決着を迎える前に、

「涼宮さんは? 一緒じゃないの?」

 そのセリフ一行で俺は我を取り戻した。やばかった。もう少しでハルマゲドンまでいっちまうところだった。俺は平静を装いつつ鞄を長テーブルに放り出して、

「あいつなら掃除当番ですよ。今ごろ音楽室で盛大にホコリをまき散らしていることでしょう」

「そうですか……」

 ハルヒの現在位置にさほどの興味はなかったようで、朝比奈さんはふっと唇を閉ざした。

 さしもの俺もおやと思わざるをえない。今日の朝比奈さんは明らかに妙だ。いつもは部室に咲く一輪挿しのひまわり的な笑顔を俺に向けっぱなし(この辺はやや妄想)の未来人さんなのに、秀麗な眉目から柔らかそうな髪から甘いに決まっている吐息まで、何やらアンニュイな気配に満ちている。

 憂いを帯びた朝比奈さんは俺の正面でぽつんと立ったまま、何をするでもなく指先を絡め合わせてこちらを見上げてきた。悩みでもおありなのであろうか、煮え切らなさを感じさせる表情だった。残念ながらと言うべきか、愛の告白に使う言葉を選びあぐねているわけではなさそうだ。この朝比奈さんの態度に、過去の記憶が頼みもしないのに検索結果を出してくる。去年の七夕、俺が意味もわからず三年前に行くことになった(一回目な)事件で、朝比奈さんが一緒に時間移動するように頼んできたときと酷似しているニュアンスだ。

 あれから半年、朝比奈さんはますます愛らしさレベルに磨きがかかり、俺は相変わらずのバカをやっているわけだが、それでも少しはハルヒとSOS団を取り巻く状況を指して、「まあ、これはこれでいいさ」と言えるくらいには慣れ始めていると自己分析している。朝比奈さんが何を言ったとしてもいちいち驚いたりしないし、もちろん拒絶もしないつもりだ。

 俺がひたすらメイド朝比奈さんの尊顔を網膜に焼き付ける作業に没頭していると、ようやく口火を切るふんぎりがついたようだ。朝比奈さんはいつも艶やかな唇を開き、

「キョンくん、あの、お願いが……」

 カチャリ。

 部室の扉が最小限の音だけを立て、すぅと開いた。反射的に振り向いた俺の目に、ショートヘアの無表情娘が淡々とした動きで入ってくる様子が映る。

 長門は機械的にドアを閉めると、

「…………」

 ちらりと俺と朝比奈さんを一瞥、居場所を間違えたことを悟った地縛霊のような足取りで何も言わずにいつもの居場所へ移動した。

 表情ゼロのまま席に着くや、きっそく鞄から文庫本を取り出して広げる。部室で二人向かい合って立っていた俺と朝比奈さんに何か特別な感想を抱いたかもしれなかったが、少なくとも長門は俺たちよりその文庫にしてはやけに分厚く頭が痛くなりそうなタイトルの本のほうが気になっているようだ。

 反応速度はともかく、俺より朝比奈さんのほうがわざとらしかった。

「あっ、そうだ。お茶、お茶いれますね」

 いかにもそうするところだったと主張するように声を上げ、パタパタとヤカンに駆けより、

「お水、お水」

 ヤカンを抱えてまたパタパタとワンドア冷蔵庫を開け、

「あや……。お水が切れてる……。ううん、くんできますね」

 そのままパタパタと部屋から出ようとしたところで、止めた。

「俺が行きますよ」

 ヤカンの取っ手に手を伸ばしながら、

「外は寒いですし、その格好は他の生徒には目の毒です。関係者以外に無料で見せるもんじゃありませんよ。水飲み場はすぐ下だから、これからひとっ走り……」

 そう言いかけた俺に、

「あ、あたしも行きます」

 朝比奈さんは取り残されるのを恐れる雨の日の捨て猫みたいな目で俺を見てきた。可愛い。可愛いが、困ったものでもある。未だに長門と二人でいることに慣れていないのだろうか。そろそろ打ち解けあってもいいくらいだと思うのだが、未来人VS宇宙人では相手が相手だけになかなか難しいのかもしれないな。

 だが悪い気はしないね。朝比奈さんが長門より俺にくっついていたいと言うなら、拒否する理由など地底をモホロビチッチ不連続面まで掘り返しても出てきたりはしないだろう。出てきたら驚くが、ハルヒなら不定形でグニャグニャした何かを掘り返したりしそうな気もする。幸いここにはハルヒはおらず、いきなりシャベルを俺に押しつけることもないだろう。

 俺はヤカンを奪い取り、鼻歌とスキップとどちらを選択するか考えながら旧館の廊下へ出た。

「あ……待ってくださぁい」

 メイド装束の朝比奈さんが親の後ろを歩く子猫のようについてくる。

 こうして並んで歩いていると自分の手柄でもないのに誇らしげな気分になるね。朝比奈さんのルックスや体形や性格に寄与するところが俺には皆無なのだが、それでも彼女と触れあうかどうかという距離感を味わえる野郎どもは知る限りにおいて俺くらいだ。

 誇らしさのあまり、さっき感じたはずの朝比奈さんの雰囲気を完全に忘れていた。であるからして、

「キョンくん」

 水飲み場でヤカンに水道水を注いでいる時、

「今度の日曜、ヒマですか? 一緒に行って欲しいところがあるの」

 真面目な顔でそう言われた俺は即物的なメーターでは計り知れないほどの驚きを感じ、今度の日曜日とやらが何日後のことなのかすら瞬間的に忘却した。やっとのことで声を出す。

「もちろんヒマです」

 仮にどんな予定があったとしても朝比奈さんの誘いをもってすれば真っ赤に染まったカレンダーだって白く変わる。二月二十九日にどこそこで待つと言うのなら、たとえ閏年でなくてもその日に行くことだろう。

「ええ、もちろん」

 声を弾ませながら答えつつ、若干の煙が心中から立ち上ってもいた。

 ----前も似たような誘いを受けたよな、そういえば。

 でもって着いたところは三年ほど前だったわけで、いくらなんでもそう度々の時間旅行には飽き気味の心持ちだ。正直、何度もするもんじゃないね、あれは。たまにあるからこそ有り難みも発生するんであって、そうしょっちゅう気楽に----でもないけどさ----現在と過去を行ったり来たりしてるとさすがに食傷もしますよ。

「いえ、だいじょうぶ」

 朝比奈さんはヤカンの蓋を無意識のように弄びながら目を落とした。蛇口からほとばしる水流に視線を向けて、

「過去にも未来にも行きません。ええとね。デパートまでお茶の葉を買いに行きたいの。キョンくん、一緒に選んでくれる?」

 そして小さめの声をさらに潜ませて、そっと唇に人差し指を当てた。

「みんなには、内緒で……。ね?」

 どんな自白剤にも抵抗できるだけの自信が、その時の俺にみなぎっていたのは言うまでもない。

 

 それから日曜までの間。一分一秒がこれほど長いと感じたことはなかった。どうして時計の針ってやつは凝視しているとわざとのようにノロくなるのかね。こっそり休憩してやがるんじゃないか? 試しに揺さぶってみても秒針の周回速度は変わらず、俺は悠久なる時間に対する人間の無力感を味わいつつひたすら悶々として過ごすことになった。

 なにせ未来人属性を持つ人と時間移動関係なしの外出だ。純然たる茶葉の買い出しである。そこでちょっとシンキングタイムだ。言うまでもなく朝比奈さんが一人で買い物もできない箱入り娘だとは俺は思っておらず、茶葉の購入に人の手を借りなければならないくらいの引っ込み思案でもないことは明白である。どんな粗茶だろうが俺は大喜びで飲み干すし、そもそも味にケチをつけるような肥えた舌を持つ人間はSOS団にはいない。

 それではなぜ、俺を誘った。したのか。しかも極秘裏に。

 日曜日に年頃の男女が二人でお出かけ。

 すなわちそれは、一般的にはデートと呼ばれるしろものではないだろうか。うむ、それ以外にない。そうなのだ。これはデートだ。俺が思うに、お茶選びは単なる口実なのだろう。なんと奥ゆかしい。ずばり言ってくれてもよかったのに。いや、でもそれがいい。いかにも朝比奈さんではないか。

 てなわけで当日。日曜。

 俺は自転車をかっ飛ばして待ち合わせの駅前まで疾走していた。愛車のママチャリも俺の気分を共有しているようで、モーターも付いていないのにペダルは軽やかに回転する。SOS団加入以来の晴れやかな気分だと言っても言い過ぎではない。なぜならこれは普通のお出かけだ。珍妙な異空間に閉じこめられたり過去への片道切符を渡されたりエイリアンと茶の間で禅問答するようなことにはなりそうにないからな。

 もっとも、待ち合わせ場所に大人バージョンの朝比奈さんが含みのある笑みで立っていたなら話は別モードに入るわけだ。

 俺にだって平均的な高校一年生並みの脳ミソがある。これまでの経験と合わせて通り一遍の未来予測くらいは何パターンか思いつくさ。朝比奈さん(大)もその一つだ。予想では彼女とはまたどこかで出くわすだろうし、それが今日であっても何ら不思議ではない。

「いかんな」

 俺は自転車を電柱の陰に押し込みながらつぶやいた。

 どうも考えが裏読み方面へ傾斜している。このままでは本当に何が起こっても驚かなくなっているような気がして、そんな気がすること自体がもうすでにマズい感じに毒されているということだろう。驚くべきことが発生してんのに全然驚かないようなヤツは頭のネジが何本か弾け飛んでいるような人間だけだ。俺はまともな人間として生きたいし、せめてまともな精神状態を維持していたいのだ。いささか手遅れっぽいとはいえ、笑うべき時はやっぱり素直に笑うべきなのさ。

 なので、俺は満面に笑みをたたえる。

 SOS団御用達の集合ポイントで本日お一人で佇んでいるのは、いつもの俺の朝比奈さんで正解だ。

 休日とあって人通りも五割増しの中、小さく片手を振って俺に気づいたという合図を送っている彼女の姿に膝が笑いそうになる。

 シックでフェミニンな格好をして、髪形も普段とは違う。おませな女の子がちょっと気合い入れてシャレっ気出してみました、みたいな微妙さ加減が素晴らしく、涙ものの感動をもたらしてくれた。

 暖かそうな服をまとう朝比奈さんの前で急停止した俺は、鏡を見て何度も練習した古泉的爽快スマイルを浮かべて、

「すみません、お待たせしまして」

 と言っても約束の十五分前なのだが。

「いえ……」

 朝比奈さんは両手で口を覆うようにして息を吹きかけていたが、目尻を緩ませて、

「あたしもさっき来たとこ……」

 やんわりと微笑み、

「さぁ、行きましょう」

 頭をぴょこんと揺らして、一歩目を踏み出した。

 

 栗色の髪を結んだ朝比奈さんのうなじに名状しがたい感動を覚えつつ、俺はお家騒動のあおりを食って流浪の旅に出ることになった由緒ある家柄の姫君に付き従う忠実なる騎士のように歩いていた。

 朝比奈さんの歩調は顔に似合ってどこかちょこまかと幼い感じがして、一つ上の学年とは到底思えないほどである。ウチの妹がそうであるように彼女の歩き方もどこか子供っぽい。自称高校二年生とは思えないくらいのアンバランスな足取りが無性に庇護欲をそそり、時々心配そうに俺を振り向く大きな眼も得難い感慨を与えてくれた。

 なにしろ現在の俺がやってる行為があらゆる意味で特殊だった。いつもなら部室でハルヒや長門や古泉たちに囲まれて、そんな異常空間で謎のようなドタバクに一喜一憂している俺とは一線を画する状態なのである。

 ここには俺と朝比奈さんの二人しかいない。しかもその他のみんなには内緒ときた。暴君のような団長も、万能宇宙人も、制限のかかった超能力者もそばにはいない。新鮮だ。

 全力で宣言しておきたい。朝比奈さんと二人だけでお出かけするという今の俺に、まともな判断などできるはずがないと。

 はっきり言えば俺は浮かれていた。北高でもぶっちぎりにプリティフェイスを誇る彼女と肩を並べて歩く栄誉に比べたら、紫綬褒章などドブ川に放り込んでマブナのエサにしたって惜しくはない。まあ俺に褒章くれるほど国もトチ狂ってはいないだろうが。

 向かった先は、駅近くにある総合デパートだった。

 俺も家族の買い物につきあってちょくちょく来る。衣料品や食料品売り場がメインの建物で、でかい本屋も入っていたりするが、そこは長門のテリトリーで俺には縁がない。果たして朝比奈さんが俺を連れて行ったのも地下の食料品売り場だった。

 一列に並ぶレジカウンターの奥に目的地はあった。茶葉を専門に扱うお茶専門店で、ケースに各種様々、色とりどりの日本茶がごまんと並べられている。

「こんにちはぁ」

 朝比奈さんが可愛く挨拶すると、店のおっちゃんの顔が熱した天然アスファルトのように溶け崩れた。

「やあ、毎度」

 すでに常連客として顔馴染みになっているらしい。

「うーん、どれにしようかなぁ」

 朝比奈さんはつぶやき、真剣な日で値段と葉の名称の書かれた手書きポップを眺めて、じっと考え込んでいる。

 当然のことながら俺に朝比奈さん以上の茶の湯的知識はなく、よってアドバイスのしようもなく、ただ彼女の横で様々な茶葉が発するかぎ慣れない香りに鼻をゆがめているだけだった。

 茶葉のことになると深刻さを増す朝比奈さんは、乾燥の回数がどうしたとか釜炒りのタイミングがこうしたとかいうようなことをおっちゃんと熱心に語り合い、俺は稲刈り後のカカシ並みにその場でなすすべもなく突っ立っていた。

 SOS団で茶の味が解っているメンツなど俺を含めて誰もいない。ハルヒは湯飲みに入ってる色つきの液体ならオキシドールだって平気で飲み干すだろうし、長門に味覚があるかどうかも怪しく、古泉はとりあえず文句の欠片も発しない。

 俺はと言えば朝比奈茶なら毒人参入りでもあえて杯をあおる覚悟がある。悪法も法だ。飲んだあとのことを特定の誰かに任していれば命だけは助けてもらえるだろう。

 アドバイザーのお役に立てそうにない俺は、几帳面に茶葉を選ぶ朝比奈さんの付き添いとして店の前で棒立ちを続け、ようやく決心した彼女が上級仙人みたいな商品名のついた煎茶を買い求めるまでそうしていた。

「せっかくですから」

 朝比奈さんはいつもより控えめな顔で俺を見上げ、

「お茶、飲んでいきませんか? ここ、お団子もおいしいんです。買ったばかりのお茶も淹れてくれるし……」

 このデパ地下の店の奥にはテーブルが常設してあって、ちょっとした簡易喫茶店にもなっているとのことである。断る理由など太陽内のヘリウムガスがすべて燃え尽きるまで考えても思いつきやしないさ。俺はいそいそと朝比奈さんに従い、店のテーブルに腰を落ち着けてみたらし団子と薫り高いお茶を注文した。

 この時点で、すでに気がかりなことがある。

 朝比奈さんはどうも時間を気にしているようだ。しきりと腕時計に目をやっては、そわそわと落ち着かない様子を見せている。その仕草もごく自然なものなので、わざと俺に見せつけているわけではないようだし、むしろ俺に気取られないようにしているつもりらしいのだが、もうしわけないがバレバレだ。何度も時計を見ては、ふうっと溜息のような吐息を漏らしているのだからな。これで何でもないというのは、さすがに無理ってもんだろう。

「うまい団子ですね。お茶もいい。さすがは朝比奈さんの選んだお茶です。いやぁ、おいしいなぁ」

 などと、わざと気づかないふりをする俺である。こんな気配りのできる自分に思わず自賛の境地に達したくなるほどさ。

「うん……」

 朝比奈さんは団子を頬張りながら、ゆるくうつむき、また腕時計を見る。

 何かありそうな気配が、じわりじわりとしてきた。

 そりゃあさ、最初はうかれてたさ。とんでもなく可愛らしく冬服の上からでも明白なプロポーションを誇る未公認ミス北高と行動をともにしてるんだからな、校舎の屋上から全世界に向けてヤッホーと叫びたいくらいだったさ。

 湯飲みのお茶をすすり、熱い液体が胃に染み渡るほど俺は懐疑的になってきた。

 やっぱり裏があるのか。

 SOS団唯一の先輩、朝比奈みくるさんが様々な状況証拠から勘案して未来人であるのは間違いない。何か理由があって現在に来ている。理由と関係なくSOS団のマスコットになっているのはハルヒによる横暴のたまもので、本来の職務はそんなことではなかったはずだ。

 そうだな。ハルヒを監視するのが通常業務で、たまに俺を過去に連れて行ったりして事件の本質に絡ませたり何やしたりするのが彼女に下されている任務であり、どう考えてもそっちがメインだ。

 今日もそうなのだろうか。この茶葉の買い出しも、その後に続く新たな事件の前フリになっているんだろうか。そして朝比奈さんはそれを知っているのか? にしては、若干自信なさそうな表情と言動なのが気がかりであるが……。

 いよいよ団子も食い終わって精算時、朝比奈さんは俺からの金銭譲与を固く拒否した。

「いいんです。今日はあたしのお願いで来てもらったんだから。ここもあたしが」

 いや、そういうわけにはちょっと、ここはあっさ。引き下がるわけにはいかん。

「本当にいいの。だって、いつもキョンくんには奢ってもらってるもの」

 それは集合場所に最後にやって来たヤツが団員全員に奢るというハルヒが勝手に決めた罰金制度で、なぜかいつも遅れるのは俺の役回りだから俺ばかりが支払い係になっているだけのSOS団的悪しき風習でしかない。今の状況はそんな風習とは違ってせっかくのツーショットであり、財布の中で細々と出番を待っている現金たちも払われがいが段違いにあると思うんですけど。

「お願い」

 朝比奈さんは拝むように俺を見つめ、

「あたしに出させて」

 そのあまりの真摯な面持ちによって、俺は無意識にうなずかされていた。

 

 その後、デパートを出た俺と朝比奈さんは真冬の寒空の下、行き先も思いつかないまま休日の人の流れを眺めるともなしに眺めていた。

 用事が済んだ途端に「ではさようなら、また明日」では芸がなさすぎるだろう? 俺はそこまでクールでも朴念仁でもなく、そして日が暮れるにはまだ相当の猶予がある。冬至は一ケ月も前に過ぎ、太陽の南中はこれから当分遅くなる一方なのだ。

 さあ、どこに誘おうかと考えていたら、先に提案をされた。

「ちょっとお散歩に付き合ってくれませんか? ね、いい? キョンくん……」

 また、拝むような目をしている。そんな腰から下がコンニャクゼリー化しそうな顔と声で言われたら抵抗しようもありませんよ。

 朝比奈さんは霞がかった微笑みで、

「こっちへ。行きましょう」

 迷いなく歩き出した。残念、腕でも組んでくれないかと思っていたのだが、そこまで期待するのは高望みがすぎるというものだろう。

 俺は冷たい風に肩をすくめながら、小柄な上級生の後を追った。

 

 そうやってしばらく、つれづれ歩きが続けられた。

 どうやら目的地は決まっているらしく、朝比奈さんは時折俺が横にいるのを目で確認しながら黙って歩を刻んでいる。

 俺も何も訊かずに朝比奈さんに歩調を揃えていたが、歩くほどに今日の彼女はどう考えてもかなりおかしいとますます悟り始めていた。

 何と言うのだろうね。通常モードの朝比奈さんはもっとファニーな物腰で、見ている人間を微笑ましくしてしまうような仕草が可愛いのだが、今日の今に限っては、まるで物理の試験がある日に通学路を登る俺と谷口のような足取りだった。

 おまけに周囲に向けてピリピリした目線を走らせてたりもする。

 何者かにつけられているのを気にしているような……いや、違うな。気にしているのは背後ではないようだ。朝比奈さんの注意はあくまで前方ないし斜め前くらいの範囲だろう。オリエンテーリングでチェックポイントを見逃すまいとしている小学生のようなキョロキョロぶり、挙動不審者かおのぼりさんの典型みたいなボディアクトである。これが幼顔のグラマー美少女ではなくいい年こいたオッサンで、パトロール中の警察官に出くわしたなら完全に職質ものだが、朝比奈さんクラスの可愛さなら大抵の犯罪は許される域に達しているので問題はなかろう。問題はそんなことではないのだが。

 そうやって朝比奈さんの素振りばかりを気にしていたせいだと思う。

 何となく懐かしい気分になっている自分に気づいて、俺は立ち止まりそうになった。

 懐かしいも何も、このあたりはほとんど生まれてからずっとうろついていたような土地だし、けっこう度々目にしている風景なのに、どうしてそんな気分が----。

「ああ……」

 口の内部のみに納得の息を回流させる。なるほど。

 駅前からここまで歩いてきたこの道筋。覚えがあるに決まっているし、郷愁を感じるワケも一瞬にして理解できた。

 去年の五月、第一回SOS団不思議探し大会がハルヒによって発令されたことは忘れがたい記憶の一項目だ。特にくじ引きの巡り合わせで俺と朝比奈さんがあてどない散策に出向いたあの日の思い出は、少々の打撃を頭蓋にくらったとしてもそうそう記憶から消失することはないだろう。

 そうだ。まさに今、俺たちが進んでいるのは、その時と同じ道のりなのだ。懐かしさの正体は朝比奈さんとその道をなぞるように歩いているという同一シチュエーションによるものだ。そういやあれからまだ一年も経っていないのに、えらく前のことだったような気もするね。何しろ朝比奈さんが未来人だってのを今でこそ疑いもしていないが、その時点での俺はまだ知らなかったんだからな。葉桜が立ち並ぶ川沿いのベンチで爆弾発言を聞くまで、俺は彼女のことを単なる幼顔で胸の大きい弄られキャラだと思っていた。

 何もかも過ぎ去った風景の一つさ。まさしく過去だ。ゆえに懐かしい。

 思惑通り、朝比奈さんはどんどん思い出深い地へと向かっていた。ただし大草原の草食動物的キョロキョロぶりは健在、加えてやたらと腕時計を気にしていらっしゃる。

 声をかけても返事を期待できないくらいに変な様子を続行中だ。

 ひたすら吐く息を白くさせつつ、俺たちは黙々と歩き続け、やがて例の場所にたどり着いた。

 川沿いの桜並木。

 去年には春と秋で天然二期作を為し遂げてくれたソメイヨシノが整列する散歩道である。今年の春に咲く余力が残っているといいんだけどな。

 感慨深く思う俺だったが、朝比奈さんはどうでもいいらしい。例の未来人的爆弾発言を放ったベンチを通り過ぎたときも、まったく気づきもしないようだった。上の空を現在最も体現しているのが朝比奈さんだ。いったい何をそこまで気にしているんだろう。

 俺が心寂しく思っていると、ふと小さな独り言めいた声が、

「まだなの……?」

 朝比奈さんはまた腕時計を見ている。

「もうそろそろ……。でも……もう」

 自分が声を漏らしていることにも感づいていないようで、ふうっと溜息をついて再びキョロリとする。

 気づいていないふりをしてあげようと俺は思い、歩くことに専念する。

 やれやれ。デートだの何だのと浮かれ気味だったことすら遠い過去のようになっちまった。もう少し風情のあるそぞろ歩きが希望だったのだが、そうウマいこといかないもんだよ。人生そんなもんさ。だろう?

 花びらどころか葉の一枚さえない質素な桜どもも背後へと消えた。

 朝比奈さんは川の上流へと向かっている。このまま行けばもっと見覚えのある建物が視界に入る頃合いだった。そこには長門のマンションがある。さらに進めば北高まで行ってしまいかねないルートだぜ。

 本格的に散歩してるおかげで身体が暖まってきた。ポカポカするのはすぐ隣に朝比奈さんがいるだけではなさそうだ。

 やがて俺たちは川沿いの遊歩道から土手を下って県道へと出た。今度は私鉄の線路がすぐ脇を走っている。そういやいつの日かここをハルヒと歩いたっけな。

 つづけざまに思い出がぶり返し、俺は少々注意散漫になっていたようだ。

「キョンくん、こっちです」

「へ?」

 朝比奈さんが裾を引っ張ってくれなければそのまま通り過ぎるところだった。

「道を渡ります」

 線路の踏切近くの十字路だった。朝比奈さんが指さしているのは県道の対面、横断歩道脇の信号はドントウォーク、赤を表示している。

「ああ、すみません」

 俺は謝っておいて、朝比奈さんの横に改めて並ぶ。渡るべき車道は閑散としたもので車の影もなかったが、生真面目に信号待ちするのも実に朝比奈さんらしかった。

 待つこと十秒もなかったろう。県道の信号が青から黄色に変わり、すぐに赤色を点灯した。入れ替わりに歩行者信号が青になる。

 朝比奈さんとほぼ同時に、俺は道を渡るべく一歩踏み出した。

 その時----。

 真後ろから小さな人影が勢いよく飛び出した。

「あっ」

 という小声の叫びは朝比奈さんのものだ。

 人影は俺の横を走って横断歩道を駆け出していく。小学生くらいの少年だった。俺の妹と同じくらいの年齢に見えたから、小四から五といったところだろう。眼鏡をかけた利発げな子供だった。

「あっ」

 今度は大きな叫びを上げたのも朝比奈さんだった。その叫びに耳障りな騒音が重なって耳に届き、俺は目を見開いた。

 踏切から凄い速度で出現した車が、タイヤを軋ませながら右折してきた。県道の信号は赤だ。にもかかわらず、その車----モスグリーンのワンボックスカーだ----は、おかまいなしに横断歩道へと突き進んでくる。減速の気配はない。

 その時----。

 県道の半ばに達していた少年は危険を感じ取ったのか立ち止まった。

 車が迫る。信号無視を決行したその車の運転手は制限速度をも守る気がないようだった。俺は撥ね飛ばされる少年の未来を予想し、だが予想した時にはすでに身体が動いていた。

「この、バカ野郎!」

 子供か車かどちらへの罵倒か解らないようなことを喚きつつ、俺は走った。感覚的にはスローモーションのようだったが、さて、第三者的観測者からすれば一瞬のことではなかったかと思う。

「うおお!」

 とにかく間に合った。愕然としている眼鏡少年の襟首をつかむと、思いっきり後ろへ放り投げてやったのである。その勢いのまま俺も尻餅をつく。

 猛然と加速する車が、ほんの目の前をあっという間に消え去った。

 どっと汗が噴き出してくる。

 ギリギリだった。暴走車のタイヤは爪先と数ミリも離れていない空間を通過していた。文字通りあと一歩踏み出していたら、俺の足首から下はそろそろ換え時の靴と一緒に平面状になっていただろう。

 真冬だってのに滲み出た冷たい汗はなかなか気化してくれなかった。あまりありがたくない意味で身体がかっかしている。

「あの野郎!」

 どの野郎かは知らんが、とりあえず俺は一瞬引いた血の気を頭に上らせながら走り去った車に殺意を向けた。

「なんて運転しやがる。信号無視にスピードオーバーに殺人未遂だぞ。朝比奈さん、ナンバー見えました?」

 小僧と転がるのに忙しくてそこまで目が届かなかった。朝比奈さんの動体視力に期待しながら見上げると、

「これだったんだわ……」

 何だ?

 愕然とした様子の朝比奈さんが目を見開いて立ちつくしている。いや、それは意外じゃない。あわや交通事故というシーンを目前にしたら驚きおののくのも無理はないからな。

 俺が意外に思ったのは、朝比奈さんの顔に浮かび上がっているのが単なる驚愕の表情だけではないことだ。

「だから……そうだったの。それで、あたしをここに……」

 つぶやき声を漏らして、朝比奈さんはあわや危機一髪だった少年を見ていた。

 天使的な美しく愛らしい顔に驚きと混じって表れているのは、奇妙なことに何かを理解したかのような色である。

 俺がワケがわからず尻餅をついたままでいると、朝比奈さんは幾分青白くなった顔のまま硬い動作で歩み寄ってきた。残念ながら俺に向かってではなさそうだ。彼女の視線は俺の横でぺたんと座り込んでいる少年にだけ据えられている。

 撥ねられかけたショックか、眼鏡の少年もまたポカンと頭が真っ白になったような顔でいたが、朝比奈さんに気づいてぱしぱしと瞬きをした。

「ケガしてない?」

 アスファルトに膝をつき、朝比奈さんは少年の肩に両手を置いた。カクカクとうなずく少年に、彼女はさらに意外な言葉を投げかけた。

「ね、お名前を教えてくれる?」

 どうして名を問う必要があるのかが解らないが、その質問に、少年は素直に応じた。

 少年の名は俺にはまったく聞き覚えのないものである。しかし朝比奈さんの耳は違っていたようだ。

 少年の自己紹介を聞いた途端、朝比奈さんは呼吸も忘れたように、まるで長門のモノマネをしているかのようにピクリともせずに、じっと少年の顔をのぞき込み続け、やがて大きく息を吸って吐き、そして言った。

「そうなの……。あなたが……」

 少年の口はまだ閉じない。暴走車のフロントグリルと正面衝突一秒前という恐怖を味わったかと思ったら、今度は美人のお姉さんが目の前にかがみ込んで名前を訊いてきたのである。そりゃ誰だって脱け殻のようになっちまうだろうさ。気持ちはよく解るぜ、眼鏡くん。

 しかし朝比奈さんだけはシリアスだった。

「ねえ、あたしと約束して」

 部室ではついぞ見たこともないような緊張感の張りつめた顔で、

「これから……何があっても車には気をつけて。道を渡るときも、車に乗ったときも。ううん、飛行機にも電車にも、それからお船にも……。ケガしたり落ちたりぶつかったり……沈んだりもしないように、ずっと注意するの。約束して欲しいの」

 少年も驚いただろうが、俺も驚いた。何もそこまで言うことはないと思ったからな。いくらなんでも大げさだろう。

「お願い……」

 瞳を潤ませた朝比奈さんが絞り出すように放つ嘆願の言葉に、俺が少年の代わりにイエス、マム! と絶叫したい心持ちが高まったあたりで、

「うん」

 少年が首肯した。ワケが解っていないなりに空気を読んだか、じいっと朝比奈さんを見つめつつ、

「気をつける」

 棒読みでそう言った。こくこくと首を動かす様は、まるでバランスの壊れたヤジロべーのようでもあった。

 朝比奈さんはまだ満足しないらしく、片手の小指を立てて差し出した。

「じゃあ、約束。ぜったいよ」

 おずおずと応じる少年と指切りげんまんする朝比奈さんに、胸の片隅がちいとばかり痛む。ジェラシーというヤツだ。彼女とそうするのは俺だけであって欲しかったという身勝手な希望的観測さ。まあ相手が子供だし、俺も転んだフリして邪魔するほどにはガキではないものの、ようやく朝比奈さんが立ち上がったときにはホッとしたからまだまだ大人にはなりきれていないようだぜ。それがいいのか悪いのかは解らんが。

 横やりを入れる代替措置として、俺は信号を見上げて言った。

「朝比奈さん、そろそろ信号が変わりますよ。道の真ん中はヤバい」

 横断歩道の青信号が点滅を開始していた。

「うん」

 ようやく立ち上がった朝比奈さんは、それでもまだ眼鏡の少年を見つめていたが、少年のほうはちゃんと雰囲気を感じ取れるだけの才能はあったようだ。ぺこりと頭を下げて、

「危ないところを救っていただき、ありがとうございました。以後気をつけます」

 こまっしゃくれた口調で丁寧な礼を述べ、

「それでは失礼します」

 再び一礼して、すたたたっと駆けて県道の向かいへと走り去った。いちもくさんに。

 朝比奈さんは動かない。子供特有の俊敏さを見せて彼方へと消えゆく少年の背に大切な宝石を見るような視線を据えたままだ。

 さすがに見かねた。

「朝比奈さん、もう赤ですよ。こっちに」

 俺は冬服普段着姿の美麗な後ろ姿を強引に引き寄せて歩道に戻した。言いなりになる朝比奈さんの身体は知らないうちにベッドに潜り込んでいたシャミセンのように弛緩している。抱きしめたらさぞ柔らかいに違いない。やらないけどもだ。

 信号が完全に赤くなるのと同時に、

「うっ……」

 嗚咽するような声が俺の斜め下から聞こえた。発生源は朝比奈さんで、くぐもっているのはその顔が俺の腕に押しつけられているからでもあった。

 え? とか思う。

 朝比奈さんは俺の腕に顔を寄せ、ぴくぴくと肩を震わせていた。笑っているのではなさそうだ。

「うう、うっ。うっうっ………」

 閉じた二つの目から透明な液体がこぼれ落ちて俺の衣服に染みこんでいく。子供のように、朝比奈さんはしがみつき、ポロポロと涙をあふれさせていた。

「なっ、何ですか? 朝比奈さん、ちょっと、その」

 今まで幾度も理解不能な局面に立ち会ってきた俺だったが、これは最大レベルの困惑だ。どうして泣いてんだ? あの少年は助かったじゃないか。誰も死んでないし、喜びこそすれ悲しむところではないんじゃないか? それとも激ヤバなシーンに居合わせたショック症状なのでしょうか。

「いいえ」

 朝比奈さんは鼻声で答えた。

「……情けないの。あたしは……何も解っていない……なんにもできてない」

 いやあ、そう言われてもやっぱり解らないですよ。

 しかし彼女は泣き続けるばかりで、意味のある話を続ける気力を失っているようだった。ただ抱き上げたシャミセンが落とされまいと爪を立てるのと同じように、俺の服を両手でしっかり握りしめて顔を埋めていた。

 何なのだろう、これは。

 謎が渦巻いている俺の頭だったが、一つだけ明瞭な解答を出せたと感じている。

 今日のイベントはこれで終わった。朝比奈さんからデートもどきの申し込みを受け、不可思議な散歩に終始していた本日の出来事は、たぶんこれで終幕だ。

 その程度の推理は古泉じゃなくともできるのさ。

 

 寒気のきいた冬空の下で、突然泣き出したふわふわな上級生に上着をひっつかまれて立ち往生という状態をいつまでも続けるわけにはいかなかった。

 なぜなら大抵の道路には人目というものがあって、そんな二人組に面白そうな顔を向けては何やら言いたげにしつつ通り過ぎていくからだ。この寒いのに外で何やってんでしょうかねえ、みたいな心の声を俺たちの前を通った人数分聞いたあたりで、

「朝比奈さん、とにかくどっかに移動しましょう。落ち着ける所まで。えーと、歩けます?」

 俺の二の腕に顔を押しつけたまま、栗色の髪がわずかに上下する。

 おぼつかない足取りの朝比奈さんに合わせて俺は注意深く歩き出した。くっつき泣き虫と化した上級生を伴っているせいで、どうしても緩慢な歩き方になってしまうが、まあこれも願ったり願わなかったりだな。ただ一つ願うのはこれを同じ学校の男子生徒に見られないことくらいである。朝比奈みくる原理主義的ファンに刺される確率がぐんと上昇するだろうし。

「どこ行きましょうか」

 人目に付きにくく、休めそうな所。寒さをしのげることができたらもっといい。思いつくのは喫茶店くらいだが、泣き濡れる美少女と差し向かいで座るのは若干座りが悪くなりそうだ。

 実はさっきから進行方向に見えている建物が気になっていて、そこは長門の住む高級マンションである。頼めば部屋にあげてくれそうだが、今はそうしないほうがいいような気がした。

 なら、行くところはあそこくらいだ。長門宅の近所にある変わり者のメッカたる場所がすぐそこに迫っていた。様々な思い出が封じ込められた、あの公園さ。川沿いのベンチはスルーだったが、この際だ、もっと色々なことがあったあっちのほうで手を打とう。

 少なくとも座ることくらいはできる。もしかしたら背後の植え込みから誰かさんが出てきたりすることだってな。

 

 このくそ寒いのに公園でたむろする人間は思いきり少数派のようで、例のベンチはチケット手配済みの指定席のように無人で山風にさらされていた。

 俺は朝比奈さんを座らせてから、ちょっと間隔を意識して隣に座る。そっと横顔をうかがうと、うつむいた頬にはまだ涙の線がくっきり浮き出ていた。

 俺はあらゆるポケットをまさぐってハンカチを探し求め、指先はむなしく衣服の生地を掻くに留まった。しまったな、今日に限って持ってない。他に朝比奈さんの涙を吸い取るに値する布きれはないか、あるいはいっそシャツの裾を引きちぎろうかと考えていると、

 とす。

 柔らかい感触が俺の肩に軽くかかり、その正体は朝比奈さんのおでこだった。嗚咽の続きを今度は肩口が聞くことになったようだ。その部分が非常にムズムズする。目と目の間に指を近づけられたら触れてもないのに肌が勘違いしやがるだろ。それと似たようなものさ。もっとも俺は実際に触れられているわけで、さすがに弱ってきた。

「缶コーヒーでも買ってきましょうか」

 名案のつもりであったが、栗色の髪は緩くかぶりを振ったのみ。

「缶ウーロンのほうがいいですか?」

 押し当てられた額がむずかるように微動する。左右に。

 俺は自販機のメニューを思い出せる限り脳裏に描きつつ、

「じゃあ、」

「……ごめんなさい」

 弱々しい声がやっとのことで届いた。まだ顔は俺の肩にあたったままなので表情は見えない。

 しかし俺には朝比奈さんがどんな感情を面に出しているのか見なくても解る。彼女がごめんとか言う時は、本当にもうしわけないと思っている時だけだ。

 俺は何も言わないことにして、続く朝比奈さんの言葉を待った。

「あたしがキョンくんを誘ったのは、さっきの子供さんを助けるためだったんです。今まで解らなかったけど、今やっと解りました。このためなの。これだけのため」

 もう少し続きを。

「あたしは……上の人に言われてキョンくんを誘ったの。出かける場所も、通過ポイントごとの時間も全部、命令されたものだったんです。あの子が事故に遭わないように、無事に回避させるように……、それがあたしの使命だったんだわ」

 上の人か。俺は朝比奈さん(大)の微笑を思い出した。

「ちょっといいですか? だったらその上の人とやらも、もっとハッキリと言えばよかったじゃないですか。何時何分、あの交差点でナントカいう名の少年が飛び出さないように見張ってろ、とか」

「ええ……あたしも教えて欲しかった。でもダメなんです。あたしは何も教えてもらえないの。きっとあたしが能力不足だからだわ……命令に従ってるだけ。今日だって」

 また朝比奈さん大人バージョンのナイスなスタイルがちらついた。

「そういうわけでもないんじゃあ……」

 取り繕うように言う俺に対し、栗色の髪は今日一番の横移動をする。

「いいえ、そうなんです。こんな重大な役目だったのに、全然知らされないなんて、普通だったらありえない。どうして……こんな……」

 消えかけていた嗚咽が復活してしまった。話を変えて様子も変えよう。

「だいたい、あの子供は誰だったんですか?」

 ぐすぐすと鼻を鳴らしていた朝比奈さんは、しばらく間を空けてから、

「……あの人はあたしたちの未来にとって、とても大切な人です。あの人がいたからあたしはこの時間帯にいられる。なくてはならない人だったんです……」

 小さい声はますます消え入りそうに、

「それ以上のことは……ごめんなさい……」

 つまり誰だか知らないが、あの少年をここで亡き者にするわけにはいかなかったということか。それで事故を未然に防ぐために朝比奈さんが命を受け、俺を連れてその場に居合わせるという計画で、----と。

 もし、あの眼鏡少年の背をつかむのが一秒でも遅れていたら、彼は爆走してきたワンボックスカーのバンパーとまともに正面衝突していただろう。その結果として少年がどうなったかは解らないが、おそらく最悪の結末を迎えたように思う。奇跡でも起こらない限り、少年はこの世からグッドバイを宣告されていた可能性が高い。

「ん?」

 待てよ、どっちが正しい歴史なんだ? 俺は少年を助けた。これは今の現実だ。では未来ではどうなっていたんだ? 朝比奈さんの未来にとって少年が今日ここで事故に遭うというのはすでにあった歴史だったのか? それだと困るから朝比奈さんと俺を使って助けた……。

 いや、おかしい。

 俺が助けたということは、あの少年が事故をすんでのところで回避したのは歴史的事実のはずだ。それは未来でも同じになっていなきゃならない。でないと、朝比奈さんの未来はこの現在と地続きでないということになってしまう。ならば、未来としては少年は事故に遭わなかったのだから、わざわざ過去に戻って助ける必要もなく……でもそれでは事故に遭うから……。

「痛てて……」

 頭の芯がずきずきする。

 どうもいかんね。難しいことを考えていると耳から焦げ臭い煙が出てきそうになるぜ。

「よく解りませんね」

 俺は正直なところを口にした。

「あの子供が事故に遭ったのか、遭わなかったのか、どっちが正しい事実だったのか、俺にはうまく理解できませんが」

 迷うように頭を揺らし、朝比奈さんは水滴のような声で、

「未来から来ている人間はあたしたちだけじゃないんです。あたしたちの未来を望まない人たちだっているの……。だから……」

 モスグリーンのワンボックスカー。殺意に満ちた暴走。

「もしかして……」

 様々な記憶が同じことを叫び始めた。

 一つは朝倉涼子だ。あいつは長門と別の意見を持っていた情報統合思念体内の急進派だった。

 もう一つは古泉が言っていた『機関』以外の別組織。なにやら水面下で抗争しているとかいう冗談っぽい話を聞かされた覚えがある。

 またもう一つは最も記憶に新しい。あの雪山で遭遇した館の創造主。長門にすら解析できなかった謎の異空間。我々SOS団の敵、とか古泉は呼んだ。

 そのうちのどれかの仕業か。敵。イヤな言葉だ。

 本来なら生きていなければならない人間を過去の段階で抹消する。あの少年が生きていては困る連中がどこかにいるというのだろうか。

 あたしたちの未来を望まない人たち----。

 どこの誰で何者だ?

「それは……」

 朝比奈さんの唇が小さく震えた。言葉を発しようとして、すぐにあきらめの表情を作った。

「……今のあたしには言えません……まだ、ダメみたい」

 また泣き声モード。

「それが情けないの。自分が、とっても。あたしは何もできない。解らせてももらえない」

 そうではない。

 朝比奈さんは何もできないんじゃない。できないようにされているだけだ。そうしているのは朝比奈さん、もっと未来のあなた本人なんですよ。

 とは言えなかった。

 最初の七夕騒動時、俺はやはりこのベンチで大人版朝比奈さんと約束をしていたからだ。指切りまでした。

『わたしのことはこの子には内緒にしておいてください』

 いつまで有効な拘束力を持つ言葉なのかは解らない。解らない以上、俺はこの朝比奈さんにも言えない。自分でも解らん。だが言わないほうがいいような気が物凄くするんだ。

 俺の沈黙をどう受け取ったか、朝比奈さんは恥じ入るような声で言った。

「さっきだって、あの子を助けてくれたのはキョンくんでしょう? 未来の人間がダイレクトに干渉するのは、ものすごく厳密に制限されているから……」

 そうなのか。

「過去を変えるのは、その時代に生きている人じゃないとダメなんです。それ以外のことはルール違反だから……」

 それで俺の出番だったというわけか。

「あたしは上の人に言われて、何にも知らないまま従っているだけ。自分がやっていることの意味もわかってないんです。そう考えると、すごく……自分がバカみたいで」

 そんなことはない。

「もっと色んなことを教えてくれるように、がんばって申請書を書いてるんですけど、いつもリジェクト。それはあたしがダメダメだからなんです、きっと」

 だから、そうではない。

 俺はとうとう口を開いた。

「何もしてくれてないわけないですよ。あなたは充分すぎるくらい、俺にもSOS団にも世界にも貢献してくれている。気に病むことはないんだ」

 ふっと顔を上げた朝比奈さんだったが、涙に濡れた瞳はすぐに地面に落ちた。

「……でも、あたしはお洋服をいろいろ着替えることくらいしか……」 沈んだ声だった。「それに……あの時だって、あたしは何も解らないまま……」

 そのぶん俺の声が浮上する。あの時、十二月十八日----

「違います」

 俺にしては明確な意思表示だったと思う。朝比奈さんもそう思ったらしく、ちょっと驚いた顔で見上げてくれた。

 断じて朝比奈さんはただのお茶くみメイドマスコットなんかじゃない。俺は艶やかに微笑むグラマラスビューティ、成長した朝比奈さんを脳裏に浮かべた。

 白雪姫。ハルヒと一緒に閉じこめられた閉鎖空間から帰って来れたのは彼女の一言ヒントがあったからだ。

 三年前の七夕。朝比奈さんといったん時間遡行していたから、俺は朝比奈さん(大)のもとに向かい、待機中の長門に助力を仰ぎに行けた。

 そして、別の歴史に変化していた世界を元に戻しに行くこともできた----。

 ああ、そんときの話がまだだったな。少々長い話になりそうなので詳細はまた近いうちに説明するが、手短に言うと俺たちがそれをやったのは冬合宿が終了してすぐのことだ。俺と長門と朝比奈さんの三人であの時へと時間遡行し、そこで俺は虫の息の自分と、長門は改変後の自分と出会い、すべきことを果たした。そこまではこの朝比奈さんの記憶にもあるはずだ。しかし俺や長門と違って朝比奈さんはそこに未来の自分がいたことに気づけなかった。朝比奈さん(大)がそうした。

 間違いないのはどちらも同じ朝比奈さんだってことだ。俺のことを知らなかった改変時空の朝比奈さんとは違う。長門風に言うなら異時間同位体ってやつだ。

 今のこの朝比奈さんが上司だかなんだかの指令で解らないまま動いているにすぎないらしい、というのは明白で、させているのは、やはり朝比奈さん(大)だろう。大人になった朝比奈さんは自分が何を知り、何を知らずにいたかを正確に知っている。自分自身のことなのだから。

 今の朝比奈さんが知っていいことなら、朝比奈さん(大)がとっくに教えている。そうでないということは、俺が教えて差し上げることもできない。あの時そこにいたのが誰だったか、ここで言うわけにはいかない。朝比奈さん(大)はそう望み、俺は約束をした。

 確かにだ、あなたより心持ちグラマー美女となったあなたが未来から来て色々やってくれました、と言ってのけるのは簡単さ。どのくらい簡単かというと、二度目の時間遡行で例の七夕の夜に戻った俺が、公園のベンチで膝枕されていた俺をたたき起こし、そいつにすべてをゲロるくらいに簡単なことと言える。もちろん俺はそんなことをしなかったし、されてもいない。されていないからこそ、してはいけなかったのだ。その代わり、俺はしなければならないことだけはしたはずだ。

 今の朝比奈さんはいつか未来へと帰ってしまう。そうして朝比奈さん(大)としてまた俺たちを助けに戻ってきてくれる。確かに今の彼女はSOS団専属メイドを天職としてもいいくらいだが、だからといって無駄にそうしているわけじゃない。ちゃんと繋がっている。今があったから未来もある。ここで違う要素を入れてしまえば、おのずと未来も違ってきてしまうのだろう----。

 ここまで考えて、俺は気づいた。

「そうか」

 言いたい。でも言えない。言うわけにはいかない----というこのムズ痒さをどう表現すべきか理解できた気がする。これがアレなんだ。

 去年の春、第一回不思議探しツアーを思い出せ。朝比奈さんと並んで歩き、葉桜の繁る下で彼女から聞いた未来人告白と時間旅行の理屈をだ。説明になっているのかなっていないのか解らんような、時間平面がどうしたとかいう要領を得ないトンデモ講義。

 あのとき、何を訊いても彼女はこう答えた。

『禁則事項です』

 今俺が感じている感覚は、きっと当時の朝比奈さんが感じていた思いと同じもののはずだ。そう、ここで彼女に教えてあげるわけにはいかないんだ。

「朝比奈さん」

 しかし、それでも何かを伝えたくて、俺は口を開いた。

「はい?」

 朝比奈さんは潤んだ瞳を大きく開いて俺を見つめている。

「ええと、ですね。実は……朝比奈さんは……何というか、けっしてハルヒのオモチャ代わりではなくて、あー、何だ。水面下というか、背後でというか、えー。うう」

 言葉を選びながらの俺のセリフは、結局長くも続かず尻切れで終息することとなった。ダメだ、何を言っても余計なことを口走りそうである。もどかしいったらねえな。部室でちょこまかしてくれてるだけでお腹いっぱいです、くらいの無難な慰め方しか思いつかん。ここに古泉がいたら気の利いた気障セリフを一ダースほどレクチャーしてくれそうだったが、あいつだろうが長門だろうがホイホイと世話になるのは、もう慎んでいたいんだ。これは俺の問題だ。

 といってもニホンザルにハイエンドPCをくれてやったとしてもマトモな使い方をしないのと同じで、俺の頭脳も何か現状打破のためになるボキャブラリーをアウトプットしたりはしなかった。

「あのですね……いや……」

 肉体的なアクションを与えてやれば電流の走りもよくなるかと思い、頭を抱えて側頭部をノックしても同じことで、

「……うーむむ」

 結果として俺はうんうんと唸りながらこめかみをグリグリし続けた。

 朝比奈さんがこう言うまで。

「キョンくん、もういいです」

 慌てて顔を上げると、朝比奈さんは潤んだ目のまま、だがハッキリと微笑んでいた。

「もういいです」

 繰り返し、

「わかりましたから。キョンくんのその……」

 緩やかな笑顔を小さくうなずかせた。

 わかった、って何が? 俺はまだ何も言っては----。

「何も言わなくていいです。それで、もう充分だから」

 朝比奈さんは閉ざした唇をほころばせ、俺に優しげなまなざしを注いでいる。その目に浮かんでいるのはとてつもなく淡くて、とんでもなく柔らかい理解の色だった。

 またもや俺は気づいた。

 何をか? 決まっているじゃないか。

 朝比奈さんが気づいた、ということに俺は気づいたのだ。

 おそらく彼女は俺の煮え切らない言葉と態度で、俺が彼女に伝えるべきではない何かを知っていると悟った。それは彼女が感じている無力感を遠くへ投げ捨てるようなことで間違いない。しかし俺はそれを言えない。なぜ言えないのか。そこまでたどり着けば出てくる解答はそんなに多くない。

「あ、」

 俺が口を開きかけたとき、朝比奈さんの片手が悠然と動いた。俺の唇に冷たくも温かくもあるものが触れる。ピンと立てた人差し指が俺の口をふさいでいた。

 充分だから。

 だから、これ以上言う必要はない。朝比奈さんは俺が発せないでいる言葉を受け取った。俺は彼女がそれを受け取ったということを知った。二人とも暗黙のうちに。

「うん」

 朝比奈さんはゆっくり指をはずして、それからその指を自分の唇に当てた。まるで上達していない、ぎこちないウインク。

「そうっすね」

 俺はそう言うだけにとどめる。

 まさしく、言葉はいらないのさ。そうじゃないか? これから投げようとする球種をキャッチャーに叫んでからモーションに入るピッチャーはいない。この世にはサインという便利なものがある。最低限の伝達事項に言葉が必要ないんだとしたら、やっぱりそんなものは使うべきでないんだ。

 なぜなら、使わなくても充分すぎるほど伝わる場合があるからだ。

 それが気持ちってやつの特殊な性質なんじゃないかい。だろう? 言葉を要しない以心伝心。ならばもう、何も言うことはない。言葉は不要だ。必要以上の饒舌は冗長なだけでなく無意味でもあるんだ。

 朝比奈さんは微笑んでる。

 そして俺も、ただ微笑み返しただけだった。

 それでいいんだ。言葉の不備は気持ちで補完できるものなのさ。

 

 翌日、月曜日。

 放課後である。全員が普段通りにそろったSOS団アジトにおいて、昨日買って来たばかりのお茶を飲み終えた団長殿が言い出した。

「ねえ、キョン」

 いつもより味わって飲んでいた俺と違い、ありがたみの何たるかをまったく教育されていないハルヒは七〇℃近い煎茶を約三秒で飲み干していた。百グラム六百円もしたんだぜ、少しは察しろってんだ。

「何だ」

 俺は答えつつ、ベスト・オブ・プリティメイズなお姿でニコニコしている上級生を目の端に捉えている。

「あ、おかわりいります?」

 朝比奈さんは空いたハルヒの湯飲みに新たなお茶を注ごうと急須を手にしたところだった。

 ハルヒは団長席にふんぞり返っていた姿勢を前のめりにし、組んだ両手の上にアゴを乗せて奇妙なセリフを放った。

「あたし、独り言を言うクセがあるのよね」

 へえ、それは知らなかった。一年近く付き合っていて初めて聞く習性だぜ。

「それも周りに人がいてもおかまいなしに」

 お前の迷言集を誰かが編纂したくなる前に治療したほうがいいように思うね。

「だから、今から独り言を言うわ。聞こえるかもしれないけど気にしないで」

 何だそれは、と俺がつっこむ前に、ハルヒは妙に高らかな声で話し出した。

「あたしん家の近所にね、とっても賢くて素直な子がいるのよね。ハカセくんみたいな眼鏡かけてて、いかにも頭良さそうな顔してるんだけど。名前はね……」

 最近どこかで聞いたに違いない名をハルヒが告げ、室温に関係なく俺の背筋が寒くなる。

 急須を傾けかけたまま、朝比奈さんも凍り付いていた。

 ハルヒだけが調子を変えず、

「たまーに、その子の勉強見てあげてんの。んで、昨日もそうだったわけよ。でね、こんなことを言うわけよ。ウサギのお姉ちゃんが男の人と一緒にいたってねーえ」

 ハルヒは不吉な笑みをひけらかしつつ、

「秋の映画撮影んときにロケ現場にいたらしいわ。バニーのみくるちゃんのことをちゃぁんと覚えていたわよ。ついでだから男のほうの人相風体も訊いてみたの。そのモンタージュがこれ」

 どこからか取り出したノートの切れ端にへタウマなタッチで描かれているのは、ううむ、なんとなく毎日鏡の中で見ている顔に酷似しているような気がした。つうか、それ俺だよな、どう見ても。

「うふふふん?」

 ハルヒは意味深に笑う。

 あのガキ、なんつう口が軽くて絵心のあるヤツだったんだ。将来学者にでもなるんじゃなかったのか? 目指しているのは画家なのか? そうと知っていれば買収してでも舌と手を動かないようにしておいたものを。

 俺は視線をクロールさせながら救い主が割り込んで来やしないかと三秒ほど待った。

 朝比奈さんはガタガタ震えているだけで声帯の機能を停止させており、ここで突然新たな登場人物が扉を開く可能性は低そうだったので、自然と目の赴く先は限られる。

「…………」

 長門のマイナス4℃くらいに暖まった視線とぶつかった。なぜか胃が痛くなる。

 もう一人の古泉はハーフスマイルでノータッチを楽しんでいるし、待てよ、ひょっとしたらこの二人、全部解っていて黙っているな?

「んで?」

 ハルヒは唐辛子をまぶしたオブラートでワライタケの粉末を包んで飲んだ直後のような表情をして、つまり何だか表現しがたい笑みともヒョットコともつかぬ顔で言った。

「昨日、あんたとみくるちゃんが、どこで何をしていたのか言ってみなさい。ええ、きっと怒らないから」

 青いペンキをかぶったアマガエルのように青ざめていく朝比奈さんを横目で見ながら、俺は三ダースほどのアナコンダに囲まれたヒキガエルのように汗を流し始めた。

 なにやら幻覚を見る思いだ。ハルヒから立ち上る原色のオーラが闘気を形作り、長門の背後にある透明な壁とぶつかって火花を散らしたようなというか、まあそんなのが。

「失礼」

 古泉が立ち上がり、見えるはずのない火花を避けるように椅子を持って窓際に移動した。

 そして、どうぞ続きをと言わんばかりに両手を広げて爽やかスマイル。

 おのれ古泉、あとでとっちめてやるぜ。ハイレートの賭けセブンブリッジかなんかでな。覚えてやがれ。

「あー……。ええとだ……」

 さて、今度はどんな嘘っぱちを思いつけばいいのだろう。考えている余裕がないので誰でもいいから協力を乞いたい。できれば電報で頼む。速達では間に合いそうにないからな。

 呻吟する俺にハルヒが重ねて言った。

「教えなさい。あたしや有希や古泉くんにも解るように、最後までみっちりとね。でないと……」

ハルヒは息を吸い込み、わざとらしい笑顔を作って宣告した。

「二人まとめてとびっきりの罰ゲームをやってもらうからね! そうねぇ、こんなのはどう?」

 血の池地獄に落ちるよりももっと恐ろしい非道な計画をさらりと発表したハルヒの前で、俺と朝比奈さんは顔を見合わせて大いに震え上がった。

  その後、部室で何がおこなわれたかは、特別言葉を費やす必要はないだろう。

 ハルヒの不自然に不気味な笑顔と、長門のいつもよりそっけない無表情と、古泉の野次馬めいた微笑を一身に浴びることになった俺が、砂漠で野ざらしにされていたスポンジから水分を搾り取ろうとするかのようなイイワケ探しにあけくれたり、そんな俺の横で朝比奈さんがヤカンと茶筒を抱きしめてひたすらおろおろしていたなんて----

 あえて言うまでもないことだと思うんでね。

 

あとがき

 

 本来ならこのあたりで長編が登場するはずだったのですが、またしても中短編が無節操に集合しているという本作が先に出ることになりました。これまで長編、長編、短編集、長編、短編集と続いていたため偶然にも今回で反回文的な対象性が完成したわけで、確かに偶然以外の何ものでもないのですが。

 

「ライブアライブ」

せっかくの文化祭なのに当日の出来事を何一つ描写していないことに妙な後ろ髪を引かれていたため、つらつらと考えていた話を文章化する必要に駆られて書いた記憶があります。どちらかと言えばハルヒがメインの回。

「朝比奈ミクルの冒険 Episode OO」

次回、「長門ユキの逆襲 Episode OO」および、三部作完結編「古泉イツキの覚醒 Episode 00」に引き続くかどうかは----ちょいと僕にも解りません。監督の気分しだいといったところでしょうか。ハルヒのハの字も出てこない話。

「ヒトメボレLOVER」

『消失』以降「雪山症候群」以前の挿話。アメフトは昔から好きなスポーツでけっこう観ていたりするのですが、地上波では滅多にライブで観られないので結果を先に知ってしまうことが多くて残念です。どう見ても長門がメインの話。

「猫はどこに行った?」

このような話を考えるハメになったのも「雪山症候群」で古泉が猫がどうとか言ってたせいです。少しは考える身にもなって欲しいとしみじみ思いました。なんとなく、ハルヒと鶴屋さんがメインのような気がします。

「朝比奈みくるの憂鬱」

時系列的に、次の長編は今作からダイレクトに繋がっていることになりそうです。それまで雑誌掲載分と書き下ろし長編の連続性にそれなりに四苦八苦していたため、これで今書いてる長編がなおいっそう書きやすくなってくれる効果があれば幸いなことですが、重要なのは読みやすくなっているかどうかであって、またそれ以外の結果を僕はまったく望みません。

 このようにして六巻目を出させていただくことができました。ただただ有り難いことだと思います。本書がカタチを得るに至ったのもそのために労力を払っていただいた方々のおかげであり、これまで読んでいただいている皆様のおかげです。伏してお礼申し上げます。

 それではまたっ。

 

角川源義

 

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以って体験した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた。これは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。

 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化と秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。

一九四九年五月三日