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青苧を謙信時代から管理していたは、捏造か?天正16年(1588年)、青苧役、...

yamamotomomokohさん

青苧を謙信時代から管理していたは、捏造か?天正16年(1588年)、青苧役、上杉景勝朱印状、歴代古案。謙信死後11年も経過。

謙信時代以前の史料が、ありませんが。

http://books.google.co.jp/books?id=86szAAAAMAAJ&q=%E6%AD%B4%E4%BB%A...

補足
つまり、謙信時代の史料は、上杉家文書しかないわけですよね?歴代古案も後世編纂物であり、信憑性は薄い。青苧の取引台帳みたいなもんが残ってないでしょう。だから、莫大な収入を得て富裕だっただのありえんだろ。信長が入京以降は、越前からの商人の出入りを規制して関所を設置していることが判明している。謙信が、青苧を京都に出荷して莫大な利益を上げて信長に対抗しただの破っただのお笑い。

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(4件中1〜4件)

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kihorosyuさん

まぁ上杉ゆかりの団体か縁者かなんかのロビー活動で国宝に指定されたんじゃないかね?

世の中建前があることもわかんないで騒いでる謙信妄信者は無視しといていいよ。
秀吉在世当時、大坂在勤の上杉家家臣たちは誇張した謙信神話を他家や出入り業者、その他関係者に積極的に流布してまわっていた。そんなとこから尾ひれがついたわけの分からん話しも巷にあふれとる。
謙信なんて病的に好戦的な人物で、必要のない戦をしかけまくった悪人だよ。なんの価値も残してない。義とかお笑いであって、自分の欲望を正当化する糞スローガン以外にはないね。

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rekisicengokuさん

上杉家文書は国宝に指定されています。wikipediaより引用:国宝=日本の文化財保護法によって国が指定した有形文化財(重要文化財)のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものであるとして国(文部科学大臣)が指定したものである。重要文化財・国宝と重要文化財=重要文化財のうち製作が特に優れたもの、歴史上特に意義の深いものなど学術的に価値の特に高いものが国宝に指定される。法的には国宝も重要文化財の一種である。
デタラメばかりで信憑性がない書が、「世界文化の見地から価値の高いもの、歴史上特に意義の深いものなど学術的に価値の特に高いもの」として指定されるのか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1048406150

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yoh1kojimaさん

謙信どころか、すでに為景の頃に越後の青苧は守護代・長尾氏の管理下に移っていました。

「實隆公記」の大永三年の後半の記事には、青苧の公事銭に関する記述が繰り返しでてきます。
これは、三条西家こそが天王寺にあった青苧の本所であったのがその権益からくる収入が滞ってしまっていることに対して、この頃、著者の三条西實隆があれこれと対策を講じていたからです。

この史料からは、三条西家に天王寺商人が頻繁に訪れていたことが書かれており、相談が繰り返されていたようですし、越後の京都代表部といえる神余昌綱も越後と京都を何度か往復していたことがわかります。
越前では三条西家の働きかけで越後から青苧を運んできた船が「留置」されたりもしましたが、結局三条西家は元通り公事銭を得るようにはならなかったようです。

ところで、これより少し前、大永三年六月十日付で、實隆(聴雪)が為景(長尾信濃守)に宛てて書いた書状が残されています。(「上杉家文書」に収録)
これは、實隆が「両年未納」となっている「青苧公銭」を、このために越後に使者をわざわざやったので、納めて欲しいというもので、これにより前記のやりとりの背景がよりはっきりと理解できます。

さらに、同時期に為景のちょっと興味深い動きがあります。「後法成寺関白記」には大永三年十月七日に、著者・近衛尚通に為景が「越布十端」を贈った記事があります。
このとき、為景がなんのために関白にプレゼントを贈ったのか?為景は頻繁に尚通にプレゼントを贈っていたというわけではない。それがよりにもよってこの時期になぜ接触したのか?
のちに尚通が為景宛に書いた書状によると、為景が尚通に手蹟(と刀)を求めたらしいことはわかるのですが、タイミングがタイミングだけに、為景の本当の目的は六月に彼が受け取った實隆からの書状で、青苧の権益に関する争いが起こることを見越しての、政治工作だったと考えることも可能なのです。
(越布十端には当然手紙がついていたはずであり、おそらく神余昌綱が持参して面談もしたはずです。そこで「手蹟が欲しい」というのを表向きの頼みとしながら、「青苧に関する権益を認めて欲しい」というようなことも頼んだと思われるというわけです)

480年くらいも前の青苧を巡る両者の行動ですが、意外と記録に残っているものです。

以上、すでに為景の代に「越後産の青苧」に関する利権の実質が三条西家および天王寺の青苧座から、越後の守護代に移ったことがわかります。そして、謙信もそれを継いで越後の青苧をコントロールしていたとみなせます。

なお、謙信時代の史料としても、永禄三年五月十三日付の「上杉氏老臣連署條目」と呼ばれる文書に青苧のことがでてきます。
これは、越後府内の免税を公布する文書なのですが、湊に入港する舟の積荷のうち、青苧は、例外的に荷物検査を続けるとされています。このことから、青苧は、税収の中で別格扱いをされていること、多分、収入源としてのウェイトが大きかったであろうことがわかります。
また、永禄七年、当時戦災で荒廃していた柏崎の町を再興するために出された「柏崎町中制札案」にも、「一於 青苧役者、如所々(前々か)厳重可究済事」とあり、青苧が管理の対象であったことがわかります。
全文を読めばわかることですが、全6項あるうちのこれは第2項であるとともに、「青苧役」のような課税について触れたものはこの項だけであることから、この制札全文からは、青苧がたいへん重視されている物資であったという印象を受けます。

いうまでもなく、「實隆公記」や「後法成寺関白記」は正真正銘の”第一級の史料”ですね(これに比べれば「信長公記」なんぞは”1.5級史料”)。「上杉家文書」も各年代の原文史料が多く残されている(たとえば信長からの書状には信長の花押が確認できるものもある)古文書の集積であって、前記のように他の史料に呼応して矛盾しない史料が多く含まれており、史料的価値は高いといえる。

>謙信時代以前の史料が、ありませんが。
リンク先がなぜ「史料がない」と断ずる根拠になるのか理解不能。というか、あまりにも調べ方の基本を知らなさすぎる。それでも、そのことを自覚して「史料があれば教えてください」と質問するのならまともといえるけど、それを「捏造か」と決めつけると、自分で世間に恥を晒すことになるだけなのがなぜわからないのでしょうねえ?

追記:
「為景の時代に青苧管理が移った」ことを示した。それが謙信時代になくなったと主張するなら、証明責任は質問者にある。
また、誰でも探し出せる範囲で謙信時代の青苧管理を示す文書2点を示したが「これですべてだ」といった覚えはない。探せばまだみつかるはず。
上杉家文書は、「歴代古案」のような編集されたものではないとはすでに説明した。
その「歴代古案」を検索してみたのは質問者。自分で方法が間違っているとは感じないのか?

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  • 編集日時:2010/10/10 17:16:52
  • 回答日時:2010/10/9 23:40:46

kanetan0102さん

いつものように日本語がおかしいので、意味がよくわかりませんが、
あなたの指摘はこの本に引用されている一番古い史料が天正16
年のものというだけです。
謙信以前、文明年間の青苧と上杉氏の関連を記した書状を見
ても、上杉氏が幕府による青苧の販売ルートの管理を否定しよう
としていることは分かりますよ。

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  • 編集日時:2010/10/9 20:48:52
  • 回答日時:2010/10/9 01:53:52

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