
日本への複雑な気持ちを語るうち、徐々に口調は熱くなった
●朴 寛淳さん(79)=終戦時15歳
僕は、1945年に朝鮮が日本統治から解放されたとき、官立光州(クアンジュ)師範学校(全羅南道(チョルラナムド)光州市)の3年生で15歳だった。
それまでは日本の支配を意識せずに月日が流れていたけれども、戦後教壇に立ち、大人になるに連れてだんだんと当時のことを考えるようになったんだよ。
心の傷っていうのか、嫌なのはこうして暮らしていて、ふっと口をついて出る鼻歌が日本の歌だってことなんだ。たとえば「荒城の月」。
春高楼の花の宴…
2番はもっといい。
秋陣営の霜の色…
小学校の授業で習ったそのままが頭に残っている。韓国の歌はほとんど出てこないんだ。
学生のときは小説家になるのが夢だった。夏目漱石も森鴎外も志賀直哉も日本語で読んだ。
しかし夢はかなわず。その責任はもちろん自分にあるんだが、途中で(日本から韓国に)国が変わって、一生を棒に振ったような感じがしないでもない。かといって最初から韓国だったとして同じ志を立てられたかというと、これはもちろん疑問だけれども。
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2男3女の長男で、父が僕の教育のため田舎町から光州に移住して開いた雑
貨店で育った。
小学校に入ったのは37年。翌年には朝鮮語の授業が必須科目から外され(41年に廃止)、学校で朝鮮語を使ったら罰を受けた。「週番」という腕章を着けた上級生が手帳に名前を書いて先生に知らせ、立たされたり掃除をさせられたりした。「朝鮮語を使って罰をくった日」という歌もあったくらいだ。
自分で言うのも何だが、僕は優等生で、日本語もなまりがないくらい自然に使っていたから、先生に告げ口されることはなかったけれども。
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日本は、教師を養成する官立師範学校を10校近くつくり、僕は光州師範学校の6期生だった。入学したのは43年。太平洋戦争は終盤で日本の敗退が続いていた。
前後して師範学校では「反乱」が起きていた。僕の入学前には、タジカという体育教師の暴力がひどいことに抗議して1期生十数人が授業をボイコットし退学になった。「ハングル(朝鮮語の文字)読書会」を開いた4期生など数人は逮捕され、終戦と同時に監獄を出た。
日本統治の時代(10―45年)は、苦しみながら生きた人が大部分だよ。「江南寛淳(えなみひろあつ)」という朝鮮本籍を持つ日本人だった僕も、もし「日帝時代」が終わっていなかったら、日本人の上司なんかから蔑視(べっし)され続けたのだろうかと。
終戦後、日本人が半数だった光州師範6期生の同窓会が日本であった。尊敬する日本人の先生が校歌を「歌え」とはやし立てたけれども、僕は応じなかった。「使命新たに奮い立つ スメラミクニ(皇御国)の…」と皇国日本を賛美する歌を歌えるはずがない。
同級生に会えば懐かしいが、何か癒やされないねえ。あの時代へのわだかまりはどうしても消しきれない。これからは起きてはいけないことだ。
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▼朝鮮語追放 朝鮮総督府(日本の統治機構)は当初、ハングル教育により識字率を高めたが、一般の授業は日本語で行った。日中戦争(37年)以降は、「朝鮮日報」「東亜日報」の有力2紙廃刊(40年)など朝鮮語を事実上追放した。
=2009/08/07付 西日本新聞朝刊=