第五巻 涼宮ハルヒの暴走

【Volume 5 — Suzumiya Haruhi no Bousou】



 

CONTENTS

 

序章・夏
エンドレスエイト
序章・秋
射手座の日
序章・冬
雪山症候群
あとがき

 

序章・夏

 

 溜息にまみれた映画撮影以前、高校がまだ夏の長期休暇中での話だ。

 孤島でトンチキな推理劇を演じることになったSOS団夏季合宿から帰ってきて数日が経過し、ようやく俺は夏休み気分を味わい始めていた。

 なんせ強制連行も同然に連れて行かれた自称合宿は、こらえ性のない団長によって出発日時が夏休み初日に設定されていたもんだから、長い休みの初日の数日くらいは誰にも文句を言われず昼過ぎまで寝続ける日々を送ろうとしていた俺の周到な計画もあえなく破綻、おかげで身体が例年通りの夏休みモードに切り替わったのは七月も残り少なくなってからである。

 言うまでもなく学校からわんさと背負わされた課題の山なんてのを切り崩す気になんか全然ならず、なーにこんなもん八月にやりゃいいのさとかノンビリ構えているうちに七月はあっさり終了しちまい、八月に入ったら入ったで俺は見事なハシャギぶりでそこら中を飛び跳ねる妹を伴って田舎へ赴き、久しぶりに顔を合わせたイトコやらハトコやら甥やら姪やらと二週間ばかり川や海や山や草原で誰かにザマミロと言ってやりたいほど心ゆくまで遊び倒してやった。

 もちろんやりたくもない課題になんぞ、学習能力のある鳥が毒蛾の幼虫を忌避するがごとく手を出すことはなく、結果として設問を何一つ解くことなく遊びほうけた日数だけがカレンダー上に刻まれて、いつの間にやら八月も半ばを過ぎようとしていた頃……。

 それは人知れず始まっていた……

 らしい。

 

エンドレスエイト

 

 何かがおかしい。

 そう気付き始めたのは、お盆を過ぎた夏の盛りの日のことだった。

 その時、俺は家の居間でダラダラしながら別に見たくもない高校野球をテレビで眺めていた。うっかり午前中なんかに起きてしまったせいで、ヒマではあるが山と積まれた夏休みの課題に立ち向かうほど気力に満ちあふれているわけでもない、という程度には時間を持て余していたのである。

 テレビに映る試合は俺とはまったく縁もゆかりも行ったこともない同県同士の闘いだが、判官贔屓的精神により7対0で負けているほうをなんとなく応援していると、何故だか解らないがそろそろハルヒが騒ぎ出すような気が、これもなんとなくした。

 ここしばらくハルヒとは顔を合わせていない。俺は妹を連れて母親の実家がある田舎まで避暑と先祖供養を兼ねて遠出しており、昨日帰ってきたばかりだ。それは毎年の行事だからであったわけなのだが、そもそも夏休みなんだからそうそうSOS団の連中とも会う機会はなく、当たり前と言えばその通りである。それに休みに入るや否や変な島に行って変な目に遭うというSOS団夏季合宿はとっくにすんでいる。いくらハルヒでも小旅行第二弾を言い出したりはしないだろう。それなりに満足している頃合だ。

「それにしても」

 俺は呟き、どういうわけだか俺は鳴ってもいない携帯電話を、ふと----本当にふと、ストラップに指を引っかけて手元に引き寄せた時、部屋のどこかに隠しカメラでも仕込んであるのかと疑うべき事態が発生した。

 まさにベストタイミングとしか言いようのない無駄のなさ、電話が着信音をがなり立て始めやがったのだ。予知能力に目覚めてしまったのかと一瞬考え、頭を振って放棄する。バカらしい。

「何だってんだ」

 表示されている電話の主は、まさしく涼宮ハルヒに相違ない。

 俺はスリーコールほど間を持たせた後、これまたなんとなくゆっくりと通話ボタンを押した。ハルヒが何を言い出すのか、すでに解っているような気分がして俺は自分を訝る。

『今日あんたヒマでしょう』

 というのが第一ハルヒ声だった。

『二時ジャストに駅前に全員集合だから。ちゃんと来なさいよ』

 と、言ったきり、あっさり切っちまいやがった。時候の挨拶も抜きならハローもなしだ。ついでに出たのが俺かどうかの確認すらしやがらねえ。さらに言えば、俺が今日がヒマだと何で解るんだ。これでも俺は……まあ、まったく何の予定もないわけだが。

 再び電話が鳴り出す。

「なんだ」

『持参物を言い忘れてたわ』

 早口な声が持ってくるべきものを告げて、

『それとあんたは自転車で来ること。それから充分なお金ね。おーばー♪』

 切れた。

 俺は電話を放り出して首を傾げた。何だろう、この夢の続きみたいな変な感覚は。

 涼しげな音がテレビから響いて目を遣ると、心情的敵チームの得点はとうとう二桁に達しているところだった。金属バットに硬球が当たる音が容赦なく俺に告げる。

 夏の終わりが近い。

 クーラーをガンガンに効かせた閉めきった部屋に、アブラゼミの大合唱が壁からしみ出すように漏れ届いていた。

「しょうがねえな」

 しかしハルヒの奴、夏休みが始まるや否や合宿と称して俺たちを変な島に連れて行っただけでは不十分だったのか。このクソ暑いのにいったい何をしようと言うんだ? 俺は冷房の効いている場所から動く気は全然しないぜ。

 そう思いつつ、俺は言われた通りのブツを出すために洋服箪笥へと向かった。

 

「遅いわよ、キョン。もっとやる気を見せなさい!」

 涼宮ハルヒがビニールバッグを振り回して、ご機嫌さんな顔で俺に人差し指を突きつけた。こいつは何も変わっちゃいない。

「みくるちゃんも有希も古泉くんも、あたしが来る前にはしっかり到着していたわよ。団長を待たせるなんて、あんた、何様のつもり? ペナルティよ、ペナルティ」

 集合場所に現れた最後の人物は俺だった。ちゃんと十五分前に来たってのに、他のメンツは急なハルヒの呼び出しをあらかじめ解っていたような速度で集合したらしい。おかげで毎回俺が奢るハメになるんだが、もう慣れたしあきらめたね。しょせん一介の一般人たる俺が、この特殊な背後関係を持つ三人を出し抜くことなどできはしないのさ。

 俺はハルヒを無視して、生真面目な団員たちに向けて片手を上げた。

「待たせてすみませんね」

 他の二人はともかく、この人にだけは言っておかないといけない。上品なリボン付き帽子の下で、朝比奈みくるさんはまろやかに微笑んで俺にぺこりと頭を下げた。

「だいじょうぶです。あたしも今来たとこ」

 朝比奈さんは両手でバスケットを持っていた。何か期待していいようなモノが入っていそうな気配を感じ、俺はなんとなく楽しい気分になる。いつまでもそんな気分に浸っていたかったのだが、横から邪魔者が声を割り込ませてきた。

「お久しぶりですね。あれからまた旅行にでも出かけられたんですか?」

 古泉一樹が輝かんばかりに白い歯を見せつつ俺に向かって指を立てた。胡散臭い笑顔は夏休み半ばになってもそのまま代わり映えしないようだ。お前こそどこぞに旅行へ行っていればいいものを、なんでまたホイホイとハルヒの呼び出しに素早く応じるのか疑問は尽きない。たまには断れ。

 俺は古泉の明るい偽善者面を経由して、視線をその横に転進させた。まるで古泉の影みたいに立っているのは、長門有希の無情に無機質な姿である。高校の夏服を着て、汗一つかかずに直立しているのも最早お馴染みの光景だ。汗腺があるのかどうかも疑わしい。

「…………」

 動かないネズミのオモチャを見るような目つきで長門は俺を見上げ、ゆるりと首を傾けた。会釈のつもりだろうか。

「それじゃあ、全員も揃ったことだし、出発しましょ」

 ハルヒが声を張り上げる。俺は一応の義務感にかられて訊いた。

「どこに?」

「市民プールに決まっているじゃないの」

 俺は自分の右手がつかんでいるタオルと海パン入りのスポーツバッグを見下ろした。まあ、どこかのプールが行き先だとは思っていたさ。

「夏は夏らしく、夏じみたことをしないといけないの。真っ冬に水浴びして喜べるのは白鳥とかペンギンくらいなのよね」

 奴らなら年中水浴びしてるだろうし、それも別に喜んでやってるわけじゃないだろう。そんな比較対象として相応しくない動物を挙げられてまんまと言いくるめられる俺ではないぞ。

「失った時間は決して取り戻すことは出来ないのよ。だから今やるの。このたった一度きりの高一の夏休みに!」

 いつもの調子で、ハルヒは誰の意見にも耳を貸すつもりがないようだった。基本的に俺以外の三人はハルヒに意見するなどという無駄な行為をしないので、毎度耳を貸されないのは俺の意見だけということになる。常識的に考えて理不尽そのものなのだが、確かに常識的な人間なのは俺だけだからそうなる運命なのかもしれん。いやな運命だな。

 俺が運命と宿命の違いについて考えていると、

「プールまでは自転車で行くわよ」

 ハルヒ宣言が発せられ、誰も賛同していないのに勝手に実行されることになった。

 聞けば古泉も自転車で来させられたのだと言う。女三人組は徒歩でここまでやって来たのだそうだ。ちなみに自転車は合計二台。SOS団のメンツは五人。さてどうするつもりなのか。

 ハルヒは明るく言い放った。

「二人乗りと三人乗りでちょうどいいじゃない。古泉くん、あなたはみくるちゃんを乗せてあげなさい。あたしと有希はキョンの後ろに乗るから」

 

 そんなわけで、俺は必死にペダルを踏みしめている。暑くて汗ダラダラであるのはまだしも、俺の頭の後ろでさっきから音量調節機能が故障したスピーカーみたいな声がずっと響いているのはどうにかして欲しい。

「ほらキョン! 古泉くんに置いてかれるわよ! しっかり漕ぎなさい! もっと速く、追い抜くのっ!」

 俺の霞みつつある視界に、古泉の自転車の荷台にて横座りしている朝比奈さんが控えめに片手を振っているお姿が映った。どうして古泉はアレで、俺がコレなんだ。不公平という言葉の語源は今の俺の状況なのではないかと思えてくるくらいだ。

 俺の自転車と両脚は、襲い来る負荷に耐え難きを堪え忍んでいるところである。荷台にちょこんと座っているのが長門で、後輪のステップに足を乗せて俺の両肩をつかんでいるのがハルヒという、曲芸じみた三人乗りだ。いつからSOS団は雑技団を目指すようになったのか。

 ちなみに走り出す前、ハルヒはこう言った。

「有希はちっこいし、体重なんてあってなきがごとしだわ」

 確かにその通りだった。まるで自重をゼロにしているのか、反重力でも使っているのかは不明だが、漕いでいる感覚ではハルヒ分の重みしか感じられない。まあ、長門が重力制御してくれているのだとしてももはや驚きはない。こいつに出来ないことが何なのか、逆に知りたい。

 ハルヒの体重もどうにかしてくれたら言うことないのだが、俺の背中と肩はしっかりと重みを感じているようだ。

 朝比奈さんの頭越しにチラリと振り返る古泉の腹立たしい微笑が見え隠れして、俺はこの世のさらなる無常さを感じ、バルザック的に自らを嘆いた。くそ、帰りは絶対、朝比奈さんとの二人乗りを満喫してやりたい。この俺のママチャリだってきっとそう思っているはずさ。

 

 市民プールはいっそのこと庶民プールと看板を書き換えたほうがいいのではないかというくらいのチャチな所で、なんせ五十メートルプールが一つと、お子様用の水深十五センチくらいのでっかい水たまりしかない。

 こんなプールに泳ぎに来ようという高校生はよほど行く場所に困った奴だけであり、すなわち我々だけであった。見事にジャリどもとその親----特に母親----しか存在していない。俺はプールを埋め尽くすかのように浮いている浮き袋付きの年齢一桁台たちを一見し、すぐさまげんなりとした。どうも俺の視神経を楽しませてくれるのは朝比奈さんだけのようである。

「うん、この消毒液の匂い。いかにもって気がするわ」

 太陽光の下、深紅のタンキニを身体に貼り付かせたハルヒが目を閉じて鼻をくんくん鳴らしている。朝比奈さんの手を引くようにして更衣室から出てきた。バスケット片手の朝比奈さんは、まるで子供用みたいなヒラヒラつきワンピースで、長門は地味で飾り気のない競泳用みたいな水着である。この二人の水着もハルヒが選んだものだろう。自分の衣装には無頓着なくせに、他人の(特に朝比奈さんの)衣装にはうるさい奴だからな。

「とりあえず荷物置く場所を確保して。それから泳ぎましょ。競争よ、競争。プールの端から端まで誰が一番速く泳げるか」

 実に子供っぽいことを言い出して、準備運動もせずにざぶんとプールに飛び込んだ。あちこちに書いてある「飛び込み禁止」という言葉が読めないのか、こいつは。

「早くきなさーい! 水が温くて気持ちがいいわよ!」

 俺は肩をすくめて朝比奈さんと目を合わせ、手近な日陰に敷布やバッグを置くために歩き出した。

 

 ガキどもが異常発生したアメンボみたいに水面を覆っているため、真っ直ぐ泳ぐことは不可能であった。そのような劣悪な状況の中で実施された団員対抗五十メートル自由形競争だが、意外と思うべきかそうでないのか、どちらにしても一着になったのは長門である。

 どうやらこいつは息継ぎすることなくずっと潜水でプールの底ぎりぎりを泳いでいたらしい。顔に貼り付いたままのショートヘアから水滴を落としつつ、ゴール地点で俺たちの到着を黙って見守っていた。言うまでもないがビリは朝比奈さんである。彼女は息継ぎのたびに立ち止まり、近くに飛び込んできたビーチボールを投げ返してやったりしていて、長門の十倍くらいの時間をかけてようやく対岸までたどり着き、着いたときにはすでにフウフウ言っていた。

「スポーツで悩み事が発散されるなんて大嘘よね。身体と頭は別物なのだわ。だって身体は考えなくても動くけど、頭は考えないと回らないもの」

 ハルヒは、いかにも良いこと言ってるでしょ? 的な表情で、

「だから、もう一勝負よ。有希、今度は負けないからね!」

『だから』という接続詞はそういう場合に使うのではないということを誰かこいつに教えてやる大人はいなかったのか。何が、だから、だ。単なる負けず嫌いだろ。それも勝つまで挑戦し続けるつもりの持久力勝負だ。

 だから、俺は長門が空気を読んでくれることを期待して、プールから身体を上げた。勝負ならサシでやってくれ。俺はプールサイドで外馬をやらせてもらう。俺は長門に賭けるが、誰かハルヒにベットする奴はいないかい?

 五十メートルプールを五往復したハルヒと長門だったが、そのうちSOS団の女子ユニット三人は、たまたま居合わせた小学生グループと一緒になって水球ごっこを始めていた。すっかり手持ちぶさたとなった俺と古泉は、プールサイドに座り込んで水と戯れる彼女たちの様子を、他にすることもないので眺めている。

「楽しそうですね」

 古泉はハルヒたちを見つめて、

「微笑ましい光景です。それに平和を感じます。涼宮さんも、けっこう常識的な楽しみ方を身につけてきたと思いませんか?」

 俺に言っているらしいので、答えてやることにする。

「いきなり電話かけてきて一方的に用件だけ言って切っちまうような誘い方はあまり常識的とは言えないだろ」

「思い立ったが吉日という言葉もあることですし」

「あいつが何かを思い立って、それで俺たちが凶以外のクジを引いたことなんてあったか?」

 俺の脳裏には、アホみたいな草野球とかバカみたいに巨大なカマドウマの姿が去来していた。

 古泉はスマイリーな口調で、

「それでも、僕から言わせてもらえばこんなのは充分以上に平和ですよ。ああやって楽しげに笑っている涼宮さんは、この世を揺るがすようなことはしないでしょうからね」

 だといいのだが。

 俺がわざとらしく溜息をついたのをどう取ったか、軽く鼻を鳴らすように笑い……、

 ----その時、古泉は奇妙な表情を見せた。見慣れない表情である。つまり、薄ら笑い以外の顔つきになったのだ。

「ん?」

 と、古泉は眉を寄せるような仕草を取る。

「どうした」と俺は訊いた。

「いえ……」

 珍しく歯切れ悪く、古泉は言いよどむ態度を作ったが、すぐに微笑を取り戻した。

「たぶん僕の気のせいです。春先から色々あったせいで、ちょっと神経質になっているだけでしょう。あ、上がってこられましたよ」

 古泉が指した方向から、雛の元にエサを運ぶ皇帝ペンギンのような勢いでハルヒが歩いてくるのが見えた。満面の笑顔。その後から、城から出奔した姫君に付き従うような雰囲気で、朝比奈さんと長門がついてくる。

「そろそろゴハンにしましょう。なんと! みくるちゃんの手作りサンドイッチよ。時価にしたら五千円くらい、オークションに出せば五十万円くらいで売れるわ。それをあんたにタダで喰わせてあげるんだから、あたしに感謝なさい」

「あいがとうございます」

 と俺は言った。朝比奈さんに。

 古泉も俺に倣って頭を下げていた。

「恐縮です」

「いえ、いえ」

 朝比奈さんは照れ気味にうつむき、指先をもじもじさせながら、

「うまくできたかどうか解らないけど……美味しくなかったらごめんなさい」

 そんなことがあり得るはずもないね。朝比奈さんのたおやかな指先がしめやかに調理した飲食物はいつどこで何をどうしようと美味しいのさ。この際、5W1Hで最も重要なのはフーダニットの部分だからな。

 そういうわけで朝比奈さんハンドメイドのミックスサンドは感動的な味で、おかげで美味いのかどうかも解らないくらいだ。もう何でもいい。手ずから注いでくれたポットの熱い日本茶も、サンドイッチには全然合っていなかったがまるっきりのノープロブレム、吹き出す汗も心なしか清々しくすらあった。

 自分の分をあっと言う間にたいらげたハルヒは、身体中にたぎる熱量を発散させようかという勢いで、

「もう一泳ぎしてくるわ。みんなも食べ終わったら来るのよ」

 と言葉を残して、再びプールにダイブした。

 よくもまあこんな障害物だらけの所でスイスイ泳げるものだ。人類海中進化説もあながち誤りではないかもしれない。もっともハルヒの遠い祖先となったような人類なら、着の身着のままで月面に飛ばされてもそこに順応しそうだが。

 それからややあって、ゆっくりゆっくり黙々と喰い続ける長門を残し、俺たち三人は求愛中のオットセイのように水中を踊るハルヒを目指した。その頃には、ハルヒは今度は女子小学生の集団とたちどころに仲良くなっていて、水中ドッジボールに参加していた。

「みくるちゃんも、ほらこっちこっち!」

「はぁい」

 のんびりうなずいたばっかりに、直後、朝比奈さんはハルヒの放った剛速ビーチボールに顔面を直撃されて水面下に沈んだ。

 

 それから一時間ほど後、水から上がった俺と古泉は、陽気な幼児たちの金切り声に押し出されるようにプールサイドで腰掛けている。

 どうにも場違いだ。ハルヒは何を思ってこんな何もない市民プールを選んだのだろう。ウォータースライダーくらい増設してろとは言わないが、もっと快活な高校生グループが出かけそうな場所がありそうなものだが。

 じりじりと焼き付く陽光に、肌が大急ぎでメラニン色素を増強しようとしているのが解る。そういや長門も日に焼けたりするのかなと思って姿を探すと、小柄な短髪無言娘はさっきの日陰にぺたんと座り込んだまま、怜悧な瞳を宙に固定させていた。

 いつもの姿だ。どこに行っても変わりなく、土偶のように静止している長門の姿である----のだが、

「うん?」

 不可解な風が俺の心を上滑りして消えた。また、あの妙な感じだ。何だか長門が退屈そうにしているような感覚が一瞬流れる。そして既視感。次に何が起こるのか、俺はどっかで経験した。そうだ、ハルヒがこんなことを言い出すのだ----。

「この二人があたしの団員よ。何でも言うことを聞くから、何でも言っちゃいなさい」

 目をプールに戻した俺は、女子児童の群れを引き連れて俺たちの足元までやってきたハルヒを発見した。

 元気溌剌な小学生たちの相手に疲れたのか、朝比奈さんは顎まで水面に付けて軽く目を閉じている。小学生以上に悩みなく絶好調なハルヒはキラキラ輝く瞳を俺と古泉に向けて、

「さあ、遊ぶわよ。水中サッカーをするの。男二人はキーパーやってちょうだい」

 それはどんなルールのどんなスポーツだ、と聞き返す前に俺の感じたデジャブは消え失せた。

「……ああ」

 おざなりに答えながら、俺たちは立ち上がる。古泉が微笑を振りまきつつ子供たちの輪に加わっている。

 さっきの違和感は、今はもうない。

 ふむ。ま、よくあることさ。日常のある一瞬を夢で見ていたような感覚なんてのはな。それにこのプールは俺も子供時代に来たことがある。その記憶が不意に浮上したのかもしれない。あるいは脳の情報伝達に小難しいプロセスの齟齬があったのかもしれん。

 俺は近くに浮いていたイルカ型の浮き輪を押し返しつつ、ハルヒがオーバーヘッドキックの要領で蹴り飛ばした、ビーチボールを追いかけた。

 

 ふんだんに遊び果たして、ようやく俺たちは市民プールを後にした。帰りも俺は曲芸三人乗り、古泉は青春タンデムである。こうやって人の心って荒むんだな。

 荷台に女座りする朝比奈さんは、もともと色白だったためか、顔の部分部分が上気した感じに赤くなっている。その片手がサドルに跨る運転手の腰に回されているのを見て、俺の心はますます荒みゆく。耳を傾ければびゅうびゅうという荒野を吹き抜ける空っ風のまく音さえ聞こえそうな気配だよ。

 ハルヒが気ままに示す方角に自転車を漕いでいたら、集合場所の駅前に舞い戻ることになった。

 ああ、そうだったな。俺は全員に奢らなければならないのだったな。

 喫茶店に落ち着いた俺は冷たいおしぼりを頭に載せて椅子にもたれ込んだ。すかさず、

「これからの活動計画を考えてみたんだけど、どうかしら」

 テーブルに一枚の紙切れが厳かに降臨し、俺たちに見ろとばかりに人差し指が突きつけられる。破いたノートのA4紙切れ。

「何の真似だ」

 俺の質問に、ハルヒは自慢たらしい表情で、

「残り少ない夏休みをどうやって過ごすかの予定表よ」

「誰の予定表だ」

「あたしたちの。SOS団サマースペシャルシリーズよ」

 ハルヒはお冷を飲み干して、おかわりを店員に要求してから、

「ふと気付いたのよ。夏休みはもうあと二週間しかないのよね。愕然たる気分になったわ。ヤバイ! やり残したことがたくさんあるような気がするのに、それだけしか時間が残っていないわけ。ここからは巻きでいくわよ」

 ハルヒの手書き計画書には、次のような日本語が書いてある。

 

○「夏休み中にしなきゃダメなこと」

 ・夏季合宿。

 ・プール。

 ・盆踊り。

 ・花火大会。

 ・バイト。

 ・天体観測。

 ・バッティング練習。

 ・昆虫採集。

 ・肝試し。

 ・その他。

 

 夏休み熱。

 たぶん、そんな熱病がどっかの密林からチョロチョロ出てきたんじゃないだろうか。蚊だか何だかを媒介にしてウツるんだきっと。ハルヒの血を吸ったその蚊に同情するね。食あたりで落下しているだろうからな。

 上記のうち、夏季合宿とプールには大きなバッテンマークが重なっていた。どうやら終了済みという印らしい。

 するとだ、あと以下これだけのメニューを二週間足らずでこなさないといけないわけか。しかも「その他」って何だ。まだ何かするというのか。

「何か思いついたらするけどね。今んところはこれくらいよ。あんたは何かしたいことある? みくるちゃんは?」

「えーと……」

 真面目に考え始める朝比奈さんに、俺は横目を使ってメッセージを送る。あまり突飛なことは言わないほうが……。

「あたしは金魚すくいがいいです」

「オッケー」

 ハルヒの持つボールペンがリストに新たな一項目を付け加えた。

 さらにハルヒは長門と古泉の要望も聞こうとしたが、長門は黙って首を振り、古泉も微笑みながら固辞した。正しい選択だな。

「ちょっと失礼」

 はやばやとアイスオーレを空にした古泉が、用紙をつまみ上げてしげしげ見つめ始めた。考えているような、何かを追い出そうとしているような風情だが、こんなイベント列挙に思い当たるフシでもあるのか。

 長門が音もなくソーダ水をストローで吸っているだけの光景がしばし続き、

「どうも」

 古泉はハルヒ称するところの計画表を卓上に戻して、かすかに首をひねった。何のつもりだ。

「明日から決行よ。明日もこの駅前に集まること! この近くで明日に盆踊りやってるとこってある? 花火大会でもいいけど」

 せめて調べてから決行してくれ。

「僕が調べておきましょう」

 古泉が買って出た。

「おって涼宮さんに連絡します。とりあえずは盆踊り。または花火大会の開催場所ですね」

「金魚すくいも忘れないでね、古泉くん。みくるちゃんのたっての希望なんだから」

「盆踊りと縁日がセットになっているところを探したほうがよいでしょうね」

「うん、おねがい。任せたわよ古泉くん」

 上機嫌にハルヒはコーヒーフロートのアイスを一口で飲み込み、宝島の在処を示す地図でも仕舞うような手つきでノートの紙を畳んだ。

 

 俺に支払いさせている間に、ハルヒは大会間近のジョガーのように走り去っていった。明日に備えてたぎる思いを溜め込んでおくつもりなのかもしれない。どうせ爆発するならじわじわじゃなくて一発ドカンといってもらいたいね。破片を回収する手間がはぶけていい。

 団員四人もそれぞれにばらけて解散し、ほどよく離れたところを見計らって俺は一人の背中を呼び止めた。

「長門」

 俺の声に、夏用セーラー服を着た有機ヒューマノイドが振り返る。

「…………」

 無言の無表情が俺を見つめ返す。拒絶することも受け入れることも知らない、無機の双眸が白い顔の上で開かれていた。

 変な感じに気になった。長門がノーエモーショナルなのはいつでもどこでもだが、具体的に指摘はできないものの今日の長門は何かおかしいものがあるように思ったのだ。

「いや……」

 呼び止めたのはいいが、よく考えたら言うべき言葉がないのに気付いて俺は少しばかり狼狽した。

「何でもないんだけどな。最近どうだ? 元気でやってるか?」

 なんてバカなことを訊いてるんだ俺は。

 長門はパチリと瞬きをして、分度器で測らないと解らないくらいのうなずきを返した。

「元気」

「そりゃよかった」

「そう」

 ほんの少ししか動かないほぼ凝固顔が、ことさらに固まっているような……いや逆か、変に緩んでいるような……。なんでそんな矛盾する意見が出てくるのか俺にも解らん。人間の認識力なんかそんなもんじゃないか? と言って逃げておこう。

 結局それきり言葉は続かず、俺は適当な別れの言葉を漏らすように言って、なぜか逃げるように長門から背を向けた。

 なんだか解らないが、そうしたほうがいいように思えたからだった。そして自転車に乗って家まで戻り、晩飯喰って風呂入ってテレビを観ているうちに寝た。

 

 翌朝、俺から惰眠を奪い去ったのはまたしてもハルヒからの電話である。

 盆踊り大会が見つかった。時間は今夜。場所は市内の市民運動場。

 だそうだ。

 よくもそうタイミングよく見つかったものだ。俺が感心半ばでいるとハルヒがまず言い出したのは、

「みんなで浴衣を買いに行くの」

 スケジュールの手始めはそうなっているらしい。

「ホントは七夕の時に着せたかったんだけどウッカリ忘れてたのよ。あの時のあたしはどうかしてたわ。日本に二ヶ月連続で浴衣着る風習があって大助かり」

 誰が助かったんだろう。

 ちなみに今はまだ真っ昼間である。夜に集まればいいのに早すぎるだろうと思っていたらそういうことだったらしい。昨日に引き続き、ハルヒは威勢良く、朝比奈さんはふわふわと、長門は無言で古泉はニヘラ笑いで、言わずと知れた駅前大集合である。

「みくるちゃんも有希も浴衣持ってないんだって。あたしも持ってない。この前商店街を通りかかったら下駄とセットで安いやつが売ってたわ。それにしましょう」

 朝比奈さんと長門の立ち姿を眺めつつ、俺は女連中の浴衣姿を夢想する。

 まあ、夏だしな。

 俺と古泉は普段着で行かせてもらうことになった。浴衣を着るのは旅館くらいで充分だ。男の浴衣姿なんか見ても楽しいもんじゃない。

「そうね。古泉くんなら似合いそうだけど、あんたはね」

 ふふんとハルヒは笑って俺の上から下までを見回し、

「さ、行きましょう」

 持参していた団扇を振り回しつつ号令をかけた。

「いざ、浴衣売り場に!」

 

 婦人物衣料の量販店に飛び込んだハルヒは、朝比奈さんと長門の分も勝手に選んでずかずか試着室へと向かった。

 長門以外の二人は着付けの仕方を知らなかったため、女の店員に着せてもらうことになったのだが、これがやけに時間がかかる。俺と古泉はただあてどもなく女物の洋服が立ち並ぶ棚の周囲をウロウロとしてようやくのこと、三人が鏡の前に出そろった。

 ハルヒは派手なハイビスカス柄で、朝比奈さんは色とりどりの金魚柄、長門はそっけなく地味な幾何学模様柄であった。それぞれの浴衣姿はそれぞれに趣があって、俺はなぜだか視線を向ける先に困った。

 女店員は「どっちがどの娘の彼氏なのかしら」と言いたげな表情で俺と古泉をちらりちらーりと眺めているが、おあいにく様と言っておきたい。古泉はともかく、俺は単なる付き添いさ。ここは残念だと思うべきところなのかね。

 まあ俺は朝比奈さん浴衣バージョンを拝見できるだけでもういいや。ハルヒも長門も似合ってて、それはそれで風情があったけどな。別に言葉に出して言うべきものでもないさ。

「みくるちゃん、あなた……」

 ハルヒは朝比奈さんを見て我がごとのように喜んでいるようだった。

「可愛いわ! さすがはあたしね。あたしのやることに目の狂いはないのよね! あなたの浴衣姿にこの世の九十五%の男はメロメロね!」

 残りの五%は何なのかと訊いてみた。

「この可愛さはガチなゲイの男には通用しないの。男が百人くらいいたら五人はゲイなのよ。よおく覚えておきなさい」

 覚える必要性があるとも思えない。

 朝比奈さんもまんざらではないらしく、フィッティングルームの鏡の前でくるりと回りながら自分の衣装を確認している。

「これがこの国の古典的な民族衣装なんですね。ちょっと胸が苦しいけど、でも素敵……」

 ハルヒ押しつけのコスチュームの中ではトップクラスにマシな代物だ。バニーほど露出しているわけでもなければメイドほど普遍性がないわけでもないから、この季節に限っては町中を歩いていても別段問題視される衣装でもない。夏の風物詩みたいなものだ。おまけに激似合ってるし。まるで俺の妹が浴衣着ているような雰囲気すら漂っていて、それにしては帯の上部分がアンバランスに膨らみすぎているが可愛ければ何でもアリだ。すべてを許してしまえる神々しさが朝比奈さんの体躯から放出されている。たとえ彼女が銀行強盗の主犯となったとしても、俺は弁護側の席に座るね。ハルヒだとどうかは解らないが。

 

 時間配分能力皆無のハルヒが早速と招集をかけたおかげで、盆踊り大会までえらく時間が余った。仕方なく駅前公園で暇つぶしのためにたむろして、その間にハルヒは朝比奈さんと長門の髪を結ってやっていた。人形のようにおとなしくベンチに座っている二人と、刻々と形を変える彼女たちの髪型は、そのまま連続写真で撮っておきたいくらいに絵になっていたことを申し添えつつ、夕暮れ時を迎えた俺たちは市民グラウンドへと隊列を組む。

 日没前なのにすでに賑わっている盆踊り会場には、どこからともなく市民たちが湧き溢れ蠢きあっていた。よくまあこれだけ集まるものだ。

「わあ」

 素直に感嘆しているのが朝比奈さんで、

「…………」

 どうやったって無反応なのが長門である。

 盆踊りで本当に踊っている奴をあんまり見たことがないのだが、今回もそうだった。しかし盆踊りね。なんだかすごく久しぶりに見るな----。

「ん?」

 まただ。デジャブっぽい感覚が偏頭痛のように登場した。ここに来るのは久しぶりのはずなのに、つい最近来たような気もする。グラウンド中央に組まれた櫓や、周囲に連なる縁日の出店の数々を見たことがあるようなないような……。

 しかし、千切れて空を舞う蜘蛛の糸をつかもうとしたように、そんな感覚もするりと消えた。

 ハルヒの声が聞こえる。

「みくるちゃん、あなたがやりたがっていた金魚すくいもあるわよ。じゃんじゃんすくいなさい。黒い出目金はプラス二百ポイントだからね」

 勝手なルールを決めて、ハルヒは朝比奈さんの手を引いて金魚すくいの水槽へとダッシュしていく。

「僕たちもやりましょうか。何匹すくえるか、一勝負いかがです?」

 ゲーム好き古泉が提案し、俺は首を振った。金魚なんか連れ帰っても入れる鉢がない。それよりも、そこかしこで食欲増進を後押しする芳香漂う屋台のほうに興味があるね。

「長門はどうだ? 何か喰うか?」

 笑わない目が俺を見つめ、ゆるやかに視線を移動。そこにあったのはお面売り場である。そんなもんに興味があるのか。こいつの趣味も解らないな。

「まあいいか。とりあえず一周してみようぜ」

 スピーカーが唸るように響かせているイージーリスニングみたいな祭囃子。それに誘われるように、俺は長門をお面の屋台へと連れて行くことにした。少しばかり古泉が邪魔だと感じつつ。

 

「大漁だったけど、たくさんもいらないって言うから一匹だけ貰ってきたわ。みくるちゃんは全然すくえなかったんだけどね。あたしの分をあげたの」

 朝比奈さんの指にぶら下がっている小さなビニール袋では、何の変哲もないオレンジ色の小魚が何も考えていないような顔で泳いでいた。紐をしっかり握りしめている朝比奈さんの仕草がいちいち可愛らしい。もう片手に握りしめているのはリンゴ飴で、俺は妹にも買って帰ってやろうかと考えた。たまには妹のご機嫌取りもいいだろう。

 一方ハルヒは、左手で水風船をポンポンさせながら右手にタコヤキのトレイを捧げ持ち、

「一個だけなら食べてもいいわよ」

 といって差し出してくる。俺がソースでベタベタのタコヤキを味わっていると、

「買った」

 長門はタコヤキから生えている爪楊枝をじっと見つめながら呟く。長門が頭に横掛けしているのは光の国出身の銀色宇宙人のものだ。何代目なのかは俺も知らないが、宇宙人だけに何か波長の重なるものがあったんだろ。浴衣の袂からガマ口を出して所望したのがそれだった。

 なんとなく長門には世話になっているような気がしたのでそれくらい買ってやってもよかったのだが、無言のうちに長門は拒絶して自分の金を出していた。そういや、こいつの収入事情はどうなっているんだろう。

 櫓の周りでは炭鉱節にあわせて浴衣婦人と子供たちがユラユラと踊っている。どこかの老人会と婦人会と子供会のメンツばかりのように見えた。単に遊びに来た奴は盆踊りで生真面目に躍るなんてことはしないだろうからな。もちろん、俺たちもしない。

 朝比奈さんは、どこか未開のジャングルに行って現地人から歓迎の踊りを披露されたような顔で踊る人間たちを見つめ、

「へぇー。はぁー」

 感心するような小声を出していた。未来には盆に踊る風習はないのかね?

 ハルヒを先頭とする俺たち一団は、それから縁日の冷やかしを専らとし、後はハルヒの「あれ食べよう」とか「これやってみましょう」と言う言葉にただ付き従う従僕となった。ハルヒはやたらに楽しそうで、朝比奈さんもそのようだったから俺も楽しいことではあった。長門が楽しがっているかどうかは俺には解らず、古泉が楽しかろうがどうだろうが知ったことではない。

 古泉は時折、妙に押し黙ったり、かと思えばやにわに微笑んだりして、こいつはこいつで最近情緒不安定なんじゃなかろうか。SOS団なんぞに入った人間は誰でもそうなってしまう運命なのかもしれないが。

 

 夏で、夏休みだった。

 

 浴衣姿の三人娘を眺める俺は、それだけですべてを許してしまえる気がしていた。

 だからハルヒが、

「花火しましょう花火。せっかくこんな恰好してるんだし、まとめて今日やっちゃいましょう」

 そう言い出したときも、ほとんど全面的に賛同したくらいだ。露店で売っていた子供向けのチャチな花火セットを購入した我々は、月と火星くらいしか見えない淀んだ夏の夜空の下を近くの河原へと移動を開始し、途中で百円ライターとインスタントカメラも買い求めた。水風船と団扇を振り回して歩くハルヒについていく。いつも以上にハルヒはハイになっているようだ。なぜか馬子にも衣装なんていう言葉が俺の脳裏を通り過ぎた。

 ハルヒの跳ねる後ろ髪を見ていると、浴衣姿での大股歩きを注意しようという気にもならない。丈夫で頑丈なのがハルヒの取り柄なのだ。

 それから一時間後、線香花火に目を丸くする朝比奈さんや、ドラゴン花火を両手に持って走り回るハルヒ、にょろにょろとのたくるヘビ玉をいつまでも見つめ続ける長門などなどの写真をカメラで撮りまくって、今日のSOS団的サマーイベントは終了した。

 川の水を浴びせかけた花火の残骸をコンビニ袋へ片付けている古泉を横目に、ハルヒは指で唇の端を押さえるようにしていたが、

「じゃあ、明日は昆虫採集ね」

 何が何でもリストに挙げた項目は消化するつもりらしい。

「ハルヒよ。遊ぶのもいいんだが、夏休みの宿題は終わってるのか?」

 まるっきり終わっていない俺が言うのも何だがな。ハルヒは一瞬ぽかんとした表情を浮かべて、

「なにあんた。あれくらいの宿題なんて、三日もあればぜんぶできるじゃん。あたしは七月に片づけちゃったわよ。いつもそうしてるの。あんな面倒なものは先にちゃっちゃと終わらせて、後顧の憂いなく遊び倒すのが夏休みの正しい楽しみ方」

 ハルヒにとっては真剣にその程度のものでしかないらしい。なんでこんな奴の頭がいいのか、人に対する天のパラメータ配分はずいぶん適当なんだな。

 ハルヒは俺たちをキッと睨みつつ、

「虫網と虫カゴ持って全員集合のこと。いいわね。そうね、全員で採った数を競うの。一番多く虫を捕まえた人は一日団長の権利を譲ってあげる」

 まったく欲しくない称号だな。それで、虫ならなんでもいいのか?

「うーんと……、セミ限定! そう、これはSOS団内セミ採り合戦なのよ。ルールは……種類はなんでもいいから、一匹でも多かった人の勝ち!」

 一人で言い出してやる気になっているハルヒは、団扇を捕虫網に見立てて虫を追うモーションをシャドープレイしている。網とカゴか。家の物置にあったかな。昔使ってたやつ。

 そうしてやっと自宅に帰り着いたとき、俺はリンゴ飴のテイクアウトを忘れていることに気付いた。

 

 翌日、雨でも降ればいいとテルテル坊主に五寸釘を刺していたのに、とんでもない日本晴れが到来し、この夏一番というくらいの気温にセミも大いに喜んでいるようだった。

「セミって食べられるのかしらね。てんぷらにしたら美味しいかも。あ。あたしタマに思うんだけど、ひょっとしたら衣が美味しいだけなんじゃない? だったらこのセミもそうかもよ」

 お前一人で喰ってろ。

 いい年した高校生が五人も集まって、それぞれ虫取り網とカゴ持参で歩いている図というのも異様だよ。

 昼前に集合した俺たちは、緑を求めて北高へ至るルートを踏破していた。なんせ我々の高校は山の中にあるので、無駄に木々が生えくさっており、森や林を根城とする昆虫たちの絶好の住処にもなっているのだ。俺の住む街はけっこうな都会だと思っていたのだが、そんなに悲観したものではなかった。

 木の幹にまるでセミのなる木みたいに、わんわん鳴く虫が溢れていた。入れ食い状態だ。わたわたこわごわ網を振り回す朝比奈さんでさえ収穫があったくらいだから、ここいらのセミは人間をこの世で最も警戒すべき動物だとは認識していないのかもしれない。今のうちに教えてやるべきだろう。

 そうやって捕獲しまくった俺は、虫カゴの中でじっとしているセミたちを眺めた。何年地中にいたのかは知らないが、ハルヒに油で揚げられるために成虫になったんじゃないよな。それでなくとも、俺は年々少なくなっているような気がする夏の虫の声にわびしいものと欺瞞的な罪悪感を覚えているんだ。すまないな、アスファルトなんか敷いちまってさ。人間の勝手さ加減を許して欲しいね。

 そんな俺のモノローグを感じ取ったわけではないだろうが、ハルヒもこう言った。

「やっぱキャッチアンドリリースの精神が必要よね。逃がしてあげたら将来、恩返しに来てくれるかもしれないし」

 俺は人間大のセミが家の扉をノックしている姿を思い描いてげんなりする。一方的に捕まえて逃がして、それで恩返しに来る奴がいたら、そいつはまさに虫なみの知能だ。どうせならリベンジに来るほうがまだいい。

 ハルヒは虫カゴのフタを開けると、前後に揺り動かした。

「ほら! 山に帰りなさい!」

 ジジジ----。何匹ものセミたちがカゴの中をアチコチぶつかりながら飛び出していく。朝比奈さんが可愛い悲鳴を漏らしてしゃがみ込み、その上で舞い踊り、棒立ちの長門の頭をかすめ、あるいは螺旋を描き、あるものは一直線に、夕焼けの空へと遠ざかっていく。

 俺もハルヒに倣った。湧き出るセミを見ているうちに、なんだか自分がヘルメスから与えられた箱をうっかり開けてしまったパンドラになったような気分になる。せめて最後に一匹を残しておこうかと考えたのは、すべてのセミが見えなくなるほど遠くに飛び去ってしまった後のことだ。

 またその次の日は、アルバイトが待ち受けていた。

 ハルヒがどこからか取り付けてきたアルバイトで、有り難くも俺たちに斡旋してくれたのである。その一日だけのアルバイト内容とは、

「い、いらっしゃいませー」

 朝比奈さんのギコチナイ声がくぐもって聞こえる。

「はぁい、みんな並んでくださぁい。あっあっ……押さないでえぇ」

 ハルヒがブローカーのように俺たちに押しつけたバイトは、地元スーパーマーケットの創業記念セールの集客業務だった。

 なんだか解らないうちに集められた俺たちは、なんだか解らないままに手渡された衣装を着込まされ、朝の十時からスーパーの店頭でデモンストレートなことをやらされていた。

 それも全員、着ぐるみの中に入ってだ。

 まったく意味が解らない。なんで俺までもがこんな恰好をしなくちゃならんのだ。コスチュームを取っ替え引っ替えするのは朝比奈さん担当じゃなかったのか……おい、古泉と長門。おまえらもクレームの一つくらい付けろよ。何を黙々と言いなりになってやがるのか。

「一列に並んでくださぁい。おねがいでーすっ」

 全身緑色の衣装を着込んだ朝比奈さんの舌足らずな声を聞きながら、俺はタラタラと汗をかいていた。

 俺たちの扮装はカエルである。それでもって、子供たちに風船を配る役どころである。このスーパーが毎年創業記念日にやっている特別イベントなんだそうだ。家族連れで来店したお客様への風船サービス。

 さすが子供、こんなどうでもいいオマケできゃいきゃい喜んでいる。おい、そこのアホ面幼児、これをくれてやるよ。赤い風船だ。ほらよ。

 アマガエルの朝比奈さんが特に人気者だ。ちなみに古泉はトノサマガエルで、俺はガマガエルだ。他に何かなかったのかと言いたい。アマゾンツノガエルの恰好をした長門がボンベを操作して風船を膨らまし、俺たち三人が配りまくり、ハルヒはと言うと一人だけ普段着姿のまま団扇片手に店内で涼んでいる。これで日当の配分が同じなんだとしたら暴動モノだぞ。

 聞いたところによるとこのスーパーの店主はハルヒの知り合いなんだそうだ。気軽に「おっちゃん」とか呼ばれて、そのおっちゃんはニコニコしていた。

 二時間ほどの労働で風船は品切れとなり、ハルヒを除く俺たちは倉庫らしき控え室で余計なガワをようやく脱げた。脱皮した直後のヘビの気持ちがよく解る一瞬だ。こんなホッとしたことは近年まれにみる。

 長門はひょうひょうとした表情で出てきたが、俺と朝比奈さんと古泉は全身汗みずくのうえ、這うようにしてカエルから脱出し、しばらく声も出なかった。

「ふえー」

 薄いタンクトップと短いキュロットスカートという恰好でうずくまる朝比奈さんをじっくり観察する体力も俺にはない。

「ごくろーさん」

 アイスを舐めながらハルヒが現れたときには、真剣、こいつどこかの熱い砂浜に首から下を埋めてやろうかと思ったほどだ。

 おまけにバイト代はアマガエルの衣装に化けちまった。平気な顔でハルヒがそう告白したところによると、最初からハルヒの狙いはこれだったようで、中身が抜けて薄っぺらくなった緑の化けガエルを小脇に抱え、一気に十万石くらいを加増された成り上がり武将みたいな顔をしている。俺たちに支払われるべき日当は、当然のように存在しない。

「いいじゃないの。あたしはずっとこれが欲しいと思っていたのよね。願いが叶ったわ。おっちゃんもみくるちゃんに免じてくれることにしたって言ってたわ。みくるちゃん、あなたには特別にあたしの手作り勲章をあげる。まだ作ってないけど、待っててね」

 朝比奈さんの持ち物に、また一つゴミが増えることになる。どうせ「くんしょう」と書いてある腕章か何かですますつもりに相違ない。

 だが、

「このカエル、記念に部室に飾っとくわ。みくるちゃん、いつでも好きなときにこれ着ていいわよ。あたしが許すわ!」

 そんなハルヒの顔を見ていれば、なぜか怒る気にもなれなかった。

 

 さすがにぐったりした。連日連夜、プールだの虫採りだの着ぐるみサウナなんぞをやっていたら、いくら健全かつ健康的な一高校生男子だって疲弊すると言うものだ。

 であるから、俺はこの夜、安らかな眠りをひたすら貪っていて、携帯電話が鳴るまでの平和を夢の中で実感していた。

 何がろくでもないと言って夜中の電話に起こされるほどムカっ腹の立つことはない。電話をするには非常識な時間であり、そんな常識を持っていないアホはハルヒくらいしか俺の周囲にはおらず、寝ぼけつつも怒鳴りつけてやろうとして携帯電話のボタンを押した俺の耳に届いたのは、

『……ぅぅ(しくしくしく)……ぅぅぅぅ(しくしく)』

 女の泣き声であった。素晴らしくゾっとした。一瞬で目が覚めた。これはヤバイ。聞いてはいけないものがかかってきた。

 携帯電話を放り投げようとした一秒前に、

『キョンくーん……』

 嗚咽にまみれてはいたが、紛れもなく朝比奈さんの声がそう言った。

 さっきと違う意味でゾクリときた。

「もしもし、朝比奈さん?」

 よもや、これは今生の別れの電話ではないだろうな。かぐや姫が月へと帰ろうとしているのではあるまいな。朝比奈さんにとって、「ここ」がかりそめの宿だということを俺は知っている。いつか、未来に帰るだろうということもだ。それがこの時なのか? 声だけのバイバイなんて、俺は認めたくないぞ。

 しかし電話の向こうにいるお方は、

『あたしです……あああ、とても良くないことが……ひくっ……うく……このままじゃ……あたし、ぅぅぅえ』

 全然意味が解らないことを、小学生みたいな滑舌の悪さで呻いていらっしゃるばかりで、さっぱり通じない。これはどうしたものかと途方に暮れていたら、

『やあ、どうも。古泉です』

 ほがらか野郎の声が取って代わった。

 なんだ? この二人はこんな時間に一緒にいるのか? なぜ俺はそこにいないんだ? どういうことか俺が納得し、かつ安心する回答を聞かない限り古泉、おまえの首は胴から離れる五秒前だ。

『ちょっとした事情がありましてね。それも、やっかいな。それもあって、朝比奈さんが僕に連絡してきたのですよ』

 俺より先にか。面白くない。

『あなたに相談しても仕方のないことですし……いや失敬。実は僕も何の役にも立てそうにないんですよ。緊急事態というやつです』

 俺はバリバリと頭をかいた。

「また、ハルヒが世界を終わらせるようなことを始めたのか」

『厳密に言えば違いますね。むしろ逆です。世界が決して終わらないような状態に、現在陥っているんです』

 はあ? まだ夢の中にいるのかね。何を言ってるんだ。

 俺の困惑をよそに、古泉が続けた。

『長門さんにも先ほど連絡しました。予想はしていましたが、彼女は知っていたようですね。詳しい事は長門さんに聞けば判明するでしょう。ということでですね、今から集合することは可能ですか? もちろん、涼宮さんは抜きで』

 可能か不可能かといわれれば可能に決まってる。シクシク泣いている朝比奈さんを放置する奴がいたとしたら、そいつは七回重ね斬りしてもお釣りが来るほどだろう。

「すぐ行く。どこだ?」

 古泉は場所を告げた。いつもの駅前。そこはSOS団御用達の集合場所だった。

 

 かくて、着替えた上に自宅の廊下を抜き足忍び足したあげく自転車に飛び乗って到着した俺を、三つの人影が出迎えてくれたわけである。人通りは皆無ではなく、学生風の連中がそこらでチラホラ見かけられる。おかげで俺たちも夏休みの夜に行き場をなくしたモラトリアム野郎どもに紛れ、怪しい集まりに心おきなく出席できるというものだ。さすがにまた眠くなってはいたが。

 駅前ではパステルカラー姿の朝比奈さんがうずくまっていて、その両脇にラフな恰好の古泉とセーラー服長門が門松みたいに立っている。朝比奈さんは、とにかくその辺りにあったものを着てきました。みたいな上下デタラメな服装だ。よほど慌てていたか時間がなかったんだろう。

 俺に気付いたか、背の高いほうが片手を上げて合図をよこした。

「いったい何なんだよ」

 外灯のぼやんとした光が、古泉の柔和な表情を照らしている。

「夜分に申し訳ありません。ですが、朝比奈さんがこの通りな事態ですので」

 しゃがみ込んだ朝比奈さんは、溶けかける雪だるまみたいにグズグズだった。泣きべそ顔が俺を見上げ、濡れきった瞳が露になる。これが、すべてを投げ出して力になってやりたいと思ってしまうような、魅惑の瞳なんだよな。

「ふええ、キョンくん、あたし……」

 鼻を啜り朝比奈さんは独白のように呟いた。

「未来に帰れなくなりましたぁ……」

 

「白状してしまいますと、つまりですね、こういうことです。我々は同じ時間を延々とループしているのです」

 そんな非現実的なことを明るく言われてもな。古泉は自分が何を言ってるのか、自分で解ってるのか?

「解っています。これ以上ないと言うくらいにね。さっき朝比奈さんと話し合ってみたんですけど」

 呼べよ、俺も。その話し合いに。

「その結果、ここ最近の時間の流れがおかしくなっていることに気付きました。これは朝比奈さんの功績と言ってもいいでしょう。おかげで僕にも確信が持てましたよ」

 何の確信だよ。

「我々は同じ時間を、もう何度も繰り返し経験しているということをです」

 それはさっき聞いた。

「正確に言えば八月十七日から、三十一日までの間ですね」

 古泉のセリフが、俺には虚ろに聞こえる。

「僕たちは終わりなき夏休みのまっただ中にいるわけですよ」

「確かに今は夏休みだが」

「決して終わらないエンドレスサマーです。この世界には秋どころか九月が来ない。八月以降の未来がないんですよ。朝比奈さんが未来に帰れないのも道理です。理にかなっていますね。未来との音信不通は、未来そのものがないからです。当然と言えます」

 物理的ノーフューチャーのどこが当然だ。時間なんか放っておいても着々と流れ続けるもんだろ。俺は朝比奈さんの頭頂部を見つめて言った。

「それを誰が信じるんだ?」

「せめてあなたには信じてもらいたいところです。涼宮さんに言うわけにもいきませんので」

 古泉も朝比奈さんを見下ろしている。

 一応、朝比奈さんは説明しようとしてくれた。時折しゃくり上げつつも、

「うー、ええと……、『禁則事項』でいつも未来との連絡したり『禁則事項』したりしてるんですけど……くすん。一週間くらい『禁則事項』がないなぁおかしいなぁって思っていたので。そしたら『禁則事項』……。あたしすごくビックリして慌てて『禁則事項』してみたんだけどぜんぜん『禁則事項』でー……うう。ひい。あたしどうしたら……」

 どうしたらいいのか、俺にも解りませんが。ひょっとしてその『禁則事項』とやらは放送禁止用語かなんかなのかな?

「俺たちはハルヒの作った変な世界に閉じこめられているのか? あの閉鎖空間の現実的バージョンとかさ」

 腕を組んで自販機にもたれている古泉は、ゆるやかに否定した。

「世界を再生させたわけではありません。涼宮さんは時間を切り取ったんです。八月十七日から三十一日の間だけをね。だから今のこの世界には、たった二週間しか時間がないのです。八月十七日から前の時間はなく、九月一日以後もない。永遠に九月が来ない世界なんです」

 失敗した口笛みたいな息を吐き、

「時間が八月三十一日の二十四時ジャストになった瞬間、一気にすべてがリセットされて、また十七日に戻って来るというプロセスですよ。よくは解りませんが、十七日の早朝あたりにセーブポイントがありそうですね」

 俺たちの……いや、全人類のと言うべきだな、その記憶はどうなってるんだ。

「それもすべてリセットです。それまでの二週間は無かったことになる。もう一度最初からやり直しとなるのです」

 よくよく時間をひねくり回すのが好きなようだな。未来人が混じっているんだから仕方がないような気もするとはいえ。

「いえ、この件に朝比奈さんは無関係ですよ。事態は、そのような些細な範疇に収まらないのです」

 なぜ解る。

「こんなことが出来るのは涼宮さんだけです。あなたには他に心当たりがあるんですか?」

 そんなもんに心当たりのある奴は妄想癖があるか妄想しかできない奴だ。

「俺にどうしろって言うんだ」

「それが解れば解決したも同然ですね」

 なぜか古泉は楽しげに見える。少なくとも困った顔はしていない。なぜだ?

「ここしばらく僕を悩ましていた違和感の元が明らかになったものでね」

 古泉は明かす。

「あなたもそうだったのでしょうが、市民プールの日から今まで、不定期に強烈な既視感がありました。今思えば、それは前回以前のループで経験した記憶の残滓----としか言いようがないですね----だったのだと解ります。リセットからこぼれ落ちた部分が、僕たちにそれを感じさせたのでしょう」

 ひょっとして全人類が感じているのか。

「それはないようです。僕やあなたは特殊な事例なんですよ。涼宮さんに近しい人間ほど、この異常を感じ取れることになっているようです」

「ハルヒはどうなんだ。あいつはちょっとでも自覚しているとか」

「まったくしていないようですね。してもらっては困るというのもありますが……」

 長門のほうへ流し目を送って古泉は宇宙人に尋ねた。さりげなく。

「それで、何回くらい僕たちは同じ二週間をリプレイしているのですか?」

 長門は平気な顔で答えた。

 

「今回が、一万五千四百九十八回目に該当する」

 

 思わずクラリときたね。

 いちまんごせんよんひゃくきゅうじゅうはちかい。平仮名で二十文字もかかる単語も15498と書けばまだ少なく思える。素晴らしきかなアラビア数字。誰か知らんがこれを考え出した人に感謝の祈りを捧げたい。あんたスゴイよ。そんなどうでもいいことを考えてしまうくらい、途方もないヨタ話である。

「同じ二週間を一万何千回です。自分がそんなループに囚われていると自覚して、記憶もそのまま蓄積するのだとしたら、通常の人間の精神では持たないでしょう。涼宮さんは、たぶん我々以上に完璧な記憶抹消を受けていると思いますよ」

 こう言うときは一番の物知りに訊くに限る。俺は長門に確認してみた。

「これはマジな話なのか?」

「そう」

 こくりと長門。

 するとだ。明日に俺たちがやる予定になっていることも、すでに俺たちは過去においてやってしまっているのか。この前の盆踊りと金魚すくいも?

「必ずしもそうではない」

 長門は声にも表情はない。

「過去一万五千四百九十七回のシークエンスにおいて、涼宮ハルヒが取った行動がすべて一致しているわけではない」

 淡々と俺を見つめ続ける長門は、やはり淡々と言った。

「一万五千四百九十七回中、盆踊りに行かなかったシークエンスが二回ある。盆踊りに行ったが金魚すくいをしなかったパターンは四百三十七回が該当する。市民プールには今のところ毎回行っている。アルバイトをおこったのは九千二十五回であるが、アルバイトの内容は六つに分岐する。風船配り以外では、荷物運び、レジ打ち、ビラ配り、電話番、モデル撮影会があり、そのうち風船配りは六千十一回おこない、二種類以上が重複したパターンは三百六十回。順列組み合わせによる重複パターンは----」

「いや、もういい」

 エイリアン印の人造人間を黙らせて、俺は考え込んだ。

 俺たちは八月後半の二週間を一万五千ええいめんどくさい。15498回もやっている最中なのだという。八月三十一日でリセットされて、八月十七日からのやり直しだと。しかし俺にはそんな記憶はなく、長門にはあるようで----何でだ?

「長門さん、と言うよりも情報統合思念体が、時間も空間も超越している存在だからでしょう」

 古泉得意の薄笑いも、このときばかりは強ばって見えたのは光の加減かな。

 いや別にそれはいい。置いとこう。長門とその親玉がそれくらいしそうなのは解っている。俺が気になったのはそこではなくて、ってことはつまり……。

「すると長門。おまえはこの二週間を15498回もずっと体験してきたのか?」

「そう」

 何でもなさそうに長門はうなずいた。そう、ってお前、他に言うことはないのか。そんなもん俺だって言うことが思いつかん。が、

「ええとだな……」

 待てよな。15498回だぞ。それも、×二週間だ。のべ日数に直せば216972日、えーえー、約594年分だぞ。それだけの時間を、こいつは平然と過ごしてはまたやり直し、過ごしてはやり直し、っつうのをじっと眺めていたのか。いくらなんでも飽きるだろそれじゃあ。15498回も市民プールに行っていれば。

「お前……」

 言いかけて俺は口を閉ざす。長門が小鳥のように首を傾けて俺を見ている。

 プールサイドにいる長門を見て思った感覚が蘇った。退屈そうに見えたのは間違いではなかったのかもしれない。さすがの長門もうんざり気味だったのかもしれない。こいつは何も言わないが、人知れず舌打ちの一つでもしていたのかも----と考えて閃いた。現象はなんとなく解ったが、何でこうなったのかを未確認だ。

「何でハルヒはこんなことをやっているんだ?」

「推測ですが」

 とは古泉の前置き。

「涼宮さんは夏休みを終わらせたくないんでしょう。彼女の識閾下がそう思っているのですよ。だから終わらないわけです」

 そんな登校拒否児みたいな理由でか。

 古泉は缶コーヒーの縁を無意識のうちになぞっている。

「彼女は夏休みにやり残したことがあると感じているんでしょう。それをせずに新学期を迎えるわけにはいかない。それをしてからでないと心残りがある。そのモヤモヤを抱えながら八月三十一日の夜を迎えて眠りに就き……」

 目を覚ましたら綺麗さっぱり二週間分、時間を巻き戻しているってわけか。何というか、もう愛想も呆れも尽き果てるとはこのことだな。何でもする奴だとは知ってたけど、だんだん非常識レベルがランクアップしてるんじゃないか。

「いったい何をすれば、あいつは満足なんだ」

「さあ、それは僕には。長門さん解りますか?」

「解らない」

 あっさり言ってくれるなよ。この中で究極的に頼りになるのは、お前だけなんだぜ。そんな思いが俺の声となって表れた。

「どうして今まで黙っていたんだ? 俺たちがエンドレスな二週間ワルツをやってることをさ」

 数秒間の沈黙の後、長門は薄い唇を開いた。

「わたしの役割は観測だから」

「……なるほど」

 それは薄々解っていた。長門が積極的に俺たちの行動に関わってきたことは今のところない。結果的に関わっていることなら、ほとんどすべてが当てはまるかもしれないが、こいつがアプローチをしかけてきたのは、俺が長門のマンションに連れて行かれたあの一回だけと言えるだろう。その時以外の長門は、いつしか必要なポジションにいて、俺たちと行動を共にしているだけだ。

 忘れるわけにはいかない。長門有希は情報統合思念体に作られたヒューマノイドインターフェースなのである。ハルヒを観測対象とするために遣わされた有機生体アンドロイドなのだ。感情を出すことにセイフティがかかっているのは仕様なのかどうなのか。

「それはいいとして」

 それ以前に、俺にとっての長門有希は、本好きで無口でいろいろ頼りになる小柄な同級生の少女で仲間だ。

 SOS団メンバーの中で、最も博学で、しかも実行力も兼ね備えていると言えば長門なのだ。なので、またまたちょっと訊いてみることにした。

「俺たちがこのことに気付いたのは何回目だ」

 俺の思いつきのような質問を、長門は予想していたかのように答える。

「八千七百六十九回目。最近になるほど、発覚の確率は高まっている」

「既視感、違和感ありまくりでしたからね」

 納得する様子の古泉だった。

「しかし過去のシークエンスで、僕たちは陥った状況に気付きつつも、正しい時間の流れに復帰することはできなかったんですね」

「そう」と長門。

 だから、いま朝比奈さんも泣いているわけだ。気付いてしまったからこそだ。そして、また記憶や経験値や身体的成長を二週間分失って元に戻り……また気付いて泣くことになってしまう。

 俺はいったい何度思ったことだろう。春にハルヒに会ってから今まで、あいつが原因のメタクソイベントが発生するたび、俺は思ってきた。今もその時だ。

 なんてこった。

 この二週間で思うのも、これで8769回目なんだろうさ。

 まったくもって……。

 またアホな話を聞いてしまったな。

 

 その翌日は天体観測の番だった。

 実施場所は長門のマンションの屋上である。ごつい天体望遠鏡を古泉が持ってきて、三脚に備え付けていた。。午後八時をまわったところ。

 空も暗かったが、朝比奈さんも暗かった。心ここにあらずと言った面持ちでぼんやりしている。天体観測どころではないのだろう。俺の気持ちは複雑だ。

 古泉はすっかり開き直ったような微笑みを浮かべセッティングに余念がない。

「幼い頃の僕の趣味がこれだったんですよね。初めて木星の衛星を捉えたときは、けっこう感動しましたよ」

 長門は相変わらずの様子で、ただじっと屋上で立ちつくしている。

 俺が仰いだ夜空には、星なんて数えるほどしか出ていない。汚れた空気のせいで見えないのだ。こういうのを空がないと表現するべきなのかもな。大気の澄む冬になれば、オリオン座くらいは見えるだろうが。

 天体望遠鏡の矛先は、地球のお隣さんへと向いていた。覗き込んでいたハルヒが、

「いないのかしら」

「何がだ」

「火星人」

 あまりいて欲しくないな。ためしに俺はタコみたいなビッグアイズモンスターがニョロニョロしながら地球征服計画を立案している姿を想像してみた。お世辞にも楽しいとは言えない。

「どうしてよ。とっても友好的な連中かもしれないじゃないの。ほら、地表には誰もいないみたいだし、きっと地下の大空洞でひっそり暮らしている遠慮がちな人種なのよ。地球人をびっくりさせないようにしてくれてるんだわ」

 ハルヒ的イマジネーショナル火星人は地底人でもあるらしい。どっちか一種類にしてくれよ。ペルシダーかマーズアタックか。二つを組み合そうとするからややこしいことになるんだぜ。シンプルに考えろ、シンプルに。

「きっと最初の火星有人飛行船が着陸したときに、物陰から登場する手筈を整えているのね。ようこそ火星に! 隣の星の人、我々はあなたたちを歓迎します! とか言ってくれるに違いないわ」

 そっちのほうがよほどびっくりするだろうよ。不意打ちもいいところだ。最初に火星の大地を踏むのが誰かは知らないが、前もって教えてやっておいたほうがいいな。メールの宛先はNASAでいいのか?

 順番に望遠鏡で火星の模様を眺めたり、月のクレーターを観察しながらの時が流れた。不意に姿が見えなくなったなと思って探してみると、朝比奈さんは屋上の転落防止柵にもたれるようにして膝を抱えていた。首を斜めにして、目を閉じている。昨日はよく眠れたと言い難いだろうから、そのまま眠らせててあげよう。

 劇的な変化もない夜空に飽きたのか、ハルヒは、

「UFO見つけましょうよ。きっと地球は狙われているのよ。今も衛星軌道くらいに異星人の先遣隊が待機してるはずよ」

 楽しげに望遠鏡をぐるぐる回していたが、それにも飽きたのだろう。朝比奈さんの横に座り込んで、小さな肩によりかかってすうすう寝息を立て始めた。

 古泉が静かに言った。

「遊び疲れたんでしょう」

「俺たちより疲れているとは思い難いけどな」

 ハルヒはぐうすか眠っている。その寝顔は、イタズラ描きをしたくなるほどさまになっていた。と言っても寝ている顔が一番よいというわけじゃない。こいつは口さえ開かなければいいんだ。長門と意識が入れ替わるようなことがあえば最高かもしれない。あまりにリアクションのなさすぎるハルヒもどうかとは思うが、饒舌で感情豊かな長門というのも想像を絶するな。

 夜風にそよがれつつ、俺は二人並んで眠りこけているハルヒと朝比奈さんを眺めていた。こうしていればハルヒも朝比奈さんに引けを取らないな。こっちのほうがいいって奴もいるだろう。それは間違いない。

「何がしたいんだろうな、こいつは」

 溜息混じりの声が出た。

「友達みんなで仲良く楽しく遊んでいるとか、そういうのか?」

「おそらくは、そうでしょう。その友達とは僕たちのことになっていそうですが」

 古泉は夜空の向こうに視線を据えて、

「それでは、いったいどんな楽しいことをすべきなのでしょう。それが解らない限り、終わりもきません。涼宮さんが何を望んでいるのか、彼女自身も知らないその何かを解明し実行するまで、僕たちは何度も同じ二週間を繰り返し続けるというわけです。記憶がリセットされることを我々は感謝すべきなんでしょうね。でなければ、とっくに僕たちは精神に異常を来しているに違いないでしょうから」

 一万五千四百九十八回の繰り返し。

 ほんとか? 俺たちは、長門にかつがれているんじゃないのか? はっきり言って、にわかには信じがたいことであり、しかし、ハルヒならやりそうでもある。こいつの未だ知られざる謎のパワーは、どうやらハルヒも知らないうちに唐変木なことをやっているらしいからな。自らの意思で何かをしようと、無意識で何かをしでかしても、両方とも迷惑極まる女であることだ。

 そんなハルヒと律儀に行動を共にする俺たちは、どうも付き合いがよすぎるお人好し団体なんじゃないかと思うときもある。SOS団の気のいい面々。俺が世界の運命を左右する立場に組み入れられるとは、それこそ世界の正気を疑いたい気分だよ。

 それにだな、守るべき世界が絶対的に正しいなんていう思い込みは、人間それぞれの主義主張によっていとも簡単に捏造され大量生産されるようなアヤフヤなものでしかない。それが解っていないから、この世は自分勝手な理論のすり替えや押しつけに盲従する奴らばかりなんだ。千年後、後世の人々から自分たちがなんて評価されるのか、ちっとはそれを考えてみるべきだ。

 俺がそんなふうに出来るだけどうでもいいことを考えようと努めていると、古泉が不意打ちのように、

「涼宮さんの望みが何かは知りませんが、試しにこうしてみてはどうです? 背後から突然抱きしめて、耳元でアイラブユーとでも囁くんです」

「それを誰がするんだ」

「あなた以外の適役がいますかね」

「拒否権を発動するぜ。パス一だ」

「では、僕がやってみましょうか」

 このとき俺がどんな顔をしていたのか、自分では見るすべがなかった。鏡の持ち合わせがなかったからな。だが、古泉には見えたようで、

「ほんのライトなジョークですよ。僕では役者が不足しています。涼宮さんを余計に混乱させるだけでしょうね」

 と言って、喉の奥で笑う耳障りな音を立てた。

 俺は再び黙り込み、淀んだ夏の大気にもめげず、唯一と言ってもいいくらいに輝き続ける月を見上げる。

 吸い込まれそうなくらい暗い空に浮いた銀盤は明るく太陽の光を受け、それはまるで俺を誘っているかのようだった。どこへ? そんなもん、知るか。

 棒立ちで天空へ顔を向けている長門の後姿を見ながら、俺はそんなことを考えていた。

 

 夏はまだ続きそうだが夏休みはそろそろ終わりが近い。にも拘らず、終わるのかどうか知れたものでもないというのであるらしくもあって、勘弁してくれよ、マジで。

 また俺たちは八月十七日に舞い戻ることになるのかもしれない。何をすればハルヒは「やり残したこと」を見つけるのか。

 何を残しているんだよ。俺はすっかり夏休み中にすべき学校から出された課題をわんさと積み残しているが、ハルヒの心残りはこれではないらしい。なんせ奴はとうに宿題を終わらせている。

 この次、俺たちはどこに向かうのか。

「バッティングセンターに行きましょう」

 ハルヒは金属バットを持参していた。いつぞや野球部からガメてきたデコボコバットだ。ボールを前に飛ばすと言うより、撲殺目的にふさわしそうな中古のボロいやつ。まだ持ってたとはね。

 我等が団長は髪をなびかせ、とびっきりの笑顔を俺たちに万遍なく振りまきながら、俺たちを幹線沿いのバッティングセンターへと導いた。おおかた高校野球に何らかのインスパイアを受けた結果かと思われる。

 憂鬱は団員を順繰りに巡るのか、このたびは朝比奈さんがブルーもしくはブルーな面持ちである。それは俺にとっては少し残念さを感じさせることでもあった。やっぱり元いた所に帰りたいんだな。

 長門と古泉はほとんど普段の調子へと舞い戻り、能面とニコニコマークが俺の後ろをついて歩いている。まるで自分たちの役目はここにはないみたいな顔だ。少しは深刻になれ。

「ふう」

 俺は息を吐き、前方で飛び跳ねるハルヒの黒髪を視線に乗せた。

 こいつと出会ってから、SOS団の結成記念日から、ハルヒのお守りは俺の役目だとどこかの誰かが決めたらしい。誰だか解らないので恨み言を言うのは自粛しておいてやるが、それでも俺はこれだけは言いたい。

 過大評価してくれるなよ、俺はそんな大した一般市民じゃねえぞ。

 そんなモノローグも今は虚しさ炸裂だ。

 朝比奈さんは狼狽え中、古泉は笑っているだけで、長門は見ているだけ。

 俺がハルヒをどうにかしなければならない。

 しかし、何をどうやるんだ。

 その答えを持つ者はハルヒしかおらず、そんなハルヒは問題が何かを知らないのだ。

「みくるちゃんは振らなくていいから! そこでバントの練習よ。振っても当たるわけないしね。バットに球を当てて転がすのよ。あーっ、もう打ち上げちゃダメでしょ!」

 以前の草野球大会の出来事が尾を引いているようだった。来年も参加するつもりなのか、ひょっとして。

 ハルヒは時速百三十キロのケージを独占し、鋭いボールをばっこんばっこん打ち返している。とても気持ちがよさそうで見ているこっちまで気持ちよくなる。たいした奴だな、この女は。細胞に梱包しているミトコンドリア数が常人とは違うのかもしれん。このエネルギーはどこから来るんだろう。少しは世のために使えばいいのに。

 

 それ以降もハルヒの目指すノルマ消化態勢は誰にもポーズボタンを押させない勢いで、俺たちは動きずくめだった。

 本物の花火大会にも行った。浜辺でやる尺玉打ち上げ花火。三人娘は再び浴衣に衣替えして、どんどん打ち上がってはバンバン破砕する火炎の華を(ハルヒだけが)堪能し、まったく似ていないキャラ顔花火を指差して笑っていたりした。無駄に派手なことがハルヒは大好きなのだ。そういうときだけハルヒの笑顔には邪気の欠片もなく、年齢よりも幼い感じがして俺はひょいと目を逸らした。見つめていたら俺が変なことを考えてしまいそうであったからだが、まあ、その変なことなんてのが何かは俺にも解らない。衣装は偉大であるって事だけは学習できた気分だ。

 また別の日は県境の川でやっているハゼ釣り大会にも飛び入り参加させられた。ハゼはちっとも釣れず、見たことのない小さな魚がエサをついばむばかりで計量にも参加できなったが、ハルヒの楽しみは投げ竿を振り回すことにあったみたいなのでボウズでもぶーたれたりはしなかった。間違ってシーラカンスを釣り上げるよりはよっぽど有り難いことだと俺は安堵し、エサのゴカイを見るなり青くなって遠くに逃げた朝比奈さんの手作り幕の内弁当を心おきなく喰っていた。

 この頃になるとハルヒも俺も、どこかの子供かと思うくらい真っ黒に日焼けしていて、他の二人がきっちり紫外線対策しているのとは好対照だ。長門だけは放っておいても灼けそうにないし、小麦色の長門なんてのも想像の枠外な光景だからそれはそれでよかった。

 こんな呑気に遊んでいる場合ではないとは、俺自身解ってはいるんだが。

 

 敷かれたレールの上を疾走しているような日々は瞬く間に過ぎていく。

 ハルヒは元気いっぱい。俺は青色吐息。朝比奈さんのブルーは紺色へと化していて、古泉は諦観気味のヤケ微笑を広げ、変化なしなのは長門だけだった。

 思えばこの二週間でさまざまなことをやったものだった。

 そろそろタイムリミットが近付いている。今日は八月三十日。残る夏休みは明日しかない。今日明日中に何かをしないといけないらしいのだが、何をすればいいのかがさっぱり解らん。夏の日差しもツクツクホーシの鳴き声も、夏を構成するすべてが不安要素だった。高校野球もいつのまにか優勝校が決まってた。もうちょっとやってろよと思う。

 せめてハルヒの気がすむまではさ。

 

 ハルヒの握ったボールペンがすべての行動予定にバツマークをつけていた。

 昨夜、わざわざ丑三つ時を選んで広大な墓地まで出向き、ろうそく片手に彷徨するという肝試しが最後のレクリエーションだ。幽霊が挨拶しに出てくることもなかったし、人魂がふらふら散歩していることもなく、朝比奈さんが無益に脅えているところくらいしか見るべき所もなかったね。

「これで課題は一通り終わったわね」

 八月三十日正午過ぎ。お馴染み、駅前の喫茶店での出来事である。

 ハルヒは徳川埋蔵金の在処がボールペンで記されているコピー用紙を見るような目で、ノートの切れ端を見つめていた。納得しているようでもあり名残惜しげでもある。本来なら俺も名残惜しく感じるはずだ。夏休みは明日一日しか残っていない。本来ならば。

 終わりが本当に来るのか、今の俺は相当疑わしく思っている。疑い深くもなる。SOS団なんてアホ組織に何ヶ月もいて、情緒の崩れた団長に率いられていたりしたらさ。もうちょっと単純な性格をしていたらよかったよ。朝比奈さんがいるからそれでもいいやとか思えるような、そういう割り切り型の単純な……いやもう言うまい。過ぎたるは及ばざるがごとし(わざと誤用するのがコツだ)。

「うーん。こんなんでよかったかしら」

 ストローでコーラフロートのバニラアイスをつつき回しながらハルヒは煮え切らない様子だ。

「でも、うん。こんなもんよね。ねえ、他に何かしたいことある?」

 長門は答えずに紅茶に浮いたレモンの輪切りをじっと観察している。朝比奈さんは叱られた子犬のようにうなだれて両手を膝の上で握りしめていた。古泉は微笑みつつウインナーコーヒーのカップを口元に運んでいるだけである。

 ついでに俺も、何のセリフも思いつかずにむっつりと腕組みをして、どうするべきかと考えていた。

「まあいいわ。この夏はいっぱい色んな事ができたわよね。色んな所に行ったし、浴衣も着たし、セミもたくさん採れたしね」

 俺にはハルヒが自分に言い聞かせているようにも思える。そんなんじゃないんだ。まだ充分じゃない。ハルヒはこれでもう夏休みが終わっていいとは、心底思っているわけではない。いくら言葉で表明しようと、胸の内は隠せない。ハルヒの内面、奥の奥のそのまた奥底は、これでもまだ満足な納得を獲得できていないはずだ。

「じゃあ今日は」

 ハルヒは伝票を俺によこして、

「これで終了。明日は予備日に空けておいたけど、そのまま休みにしちゃっていいわ。また明後日、部室で会いましょう」

 席から腰を浮かせてハルヒはすっとテーブルを離れ、俺は理不尽な焦りを覚えた。

 このままハルヒを帰してはならない。それだと何も解決しないんだ。古泉が発見して長門が保証した繰り返される二週間、一万五千四百九十九回目がやってくる。

 だが、何をすべきなんだ。

 ハルヒの後姿がスローモーションで遠ざかる。

 その時だ。まったくの突然、唐突として忽然と----、

 アレが来た。

 何もかもがごたまぜになった「あれ、このシーン以前に……」だ。しかし今日のコレは桁違いの眩暈感を伴っていた。今までない強烈な既視感。知っている。今まで一万回もやっている繰り返しの出来事。八月三十日。あと一日。

 ハルヒのセリフにどこかにそれがあったはずだ。何だ何だ何だ。

「どうしたの?」

 誰かが喋っている。古泉の言葉にもあったはずだ。俺が気がかりであり、先延ばしにしようともしている……。

 ハルヒは席を立っている。いつぞやのようにとっとと帰るつもりだ。帰らせてはダメなんだ。それでは変化しない。今までの俺はどうやって変化させようとしていたのか。走馬燈としか思えないものがよぎる。前回までの俺たちがしたこと……。

 そして----しなかったこと。

 考えているヒマはない。何か言え。ダメもとで言っちまえ。

「俺の課題はまだ終わってねえ!」

 だからって何も叫ぶことはなかったかもしれない。後で冷静に考えると、また一つの俺の海馬組織から抹消したい記憶が刻まれた瞬間だった。周りの客も店員も、そして自動ドアの手前にいたハルヒさえも振り返り、俺に注目の視線を固定させている。

 言葉は勝手に出てきた。

「そうだ、宿題だ!」

 突然喚き始めた俺に、店内の全員が硬直していた。

「なに言ってんの?」

 ハルヒは明らかに変なヤツを見る目で近寄ってきた。

「あんたの課題? 宿題って?」

「俺は夏休みに出された宿題を何一つやっていない。それをしないと、俺の夏は終わらないんだ」

「バカ?」

 本当に馬鹿を見る目でいやがる。かまいやしない。

「おい古泉!」

「は、何でしょう」

 古泉もあっけに取られているようであった。

「お前は終わってるのか?」

「いいえ、バタバタしていましたからね。まだ半ばと言ったところでしょうか」

「じゃあ一緒にやろう。長門も来い、お前もまだだよな」

 長門が答える前に俺は、人形劇のパペットのように口を開けている朝比奈さんに手を差し伸べた。

「ついでだ。朝比奈さんも来て下さい。この夏の課題を全部終わらせるんです」

「え……」

 朝比奈さんは二年生なので俺たちの宿題とは関係ないが、そんなもんこそ今は関係ないのだ。

「で、でも、その、どこへ?」

「俺ん家でやりましょう。ノートも問題集も全部持ってきて、まとめてやっちまおう。長門と古泉、できてるとこまで俺に写させろ」

 古泉は首肯した。

「長門さんもそれでいいですか?」

「いい」

 半端なおかっぱ頭がこくりと動き、俺を見上げた。

「よし。じゃ明日だ。明日の朝からしよう。一日でどうにかしてやるぜ!」

 俺が拳を握りしめて気勢を上げていると、

「待ちなさいよ!」

 腰に手を当てたハルヒが、テーブルの横でふんぞり返っていた。

「勝手に決めるんじゃないわよ。団長はあたしなのよ。そう言うときは、まずあたしの意見をうかがいなさい! キョン、団員の独断専行は重大な規律違反なの!」

 そう言って、ハルヒは俺を睨みつけ、高らかに叫んだ。

「あたしも行くからねっ!」

 ----その日、その朝。

 どうやらアタリを引いたらしい。自室のベッドで目を覚ました俺は、目覚めていきなり自分が何とか事態を切り抜けたことを知った。

 なぜなら俺には思い出があったからだ。盆過ぎに田舎から帰ってきて、ハルヒ達とプール行ったりセミを採ったりした八月の記憶の数々。その記憶たちの中でも、とりわけ昨日の日付をまざまざと覚えているのが素晴らしいの一言につきる。

 昨日は八月三十一日、そして今日は九月一日だ。

 最新の記憶が教えてくれている。夏休みの最終日、俺のこの部屋でSOS団勉強会が開催された。とんでもなく疲れたことをよく覚えている。一日ですべてのノートを模写するだけでも重労働なのに、自分の頭で考えたりすればその疲労度どれほどのものになったか想像する気もない。昨夜の就寝時点で、俺の体力気力精神力ゲージは小パンチ一発でベッドに倒れ込む寸前の幅しか残っていなかったのは確かである。

 昨日、自分がやり終えた夏休みの宿題を山のように抱えてこの部屋に上がり込んだハルヒは、俺と古泉と長門と朝比奈さんがせっせとシャープペンを走らせるのを尻目に、ずっと俺の妹と遊んでいた。

「丸写しはダメだからね」

 部屋のテレビで妹とゲームをしているハルヒは、コントローラのボタンを連打しながら言ったものだった。

「文章表現を変えるとか、計算をちょっとヒネるとかしなさいよ。教師もバカな奴ばかりじゃないんだからね。特に数学の吉崎は陰険だから、そういうとこ細かく見てるわよ。あたしに言わせれば吉崎の解法は全然エレガントじゃないけど」

 五人プラス妹がひしめき合うには俺の部屋は少々手狭だったし、頼んでもいないのに母親がジュースだの昼飯だの甘菓子だのをひっきりなしに持ってくるもんで余計にうっとうしかったが、腱鞘炎になるかと思うほど手首を動かしまくる俺たちと違い、ハルヒは随分と楽しそうにしていた。余裕の笑みというやつだろう。とかく上にいる奴は下を見下ろしてはこんなふうに笑うものなのかもな。あまりの余裕ぶりか、ハルヒは上級生の朝比奈さんが四苦八苦している小論文にも口出ししていた。朝比奈さんのレポートが評価Cだったなら、それはハルヒのせいであろう……。

 そんな記憶を伴侶として、俺はベッドから起きあがった。

 今日から新学期が始まる。始まるらしい。

 二学期がこれほど待ち遠しかったことは、未だかつてない。

 体育館で校長の訓辞を聞き、短いホームルームを済ませての放課後である。現在の日付は九月一日で合っている。教室で「今日は何日だ?」と訊いた俺に、谷口と国木田が気の毒そうな目の色になっていたからにはそうなんだろう。

 購買も食堂も今日はまだ開いていないため、ハルヒは校門の外にある駄菓子屋まで買出しに出かけている。部室には俺と古泉だけがいた。

「涼宮さんは文武とも優秀なかたです。それは幼い頃からそうだったでしょう。ですから彼女は、夏休みの宿題などが負担だとはまったく思わなかったのですよ。ましてや、友人とともに分担作業をするものでもなかったのです。涼宮さんはそんなことをするまでもなく、一人で簡単に片づけられる能力があるわけですから」

 古泉の解説を聞きながら、俺は窓際にパイプ椅子を引き寄せて校庭を見下ろしていた。文芸部の部室でのことだ。始業式の今日、特にすることもなく帰宅してもよかったんだろうが、なんとなく俺はここに来て、同じく登場した古泉とここでこうしている。恐ろしく貴重なことに長門はいなかった。顔には表さなかったが、あいつもやっぱり疲れていたのかもしれない。

 近隣のセミ勢力図は、アブラゼミからツクツクホーシの版図増大へと転じかけている。夏休みは終わった。それは確かだ。しかし、

「嘘だったみたいな気がする。一万五千何回も八月後半をやっていたなんてのはな」

「そう感じるのも無理はありませんね」

 古泉は晴れやかに微笑んで、カードを切っていた。

「一万五千四百九十七回、それだけのシークエンスにいた僕たちと、今の僕たちは記憶を共有していません。過去それだけ分の僕たちは、この時間軸においては存在しない。一万五千四百九十八回目の僕たちだけが、正しい時間流に再び立ち戻ることができたわけですから」

 だがヒントは貰った。あの何度もの既視感、特に最後の俺の感じたアレは、以前に同じ立場にいた俺たちからの贈り物だったのかもしれない。以前というのもおかしいか? 以前も何も、時間は虎が溶けてバターになるほどのメリーゴーラウンド状になっていただけらしいからな。

 それでも俺は、今の俺があることを先に二週間を過ごしていたその俺たちのおかげだと思いたい。そうでも思ってやらなければハルヒに無かったことにされている彼らの夏がまるで無駄だったと言わんばかりじゃないか。

 特に自分たちがリセットされることに自覚のあった、八千七百六十九回分の俺たちがさ。

「ポーカーでもしますか?」

 古泉が新米マジシャンのような手つきで札を繰る。たまには付き合ってやるか。

「いいとも。だが何を賭ける? 金ならないぞ」

「ではノーレートで」

 そしてそんなときに限って、しなくてもいいのに俺はバカ勝ちした。ロイヤルストレートフラッシュなんて初めて見た。

 

 もう一度この日をやり直す機会があったなら、掛け金の設定を是非とも覚えておくことにしよう。

 

序章・秋

 

 文化祭が終了して何となく虚脱感に覆われていた十一月下旬。

 映画の撮影段階で大いに暴れ、当日の上映会でも一応の興行成績を収めたハルヒ監督だったが、これで当分は満足感の余韻にひたっておとなしくしてくれると思いきや、そのテンションは文化祭前中後を通して全然変化しなかった。

 しかし学校側としてもそうそうハルヒの頭を要らない具合に調子よくさせようという行事を次々繰り出すほどの手駒の持ち合わせはなく、やったことと言えば生徒会会長選挙くらいのものである。正直、俺はハルヒが立候補したらどうしようかとヒヤヒヤしていたのだが、どうもハルヒは生徒会組織を零細文化系同好会側の仇敵であるという妙な思いこみをしているようで、自ら獅子身中の虫として生徒会に入り込み、学園陰謀物語の黒幕になるつもりはないらしかった。

 むしろその黒幕----そんなもんがいたとしたらだが----と率先して戦いたいと思っているフシさえある。

 せっかくのSOS団なんていうインチキな活動団体を黙殺、または見て見ぬフリしてくれているんだ。ありがたく立場をわきまえていればいいのにハルヒはいつでも戦う気満々、ただし何をどうやって戦う気なのかまでは今のところ俺の知る限りではない。

 だが、そんな期待あるいは予感とは無関係に、俺たちに戦いを挑んできたのは生徒会側の刺客ではなかった。

 復讐に燃える隣人だったのである。

 

射手座の日

 

 目の前に暗黒の宇宙空間が広がっていた。

 アイマスクして馬頭星雲に迷い込んだような暗闇であり、星の輝き一つ観測できないというシンプルなギャラクシースペースで、はっきり言いや手抜きの書き割り背景だ。もうちょっと何か演出があってもいいんじゃないかと思いもすれ、まあ何かと都合があるのだろうこの宇宙空間にも。予算とか技術とか時間とかそういった感じのものがさ。

「何も見えねえな」

 と俺は呟いた。さっきからモニタは単なるブラックオンリーの色彩で、ほとんどディスプレイの故障を疑ってもよさげな雰囲気を俺の目に伝えている。

 この宇宙空間のどこを彷徨しようかと俺が思案していたところ、虚無的な画面上の下部から突如として光点が登場、そのままずんずん前進を開始したため、たまらず俺は意見具申することにした。

「おいハルヒ、もうちょっと下がったほうがいいんじゃないか? お前の旗艦が前に出すぎだぞ」

 それに対するハルヒの返答はこうだった。

「作戦参謀、あたしを呼ぶときは閣下と言いなさい。SOS団団長は軍の階級で言えば上級大将くらいなんだからね。こん中で一番エライの」

 誰が作戦参謀で誰が閣下かと言い返す前に、

「涼宮閣下、敵艦隊に不審な動きがあるとの長門情報参謀からの連絡です。いかがいたしますか?」

 古泉が状況を報告した。ハルヒの回答は、

「かまうこたないわ。突撃あるのみよ!」

 まったくハルヒらしい指令だが、誰もそれに従うわけではない。つか、誰も従ったりはしなかった。まともにあいつらとやり合っても種子島三段撃ちに立ち向かう武田騎馬軍団のようにズタボロにされるのは解りきっている。

 朝比奈さんが不安げな表情で片手を挙げ、

「あのう……。あたしはどうしたら……?」

「みくるちゃん、邪魔だからあなたの補給艦隊はそこらへんを適当にウロウロしてたらいいわ。期待してないから。キョン、あんたと有希と古泉くんで敵の前衛を蹴散らしなさい。そしたらあたしがトドメを刺しに出るからね。厳かに!」

 誰かこいつを止めてくれと言いたい。

 俺はモニタに目を戻し、SOS団宇宙軍における自艦隊の位置取りを再確認した。 <キョン艦隊> と名付けられた俺率いる一万五千隻の宇宙艦隊は、ちょうど <ハルヒ☆閣下☆艦隊> の真後ろを追撃する形で前線へと進発している。その横に <古泉くん艦隊> が随伴し、一番頼りになりそうな <ユキ艦隊> は俺たちの遥か前方で索敵行動を取っていた。補給艦を引き連れた <みくる艦隊> がどこにいるかを探せば、朝比奈さんのおぼつかない操作によって開戦スタート時から迷走を繰り広げている。

「わー。どっち行けばいいんですかぁ?」

 朝比奈さんは悲鳴に近い困惑の声を上げて、いつものように困っていた。

 どこでもいいです。俺たちの後ろの方をウロチョロしていてください。画面上の艦艇といえども、あなたの名前が冠されたモノが傷物になるのは見たくありませんからね。

 不意に、見つめる画面に変化が訪れた。 <ユキ艦隊> が放った索敵艇からの情報が、データリンクされた俺の艦隊にも伝えられてきたのだ。味方艦隊のシンボルマーク以外黒一色だった宇宙空間に、長門の捕捉した敵部隊の位置情報が表示される。

「下がれ、ハルヒ」と俺は言った。「奴らは艦隊を分散させている。多分、お前の位置を探ってるんだ。大将は大将らしくしてろ。後ろでふんぞりかえっていればいいんだよ」

「なによう」

 ハルヒは唇を突き出して異を唱えた。

「あたしだけ除け者にする気なの? ズルいわそんなの。あたしだってビームやミサイルをピコピコ撃ち合ったりしたいのに!」

 俺は <キョン艦隊> に微速前進を命じるかたわら、

「いいかハルヒ。お前の旗艦がやられたらその時点で俺たちは負けるんだぞ。見てみろ。突出している敵の艦隊四つは雑兵どもだ。旗艦艦隊は後方で指令だけしてるんだろうよ。将棋やチェスだって王将がお供もなしで敵陣にずかずか上がったりはしないだろう? しかもこんな序盤にさ」

「それは……そうかもね」

 ハルヒの渋い顔で、だがどことなく自尊心をくすぐられたような表情をした。俺を見る瞳は猫がエサをねだる時のような形をしている。

「じゃあ、あんたたちで何とかしなさい。敵の旗艦を見つけ出してバシバシ砲撃するのよ。あんな連中に負けてなるもんですか。勝つのよ。負けたら栄えあるSOS団の名が廃ると言うものだわ。なにより、あいつらが調子に乗るのが我慢ならないのよね!」

「閣下」

 すかさず古泉がご注進に走った。

「長門情報参謀の <ユキ艦隊> が敵前衛と会敵しました。これより戦闘行動に移ります。閣下におかれましては、我々の後方に遷移し、全体的な戦術指揮をお願いしたいと愚考する所存であります」

 真剣そうなセリフだが、微笑み混じり言われても現実性に欠ける。

「あら、そうなの?」

 ハルヒは古泉のベンチャラにご満悦となり、団長席で腕組みしながら腰を反らした。ロクな戦術指揮能力もないのに階級が高いというだけで隊長をやってる士官学校出の若手キャリアのような顔をして、

「古泉幕僚総長がそう言うなら、言うとおりにしてあげる。じゃあ、みんな、しっかり働くのよ。ちょこざいなコンピュータ研の連中なんかギッタギタのメッタメタにやっちゃいなさい。狙うのは殲滅よ。木っ端微塵に打ち砕くの」

 完全勝利を目論んでいるようなのはモチベーションとしては正しいのだろうが、この宇宙戦には相手の思惑もあるということを忘れないほうがいい。敵コンピュータ研だって同じ野望を持って参戦していることだろう。

 そして俺の見る限り、我がSOS団側の勝算は旧日本軍がレイテ沖で米軍に完勝を納める確率よりもなお低いと見積もられる。歴史にifはないが、同数同戦力でリプレイしたとしてもコテンパにやられるのが主だった筋書きになっているに違いないね。とっとと白旗を揚げた方がいいんじゃないだろうか。

「ま、そうもいかないんだろうが」

 と俺は腕まくりをして、画面の敵影情報を再確認した。さすがは長門、旗艦部隊を除いた敵艦の位置をほぼ網羅するデータを送ってくれている。ここから我が軍を勝利に導くのは、大げさにも作戦参謀の肩書き押しつけられた俺の頭脳と手腕似かかっているというわけだ。

 どうしたものだろう?

「さて……と」

 俺は刻々と変化するノートパソコンの液晶を見つめながら、ハルヒ司令官閣下の思惑通りに事態を終える方策を考え始めた。その前に、今このような事態に俺たちが置かれている状況を説明しておいたほうがいいかな。混乱する前に考えをまとめることは人生のあらゆる岐路で有益だ。では、そうしてみよう。

 事と次第は、一週間前に遡る。

 

 某月某日の秋の放課後。

 文化祭が終わって数日が過ぎ、学園に静けさが戻っていた。

 てのはありふれた導入部分の常套句で、早い話が祭前の状態に回帰しただけであるのだが、それにしてもまあ無事に終わってくれただけでも有り難い気分になっているのは俺だけではないと思いたい。

 真正直に腹の中を打ち明けてくれたわけでもないから正式には解りかねるものの、古泉の微笑はいつもより安堵の比重が勝っているようだったし、長門のいつもの無表情もそれを裏付けるかのようだ。

 とにかくここ最近、この読書マシーンがぼんやり本読んでいる姿を何よりの平穏の証拠であると見なすようになっていて、もし長門が妙な行動を取り始めたり、ましてや慌てふためいたりするような光景を目にしたならば、俺はそろそろ遺書か自叙伝かのどちらかを書く用意をするに違いない。おそらく長門にとって不測の事態なんてのはほとんどないはずだから、こいつが文芸部の部室でのどかに海外SFの原書を読んでいるということは、恐るべき悪夢が間近に迫っているわけではないという確固たる証拠と言えよう。

 その一方で、未来から来たとはとても思えないほど過去の事をなんにも知らない美少女ニセメイドさんは、今日も無意味な奉仕的給仕女性の衣装を完璧にまといつつ、あっつ熱の日本茶を真剣な目と手つきでもって淹れていた。どこから仕込んできたのか、各種お茶っ葉に対するお湯の最適な温度という知識を入手した朝比奈さんは、湯沸しポットではなくわざわざカセットコンロにヤカンをかけて湯を沸かすようになっている。片手に持つのは温度計であり、そんなもんをフタ開けたヤカンに突っ込んで慎重な眼差しをしているメイドルックのふわふわ未来人なんてのもここでしか見ることはできまいね。なんか微妙に間違っているような気もするのだが、間違い探しを始めたらこのSOS団アジトで間違っていないものなどまったくない。何もかもが間違っているからだ。唯一正常なのは、自分が確かに存在しているというこの俺の意識のみである。いやまったくデカルト様々だ。

 この文芸部室のはずがいつのまにか涼宮ハルヒとその一味の根城になってしまった異空間で、こうも正気を保ち続けている俺は意外にけっこう大物なのかもしれないな。考えてみれば俺以外の連中は最初から変な背後関係を持っているわけだし、団長のハルヒはいつまで経っても謎にまみれた存在、まがりなりにも常識的な客観性を持っているのは俺だけというこの有様をどう思うよ。

 ボケ四人に対してツッコミ一人とは、いくらなんでも比率がおかしすぎるぜ。せめてもう一人くらい俺の精神疲労を共有するような人間がいてもいいんじゃないだろうか。だいたい俺だってそうそう律儀にツッコミ入れる性癖を持ってないんだぞ。そんな気にならん時だってある。俺だけがこんな責務を負わされているのは不公平だと恨み節の一つでも唄いたいところだが、かと言って谷口や国木田を巻き込んでやろうとも思わない。気の毒だからではなく、能力的な問題さ。あの二人にハルヒと対抗できるボキャブラリーと反射神経があるとは思えないし、そういやあいつらと鶴屋さんもどっかボケてるよな。くそったれめ。この世は狂ったもん勝ちか。

「うーむ」

 俺は腕を組み、さも難しいことを考えているような唸り声を出した。別にいま古泉とやっている囲碁の次の一手を悩ましく思っているからではない。古泉の黒石を大量死に追い込むことはそれほど難易度が高くないのだ。ゲームマニアのくせに全然上手くならない古泉と一緒にしてもらっては困るぜ。そうではなく、この世界は本当に正気なのかどうかを俺は心配している。なぜなら狂った世界では狂った人間しかまともに生きていけないだろうと俺は推測しているからだ。正気の人間こそがそこでは狂気に侵されていると見なされるだろう。よくもまあ、こんな理不尽と不条理渦巻くSOS団部室で普通の高校生をやれるもんだと我ながら感心するね。そろそろ誰か誉めてくれてもよさそうなものだ。

「ならば僕が賞賛の言葉を贈って差し上げましょうか」

 古泉は格好だけは様になっている手つきで盤上に石を置き、俺の白石をかすめ取りながら微笑んだ。所作は一丁前だがな。目先の石ころに注意するばかりでは、数歩進んだところにある溝にハマるという近未来が待ち受けていることにえてして気づかないものさ。

「遠慮しておこう」

 俺は答え、碁石の容器に指を突っ込んでジャラジャラ言わせつつ古泉のまるで本心から俺を讚えているような表情を眺め返し、さほどの喜びを得られることなく無気力に言った。

「お前に誉められても嬉しかねえよ。何か裏があるんじゃないかとかえって不安になるだけだ。言っておくが、俺はゲームの駒じゃないんだからな。お前たちの思うとおりに動くと思ったら大間違いだ」

「その『お前たち』というのが、どの僕たちなのかお聞きしたいところでもありますが、とんでもありませんよ。涼宮さんもあなたも、まったく予測できないことをしでかしてくれますからね。僕がここにいるのが一つの確かな証明でしょう」

 もしも、古泉が転校してくるようなことがなければ、ハルヒはこいつをSOS団の一員にしようとは思わなかっただろう。あいつにとって必要だったのは「古泉一樹」という人間の性別や性格や人柄やルックスではなく、単に転校してきた、というただそれだけの理由だ。変な時期に慌てて転入してきたのが運のつきだったな。あるいはハルヒに近づくためにわざと転校してきたのかもしれないが、いちおうハルヒが探し求めるところの超能力者であるこいつからしたら、いつチェレンコフ放射を始めるか予測不能な放射性物質の近所にいるようなものだろうし、ヘタに近づきたくなかったというのが本音かもしれん。

「それは過去形ですよ」

 古泉はつまんだ碁石を見つめて、

「あの当時は確かにつかず離れず監視するだけにとどめておく予定でした。ですから涼宮さんが最初に僕の所を訪れて、その日の放課後にこの部室へと連れてこられてたときは肝を冷やしましたよ。おまけに活動目的が宇宙人未来人超能力者を捕まえて一緒に遊ぶことなどと宣言されましたしね。もう笑うしかありませんでした」

 懐かしそうに思い出を語る古泉だった。

「ですが今は違います。僕はかつて謎の転校生だったかもしれませんが、その属性は現在の僕から失われています。涼宮さんはそう考えているでしょうね」

 じゃあ何だ。俺にしてみれば、お前はまだまだ謎だらけだぜ。

 古泉は部室を見回し、狭い場所を好む猫のように隅っこの椅子に座って読書にふける長門を見て、次にヤカンと睨めっこしている朝比奈さんを見つめてから、視線を一周させて戻ってきた。

 ハルヒの姿はない。クラスの掃除当番に当たっているからであり、そうでなければ俺と古泉がこんな会話をのんびりやっているはずもない。

 その団長不在の部室で、古泉は怪我をした小鳥を治療しようとしているベテラン獣医のような笑みととともにこう言った。

「僕も長門さんも朝比奈さんも、それから当然あなたも、今や立派なSOS団の一員です。それ以上でもそれ以下でもないのですよ。涼宮さんは、そのように考えているはずです」

 SOS団の団員以上および以下という分類に何の意味があるのだろう。

「意味はありますよ。宇宙人や異世界人といった一般人類外の存在が団員以上、団員以外の一般人類が団員以下です」

 谷口や国木田、鶴屋さんや俺の妹は団員以下なのか。あいつらや鶴屋さんをかばうわけではないが、連中が俺以下の存在価値しかないってのを黙ってうなずくのは心が痛むぜ。

「非常に簡単な論理です。彼らが涼宮さんにとって重要な存在として目されているなら、彼らは我々の一員としてここに居るはずです。いない、ということはすなわち、彼らは涼宮さんにとって重要でない、つまり単なる通りすがりの一般人である証拠なのです。まったくね、結果論ほど論証が楽な論理もありません」

「異世界人はどうした。まだ来てないのか」

「結果論的に、今のこの世にはいないでしょう。いたなら、何らかの偶然なり必然なりによってこの部屋に呼ばれているでしょうから」

「来なくて幸いだ。違う世界なんぞに行きたくねえよ」

 俺が白石を振り下ろして古泉の大石を頓死させるのと、勝敗の見えてきた碁盤の横に湯飲みが置かれるのが同時だった。

「お待たせしちゃって、ごめんなさい。お茶です」

 弱小校の野球部を就任一年目にして地区大会優勝に導いた監督のような笑みを浮かべて、朝比奈さんがすぐ横に立っていた。

「雁音っていうのを買ってみたんです。上手く淹れることができたと思うけど……。高かったんですよぅ?」

 自腹を切らせてしまって申し訳ない。代金は後でハルヒに請求するべきでしょう。いやまあ、そこまで茶葉に凝らなくても、朝比奈さんの御手が差し出すものなら水道水でも俺にはエビアン以上の品質です。

「うふ。味わって飲んでね」

 すっかりメイド装束が板についてきた朝比奈さんは、古泉の前にも湯飲みを置くと、慣れた所作で盆を掲げ持ったまま、残った湯飲みを長門の元へと運んでいった。

「…………」

 いつものように長門は無感想だが、朝比奈さんからしたら素直に礼を言われるより何も言われないほうが安心するらしい。今に至るもSOS団の宇宙人と未来人が仲良く会話する光景は見たことがなく、というか長門が誰かと楽しげに喋っているシーンなんか未だにない。まあ、それはそれでいいんだと思う。いきなり長門が饒舌になってもビビっちまうし、ハルヒ並みの「お前口さえ開かなけりゃあな……」なんていう女になってしまうのも少々惜しい。

 黙ってて問題のない奴は、やっぱり黙っていたほうがいのさ。

 

 そうやって碁を打ちながらのんびり茶をすすっていると、この世にはびこる悪の存在を忘れそうになってくる。しかし、そんな小市民的平和は長く続かず、厄介ごとはまるで忘却されるのを恐れるがごとく周期的に訪問してくるのだった。

 ノックの音がした。俺は顔を上げ、傷だらけで安っぽい扉を眺めてから心の準備を開始する。何故かって? 部室内で漫然と過ごしているメンツはハルヒを除く四人の団員たちである。そしてハルヒはノックをするなどという殊勝な行為から最もかけ離れた位置で高笑いしているようなヤツだ。つまりこのノックの主はハルヒではなくSOS団の誰でもないのだから、それ以外の第三者だということになる。誰かは知らないが、どうせ何らかのやっかいごとを提供するためにここを訪問して来たに違いないという推理がたちどころに成り立つではないか。いつぞやの喜緑さんみたいにさ。

「はぁい、ただいま」

 上履きを鳴らしながら朝比奈さんが応対に向かう。すっかりこなれてきた動作であり、メイドであることに自分でも何ら疑問を覚えていないようであった。いいこと……なんだろうか。

「あっ?」

 扉を開いた朝比奈さんは意外な人物を見たようだ。軽く目を見開いて、

「どうぞ……。お、お入りになります?」

 朝比奈さんは二歩ほど後ずさって、何故か両手で胸を隠すような仕草をする。

「いや、ここでいい」

 と、訪問者がやや緊張気味の声で返し、開いたドアから首だけを伸ばして室内をあらためるようにうかがった。

「団長さんは不在か……」

 押し隠す安堵が色濃く滲み出る声を出したのは、なんとなく馴染みになりつつある隣室の主、コンピュータ研の部長であった。

 誰も動かないのでまたしても俺が窓口になることになる。朝比奈さんは棒立ちだし、古泉は微笑んだまま上級生を見つめているだけ、長門は本しか見ていない。

「なんでしょうかね」

 いちおう上級生だ。敬語まじりで話してやるのが筋だろう。俺は立ち上がり、朝比奈さんをかばうようにして前に出た。ん? 部室の敷居を跨ごうとしないコンピュータ研の部長、その後ろに数名の男子生徒たちが先祖代々成仏に失敗した背後霊のように群がっている。どうした、討ち入りの季節にはまだ早いぞ。

 部長氏は進み出てきたのが俺だったことにホッとしたのか、薄ら笑いを浮かべる余裕が出てきたようで、いくぶん背筋を反らしつつ、

「まず、これを受け取って欲しい」

 何のつもりか、一枚のCDケースを差し出してきた。受け取るも何も、コンピュータ研が俺たちに善意からなるプレゼントをくれるはずはないから、俺は当然のように疑いの眼差し。

「いや、決して物騒なものではない」と部長。「中に入っているのはゲームソフトだ。僕たちのところが開発した、オリジナルのものだよ。この前の文化祭で発表してたんだけど、見なかったのかな」

 悪いがそんなヒマはなかったね。文化祭で俺がいつまでも覚えていたい記憶は、軽音楽部のバンド演奏と朝比奈さんの焼きそば喫茶用衣装くらいのものだ。

「そうか……」

 部長は気を悪くしたわけでもないようだが肩を落とし気味にして、「展示場所が悪かったかな……」と呟いた。用件が世間話ならさっさと終わらせて帰ったほうがいいぞ。こんな所にハルヒが現れたら、どんな揉め事に発展するか解ったもんじゃない。

「もちろん用件があって来たんだ。でも、まあ手短にしたほうがいいような気もする。では、言うぞ!」

 部長が何やら汗ばみながら言う姿に、背後霊集団も毅然とした表情でうなずいた。とっとと終わらせて欲しい。

「ゲームで勝負しろ!」

 部長は裏返った声で叫び、再びCDケースを突きつけた。

 何でまたコンピュータ研と俺たちがそんなもんで対戦しなくてはならないんだ? 遊び相手に不自由しているんなら、もっと別の部室に行ったほうがいいと老婆心ながら申し添えたいところだ。

「遊びじゃない」

 部長氏は徹底抗戦するつもりのようで、

「これは勝負だ。賭けるものだってちゃんとあるぞ」

 ならば古泉を差し出そう。コンピュータ研の部室で心ゆくまで勝負してくれたらいい。

「そうじゃなくて、キミたちと勝負したいんだよ!」

 頼むから、そう勝負勝負と言わないでくれ。ハルヒの地獄耳がどこで聞いているか解らない。万一、あの根拠不明の自信家がその単語を聞きつけたら----、

「うりゃあ!」

「げふをっ」

 奇怪なセリフを吐きつつ、部長の姿が誰かに蹴飛ばされたように真横にすっ飛んで視界から消えた。

「わ!?」「部長!」「大丈夫ですか!」

 数秒ほど遅れて、部員たちが口々に叫びながら廊下に横たわる部長氏に取りすがり、俺は緩やかに視線を横向ける。

「あんたたち、何者?」

 爛々と光る瞳をコンピュータ研の部員たちに向け、いい形をした唇を大いに笑わせているその女こそ、涼宮ハルヒに違いない。

 部長氏に闇討ち同然のドロップキックをかまし、自分はあざやかな着地を決めておいての勝ち誇った顔である。

 ハルヒは耳にかかった髪を見せつけるかのように払いのけ、

「悪の集団がついに来たのね。あたしのSOS団を邪魔に思う秘密組織か何かでしょう。そうはいかないわよ。暗い闇を照らして邪悪を根絶やしにするのが正義の味方の使命なんだからね! ザコはザコらしくワンショットで消えなさい!」

 転倒の拍子に頭を打ったらしい部長氏は、「ううう」とか呻いて配下の部員たちに介抱されつつ心配させている。ハルヒの口上を聞いていたのは、どうやら俺一人のようだ。

「なあ、ハルヒ」

 高校入学以来もう何度目か解らないが、言い聞かせるような声で語りかける。

「蹴りを入れるのは話を聞いてからでもよかったんじゃないか? おかげで、見ろ。俺も彼らもどうしていいか解らんじゃないか。ゲームで勝負----、までしか俺は聞いていないぞ」

「キョン、勝負事なんていうのはね、言い出したその時から勝負なの。宣言イコール宣戦布告なわけ。敗者が何を言おうとそれはイイワケよ、勝たないと誰も聞く耳持たないわ」

 ハルヒは仕留めた獣の検分をする狩人のように部長氏に歩み寄り、失礼にも失望の声を上げた。

「なによ。お隣さんじゃん。どうしてこんな奴らがあたしにケンカ売りに来たわけ?」

 だから今まさにそれを説明してもらうところだったんだよ。機会を与えず横合いから不意をついたのはお前だ。

「だってさ」とハルヒは唇を尖らせて、「てっきり生徒会が部室の明け渡し請求に押しかけたのかと思っちゃったのよ。そろそろ来る頃合いかなあって計算してたのに。まったく、ややこしいことしないでよね」

「だとしてもキックしていいことはないだろ」

 俺がハルヒを諌めようとしていると、

「そう言えばそのイベントがまだでしたね……」

 いつの間にか戸口に立っていた古泉がひょっこり廊下に登場し、考え込むような顔をしやがったのでその爪先を踏んづける。余計なことを口走るんじゃない。

「うう……卑怯なり、SOS団……」

 呻き声を漏らしながら部長氏はようやく立ち上がった。脇から部員たちに支えられて、

「と、とにかくっっ、勝負はしてもらう。どうせ言葉は通じないだろうと思って、文書を作成してきたんだ。これを読めば勝負の内容はよく解るだろう」

 部員の一人がコピー用紙の束とCDケースを、野生のライオンに生肉を与えようとしているような手つきで持ち上げており、

「ご苦労様です」

 にこやかに受け取ったのは古泉だった。

「それで、ゲームはいいのですが、説明書も付属しているのですか?」

 別の部員はまた紙束を持って古泉に押しつけた。そして小声で、

「部長、用はすみました。部室に帰りましょう」

「うん、そうしよう」

 弱々しくうなずき、

「では、そういうことで----」

 用件を途中半端に告げ、そそくさ帰ろうとした部長氏の首根っこをハルヒの手によってむんずと掴まれた。

「ちゃんと説明しなさいよ。文章でごまかそうったってそうはいかないんだからね。このあったま悪いバカキョンにも解るようにセリフで解説するように!」

 バカは誰のことだ。

 哀れ、このようにして部長氏は文芸部室へと引きずりこまれることになった。残されたコンピュータ研部員たちが抗議の声を上げるヒマもなければ救助する手だてもなく、そして扉は閉ざされた。

 

 文化祭というハレの時期を過ぎ、年がら年中ハレ真っ盛りのハルヒと違って、全校規模ではすっかりケとなる日常に回帰したと思っていたのだが、どうもコンピュータ研もハレな気分を持続させていたようだ。しかし現在パイプ椅子に座らされて単身オドオドしている部長氏の姿は、まるでダンジョンの最深部でパーティからはぐれたあげくリビングデッドの群れに取り囲まれたMPゼロ状態の白魔術師のそれであった。同じようにオドオドしている朝比奈さんが淹れたお茶にも手を付けず、ハルヒによって尋問を受けている。

 簡単にまとめさせてもらおう。

 部長氏の要望は以下の通りである。

 

1.コンピュータ研自作の対戦ゲームで勝負しようではないか。

2.我らが勝てば、現在SOS団の机に鎮座しているパソコンは、晴れて本来あった場所に帰還を果たすことになる。

3.だいたいだな、SOS団に多機能型パソコンは不釣合いである。コンピュータはコンピュータ研にあってしかるべき機材であり、強く返還を求める次第である。

4.パソコン強奪時に部長及び部員たちが負担した精神的苦痛は、この際だから忘れてもいい。いや、忘れたい。お互い忘れよう。

5.以上のような理由により、キミたちは我々と戦わねばならない。……戦え。

 

 古泉から回ってきた紙束に、こんな感じのことが解りにくい上に読みにくい文体で細々と書いてあった。訴状と果たし状を兼ねているらしいが、丁寧に印字された文章も俺がざっと目を通すだけで、ハルヒは直に部長氏から聞き出していた。早い話が、

「使ってないんだったら、パソコン返せよ」

 部長氏は言った。その言葉に対し、ハルヒは心外そうに答える。

「あたしは使ってるわよ。きちんとね。この前の映画もこれで編集したのよ」

 やったのは俺だが。

「ホームページも作ってたし」

 それも俺がやった。ハルヒがパソコン使ってしたことと言えば、暇つぶしのネット巡回と落書きみたいなシンボルマークを描いただけだろうが。

「そのホームページだって、半年経ってもインデックスしかないじゃないか。もう何ヶ月も更新の気配すらない」

 部長氏はふくれ面である。なんとまあ、彼は定期的にあのしょぼいサイトを訪れてアクセスカウンタを回してくれる常連らしい。なるほど、カマドウマの時のアレはそのせいであったようだな。我々がパソコンを活用しているかどうかが、よほど気になっていると見える。

「でもあたしが頂戴って言った時、あげるって答えてたじゃないの。キョン、あんたも覚えてるでしょう」

 そうだっけ。朝比奈さんがへたり込んでいるシーンはまざまざと脳裏に蘇るが、部長のコメントまで注意してなかったよ。仮に言ったのだとしても、あのときの部長氏は心神耗弱状態だったろうから取引は無効なんじゃないかな。

「断固、抗議する」

 部長氏は本気らしい。腕を組んで口を結ぶその表情には精一杯の強がりが浮いている。半年経ってあきらめも付くと思いきや、だんだん怒りがぶり返してきたようだ。

 ふーん、とハルヒは微笑みながらうなずいた。

「まあいいわ。そんなに勝負したいんならしてあげようじゃないの。こっちが賭けるのはパソコンね。それで、そっちは何を賭けるの?」

「何って、そのパソコンだよ。僕たちが負けたら、それはキミたちの物にしておいて構わない」

 ハルヒは平然と言い放った。

「これはとっくにあたしたちの物になってるわよ。元からある物をもらったってあんまり嬉しくないわ。別のものを持ってきなさい」

 不覚にも。この言いぐさには俺は感動すら覚えた。何であろうといったん手にした物の所有権は自分に帰属するらしい。将来、泥棒にでもなるつもりだろうか。

 しかし部長氏は怒り出すどころか、引きつったような笑いを作り、

「解ったよ。君たちが勝てば、新たに……そうだな、パソコンを人数分、四台進呈しよう。ノートタイプのやつでいいかな?」

 自ら賭け金を釣り上げることを言い出した。これにはハルヒも虚を衝かれたようで、

「え、いいの?」

 座っていた団長机からぴょんと飛び降り、部長氏の顔を覗き込んだ。

「ホントね? 途中でやっぱやめ、なんて言うのは許さないわよ」

「言わない。約束する。血判状でも持ってくるがいい」

 あくまで強気の部長氏であり、俺はなるほどと思う。

 さっきから長門がつまんで凝視しているCDの中身がどんなゲームなのかはまだ知らないが、制作側だけあってとことんやり尽くしているのだろう。コンピュータ研がハイアビリティなゲーマー揃いかどうかは置いといて、素人のSOS団のメンツなど一蹴できると考えているに違いない。俺もそう思う。まともにやり合いさえすれば、何の勝負でも俺たちが勝利するとは考えにくい。前の野球で勝った時は長門のあり得ざる秘力の賜物で、我々の実力ではないのだ。

 だがそれを解っていない奴が一人いた。

「あんたんとこ、女子部員がいないでしょ?」

 ハルヒが不思議なことを言い始めた。

「いないけど、それで?」と部長氏。

「欲しい? 女の部員」

「……いーや、別に」

 精一杯の虚勢を張る部長氏だった。ハルヒは悪い置屋の女主人みたいな笑みで口元をニマニマさせて、

「もしあんたたちが勝ったら、この娘をコンピュータ研に進呈するわ」

 と、指差したのは長門の顔だ。

「女の子欲しいんでしょう? 有希ならきっと即戦力になるわよ。物覚えはよさそうだし、この中で一番素直だしね」

 このアホウ、何を提案しやがるんだ。相手がパソコン四つを賭けているのに、こっちが一台では不釣り合いだと考えているのか。だがパソコン四台と長門ではスペックに開きがありすぎるぞ。お前は知らないかもしれないが。

「…………」

 景品扱いされているのに、長門は平気な平左をしている。あまり動かない目が一瞬俺をかすめ、ハルヒを通り越してコンピュータ研部長の顔をじっと見つめた。

 部長氏は明らかに動揺の表情でたじろぎながら、

「いやぁ……でも……」

「なに? みくるちゃんのほうがいいって言うの? それともパソコン四台では不釣り合い? んじゃ、副賞としてウチが勝ったらあんたんとこの部を『北高SOS団第二支部』に改名しなさい」

「あ……ええと……その、」

 ハルヒの言葉に朝比奈さんが口元を押さえて立ちすくみ、

「お前が賞品になれ」

 俺は憤然とハルヒに立ち向かった。

「いつまでも長門や朝比奈さんを備品扱いしてるんじゃねえぞ。賭けるなら自分の身体を賭けたらいいじゃねえか。勝手なこと抜かすな」

「何言ってんのよ。神聖にして不可侵の象徴たる存在、それがSOS団団長なの。もはや団そのものと言っても決して虚言ではないわ。あたしは『これだっ!』って思う人以外にこの職を譲るつもりはないわよ」

 お前は卒業後もここに居座るつもりか。

「それにね、誰であろうとも自分自身と等価交換できるモノなんか、この世のどこを探しても見つかったりはしないよの」

 ハルヒは理不尽な物言いであっさり俺の攻撃をかわし、無言の長門と言葉を消失した朝比奈さんを交互に指さして、なおも部長氏に迫った。

「で、どっちがいいわけ?」

 そして俺を横目で見ながら言い足した。

「どうしてもって言うんだったら、まあ、あたしでもいいけどさ」

 

 さすがに部長氏はハルヒの戯言に乗ることはなかった。注意深く目線を追っていた俺の観察結果によると、どうも長門のあたりでしばしの逡巡があったようだが、解るような気もするね。

 彼は朝比奈さんの胸をわしづかみにするという磔刑に値する前科を背負っており、その犯罪行為の相手を指名する度胸はないのだろう。それに谷口によると長門はけっこうな隠れ人気者であるらしいので、彼の趣味が無口系読書少女に合致していた可能性もある。朝比奈さんでは気後れしすぎるからというのが理由の一つであるかもしれないが、だからと言って露骨に「女子部員が欲しい」などと表明しないだけの慎みも彼は持ち合わせていたようで、まあまあ当たり前の結果だ。

 ああ、ハルヒ? すっかり性格の知れ渡った今や、こいつを指名するような男は真性のマゾかよほどの変わり者なのさ。でもってハルヒ以上に変わってもいないと思われる。だから俺も安心して放っておけるというものだ。

 

 かくして、戦いの舞台が整えられた。

 いったん文芸部室から出て行った部長氏は、手勢を引き連れて戻ってきた。彼らの手の内にあるのはノート型パソコンで見間違えようもない。賞品の前払いとは気前がいいと思っていたら、このゲームには一チームにつき五台のパソコンが必要なのだという。コンピュータ研なのか電気配線業者なのか解らないような機敏さで、連中はハルヒ御用達デスクトップと四つのノートパソコンをLAN接続し、次々と自家製ゲームソフトをインストールしていった。その会話の端々から、試合内容は五対五でやるオンライン宇宙戦闘シミュレーションだということが解った。ようするにSOS団側の五台、コンピュータ研側でも五台のパソコンを用意、その全部を一つのサーバにくっつけて対戦するようだ。俺たちは俺たちの部室で、彼らは彼らの部室のパソコンを使って。

 もちろんサーバとなるコンピュータは彼らの部室にあるわけだ。ふむ。なるほどね。

「練習期間は一週間もあればいいだろう」

 部長は部員たちの器用な動きを得意げに眺めながら、

「一週間後の午後四時にスタートだ。それまでに腕を磨いておくことだね。あまりに弱いと拍子抜けするからな」

 勝った気でいるようだったが、それはハルヒも同じ事だ。新しい備品が増えて笑いが止まらないような顔をしている。

「うん、サブノートが欲しいと思い始めていたのよね。やっぱパソコンは団員の数だけあるべきだわ。設備投資は働くもののモチベーションを上げるためにも重要なことよ」

 ノートパソコンで懐柔されちまうほど俺のモチベーションは安っぽくないぜ。くれると言うならもちろんもらうけどな。

 俺はすっかり冷めてしまったお茶を飲み、さりげなく長門の表情を垣間見た。朝比奈さんと壁際に並んでコンピュータ研部員たちの作業を見守っている無表情な顔には何も変化が感じられない。いつもの落ち着きようだった。

 奴ら作製のゲームだ。まさかとは思うが、怪しいウイルスが仕込まれていないとも限らない。もしそうなら長門も黙ってはいないだろう。その辺のことは任せておいていいな。コンピュータ研がどんな裏技を使おうと、長門の裏をかくのはそう簡単なことじゃないんだぜ。

 飲み干した湯飲みを弄んでいると、朝比奈さんがささっと近寄ってきた。

「キョンくん、これ……何をすることになるの? あたしはあまり、その、き、機械には疎いんですけど……」

 困惑の顔でどんどん増えつつあるコード類に目を落としている。そこまで困り果てることはありませんよ。

「ゲームですから、適当に遊んでおけばいいんですよ」

 そう言って慰めた。実のところ、それは俺の本心である。もし本当に長門や朝比奈さんを賭けての勝負なら俺も本気の力を見せるに一片の躊躇もないが、ハルヒがパクったパソコンを返す返さないの問題なら話も別さ。コンピュータ研の出してきた条件は、俺にとってノーリスハイリターン。それだけのハンデと自信の差が俺たちと彼らの間にあるってことでもあるな。

「負けてもともと、勝ったらバンザイの世界ですよ。今度ばかりは、ハルヒにも四の五の言わせたりはしません」

 はっきりと俺は言い切り、朝比奈さんの不安を一掃してあげるために笑いかけてもみた。

「でもぅ、涼宮さんが……。とても張り切っているみたいですけど」

 説明書らしきコピー紙を手にした古泉を横にはべらせ、コンピュータ研の撤収を待たずにハルヒは早くも団長机に着いてマウスを握りしめていた。

 

 なぜか満足げな顔で部長氏以下、隣の部員たちは誇らしげに出て行った。さぞ腕の振るいがいがあったと見える。

 その後、しばらくそれぞれのパソコンで動作確認などをしていたが、そろそろ陽も暮れるということで今日はお開きとなった。

 その帰り道、五人で集団下校しているときの俺と古泉の会話である。坂道を下る女三人組と数メートルの距離を置き、話しかけたのは俺のほうだった。

「ここいらで封印したほうがいいんじゃないかと思うセリフがあるんだ」

「ほう。何でしょうか」

「当ててみろ」

 古泉はほのかに苦笑を唇にたたえつつ、考え込むふりをしたのも一瞬で

「僕があなたの立場だったとして、濫用を避けたいと思えるセリフはいくつもありませんね。候補としては無言での『……』か、『いい加減にしろ』なども有力ですが、やはりこれしかないのではありませんか?」

 俺が黙っていると、古泉はたゆまぬ微笑とともに解答を発した。

「やれやれ」

 サービスのつもりか肩をすくめて両手をあげるジェスチャー付だ。古泉はヒラヒラと手を動かしながら、

「あなたの気分もよく解りますよ」

 解ってたまるか。

「いえいえ。できる限りマンネリな心境に陥るのは回避したいという思いが働いているのでしょう? 同じリアクションばかりしていては、他人はどうか知らないとしてもあなた自身に飽きが来る。何度も繰り返しプレイしてとっくに味わい尽くしたゲームをもう一度やり直そうという気にならないのと同じです。あなたは飽きることを恐れているのですよ。涼宮さんと同じようにね。違うのは彼女はどうしても自らの行動を主体として考えているのですが、あなたはそんな彼女の行動を受けて初めて反応を考えなければならない点です。さあ、これはいったいどちらの立場が楽なのでしょうね」

 何を分析医みたいなことを言ってやがる。俺の精神状態をとってつけたような理屈で補完しようとするんじゃねえぞ。だいたいそんなことを言い出せば、言っているお前はどうなのさ。古泉だってハルヒの行動にひたすら受身をとっているだけじゃないか。

「僕たちは僕たちで、主体性を持ってここにこうしているのですよ。お忘れですか? 僕や長門さん、朝比奈さんは主義主張こそ違え、ほぼ同一の目的でここにこうしているのです。言うまでもなく、涼宮さんの監視という最重要な課題を持ってね」

 そういうわけでただ一人何の目的もなくSOS団に引きずり込まれた俺だけが、ワケもわからず右往左往するハメになっているという様相を呈している。まったく、誰の魂胆なんだ。

「僕が知るわけはないでしょう」

 古泉は楽しげに俺と目を合わせていた。

「観察対象という身分で言えば、涼宮さんだけではなく、今はあなたもそうなのですから。これからあなたと涼宮さんが何をやってくれるのか、戦々恐々としながらも、僕はなんとなく豊かな心を育ませてもらっています。これは感謝しておいてもいいでしょうね。いや冗談は抜きでね、有り難いことだと思いますよ」

 他人事なれば、そりゃ見てても楽しいだろうさ。

 文化祭を機に正気を取り戻したのか、季節を表現する山からの風もなんとなく冷たい秋の風味を伴っていた。俺が好きになれない季節である。これから寒くなる一方かと思うと、ハルヒの暴虐のほうがいくらかマシに思えてくる。

 すでに暗い道を歩くその前方で、一人で喋っているハルヒと時折相づちを打つ朝比奈さん、登下校時は歩く以外の機能を持たないような長門が一塊になっている。長門の鞄がふくれているのは、あてがわれたノートパソコンが入っているからだ。そんな物を持って帰ってどうするのかという俺の問いに、長門はゲームCDを鞄の底に滑り落としながら「解析する」と答えてくれた。その影法師を見ているうちに言うべきことを思い出す。

「ところで古泉。俺から提案が一つばかしあるんだが」

「それは珍しい。拝聴いたしましょう」

 念のために声を潜めて言うことにする。

「今度のコンピュータ研とのゲーム勝負のことだけどな、とりあえずインチキをするのはやめておこう」

「インチキとは何を指しての言葉でしょうか」

 古泉も小声で聞き返す。

「野球の時に長門が使ったようなアレのことだ」

 忘れたとは言わせないぞ。

「最初にお前に言っておく。仮にお前がシミュレーションゲームを有利に進めるような超能力があったとしても使うんじゃない。超能力じゃなくてもいい、どんな手段でも、ルールに外れるようなギミックを使うことは俺が許さん」

 古泉は微笑みながらも探るような視線を俺に向け、

「それはまた、どういう思惑があなたにあるからですか? 我々が負けてしまってもいいと、そうおっしゃるのでしょうか」

「そうさ」

 俺は認めた。

「今回ばかりは宇宙的あるいは未来的、または超能力的なイカサマ技は封印だ。まっとうに戦って、まっとうな結末を迎える。それが最適な手段だろう」

「理由を問いたいですね」

「負けても失うものは盗品のパソコンだけだ。それも元の持ち主のところに帰るだけだからな。俺たちは別に困らん」

 帰す前に朝比奈画像集をどこかに移す必要はあるだろうが。

「僕がお聞きしたいのはパソコンの是非についてではありませんよ」

 古泉は面白そうな口調で、

「あなたもご存じのように、涼宮さんは何かに負けることが好きではないのです。どうにもならない、これは負けそうだ、と感じると閉鎖空間を生み出して人知れず大暴れさせてしまうほどにね。それでもいいと思うのですか?」

「かまやしないね」

 俺はハルヒの後ろ姿を眺めていた。

「いくらあいつでも、そろそろ学んでもいい頃だ。そうそう何もかも思い通りになってたまるか。ましてや今回はハルヒが言い出したことじゃねーし、それほどの意気込みがあるわけでもないだろう」

 超常能力封印を明日にでも長門に伝えないとな。朝比奈さんにも言っておくか。自ら機械オンチを告白してきた彼女に格別な能力やアイテムがあるとは想定しにくいが、ま、これも念のためだ。

 古泉が小さく笑い声を漏らした。何のつもりだ、気色悪い。

「いえ、おかしかったからではありません。羨ましくなったものですから」

 俺のどこに羨望を感じたと言うんだ。

「あなたと涼宮さんの間にある、見えざる信頼関係に対してですよ」

 何のことやら、さっぱりだね。

「しらばっくれるつもりですか。いえ、あなたにも解っていないかもしれませんね。涼宮さんはあなたを信頼し、あなたもまた彼女を信頼しているということですよ」

 勝手に俺の信頼先を決めるな。

「一週間後のゲーム勝負に負けたとします。しかし、そこで涼宮さんが閉鎖空間を生み出したりはしないだろうとあなたは思っている。そのように信頼しているからです。また、涼宮さんはあなたならゲームを勝利に導くだろうと信じている。これも信頼です。彼女が団員の身柄を賭けようかと言い出したのは、負けるはずがないと確信しているからですよ。決して言葉に出したりはしませんが、あなたがた二人は理想形と言ってもいいくらいの信頼感で結びついているんです」

 俺は沈黙の井戸に潜り込んだ。返す言葉がなかなか思いつかないのはなぜだろう。古泉の推測が俺の心の的に高得点で突き立ったからか? 信頼云々は専門家に任せるとして、確かに俺はハルヒが精神世界で暴走を繰り広げるとは思っていない。それはこの半年間を振り返ってみればいいことだ。SOS団設立から映画撮影まで、色んなことがあって様々なことが俺たちの前を通り過ぎた。俺自身それなりに成長したつもりだし、ほぼ同様の経験をしているハルヒだってそうだろう。でなけりゃあいつはぶっちぎりの本当のアホだ。取り返しようがないほどの。

「試してみる価値はある」

 ようやく俺は言葉を紡ぎ上げた。

「コンピュータ研とのゲーム対戦で負けて、それでハルヒがけったくそ悪い灰色世界を生み出すようなことがあれば、今度こそお前たちの事情なんか知ったことか。ハルヒと一緒に世界をこねくり回してろ」

 古泉は微笑みだけを浮かべていた。そしてさも当然のようにこう言った。

「それが信頼感というやつですよ。僕が羨ましくなる理由が解りましたか?」

 俺は答えず、ただ歩くことだけに集中した。古泉はなおも何かを言いたげな顔をしていたが、聞く耳を持たない俺の様子を感じ取ったのか、とうとう何も言わなかった。

 まあいい。古泉が思わせぶりな顔をするのには慣れっこだ。朝比奈さんが部室でメイドの格好をしていたり、ハルヒがいつだって裏付けのない自信に満ち溢れているのと同じくらい普通のことである。

 長門がいるのかいないのか解らない希薄な存在感しか持たないのと同様……とも表現したいところだったのだが----。

 

 一週間後の対コンピュータ研戦の場で、俺は思わぬ光景を目にすることになった。

 

 そんなこんなで翌日の放課後から、隣室の連中を仮想敵とした俺たちの特訓が始まった。特訓といってもゲームに興じるだけなのだが、そのコンピュータ研作製によるオリジナルゲームを取り急ぎ概略だけでも紹介しておくべきだろう。

 というのがゲームタイトルである。なんとかイイ感じにキメようとしてかえって意味不明になってる感が否めないが、問題視すべきなのは中身なので気にしないことにする。それを言い出せばSOS団なんていうグループ名の下にいる俺たちの立場がなくなってしまうしな。名称と活動内容の無意味さ及び無関係さにかけては、視点をグローバルに広げたところでこの団を下回るものが幾つもあるとは思えない。しかし3ってことは1と2もあったのか。

 それはともかく、まず なるゲームの背景となる世界観の説明からおこなうと----。

 時はいつの時代かわからん。途方もなく未来であることは確かなようだ。人類は外宇宙へと飛び出し、そこそこの版図を築き上げている。そんな宇宙的スケールでの、とある恒星系での領地争いであるようだった。そこには二つの星間国家が樹立しており、互いに国境線の位置取りに関して果ても見えない闘争を繰り広げている。便宜的に片方を <コンピ研連合> 、もう一方を <SOS帝国> と並び称することにしよう。おのおのの国家は戦場が宇宙空間であるゆえに宇宙軍艦隊を常備しており、風雲急を告げる事態となると惜しげもなく持てるばかりの戦力を前線に投入し、相手を殲滅するまで無益な戦争をエンドタイトルまで繰り広げるという筋書きになっている。そこには外交や謀略といった純粋な戦闘行為を妨げる余計なコマンドなど存在しない。ただ撃滅あるのみなのだ。ハルヒ好みかもな。

 スタート時点では画面はほぼ真っ暗である。モニタの下部で青く輝いているのが我々の操作する艦隊ユニットだ。底辺が短めの二等辺三角形の形をしており、それが合計五つ、横に並んでいるのが解る。これこそハルヒが全軍を統括する <SOS帝国> 軍の戦力のすべてだ。一ユニットあたりに宇宙戦艦が一万五千隻ほど内包されているから総数七万五千、それプラス各艦隊に少数くっついている補給艦部隊。それらの戦艦を操って、同数の敵 <コンピ研連合> の艦隊を撃破すれば勝利条件クリアだが、今回のルールではお互いの大将艦隊、我々なら <ハルヒ☆閣下☆艦隊> の旗艦、相手は部長氏艦隊の旗艦を撃破されたら全軍のダメージや撃沈数いかんに関わらずその時点で負けとなる。

 艦隊は一人につき一個艦隊が与えられ、自分のパソコンからは自分の艦隊ユニットしか操作できない。いくらハルヒが独走しようとも、俺の使っているノートパソコンからはどうしようもないというわけだ。

 妙なこだわりを感じさせるのは、徹底的に索敵しないと敵の位置はおろかこの宙域にどんな障害物が浮いているのかも解らないってところである。とにかく艦隊を移動させようとしたら、その方向に何がいてどんな物体が転がっているか、まず索敵艇を派遣して走査しなければならず、さらにその索敵艇が戻ってきて初めてその範囲の状況が解るというまわりくどさ。

 艦隊そのものの視界は半径にして数センチ(画面上の距離で)しかないため、索敵行動をおろそかにして直進していると思わぬ角度から敵の攻撃を喰らったりして、しかもその敵の位置も解らないといういただけないことに成り果てるのだ。

 ただ、味方の艦隊同士はデータリンクで結ばれており(という設定らしい)、たとえば長門の艦隊の視界や索敵艇が持ち帰った情報はそのまま我々全員のものとして共有することができる。俺が何をしなくても真っ黒な画面の中でその範囲だけは明るく表示され、惑星やアステロイドベルト、索敵した時点での敵艦の位置が解るといった仕組みである。

 それでも全体マップはやたらにだだっ広く、よって、すみやかな敵の位置特定と行動予測が明暗を分けそうだ。

 使用できる武器は二種類、ビームとミサイルのみである。敵が射程内にさえいればビームは発射したその瞬間に命中し、ミサイルのほうはノロノロ飛んでいく代わりにホーミング機能を付けることができる。向かってくるミサイルが誘導モードに設定されていると避けようがないのでいちいち撃墜しなければならない。

 大まかに言ってそんな感じの、宇宙を舞台にした2D艦隊シミュレーションゲームである。ちなみにターン制ではなくリアルタイム制で行われるから、悠長に星系を探索しているとたちどころに敵側から袋だたきにされる。このあたりも変にシビアであった。

 

 来るべき試合に向け、さっそく我々はゲーム週間に入った。ハルヒだけは机でデスクトップ、それ以外の四人は長テーブルに並んで着いてノートパソコンを見つめながらマウスをカチカチやっているという、なかなかシュールな光景がここしばらくのSOS団的活動内容になっている。練習は対戦モードでなくCPU戦だが、難易度をベリーイージーにしても一勝をあげるまで三日かかったというのだから、こちら側のゲームスキルランクはほとんどマントル層の下を手動ドリルで這っているレベルだ。

「あーっ! またやられたっ! キョン、なんか腹立つわよ、このゲーム」

 CPU相手にこの成績じゃあな。ハルヒでなくても頭に来るだろうが、別にゲームバランスが狂っているわけではなくて、お前の旗艦が前方不如意のまま突進して相手の集中砲火を一方的に受けているからだ。

「戦術を変えないといけないってのもあるが」

 俺はゲームオーバーをもの悲しげなBGMとともに告げている液晶モニタから目を離した。

「艦隊のパラメータをいじり直したほうがいいかな。特にお前の旗艦艦隊をだ」

 ここの艦隊ユニットにおける戦力振り分けパラメータは三つあった。『速度』『防御』『攻撃』である。プレイヤーは最初にポイントを100与えられ、それを三つのパラメータに分配するのが初期設定画面だ。『速度・30』『防御・40』『攻撃・30』といった感じだな。これをハルヒは『速度・50』『防御・0』『攻撃・50』でプレイしてるんだから、奴の旗艦装甲はダンボール製も同然だ。宇宙をなめるなと言いたい。とにかく素早く動いて敵艦を叩きのめすことしか考えていないらしく、俺や古泉がどうこうする前に旗艦が沈んでいれば、これじゃ世話を焼くヒマもねえよ。

「もうっ! めんどいったらないわね。こんなの作って何が楽しいのかしら。あたしはもっと解りやすいのが好きなのにっ」

 不平たらたらだが、ハルヒはそれでも飽きずにリプレイを始めた。俺のノートパソコン画面に のロゴが再表示される。

 ハルヒは楽しそうにマウスをクリックしながら、

「RPGにすればよかったのにさ。あいつらが魔王とか邪神役で、あたしが勇者。オープニング直後にラスボス戦が始まるやつがいいわ。いつも思うのよ、ダンジョンの奥でぼんやり待ってるんじゃなくて最初から親玉が登場しちゃえばいいのに。あたしが魔王ならそうする。そしたら勇者たちも長ったらしい迷宮をうろうろしないですむし、簡単に話が終わるし」

 むちゃくちゃを言うハルヒを無視し、俺は横にいるその他メンツを順番に見ていった。最もハルヒに近いところに座っているのが古泉幕僚総長、次が俺で、その隣に朝比奈さん、一番隅っこに長門がいる。

「これは難しいですね。まあ僕がこの手のゲームに不慣れなせいかもしれませんが。シンプルですがマニアックな操作性です」

 適当な感想を述べている古泉は、オセロやってる時と同様ほがらかに微笑しており、必要もないのにメイド衣装を着込んだ朝比奈さんは、

「わわ、全然思い通りに動いてくれないんですけどぉ。でもどうして宇宙って設定なのに行動範囲が二次元限定になってるんですか?」

 基本的な疑問を放ちつつ、慣れない手つきでマウスをカチカチ言わせている。

 この二人はいいとしよう。残る一人こそが俺にとっての最大懸案項目だ。

「…………」

 高度な数学的難問に立ち向かっている数理学者のような目つきでディスプレイを見つめている長門有希。最も早くこのゲームに順応したのはこいつであり、ハルヒの猪突猛進一直線戦法にもかかわらず唯一の勝利をもぎ取れたのは、彼女の的確な艦隊運用能力がたまたまウマいこと作用したからである。

 もちろん釘を刺してある。魔術だか情報操作だかの超裏技は決して使わないように。昼休みにそう言っておいた。数秒間、俺の目をじっと見つめていた長門は、無言でこっくりとうなずいて同意を示し、俺の肩の荷物も少しだけ軽くなったものである。おかげで気兼ねなく対戦ゲームに挑める。仮にこれで俺たちが勝ってしまったとしてもそれは何かの間違いであり、間違ってしまったんだから仕方がない。うむ、責任回避のイイワケも準備万端だ。

 あとはせいぜい善戦できるだけの戦術を練り直し、奮闘むなしく敗れ去るという演出を考えることにしよう。朝比奈画像フォルダをCDか何かに焼いておくのも忘れずに。

 

 まつろわぬ秋の空にふさわしく一週間がめまぐるしく経過して、いよいよ開戦の時を迎えた。

 ハルヒに率いられた俺たちは文芸部室で定位置につき、コンピュータ研は連中の部室で画面上のカウントダウンを眺めているという状況だ。

 プレイ前のモニタが表示しているのはお互いの艦隊紹介一覧である。とは言え、解るのは名称とどこの隊に旗艦が配置されているかくらいで、パラメータや艦隊配置は隠されている。

 コンピュータ研のユニットは旗艦部隊を筆頭に <ディエス・イラエ> <イクイノックス> <ルペルカリア> <ブラインドネス> <ムスペルヘイム> なるパーソナルネームが付いていた。

 なにやらこしゃくなネーミングセンスであり、何をがんばっているのかは知らんが間違ったがんばりかたのように思えてならない。そんな彼らの考え出した愛称の由来を、さして知りたくもないのは俺だけではなかったようで、

「めんどくさいから左から順番に敵A・B・C・D・Eでいいわ。旗艦部隊がAね」

 ハルヒはあっさり敵艦隊のコードネームを変更し、そのまま連中の独りよがりな呼称は忘れ去る構えである。どうせなら俺が指揮することになる <キョン艦隊> のことも忘れて欲しいが。

「そろそろね。みんな、いい? 勝ち馬に乗っていくわよ。これは始まりにすぎないの。敵はコンピ研だけじゃないわ。あらゆる邪魔者たちを蹴散らして、SOS団は宇宙の彼方までその名を轟かせなきゃダメなの。そのうち教育委員会に掛け合ってすべての公立校にSOS団支部を作るつもりよ。野望は広く持たないと」

 ハルヒの誇大妄想狂みたいな檄をどう感じたか、古泉は親指で緩んだ唇をはじき、朝比奈さんはメイド衣装の袖を引っ張り、俺は深呼吸のふりをしてため息をつき、長門はぴくりと眉毛を動かした。

「まあ、あたしたちが負けるわけはないけどね。勝って当然とは言え、手抜きは絶対に禁止! 途中半端な勝ち方は相手に悪いもん。叩きのめすのよ」

 いつも思うのだが、この自信の原材料は何なのだろう。二ミリグラムでいいから俺にも分けて欲しいね。

「そう、ちょっぴり注入してあげようか?」

 なんだか知らないがハルヒは突然俺をにらみ始めた。まじめな顔でこっちを見るなよ。俺の顔をそんなに注目したところで大吉のオミクジを吐き出したりはしないぞ。

 そのまま十秒ほど経過したあたりで耐えられなくなった俺は目を逸らし、その途端、

「どう、少しは効いたでしょう」

 ハルヒは勝ち誇った笑顔を作る。そのニラメッコにどんな効能があったと言うのか。

「エネルギーを視線に込めて送ってあげたじゃないの。身体がポカポカしてくるとか、発汗作用が促進されるとか、そんなのをあんたも感じたでしょう? そうね、今度から元気のない人を見かけるたびにこうしてあげようかしら」

 頼むから人通りの多いところでガン飛ばしするのはやめてくれよな。ハルヒの元気エネルギー注入行為を因縁付けと勘違いして迫ってくる不良軍団から逃げる方法をシミュレートしていると、

「まもなくスタートですよ」

 古泉の面白がっている声が届き、俺の視線はパソコン画面へと舞い戻る。一人だけ緊張感を漂わせる朝比奈さんが、とても不安そうな声で呟いた。

「……どうしよ。自信ないなあ」

 そんな真剣にならなくてもゲームで死傷者は出ませんよ。出たとしてもそれは八つ当たりされたディスプレイくらいです。

 敗北に怒ったハルヒがパソコンを窓から投げ捨てないことを一緒に祈りましょう。

 

 十六時〇〇分。

 開戦のファンファーレが鳴り響き、パソコンの所有権を争う戦いが幕を開けた。

 

 当初、 <SOS帝国> 軍が予定していた作戦はこうである。

 先鋒に <ユキ艦隊> 、その後ろに <古泉くん艦隊> と <キョン艦隊> を配置し、さらにその後ろから <みくる艦隊> と <ハルヒ☆閣下☆艦隊> がついてくる。

 ----以上であり、以下でもない。

 索敵艇の派遣を「めんどい」の一言で却下したハルヒは敵艦隊をデストロイすることしか考えないため、実際に敵と遭遇するまで何の役にも立たないことは歴然としていた。

 もっと何の役にも立たないであろう朝比奈さんには、各艦隊から引き抜いた補給艦をまとめてあてがっており、よって <みくる艦隊> を表すユニットは他よりも若干大きめの三角形を形成している。そのぶん動きも鈍重になっていて、俺が彼女に指示したのは「戦闘に巻き込まれそうになったら逃げてください」というまことに理路整然とした行動指針である。当然だろう。

 ついでにハルヒ艦隊のパラメータは『速度・20』『防御・60』『攻撃・20』に設定してある。ようはこいつの部隊が壊滅したら即座に敗北なのだから、防御力重視になるのも仕方のない決断だ。戦争すんのは『33』『33』『34』という平均的な分配をなした長門、古泉、俺に任せて後方でじっとしていれば格好の時間稼ぎにもなっていいだろうと立案したわけだが、ちょっと目を離すと前に出たがる冒頭のシーン通りでもある。

 そして今、最初にチラリと述べたようにコンピュータ研とSOS団のシミュレーションゲーム対決、いよいよ決戦の火蓋が切って落とされようとしているのだった。

「しょうがないわね。じゃ、あたしはしばらく引っ込んでるから、あんたたちで敵をコテンパンにしちゃいなさい。みくるちゃん、一緒にちょっと見物してましょ」

「あ、そ……そうですね」

 俺の左隣で、朝比奈さんは従順にうなずき、小声を甘やかな吐息に取り混ぜながら、

「がんばってくださいね、キョンくん」

 思わず百種類くらいのガンバリでもって応えたいくらいの声援をくれるのだった。旗艦部隊が <みくる艦隊> だったら喜んで弾避け係を仰せつかるところだが、あいにく守るべきは俺がもし封建時代の実力派諸侯だったらならイの一番に叛乱を起こすであろう横暴なる主君である。しかし残念ながらこのゲームに『反旗を翻す』というコマンドはないようだ。ないんだったらしょうがない。とにかく目前の敵を何とかするだけの話さ。

 

 十六時十五分。

 長門が猛然とキーボードを叩いている。目にもとまらぬスピードというのが比喩ではなくそこにあった。マウスなどという迂遠な物を使う気になれなかったらしいのだが、それだけではない。いつの間にやら長門は を操作するために独自のマクロを組み上げ、自在に艦隊を運用するより直接的な入力方法を構築したらしいのである。そのおかげで <ユキ艦隊> の奮闘ぶりは、ビザンチン帝国ユスチニアヌス帝位時代の名将ベリサリウスにも匹敵するのではないかと瞠目する獅子奮迅さ加減だが、いかんせん多勢に無勢と言ったところだ。

 こちらでまともに戦闘に参加しているのは <ユキ艦隊> <古泉くん艦隊> <キョン艦隊> の三個艦隊であり、敵側は姿を見せるつもりのなさそうな <ディエス・イラエ> (敵A)を除いた四個艦隊だ。過去の歴史をひもといて学べることが一つある。基本的に戦争は数で決まる。三対四では、ただでさえ劣勢が決定づけられている俺たちに勝利後のシャンパンファイトをする機会が訪れる確率は低く、かといってハルヒや朝比奈さんを引っ張り込むこともままならない。いともあっさりと全軍そろってなぶり殺しアワーをタイムサービスするのは確定的だろう。

「敵は鶴翼陣形で我々を誘い込むつもりのようですよ」

 古泉幕僚総長が俺に囁きかけた。

「このまま追撃して行けば相手の形成した包囲網に自ら飛び込むようなものです。ここは一時停止して、専守防衛につとめるのが得策ではないかと」

 そうは言ってもな、俺はいいけどハルヒがどう言うものだろうか。

 それに、だ。

 俺は朝比奈さんの頭越しに、情報参謀長門の横顔を盗み見た。

 なぜだかは知らん。だが、奇妙なことに長門が意表をつくような積極性を見せている。開始早々のこのゲームでも見た目は普通通りの無表情だが、ディスプレイ上の <ユキ艦隊> は他のどのユニットよりも能動的に動き回って作戦行動に従事していた。いったい のどこに長門の琴線に触れるものがあったというのか。

 解析する、という長門の言葉に嘘はなかった。いつもは無感動を擬人化したような宇宙的人造人間は、コンピュータ研作製のオリジナルゲームを隅から隅まで熟知するまでになっている。ひょっとしたら作った連中より詳しくなっているかもしれない。こいつにかかれば現代地球文明圏のパソコンなど産業革命以前の工場生産ライン並にオールドタイマーなのだろうし、赤子の手を捻るも同然とはこのことだ。

 それにしても長門の目の輝きがツヤ消しブラックからシルバーメタリック処理くらいに変容しているのは、ちょっとばかり気がかりなんだが……。

 かつてないやる気を見せ、長門はタイピングゲームよろしく目まぐるしい動きでキーをパンチし続けた。視線は一瞬たりとも固定されず、GUIの恩恵を放棄して画面隅に開いた小さなウインドウに、ひたすら指のつりそうなスピードでコマンドを打ち込んでいる。

「…………」

<ユキ艦隊> は機敏に位置を変えながらしきりと索敵艇を放ち、迫り来る敵艦隊の捕捉に全力を傾けていた。それでも現時点で判明している敵の居所は、我が帝国軍の前方にいる <敵B> と <敵C> の二個艦隊のみだ。長門はその二つの艦隊と互角に戦いながら一人で前線を支えている。こりゃ俺もぼやぼやできねえな。加勢しないと。

 そう思って移動し始めた <キョン艦隊> の側面に、突如としてビームの雨が浴びせかけられた。

「なぬ?」と俺。

「おっと、と」と古泉。

 見ると <古泉くん艦隊> も左舷方向から来る砲撃を浴びている。どこから現れやがったのか、いつの間にか接近していた <敵D> と <敵E> がそれぞれ左右から俺と古泉のユニットへ側面攻撃を仕掛けていた。たちまち <キョン艦隊> の保有艦数が目減りしていく。

「何やってんのよ!」

 ハルヒが黄色メガホンで俺に叫んだ。

「ちゃっちゃと反撃しなさい! 返り討ちよ!」

 言われんでもそうするさ。こいつら、長門の索敵網をくぐり抜けてここまで来るとはなかなかの手練れだが、こっちだってハイそうですかとやられるままにはなりはしないぜ。

 俺は <キョン艦隊> に方向転換を命じ、全艦首を右舷へ九十度回頭させる。そして射程範囲内に敵艦を捕捉、いざ全力射撃----しようと思った瞬間に、 <敵E> もまた素早くUターンして深遠なる闇の中に消えてしまった。腹が立ったので追撃しようとアタリをつけて索敵艇を出してみたが、艦影を一つも捉えることができない。

「くそ、逃げやがった」

 どうやら『速度』に特化した艦隊での一撃離脱作戦か。 <古泉くん艦隊> の右舷を襲っていた <敵D> もぴったしなタイミングで姿をくらませている。なるほど、 <ユキ艦隊> と小競り合いしている <B> <C> が囮で <D> <E> が主戦力なのか。そいで艦隊部隊 <敵A> は参加せずにどっかでどっしり構えているという、そういう算段らしいな。

「ひえ、こわいっ」

 つたない動きながら、朝比奈さんは着実に自分の艦隊をどんどん画面の隅のほうへと追いやっていた。あまり遠くに行き過ぎると俺たちの艦隊は補給先を失ってそのうち武装ゼロとなってしまうが、このままではエネルギーやミサイルの在庫を気にするまでもなく勝敗が決しそうな気配だ。主導権はしょっぱなから <コンピ研連合> 側にある。

 その後も、側面攻撃部隊である <敵D> と <敵E> は一回残り物をやったら味をしめて夕食時に必ず現れるようになった近所のノラ犬のようにフラリとやって来ては <キョン艦隊> と <古泉くん艦隊> にヒットアンドアウェイを敢行し、追いすがろうとするとホーミングミサイルを撃ちまくりながら遁走するという非常にイライラする戦法で俺たちを苦しめてくれた。一気に決着を付けるのは避け、じわじわとこちらの戦力を削っていく腹づもりだな。ハルヒの最も嫌がるパターンだぜ。

 一方で、孤軍でもってじりじり前進を続ける <ユキ艦隊> は、何とか頭を押さえ込もうとする <敵B> と <敵C> の波状攻撃を巧みに受け流しながら効果的な反撃を試みたりしていて、もしこいつの艦隊がなければ俺たちは今頃宇宙空間を流れる星間物質の欠片になっていたかもしれない。負けても敢闘賞くらいならやってもいいんじゃないか。

「…………」

 長門は呼吸をしていないような顔で両目をモニタに据え付け、キーボードの酷使を一時たりとも止めることがない。これにはコンピュータ研の連中も意外だったろう。俺ですら意外に思っているのだ。

 ハルヒの負けず嫌いがいつの間に長門にまで伝染してしまったのか、とね。

 

 十六時三十分。

 事態はいよいよ膠着の泥沼にずっぽりとハマっているようだった。

 先頭の <ユキ艦隊> が手強いと悟ったコンピュータ研は、 <敵B> 一部隊を対長門専門に残し、未だ行方の知れない旗艦艦隊 <敵A> を除いた三個艦隊が交互に俺たちの左右を攻めるという時間差波状攻撃を仕掛け始めていた。まったく感心することに <敵C> <D> <E> の連携は熟練の腕前だ。 <C> に対処しようとするとすかさず <D> が反対側から攻撃を加え、 <D> を追って進撃すれば <E> がさらに側面からビームを放つといった神出鬼没ぶり、なんかもう手加減を知らない上級者と対戦ゲームやったってちっとも楽しかねえという気分を満喫できる。少しは遠慮しろと言いたいが、パソコン数台がかかっているからそうもいかないか。

 しかし、これはかなりよろしくない状況である。負けるつもりが九割を占めていたのは前述の通りだが、いくら負けるにしてももっとハデな展開を予測していたのだ。じゃんじゃん撃ち合ったあげく豪快な撃沈とか、負けたけどいい汗かいたし、まあいっか、お互いよく頑張ったよ----みたいなやつをだ。

 しかるに何だ、このチマチマとした体力削り作戦は。

「もう我慢できないわ」

 予想通りと言うか、ついにハルヒが麾下の旗艦艦隊に単純明快な指令を伝えた。

「全艦全速前進よ! キョン、そこ邪魔だからどいて! 敵の親玉を見つけ出して、タコ殴りにしてくるわ!」

<キョン艦隊> と <古泉くん艦隊> の間に割って入ろうとする <ハルヒ☆閣下☆艦隊> を、俺と古泉は小魚の群れ並に瞬時の連携で押し留めようとした。

「何すんのよ! 古泉くんまであたしの華麗な戦いを妨害するつもり? いいからどきなさい。幕僚総長を解任するわよ」

「それは困りますね」

 と言いながらも、古泉は自分の艦隊をハルヒ艦隊の進路上から移動させようとはしない。

「閣下、ここは我々にお任せください。不肖この古泉、一命を賭けても閣下を最後の最後までお守りする所存です。僕の進退に関しましては、戦闘終了後に好きなようにしてください」

「そうだ」

 俺も古泉の肩を持つ。

「少しでも勝率を上げたいのなら、お前はすっこんでろ。こっちはまだ敵の旗艦も発見できてねえんだぞ」

「だからあたしが発見してやるわよ。たぶんここらへんに----」と俺たちから見えないモニタの端っこを指差し、「----いると思うから、そこまで一直線に向かうの。それから偉い者同士、サシでドンパチしてやるわっ!」

 どこ行く気かは知らんが、辿り着く前に <ハルヒ☆閣下☆艦隊> は冬眠前の熊に襲われたミツバチの巣のようになるんじゃなかろうか。

 ハルヒは下からぐいぐいと艦隊を突き上げつつ、マウスを握った拳も突き上げていた。

「だからってじっとしてても同じことでしょ。さっきから見てたら何よ。この <キョン艦隊> 、敵に逃げられてばかりじゃないのよ。それにどんどん戦力も減らされてるしさ。やっぱあたしが出て行かないとダメね」

「だからやめろって」

 俺は自艦隊を操って旗艦艦隊の進路を塞ぎにかかり、さりげなく古泉も反対側から同じ動き、そんなことは知ったことかと <コンピ研連合> の三艦隊は一撃離脱攻撃を延々と繰り返し、朝比奈さんの <みくる艦隊> はとうの昔に宇宙空間の迷子となっていた。

「どこですかぁ? ああん、なんだかどっちが右なのかも解らなくなってきましたよう」

 右隣の朝比奈さんは、俺のノートパソコンと自分のモニタを代わる代わる見て、半分ベソをかいた表情で、

「みなさん、どこ行っちゃったんですかぁ」

 いやもう、ごめんなさい。朝比奈さんにおかれましては、どこでも好きな所を好きなように彷徨っていてくださいとしか。

<ハルヒ☆閣下☆艦隊> がギリギリと <キョン艦隊> の尻に食いついてくるおかげで、俺まで身動きが取れなくなってきた。ハルヒの盾代わりになってるようなもんだから、ひきもきらない敵襲によって俺のユニットを示す三角形はどんどん小さくなっていく。

「どきなさい!」

 どきたくても動けねえ。薄情者の <古泉くん艦隊> は、ハルヒに追突される前にちょこざいにも離脱しており、そ知らぬ顔で <敵D> と砲火を交えていた。ハルヒの足止め役を俺だけに押しつける気か。

「くそ」

 俺は <ハルヒ☆閣下☆艦隊> と合体中の自軍戦力をなんとか自由にすべく、マウスの左ボタンを押しまくりながらポインタを適当な場所へと移動させる。 <キョン艦隊> のだいぶ収縮した三角形はナメクジの散歩みたいにのろのろと方向転換するが、いかんせんナメクジだ。その間も敵側からロックオンされた俺の艦隊にビームとミサイルがばんばん飛んでくる。

 こりゃ、負けたな。

 俺が白旗を揚げたくなったのも仕方がないと納得してもらいたい。こっちの大将がこんなんでは、万に一つの勝機がこっちに舞い降りようとしてたとしても心変わりして逃げ出すってもんさ。なんでもそうなんだが、やはりトップは冷静でないと組織は円滑に動かない。よく知らんけど、そんなもんじゃないのか?

 俺とハルヒが現実でも電脳空間でもモメているこの時、SOS団内では大局的な視野の広さと冷静さを持ってゲームを進行させていたのは一人だけであった。

 ----と、思っていたのだが。

 実はそうでもなかったらしいと俺が気づいたのは、テーブルの端にいる団員の指の動きがさらに加速して、ついには高感度カメラで撮影してからスロー再生しなければ見えないんじゃないかというレベルにまで到達してからだった。

 イライラが高じるあまり爆発するのはハルヒの役目であり専売特許であるはずだ。だが今回、それは必ずしも正解とは言えないようである。

 今この場で誰よりも激昂しているらしい人物、それは我がSOS団の誇る物知り情報参謀にして読書マニアの文芸部員----。

「…………」

 長門有希だった。

 

 十六時三十五分。

「うおう?」

 信じがたい光景がモニタに忽然と登場し、俺はうっかりマヌケな声を上げてしまう。

「なんだこりゃ」

<SOS帝国> 全軍の索敵終了範囲が一気に三倍になっていた。出現と消失を繰り返していた敵 <C> <D> <E> の現在位置もばっちりだ。一つは左翼方向から古泉部隊へ向けて射線を微調整中で、一つは離脱直後の反転を今まさに終えようとしているところで、一つはもつれ合っている <キョン艦隊> と <ハルヒ☆閣下☆艦隊> 目がけて進軍中である。でもまあ、なぜ敵の動きがそこまで解るようになってしまったかと言うと……。

<ユキ艦隊> が二十個に分裂していた。

「これはこれは」

 古泉の賞賛の声が俺には虚ろに聞こえる。

「さすがは長門さん。よくこんなことをする気になりましたね。僕も一時は考えたのですが、あまりに煩雑になるもんですから、立案時に放棄したんですよ」

「待てよ古泉」と俺。「こんなの、説明書に書いてあったのか?」

「ありましたよ。最後のほうにですが。やり方を教えましょうか。まずコントロールキーとF4キーを同時に押ししてからテンキーで分裂する艦隊の数を決定し----」

「いや、いい。俺はやる気がない」

 もう一度、モニタをよく見てみる。

 さっきまで <ユキ艦隊> だった三角ユニットが、不思議光線を当てられたみたいに縮小している。その代わりと言うと何だが、他に同じものが二十個もある。試しにそのうちの一つを選んでマウスポインタを当ててやると <ユキ艦隊12> と表示された。

 分艦隊?

 01から20までにナンバリングされたその小三角形たちは、あるものは今まで通り <敵B> 相手に砲撃戦を続行し、またあるものは敵艦の合間を縫ってまだ見ぬ宇宙へ飛び出し、他のあるものは左右に散開し、それからまた別のあるものは大きくターンして苦戦する <キョン艦隊> に加勢してくれるようだった。

 古泉、説明しろ。

「ええとですね。一応ですが、艦隊ユニットを二つ以上に分け、個別に操作することができるようになっているのです。上限は確か二十でしたっけ。説明にそう書いてありました」

「何のメリットがあるんだ?」

「御覧のとおり索敵範囲が格段に向上します。それだけ目が増えるみたいなもんですからね。他にもありますよ。たとえば艦隊を二つに分けた場合ですと、一個を囮にしてもう片方を敵の背後に回らせるとかですね。でもデメリットのほうが大きいのでコンピュータ研側も作戦に取り入れてないようです」

 古泉は俺に顔を近づけ、ハルヒには届かないような声を潜めて、

「複数の艦隊操作を一人でしなければならないわけですよ? 一つでも動かしている間は残りを動かすことができず、単なる木偶の坊になってしまいます。ましてや二十個もの分艦隊を同時操作するなど、人間技では不可能ですね」

 隣の部屋で肝を抜かれているであろう面々の表情を想像しながら、俺は横へ視線を滑らせた。

「おい、長----」

 黙々とキーボードを叩き続ける長門の両指が生み出すスタッカートは、どんなに耳を凝らしてもカタカタカタ……ではなく、ガガガガとしか聞こえないまでになっていた。

「あ、あの……。そんなに力入れると壊れるんじゃあ……」

 おっかなびっくりと朝比奈さんが注進するが、長門は目もくれない。その目がどこを見ているかと辿れば、長門のパソコンが映しているのはゲーム画面ではなく、黒い背景に白い英数字及び記号しかないという、なんだか大昔のコンピュータのBIOS設定画面のようなものだ。それがまた凄いスピードでスクロールしている。

「なに?」

 と、長門は俺を見ずに訊いた。

「……えーとだな」

 あのー、長門さん? あなたは一体何をしておいでなのでしょうか。

 心で呟く俺の独り言も思わず丁寧調になってしまうくらい、長門のキーを打ち込む姿からは無形のプレッシャーが感じられた。

 ふと自分のモニタで確認すると、二十個に分散した <ユキ艦隊> はまるで命を吹き込まれた茶柱のように生き生きと動き回って敵を翻弄していた。すっかり画面の有無など問題にしなくなっているらしい……って、ちょっと待てよ。俺はインチキはすんなって言っておいたぞ。

「していない」

 と長門は呟いた。ここではじめて俺のほうを向き、しかし手の動きはそのままに、

「特別な情報操作をおこなっているわけではない。課せられたルールを遵守している」

 長門の視線上から離れるように、朝比奈さんが小さな身体を仰け反らせている。長門は俺と目を合わせながら、

「私はこのシミュレーションプログラムに含まれていない行動を取っていない」

「そ、そうなのか。そりゃすまなかった」

 なんか怖いオーラがショートカットの頭の上から立ち昇っているようでもあった。

 しかし長門の表情も目の色も普段と変わりなく無機質で、にもかかわらずいつもなら「そう」とか言って再び黙り込むはずだが、この時ばかりは次のように言葉を続けた。

「インチキと呼ばれる行為をしているのはわたしではなく、コンピュータ研のほう」

 

 間のいいことに、ハルヒは自分のユニットを <キョン艦隊> から引き剥がすことに成功し、

「遅! どうしてこんな遅いの? パソコンに栄養ドリンク振りかけたら速くなるかしら」

 とか言いながら喜々として前線へと移動させるのに夢中のようだった。

 俺は朝比奈さんの前に身体を乗り出して、長門に小声で質問した。

「奴らがインチキしてるってのは、どういうことだ?」

 超高速ブラインドタッチを寸時も停滞させることなく、長門は無表情に応える。

「彼らは我々のコンピュータ内に存在しないコマンドを使用し、この擬似宇宙戦闘を有利なものとしている」

「どういうこった?」

 長門は一瞬沈黙し、考えをまとめるように瞬きして、

「索敵モード・オフ」

 と呟いてから、続いて静かな口調で語ってくれた。

 その説明によれば、コンピュータ研側が使っているゲームは最初からその「索敵モード・オフ」とやらの状態に設定されていたらしい。そんな切り替えスイッチはもちろん俺たちのほうにはなく、だいたいオンとオフでどう違うのかも解らん。何だそれは。

「オンにすれば索敵行動が義務づけられる。オフの場合はしなくていい。彼らは索敵システムを形骸化し、また必要としていない」

 えーとだな、それはいったいどういうことか。

「索敵モードをオフにすれば、マップのずべてがライトアップ表示される」

 つまり……、

「マップ全域のすべてが我々の艦隊位置を含めて最初から丸見え」

 長門にしては解りやすい説明だ。

「それだけではない」

 笑わない宇宙人製人工生命体は淡々と言い募った。

 それによると <コンピ研連合> 側の艦隊にはワープ機能までついているそうだ。道理でやけに

 タイミング良く姿をくらましていたと得心する。 <SOS帝国> とは技術レベルで五百年くらいの差はありそうだ。戦国時代の歩兵に自衛隊の機甲部隊が襲いかかっているようなものである。それでは勝てるはずがないじゃないか。

「そう」

 長門も保証してくれる。

「我々には敗北以外の選択肢がなかった」

 なかった----か。過去形だな。それで? 今はどうなんだ。現在形で言い換えて欲しいところだったが、長門の黒い瞳に見たことのない感情の揺らぎを感じて俺はちょっと頭を引きつつ、

「でもな、長門。やっぱり宇宙的なパワーはなしにしたいと思うんだ。連中がズルしてるのはよく解ったよ。しかしさ、だからと言ってこっちがさらにインチキな魔法を使って対抗しちまったら、結局連中と同じことになっちまうぜ。いやそれ以上だ。お前の手品は地球上の法則にあんまり則してやいないからな」

「あなたの指示に違反することはない」

 長門は即答した。

「地球の現代技術レベルに則ってプログラムに修正を施したいと思う。既知空間の情報結合状態には手を付けないと約束する。人類レベルの能力にあわせ、コンピュータ研究部への対抗措置をとる。許可を」

 俺に言ってんのか。

「わたしの情報操作能力に枷をはめたのはあなた」

 …………。

 こいつと出会って半年以上が経つ。その間で、俺は長門の無表情の奥に隠された微妙な感情変化----こいつにまともな感情があったらの話だが----を、曲がりなりにも多少は感じ取れるとそれなりの自負を覚えるようになっていた。このとき俺が長門の白い顔にピコ単位で見出したのは、紛れもない決意の色だ。

 朝比奈さんが驚いた顔で俺を見ている。古泉も見ているが、ただしこいつは半笑いだ。ハルヒだけが何事かわめきながらビームとミサイルを景気よくまき散らしていて、ほどなく弾切れで敵陣の真ん中で立ち往生することだろう。決断するに残された時間はあまりない。

 何て答えよう……そう悩んだのは数秒間程度だった。長門はやる気になっている。こんな長門は初めて見た。思うに、これはいい兆候だという気がしてならないのだ。情報統合思念体に製造された人間そっくりの有機アンドロイド。案外こいつもベタなロボットにありがちな、人間になりたいと言う欲求が芽生えつつあるのかもしれない。

 そして俺は、それがよくないことだなんて全然思わないのである。

「よし、長門。やっちまえ」

 俺は励ますような笑みを浮かべて太鼓判を押した。

「この世の人間にできる範囲内で、なんでも好きなようにやれ。コンピ研に一泡吹かせてやるんだな。二度と俺たちにクレームをつけることのないように、ハルヒが望むとおりの結末を見せてやるがいいさ」

 長門は長い間、俺の主観では途方も長く感じられた時間の間、俺を見つめていた。

「そう」

 発したりアクションははなはだ短く、それから長門は実行キーをぱちんと押して、たったそれだけで形勢はいきなり逆転した。

 

 十六時四十七分

 狡猾な罠はすでに仕組まれていたのである。

 あまりの唐突さに唖然とするほどだが、俺の驚愕ゲージなどまだまだ修行の足りない門前の小坊主並くらいであろう。対戦相手のコンピュータ研連中は、今頃世界恐慌二日目のウォール街程度にパニック状態に陥っているに違いない。

 すべては長門がさっきからやっていた分身の指術の結果だった。つくづく味方でよかった。お供え物の一つや二つ自腹を切って進呈してもいい気分である。今度面白そうな本を買ってきてプレゼントしてやるよ。そういやこいつの誕生日はいつってことになっているんだろうね。

 まあ、それは後々考えることにして、状況説明に戻らせてもらう。

 敵艦隊の数々はプレイヤーの茫然さを体現するように動きを止めていた。

 長門は自分のノートパソコンからコンピュータ研のパソコン五台に侵入をはたすと、稼動している のプログラムを直接いじくったらしい。どうやったらそんなことができるのかは訊くな。俺に解るわけがない。ないのだが目的はただ一つ、相手側の索敵モードをすべてオンにするためである。これにより <コンピ研連合> の可視範囲は大きく削り取られた。さぞ画面の暗闇部分が増えたことだろう。連中は索敵艇を飛ばす必要がなく、また実際にまったく飛ばしていなかったとの情報参謀の報告だ。

 長門はさらに相手側の「索敵モード」をオン状態のままで固定されるように奴ら側のソースを書き換えてしまい、かつ自分以外の誰にも修復できないようにロックした。ただしワープ機能は削除するのではなく、ちょっぴり変更を加えてそのままにしておく。長門考案によるちょっとした謀略さ。

 これらを全部、ゲーム中の二十個分艦隊を器用に動かしながら例の宇宙人的能力なしにやってのけたのだから、普通の人間シバリ付けたとしてもこいつはやはり尋常ではないよな。

「さて、ようやくチャンス到来ですよ」

 古泉が愉快げな微笑み混じりに画面上の状況をナレーションしてくれた。

「御覧ください <敵C> と <敵D> は無数の <ユキ分艦隊> に阻まれて我々の位置を見失っています。 <敵E> は僕と交戦中で、それから <敵B> ですが、このままですと間もなく <ハルヒ☆閣下☆艦隊> の射程に入ります」

「敵みっけ!」

 ハルヒの喜びに溢れた声が響いて、古泉のセリフを証明した。

「撃て撃て撃てー!」

 モニタに額をつけんばかりにして、ハルヒは雄叫びをあげている。

 鎖から解き放たれた <ハルヒ☆閣下☆艦隊> はビームとミサイルは八方に撃ちまくりながら敵艦隊へと突入していった。泡を食った <敵B> は慌てて急速回頭、逃げだそうするその先には俺の <キョン艦隊> が待ち受けている。

「そらよっと」

 俺は人差し指をわずかに動かして、持てるビームのありったけを <敵B> の鼻先に撃ち込んでやった。

「こらキョン、それはあたしの獲物よ! よこしなさい!」

 挟み撃ちにされた <敵B> は瞬く間に形を崩していく。ぶるぶる身をよじっていた <敵B> ユニットは、やがて小さなビープ音とともに爆散した。一丁上がり。

 さらなる獲物を求め、ハルヒは移動式打ち上げ花火装置と化した艦隊を今度は <敵E> の横腹へと転進させる。古泉と押し合いへし合いをしている <敵E> もまた、二正面作戦を強いられた結果としてざくざく艦数を減らしていった。

 苦しげな挙動を見せていた <敵E> だが、ついに万策尽きたと覚悟を決めたのだろう。それまで決して <SOS帝国> 軍の目の前でだけは使わなかった隠しコマンドを強行した。

「あ、消えた! え? 何で?」

 ハルヒが叫び、俺はついにこの時が来たことを知った。それまで十字砲火のただ中にいた空間から <敵E> が消滅している。

 ワープってやつだ。もうちょっと凝った名前を付けたらいいのに、今どきワープもないだろうよ。

 だが、これこそ長門の仕掛けた狡猾な罠の真髄だった。

「あれ。何か違うのが出てきたわよ」

 ハルヒの声を聞きながら、俺はすでに手を休めていた。

「きゃっ?」

 朝比奈さんも可愛く驚き、しきりに瞬きしながらモニタを見つめる。

「キョンくん、なんかあたしが動かしてたやつ、どっかいっちゃいましたけど……」

 ワープしたのは <敵E> だけではない。 <ハルヒ☆閣下☆艦隊> だけをそのままに、敵味方合わせてすべての艦隊が空間移動していた。

 長門が変更したプログラム、それは『コンピュータ研のいずれかの艦隊がワープ機能を起動させれば、敵味方の区別なく <ハルヒ☆閣下☆艦隊> を除いたすべての艦隊も同時刻に、及び強制的にワープする。各艦隊におけるワープ後の出現座標は指定したコードに従う』、というものだった。

 目には目を、インチキにはインチキを。ただしインチキすぎないように。

 隣室の驚愕は索敵モードんときとは比べものにならんだろうな。俺は初めて目にしたコンピ研旗艦艦隊 <敵A> (ディエスなんとか)を画面上に発見し、その出現位置を確認して肩をすくめた。

「因果応報ってやつさ」

 部長氏の <敵A> は <ハルヒ☆閣下☆艦隊> のド真ん前に登場させられていた。

 その真後ろには同じように飛ばされてきた無傷の <みくる艦隊> がほとんど触れあうような距離にいて、さらにショートワープした <古泉くん艦隊> によって右舷に狙いを定められ、反対側の左舷攻撃を担当するのは再び合体した <ユキ艦隊> であり、斜め横には添え物程度に小さくなった <キョン艦隊> が控えている。コンピュータ研の他の連中がどこにいるかを探せば、広いマップの遥か片隅に四艦隊揃って瞬間移動を遂げていた。そこまで行ってたらもうどうやっても間に合うまい。

<SOS帝国> 軍全艦による包囲網の中で <敵A> 一個艦隊のみが立ち往生していた。

「なんかよく解んないけど」

 ハルヒは舌なめずりせんばかりの溌剌とした表情となって、大きく片手を振り上げた。

「全艦全力射撃! 敵の大将を地獄の業火で焼いてあげなさい!」

 その合図とともに、ハルヒ、古泉、俺、長門の艦隊が一斉に武装の限りを放出した。あわあわしていた朝比奈さんも、長門の「撃て」という冷たい声にビクッとなりながら、この日初めての攻撃を四面楚歌の <敵A> にたっぷりとお見舞いする。

「ごめんなさい……」と朝比奈さん。

 何が何だか解っていないのはコンピュータ研部長だろうな。奥のほうで高みの見物を決め込んでいたらいきなりインチキ索敵が解除され、何もしてないのに突然ワープしたあげく敵陣の真ん中に出現してしまったのだから。

「や、……」

 れやれ、と続きそうになって言葉を飲み込んだ。古泉がニヤリと微笑みかけてくる。無視だ無視。

 画面に注意を戻すと、部長氏の <敵A> 艦隊は、前後左右の至近距離ビームのシャワーとミサイルの雨をくらい、ひっくり返った草ガメのようにのたうちまわっていた。うーん自業自得と言っても今回ばかりはいいんじゃないかなあ。アンフェアなことを企てたのはそっちが先だしさ。でもまあ、存在している段階ですでにアンフェアな長門有希を持っていたこっちもあんまり偉そうな顔はできないか。

 長門の速射砲的キータイピングが、とうとう最後まで休憩なしでいっちまった。 <敵A> 艦隊はバルカン砲の残弾カウンターのように見る見る数を減らしていき、最後に残った一隻を <ユキ艦隊> のドット単位の精密照準されたビームに狙撃され、それが敵旗艦の最期の見納めとなった。

 ちょろいファンファーレが鳴り響き、五台のモニタに輝かしい文字が表示されてゲームは終わる。

『You Win!』

 

 十七時十一分。

 決着がついてから約十分後、部室のドアをノックする者がいた。

 よろよろと入ってきたのはコンピュータ研の連中であり、中でも部長氏はやけっぱちのような口調で、

「負けたよ。完全にウチの負けだ。潔く認める。すまない。謝る。勘弁して欲しい。この通りだ。キミたちを甘く見ていた。間違っていた。完敗もいいところだった」

 頭を下げる部長氏の前で、ハルヒは日時計のように鼻高々と立っていた。睥睨するハルヒ閣下の視線を浴びて、コンピュータ研の部員たちは体調のよくなさそうな顔色でうなだれる。

「あんなに見事にスッパリとすべてを見透かされていたなんてね……。僕たちが姑息な手段を使っていたことは申し開きしようもない事実だ。でもまさか……。プレイの最中にゲームの中身を書き換えられるとは……。信じられないけど……これも事実か……」

 虚構の別世界にイってしまったような目で部屋を見回す部長氏に、ハルヒは眉毛を片方だけ吊り上げて、

「何ブツブツ言ってんの? 負けたイイワケなんか聞きたくないわよ。でさ、約束は覚えているわよねえ?」

 楽しそうに指をちっちっと振っている。勝った嬉しさに浸るあまり、とんでもなく不自然な勝ち方をしたことに対する疑問は頭のどこを探しても見つかりそうにない。こいつにしてみれば、ようするに勝ったもん勝ちなのである。

「もう文句はないでしょ? このパソコンはあたしの物で、それからノートパソコンもあたしたちの物よね。忘れたとは言わせないし、言ったらかなりキッツい目にあわせるわよ。そうねぇ、手始めに『緑色のコビトが追いかけてくる』と叫びながら素っ裸で校庭を十週するの刑に処すわ」

 無体な言葉にコンピュータ研部員たちはさらに首を前倒し。それを気の毒に思ったのか気詰まりだったのか、

「あ……、そだ。お茶でもいかがですか?」

 気ぃ遣いの朝比奈さんが立ち上がって湯沸かしポットへ向かい、苦笑を浮かべた古泉がガラクタ入れの中から紙コップのパックを取り出していた。長門はパイプ椅子に座ったまま、ハルヒの前に整列して頭を垂れる男子生徒たちを冗談の通用しそうにない目で見つめている。

 ハルヒはなおも上機嫌に演説をしているが、その部員たちの列から一人、部長氏がゆらりと離れて俺のもとに近寄ってきた。

「なあ、キミ」と彼はか細い声で、「あれをやったのは誰なんだい? 世界でも通用しそうな凄腕ハッカーは。……いや、だいたい想像はつくんだが……」

 長門がゆっくりと俺を見上げ、部長氏は長門を見ていた。

 まあな。どうやら部外者から見ても、こんな頭良さげなことをしそうなのは長門が最有力候補に見えるようだ。

「ものは相談だが」

 部長氏は長門に向かって

「キミがヒマなときでいい。たまにでいいのでコンピュータ研の部活に参加してみないか? いや、してくれないか?」

 なんか勧誘し始めた。さっきまで炎天下に三日間放置された冷凍サンマみたいだった目の色が活気づいている。人間心底参ってしまうと開き直るしか手だてがないのかもな。

 長門はモーター内蔵のような動作で顔の向きを部長氏へ移動させ、その動作を逆回転させるようにして俺に向き直った。何を言うでもなく、闇ガラスのような瞳に物問いたげな光だけを反射させて、じいっと俺を見つめている。

「…………」

 なんだろう。念波でも送っているつもりなのか。それとも判断の是非を俺にゆだねる意思の現われなのか。そんな顔されても(といっても無表情だが)困るぜ。お前への問いかけなんだ、そんなもん自分で判断すればいい。むしろ、そうすべきだ。

 俺が長門をならって無言の光線を返答として送っていると、

「ちょっとちょっと、そこで何やってんのよ」

 ハルヒが俺たちの間に割って入った。

「勝手に有希をレンタルしちゃだめよ。そういう話はまずあたしを通しなさい」

 やはりデビルイアー、聞こえていたらしい。ハルヒは腰に両手を当て、いっそ誉めたいくらいの偉そうなポーズで、

「いい? この娘はSOS団に不可欠な無口キャラなの。あたしが最初に目を付けたんだからね、後から来たって遅いわよ。どこにもやったりしないんだから!」

 お前が目を付けたのは部室であって長門ではなかったはずだが。

「いいの! 有希込みでこの部室をもらったんだから。あたしはこの部屋にあるものは、たとえ泡の抜けたコーラでも誰かにあげたりしないわよ」

 それはあたしのだから、と誰にはばかることなくセーラー服の胸元を威勢良く反らすハルヒだった。

「まあ、待て」

 俺は言った。そして考えた。

 これでも俺は長門の表情を読むことにかけては誰よりも自信を持っているつもりだ。なんたって三年前の長門有希に出会ったことのある男なのだ。感情の顔面的表現をほぼ完璧に抑えている長門だが、まったく無感情でもないらしいと俺は感づいていて、ループモードの夏休み事件でもそうだったし、今回のゲーム対決でもなんとなく解った。そう、いつだったか、市立図書館に誘ったときにも感じたことだ。

 長門にだって興味を惹かれるものが少なからずある。

 コンピュータ研との 対戦で誰よりもムキになっていたのはハルヒではなく長門だ。読書以上の熱意を傾けていたキーパンチ。それがインチキトリックの封印を申し伝えた俺の言葉に由来するのかどうかは解らん。しかし俺にはキーボードを叩くその姿がなぜか楽しそうに見えたのだ。小難しい本を読む以外の新しい趣味がこいつに芽生えたのだとしたら、別に否定するものではないんじゃないか? このSOS団アジトで部屋の付属品になっているよりも、他者と接することで学校生活にわずかでも溶け込むほうがこいつにとっても喜ばしいのではないだろうか。

 いつまでも涼宮ハルヒの監視だけでは、長門だって疲れるに違いない。宇宙人製有機ヒューマノイドインターフェースだって、たまには気晴らしが必要だ。

「お前の好きにしろ」

 今日ばかりは部長氏の肩を持つことにした。

「パソコンいじりは楽しかったか? なら、お前の気の向いたときでいい、お隣さんに行ってコンピュータをいじらせてもらえ。自主制作ゲームのバグ取りでもしてやったら感謝されるぞ。きっとこれよりも高性能な遊び道具が揃ってるだろうし」

 長門は無言で、だが微細に表情を揺れ動かしながら俺を見ている。それでいいのかと訊いているようでもあり、どうすればいいのかと尋ねているようでもあった。揺らめく影めいたものが長門の黒飴みたいな瞳を通り過ぎたような気がした。

 ずいぶん長い刻が流れたように感じたが、実際は瞬き三回分くらいだったろう。

「……そう」

 何がそうなのかと問いただす前に、長門はかくりとうなずき、部長氏を見上げてオクターブの変わらない声でこういった。

「たまになら」

 

 当然ならがハルヒはゴネた。

「勝ったのはあたしたちなのに、どうして大切な団員をレンタルしないといけないのよ。レンタル料は高いわよ。そうね、一分につき千円が最低ライン」

 分給千円なら俺が買って出たいね。

「涼宮閣下」

 お茶をすすっていた古泉が得意の笑顔を振りまきながら近づいた。

「閣下たるもの、時には敗軍の健闘を讃えることも必要かと存じます。ただ強いだけでなく度量の広さを見せつけるのもトップに立つ者の条件の一つですよ」

「え、そうなの?」

 ハルヒは口をアヒルのクチバシ状にしながら、

「まあ、有希がいいんならいいけど……。でも! ノートパソコンは返さないわよ。あ、それからね、」

 話している最中に名案を思いついたらしい。ハルヒは部長氏をにらみながらニンマリと笑顔を作る。いそがしい顔面だね。

「いい? あんたたちは敗残兵、勝者の言うことは何でも素直に聞かないといけないの。それが戦争ってもんよ」

 お盆をしずしずと持ってきた朝比奈さんからお茶(雁音だったか?)をひったくってガブガブ飲みつつ、

「あんたたち全員、今後あたしに絶対的な忠誠を誓いなさい。うん、悪いようにはしないわ。あたしは実力主義だからね、がんばりようによっては正式な団員にしてあげてもいいわよ。たとえば……そうね、生徒会と全面戦争するときはあたしの手足となって働くの。それまでは準団員ね」

 この調子で全校生徒SOS団団員化を企てているのではないだろうな、という俺の危惧も知らずにハルヒは意気揚々と、

「古泉くん、さっそく調印書を作ってちょうだい」

「かしこまりました、閣下」

 幼少の皇帝を意のままに操る外戚宰相のような笑みで返答し、古泉はさっそく自分の物になったばかりのノートパソコンになにやら打ち込み始めた。

 

 翌日以降も部室の風景が格別に変化するということはなかった。猫に小判状態のノートパソコンが無駄に増えただけである。朝比奈さんはメイドルックであちこちハタキがけしてからヤカンをカセットコンロにかけ、古泉は一人バックギャラモンをやってて、長門はテーブルの隅で黙然と読書にふけりつつ、次にハルヒが何か言い出すまでのつかの間の平穏を楽しんでいた。

 そんな変哲のないSOS団的日々の放課後で、ごくまれに読書好き宇宙人の姿を見失うときがある。いないなと気づいた数分後には、またふらりと現れて読書を再開するから、俺の認識上ではやはり長門はこの部屋の真の主のようなものだった。

「…………」

 海外ミステリ小説を原書で読む長門の見た目は、ぱっと見、何も変わっていない。中身が変わりつつあるのかどうかは……さて。俺にも解りようはないな。

 長門は相変わらず、ここにこうしてちゃんといる。気まぐれな微風のようにお隣にも顔を出しているらしい。それで充分さ。

「キョンくん、どうぞ。今回は中国のお茶に挑戦してみました。ふふ……どう?」

 控え目に微笑む朝比奈さんからマイ湯飲みを受け取り、ゆっくりと味わいながら飲んでみても今までの茶葉とどう違っているのか俺の舌はとりたてて感激したりはしなかった。あなたのくれるものなら雑草ジュースだって美味に思えるに決まってますよ。

 俺は感想を心待ちにしている顔の朝比奈さんになんと返答したものかとボキャブラリーを探りながら、当分は変な事件に巻き込まれることもないだろうと考えていた。

 その予感が大間違いだったと判明したのは、それから一ヵ月後、冬休みとクリスマスの押し迫った師走の半ばのことである。

 涼宮ハルヒの存在を見失ったとき、俺はそれを悟ることになった。

 

序章・冬

 

 涼宮ハルヒに関して色々思うところがあるのは当然だろうが、俺が端的にこいつを言い表すとしたら、それはこんな感じのキャッチコピーになるだろう。

 

 日本一核ミサイルの発射ボタンを持たせてはいけない女、ここに厳存す。

 

 一般論として普通の女子高生がそんなもんを持つことは万が一にもないが、こいつに限っては万分の一の確立が億になろうと、あるいはマイナスの累乗がどこまでも続こうとまったく関係がない。あくまで持つか持たないか二つに一つなのだ。カウントダウンタイマーがついてないのに作動をはじめた時限爆弾よりタチが悪く、メルトダウン必至の原子炉より迷惑なシロモノであるわけだが、そいつを作動停止といかないまでもマナーモードくらいにはすることは、方々に迷惑をかけた末に何とかできるらしいと俺は知らされていた。

 それはこいつの退屈をどうにかして紛らわせ、核ミサイルのことなんかを一瞬でも考えたりさないことだ。当分の間でいいから他の何かに熱中させることができたら、ウチの三毛猫シャミセンがペットボトルの蓋を投げてやると三分くらいは齧りついているのと同じ理屈で、その何かにかかりきりになるだろうから----。

 というのが、かつて語った古泉の主張の要旨であり、奴は現在でも意見を変えていないらしい。

 てなわけで、俺たちはまたもや唐変木な目に遭っていた。

 遭っていた? いやホントにな。会うでも合うでも逢うでもない。今くらいこの字がバッチリはまっている状況もそうそうないぜ。

 なぜなら俺たちは現在、正真正銘十全パーフェクトなまでに遭難していたからだ。

 

雪山症候群

 

「まいったわね」

 俺の前を歩いているハルヒが本心を吐露するように言った。

「全然前が見えないわ」

 ここはどこかと訊くかい? 夏休みは孤島に行った。では冬休みはどこに行くかをハルヒの頭になって考えてみればいい。

「おかしいですね」

 古泉の声は最後尾から聞こえてくる。

「距離感から言って、とっくに麓に着いているはずですが」

 ヒントは、寒くて白い所だ。

「冷たいです……うう」

 吹き付ける風のせいで朝比奈さんの声は切れ切れだ。俺は振り返り、カルガモのヒナのようにおたおたと歩いているスキーウェアを確認した。励ますようにうなずきかけてあげてから目を先頭に戻す。

「…………」

 俺たちを先導している長門の足取りも心なしか重い。踏みしめる白い結晶が粘着するかのようにスキー靴にまとわりつき、一歩歩くごとに体積を増している感じだ。そんな感じになるような場所と言えばどこだ?

 面倒だ。答えを言っちまおう。

 見渡す限り白景色で、行けども行けども冷たい雪しか目に入らない。

 そうとも、ここは雪山以外のどこでもない。

 吹雪の山荘にやってきたあげく、その雪山で絶賛遭難中----。それが今俺たちの置かれている限りなく正確な状況だった。

 さあてと。これは誰が予定した筋書きなんだろうな。この時ばかりは結末のあるシナリオの存在を信じたい。でないと、俺たちはここで五人揃って凍死の憂き目に直面し、春頃なって溶けた雪の下からチルド状態で発見されかねん。

 古泉、なんとかしろ。

「そう言われましてもね」

 コンパスに目を落とした古泉は、

「方向はあっているはずです。長門さんのナビゲーションも完璧でした。にもかかわらず僕たちはもう何時間も山を下りることができません。普通に考えて、これは普通の状況ではありませんね」

 じゃあどういうことなんだ。俺たちは永遠にこのスキー場から出られないのか?

「異常であることは間違いないようです。まるっきり予測不能でした。長門さんにも原因が解らないのですから、何しろ不測の事態が発生したということだけは解ります」

 そんなん俺にも解ってる。先頭を歩く長門が帰り道を発見できずにいるのだから、これは相当おかしなことだ。

 またか。またハルヒが何かロクでもないことを考えついてしまったからか。

「一概には言えませんね。これは僕の感覚が教えてくれる勘ですが、涼宮さんは決してこのような現象を望んだわけではないと思います」

 どうして言い切れる。

「なぜならば、涼宮さんは宿の山荘で発生する不思議な密室殺人劇を楽しみにしていたはずだからです。そのために僕もいろいろ考えたのですから」

 夏に続いて冬の合宿先でもマーダーゲームが予定されていた。前回は失敗気味のドッキリだったが、今度は最初から自演であることを明かしての推理大会である。実は登場人物も同じで、孤島で俺たちを待っていた荒川執事に森園生メイド、多丸兄弟がまたもや同じ役名と間柄で芝居してくれることになっていた。

「確かにな……」

 実際、ハルヒは犯人と犯人特定に至るトリックの解明を楽しく待ちわびていたから、まさか今夜にも事件が起こると解っている山荘に帰り着くのを無意識にだって拒否したりはしないだろう。

 付け加えれば、そこには臨時エキストラとして鶴屋さんと俺の妹、それからシャミセンまでいて、俺たちの帰りを待っているのだ。

 実を言うと俺たちが宿にしている山荘は鶴屋家が所有する別荘だった。あの明るく調子のいいお方は自分もついて行くことを条件に合宿所提供を快諾し、シャミセンは古泉が考案したトリックの小道具として使用するためで、妹は勝手に俺の荷物に付着していた。その二人と一匹は遭難仲間には入っていない。シャミセンは山荘のマントルピースの前で丸くなってるだろうし、鶴屋さんはスキーのできない俺の妹に付きあって雪ダルマを作って遊んでいた。それが俺の覚えている最後の光景だった。

 三者ともハルヒにはほぼSOS団準団員であり、再会を拒む理由は誰にも、特にハルヒにはありはしない。

 だったらなぜだ。なぜ俺たちは暖房の効いたSOS団冬合宿の場へと帰還を果たせないんだ。

 長門の力をもってしても行き先が見通せないとは、いったいこれはどうしたことだ?

「夏冬連続で嵐とはね……」

 学校が長期休暇に入るたび、俺たちは人知を超えた現象に遭遇しなければならないという法則でもできたのか?

 疑問と不安のブレンドを幻味的に味わいつつ、俺は過去の記憶を呼び出していた。

「なんでこんなことになっちまったんだ?」

 では回想モード、スタート。

 ………

 ……

 …

 

 冬休みに合宿することはほとんど決定された未来に等しく、そんな未来があらかじめ見通せていたなら実際にその通りのことが起こっても驚きはない。

 なんせ夏休みの初日に出発した殺人孤島ツアー(台風付き)が終了したと思ったら、すでにその帰りのフェリーの船上において高らかに宣言されちまい、誰が宣言したかというとそれはハルヒ以外の誰でもなく、その決意表明をうやむやのまま呑まされたのはハルヒ以外の俺たちでありツアーコンダクターに叙任されたのは古泉である。

 冬になったら別のことに興味が向いているかと少しは期待していたのだが、我らの団長はこういうところだけはやけに物覚えがいいらしく、

「年越しカウントダウンinブリザード」

 俺たちにホチキスで留めたペラが回ってきた。配り終えたハルヒは誘拐犯が子供に向けるような笑顔で、

「予定通り、この冬は雪の山荘に行くわよ。ミステリアスツアー第二弾!」

 場所は部室で、時間は終業式が終わったばかりの二十四日のことである。長テーブルの上ではカセットコンロにかけられた土鍋がグツグツ言っており、俺たちは雑多な食材が適当に煮えているだけのその鍋を囲んで昼飯代わりにしていた。

 ハルヒがデタラメな順番で投入する肉や魚や野菜類を、布巾をかぶったメイドバージョンの朝比奈さんが菜箸でより分けたりこまめにアクをすくったりしている傍らで、ただ喰っているだけの俺と長門と古泉のSOS団五人組に加え、今日はスペシャルゲストを招いていた。

「うわっ、めちゃウマいっ。何これっ? はぐはぐ……ひょっとしてハルにゃん天才料理人? ぱくぱく……うひょー。ダシがいいよ、ダシがっ。がつがつ」

 鶴屋さんである。この元気な声の主は黙々と食いつづける長門と張り合うように、いちいち雄叫びを上げながら箸を高速移動させて鍋の中身を自分の取り皿に運び込み、

「やっぱ冬は鍋だねっ! さっきのキョンくんのトナカイ芸も大笑いしたし、いやーっ今日は楽しいなあっ」

 ウケてくれたのはあなただけでしたよ鶴屋さん。ハルヒと古泉は終始ニヤニヤ笑い、朝比奈さんなんか途中で顔を伏せて肩を振わせ始めたし、長門に至ってはそれのどこが面白いのかとロジカルに考えているような表情で、まったくいたたまれない気分を最大限に実感しながら俺は滝のようなヒヤ汗をかいていた。人を笑わせる才能に欠けていることをハッキリと悟ったね。芸人の道だけは志すまいと心に決めたところであるが、まあ、それはいい。

 鶴屋さんは単なる鍋仲間や朝比奈さんの付き添いとしてここにいるのではなかった。それがゆえのスペシャルゲストなのである。ではいったいどんなスペシャルなのかと言うと……。

「その吹雪の山荘なんだけどね」

 ハルヒは山荘の枕詞を雪から吹雪へとグレードアップさせて、

「喜びなさい、キョン。なんと! 鶴屋さんの別荘を無料で利用させてもらえることになったわ。なんかスゴくいい所らしいわよ。今から楽しみだわ! さ、じゃんじゃん食べてちょうだい」

 ハルヒは豚肉の塊を鶴屋さんの皿に投下させ、ついでに自分の皿にも食べ頃になったアンコウの切り身を確保した。

「いっつも家族で行くんだけどねっ」

 鶴屋さんは口に放り込んだ豚肉を丸飲みして、

「今年はおやっさんがヨーロッパ出張でいないんだよね。どうせだから三が日が終わったら家族でスイス行ってスキーしようってことになっちゃったっ。だから別荘のほうはキミたちと行くよ! なんか面白そうだしさっ」

 朝比奈さんがポツリと漏らした合宿の件を聞きつけた鶴屋さんが、ならばと言って申し出てくれたということらしい。古泉も渡りに船だとばかりにホイホイと賛同し、冬の合宿旅行書をハルヒにプレゼンテーションしたところ、ハルヒは刺身をまるごと与えられた猫のように大喜びし、

「鶴屋さんにはこれを進呈するわ!」

 机の中から取り出した無地の腕章に『名誉顧問』と書き殴って渡した----そうだ。

 その古泉はにこやかな顔で、ハルヒと長門と鶴屋さんによる大食い選手権みたいな食べっぷりを眺めていたが、俺の表情に気づいたか、

「ご安心を。今度はドッキリではありませんから。あらかじめ断っておいた上での推理ゲームですよ。実はメンバーも前回と同じです」

 荒川執事と森メイドさん、多丸兄弟の計四人が今回も寸劇を演じてくれるという予定だと言う。そりゃいいんだが、その四人は普段いったい何をしている人たちなんだ? 『機関』とやらの事務職員か何かか。

「いずれも僕の知り合いで小劇団の役者さんたちです……ってとこでどうでしょうか」

 ハルヒが納得するんだったらそれでもいいさ。

「涼宮さんは面白かったら何だって気にはしませんよ。それが最大の問題でもあるんですが……。シナリオに満足してくれるかどうか、今から胃が痛みます」

 古泉は胃の上を押さえるジェスチャーをしたが、微笑みくんのままなので下手な芝居にすら見えないね。

 俺はハルヒよりも人間ができているつもりなので、能天気に面白がって後のことをさっぱり考えないという楽天気分にはなれそうもない。安心材料がどこかにないかと見渡して最初に目が止まったのは長門の無表情顔である。いつもの調子の長門だった。俺がずっと知っていた普段通りの長門有希は、まるで何事もなかったかのように鍋料理をもりもりと食っている。

「…………」

 何にせよ、と俺は思う。

 今度だけでも長門に負担がかかるような事態にはさせないようにしよう。いや、せにゃならん。順番から言えば今回はだいじょうぶな回のはずだ。夏合宿では長門が妙な活躍をするシーンはなかった。冬の合宿でもそうなってもらいたい。苦労するのは古泉とその仲間たちだけでいい。

 俺はそう考えながら手元のペラ紙に視線を落とした。

 この紙切れに書かれているスケジュールによると、出発は十二月三十日。大晦日の前日だ。雪山と言ってもそう遠い所ではなく、列車で何時間か揺られていればその日のうちに到着する。

 とりあえず着いたその日はスキー三昧で、晩は全員で宴会(アルコール厳禁)、料理は夏の島に引き続き荒川執事氏(ニセ執事なんだが本物以上に執事っぽかったので他に言いようがない)と森園生さん(ニセメイドだが以下同)が担当してくれるのだそうだ。多丸氏二人は翌日の朝に遅れてきた客として登場、そこから推理ゲームの前フリが開始されることになっている。

 そうやって大晦日を事件発生とトリックの解明にあてて午前0時前に全員集合、おのおの持ち寄った推理を『毒入りチョコレート事件』的に順番に披露し、最終推理者に内定している古泉が軽やかに解答を激白する。そして胸のつかえがスッキリ解消したところで終わりゆく一年に別れを告げつつ、来る新しい年に挨拶を送る。ようこそ!

 という計画になっていた。

 顔を上げるとハルヒの大得意顔が俺に向けられている。何もやっていないうちからどうしてそんなに得意げでいられるのかが不思議でならないね。

「新年を盛大に祝ってあげるのよ」

 ハルヒは長ネギを箸でつまみながら、

「そしたら新年のほうも感謝して、すっごくいい年になってくれるわ。あたしはそう確信しているの。来年はSOS団の転機となる年になりそうな気がするのよね」

 年月を勝手に擬人化するのはいいが、お前にとってのいい年が俺たち全員にとってのいい年になるとは思えん。

「そう? あたしは今年がすっごく面白かったし来年もそうなったらいいなと思ってるけど、あんたは違うの? あ、みくるちゃん、鍋が煮詰まってきたからお湯足して」

「あっはいはいっ」

 朝比奈さんはヤカンの許へパタパタ駆け寄り、

「うんしょ」

 重そうに持ってきたヤカンを鍋の上で注意深く傾けた。

 その華麗なるお姿を見つめながら、俺は今年一年のうちに出くわした様々なあれやこれやを思い出し、少しばかり感情が揺れ動いた。ハルヒはすっごく面白かったと言う。では俺が面白かったかどうかと問われれば、決まってる。

 だいたいガキの頃に何か不思議なことがないかと、あればいいだろうなと考えていたのが俺の初心だったのだ。それこそ宇宙人でも何でもいい、その手のものが出てきて何かやってるような話に一枚加わりたかったんだからな。妄想が実現してるんだから大喜びしていないと本来ならおかしいんだ。だかなあ、いくらなんでもこう続けざまに加わりっぱなしになるとは想定外だったぜ。

 しかし、そんなことを内心で思いつつも本音はこうだ。

 ああ、楽しかったさ。

 今ならハッキリ声高らかに言える。この境地まで辿り着くのには相当な時間がかかったよ。ただし、もう一つ本音を言わせてもらえば、もうちょっとだけ平穏でもよかったとも思うんだ。俺的には普通に部室で遊んでいる温いインターバルが、あとほんの少し欲しかった。

「変なこと言うわね」

 ハルヒはアン肝を頬張りながら、

「ずっと遊んでばかりいたじゃん。ひょっとしてあんた、まだまだ遊び足りなかったって言うの? だったら年が終わる前にラストスパートをかけようか」

「いらんことはせんでいい」

 こいつは知らないのだ。これまで俺がどんな事態に遭遇し、どうやって切り抜けてきたのかを。野球に勝ったり、夏休みを終わらせたり、映画でおかしくなりかけた現実を回復させたり、過去に行って戻って来てまた行って、さらにもう一度行くことが決定しているんだぞ。自分で決めたことだから誰を恨もうとも思わないが、将来教職を取る予定もないのにこの時期、俺大いそがしだ。

 まあ、そんなこともハルヒには言えないんだが。

「スパートするのはその山荘に行ってからでも間に合うだろ」

 俺はハルヒが伸ばしかけていた箸を払うようにして鍋から白菜を引き上げた。せっかくのハルヒ特製鍋だ。食欲旺盛な女性陣(朝比奈さんは除く)に食い尽くされないうちに腹に収めとこう。次にいつ喰えるか解らない。

「まあね」

 ハルヒは機嫌良く牛モツを己の皿に移し替える。

「スパートついでにスパークもするわよ。いい? 大晦日は実は年に一回じゃないの。考えても見なさい。その年のその日は一生に一度しかないわけ。今日だってそうよ。今日って日は過ぎちゃえばもう二度と来ないのよ。だからね、悔いを残さないように過ごさないと今日に申しわけないわよね。あたしは一生記憶に残るような毎日をすごしたいと思うわ」

 ハルヒの夢見るような口調に、横で生煮えの鶏肉にかぶりついていた鶴屋さんが、

「わお。ハルにゃん、三百六十五日にあったことを全部覚えてんのっ? すっげー。みくるーっ、お茶ちょうだいっ」

「あっはいはいっ」

 急須を片手にした朝比奈さんは鶴屋さんが掲げる客用湯飲みに注意深く煎茶を注ぐ。すっかり小間使いにされているが、そうしている朝比奈さんはなんだか嬉しそうだった。ハルヒは無頓着な鍋奉行を大いに楽しんでいるし、古泉は湯気を立てる鍋を背景にしてまで優美な印象を受ける微笑をたくわえ、長門は黙々モグモグと聞こえない舌鼓を打ち続けている。名誉顧問となった鶴屋さんが臨時の準団員として加わっているが、おしなべていつものSOS団的雰囲気だった。

 今の俺はよく解っている。こういう時間こそが貴重なのだ。こっちを選んじまった以上、これからもハルヒを中心とする微妙に奇妙な出来事が何だかんだと発生するのは高確率で間違いない。すべてのオチがつくその日まで、あと一つや二つくらいは何かあるだろう。

 とりあえず異世界人がまだ来てないってのもあるしさ。

「来るなら来てみやがれってんだ」

 思わず呟きが漏れてしまったが、ハルヒと鶴屋さんが椎茸の奪い合いをする歓声にまぎれて誰の耳にも届いていないようだった。

 ただ、長門だけがほんの少し睫毛を動かしたような気はした。

 ふと窓が目にとまる。空が出し惜しみしているような景気の悪さでポツポツと雪が降っていた。俺の視線を読んだ古泉が、

「旅行先の山に行けばイヤと言うほど雪遊びができますよ。ところでスキーとスノボ、どちらがいいですか? 用具の手配も僕の仕事なのでね」

「スノボはやったことないな」

 生返事をして冬空から目を離した。古泉は無難なスマイルを浮かべたまま、だが目端を利かせていたようで、

「あなたが見ていたのはどちらのユキでしょう。空から降るほうですか? それとも、」

 これ以上古泉と見つめ合っていても益はない。俺は肩をすくめ、椎茸奪取作戦に参加することにした。

 首尾よく教師にも教師にチクろうとする誰かにも見つからず、あるいは気づきつつスルーしてくれただけかもしれないが、ともかく満腹となった俺たちは鍋やら食器ならゴミやらを片づけて部室を後にして、学校を出た時には小雪も収まっていた。

 実家で開催されるパーティーにどうしても出席しなければならないという鶴屋さんと別れ、SOS団の面々はケーキ屋に向かった。ハルヒが予約していた特大のクリスマスケーキを受け取ってから目指した場所は長門のマンションである。

 一人寂しく聖夜を過ごす長門をおもんぱかったわけではなく、一人暮らしの長門の部屋ならケーキ食いながらバカ騒ぎを楽しめるという条件のよさがものを言った。ツイスターゲームを担いでいる古泉とケーキの箱を抱える俺のどちらが幸せか解らないが、先頭を切って跳ねるように歩いているハルヒは充分にハッピーステイタスに見え、それは時折ハルヒに両手を持って振り回されている朝比奈さんや、無言でてくてく歩みを刻む長門にも伝染しているようにも思える。

 このぶんだと雪の代わりにサンタの大群が降ってくることもなさそうだ。ハルヒは普通人レベルのクリスマスイブを満喫して、それだけで腹一杯のようだった。俺の妹とどっこいの精神構造だな。今日だけかもしれんが。

 理由をわざわざ言うこともないと思うが、この時期の俺は寛大な気分を持続させていた。たとえハルヒがサンタ狩りに行こうと言い出して夜の町を徘徊することになったとしても、俺は苦笑混じりで付き合ってやったかもしれない。

 防音処理の行き届いた長門の部屋で古泉の用意した各種ゲームに興じている間、俺たちの誰もが楽しそうに見えたのは真実だ。ノートパソコン二台を繋いでプレイした トーナメントは長門の独壇場で、ツイスターゲームではハルヒと押し合いへし合いするハメになったが、そこらを歩いているカップルも引き込んでお前らも参加しろと言ってやりたいほどの大騒ぎな夜----。

 

 俺たちのクリスマスイブはそんなふうだった。

 

 そのクリスマスイブから大晦日イブまでは、まるでハルヒが時間の背中をぐいぐい押しているのではないかと思えるほど一瞬で過ぎた。その間に部屋の大掃除をしたり、中学の級友から頭を疑いそうな電話がかかってきたり、その絡みでアメフトの試合を見に行ったりというようなことをしていたものの、総じて順当に年の瀬は押し迫っていく。

 新しい年か。本当にどうなっちまうんだろうね。俺個人的なことを言えば、そろそろ成績のほうを何とかしないとけっこうヤバイな。

 母親は俺を予備校に放り込みたくてうずうずしている様子を言外に見せており、これが健全な運動部でバリバリ活躍していたり健全でないにしても得体の知れている部活に参加しているならまだイイワケのしようもあるが、健全でもなければ得体も知れない未公認団体でひたすらブラブラしている----ように周囲には見えるだろう----成績不振の進学志望者がいたら俺だってちったあ高校で学ぶことがあるだろうよと言いたくなる。

 どういう理屈かハルヒは理不尽なまでに学業優秀、古泉だってこの前の期末の結果だけ見りゃ秀才の範疇に入り、考古学的な趣味からかもしれないが朝比奈さんは割と努力して授業を聞いているようだし、長門の成績なんかあえては語るまでもないだろう。

「ま、後回しにしておくか」

 まずは冬合宿を成功裡に終わらせないとな。今考えるべきはそれだけでいい。勉強なら新年になってからでもできる。年越しカウントダウン合宿は年内にスタートを切らねばならない。

 と、そんなわけで----。

「出発っ!」

 と、ハルヒが叫び、

「やっほーっ」

 と、鶴屋さんが同調し、

「現場は絶好のスキー日和だそうです。今のところは」

 古泉が天候情報を伝え、

「スキーですかぁ。雪の上を滑るスキーですよね?」

 朝比奈さんがマフラーにくるまった顎を上げ、

「…………」

 長門は片手に小さなカバンを提げたままピクリともせず、

「わぁい」

 と、俺の妹が飛び跳ねた。

 早朝の駅前である。これから列車に乗って、さらにいろいろ乗り継ぎ、目的地である雪山到着予定時刻は昼過ぎとなっている。それはいいんだが、どうしてここに予定せざる人員として俺の妹がいるのかというと……。

「いいじゃん、ついて来ちゃったのはしかたがないわ。ついでよ、一緒に連れていってあげたら一瞬で話はすむわ。邪魔にはならないでしょ」

 ハルヒは前屈みになって妹に笑いかけ、

「どうでもいい奴なら追い返したところだけど、このあんたと違って素直な妹さんなら全然オッケー。映画にも出てくれたしさ。シャミセンの遊び相手にちょうどいいじゃない」

 そう、この旅行には俺ん家の三毛猫までが付属しているのだ。これに関してはSOS団の合宿計画担当者のセリフを聞こう。

「推理劇のトリックに猫が必要だったんですよ」

 猫は知っていたとか、そういうのか。

 自分の荷物の上に座っていた古泉は、

「適当な猫でもよかったのですが、映画ではけっこうな役者ぶりを見せてくれましたしね。その名演をもう一度というわけです」

 今のシャミセンはただの喋らない家猫だぜ。演技のほうは期待しないほうがいい。俺は妹と鼻面を付き合わせているハルヒを眺めて、

「おかげで出かけに見つかっちまった」

 なにぶん朝も早かったし、母親には固く口止めしておいたから安心しきっていた。妹も俺がハルヒたちと旅行に行くなんてまったく気づいていなかったろう。だが意外な落とし穴は最後に口を開いた。俺が自分の部屋で、まだ夢見心地のシャミセンを猫用キャリーに収納しているところに、なぜか妹が入ってきたのだ。どうやらトイレに起きて帰ってきたはいいが寝ぼけて部屋を間違えたらしい。

 その後の展開は一本道だ。突然、妹はパッチリと目を見開き、

「シャミをつれてどこに行くの? その格好は? 荷物は?」

 うるさいのなんの。そして小学五年生十一歳の我が妹は夏よりもパワーアップした暴れぶりをひとしきり見せた後、両手両足で俺のカバンにしがみつき、岩場に貼り付いた変な色した貝のように離れようとしなかった。

「一人増えるくらいなら余裕ですよ」と古泉は微笑む。「ましてや子供料金、さして予定は狂いません。僕も涼宮さんに同感ですね。ここまで来て追い返すのは忍びませんから」

 ハルヒとじゃれ終えた妹は、今度は朝比奈さんに飛びついて豊かなふくらみに顔を埋めた後、じっと黙って立っている長門の膝に抱きついてよろめかせ、最終的に大笑いをする鶴屋さんに振り回されてきゃいきゃい言っている。

 妹でよかった。これが弟なら即刻裏通りに連れ込んでいるところだ。

 

 雪山行きの特急でも妹の勢いは衰えず、俺たちの間を飛び回っては無駄に元気を振りまいていた。今からこんなに飛ばしていては終盤に息切れすること相違なく、また俺が眠りこける妹を背負って歩くハメになりかねないが注意してもそれこそ無駄だ。妹と同等くらいにハルヒと鶴屋さんも高レベルなテンションを維持しているし、少し控え目に朝比奈さんも何だかぽわぽわと高揚しているらしい。長門ですら、読もうと開いていた文庫本をあきらめたようにカバンにしまい、妹に静寂な視線を注いでいた。

 俺は窓際に頬杖をつき、高速で流れていく風景をぼんやりと眺めている。横の通路側に古泉が座っていて、ハルヒたち女グループは俺たちの前の席にいた。向かい合う形に座席の方向を変え、今は五人でUNOをやっている。あまり騒ぐなよ。他の乗客に迷惑だからな。

 つまはじきにされた俺と古泉は列車が走り出して十分ほどババ抜きをしてみたが、虚しくなってすぐにやめた。何が悲しくて男二人で道化の押し付け合いをしなくてはならんのか。

 ならばこれから俺の目を享楽の宴に誘ってくれるであろう、まだ見ぬ朝比奈さんのスキーウェア姿でも妄想していたほうがまだしも建設的である。そう思った俺が二人きりのゲレンデで仲よく滑り降りるという状況にどうしたら持っていけるかと考えていたら、

「にゃ」

 足元のキャリーバッグがごそごそと音を立て、その隙間からヒゲを出した。

 例の映画騒動が終了してから、シャミセンは元ノラ猫とは思えないほどおとなしく手のかからない猫に変わり果てている。エサの時間が来るまでぼうっと待っているし、無闇にじゃれついてくることもなく、どうやらこいつの欲求の中で最大の地位を誇るのは睡眠欲らしい。今朝方にキャリーに入れて以来ずっと眠り続けていたのだが、いくら怠惰な猫でも飽きがくるということはあるようだ。退屈そうに蓋の辺りを掻いている。もちろん車内で出すわけにはいかない。

「もうちょっと我慢しろ」

 俺は足元に言い聞かせた。

「着いたら新品のカリカリをやる」

「にゃ」

 それだけで解ったようにシャミセンは再びおとなしくなった。古泉が感心したように、

「最初、喋り出したときはどうなることかと思いましたが、その猫はアタリでしたね。いえ、オスの三毛猫というラッキー性だけではなくて。ちゃんと物の解った、いい猫です」

 群れていたノラ猫たちの中からこいつをランダムに取り上げたのはハルヒだった。それが数万分の一の確率でしか発生しない染色体異常だったのだから、いっそハルヒに宝くじでも買わせてみたらどうだ。少しは活動費のたしになるかもしれんぞ。いつまでも文芸部の部費を横流ししているのは、そろそろ俺もどうかと思うぜ」

「宝くじですか? それはそれで涼宮さんのことですから、ややこしいことになりそうな気もしますね。もし彼女が億単位の金を手に入れたら何を始めると思います?」

 あまり考えたくはないが、米軍払い下げのセコハン戦闘機くらいは買い付けてきそうだ。単座ならまだいい、もしそれが複座だったりしたら、後部シートに座ることになるのが誰かなんて考えるまでもない。

 あるいは気前よく宣伝費に使っちまうかだな。ゴールデンタイムのバラエティを見ていたら突如として『この番組はSOS団の一団提供でお送りしています』なんていうテロップが流れ出し、俺たちが出演するコマーシャルフィルムが全国のお茶の間に届けられている光景を想像して背筋が寒くなった。ハルヒにプロデューサー的ポジションを与えるとロクなことをしでかさないのは、幼稚園児に株の運用を任せて失敗する確率よりも解りきったことだ。

「もしかしたら人類にとって非常にタメになることを考え出してくれるかもしれませんよ。何かの発明資金にあてるとか、研究所でも作るとかね」

 古泉は希望的観測球を打ち上げるが、ヘタな博打はしないほうがいいものだ。なんたってこっちの賭けるものがデカすぎる。リスク計算できるヤツなら躊躇うに決まっているさ。それこそよほどのことがない限りな。

「コンビニで当たり付きアイスでも買わせよう。それで充分だ」

 俺は再び風景を楽しみ始め、古泉は背もたれに深く身を沈めて目を閉じた。向こうに着いたら大いそがしだろうから、今のうちから体力の温存を図るのは正しき選択だ。

 列車の外の様子はどんどん田舎度を増していき、トンネルをくぐり抜けるたびに雪景色度もレベルアップする。それを眺めているうちに、俺も心地よい眠りに就いていた。

 

 そうやって列車の旅を終え、荷物を抱えて駅からまろび出た俺たちを出迎えてくれたのは、快晴の青と積もりまくった雪の白のツートンカラー、それからいつか見た覚えのある二人組みのバカ丁寧な挨拶だった。

「ようこそ。お待ちしておりました」

 深々と腰を折るザ・ベスト・オブ・執事役と、

「長旅お疲れ様です。いらっしゃいませ」

 年齢不詳のあやしい美人メイドさんである。

「どうも、ご苦労様です」

 しゃしゃり出た古泉がその二人に並んで、

「鶴屋さんは初めてですね。こちらが僕のちょっとした知り合いで、旅行中身の回りの世話をお願いすることになる荒川さんと森園生さんです」

 夏の孤島とまるで違っていない。三つ揃いを着こなしたロマンスグレーな荒川氏と、質素ながらメイド以外のなんでもないエプロンドレスがハマっている森さんは、

「荒川です」

「森です」

 ぴったりのタイミングで頭を下げた。

 この突き刺すような寒さの中コートも羽織っていないのは演出の一環か、それとも演技といえども役に成りきっている職業意識からくるものか。

 鶴屋さんは重そうなカバンを軽々と振り回しながら、

「やあ! こんにちはっ。古泉くんの推薦なら疑いようがないよっ。こっちこそよろしくねっ。別荘も好きに使っちゃっていいよ!」

「恐れ入ります」

 荒川氏は慇懃にまた一礼し、やっと顔を上げて俺たちに渋い笑みを見せた。

「皆様も、お元気そうで何よりです」

「夏には失礼しました」

 森さんが緩やかな微笑みを浮かべながら言って、俺の妹を見てさらに微笑みを柔らかくする。

「まあ可愛いお客さんですね」

 招かざる客、俺の妹は熱湯に落とした乾燥ワカメよりも早く素に戻り、「わぁい」とか言いながら森さんのスカートに飛びついた。

 ハルヒは満面の笑みをたたえながら一歩進んで雪を踏みしめ、

「久しぶり。この冬合宿も期待してるわ。夏は台風のおかげで少し遊び足りなかったけど、そのぶんは冬で収支を合わせるつもりだから」

 それから俺たちへと振り返り、飛車が敵陣で龍成ったような元気さで、

「さ、みんな。こっから気合入れて全速力で遊ぶわよ! この一年の垢を全部落として、新しい年を迎える頃にはまっさらになるくらいのつもりで行くわ。悔いの一欠片だって翌年には持ち込んだりしちゃダメ。いいわね!」

 それぞれのやり方で俺たちは返答した。鶴屋さんは「ゆえーいっ!」と片手を突き上げ、朝比奈さんはちょっと腰を引かせながらオズオズとうなずき、古泉はあくまでにこやかに、長門はそのまま無言で、妹は森さんにまとわりついている。

 そして俺は、見つめていると目を痛めそうなくらいに輝くハルヒの笑顔から目を逸らして遠くへと視線を飛ばした。

 嵐が来るなんて予想もつかないほど、雲一つない青空だ。

 この時までは。

 鶴屋家の別荘へは二台の四駆に分乗して行った。ドライバーは荒川さんと森さんであり、と言うことは、森さんは少なくとも四輪の免許取得者に足りる年齢だということだけは推理できる。ひょっとしたら同年代じゃないかと疑っていたから、それだけでも俺にはけっこうな収穫だ。いや別に深い意味はないんだ。働き者のメイドなら朝比奈さん一人で間に合っているから森さんに格別の思いが発生しているわけではない。ここ重要。

 どこを見ても真っ白な風景の中、車の旅はさほど長くは続かなかった。十五分も走っただろうか、俺たちの乗るゴツい車はペンション風の建物の前に停まった。

「いい雰囲気のとこじゃないの」

 真っ先に飛び降りたハルヒが雪を踏みしめながら満足感を漂わす感想を述べた。

「ウチの別荘の中じゃ一番こぢんまりしてるんだけどねっ」と鶴屋さん。「でも気に入ってんだっ。これくらいのが一番居心地いいのさ」

 駅からそんなに離れておらず、近くのスキー場には歩いていける距離にあるという立地条件だけでもけっこうな値段になりそうだし、おまけに鶴屋さんはこぢんまりなどと本気で言っているらしいが、それは彼女の自宅である日本家屋と比べてのこぢんまり具合なので一般的な感性を代表して言わせてもらえば、夏に訪れた孤島の別荘と遜色ないデカさだった。いったい鶴屋家はどんな悪いことをしてここまで羽振りのいい建物を建てることができたのだろう。

「どうぞ、皆様」

 先導してくれるのは荒川執事である。彼と森さんの二人は、鶴屋さんから許可と鍵を得て俺たちに先行すること一日、昨日にはここに到着し準備を整えていてくれたのだという。古泉の周到な根回しによるところ大であり、細かいことを気にしない鶴屋さんと鶴屋家の人々のおおらかな性格もなんとなくうかがえる話だった。

 全面木造、本気でペンションとしてオープンしたら毎シーズン満員御礼になりそうな鶴屋家冬の別荘にありがたく入りながら、俺はちょっとした予感を抱いていた。

 何だかよく解らない。しかし、その漠然とした予感は確かに俺の頭の中を通り過ぎて行ったのだ。

「ん……?」

 別荘の内装に感心しつつ俺は周囲を見回した。

 ハルヒは鶴屋さんを褒め称える言葉を口にしながら笑いまくり、鶴屋さんも朗らかに笑い返している。古泉は荒川さんと森さんの三人で何かを話し合っていた。俺の妹はさっそくシャミセンをキャリーバッグから取りだして抱きしめ、朝比奈さんは持っていた荷物を床に下ろしてホッとしたように息を吐き、長門はどこを見ているのか解りにくい視線を空中に固定している。

 どこにも変なところはない。

 俺たちはこれから合宿とは名ばかりの単なる遊興に数日を費やし、また再び元の位置に戻って日常の続きをエンジョイすることになる……。

 はずだった。

 発生することが決まっている殺人事件劇はまさしく劇であって真剣なものではなく、あらかじめ解っているんだからそれでハルヒの情動が揺れ動くこともない。長門と朝比奈さんの出番もないだろう。古泉が異能の力を発揮する場も生じない----。

 言い方にもよるが、これから起こるのはデキレース。先の見えない怪しい殺人事件ではないのである。部屋をこじ開けて入ったらカマドウマが出てきたりするような予想を超える事態になるとも思えない。

 しかし何だろう。違和感としか言いようのないものが定例句の妖精のように通り過ぎた感覚がした。そうだな、夏休み後半が延々とループしていたのに気づかないまま、だが妙な感じだけは覚えていたあの雰囲気に似ている。ただしデジャブというわけでもなく……。

「ダメだ」

 粘液にまみれた魚をつかんだみたいに、その感覚はするりと手の内から消え去った。

「気のせいか」

 俺は首を振り、カバンを担いで別荘の階段を上り始めた。割り振りされた自分の部屋に向かうためである。豪華と言うほどではないが、それは俺に金目のモノを見る目がないからだろう。シンプルに見えてこの階段の手すりも聞いたら仰天するくらいの材料費と人件費がかかっているに違いない。

 寝室の並ぶ二階廊下で、

「キョンくんさ」

 鶴屋さんが笑顔で近寄ってきた。

「妹ちゃんと同じ部屋でいいかい? ホント言うと用意していた部屋数がギリなんだよねっ。あたしが子供の頃に使っていた屋根裏部屋を開けてもいいけど、それじゃ寂しいでっしょ?」

「別にあたしの部屋でもいいわよ」

 ハルヒが首を突っ込んできて、

「さっき部屋を見てきたけど、広いベッドだったわ。三人川の字で寝ても平気なくらいよ。やっぱここは女同士で相部屋になるのが健全でしょ?」

 健全も何も、妹と同じ部屋でも俺は別にどうだっていいことだ。朝比奈さんと同室になったらかなりの精神的急勾配が発生するだろうが、妹とシャミセンの違いなんか俺にはまったく感じない。

「ね、どう?」

 ハルヒが訊いたのはシャミセンを肩にしがみつかせている妹へだ。妹はケラリとした笑みで、まるで雰囲気を無視した発言をした。

「みくるちゃんとこがいい」

 

 というわけで妹は朝比奈さんの部屋にまんまと潜り込み、俺の部屋にはシャミセンが残されることとなった。せっかくなのでこの猫も誰かに貸与したかったのだが、

「遠慮しておきますよ。あなたと違って僕は猫が喋り出すことに耐性がありませんから」

 古泉はやんわり否定し、長門は三十秒ほど三毛猫の眉間を見つめていたが、

「いい」

 短く言って背を向けた。

 まあ、この別荘の中を適当にウロウロさせておけばいいだろう。知らない家に連れてこられたというのにシャミセンは我が家と変わりない顔をしてベッドに飛び乗り、列車の中でさんざんねただろうにまた居眠りを始めている。ついでに俺も横になってしまいたかったが、そんな休憩時間はスケジュールに組まれておらず、ハルヒの号令に従って俺たちは着いたそうそうに階下へ集合することになった。

「さあ、行くわよ。スキーしに!」

 さっそくすぎるような気もしたが、ハルヒ的ラストスパート兼スパークのために無駄に使える時間は一秒たりともないのだ。おまけに根っから元気なのは鶴屋さんもであり、ひょっとしたらハルヒ以上にハイな彼女との相乗効果で行動力までダブルになっている気もするね。

 スキーウェアと板は古泉がどこからかレンタルしてきた。いつのまに俺たちの採寸をしたのかが不思議だ。急な参加となった妹のぶんまであって、それまたピッタリなのである。『機関』とやらのエージェント(想像するに黒服黒サングラス)が北高や小学校に忍び込み、保健室の棚から生徒の身体情報をあさっている光景を幻視してみる。うむ、後で朝比奈さんのスリーサイズを尋ねておこう。知ったところでどうするわけでもない情報ではあるが、これも知的好奇心というやつだ。

「スキーも久しぶりだわ。小学校のときに子供会で行ったきりかしら。地元じゃ全然降らないもんね。やっぱり冬は雪だわ」

 そりゃ降雪地方でない奴特有の言い分だな。雪なんざ降らなきゃいいと思っている人々だって中にはいるぜ。特に戦国時代の上杉謙信なんかはそうだったと俺は分析している。

 スキー板を担ぎ、歩きにくいブーツで行軍する俺たちは、やがて見事なゲレンデに辿り着いた。ハルヒと同じく俺もスキーは久々だ。中学以来じゃないかな。妹は初めてのはずで、どうやら朝比奈さんもそうらしい。長門も未経験者に違いないがプロスキーヤー以上の腕前を見せることを俺は半ば信仰していた。

 リフトで登っていく色とりどりのスキーウェアがポツリポツリと目に入る。思っていたより人は少ないなと思っていると鶴屋解説が入った。

「割と穴場なとこなんだよっ。知る人ぞ知る静かなスキー場さ。だってここ、十年前まであたしんとこのプライベートゲレンデだったからねっ」

 今は開放しているけど、と補足する鶴屋さんの言葉にはまるで嫌みなところがない。世の中にはこういう人も実際にいるのである。見栄えもよければ性格も金回りも家柄もいいという、もうどうしようもないようなお人がね。

 リフト乗り場付近でスキーを履いたハルヒが言った。

「どうする、キョン。あたしはこのまま最上級コースに出ちゃいたいけど、みんなちゃんと滑れるの? あんたは?」

「少し練習させてくれ」

 俺は板をブーツに装着したはいいが、三十センチおきにコケている妹と朝比奈さんを見ながら言葉を返した。

「ますは基本を教えとかないと、最上級どころかリフトに乗るのも一苦労しそうだ」

 早くも雪まみれの朝比奈さんは、まるでスキーウェアを着るために生まれて来たような似合いぶり。いったいこの人が着て違和感を発生させるような衣服がこの世に果たしてあるのだろうかとたまに思う。

「じゃさっ。あたしがみくるを鍛えるから、ハルにゃんは妹ちゃんを頼むよ! キョンくんたちは適当にそのへん滑っといてっ」

 願ってもない提案だ。俺もスキー勘を取り戻すにはしばらくかかりそうである。ふと横を見ると、

「…………」

 無表情にストックを握りしめた長門が、つい~っと滑り出していた。

 

 結局、妹はてんでモノにならなかった。ハルヒの教え方に難があるんじゃないか?

「足を揃えて思いっきりストックをガーンとやるとピューンと行くから、そのままドワーって気合で行って、止まるときも気合で止まるの、オリャーっ。これで何とかなるわ」

 何ともならなかった。気合でどうにかできるんならこの上なくエコな自動車が開発できるだろうが、あいにく妹程度の気合ではコケる間隔が三十センチから三メートルになったくらいの違いだ。それでも妹は無性に楽しげで、きゃらきゃらとコケまくって雪をむしゃむしゃ食べていたから結果はどうであれ娯楽としては正しいのかもしれない。腹壊すからやめとけ。

 一方の朝比奈さんは元々才能があったのか、鶴屋さんがハイレベルなインストラクター的手腕を備えていたのか、ものの三十分でスキースキルを会得していた。

「わっわっ。楽しい。わぁ、すごい」

 真っ白な背景の中、笑顔で滑っている朝比奈さんの姿は、長くなるので中略するが短くまとめると、ハイカラな雪女の末裔がおっかなびっくり現世に現れたくらいの画面映えする芸術性を帯びていた。これだけでも即座にUターンして帰路についてもオッケーてなもんだ。その前に写真を撮っておく必要はあるだろうが。

 スキーの自主錬をする俺や古泉を横目に、ハルヒはいつまで経っても上達しない妹を考え込むような顔で見ていた。自分は一刻も早く山の高いところにいって直滑降を試したいが、この小学五年生を連れて行くわけにはいかない、みたいな顔つきだ。

 たぶん鶴屋さんも同じことを思ったのだろう、

「ハルにゃんたちはリフト乗ってっちゃっていいよ!」

 鶴屋さんはコケたまま嬉しそうに手をジタバタさせている妹を救い起こしながら、

「この子はあたしが手ほどきしとっから! なんだったらここで雪ダルマでも作って遊んどくよっ。ソリでもいいかなっ。どっかそのへんで貸してくれると思うしっ」

「いいの?」

 ハルヒは妹と鶴屋さんを見ながら、

「ありがと。ごめんね」

「いいっていいって! さ、妹くんっ。スキー教室と雪ダルマとソリ滑りのどれがいい?」

「雪ダルマくん!」

 と、妹は大声で答え、鶴屋さんは笑いながらスキーを外した。

「じゃ、ダルマくんだっ。でっかいの作ろう、でっかいのっ」

 さっそく雪玉を作り始めた二人に、朝比奈さんも混じりたそうな表情で、

「雪ダルマですかあ。あぁ、あたしもそっちのほうがいいような……」

「だーめ」

 すかさずハルヒが朝比奈さんの腕をロックしてニッコリと、

「あたしたちは頂上まで行くわよ。みんなで競争するの。最初に麓まで降りてきた者に冬将軍の地位を授けるわ。がんばりましょ」

 たぶん自分か勝つまでやめないつもりだ。それは別にいいが、いきなり頂上行きは俺もちょいとビビリが入る。段階的に上げていこうぜ。

 ハルヒはふんと小鼻を鳴らして、

「なっさけないわねえ。こんなの、ぶっつけでやるのが一番面白いのに」

 とか言いつつも珍しく俺の案を採用した。とりあえず中級コースから行って、メインイベントの最上級難関はオーラスに取っておくことにする。

「リフト乗りましょ。有希ーっ、行くわよっ。戻ってきなさぁい」

 周囲をぐるぐる回るように弧を描いていた長門は、その声を合図にターンすると雪を削るようにしてぴたりと俺の横に止まった。

「競争よ、競争。リフトは人数分のフリーパスをもらったから日が暮れるまで……いいえ! 日が暮れても何度でも乗れるわ。ささ、みんなついてきて」

 言われなくてもそうするさ。たとえ俺が雪ダルマ制作班に参加希望を表明したところで許可されはしないだろうし、古泉はともかく長門や朝比奈さんをハルヒの好き勝手に付き合わせてそのまま放っておいた日には、ブリザードを通り越して氷河期が前倒しされかねん。ちゃんと客観性を持った人徳者がついていないといかん。俺に誇れるほど立派な客観性があるかどうかは、まあイマイチ解ったもんでもないし古泉あたりがたちどころに幾つもの理屈で反論しそうだが、俺は気にすることを放棄した。なぜなら、そんなのはとっくの昔にどうだっていいことになっていたからだ。

 メンバー全員が元気な姿でここにいるし、雪は申し分のないパウダースノーだし、澄んだ空はどこまでも青い。その空と同じくらいの晴れやかな顔で我らの団長が手を差し伸べた。

「このリフト二人乗りなのね。公平にグッパーで決めましょう」

 

 さて。

 その後の展開で特筆すべきことはあるまい。別行動の鶴屋さんと妹を残し、SOS団正規メンバーはリフトに乗ってなだらかな勾配を上がっていき、ごく普通にスキーを楽しんだ。麓まで滑り降りるたびに雪ダルマは形をなすようになっていき、鶴屋さんと妹はまるで同年代の友人のように明るく笑いあいながらダルマにバケツをかぶせたり目鼻をつけたりとエンジョイしている。早くも二体目の雪ダルマに取りかかろうとしていたのが俺の見た二人の最新の記憶だ。

 

 そして、最後の記憶になるかもしれなかった。

 

 何度目のスキー大回転競争だっただろう。

 順調に滑り降りていた俺たちは、いつのまにやら……これが本当にいつの間だったのか全然解らないんだ。いつしか、突然、突如として、吹雪のまっただ中にいた。視界はすべてホワイトアウト、一メートル先に何があるのかも確認できない。

 びゅうびゅうと吹き付ける強風が雪の欠片を乗せて身体にバンバンぶち当たっている。冷たさよりも痛みが先に来るほどだ。剥き出しの顔がたちまち凍り付き、息をするのも下を向かねばならないような、とんでもないブリザードだった。

 何の予兆もなかった。

 先頭を切って滑り降りていたハルヒがスキーを停め、競い合っていた長門も急停止して、朝比奈さんと一緒にゆっくり滑っていた俺と最後尾の古泉が追いついたとき----。

 すでに吹雪はここにあった。

 まるで誰かが呼び寄せたように。

 

 …

 ……

 ………

 以上で回想を終わる。これで俺たちが雪山をのたのた歩いている理由が解っていただけただろうか。

 なんせ視界がきかないもんだから、数メートル先に断崖絶壁があっても気づかず落ちる危険性がある。そんな崖などは確かなかったはずだが、地図を無視していきなり出現しても大して不思議ではなく、ジャンプ台もないのにラージヒルに挑みたくもない。さすがに崖は大げさとしても雪で白く迷彩された樹木に正面衝突してはヘタすりゃ鼻の骨くらいは折れるだろう。

「俺たちは今どこを歩いてるんだ?」

 こういうときに頼りになるのは長門だった。俺としては不本意なのだが命には代えられない。そうやって長門の正確無比なナビゲーションに従って山を下りているというのに、すでにそのまま何時間も経過しているのは最初に述べたとおりだ。

「変ねえ」

 ハルヒの呟きにも不審な香りがこもり始めている。

「どうなってんの? いくらなんでもここまで人の姿を見かけないなんておかしいわ。いったいどんだけ歩いたと思ってんのよ」

 その視線が先頭の長門に向いている。長門が降りる方向を間違えたのではないかと疑っている顔だ。そうとしか思えない状況ではある。ここは秘境でも何でもないスキー場なのだ。だいたいの見当を付けて斜面を道なりに降りていけば、自ずと麓に到着しないとおかしい。

「しょうがないからカマクラ作ってビバークでもする? 雪が小やみになるまで」

「待て」

 俺はハルヒを呼び止め、雪を掻き分けるようにして長門の横に並んだ。

「どうなってる?」

 ショートヘアを凍気でごわごわした無表情娘は俺をゆっくりと見上げて、

「解析不能な現象」

 小さな声でそう言った。黒目勝ちの目は真摯なまでにまっすぐ俺に向けられている。

「わたしの認識しうる空間座標が正しいとすれば、我々の現在位置はスタート地点をすでに通り過ぎた場所」

 何だそりゃ。それじゃあ、とうに人里に入ってなければいかんだろう。こんだけ歩いてんのにリフトのケーブルやロッジの一つも見なかったぞ。

「わたしの空間把握能力を超えた事態が発生している」

 長門の冷静な声を聞きながら、俺は大きく息を吸った。舌先に当たった雪の結晶が蒸発するように溶けていき、発する言葉も同様に霧散した。

 長門の能力を超えるような事態?

 妙な予感はこれだったのか。

「こんどは誰の仕業だ」

「…………」

 長門は思考するように沈黙し、叩きつける雪の乱舞を瞬きもせず見つめた。

 俺たちは全員、腕時計も携帯電話も持たずにゲレンデに乗り出していたから、現在時刻もよく解らなくなっていた。鶴屋家の別荘を出たのは午後三時頃だったかな。それから何時間も経っているに違いないのに、曇りまくった空はまだぼんやりと明るい。しかし厚い雲と吹雪のおかげで太陽の位置が全然解らん。ヒカリゴケに覆われた洞窟の中にいるような不可解な明るさで、思わず俺は親知らずのさらに奥が金気臭い痛みを訴え始めるのを感じた。

 行けども行けども雪の壁が立ちはだかり、天蓋は灰色一色。

 どこかで体験したような光景とちょっと似ている感じがしないでもない。

 まさか----。

「あっ!」

 すぐそばでハルヒが叫び声を上げ、俺は心臓が肋骨を突き破って飛び出すかと思うくらいに驚いた。

「おい、ビビらすなよ。デカい声上げやがって」

「キョン、あれ見て」

 ハルヒが風にも負けず一直線に指差す先----。

 そこに小さな光が点っていた。

「何だ?」

 目をこらす。雪交じりの風のせいでまるで瞬いているように見えるが、光源自体は移動していない。交尾を終えた蛍みたいに弱った光だ。

「窓から漏れる光だわ」

 ハルヒは声に喜色を浮かべながら、

「あそこに建物があるのよ。ちょっと寄らせてもらいましょう。このままじゃ凍死しそう」

 その予言はこのままいけば事実になるだろうな。だが建物だと? こんなところに?

「こっちよ! みくるちゃん、古泉くん。しっかりついてきなさい」

 人間除雪車となったハルヒがザクザクと道を造って先頭を進み始める。寒さと不安と疲労感から来るものだろう、ガタガタ震える朝比奈さんをかばうように支えながら、古泉はハルヒの後を追った。すれ違いざまに囁いたセリフが俺の心をより寒くさせる。

「明らかに人工の光ですね。ですが少し前まであんなところに光なんかありませんでしたよ。これでも周囲に目配りしていましたから確かです」

「…………」

 長門と俺は黙ったまま、スキー板で雪を蹴散らして道を作ってくれているハルヒの背中を眺めた。

「早く早く! キョン、有希! はぐれちゃダメよ!」

 他にどうしようもない。氷づけとなって百年後くらいのニュース記事になるよりは、少しでも生存の可能性に賭けたほうがいい。それが誰かの仕組んだ罠への入り口なんだとしても、他に道がないのならそこを歩いていくのが唯一の方向だ。

 俺は長門の背を押して、ハルヒが作り出した雪道を歩き始めた。

 

 近づくにつれて光に正体が明らかになってくる。ハルヒの人並み外れた視力を賞賛してやってもいいな。それは紛うかたなく窓から漏れ出している室内灯の光だった。

「洋館だわ。すごく大きい……」

 ハルヒは一旦立ち止まり、顔を垂直に向けて印象感想をおこなってから再び歩き出した。

 俺もまた巨大な建物を見上げ、ますます暗澹たる感情を抱く。白い雪と灰色の空の中で、その館は影絵のようにそびえ立っていた。どこか禍々しく思ったのは見慣れない外見のせいだけではなさそうだ。館というより城に近い威容を誇り、屋根の上には用途不明な尖塔がいくつも突き出していて、光の加減か外装がやけに黒っぽい。そんな建物が雪山の直中に建っているのだ。これが怪しくないと言うのなら、全国の辞書の怪しいという単語の項目をすべて書き換える必要がある。

 吹雪の雪山。遭難中の俺たち。方向も見失って歩いている最中に発見した小さな灯火。そして辿り着いたのは奇妙な西洋風の館----。

 これだけ条件が揃ってるんだ。次に出てくるのは今度こそ怪しい館の主人か、それとも異形の怪物か? で、以降のストーリはミステリかホラーのどちらに分岐するんだ?

「すいませーんっ」

 早くもハルヒは玄関扉に声を張り上げている。インターホンもノッカーもない。無骨な扉がハルヒの拳によって叩かれた。

「誰かいませんか!?」

 殴打を繰り返すハルヒの後ろに続き、俺はもう一度館を見上げた。

 それにしても、あまりにも用意された感じがまとわりつく状況、設定と舞台装置だ。これが古泉の仕掛けでないのは解る。これで館の扉が開いたら荒川さんと森さんが最敬礼してたら最高なんだが……。長門が自分で自分の能力を超えていると証言したことからも、そうなってくれそうにないのは明らかだった。古泉たちが長門を出し抜けるとは思えないし、仮に長門を抱き込んでドッキリの一部に荷担させているのだとしても、長門は俺にだけは嘘を言わない。

 ハルヒは猛吹雪にも負けないくらいの大声を張り上げていた。

「道に迷っちゃって! 少しでいいから休ませてもらえますか! 雪の中で立ち往生して困ってるんですっ!」

 俺は振り返って全員がいることを確認した。長門はいつものビスクドール的表情でハルヒの背中を見つめている。朝比奈さんはビクついた顔で自分の身体を抱きしめ、くしゅんと可愛くクシャミしてすっかり赤くなっている鼻先を擦る。古泉の顔面からもニヤケスマイルは消えていた。腕組みに傾げた首、やや苦い物を噛んでいるような表情と言う思案顔をした古泉は、扉が開いたほうがいいか閉ざされたままのほうが迷っているようなハムレット的雰囲気をまとっていた。

 ハルヒの立てる騒音はこれが俺の家のあたりならとうに近所迷惑レベルに達している。にもかかわらず、扉の内側からは何の返答もない。

「留守なのかしら」

 手袋を脱いで拳に息を吐きかけながらハルヒは恨めしそうに、

「明かりがついているから誰かいると思ったんだけど……。どうする、キョン」

 どうすると言われても即座に回答しかねる問題だな。トラップの匂いがする場所に勢いよく飛び込むのは直情径行な熱血ヒーローの役回りだ。

「雪と風さえ防げる場所があればいいんだが……。近くに納屋とか物置小屋がないか?」

 しかしハルヒは離れを探すような回りくどいことをしなかった。手袋をはめ直した手が、雪と氷のこびりついたドアノブを握るのを俺は見た。祈るような横顔が、ふっと息を吐く。真剣な面持ちのまま、ハルヒはゆっくりノブをひねった。

 止めるべきだったのかもしれない。最低、長門のアドバイスを聞いてから判断すべきだったような気もする。だが何もかも時遅く----。

 まるで館そのものが口を広げたように。

 

 扉が開いた。

 

 人工の灯火が俺たちの顔を明るく照らす。

「鍵かかってなかったのね。誰かいるんだったら、出てきてくれてもよさそうなのに」

 ハルヒはスキーとストックを建物の壁にもたせかけると、先陣を切って中に飛び込んでいき、

「どなたかーっ! いませんかっ。お邪魔しますけどーっ!」

 しかたない。俺たちも団長の行動を模倣することにした。最後に入ってきた古泉が扉を閉め、何時間ぶりかに冷気と寒気と耳障りな風切り音とに一次的別れを告げることができた。やはりホッとしたのだろう、

「ふぇー」

 朝比奈さんがペタリと座り込んだ。

「ねえ、誰もいないのーっ!」

 ハルヒの大声を聞きながら、明るさと暖かさが骨に染み渡ってくるのが解った。ちょうど真冬の外から戻ってきた直後に熱い風呂につかったような感じだ。頭とスキーウェアに積もっていた雪がたちまち溶けて床に水滴を作っている。暖房が効いていた。

 しかし、人の気配はない。そろそろ誰かが出てきて迷惑そうな態度を隠さずハルヒを追い払ってもよさそうな展開だったが、呼びかけに応じてやってくる登場人物は皆無だった。

「幽霊屋敷じゃないだろうな」

 俺は呟いてその館の内部を見回した。扉を開けてすぐが大広間になっている。高級ホテルのロビーと言ったら話が早いか。吹き抜けになっている天井はやけに高いところにあって、これまたやけに巨大なシャンデリアが煌々たる明かりを灯していた。床に敷かれているのは深紅の絨毯だ。外装は奇怪な城のようでも中身はかなり現代的で、真ん中には幅のある階段が二階の通路へと続いている。これでクロークさえあれば本当にホテルに来たのだと錯覚するほどだ。

「ちょっと探してくるわ」

 待てども現れない館の住人に業を煮やしたのはハルヒだった。びしょぬれのスキーウェアから脱皮するように這い出すと蹴り飛ばすようにスキーブーツも脱ぎ捨てて、

「非常事態だからしょうがないと思うけど、勝手に上がり込んじゃって後から文句言われるのもイヤだしさ。誰かいないか見てくるから、みんなはここで待ってて」

 さすが団長と言うべきか、いかにも代表者チックなことを言うと、ハルヒは靴下のまますぐさま走り出そうとした。

「待て」

 止めたのは俺だ。

「俺も行く。お前一人じゃどんな失礼をやらかすか不安だからな」

 大急ぎでウェアとブーツを取り外す。途端に身体が軽くなった。吹雪の山中を歩きづめることで蓄積した疲労感を、まるごと衣服に託して脱ぎ去った気分だ。俺はかさばる衣装を手渡しながら、

「古泉、朝比奈さんと長門を頼む」

 雪山脱出の役にまったく立たなかった超能力野郎は唇をひん曲げるような笑みを浮かべて会釈で答えた。俺を見上げる朝比奈さんの心配そうな瞳と、黙々と立ちつくす長門を一瞥してから、

「行こう。こんだけ広いんだ。奥のほうまで声が届いていないだけかもしれん」

「あんたが仕切んないでよ。こう言うときはね。リーダーシップを取るのは一人にしたほうがいいの! あたしの言うとおりにしなさい」

 負けず嫌いみたいなことを言いつつハルヒはさっと俺の手首をつかんで、待機に回った団員三人に、

「すぐに戻ってくるわ。古泉くん、二人をお願いね」

「了解しました」

 古泉は普段の笑みに戻ってハルヒに答え、俺にもうなずきかけやがった。

 たぶん、こいつは俺と同じことを考えている。

 この館の隅々まで捜索しても人の姿を発見することはできない。

 なぜだか俺にはそんな予感があった。

 

 まずハルヒは階上の探索行を選んだ。広間の大階段を上がると、左右に分かれる通路が長々と延びており、通路の左右両側にちょっと数える気にならないほどの木製扉がついている。ためしに一つ開けてみる。すんなり開いた扉の中はこざっぱりした洋式の寝室だった。

 廊下の両端がさらに階段になっていて、俺とハルヒはもう一階上を目指した。行く先はハルヒ任せだ。

「あっち。次、こっち」

 ハルヒは片手で指さし確認しながら、もう一方の手で俺の手首を引いていた。新たな階に到着するたび「誰かいますか!」と至近で叫ぶ大音声に耳をふさぎたくも思うが、それすらままならないね。俺はハルヒの指が示すまま、ただ付き従うだけである。

 数が多すぎるのでランダムに扉を開け放ち、そのすべてが同じような寝室でしかないことを確認しながら俺たちは四階までやって来た。館の通路は常夜灯なのか、どの階も明かりに満ちている。

 さて次はどの扉を開けようかと目で選んでいたら、

「こうしていると夏を思い出すわね。船を確認しに外に出たときのこと」

 ……ああ、そういうこともあったな。今と同じように俺はハルヒに引きずられて土砂降りの中を歩かされたっけ。

 俺がセピア色の記憶フィルムを巻き戻していると、突然ハルヒが立ち止まり、手首を捕らわれている俺も止まる。

「あたしさ」

 ハルヒはトーンを落とした声で話し始めた。

「いつの頃からか忘れたけど、いつのまにかだけど……。できるだけ人とは違う道を歩くことにしてきたの。あ、この道って普通の道路のことじゃなくて、方向性とか指向性とかの道ね。生きる道みたいな」

「ふうん」と俺は相づちを打つ。だからどうした。

「だから、みんなが選びそうな道はあらかじめ避けて、いつも別のほうに行こうとしてたわけ。だってさ、みんなと同じほうに行ったって大概面白くないことばかりだったのよ。どうしてこんな面白くないことを選びたがるのかあたしには解らなかった。それで気づいたの。なら、最初から大勢とは違うほうを選べば、ひょっとしたら面白いことが待ってるんじゃないかって」

 根っからのヒネクレ者はメジャーだからという理由なだけで、そのメジャーなものに背を向けたりする。損得度外視で自らのマイノリティの道を選ぶのだ。俺にも多少そんな気があるからハルヒの言っていることだって解らん話ではないさ。ただ、お前は極端に走りすぎるあまりメジャーだのマイナーだのとは全然別次元にいっちまってる気がするぜ。

 ハルヒはフフっと微妙な笑い方をして、

「ま、そんなことはどうでもいいんだけどね」

 何だよ。俺の答えを聞くまでもないんなら最初から尋ねるな。この状況をどう思ってやがるんだ。悠長に笑い話のできる場合ではないだろうが。

「それより気になることがあるんだけど」

「今度は何だ」

 うんざり感を込めて返答した俺に、

「有希と何かあったの?」

 …………。

 ハルヒは俺を見ず、まっすぐ前の廊下の先を見つめているようだった。

 俺の返事は一拍以上遅れていた。

「……なんのこった。別に何もねーよ」

「うそ。クリスマスイブからずっと、あんた、有希を気にしてばかりいるじゃん。気がついたら有希のほうばっか見てるし」

 ハルヒはまだ廊下の先を見通そうとしている。

「頭打ったせいじゃないわよね。それとも何よ。有希に変な下心を持ってんじゃないでしょうね」

 長門ばかりを眺めている自覚なんか心情としてまったくない。せいぜいいって朝比奈さんと合わせてロクヨンくらいの割合……なんて言ってる場合じゃねえな。

「いや……」

 口ごもざるを得なかった。例の消失の件からこっち、俺が長門をそれなりに気にしているのはハルヒの読み通りだし、言葉の上だけでも否定語を使用するのは俺自身が気にする。しかし、まさかこいつに気づかれていたとは思わないから模範解答も用意しておらず、真実をそのまま伝えるわけにはもっといかず。

「言いなさいよ」

 ハルヒはわざとのように歯切れよく、

「有希もちょっと変だもの。見た目は前と変わんないけど、あたしには解るんだからね。あんた有希に何かしたでしょ」

 わずか二言三言の間に下心から既成事実に移り変わろうとしている。このまま放っておいたら古泉たちの所に戻るまでに俺と長門は本当に『ナニかあった』ことにされてしまう恐れがある。実際に何かがあったことは確かだから、咄嗟に完全否定するのも難しい。

「あー。ええとだな……」

「ごまかそうったってそうはいかないわよ。いやらしい」

「違うって。やましいことなんか俺にも長門にもねえんだ。えー……。実は……」

 いつしかハルヒは俺にアーチェリーの的を見る目を注いでいた。

「実は?」

 挑むような目つきのハルヒに、俺はやっとの思いで言葉をねじり出した。

「長門は悩み事を抱えているんだ。そう、そうなんだよ。ちょっと前に俺はその相談に乗ってやったんだ」

 考えるのと話すのを同時進行でやるのは辛いな。それが口からデマカセならなおさらだ。

「正直言ってそれはまだ解決していないんだ。何というか……つまり……ようするに長門が自分で解決しないといけないことだからな。俺にできるのは話を聞いてやって、長門がどうしたいのかを自分で決めさせることくらいでさ。長門はまだ解答保留中だから相談された手前、俺もまだ気になっている。それが目にでちまったんだろう」

「どんな悩みよ、それって。どうしてあんたなんかに相談するわけ? あたしでもいいじゃないの」

 疑念の晴れない口ぶりだった。

「有希があたしや古泉くんよりあんたを頼りにするとは思えないわ」

「お前じゃなけりゃ誰でもよかったんだろう」

 キリキリと眉を吊り上げるハルヒを、俺は自由なほうの手で制してやった。ようやく頭が回り出してきたぜ。

「つまりこうなんだ。長門が一人暮らしをしているわけは知っているか?」

「家庭の事情でしょ? あれこれ聞き出すのはやらしいと思って、そんなに詳しくは知らないけど」

「その家庭の事情がちょっと発展を見せているんだ。結果の如何によって長門の一人暮らしは終わるかもしれん」

「どういうこと?」

「簡単に言えば引っ越しさ。あのマンションを離れて、遠くの……親族のもとに行く可能性があるんだ。当然、学校も変わることになる。言っちまえば転校だ。来年の春、キリのいいところで二年に上がると同時に別の高校に……」

「本当?」

 ハルヒの眉が緩やかに下がる。こうなればしめたものだ。

「ああ、だが長門は家庭の事情がどうあれ、転校はしたくないそうだ。卒業まで北高にいたいと言っている」

「それで悩んでたの……」

 ハルヒはしばしうつむいて、だが顔を上げたときは再び怒った顔になっていた。

「それこそ、だったらあたしに言えばいいじゃない。有希は大切な団員なのよ。勝手にどっか行くなんて許せないわ」

 そのセリフが聞けただけでも俺は満足だよ。

「お前に相談なんかしたら余計に話がこじれると思ったんだろうよ。お前のことだ。長門の親族のもとに乗り込んで、転校絶対反対のデモ行進くらいするだろう」

「まあね」

「長門は自分でケリをつけたいと決心してはいるんだ。ちょっと迷っているだけで心はあの部室にあるのさ。だがずっと一人で考え込んでいても精神に負担がかかるから、誰かに伝えておきたかったんだろう。ちょうど俺が入院してて、長門が一人でお見舞いに来てくれたときに聞いたんだ。たまたまそこに誰もいなくて俺だけがいたってことさ。それだけ」

「そう……」

 ハルヒは軽く息をつき、

「あの有希がね……。そんなことで悩んでたの? けっこう楽しそうに見えたのに。休み前だけど、廊下でたまたま出くわしたコンピ研の下っ端部員たちに最敬礼されてたわよ。満更でもなさそうな感じだったけど……」

 俺は満更でもないような顔をする長門をイメージし、どうにも想像できずに頭を揺らした。ハルヒはパッと顔を上げて、

「でも、うん、まあ、そうね。有希らしいと言えば有希らしいわ」

 信じてくれたようで俺も安堵の息を吐く。この嘘エピソードのどこに長門らしさがあったのか我ながら不思議だが、ハルヒには長門がそういう感じの娘に見えているようだ。俺は話をまとめにかかる。

「ここで言ったことはオフレコにしとけよ。間違っても長門には言うな。安心しろ、あいつなら新学年になっても部室でおとなしく本読んでるさ」

「もちろん、そうじゃないとダメよ」

「だがな」

 俺はハルヒにつかまれた手首の熱さを感じながら言い足した

「もし、万が一にだ。長門がやっぱり転校するとか言い出したり誰かに無理矢理連れて行かれようとしてたら、好きなように暴れてやれ。そのときは俺もお前に荷担してやる」

 ハルヒは目を二度ほど瞬かせた後、俺をポカンとした顔で見上げた。そして極上の笑みを広げて、

「もちろん!」

 

 俺とハルヒが一階エントランスロビーまで戻ると、スキーウェアを脱いで待っていた三人が三様の対応で迎えてくれた。

 なぜか朝比奈さんは早くも半泣きの顔をして、

「キョンくん、涼宮さぁん……。よかったぁ、戻ってきてくれて……」

「みくるちゃん、何泣いてんの。すぐに戻ってくるって言ったじゃない」

 ハルヒは上機嫌に述べて朝比奈さんの髪を撫でているが、俺は古泉の表情が目障りだった。何だよ、そのアイコンタクトは。そんな意味不明なパスを送られても俺の胸には届かんぞ。

 もう一人、長門はぼんやりと突っ立って黒目をハルヒに向けている。いつも以上にぼんやりしているように見えたが、宇宙人的有機生命体にもラッセル車じみた雪中進軍は負担だったものと解釈して俺は納得した。長門が無謬性の塊ではないというのは織り込み済みだ。今の俺はそれを知る側にいる。

「ちょっとよろしいですか?」

 古泉がさり気なく近づいて俺に耳打ちした。

「涼宮さんには内緒にしておきたいことがあります」

 そう言われれば黙って耳を傾けるしかないな。

「あなたの体感でかまいません。あなたと涼宮さんがこの場を離れてから戻ってくるまで、どれだけの時間が経ったと思いますか?」

「三十分も経ってないだろう」

 途中でハルヒの話を聞いたり嘘話を語ったりしていたものの、感覚的にはその程度だ。

「そうおっしゃるだろうと思っていましたよ」

 古泉は満足げなのか困り顔なのか解らないような表情となりながら、

「残された僕たちにとってはですね、あなたと涼宮さんが探索に出かけてからここに帰還するまで、実に三時間以上が経過しているんです」

 

 計測してくれたのは長門だった、と古泉は語った。

「あなたがたの帰りがあまりにも遅いので」

 すっかり乾いた前髪を弾きつつ、こいつはニヒルに微笑みながら、

「思いつきを試してみることにしました。長門さんに僕から見えない、離れた場所に行ってもらうよう依頼したんです。秒数を正確に数えるよう打ち合わせて、十分後に戻ってくると約束して」

 長門は素直に従ったそうだ。このエントランスから横へ続く通路へと歩き、やがて角を曲がって姿を消し----。

「ところが、長門さんは僕が二百を数え終わらないうちに帰ってきました。僕の感覚では三分も経っていないのは疑いを得ない。しかし長門さんは間違いなく十分を計測したと言い張りましたよ」

 長門が正しいに決まってる。お前が途中で居眠りをしたか桁を間違えたかしたんだろ。

「朝比奈さんも僕とほぼ同じ数を小声で数えていましたけどね」

 そりゃあ……。やっぱり長門のほうが合ってると思うのだが。

「僕だって長門さんのカウント精度を疑問視したりはしません。彼女がこういった数学的単純作業で間違いを犯すはずはないですから」

 じゃあ何だ、っていう世界だな。

「この館は場所によって時間の流れる速度が異なる……または、存在するここの人間によって主観時間と客観時間にズレが発生する。そのどちらかか、あるいは両方です」

 古泉はいっそ清々しい面持ちで朝比奈さんを乱暴になだめるハルヒを見て、また俺を見た。

「できる限り全員が一塊りになっていたほうがいいですね。でないと、どんどん時間の齟齬が生じることになる。それだけならまだいいのです。この建物の内部だけが時間的に狂っているのなら対処方法はないでもありません。しかし、僕たちが誘い込まれるようにしてここにやって来た、それ以前から齟齬が開始されていたとしたらどうでしょう。突然の吹雪と、歩けども目的地にたどり着かない山下りに、あなたはどんな想像をしましたか? 僕たちはその時すでに別の時空間に紛れ込んでいたのだとしたら……」

 ハルヒに髪をかき回されている朝比奈さんを眺めてから長門を見る。吹雪で変な形になっていた髪型はすっかり乾いて元に戻っていた。雪よりは暖かみのある白い肌だ。

 俺も古泉に囁き返した。

「お前のことだ、長門と朝比奈さんとすでに話し合いの場を設けただろう。何か言ってたか?」

「朝比奈さんにはまるで見当がついていないようです」

 それは様子を見れば解る。肝心なのはもう一人だ。

 古泉はさらに声をひそませ、

「それが何も答えてくれませんでした。僕が先ほどの依頼をしたときも一言もなく歩き出して、戻ってきてからも無言です。本当に十分間だったのかと訊いたらうなずいてはくれましたが、それ以外はどんな意思表示もなしです」

 長門は赤絨毯の表面をじっと注視している。表情がないのは昨日も今日も同じだが、ぼんやり度が増しているような気がするのは果たして気のせいですませていいのかな。

 俺が長門に気遣いの声をかけようと動きかけた時、

「キョン、何してんの。みんなに報告しないといけないじゃない」

 ハルヒが釣果を自慢するような声で一同を睥睨し、

「さっき見回ってきたんだけど、二階から上の部屋は全部ベッドルームだったわ。どっかに電話がないかと思ったんだけど……」

「ああ、なかった」と俺も追加情報を披露する。「ついでにテレビもラジオもなかった。モジュラージャックや無線機らしい機械の姿もな」

「なるほど」

 古泉は指先で顎を撫でながら、

「つまりどこかと連絡を取ったり、外界から情報を得る手段が何もないということですね」

「少なくとも二階以上にはね」

 ハルヒは不安の欠片もなさそうに微笑み、

「一階のどこかにあればいいんだけどね。あるんじゃない? これだけデカい館だもん、通信専用の部屋がわざわざ用意されてるのかも」

 では探しに行きましょう、とハルヒは旗の代わりに手を振って、暗澹たる顔つきの朝比奈さんを引き寄せた。

 俺と古泉、少し遅れて長門も歩き出す。

 

 ほどなく俺たちは食堂に落ち着いていた。アンティークな内装が施されているこのスペースは、入ったことがないからよくは知らないが三星級のレストランのような豪勢な広さと煌びやかさを兼ね備えている。白いテーブルクロスのかかった卓上には黄金色に輝くキャンドルまで立っていて、天井を見上げるとそこにも豪華なシャンデリアが吊り下がり、SOS団メンバーを冷たく見下ろしていた。

「ホントに誰もいなかったわねえ」

 ハルヒは湯気の立ちのぼるティーカップを口元に持っていきながら、

「どうしちゃったのかしら、ここの人たち。明かりもエアコンも付けっぱなしで、電気代がもったいないわ。通信室もないしさ。どうなってんの?」

 ハルヒがズルズル啜っているホットミルクティーは、このレストランみたいな食堂奥の厨房からカップやポットともども無断で拝借したものである。朝比奈さんが湯を沸かしている間にハルヒとそこら中を開けてみて回ったところ、棚には洗って乾燥させたばかりのようにピカピカの食器が並んでいるし、特大の冷蔵庫にはふんだんに食材が用意されているし、とてもじゃないがここが長らく無人の館として放置されていたとは思いがたい。まるで俺たちの到着と同時に全員が荷物をまとめて出て行ったような雰囲気だ。いや、それすら疑わしいな。だったら少しは人間の気配か残り香の一つでも残っているはずだ。

「まるでマリー・セレスト号みたいね」

 ハルヒはちゃかしているつもりらしいが、あんまり笑えないな。

 一階の探検は五人でおこなった。ぞろぞろ列になって歩く俺たちは扉を見つける度に次々に開いていき、その度ごとに使えそうなものを発見していた。巨大な乾燥機のしつらえられたランドリー室を見つけたり、最新機材が装備されたカラオケルームを見つけたり、銭湯みたいに広い浴室を見つけたり、ビリヤードと卓球台と全自動雀卓が設置されたレクリエーションルームを見つけたり……。

 願えばその通りの部屋が新たに発生するんじゃないかと思えるくらいだ。

「可能性としては」

 古泉がカップをソーサーに置き、キンキラの燭台をもてあそぶように手に取った。そのままガメる気かと思ったが、細工を入念に鑑定するような目で見てすぐに置いた。

「この館にいた人々は、吹雪になる前に全員で遠くに出かけ、この悪天候のせいで足止めされているということが考えられます」

 薄い微笑みをハルヒに見せつけるように浮かべ、

「だとすれば、吹雪が収まりしだい戻ってくるでしょう。勝手に上がり込んだ非礼を許してくれればいいのですが」

「許してくれるわよ。他にしょうがなかったんだしさ。あ、ひょっとしたらこの館、あたしたちみたいに道に迷ったスキー客の避難所になってるんじゃない? それだったら無人なのも解らないでもないわ」

「電話も無線機もない避難所なんかないだろ」

 俺の声は心持ち疲れている。五人で一階部分をのし歩いたあげくに解ったことはそれくらいだ。通信手段やニュースソースだけに留まらず、この建物の中には時計すらなかった。

 それ以前に、この館は建築基準法と消防法を確実に無視している気がするんだがと思いつつ、

「どこの誰がこんなデカいだけで不便な避難先を作るんだ?」

「国か自治体じゃないの? 税金で運営されてるんじゃないかしら。そう考えるとこの紅茶とかも遠慮なく飲めるしね。税金ならあたしだって払ってるから使用する権利はあるわ。……そうだ、お腹空いたから何か作ってきましょうよ。手伝って、みくるちゃん」

 思い立つと他人の意見に左右されないハルヒである。素早く朝比奈さんの手を取ると、

「えっ? あっはっはい」

 心配そうな瞳を俺たちに向けながら厨房へと連行された。朝比奈さんには申しわけなかったし古泉の言う時間の流れも気になるが、ハルヒが消えてくれたのは都合がいい。

「長門」

 俺は空になった陶磁器を見つめているショートカットの横顔に言った。

「この館は何だ。ここはどこだ」

 長門は固まったまま動かない。そして三十秒くらいしてから、

「この空間はわたしに負荷をかける」

 そんなポツリと言われても。

 解らん。どういうことだ? 長門のクリエイターだかパトロンだかに連絡を取って何とかしてもらうことはできないのか。異常事態なんだ。たまには手を貸してくれてもいいだろ?

 やっと俺のほうに向いた顔には何の表情もない。

「情報統合思念体との連結が遮断されている。原因解析不能」

 あまりに淡々と言われたので飲み込むまでに少々時間がかかった。気を取り直して俺は尋ねる。

「……いつからだ」

「わたしの主観時間で六時間十三分前から」

 間隔が失せているから数字で言われても解りにくいなと思っていると、

「吹雪に巻き込まれた瞬間から」

 黒目がちの瞳はいつものように静かな色をしている。しかし俺の心はあいにく静けさを保ってくれたりはしなかった。

「どうしてその時に言わなかったんだよ」

 責めているわけじゃないんだ。長門のだんまり癖は通常のこいつであるという証拠のようなものだから、しかたがないというよりはそうでなくてはならないからさ。

「ということはここは現実にある場所じゃないのか。この館だけじゃなくて……俺たちがずっと歩いてきた雪山から全部、誰かの作った異空間か何かなのか?」

 長門はまた黙り込み、しばらくして、

「解らない」

 どこか寂しそうにうつむいた。その姿がいつぞやの長門を想起させ、ちょっと焦る気分がする。しかしだ、こいつにも解らないなんて言語を絶する現象がハルヒがらみ以外にあったとは。

 俺は天を仰ぎ、もう一人のSOS団団員に言った。

「お前はどうだ。何か言うことはないか?」

「長門さんを差し置いて僕が理解可能な現象もそうありませんが」

 興味深そうな目を長門に向けていた副団長殿は、やや姿勢を正した。

「僕に解るのは、ここが例の閉鎖空間ではないということくらいです。涼宮さんの意識が構築した空間ではありません」

 言い切れるのか?

「ええ。これでも涼宮さんの精神活動に関してはスペシャリストですからね。彼女が現実を変容させるようなことがあれば僕には解ります。今回の涼宮さんは何もしていません。こんな状況を願ったわけでもない。まず無関係と言い切れます。何でも賭けてください。即座に倍賭けを宣言しましょう」

「じゃあ誰だ」

 俺はうすら寒さを感じる。吹雪のせいでそう見えるだけなのか、食堂の窓から見える風景はひたすらグレー色だ。あの青白い <神人> がひょっこり顔を覗かせても別段おかしいとは思わないような背景だった。

 古泉は長門を見習ったように沈黙して肩をすくめた。緊張感のない仕草だったが、それは演技だったのかもしれない。深刻な顔を見せたくなかったのだろうか。

「お待たせー!」

 ちょうどハルヒと朝比奈さんがサンドイッチを山積みした大皿を抱えて来たからな。

 俺の体内時計が勘で教えてくれるところによれば、そうたいして待ってはいないはずだ。ハルヒと朝比奈さんが厨房へと消えてから実質五分にも満たないだろう。だが、さり気なくハルヒに聞いて明らかになった所要時間は最低でも三十分はかかっているらしく、料理を見る限りではどうやらそっちも正しそうだった。サンドイッチ用の薄切りパンは一枚一枚焼いてあるし、ハムやレタスにも下味がついているし、卵を茹でて刻んでマヨネーズであえて具材にするにも五分ではすまないね。てんこ盛りのミックスホットサンドの量は、二人がどんなに手抜きをしても相応の時間がかかりそうな手の込みようで、余談になるのを知りつつ言うと、これがかなり美味いのだ。ハルヒの料理の腕はクリスマス鍋で身に染みていたが、いったいこいつの不得意科目は何だろう。小学校時代に出会っていれば道徳の成績だけは勝っていただろうが……。

 俺は自分の頭を小突く。

 こんなことを考えている場合じゃないんだ。心配すべきなのは今の俺たちの現状だけというわけにはいかないんだよ。

 朝比奈さんは自分の作った料理の行方が気になるのか、俺が新たにサンドイッチに手を伸ばすたびに息を詰めて見守って、安堵した顔を作ったり緊張したりしている。前者の場合がハルヒの製作によるもので、後者が朝比奈さんのものなのだろう。まる解りだ。

 彼女はまだ知らない。古泉にも言っていない。ハルヒには知らせるわけにはいかない。

 長門と俺だけが知っていて、まだ実行していないことがある。

 そうだ----。

 

 俺はまだ世界を救いに過去に戻っていないんだ。

 

 慌てて行くこともないと思い、年明けでもいいかと考えていた。朝比奈さんに何と言おうか文案を練っていたということもあって、のんびりと年末気分を味わっていたのはマズかったのか? このままこの館から出られないなんてことになれば……。

「いや、待てよ」

 それではおかしなことになる。俺と長門と朝比奈さんはなからず十二月の半ばに時間遡行するはずなのだ。でないとあの時の俺が見たあの三人は何だったのだという話になる。てことは、俺たちは首尾よく通常空間に脱出できるのか。そうであれば安心材料の一つにもなるが。

「ささ、どんどん食べなさいよ」

 ハルヒは自らパクつきながら紅茶をがぶ飲みしている。

「まだまだあるからね。何ならもっと作ってきてあげてもいいわよ。食糧庫、食べきれないほど大量の食材がたんまりあったからね」

 古泉は微苦笑してハムカツサンドを噛みしめつつ、

「美味ですよ。非常にね。まるでレストランの味です」

 太鼓持ちみたいな感想をハルヒに向けて言っているが、俺が気になるのはこいつではない。いかにも材料の無断使用を気にして食の進んでいない朝比奈さんでもない。

「…………」

 長門だ。

 ちまちまとした食べ方は本来のこいつのものではなかった。

 宇宙人製有機アンドロイドは、まるでいつもの旺盛な食欲をどこかに置き忘れたかのように、手と口の動きが半減していた。

 

 大半をハルヒと意地になった俺で平らげた軽食が終了した後、

「お風呂入りましょうよ」

 能天気にハルヒが提案し、誰も反対しなかった。反対意見がないのは誰もが肯定しているからであると思い込むのもこいつの特性で、

「大浴場があったもんね。男女別にはなってなかったから順番よ、もちろん。団長として公序良俗と風紀の乱れは許容できないからさ。レディファーストってことでいいわよね?」

 他にすることの思い当たるふしがないってのもあるが、とにかくこういう時はハルヒのようにサクサクと次に進む道を導き出す奴がいるのはかえって助かる思いだ。それだけ気分が紛れるからな。じっと考えていても何も思いつかないのであれば、機械的にでも身体を動かしているほうが脳も刺激を受けて、何やら思いつき電波を発信してくれるかもしれない。自分の脳みそに期待しよう。

「その前に部屋決めね。どこがいい? どの部屋も同じだったけど」

 古泉論によれば一部屋でまとまっているのがベストであるが、そんな提案をすればカエル跳びアッパーが飛んできそうな気がしたので自重、

「全員近くの部屋がいいな。隣同士と向かいで五部屋確保したらいいだろう」

 俺が重々しいセリフを吐くのと同時にハルヒは席を立った。

「じゃ、二階のどっかにしましょ」

 颯爽と歩き始めるハルヒを俺たちも追う。途中、エントランスに放り出したままのスキーウェアをランドリー室の乾燥機にたたき込んでおいてから、階段を上る。

 館の誰かが戻ってきたら飛び出せるように、とハルヒの配慮によって階段近くの五部屋に仮住まいさせてもらうことにした。俺と古泉が隣同士で、その通路を挟んだ対面に長門、ハルヒ、朝比奈さんが寝室を確保する。俺の正面がハルヒの部屋だ。

 さっきハルヒと見回ったときにも感じたが、余計なものの何もない文字通りのベッドルームだ。超格安ビジネスホテルだってもうちょっと何かあるぜ。古風な化粧台を除けばベッドとカーテンくらいしかない。窓は完全なはめ殺しで、よく見ると二重ガラスになっている。その防音効果か、外が相変わらずの風と雪の降り荒れる悪天候だってのに室内は無音だ。逆に気味が悪い。

 整理する手荷物もないので俺たちは部屋決めの後、すぐさま赤絨毯通路に集合した。

 ハルヒはまた挑発的な笑顔で、

「解ってるわね、キョン」

 何を解れと?

「決まってるでしょ、こういうシチュエーションに置かれた煩悩まみれの男が決まってするようなことをしちゃダメだからね。あたしはそんなステレオタイプが大っ嫌いだから!」

 何をすりゃいいんだっけ?

「だからぁ……」

 ハルヒは女団員二人の腕を引き寄せ、静謐な顔でされるがままになっている長門の横髪に側頭部をつけながら、きっぱりと叫んだ。

「覗くなっ!」

 

 ハルヒだけが姦しい三人娘たちが遠ざかるのを見計らい、俺は滑るように自室を出た。外の猛吹雪など無関係とばかりに館の通路はしんとしている。空気は暖かい。だが心地よさとは無縁のものだ。心を寒くさせるような暖かさにありがたみは感じない。

 足を忍ばせて目指した先は隣の部屋だ。小さくノック。

「何でしょう」

 古泉が顔を出し、歓待するような笑顔で口を開きかけた。俺が唇の前で人差し指を立てると、心得たように口を閉ざす、俺も無言で古泉の部屋に滑り込んだ。忍び込むのは朝比奈さんのところにしておきたかったが、ここで遊んでいるヒマはない。

「お前に言っておくことがある」

「ほう」

 古泉はベッドに腰をかけ、俺にも座るように手で促した。

「それこそ何でしょう。気になりますね。他のお三方に聞かれては困るような話でしょうか」

「長門には聞かれてもかまわんけどな」

 何の話か、それは言うまでもなかろう。

 ハルヒの消失から始まって、俺が病室で目覚めるまでの様々な事柄だ。朝倉涼子の復活、二度目の時間遡行と三年前の七夕、設定の違っちまったSOS団のメンツたち、朝比奈さん大人バージョン、それから、これから俺がしなきゃならないはずの世界復活計画----。

「ちょいと長い話になるぜ」

 俺は古泉の横に腰を下ろして語り始めた。

 古泉は絶好の聞き役で、合間合間に適当な相づちを打ちながら最後まで優等生的聴講生の態度を保っていた。

 要点だけをかいつまんでまとめたので予想したよりは長くかからない。俺としては細部まで長々と描写したいところでもあったが、何せよ優先すべきは解りやすさと一般性だと思っているので、俺もそのようにしてやった。

 おとなしくオチまで聞き終えた古泉は、

「なるほどね」

 とりたてて感動したわけでもなさそうに、微笑した口元を指でなぞりながら、

「それが本当だとしたら、興味深いとしか言いようがありませんね」

 お前の言う『興味深い』ってフレーズは時候の挨拶か。

「いえ、本当にそう思っているんですよ。実は僕にも思い当たるふしがあったものですから。あなたが話通りの体験をしたのだとしたら、僕の疑惑も補強されるというものです」

 俺は面白くない顔をしていただろう。こいつが思い当たるものとは何だ。

「弱まっている可能性があるんですよ」

 だから何がだ。

「涼宮さんの力。それから長門さんの情報操作能力もです」

 何を言おうとしているんだ? 俺は古泉を見た。古泉は無害そうな微笑みを違えず、

「涼宮さんが閉鎖空間を生み出す頻度を減じさせているというのは、クリスマス前にお話ししましたね。それと呼応するように、僕が長門さんから感じる……何と表現すべきでしょうか、つまりは宇宙人的な雰囲気と言いましょうかね? その手の感覚、気配みたいなものです。それが減少しているように思えるのです」

「……へぇ」

「涼宮さんは徐々に普通の少女に向かおうとしている。加えて長門さんもまた、情報統合思念体の一端末の立場から外れようとしている----、そんな気がしてならないのですよ」

 古泉は俺を見ている。

「僕にしてみれば、それ以上を望みようのない展開です。涼宮さんがそのまま現実の自分を肯定し、世界を変化させようと考えたりしなければ僕の仕事は終わったも同然ですよ。長門さんが何の力を持たない普通の女子高生になってくれたら大いに助かります。朝比奈さんは……そうですね、どうとでもできますから未来人でもけっこうですが」

 俺を無視するように古泉は独白を続ける。

「あなたはもう一度過去に行って自分と世界を元通りにしなければならない。なぜなら、あなたはその過去において未来から来た自分と長門さんと朝比奈さんを目撃したから----でしたか」

 そうとも。

「しかし現在の僕たちは全員揃って吹雪の山中に迷い込み、誰かが用意でもしてくれたかのような怪しい館にいる。長門さんにも理解できない。いわば異空間に閉じ込められているわけです。この状態が延々と続けば、あなたがたが過去に戻るすべはないと考えられますから、まさしくその理由によって、少なくともあなたと長門さんと朝比奈さんの三者だけは元の空間に戻らなければならない。いや、戻ることはすでに決定している……」

 そうじゃないとおかしいだろう。俺がもう一つ緊迫感を感じられないでいるのはそのせいなんだ。あの時俺は確かに俺の声を聞いた。しかして今の俺はまだあのときに戻っていないのだから、戻るのはこれからということになる。なら、このままこうして吹雪の館にずっと滞在し続けるような事態にはならないはずで、脱出できるのは規定事項だ。朝比奈さん(大)も言ってたじゃないか。『でないと、今のあなたはここにはいないでしょう?』と。

「なるほど」

 古泉はもう一度同じせりふを言って、俺に微笑みかけた。

「しかし僕には別の仮説があるんですよ。どちらかと言えば悲観的な仮説です。簡単に言うと、僕たち全員が元の空間に復帰できなくとも全然かまわないような理屈がね」

 もったいぶらずに早く言え。

 では、と前置きして古泉は用心深く声のトーンを下げた。

「現在の僕たちはオリジナルの僕たちではなく、異世界にコピーされた存在なのかもしれません」

 俺が理解するのを待つようにこちらを見ているが、意味不明にもほどがある。

「解りやすく言い換えましょう。たとえば僕たちの意識が、そのままスキャンされてコンピュータ空間に移し替えられたとしたらどうでしょうか。意識だけはそのままに仮想現実空間へ移送されたとしたら」

「コピーだあ?」

「そうです。何も意識だけに限らない。統合思念体クラスの力を持つものならどうにでもできるでしょう。つまりこの異空間に紛れ込んだ僕たちはオリジナルの僕たちではなく、ある一定時刻から忠実にコピーされた同一人物なんです。オリジナルの僕たちは……そうですね。今頃鶴屋さんの別荘で宴会を楽しんでいるのかもしれない」

 ちょっと待ってくれ。意味するところの把握が追いつかないのは俺が無学だからか?

「そういうわけではないでしょうが、もっと身近な例を挙げましょう。あなたがコンピュータゲームをしていると仮定しましょう。ファンタジー的なRPGです。何が出てくるか解らない洞窟に入る前、一応セーブするのは当然の対策と言えます。仮にそこでパーティが全滅したとしても、また元のセーブポイントからリプレイすることができますからね。あらかじめコピーデータを作製しておけばオリジナルは大切に保存しておいて、コピーにあえて無茶な行動を取らせることだって可能です。不具合があればリセットすればいいのですから。今僕たちが置かれている状況がそれだとしたらどうなります?」

 古泉は諦観したような表情になってまで、しかしまだ微笑を消してはいなかった。

「つまりはここは誰かが構築したシミュレーション空間で、僕たちはコピーされた実験動物です。このような状況下に置かれたとき、涼宮さんを含めた僕たちがどのように反応するかを観察するための、まさにそのための場所なんですよ」

「古泉……」

 呟きながら俺は猛烈な既視感に襲われていた。夏のエンドレスオーガストにも体験したような、理不尽な記憶の断片だ。何だろう。覚えているはずのない記憶が俺の頭の片隅で叫んでいる。思い出せ、と。

 ようようにして俺は言った。

「以前にも似たようなことがなかったか?」

「雪山で遭難した記憶ですか? いえ、僕にはありませんが」

「そうじゃない」

 雪山は関係ない。これとは別に、俺たちが何か他の時空に放り込まれたような記憶が……なんとなく俺にはあるんだ。そこは非常に非現実的なところで……。

「カマドウマを退治したときのことですか? あれは確かに異空間でしたね」

「それでもない」

 俺は懸命に頭を凝らした。ぼんやり浮かんでくるのは、奇妙な格好をした古泉にハルヒ、長門に朝比奈さん、そして俺。

 そうだな、古泉。何か知らんがお前は竪琴を持っていたような気がする。全員が古風な衣装を身につけていて、そこで俺たちは何かをしていた……。

「まさか前世の記憶を持っているんだとか言うのではないでしょうね。あなたに限ってそのようなことはないと考えていたのですが」

 前世だの後世だのが本当にあるんだったら、人類はもっと解り合えているだろうよ。そんなもんは現世についてイイワケをしたがっている連中の戯言だ。

「もっともです」

 くそったれ。思い出せない。異空間などに思い出はないと俺の理性が主張している。しかし俺の深い部分にある感性は別のことを訴えていた。

 何だったのだろう。断片的なキーワードしか浮かんでこないが、そこには王様とか海賊とか宇宙船とか銃撃戦みたいなものが泡のようにたゆたっている。これはどうしたことだ? そんなもんはなかったという記憶はある。しかし俺の心の奥底でわだかまっている合わないピースは何だろう。正体がつかみきれない。

 俺の苦悩するような表情を見たか、古泉は平然と言葉を継いだ。

「長門さんにも解析不能で、かつここが彼女に負荷をかけるような空間なのだとしたら、館を含めて吹雪の山での遭難を演出したものの正体はある程度推測できます」

 俺は黙っている。

「長門さんと同等か、それ以上の力を持つ誰かです」

 それは誰だ。

「解りません。ですが、そのような存在が僕たちをこの状況に追いやったとして、このまま僕たちを留め置きたいと考えるなら、最大の障害となるのは長門さんでしょう」

 古泉は下唇を指でなぞりながら

「僕がその何者かの立場なら、真っ先に長門さんをどうにかすることを考えます。単独ではほぼ無力と言っていい僕や朝比奈さんとは違って、長門さんは統合思念体と直結していますから」

 ハルヒよりよほど神様的な連中らしいからな。単数なのか複数なのかも解らないが。しかし親玉との連結が遮断されていると長門は告白している。

「ひょっとしたら、その何者かは長門さんの創造主よりも強大な力を持っているのかもしれません。そうなればアウトですが……」

 言っている途中で何やら思いついたような顔をして、ハンサム野郎は腕を組んだ。

「朝倉涼子を覚えていますよね?」

 忘れそうになっていたのだが今月になって忘れることはできないようなことが起きちまった。

「情報統合思念体内部の少数派で過激派、その一派がクーデターを成功させたというのはどうですか? 我々からすれば神も同然の知性体です。長門さんを孤立させ、僕たちを位相のズレた世界に閉じ込めることなど簡単にやってのけるはずです」

 思い出す。社交的で明るく優良なクラス委員長。尖ったナイフの切っ先。俺は二度まで朝倉に襲われ、二度とも長門に救われたのだ。

「いずれにせよあまり結果は変わりません。僕たちはこの館から脱出できず、永劫の時をここで過ごすことになる」

 竜宮城かよ。

「的を射て当を得た表現です。我々のこの状態は歓待と言ってもいいでしょう。欲しいと念じたものが用意されている。暖かく広い館、冷蔵庫に一杯の食材、お湯を満たした大浴場、快適な寝室……。館からの脱出に必要なものを除いてね」

 それでは意味がない。こんなアンノウンスペースに留め置かれて怠惰な生活を満喫できるほど俺はこれまでの人生に絶望していない。高校生活だって一年足らずで終了するにはいくらなんでも短すぎるだろ。俺にだってここにいる連中以外にももう一度は会っておきたい人間がいるさ。谷口と国木田をその数に数えてやってもいいし、家族やシャミセンとこれっきりなのはさすがに悲しいぜ。だいたい俺は冬が大の苦手で、アイスランドの人には悪いが雪と氷に閉じ込められて余生を過ごすなんざ一生かかっても慣れそうにないんだ。夏の暑さとセミの喧噪をこよなく愛する男と呼んでくれ。

「それを聞いて僕も一安心ですよ」

 古泉は大げさに息を吐いた。

「仮に涼宮さんが異常事態に気づき、自らの能力を開放することになれば、どんな結果を引き起こすか解ったものではありません。これを仕組んだ者の目的はそれであるかもしれないのです。これと言った進展がないのなら、わざと刺激的な操作をおこなって暴発を誘う。よくある手ですよ。ここがシミュレーション空間で僕たちがオリジナルと切り離されたコピーなら、下手人も遠慮することはないでしょうしね。あなただってゲームのキャラクターに無茶をさせても良心が痛むことは稀なのではないでしょうか?」

 そう言われれば思い当たる過去がないでもないな。だが連中はあくまで数値でしかなく、俺たちは現実にこうして生きているつもりだ。

「まずここを脱出することです。異空間にいるよりは現実的な遭難のほうがいくらかマシです。なんとかなる。いえ、なんとかしなければいけません。涼宮さんや僕たちを閉じ込めておきたいと思うような存在は我々にとって明確な敵です。我々というのは『機関』や情報統合思念体じゃなくて、SOS団ですけどね」

 何だっていいさ。俺と同意見なら、そいつは即座に仲間入りだ。

 それきり俺は深い思索の旅に出発し、古泉もシンクロするように考え込む顔で顎に手を当てていた。

 やがて----。

 小さなノックが俺と古泉の間の沈黙を打ち砕いた。膠でも貼り付いたような重い腰を上げ、俺は扉を開く。

「あの……。お風呂空きましたよ。次、どうぞ」

 風呂あがりの朝比奈さんはほどよく上気して、ぽわわんとした色気を無邪気に振りまいていた。湿った髪が一筋頬に貼り付いているのが妙に扇情的で、裾の長いTシャツから覗く素足が艶かしい。俺の精神状態が正常ならば、即刻抱き上げて自分の部屋の隅っこに置いておきたいくらいだ。

「ハルヒと長門はどこです?」

 俺が廊下を見ながら言うと、朝比奈さんはクスリと笑みをこぼし、

「食堂でジュースを飲んでます」

 俺の食い入るような視線を感じたのか、少し慌て気味に身体の前と裾を押さえた。

「あ、着替えは脱衣所にありましたよ。このシャツもそうなの。バスタオルと洗面道具もちゃんと……」

 照れ照れした感じの仕草がえもいわれぬ良い具合だった。

 俺は振り返って古泉の動きを目で殺しておいて、素早く通路に出た。後ろ手にドアを閉める。

「朝比奈さん、一つだけ訊きたいんですが」

「はい?」

 ドングリ眼が俺を見上げ、不思議そうに首を傾げる。

「この館についてどう思いますか? 俺にはめちゃめちゃ不自然なシロモノに思えますが、あなたはどうです」

 朝比奈さんは長く艶やかな睫毛をパチパチとさせてから、

「えーと、涼宮さんはこれも古泉くんの用意したミステリゲームの……えーと、ふくせん? なんじゃないかって言ってましたけど……お風呂場で」

 ハルヒはそうやって折り合いをつけてりゃいいが、朝比奈さんまで納得してもらっては困るな。

「時間の流れがおかしいのはどういう理屈ですか。あなたも古泉の実験に立ち会ったんでしょう?」

「ええ。でも、それも含めてトリック……? ってやつじゃないんですか?」

 俺は額を押さえて溜息を押し隠した。どうやったら古泉にそんなことが可能なのかも解らんし、仮にそれがどうにかして俺たちを欺瞞したトリックの一部なんだとしたら、ハルヒにも教えてやらないと不公平だろう。第一、時間は朝比奈さんの専門分野じゃないですか。

 俺は腹を決めて言った。

「朝比奈さん、未来と連絡はつきますか。今、ここでです」

「へ?」

 幼顔の上級生はキョトンと俺を見つめ、

「そんなの、言えるわけがないじゃあないですかぁ。うふ。禁則ですよー」

 おかしそうに笑い出してくれたが、俺は冗談を言ったつもりもなければ、これが笑い事でもないと認識しているのだ。

 しかし朝比奈さんはそのままクスクス笑いながら、

「ほら、早くお風呂入らないと涼宮さんに怒られますよ。ふふ」

 アブラナの周りを飛び交う春先のモンシロチョウのような足取りで、小柄な上級生はふわふわと階段に向かい、一度振り返って俺に不器用なウインク送り届けてから姿を階下に消した。

 だめだ。朝比奈さんは頼りにならない。頼ることができそうなのは……。

「くそ」

 俺は絨毯に向かって息を吐いた。

 あいつに余計な負担はかけさせたくない。なのに、今ここで何とかしてくれそうなのはその一人しかいない。古泉は頭でっかちな推測を口にするだけだし、ハルヒは下手なつつき方をすればどんな暴発を起こすか解らない。いくら俺が奥の手を持っているとは言え、古泉の話を聞いた後では迂闊に使用することは難しい。この状況に俺たちを追い込んだ何者かは、まさにそれを狙ってるかもしれないんだ。

「どうすりゃいいんだ……?」

 

 風呂につかって血行を良くすれば名案が閃くかと期待したが、脳みそのできばえは自分がよく知っている通りで、何ら事態を改善するようなアイデアを生み出したりはしなかった。あまりに当然の結果で落胆すら覚えないのが情けない。

 脱衣場には朝比奈さんの言ったとおり、バスタオルと着替えが用意されていた。丁寧にたたまれたフリーサイズのTシャツとイージーパンツが棚にずらりと並んでいる。適当に選んで身につけ、古泉とともに食堂へと向かった。

 先に上がっていた三人はテーブルにジュースの瓶をずらりと並べて待っていた。

「ずいぶん長風呂だったじゃん。何してたの?」

 俺としてはカラスよりは少しマシなくらいの入浴時間だったのだが。

 ハルヒが渡してきたミカン水を飲みながら、俺の視線はどうしても長門じゃなければ窓の外へと向いてしまう。身体が暖まったおかげか、すっかり機嫌の圧力が上昇しているハルヒは終始ニコニコ顔で瓶ジュースをラッパ飲みし、朝比奈さんも自分の置かれている立場をまったく理解しない微笑みを浮かべて、それは立場を理解しているはずの古泉もそうだった。長門がいつもより小さく見えたのは、湿った髪がつつましく垂れ下がっているからか。

 それにしても今何時頃なんだ。窓から見える外の様子は変わらずの吹雪一色で、しかしなぜかぼんやりと暗い。完全な真っ暗闇じゃないのがかえって不気味である。

 ハルヒも時間の感覚が失せているようで、

「娯楽室で遊ばない?」

 そんな極楽な提案をする始末だった。

「カラオケもいいけど、久しぶりに麻雀がしたいわ。レートはピンのワンスリーでルールはアリアリ、でも真面目に手作りしたいからチップとご祝儀はなしね。国士十三面と四暗刻単騎はダブル役満でいいわよね?」

 ルールにケチを付ける気はないが、俺はゆっくり首を振った。今しないといけないのはカラオケでも賭け麻雀でもなく、考えることだったからだ。

「いったん一眠りしようぜ。遊ぶんならいつでもできるだろ。さすがにちょっと疲れたよ」

 雪に半分埋もれたまま、何時間もスキー担いで歩いていたんだ。これで疲労が蓄積されないのはハルヒの筋肉くらいだぜ。

「そうねえ……」

 ハルヒは他の連中がどちらの意見に賛成なのかを見極めるように、一人一人の表情を確かめていたが、

「ま、いいわ。ちょっとお休みしましょ。でも起きたら全開で遊ぶんだからね」

 渦状星雲が二、三個入ってそうな輝きを瞳に宿らせて宣言した。

 

 それぞれ決めておいた部屋に引っ込んだ後、俺はベッドに寝そべって打開策の脳内人格会議を実行していた。しかしこんな時に限ってどいつもこいつも己の無能ぶりを露呈するだけで、何一つ有益な提案を出しやがらない。全員が押し黙って誰かが何かを言わないかとそればかりを期待しているうちに時は過ぎ、どうやら俺はうとうとしていたらしかった。なぜなら、

「キョンくん」

 いきなりの呼び声に、思わず飛び上がったくらいだから。

 ドアが開閉する音も、誰かが部屋に入ってくる足音や衣擦れ、気配すら感じていなかった。つまりそういうわけで俺は驚き、部屋の中央に立っている人影を見てさらに驚愕した。

「朝比奈さん?」

 光源になっているのはカーテンを開け放した窓からの雪明りだ。しかし、その薄暗い照明の中でもその人の容姿を見間違えるわけはない。いつも可愛い部室の精霊のごとき存在、SOS団専属のマスコットの朝比奈さんだ。

「キョンくん……」

 もう一度言って微笑み、朝比奈さんは遠慮がちな足取りで歩いてきた。慌てて座り直した俺の横に、剥き出しの両足を揃えてちょこんと腰掛ける。何だか明言できないおかしさを感じてよく見ると、廊下でお休みを言ったときと服装が違っていた。ロングTシャツ一枚みたいな格好ではない。かといってそれよりまとう布地が増えているわけでもなかった。

 朝比奈さんは白いワイシャツ一枚という、まるで誰かの妄想を具現化したような衣装で俺を見上げていた。至近距離から。

「ねえ……」

 麗しい童顔が何かを求めるように、

「ここで寝ていい?」

 二つの肺が口から飛び出るようなことを言った。(おかしい)

 潤んだ目が俺の顔を確実に捉え、頬をうっすらと上気させながら、朝比奈さんはしとやかに俺の腕にもたれかかった。(なんだこれは)

「一人だと不安なんです。眠れなくて……。キョンくんのそばなら気持ちよく眠れそうなの……」

 熱っぽい体温がシャツを通して伝わってくる。火ぶくれができるかと錯覚するほどの熱さだった。柔らかいものが押し付けられる。朝比奈さんは俺の腕を抱くように、顔を近づけてきた。

「いいでしょう? ね?」

 いい悪いの問題ではない。朝比奈さんにそこまでさせて断るような人間は男にも女にもいない。だから、いい。そうですよね、このベッドは一人寝には広いですから……。(まてよ)

 うふ、と微笑んで彼女は俺の腕を解放し、ただでさえ開いていたシャツのボタンを外し始めた。くらくらするほどの柔らかい曲線が少しずつ露になる。ハルヒによってバニーガールにさせられた時や、うっかり部室の戸を開けて着替えを目の当たりにしてしまったときに見て、パソコンのハードディスクに眠る隠しフォルダの中にある映像と同じ、あの胸元がすぐ目の前にあった。(きづけ。ちがう)

 白いワイシャツのボタンは残すところ二つ……いや一つ。真っ裸よりも扇情的なシーンだった。モデルがいいからな。何と言っても朝比奈さんがこうしているんだ。(おい)

 朝比奈さんは上目で俺を窺いながら、恥じらうような誘うような表情で微笑んでいる。指が最後のボタンにかかった。目を逸らしていたほうがいいのだろうか。(よくみろ)

 前のすっかり割れたシャツの内部に、息づく白い肌がゆるやかに上下していた。あまりにも芸術的な、アフロディーテも貝の中にひっこみそうなスタイルで(ちがうんだ)つややかな胸の丘の片方には(それだ)、アクセントのように一つの星が……。

 喉の奥が空気を吐き出す。

「くっ……!」

 俺はバネ仕掛けのようにベッドから飛び退いた。

「違う!」

 よく見ろ、どうして気づかなかった? それが俺の朝比奈さんかどうか確認するすべは俺が一番よく知っているし、この前もそうやって確認しようとしたじゃないか。朝比奈さんのそこを見さえすれば、俺には解るんだ。

「あなたは誰だ」

 ----この朝比奈さんには左胸のホクロがない。

 ベッドで半裸をさらす彼女は、俺を悲しげに見つめながら、

「どうして? わたしを拒絶するの?」

 もしこれが本物の朝比奈さんだったら? (ちがうっつってるだろ)それでも俺は理性を保てただろうか。いや、違う。そんなことも問題じゃない。朝比奈さんが人目を忍んで俺を誘惑しに来るはずはない。その必要なんかないんだ。

「あなたは朝比奈さんじゃない」

 俺はじりじり後ずさりしながら、涙を溜め始める魅惑的な瞳を見つめた。まったくどうかしている。こんな表情をさせるくらいなら朝比奈さんかどうかなんて関係ないんじゃないか? (よせよ)

「よしてくれ」

 俺は何とか口にできた。

「誰だ。この館を作った奴か。宇宙人か異世界人かどっちだ。何のためにこんなことをする」

「……キョンくん」

 その朝比奈さんの声は悲哀に沈んでいた。面を伏せ、悲しそうに唇を歪める。そして。

「!」

 彼女はシャツの裾を翻し、風のように走ってドアへ向かった。部屋を出て行く一瞬前、涙を浮かべた瞳で俺を振り向き、さっと廊下に出て行く。ドアが意外なくらい大きな音を立てて閉まり、その音につられたように俺は中から鍵をかけていたことを思い出した。合い鍵がない限り、侵入することはできなかったはずだ。

「待ってください!」

 咄嗟に丁寧語を発しつつ、俺もドアに駆け寄って開いた。

 バン。やけに大きな音がした。いくら勢いをつけたとは言え、扉一つが開いた効果音にしては腹に響くなとと思っていたら----。

「あれっ? あんた……」

 正面にハルヒの顔があった。俺の部屋の真向かい、自分の部屋の扉を開けて顔を出しているハルヒが、口をあんぐりと開けて俺を見つめている。

「キョン、さっきまであたしの部屋にいな……かったわよねえ」

 通路に顔を出しているのは俺とハルヒだけではなかった。

「あの、」

 ハルヒの右隣、Tシャツ姿の朝比奈さんも当惑顔で扉を半分開けており、左隣には、

「…………」

 長門のほっそりした姿もあった。ついでに横を見ると、

「これはこれは」

 古泉が鼻先を掻きながら変な感じに目配せし、妙な具合に微笑する。

 音が大きく聞こえたカラクリが解った。五人全員がまったく同じタイミングで扉を開いたのだ。五重奏のユニゾンがその正体だ。

「何、みんな。どうしたのよ?」

 ハルヒが最初に立ち直り、心持ち俺を睨むようにして、

「何で全員同時に一緒に部屋から出てきたの?」

 俺は偽の朝比奈さんを追おうとして----と言いかけて気づいた。さっきのハルヒのセリフに気がかりな部分がある。

「お前はなぜなんだ。まさかトイレに行こうとしたわけじゃないよな」

 驚くべきことにハルヒは少しうつむき加減に下唇を噛み、それからようやく口を開いた。

「変な夢を見たのよ。いつのまにか、あんたが部屋に忍び込んでくる夢。全然あんたらしくないことを言ったり、えーと、したりしたから、ちょっとおかしいなと思って……。そう、ぶん殴ってやると逃げ出して……。え? 夢……よね? でも、なんかおかしいわ」

 それが夢だとしたら、今は夢の続きになる。悩むように眉間を寄せるハルヒを眺めていると、古泉が足を運んできた。

「僕と同じですね」

 俺に顔を向けてジロジロと見てくる。

「僕の部屋にもあなたが現れました。見かけはあなたそのものでしたが、ちょっと振る舞いが、気味が悪かったと申しますか……。まあ、あなたがやりそうにないようなことを、ね。してくれましたよ」

 理由もなく怖気がする。古泉のニヤケ面から目を離し、俺は朝比奈さんに注目した。本物だ。こうしてみていればすぐに解る。さっきの俺は何を勘違いしたんだ? 雰囲気と言い仕草と言い、これが朝比奈さんでなくてなんだろう。

 俺の視線をどう受け取ったのか、朝比奈さんは何故か顔を赤らめた。彼女のところにも俺が登場したんだろう、と信じかけていたのだが、

「わたしのところには涼宮さんが」

 もじもじと両の指を絡ませて、

「そのぉ、変な涼宮さんで……。うまく言えないけど、偽者みたいな……」

 というか偽者だ。それは間違いないが、しかし何だこの事態は。全員の部屋に俺たちのうちの誰かのバッタもんが現れただと? 俺のところに朝比奈さんで、ハルヒと古泉の部屋に俺、朝比奈さんのもとにハルヒ……。

「長門」と俺は言い、続けて訊いた。「お前のところには誰がやってきた?」

 朝比奈さんと同じくTシャツ一丁の長門は、ぼんやりした顔を静かに上げて俺を直視、

「あなた」

 小さな声でポツリと言うと、ひっそりと両眼を閉じた。

 そして----

「……有希!?」

 ハルヒの疑問形的叫びをBGMに、俺は信じられないものを見ていた。

 長門が、あの長門有希がクタクタと崩れ落ち、見えない掌に押されたかのように、横倒しになっているのだ。

「どうしたの有希。ちょっと……」

 誰もが絶句して動けない中、唯一ハルヒだけが即座に駆け寄って小柄な身体を抱き起こした。

「わ……。すごい熱じゃないの。有希、だいじょうぶ? ねえ、有希っ!」

 首をがくんと落としたまま長門は目蓋を閉じている。無表情な寝顔だった。しかし長門が安らかに眠っているのではないということを、俺の本能が悟っている。

 ハルヒは長門の肩を抱きながら、キッとした目で大声を発した。

「古泉くん、有希をベッドまで運んでちょうだい。キョン、あんたは氷枕を探してきなさい。どっかにあるはずだわ。みくるちゃんは濡れタオルを用意して」

 俺と朝比奈さん、古泉の三人がしばし呆然としているのを見て、ハルヒは再び大音声で、

「早く!」

 

 古泉がぐったりしてた長門を抱き上げるのを見てから俺は階段を早足で下りた。氷枕か。どこを探したらあるかな……。

 そんなことを考えているのも、長門が気絶するように倒れた衝撃から立ち直れていないからだろう。あり得ない光景だった。そのせいでニセ朝比奈さんが俺の部屋でやってたことや、他の連中の部屋にそれぞれ俺たちのうち誰かの偽者が発生したというミステリーが、もうウザイくらいにどうでもよくなってきた。勝手にしやがれ。そんなもん俺には関係ない。

「やろう」

 本格的にヤバい。ちくしょう、長門にはしばらく平和な人間的生活を味あわせてやりたいと思っていたのに、これじゃ逆目しか出ていないじゃねえか。

 氷枕のあてもないまま歩いているうちに、俺は無意識に厨房にやって来ていた。俺の家では冷却シートは救急箱じゃなくて冷蔵庫に入っている。この館ではどうだろう。

「待てよ」

 大型冷蔵庫の取っ手を握る前に、俺はふと腕を止めた。氷枕を思い描き、強く念じてみる。

 冷蔵庫を開けた。

「……やはりな」

 キャベツの玉の上に、青い氷枕が載っていた。

 まったく用意がいい。便利すぎるぜ。しかし誰だか知らんが逆効果だ。おかげで決心が強まった。

 こんなところに、これ以上いてはいけない。

 

 キンキンに冷えた氷枕を抱えて食堂を出ると、館のエントランスに古泉が一人で立っていた。玄関の扉を熱心に見ているが、いったい何のつもりだ。雪をかき集めてくるようにハルヒに命じられでもしたのか。

 俺は苦言の一つでも呈してやろうとと近づき、古泉は俺に気づいて先に口火を切った。

「ちょうどよかった。これを見てもらえますか」

 扉を指さす。

 俺は文句を後回しにして指さされた方を見る。そこに奇妙なものを発見し、言葉に詰まった。

「何だ、これは」

 言えるのはその程度だ。

「こんなもんがあったとは気づかなかったが」

「ええ、ありませんでしたよ。この館に最後に入ったのは僕です。扉を閉めたときに見ましたが、その時にこんなものはなかったはずです」

 館の玄関扉、その内側に形容しにくいものが貼り付いていた。あえて近い表現を探すと、コンソールとかパネルとかになるだろうか。

 木製の扉に、金属光沢のある五十センチ四方くらいのプレート----やっぱりパネルというのが一番か----がくっついていて、頭痛を催しそうな記号と数字が並んでいた。

 我慢して目を凝らす。一番上にあるのが、

 

 x-y=(D-1)-z

 

 その一段下にも記号が並んでいて、

 

 x=□、y=□、z=□

 

 □の部分が凹んでいる。まるでそこに何かをはめ込めと言わんばかりだった。俺が三つの窪みに困惑のにらみをきかせていると、

「ピースはそこにあります」

 古泉が指差す先の床に、木枠に並べられた数字ブロックが入っていた。よくよく見ると0から9までの数字が三列になって収められている。かがみ込んで摘み上げてみた。麻雀牌のような形状で、重さもそれくらい。雀牌と違うのは表面に彫られた模様で、一桁のアラビア数字のみが刻印されている。

 計十種類の数字が三組ずつ、平らな木箱に詰められていた。

「この方程式の解答となる数字を」と古泉もブロックの一つを拾い上げて観察の視線を据え付けながら、「空いた部分に当てはめろということでしょう」

 俺はもう一度、数式のほうに目をやった。途端に頭が痛くなる。数学は俺の数多く存在する不得意科目の一つだった。

「古泉、お前には解けるるのか?」

「どこかで見たような式ではあるんですが、これだけでは何とも解きかねますね。単純に両辺の数値を等しくするだけならいくらでも組み合わせがあります。これがもし、ただ一つの解を、導き出せというのなら、もっと条件を絞ってくれないと無理ですね」

 俺は四つのアルファベットのうち、異彩を放っている一つに注目した。

「このDは何だ。答えなくてもいいみたいだが」

「一つだけ大文字ですしね」

 古泉はナンバー0の石牌をもてあそびながら喉を押さえるような仕草をし、

「この数式……。知っているような気がします。ここまで出ているんですが……。何でしたっけね。見たのはそんな昔ではないと思うんですけども」

 そのまま固まって眉を寄せている。珍しい。古泉がしみじみと真面目な顔で考え事をしている図なんてな。

「で、これに何の意味があるんだ?」

 俺は持っていた牌を木枠に戻した。

「扉の内側に忽然と算数問題が発生したのは解ったが、それがどうしたんだ」

「ああ」

 古泉はふっと我に返り、

「鍵ですよ。扉に鍵がかけられています。内側から開けるすべがありません。ノブをいくらひねっても甲斐なしなんですよ」

「何だと?」

「試してもらえば解りますよ。見ての通り、内側には鍵穴もノッチもありません」

 やってみた。開かない。

「誰がどうやって閉めたんだ? オートロックでも内側からなら開くはずだろう」

「そんな常識論が通用しない空間だという一つの証明ですね」

 古泉は意味なしスマイルを戻して、

「誰だか知りません。ですが、その誰かは僕たちをここに閉じこめておきたいのでしょう。窓はすべてはめ殺し、入り口の扉には固い施錠……」

「じゃあ、このパネルの数式は何だよ。暇つぶしのクイズか?」

「僕の考えに間違いがなければ、この数式こそが扉を開く鍵なのです」

 古泉はゆったりした口調で言った。

「長門さんが作ってくれた、唯一の脱出路だと思います」

 

 俺が最近の記憶を呼び覚ましてノスタルジーに駆られているのもお構いなく、古泉は舌をすべらかに回し始めた。

「情報戦と言うべきでしょうか。何らかの条件闘争があったものと思われます。何者かが我々を異空間に閉じ込める。長門さんはそれに対抗して脱出路を用意する。それがあの数式なのではないでしょうか。解くことができたら我々は元に戻れますが、そうでなければずっとこのままという図式です」

 古泉はコンコンと扉を叩き、

「具体的にどういう戦いがあったのかは解りようのないことです。これが精神生命体同士の情報戦なんだとしたら僕たちに想像しようもないことですから。しかし現実にはこのようなカタチとして現れた。このパネルがその結果なのでしょう」

 謎めいた館に不釣り合いな計算問題。

「偶然ではありません。僕たちが奇妙な夢的なものを見たと思ったら、その直後に長門さんが倒れ、扉にこのパネルが発生する……。これらの連続した出来事は偶発的なものではなく、何らかの関連性があるに違いありません」

「きっとそれが脱出の鍵なんですよ。たぶん、長門さんによる」

 パネルのどっかに「Copyright (C) by Yuki Nagato」と書いてあるんじゃないかと探しちまった。なかったが。

「これも推測ですが、長門さんがこの空間で使用できる力はそれほど大きくないのだと思います。統合思念体と接続を断たれた今や、彼女には彼女単独での固有能力しかないのです。だからこんな中途半端な脱出口しか開けられなかったのでしょう」

 推測にしてはやけにもっともらしいじゃねえか。

「ええ、まあね。『機関』は長門さん以外のインターフェイスとも接触を図っていますから。ある程度の情報は僕のところにも回ってきますよ」

 他の宇宙人話を詳しく聞きたくもあるが、今はいい。それよりこの妙なパズルを何とかすることだ。俺はパネルの記号と木枠に入った数字の石を交互に眺め、長門の控え目な声を思い出した。

〝この空間はわたしに負荷をかける〟

 俺たちを吹雪の館に導いたのが何者かは知らないが、長門を熱出して倒れるまでにした奴を俺は許しちゃおかん。そんなゲロ野郎の目論みに乗ってなどやるものか。何が何でもここから出て行って鶴屋さんの別荘まで戻ってやる。誰一人欠けることなく、SOS団の全員でだ。

 長門はちゃんと自分の仕事を終えたんだ。俺には見えも聞こえもしながったが、異空間にさまよい込んでからずっと不可視の〝敵〟と戦っていたに違いない。いつもよりぼんやりしているように見えたのはそのためだったんだろう。その結果、倒れ伏しながらも小さな風穴を開けてくれた。後は俺たちが扉を開かせる番だ。

「ここを出るぞ」

 俺の決意表明に対し、古泉は爽やかに笑った。

「もちろん僕もそのつもりです。いくら快適でも、ここはいつまでもいたいと思う場所ではなりませんからね。理想郷とディストピアは常に表裏一体です」

「古泉」

 そう呼びかける俺の声は自分でも驚くくらいにシリアスだった。

「お前の超能力で穴をこじ開けられないのか。このままじゃマズい。長門がああなっちまった今、なんとかできそうなのはお前だけだ」

「それは過大評価というものですけどね」

 古泉はこんな状況でも微笑を刻んでいた。

「僕は自分が万能な超能力者と言った覚えはありませんよ。力を発揮できるのは限定された条件下のみです。それはあなたもご存知のはず----」

 せりふを最後まで聞くことはなかった。俺は古泉の胸ぐらをつかんで引き寄せ、

「そんなことは聞いちゃいない」

 唇を皮肉に歪める古泉を睨みつけ、

「異空間はお前の専門だろうが、朝比奈さんは頼りになりそうにないし、ハルヒはアレだ。いつぞやのカマドウマみたいに、お前にできることもあるだろうよ。『機関』とやらは木偶の坊の集まりか」

 木偶人形なのは俺もだ。なんもできない。落ちついてもいられないから古泉以下とも言える。思いつくのはここで古泉をぶん殴り、次に俺をぶん殴ってもらうことくらいだ。手加減抜きで自分で自分を殴れないからな。

「何やってんの?」

 背後から鋭利な声が突き刺さった。不機嫌そうな声色が、

「キョン、氷枕はどうしたのよ。あんまり遅いんで見に着たら何? 古泉くんと組み手の練習して、どういうつもり?」

 ハルヒが仁王立ちで腰に手を当てていた。柿泥棒の常習犯を現行犯逮捕した近所の爺さんのような表情で、

「少しは有希のことも考えなさいよ。遊んでるヒマはないのよ!」

 俺と古泉が遊んでいるように見えたのだとしたら、ハルヒも多少は心を別の場所に移送しているのかもしれない。俺は古泉の胸元から手を放し、いつ落としたのかも記憶にない氷枕を床から拾い上げた。

 ハルヒは素早く枕を奪い取り、

「なにこれ」

 視線を扉に付いている変な式へと向けた。古泉は乱れた襟元を指で引っ張りながら、

「さあ、それを二人で考えていたのですよ。涼宮さんには見当がつきますか?」

「オイラーじゃないの?」

 拍子抜けすることに、あっさりと感想を述べた。応じたのは古泉で、

「レオンハルト・オイラーですか? 数学者の」

「ファーストネームまでは知らないけど」

 古泉はもう一度ドアの謎パネルを数秒間ほど見つめ、

「そうか」

 演出のように指をパチンと鳴らした。

「オイラーの多面体定理ですね。おそらく、これはその変形ですよ。涼宮さん、よく解りましたね」

「違うかも。でも、このDってとこ、次元数が入るんだと思うから、たぶんよ」

 違おうが正解だろうがいい。とりあえず俺は当然のような疑問を抱く。オイラーとは誰で何をしでかした人だ。多面体定理って何だ? そんなもん数学の授業に出てきたか? とも尋ねたいところだが、数学の授業はいつも半分寝ているので積極的に質問するのははばかれる。

「いえ、高校の数学では普通は出てきません。ですが、あなたも聞いたことはあるはずですよ。ケーニヒスベルクの橋問題くらいはね」

 それなら知ってる。数学の吉崎が授業中の雑談の一環として出してきたパズルの例題だった。二つの中州と川の対岸にかかった何本かの橋を一筆書きで渡りおおせるかどうかってやつだろ? 確かできないんだったよな?

「そうです」と古泉はうなずき「そのパズルは平面上の問題ですが、オイラーはそれが立体にも当てはまることを証明したんです。彼は歴史に残る定理を幾つも発見していますが、多面体定理はその一つです」

 古泉は解説する。

「あらゆる凸型多面体において、その多面体の頂点の数に面の数を足して辺の数を引けば、必ず答えが2になるという定理です」

「…………」

 俺があらゆる数学的要素を窓から投げ捨てたいと考えているのが解ったのか、古泉は苦笑しつつ片手を背中に回し、

「では、解りやすく図にしてみましょう」

 黒色フェルトペンを取り出した。どこからだ? 隠し持っていたのか? それとも俺が氷枕を出した方法でか。

 古泉はフロアに膝をつくと、涼しい顔で赤絨毯にペンを走らせた。ハルヒも俺も止めない。落書きくらいどうとでもなりそうな館だ。

 そうやって描き出されたのはサイコロのような立方体の図である。

 

※図a

 

「見てもらえば解りますが、これは正六面体です。頂点の数は8、面の数はそのまま6です。そして辺の数は12。8+6-12=2……と、なるでしょう?」

 これだけでは足りないと思ったか、古泉は新たな図形を描いた。

 

※図b

 

「今度は四角錐です。数えると、頂点の数が5、面の数も5、辺は8あるのが解ります。5+5-8で、答えはやはり2となります。たとえ面の数をどんどん増やして百面体くらいにまで行っても出てくる解答が必ず2になるこの式を、オイラーの多面体定理と言うのですよ」

「そうかい。それは解ったよ。ところでハルヒの言った次元数とは何のこった」

「それもまた単純です。この多面体定理は何も立体だけに作用する方式ではなく、二次元平面図にも当てはまるんですよ。ただしその場合、頂点+面-辺は必然的に1となるんですが、ケーニヒスベルクの橋問題はこちらの考え方です。

 絨毯に別の落書きが生まれた。

 

※図c

 

「見ての通りの五芒星、一筆書きの星マークです」

 自分で数えてみた。頂点の数はひいふう……10だ。面は……6だな。辺の数が一番多くなるのか、ええと合計15。てことは10+6-15だから----1だ。

 俺が計算している間に古泉は四つ目の図を描き終えていた。北斗七星を書き間違ったような絵である。

 

※図d

 

「こういうデタラメな図でもいいわけですよ」

 面倒になってきていたが、せっかくなので暗算してやろう。えー……。点は7、面は1、そして辺は7か。なるほど、やっぱり1になる。

 古泉は晴れやかな笑顔でフェルトペンに蓋をして、

「つまり三次元の立体ならイコール2、二次元の平面なら1になるのです。それを頭に置いて、この式を見てみましょう」

 ペン先は扉のパネルに向いていた。

「x-y=(D-1)-z。xは頂点で合っているでしょう。となればそこから引き算されるのは辺でしかないのでyは辺の数です。やや解りにくいのは本来左辺にあるべきz、すなわち面の数が右辺に移動してマイナス記号を付帯されているところですね。そしてこの(D-1)というやつですが、立体なら2、平面なら1となるはずですので、Dに当たるのは三次元なら3、二次元なら2となります。このDはディメンション、次元のDですよ」

 俺は黙って聞き続け、頭を働かせることに集中している。うむ。とりあえずは解ったと思う。なるほど、これがオイラーさんの開発したナントカ定理だというのは理解した。

「それで?」

 と俺は訊いた。

「この数字クイズの答えはどうなる。xとyとzにはどの数字ブロックを入れてやればいいんだ?」

「それは」

 と古泉は答えた。

「解りません。元となる多面体か平面図がないと」

 それじゃ意味ねーだろ。どこにあるんだ、その元となる図形とやらは。

 さあ、と古泉は肩をすくめ、俺をますます苛立たせる。

 だが、その時だ。

 難しい顔をして方程式を見ていたハルヒが、突然すべきことを思い出したみたいに、

「そんなのどうでもいいわ----、それよりっ、キョン!」

 やにわに叫ぶなよ。

「後で有希を見に来てやってよね」

 それはもちろんだが、どうしてそんなに居丈高に言うんだ。

「だってあの娘、譫言であんたの名前を呼んでるんだから。一回だけだけど」

 俺の名前を、長門が? 譫言?

「一体なんて言ったんだ?」

「だから、キョン、って」

 長門が俺を愛称で呼びかけたことなんか一度もなかった。というか、本名でもニックネームでも具体的に俺を指す名称で呼ばれた記憶そのものがない。あいつが俺を主語にするセリフを言うとき、それはいつも二人称代名詞だった……。

 俺が不定形の感情の靄を胸の奥に感じていると、

「いや……」

 古泉が異を唱える。

「それは本当に〝キョン〟でしたか? 別の言葉の聞き違いという可能性はないでしょうか」

 なんだこいつ、長門の寝言に文句を付けるつもりか。

 しかし古泉は俺を見ずハルヒを見つめて、

「涼宮さん、これはけっこう重要なことですよ。よく思い返してみてください」

 古泉にしては勢い込んだ声の調子で、ハルヒも少し意外そうにしながら目を斜め上に向けて考えるような様子を見せた。

「そうねえ。はっきりと聞いたわけじゃないからキョンじゃなかったかもしんないわね。声、小さかったしさ。もしかしたらヒョンとかジョンとかだったかも。キャンやキュンではなかったように思うわね」

「なるほど」

 古泉は満足げに、

「最初の第一声が不明で、残りの語尾だけが聞き取れたんですね。はは、そうか。きっと長門さんが言いたかったのはキョンでもジョンでもなく、〝ヨン〟ですよ」

「よん?」と俺。

「ええ、数字の〝4〟です」

「4がどうし……」

 俺はセリフを止めた。数式を見上げる。

「ねえ」

 ハルヒは苛立ったように唇を尖らせて、

「こんな数字クイズにかまけてる場合じゃないわよ。有希のことを心配しなさいよ。もうっ」

 氷枕を振り回しながら目を三角に怒らせつつ、

「後でちゃんと見舞いに来るのよ! いいわねっ!」

 雄叫びを残し、足音高くさっさと階段を上がっていった。それを見送って、完全に視界から消えたのを確認してから古泉は言った。確信に満ちた声と表情で。

「やっと条件が出そろったんですよ。これで解りました。x、y、zに当てはまる数字がね」

 

「先ほど僕たちが体験した現象を思い出してください。涼宮さんが夢だったのかと疑って、僕にはあやふやな実感がある偽者の件です」

 古泉はまたペンを片手に腰を屈めた。

「誰のところに誰の幻影が現れたのか、それを図にしてしまいましょう」

 まず古泉は赤絨毯に点を一つ打ち、その横に『キ』と書き入れた。

「これがあなたです。あなたの部屋に来たのは朝比奈さんでしたよね」

 点から上に直線を延ばし、そこにも点を穿って『朝』と記す。

「朝比奈さんの部屋には涼宮さんが登場した」

『朝』を表す点から、今度は斜め左下に線を書き、点と『涼』の字を書く。

「涼宮さんのところにはあなたでした」

 点『涼』から延びた線は点『キ』に合流し、直角三角形が完成した。

「そして僕のところにはあなたです。本当に、あなたらしからぬあなたと言えましたよ。気が狂ったとしてもあなたはあんなことをしないでしょうね」

 点『キ』から下に線を引き、点『古』と書き入れた。

「長門さんもあなただと言いましたね」

 この時点で俺も気づいた。俺を表す点から左に延ばされた線の先に点『長』が付けられて、古泉はペンのキャップをかぶせて終了の合図をする。

「すべては関連していたのです。夢とも現実ともつかない偽者は、ですから長門さんが僕たちに見せた幻影です」

 俺は古泉が描いた最新の図形を見た。じっくりと。

 

※図e

 一筆書きの〝4〟だった。

「これを扉の数式に従って計算すればいいわけです。僕たちが見た偽の僕たちとの相関図ですよ。平面なのでDは自動的に〝2〟になりますね」

 俺が頭で計算するよりも早く、

「それを当てはめていると、頂点は僕たちの人数分なので〝5〟、面の数はあなたと涼宮さんと朝比奈さんで構成された三角形ですから〝1〟、辺の数は全部で〝5〟」

 前髪を爪弾き、古泉は笑う。

「x=5、y=5、z=1。それが解答です。ちょうど両辺ともに0になりますね」

 

 感心したり賞賛してやる時間が惜しい。

 俺は数字ブロックを手に取った。三つ。答えが判明したなら、早速そいつに従ってやるのみだ。

 だが古泉はまだ疑問を持っているようで、

「僕が怖れているのは、これが消去プログラムではないかということです」

 一応訊いてやる。それは何だ。

「僕たちがコピーされ、シミュレーションによって存在させられているのだとしたら、わざわざこの異空間から出て行く必要はありません。オリジナルが現実にいるのであればそれで充分ですからね」

 古泉はちょいと両手を上向けて、

「この数式に正答することで発動する仕掛け、その正体は僕たちを消去することなのかもしれません。僕たちはいわば自殺することになるわけです。さて、ここで変化のない満ち足りた人生を永遠と歩むのと、いっそのことデリートされてしまうのと、あなたはどちらがいいと思いますか?」

 どっちも嫌だね。永遠に生きたいなどとは思わないが、今すぐ消えちぃまうのも断固として拒否する。俺は俺だ。他の誰とも入れ替わったりはしない。

「俺は長門を信じる」

 我ながら落ちついた声だった。

「お前のこともだ。俺はお前の出した解答が正解だと思っている。だが、それはこの方程式の答えまでだぜ」

「なるほど」

 古泉は以心伝心の技を会得しているのか柔らかに微笑んだ。そして半歩ほど後ろに下がって、

「あなたにお任せしますよ。何が起ころうと僕はあなたと涼宮さんについていくことしかできません。それが僕の仕事であり任務でもあるのでね」

 その割には楽しそうでよかったな。楽しい仕事なんて滅多にあるもんじゃないぞ。

 古泉は笑顔を幾分か真面目なものに変化させ、

「僕たちが通常空間に復帰できたという仮説を前提とした話ですが、一つお約束したいことがあります」

 平穏な声で言った。

「今後、長門さんが窮地に追い込まれるようなことがあったとして、そしてそれが『機関』にとって好都合なことなのだとしても、僕は一度だけ『機関』を裏切ってあなたに味方します」

 俺に、じゃなくて長門に味方しろよ。

「そのような状況下では、あなたはまず確実に長門さんに肩入れするでしょうから、僕があなたの味方するのはそのまま長門さんを助けるという意味になりますよ。やや遠回りになるかもしれませんがね」

 唇の片端を歪めて、

「僕個人的にも長門さんは重要な仲間です。その時、一度限りは長門さん側に回りたいと思います。僕は『機関』の一員ですが、それ以上にSOS団の副団長でもあるのですから」

 古泉は完全に見守る目で俺を眺めていた。自分のターンを終え、意思表示の権利を放棄して満足しているような顔だった。ならば俺は遠慮なく己の考えるところを躊躇わずにさせてもらおう。

 十二月半ば----。俺は元いた世界から一人で取り残され、いろいろ走り回ったあげく脱出できた。だから今度だってそうするのさ。あの時と違うのは、今回は俺一人じゃなくてSOS団の全員がここを出て行くってことだ。竜宮城に用はない。消えるのは俺たちじゃない。この空間だ。

 俺は躊躇なくブロックを所定の場所にはめ込んだ。

 カチン。小気味いい音がした。金具の外れる音だと思う。

 息を詰めてノブを握った。力を入れる。

 緩やかに扉が動き出した。

 

「--------」

 

 これまで俺は言葉にならない声を思わず上げてしまうような体験をしてきた。呆れ果てたり驚愕したり恐懼したりとさまざまで、何度も「こりゃないだろう」と思ったりしてて、こんだけ時間と空間が牛の胃腸ぐらいに歪んでいるようなシーンに出くわせば、いくらなんでもそろそろ殺虫剤の効きにくいゴキブリ並みの耐性がついていてもおかしくないとも考えていた。

 撤回しなければならないようだ。

 重い扉を開き終えた俺は、

「--------」

 どうやっても声を発することが不可能な状態に陥落していた。

 自分の目が信じられない。どうして俺の視神経はこんな光景を脳みそに伝えてくるんだ。どこでおかしくなった? 網膜か水晶体か。どこがイカレた。

 明るい日差しが俺の目を眩ませる。明るい陽光が上空から降り注いでいた。

「----こりゃあ……」

 クシャミが出そうなくらいの晴天が広がっている。吹雪どころか雪片のひとひらも舞っていない。どこまで行ってもただ青く、雲一粒も浮いていない空だった。あるのは……。

 リフトのケーブルが視界を横切っている。ガタゴと動く登りのリフトにスキーウェア姿のカップルが乗っていた。

 よろめいた足元が、どうしたことだ、やけに重い。

 雪だった。俺は雪を踏みしめている。キラキラと輝く白い大地が目映くて、俺の目はますます眩んだ。

 ふと気配を感じて顔を上げると、猛スピードで滑走する人影がすぐ脇を通り過ぎた。

「うわ!?」

 思わず小さくジャンプして視線を追わせる。俺を障害物のように避けて行ったのは、カービンスキーを履いたスキーヤーだった。

「ここは……」

 スキー場だ。疑いようがない。よく見なくてもそこら中にスキー客がいて、思い思い滑りを楽しんでいる様子が、ごくごく自然に目に入る。

 横を向いた。どうも肩が重いと思ったらスキーとストックを担いでいやがる。次いで足先に目を転ずると、俺の足はスキーブーツを履いていた。そして俺が着ているのは鶴屋家別荘を出るときに支給されたスキーウェア以外の何でもなかった。

 背後を大急ぎで見る。

「あ……?」

 朝比奈さんが子供の鯉ノボリみたいに口を開け、目を白黒させていた。

「なんと」

 古泉も愕然と天を見上げている。二人とも見覚えのあるウェアで、当然のようにTシャツ姿なんかではない。

 館など影も形もなかった。それはもう、絶対的にあるはずがない。ここはただの穴場のスキー場なんだ。地図にない怪しい館の出る幕なんか水蒸気の一粒子もない。

 ……ってことは。

「有希!?」

 ハルヒの声が身体の前から聞こえ、俺はいそがしく顔と眼球を動かした。

 雪の上に倒れた長門を、ハルヒが取りすがるようにして抱き起こしているところだった。

「だいじょうぶ? 有希、そういえばあなた熱が……あれっ?」

 ハルヒは巣穴から外を窺うナキウサギのように周囲を見回し、

「変ね……。さっきまで館の部屋にいて」

 そこで俺に気づいて、

「キョン、なんだか変な気分がするんだけど……」

 答えず、俺はスキーとストックを放り出して長門の横に膝をついた。ハルヒも長門も吹雪前、スイスイとゲレンデを疾走していた時の衣装のままだった。

「長門」

 そう呼ぶと、ショートヘアが小さく動き、ゆるゆると頭を上げた。

「…………」

 果てしのない無表情、いつも変わらない大きさの瞳が俺を見上げる。顔を雪まみれにした長門は、そうやってしばらくじっと視線と顔を固定していたが、

「有希っ!」

 俺を突き飛ばしたのはハルヒだった。そうして長門を抱えるようにして、

「何が何だか解らないわ。でも……、有希、目が覚めたの? 熱は?」

「ない」

 長門は淡々と答え、自分の足で立ち上がった。

「転んだだけ」

「ほんとうに? だってすっごい熱だった……ような気がするんだけど、あれ?」

 ハルヒは長門の額に手を当てて、

「ほんと、熱くないわね。でも、」

 周囲をぐるりと見渡して、

「えっ? 吹雪……。館……。まさか? 夢……じゃないわよね。あれれ? 夢……だったの?」

 俺に訊くなよ。まともな返答をしてやるサービスは受け付けてないんだ。お前限定でな。

 俺が知らんぷりを装っていると、「おーいっ」という威勢のいい声がそう遠くないところから聞こえた。

「どうしたのーっ?」

 ゲレンデの斜面がなだらかになるスキー場の麓で、二組の人影が手を振っていた。

「みくるーっ、ハルにゃーんっ!」

 鶴屋さんだった。彼女の近くには大中小の三つの雪ダルマが佇立して、ちょうど中規模雪ダルマと同じくらいの背丈の人影も付録のようについていた。こっちを見て飛び跳ねているのは俺の妹だ。

 俺は改めて現在位置を把握した。

 リフト乗り場からそう離れていない、初級コースのそれもかなり下ったあたりに俺たち五人は群れている。

「まあ、いいわ」

 とりあえずハルヒは深く考えるのを止めたようで、

「有希、おぶってあげるからあたしの背中に乗りなさい」

「いい」と長門。

「よくない」とハルヒは断じて、「よく解らないけど、自分でも何でか解らないけど、あなたは無理しちゃダメなの。熱はないみたいだけど、なんかそんな気がすんのよ。安静にしてなきゃダメ!」

 ハルヒは有無を言わせず長門を背負い、手を振り続ける鶴屋さんと妹のほうへ走り出した。新品の除雪車でもこうはいかんだろうと思えるくらいの、もし冬季五輪に人を背負っての雪上百メートル走があれば、ぶっちぎりの金メダルだろうと思える速度で。

 

 その後。

 鶴屋さんの連絡によって、荒川さんが車を回してくれた。

 長門は自分を病人扱いするハルヒに抵抗するように、長門なりの健康体アピールをポツポツと訴えていたが、俺の目配せの効果が少しはあったのか、やがて黙々とハルヒの言うなりと化す。

 車には長門、ハルヒ、朝比奈さんと妹が乗り込んで先に別荘へと向かい、俺と古泉と鶴屋さんは散歩する足取りで歩いて戻ることになった。

 その最中に鶴屋さんが語ったところによると、

「なんかさぁ、みんな板担いでザクザク歩いてスキー場降りてきたけど、何やってたのっ?」

 ええと、吹雪は?

「んーっ? そういや十分くらい猛烈に雪降った時があったかな? でも、そんな言うほどのもんじゃなかったよっ。ただのニワカ雪さっ」

 どうやら俺たちが雪の中を歩き回り、館で過ごした半日以上もの刻は、鶴屋さんにとって数分もかかっていないようだった。

 鶴屋さんはハキハキとした歩調と口調で、

「五人ともそろーりそろーり降りてきて、なぜに? って思ってて、したらば、いっちゃん前の長門ちゃんがバッタリ倒れたね。すぐ起きたけどさー」

 古泉は微苦笑するだけで何も言わない。俺も言わない。外から俺たちを観測していた第三者、この場合は鶴屋さんだが、彼女にとって俺たちはそのように見えたのだろう。そして、そっちが正しいのだ。俺たちは夢か幻の世界にいた。現実はこっち、オリジナルな世界はこっちだ。

 しばらく黙って歩みを刻んでいると、鶴屋さんは爽やかにケラリと笑い、俺の耳元に口を寄せてきた。

「ねえキョンくんっ、話は変わるけどさっ」

 なんすか、先輩。

「みくると長門ちゃんが普通とはちょっと違うなぁってことくらい、あたしにも見てりゃ解るよ。もちろんハルにゃんも普通の人じゃないよねっ」

 俺はマジマジと鶴屋さんを観察し、その明るい顔に純粋な明るさのみを見出してから、

「気づいてたんですか?」

「とっくとっく。何やってる人なのかまでは知んないけどね! でも裏で変なことをしてんでしょっ? あ、みくるには内緒ね。あの娘、自分では一般人のつもりだからっ!」

 よほど俺のリアクション顔が面白かったのだろう、鶴屋さんは腹を押さえるようにしてケラケラ笑い声を上げた。

「うんっ。でもキョンくんは普通だね。あたしと同じ匂いがするっさ」

 そして俺の顔を覗き込んで、

「まーねっ。みくるが何者かだなんて訊いたりしないよっ。きっと答えづらいことだろうしねっ。何だっていいよ、友達だし!」

 ……ハルヒ、もう準団員でも名誉顧問でもない。鶴屋さんも正式にスカウトしろ。もしかしたらこの人は俺より物わかりのいい的確な一般人を演じてくれるかもしれないぞ。

 鶴屋さんはサバサバした動作で俺の肩をはたき、

「みくるをよろしくっぽ。あの娘があたしに言えないことで困っているようだったら助けてやってよっ」

 それは……、……もちろんですが。

「でもさぁ」

 鶴屋さんは目をキラキラさせて、

「あん時の映画、文化祭のヤツだけどっ。ひょっとして、あれ、本当の話?」

 聞こえていたのかどうか、古泉が肩をすくめる仕草をしたのが目の端に映った。

 

 別荘に帰り着くと、長門はハルヒの手によって自室で無理矢理寝かされていた。

 あの館にいたときのようなぼんやり感は今や白皙の表情のどこにもなく、部室で読書しているひんやりした印象が顔面にも雰囲気にも表れている。ふとした拍子に微細な感情が揺れ動くことだってある、俺の馴染みの長門そのままだった。

 まるで寝台に憑いた介護の精のように、朝比奈さんとハルヒが長門の枕元にいて、妹とシャミセンもそこで待機していた。遅れて長門の部屋に入った俺と古泉、鶴屋さんが来るのを待っていたのか、全員揃ったところでハルヒが次のように述べた。

「ねえ、キョン。あたしさ、何だか妙にリアルな夢を見ていたような気がするのよね。館に行って、お風呂入ったりホットサンド作って食べたり」

 幻覚を見たんだろ、と言いかけた俺に、ハルヒは続けて、

「有希は知らないって言うんだけど、みくるちゃんもあたしと同じようなことを覚えていたわ」

 俺は朝比奈さんに目を泳がせた。愛らしいお茶くみメイドさんは、「ごめんなさい」と言いたげにうつむいた。

 こいつは困ったな。そんなもん幻覚かデイドリームで落ちをつけようと思っていたのに、二人揃って同じ白昼夢を見る理屈にすぐさま思いが及ばない。

 どうやって騙ろうかと考えていると、

「集団催眠です」

 古泉がやれやれという顔を俺に見せながら口を挟んだ。

「実は僕にもそれらしい記憶があるんですよ」

「催眠術にかかっていたっていうの? あたしも?」と、ハルヒ。

「人為的な術とはちょっと違いますが。そうですね、涼宮さんの性格から言って、もし今から催眠術をかけますよとあらかじめ告げたりしたら、かえって懐疑的になって催眠術が通用することはないでしょう」

「そうかも」

 ハルヒは思案する顔。

「ですが、我々は白い吹雪しか見えない風景の中を一定のリズムで延々と歩き続けていました。ハイウェイヒュプノーシスという現象をご存知でしょうか。まっすぐな高速道路を車で走り続けていると、等間隔に立っている外灯の風景がドライバーに催眠状態を誘発させ、眠らせてしまうと言う現象のことです。それと同様の状態に我々も置かれてしまった可能性は高いと思われます。電車に座って乗っているとよく眠気を催しますが、あれも電車の揺れが一定のリズムを刻んでいるからなのです。赤ん坊を眠らせるときに背中をゆっくりとトントンと叩くのも同じ理屈なんです」

「そうなの?」

 ハルヒが初めて知ったという顔をするのに対し、古泉は深くうなずきながら、

「そうなんですよ」

 説得するような口調で

「吹雪の中を行進している最中に誰かが呟いたのでしょう。どこかに避難できるような館があって、そこがとても快適な空間ならいいのに……というようなことをね。何と言っても遭難中の我々は極限状態に置かれていましたし、そんな精神状態ではどんな幻を見ても不思議はありませんよ。砂漠をさまよう者がオアシスの幻影を見るという故事はご存知でしょう?」

 古泉め、強引にまとめにかかってる。

「うん……、まあね。あれがそうだったわけ?」

 ハルヒは頭を傾けて俺を見た。

 らしいぜ。俺もうんうんうなずきながら納得顔を作ってやった。古泉はここぞとばかりに、

「長門さんが転んだ音で僕たちは正気に戻ったんです。間違いありません」

「言われてみればそんな気もするけど……」

 ハルヒはさらに首を傾げ、すぐに戻した。

「まあ、そうよね。あんな都合のいいところに変な館が建っているわけないし、だんだん記憶もぼんやりしてきたわ。夢の中で夢を見ていたような気分」

 そう、あれは夢だ。現実には存在しない館だった。俺たちには必要のない、ただの精神疲労から来る幻覚だったのさ。

 気がかりなのは他の二名。SOS団じゃない部外者だ。俺は鶴屋さんを見る。

「うへっ」

 鶴屋さんは片目を閉じて俺に笑いかけた。その表情が語りかけるものを解読すると、「まっ、そういうことにしとけばっ」という暗黙の了解が復号される。俺の勘繰りすぎかもしれないな。それ以上鶴屋さんは何も言うことなく、いつもの調子の鶴屋スマイルで一切の余計なコメントを発することはなかった。

 そしてもう一人、俺の妹はというと朝比奈さんの膝にすがりつくようにして、すっかり夢見空間をさまよっている。猫と同じで起きて喋っているときはうっとうしいが寝顔だけはやたらに可愛く、朝比奈さんも満更ではなさそうに妹の表情を眺めている。その様子では朝比奈さんも妹も古泉の解説後半部分をほとんど聞いてはいまい。

 床で毛繕いしているシャミセンが、俺を見上げて「にゃ」と鳴いた。まるで安心しろとでも言うかのように。

 

 そんなことをやっているうちに、やっと冬合宿一日目の夜が到来した。

 長門はベッドを離れたくて仕方がないようだったが、その度にハルヒは大騒ぎして半ば押し倒すように布団をかぶせていた。

 俺は思う。無理して寝かしつける必要はない。たとえそれで楽しい夢を見たとしても、しょせんは夢だ。大切なのは今ここに俺たちがこうしているということなのさ。いくら夢みたいな舞台で夢みたいな大活躍をしたとしても、目覚めるとともに強制終了される幻なんかに興味はない。解ってはいるんだ----。

 いろんなことが後回しになっている。結局あの館はなんだったとか、ハルヒは古泉の作り話を本心から受け入れたのかとか。今は長門で遊ぶことにかまけて、どうでもよくなっているみたいだが。

 ハルヒのけたたましい声から逃れるように、俺は意味もなく外に出てみた。都会では見ることのない星空とその光を反射する一面の銀色が闇雲に眩しく、けど何故かそんなに寒く感じない。

「だが」

 明日は一年の最終日だ。古泉作の推理劇興業が待っている大晦日、ハルヒもラストスパートに拍車をかけてくるだろう。

 どうせだ。それまでゆっくり休んでいればいい。長門はこんな機会が滅多になさそうなヤツだった。いつ寝てるのか、そもそも寝る必要があるのかどうかもわからないが、この際である。思う存分睡眠欲を満たすべきだ。シャミセンを布団に放り込んでやるのも妙案だろう。湯たんぽ代わりにはなる。

 見渡す限りの雪原に向かって、俺は独り言を言った。

「今夜だけは吹雪きそうにないな」

 長門が夢を見ることが可能なのだとしたら、せめて今宵だけでもいい夢が舞い降りろ。

 そう願わないほうがいい理由など、俺にはまったくもって全然ない。

 ついでに星々に祈っておく。今日は七夕ではなく大晦日にもなっていないが、別にベガとアルタイルに限った話でもないだろう。宇宙にはこんだけ恒星があるんだ。そのうちの一つに届けば何とでもしてくれるさ。

「新年をよい年にしてくれよ」

 頼んだぜ、そこにいる誰か。

 

あとがき

 

「エンドレスエイト」

 最初にこれを書いたとき、ちょうど原稿用紙換算で百枚くらいでした。そこから二十枚ほどカットしたものをザ・スニーカーに載っけていただくことになりましたが、今回せっかくですので初期バージョンに戻してみました。別に何が変わったわけでもありませんが、なんとなく気分的にホッとします。

 

「射手座の日」

 関係ありませんが、もともと僕はゲームと名の付くものをそんなにプレイすることがなく、年間通じてソフトの一つでもクリアすれば僕にしてみればよくやったほうではないでしょうか。ちなみに一番最近やり始めて何とかエンディングまで辿り着けたゲームは『リンダキューブアゲイン』でした。面白かった。

 そろそろドリームキャストを買おうかと思っています。

 

「雪山症候群」

 書き下ろし中編です。一番長いです。自動的に短くまとめてくれる編集ツールがどこかに落ちてないものかと、けっこう真剣に最近よく思います。

 この話を書くにあたって次の書物を参考資料とさせていただきました。篤くお礼申し上げます。

・『フェルマーの最終定理』 サイモン・シン著 青木薫訳(新潮社)

・『図形がおもしろくなる』 大野栄一著(岩波ジュニア新書)

 なお、作中で使用した式とその解説に変なところがあるとしたら、それは純然たる僕の脳細胞不足に他ならないことを付言しておきます。

 

 最後に、お悔やみの言葉を。

 さる二〇〇四年七月十五日、吉田直さんが逝去されました。

 思い起こせば僕と氏が最初に対面する機会を得たのは、角川書店新春感謝会の当日、僕がスニーカー大賞をありがたくも授与された式典の直後のことです。その時の僕は、実に受賞を電話で聞いた十日後のことであり、早い話が単なる素人でした。そんな素人が高名にして著名な方々がわんさと集合する感謝会会場でできたことは、ただ編集さんの後を付いて色々な人にペコリペコリと挨拶することくらいのものです。

 と、そんな緊張の極限に達しつつある僕のもとに、一人の爽やかな男性がおもむろに歩み寄ってこられました。彼は快活な笑顔とともに僕の肩を叩くと、

「よっ、後輩!」

 そうおっしゃった人こそが吉田直さんでした。

 よっ、後輩----。その時の僕に氏がかける言葉として、それ以上的確で明快なセリフはどこにも存在しなかったでしょう。

 その後、氏は、ガチガチに凝り固まり「いやあ」とか「どうも」ぐらいしか口走ることのできない僕と、それでも二言三言会話してくれた後、朗らかに笑いながら、

「じゃ、また」

 と、その場を立ち去られていかれました。それが僕が氏を見た最初で最後の姿です。

 それから三日ほどインフルエンザで寝込んで、ようやく我に返った僕は、あの時もっとマシな返答をすべきだったとしみじみ反省し、そして心に刻みました。今度会うことがあればこちらからかける言葉を用意しておこう。

 結局、僕が氏に何かを告げる機会は永遠に失われました。ですが、この場をお借りして申し上げることは無駄ではないと信じています。

 僕はこう声をかけたいと考えて、その日が来るのを待っていました。

「やあ、先輩!」

 今はただご冥福をお祈り申し上げるのみです。

 

 角川源義

 

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以って体験した。西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短すぎたとは言えない。にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた。これは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。

 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化と秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。