釣魚台/尖閣をめぐる日本の国ぐるみの排外主義に抗議します・前編(歴史編)
周知のとおり、9月7日におこった、釣魚諸島/尖閣諸島の近海における中国漁船と海上保安庁の船との「衝突」および海保による漁船の拿捕(だほ)以来、日本では「反日の活発化」や「中国の脅威」などといった言辞がとびかっています。いまや日本のメディアや論壇は、左右を問わず、ほとんど国ぐるみの中国バッシングに傾倒しているといっていいような状態です。
そしてこの風潮が、実社会での排外主義に直結していることもまた、いうまでもありません。各種の右翼団体や市民排外主義団体が、とんでもない差別発言(後述)を街頭にまきちらしながら「日本の領土の危機」を街頭でうったえています。中華学校への脅迫など具体的な迫害もおこっており、とくに神戸では実際に逮捕者がでるほどまでに脅迫が活発化しています(「中華同文学校、脅迫の疑い 芦屋の男逮捕 生田署」神戸新聞10月12日)。
***
ところで、この一連の流れについてなによりまず確認すべきは、「尖閣は日本固有の領土」という前提じたいがまちがいだということです。というのも、いまの日本政府の釣魚台/尖閣にたいする「実効支配」そのものが、近代日本の侵略主義、植民地主義の歴史の延長線上にあるからです。順に見ていきましょう。
日本の外務省によれば、日本は「1885年以降」に釣魚台/尖閣の「現地調査」をなんどかやって「これが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないこと」をたしかめてから、「1895年1月14日」に「閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」とのこと(外務省リンク)。これは国際法上の「無主地先占」のルールにのっとった手続きである、というのが「尖閣は日本のもの」派にとって第一の前提です。
しかしこの「無主地先占」論は、すでに1972年、井上清という学者の論文『「尖閣」列島―釣魚諸島の史的解明』によって、完膚なきまでに突きくずされています。しかも、この研究はウェブ上で全文が文字起こしされ、世界人民に共有されています(井上清『「尖閣」列島―釣魚諸島の史的解明』、またmedia debuggerさんが内容を要約しています)。そして見たところ、それ以降の尖閣=日本論は、この論文を無視して、あるいはこの論文が指摘している問題をねじまげることによって成立しているにすぎないようです。さてそれでは、この研究を中心に参照しつつ、釣魚台/尖閣をめぐる歴史上のおもなポイントを年表でおさえておきましょう。
***
明(14c-)・清(17c-)時代 釣魚台、中国と琉球諸島の境界をはさんだ中国側の島として、複数の文献に登場。他方、琉球や日本では「中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した」文献はひとつもなかった(井上論文)。海流の問題で、琉球との実際的なかかわりも、当時はうすかった。
1871年 いわゆる明治維新(1868年)以後の日本は、廃藩置県のどさくさで、それまで「日清重属」であった琉球を近代日本の排他的領土にしたと宣言する(いわゆる第二次琉球処分のはじまり)。この時点でも日本は、釣魚台/尖閣を琉球の一部として認識していない。
1885年 内務省が沖縄県庁に釣魚台/尖閣の調査を内命(このころになってはじめて、日本は釣魚台/尖閣に目をつけたようす)。このときの調査では、沖縄県庁は「いや、あそこは清国領だからまずいんじゃ」といった具合に報告。
1890年 こんどは沖縄県知事が「尖閣を日本の沖縄県としてあつかってくれ」と内務省に上申。というのも、この時点で沖縄県知事は、内務省出身の国家主義者にかわっている。
1895年 日清戦争に勝った日本は、4月17日締結の下関条約で、台湾を支配下におさめる。それに先立つ1月、どさくさまぎれに、釣魚台/尖閣の領有を閣議決定(その内容は1952年まで公開されず)。また、その後も日本政府は、釣魚台/尖閣が何年何月何日から沖縄県の一部にくみこまれたのか(というのも1871年時点ではどの公文書にも沖縄の一部として登録されていなかったのだから)を、いかなる法、政令、文書等においても明記していない。「すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである」(井上論文、強調引用者)。
1900年 日本、例の閣議決定から5年もたったあとで、釣魚台/尖閣を正式に「尖閣諸島」と呼ぶことに決定。
1945年 アメリカが日本に戦勝したが、釣魚台/尖閣も「琉球」あつかいでアメリカの統治下におかれる。1952年のサンフランシスコ講和会議でも問題とされず(そもそも当事者の中国が呼ばれていない)。また、いくつかの島をアメリカは軍事訓練場として使っている。
1970年 いまだ沖縄返還以前の段階である同年9月、日本政府は「海上自衛隊をして、この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させた」(井上論文、強調引用者)。またこの時期から1970年代いっぱいにかけて、日本メディアにおいて釣魚台/尖閣論が活発化。
1972年・その1 いわゆる沖縄返還。これにともなう釣魚台/尖閣の処遇について、米国務省は「同列島〔釣魚台/尖閣〕が含まれる西南諸島の施政権」を日本に返還するが、その「領有権をめぐる紛争については、当事者間の話し合いによるか、あるいは当事者が希望する第三者によって解決するのが望ましい」と立場表明している(山本剛士「尖閣の日中近代史」、『世界』1996年12月号、257-62頁所収)。とりあえずアメリカは、1952年の講和会議からは中国をハブっておきながら、いまさら「当事者間でよろしく」と逃げを打ったということでOKでしょう。
1972年・その2 いわゆる日中国交正常化が成立。これに先立つ日中の交渉過程で、釣魚台/尖閣の問題については「棚上げ」とすることで両国が同意したとされる。
1978年 日中平和友好条約が締結される。このさいにも、1972年時の「棚上げ」が確認されている(山本、前掲)。ところがこの年には、日本青年社なる住吉会系の右翼団体が諸島内の魚釣島に灯台を設置した、というできごともある(同灯台は2005年、日本政府に委譲されている)。
1990年代 日本メディアにおいて釣魚台/尖閣論が再び活発化。ただし1970年代にもまして、ほぼもっぱら右からの議論である。この傾向は現在までつづいている(国会図書館の雑誌記事検索をかけてみるとよくわかります)。
2008年 海保は台湾漁船とも「衝突」している。このときには海保は台湾漁船を沈没させている(「魚釣島沖で巡視船と衝突の台湾船が沈没」「尖閣沖の台湾船沈没事故、日本側が船長に謝罪」APFニュース)。
2010年 海保の船と中国漁船の「衝突」および中国漁船の拿捕。ちなみに日本政府は、中国漁船から海保船舶に激突したのだとしているが、現場で撮っているはずの証拠映像を公開していない。←イマココ
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このような歴史的経緯を見るならば、日本は「無主地先占」といういちおうの国際的ルールにすらのっとることなく、近代化によって獲得した軍事力にものをいわせて、釣魚台/尖閣も清国からぶんどったと結論づけるべきでしょう。
もちろん、かりに井上論文の論拠が今後くつがえされ(※注)、日本の釣魚台/尖閣占有がいちおうは「無主地先占」のルールに妥当することになったとしても、なお日本の侵略性という問題はかわらずのこります。「無主地先占」というリクツそのものが、近代国家の巨大な力にものをいわせた土地の排他的占領を意味するものであって、それは国際社会における強者のルール、つまり近代帝国主義による植民地獲得競争のためのルールです。このルールじたいが恥ずべきものであって、それに依拠して釣魚台/尖閣の占有を正当化することなどもってのほかです。
後編(現状編)につづく
※ いちおう井上清の論文の実証性、妥当性についてもひとことつけ加えます。国際法が専門の奥原敏雄という学者が、いくつかの史料をつかって、井上の議論をくつがえそうとしていたようです。しかし井上じしんが批判しているように、釣魚台/尖閣が明治以前に「無主地」であることをまったく証明できていません。また、釣魚台/尖閣は昔からずっと台湾漁民の漁場であり、現代でもそうだという論点にたいして、日本が釣魚台/尖閣を領有した当時は、台湾漁民も「日本人」だったから漁ができたのであって、いまは日本人じゃないから台湾漁民の漁は不法だなどという、むき出しの帝国主義・植民地主義の論理をふりかざしています(奥原「尖閣列島問題と井上清論文」、『朝日アジアレビュー』1973年第3号、88-92頁所収、など)。こうしたことからいって、奥原の井上批判の論理は、井上じしんがいっているように「居直り強盗の論法」であり、まともにとりあうべきものではありません。また奥原以外に、史料をつかった実証的な井上批判を書けた学者もいないようです。つまり井上論文はその後、その実証性にもかかわらず、まともな批判もなしに専門家たちからスルーされてきたわけです(一部のジャーナリスティックな記事では取り上げられていますが)。
そしてこの風潮が、実社会での排外主義に直結していることもまた、いうまでもありません。各種の右翼団体や市民排外主義団体が、とんでもない差別発言(後述)を街頭にまきちらしながら「日本の領土の危機」を街頭でうったえています。中華学校への脅迫など具体的な迫害もおこっており、とくに神戸では実際に逮捕者がでるほどまでに脅迫が活発化しています(「中華同文学校、脅迫の疑い 芦屋の男逮捕 生田署」神戸新聞10月12日)。
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ところで、この一連の流れについてなによりまず確認すべきは、「尖閣は日本固有の領土」という前提じたいがまちがいだということです。というのも、いまの日本政府の釣魚台/尖閣にたいする「実効支配」そのものが、近代日本の侵略主義、植民地主義の歴史の延長線上にあるからです。順に見ていきましょう。
日本の外務省によれば、日本は「1885年以降」に釣魚台/尖閣の「現地調査」をなんどかやって「これが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないこと」をたしかめてから、「1895年1月14日」に「閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」とのこと(外務省リンク)。これは国際法上の「無主地先占」のルールにのっとった手続きである、というのが「尖閣は日本のもの」派にとって第一の前提です。
しかしこの「無主地先占」論は、すでに1972年、井上清という学者の論文『「尖閣」列島―釣魚諸島の史的解明』によって、完膚なきまでに突きくずされています。しかも、この研究はウェブ上で全文が文字起こしされ、世界人民に共有されています(井上清『「尖閣」列島―釣魚諸島の史的解明』、またmedia debuggerさんが内容を要約しています)。そして見たところ、それ以降の尖閣=日本論は、この論文を無視して、あるいはこの論文が指摘している問題をねじまげることによって成立しているにすぎないようです。さてそれでは、この研究を中心に参照しつつ、釣魚台/尖閣をめぐる歴史上のおもなポイントを年表でおさえておきましょう。
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明(14c-)・清(17c-)時代 釣魚台、中国と琉球諸島の境界をはさんだ中国側の島として、複数の文献に登場。他方、琉球や日本では「中国の文献から離れて独自に釣魚諸島に言及した」文献はひとつもなかった(井上論文)。海流の問題で、琉球との実際的なかかわりも、当時はうすかった。
1871年 いわゆる明治維新(1868年)以後の日本は、廃藩置県のどさくさで、それまで「日清重属」であった琉球を近代日本の排他的領土にしたと宣言する(いわゆる第二次琉球処分のはじまり)。この時点でも日本は、釣魚台/尖閣を琉球の一部として認識していない。
1885年 内務省が沖縄県庁に釣魚台/尖閣の調査を内命(このころになってはじめて、日本は釣魚台/尖閣に目をつけたようす)。このときの調査では、沖縄県庁は「いや、あそこは清国領だからまずいんじゃ」といった具合に報告。
1890年 こんどは沖縄県知事が「尖閣を日本の沖縄県としてあつかってくれ」と内務省に上申。というのも、この時点で沖縄県知事は、内務省出身の国家主義者にかわっている。
1895年 日清戦争に勝った日本は、4月17日締結の下関条約で、台湾を支配下におさめる。それに先立つ1月、どさくさまぎれに、釣魚台/尖閣の領有を閣議決定(その内容は1952年まで公開されず)。また、その後も日本政府は、釣魚台/尖閣が何年何月何日から沖縄県の一部にくみこまれたのか(というのも1871年時点ではどの公文書にも沖縄の一部として登録されていなかったのだから)を、いかなる法、政令、文書等においても明記していない。「すなわち、釣魚諸島は、台湾のように講和条約によって公然と清国から強奪したものではないが、戦勝に乗じて、いかなる条約にも交渉にもよらず、窃かに清国から盗み取ることにしたものである」(井上論文、強調引用者)。
1900年 日本、例の閣議決定から5年もたったあとで、釣魚台/尖閣を正式に「尖閣諸島」と呼ぶことに決定。
1945年 アメリカが日本に戦勝したが、釣魚台/尖閣も「琉球」あつかいでアメリカの統治下におかれる。1952年のサンフランシスコ講和会議でも問題とされず(そもそも当事者の中国が呼ばれていない)。また、いくつかの島をアメリカは軍事訓練場として使っている。
1970年 いまだ沖縄返還以前の段階である同年9月、日本政府は「海上自衛隊をして、この海域で操業中の中国台湾省の漁船団を威嚇してその操業を妨害させた」(井上論文、強調引用者)。またこの時期から1970年代いっぱいにかけて、日本メディアにおいて釣魚台/尖閣論が活発化。
1972年・その1 いわゆる沖縄返還。これにともなう釣魚台/尖閣の処遇について、米国務省は「同列島〔釣魚台/尖閣〕が含まれる西南諸島の施政権」を日本に返還するが、その「領有権をめぐる紛争については、当事者間の話し合いによるか、あるいは当事者が希望する第三者によって解決するのが望ましい」と立場表明している(山本剛士「尖閣の日中近代史」、『世界』1996年12月号、257-62頁所収)。とりあえずアメリカは、1952年の講和会議からは中国をハブっておきながら、いまさら「当事者間でよろしく」と逃げを打ったということでOKでしょう。
1972年・その2 いわゆる日中国交正常化が成立。これに先立つ日中の交渉過程で、釣魚台/尖閣の問題については「棚上げ」とすることで両国が同意したとされる。
1978年 日中平和友好条約が締結される。このさいにも、1972年時の「棚上げ」が確認されている(山本、前掲)。ところがこの年には、日本青年社なる住吉会系の右翼団体が諸島内の魚釣島に灯台を設置した、というできごともある(同灯台は2005年、日本政府に委譲されている)。
1990年代 日本メディアにおいて釣魚台/尖閣論が再び活発化。ただし1970年代にもまして、ほぼもっぱら右からの議論である。この傾向は現在までつづいている(国会図書館の雑誌記事検索をかけてみるとよくわかります)。
2008年 海保は台湾漁船とも「衝突」している。このときには海保は台湾漁船を沈没させている(「魚釣島沖で巡視船と衝突の台湾船が沈没」「尖閣沖の台湾船沈没事故、日本側が船長に謝罪」APFニュース)。
2010年 海保の船と中国漁船の「衝突」および中国漁船の拿捕。ちなみに日本政府は、中国漁船から海保船舶に激突したのだとしているが、現場で撮っているはずの証拠映像を公開していない。←イマココ
***
このような歴史的経緯を見るならば、日本は「無主地先占」といういちおうの国際的ルールにすらのっとることなく、近代化によって獲得した軍事力にものをいわせて、釣魚台/尖閣も清国からぶんどったと結論づけるべきでしょう。
もちろん、かりに井上論文の論拠が今後くつがえされ(※注)、日本の釣魚台/尖閣占有がいちおうは「無主地先占」のルールに妥当することになったとしても、なお日本の侵略性という問題はかわらずのこります。「無主地先占」というリクツそのものが、近代国家の巨大な力にものをいわせた土地の排他的占領を意味するものであって、それは国際社会における強者のルール、つまり近代帝国主義による植民地獲得競争のためのルールです。このルールじたいが恥ずべきものであって、それに依拠して釣魚台/尖閣の占有を正当化することなどもってのほかです。
後編(現状編)につづく
※ いちおう井上清の論文の実証性、妥当性についてもひとことつけ加えます。国際法が専門の奥原敏雄という学者が、いくつかの史料をつかって、井上の議論をくつがえそうとしていたようです。しかし井上じしんが批判しているように、釣魚台/尖閣が明治以前に「無主地」であることをまったく証明できていません。また、釣魚台/尖閣は昔からずっと台湾漁民の漁場であり、現代でもそうだという論点にたいして、日本が釣魚台/尖閣を領有した当時は、台湾漁民も「日本人」だったから漁ができたのであって、いまは日本人じゃないから台湾漁民の漁は不法だなどという、むき出しの帝国主義・植民地主義の論理をふりかざしています(奥原「尖閣列島問題と井上清論文」、『朝日アジアレビュー』1973年第3号、88-92頁所収、など)。こうしたことからいって、奥原の井上批判の論理は、井上じしんがいっているように「居直り強盗の論法」であり、まともにとりあうべきものではありません。また奥原以外に、史料をつかった実証的な井上批判を書けた学者もいないようです。つまり井上論文はその後、その実証性にもかかわらず、まともな批判もなしに専門家たちからスルーされてきたわけです(一部のジャーナリスティックな記事では取り上げられていますが)。