▼▼▼「見直し・新選組」7 − 明治維新史における新選組の位置▼▼▼

中村武生

はじめに

 ここまで新選組論の「いま」を個別に論じてきた。最後にあたって総括をしてみたい。学問上、新選組とはいったい何なのか。
 戦後の明治維新史を牽引した研究者の一人に奈良本辰也氏(故人)がいる。その奈良本氏が一般書に新選組の意義を論じたことがある。その最後を以下のようにまとめている。
(前略)新選組を維新史のなかにどう位置づけるかということであるが、すでに述べたように、それは歴史の徒花であり、時代の奔流とは何の関係もないものだった。それを救い得るものとして「滅びの美学」を持ち出してみたが、新選組にはそれもない。
と実に辛辣である。
 維新史を専門にしてきた奈良本氏にしてこれなのだから、それを専門にしない研究者にとって評価の対象にしにくいことは当然であった。例えば部落史を専門にする吉田栄次郎氏は関連する研究論文のなかで、
(前略)政治史においてさえ、幕末の一局面で池田屋事件などが描かれる際に事件の脇役・敵役としてその姿をかいま見せるだけにすぎず、社会経済史や文化史・宗教史の分野に取り上げられることはまったくなかった。それは、それぞれの研究分野において、新撰組が「歴史の発展法則」にかかわりを持たず、また新撰組を対象とすることが研究の深化には寄与しないと判断されたためなのだろう。(略)
とし、作家冨成博氏の表現を使いつつ「『歴史的に何の意義ももたらさなかった』と断じることが正しいと思う」と酷評する。
 しかし「いま」そうではなくなった。昨年から本年にかけて、松浦玲氏、後藤致人氏、宮地正人氏の成果は、新選組評価に大きな画期を与えた。すでに2003年の歴史学界の業績を評論した、史学会の『史学雑誌』本年五月号(回顧と展望号)は、前年に刊行された松浦氏の著作のみを評価の対象にしたが、「研究者による新撰組研究としては、ほとんど平尾道雄氏以来のものといえ、その点で価値がある」とした(執筆、鵜飼政志氏)。「平尾道雄氏以来」とは昭和3年(1928)刊行の『新撰組史』以来ということで、少し辛いような気もするが、その間研究者による審査制のある学会誌(大学の紀要などをのぞく)に新選組に関する論文が掲載されたことはなく、ほぼ妥当な評価といわざるをえない。
 以下、三氏の成果を中心に新選組論の「いま」を述べる。

1. 維新史の「枠組み」の破壊

 近年、明治維新史は多くの実証的研究を受けて、戦前以来の「枠組み」を破壊しつつある。例えば「討幕」。私たちはながく尊王攘夷の志士や薩長は「江戸幕府」の打倒を目指してきたと思ってきた。だから「尊攘派」と「討幕派」は同義語として使われることが少なくない。ところがこれは誤りである。薩長が「討幕」を目指すのは、実際に大政奉還が行われるわずか4カ月ほど前、慶応3年(1867)6月以後のことだ。その前年、坂本龍馬の仲介で有名な薩長連合は、討幕のための軍事同盟ではなかったのである。すると慶応3年より五年ほど前に活発化した「尊攘運動」が討幕を目指したものでなくなってくる。実はこの時期の政治指向は「革命」ではなく、「政治改革」程度のものだったのだ。
 またここで使った「尊攘派」あるいは「公武合体派」という文言が問題視されている。「なになに派」という分け方への疑問だ。文久3年(1863)8月18日の政変は、長州「尊攘派」が京都政局から追放された事件で、薩摩・会津の「公武合体派」が実行したとされてきた。しかし実は薩摩・会津を支えた有力大名に鳥取池田家がある。当主池田慶徳はこれまで区分上「尊攘派」とされている。すると「尊攘派」が「尊攘派」を追ったことになる。おかしなことである。これは安易に「尊攘派」という文言を使わず、久坂玄瑞や真木和泉ら過激グループに支配された長州を、京都から追放した事件と表現するとよい。政治を正常化させたい池田慶徳らが薩摩・会津を支持したと理解すれば、いささかも問題がおきない。「尊攘派」というグルーピングが、見えるものを見えなくした側面があるといえる。

2.「一・会・桑」権力論

 本稿の問題設定、つまり新選組は維新史上どういう意義が見出せるのかと考える場合、同じく問題視すべきなのが、「勤王」対「佐幕」の図式である。これはいいかえると「薩長」対「幕府」となり、「幕府」を佐(たす)ける新選組は、明治国家をつくる薩長イコール天皇と対立することになる。そして維新が「革命」として正義と理解されるなら、新選組は「悪」となり評価の対象にはならなくなる。
 「勤王」対「佐幕」の図式ではなく、前者を「外様諸藩の政治集団」、後者を「将軍譜代結合」といいかえてみる。そうするとあてはまらない別のグループの存在がみえてくる。それが京都に出現した「一・会・桑」権力である。京都守衛総督一橋慶喜、京都守護職会津松平容保、京都所司代桑名松平定敬の三者による京都政権で、孝明天皇の個性的な存在によって束ねられていたため、京都朝幕政権、「孝明新政府」と呼ぶ場合もある。これは江戸の「公儀」(いわゆる幕府)から独立していた。例えば老中二名が慶喜・容保らを江戸に呼び戻すべく上洛した際、孝明天皇の意思によって追い返されているのだ。
 さきほど薩長連合は討幕のための軍事同盟ではなかったと述べたが、全く軍事行動の規定がないわけではない。いざというとき両者は軍事行動をとる予定だった。しかしその相手は徳川将軍ではない。木戸孝允が執筆し、坂本龍馬が裏書して証明した薩長連合の取り決めを読むと「橋会桑」を打倒することが記されてあることに気付く。「一・会・桑」のことである。つまり少なくとも慶応2年上半期の段階で、薩長の当面の脅威は「江戸」ではなく、京都の「一・会・桑」であった。

3.新選組の重要性の発見

 この「一・会・桑」を支えた軍事力こそが、会津松平容保の私設軍事集団、新選組であった。
 新選組の隊士数はおおよそ100〜200名程度である。関ヶ原の戦いや大坂の役で一大名の兵の動員数が万単位であることを想起すると、いかにも少ないように感じられるかもしれない。しかし江戸時代に入って大名の兵力は極端に削減された。例えば江戸中期の播州姫路酒井家が「有事」を想定して城下町を防備する図を作製している。このなかで換算された兵力はわずかに千人強である。しかもそのなかには「中老退役ならびに隠居之面々」も含まれている。リタイヤ組まで入れての数だ。戊辰戦争で新政府軍と戦ったおりの越中長岡牧野家はさらに少なく約七百、元京都守護職会津松平容保は約五百しかいなかった。これを知ってみると、新選組の存在意義が見えてくる。新選組は幕末期の最大政治都市京都に常駐した200名もの最精鋭の軍事集団と位置づけられる。その軍事背景を得ていたため、「一・会・桑」政権は維持できたということができる。
 慶応3年6月、局長近藤勇以下新選組隊士は「公儀」直参になるが(近藤勇は「譜代の小藩主」クラスか)、これを単なる新選組の「出世」と位置づけてはならない。当時将軍慶喜の慶応の軍政改革のさなかであった。慶喜はこの改革のなかで、会津の私設団体新選組を、直属の軍事組織として位置づけていたとみることが可能なのである(将軍慶喜が在京していることに注意したい)。
 同じ時期、新選組は西本願寺の「旅宿」(屯所)を出て、京都南端葛野郡不動堂村に新たに「旅宿」を設ける。これは大名屋敷のような豪壮なもので、西本願寺から奪った資金によって営まれたと「悪口」とともに語られてきた。しかし常識的には在京の将軍の直属軍隊となったゆえに「公儀」の費用で「大名屋敷」に準ずるように建設されたと考えるのが自然であろう。
 それだけにそれを束ねる局長近藤勇への期待と信頼は大きかった。「長州征討」を最も強く主張する近藤を開戦前に長州へ送り込んだことは、その立場、期待を考えるとそれほどおかしなこととはいえない。少なくとも開戦の際、最前線で戦う予定だった新選組のトップが現場を見、「敵国」長州のトップと会おうとすることは意味あることだったと思われる(現実には新選組も会津も京都警備に専念させられ出陣できないが)。
 しかも近藤が帰京後会津政庁に提出した建白書は、筋の通った堂々たるものである。近藤が長州へ行った点について、奈良本氏が「近藤勇のような男が利用できると思った幕府の要路のほうがおかしいのである」とするのは、この建白書を目にしておられなかったからに違いない。
 以上のように新選組は明治維新史研究の進展により、重要な位置にあることが明らかになってきた。奈良本氏の評価とは逆に、その存在は「時代の奔流」を大きく左右していた。「新選組」はもっと高次元で論じられるときがきたのである。

謝辞

 七回にわたり「私の新選組論」をお読み下さいましたことを感謝致します。さらに研鑽を進めて行きたいと思います。どうもありがとうございました。

〈参考文献〉

青山忠正『明治維新と国家形成』吉川弘文館、2000年
家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』文芸春秋、2002年
後藤致人「『孝明新政府』における新選組の位置」(『歴史読本』772号)、2004年
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』吉川弘文館、2004年
奈良本辰也『幕末維新の志士読本』天山出版、1989年
松浦玲『新選組』岩波書店、2003年
宮地正人『歴史のなかの新選組』岩波書店、2004年
吉田栄治郎「被差別部落と新撰組」(『歴史読本』747号)、2000年
中村武生「新選組研究の回顧と展望」(『歴史読本』772号)、2004年
中村武生「古高俊太郎考―八・一八政変から池田屋事件に至る政局の一齣」(『明治維新史研究』第1号、明治維新史学会)、2004年
中村武生「吉田稔麿論―部落史及び明治維新史研究の視点から―」(花園大学人権教育研究センター編『花園大学人権論集』12、批評社)2005年
中村武生『御土居堀ものがたり』京都新聞出版センター、2005年

(※無断引用をかたくお断りいたします)

 

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