▼▼▼「見直し・新選組」6 − 伊東甲子太郎ノート▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

中村武生

1. はじめに

 伊東甲子太郎は、新選組を愛する人にとって、芹沢鴨と並ぶ「敵役」ではなかろうか。新選組を分裂させ、創設以来の同志藤堂平助を死においやることになった。その点で、最大の憎むべき対象といってもよいかも知れない。
 しかし新選組を正しく明治維新史のなかで位置づけようとするとき、近藤勇の対極にある伊東甲子太郎(及びその仲間達イコール御陵衛士)の動きは重要である。幕府倒壊を目前にした慶応年間の近藤勇の政治的指向はどんなところにあったのか、伊東の動きと対比すると大変わかりやすくなってくるからである。安易に嫌うことなく伊東を知ってみよう。それがすなわち近藤勇を知ることになるのだから。
 以下、新選組を学問研究の俎上に乗せることに成功した、松浦玲氏と宮地正人氏の近著に学び、伊東甲子太郎の行動・思想の意味を論じてみたい。なお伊東の腹心篠原泰之進らが維新後に手記「秦林親日記(筑後之住秦林親称泰之進履歴表)」などを残しているが、論ずるにあたりこれら後世の編纂物は原則として使用しないものとした(理由は後述)。

2. 入隊

 江戸深川の道場主伊東甲子太郎が門弟等とともに入隊したのは、元治元年(1864)10月のことである。文久3年(1863)2月の上洛以来、初めて近藤勇は東下し、隊士徴募を行った。その際のことである。
 池田屋事件の数ヶ月後にあたる。池田屋事件は近藤勇の政治的指向に甚大な影響を与えている。近藤は池田屋事件までは「攘夷」の実行を最大の政治方針としていた。ところが近藤の書翰・建白書などを見る限り、池田屋のあとは全く「攘夷」を口にしなくなった。代わって禁門の変で敗れた長州毛利家の征討を強く主張することになる。これについては次回詳論したい。ともかく伊東の入隊はそんな時期である。
 われわれは近藤と伊東(グループ)が最後には対立し、生命さえ奪い合うことを知っている。どうしてこの両者が結合したのだろう、疑問に思う。どちらも攘夷家である、その一点で結ばれたのだといわれてきた。しかし松浦玲氏はこれを否定する。医師松本良順の回想録によると、この上洛中、近藤は松本と接触し、単純攘夷の不可を知らされたという。
 対して伊東には慶応3年(1867)10月中旬以降にまとめた「建言書」が残されている。ここから死の直前の伊東の思想が読み取れる。詳しくは後述するが、単純な攘夷主義者ではない。富国のために開国は已む無し、という立場である。このいわば「大開国」論で両者の一致は可能だと松浦氏は暗に述べられる。
 結論は京都進出の足がかりに新選組を利用したい伊東と、戦力増強したい近藤が伊東グループの力量に魅力を感じて入隊を認めたとされる。
 問題点がないわけではない。松本の話は後世の回想録である。鵜呑みにしては危険だ。しかし近藤の書翰・建白書に攘夷の主張がなくなるという点で一致する。そのためけっこう事実を伝えている可能性がある。
 伊東の「大開国」論についても、これは慶応3年(1867)10月中旬以降のもので、3年も前の元治元年(1864)下旬の段階で認めてよいかという問題がある。しかし仮にそこまで昇華できていなくても、そこに達する土壌はあったと認めてよいと思う。それゆえ全体として松浦説は妥当と思われる。

3.「敵」に対する寛容さ

 新選組入隊後の伊東の目立った特長がある。
 新選組にとって「敵」となる人物が逮捕された場合、かなり寛容な姿勢を取った形跡があることである。例えば慶応元年、元長州奇兵隊総督赤根武人と、久留米脱藩で同じく長州系志士だった淵上郁太郎がそれぞれ逮捕されている。この際、伊東が近藤や土方を説いて釈放させたという話がある。当時長州では再び反幕府の体制が確立していた。その様子は幕府側にも伝わっている。第二次の長州征討の危険があった。これを防ぐために両者を長州に戻し、恭順の姿勢を取るよう長州政府を説得させる目的だったとされる。
 そのほか井上謙三なる人物が水戸の香川敬三を一泊させたという嫌疑で逮捕されたときも、伊東は近藤・土方を説いて釈放させたという。
 宮地正人氏はほかにも類似の話を紹介した上で、伊東が反幕府勢力との無用の対立は避け、なんらかの形で両者がつながり、共感を形成して、新選組の活性化を試みた、そしてそれは近藤も同意していたと評価される。
 実に魅力的な見解なのだが、やはり問題がないわけではない。上記の事例は大半が西村兼文「新撰組始末記」(『野史台維新史料叢書』30に所収)を根拠にした話である。西村の「新撰組始末記」が使えない記録であることは第2回でふれた。大和屋事件は芹沢鴨の起こしたもの、という根拠希薄な物語は、同書によって誕生しているのである(宮地氏も同書の問題性は強く意識しておられるのだが)。同書に多く頼った伊東像に危険を感じないわけにはいかない。西村は伊東グループの生き残りの証言をニュースソースにして同書をまとめたふしもあり、伊東に対して好意的に描いたといえなくもない。
 しかし類似の話が少なくないこと、近藤も安芸・周防行きの際、正々堂々と議論したならば相手の矛盾点をつけると述べていること(同年11月4日付佐藤彦五郎ら宛書翰。京都国立博物館2003に所収)、その近藤勇に二度にわたって伊東が同行していることから、全くの事実無根ではないかもしれない。今後さらに検討していくべきだと思うが、現段階では支持したい。

4.分離

 ここまで述べたように、当初の伊東はまちがいなく新選組隊士として行動している。慶応2年(1866)1月27日、近藤は伊東・篠原泰之進らを引き連れ二度目の広島行きに向かう。翌2月16日、近藤は岩国吉川家の家臣塩谷鼎助に面会を求めるが断られている。近藤は身分と名前を偽っているが、相手には新選組のトップという素性がばれているのである。この頃から伊東は、予想外に西国地域での新選組への風当たりの強さに気付いたと思われる。入隊前の江戸における風説レベルや、京都にいるだけでは気付きにくかったのかも知れない。こうして新選組からの分離を意識しだす。
 慶応3年(1867)1月18日、九州遊説のため京都をたつ。このとき神速丸で出航するのだが、松浦氏はこの船が大目付永井尚志を肥前佐賀へ渡るために仕立てたものであることを指摘し、伊東の行動が公的なものであったことを推測している(費用も)。つまりこの行動は新選組隊士としてのものとなる。この時の日記は「九州行道中記」として残されているが(前掲小野圭次郎に所収)、これを見ると明らかに反新選組の行動なのである。
 旅行中多くの人と交流しているが、2月2日と3日の両日に大宰府で久留米の志士真木外記(真木和泉の子)らと会っている。永井と行動をともにしてきたことなどから「大に嫌疑を」受け「恐怖して帰」っている。翌日三たび真木らと面会するが、ここで「局異論分離の言」を述べたため「聊か嫌疑を解」けたとする。これにより少なくともこの段階までに分離計画が現実味を帯びていることがわかる。つまり新選組隊士としての行動ではなく、離隊後をみすえた行動なのである。
 3月12日、京都へ帰る。翌13日さっそく近藤らに分離を申し出た。「九州行道中記」には「夜壬生を訪ひ、分離策を談ず、亦意の如し」とあり、反論もなく認められた様子がうかがわれる。3月20日、早くも「三条城安寺に引き移」り、分離は成立した。
気になることがある。当時屯所(旅宿)は西本願寺にあった。それにもかかわらずなぜ3月13日「夜壬生」を訪ねたのか。当時壬生寺で調練が行われてはいたが、その日は毎月2・4・6・9の付く12日間であり、日が合わない(壬生寺文書のうち。京都国立博物館2003年に所収)。「九州行道中記」の原本照合の必要がある。

5.山陵衛士

 分離後の伊東らは、慶応2年(1866)12月25日に亡くなったばかりの孝明天皇の陵墓(洛東泉涌寺)を守る「山陵衛士(御陵衛士)」となる。
 古墳を中心とする歴代「天皇陵」は、幕末期の天皇権威の伸張のなか大きく改修・整備された。現在われわれが知っている「天皇陵」の景観はほぼこの時期に培われている。その中心になったのが、宇都宮戸田家家老の戸田大和守忠至だ。伊東らはこの戸田忠至の支配下に置かれたことになる。近年考古学や古代史のみならず、近世史や近代史においても天皇陵研究はさかんである。「山陵衛士」も修陵とともに幕末期の天皇陵研究の興味深い事象だと思うのだが、どういうことか私の知るかぎり学問研究の対象となったことがない。
 伊東らのこれまでの経歴から天皇陵の衛士というのはイメージとして結びつきにくく、一般には新選組分離のための方便で、実態はなかったような印象をもたれている。しかしのちに伊東とともに油小路の変で横死する元津軽藩士毛内有之助(良胤、堅物)の編纂史料「毛内良胤(有之助)青雲志録」に収められた、慶応4年2月28日付津軽「藩士葛巻行雄京師勤務中ノ書翰ノ写」を見ると、伊東らの死を一部の公家は問題視し、殺害に関係した新選組隊士「二十三人」を切腹させるべきという意見があったという風説を伝えており(新人物往来社1998に所収)、少なくとも朝廷内でも認知された存在であったようである。
 山陵衛士を受ける経緯については、「秦林親日記」(『維新日乗纂輯』三に所収)によると、篠原泰之進が泉涌寺塔頭戒光寺の湛然と申し合わせ、慶応3年3月10日に武家伝奏から任命されたとある。「秦林親日記」は厳密な意味での「日記」ではなく、後世の編纂物である。しかも事実誤認や維新後の価値変化による虚偽が散見され、使用にあたっては充分な吟味が必要である。ただ当時武家伝奏だった野宮定功は、山陵奉行戸田忠至の上司である山陵御用掛を兼ねており、湛然の関与の是非はともかく、武家伝奏から任命されたというのは充分ありえることと思われる。
 「山陵衛士」は今後も意識しておきたい問題の一つである。

6.「建言書」

 坂本龍馬は大政奉還の前後、自らの国家構想をまとめている。「船中八策」や「新政府綱領八策」である。その内容が実際の五箇条の御誓文と近似しているのでよく知られているが、同じ時期(大政奉還のあとまもなく)、伊東甲子太郎もまた国家構想をまとめている。「甲子太郎建言書」といわれるもので、大変興味深いものである(前掲小野圭次郎に所収)。少し紹介したい。
 まず注目すべきは大政奉還を受け入れ、「王政復古」となったと喜んでいることである。「公卿方」による新政府を望んでいる。私たちは実際に同年12月9日に「王政復古」がなることを知っているが、大政奉還の段階で「王政復古」や公家政権が誕生することは当時の全ての人が想定していたわけではない。ここに伊東のおもしろさがある。
 畿内を禁裏御料にした上で、山城・大和は天皇や皇族、摂家、公卿に配分し、残る摂津・河内・和泉の税によって陸海軍を取り立てるという。畿内を禁裏御料云々はあとでふれるとして、伊東がしつこいほどに主張するのは海防のための軍備強化である。武器の洋式化も否定しない。しかも「残らず皆兵」を主張する。国民皆兵である。そして貿易も積極的である。その収入を防備に使うべきという。幕末最終段階とはいえ伊東の思想の斬新さがうかがえる。
 もちろん保守性も見られる。さきほどふれたが幕府が朝廷に代わっただけで、大名はそのまま維持する。封建制の否定はない。それどころか「農工商の分を正し」とあるから「四民平等」もない。
 開国・貿易も認めていながら、畿内だけは例外とする。「五畿内の中、洋風に等しき風俗は厳禁」とし、目前に迫った兵庫(摂海)の開港にも反対し、「夷艦の滞泊はなほ以て厳禁」とする。手放しの洋風化はのぞんでいないわけである(武器に関しては軍人の「衆議」に任せるとしているが)。
 また伊東は「衆議」を重要視する。「衆議」が認めれば自身は従うという。そのなかに開国や軍隊洋式化などが含まれているわけだ。とはいえ「衆評のみに御頼り在らせられ候ひては、却って朝権衰微」となるとして、最後は天皇の「御英断」に期待するとする。
 限界もあるが斬新性も豊かである。実に魅力的である。単に近藤勇の敵役として排除するにはおしい。今後坂本龍馬をはじめ、当時のさまざまな「思想家」との比較・検討を進めてゆくべきだろう。

7.むすび

 伊東は大政奉還を受けて、将来の展望豊かに「建言書」を記した。これに対して近藤勇はどうであっただろうか。
 慶応3年11月11日付の松本良順宛の書翰によると、「時勢大一変、御同様驚愕の至」とするものの、江戸から200から300人の旗本が「猛烈の勢」で「銃槍を携」上京してきたなら、「彼藩々公方(ママ)卿も圧倒」できるはずと述べている。大政奉還によって生まれた体制批判、及び情勢挽回を企図しているのだ(宮地正人2004に所収)。
 そして一週間後の同年11月18日付の三浦休太郎宛の書翰によれば、旗本の「奮発」のことが進められていて、12月上旬迄には「確報」もくるだろう、自身に「当今模様如何珍説も」あるとする(新人物往来社1995に所収)。着々と挽回の機会をねらっていることがうかがわれる。
 このように大政奉還における伊東と近藤の利害は決定的に違いをみせていた。
 奇しくも同じ11月18日夜、伊東甲子太郎は新選組に殺害され、その直後藤堂平助ら残された山陵衛士も襲撃をうけ、事実上伊東グループは壊滅する。
 近藤が伊東の「建言書」を目にしていたかは不明である。しかし斎藤一という内通者がいたことはほぼ確実であり、ある程度伊東の思想は伝わっていたであろう。
 「建言書」には伊東自身の処遇は不明瞭だが、「御親兵」をはじめとして何らかの関与は想定していたに違いない。新政府で「出世」する伊東と、存在意義を喪失しようとする近藤勇、新選組。その伊東グループを生んだのがほかならぬ新選組であることを想起すると、伊東グループが直接近藤らに危害を与えようと与えまいと、許しがたい感情が湧き上がるのはむしろ当然かもしれない。

〔関係文献〕

京都国立博物館編(2003)『特別陳列新選組―史料が語る新選組の実像』同館
新人物往来社編(1995)『新選組史料集コンパクト版』同社
新人物往来社(1998)『新選組研究最前線』下、同社
松浦玲(2003)『新選組』岩波書店
宮地正人(2004)『歴史のなかの新選組』岩波書店
中村武生(2004)「新選組研究の回顧と展望」(『歴史読本』2004年3月号)

(※無断引用をかたくお断りいたします)

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