▼▼▼「見直し・新選組」5 − 池田屋事件その3▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
中村武生
はじめに 元治元年(1864)6月5日の「池田屋事件」について述べた文献は少なくない。そのなかには犠牲者名を列記するものが多い。文献によって差はあるが、宮部鼎蔵、松田重助、吉田稔麿などおおよそ10〜20名が挙げられる。そして決まってこの人物達がいかに有能であったかが付記される。有名なところでは彼らの死により「維新が三年遅れた」とか「いやかえって早まった」とかいうものである。こんな記述にどんな意味があるのか、実は強い疑問をもっている。
明治維新史において池田屋事件は、単に多数の「有能な人物」が亡くなったというだけの事件ではなかろう。(ましてそれを死においやった新選組の「功績」をたたえるものでもない)。これまで池田屋事件犠牲者の列挙がなされてきたのは、いわゆる「御所放火」(前回明らかにした中川宮「放火」)計画のメンバー参加者として理解されてきたためだと思われる。 たしかに中川宮「放火」計画の考察は重要である。それは目前に迫った、のちに禁門の変となる長州毛利家の率兵上京に呼応した、鳥取池田家や攘夷志士などによる「援兵」であった可能性が指摘できるからである。 それにもかかわらず私が問題にするのは、池田屋事件の犠牲者が必ずしも「中川宮」放火計画のメンバーではないからである。事件直後の桂小五郎の書簡や、毛利家京都留守居役乃美織江の手記などによれば、池田屋会議の内容は新選組に捕らえられた古高俊太郎奪還に関するもので、「中川宮」放火計画とは直接関係がなかったからである。 1. 吉田稔麿の場合 例えば戦死者の一人、長州の吉田稔麿を取り上げてみたい。吉田は6月5日の動きが比較的明らかな人物である。乃美織江の手記によれば
暇乞口上之趣有之、且於江戸表若殿様ヨリ御三所物頂戴仕候由、御小柄笄目〆也、是は預リ置キ度候事ナリと死を覚悟したかのような言動・行動をとって外出し、翌 未明と相成屋敷廻リニ警衛未明ニハ引取候趣、夫より人を出シ詮議候処吉田年丸と相見江 倒レ居候とあり、死体が発見される。ここからは古高奪還のための覚悟をもって外出し、事ならず死亡したと理解されやすい。 しかし、当時の吉田は徳川・毛利首脳部の了解のもとで、旗本妻木田宮と密かに会談し、徳川・毛利の和解の方策を探っていた。元治元年上半期には一旦帰国し再度上京して、毛利家の徳川公儀首脳宛の嘆願書を持参、提出している。引き続き江戸へ向かう意向で在京していたのである。元治元年二月付目付川村一匡宛妻木田宮「書取」は吉田が、 迚も亡命人等之所業は力不及候得共、私共始一藩之者共差向暴発等之儀は不仕旨、赤心 を露し申聞候と述べたことを伝えており、徳川・毛利の和解を進める者として当然ながら「暴発」へ否定的であったことが分かる。 吉田の定宿主人塩屋兵助・源助(京都寺町二条)の6月12日付書簡(吉田の叔父里村文左衛門・同丑之輔宛)によれば、六月五日早朝に塩屋方に家来を遣わし、 御他出の趣御申こし則小袴脚半たび様の品御入用之趣夕方迄調置くよう依頼している。塩屋に「たび様の品」を注文した時刻は、古高逮捕と同じく早朝であり、古高奪還云々のための用意とは思いにくい。 吉田は「日暮」には池田屋にいたが、一旦河原町長州邸に戻り再び池田屋へ戻ろうとしたところを「加州様御屋舖まへしなの屋と申酒屋の門口にて多人数」に殺害されたという。この塩屋兵助らの書簡のこまかな描写は重要で、吉田が一旦帰邸したことは記さない乃美織江の手記の信用性はゆらいでくる。吉田が乃美に三所物を預けた真意は実際のところは明らかではなく、乃美の述べたような「死」を覚悟した「暇乞」かどうか疑問となってくる。むしろこの「暇乞」は江戸行を目的としたものの可能性が高く、池田屋に早くにいたことがそのまま古高奪還を念頭においた行動とはいいきれない。 2.桂小五郎の場合 以上のことが明らかになると、桂小五郎(木戸孝允)についても大きな問題があることに気づかれる。
桂小五郎は遅刻したため新選組の池田屋襲撃のとき不在で難を逃れたとする説と、実は会議に出席していて屋根をつたって逃げ去ったという説と分かれている。前者は木戸の自叙に記され、後者は乃美織江の手記の記述である。どちらも史料価値に差異がないため真偽の判断は難しいが、どういうわけかこれまで木戸の伝記類では多く前者が採用されてきた。 大江志乃夫氏『木戸孝允』(中公新書)などは、 (幕吏との)激突が予想される緊迫した情勢のもとにあって、のこのこと池田屋の会合に参加するのは、自分から斬られにゆくようなものである。それは、理性人としての小五郎にとっては、愚かなことであった。さればといって、邸内諸士の総管という立場からいって、まったく池田屋の会合を無視するわけにはいかない。そうしたところから、形式的に顔を出しただけで、いち早くたち去ったのではないか。もともと、小五郎は、こうした志士たちの行動を暴挙として排斥する立場にたっていたとし、桂の政治的立場を論ずる根拠の一つにしている。それ事態は面白い見解だが、仮に乃美織江の手記が正しく、実は桂は池田屋会議に参加していたとしよう。しかしその場合、吉田のように「暴発」に消極的な者さえ池田屋に入っていたことは無視できない。桂も「消極的」でありながらも池田屋には出席したということも可能なのである。さすれば桂の池田屋会議出席・欠席の議論はあまり意味がないことが明らかになってこよう。 3.西川耕蔵と松田重助の場合 その他、吉田と同じく池田屋事件犠牲者として知られる京都富小路三条の書肆西川耕蔵(北村屋太助)、肥後浪人松田重助(波多野馬之亮)についても、どの程度中川宮「放火」計画に関与していたか、史料的裏づけが全く取れない。それどころか文久・元治期に長州系攘夷志士として活動していた形跡も、伝記などの編纂物をのぞけば見出しにくい。
6月5日夜に逮捕された西川や松田など16名を列記した「召捕之浪人姓名調写」を見ると興味深いことに気づかれる。逮捕者に公家の家来(の子息)が見出されることである。それは公家穂波家家来の子息が三人(大中主膳、沢井帯刀、森主計)、五辻家家来の子息一名(宮藤主水こと佐伯稜威雄)である。古高俊太郎が山科毘沙門堂門跡の家来だったことを想起したい。実は西川や松田も、古高と「ある」つながりがある。それぞれ安政大獄で獄死した梅田雲浜と交流があったことである。 新選組の池田屋襲撃ののち、一・会・桑権力(京都守衛総督一橋慶喜、京都守護職会津松平容保、京都所司代桑名松平定敬)は京都市中の「浮浪」の一斉検挙を開始している。当夜殺害・逮捕された者の全てが「放火」に関係していなかったことは明らかで、巻き添えをくった者は少なくなかった。例えば河原町長州邸の御作事方手子吉岡正助は、四条劇場の脇茶屋で飲食中を襲われ、女将とともに殺されている。同じく本締所本締手子木村甚五郎は縄手四条上ルの魚品で久坂義助と間違えられて逮捕・拘引されたが、乃美の抗議によってようやく釈放されている。 西川や松田もまた中川宮「放火」計画とは無関係で、単に古高俊太郎の知己として逮捕された可能性が考えられるのである。このように中川宮「放火」計画の参加者について、無批判に池田屋事件犠牲者をそれに充てることはさけなければならないであろう。 4.三縁寺の埋葬者の場合 なおついでに述べれば、池田屋事件戦死者の菩提寺では埋葬者の混乱が起きている。三縁寺(京都市左京区岩倉)には、四基九名の同事件犠牲者の墓碑があるが、明治3年(1870)7月に照幡寛胤(肥後出身)が建立した宮部鼎蔵・松田重助の連名の墓碑銘によれば「蓋其死状会人之外亡識者」とあり、早くも明治3年の段階で埋葬者が特定できていなかったことを知れる。昭和54年(1979)6月12日〜25日、墓所移転にともなう「立会」調査(平板測量)が佛教大学史学科によって行われたが、16〜18名と推定される人骨が出土した。すなわち墓碑銘とは無関係に、何者であるかの推定すら困難な人物が多数埋葬されていることになる。
むすび 以上、池田屋事件犠牲者をただ列記することは事の本質に迫れないということを述べてきた。もちろん犠牲者(とりわけ池田屋会議参加者)のなかには「中川宮」放火計画のメンバーがいくらか含まれているだろう。しかしその抽出は実に難しい。
何度となく話題にしてきた乃美織江の手記は、書かれていない「ウソ」が指摘できるとはいえ、書かれたことに関して明快な虚偽は見出せていない。池田屋事件に関する根本史料としての価値はいまだ揺らいではいないといえる。その乃美手記が池田屋に参加した者として六人(桂小五郎、宮部鼎蔵・春蔵兄弟、淵上郁太郎、吉田稔麿、大澤逸平)を明記していることに注意をしたい。今後はこれにくわえて事件直前の洛東栂尾での会議に参加し、長州や水戸(天狗党の乱)への「援兵」を話し合った諸大名家、とりわけ禁門の変勃発直前まで長州との呼応を考えていた因州鳥取池田家の攘夷志士を軸に、同計画研究は再検討されるべきであろう。 〔関係文献〕中村武生「古高俊太郎考―八・一八政変から池田屋事件に至る政局の一齣―」『明治維新史研究』第1号、明治維新史学会
中村武生「吉田稔麿論―部落史及び明治維新史研究の視点から」花園大学人権教育研究センター編『花園大学人権論集』12号、批評社、2005年
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