▼▼▼「見直し・新選組」4 − 池田屋事件その2▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
中村武生
1.「浪士文久報国記事」の古高俊太郎の記事 古高俊太郎が新選組のきびしい拷問によって「御所辺放火」計画を供述するシーンは、映画やテレビドラマで必ず描写されあまりに有名である(時には「京都放火」とする場合もある)。これについて近年発見された、新選組創立以来の幹部永倉新八の手記「浪士文久報国記事」三には、次のように記載されている。
(前略)追々問答ニ及候処中々白状イタサス、夫故ニ拷問ニカケ対ニ不残白状ニ及フ全ク私宅ニ居ル拾人是ハ不残長州人也、土蔵ニ入置品ハ御所焼キ打道具六月廿二日風並能ケれハ焼打致スノ了簡、天朝ヲ奪イ山口城江落スノ謀叛(後略)引用部分のあとは、「会津公」松平容保へ通報し、池田屋事件が起きることを述べてゆくのだが、ここでは古高がはっきりと御所放火と天皇の長州動座の計画を述べていることに注意しておこう。 永倉の手記である「浪士文久報国記事」は大変価値の高いものであるが、手放しで使用出来るわけではない。書かれたのが維新後であるため、永倉自身意識するしないに関係なく、明治以後の価値や情報によって事実が粉飾されている可能性がある。 歴史研究の基本は、@事件の前後なるべく早い時期に、A直接関係した者かそれにできるだけ近い人間によって記された史料を使うことである。そういう意味では「浪士文久報国記事」は参考程度の扱いにとどめるべきである。それではこの問題を検討するために、どんな史料が中心的役割を果たすのであろうか。 2.原口清氏の先行研究 「御所辺放火」計画については詳細な先行研究がある。名城大学の原口清氏の成果である(「禁門の変の一考察」『名城商学』46-2〜3、1996年)。
原口氏が使用した史料は、池田屋事件直後の元治元年(1864)6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡である(『会津藩庁記録』4巻、664〜668頁)。在京の会津松平家老臣の書簡ならば、新選組ともきわめて近く最も信用に足る史料の一つである。 原口氏はこの書簡を分析し、池田屋への出兵への経過を次のように述べる。新選組が古高邸を襲撃したところ、甲冑10組程、鉄砲2〜3挺、長州人との往返の書類があった、そのなかに「機会を失しなわず様」と記したものがあり、甚だ不審千万、きっと何か計画がある様子に見えた、その後何者かによって封印した土蔵が打破られ、甲冑や鉄砲が奪取られたことから、新選組が会津松平家へ「少しの間もそのままにしていてはいけないと思うので、すぐさま出動し長州を召捕りたい、そのための人数を拝借し、会津公用人も一人出張して頂きたい」と願ったというのである(意訳)。 原口氏はこの書簡に古高が「御所辺放火」を供述したという記載が全くないことから、計画の存在を疑問視した。 そして事件から4日過ぎた6月9日付の一橋慶喜書簡(松平慶永宛)に、古高が「風便を待ち、御所を焼払」う計画をもつものだったと突然「御所放火」が登場することを指摘する。その意味するところは実は御所辺放火計画はなかったのだが、慶喜らが周囲から長州人をはじめとする尊攘志士を弾圧したと非難を受けることをかわすため、(「史料的に確定は困難」とされてはいるが)一・会・桑権力(慶喜、会津松平家、京都所司代桑名松平家の連立政権)の誰かが、何者からも長州人の弁護ができない取締りの理由として、6月9日ごろから御所辺放火計画がでっちあげられた可能性が高いと結論づけるのである。 3.古高の供述内容 この説は新選組に興味をもつものにとってある種衝撃的である。新選組は古高が「何者」か知らず「かなりあやしいやつ」という印象だけで出兵し、偶然池田屋で関係者に出会い戦闘に及んだことになるからである。私はこの点の分析は正しいものと思っている。
なぜ印象だけで新選組は出兵したのだろう。私は新選組には「思い当たる」ふしがあったからと思っている。すでに八・一八政変前後から長州による京都放火、天皇の長州動座の噂が各地で流れていたのである。近藤勇自身も文久3年10月20日付宛先不詳の書翰で、八・一八政変以前に長州が「御所向残らず放火」「天皇を長州へ誘引致」すことを(意訳)計画していたと記している(現在所在不明、平尾道雄『定本新選組史録』73頁、新人物往来社)。新選組が古高を発見したとき、直感的に「あの一味」だと判断したのだろうと思うのである。 しかし古高を何者か確信をもたぬまま出兵したという点は賛成できるが、「御所辺放火計画」の実在を否定することには反対である。前回にも紹介した「新撰組より差出候書付写」(以下、「書付写」と略す)が存在するからである。筆者はこれを古高俊太郎の供述調書の良質の写本と位置づけていることもすでに述べた。 「書付写」によれば古高は自分たちの「計画」内容について明確に供述している。「木大砲、焼耐薬とも昨亥年(文久3年=1863)8月、河村半蔵より預りました、それは中川宮を焼撃するために用いるものでした」、「大高又次郎は、常に朝廷を畏れ、尹宮(中川宮)についても遥拝いたしていましたが、ひどいこと(八・一八政変で長州を追放したことを指す)をなさったので炮発いたすつもりでした」(ともに意訳)などとある。すなわち河村半蔵や大高又次郎らとともに、中川宮(尹宮)を「放火」(「焼撃」「炮発」)する計画だったというのである。 前述のように私は「書付写」について、古高の供述調書の良質の写本と評価はするものの、記された内容の全てが事実とは理解していない。逮捕されたものの心理として、「悪時」はなるべく小規模に供述し、自身や関係者への被害拡大を最小限に抑えようとするものだと思えるからである。そう思って丁寧に「書付写」を読んでみるとある「傾向」に気付く。それは古高が語る人物の大半が京都にいないことである。例えば「安田、川上、備州山中、右三人は但州銀山一揆(生野の変)の首領沢三位殿(宣嘉)を訪ね、四国へ渡海いたしました」、「河村半蔵は、2月末より兵募のため、隠岐国へ渡海致しました」、「元山太郎、吉山六郎は、水口へ行きました」、「楢林正水は(略)勢州へ行きました」(意訳)という感じである。 さらに興味深いのは河村半蔵の動向で、一度は「兵募のため」隠岐へ渡海したと述べているにもかかわらず、別のところでは「沢故主水正の行方を探索するため」と変わっている。これらの供述は必ずしも事実を述べているのではなく、被害の拡大を防ぎたい古高の可能な限りの虚偽と読み取るべきだろう。 注目すべきは、中川宮の「放火」についても、「6月4日、因州家来の山部隼太がやってきて申すには、只今大高又次郎方へ行ったところ、いよいよ近く中川宮を放火致すため相談しようとしたら、急考にはいまだ時節も少し早く思うので、しばらくのところ差し止め置くことにした」と聞いたあることである。中川宮「放火」を隠蔽せず自供してはいるものの、延期になったと収拾する点である。拷問にともない強要された発言かとも考えられるが、延期と付言した上での供述はかえってその存在の信用性がたかまるというものである。計画の全貌は明らかにできないが、少なくとも中川宮「放火」は、計画のなかに含まれていたと認めてよいと思われる。 ところで多くの者の連座を避けようとしている姿勢が濃厚ななかで、大高又次郎に関しては露骨に関与を認めている点は無視できない。あるいは河村半蔵もその一人に加えてよいかも知れない。河村は何者か不明であるが、私は宮部鼎蔵の変名の可能性があると思っている。ここでこの両人が池田屋事件で戦死した人物だということを想起したい。あるいは古高は何らかの事情で獄中でこの両人の死亡を知ったのではないか。そのため実際に関与したか否かに関係なく責任を彼らに押し付け、在世の仲間の連座を避けようとしたのではなかったかと感じられるのである。 「計画」が中川宮の「放火」を目指したものと明らかになると、気づかれることがある。当時の京都図によれば、中川宮邸は禁裏(京都御所)からほど近い、下立売門の東横に位置していた。これを放火することはすなわち、「御所辺放火」(「御所向放火」)を意味することにほかならないということである。「風便を待ち、御所を焼払」う計画の存在を記した6月9日付の一橋慶喜書簡の内容は捏造ではなく、事実とみてよい。 4.古高はいつ供述したのか では古高はいつ「計画」を供述したのだろう。ここまでの考察から池田屋事件ののちであることは間違いない。しかも6月7日付京都守護職会津松平家在京老臣の公的書簡に記されなかったのだから、さらにそれ以後、一橋慶喜書簡が記された6月9日までの間である。実はさらに限定できる情報がある。6月8日付佐藤彦五郎・児島鹿之助・中島次郎兵衛・外御一統宛の近藤勇書翰である。それには、
長州藩士浮浪等、追々入京致し、都ニて近々放火砲発致し、その虚ニ乗じ速やかニ朝廷を本国へ奪去候手筈、予メ事定め致し候ところを、兼て局中も右等の次第もこれ有り候やと心を用い、間者三人差し出し置き候より、五日朝、壱人召し捕り、篤と取調べ吟味候ところ、豈計らんや、右徒党一味の者一ニ白状に及び候(小島資料館本)とある。問題は古高逮捕以前に「放火」及び「朝廷を本国へ奪去」つまり「天皇動座」の噂があったところ、逮捕した古高がその一味だったという説明である。「書付写」にない「天皇動座」が記されていることにも注目すると、これは古高の供述をふまえて記された書簡でもなく、当時世間に流布していた「噂」を事実として記しているのである。近藤の私信はさきにふれた会津の公的書簡とは性格が異なる。必ずしも事実を伝える必要はない。むしろ留守を守る郷里の関係者に事を大きく伝えたい心理が働いても不思議はない。そのため噂を事実と認めて(あるいは思い込んで)「豈計らんや、右徒党一味の者一ニ白状に及び候」と記してしまったと考えられる。 すなわち古高の供述は6月8日、もしくは翌9日中になされた可能性が高いということになるのである。 冒頭の永倉の手記「浪士文久報国記事」の記載を思い返そう。「御所放火」と「天皇動座」、及び具体的な決行日まで記してあった。近藤の書簡に記された当時の噂をベースにさらに誇張されているのである。おそらく永倉は当時(あるいはその後に)得たさまざまな情報を自身のなかで整理し、手記に見えるような形にしてしまったと思われる。当事者の手記が貴重な史料であることは間違いないが、時間をへてしまうと正確な情報ばかりを記さない。これはその典型的な事例と思えるのである。 〔関係文献〕中村武生「新選組研究の回顧と展望」(『歴史読本』2004年3月号〈特集近藤土方沖田の新選組〉)
中村武生「古高俊太郎考―八・一八政変から池田屋事件に至る政局の一齣―」『明治維新史研究』第1号、明治維新史学会
中村武生「吉田稔麿論―部落史及び明治維新史研究の視点から」花園大学人権教育研究センター編『花園大学人権論集』12号、批評社、2005年
(※無断引用をかたくお断りいたします) |
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