▼▼▼「見直し・新選組」3 − 池田屋事件その1▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)とは何者だったのか

中村武生

1.古高俊太郎の逮捕

 新選組を最も有名にしているのが池田屋事件である。池田屋事件について三回連続で述べてみる。
 1回目は古高俊太郎(1829〜1864)という人物を取り上げる。彼は当時、枡屋喜右衛門と名乗り、京都・西木屋町四条で商いをしていた。元治元年(1864)6月5日早朝、新選組はその屋敷を襲撃し、不審者として古高を逮捕する。古高は壬生屯所に連行され、当時進められていた「京都放火(御所放火)計画」を供述したとされるのだが、この際拷問が行われた。これは新選組のテレビドラマなどでは必ず描かれるシーンである。新選組に興味のある方でこれを知らない方はほとんどいないだろう。
 なぜ古高の逮捕が池田屋事件のきっかけになるのか。彼の逮捕を受けて在京の長州系尊攘派志士たちが池田屋に集まるからである。目的は彼の奪還である。
 当時長州藩の京都留守居役だった乃美織江がのちにまとめた手記には、古高逮捕を知って藩邸にやってきたある志士の「壬生浪士屯所へ罷り越し一戦に及び候ても俊太郎を取返し申すべし」という意見を記しているほか、桂小五郎(木戸孝允)がやはりのちに記した覚書にもはっきりと「此夜諸士ト会同シ古高ノ縛ラレテ新選組中ニ在ルヲ急襲シテ奪還セント欲スルノ議アリ」とある。
 長州側がどういう形であれ壬生屯所襲撃を考えていたことはおそらくまちがいない。その池田屋へ逆に新選組が襲撃をかけた、それが池田屋事件である。それゆえに古高逮捕がその直接のきっかけだといわれるのである。
 ところで話題の古高とはどんな人物であったのか。長州藩関係者が壬生屯所を襲撃してまで奪還しようというのはかなり危険な行為である。なぜそうまでして彼を救出しなくてはいけなかったのか、それは「京都放火(御所放火)計画」関係者だったからであろうか。実はそれについてこれまでほとんど明らかにされてこなかった。しかし近年古高に関する信用できる史料がまとまって確認され、踏み込んで論じられることが可能になってきた。

2.信用できる史料の出現

 信用できる史料とは大きく分けて二種類ある。一つは新選組研究家・菊地明氏が発見した、国立国会図書館蔵「維新前後之雑記」所載の「新撰組より差出候書付写」である(以下、「書付写」と略す)。細かな論証ははぶくが、私はこれを古高の供述調書の良質の写本と判断した。
 もう一点は戦前の伝記(滋賀県栗太郡教育会『殉難国士古高俊太郎伝』、1915年)におさめられながら「無視」され続けてきた古高宛書簡45通である(以下、「45通書簡」と略す)。「無視」され続けてきた理由は一様ではないが、一つには原本が全く見つかっておらず、信用してよいか躊躇われてきたというのがあると思う。この周知の史料が息を吹き返したのは、1996年春、金沢市在住の古高俊太郎子孫宅で古高宛書簡17通が確認されたためである。この17通は全て「45通書簡」に含まれるものであった。そこでこの17通の原本を、周知の活字文と比較したところ、ほぼ忠実に翻読していたことが明らかになった。これにより私は17通だけでなく、原本未発見ではあるが、残りの28通も使用に足るものと断定した。

3.家庭環境

 以下、「書付写」及び「45通書簡」などによって、志士古高像をあぶりだしてみよう。
 古高は近江国栗太郡古高村(現・滋賀県守山市古高町)の出身である。母すみは公家広橋家家来松本多門の娘。父周蔵は大津代官石原清一郎の手代であったが、俊太郎17歳(数え年、以下年齢は全て同じ)のおり退職し、山科毘沙門堂門跡・慈性法親王の家来になった。父死去のあとは31歳の俊太郎が後継し、引き続き山科毘沙門堂門跡に仕えた。
 なお伝記類に公家烏丸光徳に和歌、同家儒臣大沢晩翠に漢学、梅田雲浜から儒学をならったとあるが、先にふれた乃美織江の手記に「俊太郎義はかねて烏丸殿御家来同様立入、正義之者」とあるほか、安政の大獄で捕らえられた梅田雲浜の供述調書にも古高父子との関係がふれられており、ほぼ事実とみてよかろう。そうすると古高は公家社会と関係が深い家庭環境にあったことが指摘できる。
 くわえて興味深いのが、古高家は系図上、長州萩藩毛利家の遠縁にあたることである。その関係はかなりややこしいが重要なことなのであえて述べておく。母すみの父松本多門(俊太郎の祖父)は、すみの母を失くしたあと再婚する。その再婚相手(後妻)は里といい、松本多門と再婚する以前は長州支藩・徳山藩主毛利広鎮の側室で、その男児を産んでいる。その男児は堅田駿河といい、萩藩世子(次期藩主)毛利元徳の腹違いの兄にあたる。つまり古高の祖父が、萩藩の次期藩主と縁戚のものを後妻にしていたというわけである。

4.古高俊太郎の位置づけ

 「書付写」によれば、古高は文久3年(1863)の八・一八政変ののち長州藩士寺島忠三郎と接触する。そして政変によって困難になった有栖川宮家と長州藩との交渉の仲介を依頼される。その際長州側に信用された根拠がこの「縁」であった。現代のわれわれの視点では何の役にたちそうもない浅薄な「遠縁」のように思えるが、当時の諸藩がわずかな血縁を頼って朝廷に接触しようとした事例はいくつか挙げることができる。古高が公家社会と深いつながりがある以上、ありえないことではない。
 くわえて最初に述べたように当時の古高は商家へ養子に入り、枡屋喜右衛門と名乗っていた。しかも枡屋は大名家(筑前福岡藩)の御用達でもあった。社会的に信用のおける商人であれば、大名や親王・公家屋敷を出入りしても何ら不審はない。
 以上の点から、八・一八政変後の長州藩にとって古高は、朝廷工作を進める上での協力者として最も好条件をもった人物だったと位置づけることができる。

5.長州藩・有栖川宮家・尊攘派志士との交流

 「45通書簡」は、その具体的行動を読み取れる史料群であった。いくつか例を挙げてみよう。
 まず有栖川宮家と長州藩の者の集会の仲立ちである。元治元年1月初旬、長州藩尊攘派の代表的人物久坂玄瑞が、「大仏山田家」なる場所で有栖川宮家の諸大夫粟津義風と面談予定だった。が、久坂の都合で困難になった。これを「桜井」こと野村和作(のちの野村靖)が、古高に中止の依頼をしている(元治元年1月6日付、桜井書簡)。
 同月下旬にも同様のことがあった。20日、同じく野村和作が、粟津及び同家諸大夫前川茂行との面談を古高に依頼したほか(同年1月20日付、桜井書簡)、23日には長州系尊攘派志士、「林田勘七郎」こと淵上郁太郎が、当日開催予定の久坂玄瑞などと粟津・前川の会議の時刻を問い合わせている(同年1月23日付、林田勘七郎書簡)。いずれも長州側から有栖川宮側へ直接連絡せず、古高に依頼しているところに注目したい。
 その他、有栖川宮側から接触を求めたこともたびたびであった。有栖川宮家から「松山忠助」なる人物を長州藩邸に潜伏させることがあったが、これも古高に依頼している(同年2月25日付、粟津義風・前川茂行書簡)。どうもこの人物は潜伏しているという自覚が薄かったらしく、「白昼往来」し、乃美織江や寺島忠三郎ら長州藩邸関係者を閉口させた。その際、粟津は古高邸への潜伏を願ったが、古高も応じられなかったらしい(同年3月25日付、粟津義風書簡)。そのためか粟津から古高へ「参殿」(有栖川宮邸?)を要請している(同年3月28日付、粟津義風・前川茂行書簡)。
 長州藩とは別に、尊攘派志士から個人的に依頼を受けた場合もある。「石川」こと、土佐藩の中岡慎太郎が、「大島三右衛門」こと西郷隆盛が上洛しているか否かの問い合わせをしている(同年3月17日付、石川書簡)。面白いのは、「僕より中沼(了三)に問い合わせてみるべきかと思うのだが、(中沼は)未知の人なので突然依頼することはよろしくないと思う」(意訳)といって、古高に「探索」依頼をしていることである。自分が困難なことでも古高ならやってくれるという期待・信頼が感じとれる。
 同年3月28日付の「森新蔵」なる人物の書簡では、古高に世話になった礼を述べるとともに、このたび同藩の者が上洛しまた世話になるとした上で「愚兄も同断」と付言している。「森新蔵」が何者か不明だが、古高とかなり濃密な交流をしていることが分かる。

6.むすび

 以上のことから、古高が八・一八政変後の長州藩や、在京の尊攘派志士にとっても必要不可欠の存在であったことが明らかになろう。これまで「京都放火(御所放火)計画」のメンバーとしてのみ古高が捉えられていたが、そのことがかりに無くとも、長州藩の有栖川宮家との折衝のかなりの部分を掌握していたと考えられる以上、長州藩関係者が彼の逮捕にあわてることはいささかも疑問がわかない。正規の長州藩士はともかく、脱藩した尊攘派志士たちが古高奪還のために暴力的行動を計画することは充分ありえることである。
 しかしかといって「京都放火(御所放火)計画」は無視されてよいものではない。次回は「池田屋事件その2」として、その実態解明を試みる予定である。

[史料]

乃美織江の手記・・山口県文書館蔵「池田屋事変」(毛利家文庫のうち)
木戸孝允の覚書・・東京大学史料編纂所蔵「松菊公長州勤王始末覚書」(維新史料引継本のうち)
(引用した史料は、読みやすいようにおくりがなを加えたり、助詞の漢字をひらがなに改めるなどしています)

〔関係文献〕

中村武生「池田屋事件の周辺―古高俊太郎像の再検討」『新選組を歩く』別冊歴史読本62号、2003年
中村武生「新選組研究の回顧と展望」(『歴史読本』2004年3月号〈特集近藤土方沖田の新選組〉)
中村武生「古高俊太郎考―八・一八政変から池田屋事件に至る政局の一齣―」『明治維新史研究』第1号、2004年

(※無断引用をかたくお断りいたします)

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