▼▼▼▼▼▼「見直し・新選組」2 − 大和屋事件と芹沢鴨▼▼▼▼▼▼

中村武生

1.良質な同時代史料をつかう

 珍しい「新選組」を描こうと思う。
 過去の事実を明らかにする場合、まず使用すべきは「良質な同時代史料」である。対象とする「事件」の当事者によって、「事件」後まもなく記された文書・記録が最も望ましい史料といえよう。が、現実にはそんなうまい条件は少なく、ある程度の譲歩が必要である。例えば当事者によるものには違いないが、晩年の回想録であったり、事件直後の手紙・日記だが当事者のものではなく、「横」にいた人の手によるものといったようなことである。ただこの程度であれば「譲歩」といってもたいしたことはない。比較的良質な史料といえるだろう。
 大和屋事件について見てみよう。どんな史料が残されていると思われるだろうか。
 この事件について最も頼るべき史料は、会津藩公用方職員広沢富次郎の手記「鞅掌録(おうしょうろく)」(『会津藩庁記録』3所収)である。彼の主君、会津藩主松平容保は、京都守護職として京都の治安を守る最高責任者であった。広沢はいわば現場担当者で、職務上事件の報に接した。しかも会津藩公用方は新選組の上部組織であるから、新選組の「横」にいたものとしてきわめて貴重な史料といえる。
 ところがこれを見ると、「浮浪ノ徒数拾人」による行為とあるのみで、具体的な「犯人」についての記載がない。広沢は会津藩の本拠地「黒谷」で町奉行から連絡を受け、出動の機会を待っていたが、夕方になって鎮火したため出動しなかったという。実際に現場へ行ったわけではないのだ。だから広沢がこの手記を認めた段階では「犯人」の特定は出来ていなかったかも知れない。しかしもし芹沢ら新選組が「犯人」であるなら、立場上広沢らはまもなくその事実に接したことだろう。
 この史料だけでは、「浮浪ノ徒数拾人」が芹沢鴨ら新選組であるかどうか、にわかに判断ができない。が、その後を知れるものがある。
 会津藩関係者は、維新後に『京都守護職始末』という書物を編纂する。そのなかでこの事件を取り上げているのだが、おもしろいことに、当該期の長州系尊攘派志士の傍若無人ぶりを示す一事例として紹介しているのである。編纂にあたってはおそらく「鞅掌録」も参考にされたと思われるが、会津藩関係者は維新後においても、本事件を「身内」が起こした事件という扱いをしていないのである。これは注目してよい。
 広沢の「鞅掌録」よりも、事件を詳細に伝えた同時代史料はまだいくつかある。が、良質なものはほとんどない。事件の当事者以外の者が、他人から聞いた話を書き留めた記録ばかりなのである。こういう記録は総称して通常「風説留(ふうせつどめ)」と呼ばれている。
 幕末は「情報」の時代であった。日々情勢が変化する。例えば諸藩は時勢に遅れないように、京都や江戸の藩邸を中心にさまざまな情報収集を行った。どんな些細な情報でも、キャッチすればすぐさま真偽判断する前に関係者に送ったようである。こうした情報を書き留めたものが「風説留」である。だからここには、多数の「事実」とともに「デマ」が含まれている。「風説留」に含まれた情報を「事実」と認定し、安易に研究に使用することはきわめて危険なことなのである。その風説留にすら「犯人」はほとんど特定されていない。新選組とするものは稀少である。
 新選組(「壬生浪人」)が事件に関与したと記す唯一の史料は「莠草年録(ゆうそうねんろく)」なる記録である。事件そのものについて大変具体的な内容が記されており、一見すると信用に足ると思われるかも知れない。
 しかしこれは「松代藩在京藩士片岡春煕」の「日録」とされる(菊地ほか一九九五年)。松代藩は会津藩と違ってこの事件の事実を詳細に知る立場にあったとは聞かない。その藩の片岡春煕がこの事件とどう関係するのか、またその情報はどのようにして得たか、などが明らかになればまた違ってくるのだが、現時点では全く不明である。するとこの情報も「風説」の類といってよく、残念ながらこれだけでは信用にたる情報とはいえない。いかに内容が具体的であろうと、出所不明のものは安易に使ってはならないのである。 興味深いのはその「莠草年録」でさえ「壬生浪人」の関与を記すのみで、芹沢鴨の名を登場させないことである。
 「芹沢の犯行」説が同時代史料に全く登場しない。それにもかかわらず「通説」化している。なぜこんなことがおきたのか。そもそもどこから出た話なのであろうか。

2.受け継がれた「誤解」

 結論を急ごう。芹沢鴨の「犯行」と最初に記した文献は、西村兼文「新撰組始末記」である。
 同書は明治時代に書かれた新選組の古典的研究書で、筆者西村兼文(1832〜1896)は新選組と同時代の人である。新選組が一時屯所にしていた西本願寺の侍臣の家柄で、新選組隊士と交流も深かった。本書には別の記録には記されていない新選組に関するエピソ−ドが少なくなく、それゆえ古典というよりも「史料」として貴重な扱いを受けてきた。彼が書く以上「事実」と思われたわけだ。
 しかし西村は単に往事を語る「古老」ではない。確認されたものだけでも19点もの著作をもつライターであった。経験したことだけが書かれているのではない。「調査成果」が含まれているのだ。本書に記された事柄には、池田屋事件の部分をはじめとして、多数の事実誤認が指摘できる。つまり本書は古典としてならともかく、「史料」扱いすることはきわめて危険なのである。
 芹沢「犯行」説は、昭和初年に刊行された作家子母沢寛の『新選組始末記』などにも採用され「通説」化した。「新選組の"最前線"の研究者」はこの「常識」にひきずられ、同時代の信用できない史料にさえ記されない話であるにもかかわらず、そのまま受け継いでしまったのである。

小結

 百歩譲って「莠草年録」や「新撰組始末記」がいうように、新選組や芹沢鴨が「犯人」であったとしよう。しかし歴史の方法(史料批判)にのっとれば、良質な史料の不足によりどうしてもその結論は導き出せない。これが学問の限界なのだ。タイムマシーンがないいま、これまでつちかってきた方法によって過去の分析を行うしかない。
 この立場にたち、新選組研究において、一旦古典的研究書や信用できない「風説留」を排除し、良質の同時代史料のみ使用するという「ストイック」な姿勢をもつ必要がある。
 その結果生まれてくる「新選組」はおもしろくないかも知れない。しかし実はそのとき最も「真実」に近い新選組が浮かび上がってくるのである。

〔参考文献〕

菊地明・伊東成郎・山村竜也編(1995年)『新選組日誌』上巻(新人物往来社)
中村武生(2004年)「新選組研究の回顧と展望」
             (『歴史読本』2004年3月号〈特集近藤土方沖田の新選組〉)

【付記】

 本稿は2004年1月8日に脱稿したものである。その後、同年3月25日、宮地正人氏『歴史のなかの新選組』(岩波書店)が刊行された。そこで宮地氏は、「莠草年録」の別の部分を読んだところ、記主片岡春煕が実際に現地に行き、「噂」の虚構を確認する記事のあることを明らかにされた(184〜185頁)。すなわち「壬生浪人」の関与を記す「莠草年録」の情報は信ずるに足りないとした筆者の意見は裏付けられたことになる。

(※無断引用をかたくお断りいたします)

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