(冒頭のあいさつで)
「本日、競技生活の第一線を退くことにいたしました。これまで応援していただいた日本中、世界中の多くの方々、また世界中の選手のみなさんに感謝したい。今後はスポーツの環境づくりに取り組んでいきたい」
‐引退を決断した理由は。
「きょうまで政治家と選手の両立を目指してやってきました。私はみなさんの応援によって、前へ前へと突き動かされてきました。その中でスポーツ全体の振興やスポーツの環境を整えるということに対しての気持ちが強くなってきた」
‐これまで現役生活で一番印象に残った試合は。
「田村亮子時代、谷になってから、そして母親になって、多くの試合に出させていただいた。どれも思い出深い試合ですが、ひとつは中学3年生、15歳で世界の舞台に立った福岡国際。あの大会は今でも印象に残っています。2000年のシドニー、結婚してからの04年の連覇。そして、07年の(世界選手権での)『ママになってからの金』というメッセージを送れたこと」
‐引退を決断するまでに悩んだか?
「悩むということはなかったです。国政に進んでスポーツ議連の会長を務める中で、もっとスポーツの環境を充実させていかないと、と思った。世界に比べて日本は遅れているし、せっかく、国政の場に送ってもらったのだから、そういう場で力を発揮しようという気持ちが、競技よりも強くなった」
‐悔いはあるか。
「決断にあたって悩んだことはなかったので、悔いはない。アマに引退という言葉はないといいます。海外でも一度辞めた選手が復帰することはよくあります。そういうことも心強く思います」
‐政治と柔道の両立はできていた。
「公務はあったけれど、政治活動の合間でも、夜遅い時間や早朝にトレーニングを積み重ねていました。両立はできていた」
‐決断した理由に年齢的なこともあるか。
「20代をすぎたころから、下り坂になるとよく言われますが、そうではない。20代でできなかったことが30代になって、30代でできなかったことが40代になってできることがある。スポーツに年齢は関係ないと思う」
‐これで重圧から解放される。
「これまでプレッシャーを感じたことはない。大きな期待を力に変えてきたので。ずっと重圧というより応援ととらえていた」
‐家族は何と言っている。
「主人(巨人・谷)には13日の夜に話しました。これまでもそうですが、私のことをずっと応援してくれているので」
‐2016年に復帰する可能性はあるのか。
「まあ、できる環境が整えば」