まず、会報「まろばし」が刊行されました事、とても喜び、楽しみにもしています。私が旧転会会報「轉」三号の編集子だった昭和五十九年当時は、まだ会員も少なくて情報交換の場どころか、役員諸兄の提供でしか原稿収集が出来ないと云う状態だったので、これからの会報「まろばし」はとても期待が持てると思います。必ずや紙面の充実した会報となり、役員の方々も大変だと思います。この場を借りて感謝の意とエールを送ります。
さて、私の入会した昭和五十年頃は、作り手不足の為に袋シナイも新陰流の木刀も買えずに出来上り待ちの状態でした。稽古の時、当時は打太刀の人が少なく、使太刀は順番待ちだったので、順番待ちの人から袋シナイを借りて稽古するのが常でした。
入会して二、三ケ月程経ったであろう頃に、渡辺先生も気の毒にと思われてか、老先生(遠山忠敏先師)も多分使われたであろう袋シナイを私に貸して下さり、私の袋シナイが出来上る迄の四、五ケ月間使わして戴きました。そして、又その袋シナイは、袋シナイを持っていない人達の間を転々として、いずこへか……(多分破損して使用不能となり、誰ぞが処分したと思われる)。袋シナイをお借りする前の二、三ケ月間は、仕方なく現代剣道用の木刀を買って、いつもの公園や路地裏での一人稽古に励んだものでした(袋シナイよ!早く出来上れー、と)。そのお借りした袋シナイの手元の方に「渡辺」と黒いエナメルで達筆に名前の書かれていたのを、はっきりと記憶している。
「あぁ!あの袋 シナイ何処へ行ってしまったのか、私以降に使用していた人達をもっとよく把握しておけば良かったなぁー。」と今頃になって、その時は自分の袋シナイが手に入り有頂天になっていた自分が悔やまれ、残念でならない。その後、この二十二年間に購入又は譲り受け、或いは作りもした袋シナイは十本を数え、現在は三本をローテーションして使用している。
二十五年前、自宅の縁側でシナイを削っている中に亡くなられた老先生が、生前やはり同じ場所でシナイを削りながら「最近の人は力が強くて、すぐ竹(シナイ)が折れてしまう。」とおっしゃっていたそうです(勿論ナカナカ無駄な力が取れないと云う事でしょうが)。又昔、竹(シナイ)がすぐ折れてしまうので、二ッ割り四ッ割りの竹を入れた袋シナイで稽古をする後輩も居て、打太刀の両手首が異常な程に腫れて稽古が続けられないと云う事も有りました。確かに当時は竹(シナイ)が折れてしまう程、稽古日が多かったが、相手の稽古に支障をきたす様では、流祖が考案された袋シナイの意味が無い。何故淡(は)竹(破竹、華奢で折れ易い)で八ッ割りなのか、良く考えて欲しいものです。
又、何と云っても自分の道具(エモノ)ですから、入念に手入れをし、大事に使用して頂きたい。そう云えば十年程前の柳生合宿の時に、剣道具店の窪田さんが「近頃、自分の剣道具を宅配便で正木坂道場へ送らせ、稽古、合宿が終わると、又宅配便で送り返す様な不心得な教授連が増えて居る。自分の道具をナンと心得るか。」と憤怒されて居たのを思い出す。
私がまだ初心者の頃、「誰々さんは上手いですね、強いですね。」などと同輩達が云うと、先生、先輩達が『太刀(カタ)を学ぶ上で、新陰流では強い、上手いなどとは云わずに「出来ル」と云う。「出来ル」は強いし上手いし美しいのだから「出来ル」に成りなさい。』と云われました。袋シナイだからこそ「悪シケレバ当ル」し、「出来ル」事が容易に確認出来るのでは?。あの袋シナイに込められた「出来ヨ出来ヨのこの念(おも)い、お前に念いは伝わるか、違えてくれるな新陰の道」、と。
「一足一刀 長短一味」 合 掌
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