2010年10月15日
大会会場のテントで実施された少年野球検診。関節の動く範囲や痛みの有無などを診察する(提供写真)
右ひじの「離断性骨軟骨炎」と診断された池内真吾(いけうち・しんご)君(14)が「1年間の投球禁止」を告げられたのは、2006年8月のことだ。
投球だけでなく、バットを振ることやトンボでグラウンドの整備をすることも禁止。川内北少年野球部では、左手だけの球拾いと声だし、仲間の練習を見ながらグラウンドの外周を走り続けることしかできなかった。
長期にわたって好きなスポーツができないことは、子供や若者にとってはつらいことだ。我慢できず治らないうちに練習を始めたり、スポーツそのものを辞めてしまったりする例も少なくない。池内君は「高校野球で甲子園に行く」という夢が、心の支えだった。
小松島高校(徳島)のレギュラーだったいとこが目標だった。06年3月の選抜大会で、甲子園球場に初めて行った。お祭り騒ぎだったアルプス席の光景と大舞台でプレーするいとこの雄姿が、ずっと目に焼きついている。「絶対ここに来るんや」。その思いで、投球禁止にも耐えることができた。
それでも、走るだけの練習は単調で飽きやすい。そんなときに助けてくれたのが「駅伝」という、もう一つの目標だった。
黙々と走り続けた池内君は、秋の校内持久走大会で3位に入賞。駅伝を指導していた先生から「やってみんか」と誘われ、駅伝の朝練に参加し、放課後も野球部の練習以外は駅伝の練習で走り続けた。「走る楽しさが分かってきたんやね」という母の由美子さんに、普段はおとなしい池内君は言い返した。
「何を言いよるん。おれは野球をしたいけん走りよるんじゃ。何ら変わりない」
野球部の練習中に一度だけ無意識にトンボでならしてしまったこともあったが、それ以来、右ひじにテープを巻いて意識するように努めた。普段の生活でも負担をかけないよう気をつけたこともあり、予想以上に早く、はがれ始めそうだった軟骨は修復していった。
カメラ付き携帯電話でX線写真を毎回写してきた父の一洋さんは、12月の検査で松浦哲也医師に思いをぶつけた。この日の写真は、どう見ても完治したように思えたからだ。
「そろそろいけますね」
池内君も同じ思いで答えを待ったが、松浦医師の言葉は期待していたものとは違った。
「まだ完治してません。もう少しです」
この状態で復帰を許せば、再び悪化してしまうことを松浦医師は分かっていた。
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