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日本海軍

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第二次ソロモン海戦 68周年記念特集

イメージ 1
復元性能改善工事後、全力公試中の航空母艦『龍驤』(昭和9年9月6日 佐多岬標柱間)
Sep.6,1934:CVL "Ryujo" on sea trials at Satamisaki-oki.
 
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 本日は「第二次ソロモン海戦」68周年記念特集として、第二次ソロモン海戦関連動画をお送りします。
 
 
 8月8日の記事「第一次ソロモン海戦 戦勝68周年記念特集」で取り上げた動画が好評でしたが、あの動画は正確に史実を描写しているわけではありませんでしたので、史実をより的確に把握していただくために、管理人が厳選したCG動画と実写映像をお送りします。
 
 
 南太平洋海戦と題名にありますが、映像冒頭のオリジナルのナレーション通り、第二次ソロモン海戦に空襲を受けるエンタープライズの映像です。
 NHKがいい加減な仕事をして、南太平洋海戦と間違えて放送したために誤って流布したものです。これとは、別に南太平洋海戦時のホーネットの映像も現存しております。海空の実戦を知らない人には、これを見ることをお勧めします。
 
 
 上の動画は空中戦とはこんな感じで行われますと言う意図で置いて見た動画です。気付かれた方もいるかと思われますが、 珊瑚海海戦時の岩本徹三海軍中尉(終戦時)のCG動画ですが、何故か坂井三郎海軍少尉(終戦時)の動画も混ざっています。動画編集上のご愛嬌と言うことで許してあげてください。w
 
 
 上の動画は、時間の無いサラリーマン向けand軍艦の艦砲射撃を知るのに適した動画です。この動画には、数分間に及ぶ利根型重巡洋艦の射撃シーンの一部しか映っていません。昭和天皇崩御の際にノーカットバージョンが地上波で放送されたのですが、"YouTube"にアップされていませんでしたので、これで代用しました。(T_T)
 
 最後に日本海軍動画発狂バージョンです。何も考えずにお楽しみ下さい。
 
 
 
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戦艦「長門」が被弾、床には艦長の首が・・・ ある海軍中尉の太平洋戦争記(2)

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戦艦「長門」が被弾、床には艦長の首が・・・
ある海軍中尉の太平洋戦争記
2010.08.11(Wed) 中野 哲也
 
(1)からの続き

戦艦内で横行していた苛めや暴行、柱にしがみ付かせて・・・

 長門が世界に誇っていた41センチ主砲――。松本さんはそれを動かす水圧機や空気圧縮機の指揮官として着任した。ところが、深夜になると別の任務を遂行しなくてはならなかった。
 
 毎日午前0時過ぎから、松本さんは艦内見回りに出た。下士官が兵隊を苛め、暴行する事件が頻発していたのだ。それに耐えかね、首を吊って自殺する兵隊もいた。「まさかと思うような所、例えば焚いていないボイラーの中で下士官が兵隊を棍棒で叩いていた」
 
 陰湿な苛めの中には、「セミ」と呼ばれるものがあった。兵隊を柱にしがみ付かせて、「ミーン、ミーン、ミーンと鳴け!」「もっと大きな声で!」――と命じるわけだ。それを見つけると松本さんは「こら、止めんか」と下士官を厳しく叱責したから、兵隊からは随分と慕われていたようだ。
 
 「上司の命令は天皇陛下の命令と心得よ」という論理で、苛めや暴行が正当化されるという「階級社会」。「敵」は連合国だけではなく、帝国海軍の組織内部にも潜んでいた。戦争は人間性を著しく捻じ曲げ、精神をずたずたに荒廃させてしまう。
 

戦艦は小さな役所で「ハンコ社会」、家族宛ての郵便は「検閲」

 戦艦の内部では、役所と同じく事務作業も少なくない。松本さんによると、「ハンコ社会」だったという。
 
 例えば、二等兵を一等兵に昇進させる場合、まず下士官の曹長が士官の松本さんに「御印をいただきに参りました」。松本さんは当該兵の在任期間などを確認した上で、艦長室へ書類を持って「御印をいただきに参りました」
 
 兵隊が家族に手紙を出すことは許されるが、必ず士官が「検閲」していた。大義名分は戦況など機密漏洩の防止だが、前述した苛めのことなどに触れると、士官が「こういうことは書くな」と書き直しを命じた。
 
 当時、日本は米国に追い詰められ、本土決戦の準備を急いでいた。女学生まで動員して軍が「竹槍で(米爆撃機)B29を討ち落とせ」とキャンペーンを始めると、松本さんは「もう駄目だ」と思い始めたという。
 
 松本さん自身も長門の工作室で鉄パイプを斜めに切り、砥石でピカピカに磨いていた。「鉄槍」でB29に立ち向かうつもりだったという。
 
イメージ 2
駆逐艦改丁型竣工12番艦『初桜』 (昭和20年8月27日 相模湾) 米空母Shangri-Laより撮影 終戦直後、相模湾に入泊した連合国艦艇に連絡のため接近中
Aug.27.1945 Destroyer "Hatsuzakura" at Sagami Bay.
ブログ旧日本海軍・艦艇写真のデジタル着彩さんの「駆逐艦『改丁型(橘型)』 F55B Class Destroyer」より引用。

「長門」艦橋が被弾、床には艦長の首が・・・

 1945年5月、松本さんは長門から駆逐艦「初桜」へ異動するよう命じられた。その際、「雲の上の存在」だった長門艦長の大塚幹少将が「君は第一線の駆逐艦に行くのだから、お国のために頑張ってくれたまえ」と激励をしてくれ、感激したという。
 
 7月18日、横須賀港では長門、そこから400〜500メートル離れた所に松本さん乗り組みの初桜が停泊していた。すると突如出現した米軍機が猛烈な空襲を始め、長門の司令塔である艦橋が被弾した。
 
 松本さんが長門の救援に向かい艦内に入ると、かつての部下が足を撃ち抜かれており、「私やられてます。野球のバットで足を殴られたような気がします・・・」――。松本さんは軍医を必死で探し回ったが、既に戦死していた。
 
 長門の艦内は「地獄」の様相を呈していた。何人もの兵隊がはらわたを出し、血塗れで床に転がっている。艦橋に行ってみると、松本さんを激励してくれた大塚艦長の首が吹き飛ばされていた。
 
 それでも長門は海軍の戦艦で唯一生き残り、終戦を迎えている。戦後、米軍が接収してビキニ環礁での原爆実験に使い、1946年7月に沈没した。今なお、太平洋の海底で静かに眠り続けている。
 
イメージ 1
米軍管理下の戦艦長門型長門』 (昭和20年11月12日 横須賀)
Nov12,1945 The Nagato-class Battleship "Nagato" under the control of the United States Armed Forces
ブログ旧日本海軍・艦艇写真のデジタル着彩さんの「戦艦『長門』 Battleship Nagato 1945」より引用。

終戦直後、津軽海峡に捨てた「毒ガス弾」数千発

 中尉に昇進していた松本さんは青森県・大湊の陸上輸送部隊へ異動を命じられた。冒頭で記したように、ここで松本さんは1945年8月15日の玉音放送を聞いて終戦を迎えた。
 
 ところが、その日から松本さんはもの凄く忙しくなった。当時、海軍は山の中腹に洞穴を掘り、数え切れないほどの毒ガス弾を極秘に貯蔵していた。米軍の本土上陸後、それで撃退しようと考えていたのだという。
 
 毒ガス弾は国際法で禁止されており、松本さんの部隊は突然の終戦に激しく動揺した。「敵が進駐する前に全て捨てろ」という命令が下され、指揮を執った松本さんは「津軽海峡のいちばん深い所に全弾捨ててこい」と部下に命じた。
 
 大量の毒ガス弾を山からトラックで運び出し、ボートに載せて沖合から海中深く沈めた。その正確な数は分からないが、松本さんは「全部捨てるのに3日間かかり、3000〜4000発ぐらいあったのではないか」と証言する。「今も津軽海峡の深い所に毒ガス弾が眠っているはずだが、将来どうなるんだろうか・・・」
 

ラバウルから上海から・・・復員兵を大量輸送

 松本さんが8月30日付で召集解除されると、部下が大量の海水を沸かして「塩」をたくさん作ってくれた。「内地には塩が不足しているそうですから、これをお持ちください」
 
 復員途中で見ず知らずの人に塩を上げたら、たいへん喜んでお返しにコメをくれた。京都の親戚のところに寄ると、小さな子どもが雑草を食べていたから、もらったコメを全て置いてきたという。
 
 復員後も、松本さんの「戦争」はまだまだ終わらなかった。
 
 松本さんは復員船に乗り込んで輸送業務に汗を流し、日本軍が一大拠点としていたラバウル(現パプアニューギニア領)から3航海でおよそ1万人を連れて帰って来た。
 
 「祖国へ帰れるぞ」――。船内は喜びに沸き返っていた。赤チンでシーツを染めて女性のドレスに仕立て、踊り始めた兵隊がいた。
 
 松本さんも音楽好きで商船学校の合唱隊に所属していたから、高峰三枝子や上原謙のヒット曲を思い切り歌った。すると、誰かが薬きょうで鐘を作り、NHKのど自慢のように「カン、カン、カン」と鳴らしてくれた。
 
 「戦争中は歌なんか歌ってみようものなら、『貴様それでも日本男児か』と叩き殺されるから、封印していた。でも本当は、歌いたくて歌いたくて堪らなかった」
 
 中国からも復員兵を大量に輸送した。ある日、上海港の岸壁に誰かがシェパードを連れて来ていた。しかし復員船は犬の持ち込み禁止だから、置き去りにするしかない。出航してからも、シェパードは岸壁から飼い主を見送り続けていた。
 
 「乗せてやりたかったんだが・・・。中国人が引き取ってくれただろうか。いつも思い出すんだよ、シェパードがずーっと見ていたんだ」――。88歳の誕生日を迎えたばかりの松本さんは、まるで昨日のことのように記憶している。
 

海上保安庁で活躍後、戦友の冥福を祈る毎日

 1949年12月、松本さんは海上保安庁に入庁し、数々の巡視船に乗り組んで機関士や機関長として活躍した。高知、大阪、神戸、横浜、函館、新潟、釧路と渡り歩き、「海の安全」を守り続けた。51年に誕生した長男には「太平洋のごとく、心の広い人物になってほしい」と願い、洋と名付けている。
 
 松本さんは国家に忠誠を誓って生死の境をさまよい、青春時代は吹き飛ばされて兄弟や多数の学友を失った。だが、「そういう教育を受けてきたからね・・・」と語るだけで、3時間に及ぶインタビューでも恨み言は全く出てこなかった。
 
 妻、茂子さんとともに商船学校時代からの膨大な資料や写真を一つひとつ丁寧に整理しながら、松本さんは戦友の冥福を静かに祈る日々を送っている。
 
 戦後日本の復興・発展を「奇跡」で片付けてはならない。戦争を挟んで国民一人ひとりが歯を食いしばり、努力を積み重ねてきた賜物のはずだ。未来を担う次世代に伝えていきたい。


jbpress.ismedia.jpより引用。
 
 
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戦艦「長門」が被弾、床には艦長の首が・・・ ある海軍中尉の太平洋戦争記(1) 

イメージ 4
公試に向け出航する航空母艦『海鷹』(昭和18年11月15日 徳山沖)旧大阪商船「あるぜんちな丸」 Nov.15,1943: CVM Kaiyo on sea trials at Tokuyama
 
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戦艦「長門」が被弾、床には艦長の首が・・・
ある海軍中尉の太平洋戦争記
2010.08.11(Wed) 中野 哲也
 
イメージ 2
松本 太助氏(まつもと・たすけ)
1922年8月京都市出身 44年9月神戸高等商船学校卒、海軍少尉 11月空母「海鷹」 45年1月戦艦「長門」 5月駆逐艦「初桜」 6月海軍中尉 復員・石炭輸送業務を経て49年海上保安庁入庁 巡視船「宗谷」首席機関士、同「のじま」機関長、第三管区海上保安本部船舶技術部長などを歴任 82年退職(筆者撮影)
 
 
から65年前の1945年8月15日正午――。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世のために太平を開かんと欲す・・・」
 
 ラジオから流れてきた天皇陛下の玉音放送を、松本太助・海軍中尉は青森県・大湊の陸上輸送部隊で聴いていた。途切れ途切れでよく聞き取れず、「陛下が『堪え難きを堪え』とおっしゃるのだから、もっと頑張れということなのか・・・」と首をかしげた。
 
 だが放送後、上官から「今の放送は終戦の詔書である」と教えられ、松本中尉は「本当に戦争が終わったのか? 自分は助かったのか?」と自問自答を繰り返した。既に兄と弟は戦死していた・・・
 

軍国主義を叩き込まれ、商船学校から海軍士官に

 玉音放送から遡ること23年、1922年8月10日に松本さんは京都市で生まれ、徳島市で少年時代を過ごした。当時の小学校には天皇の御真影(写真)を納めていた奉安殿があり、松本少年も毎日まずお辞儀をして通学していた。
 
 中学校に進むと、「貴様らは天皇陛下の御為に戦って死ぬために生まれてきたのだ」と軍国主義を徹底的に叩き込まれ、気が付けば海軍兵学校入学が目標になっていた。
 
 ところが、受験前の身体検査で痔が見つかり、兵学校への道が閉ざされてしまう。そこで松本さんは神戸高等商船学校に入り、そこから海軍士官を目指すことにした。機関科でエンジン工学や英語、ドイツ語などの勉学に励む。日曜日に許された外出で、煙草を一服するのが唯一の楽しみだった。
 
 1944年9月、狭き門をくぐり抜け、松本さんの念願は成就した。卒業と同時に念願の海軍少尉として、広島県・呉の海軍工廠で実習に入る。鉄板をハンマーで叩いたり、ヤスリをかけたり・・・
 
 学徒動員された女学生も作業に励んでおり、松本さんら士官は工廠内で100人ぐらいの女学生から一斉に敬礼を受けたという。「こっちも答礼しなくちゃいかんからね・・・」――。88歳になった松本さんは恥ずかしそうに当時を振り返る。
 

客船改造の空母「海鷹」、「死を覚悟して」シンガポールへ

海軍少尉時代の松本太助氏(本人提供写真)
イメージ 1 2カ月後の1944年11月、松本さんは空母「海鷹」(かいよう)に乗り組むよう命令を受けた。元々は、南米航路で日本からの移民を運んでいた客船「あるぜんちな丸」。1942年のミッドウェー海戦で主力空母4隻を撃沈され、海軍が苦肉の策として民間客船を買収、小型空母に改造していた。
 
 海鷹はシンガポールに向けて出港、陸軍師団を乗せた輸送船やタンカーの護衛任務に就いた。11月25日、関門海峡を通過した際、松本さんは「これが内地の見納めかと、感無量で死を覚悟した」
 
 松本さんはボイラーの指揮官。計器をじっと監視しながら、蒸し暑いボイラー室で「給水始め!」などと兵隊に命じていた。士官1人に専従の水兵1人が付き、洗濯やアイロン掛け、着替えに至るまで面倒をみてくれる。松本さんは「世話の焼き方は女房どころではなかった」という。
 
 米軍潜水艦の攻撃を幾度も受けたが、海鷹は巧みなジグザグ操艦でかわして12月12日にシンガポール入港。帰路は原油や生ゴムを満載して何度も危機に直面しながら、辛うじて1945年1月13日に門司港へ戻って来た。(参考文献:『神戸高等商船学校機関科第42期クラス会報』2000年1月)
 
イメージ 6
戦時中(ミッドウェー海戦参加後)の戦艦長門型『長門』( 昭和17年8月 広島湾南東 柱島泊地)
Aug,1942:Battleship "Nagato" after Battle of Midway at Hashira-jima.

「日本の誇り」と愛された戦艦「長門」へ異動

 門司から呉に帰港した直後の1945年1月21日、松本さんは戦艦「長門」乗り組みを発令され、神奈川県・横須賀へ赴任した。
 
 第1次大戦後の各国による巨艦建造競争を背景に、1920年竣工の長門は当時世界最大の主砲(口径41センチ)を誇り、時速26.5ノットの機動力も兼ね備えていた。これに対し、米欧は「世界最強の戦艦」と警戒を強め、21年のワシントン軍縮会議で日本の主力艦保有比率が米英の6割に抑えられる契機となった。
 
 戦艦「大和」の誕生まで長門は連合艦隊の旗艦を務め、山本五十六大将がここで陣頭指揮を執る。真珠湾奇襲攻撃の実行を命じる暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」も、長門の無線室から連合艦隊の全艦艇に発信されていた。(参考文献:『戦艦長門』双葉社)
 
 「日本の誇り」として国民から愛された長門に乗り込んだのに、松本さんには特段の感慨はなかったという。
 
 「嬉しいとも何とも感じなかった。既にクラスメイトの多くが戦死してしまい、いつでも死ぬ覚悟で横須賀にやって来た。生き延びようなんて全く思わず、いかにして天皇陛下のために勇敢に戦うか・・・。ただただ、それだけだった」
 

米軍の機雷で潜水艦沈没、閉じ込められ絶命した同期生6人

イメージ 5 松本さんの商船学校同期生には、潜水艦から発射された魚雷を操縦して敵艦に突っ込む「人間魚雷」を志願する者が少なくなかった。
 
 1945年4月12日、瀬戸内海で潜航訓練中の呂号第64練習潜水艦が米軍機の投下した機雷に接触、爆発して沈没した。松本さんは同期生6人を一気に失ってしまった。息途絶えるまで狭い潜水艦の中で、彼らは遺書を綴っていた。(参考文献:『兵士の沈黙』土井全二郎、光人社)
 
 沈没から1カ月半後に遺体が収容され、同時に遺書が見つかった。松本さんが大切に保管してきたそのコピーを読ませてもらうと、爆発後の潜水艦内の様子が冷静に記録されていた。以下はその抜粋である。
 
イメージ 3
 


(2)へ続く
 
jbpress.ismedia.jpより引用。
 
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第一次ソロモン海戦 戦勝68周年記念特集

イメージ 1
上の写真は、第一次ソロモン海戦時の第八艦隊旗艦、重巡洋艦「鳥海」の写真。
ウィキペディアの記述によると、1942年(昭和17年)11月20日または翌日、トラック諸島に停泊する「鳥海」とされる。後方に戦艦「大和」と思しきシルエットに注目していただきたい。
 
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イメージ 2
 
 
 
 
 
本日は「第一次ソロモン海戦」戦勝68周年記念特集として、第一次ソロモン海戦関連動画をお送りします。まずは、怪しいオープニングテーマからどうぞ!
 
 
何故か、スラバヤ沖海戦の映像が混じっていますが、ご愛嬌と言うことでお許し下さい!
 
 
 
 
下に転載した実際に射撃をしている重巡洋艦「鳥海」の写真と比較すると、映像表現や史実を忠実に再現した点では微妙な所もありますが、取り合えずネット見られる動く第一次ソロモン海戦時の重巡の貴重な映像として、ご容赦下さい。
 
イメージ 3
射撃訓練中の重巡洋艦高雄型鳥海』 (昭和13年 有明湾外)
1938:Takao class Heavy-cruiser "Chokai" during a target practice .
 
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ネット時代は兵器より情報が勝敗決す(3) 日本海海戦における情報戦

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 ネット時代は兵器より情報が勝敗決す
日本人よ、日露戦争当時の知恵と真摯さを思い出せ!
2010.07.30(Fri) 伊藤 和雄
 
(2)からの続き

5. 勝敗の要因、NCWの視点から

 ここではNCWの視点から、勝利の3要件である「情報優位」「迅速な指揮」および「自己同期形成」をキーワードとして、日本海海戦を中心に日露戦争全体を振り返り、いくつかの事案から勝敗の要因について考究してみたい。
 
(1)情報・通信ネットワークの形成
 
戦艦「三笠」(ウィキペディアより)
イメージ 1 これまでも述べてきたように、帝国海軍は情報・通信ネットワークと無線電信機の活用により、ロシア海軍に比べ圧倒的に「情報優位」の位置を確保していた。
 
 海戦初日の午前5時5分に「信濃丸」の発見電を受けて、聨合艦隊旗艦戦艦「三笠」が出港したのが5時55分、艦隊主力が出航したのが6時34分である。
 
 情報を得て行動が開始されるまで1時間足らずである。極めて迅速な部隊運用、「迅速な指揮」がなされたのである。
 
 艦艇と朝鮮半島・国内沿岸に張り巡らされた望楼および陸上要地間で無線・有線電信により形成されたネットワークが、いかに作戦遂行に寄与したかは想像に難くない。
 
 無線電信がいかによく使われたかを示す一例を挙げる。巡洋艦「出雲」の無線電信誌によると、海戦中の受信・傍受の通数は海戦初日の5月27日は117通、翌28日は112通である。
 
 これらの電文が指揮命令、情報伝達に使われなかったとすれば、このような完璧な勝利が得られたかどうかは大いに疑問の残るところである。
 
(2)ロシア側情報・通信ネットワークの遮断
 
 我の「情報優位」を得ることは、敵の「情報共有」を妨げることでもある。
 
 日本軍は戦争開始前から日本海海戦に至るまでの間、ロシア側の情報・通信ネットワークに対し様々な妨害工作を行っている*10
 
 日露戦争開始前の2月6日、ロシアへの国交断絶の通告と同時に、陸軍は清国とロシアに通じる韓国内にある陸上電信・電話線を切断し、海軍は馬山、釜山などの電信局を占拠した。
 
 このため、京城(ソウル)の在韓ロシア公使および仁川碇泊中のロシア艦艇(巡洋艦「ワリヤーグ」および砲艦「コレーツ」)への外部からの情報は途絶した。ロシア本国から日露の国交が断絶したことも知らされていない。
 
 2月8日、不安を感じたロシア公使は、現地の情勢を旅順の極東総督へ伝えるため、「コレーツ」に外交文書を託して旅順に向かわせたところ、仁川沖で待ち構えていた聯合艦隊に発見され、仁川沖海戦となった。
 
秋山真之(ウィキペディアより)
イメージ 2 秋山先任参謀は、常備艦隊参謀時代の明治34(1901)年1月、洗濯夫に扮(ふん)して旅順港を偵察しているが、偵察後の報告で、開戦となったならば旅順〜芝罘間の海底ケーブルを切断するよう進言している。
 
 当然ながら海軍は開戦直後、このケーブルを切断している。さらには芝罘のロシア領事館内に潜入し、敷地内にあったロシアの無線電信施設を破壊している。
 
 同様に、大北電信会社が敷設した長崎〜ウラジオストク間の海底ケーブルも切断した。
 
 同社はもちろん日本に対し激しく抗議したが、当時は国際法上の規定もなく、戦時はやむを得ないものとして処理された。
 
 海軍は“コダマ・ケーブル”のみでは不足していたため、これら切断したケーブルを引き揚げて、韓国〜対馬〜内地間の仮設軍用水底線として再利用している。見事である。無駄がない。
 
(3)通報艦の活躍
 
 日露戦争について書かれた文献には、ほとんど触れられていない通報艦であるが、通報艦の活躍を見逃すことはできない。通報艦は聨合艦隊の各艦隊に1隻、計3隻配置されていた。
 
 通報艦の主たる任務は通信伝令だが、警戒・掃海・測量の任務にも当たり、戦闘時には、救助艦としての役割を担うほか、機を見て射撃にも参加するし、水雷もまく。まさに万能の艦である。
 
 通報艦が交信する艦の間に位置するならば、通達距離は延伸する。通報艦を艦隊と海岸局の間に配置し、電報を中継させることもできる。
 
東郷平八郎(ウィキペディアより)
イメージ 3 海軍は通報艦を港内外、あるいは望楼沖合いに配置し、陸上との情報交換にも活用した。
 
 例えば、旅順要塞攻防戦では通報艦を旅順東方の大連港に配置し、陸軍から得られた情報を洋上の聯合艦隊司令部に送信させていた。
 
 このため、東郷司令長官は洋上にあっても陸軍の戦況を把握できていた。
 
 さらに通報艦は、視覚信号内では旗旒信号の中継艦としての役割も担う。
 
 海戦時、東郷司令長官が直率する第1戦隊の戦艦・巡洋艦6隻は、戦闘中、ほとんど単縦陣で運動しているが、所属の通報艦「龍田」は陣形の外側(射撃舷と反対側)中央に位置し、旗旒信号の中継を担っていた。
 
 単縦陣では、前続艦の旗旒を見て順次後続艦が信号旗を揚げていくため、先頭艦(旗艦)から殿艦(でんかん、最後尾の艦)まで伝わるにはそれなりに通信費消時があるが、通報艦が配置されていれば、後続艦は通報艦の信号を見て一斉に揚げることができる。
 
 合戦図を見ると「龍田」は常に適切な位置におり、見事に旗旒信号中継艦としての役割を果たしている。
 
 通報艦の活躍は、NCWのキーワードである「情報優位」および「迅速な指揮」を可能にした事案に該当すると言えるだろう。
 
(4)ロシア海軍指揮統制上の問題
 
 バルチック艦隊のロジェストウェンスキー司令官は独善的、権威主義的な性格で、部下指揮官は意見具申はもとより質問もできないような雰囲気であったらしい。
 
 海戦前の5月9日にニコライ・ネボガトフ少将の「第3艦隊」が合同しても、作戦会議は開催されていない。ウラジオストクまでのルートについても、艦長クラスの指揮官には知らされていなかった。意思疎通ができていなければ「自己同期形成」など及びもつかない。
 
 軍隊組織というものは、その組織の中に厳然たる指揮系統が存在し、かつ組織間の通信手段がなければ組織としての戦闘力を発揮できない。
 
 海戦4日前の5月23日、病臥中の次席指揮官ドミトリー・フェリケルザム少将が死去した。しかしロジェストウェンスキー司令官は、公表すると乗員の士気が下がるとの理由でこれを秘匿した。
 
戦艦「オスラービア」(ウィキペディアより)
イメージ 4 同少将が座乗していた第2戦艦隊旗艦「オスラービア」には、指揮官旗は掲げられたままであった。ロジェストウェンスキー司令官は、次の指揮継承順位のネボガトフ少将にもこれを知らせていなかったらしい。
 
 5月27日午後2時8分、ロシア側の砲撃で始まった海戦は、開始後約30分で旗艦「スオロフ」は廃艦同然の被害を受けた。ロジェストウェンスキー司令官も重傷を負い指揮不能の状態であった。
 
 しかし、ネボガトフ少将が「ロジェストウェンスキー司令官の駆逐艦への移乗」と「自分に対する指揮権の委譲」を味方の駆逐艦から伝え聞いたのは、夕闇も迫った午後6時過ぎである。
 
 「ワレニ続行セヨ 針路、北23度東」と信号を揚げたが、既に戦闘を指揮するタイミングは失っていた。
 
 開戦30分後からしばらくは指揮官不在の状態であった。指揮官不在では組織として力を発揮できないのは自明である。
 

おわりに

 “コダマ・ケーブル”を確保した児玉源太郎、あるいは、外波少佐たちの進言に「無線電信調査委員会」の設置を決断した山本権兵衛の先見性ある眼力に驚嘆する。
 そして、短期間で通信を実戦の場で運用するに至らしめた先人と、軍・官・民一体となって国家のため、情報・通信ネットワークを形成し、無線電信機の開発に取り組んだ人々の使命感と努力にただ敬服するほかない。
 
 残念なのは、日露戦争に勝利して以降、日本全体が驕(おご)りたかぶり思考停止に陥ったことである。
 
 日露戦争の戦訓として、艦の大きさ、艦の装甲といった建艦面、砲戦力の威力といった武器能力面、あるいは、射法、丁字戦法に代表される艦隊運動といった戦術面が強調された。
 
 「見敵必戦主義の精神」といった戦訓項目もある。精神力とか士気に、言われているほど日露間で大きな差があったのであろうか。
 
 ロシア海軍の中にも、降伏、あるいは救助されて捕虜となるのを拒み、艦と運命をともにした多くの将兵がいた。沈みゆく中で最後まで射撃を続けていた艦もあった。
 
 『聯合艦隊解散ノ辞』に「・・・・・・百発百中の一砲、能く百発一中の敵砲百門に対抗しうる・・・・・・」との有名な文言がある。言葉としては響きがいい。ただし、これは単なる精神論であり、数理的には誤りである。
 
 「百発一中の砲百門」に対抗するためには、累積確率上は「百発百中の砲十門」は必要である。精神力とか士気は一夜で変容するが、科学技術は現実を直視している。
 
 「情報優位」の傘の下で、聯合艦隊が主導的に戦ったからこそ、機力(有形)と術力(無形)のわずかな差が大きな結果となって現れた。
 
 日露戦勝後、情報・通信の価値を真摯に受け止めることなく、「艦隊決戦主義」および「大艦巨砲主義」の流れのままで日本海海戦の再現を夢見て、先の大戦を迎えた。
 
 セブロフスキーは、NCWの考え方に立脚し「情報優位」の下で戦うならば、今日の戦争であっても、第2次世界大戦時代の兵器でも勝てると言っている。情報化時代の戦争にあっては、武器よりも、より情報の価値が高められていると理解すべきなのであろう。
 
 NCW構想に立脚した軍事力の整備については、米国のみならず、今日では北大西洋条約機構(NATO)加盟国をはじめとするヨーロッパ諸国、オーストラリア、中国、韓国など多くの国がこれに取り組んでいる。
 
 NCWについて、国家としてどう取り組むか、国会決議をした国もある。
 
 翻って我が国はどうであろか。我が国の安全保障について、個々の事業の仕分けもよいが、その評価基準となる指針について国家レベルで論議しているとは思われない。NCW構想創案の端緒となったのは“日本海海戦”である。幸い我が国には、学ぶべき多くの先人がいる。
 
 情報化時代の防衛力の整備について、NCW構想に基づく指針を策定し、事業全体の整合を図り、効率的防衛力の整備が推進されるよう望んでいる。


jbpress.ismedia.jpより引用。
 
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