4.2.捕虜の取り扱い
ウェーク島の捕虜のうち、技術者を除いた約1,200名の捕虜が、陸戦隊を輸送してきた新田丸で
上海に送られることとなったが
(注1)、その際に事件が起こった。船内は厳しい規律と潜水艦の攻撃への不安から異様な雰囲気に包まれた
(注2)。そんな最中、一人の捕虜が警備兵(
呉海兵団から派遣)の銃を奪取しようとする企てを起こし、同じようなことが複数回あった
(注3)。
横浜港へ入港し途中経過を
軍令部に報告した際、「規律に則って処分せよ」と命令が出た
(注4)。そこで、新田丸が
九州近海にさしかかった際に警備兵によって5名の捕虜が殺害され、
水葬にした
(注5)。
戦争終了後、
GHQによってこの事件が調べられ、この事件に関わって戦争を生き残った斎藤利夫少佐を
戦犯として取調べ、最初は嫌疑なしで釈放したものの、処分を命じた当事者が戦死しており、責任者がいないのはまずいとなって斎藤を処罰することとなった
(注6)。これを察知した斎藤は1953年2月まで逃避行を続けた
(注7)。また、新田丸関係者も高級幹部が亡くなっていたので機関長と船医が聴取された
(注8)。ちなみに、1941年12月26日に
呉鎮守府司令長官
豊田副武大将から斎藤に命令が出されており
(注9)、その中で「必要アルトキハ武力ヲ行使スルコトヲ得」と、武力行使に関しては斎藤にある程度の権限が与えられていたとも考えられる
(注10)。その他、斎藤には新田丸が不測の事態に陥った際には、船長に代わって新田丸の指揮を執る権限も与えられていた
(注11)。
ウェーク島に残留した捕虜のうち、病人などが1942年5月と11月に日本に移送された
(注12)。
1.『戦史叢書38』227ページ
2.岩崎、172ページ
3.岩崎、172ページ
4.岩崎、172ページ
5.岩崎、172ページ
6.岩崎、173ページ
7.岩崎、174ページ
8.『日本郵船戦時船史 上』426ページ
9.『呉鎮守府戦時日誌』
10.『呉鎮守府戦時日誌』
11.『呉鎮守府戦時日誌』
12.『戦史叢書38』228ページ