ウェーク島の戦い

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ウェーク島の戦い
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1941年12月8日から12月23日
場所ウェーク島
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
井上成美(第4艦隊)
梶岡定道(第6水雷戦隊・ウェーク島攻略部隊指揮官)
ウィンフィールド・カニンガム英語
ジェームズ・デベル英語
戦力
海軍陸戦隊2個中隊(のち1個中隊追加) 軍人522、軍属1236
損害
駆逐艦2隻沈没
戦死469-700-900
戦死122、戦傷49

ウェーク島の戦い(うぇーくとうのたたかい、Battle of Wake Island)は第二次世界大戦における日本軍アメリカ軍の戦い。なお、戦いの後のウェーク島日本軍部隊の状況についても記す。

目次

背景

ウェーク島は、アメリカ本土とグアムフィリピンを結ぶ作戦線上にあるアメリカ軍の中部太平洋における重要な拠点のひとつであり、日本側から見れば、日本本土とマーシャル諸島を結ぶ作戦線上にひっかかるのような存在であった。日本軍は開戦前からウェーク島の攻略を企図していたが、具体的計画がされたのは開戦直前の1941年昭和16年)になってからであった[1]日本海軍単独での作戦とされ、主にトラック諸島を拠点にしていた第4艦隊が割り当てられた。上陸するのも海軍陸戦隊であった。第4艦隊に割り当てられていた戦域は非常に大きく[2]、その一方で第4艦隊手持ちの戦力は少なかったため、当面はウェーク島とグアムの攻略に全力を挙げることとなった[3]

アメリカ軍はウェーク島に海兵隊1個大隊を配備し、砲台を設置するなど防備を強化していた。1941年夏ごろには滑走路を完成させ[3]、日米関係が決定的な破綻をしつつあった12月4日には、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) が第211海兵戦闘飛行隊のF4F ワイルドキャット戦闘機(以降 F4F 戦闘機)12機を輸送してきた[4]。1941年12月ごろには守備隊522名、民間人1,236名がウェーク島に配備されていた[3]。主要な砲台は、ウェーク本島には南西端のピーコック岬と島西部、北部ヒール岬合計4箇所、ウィルクス島とピール島にはそれぞれ2箇所配され、機銃座も数箇所据えつけられていた[5]

第一次攻略戦

第一次攻略戦の日本側参加兵力

佐藤、207ページ、山本、319ページによる

ウェーク島攻略部隊(指揮官・梶岡定道少将)

戦闘経緯

日本側は当初、航空戦でウェーク島の陸上施設を破壊した後、艦船に所属する陸戦隊だけでウェーク島を占領する計画を立てていたが、ウェーク島のアメリカ軍守備隊の兵力が予想よりも多かったので、急遽特別陸戦隊2個中隊を追加した[7]

1941年12月8日の開戦と同時に攻撃を開始した。まず5時10分、第24航空戦隊の陸上攻撃機34機がルオット島からウェーク島を空襲。飛行場と砲台に損害を与え、配備されたばかりの F4F 戦闘機7機を破壊し、1機を事故で喪失させた[4]。昼過ぎにはウェーク島攻略部隊がクェゼリン環礁を出撃した。第24航空戦隊は12月9日に千歳海軍航空隊の陸上攻撃機27機で2度目の空襲を敢行[7]。翌10日にも陸上攻撃機26機で3度目の空襲を敢行したが、対空砲火は熾烈となり、残存の F4F 戦闘機も必死に反撃。陸上攻撃機1機が撃墜された[7]。この間、進撃中の攻略部隊は幸先良い戦果報告のみを重視して油断しきっていたが[7]、アメリカ側も残存の F4F 戦闘機を爆弾が懸吊できるよう改装し、即製の戦闘爆撃機に仕立てて攻略部隊を待ち受けた[4]

地上撃破されたF4F戦闘機
地上撃破されたF4F戦闘機

10日夜、攻略部隊はウェーク島沖に到着した。上陸隊形を整えたが、その日は波が高く、攻略部隊の各艦は各々適当の地点から舟艇を発進させることとなった[8]。ところが、金龍丸と金剛丸では陸戦隊を乗せた大発動艇(大発)をおろすのに難航。ついには大発の破壊や転覆が相次ぎ[9]、上陸は一旦延期され、攻略部隊は艦砲射撃を行うことにした。11日3時25分にまず夕張が、続いて3時43分に駆逐艦が砲撃を開始した。4時、ウェーク島の砲台が近寄ってきた攻略部隊に対して反撃を開始。これと前後して戦闘爆撃機に姿を変えた F4F 戦闘機4機が出現し攻略部隊を攻撃。ウェーク島の航空兵力を「叩き潰した」と信じきっていた攻略部隊を驚かせた[8]。 4時3分、ウィルクス島沖で砲撃を行っていた疾風が轟沈。ウィルクス島L砲台によるものと考えられている。艦尾から艦全体に黒煙が広がったかと思えば[8]、200メートルぐらいの水柱を上げ[10]、これらが姿を消した頃には疾風の姿はなかった。付近海域は一旦降ろした大発がうようよし、艦が密集し身動きが取り辛いところに砲台からの砲弾が次々と降り、 F4F 戦闘機は攻撃を繰り返した[10]。ここに至って攻略部隊はついに避退を決した。避退中の5時42分、今度はウェーク島ピーコック岬沖にいた如月が爆沈した。 F4F 戦闘機から投下された100ポンド(約45キロ)爆弾1発が如月に命中[10]。艦橋と二番煙突の半分、マストを吹き飛ばし、しばらくすると艦は二つ折れになって沈没していった[10]。 F4F 戦闘機はさらに追い討ちをかけ、金剛丸を機銃掃射して搭載していたガソリンを炎上させた[11]。海上の状況も依然として悪く、時刻を改めての奇襲上陸の見込みも事実上費えた[11]。上陸作戦はついに中止され、攻略部隊各艦はクェゼリン環礁に退却することとなった。12月13日、攻略部隊はクェゼリン環礁に帰投した[12]

第一次攻略戦の反省と対策

第一次攻略戦は日本側の惨敗であった。再度の出撃までの間、研究会が開かれ第一次攻略戦の反省とその対策が論じられた。如月沈没の原因が魚雷等に対する被弾と考えられたので、魚雷と爆雷に断片除けを施した[12]。 また、攻略部隊がたった4機の F4F 戦闘機に翻弄されたことから、より強力な航空兵力が望まれた[10]。他にも、上陸準備に手間取ったため、大発をすばやく降ろせる措置を講じた他[12]、通信技術の向上も図られた[12]。これらの研究会の最中、梶岡少将は陸戦隊の揚陸について、「最悪の場合は哨戒艇を擱坐させてでも揚陸させる」という腹案を持つようになった[12]

これと同時に、第4艦隊参謀長矢野志加三大佐はウェーク島の残存機撃滅を連合艦隊司令部に依頼[13]。連合艦隊はこれを受け、真珠湾攻撃からの帰途にある機動部隊南雲忠一中将)に対し、ウェーク島攻撃に向かうよう令した。これに対し南雲は一旦トラックに入港して整備を行った上、関係将官と打ち合わせを行ってからウェーク島攻撃に向かう旨通告した[14]。他、グアム攻略戦を終えた第6戦隊や、駆逐艦2隻、特設艦船、特別陸戦隊1個中隊が追加されることとなった[13]

12月15日、第4艦隊から参謀が派遣され、作戦会議が開かれた。この席上、梶岡少将は非常の際の哨戒艇の用兵についても説明。結果、快諾された[15]。12月17日、第4艦隊より再度のウェーク島攻略命令が出された[15]。18日、19日、20日と詰めの会議が開かれ、偵察も改めて実施された[16]。これを受け、機動部隊に「20日頃にウェーク島を攻撃してもらいたい」との要望が出されたが、そもそも南雲の構想とは違っていた上に燃料の関係もあり、適宜兵力を南洋部隊の指揮下に入れてウェーク島攻撃に協力させ、残りは日本に帰ることとなった[17]

第二次攻略戦

第二次攻略戦の日本側参加兵力

佐藤、208ページ、山本、326ページによる

ウェーク島攻略部隊(指揮官・梶岡定道少将)
  • 攻略部隊本隊:第6水雷戦隊(軽巡洋艦夕張、駆逐艦追風、睦月、弥生、望月、朝凪夕凪
  • 攻略部隊援護隊:第18戦隊(軽巡洋艦天龍、龍田)
  • 哨戒艇:第32号哨戒艇、第33号哨戒艇
  • 海軍陸戦隊:舞鶴特陸一個中隊(350名)、第6根拠地隊一個中隊(310名)、舞鶴第二特陸一個中隊(310名)
  • 設営隊:特設巡洋艦金剛丸、基地設営班、特設監視艇3隻
  • 付属隊:特設巡洋艦金龍丸、特設敷設艦天洋丸(東洋汽船、6,843トン)
  • 水上偵察機隊:特設水上機母艦聖川丸川崎汽船、6,862トン)、水上偵察機4機
  • 第24航空戦隊
  • 潜水部隊:第26潜水隊
増援部隊

戦闘経緯

擱坐した第33号哨戒艇
擱坐した第33号哨戒艇

攻略部隊は21日朝4時30分、再度出撃した[18]。同じ頃、機動部隊から分派された第2航空戦隊(山口多聞少将)はウェーク島西方300海里の地点にあり、この地点より戦闘機18機、艦上爆撃機29機、艦上攻撃機2機を発進。ウェーク島に対して空襲を敢行した[18]。これに呼応して、千歳海軍航空隊の陸上攻撃機27機がウェーク島を空襲した。翌22日にも、第2航空戦隊は戦闘機6機、艦上攻撃機33機でウェーク島に対する2回目の空襲を敢行。しかし、この2回目の空襲は思わぬ不覚をとった。攻撃隊がウェーク島上空に達した時、その上空には F4F 戦闘機2機が待ち伏せていた。 F4F 戦闘機は寡兵ながら攻撃隊に対して奇襲を敢行。艦上攻撃機2機を撃墜。このうちの1機は、水平爆撃の名手として知られ、真珠湾攻撃の際に艦攻隊の誘導機を務めた金井昇 一飛曹機であった[19]。直後、 F4F 戦闘機は全て撃墜された。

攻略部隊は順調にウェーク島に接近。22日午後に上陸戦の隊形に占位し、誘導潜水艦を頼りにウェーク島の南岸に接近していった[18]。21時、上陸命令が令され[20]、これと同時に第18戦隊はウェーク島の東岸に移動して陽動作戦を実施した[20]。しかし、この日も海上の状況は悪く、大発を降ろすのに順調さを欠いたため、ついに哨戒艇2隻が海岸に擱座し陸戦隊を上陸させた。それに続き、金龍丸、睦月、追風からも陸戦隊が大発でウェーク島南岸とウィルクス島に上陸した。上陸した陸戦隊のうち、舞鶴特陸一個中隊の本隊は砲台と機銃陣地の真正面に上陸し、猛烈な反撃を受けて中隊長が戦死した[21]。第6根拠地隊一個中隊はウィルクス島に上陸。これまた猛烈な反撃を受け、小隊全滅等の損害を出した[21]。舞鶴第二特陸一個中隊も負傷者が続出[22]。凄まじい彼我の銃火の応酬により、23日になっても戦線はこう着状態となった。

戦況が一気に日本側に傾いたのは、舞鶴特陸一個中隊のうちの決死隊の働きによるものである。決死隊は反撃をかわしてアメリカ軍捕虜を道案内として進撃中、飛行場近辺で海兵隊指揮官ジェームズ・デベル少佐を捕虜とした[23]。さらに進撃すると、ジープに乗った将校を発見。尋問の結果、将校はウェーク島守備隊指揮官ウィンフィールド・カニンガム中佐だった[23]。決死隊はカニンガム中佐を捕虜としてジープに乗せ、白旗を掲げて戦線を回らせ降伏を呼びかけさせた[23]。この結果、7時45分ごろにはウェーク島からの砲声は途絶え、四方の状況からアメリカ軍守備隊の降伏と判断された。残敵掃討後の12月23日10時40分、日本軍はウェーク島の完全攻略を宣言、通報した[24]

占領後の処置

陸戦隊の派遣

占領が確認されると、攻略部隊は追加の陸戦隊と医療班を上陸させて処理に当たらせ、水上機隊や飛行艇の基地を整備した[25]。また、捕虜を飛行場に集めて座らせようとしたが、捕虜たちはそれを拒否して座ろうとしなかった。わけを聞くと、第一次攻略戦の第一回空襲の後、守備隊は日本の空挺部隊の来襲を恐れて大急ぎで飛行場に地雷を埋設した。その上に座らせるのは、座らせてから地雷で吹っ飛ばそうと企てているのでないか?と勘繰ったためであった[25]。また、ブルドーザー1両とクレーン2基も捕獲し、これらは後にウェーク島の防御陣地構築に使用されることとなる[26]


当面の警備兵力には当初、攻略部隊をそのまま警備部隊としたが、現地の要望により改めて警備部隊の派遣が要請されることとなった。これを受け、上海海軍特別陸戦隊から一個大隊がウェーク島に派遣されることとなり、大隊は12月27日に輸送船新田丸日本郵船、17,150トン)に乗船し、途中対潜行動をとった上で1942年1月12日にウェーク島に到着[27]。大隊は第65警備隊としてウェーク島の防衛にあたることとなり、これと入れ替わるように攻略部隊は暫時引揚げていった。

その後、日本はこの島を直轄地として「大鳥島」と命名し統治を行った。

捕虜の取り扱い

新田丸
新田丸

ウェーク島の捕虜のうち、技術者を除いた約1,200名の捕虜が、陸戦隊を輸送してきた新田丸で上海に送られることとなったが[28]、その際に事件が起こった。船内は厳しい規律と潜水艦の攻撃への不安から異様な雰囲気に包まれた[29]。そんな最中、一人の捕虜が警備兵(呉海兵団から派遣)の銃を奪取しようとする企てを起こし、同じようなことが複数回あった[29]横浜港へ入港し途中経過を軍令部に報告した際、「規律に則って処分せよ」と命令が出た[29]。そこで、新田丸が九州近海にさしかかった際に警備兵によって5名の捕虜が殺害され、水葬にした[29]

戦争終了後、GHQによってこの事件が調べられ、この事件に関わって戦争を生き残った斎藤利夫少佐を戦犯として取調べ、最初は嫌疑なしで釈放したものの、処分を命じた当事者が戦死しており、責任者がいないのはまずいとなって斎藤を処罰することとなった[30]。これを察知した斎藤は1953年2月まで逃避行を続けた[31]。また、新田丸関係者も高級幹部が亡くなっていたので機関長と船医が聴取された[32]。ちなみに、1941年12月26日に呉鎮守府司令長官豊田副武大将から斎藤に命令が出されており[33]、その中で「必要アルトキハ武力ヲ行使スルコトヲ得」と、武力行使に関しては斎藤にある程度の権限が与えられていたとも考えられる[33]。その他、斎藤には新田丸が不測の事態に陥った際には、船長に代わって新田丸の指揮を執る権限も与えられていた[33]

ウェーク島に残留した捕虜のうち、病人などが1942年5月と11月に日本に移送された[34]

アメリカ軍のウェーク島占領前後の動き

ウェーク島の戦い前後、アメリカ海軍の動きとしては、ウェーク島への戦闘機輸送の帰途にあったエンタープライズ、およびミッドウェー島への戦闘機輸送に任じていたレキシントン (USS Lexington, CV-2) がそれぞれハワイ西方洋上とミッドウェー島南東洋上にあり、サラトガ (USS Saratoga, CV-3) がウェーク島への戦闘機輸送の第二陣として真珠湾に向かっていた[35]。サラトガにフランク・J・フレッチャー中将が座乗して第14任務部隊を編成、ウェーク島救援にあたることとなった。これに呼応し、エンタープライズ基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)は遊軍として哨戒と支援を行い、レキシントン基幹の第11任務部隊(ウィルソン・ブラウン中将)は牽制攻撃のためジャルート環礁目指して12月14日出撃した[36]。第11任務部隊は、日本軍のブタリタリマキン島占領に伴いマキン島奇襲に矛先を変え、さらに太平洋艦隊司令長官代理ウィリアム・パイ中将の命令により第14任務部隊の支援に回ることになった[37]。パイ中将はウェーク島の取り扱いの方針について海軍作戦部長ハロルド・スターク大将と合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将に伺いを立てたところ、ウェーク島守備隊の士気を考慮したものの、「兵力の増強より撤退すべきだ」と指示された[38]。こうして、ウェーク島救援の動きは一気に終息に向かった。ウェーク島救援の本隊である第14任務部隊はもともと寄せ集め部隊で練度も十分でなく、12月23日の時点でウェーク島の北東約683キロ地点に達していたが、占領の報と相前後して引き返していった[35]

1942年に入ると、アメリカ軍は手持ちの空母を活用し、南方作戦の牽制を狙ってウェーク島、マーシャル諸島への奇襲作戦に打って出た。第11任務部隊はウェーク島へ、第8任務部隊と新配備のヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) 基幹の第17任務部隊(フレッチャー中将)はサモアへの輸送任務終了後にマーシャル諸島へそれぞれ向かったが、第11任務部隊は1月23日に出撃した直後、随伴の給油艦ナチェス (USS Neches, AO–5) が伊号第一七二潜水艦に撃沈され、燃料不足が懸念されたことと代わりのタンカーがいなかったこともあって、第11任務部隊のウェーク島への奇襲作戦は中止された[39]

2月14日、マーシャル奇襲から戻ったエンタープライズは引き続きハルゼー中将に率いられ、レイモンド・スプルーアンス少将率いる重巡洋艦ノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) 、ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25) 、駆逐艦6隻と組んで第16任務部隊を編成し[40]、真珠湾からウェーク島空襲に向かった。2月24日早朝、第16任務部隊は、まずノーザンプトンとソルトレイクシティ、駆逐艦2隻がウェーク島の陸上施設に対して艦砲射撃を行い、次いで艦載機がウェーク島の陸上施設に対して爆撃と機銃掃射を行ったが、いずれも味方捕虜がいると思われた兵舎は目標から外された[41]。第16任務部隊は3月4日に南鳥島を奇襲して、何ら反撃を受けることもなく真珠湾に帰投した[42]

その後のウェーク島

1942年後半 - 1943年

日本軍は中部太平洋方面の防衛強化のため、陸軍部隊をこの方面に派遣することとなった。このうち、ウェーク島には山県栗花生少将の独立混成第21旅団のうち第170連隊第2大隊をウェーク島に、主力をグアムに移動することとなった[43]。大隊は10月3日にウェーク島に到着して第65警備隊の指揮下に入った[43]。この時点でのウェーク島の防御陣地は退避壕や申し訳程度の陣地しかなかったが[26]、大隊到着後に、先述した捕獲ブルドーザーやクレーンなどを活用して、2年近くかけて強固な陣地を構築した[26]。1942年12月10日付で、第65警備隊司令に酒井原繁松大佐が着任し、以後終戦までウェーク島で指揮を執る事となる[44]

1943年に入り、第170連隊第2大隊を基幹に第3南海守備隊が編成され、増強部隊も送られる事となった[45]。このうち、砲兵中隊と速射砲部隊が7月27日に到着し[45]、次いでラバウルから戦車部隊と歩兵部隊もウェーク島に移動することとなった。しかし、ラバウルからの部隊はアメリカ軍の攻撃により打撃を受け、残った部隊は態勢を立て直した上で9月5日にウェーク島に到着した[45]

一方のアメリカ軍も、緒戦期の機動部隊の奇襲以降も断続的にウェーク島に対して定期的に爆撃を行った。1943年に入ると、1月26日[46]と5月16日[47]、7月8日、7月25日および7月27日[48]に、ミッドウェー島からのB-24が爆撃を行った。のちの第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュは、パイロットとしてウェーク島を攻撃したことがある。

"98 US PW 5-10-43" と彫られた岩
"98 US PW 5-10-43" と彫られた岩

1943年10月6日と7日[49]、アルフレッド・E・モントゴメリー少将指揮のアメリカ第14任務部隊(空母エセックス (USS Essex, CV-9) 、ヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) 、レキシントン (USS Lexington, CV-16) 、インディペンデンス (USS Independence, CVL-22) 、ベロー・ウッド (USS Beleau Wood, CVL-24) 、カウペンス (USS Cowpens, CVL-25) 基幹)がウェーク島に対して合計738機を繰り出して空襲を行い[50]、また重巡洋艦によって艦砲射撃を実施した。これらの攻撃は日本軍に大きな損害を与えた[51]。この攻撃により、備蓄してあった食糧の大半が焼失し、以後のウェーク島防衛に大きな影響を与えることとなった[52]。一連の攻撃の後、酒井原はウェーク島に残してあったアメリカ人捕虜98名を島の北部に集め、機関銃で虐殺した[51]。1名のアメリカ人が隙を突いて脱走し、岩に "98 US PW 5-10-43" というメッセージを彫ったが、彼もまた捕らえられて斬首された。

1944年

機動部隊の攻撃後、ウェーク島に更なる部隊が送られた。第一陣として、満州から独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力が特設巡洋艦赤城丸(日本郵船、7,389トン)でウェーク島に送られ、1944年1月1日に到着した[53]。続いて砲兵大隊と工兵隊、衛生隊を中心とした第二陣も赤城丸でウェーク島に輸送されるはずであったが、その途中の1月16日に豊後水道で赤城丸を護衛していた駆逐艦涼月がアメリカ潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187) の雷撃で大破し、輸送作戦が中止された。第二陣を乗せた赤城丸は改めて出撃し、2月1日にトラックに到着[53]。しかし、クェゼリン環礁の陥落によりこれ以上の前進が困難となり、ウェーク島に向かう予定だった第二陣はポナペ島防衛に転用されることとなった[53]

1944年5月22日、ウェーク島の在陸軍部隊は再編成により独立混成第13連隊となり、第31軍の直轄部隊となった[54]。しかし、この頃からウェーク島の防備部隊を飢餓栄養失調の影が覆い始めた。独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力は3か月分の食糧を携行してウェーク島に進出したが[53]、その食糧は4月末頃には消耗し、また毎月1回の割合で行われていた補給も、同時期にほぼ途絶した[55]。悪いことに、5月24日にはモントゴメリー率いるアメリカ第58.3任務群がウェーク島を攻撃し、医薬品の大半を喪失[56]。ウェーク島防備部隊は食糧と衛生の面でさらなる苦境に陥ることとなった。

防備部隊は減食を行う一方で、食糧の育成が難しい条件をしのんで潅木の枯葉を埋めた土壌作りを行って農園作りを行ったり、特設監視艇などを活用した漁業を行ったものの、飢餓による体力減退等により、漁業は規模を縮小せざるを得なかった[57]。また、海燕の卵を採取して食糧としたり[57]、潅木の葉で草餅を作る[58]ということも行われた。9月に入り潜水艦による食糧補給が行われるようになり、その時のみは一時的に栄養失調で戦病死する者が減った[57]。そんな中、9月4日には苦境のウェーク島をアレン・E・スミス少将の第12.5任務群が攻撃した[59]。また、陸軍部隊の栄養失調による戦病死者は9月だけでに145名に達した[60]

1945年

1945年に入り、防備部隊が口に出来る食糧は、潜水艦が輸送してくれる缶詰肉20グラムと調味品10グラムに激減し[60]、3月10日に海軍部隊、3月25日に陸軍部隊がそれぞれ1日2食制となった[60]。それでも3月末には隠匿食糧が発見されるという出来事があり[61]、4月にはハクサイコマツナの収穫があった[57]。しかし、4月18日に5度目の潜水艦による補給があった後はしばらく補給が途絶した。

ウェーク島は硫黄島沖縄の各戦いにも関係はしなかったが、それでも気まぐれのように攻撃を受けた。6月20日、ウェーク島にトラック行きの彩雲が到着した[62]のに呼応したかのようにラルフ・E・ジェニングス少将率いる第12.4任務群の攻撃があり[63]、任務群は新型の白燐爆弾で攻撃した[62]。この攻撃の後、6月22日から27日までは1日1回37グラムの主食とわずかな鰹節しか配給されず、攻撃の影響も含め6月の栄養失調による戦病死者は陸海軍部隊合わせて264名に達した[64]。部隊平均体重も41キロに減少し、最低では28キロしかなかった者もいた[61]。この頃には陸海軍部隊全員が栄養失調状態となり、歩行や簡単な作業すら難しくなっていた[61]。この状況は、6月27日に6度目の潜水艦補給が行われるまで続いた[57]

7月、病院船高砂丸大阪商船、9,347トン)が船倉に食糧を搭載してウェーク島に向かったが、ウェーク島到着前日にアメリカ駆逐艦マリー (USS Murray, DD-576) の臨検を受け、食糧にチェックが入った。これにより、食糧の陸揚げが出来なくなり、7月4日にウェーク島に入泊した高砂丸は患者輸送しか行えなかった[65]。その患者を乗せる際にも上空からの監視があり、出港後にもまた臨検された[66]。高砂丸は1,000名もの栄養失調患者と戦傷者を輸送したが、船内で戦病死した栄養失調の患者が36名も出るほど痛ましい有様であった[67]。8月1日には沖縄に向かう途中のアメリカ戦艦ペンシルベニア (USS Pennsylvania, BB-38) 、駆逐艦の艦砲射撃および空襲を受けたが、日本側も反撃してペンシルベニアに損傷を与えた[68]。一週間後の8月8日にも戦艦ニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) 、軽巡洋艦ビロクシー (USS Biloxi, CL-80) 、駆逐艦および艦載機の攻撃を受けた[68]。一連の攻撃で、海軍部隊の残存火砲は高角砲1基とわずかな機銃しか残らなかった[69]

終戦

8月15日、日本は降伏。ウェーク島守備部隊は翌16日夜に終戦を確認し[70]、9月4日に残存していたウェーク島守備部隊はアメリカ海兵隊に降伏した。守備部隊はアメリカ軍から食糧を得て体力の回復に努め、アメリカ軍施設建設等に協力した後、10月5日に復員第一陣700名が病院船橘丸(東海汽船、1,772トン)で復員[70]。次いで11月に第二陣が復員し、11月17日までに陸軍部隊1,093名、海軍部隊897名が復員した[70]。1944年4月から5月の時点では陸海軍部隊合わせて4,000名近くを擁していた[71]ウェーク島守備部隊は、終戦までに栄養失調による戦病死者1,040名(陸軍834名、海軍506名)、戦死者291名(陸軍87名、海軍204名)を出した[60]

守備部隊最高司令官だった酒井原は、戦犯容疑により関係者17名とともにウェーク島に残された[70]。やがて酒井原は、1943年10月の捕虜虐殺の罪によりグアムで戦犯裁判を受け死刑判決が下され、1947年6月に刑が執行された。

戦いの総括

ウェーク島の戦いは目的こそ果たしたものの、連戦連勝に沸き立つ緒戦期の中でも一番の苦しい戦いだった。人的損害も、アメリカ軍の戦死者122名に対し、日本軍の戦死者は少なくとも469名にも及んだ。寡兵ながら攻略部隊を大いに翻弄したアメリカ側の戦いぶりは特筆される。第二次攻略戦における金井昇 一飛曹の戦死は大いに惜しまれ、蒼龍では金井の戦死によって重苦しい空気に包まれた[72]。山口は折に触れ源田実中佐に「金井を殺すようだったら、あのとき彼を飛ばさなければよかった」とこぼしていた[72]

田村俊夫や碇義朗は、「ウェーク島の戦いでの失敗や苦闘は、この戦争の前途を暗示するものであった」とし[73]、石橋孝夫は1942年2月のウェーク島(およびマーシャル方面)への反撃を「戦果的に目ぼしいものはなかった」とした上で「将来への警鐘を含んでいた」とした[42]

脚注

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関連項目

参考文献

ウィキメディア・コモンズ
  • 呉鎮守府司令部『自昭和十六年十二月一日至昭和十六年十二月三十一日 呉鎮守府戦時日誌』(昭和16年12月1日~昭和16年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030323300 
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書13 中部太平洋方面陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島朝雲新聞社、1968年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦(1)昭和十七年五月まで』朝雲新聞社、1970年
  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降朝雲新聞社、1970年
  • 『日本郵船戦時船史 上』日本郵船、1971年
  • 木俣滋郎『写真と図による 残存帝国艦艇』図書出版社、1972年
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話』至誠堂(図説日本海事史話叢書4)、1981年
  • 木俣滋郎『孤島への特攻』朝日ソノラマ、1982年、ISBN 4-257-17006-9
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 梅野和夫「ウェーキ島攻略作戦における第6水雷戦隊の苦闘」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 佐藤和正「中部・南部太平洋方面攻略作戦」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 山本唯志「波高し「ウェーキ島」攻略」『丸・別冊 太平洋戦争証言シリーズ(8) 戦勝の日々 緒戦の陸海戦記』潮書房、1988年
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 碇義朗「「飛龍」天に在り 第12回」『丸 第46巻第6号』潮書房、1993年(光人社、1994年、ISBN 4-7698-0700-7
  • 岩崎剛二『太平洋戦争海藻録 海の軍人30人の生涯』光人社、1993年、ISBN 4-7698-0644-2
  • 雑誌「丸」編集部編『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8
  • トーマス・B・ブュエル/小城正訳『提督スプルーアンス』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-401144-6
  • 押尾一彦・野原茂『日本陸海軍航空英雄列伝 大空の戦功者139人の足跡』光人社、2002年、ISBN 4-7698-0992-1
  • 押尾一彦・野原茂「ウェーク島攻略戦とF4F」『日本軍鹵獲機秘録』光人社、2002年、ISBN 4-7698-1047-4
  • 林寛司・戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
  • 田村俊夫「開戦~昭和17年の「睦月」型」『歴史群像太平洋戦史シリーズ64 睦月型駆逐艦』学習研究社、2008年、ISBN 978-4-05-605091-2

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