第18回 斎藤利夫 (第四特攻戦隊参謀・63期・少佐) 一 入校して半年目、相撲が原因で胸膜炎となり、呉海軍病院と自宅で、一年かけて療養にはげんだが全快しなかった。一年休校すると、退校しなければならない。 昭和七年九月、帰校したがまだ微熱がつづき、海軍を断念することを勧められた。そこで彼は、「せっかく、志を立てて、郷里の人たちの温かい気持ちに送られて海軍に入ったのに、これで帰れと言われれば、私は海に身を投げて死にます。私は本日只今から、死を覚悟で、学業はもちろん、武道・体技・短艇などすべて一般の生徒と同じようにやります」と誓った。 生徒隊監事の山口儀三郎中佐(40期)の励ましを得て、翌日から健康な級友と同一作業をした。 案の定、体温は毎夕三十九度を超えた。いつ倒れるかと思いながら、必死に頑張った。すると、一週間ほどして、驚いたことに体温は三十六度台になり、なおしばらくすると、そのまま全快してしまった。奇蹟というべきか--------。 このため一年遅れて六十三期に編入されたが、その後、努力の甲斐あって四学年に進級するときには学術優等賞を授けられた。 昭和十一年三月、兵学校を卒業し、遠洋航海ののち、「長門」に配乗。昭和十二年に少尉、その年の暮れ、駆逐艦「三日月」乗組となり、支那方面の作戦に従事した。ついで「日向」乗組。太平洋戦争後は呉海兵団付、新田丸捕虜警戒隊指揮官、舞鶴鎮守府参謀、第三海上護衛隊参謀、第四特攻戦隊参謀などをへて終戦を迎えた。その間、機雷学校高等科学生は首席で卒業することができた。 以上が斎藤の軍歴である。 二 それは占領後のウエーキ島から、米軍捕虜を上海に護送したときの捕虜処刑、いわゆる新田丸事件についての訊問であった。 そのときの事情は次のようなものである。 -------開戦後間もなく、斎藤は占領直後のウエーキ島から、米軍捕虜を上海まで護送する任務を命ぜられ、新田丸(日本郵船の客船で、その後、空母に改装し「沖鷹」となる)に約千二百人の捕虜を乗せてひとまず横浜に向かった。 そのとき警戒隊の人数はたった五十八人で、軽機も三挺しか持たない危険きわまるものであった。一対二十の命がけの任務である。 彼はあらかじめ船内取締規則を作って、もし服従しないものがあれば処刑をもってのぞむことを全員に通達した。この内容は、連合艦隊司令部および軍令部の承認を得たものである。 ウエーキ島を出発した新田丸は、途中、空母レキシントンの接近を知らされて緊張したり、また常に潜水艦の襲撃におびえたりしながら、指揮官以下、不眠不休の航海がつづいた。 船内は暑く、自由行動も許されなかったから、当然、捕虜たちもたいへんだった。 案の定、一週間ほどして、半狂乱の兵士が一名暴れ出し、警戒兵の銃を奪い取ろうとした。これは考えようによっては、船内反乱のためのものであったかも知れない。 このような小事件が、その後、三度もあった。警戒は厳重になるし、当然、捕虜もそれだけ自由がうばわれるようになる。 しかし、どうやら十二日間の航海を終え、横浜に入港した。 このとき、軍令部に護送の経過を報告したところ、K中佐は、 「違反者の行為は船内取締規則に対する反逆である。このような違反を見逃しておいたのでは、かえって大きな反乱を誘発しかねない。厳重な処分をせよ」と言った。 そこで上海に向かう途中、船が九州南西海岸にさしかかったとき、五人の兵曹が五人の捕虜を処刑し、死体は米国旗でおおって水葬に付した。 できれば処刑は避けたかったが、戦時中、捕虜護送の完全遂行のための非常手段であり、何より上部の厳命によるもので、やむを得ない措置であると理解していた。-------- 以上の件が、GHQ法務局の取り調べの対象となったのである。 十五日間にわたる訊問の結果、 「貴官の主張は一理あると思う。直接の命令者であるK中佐はすでに戦死してしまったし、本件については貴官には直接責任はないものと思う」ということで、釈放を申し渡され、当然のことながら、ほっと安堵の胸をなでおろした。 その日は解放された喜びもあって、東京の一夜を楽しみ、宿舎に戻ったのは十時頃だった。 ところが、意外にも、法務官の訊問中、ずっとついていてくれた通訳の田島という女性が、冷たい風に身をさらして、斎藤の帰りを待っていてくれたのである。 彼女は斎藤の顔をみるなり、 「あなたが帰られてから、法務局で仕事をしていると、隣室での会話が耳に入り、それによると、新田丸事件で誰も責任者がいなくてはまずいので、やほり斎藤を処罰しよう、ということになったのです」と言う。 斎藤は仰天すると同時に、自分のためにこの寒い夜、五時間も待っていてくれたこの女性に心から感謝した。もしこの田島嬢の知らせがなければ、彼のその後の人生はなかったはずである。 そのときから斎藤の七年間の逃亡生活がはじまるのだが、この田島嬢をはじめとして、以後、七人の女性の親切と献身によって彼は救われることになる。 三 斎藤は理不尽なGHQに対して、あくまで戦う、すなわち、逃亡することを心に誓い、細かい計画をたてて実行に移した。 とりあえず妻にこの逃亡計画を話そうと思い、翌日、日没後にひそかに蒲郡の自宅に戻ると、案の定、その日にMPと警官が来たとのこと。妻に必要なことだけ話すと、彼は白マスクで変装し、東京行きの列車に乗った。 東京に着くや彼はまず、マッカーサー司令官に対し、 「法務局における処置は、ことさら罪人をつくるための、戦勝国の一方的な非人道的処置であって、自分はまったく承服できない。ゆえに自分は、あらゆる手段によって潜行作戦を展開し、貴連合軍当局には絶対に屈従しない」旨を書いて投函した。このとき斎藤は三十歳であった。 戦後の楽しい一家団欒もひとときの夢で、ここに逃避行の冷たくきびしい旅がはじまった。 まず、彼は北海道行きを考えた。 上野を発って二十時間かかって青森に着く。ここで青函連絡船に乗り換えるときに、捜査する側にとっては格好の検問所になる。しかし、何とかここを無事に通過し、七時間かかって函館についた。 北海道は未知の土地で、別にあてがあるわけではない。ただ追われる身にとってこの広大な土地は、何となく身をかくすに適しているように思われたのである。 人の出入りの少ない牧場をと思っていると、日高線の日高門別にそのような牧場のあることを聞き、函館本線から千歳線、そして日高線と乗り替える。 駅の近くの食堂に入り、老主人にさり気なく、牧場に働き口があるかを聞いてみた。すると驚いたことに、牧場はいろいろな犯罪者のかくれ場と見られるらしく、よく巡査が回ってくるという。 ふたたび列車に乗って小樽で下車し、漁船乗組の仕事を探したが駄目。 小さな旅館に入った途端、寒さと心身の疲れから、にわかに発熱した。数日間、誰の看病もなしに、ひたすらじいーっと回復を待った。 なんとか熱も下がり、次に考えたのは温泉旅館で働くことであった。 定山渓で何軒か断わられた末、ようやく一軒で採用してくれた。ここの社長は苦労人で話のわかる人だったし、それに親切な女中頭に、地獄に仏を見る思いだった。 毎朝五時に起きての掃除や雪落としなどであるが、兵学校時代の訓練を思えば何でもなかった。一カ月もたった頃、社長から支配人にしたいから戸籍謄本を出すように言われ、残念ながらここは逃げ出さざるを得なかった。 所持品を売って金をこしらえ、東京と札幌間の運び屋をやったが、労多く収入は少なく失敗だった。 あけて昭和二十二年春、やや逃亡生活に自信もついて来たので、かねて打ち合せた暗号を使って深夜、家に帰り、妻と会った。やはり毎日、警官が家に張り込んでいるという。一晩泊まることも危険なので、すぐ家をあとにした。 札幌にもどり、小さな百貨店に採用され、英語もできることもあって販売主任を命ぜられたが、ここも戸籍謄本を求められて、一カ月足らずで出る。 いろいろ考えた末、北海道よりもむしろ人の多い東京へ行くことにした。 そこで一計を案じ、途中、津軽海峡で偽装投身自殺をはかることにした。 妻や両親、その他に数通の遺書をしたため、リュックにシャツ、タオルなどをつめて甲板に置いた。 これは一応成功したらしく、翌日の新聞に、 「戦犯容疑者斎藤は、追求に耐え切れず投身自殺した」旨の記事がのった。昭和二十二年三月のことである。 東京に着いた彼は、新聞で見た立川の貿易会社の求人に応じた。さいわい五倍の競争に勝って採用された。このときも海軍でうけた教育のおかげだと感謝した。 ここで約半年頑張ったが、やはり時期的に貿易事業は成算がたたず退職。次に考えたのは、思い切って米軍の中に入ってみよう、ということだった。まさか米軍の中に戦犯容疑者が入っていようとは敵も思うまい。 横浜の米軍通訳として採用された。 しかし、勤務成績が優秀で、知識・学力もあるということで、キャンプに働く日本人側の監督官に任命され、例によって戸籍謄本を求められ、ここもやめざるを得なくなった。 次に土建会社に入社。何とか快適に働くうちに人事課の次長に抜擢されたのはよいが、労務者の中に犯罪者がまじっていることが間々あるため、刑事がしばしば訪れ、しかもその応待を彼がさせられるのである。ここも一年足らずで退社せざるを得なかった。 この頃、かねて考えていた、変装のための二重瞼の手術をうけた。人相が少し変わった。 つぎに考えた末、海軍時代に支那や台湾で覚えたダンスを教えることにした。 これは時流にのって結構繁昌したが、そのうちやくざが甘い汁を吸おうと寄って来た。 あるとき、言いがかりをつけてきたチンピラを、海軍で鍛えた柔道や剣道の業でたたきのめしたのはよいが、その仕返しに、夜のうちにホールの窓ガラスを全部割られてしまった。 その頃、ある事件の参考人として警察署に呼ばれていったとき、まだ自分が全国に指名手配されていることを知った。 そのうち、ダンス教習場を幼稚園にすることになり、返還を求められたので、この水商売もやめることにした。 やがて、ある大きな自動車の修理会社の求人を知り入社、間もなく渉外部の支配人を命ぜられ、常に抜群の成績をあげることができたが、一難去ってまた一難、突然、喀血した。 このときも親切な看護婦に救われることになる。越野という女性である。 一日も早く入院しなければ命にかかわるという彼の身を案じて、彼女は方々探し、ようやく金沢八景にある病院へ入れてもらうことができた。 そしてさらに、この病院での婦長の献身的な看護がなければ、手術の際のミスで危うく命を落とすことになったかも知れなかった。 昭和二十五年の新春は病院のベッドの上で迎えた。隔離病棟であるから、捜査当局の目から逃れるには好都合だった。 当時、彼のような手遅れで完治の見込みのない患者には、GHQの指令でストマイの使用は禁止されていた。 したがって、どうしても自前でストマイを入手しなければならなかったが、そのときの付添婦が人知れぬ苦労をし、駐留米軍のところへ行って、闇で入手することに成功した。 ここで倒れては、今までの苦労が水の泡である。ストマイの効果と気力で何とか快方に向かってきた。 体力もついて来たところで、二回に分けて計七本の肋骨の切除手術をうけた。激痛の中で彼は歯を食いしばって、一言も発しなかった。 昭和二十六年九月、この病院で推されて二百人ばかりの患者の会長となり、患者の待遇改善につくした。そして二年半ののち退院した。 昭和二十七年二月、新聞を開くと、 「連合軍司令部は、永らく捜査中であった竹内元海軍少将ら六名の逮捕令を取り消した --------」旨の記事があり、その中に斎藤利夫の名があった。ついに潜行は成功したのだ。 彼は心の中で万歳をさけんだ。そして、逃亡中にお世話になった多くの人に、心からの感謝を捧げた。 だが、慎重な斎藤は、それからさらに一年三カ月潜行し、昭和二十八年六月、ついにこの作戦の終結を決意した。 約七年にわたる苦しい戦いのあと、彼はようやく親子三人の家庭に入ることを許されたのである。 彼は横浜から妻子のいる福島に、呼び寄せるべく電報を打った。 「シュツパツヲシュクス。ホンヒ、テンキセイロウニシテ、ミドリノカゼサワヤカナリ」 (完) |
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