不登校・非行・引きこもり

ガンバレ!戸塚ヨットスクール(その2)


○ 中村 ろく郎 (山口県、有倫舘学園・総長)

『国家百年の大計の為に』

教育は国家百年の大計である。明治、大正の日本人が優秀であったのは、それより前の江戸時代、我が国の教育水準、内容が、シーボルトが驚くほど人として立派であったからである。当時は義務教育制度がなかったから、学問したい者は競って学んだ。

本来、学問は受けたい者が受ければ良いのであり、猫も杓子も大金を浪費して、役にも立たぬ大学に行く愚かさから見れば、戦前、小学六年を義務教育とした制度の方がよほど良い。しかも、「三歩下がって師の影を踏まず」の師弟節度を弁えていたので、一つ事を習っても身についた。

日教組、高教祖など、左翼や共産主義者共のもっともらしい話に、人権屋、平等屋の横行と共に、味噌も糞も一緒にする愚かさを繰り返し、ついに現在の教育現場の崩壊、家庭崩壊、そして社会全般の退廃は目を覆う。

戦後、そのような堕落社会の中で、戸塚ヨットスクールが、かろうじて独り日本で、戦前教育要領をもって訓練を通じ、脱落青少年の人間回復と奮起、社会復帰教育を展開したが、ダメマスコミと法匪らは戸塚校長を逮捕、拘置、さらに聞く耳持たずの刑執行となって今日に至っている。これによる健全なる教育理念を持つ日本人の台頭を挫き、可もなく不可もないダメ人間養成は、逸脱した不良徒に拍車をかけた。

戦前日本健全教育から見れば、戸塚教育は極めて普通であり、特異なものではない。糞生意気なチンピラ横行と言われる小・中・高時代、新聞もろくしったま読めない連中には、節度ある精神基盤に樹って、まず国語を充実させ、日本正史を教え、人としての何たるかを教育しなければ、何の役にも立たない。今、日本中、我が国歴史伝統の素晴らしさを知らず、まず人と生まれた生き甲斐がないのである。

戸塚は、叱らぬ父と優しすぎる母に生まれ、良い子いい子のミルク育ちの腑抜共に、太平洋の厳しさを通じ、人間回復を実現したのである。綺麗事で済ます、平和ボケした今の日本で、極めて希少価値の高い男を、「法」の名のもと拘置しているその被害は、「人間社会」の正しい立場から見れば大損害である。その思想の後退、戸塚教育方針の弾圧は、我が日本の今と将来のために大被害である。

これに益する者は、日本解体に躍起となっている左翼思想であり、鼻持ちならぬ東京裁判の、不当、残虐史観に毒され、自虐観念に囚われている不勉強者、ダメ人間らにとっては、打ってつけの利であろう。

戸塚宏校長の、一日も早い出所を願うと共に、戸塚式教育理念の理解、普及、活動の展開、浸透を願い、愛する日本の将来、百年、いな、千年の大計のため、大和心の覚醒を叫ぶものである。('04.2.25)


○ 染谷 和巳 (東京都、潟Aイウィル・社長)

昔、戸塚宏氏と目黒の舗道で遭い、激励の握手をしたことを思い出しました。当時書いたもの(注:潟Aイウィルが発行する新聞「月刊ヤアーッ」H9.5.1号の1面中。以下に該当箇所全文を転載)、つまらないものですがお送りします。

『人権が国を亡ぼす』

基本的人権、人権尊重、人権蹂躙、人権擁護――これは、1度抜けば魔剣の切れ味で相手を黙らせることができる言葉である。この魔剣を振り回す人権教の狂信者がふえている。経営やビジネスといった最も縁遠い領域にまで、人権というペスト菌が蔓延しはじめている…。

――戸塚宏を断罪した人権裁判長

平成9年3月12日、名古屋高裁は「戸塚ヨットスクール事件」控訴審公判で、一審名古屋地裁判決を破棄、戸塚宏被告に懲役6年の実刑判決を下した。
平成4年7月の一審は「教育や治療の効果を挙げるためで、目的はおおむね肯定できる」と認めたうえで「体罰に行き過ぎがあった」として懲役3年執行猶予3年の判決だった。
この大岡裁きに「日本の裁判官にもまだ人がいる」とと拍手を送った人が少なくなかった。これで民間の1人の優れた教育者が暗に葬られずにすんだと安心したのは私だけではなかったろう。
今回の二審の土川孝二裁判長は「ヨットスクールの練習方法は国民の人権尊重を基本原理とする法秩序のもとで到底許容される余地はない」とし、「人権を無視して教育も治療も矯正もない。訓練目的に正当性はない」と否定し、「無抵抗な訓練生に暴行を加えた犯行は悪質残忍」と断罪した。
土川という裁判長は「正当な教言行葛と認める理由は何一つない。これは教育とは無縁の暴行だ」と言い、なぜなら「人権を無視しているから」と切り捨てている。
人権派裁判官。裁判官にも人権というペスト菌がとりついている…オソロシイコトである。

中川八洋(やつひろ)が言っている。
『翻って日本を見るとき、「人権」はペスト菌のごとく猛威を振るって法に対しても正義に対しても蹂躙を恣にしている。例えば殺人の犯罪者が「人権」に守られているというより「人権」がその罪も罰すらも免除してしまう。「人権」が法を無視して無法化を進めているのである。日本の「人権派弁護士」の狂気のごとき暗躍の成果である。そして、日本の「人権派弁護士」のほとんどは共産主義者であり、マルクス主義者であろう』(「正統の哲学 異端の発想」)
人権派弁護士が殺人犯の人権を武器に無罪を勝ち取る話はもう"日常化"している。
裁判官にまで人権派が出てきた。裁判官が法によらずに「人権」を柱に人を裁けば無法化が進む。法の前に、法の上に「人権」があるのだから。
土川という人権派裁判長は「国民の人権尊重を基本原理とする法秩序のもとで」と言っている。この言は詭弁である。
法は人権尊重を基本原理にはしていない。法は国民の義務と権利を基本原理にしている。国家の法は国民の義務と国民の権利を定めたものである。
義務を果たす人が権利を主張できる。国は国民としてこれだけの義務を果たせと法に定め、国民としてのこれだけの権利を国が守ると法に定めている。

「人権(人間一般の権利)」という魔語が横行しているが、中川八洋によれば「そもそも文明の社会における人間の権利などありえない」のである。
狂った教義「人権」が子供の権利を大人と同等にまで引き上げた。納税の義務など国民としての義務を果たしていない子供に大人と同じ権利を認めるのは亡国の狂気である。
狂った教義「人権」が職業選択の自由を武器に在日外国人の公務員登用を実現し、また差別を武器に在日外国人に地方参政権を与えるという運動を過激にしている。
狂った教義「人権」が裁判官の裁きの寄り拠となり、魔女狩りのごとき裁判を行わせている。
「人権」の狂信者は国の伝統も歴史も社会の慣習もそして法さえも否定して、すべてを「人権」という魔剣で切り刻もうとしている。
戸塚宏氏は、まだ最高裁があるとはいえ、自分の教育行為を否定するだけでなく憎悪をもって切り殺そうとする裁判宮に出会ったことに、断腸絶望の思いだったことだろう。

――人権は偉大な実績も一蹴する

戸塚ヨットスクールは重症の情緒障害児を普通の社会生活が送れる状態に回復することができる日本唯一の訓練機関であった。
週刊新潮(3月26日号)「戸塚ヨットの無情判決」の記事で、事件当初から取材に当たっていた記者がこう語っている。
「たしかに殴る蹴るなどの行き過ぎたシゴキもあったが、実際に更生した(自閉症や家庭内暴力、非行などの)子供は500人以上もいたし、またスクールの門を叩いた親や子供の方も、手荒なシゴキについては、ある程度承知した上で、戸塚にすがった。なかには、自分が子供を殺すか、子供に殺されるか、といった問題児を抱え、泣きつく親もいた。厳しい実刑判決は、行き過ぎたシゴキ、死者という断面を切り取っただけで、その背後にどんな現実や社会情勢が横たわっていたかが欠落している」
親も学校教師も医者も直すことができない情緒障害児をヨットの訓練を通じて矯正することに成功したのが戸塚氏である。
精神病院に入れれば薬漬けにされ廃人になっていく。この運命をたどったかもしれない人が、何人も救われた。また何百人もの人がまともに学校生活を送れるようになり、一人前に社会生活を送れるようになった。
自分の子を直してくれた親にとって戸塚氏は後光のさす恩人だった。その実績は、"偉業"と呼ぶにふさわしい実績であり、国家の表彰や勲章に値すると私は思う。

振り返ると、戸塚氏抹殺はマスコミと検察庁の異様な"怨念"で仕組まれた。
この事件を起訴したのは警察ではなく検察庁だった。「戸塚に孫を殺された」とある人物が友人の元検事総長に訴えた。元検事総長は検察庁を動かして戸塚氏逮捕を実現した。
朝月新聞などマスコミは「反戸塚キャンペーン」を張って戸塚氏を叩きに叩き叩きのめした。世論は「殺人鬼戸塚を許すな」と高まった。
戸塚ヨットスクールの卒業生、病気が直って社会復帰している人々が「違う!」と弁護した。確かに過酷な訓練だが、あの訓練で自分は奇跡の回復をとげることができたとテレビの取材に答えた。テレビは「過酷」の部分だけを紹介し、教育効果や卒業生の感謝の部分はカットした。
検察は一審で懲役10年を求刑した。裁判官は検察に迎合することなく「懲役3年執行猶予3年」の軽い刑を決めた。検察はこれを不服として上告した。
戸塚氏は自分の教育に信念を持っている。実績が一層信念を強くした。自分が犯罪者という意識は毛頭もない。堂々と自論を述べて反省しない。この"反省の色を見せない"が日本の裁判では心証を悪くする。反省すれば刑が軽くなるが、反省しないと重くなる。
かくて二審で懲役6年の実刑が科された。ついにマスコミ、検察に裁判長も与したのであった。

――人権、平等、民主の毒を吸うな

この講座の36回「大新聞の読み方」に載せた石原慎太郎氏の一文をもう1度紹介する。「歪められた裁判が、1人の先覚者を縊り殺そうとすることで、実は私たち人間全体の正しい蘇生を阻み、縊り殺そうとしていることを、私たち自身が阻止しなくて一体誰が私たち自身の子孫の、人間としての幸せを約束することができるのだろうか」(昭和60年3月号文藝春秋「戸塚宏・もう1つの暗黒裁判」)
人権派裁判官による今回の歪められた裁判もまた、一人戸塚氏のみならず、日本人全体の正しい蘇生を阻み、子孫の代まで不幸にしてしまうものになることは間違いない。
土川裁判長のように、人権尊重、体罰憎悪というモノサシでしか社会の問題を見ることができない人が権力を持ち、権力を行使するなら、私たちの自由は剥奪され、日本はソ連や北朝鮮のような全体主義の国になっていく。それは人の不幸のうちでも最大の不幸といえるだろう。

このような道を進まないために「人権」と「平等」と「民主」に毒された人を弾劾しなければならない。
中川八洋が指摘するごとく、東ドイツ、ソ連の崩壊によって社会主義革命の夢を断たれたマルクス主義者たちは、誰一人として挫折も転向もしていない。進歩的文化人と言われる大学教授や評論家、著述家は社会主義を絶賛しなくなった代わりに、声高に「人権、平等、民主」を叫んでいる。その著書や学校教育において、以前にもまして"反日教育"に必死になっている。
日本の歴史と伝統と社会の慣習を一切否定して、悪魔の思想によって個人の幸福が叶えられると狂信する人々。この人を指導と教育の場から排除しなければならない。もちろん司法立法行政の国権に関わる政治や公務の場からも排除しなければならない。

最後の砦は会社である。会社の常識、会社の思想が国の崩壊を防いでいる。会社の指導者のみが日本を救う力を有している。('03.7.5)