2010.4.17
■ 衆愚の大学,これを止めさせる方法 ■
[ 大学教育の現場問題 ]
◎ 楡 周平『衆愚の時代』2010年3月は,第1次産業で若者は働け,という ◎
【至当な主張が通じない時代】
① 衆愚の時代に存在する大学の空虚
楡 周平『衆愚の時代』(新潮社,2010年3月)を先日,通勤(痛勤?)電車のなかで読了した。この新書の要旨は,つぎのように紹介されている。
いつの間にか,この国では偽善的言説が「正論」になってしまった。
負担は先送りして「国民のみなさま」にバラマキを約する政治家,セレブ生活を棚に上げて「CO2削減」を訴えるテレビキャスター,「誰もが望んだ仕事につける社会を」と空論を述べる新聞記者…。
誰も本当のことを言わないのなら私が言おう,社会人なら心得ておくべき「当然の常識」を。
思わず溜飲の下がる,衆愚の時代への鉄槌。
本書の目次は,こうなっている。
第1章 派遣切りは正しい
第2章 欲望を知らない子供たち
第3章 夢という名の逃げ道
第4章 サラリーマンは気楽な稼業ではない
第5章 まだ株屋を信用しますか
第6章 非成長時代の身の処し方
第7章 老人専用テーマパークを作ろう
第8章 「弱者の視点」が国をダメにする
第2章 欲望を知らない子供たち
第3章 夢という名の逃げ道
第4章 サラリーマンは気楽な稼業ではない
第5章 まだ株屋を信用しますか
第6章 非成長時代の身の処し方
第7章 老人専用テーマパークを作ろう
第8章 「弱者の視点」が国をダメにする
楡は,慶應義塾大学大学院修了後,米国系企業在職中の1996年に書いたデビュー作『Cの福音』がいきなりベストセラーになったのを契機に,翌年より作家を専業にした。
本書はまず,1956(昭和31年)7月に発表された『経済白書』の「副題:もはや戦後ではない」という有名な一句の初出は,中野好夫が『文藝春秋』1956年2月号に発表した「もはや『戦後』ではない」であったこと,そしてつぎに,その前年の昭和32(1957)年に著者の楡が生まれていたことに触れている。楡はとくに,「もはや戦後ではない」といわれた時代のあと,この世に自分が生を受けたことを断っておきたかったらしい。
この楡がものごころついたころの日本はすでに,本格的な経済成長の時代に入っていた。楡『衆愚の時代』は,そうした時代に生きてきた著者の精神心理を反映させている書物である。
② 新聞奨学生
楡『衆愚の時代』は新聞奨学生を話題にとりあげている(127-131頁)。「自転車,バイクに乗って新聞を配達する」新聞奨学生は,「夜は夜でチラシを用意し,果ては集金」の仕事である。「何で俺がこんな苦労をと,生まれついた境遇を呪い,恨みの言葉の一つも言いたくなる」のが,この新聞奨学生の労苦であった。しかし「一昔前まではそんな学生はたくさんいた」のである(130頁)。
この記述を読んだ本ブログの筆者は,そういえば昔,自分の「ゼミ」に所属していた○野君という新聞奨学生がいたことを思いだした。彼は当時,冬になると雪がよく降る寒い地方での朝刊・夕刊の配達をしていた。現在は毎月置かれている新聞の休刊日は,当時はまだ年6日程度しかなかった。新聞奨学生の苦労は,たいそう気の毒になるくらい〈ガンバリ〉が必要な仕事であった。
また,やはり筆者のゼミにいたことのある卒業生(こちらは女子学生)も,やはり住みこみでの新聞配達をしながら大学院に進学するための貯えを準備しようと,がんばっていたことも思い出した。
新聞奨学生のように生活の苦労をしのいできた若者にあっては,いまどき「学友たちが楽しい学生生活を送っている4年間,辛い思いに耐え,雑念に打ち勝ったという実績がある。社会人生活を始めるに当たっての基礎なんてものは,十分過ぎるくらいにできている」(130-131頁)と,楡は評価している。
新聞奨学生が4年間の学生生活をへこたれずにやりぬくには,肉体的にはもちろん精神的にも相当の覚悟と負担が要求される。彼らは総じて勉強にも熱心であったと,本ブログの筆者は記憶している。彼らであれば「大学の勉学」がいかに大切か,すなわち多額の入学金・授業料などを納付して授業を受けたりゼミでの学習をしたりする時間がいかに貴重であるかを,体でしっている。
大学が新聞留学生のような学生ばかりを相手に授業やゼミを展開するのであれば,いまのような体たらくである「日本の大学事情」も,少しは改善されるはずであるが,しょせんはごく少数派の存在でしかない。
現在,本ブログ筆者の自宅に新聞配達をする若者は,以前より韓国やベトナムなどアジア諸国から留学している外国人「新聞奨学生」が多くなっており,日本人学生は5~6人に1
人くらいしかいない。これは,日本の若者の耐え性が顕著に低下している実情を物語っている。
③ 大卒の資格にどのくらいの意味があるのか
楡は「大卒資格より1人前を目指せ」と強調する。「単に大卒の資格を得るだけのために,確固たる目標もないまま進学し,悶々とした4年間を過すなんて,無駄以外の何物でもない」のだから.「大変貴重な時間で」ある「4年」を「手を職をつけようとすれば」よく,「技術と経験が要求される仕事」,たとえば「美容師,理容師,漁業,農業従事者など」「人よりも早くその環境に身を置いた方が,より早く1人前になれるに決まってい」る,と強調する(132頁)。
この主張は,いつも筆者が議論している中身,いいかえれば,大学に4年間通ってめでたく卒業できたとしても,いったいどのような職業・仕事に就けるのか,大卒という学歴にふさわしいものたりうるかという疑念に対して,真正面より結論を出している。
最近の大学生は卒業できていても,フリーターならまだよく,無職:無為徒食のままに漂流している若者も多い。「彼らの衣食住」はまだ親がかりで賄いえてはいるけれども,このさき10年も20年も同じように生活していけるのか。この点を考えてみただけでも,たいそう情けない,それも絶望的な「彼らの未来像」を確実に予見せざるをえない。
楡はあらためて,「農業と漁業になぜ将来性があるのか」(134頁)と力説する。筆者はこの論点の提示をしごく自然なものと肯定的に受けとめる。いわば,日本の「食糧安保」=「自給自足体制」確立のために〈必要かつ十分な基礎条件〉を整備したいのであれば,農林水産業をもっと真剣に考え,だいじに育てるための産業政策が,当面する〈喫緊の課題〉として急浮上する。
楡は要するに,日本における食糧問題に関する現状を,こう心配する。
今でさえも,食料の輸入依存率が高いというのに,購買力を無くした日本には,物が入って来なくなる。そんな時代がやってきて,国内に目を転じてみれば,農業,漁業に従事する人間がいなくなってしまっている。これは日本人の生活どころか,生存にかかわる危機です。同時に,そんな時代を見越して,農業,漁業に従事していた人間にとっては大きなチャンスになるでしょう(135頁)。
この国においては近い将来,食糧(食料)という「モノが〔外国に〕売って貰えない時代がやってくるかもしれない」(135頁。〔 〕内補足筆者)。「否応なしに,昔日の日本に逆戻りせずにはいられないということになる」。「食料を確保するために国が動き,農業,漁業,そして畜産業の重要性が改めて見直される時が来る。だけど,その時になって,これからの時代は農業だ,漁業だと言って職を求めても遅い」(138頁)。
楡はだから,いまからでも農林水産業に参入することを人びとに強く要望する見解を提起している。ただし,農業,漁業にしても「1人立ちできるまでには,十年,あるいはそれ以上の年月を要するかもしれない」。だが「一旦身につけた技術は,すたれることはない。いやそれどころか,年月を重ねるごとに練度は増していく。新しい技術の習得を怠らなければ,いつまでも現場の第一線に立ち続けることができる」(140頁)。
農業・漁業などの第1次産業は,なによりも「中高年になるといつリストラの憂き目に遭うかと怯えて過ごさなければならないサラリーマンとはまったく異なる」生活・生産の空間を作るかたちで,職業・仕事を提供している。
というのも「人間が存在する限り,絶対需要が絶えることがない」食物:食料(食糧)を生みだしているからであって,「それどころがこれから先確実に国内需要が高まる農業,漁業,畜産業といった食物生産業に若者は目を転じるべきだ」というのである(141-142頁)。
楡はまた,日本における農産物市場の今後に目をやると,われわれの食生活にとって面白くない事態の到来が必至であると,こう断ってもいる。「購買力の落ちた日本の市場には,大量生産ゆえに安い外国産食料が流通し,国産の美味しい食料は,根こそぎ高値で外国に持って行かれる。そんな日が来る可能性は決して低くはないでしょう」(142頁)。
④ 日本の若者の将来
1) 若者よ,いざ,農林水産業へ
一流大学を出て一流会社に就職して,それも時代の最先端をいく産業経営〔製造業,流通サービス業,IT産業など〕において仕事をえられる大学生は,まだいい。そうではない,いわば〈その他〉大勢の非一流大学の大学生は,自分たちの進路:一生の仕事を,どの産業,どの業種,どの会社,どの職業に求めればよいのか,もっと真剣に,深刻に,それも自分自身のためを思って熟考してほし「「いものである。
もっとも,一流大学の卒業生だからといって,第1次産業に職を求めないでいいなどと1人決めするのは,見当違いである。どの産業分野であれ,優秀な人材がほしいことに違いはない。毎年,高校や大学などを修了した若者が,できれば最低10万人単位で,農林水産業に職を求めたり,この分野において起業する人間として進出したりしてくれれば,日本の第1次産業の未来は明るい展望が期待できる。
最近は食生活の『地産地消』が強調され,フードマイレージも正当に意識されている。いいかえれば,われわれが口にする食料(食糧)の「生産-流通過程の《見える化》」,とでもいうべき要請が切実化している。
そうであればなおさらのこと,地元で採れる動植物から食糧(食料):食品が,できうるかぎりすべて収穫・生産でき,これをわれわれの食生活において摂取できるように,第1次産業全般における〈ものつくり体制〉を整備しなければならない。食料(食糧)の入手・加工という産業活動は,すべての人びとにとって「より身近な行為である」ことが好ましい。「〈衣食住のひとつ〉としての食糧」問題は,人間の生存・生活にとって最重要の基本要件である。
2) 反捕鯨組織の狂信性に対する小泉武夫の反論
しかし,古くから日本人の食生活史にとって非常に貴重なタンパク源として,余すところなく有効に利用されてきた「食料資源としての鯨」の問題については,小泉武夫『鯨は国を助く-箸を持った憂国の士が語る-』(小学館 ,2010年4月6日)が,きわめて身勝手で非科学的な反捕鯨運動をおこなうシーシェバードに対する〈適切な批判〉を提示している。同書は,説得力ある論旨を披露している。
3) 箸を正しくもてない日本人
本ブログの筆者はここで,小泉武夫が同書の副題に「〈箸〉ということば」を入れた点に関して「首を捻っている」。服部幸應(服部栄養専門学校校長)も指摘するように,いまどきの日本人は,若者を中心に「箸をまともに〔正しく〕もてない」人が多くなっている。
核家族化が進み,現在の日本は衣食住が乱れています。これまで1300年間にわたって,大家族制度の中で培われてきた家庭のしつけが,ここ2,30 年で崩れようとしています。
いま,箸をきちんと持てない子どもたちがどれくらいいるか知っていますか。幼稚園から72歳までの日本人 650人を調査した結果,4割が満足に箸を持つことができないのです。もちろんこれは平均値であって,年齢が下がるほど持てない割合は増えていきます。
学校の先生は,いましつけをしていません。しつけは家庭で,と言いますが,家庭ではしつけはできないのです。両親だって箸が持てないのですから。小中学校は,しつけに大切なときです。この時期をのがしてしまうのは,もったいないと思います。食を通すと話が早いのですよ。
注記)『学びの場 com』教育インタービュー「食を通じて,人を育てる/服部幸應さん」より。
http://www.manabinoba.com/index.cfm/4,769,81,html?year=2002
いま,箸をきちんと持てない子どもたちがどれくらいいるか知っていますか。幼稚園から72歳までの日本人 650人を調査した結果,4割が満足に箸を持つことができないのです。もちろんこれは平均値であって,年齢が下がるほど持てない割合は増えていきます。
学校の先生は,いましつけをしていません。しつけは家庭で,と言いますが,家庭ではしつけはできないのです。両親だって箸が持てないのですから。小中学校は,しつけに大切なときです。この時期をのがしてしまうのは,もったいないと思います。食を通すと話が早いのですよ。
注記)『学びの場 com』教育インタービュー「食を通じて,人を育てる/服部幸應さん」より。
http://www.manabinoba.com/index.cfm/4,769,81,html?year=2002
日本の歴史を1300年と正しく認識し,けっして2千6百年以上もあるなどといって〈神話に世界〉に遊ばない「料理専門学校校長先生」の服部幸應には感心する。
それはともかく,反捕鯨運動組織に対して論駁する著作の題名のなかでの話であるが,さらにまた,いかなる関連があるのか判然しないのであるが,若者層においてはいまや,「箸のもてない日本人が多数派」でもある事実を踏まえていおう。日本の食生活史における〈食糧=鯨〉の問題を,正しく箸をもてる〔はずの〕小泉が「箸を持った憂国の士が語る」といってみたところで,蛇足の感をぬぐいきれない。この副題は,わざわざ付さないほうがよかったのではないか?
小泉は,鯨と箸ということばのあいだに「特別の因果関係」を,なにかみいだしたいのか。だが,この点は皆目「実証不能」である。
4) 最近の捕鯨関係記事(4月18日補述)
このところ1週間,朝日新聞には捕鯨関係の特集記事が2つ出ていた。
ひとつは,4月13日の「調査捕鯨,何調べている? 耳垢から年齢,肝臓から汚染物質分析」である。もうひとつは,〈オピニオン〉「異議あり」欄でインタービューされた元水産庁課長小松正之(現在,政策研究大学院大学教授:環境海洋政策学)の記事「商業捕鯨,科学データ武器に再開を,黙っちゃ負ける。クジラ資源は豊富,捕獲数を減らす根拠はない」である。
小松いわく,捕鯨問題の議論においては「日本側にも問題があり」「驚いたのは,IWCの科学委員会で,日本の研究者たちが英語の複雑な議論についていけず,沈黙していたこと」である。「黙っちゃ負ける」。そこで,国外と「国内の研究者と勉強会を開いて,日本の調査捕鯨の原案を修正してもらった」。この捕鯨問題については,東京農業大学教授の小泉武夫も「黙ってはおらずに反論している」。英語でも発信する余地があるが・・・。
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