2010年10月12日

浅沼事件が示した反支那・抗中の宿命!

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共産・支那(中国)こそ日米両国にとっての大敵

起こるべくして起こされた浅沼社会党委員長暗殺事件の運命性

 10月12日という日がやって来た。

 大多数の人にとっては秋の日の一日でしかないこの日だが、50年前の今日、東京・日比谷公会堂壇上で浅沼稲次郎・社会党委員長(当時)が数千人もの公衆の面前で暗殺された。

 これを実行したのは元大日本愛国党員で当時17歳の愛国少年、山口二矢(やまぐち・おとや)。後に警視庁丸の内署より移送された東京鑑別所にて首を吊って自決。
yamagutiotoya02 房の壁には歯磨き粉で「七生報国」「天皇陛下万歳」と記されていた。

 二矢を「おとや」と読める事件当時を知る日本人がどのくらいご存命だろうか。今日の尖閣事件を機とした共産・支那(中国)の対日侵略という剥き出しになった野望を目の当たりに二矢の名を想起した方も少なくない。

 生前の浅沼委員長が訪中の際に「アメリカ帝国主義は日中両人民にとって共通の敵である」とした発言は相当衝撃的なものであったとされるが、帰国の際にも支那の人民帽を被って飛行機からタラップを降りてくる光景も多くの人を刺激した。

 これを今風に言えば、尖閣事件で支那への反発が高まっている中で、やれ「日中友好」だの「日中共生」だのと説いている首相・菅直人や官房長官・仙谷由人らの政権政党の媚中姿勢をより端的にしたものと言えようか。

 余談ながら山口二矢について触れておくと、父親が当時自衛隊の幹部であったことからその家庭環境が特異なものとして捉えられがちだが、父・晋平氏は元々は他省庁の役人だったものの統廃合によって自衛隊に横滑りで入隊。

 自衛隊では主に広報部門を担当し、そのため事件後に自宅へ押し寄せたマスコミへの対応は手馴れたもので、極めて事務的であったことなどが話題となっている。

 後に当時の週刊誌記事を拝読した私自身の感想として「(子息の行為について)法律的な責任はないと思います。道義的には(責任が)あるかも知れません」と割り切って述べた箇所が印象的だった。

 戦中には通訳として南方戦線に赴いているが、いわゆるガチガチの職業軍人タイプではなく、自衛隊への入隊を選択したのも戦前の軍部のような暴走がないかそのチェック機能を果たそうとしたためであったとされる。どちらかと言うと自由主義者で、ちなみに事件前には建築だか専門知識を学ぶため大学で学科を受講することも決まっていたが、事件発生によって入学を取り止め。

 なお、事件後は元来の夢であった役者として舞台に立つことも諦め、お菓子屋を開いたことなどが週刊誌で報じられていた。
 
 二矢が事件に際して用いた短刀は山口家にあったものを用いており、これは父・晋平氏が護身用として常に枕元に置いていたものであったが、何も自衛官だから…ではなく、以前に賊の襲撃に遭って以来のことで晋平氏はかねがね息子・二矢に対して「賊が襲ってきた時は刀で斬るなどということは難しいから刺さねばダメだ」と教えていた。
 何も自衛官だから…ではなく、当時の日本人が持っていたごく当然の気概と防衛意識である。外敵に対しては即座に応戦する。そういう健全な精神がまだ生きていた時代だからこそ反日左翼勢力という外患を誘致する日本国にとっての敵を倒すことにも多くの共感が寄せられたのだろう。

 さて、その山口二矢が自身の行動によって現在に示唆したことがある。

 それは社会党委員長の暗殺事件によって日本の政治がどうなった、日本の社会がこうなったという次元の評価ではなく、大東亜戦争以降の日本が昭和35年当時から今日に至るまで直面する問題について実に示唆に富んでいる。

 山口二矢は当時から東京はじめ各地の街頭で我が物顔で振る舞っていた朝鮮人や支那人それと結託する日本人左翼への激しい憎悪から左翼の首魁暗殺という直接行動におよんだものだが、この状況は朝鮮民族高校の無償化要求デモに見られるように今も然して変わらない。

 つまるところ日本が国家としてよほどの危機感に基づいて強硬姿勢に臨まない限り、こうした不逞朝鮮人・支那人を抑えるには至らないということだろう。

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 第2点目に「米帝(アメリカ)は日中両国の敵」とした浅沼委員長の発言と、それによって暗殺された浅沼委員長の命運に着目すべきだが、今日の尖閣事件にも見られるように日中間の対立は米国の利益にばかり適っている。日中間の対立が深まれば深まるほど米国の尖閣諸島および東シナ海における利権への介入、また沖縄での在日米軍存立の意義は増す一方だ。

 逆に日本が米国と離間すればするほど、それは支那を利することになる。

 どちらも日本にとって好ましい展開ではないが、日中間の対立を深めれば深めるほど米国の戦略に乗せられるとしても、大東亜戦争において米中が結託する中でこの両国を敵に回して戦って敗れた日本としては再び同じ愚をおかすことは許されない。

 つまり日本が米国と同じ自由主義・民主主義であることを差し引いても、また、支那がわが国とは相容れない共産主義軍事独裁国家であることを差し引いても日本にとって脅威であることに違いはない支那の侵略性に抗うには、支那を制圧せぬまま米国をも敵にすることがあってはならないということ。

 第3点目。
 当時より米国と世界を二分して睨み合い、脅威とされてきたソ連(現ロシア)も然ることながら支那に媚びへつらった日本の左翼指導者がその言動を機として倒された点に着目。

 その後、ソ連邦は崩壊(91年)してそれまでの東西冷戦構造が消滅したとされるが、それは極めて欧米史観であり、依然として支那や北朝鮮など共産主義軍事独裁国家が存在する極東アジアにおいては冷戦構造が続いてきた。
 最近になってマスコミなどは尖閣事件以降の支那と日米の関係を「新冷戦」などと報じているが、極東アジアにおける冷戦構造がそのまま熱戦時代に突入したものであり、この日本的史観にこそ立脚せよということ。

 あの当時から現在まで続く戦後日本社会という歴史的には極めて短い期間を総括する観点から、私たちは必然性とも言うべき社会党委員長暗殺事件の発生を振り返る必要があろう。

 このところ尖閣をめぐる支那の対応はトーンダウンしているが、騒ぐことで利益になるなら支那の連中は騒ぎもするし、押し黙ることで利益になるならここ最近までのように支那の連中は黙りもする。
 もっとも最初に激昂して後に主張を弱めることでさもトーンダウン、沈静化したように思わせるのも連中の常套手段ではあるが。

 支那国内で拘束された株式会社フジタ社員4名のうち、残る最後の1人もようやく解放されたことに一喜一憂している間に、支那工作船による衝突の際のビデオ公開に踏み切らないとした民主党政権の及び腰を尻目に支那はさも日本側に落ち度があったとする情報戦・情報工作を着々と進めている。

 かねがね支那政府が日本に対して恫喝してきた「重大な局面」に際し、日本社会に形づくられつつある反支那を機運とした日本人のナショナリズム、大和魂を大いに隆盛、大爆発させようではないか。

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山口二矢烈士の「おとや」にちなんだとされる「於菟也(おとや)」の曲をご紹介します。



 



Posted by samuraiari at 18:15│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

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