【コラム】独立門を元の場所に戻せないのか(下)

 独立門は、元々建っていた場所にこそ本来の意味がある。朝鮮時代に中国の使臣を額を付いて出迎えた迎恩門を取り壊し、その場所に、自主と自強の象徴として独立門が建てられた。迎恩門という名前は、中国の「恩寵」を格別の恩典として受けるという意味で、中国の使臣が命名した。独立門の建設において中心的な役割を果たした革命家の徐載弼(ソ・ジェピル)は、「わたしは故国に帰り、何よりもこの汚れた門、恥ずかしい門をなくしたいと堅く決心した」と自叙伝につづっている。

 朝鮮時代の国王や世子は、中国皇帝の承認を受けなければ即位できなかった。旧韓末、26歳でソウルにやって来た袁世凱は、「袁大人」「監国大臣」と呼ばれ、あたかも総督のように朝鮮の朝廷を振り回した。こうした事情を知っていれば、迎恩門を撤去してその場所に独立門を建てることが、韓国5000年の歴史上いかに革命的なことだったかを理解し、高架道路の建設を理由に独立門を移すことなどできなかったはずだ。独立新聞は1896年6月の社説で、「この門は、単に中国からの独立を意味するものではなく、日本、ロシア、そしてすべての欧州列強からの独立を意味する。独立門よ成功せよ。そして次の世代に、道を忘れざらしめよ」と訴えた。

 徐載弼が今、独立門の頭上を押さえつけるかのように高架道路が走っている姿を見たら、何と言うだろうか。ソウル市が、今はなき敦義門(西大門)を本来の位置に復元しようと検討している中で、独立門の原状回復については計画すら立っていないというのは、理解に苦しむ。10年、20年かけてでも、必ずや元の位置に戻すという意志を持って、その方法を研究することを望む。

金泰翼(キム・テイク)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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