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【安保改定から半世紀 体験的日米同盟考】 (28) 日本国憲法を書いた米国人 (3/3ページ)

2010.10.11 08:38
このニュースのトピックス体験的日米同盟考
1952(昭和27)年7月7日、日本憲法起草の舞台でもあった連合軍総司令部(GHQ)が入っていた第一生命館が返還された。この年、日本は主権を回復し、第一生命館には日の丸が揚げられた(共同)1952(昭和27)年7月7日、日本憲法起草の舞台でもあった連合軍総司令部(GHQ)が入っていた第一生命館が返還された。この年、日本は主権を回復し、第一生命館には日の丸が揚げられた(共同)

 「憲法第9条の戦争の放棄などは私自身が書きました。ホイットニー局長から渡された黄色い用紙に3、4の要点の指示が書かれていました。同局長がマッカーサー司令官の口述を記録したノートのようだと思っていました。そこには『自国の安全保障のためでも戦争は放棄する』という記述がありました。しかし、どの国にも固有の自衛の権利はある。だから私はその記述は理に合わないと思い、自分の一存で削除しました」

 ケーディス氏はこんなことを淡々と語り続けるのだった。黄色い用紙とは、いわゆるマッカーサー・ノートと呼ばれる憲法草案の大まかな内容の指示だった。

 草案は米国の陸海軍と国務省の連合組織が大枠を決めてはいたが、具体的な部分は当時39歳の同氏のような現場の法律実務家たちに任されていたというのだ。「戦力の不保持」や「交戦権の否認」も黄色い用紙の指示どおりだったが、ケーディス氏自身、「交戦権」という用語の意味がよくわからず、もし日本側から求められれば、削除してしまうつもりだった、とも打ち明けた。

 「この憲法の意図は当初は日本を永遠に武装解除されたままにしておくことでした。だが米国の対日外交の手をしばる効果をもたらし、米国としては賢明ではない状態が生まれてしまったといえます」

 このように異端だらけの日本の憲法は日米同盟をも異色の形で縛りつける効力を発揮していくのだった。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久)

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1952(昭和27)年7月7日、日本憲法起草の舞台でもあった連合軍総司令部(GHQ)が入っていた第一生命館が返還された。この年、日本は主権を回復し、第一生命館には日の丸が揚げられた(共同)

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