その日は特別な事が何もない一日だった。
いつも通りに起きた。故郷から持ってきたmede in japanの目覚まし時計は低血圧なんて容赦なく駆逐して叩き起こしてくれる。おかげでこれまで遅刻とは無縁な生活を送れているのだけど、それでもジリジリジリ! という金音は正直頭が痛くなるような気がする。
いつも通りに仕事をした。上司の悪口を言い合ったり怒鳴られたり失敗した後輩の尻拭いをしたりして時間をやり過ごしているといつの間にか定時を回っている。それじゃあ、と逃げ出そうとした所を『日本人が定時に帰るんじゃねえ!』と実に差別というか偏見というかな文句をつけられて残業する羽目に。
いつもの通りに帰宅した。あとはシャワーで一日の疲れを流したらベッドにダイブして一日終了。
――俺にとっての『いつも』が崩壊したのはこのステップだった。
「……は?」
実に間抜けな声。
そんなのが断末魔なんていやだなぁと思いながら、俺は木乃伊になって死んだ。
◇◇◇
「Wo war ich schon einmal und war so selig
かつて何処かで そしてこれほど幸福だったことがあるだろうか」
倫敦。
その都市の名を知らないものは少ない。
「Wie du warst! Wie du bist! Das weis niemand, das ahnt keiner!
あなたは素晴らしい 掛け値なしに素晴らしい しかしそれは誰も知らず また誰も気付かない」
表向きには世界でも屈指の大都市として。
表向きには世界でも屈指の魔術的拠点として。
「Ich war ein Bub', da hab' ich die noch nicht gekannt.
幼い私は まだあなたを知らなかった
Wer bin denn ich? Wie komm'denn ich zu ihr? Wie kommt denn sie zu mir?
いったい私は誰なのだろう いったいどうして 私はあなたの許に来たのだろう」
表向きしか知らないものは思うだろう。今日も平和な一日が終わると。
裏向きを知るものは思わないだろう。ここを襲う存在が世界のどこかにいるなどと。
「War' ich kein Mann, die Sinne mochten mir vergeh'n.
もし私が騎士にあるまじき者ならば、このまま死んでしまいたい
Das ist ein seliger Augenblick, den will ich nie vergessen bis an meinen Tod.
何よりも幸福なこの瞬間――私は死しても 決して忘れはしないだろうから」
故にこの結果は必然。
そもそも、奇襲とはされる側が予期せぬからこそ奇襲足りうるのだから。
自身の渇望をもって現実を侵食する。聖槍十三騎士団黒円卓の副首領カール・クラフト=メルクリウスが組み上げた秘術(エイヴィヒカイト)において第三階梯に位置する『創造』の発現。
そのトリガーとなる聖句がいま唱えられ――
「Sophie, Welken Sie
ゆえに恋人よ 枯れ落ちろ」
――もって、開戦の号砲となる。
◇◇◇
その夜、倫敦は永い夜を迎える事になった。
「クッ」
倫敦を一望できる尖塔の上。闇の帳に包まれた街を見渡せる位置に立つ男の口元から堪え切れないとばかりに嗤いが漏れる。病的なまでに白い肌をした長身の男にとって、自分が引き起こした眼下の光景はまさしく歓喜を呼び起こす物なのだろう。
街を行く人々は次々に干からび、例外なく枯渇して死んでいく。車を運転しているうちに吸い尽くされた者が大勢いたのだろう。あちらこちで爆音と悲鳴が起こり、漆黒の帳が下りた夜空に紅蓮の蛇がのたうち始めている。
この夜の下にいるありとあらゆる水分が男によって吸い上げられていく。水もガソリンも血液も……悉く飲み干して残っているのは空になった肉の袋のみ。
その光景は正しく阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
死と恐怖に満たされていく街並みをさも愉しげに見下ろす男の姿を余人が見たならば気でも狂ったのかと思ったかもしれない。あるいは逆に納得したかもしれない。老人……特に先の大戦を潜り抜けた経験のある者ならばむしろ男の態度を当然と受け取るだろう。
髪も肌も白く、目元には夜だというのにサングラスをかけたその男の服装は黒の軍装に赤の腕章。そして見紛う筈もない鉤十字(ハーケンクロイツ)……ナチスドイツ、それも親衛隊の軍装を男は纏っているのだから。
ああ、だかあの戦争はもう六十年以上も昔に終わったはずではなかったか?
もしもそう問いかける事ができる者がいたら、その男はこう答えただろう。
「戦争再開だ、糞共。さっさと起きねえとこのまま全ン部ぶち殺しちまうぞ?」
宣言と同時、男を囲むように彼らは現れた。
鈍! と音をさせてどこからともなく『飛んで来た』鎧姿の騎士六名。
その全員が鋼鉄の全身鎧に身を固め、右手に長剣と左手に大楯を装備した騎士たちは英国の魔術サイドに所属する『御伽噺に出てくる通り』の存在だ。
即ち一騎当千の力を持ち、民草を守るために悪しき存在を切り捨てる正義の味方。
その一団の長はヴィルヘルムの姿を確認すると最後通牒を下した。
「散れ」
騎士の剣は閃光の如くヴィルヘルムの首へと殺到する。一本ではなく六人全員の刃が。
多方向からの同時攻撃はいかなる回避も許さず、騎士の剣は惨状を引き起こした白貌のSS隊員を斬首の刑に処する。そう思っていたのは騎士と、僅かにその光景を目にしてしまったごく少数の人々だけだった。
「アん?」
「な、に?」
騎士たちは例外なく驚愕する。しかし、それは自分たちの剣が敵に通じなかったからではない。
真に彼らが信じられなかったのは、彼らが動くよりも早く自分たちが股下から脳天まで漆黒の杭によって串刺しにされていたからに他ならない。一団の長がいまだかろうじて意識を持てるのは単に剣に体重を込めるために深く踏み込んでいた事で頭まで串刺しにされなかったからにすぎない。
それでも致命傷。
騎士たちを貫いた杭は男の牙でもある。それ故、直接『吸い尽くされる』事になるのだから。
「ちっ。おいおいこんな程度でくたばるのか騎士サマよぉ。ご自慢の騎士道はどうした? 英雄願望の爺(ドンキホーテ)だってまだこのくらいじゃ倒れねえぞ? おい。
そもそも、こっちはまだ名乗りも終えちゃいねぇってのに」
しかし、その結果に一番不快感を示したのは男の方。
彼はサングラスに隠れた両目を不愉快げに歪め、しかしすぐにまた喜悦の色に戻す事になる。
「なあ、そう思うだろう? 騎士団長殿?」
「決闘の前の口上とはまた随分と古臭い事を言う」
斬! という刃音が男の残像を薙ぎ払う。その一閃は串刺しにされた騎士たちの遺体をも両断する。
一見冷酷なその行動は、しかし最も正しい対処である事を男は直後に知る。杭から吸い上げたはずの騎士たちの魂が完全に粉砕されていることに気がついたのだ。
サングラスの奥にある真紅の瞳を喜悦に歪めながら男は問う。
「……流石は騎士王の国。面白ェ得物を使うじゃねえか。そいつの銘はなんていうんだ?」
「さて、教えてやる義理はないな」
男の前に現れたのは一本の長剣を携えたスーツ姿の紳士だ。
それこそどこにでもいる、容姿が多少優れている程度の英国紳士は男を、続いて空を見上げてそこに輝く真紅の満月を睨んだ。
「この空間全てが貴様の腹か。これだから固有結界と言うのは厄介極まりない」
「そういうことはメルクリウスに言ってくれや。俺は便利だから使ってるだけなんでねぇ」
おどけた調子で返すが、男の殺気は先ほどまでの比ではない。それこそこの空間全てを呑みつくすほどに研ぎ澄まされた殺意は無差別に人に襲い掛かり、街中の人々を例外なく串刺しにしていく。紳士の嗅覚はすでにこの空間を満たす臭い……溺れそうなほどに濃い血の臭いにその機能を半ば放棄しようとしていた。
もっとも、その程度の事で彼……英国を守護する騎士を統べる長の戦意は微塵も揺らぐ事はない。
「やれやれ、ならば致し方ない。貴様の首をもって、そのメルクリウスとやらに文句を言いに行くとしよう」
瞬! と一振り。
それと同時に紳士の持つ長剣が赤黒い光に包まれ、やがて3mを超える長大な刃を形成した。
これこそ騎士の長が振るう魔剣。
斬った相手の返り血を啜る事でその切れ味を増していくといわれ、かつて英雄ベーオウルフが使っていたとされる御伽噺の剣。
その銘を『フルンティング』と呼ばれる魔剣を突きつけられた男は歓喜を堪えられない様子で両腕を広げ、
「良いのかよ。期待しちまうぜぇ? ここんとこ碌な祭りもなかったからよぉ……溜まってんだ。その気にさせた責任を取ってくれねえとよぉ……てめえ、一瞬で吸い尽くしちまうぜ?」
その全身から漆黒の杭が突き出す。
聖遺物『闇の賜物』――吸血鬼ヴラド・ツェペッシュがその呪詛と怨恨を凝縮させて流した末期の血液――と完全な融合を果たしたその姿こそ、男の本領。
その杭はあらゆる加護もあらゆる守護も貫き、生き血と魂を啜って主である男の力へとする。
故に送られた魔名が『カズィクル・ベイ(串刺し公)』――
「聖槍十三騎士団第四位ヴィルヘルム・エーレンブルグ=カズィクル・ベイ」
「英国守護騎士団騎士団長名は……知りたければ私を吸い尽くして見せろ。串刺し公」
「上等ォッ!!」
男――ヴィルヘルムの咆哮と同時に散弾の如く発射された漆黒の杭が騎士団長へと殺到する。
◇◇◇
倫敦の街が白いSSに貪られている同時刻。
英国の中枢もまた襲撃を受けていた。
その日、バッキンガム宮殿へと攻め寄せてきた敵性戦力は僅かに二人。
そのどちらも黒いSS服を纏い、腕に真紅の腕章を付けている事からある程度の知識を擁する者ならば黒円卓の騎士であることは一目で分かる。
しかし、それでも守備側の騎士たちは侮っていた。
黒円卓。
その組織の名前は恐怖と畏怖でのみ語られる恐るべき魔術師たちの集団である。
エイヴィヒカイトという超常の術式を扱い、その構成員は例外なく人間を超越した魔人であると彼らは多くの先達に教え込まれてきた。
だが、果たしてそれは本当の事だろうか?
仮にそれが本当ならばどうして六十年前の大戦で彼らは敗北し、別の次元へと逃げなくてはならなかったのか?
騎士たちの多くは大戦後に生まれ、あるいは補充された者たちであることもその思いを強くさせた一因であるといえるだろう。
もっとも……そんな幻想は一瞬で焼き払われてしまったが。
「Die dahingeschiedene Izanami wurde auf dem Berg Hiba
かれその神避りたまひし伊耶那美は
an der Grenze zu den Ländern Izumo und Hahaki zu Grabe getragen.
出雲の国と伯伎の国 その堺なる比婆の山に葬めまつりき 」
魔人の一人。
まだ十代の半ばを過ぎたかどうかと思しき少女の手には黒塗りの太刀が握られている。
日本刀として知られている反りの強い物ではなく、古い祭具に用いるような両刃の直剣を構えた黒髪の乙女は、しかし騎士たちから見れば魅了されたら逃れられない死神である。
「Bei dieser Begebenheit zog Izanagi sein Schwert,
ここに伊耶那岐
das er mit sich führte und die Länge von zehn nebeneinander gelegten
御佩せる十拳剣を抜きて
Fäusten besaß, und enthauptete ihr Kind, Kagutsuchi.
その子迦具土の頚を斬りたまひき 」
Briah
創造
『Man sollte nach den Gesetzen der Gotter leben.
爾天神之命以布斗麻邇爾ト相而詔之』
そして、それは間違いではない。
轟! と振り抜かれた太刀は受け手の剣ごと持ち主を焼き殺した。漆黒だった髪を真紅に染め上げた少女は既にその存在自体が人間ではなくなっている。
唯一つの願望(焔)を絶やすことなく燃やし続ける。自身は独りであっても輝き続ける恒星でありたいという彼女の渇望を具現化させたいまの少女は人の形をした焔である。触れるもの、立ちふさがるもの尽くを焼き尽くしてバッキンガム宮殿を蹂躙していく。
宮殿守護を預かる騎士団屈指の精鋭たちを歯牙にもかけず、むしろ斬り捨てると同時に魂を吸い上げて更に自分の力へと変換する事ができるエイヴィヒカイトの使い手である少女にとって、この戦場は餌が向こうから飛び込んでくる餌場であった。
「くそ……くそくそくそッッッ」
ただ蹂躙されるだけの存在である。
そう悟ってしまった若い騎士の一人がいま一人の魔人へと襲い掛かる。
こちらは少女のような理不尽な暴威を振るっているわけではない。
男は手にした槍で渡り合い、凌ぎ合い、純粋な力量を持って騎士たちを抹殺していく。
その手にした真紅の魔槍は戦いはじめからこれまで心臓以外を貫いてはおらず、魔人はこの場を監督する部隊長を皮切りにすでに二十以上の心臓を奪っている。
あるいはそれこそが若い騎士を魔人に向かわせた原因かもしれない。
その部隊長は彼の父親だったのだから。
「くそおおおおっっっ」
「いい気合だ小僧っ!!」
渾身の一撃が振り下ろされる。それより速く、男の魔槍は騎士の心臓を貫く――はずだった。
「むん?」
「これ以上わが国の騎士を殺されてはたまらないの」
真紅の閃光から騎士を救ったのは本来彼らに守られているはずの姫であった。
英国王室第二王女キャーリサ……宮殿の最奥にて現在黒円卓によって引き起こされている大惨事に対応していた『軍事』の王女は真紅のドレスを纏い、その手に無骨な剣を持って戦場に現れた。
「さてと、強盗には速やかに退場してほしいの。こちらはいま非常に面倒くさい術式を準備しているんだし」
「その術式を潰すために我々が来ているのです。王女様」
キャーリサの背後から少女の声がする。その言葉を肯定するように魔槍の男も肩をすくめ、
「そういう訳だ。出来れば奥で引っ込んでてくれるとありがたいんだが」
「女とは戦えないと?」
「気が進む話じゃねえのは確かだな。女とやりあうなんざ閨の中で十分だ」
「下品よ。ランサー」
「ぬおっ!? あちっ!? じょ、冗談じゃねえかマジになんなよ嬢ちゃん」
突然燃え上がった自分の前髪を叩きながら槍使いの魔人が少女に文句を言うが、焔の少女は涼しい表情で完全に無視した。
「……漫才がしたいならストリートにでも行けば良い。大道芸の届けをすればどこでやってもお金が取れるだろうし」
「残念ながら、そうも行かないのです。王女様」
呆れるキャーリサに少女は自身の聖遺物(やいば)――『緋々色金』を構える。
「聖槍十三騎士団黒円卓第五位櫻井螢=レオンハルト・アウグスト。参ります」
「来ればいいの小娘。大天使の力というものを教えてやる」
キャーリサが宣言すると同時、周囲の騎士たちが意気を吹き返す。
その様を横目に見ていたランサーの瞳にも一瞬歓喜の色が浮かぶ……が、それもすぐに消火された。
「嬢ちゃん、撤退だ。変態神父が目的を達したってよ」
「……」
「あーそう不満そうな顔すんな。ベイも切れて暴れてるらしいから拾って帰るぞ」
「分かってる」
表面上は無表情に、しかし内面ではどう思っているのか。それを思うとランサーは駄々っ子二人のお守りか……と多少背中を煤けさせる。
「ここから逃げられると思うとは良い度胸だし」
しかし、それでそのまま逃がすほど騎士たちは甘くないし、彼女たちのした行為も許されるものではない。騎士たちと第二王女の戦意は更に激しく燃え上がろうとする。
だが、その機先を再び制したのはランサーだ。
「貴様らが召喚しようとしてた神はこちらで討った。戦士を無駄に死なせるのは無能な王がする事だぜ? 姫様よ」
「……なに?」
その場にいる全ての人間が僅かに動きを止めた瞬間を逃さず、ランサーと少女はその場を離脱した。建物の壁をぶち抜くという派手な逃走の手段もさることながら、ランサーが残した言葉に呆気に取られたキャーリサたちであったがやがてその言葉が真実であるのだと分かる。
数秒後にやってくる『必要悪の教会(ネセサリウス)』と時計塔の崩壊を告げる伝令が最初にキャーリサに告げたの物が正しくその情報だったのだから。
◇◇◇
「と、言う訳で此度の儀式では余計な手出しをする余裕は英国には残されてはいないでしょう」
「なんていうか、私がいない間にこっちはこっちで随分と忙しかったのね」
学園都市にある古びた教会の一角――しかも懺悔室という空間にはあまりに似つかわしくない話題を交えながら、黒円卓の首領代行――聖餐杯ヴァレリア・トリファ=クリストフ・ローエングリンはブラックロッジへと出向していた同輩……聖槍十三騎士団第八位ルサルカ・シュヴェーゲリン=マレウス・マレフィカルムへと現状を説明した。
ヴァレリアは神父の服装をしているし、ルサルカも一般的な女子高生の服装をしているから一目には実に一般的な構図に見えるのだが、その会話の内容があまりにもきな臭く血生臭い。
「それにしても首都を襲撃しただけじゃなく時計塔や必要悪の教会まで潰して大丈夫だったの? 下手をしたら恨み骨髄で私たちの邪魔をしてくるかも」
「なに。そんな真似をすればローマ正教が漁夫の利を狙って蠢動するようにシュピーネに動いてもらっています。ロシアとフランスはもとより、アメリカも大統領を殺されたくなければ動かざるを得ない」
そういうヴァレリアの手にある新聞には『倫敦にて過激な宗教テロ!? 米国では大統領夫人が謎の変死を遂げた事にも関連が!!』と報じる新聞がある。無論、三流四流のゴシップ誌の類だがこういった報道はネタが真実であると思わぬ効果を発揮してくれるものなのである。
「……あの男がそんなに熱心に仕事するなんて珍しいわね」
それだけの裏工作をした同輩のことを思い出しながらルサルカが胡散臭そうな表情をする。おそらく黒円卓の誰が聞いたとしても同じ反応をしたと思われるだけに、ヴァレリアも特別気にかけずに自分の推測を答えた。
「なに、彼もハイドリヒ卿が戻られた後のことを考え出したのでしょう。であれば、勤労に励む同士の助力をするのは現場を預からせていただいている私の仕事だ」
そうなの? と明らかに信じていない調子で返すルサルカだが、元々彼女は誰がどこでどう死のうがあまり気にしない質である。その話題はこれまでとヴァレリアは話題を切り替えた。
「むしろ、私の興味は貴方がブラックロッジの大導師から監視を命じられた幻想殺しの少年にあるのですがその辺りはどうなのでしょうか? マレウス、貴方ならばある程度は分かるのではないのですか?」
「さあどうかしら。基本的に接触する事は禁じられていたし? まあ私が知る限りはきっちり異能を消し去っているようだけど、私たちの聖遺物まで消せるかどうかは試してみないと分からないわね」
言いながらルサルカの脳裏に浮かぶのはツンツン頭の少年。
その右手に宿る異能はありとあらゆる異能を打ち消す『幻想殺し』の力を持つという。
もしもそれが真実異能を全て打ち消す事ができるなら、彼は黒円卓の騎士にとって最悪の存在といえる。
騎士たちはその身に聖遺物――聖人の遺物の事ではなく数多の血を啜り、伝説や逸話を孕んだ物品をその体に取り込み、さらに他者から奪い去った魂を燃料として超常の魔人として活動する。
しかし、もしもその核である聖遺物を破壊されたならどうなるか?
答えは明瞭。超常の力を制御しきれずに破裂する。
本来は格の違う聖遺物同士がぶつかりでもしない限りは起こりえない現象だが、上条当麻の右腕はそれを用意に可能にする……かもしれない。
「ねえクリストフ。本当にアレは放置でいいのかしら? なんなら、いまからメールして此処に来てもらう事もできちゃうんだけど」
ついさっき学校が終わって分かれたばかり。なら、いま携帯に連絡を入れれば簡単に呼び出す事ができるだろう。最期にいい思いをさせてあげるためにも恋する乙女仕様でいけば9割方上手く行く自信が彼女にはあった。
「聖遺物の破壊……もしそんな事が可能なら、彼はハイドリヒ卿を妥当しうる。いくら彼だって自分の聖遺物を壊されたら耐え切れないでしょうし」
「なるほど……なるほど確かに貴女の言うとおりだ」
不確定な要素はここで排除してしまうのが最善であるはず。
だが、
「ですがマレウス、こんな諺をご存知でしょうか? 藪を突いて蛇が出る、と」
「……余計な事をしても厄介事を招く結果にしかならない。そういうこと?」
「ええ。少なくとも私はそう思います。なるほど、確かにその少年は聖遺物を破壊する可能性がある。ですが、あくまでそれは可能性だ。それよりはより明確な脅威や障害に注力した方が良い。少なくとも、我々の頭上にはおぞましいもう一頭の獣がある訳なのですからね」
「そう……それもそうね」
二人同時に頭上へ一瞬視線を向ける。
古びた教会の天上を貫き、二人の魔人は東の空から姿を見せ始めた月を睨みつける。
「そうだクリストフ。開戦はもうすぐなんでしょう? なら、第一は私に譲ってくれないかしら? 色々と面倒な仕事を最後に押し付けられたのよね」
改めて視線を向け合ったルサルカからの提案にヴァレリアは僅かに驚いた。彼が知る限り、この魔女は一番槍の誉れを欲するような人物ではなかったからだ。
「ほう。アンチクロスとして聖杯戦争には参加しない予定だったのでは?」
「そうだけど、なんだか聖杯の面倒を押し付けられちゃったのよ。まったく、儀式の最重要部分をないがしろにするなんてどうなっているんだか」
「聖杯というと我々で言うテレジアに当たる女性の事でしょう? こう言ってはなんですが、マレウス以外に適任がいない時点でアンチクロスも終わっていますねぇ」
余計なお世話よ、と残して懺悔室を出ようとするルサルカだったが、ふと思い立って最後の問いを投げかけた。
「それでクリストフ。英国がやろうとしていた儀式ってなんなの? 確か、メルクリウス直々の指示だったそうじゃない」
「ああ、あれですか。いや、最初は私でなければならないと言われた時は遠まわしな処刑なのかと思いましたがね。現場に着いてみれば納得しましたよ。ええ、あれほどの儀式では私が行かなければならなかった」
ヴァレリアはその時のことを思い出したのか胸元で十字を切ると深い息をつき、
「異界の神を召喚し、使役する。狂気じみた大禁術を実行してなおかつ成功させてしまう……ラバン・シュリズベリィ卿とキシュア・ゼルレッチ・シュパインオーグ卿はその勇名以上の方々でしたよ。正しく、現状での世界最強は彼らだった」
その両名の名前はルサルカも知っている。
というよりも魔術の世界に一歩でも足を踏み入れたなら誰もが知っている名前だ。
年老いてなお、邪悪を滅する正義の味方。
御伽噺に現れる人類の守護者として活動している二大魔術師はブラックロッジと黒円卓の暗躍に対抗するため、遠きセラエノより魔神を呼び出して戦力としようと画策していた。
それに英国の『天使の力』を扱える現女王が助力する事でその大禁術は成功させてしまったのだ。これはブラックロッジ、黒円卓に限らず闇に蠢くあらゆる組織にとって終末のラッパの如き事実となる。
……本来ならば。
「非常に残念でなりません。あれほど偉大な方々でもやはり聖餐杯は砕けなかったのだから」
最後の一言が零れた時、聖餐杯の口元には凄絶な笑みが浮かんでいた。
異界より召喚する理不尽の権化。御伽噺の化身。強壮無比たる鬼械神すら打倒した聖餐杯はここに儀式の開始を宣言する。
「ブラックロッジが動き出した以上、こちらも動かざるをえませんね。アンチクロスは別にどうでもいいですが、彼らが招聘するサーヴァントは見逃せない。その高潔な魂は至高天に捧げるに値する。ツァラトゥストラも舞台裏で準備をしているようではありますし問題ないでしょう。
ではでは、これにて開戦と致しましょう。ハイドリヒ卿の凱旋に相応しき屍の道を築きましょう。ベイもマレウスも、レオンハルトもバビロンも黄金の祝福を願うなら存分に奮い、殺すがよろしかろう。
我らに勝利を(ジークハイル)」
「「「勝利万歳(ジークハイル・ヴィクトーリア)」」」
終末の刻を告げる笛の音が、神の家に木霊する。
<よろしい、ならば始めよう。今宵この時より混沌たる恐怖劇(グランギニョル)を>
舞台裏。
影絵の詐欺師もまた承認する。
それは奇しくも、あるいは必然として、七頭十角の獣の宣言と完全に同期していた。
ここに学園都市を舞台とした混沌の恐怖劇がその幕を開ける。