5月4日 晴
粘土にて茶碗を作ってみた。なかなかうまくゆかぬ。でこぼこがあったり、厚薄があっとりして、どうも難しい。やってみてわかった事とは言ひながら、陶工のうまさ及び苦心を知る。
碗ひとつ思ふが如く出来ぬ世ぞ
意地をはるなよ我心よ
オヤジが茶碗づくりをするとは、意外である。大学生の頃、私も焼き物が好きで、茨城県の笠間に良く出かけた。当時、月照寺が安く泊まれ、ここに2、3日逗留し、いくつかある陶芸工房に出かけて茶碗などを作るのだ。ロクロよりも、手ひねりを好んだ。10回ほど足を運んだが、お遊び程度のレベルで、とても実用に耐えるものを作るまでには至らなかった。
松代焼など、地元の陶芸品をオヤジは、ずいぶん収集していた。骨董に関する本もずいぶんあって、これを私も読ませてもらい、興味を持つようになった。
高校のときの修学旅行は京都だったが、小遣いの全部と言っても6000円ほどだが、それを投じて買ったのも骨董屋の小さな皿だった。有田焼の蛸唐草文様の染め付け皿で、店主は明治期のものと言う。家に帰ってオヤジに見せると、「こんなきれいな染め付けは戦後のものだ。もっと勉強しろ」と笑った。
高峰秀子が骨董屋を開き、それを手伝ったセイちゃんは、中島誠之助だという話は備忘録で前に書いた。池部良の「心残りは...」を読むと、"高峰秀子先輩"とある。歳は高峰の方が6つも下だが、5つのときから子役デビューしているから大先輩なわけだ。戦争から戻った池部良を、最初に映画に引っ張りだしたのも、高峰秀子であることを知る。
池部良は、大正7年生まれで、オヤジと同い年である。記憶に残る最初の事件は、関東大震災(大正12年)だとか。昭和10年には静岡高校、山形高校、東京商船高校を受けたが不合格。浪人となったが、新聞広告に「立教大学予科生、十月入学、二十五名、臨時募集」とあるのを見つけ受験し、見事合格する。
また、文芸春秋社の「ノーサイド」という雑誌があったが、平成5年8月号に池部良が「鰻の蒲焼き」というエッセイを掲載。それによると大学卒業と同時に「徴兵延期願い」が解除され、2月に徴兵検査を受け、甲種合格、現役入営。昭和17年から5年間、兵役にあった。
昭和10年今日の出来事
・伊墺洪(洪牙利・ハンガリー)三国会談がベニスで開かれる。
備忘録
ヤクザ映画の池部良を最初に知ったから、彼のエッセイを最初に読んだとき、こんなにうまい書き手とはビックリ。数々のエッセイ本があるが、ブックオフの105コーナー良く出ていて悲しくなる。オヤジは、画家で風刺漫画も書いた池部鈞だが、東京美術学校(現・芸大)の同級生に岡本一平がいて、その妹・篁子と結婚。池部良と岡本太郎は従兄弟になる。
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