この1月24日にグループ2「歴史・郷土史(仮)」のメンバーは
2丁目に在住で1922(大正11)年生まれの寺山誠太郎さんのご自宅にお話を聞きに伺いました。
今町に在住ならば、寺山誠太郎さんのお名前をご存じなくても、
ご自宅に掛かっているこの看板ならわかるという方は多いと思います。
寺山誠太郎さんはこの看板のとおり鋸の目立て職人ですが、
その傍ら、保護司やボランティア活動で地域に多くの貢献をされてきた方です。
古物商も営まれていて、今町の歴史にも詳しく、
古い文献や貴重な事物を多数お持ちです。
戊辰戦争のとき使われた銃弾や大砲の弾を見せていただきました。
今回グループ2のメンバーが寺山誠太郎さんのご自宅に伺ったのは、
先にも書きましたが、戊辰戦争当時の今町の地図を再現するプロジェクトで、
今町のどこにどういう商店やその他の建物が存在していたか、
という情報を伺うためでした。
寺山さんのお話を聞いて驚いたのは、
明治から大正にかけての今町には今では考えられないほど大工がたくさんいたことです。
桶屋や紺屋といった今町にもう存在しなくなった職人がいたことも語ってくれました。
桶屋は字面で想像がつくと思いますが、
紺屋というのは紺で染めることを生業としていた商売です。
紺で染めるといっても、
今町で一般的な紺屋は、見附で今日でも見かけるようなプロ向けの染色業ではなくて
農家で自家用のために作った布を染めることを主にしていました。
あと明治ごろの今町の商人のリストを見ていて、
「雑穀金引商」という見慣れない言葉が出てきたので
寺山さんに「金引」とは何を指すのかと尋ねたところ、
「かなびき」と読んで麻のことを指すことが分かりました。
麻の加工品は当時金引苧(「金引」とは「金と引き換え」の意味で、かつての現金化が容易な麻取引の繁盛ぶりを表しているそうだ)といって、
明治〜大正にかけては繊維の原料として米と並ぶ重要な今町の特産品で
農村部で栽培が盛んに行われており、
今町の豪商たちの米と並ぶ収入の二本柱でした。
寺山家も昔は鋸職人になる前は麻の取引を生業としていました。
かつては家のすぐ裏が刈谷田川だったので、
そこに置いた舟を使って、
安田など近くの農村部から取れた麻を買い付け、
網などの需要の多い寺泊に売りに行くという商いをしていたそうです。
ところで最近は環境にやさしい植物として麻が見直されています。
その繊維は成長がはやく森林を破壊しない優れた紙の材料であり、
その実から取れる油は1930年代にフォードがガソリンの代替品として本気で研究したほどの、
優れたバイオディーゼルだそうです。
そんな中、今町の歴史の中での麻の役割を再発見してみるのもいいかもしれません。
寺山誠太郎さん、ご協力ありがとうございました。