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---------------Japan On the Globe(145)  国際派日本人養成講座
        _/_/         
         _/       人物探訪: 台湾の「育ての親」、後藤新平
        _/
  _/   _/    医学者・後藤新平は「生物学の法則」によって
   _/_/      台湾の健全な成長を図った。
-----------------------------------------H12.07.02 25,843部

■1.「台湾独立」の完成■

     5月20日、台湾の第10代新総統・陳水扁氏の宣誓式典が
    行われ、12年にわたる任期を終えた李登輝・前総統は陳氏に
    見送られつつ、静かに総統府を退出した。
    
     蒋介石が大陸から台湾に逃げ込んでから約50年。大陸から
    逃げ込んだ中国人(外省人)が、言語、習俗、歴史も異なる台
    湾人(内省人)を支配してきた構造は、1987年まで台湾語によ
    る放送が禁止されていたことからも窺えるように、一種の外来
    政権支配であった。「台湾独立」とはもともと、蒋介石外来政
    権からの台湾人の解放を意味していたのである。
    
     李登輝氏が国民党員ながら台湾人として初めて総統に就任し、
    今回は陳水扁氏が、台湾人の政党を率いて政権を奪取した。こ
    こに「台湾独立」は平和裡に成就し、台湾人による台湾人のた
    めの政府が実現した。
    
     JOG(108)で紹介したように、戦前、多くの日本人が同胞意識
    を持って台湾の発展のためにつくしたが、その中でも台湾の
    「育ての親」とも言うべき総督府民政長官・後藤新平は、立派
    に成人した息子を見るように、草葉の陰で喜んでいるであろう。

■2.化外、瘴癘の地■

     日清戦争の結果、台湾は日本に割譲されたものの、そこは清
    国政府からも「化外(中華文明の及ばない)の地」「瘴癘(し
    ょうれい、風土病)の地」と呼ばれ、見捨てられた荒廃地であ
    った。阿片中毒が蔓延し、原住民による反乱、伝染病の流行が
    相次ぎ、ほとんど産業らしきものはなく、民生は荒廃していた。
        
     日本は当初、武力で治安をもたらそうとしたが、事態は好転
    せず、住民の中にも日本の統治に対する不安が拡がって、大陸
    に渡ってしまう者が相次いだ。
    
     日本国内でも台湾放棄論や売却論が主張された。しかし、日
    清戦争で獲得した遼東半島は、ロシア・フランス・ドイツの三
    国干渉で返還を余儀なくされ、これら各国が争って進出してい
    る。ここで台湾まで失ったら、いよいよ日本は欧米諸国に囲ま
    れて、国の独立すら危うくなる。

     明治31(1898)年2月、切り札として第4代台湾総督を命ぜ
    られたのが児玉源太郎であった。児玉はすぐに後藤新平を呼ん
    だ。日清戦争後、後藤が大陸からの帰還兵23万余の検疫を2
    ヶ月で完了するという世界でも例のない作業をやり遂げた手腕
    を、当時陸軍次官であった児玉源太郎は高く評価していた。
    
     児玉は、検疫事業後、内務省衛生局長となっていた後藤に言
    った。「今、台湾をやるのは私と君だよ。ほかにはいない。」

■3.植民地ではない■

     児玉と後藤が台湾に着任したのが、明治31(1898)年3月、
    時に後藤新平40歳。それから満洲鉄道総裁として転出する明
    治39(1906)年7月までのわずか8年余に、後藤は民生長官と
    して、阿片問題解決、ゲリラ帰順、港湾・鉄道・道路・下水道
    建設、土地調査、製糖産業の発展など、矢継ぎ早に近代化政策
    を実行していった。この時築かれたインフラが、現在も台湾経
    済を支えている。
    
     台湾を植民地と見る一部の官僚たちに対し、後藤は新しく日
    本に編入された「新領土」であると主張していた。イギリスや
    オランダ流の植民地であれば、原材料を買い叩かれ、製品を売
    りつけられる搾取対象でしかない。
    
    「新領土」であれば、米国がメキシコから奪ったテキサスやア
    リゾナ、カリフォルニアのように、国内領土として治安の確保、
    民生の向上、そして地域経済の発展が課題となる。
    
     ただアメリカが「新領土」西南部諸州において、原住民イン
    ディアンを殺戮して土地を奪い、不足する労働力は黒人奴隷や
    中国や日本からの移民でまかなうという「外科手術」的手法を
    とったのに比べれば、後藤の手法は「漢方薬」的であった。
    
     医学を専門とする後藤は「生物学の法則」を方針とした。
    ダーウィンの進化論にならい、新領土の社会を一つの生命体と
    して、その悪しき体質は徐々に改善させ、本来の善き生命力を
    引き出して成長させていくという進め方であった。

■4.アヘン専売と吸飲免許■

     日清戦争後の下関の談判において、清国の全権李鴻章は、ア
    ヘンには貴国もきっと手を焼きますぞ、と捨てぜりふを残して
    いったそうな。当時16万9千人もいたアヘン中毒患者の問題
    を日本がどう処理するか、世界各国も注目していた。
    
         わが国に伝播したらなんとする。吸引するものは厳罰に
        処すべし。輸入や販売を行う者についても同様だ。従わな
        いものは台湾から追い出せ。中国大陸に強制送還せよ。
        
     このような厳禁説がさかんに唱えられたが、後藤は、これで
    は各地に反乱が起き、何千人の兵士や警官が犠牲になるかわか
    らない、と反対して、漸禁説をとった。
    
     まず中毒にかかっているものだけに免許を与え、特許店舗で
    のみ吸引を認める。新たな吸引者は絶対に認めない。アヘンは
    政府の専売とし、その収入を台湾における各種衛生事業施設の
    資金に充当する。
    
     アヘンを政府の専売とするという破天荒なアイデアであった
    が、後藤の読み通り、大きな混乱もなしに、アヘン中毒患者は
    次第に漸減して、日本敗戦時には皆無となっていた。
    
■5.ゲリラ帰順■

     台湾には清国の統治していた時代から「三年小叛、五年大
    叛」という言葉があった。時の政府に対して3年に一度は小さ
    な反乱が、5年に一度は大きな反乱が起こるという意味である。
    
     しかもこれは一過性ではなく、ゲリラたちは日常的に台湾の
    村人たちから「税金」と称して、収穫の30%から40%もと
    っていってしまう。武力でゲリラを制圧しようにも、日本人に
    は村人とゲリラの区別がつかない。村人が日本の役人に密告す
    ると、ゲリラはすぐに復讐する。
    
     後藤は軍政ではなく民政によって台湾を掌握すべしとして、
    台湾全島に向かって次のような総督布告を出した。
    
         新総督としては、島民の一家団欒を望んでいる。だから
        帰順したいものは自由に官邸に来てよろしい。もしこれを
        疑うなら民政長官の側からそちらに出向いて話し合っても
        よい。
        
     この風変わりな布告は、短期間の間に3百万人の台湾島民に
    行きわたった。この布告に応えて、三百名あまりのゲリラの一
    団が投降を申し出てきた。後藤は宣伝のためにも投降式をやろ
    うと決心し、護衛もなく、部下一人だけ連れて、一昼夜をかけ
    てゲリラたちの根拠地に向かった。
    
     投降式の模様は台湾全土に大々的に報道され、その後は安心
    したゲリラが次々と投降し始めた。後藤は「職を与えなければ
    またゲリラに戻りかねない」といって、地域の土木工事に従事
    させるなど、投降後の生活の面倒までみるようにした。
    
     こうして大部分のゲリラが投降し、押収した銃は合計5万丁
    にのぼった。最後まで抵抗した少数のゲリラは武力で鎮圧され
    た。ゲリラ対策の完了は明治35年、後藤の赴任から5年近く
    かかった。

■6.気候・風土に適した農業振興■

     このようにアヘンやゲリラなどの悪しき体質を徐々に改めつ
    つ、後藤は台湾社会の生命力を引き出すための産業振興に取り
    組んだ。まず台湾の気候・風土に適した農業を興さねばならな
    い。
    
     そのための人材として元札幌農学校教授・新渡戸稲造に目を
    つけ、何度も手紙を書き、最後には直接掛け合って台湾に招い
    た。新渡戸は台湾にはサトウキビの生産が適していると見抜き、
    ジャワにまで研究に行って、品種改良と耕作方法改善に努めた。
    
     この改良品種は瞬く間に台湾全土に普及し、同時に後藤は製
    糖工場の近代化、大規模化を進めさせた。その結果、砂糖産業
    は、生産高が明治33(1900)年の3万トンから昭和12年(1937
    )には100万トンと飛躍的に伸びて台湾の中心産業に発展した。
    新渡戸はさらにウーロン茶や米の生産も飛躍的に伸ばした。
    
■7.交通網と都市整備■

     農業の発展とあわせて、農産物輸送のための築港、鉄道、道
    路などのインフラ整備が必要となる。これらは人体で言えば、
    筋肉作りに相当する。

     築港では基隆港の工事を明治32(1899)年から始め、昭和4
    年には1万トン以上の船舶が同時に15隻も荷役を行うことが
    できる本格的な国際的商業港として完成した。倉庫の規模、能
    力は当時東洋一といわれた。この基隆港を通じた交易は、台湾
    に莫大な利益をもたらした。
    
     鉄道は、台湾を南北に縦貫する路線を明治41(1908)年まで
    に全線を完成させた。また当初台湾には道路らしい道路もなか
    ったが、投降したゲリラに仕事を与えるためにも、都市間を結
    ぶ本格的な道路建設を進めていった。

     台北市内には高速、並木、一般車道と片道3線からなる幅4
    0メートルの道路4本を建設した。さらに中心部には総督官邸
    や博物館など、近代的建築物をいくつも建設したので、台北は
    東京などよりも、よほど近代的な景観を持つに至った。この偉
    容は現在でも窺うことができる。
    
     また台湾では毎年のように数千名のコレラ患者が発生してい
    たが、後藤は伝染病の予防は上下水道の設置から始まるとして、
    大規模な上水道と、パリの下水道にならった排水路を付設した。
    これらの上下水道は東京よりもずっと早く完備したと、台湾の
    人々は自慢にしていた。
    
■8.土地調査によるソフト・インフラ整備■
    
     バランスのとれた発展のためには、港湾、鉄道、道路などの
    ハードのインフラと同時に、行政、法治などのソフトのインフ
    ラも不可欠である。その基礎となるのが、土地所有権保護と課
    税のベースとなる土地調査である。

     土地調査は、清国が何度も試みては失敗していた。土地調査
    をすれば、脱税が出来なくなるので、住民の反乱のもととなっ
    ていたのである。
    
     後藤は清国の失敗は台湾に古くから存在する慣習や自治組織
    を無視して本国の政策を押しつけたからだとして、現地の旧習
    を重んずる人材を当てて調査を進めさせた。
    
     結局10年以上かかる難事業となったが、その結果、土地か
    ら上がる税収は従来の2倍以上となり、十分な成果を上げるこ
    とができた。結果を注目していた欧米列強は「日本侮るべから
    ず」との印象を抱いた。

■9.公債による開発資金調達■

     以上のような開発を行うには、膨大な先行投資が必要だ。イ
    ギリスやオランダのように、植民地から手っ取り早く利益を搾
    り取るというのとは根本的に異なる。
    
     児玉と後藤が、開発資金を捻出する方法として考え出したの
    が、公債発行である。公債を発行して欧米から資金を集め、そ
    れによって台湾を開発し、開発利益によってその借金を返すと
    いう考え方だ。これは現在の開発銀行と同じアイデアである。
    
     後藤は、6千万円を20年で償還する公債発行計画を組んだ。
    当時の政府財政規模の8割にも達する巨額の公債発行計画に反
    対する政治家も多かったが、帰国して反対派と侃々諤々の議論
    を行い、一部減額した上でついに政府の承認を得た。
    
     この公債によって、世界中から開発資金を集め、産業振興や
    インフラ整備を進めた結果、台湾の経済は急速に発展し、つい
    に明治38(1905)年以降、台湾は日本政府からの補助金を受け
    ずに財政的に独立することができた。
    
■10.真の成功とは?■

     明治39年、50歳となっていた後藤は、南満洲鉄道株式会
    社総裁として満洲に赴任し、同様の辣腕を振るうようになる。
    これについては稿を改めるが、後藤は台湾のそれ以降の成長に
    ついて、どのようなビジョンを描いていたのか。
    
     時の首相・西園寺公望が後藤に満鉄総裁就任を依頼した時に、
    「君は台湾で成功した経験を持っている。それをぜひ満洲で生
    かしてほしい」と言った。後藤は次のように言い返した。
        
         それは聞き捨てならない言葉です。台湾はまだ成功して
        いない。成功というのは、財政の独立のことを言うのでし
        ょうが、そんなものは成功でもなんでもありません。台湾
        の人々が日本と統一する気持ちを持つようになれば初めて
        成功といえるのであって、今はまだとてもそこまでいって
        いない。
        
     台湾の人々が経済的自立と政治的自由を得て、その上で日本
    と一緒にやっていこうという主体的な選択をしたならば、それ
    が真の成功である、というのである。
    
     しかし、運命は台湾の人々にこのような選択の機会を与えな
    かった。大東亜戦争後、今まで台湾とは縁もゆかりもなかった
    蒋介石が台湾に逃げ込んできて、外来政権として支配するよう
    になったからである。それから半世紀、李登輝、陳水扁両氏の
    登場により、台湾の人々はようやく自由で主体的な政治的選択
    を行える立場を得た。
    
     後藤新平を始めとする台湾の発展に尽くした我々の先人たち
    は、草葉の陰で、かつての同胞の自立を喜ぶとともに、その自
    由が再び大陸の独裁政権に犯されることのないよう現代の日本
    人が支援することを願っているであろう。

■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
 これらの人々はある種の同胞感を抱いて、心血を注いで台湾の民
 生向上と発展のために尽くした。
b. JOG Wing(163) 併合と植民地化の違い
  
c. JOG Wing(166) 合邦と差別

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「後藤新平 行革と都市政策の先駆者」★★★、郷仙太郎、
  学陽書房人物文庫、H11.8

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「台湾の『育ての親』、後藤新平」について
                    Jugonさん(東京都在住、37歳)より

     数年前に、単身で台北に行き、言葉も通じず街を歩きながら
    「太平洋そごう」という地元では一番大きいデパートに入った
    時のことです。その一角に「日本と台湾」、「日本と中国」に
    纏わる書籍かまとめて置かれていました。歴史を綴ったそれら
    の本を立ち読みしながら、日本と台湾の関係がこれほど根深い
    ものであったのか!と、新鮮な驚きを覚えました。

     台湾中部の山奥で行われたある日本人の葬儀の様子と、その
    人が軍人として台湾に赴任し、戦後は神父として歩んできた人
    生を書き記された本がありました。残念ながら名前は記憶して
    おりませんが、「後藤新平」氏の記事を読みながら思い出した
    のです。今から100年あるいは50年も前の日本人が、異国
    の地で大変な偉業を志し成し遂げていたことに感動し、誇らし
    く思ったものです。

     情報化のうねりによって千変万化する社会の現状において、
    我々はすでに国籍や民族を超越する地球市民としての生活を強
    いられています。世界各国との協調性は不可欠です。アヘンの
    蔓延やテロの沈静に渾身を奮い、台湾社会の礎を築いた100
    年前の日本人の国際感覚に、今こそ私たちは学ぶべきときです。
    (台湾人を妻に持つ私は、時折それを痛感する)

     日本は政府として世界中にあらゆる協力や支援を行っている。
    が、それは余力をもって与えているに過ぎない。お金をばらま
    くだけで、社会貢献とは言えないでしょう。人道的、精神的支
    援を怠ってはいないか。

     100年前の後藤新平氏らが行った斬新な意識改革と活動は、
    必ずや私たちの未来への指針となるでしょう。学ぶべきものは
    計り知れません。

■編集長・伊勢雅臣より■

     後藤新平他が台湾発展のために戦前に行ったことを、現代日
    本の経済援助と比較すると、その発展ビジョンの具体性、相手
    国への思いやりの点で、隔絶した違いを感じます。Jugonさん
    の言われるように、現代の我々が先人に学ぶべき点は計り知れ
    ません。

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