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-----Japan On the Globe(216) 国際派日本人養成講座---------- _/_/ _/ 人物探訪:八田與一 _/_/ 〜戦前の台湾で東洋一のダムを作った男 _/ _/_/_/ 台湾南部の15万ヘクタールの土地を灌漑して、 _/ _/_/ 百万人の農民を豊かにした烏山頭ダムの建設者。 -----H13.11.18----36,391 Copies----351,108 Homepage View---- ■1.日本人はすごいと思いました■ 台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分ほど 行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着く。湖畔にはホテルが建ち、 満々と水をたたえた湖水にはボートも浮かぶ観光地になってい る。 このダムを見下ろす北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、 外代樹之墓」と刻まれている。墓の前には作業着姿で腰を下ろ し、片膝を立てた八田の銅像が建っている。墓も銅像も、この ダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものだ。 1996年、地元の農民たちと日本人が集まって、墓前で50回 目の慰霊祭を行った。参加した[1]の著者・斉藤充功氏が、ち ょうどダム見学に来ていた女子高生2、3人に話を聞いてみる と、こういう答えが返ってきた。 学校の授業でダムを作ったのが日本人だということは聞 いて知っていました。しかしなんという日本人なのか先生 も知らなかったので興味をもってここに来ました。説明板 を読んで八田與一技師ということが分かりました。驚いた のはダムができたのが私のお爺さんの時代で、遠い昔に 10年もかけて八田技師はここに住みついてダムを完成さ せたと書いてあります。日本人はすごいと思いました。 八田與一の業績は、前台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事 に要約している。 台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本 人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大しゅう(土へん に川、用水路)を大正9年から10年間かけて作り上げた 八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。 台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしい ダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近 くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊 かにしたひとです。 ■2.嘉南平野開発計画■ 嘉南平野は香川県ほどの大きさで、台湾全体の耕地面積の6 分の1を占める広大な土地である。また亜熱帯性気候で一年に 2,3回もの収穫を期待できる地域であったが、水利の便が問 題だった。降水量こそ年間2000ミリを超える豊かさであったが、 河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期 には手をつけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干 上がる有様である。農業生産も天候任せできわめて不安定、低 水準であった。 台湾総督府の土木技師であった八田與一は、この嘉南平野に 安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この 地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」 を作り上げた。台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当 時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を 張り巡らせるという壮大な計画だった。この計画には、地元嘉 南の農民たちも熱い期待を寄せ、出来る限りの経費と労力を自 分たちで負担するとまで書かれた嘆願書が何度となく、総督府 に提出された。 予算は総額4200万円、これは当時の台湾総督府の年間予 算の1/3以上の及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠であっ た。内地も米騒動などで大変な時期だったが、1200万円を 国庫補助し、残り3千万円を地元農民など利害関係者が負担す ることになった。 ■3.東洋一のダム■ 八田が計画したダムは、満水時の貯水量1億5千万トン。こ れは世界有数のアーチ式ダム、黒部ダムの75%に相当する。 東京都民の水がめとなっている広大な狭山湖を訪れたことのあ る人は多いだろうが、これは烏山頭ダムの数年後に完成し、そ の貯水量は1952万トン。烏山頭ダムは実にその7.5倍である。 ダムの堰堤部の断面は台形で、頂部幅9メートル、底部幅 33.3メートル、高さ51メートル。これを長さ1.35キ ロメートルにわたって、盛り土で作り上げる。土石を水圧で固 めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリッ ク・フィル工法をわが国で初めて採用する。 烏山嶺を超えて、ダム湖に曽文渓の水を引くために、直径8 メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘る。 これで毎秒50トンの水を流し込む。当時のトンネルで最大の ものは東海道線の熱海の丹那トンネルだったが、それよりも1 5センチ大きい規模だった。 給排水路は総延長1万6千キロ、地球を半周する長さで、日 本最大の愛知用水の13倍にも及ぶ。さらに給水門、水路橋、 鉄道橋など、200以上もの構造物を作る。 八田は大正6(1917)年から3年間、現地調査と測量を行い、 大正9年9月1日からいよいよ工事を始めた。11年には当時 のダム建設の先進国アメリカに7ヶ月出張して、米国の土木学 会の権威と議論し、また最新鋭の土木機械を買い集めた。 ■4.外人の鼻を明かせてみろ■ 大正11(1922)年11月、米国から帰朝した八田は烏山頭工 事事務所の所長として、現場に住み込んで指揮をとり始めた。 当時、現場で働いていた李新福という人は次のように語ってい る。 とにかく気宇壮大な、当時ではとてつもない大きな工事 でした。それと、みんながいちばん驚いたのは、見たこと も聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役でした。 ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現 場では蒸気の機関車にひかれたエアーダンプカーに乗った ものです。 スチームショベルはひとすくい2立方メートルで、これは人 間一人が2時間かかって掘り出す土砂の量である。その外にも、 蒸気機関車、エアーダンプカーなど、八田が買い付けた機械は、 1000トンを超える。 始めのうちは、日本人も台湾人も、初めて見る機械ばかりで、 使い方が分からない。機械と一緒に米国人のオペレーターも来 たが、「黄色いサルに覚えられるものか」と考えていたのか、 現場の人間には一切、使い方を教えなかったという。八田は、 「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」と口癖のよう に言って、叱咤激励を続けた。やがてこれらの機械がうなりを あげて、土砂を運ぶようになっていった。 現場には作業員やその家族2千人が住みついた。学校や病院 までも作られ、地元民からも感謝された。八田の子ども達も台 湾人の子どもと一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くま でこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建 設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業 員の宿舎に上がり込んでは、彼らとで花札に興じていたという。 ■5.「仲間を失った」■ 12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、ガ ス爆発事故が起こった。90メートル掘り進んだ所で、石油が 噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して、爆発 したのである。日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出た。 八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲 者の遺族のお見舞いに奔走した。八田がいつもの作業着姿で犠 牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田 の言葉をおしいただくように聞き入り、嗚咽したという。八田 の「仲間を失った」という悲しみが自然と伝わり、その心情が 遺族の胸をうった。 工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人たちは、 八田與一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたち のために、台湾のために、命がけで働いているおやじがい るんだ。おれたちだってへこたれるものか。 と、逆に八田を励ました。 八田は工事が終わりに近づいた昭和5年3月、工事のために 亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工 碑」を建てた。名前は亡くなった順か、日本人と台湾人が混じ って刻まれている。こんな所にも、八田の分け隔てのない仲間 意識が伺われる。 ■6.ダム完成■ 翌12年9月、関東大震災が起こった。死者10万余、全壊 家屋12万8千という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30 %を復興支援の財政援助を申し出た。その結果、烏山頭ダム工 事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解 雇せざるをえない事態に追い込まれた。 3年間苦楽を共にしてきた仲間を解雇することは、八田にと って身を切られる思いであった。八田は解雇者の再就職先を探 すために、総督府のつてをたどったり、業者の縁故を頼って奔 走した。見つけた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して 再雇用するという条件をつけたという。嘉南の人々に今も語り 継がれているエピソードである。 このような危機を乗り越えて、工事が完成したのは、昭和5 (1930)年4月であった。大正9(1920)年9月以来、10年近い 年月が流れていた。1億5千万トンの水を入れるのに、直径9 メートル近いトンネルでも、40日あまりかかった。 5月10日から満々と水をたたえた烏山頭ダムの竣工を祝う 祝賀会が3日間に渡って開かれた。地元民が招待客3千人を超 えて集まったため、会場をもう一カ所増設して収容した。屋台 や特設の芝居舞台がにぎわい、花火が打ち上げられ、夜は提灯 行列まで繰り出された。 アメリカの土木学会からは「八田式セミ・ハイドロリック・ フィル工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。 八田の独創的な技術がアメリカでも認められたのである。 ■7.農作物の増産■ 祝賀会の終わった5月15日、烏山頭ダムからの給水が始ま った。八田の合図でバルブが開けられると、直径1.8メート ルの放水口6本から、ゴーというすさまじい音を立てて、水が 流れ出していく。そして精密な測量に基づいて、勾配1%とほ とんど水平にしか見えない水路でも設計通り水が流れていった。 しかし15万ヘクタールの土地にはりめぐらされた全長1万6 千キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗るまでに は3年かかった。 また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づ く米作りは初めてである。東京農業大学出身の中島力男技師が 農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使 い方を指導した。 計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年かか った。しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7千石が65万 7千石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に 伸びた。地元農民の増収金額は年間2千万円以上に達し、彼ら が負担した事業費2739万円の返済も容易であったろう。な お総督府の補助金は2674万円に上った。 ■8.八田夫妻の最期■ 烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939) 年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。 台湾がさらに発展していくためには、現地人技術者の養成が不 可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土 木測量技術員養成所」を台北市内に作った。この学校は年々発 展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの 技術者を社会に送り出している。 大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要 員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かった。灌漑の 専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地 を調査する任務だった。 5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米 潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月 13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。 7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56歳。 昭和20年、台北でも空襲がひどくなると、妻の外代樹は子 供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。 10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月 1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山 頭ダムの放水口に身を投げた。「玲子も成子も大きくなったの だから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机 の上に残されていた。享年45歳。 ■9.「偉いおじさん。台湾人の恩人」■ 嘉南の農民たちは、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石 を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てた。以後、 毎年八田與一の命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、 墓前での慰霊追悼式が催されている。 昭和6年に工事関係者が贈った八田の銅像も、戦争末期の金 属類供出が呼びかけられた頃、忽然と姿を消していたが、戦後、 地元民が隠して保管していたのが見つかった。蒋介石政権のも とで、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険であっ たが、銅像はそのまま保存され、昭和56年に墓前に設置され た。 [1]の著者・斉藤氏は1996年、50回目の慰霊祭に参加した 際に、近くの官田小学校も取材に訪れた。ダムの工事中に作ら れ、八田の子供たちも通った六甲尋常高等小学校がこの官田小 学校の前身であった。 教師の話によれば、生徒に烏山頭ダムと八田の事を教えてい るという。通訳を通じて、人なつこい子供たちに聞いてみると、 ほとんどの子供たちが八田のことを知っており、「偉いおじさ ん。台湾人の恩人」と答えた。若い教師はこう言った。 日本人にあまり知られていない八田技師に関心を持つの は大変よいことだと思います。それと、八田技師は政治と はなんの関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけの ダムを造った人物です。日本人はもっと関心を持つべきで すね。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝 b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 斉藤充功、「百年ダムを造った男」★★、時事通信社、H9 2.許國雄監修、「台湾と日本・交流秘話」★★、展転社、H8 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「八田與一〜戦前の台湾で東洋一のダムを作った男」 めいさん(台湾)より この記事を読ませて頂いてありがとうございます。八田様は 本当に「偉いおじさん。台湾人の恩人」だと私もしみじみ感じ ました。台湾人の私はそんなことも知らなかったことが本当に 恥ずかしいと思いました。台南市にあまり行かない私はこの記 事を読んで、文中の高校生のように興味を持つようになりまし た。私は小市民だが機会があったら烏山頭ダムに行って「八田 與一外代樹之墓」の前に深くお礼をいたしたいと強く思いまし た。 ■ 編集長・伊勢雅臣より めいさんの御言葉からつくづく我々日本人としての先祖の 「余慶」(先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福)の有り難さ を思いました。 ============================================================ mag2:27574 pubzine:3869 melma!:1977 kapu:1691 macky!:1280© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.