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-----Japan On the Globe(216)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     人物探訪:八田與一
       _/_/             〜戦前の台湾で東洋一のダムを作った男
_/ _/_/_/         台湾南部の15万ヘクタールの土地を灌漑して、
_/ _/_/          百万人の農民を豊かにした烏山頭ダムの建設者。
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■1.日本人はすごいと思いました■

     台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分ほど
    行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着く。湖畔にはホテルが建ち、
    満々と水をたたえた湖水にはボートも浮かぶ観光地になってい
    る。
    
     このダムを見下ろす北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、
    外代樹之墓」と刻まれている。墓の前には作業着姿で腰を下ろ
    し、片膝を立てた八田の銅像が建っている。墓も銅像も、この
    ダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものだ。
    
     1996年、地元の農民たちと日本人が集まって、墓前で50回
    目の慰霊祭を行った。参加した[1]の著者・斉藤充功氏が、ち
    ょうどダム見学に来ていた女子高生2、3人に話を聞いてみる
    と、こういう答えが返ってきた。
    
         学校の授業でダムを作ったのが日本人だということは聞
        いて知っていました。しかしなんという日本人なのか先生
        も知らなかったので興味をもってここに来ました。説明板
        を読んで八田與一技師ということが分かりました。驚いた
        のはダムができたのが私のお爺さんの時代で、遠い昔に
        10年もかけて八田技師はここに住みついてダムを完成さ
        せたと書いてあります。日本人はすごいと思いました。
        
     八田與一の業績は、前台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事
    に要約している。

         台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本
        人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大しゅう(土へん
        に川、用水路)を大正9年から10年間かけて作り上げた
        八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。
        台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしい
        ダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近
        くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊
        かにしたひとです。

■2.嘉南平野開発計画■

     嘉南平野は香川県ほどの大きさで、台湾全体の耕地面積の6
    分の1を占める広大な土地である。また亜熱帯性気候で一年に
    2,3回もの収穫を期待できる地域であったが、水利の便が問
    題だった。降水量こそ年間2000ミリを超える豊かさであったが、
    河川は中央山脈から海岸線まで一気に流れ落ちるために、雨期
    には手をつけられないほどの暴れ川となり、乾期には川底も干
    上がる有様である。農業生産も天候任せできわめて不安定、低
    水準であった。
    
     台湾総督府の土木技師であった八田與一は、この嘉南平野に
    安定した水供給をする灌漑施設を建設することによって、この
    地を台湾の穀倉地帯にできると考え、「嘉南平野開発計画書」
    を作り上げた。台南市の北を流れる官田渓の上流の烏山頭に当
    時東洋一の規模のダムを造り、そこから平野全体に給排水路を
    張り巡らせるという壮大な計画だった。この計画には、地元嘉
    南の農民たちも熱い期待を寄せ、出来る限りの経費と労力を自
    分たちで負担するとまで書かれた嘆願書が何度となく、総督府
    に提出された。
    
     予算は総額4200万円、これは当時の台湾総督府の年間予
    算の1/3以上の及ぶ規模で、内地の政府援助が不可欠であっ
    た。内地も米騒動などで大変な時期だったが、1200万円を
    国庫補助し、残り3千万円を地元農民など利害関係者が負担す
    ることになった。
    
■3.東洋一のダム■

     八田が計画したダムは、満水時の貯水量1億5千万トン。こ
    れは世界有数のアーチ式ダム、黒部ダムの75%に相当する。
    東京都民の水がめとなっている広大な狭山湖を訪れたことのあ
    る人は多いだろうが、これは烏山頭ダムの数年後に完成し、そ
    の貯水量は1952万トン。烏山頭ダムは実にその7.5倍である。
    
     ダムの堰堤部の断面は台形で、頂部幅9メートル、底部幅
    33.3メートル、高さ51メートル。これを長さ1.35キ
    ロメートルにわたって、盛り土で作り上げる。土石を水圧で固
    めながら築造するという当時世界最新のセミ・ハイドロリッ
    ク・フィル工法をわが国で初めて採用する。
    
     烏山嶺を超えて、ダム湖に曽文渓の水を引くために、直径8
    メートル55センチ、長さ4キロメートルのトンネルを掘る。
    これで毎秒50トンの水を流し込む。当時のトンネルで最大の
    ものは東海道線の熱海の丹那トンネルだったが、それよりも1
    5センチ大きい規模だった。
    
     給排水路は総延長1万6千キロ、地球を半周する長さで、日
    本最大の愛知用水の13倍にも及ぶ。さらに給水門、水路橋、
    鉄道橋など、200以上もの構造物を作る。
    
     八田は大正6(1917)年から3年間、現地調査と測量を行い、
    大正9年9月1日からいよいよ工事を始めた。11年には当時
    のダム建設の先進国アメリカに7ヶ月出張して、米国の土木学
    会の権威と議論し、また最新鋭の土木機械を買い集めた。

■4.外人の鼻を明かせてみろ■

     大正11(1922)年11月、米国から帰朝した八田は烏山頭工
    事事務所の所長として、現場に住み込んで指揮をとり始めた。
    当時、現場で働いていた李新福という人は次のように語ってい
    る。
    
         とにかく気宇壮大な、当時ではとてつもない大きな工事
        でした。それと、みんながいちばん驚いたのは、見たこと
        も聞いたこともないバカでかい機械が工事の主役でした。
        ダムの周辺には鉄道が何本も引かれており、私なんかも現
        場では蒸気の機関車にひかれたエアーダンプカーに乗った
        ものです。
        
     スチームショベルはひとすくい2立方メートルで、これは人
    間一人が2時間かかって掘り出す土砂の量である。その外にも、
    蒸気機関車、エアーダンプカーなど、八田が買い付けた機械は、
    1000トンを超える。
    
     始めのうちは、日本人も台湾人も、初めて見る機械ばかりで、
    使い方が分からない。機械と一緒に米国人のオペレーターも来
    たが、「黄色いサルに覚えられるものか」と考えていたのか、
    現場の人間には一切、使い方を教えなかったという。八田は、
    「覚えるのは簡単だ。外人の鼻を明かせてみろ」と口癖のよう
    に言って、叱咤激励を続けた。やがてこれらの機械がうなりを
    あげて、土砂を運ぶようになっていった。
    
     現場には作業員やその家族2千人が住みついた。学校や病院
    までも作られ、地元民からも感謝された。八田の子ども達も台
    湾人の子どもと一緒にこの学校に通った。工事現場は夜遅くま
    でこうこうと灯りがともり、徹夜作業も当たり前であった。建
    設現場では人間関係が大事なことを知っていた八田はよく作業
    員の宿舎に上がり込んでは、彼らとで花札に興じていたという。

■5.「仲間を失った」■

     12月、先行して進められていた烏山嶺トンネル工事で、ガ
    ス爆発事故が起こった。90メートル掘り進んだ所で、石油が
    噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火して、爆発
    したのである。日本人、台湾人あわせて50余名の死者が出た。
    
     八田は事故現場で陣頭指揮を執り、原因の徹底究明と、犠牲
    者の遺族のお見舞いに奔走した。八田がいつもの作業着姿で犠
    牲者の棟割り長屋を訪れ、台湾式の弔意を示すと、遺族は八田
    の言葉をおしいただくように聞き入り、嗚咽したという。八田
    の「仲間を失った」という悲しみが自然と伝わり、その心情が
    遺族の胸をうった。
    
     工事が続けられるかどうか危ぶまれたが、台湾の人たちは、
    
         八田與一はおれたちのおやじのようなものだ。おれたち
        のために、台湾のために、命がけで働いているおやじがい
        るんだ。おれたちだってへこたれるものか。
        
     と、逆に八田を励ました。
    
     八田は工事が終わりに近づいた昭和5年3月、工事のために
    亡くなった人々とその遺族ら134人の名前を刻んだ「殉工
    碑」を建てた。名前は亡くなった順か、日本人と台湾人が混じ
    って刻まれている。こんな所にも、八田の分け隔てのない仲間
    意識が伺われる。

■6.ダム完成■

     翌12年9月、関東大震災が起こった。死者10万余、全壊
    家屋12万8千という大惨事に、台湾総督府も年間予算の30
    %を復興支援の財政援助を申し出た。その結果、烏山頭ダム工
    事への補助金も大きく削られ、八田は職員、作業員の半数を解
    雇せざるをえない事態に追い込まれた。
    
     3年間苦楽を共にしてきた仲間を解雇することは、八田にと
    って身を切られる思いであった。八田は解雇者の再就職先を探
    すために、総督府のつてをたどったり、業者の縁故を頼って奔
    走した。見つけた斡旋先には、工事が再開されれば、優先して
    再雇用するという条件をつけたという。嘉南の人々に今も語り
    継がれているエピソードである。
    
     このような危機を乗り越えて、工事が完成したのは、昭和5
    (1930)年4月であった。大正9(1920)年9月以来、10年近い
    年月が流れていた。1億5千万トンの水を入れるのに、直径9
    メートル近いトンネルでも、40日あまりかかった。
    
     5月10日から満々と水をたたえた烏山頭ダムの竣工を祝う
    祝賀会が3日間に渡って開かれた。地元民が招待客3千人を超
    えて集まったため、会場をもう一カ所増設して収容した。屋台
    や特設の芝居舞台がにぎわい、花火が打ち上げられ、夜は提灯
    行列まで繰り出された。
    
     アメリカの土木学会からは「八田式セミ・ハイドロリック・
    フィル工法」に関する論文を求められ、学会誌に掲載された。
    八田の独創的な技術がアメリカでも認められたのである。

■7.農作物の増産■

     祝賀会の終わった5月15日、烏山頭ダムからの給水が始ま
    った。八田の合図でバルブが開けられると、直径1.8メート
    ルの放水口6本から、ゴーというすさまじい音を立てて、水が
    流れ出していく。そして精密な測量に基づいて、勾配1%とほ
    とんど水平にしか見えない水路でも設計通り水が流れていった。
    しかし15万ヘクタールの土地にはりめぐらされた全長1万6
    千キロメートルの水路に給水する水利運用が軌道に乗るまでに
    は3年かかった。
    
     また100万人近い嘉南平野の農民は、計画的な水利に基づ
    く米作りは初めてである。東京農業大学出身の中島力男技師が
    農村を巡回して、苗代作り、田植え、稲の消毒から農機具の使
    い方を指導した。

     計画した農作物の増収が実現するには、ダム完成後6年かか
    った。しかし、水稲作は工事前の収穫高10万7千石が65万
    7千石と6倍に、甘藷作は138万石から288万石と2倍に
    伸びた。地元農民の増収金額は年間2千万円以上に達し、彼ら
    が負担した事業費2739万円の返済も容易であったろう。な
    お総督府の補助金は2674万円に上った。

■8.八田夫妻の最期■

     烏山頭ダムの完成後、八田は台北に戻った。昭和14(1939)
    年には、技師として最高の官位である勅任官待遇を与えられた。
    台湾がさらに発展していくためには、現地人技術者の養成が不
    可欠だと考え、自ら奔走して台湾で最初の民間学校として「土
    木測量技術員養成所」を台北市内に作った。この学校は年々発
    展して、現在も「瑞芳高級工業職業学校」として、毎年多くの
    技術者を社会に送り出している。
    
     大東亜戦争2年目の昭和17年5月、八田は南方開発派遣要
    員として、貨客船「大洋丸」でフィリピンに向かった。灌漑の
    専門家として、フィリピンで綿作灌漑のためのダム建設の適地
    を調査する任務だった。
    
     5月8日午後7時45分、大洋丸は五島列島沖を航海中、米
    潜水艦の雷撃を受け、沈没。遺体は1ヶ月以上も経った6月
    13日、はるか離れた山口県萩市沖合の見島で発見された。
    7月16日、総督府葬をもって荼毘に付された。享年56歳。
    
     昭和20年、台北でも空襲がひどくなると、妻の外代樹は子
    供たちと烏山頭の建設工事で使われていた職員宿舎に疎開した。
    10年ぶりの懐かしい土地である。敗戦後2週間ほどした9月
    1日未明、外代樹は黒の喪服に白足袋という出で立ちで、烏山
    頭ダムの放水口に身を投げた。「玲子も成子も大きくなったの
    だから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」という遺書が机
    の上に残されていた。享年45歳。

■9.「偉いおじさん。台湾人の恩人」■

     嘉南の農民たちは、1946年12月、わざわざ日本の黒御影石
    を探し出して、日本式の墓を八田夫妻のために建てた。以後、
    毎年八田與一の命日5月8日に嘉南農田水利会の主催により、
    墓前での慰霊追悼式が催されている。
    
     昭和6年に工事関係者が贈った八田の銅像も、戦争末期の金
    属類供出が呼びかけられた頃、忽然と姿を消していたが、戦後、
    地元民が隠して保管していたのが見つかった。蒋介石政権のも
    とで、日本人の銅像を隠し持っていることは大変な危険であっ
    たが、銅像はそのまま保存され、昭和56年に墓前に設置され
    た。

     [1]の著者・斉藤氏は1996年、50回目の慰霊祭に参加した
    際に、近くの官田小学校も取材に訪れた。ダムの工事中に作ら
    れ、八田の子供たちも通った六甲尋常高等小学校がこの官田小
    学校の前身であった。
    
     教師の話によれば、生徒に烏山頭ダムと八田の事を教えてい
    るという。通訳を通じて、人なつこい子供たちに聞いてみると、
    ほとんどの子供たちが八田のことを知っており、「偉いおじさ
    ん。台湾人の恩人」と答えた。若い教師はこう言った。
    
         日本人にあまり知られていない八田技師に関心を持つの
        は大変よいことだと思います。それと、八田技師は政治と
        はなんの関係もない日本人で、台湾人のためにあれだけの
        ダムを造った人物です。日本人はもっと関心を持つべきで
        すね。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
b. JOG(145) 台湾の「育ての親」、後藤新平

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 斉藤充功、「百年ダムを造った男」★★、時事通信社、H9
2.許國雄監修、「台湾と日本・交流秘話」★★、展転社、H8

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「八田與一〜戦前の台湾で東洋一のダムを作った男」
                                        めいさん(台湾)より

     この記事を読ませて頂いてありがとうございます。八田様は
    本当に「偉いおじさん。台湾人の恩人」だと私もしみじみ感じ
    ました。台湾人の私はそんなことも知らなかったことが本当に
    恥ずかしいと思いました。台南市にあまり行かない私はこの記
    事を読んで、文中の高校生のように興味を持つようになりまし
    た。私は小市民だが機会があったら烏山頭ダムに行って「八田
    與一外代樹之墓」の前に深くお礼をいたしたいと強く思いまし
    た。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     めいさんの御言葉からつくづく我々日本人としての先祖の
    「余慶」(先祖の善行のおかげで子孫が得る幸福)の有り難さ
    を思いました。
   
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