[トップページ] [平成11年下期一覧][地球史探訪][222.0131 中国:政治][316 国際社会の人権問題]


         _/    _/_/      _/_/_/  地球史探訪:中国の失われた20年(下)
        _/  _/    _/  _/            〜憎悪と破壊の「文化大革命」
       _/  _/    _/  _/  _/_/                           14,463部 H11.10.09
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(110)  国際派日本人養成講座
  _/_/      _/_/    _/_/_/   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■1.紅衛兵登場■

   1966年5月25日、北京大学の学生大食堂に、学生や教職員が
  押し寄せ、騒然とした空気が広がった。東の壁に巨大な大字報
  (壁新聞)が貼り出されていたのだ。学長の陸平ら、大学や北京
  市の共産党幹部が名指しで批判され、「毛沢東思想の偉大な赤旗
  を高く掲げ、すべての妖怪変化とフルシチョフ流の反革命修正主
  義分子を一掃し、社会主義革命を最後までやり抜こう」と主張し
  ていた。

   6月1日夜、中央人民放送局は、これを「全国初のマルクス・
  レーニン主義の大字報」と称賛し、翌日、党機関紙「人民日報」
  にも、大字報の内容が「歓呼を送る」との論評つきで転載された。
  陰で共産党中央が動いているに違いない。陸平の心は凍った。
  
  「われわれは紅色政権(赤い政権)を防衛する衛兵である」 北
  京の精華大学付属中学に張られた大字報の署名は「紅衛兵」。
  党幹部の子弟たちは毛沢東神格化が強まる中で育ち、「毛沢東思
  想による革命継続」に熱狂した。学内には大字報があふれ、紅衛
  兵たちは町に繰り出してデモを行った。[1,p128]

   この騒乱を劉少奇国家主席は深刻に受け止め、トウ小平党総書
  記とともに、杭州で静養中の毛沢東のもとへ飛んで、事態の収拾
  に乗り出すように求めた。
  
   しかし、毛沢東は軽く手を振り、「乱れるにまかせればよいで
  はないか」と言い放った。しばらく帰京する気はないので、二人
  で臨機に問題を処理するように、と答えた。劉少奇は、まだ騒乱
  の真の標的が自分である事に気がつかなかった。[1,p131]

■2.誰が「中国のフルシチョフ」なのか?■

   この10年も前、56年2月にソ連の党第一書記フルシチョフはス
  ターリンの独裁を批判する秘密報告を行った。神格化され、無謬
  性が信じられてきたスターリンの偶像は徹底的に破壊された。
  
   毛沢東は激怒しつつも、「中国にも修正主義が現れ、自分も死
  後に鞭打たれるのだろうか?」と疑心にとらわれた。「誰が中国
  のフルシチョフなのか?」[1,p140]
  
  「大躍進」政策が破綻し、59年には国家主席の地位を劉少奇に譲
  った。その修正主義的政策は着々と成功を収めている。このまま
  では、自分はいずれスターリンと同じ末路となる。この危機を打
  開するために考え出したのが、大衆動員によって、党の外から修
  正主義者達を打倒しようとする「文化大革命」であった。
  
   しかし、戦術の天才・毛沢東はいきなり、本丸の劉少奇を攻撃
  して、自分の思惑を明かすようなことはしない。まず北京の学生
  たちが、北京大学や北京市の党幹部を「反革命」と糾弾する。
  誰が誰を攻撃しているのか、分からないうちに、国家全体を混乱
  に陥れ、それに乗じて劉の失脚を狙うという遠大な戦法であった。

■3.暴れだした孫悟空たち■

       中央機関がよくないことをしでかしたら、私は地方が造反
      して中央に進行するよう呼びかける。各地はたくさんの孫悟
      空を送り出して大いに天宮を騒がせるべきだ。[1,p135]

   この毛沢東の言葉どおり、中国全土の学校で孫悟空たちが現れ
  て、暴れ始めた。「ワイルド・スワン」の著者ユン・チアンの通
  っていた中学でも、65年6月はじめから、授業が全面的に停止
  した。それでも生徒は毎日登校し、スピーカーからは人民日報の
  論説を朗読する声がガンガン鳴り響き、クラスではその一面記事
  を学習した。
  
   人民日報は、学校の試験は「生徒を敵人のようにあつかい」、
  「ブルジョワ知識分子」の悪だくみの一環であるから粉砕しなけ
  ればならない、と毛沢東の言葉を引用しながら、生徒をけしかけ
  た。「造反有理」(反乱には理がある)のスローガンが、さかん
  に叫ばれた。
  
   生徒たちは、紅衛兵組織を作り、学校に寝泊りして、毎日集会
  や、大字報作りに没頭した。長い髪、スカート、細いスラックス
  は「ブルジョワ的退廃」だとして糾弾された。ユンもひそかに涙
  を流しながら、長いおさげ髪を切り、わざとつぎをあてたズボン
  をはき、いやいやながら学校に寝泊りした。
  
■4.苦悶と絶望と放心と■

   ひとたび「階級敵人」のレッテルを貼られると、糾弾集会で容
  赦ない吊し上げが待っていた。ユンの哲学の先生は、成績の悪い
  生徒に冷淡な所があり、それを恨んだ生徒が、「退廃的である」
  と批判した。この女教師は、夫との出会いがバスの中であり、偶
  然に出合った相手と恋におちるのは、不道徳だというのである。
  
   事務室で、紅衛兵たちはこの女教師に対して、「革命行動」、
  すなわち殴打を始めた。髪を振り乱し、苦悶に床を転げまわって、
  やめて、と叫ぶ先生に、男子生徒たちは所かまわず蹴りつける。
  
       やめて、だと? こないだまでのいばりくさった態度はど
      こへ行ったんだ? やめてほしいなら、ちゃんと頼みかたが
      あるだろう。叩頭して「革命少将の皆様、どうか命をお助け
      ください」と言え。
      
   叩頭とは、ひざまづいて床に頭をたたきつける中国古来の作法
  だ。叩頭しての命乞いは、このうえない恥辱である。
  
   ユンは、「お気に入りの生徒の顔を見たら、どんな気がするだ
  ろうな」と、その場に呼ばれていた。そしてユンの軟弱な態度を
  矯正するために、殴打に加われと、級友たちから前に押し出され
  た。先生はからだを起こして床にすわり、うつろな視線を上げた。
  ユンと視線があった。くしゃくしゃに乱れた髪の間から見える先
  生の目は、苦悶と絶望と放心があった。ユンはその場から逃げ出
  した。[2,p203]

■5.なぜこんな目に遭わなきゃならないの?■

   やがて、弾圧は、市や党の幹部に及んできた。窃盗、強姦、麻
  薬密売などで警察につかまった前科者たちが、造反に加わること
  を許され、区の幹部たちの吊し上げを始めた。宣伝部長をしてい
  たユンの母は、個人的な恨みは買っていなかったが、幹部の一人
  だというだけの理由で、糾弾された。
  
   母は何度か、円錐形の紙帽子をかぶせられ、首にプラカードを
  ぶら下げた格好で、町を行進させられた。2,3歩歩むたびに、
  見物している群集に叩頭させられ、そんな小さな音ではだめだ、
  と叫ぶ見物人がいると、母たちは石の舗道に頭を打ちつけて、も
  っと大きな音を立てねばならなかった。
  
   ある吊し上げ大会では、割れたガラス片の上にひざまづかされ
  た。その夜遅くまでかかって、祖母が毛抜きと針で、母のひざか
  らガラス片を抜き取った。祖母は「私の娘が、何をしたというの。
  なぜこんな目に遭わなきゃならないの?」と涙をこぼした。

■6.なにが文化大革命だ!■

   ユンの父は、四川省党委員会の宣伝部副部長の要職にあった。
  その地位を狙う宣伝部の部下の一人、姚(シヤウ)女史が、紅衛
  兵たちを引き連れて、自宅を襲った。父の書斎にある中国古典文
  学の本を指して、「毒草」はすべて焼却しろと命じた。その夜、
  ユンが帰ってきた時、父が生活費を切り詰めて買い集めた本を火
  に投げ込んでいた。激しく慟哭しながら、壁に頭を打ちつけてい
  る。ユンが生まれて初めて見る、父の泣く姿だった。
  
   翌日から、父に対する糾弾集会が続いた。父は殴られ、蹴られ
  ながらも、決して屈服しなかった。「なにが文化大革命だ!
  『文化』など何一つないじゃないか! こんなものはただの蛮行
  だ。」[2,p273]
  
   監禁されたまま、こうした吊し上げが連日続き、やがて、ユン
  の父は一時的な精神異常になっていく。
  
   やがてユンの両親は、別々にヒマラヤ東端の地に作られた「幹
  部学校」と呼ばれる労働キャンプに移された。中国全土で数千ヶ
  所も作られた「幹部学校」に、党の幹部、作家、学者、科学者、
  教師、医師、俳優など、知識人階級が、続々と送り込まれた。
  四川省の宣伝部副部長の地位は、父を糾弾した姚女史が手に入れ
  た。[3,p48]
  
   フェアバンク教授は、党の幹部で排除された者は約60%ぐら
  いであり、虐待で死亡したものは40万人と推定している。
  [4,p509] また、被害をこうむった人々は家族を含め、中国全体
  で総計1億人に達したであろうと、述べている。[4,p536]

■7.真剣に学習し、体をいたわるんだ■

   文化大革命が発動されて2ヵ月後の66年10月、北京で開か
  れた中央工作会議の席上、国家主席・劉少奇、党中央委員会総書
  記・トウ小平が「ブルジョア反動路線」の頭目であり、打倒対象
  であることが宣言された。
  
   67年1月12日には、紅衛兵が、国家主席の自宅までなだれ
  込み、自己批判を迫った。翌日、毛沢東から呼び出された劉少奇
  は、「今回の路線の誤りは自分が責任を負うので、早く幹部たち
  を解放して欲しい。自分は国家主席の職を辞し、郷里に引退した
  い。」と希望を述べた。毛沢東は、それには答えず、穏やかな笑
  顔で、「真剣に学習し、体をいたわるんだ」という言葉をかけた。
  
   毛沢東が笑顔の蔭で狙っていたのは、劉少奇を打倒目標に掲げ
  つづけることで、大衆の憎悪を煽ることだった。67年7月には
  数十万人の紅衛兵に取り囲まれ、「批判台」に立たされて、2時
  間にわたって両手をまっすぐ後ろに伸ばして、腰をかがめ、頭を
  下げる「ジェット式縛り上げ」をさせられた。その姿は劉少奇の
  幼い子供たちにも見せつけられた。[3,p240]
  
   9月には自宅で監禁状態となった。痛めつけられた手で服を着
  るには30分もかかり、足の古傷が悪化して、30メートル離れ
  た食堂に行くのに、50分もかかった。そこでは作りおきされ、
  古くなった食事を食べさせられた。
  
   68年10月には、「スパイ」「反党分子」の容疑で、党から
  の永久除名が宣言され、69年10月、裸のまま軍用毛布に包ま
  れ、コンクリートむき出しの倉庫部屋に移された。肺炎のために
  高熱と嘔吐がとまらず、1ヶ月たたないうちに死亡した。毛沢東
  の「打倒劉少奇」は、文化大革命を企んでから4年をかけて、つ
  いに完了した。

■8.若い者たちに武器のあつかいを経験させるのも悪くない■

   67年の夏には、中国全土が内戦に近い状態となっていった。
  初期の紅衛兵たちは、共産党幹部の子弟が多かったのだが、その
  親たちが糾弾され始めると、派閥に分かれて、内部抗争を始めた
  のである。なかでも四川省は武器弾薬製造の中心地だったため、
  各派が軍需工場や武器庫から、戦車、装甲車、大砲までも奪って
  武装した。
  
   宣賓(イーピン)という町では、大砲や手榴弾、迫撃砲、機関
  銃を使った内戦が起こり、百人を越す死者が出た。敗走した一派
  が、となりの濾州(リュイチョウ)市に流れると、5千人の勢力
  が追撃をしかけて、300人近くの死者を出した。

   毛は「若い者たちに武器のあつかいを経験させるのも悪くない。
  もうすいぶん長いこと戦争をやっていないのだから」と言った。
  [2,p318]

■9.残忍で醜いだけの中国を残した■

   69年1月、手に負えなくなった全国の紅衛兵1500万人は、一
  斉に農村に「下放」されることになった。ユンは兄弟と共に四川
  省の奥地に流されるが、そこから苦労して、交替で父と母の労働
  キャンプを訪ねる。
  
   弟の京明(チンミン)が71年末に訪ねた時、父の精神異常は
  治っていたが、からだはぼろぼろだった。二人で歩いている時、
  呼吸困難の発作に襲われ、あえぎながら京明に言った。
  
       父さんは、ひどい子供時代を送った。世の中は不正にまみ
      れていた。共産党に入ったのは、公正な世を作りたかったか
      らだ。それ以来ずっと全力をつくしてやってきた。だが、そ
      れが人民の役にたったか? 自分のためになったか? 家族
      のみんなを破滅の淵にひきずりこんで、何のための苦労だっ
      たのか。・・・もし、父さんがこんなふうにして死んだら、
      もう共産党を信ずることはないぞ。[3,p171]
      
   76年9月、ユンは毛沢東の死を知った。「とほうもない幸福
  感に、私は一瞬ぼうっとなった。」 1957年の「大躍進」から始
  まった「空白の20年」がようやく終わりを告げたのだ。ユンは
  ふりかえる。
  
     毛沢東は・・・嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をじつ
    にたくみに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得て
    いた。毛沢東は、人民がたがいに憎しみあうようしむけること
    によって国を統治した。・・・
    
     さらに建築、美術、音楽など自分に理解できない分野には、
    まるっきり価値を認めなかった。そして、結局中国の文化遺産
    をほとんど破壊してしまった。毛沢東は残忍な社会を作り上げ
    るだけでなく、輝かしい過去の文化遺産まで否定し、破壊して、
    醜いだけの中国を残していったのである。[3,p268]

■参考■
1.「毛沢東秘録」、産経新聞「毛沢東秘録」取材班、
 産経新聞ニュースサービス、H11.8
2.「ワイルド・スワン(中)」、ユン・チアン、講談社文庫、H10.3
3.「ワイルド・スワン(下)」、ユン・チアン、講談社文庫、H10.3
2.「中国の歴史」、J.K.フェアバンク、ミネルヴァ書房、H8.7

■リンク■
★ JOG Wing 国際派日本人の情報ファイル
No.0082 「なぜ毛沢東は劉少奇打倒に4年もかけたか?」
     文化大革命の被害者たちは、直接処刑されるよりも、長時間
    のつるし上げで自殺に追い込んだり、病死させたりが多い。な
    ぜか?

© 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.