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_/ _/_/ _/_/_/ 地球史探訪:中国の失われた20年(下) _/ _/ _/ _/ 〜憎悪と破壊の「文化大革命」 _/ _/ _/ _/ _/_/ 14,463部 H11.10.09 _/ _/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe(110) 国際派日本人養成講座 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.紅衛兵登場■ 1966年5月25日、北京大学の学生大食堂に、学生や教職員が 押し寄せ、騒然とした空気が広がった。東の壁に巨大な大字報 (壁新聞)が貼り出されていたのだ。学長の陸平ら、大学や北京 市の共産党幹部が名指しで批判され、「毛沢東思想の偉大な赤旗 を高く掲げ、すべての妖怪変化とフルシチョフ流の反革命修正主 義分子を一掃し、社会主義革命を最後までやり抜こう」と主張し ていた。 6月1日夜、中央人民放送局は、これを「全国初のマルクス・ レーニン主義の大字報」と称賛し、翌日、党機関紙「人民日報」 にも、大字報の内容が「歓呼を送る」との論評つきで転載された。 陰で共産党中央が動いているに違いない。陸平の心は凍った。 「われわれは紅色政権(赤い政権)を防衛する衛兵である」 北 京の精華大学付属中学に張られた大字報の署名は「紅衛兵」。 党幹部の子弟たちは毛沢東神格化が強まる中で育ち、「毛沢東思 想による革命継続」に熱狂した。学内には大字報があふれ、紅衛 兵たちは町に繰り出してデモを行った。[1,p128] この騒乱を劉少奇国家主席は深刻に受け止め、トウ小平党総書 記とともに、杭州で静養中の毛沢東のもとへ飛んで、事態の収拾 に乗り出すように求めた。 しかし、毛沢東は軽く手を振り、「乱れるにまかせればよいで はないか」と言い放った。しばらく帰京する気はないので、二人 で臨機に問題を処理するように、と答えた。劉少奇は、まだ騒乱 の真の標的が自分である事に気がつかなかった。[1,p131] ■2.誰が「中国のフルシチョフ」なのか?■ この10年も前、56年2月にソ連の党第一書記フルシチョフはス ターリンの独裁を批判する秘密報告を行った。神格化され、無謬 性が信じられてきたスターリンの偶像は徹底的に破壊された。 毛沢東は激怒しつつも、「中国にも修正主義が現れ、自分も死 後に鞭打たれるのだろうか?」と疑心にとらわれた。「誰が中国 のフルシチョフなのか?」[1,p140] 「大躍進」政策が破綻し、59年には国家主席の地位を劉少奇に譲 った。その修正主義的政策は着々と成功を収めている。このまま では、自分はいずれスターリンと同じ末路となる。この危機を打 開するために考え出したのが、大衆動員によって、党の外から修 正主義者達を打倒しようとする「文化大革命」であった。 しかし、戦術の天才・毛沢東はいきなり、本丸の劉少奇を攻撃 して、自分の思惑を明かすようなことはしない。まず北京の学生 たちが、北京大学や北京市の党幹部を「反革命」と糾弾する。 誰が誰を攻撃しているのか、分からないうちに、国家全体を混乱 に陥れ、それに乗じて劉の失脚を狙うという遠大な戦法であった。 ■3.暴れだした孫悟空たち■ 中央機関がよくないことをしでかしたら、私は地方が造反 して中央に進行するよう呼びかける。各地はたくさんの孫悟 空を送り出して大いに天宮を騒がせるべきだ。[1,p135] この毛沢東の言葉どおり、中国全土の学校で孫悟空たちが現れ て、暴れ始めた。「ワイルド・スワン」の著者ユン・チアンの通 っていた中学でも、65年6月はじめから、授業が全面的に停止 した。それでも生徒は毎日登校し、スピーカーからは人民日報の 論説を朗読する声がガンガン鳴り響き、クラスではその一面記事 を学習した。 人民日報は、学校の試験は「生徒を敵人のようにあつかい」、 「ブルジョワ知識分子」の悪だくみの一環であるから粉砕しなけ ればならない、と毛沢東の言葉を引用しながら、生徒をけしかけ た。「造反有理」(反乱には理がある)のスローガンが、さかん に叫ばれた。 生徒たちは、紅衛兵組織を作り、学校に寝泊りして、毎日集会 や、大字報作りに没頭した。長い髪、スカート、細いスラックス は「ブルジョワ的退廃」だとして糾弾された。ユンもひそかに涙 を流しながら、長いおさげ髪を切り、わざとつぎをあてたズボン をはき、いやいやながら学校に寝泊りした。 ■4.苦悶と絶望と放心と■ ひとたび「階級敵人」のレッテルを貼られると、糾弾集会で容 赦ない吊し上げが待っていた。ユンの哲学の先生は、成績の悪い 生徒に冷淡な所があり、それを恨んだ生徒が、「退廃的である」 と批判した。この女教師は、夫との出会いがバスの中であり、偶 然に出合った相手と恋におちるのは、不道徳だというのである。 事務室で、紅衛兵たちはこの女教師に対して、「革命行動」、 すなわち殴打を始めた。髪を振り乱し、苦悶に床を転げまわって、 やめて、と叫ぶ先生に、男子生徒たちは所かまわず蹴りつける。 やめて、だと? こないだまでのいばりくさった態度はど こへ行ったんだ? やめてほしいなら、ちゃんと頼みかたが あるだろう。叩頭して「革命少将の皆様、どうか命をお助け ください」と言え。 叩頭とは、ひざまづいて床に頭をたたきつける中国古来の作法 だ。叩頭しての命乞いは、このうえない恥辱である。 ユンは、「お気に入りの生徒の顔を見たら、どんな気がするだ ろうな」と、その場に呼ばれていた。そしてユンの軟弱な態度を 矯正するために、殴打に加われと、級友たちから前に押し出され た。先生はからだを起こして床にすわり、うつろな視線を上げた。 ユンと視線があった。くしゃくしゃに乱れた髪の間から見える先 生の目は、苦悶と絶望と放心があった。ユンはその場から逃げ出 した。[2,p203] ■5.なぜこんな目に遭わなきゃならないの?■ やがて、弾圧は、市や党の幹部に及んできた。窃盗、強姦、麻 薬密売などで警察につかまった前科者たちが、造反に加わること を許され、区の幹部たちの吊し上げを始めた。宣伝部長をしてい たユンの母は、個人的な恨みは買っていなかったが、幹部の一人 だというだけの理由で、糾弾された。 母は何度か、円錐形の紙帽子をかぶせられ、首にプラカードを ぶら下げた格好で、町を行進させられた。2,3歩歩むたびに、 見物している群集に叩頭させられ、そんな小さな音ではだめだ、 と叫ぶ見物人がいると、母たちは石の舗道に頭を打ちつけて、も っと大きな音を立てねばならなかった。 ある吊し上げ大会では、割れたガラス片の上にひざまづかされ た。その夜遅くまでかかって、祖母が毛抜きと針で、母のひざか らガラス片を抜き取った。祖母は「私の娘が、何をしたというの。 なぜこんな目に遭わなきゃならないの?」と涙をこぼした。 ■6.なにが文化大革命だ!■ ユンの父は、四川省党委員会の宣伝部副部長の要職にあった。 その地位を狙う宣伝部の部下の一人、姚(シヤウ)女史が、紅衛 兵たちを引き連れて、自宅を襲った。父の書斎にある中国古典文 学の本を指して、「毒草」はすべて焼却しろと命じた。その夜、 ユンが帰ってきた時、父が生活費を切り詰めて買い集めた本を火 に投げ込んでいた。激しく慟哭しながら、壁に頭を打ちつけてい る。ユンが生まれて初めて見る、父の泣く姿だった。 翌日から、父に対する糾弾集会が続いた。父は殴られ、蹴られ ながらも、決して屈服しなかった。「なにが文化大革命だ! 『文化』など何一つないじゃないか! こんなものはただの蛮行 だ。」[2,p273] 監禁されたまま、こうした吊し上げが連日続き、やがて、ユン の父は一時的な精神異常になっていく。 やがてユンの両親は、別々にヒマラヤ東端の地に作られた「幹 部学校」と呼ばれる労働キャンプに移された。中国全土で数千ヶ 所も作られた「幹部学校」に、党の幹部、作家、学者、科学者、 教師、医師、俳優など、知識人階級が、続々と送り込まれた。 四川省の宣伝部副部長の地位は、父を糾弾した姚女史が手に入れ た。[3,p48] フェアバンク教授は、党の幹部で排除された者は約60%ぐら いであり、虐待で死亡したものは40万人と推定している。 [4,p509] また、被害をこうむった人々は家族を含め、中国全体 で総計1億人に達したであろうと、述べている。[4,p536] ■7.真剣に学習し、体をいたわるんだ■ 文化大革命が発動されて2ヵ月後の66年10月、北京で開か れた中央工作会議の席上、国家主席・劉少奇、党中央委員会総書 記・トウ小平が「ブルジョア反動路線」の頭目であり、打倒対象 であることが宣言された。 67年1月12日には、紅衛兵が、国家主席の自宅までなだれ 込み、自己批判を迫った。翌日、毛沢東から呼び出された劉少奇 は、「今回の路線の誤りは自分が責任を負うので、早く幹部たち を解放して欲しい。自分は国家主席の職を辞し、郷里に引退した い。」と希望を述べた。毛沢東は、それには答えず、穏やかな笑 顔で、「真剣に学習し、体をいたわるんだ」という言葉をかけた。 毛沢東が笑顔の蔭で狙っていたのは、劉少奇を打倒目標に掲げ つづけることで、大衆の憎悪を煽ることだった。67年7月には 数十万人の紅衛兵に取り囲まれ、「批判台」に立たされて、2時 間にわたって両手をまっすぐ後ろに伸ばして、腰をかがめ、頭を 下げる「ジェット式縛り上げ」をさせられた。その姿は劉少奇の 幼い子供たちにも見せつけられた。[3,p240] 9月には自宅で監禁状態となった。痛めつけられた手で服を着 るには30分もかかり、足の古傷が悪化して、30メートル離れ た食堂に行くのに、50分もかかった。そこでは作りおきされ、 古くなった食事を食べさせられた。 68年10月には、「スパイ」「反党分子」の容疑で、党から の永久除名が宣言され、69年10月、裸のまま軍用毛布に包ま れ、コンクリートむき出しの倉庫部屋に移された。肺炎のために 高熱と嘔吐がとまらず、1ヶ月たたないうちに死亡した。毛沢東 の「打倒劉少奇」は、文化大革命を企んでから4年をかけて、つ いに完了した。 ■8.若い者たちに武器のあつかいを経験させるのも悪くない■ 67年の夏には、中国全土が内戦に近い状態となっていった。 初期の紅衛兵たちは、共産党幹部の子弟が多かったのだが、その 親たちが糾弾され始めると、派閥に分かれて、内部抗争を始めた のである。なかでも四川省は武器弾薬製造の中心地だったため、 各派が軍需工場や武器庫から、戦車、装甲車、大砲までも奪って 武装した。 宣賓(イーピン)という町では、大砲や手榴弾、迫撃砲、機関 銃を使った内戦が起こり、百人を越す死者が出た。敗走した一派 が、となりの濾州(リュイチョウ)市に流れると、5千人の勢力 が追撃をしかけて、300人近くの死者を出した。 毛は「若い者たちに武器のあつかいを経験させるのも悪くない。 もうすいぶん長いこと戦争をやっていないのだから」と言った。 [2,p318] ■9.残忍で醜いだけの中国を残した■ 69年1月、手に負えなくなった全国の紅衛兵1500万人は、一 斉に農村に「下放」されることになった。ユンは兄弟と共に四川 省の奥地に流されるが、そこから苦労して、交替で父と母の労働 キャンプを訪ねる。 弟の京明(チンミン)が71年末に訪ねた時、父の精神異常は 治っていたが、からだはぼろぼろだった。二人で歩いている時、 呼吸困難の発作に襲われ、あえぎながら京明に言った。 父さんは、ひどい子供時代を送った。世の中は不正にまみ れていた。共産党に入ったのは、公正な世を作りたかったか らだ。それ以来ずっと全力をつくしてやってきた。だが、そ れが人民の役にたったか? 自分のためになったか? 家族 のみんなを破滅の淵にひきずりこんで、何のための苦労だっ たのか。・・・もし、父さんがこんなふうにして死んだら、 もう共産党を信ずることはないぞ。[3,p171] 76年9月、ユンは毛沢東の死を知った。「とほうもない幸福 感に、私は一瞬ぼうっとなった。」 1957年の「大躍進」から始 まった「空白の20年」がようやく終わりを告げたのだ。ユンは ふりかえる。 毛沢東は・・・嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をじつ にたくみに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得て いた。毛沢東は、人民がたがいに憎しみあうようしむけること によって国を統治した。・・・ さらに建築、美術、音楽など自分に理解できない分野には、 まるっきり価値を認めなかった。そして、結局中国の文化遺産 をほとんど破壊してしまった。毛沢東は残忍な社会を作り上げ るだけでなく、輝かしい過去の文化遺産まで否定し、破壊して、 醜いだけの中国を残していったのである。[3,p268] ■参考■ 1.「毛沢東秘録」、産経新聞「毛沢東秘録」取材班、 産経新聞ニュースサービス、H11.8 2.「ワイルド・スワン(中)」、ユン・チアン、講談社文庫、H10.3 3.「ワイルド・スワン(下)」、ユン・チアン、講談社文庫、H10.3 2.「中国の歴史」、J.K.フェアバンク、ミネルヴァ書房、H8.7 ■リンク■ ★ JOG Wing 国際派日本人の情報ファイル No.0082 「なぜ毛沢東は劉少奇打倒に4年もかけたか?」 文化大革命の被害者たちは、直接処刑されるよりも、長時間 のつるし上げで自殺に追い込んだり、病死させたりが多い。な ぜか?
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