[トップページ] [平成11年下期一覧][地球史探訪][222.0131 中国:政治][316 国際社会の人権問題]
_/ _/_/ _/_/_/ 地球史探訪:中国の失われた20年(上) _/ _/ _/ _/ 〜2千万人餓死への「大躍進」 _/ _/ _/ _/ _/_/ 14,044部 H11.10.16 _/ _/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe(109) 国際派日本人養成講座 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.100人の右派を告発せよ■ 『右派分子』が共産党と中国の社会主義を傍若無人に攻撃した。 右派は知識人全体の1%から10%ほどにあたり、これらの者 たちを粉砕しなければならない。[1,p55] 小説「ワイルド・スワン」の作者ユン・チアンの母は、四川省 成都東城区の宣伝部長をしていたが、1957年6月にこのような毛 沢東の講話が、その母の所まで伝わってきた。 この命令を実行するために、毛沢東のあげた数字の中間をとっ て、5%の知識人を右派として告発することになった。この「割 り当て」を満たすためには、ユンの母は自分の監督下にある組織 から、合計100人の右派を告発しなければならなかった。 ある部下は、国民党将校だった夫を内戦で亡くした小学校教師 で、「今の中国は昔より貧しくなった」と発言した女性を見つけ 出してきた。しかし、こうして頑張っても10人足らずにしかな らない。 上司は、「右派分子を見つけ出せないのは、君自身が右傾化し ている証拠だ」と脅した。ユンの母は、自分が右派のレッテルを 貼られて夫や子供たちの将来を犠牲にするのか、自分と家族を守 るために、100人以上の無実の人を犠牲にするのか、二律背反 の窮地に陥った。 しかし危機一髪の所で、窮地から救われた。担当地域にある師 範学校で、学生130人が奨学金増額を求めてデモを行い、上司 がこれらの学生全員を右派として告発し、なんとか、割当てを満 たせたのである。学生たちは、工場や農村で肉体労働をさせられ るか、強制労働収容所に送られる。 しかし、これは「大躍進」「文化大革命」と20年も続く苦難 のほんの始まりに過ぎなかった。中国は10月1日に建国50周 年を迎えたが、これを機に、そのうちの「失われた20年」と呼 ばれる時期をたどってみよう。 ■2.知識人55万人以上が犠牲に■ 1957年春、毛沢東は知識人階級に対し、自由に共産党批判をす るよう求めた。「百花斉放」政策である。しかし毛沢東は同時に 「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)と言う秘密発言も していた。前年の秋、ハンガリー暴動が起こり、中国でも知識人 たちが同様な穏健・自由主義路線を望んでいることが分かってい たので、毛沢東が先手で罠を仕掛けたのである。[1,p50] 57年から58年にかけての右派闘争で、全国で55万人以上が右 派とされた。北京大学では、700人が「右派分子」のレッテル を貼られ、800人が何らかの処分を受けた。これは学生・教員 総数の20%にあたる。無事だった知識人たちも、これ以降、表 立って政治的発言はしなくなる。 国家建設と経済発展の両方に鍛えられた知性が欠かせなか った。「原理主義」のために中国の知識人エリートのそんな にも多くの人々を退けてしまったことは愚かなことであり、 大きな被害をもたらすことであった。[2,p483] アメリカの中国史研究の権威フェアバンク教授の評価である。 この「大きな被害」について、教授は次のように述べている。 1958年から1960年に、中国共産党が強要した政策のために 約2千〜3千万の人々が栄養失調と飢餓で命を失った。・・ これは人類の災害の最大級のものの一つであった。その原因 は完全に毛主席に帰すべきである・・・[2,p485] ■3.中国は15年以内にイギリスを追い越す■ 1957年、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以 内に鉄鋼、石油などの生産高の面でアメリカを上回るだろう、と 宣言した。当時モスクワに滞在していた毛沢東は、兄貴分である ソ連の後について、中国は15年以内にイギリスを追い越すだろ うと語った。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手 を浴び、中国国内でも盛んに宣伝された。[3,p34] そこで毛沢東は1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産 高を翌年には倍の1070万トンにするよう命じた。ここから全人民 製鉄・製鋼運動が展開されることになった。 しかし本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も、時間も ない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の「土法高炉」を全国 に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを命じた。 ■4.308万トンの「牛の糞」のような鉄■ 「ワイルド・スワン」の作者ユン・チアンは、この年、小学校 に入ったばかりであったが、その校庭にかまどと「るつぼ」の形 をした大きな鉄の桶が据えられた。先生たちが24時間休みなし で薪をくべ、生徒たちが拾い集めてきた鉄くずをその桶に入れる。 先生たちが製鉄に動員されているので、授業もなく、ユンは先生 の家で掃除や子守りもした。[1,p64] ある先生は、とけた鉄を浴びて、両腕に大やけどを負い、病院 に見舞いに行ったユンは、そこでも医師や看護婦が、土法炉の火 を絶やさないように、走り回っている姿を見る。 しかし、素人が薪をくべて作った鉄は、農機具用にすらならな かった。ユンの家の鍋や釜も、ベッドのスプリングもすべて、溶 かさてしまった。6000万人の労働力を投入して、308万ト ンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄が作られたのであ る。[4,p204] ■5.全人民樹木伐採運動へ■ 無駄になったのは、膨大な労働力だけではない。土法炉の燃料 として、大量の石炭が使われた。そのために、逆に正規の製鉄所 が燃料不足に陥り、操業停止に追い込まれる所が出てきた。 さらに石炭を買えない農民は、樹木を伐採して、薪とした。全 人民製鉄・製鋼運動はたちまち、全人民樹木伐採運動へと一変し た。この環境破壊は、数十年後にも続く悪影響を残す。 20余年後の1980年に、解放軍の李貞将軍が故郷の湖西省に戻 ると、村人たちは貧窮のどん底にあえいでおり、将軍に訴えた。 昔、裏山には、数人がかりでも抱えきれないほどの大きな 樹木が数え切れないほど生い茂っていました。・・・でも大 製鉄・製鋼運動以後には、すべて切り倒されてしまいました。 山はハゲ山になり、土地もやせてしまいました。一度大雨 が降れば土砂が田畑に流れ込み、肥えた土地も荒れ地になっ てしまいました。これでどうして豊かになることができるで しょうか。[3,p51] また、かまどを作るには、レンガが必要だ。そのために古代か らの城壁を破壊して、そのレンガが用いられた。前漢時代に国都 長安を守る東の関門として、2千年の歴史を持つ河南省の函谷関 の2層の楼閣、甘粛省威武県の唐代からの城壁など、いくつもの 由緒ある建造物がこうして破壊された。[3,p46] ■6.保身のために、誰も真実を語れない■ 毛沢東の一言で、なぜ全人民がこれほど、愚かな運動に全力を あげて取り組んだのか? 共産党の幹部たちは、鉄鋼生産のノル マを課され、毎日生産高を報告することが求められた。 上級幹部の関心は、毛沢東の命じた「1070万トン」という数字 のみであった。その鉄を使うあてがあるわけでもなく、品質もど うでも良い。当然、下からの報告は水増しされる。 水増し報告に反対した良心的な幹部は、統計局長を含め、「右 派」のレッテルを貼られ、労働改造所か、牢獄に送り込まれてい た。残る党幹部、官僚も、専門技術者たちも、この運動がいかに 人民を苦しめ、経済発展を阻害しているか、分かってはいても、 保身のためには、口を閉ざすしかなかったのである。[3,p88] ■7.人民公社で奇跡的な増産!?■ 鉄鋼増産と並んで、毛沢東の念願であった人民公社による農村 の共産化が進められた。「共産主義は天国だ。人民公社はその掛 け橋だ。」というスローガンが、1958年以降、中国全土に響き渡 った。 2千から2万戸を一つの単位として、人民公社を作り、その中 では、人々は田畑や森林、家畜、農機具などすべての私有財産を 提供し、共有化する。自宅での食事は禁止され、農民は農作業が 終わると、公共食堂で食事をとる。収穫はすべて国のものとされ るので、誰も農作業の能率など気にしない。農村にも鉄鋼生産の ノルマがあるので、農耕作業は二の次にされた。そして食べたい だけ食べるので、食料備蓄はまたたく間に底をついた。 人民公社は地方の共産党官僚の管理化におかれ、やがて各公社 が、毛沢東の歓心を得ようと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始め る。ある公社が、今まで1畝(6.7アール)あたり200斤(100k g)程度しか小麦がとれなかったのに、2105斤もの増産に成功し た、とのニュースを人民日報で流した。毛沢東が提唱した畑に隙 間なくびっしりと作物を植える「密植」により、出来高が10倍 にもなったというのである。 すると、他の公社も負けじと、水稲7000斤、1万斤などという 数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の 生産高3万6956斤というニュースが報道された時、人民日報は四 人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。 これらは完全なでっちあげであった。農民に徹夜作業で何畝か の田畑の稲や麦を1畝に移し変えさせたものだ。しかしこれだけ 密植すると、風が通らず、蒸れてすぐに作物がだめになってしま うので、農民は四六時中、風を送っていなければならなかった。 出来高の水増し報告により、上納すべき量も増やされ、農民た ち自身の食料がさらに減らされた。こうして、農民たちの製鉄運 動への駆り立て、人民公社化による効率低下、さらに上納分の増 加により、食糧備蓄も底をつき、1960年から61年にかけて、中国 全土を猛烈な飢饉が襲った。 ■8.子供たちがどんどん飢えて死んでいる■ ユン・チアンも、小さな饅頭をかじりながら学校へと歩いてい く途中、パンツ一枚で痩せこけた少年から、饅頭を奪われた体験 をしている。ユンの父母は共産党幹部で、食事には困らなかった が、父から「おまえは、幸せなんだよ。お前と同じ位の子供たち が、どんどん飢えて死んでいるんだ。」と聞かされた。 ユンの家のお手伝い・華嬢嬢(ホア・ニャン・ニャン)の家は 革命前に地主だったせいで、食糧配給リストの最下位に置かれて いた。ある日、華嬢嬢の老母が訪ねてきて、ユンの母の顔を見る なり、ぺたんとすわり、額を床に打ちつけて言った。「あなた様 は娘の命の恩人でございます。」老母は華嬢嬢の父親と弟が亡く なったことを伝えに来たのだった。華嬢嬢が生きていられるのは、 まったくユンの家にいられるお蔭だというのである。 さらに一ヵ月後、その母親自身が亡くなったという知らせが来 た。華嬢嬢がテラスの柱に寄りかかるようにして、ハンカチを口 に押し当てて、声を殺して泣いていた、その嗚咽を忘れることは できないと、ユンは述べている。[1,p86] ■9.彭徳懐元帥の涙■ 高級幹部の中には、保身のためにこうした事態を見て見ぬふり をする人ばかりではなかった。国防部部長だった彭徳懐元帥は、 貧しい農民の出身で、その苦しみは人ごとではなかった。元帥が、 58年末、まだ飢饉の初期の段階に郷里の湖南省湘譚県を訪れると、 一人の老人が「天帝(毛沢東)に農民のひでえ暮らしを訴えて、 何とかしてもらってくだせえ」と、ひざまづこうとした。 彭徳懐ははらはらと涙を流しながら、言った。「あなたは私の 郷里の長老なのに、こんなみじめな暮らしをしている。ひざまづ いて詫びねばならないのは私の方だ。」[3,p157] 彭徳懐は毛沢東に婉曲に事態を訴える手紙を出した。毛沢東は 彭の手紙を印刷して、党首脳部に回覧し、その反応を見た。これ も、「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)の戦術である。 彭徳懐は最近、フルシチョフと会談をしていたことから、今回 の毛沢東批判は、ソ連と内通しているからではないか、と林彪が 毛沢東の指示を受けて糾弾した。彭徳懐に同調した者たちも、 「反党集団」「右翼日和見主義者」などとレッテルを貼られて、 次々と失脚し、自宅に軟禁されたり、自殺した。 ■10.餓死者2〜3千万人■ 幹部の粛清の後、59年には毛沢東はさらに大々的な反右傾運動 を展開した。農民や人民公社の幹部・役人で、少しでも政策に不 平不満をもらすものは、どしどし摘発された。その総数は中国全 土で1000万人にのぼったとケ小平は述べている。[1,p209] 彭徳懐の批判に耳を貸さず、引き続き鉄鋼増産や人民公社化を 強行した結果、60年、61年にはさらにひどい飢饉が全土を襲った。 中国全土での餓死者は、2〜3千万人と言われている。55年か ら58年までの平均人口増加率2.29%を適用すると、61年末の人口 は7億632万人になるはずなのに、実際にはそれより4,638万 人少なかった。このうち、飢饉による出生率低下が2,128万人あ り、これを引くと、2,510万人が餓死で失われたと推定される。 毛沢東の「大躍進」政策によって、中国人民は近代史上、最大規 模の大量餓死に駆られたのであった。[3,p251] このような事態の深刻さは、地方からの水増しされた食糧増産 報告のため、首脳部には届かなかった。60年にも、270万トン の食料が無理やり徴発され、輸出に回されていた。これは3千万 人が半年間食いつなぐのに十分な量だった。[3,p263] 61年初めには、毛沢東も「大躍進」政策を続けることができな くなり、劉少奇やトウ小平などの実務派に政治運営を譲った。鉄 鋼増産運動は中止され、農民の収入も働きに応じて分配されるよ うになった。トウ小平が「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良 い猫だ」という発言をしたのは、この頃だ。「ネズミをとる」と は、「国民を食わせる」という事なのである。 実務派の市場主義的舵取りにより、2年ほどで中国経済はふた たび好調に動き始めた。しかし、一時後退した毛沢東は、権力奪 還を狙って、逆襲に出る。中国人民の前には「文化大革命」とい う次の悲劇が待ち受けていた。 ■参考■ 1.「ワイルド・スワン(中)」、ユン・チアン、講談社文庫、H10.3 2.「中国の歴史」、J.K.フェアバンク、ミネルヴァ書房、H8.7 3.「人禍」、丁抒、学陽書房、H3.10 4.「『悪魔祓い』の戦後史」、稲垣武、文春文庫、H9.8 ■リンク■ ★JOG(001) 日本のマスコミが報道しない中国社会の荒廃ぶり ★JOG(027) 社会主義市場経済に呻吟する民
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