尖閣諸島問題

中国の主張は、航路の標識にしたとか地図に基づくものであるが、航路の標識は領有の意思を示しておらず、地図は実効支配の証拠とならないのはこれまでの多数のICJの判例において指摘されている。唯一、実効支配が成立する可能性があるものとして西太后から盛宣懐にあてた以下の詔論がある。

cin_seitaigo皇太后慈諭:太常寺正卿盛宣懐薬丸を進むる所、甚だ効験有り。奏に拠れば、原料薬材は台湾海外の釣魚台小島より採り、霊薬は海上に産し、功効は中土と殊にす、という。該卿家世薬局を設け、診を施し薬を給し、’貧病を救済するを知悉し、殊に嘉許に堪うるなり。即ち該釣魚台、黄尾喚、赤嶼三小島を、盛宣懐に賞給して産業にせしめ、採薬の用に供し、其皇太后及び皇上の仁徳に普被の至意を深体せよ。此れを欽めり。

光緒十九年十月

しかし、この詔論については台湾東華大学の呉天泰教授が「疑義」を呈している。呉天泰教授は詔論を疑問視する根拠として以下をあげている。

1.清代の詔論は普通の白折紙を使用しているが、この詔論は褐紅色の布を用いている。
2.通常の詔論は以下の文書形式となっているが、この詔論では使用されていない。
「朕、聖母(或いは「慈禧端佑康頤昭豫庄誠寿恭欽献崇熙)皇太后の●(い)旨に欽奉す」
「慈禧端佑康願昭豫庄誠皇太后●(い)に欽奉す」
※     慈禧端佑康頤昭豫庄誠・・・・と長たらしいのは西太后の称号
3.慈禧皇太后の印が、詔論で用いられた玉璽と異なる。通常は満文と漢文が併記されている。
4.「御賞」の刻印は、書画等の芸術品の「鑑賞」に使用され、「賞賜」には使用されていない。
5.光緒十九年に盛宣懐は太常寺正卿ではない。盛宣懐が太常寺少卿になったのは光緒二十二年。また、太常寺「正」卿という職官はない。

なお、尖閣についてはSF条約による保護占領解除後の日本の主権発現(日本の残存主権の下、米国が施策権行使)に対する中華民国、中華人民共和国の黙認が成立しており、詔論の正贋に関わらず日本が権原を有している。