全ての始まりは“HOT ROD”その2


前回の続きで〜す^^

長々たらたらした文章で

読みづらくてスイマセン^^;


時間ある人は読んでみて下さいね!



↑時代背景はかなり新しそうな動画ですが。

もっと古い30年代にはHOT RODと言う名をまだ持たない
“スピードに特化した自家製のカスタムカー”が
ストリートで非合法のドラッグレースを繰り広げていました。
要は“ストリート・ストリップ”


ホットロッドというものは"ストリート・ストリップ"により発生したカウンターカルチャー、自動車文化としてはオルタナティブ、既成の枠にはまらない異質なものでありました。ちなみに当時のメディアはホットロッドなるものを、"オルタナティブ・カー"と形容した。

ホットロッドという言葉の示すものは、ホットロッドなシーン、カルチャーそのものです。ホットロッダー、 ホットロッドカーなる呼称の場合"ホット・カスタム"や"セミ・ホット・カスタム"を示しています。(ホットロッドカーという言葉は和製?)

ここで言う"ホット・カスタム"の"カスタム"とは、この以前の時代のカスタムとは意味合いが異質なもの。また、ホットロッダーとはマニア達から行為的なことまで含む大枠な呼称((車体も含まれる )。カスタマイザーと同等に用いられることも多々ある。

ホットロッドという呼び方が生まれる以前、その原点はスピードの追求が発祥となる。たとえばビル・ケンツは32年式のフォード・ピックアップをベースにレースカーを仕上げた、でもそれは、ワイルドなスタイルを目指したのではなく目指したものは"速度"。
( 無論ダーティなものを求めたわけでもないのです。また、50年代の中期には"ホットロッド・ギャング"が社会的な問題となりますが、あくまでも結果的なものです )

伝説的なホットロッダー、ビル・ケンツの32年式フォード・ピックアップは、フェルディナント・ポルシェ設計のアウトウニオン[Auto Union]( 現在のアウディの前身 )からヒントを得ていた。以下、「Car Culture」の原文を引用します。

「With the rear engine installed it seemd logical to add a second in front...」
ピックアップの後ろと前にエンジンを積載とありますが、モンスターマシーン的なもの?

(それを近所の廃道で日曜の朝から、テスト走行させていた。ケンツといえばボンネビル[Bonneville Salt Flats]でスピード・レコードを持つ、車体横に777が入った"Streamliner"が有名です、この個体とは別だと思われます)

で、レース経験があるとはいえ独学的にバックヤードで製作された、大衆車の改造車で富裕層が乗り回す高級車をぶち抜き、さらにです、ボンネビルにおいて200マイルを記録したことが重要となってくる故。

つまりホームメイドなホットロッドがメーカーのエンジニア達が作り上げた高性能な新車よりも速く走れて、しかもです、ソルトフラッツにおいて時速300kmの壁を破ること自体が異常であります。

"対抗文化"というかまさにフロンティア精神で、そのようなシーンが各地に分散する、ホップアップなホットロッダー達のムーブメントに繋がる( ホップアップ[Hop Up]は"Hopping up"です。エンジンの改造を示します )。
いわば素人が記録に挑戦する、スピードに対する無謀ともいえるチャレンジが感動や共感を生んだのだ。

この原点を誤るとホットロッドやストリート・ストリップのダーティにワイルドな面のみが強調されてしまう。


ストリートからドライレイクへ

カリフォルニアの地形にはドライレイク(塩乾湖)があった。これはアメリカの国土の西側に固有のもので車を全速全開で走らせるには理想的な場所だった。自然発生的に始まったドライレイクでのイベントはやがて月に一度、時にはそれ以上の頻度のものになり初期のホットロダーたちに長距離走行をする機会を与えた。ただ、こんにちのドライレイクにおける整然とした、安全志向でクラス分けされた、一度に一台しか走らない競技に比べて、初期のドライレイクにおける競技はこの上なく騒々しいものだった。もしそのドライレイクが20台並んで走るだけの幅があれば20台が、ヨーイドン、でスタートした。悲惨なのはトップを走る事の出来ない、トップについていくに足る馬力のない車に乗ったドライバーである。ドライレイクというのは埃っぽい事で悪名高い。そしてドライレイク上で他の車の後をついていくことは視界がゼロであることを意味している。当時の新聞にはドライレイクの不毛の土地で起こった悲惨な事故のセンセーショナルな記事がいっぱい載っている。そして「アウトロー」という汚名がホットロダー達に冠せられる事となった。当時のホットロダー達に向けられた怒りや嘲り、嫌がらせやホットロダー害悪論議がどれほどひどいものであったかについては現代のチョッパーモーターサイクルのライダー達でさえそれを理解する事は出来ないだろう。

そんな世論を転換させる事となった希望の光はまず1937年、アート・チルトン(Art Tilton)によるS.C.T.A.(Southern California Timing Association)の結成に見られる。レースの運営と安全に関するルールの制定はドライレイクのレースの悪い面を一掃するのに大いに役にたった。とは言うものの、当時は殆どのジャーナリストがドライレイクに取材に来ようとはしなかったので(これに関しては今日も同様かも知れない)整然と行われたこれらのレースも新聞などで紹介される事はなかった。ストリート・レースというものは当時、そして今もなお、ホットロダーの存続を大きく脅かすものだった。SCTA傘下のメンバーの各クラブはボランティアパトロール隊を結成してストリートレースをやめさせようと努力した。ホットロダーは必ずしもストリートでレースする上ではSCTAのメンバーである必要はなかったのだが、そうした(非メンバーの)ホットロダーたちがその地域の一般市民にホットロッドに対する悪感情を植え付けたのである。

第二次世界大戦参戦の脅威が現実的なものとなってきた頃、陸軍航空隊がカリフォルニアのドライレイクにやってきた。航空隊はその中でも最も有名なムロック湖を接収した。現エドワーズ空軍基地である。そして陸軍航空隊がムロックにやってきてから1〜2年のうちに以前ドライレイクでレースをしていた者たちがムロックに戻ってきたのだった。ただし今度はホットロッドの整備ではなく飛行機の整備をするためだった。第二次世界大戦によってホットロッドは殆ど中止に追い込まれたが、ホットロダー達自身は軍から多くの事を学び、そして軍にも大いに寄与した。


そして戦後にお話は続きます^^


※原文は"50 Years of HOT ROD"の日本語訳。プラスちゅうの主観と現代美術・現代アートのサイト(カウンターカルチャーとホットロッダー)他より

また、これらは形成された歴史の一部である事をご理解下さい。さらに異なる見方や見解をしている本やサイトも御座います。一つの読み物として楽しんで頂ければ幸いです。HOT RODを手に入れた事も無い様な若輩の自己満足日記ですので^^;



ちゅう^^

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