テント村通信新連載を掲載します。
2005年4月1日 発行 326号

○ 今、天皇制と どうたたかうか
連載第1回
  天皇制の今日

 愛知万博が始まり、開会式に天皇・皇后、名誉総裁の皇太子が出席した。末っ子の紀宮がやっと結婚するというので、どんな新家庭を作るのかと女性週刊誌はかまびすしい。皇太子の妻雅子の病状とその原因、娘の愛子がこんなに大きくなって……と、久しぶりの皇室ブームである。まずは話題になるのが皇族の仕事なのであるから、彼らは大いに働いていると言うこともできる。
 改憲をめぐる論議の中では、公務の見直しということも言われている。神道祭司としての活動も公務と位置付け、いわば国家神道を復活させようというものだ。
 なぜ今、と考えるなら、当然イラク派兵と参戦の常態化、改憲と女帝論議など、国家が天皇制を必要とし、天皇制の側からも存続をかけたキャンペーンを必要とする時代なのだろう。

 日の丸・君が代による支配

 三月、東京都立学校の卒業式は、去年よりさらに抑圧的な儀式となった。
 日の丸と君が代については一昨年一〇月二三日、「式典会場の舞台壇上正面に国旗は向かって左、都旗は右に併せて掲揚。……式次第には『国歌斉唱』と記載。司会者が『国歌斉唱』と発声して起立を促す。……舞台壇上や正面に演台を置いて卒業証書授与。児童・生徒は正面を向いて着席……」という異常に事細かな都教委通達が出た。教職員は指定された場所で国旗に向かって起立して斉唱しなければならない。座席表と照らし合わせて誰が立たなかったかをチェックする指導主事がうろうろし、来賓の保守系都議が監視する。その結果、昨年春の卒業式と入学式に関連した被処分者は二〇〇人以上にのぼった。今年の卒業式関連では、すでに五五人の処分が言い渡されている。
 生徒たちの抵抗も伝えられる。代表が「これ以上先生たちをいじめないでください」と壇上から来賓たちに向かってあいさつして会場から拍手がわきおこったとか、教員の処分を恐れて君が代ではほとんど起立した生徒たちが、校長や都教委の祝辞ではほぼ全員起立しなかったとか。
 たたかいは続いている。にもかかわらず、都の直轄ではない小中学校も含めて、多くの教育現場で、「日の丸と君が代には手を出せない」という空気が支配的だ。あの米長邦雄東京都教育委員に天皇明仁自らが「強制でないことが望ましい」と言ったからといって、そのことは変わらない。天皇・皇室・日の丸・君が代というシンボルを使って国家が支配するシステムは、明仁個人がどんな言葉をはこうとあまり気にしないものかもしれない。

  明仁の時代の天皇制

「平成」ももう一七年。ダーティーなイメージをぬぐいがたかった裕仁にくらべ、明仁には戦後民主主義のイメージがある。ついに裕仁が行けなかった沖縄にも行ったし、先祖は朝鮮半島出身、なんてさらりと言ってのける。旧日本軍が軍事的に占領し、玉砕していった南の島々に、慰霊の旅をするのだとも言っているらしい。ある意味で裕仁には望めない可能性をもっている明仁は、現代の社会に受け入れられる天皇家のありかたについて、かなり明確なイメージと戦略を持っているようにも見受けられる。
 国民保護法にもとづいて自治体ごとの国民保護条例を作る作業が始まっている。地域をまきこんで戦争に向かう動員の形が次第に見えてきた。日本軍自衛隊は初めて部隊を戦場に派遣したが、この春防衛大学校卒業者の入隊数は過去最低だった。任官拒否の数字は大して増えていないのに中退者が極端に多い。いつ死ぬかわからない戦場に、筋が通らなくてもこれが国益だと命じられれば、行ってがんばる。そんな兵士の心の支えになる天皇制。これも今後期待される役割の一つだろう。

 天皇の歴史の改ざん

 四月二九日を「昭和の日」とし、五月四日を「みどりの日」に変えることで、自民・公明・民主三党の話がついたらしい。今国会に提出される法案には、趣旨を「激動の日々を経て復興を遂げた、昭和の時代を顧みる」とあるそうだが、いったいなにをどう顧みるというのだろうか。
「女性国際戦犯法廷」を扱ったNHKのドキュメンタリー番組からは、旧軍兵士の証言とともに、天皇の戦争責任を指摘した判決の部分が削除された。プロデューサーが内部告発して表面化したが、NHKの問題であり自民党の問題とはされても、天皇タブーの問題とはあまり認識されない。これもまた、天皇の歴史を改ざんする動きの一つだ。
 そしてその路線の先鞭を切るのが、今秋立川に開館する「昭和天皇記念館」である。すでに建物は完成し、これから中味を作っていくわけだが、もれ聞こえてくる情報では、「自然と平和を愛する文化的な天皇裕仁」を打ち出した展示になるらしい。皇太子時代から突然「終戦の詔勅」に跳ぶという話もある。

記念館開館を阻止しよう

 今、天皇制とこの社会の状況をどう見るか、どうたたかうか。これを考えるために、テント村通信で新しい連載を開始する。「女帝論」「改憲と元首化」「天皇の生活と公務」「天皇公園開園阻止闘争の地平」「昭和天皇記念館の役割」「開館阻止闘争への呼びかけ」という六回のテーマを予定している。
 昭和記念公園は、多摩地域の学校の遠足の場所としてすっかり定着した観がある。公園入り口と立川駅の間にオープンする記念館が、遠足の行き帰りに立ち寄る場所だったり、「総合学習」や「調べ学習」の素材に便利な場所として定着するとしたら、こんなに醜悪なことはない。あらためて天皇制をめぐる論議を深めること、そして問題を広く情宣していくことを呼びかける。読者のみなさんからのご意見、ご感想なども寄せてくださるとありがたい。ご期待ください。

2005年5月1日 発行 327号

今、天皇制とどうたたかうか
連載第2回

女帝なんてまっぴらごめん

 王室を廃棄した

 青天井の韓国

 韓国を旅したとき、かつての王陵を見学した。
 人々の労働と血を吸って作られたであろう展示品の数々。しかしその展示空間には、なにかあっけらかんとした空気が満ちていた。何だろうと考えあぐねハッと気づいた。すべてが過去の文化遺産として扱われているのである。
 日本の天皇陵はちがう。現存する天皇制を賛美する装置として、民衆にタブーを強制し続けている─こう思い至ったとき、回りを歩いている韓国の人々に対する痛いほどの羨望の気分に襲われた。
 韓国の民衆の運動は、労働運動にしても反基地運動にしても実にラディカルである。大統領にまでのぼりつめた光州事件の元凶を死刑判決にまで追い詰め、対テロ戦争の時代に駐留米軍の大幅撤退を実現する。その背景には南北分断という厳しい現実があるが、更に一つの要素として、王制を廃棄した人々の頭上に開かれた青天井がある、と思えてならない。

 男子世継ぎがいない!

 女帝論の背景と困難

 現天皇の孫三人すべてが女性であることから、「有識者会議」が設けられて女帝容認─皇室典範改正の動きが始まっている。梅原猛は、有識者会議のメンバーに日本の歴史や神道に詳しい学者が少ないことを指摘し、次のような危惧を表明している。
「日本の歴史において女帝はしばしば登場したが、その女帝は未亡人かそれとも結婚しない独身の女性であり、公然と夫をもつことを禁止されていた。……孝謙天皇は、仏教の平等思想の強い信奉者であり、……古代身分制社会の崩壊の原因をつくった。……称徳天皇(孝謙と同一人物)は、恋人の道鏡に彼女のもっている天皇の位を与えようとした。……もしも女帝に自由な恋愛や結婚が許されるとしたならば、道鏡事件の再発をどう防ぐのか。……慎重に考えずに安易に女帝を容認するならば、将来に大きな禍根を残すこともあるかもしれないと憂える」(東京新聞 05・3・28)。
 想像されている女帝の、なんと息苦しく、ご都合主義の産物であることか!
 なにはともあれ女性天皇は両性の平等原則の一歩前進であり、時代の趨勢に適したものだというとらえ方から、積極的に賛成を表明する女性解放論者もいる。だが「女でもいいから天皇制存続を」という動機からはじまった有識者会議である。容認される女性天皇は臨時的制約的なものになり、むしろ男系世襲の可能性を広げる「皇室の拡大」がもくろまれる可能性がある。

 戦争と天皇

 皇室の中の女性

 天皇の戦争責任については多くの論者が指摘してきている。しかし皇室の中の女性が担った役割については、あまり語られてこなかった。
 皇太子妃雅子は、キャリアウーマンの出世頭で、皇室外交に新たな役割を果たすことを夢見ていたが、世継ぎを産む連綿たる役割のプレッシャーにうちひしがれた。最初の民間出身の皇后になった美智子は、大衆天皇制時代の恋愛と核家族の見本を示した妃として称揚されているが、その道はけわしいものだった。昭和天皇の妃良子は、従軍看護婦を激励し、侵略の軍隊の先頭を行く連隊旗を自ら縫って授与するのを仕事とした。大正天皇の妻貞明皇后は、夫の病弱をカバーし、戦争をする天皇─昭和天皇の母として、健気な役割を担った。明治天皇の妻はどうだっけ?
 近代天皇制が表向き一夫一婦制を整備していく過程で、皇室の女性たちは時代の要求に答えると同時に、最大の役割─世継ぎを産むこと─を果たしつづけてきたのだ。
 男子の世継ぎを産まないということは、たしかに「雅子の反乱」と呼ぶにふさわしいかもしれない。反乱を貫徹するなら、離婚する、あるいは夫を退位させ、キャリアの実力で再就職をして夫を養うくらいの冒険をしてもらいたいものだ。だがそんなことは望むべくもないだろう。

 女帝なんてまっぴら

 天皇制解体しかない

 もう一つ皇室の女性たちに振られた役割がある。それは「慈悲」である。
 最近、ハンセン病国賠訴訟の原告国本衛さんの話を聞いた。ハンセン病患者に戦前と戦後は一連なり、平和憲法はなかった。らい予防法のもとで、憲法からはるかに遠い存在であった患者たちにとって、皇室につらなる女性たちの慈悲だけが頼りだった。国家賠償請求裁判提訴を呼びかけたとき、「お世話になってきたのに盾をつくなんて」という声が施設内にわきおこり、それを克服することは困難だったという。
 私事になるが、母親がよく世話になるショートステイの施設は、時代にさきがけてグループホームを実践しているのだが、天皇夫妻がこの施設見学に訪れ、老人たちを慰問したその直後のことである。母親と同じグループのメンバーからしきりに話しかけられた。彼女は「美智子さまが私を心配してお使いを寄越してくださった」というのである。彼女の息子はアッツ島玉砕の生き残りで、戦後復員したとき、顔が戦傷で全く変容していたという。
「天皇の戦争の被害者ではないか」と彼女の天皇制への帰依ぶりが不思議だったが、あとで考え直した。天皇のために傷を負った息子の捧げたものに見合う「慰撫」を彼女は求めているのだ、と。
 母は、日中戦争当時、あまりに長い兵役に業を煮やして、中国まで連隊長に「夫を早く返せ」と直談判に出かけた珍しい人である。戦後、基地の町で女性参政権を獲得した喜びに市議会に立候補した経歴を持つ。その母親が、勲五等の叙勲を喜んで受けた。この国では「叙勲」によって人生の意義を確認する人々が多数存在する。母親も例外ではなかった。
 女性解放の立場に立つなら、女帝なんてもってのほか、天皇制の呪縛から自らを解放する天皇制解体の道しかない。

2005年6月1日 発行 328号

今、天皇制と どうたたかうか
連載第3回
天皇公園開園阻止闘争
とは何だったのか

 いま日中の関係悪化の中で、焦点化されているのは小泉の靖国参拝問題だ。三月には韓国の盧大統領が、侵略戦争の歴史の清算や謝罪を求める演説を行った。四月には中国各地で反日デモが拡大した。先日は小泉の靖国をめぐる発言に反発し、中国の呉副首相が会談をキャンセルして帰国している。

靖国公式参拝と
「不沈空母」の八〇年代

 小泉は「中国の批判は内政干渉、適切な時期に参拝する」旨、国会答弁した。また「A級戦犯というが、占領下の違法な東京裁判によるもの」と内閣政務官が発言した。侵略を受けた国にとって、その歴史の否定は日本の国内問題とはいえない。また後者の発言は明らかに歴史の捏造だ。
 これと同じことがちょうど二〇年前に起こっている。中曽根首相は八五年八月、靖国神社を公式参拝した。
 当時と現在が似ていることは、日本政府がアメリカに急速にすりより、軍事的エスカレーションを進めていることだ。七九年のソ連のアフガニスタン侵略に端を発し、アメリカは軍事的な対抗関係を再編・強化していく。レーガンは日本にシーレーン防衛を要求したが、それはかって日本が侵略したアジアの国々の沿岸に、軍事的プレゼンスを再建することを意味した。それに中曽根は、沖縄の前線基地化、日本の「不沈空母」化の方針を打ち出すことで応えたのである。
 そんな時、首相の靖国公式参拝は何を意味しただろうか。それは、A級戦犯どころか侵略戦争の犯罪性そのものを清算し、これからの戦争で人々に国家のために死ぬことを要求するため、必ず踏まねばならないステップと位置づけられたのであろう。また八〇年代、皇太子が沖縄訪問を繰り返し、天皇の訪沖も計画されていた。それは沖縄戦の歴史を清算し、沖縄を前線基地化するため必須であった。
 テント村と三多摩の仲間たちが天皇公園の開園阻止に決起し、さらにヒロヒトの死にはじまりアキヒトの大嘗祭に至る闘いを展開したのは、そのような八〇年代であった。

大衆闘争としての
  反天皇闘争の形成

 八三年の天皇公園開園阻止闘争の意義は、一言でいえば大衆闘争としての反天皇闘争の成立、と表現できるだろう。七六年の天皇在位五〇年式典の記念事業として、返還された米軍基地跡地に一八〇ヘクタールの記念公園が建設され、開園式典に天皇が出席することになった。警察は立川市中の公園をすべて借り占め、合法的な抗議さえ許さない体制をしき、式典当日には八〇〇〇人の機動隊による「戒厳令」を敷いた。記念切手が発行され、町内会や学童の動員体制が計画された。萎縮と閉塞感が広がるなか、我々はあえて大衆的な運動方針をとった。立川市職労の時限ストや学童動員反対の署名活動と結びつき、三多摩の諸運動の地域共闘をベースにしたデモを実現させていったのである。
 この地域共闘は、一〇年来の立川反基地闘争を機軸に、「労働運動と反基地闘争の結合」といったスローガンのもと、テント村が希求してきたものだ。それは「階級的地域共闘」と言うにはおこがましいものだったかもしれない。しかし諸運動体が連携し、互いに課題と利害を理解しあい、実際に現場の行動を共にするなかでそれは形成されてきた。特に我々からの反基地・反安保の課題の提起、同時期に継続されていた沖縄連帯運動の広がりは、天皇制の問題を実際の政治過程において課題化することにつながっていた。これらをベースとして二ヶ月の集中的・大衆的な闘いが展開されたのである。そのインパクトは反天皇制運動連絡会の結成の一要素となり、また即位礼・大嘗祭までの三多摩における運動の拡大に連結していった。(詳しくは諸パンフや『インパクション』二七号を参照)

 天皇・軍隊と闘う
 新たな団結を

 いま自衛隊のイラク派兵が続き、引き続くアメリカの戦争に日本政府は参戦していこうとしている。総動員体制も着々強化されつつある。その一方、日の丸・君が代強制への闘いに対し、数百の教師が処分される事態になっている。国体・植樹祭・海つくり大会が全国的な反天皇制運動の共闘の機軸となっていたが、いま必ずしも連続的に闘いきれているわけではない。
 そのような状況下、「昭和天皇記念館」建設阻止団を中心とした立川での闘いは、一つの焦点とならざるを得ない。一方で靖国公式参拝により最大の戦犯であるヒロヒトが免責され、他方で「緑と平和」のイメージで昭和が塗り込められる。こうして侵略とアキヒトの戦争犯罪の歴史がすっぽりと清算され、天皇制国家への忠誠と新たな戦争への動員が強制されるのである。これへの闘いにあたっては、もういちど天皇と軍隊への闘いを結び付けなおし、今日的な団結形態を地域に作り直すことが求められるだろう。地域の仲間に広く呼びかけ、「記念館」の開館を阻止して、新たな反安保・反天皇の戦線を築いていきたい。

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