「慰安婦」は商行為か?

---「慰安婦」問題の真実---

上杉 聰

(日本の戦争責任資料センター事務局長)

Nov 14,1996発信

「慰安婦」問題と教育

自民党員116人の国会議員によって本年6月4日、「明るい日本・国会議員連盟」が結成された。そこで奥野誠亮・衆議院議員が「慰安婦は商行為」と語り、広範な人々からひんしゅくを買ったことは記憶に新しい。だが、その後も右議員は同じ発言を繰り返している。のみならず、これを支持する運動や雑誌の記事が目立つようになってきた。「慰安婦」問題が1991年に起こってから一貫して批判的立場の記事を掲載してきた産経新聞をはじめ、雑誌『諸君』や『正論』『文芸春秋』などに、藤岡信勝・東大教授が主宰する「自由主義史観研究会」に属するメンバーが、精力的に発言を繰り返している。さらに、この動きはコミック「ゴーマニズム宣言」でHIVや部落問題など様々な社会問題を取り上げて大きな役割を果たしてきた小林よしのり氏にまで波及している。
私としては、この動きを決定的な反動化とは考えていない。むしろ、「慰安婦」問題が中学校の全教科書に記載されるという、同問題に対する認識の広まりと深まりに対する抵抗であり、彼らこそが追い詰められていると考えている。したがって私たちが危機感や、焦燥感などさらさらもつ必要はないと思うのだが、とはいえ反撃しないかぎり、こんどは私たちが後退するしかない。そこで、代表的な人物や論点のいくつかに絞って批判をしてみたい。


藤岡氏は語る ・・

「『従軍慰安婦』をとりあげることは、そもそも教育的に意味のないことである。人間の暗部を早熟的に暴いて見せても、とくに得るところはない」 (「論争・近現代史教育の改革 歴史教科書批判運動の提唱」『現代教育科学』96年9月号)と。たしかに、多くの先生方は戸惑っておられるかもしれない。いったいどのようにして「慰安婦」問題を子供たちに教えればよいのか。とくに中学生などに、どのように話しかければよいのかという疑問は大きいのではないだろうか。その戸惑いに乗じて「自虐的歴史観を教えるべきではない」と藤岡氏は主張するのだが、よく考えてみるべきであろう。 性に強制があってはならないこと、セクシャル・ハラスメントを行わない、また行わせない男女双方の意識を作り出していく、そうした観点に基づく広い意味の性教育は、なるべく早くから始められるべきではないだろうか。「慰安婦」問題は、現在起こっている性暴力や性的いやがらせの事例に加え、反面教師としなければならない歴史的素材を提供することになる。女性の人権教育の一環としても、この問題は教えられていく必要がある と思われる。
また戦後補償の本質から考えてみるとき、教育には、重要な課題がある。つまり、 かつて日本が多数の「慰安婦」を作り出し深刻な被害をアジアに与えたことを、日本人がいかに記憶し、心にとどめるか、そして将来に向けて再び同じ事を起こさないため、つまり再発防止のためにどうすべきかという課題は、戦後補償にとって本質をなす一部分であり (日本の戦争責任資料センター訳『ファン・ボーベン国連最終報告書』)、 その場合、教育は中心的な環をなす からだ。被害者は、再び地獄を見ない権利がある。そうできるか否かの鍵の一つは教育にあるといってよい。

「慰安婦」への強制とは?

また藤岡信勝氏は次のように「慰安婦」問題の歴史を要約する。

「従軍慰安婦」問題の焦点は、軍の慰安施設それ自体の問題ではなく、強制連行があったかどうかである。とい うのは、戦前の日本では売春は公的に認められていたか らである。(中略)そこで、いわゆる「従軍慰安婦」問題で非難される点があるとすれば、慰安婦を戦地で働く 意志がないのに人さらいのようにして強制的に連行してきたというようなケースである。ところが、日本軍による強制連行の事実を示す証拠はただの一件も存在しないのである。ただし、「私が朝鮮人の女性を強制連行しました」という日本人が現れて著書まで出したが、歴史家が現地に行って調べてみると、まっかなウソであることがバレてしまった。

「強制連行した日本人」が吉田清治氏、「現地に行った歴史家」というのが秦郁彦氏であることは、この問題に触れている人はすぐわかる。吉田清治氏の著書(『私の戦争犯罪』三一書房)が、「慰安婦」への連行の暴力的な形態を世に知らしめ、この問題を大きな衝撃でもって広めたことは否めない。だが、「慰安婦」への強制の問題を、連行時の暴力の問題として狭く限定することの危険性は、韓国でも日本でも、早くから研究者や市民運動の中から起こっていた。そこに別の立場から批判を集中したのが秦郁彦氏であった。氏は、吉田氏が強制連行した済州島まで赴き、証言の真偽を確かめようとした。その結果を「昭和史の謎を追う−−第37回・従軍慰安婦たちの春秋」と題して『正論』(1992年6月号)に発表し、同島から「慰安婦」の徴集を示す証言が得られなかったとした。だが、秦氏自身が六〜九万人の韓国・朝鮮人「慰安婦」の存在を認めている人である。どうして日本に極めて近い済州島だけ一人の「慰安婦」も徴収されなかったのだろうか。そんな例外の地域があると考えるほうがおかしい。現に、尹貞玉・元梨花女子大学教授が1993年に同島で調査を行ったとき、島民の強い抵抗の中で一人の被害者と推定される証言者が名乗り出た。だが、周囲からの本人への説得と制止によって、それ以上証言をとり続けることを拒否された事実がある(日本の戦争責任資料センターと韓国挺身隊問題対策協議会による第二回「従軍慰安婦」問題日韓合同研究会)。性暴力の被害者すべてに言えることだが、被害を訴え出ること自体に大きな困難が伴う。ましてや儒教が強く残っている韓国社会では、さらに大きな障害となる。したがって、現在元「慰安婦」と名乗り出ている女性のほとんどが身寄りのない単身女性である。それに加えて、済州島という小さな島で名前を明らかにすることは、近隣・親戚に直ちに波及する大事件となる。そして同島は、韓国の中でも差別的に見られていることに留意すべきである。もし誰かが名乗り出れば、韓国語に翻訳されている吉田氏の著書への関心と合わせて、興味本位の視線が済州島の島民全体に浴びせられる危険性を危惧しない者はいないだろう。それを畏れ、島内には箝口令が敷かれてきた可能性を否定できない。要は証言も含め、資料批判が必要だということである。秦氏の論拠だけで吉田氏の証言を嘘と断定することはできないのである。ただし、吉田氏はこれらの批判に反論をしてきていない。私は吉見義明・中央大学教授と共に反論を勧めたが、態度は変わらなかった。その場で、我々が様々な質問をしたところ、証言に決定的な矛盾は見当たらなかった。ただ、時と場所が異なる事件を、出版社の要請に応じて一つにまとめたことを話してくれた。したがって、 吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない というのが私の結論であるし、吉見教授も同意見と思われる。

国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者に対して吉見氏が、その報告書の価値を守るため、吉田証言を採用しないよう手紙を送ったのはそのためであった(日本の戦争責任資料センター訳『R.クマラスワミ国連報告書』解説)。吉見氏はその手紙の中で「吉田氏の本に依拠しなくても、強制の事実は証明できる」と述べているように、多くの研究者の関心は、吉田批判がなされた当時すでに同氏の証言の真偽へ向いてはいなかった。むしろ「強制」の内容の方に関心が集中していたのである。次々と被害者が名乗り出ていたことで、統計的な処理も可能となり始めており、暴力的な連行そのものは限られたものであることが判明していたからである。たとえば、1992年末に市民や研究者の呼び掛けで「日本の戦後補償に関する国際公聴会」が東京で開かれたとき、韓国からの研究報告は、二六%が「奴隷狩り」であり、六八%が「だまされて」であったことを明らかにした(戦争犠牲者を心に刻む会編『アジアの声』第7集、東方出版)。台湾でもその数値に近く、さらに限られた数だが「自発的に」というものもあった。もし強制を狭く「連行」時に限定するならば、多くは何の問題もなかったことになる。だが、たとえ自ら志願したものであっても、だまされていても、現地に到着し、自分がいったい何をされるかが明確になった時点で、それを拒否し、自由に帰国できなければ「強制」である。そのことは、日本も加盟していた「婦女売買に関する国際条約」(1905年、1910年、1921年に締結)の1910年締結条約第二条が、

何人たるを問わず、他人の情欲を満足せしむる為、醜行を目的として詐欺に依り、又は暴行、脅迫、権力濫用、其の他一切の強制手段を以て、青年の婦女を誘拐し、誘 引し、又は拐去したる者は・・罰せらるべし。
(原文はカタカナ混じり文。句読点は引用者。以下の引用文も同じ)

と定めていたことからも明らかである。ここでは、「詐欺」という方法を使って「醜行」(売春)させることを「一切の強制手段」とともに犯罪と認めているのである。だまされて出かけた多くの被害女性は、慰安所に到着した直後、抵抗と、将兵による暴力と強姦で始まったことを告げている(韓国艇身隊問題対策協議会・艇身隊研究会編『証言−−強制連行された朝鮮人慰安婦たち』)。詐欺が現実には強制の一変種であったことをよく物語っている。 さらに、その後も身体を拘束されて自由を奪われるなら、それも強制である。現に多くの資料が「慰安婦外出を厳重取り締まり」(「比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所慰安所規定」、吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店)などの規則で外出を規制し、彼女たちを監視し、閉じ込めていたことを記録している。ただ、場所によっては外出も比較的自由であり、一見して拘束のないケースもあった。しかし、そうした場合にあっても、すでに海外に移送されていること自体が拘束を意味した。自ら交通手段を持たず、帰国しようにも軍隊によって連れてこられているために出入国書類をもたない彼女たちにとって、慰安所から逃れることは直ちに解放を意味するとは限らなかった。むしろ言葉も通じない異郷で、殺されたり野たれ死にする危険と隣り合わせだった。 あるいは戦場にある駐屯地に連れていかれるような場合であれば、逃亡すれば「敵」と遭遇する危険性をもっていたのだから、軍の交通手段しか現実にない状況下にあって、慰安所に残る以外の選択の余地は彼女たちになかった。こうして海、大陸に遠く隔てられ、異境に連れていかれること自体、あるいは戦場そのものさえ、現実の強制手段となったのである。
以上が強制に当たることは、現代人にとって分かりにくいことかも知れない。だか、むしろ当時にあっては、一般的に認識されていたと言うべきなのである。たとえば、1893(明26)年の外務省訓令第一号は、次のように述べる。

近来不良の徒各地を徘徊し、甘言を以て、海外の事情に 疎き婦女子を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡 航せしめ、渡航の後は、正業に就かしむることを為さず 、却って之を脅迫して醜業を営ましめ、若しくは多少の 金銭を貪りて他人に交付する者あり。之が為に海外に於 て言うに忍びざるの困難に陥る婦女、追い追い増加し、 在外公館に於て救護を勉むと雖も、或は遠隔の地にあり て其の所在を知るに由なく、困難に陥れる婦女も、亦種 々の障碍の為に其の事情を出訴すること能わざるもの多 し。依って、此れ等誘惑渡航の途を杜絶し、且つ婦女を して妄りに渡航を企画せしめざるよう取り計らうべし。

これは、当時「からゆきさん」と呼ばれた女性たちの海外への人身売買を禁じるものであった。「醜業」とは売春のことであり、国外への移送そのものが、女性への強制力となっている事態を的確に述べている。こうした認識から1908(明41)年施行の刑法は、第二二六条で、「(日本)帝国外に移送する目的を以て人を略取又は誘拐したる者」を、通常の略取・誘拐より重い罪と定めていた。国外移送罪などの名前で呼ばれるこの条項の存在は、当時の社会の認識のあり方を浮かび上がらせるとともに、日本軍が「慰安婦」に対して行った行為が、当時の刑法にも違反していたのではないかという疑いを呼び起こさせるのである。
さらに、戦地の日常にありふれた軍刀を帯びた兵士たちの姿も、女性たちにとって男からの腕力以上に、彼女たちを強制・威嚇する脅威となった。フィリピンのマステバ島警備隊の軍人倶楽部規定には、「服装は略装にして帯剣し脚絆をうがつ」(前掲吉見資料集)と定め、慰安所での軍刀の所持を義務付けていた。これに関連して、在日の元「慰安婦」として裁判を起こしている宋神道さんは、中国の武昌での体験としてだが、「二階の小部屋で何人相手をしても、階下から帯剣が擦れ合う音がひっきりなしに聞こえてきた」「体調が悪く、軍人の要求に応じられないような時・・遮二無二体を強ばらせ、身を縮めていた。そのような時、相手がいつ剣を抜きはしないかと、おびえていた。実際、軍人は些細なことですぐ剣を抜いた」と語っている。 また韓国在住の文必基さんは、「慰安婦生活の間には何度か死ぬ目にもあいました。自分の要求をそのまま受け入れないといって、酒を飲んできて刀を抜き暴れ出した軍人もいました。酒に酔って刀をタタミに刺し立てて性行為をする軍人がたくさんいたので、タタミには刀の跡がたくさんありました。それは思い通りにさせろという脅迫でした。そして、思い通りにいかないと、刀を抜いて躍りかかろうとするのです」と証言している。
「慰安婦」とされた女性たちに加えられた強制とは、以上のように幅広いものであって、多岐にわたるものであった。これをもし藤岡氏のように「連行時における暴力」と狭く限定するならば、逆におかしなことになる。もし暴力的に連れ去った場合でも、その先の慰安所から逃げ帰ることがいつでも可能であれば、決定的に大きな問題でないことになるからだ。そこから言えることは、慰安所での生活それ自体が暴力的であり強制に基づくものであったからこそ、強制連行も問題として問われるのだということなのである。連行時の暴力だけを云々することに大きな意味はないのである。
慰安所での生活が、奥野氏が言うように「純粋の商行為」などでないことは、これらの強制の事実が何よりも具体的に物語っている。強制をともなっている以上、そこで行われていることは強姦であり、強制猥褻、監禁、強制、脅迫、略取・誘拐などの罪を併発させる。そしてその際、たとえ金銭が支払われたとしても、元来が自由な契約に基づいて行われたものでないこと、また異境に無一文で連れて来られている者にとって、金銭を受け取ることは、まず生きるため、そして自力での帰還のためにも必要なのだから、それを受け取ることは商行為を意味しない。
そして付け加えておかねばならない重要な点は、たとえ百歩譲って、これらが自由な「商行為」として行われていたと仮定しても、違法な事態が存在したことである。それは未成年者について言えることである。先ほど紹介し、日本も加盟していた「婦女売買に関する国際条約」の1910年締結条約の第一条には、

何人たるを問わず、他人の情欲を満足せしむる為、醜行を目的として未成年の婦女を勧誘し、誘引し、又は拐去 したる者は・・罰せらるべし。

とある。未成年の定義は「二一歳未満」(1921年条約)であった。これまで名乗り出ている被害者の証言によると、朝鮮人慰安婦の場合は82%が、台湾についても50%が未成年で「慰安婦」にさせられている。大半の女性が未成年であった事実は、強制の有無にかかわらず、当時の慰安所制度の大半が無条件に違法であったことを物語っている。
このように、研究や議論の段階は、吉田清治氏の証言の真偽に左右される段階をはるかに通り過ぎているのであり、連行時に暴力が働いたか否かは、すでに重要な問題でなくなってしまっている。にもかかわらず、いまだ吉田氏の証言の真偽を問うのであれば、それ自体、こうした研究上の流れを知らないか、あるいはそのことを知っているにもかかわらず、幅広い知らない人々に対して意図的に世論操作をやっているか、のどちらかであろう。

公娼制の延長か?

また、以前から行われてきた一部の批判には、「慰安婦」制度を公娼制の延長に位置づける見解があった。最近になって、藤岡氏も次のように述べていいる。

戦前の日本では、売春は公然と認められていた・・内地 で売春が営業として行われていたのと同じく、戦地でも 売春業者が男性の集団である軍隊を相手に商売をした。 これは違法なことでも何でもなかった。よい・わるいの 問題ではなく事実の問題である。日本で売春が法的に禁止されたのは、戦後何年も経ってからのことだ。 軍が関与したことが問題だという人がいるが、これはスジ違いである。文部省の建物の中に民間業者が経営する食堂がある。文部省の職員が主に利用するが、文部省が経営しているのではない。文部省はこの業者に建物の一部を提供し、水道・光熱などの利用の便宜を与えている 。そういう形で文部省は食堂に関与しているが、かといってこの食堂を文部省が経営しているのではない。・・戦地慰安所と軍の関係もこれと全く同じである。

さすが教育学者であり、たとえが上手い。納得する人も多いらしく、小林よしのり氏も「新・ゴーマニズム宣言」で同趣旨の見解を描き続けている。だが、ここには大きな嘘と間違いがある。
たしかに、戦前、売春は公然と行われていた。これが公娼制度と呼ばれるものだ。しかし、そこにはいくつかの原則があったことが意外と知られていない。一つは、許可を受けた特定の場所と特定の人にしかこれが許されなかったことだ。つまり、誰でもどこでも自由に売春が公認されたというものでなく、貸座敷と呼ばれる定められた屋内で、警察署が所持する娼妓名簿に登録されている女性だけに許されたのである(娼妓取締規則二、八条)。もしそれに違反すれば、拘留または科料に処せられた(同一三条)。第二には、強制をともなう売春は、当然にも許されない建前だったことである。したがって、強制売春を排除するために、当事者本人が自ら警察署に出頭して娼妓名簿への登録を申請しなければならず、また娼妓をやめたいと本人が思うときは、口頭または書面で申し出ることを「何人と雖も妨害をなすことを得ず」(同六条)とされていた。
これらの規定は、彼女たちの人権を擁護しようとする当時の活発な廃娼運動に押されて制定されたものであり、内務大臣は右の娼妓取締規則を公布する際、その目的の一つが「娼妓を保護して体質に耐えざる苦行を為し、若しくは他人の虐待を受くるに至らざらしむる」(1900年内務省令第四四号)ことにあるとしたことからも明白である。したがって、もし「慰安婦」とされた女性が、どこかの警察に出頭して娼妓名簿に登録し、軍隊内にある「貸座敷」で売春していたというのであれば、藤岡氏などの言うように、それは公娼制度の枠内の出来事であり、当時、少なくとも国内法では違法とは言えなかった。しかし、だまして連れてこられたような女性が娼妓の申請をするはずがないばかりか、軍隊内に貸座敷があろうはずもない。貸座敷とは、「貸座敷、引手茶屋、娼妓取締規則」によって警察の許可を受けた建物であり、あえてさらに付言すれば、他に「芸娼妓口入業者取締規則」というものもあって、娼妓への紹介業者も取り締まられていたのである。だから、もしこれらの法令に基づいていない娼妓がいて、あるいは許可を得ていない貸座敷や斡旋業者があれば、それらは公娼でなく私娼、貸座敷でなく私娼窟であり、口入れ業者でなくヤミ・ブローカーなのであった。だとすれば、当時の日本軍は、自ら私娼窟をその体内に持ち、そこで法的に私娼に位置づけられる人々を監禁し、強姦したことになる。藤岡氏のたとえを借りるならば、文部省の建物に私娼窟や賭博場が開設されたに等しいのである。
このようなとき、軍や文部省に責任はないのであろうか。誰でも直感的にそうでないことに気づくはずだ。まず、慰安所の経営を藤岡氏は一律に「民間業者」としているが、正確には資料が少なくて不明だが、かなりの数が軍による直接経営であった。それ以外を民間業者が経営していたのである。だがその場合でも設置の要請は、あくまで軍が行なったものであり、業者は軍の意向を受けて慰安所を開設し、女性たちを集めた。したがって、その場合、最終責任者は軍であった(前掲吉見資料集「セレベス民生部第二復員班員復員に関する件報告」)。軍が経営を民間に委託する場合があったにすぎない。
こうして、慰安所の設置は、軍自らが行なうか、民間業者に設置を要請するとともに、その開設許可を軍が与えたのである。ならば軍は、警察つまり当時の内務省に対して貸座敷を開設する許可を自ら得るか、そのように業者を指導する義務があった。もし許可を得ることができなければ、あるいは許可を得ていない業者であれば、設置を中止し、業者への経営委託も取り消す必要があった。また、そこで「働く」女性や、彼女たちを斡旋する口入れ業者についても、警察に登録した公娼や正式な斡旋業者を使う必要があった。だが当然にも軍はそうしなかったし、指導した形跡などない。
もう一つの方法として、少なくとも公娼制度に抵触・矛盾しない「軍用娼妓取締規則」とか「軍用貸座敷規則」、「軍用口入業者取締規則」などの法律を新たにを陸海軍省が主導して作り、そのもとで慰安所を開設するという選択が有り得た(その場合、もともと民間人である「慰安婦」を、軍の要員とするか否かがあらためて問われることになる)。しかし、そのようなことが行なわれた形跡はない。
とすると軍は、当時の公娼制度に違反して慰安所を作り、犯罪を行ったことになる。「慰安所が公娼制度の延長」というのは真っ赤な嘘なのである。そして、これら軍政全般を処置する役割をもっていた陸海軍省と内閣は、違法なことが行われていることを知りながら(法律を無視、あるいは新しく作らなかったことだけでなく、強制連行などの違法行為の事実も数多くつかんでいた)、新しい法律を作ることなく放置し、その結果膨大な被害者を出したのであるから、やはり大きな責任を問われることになる。軍は女性たちを強制することで、強姦など様々な犯罪を犯した。これを「作為」の罪というならば、当時軍政全般をあずかっていた陸海軍省とそれを含む内閣全体(とりわけ内務・外務省)とその責任者は、公娼制度に従うか、あるいは公娼制に準拠する軍法などを新しく制定すべき義務がありながら、それを怠ったのである。これを「不作為」の罪という。HIVウィルスをばらまいて発病させたのはミドリ十字であるけれども、それを止める義務と権限を持っていたにもかかわらず放置した厚生省は不作為の罪を犯したのである。どちらも刑事罰が科せられる。
藤岡氏のたとえにふたたび戻るならば、文部省は、営業免許を持たない者に食堂を経営させ、調理師免許の無い者に料理を作るよう命じ、集団食中毒を起こさせたのと同じとも言える。文部省の担当課長はもちろん、さらに上層部まで責任は波及せざるを得ないだろう。多少、公娼制度を美化して書いた。娼妓取締規則などは、法律の文面が良くても、そのとおりに実施されたとは限らない。実質的に強制売春が行われていたことは間違いないのである。しかし、建前であれ、それに従うか、それに準拠した法律を当時制定していれば、多くの問題を抱えたとはいえ、最低限度の人権保障(「慰安婦」は娼妓のように登録されることもなかったので、人身把握や、たとえ殺されていても生死の確認さえ行うことができない状況にあった)は可能だったし、少なくとも軍の暴走を食い止めることはできたのである。さらに、新たな法の制定義務ということについて言えば、当時日本が加盟していた「婦女売買に関する国際条約」は、当時の公娼制度を上回る女性の人権規定を盛り込んだ法律を作るか、公娼制度そのものも廃止し、より高度な人権保護規定を盛り込んだ法律を制定するよう要求していた。その点での不作為の罪も大きい。
このように、当時の「慰安婦」問題への責任の主体は、民間業者などにあるのではなく、軍の作為と陸海軍省および内閣と各省の不作為にあるのである。民間業者は、それに協力したという意味で、責任を負っているにすぎない。
ところで、こうした軍および内閣、つまり国の責任を述べたからといって、軍はのべつまくなしにひどい仕打ちを女性に対したわけけではない。部隊として慰安所の設置を断ることもできた。兵士が前線に出かけているとき、彼女たちはひとときの休息を得ることも出来た。あるいは、遠隔地であればあるだけ、異境にある孤独感から、兵士と女性たちとの心理的一体感も強まる傾向があった。そのような中で恋愛が生まれることもありえた。また、女性たちへの過酷な処置は、1932年に上海に初めて慰安所が設置されて以来1945年の廃止までの間で、後期になればなるだけ厳しさを増した。これらを大きく三段階に分けることが出来るように思う。第一段階が1932年から1937年まで、第二段階が1938年から1941年まで、第三段階が1942年から1945年まで。
第一段階では、慰安所の数も少なく、女性たちの多くは、それまでの水商売経験者で足りたと考えられる。第二段階は、全くの素人女性が部分的に徴集されるてゆく過程、第三段階は、戦線の拡大とともに大量の未成年女性が連行される時代である。
第一から第三までの過程を通して、軍の独走が強まる傾向をもち、女性たちの保護に関して他省(内務・外務省)からのチェックが外され、人権侵害を黙認する体制が整ってゆく。内閣の不作為責任は、この過程で強まってゆく。
事態を複雑にする要因は、もう一つ、女性の出身が、交戦国であるか、植民地であるか、日本(内地)人であるかによって扱い方がまったく異なったことである。被害者が交戦国の場合、水商売経験者以外は、銃剣を突き付けて連行するなど強姦・拷問の延長という形が多く、現地の奴隷売買の慣行を利用する場合もあった。植民地では、現地の統治機構を使った強制をはじめ、だまし・前借金など、旧来の植民地における人権保護レベルの低い公娼制度下で使われた人身売買の手口(例えば前借金で縛る)などが、そのまま利用される場合が多かった。
日本人の場合、多くが水商売経験者で、旧来の公娼制度の水準がある程度守られた。現地では将校付きとされる場合が多く、過酷さも少なかったが、交戦国・植民地の女性と一緒の下級兵士用の慰安所に入れられる場合は、その過酷さによって心身とも深く傷付けられている。
例外は無数にあるが、大まかこれら幾つかの要素を重ねて一つ一つの事例を見ないと、木を見て森を見ないことになる。現在、繰り広げられているキャンペーンの多くはそうした手法によるものである。部分的で強制にみえない事例を並べ、そして最後に、「彼女たちは悲痛な顔付きをしていなかった」という「経験」まで駆り出される。軍人がいつもいつも狂暴ではなかったように、彼女たちもいつも泣いて暮らしているわけにはいかなかったのである。 ただ、公娼制にすら違反して慰安所を作った軍隊である、状況が悪化すれば、歯止めがないため、ひたすら暴走した。次の資料は、1942年のシンガポールでの出来事である。

二月二七日、われわれの駐屯地のほど近いところに慰安 所が開設された。軍隊は若い盛りの将兵をいっぱいに抱 えている。従って、作戦を終わって一地に落ちつくと、 住民の女性とのトラブルの発生を防ぐために、一刻も早く慰安所を開設して生理発散の場を与えようとするのが軍の習わしである。軍司令部の後方係りが、早速住民の 間に慰安婦を募集した。すると、今まで英軍を相手にしていた女性が次々と応募し、あっという間に予定数を越えて係員を驚かせた。難攻不落のシンガポール要塞を陥 落させた日本の将兵は、今や住民の憧れの的であったから、「日本兵のお相手ができるならば」と喜々として応募し、トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた。ところが慰安所へ着いてみると、彼女らが想像もしていなかった大変な激務が待ち受けていた。昨年の一二月初 めに仏印を発ってより、三カ月近くも溜りに溜った日本軍の兵士が、一度にどっと押し寄せていたからである。私の部隊からも何人かの兵が喜び勇んで出かけていったが、気の弱い一人の衛生兵が、間もなくしょんぼりと打ち沈んで帰ってきた。ちょうど医務室で軍医と雑談していた私が、「どうしたんだ、しょんぼりして。どうだった」と聞くと、彼は言葉もなく座り込んで首を振り、ただ一 言、「かわいそうだった−−−−−−−」とつぶやいた。軍医が問いただしてみると、次のような 話を聞かせてくれた。彼が行ってみると、薄板を張って小部屋を仕切った急増の慰安所の部屋部屋の前には、兵たちがいくつもの列を作って、並んで待っていた。前の奴が時間をかけている と、何しろ皆気がせいているから、「何をしているか、早くすませてかわれ。後がつかえているんだぞう」と叫んで、扉をどんどん叩いたという。中の奴がどんな 格好でこの音を聞いていたか、想像に余る奇怪な光景で ある。英軍時代には一晩に一人ぐらいを相手にしても自分も楽しんでいたらしい女性たちは、すっかり予想が狂 って悲鳴を上げてしまった、四、五人すますと、「もうだめです。体が続かない」と前を押さえしゃがみ込んでしまった。それで係りの兵が「今日はこれまで」と仕切ろうとしたら、待っていた兵士たちが騒然と猛り立ち、殴り殺されそうな情勢になってしまった。恐れをなした係りの兵は、止むを得ず女性の手足を寝台に縛り付け、「さあどうぞ」と戸を開けたという。ちょうど番が来て中へ入ったくだんの衛生兵は、これを見てまっ青になり、体のすべての部分が縮み上がってほうほうのていで逃げ帰ってきたというのであった。
(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社 )

別の兵士の記録によると、たまたま空いていた慰安所の一部屋に閉じこもって、隣の部屋の一人当たりの所要時間(部屋に入ってから出るまで)を計ったところ、平均が五分であったという。一時間で一二人、五時間で六〇人が可能となる。たしかに、こうした極限状態がいつも行われていたわけではないとしても、もっとも厳しい体験が心と体の傷となって残る。ましてや未成年の、まだ性体験や、時として初潮もない少女が、このような所に入れられたら、その傷の深さは想像を超えるばかりである。しかし、現に名乗り出ている女性の多くは、そうした被害者なのである。

曇っている日本人の目

当時の国際社会からも不十分な人権保護規定しかないと批判されていた公娼制度であったが、それさえ無視し、違反して慰安所を作り、女性に対するジェノサイドならぬ「フェミサイド」(高橋哲哉)を行った軍隊と、それに黙認・協力した政府の実体がありながら、どうしてこのように国内からの追及の声が弱いのだろうか。その理由を考えるとき、歴史に対する無知に加えて、あらためて、公娼制度を含む男性中心社会とアジア蔑視の中で培われ、曇らされている目について語らねばならないように思う。
たとえば漫画家の小林よしのり氏は「新・ゴーマニズム宣言」(『SAPIO』)で、当時の事情を詳しく調べないままに、周囲の意見や自分の想像を頼りに、被害者やそれを支援する人々の見解に批判を試みようとしている・・・

  1. 被害者は突然日本軍に連行されたというが、「日本兵を装った現地の売春業者がいたという。お金はこっそり親に渡していたのかもしれない。昔は日本でも東北の貧農で娘を売らざるを得ない親がいたものではないか」(第24章)
  2. 長谷川伸『生きている小説』の「事実残存抄」に書かれている話として、ある軍医が中国の華南で慰安所に連れてこられた女性の検査をしたところ、「20歳の処女」がいることが分かり、救出資金を集めて、彼女を帰国させたことを、慰安婦問題の「誤解」を正すものとして紹介(第26章)
  3. 「兵士は一回ごとに料金を払っていて、慰安婦の収入は当時の大卒者の10倍!一般兵士の100倍の収入を得ていた者も多かった。2〜3年働けば故郷に家が建った」(同前)

など、他にもさまざまな例を挙げて、国に責任はなく、「慰安婦」とされた人たちは「つくづく気の毒とは思うが、悪いのは現地の業者と売った親なのだ」(同前)と主張している。彼の漫画は影響力も大きいと思われるので、これらを批判しておくと・・・

  1. たしかに「娘を売る」ことは、江戸時代はおおっぴらに許されていた。だが、明治以降は、少なくとも本人の自由意志という形に整えられ、さらに1900年以降、戦後直後までの娼妓取締規則は、廃業の自由も制度的に認めていたのである。当時も法の運用において、また人々の意識の中に、「身売り」を肯定するものがあったことは事実だが、これを正面から肯定するというのは、江戸時代に逆戻りする時代錯誤である。
  2. 「事実残存抄」の話が慰安所が拡大を始めたばかりの1938年であることに注意する必要がある。女性は当時はまだ水商売経験者がほとんどであった。そこに「20歳の女性」が連れてこられたことは例外にみえるが、以後こうした女性の人数が増えてゆく前兆だったと考えるべきなのである。しかも20歳の女性に「売春」させることは、当時日本も加盟していた国際条約に照らしても(20歳まで未成年とされた)違法なことであり、「誘拐の嫌疑をかける」と軍医が叱っているが、それは当然のことなのである。
    ここで、注目すべきは、その軍医は、慰安所を管轄する主計将校の命令系統を使って帰国までの処置をとっていることである。軍に慰安所への指揮命令権があったことが明らかである。そして、たまたま正義感あふれる軍医がいたからこの場合彼女は救出されたし、右の本に書かれている時期は、まだ軍部にも国際法を意識する一面が残されていたし、総力戦下にないゆとりがあった。そうした様々の要因が消え失せていく時期に、もっとも残酷な事が行われたのである。
  3. 兵士たちがお金を払う場合が多かったのは事実である。だが、それで商行為だったと言えないことはすでに述べた。強制がある限り、あくまで強姦であり、商行為としてはなり立たない。ただ、多くの男性にとって、まして当時金を支払った兵士たちにとって、決して少額でない金を、身の切られる思いで支払ったことは、女性たちの実態を知らないままに、”商行為”のイメージを焼き付けることになった。しかも、女性の取り分は30%から90%まで、さまざまに噂されていたので、小林氏が書いたような「高収入の慰安婦」という印象は、多くの元兵士が抱き続けている。

今も日本国内に幅広く存在しているこうした誤解を解くためにも、政府は徹底した資料公開をする必要があるのだが、今はさて措き、公娼制のもとでさえ貸座敷主がどのような手口を使っていたかを知っておくことは無駄でないように思う。右の『生きている小説』にも「女の手取りは・・2円の女でいえば半分の1円は前借金へ入れ、残る半分の1円が手取りとなる、とこう聞かされたが、表面はそうだろうが、陰では勘定が別にあるらしかった」と書いており、また「ああいう女たちはみんなだまされて来ているのでねえ、この船でつれて来た女たちの顔というものが、当分のうち眼に残りましてねえ」という船長の話を載せている。
公娼制において、何割という手取りは形ばかりで、その中から高い生活諸雑費を奪われていたことは、今では広く知られていることだ。表は、伊藤秀吉『紅燈下の彼女等の生活』から取った大阪のある売れっ子の娼妓の収支(1923年)である。彼女の取り分は六割(532円15銭)とされていたが、そこから諸費用(481円)が引かれ、自分の手元には、ほとんど残らなかったことがわかる。

こうしたお金の流れの問題は、「慰安婦」問題ではまだ未解明な領域であるが、公娼制と同様に、ほとんど手元に残らなかった場合のあることが報告されている(川田文子『戦争と性』、西野留美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店)。軍票でなら大金を手にした事実も出てきているが、戦後、軍票は紙屑同然になった(吉野孝公『騰越』)。
さらにお金の流れを調べてゆくと、女性たちを前借金で集める際の業者が支払った資金も、軍が提供した可能性がでてきている(吉見前掲書)。また公娼制のもとで国や地方自治体が女性や貸座敷主から税金を取っていたように、慰安所の経営者からも税に匹敵する金額を取っていたことが明らかになりつつある。こうなると、藤岡氏のたとえに帰ると、文部省自らが慰安所の資金を出して経営し、それで儲け、女性たちから搾取していたことになる。

「慰安婦」問題の歴史研究は、これからも進むが、その中で、国の責任と被害の実態はいっそう明らかになることだろう。教育現場では、そこから目をそらすことなく、むしろその事実から教育を出発させていただくことを期待している。


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