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藤岡氏は語る ・・ 「『従軍慰安婦』をとりあげることは、そもそも教育的に意味のないことである。人間の暗部を早熟的に暴いて見せても、とくに得るところはない」
(「論争・近現代史教育の改革 歴史教科書批判運動の提唱」『現代教育科学』96年9月号)と。たしかに、多くの先生方は戸惑っておられるかもしれない。いったいどのようにして「慰安婦」問題を子供たちに教えればよいのか。とくに中学生などに、どのように話しかければよいのかという疑問は大きいのではないだろうか。その戸惑いに乗じて「自虐的歴史観を教えるべきではない」と藤岡氏は主張するのだが、よく考えてみるべきであろう。
性に強制があってはならないこと、セクシャル・ハラスメントを行わない、また行わせない男女双方の意識を作り出していく、そうした観点に基づく広い意味の性教育は、なるべく早くから始められるべきではないだろうか。「慰安婦」問題は、現在起こっている性暴力や性的いやがらせの事例に加え、反面教師としなければならない歴史的素材を提供することになる。女性の人権教育の一環としても、この問題は教えられていく必要がある
と思われる。 |
「慰安婦」への強制とは? また藤岡信勝氏は次のように「慰安婦」問題の歴史を要約する。 「従軍慰安婦」問題の焦点は、軍の慰安施設それ自体の問題ではなく、強制連行があったかどうかである。とい うのは、戦前の日本では売春は公的に認められていたか らである。(中略)そこで、いわゆる「従軍慰安婦」問題で非難される点があるとすれば、慰安婦を戦地で働く 意志がないのに人さらいのようにして強制的に連行してきたというようなケースである。ところが、日本軍による強制連行の事実を示す証拠はただの一件も存在しないのである。ただし、「私が朝鮮人の女性を強制連行しました」という日本人が現れて著書まで出したが、歴史家が現地に行って調べてみると、まっかなウソであることがバレてしまった。 「強制連行した日本人」が吉田清治氏、「現地に行った歴史家」というのが秦郁彦氏であることは、この問題に触れている人はすぐわかる。吉田清治氏の著書(『私の戦争犯罪』三一書房)が、「慰安婦」への連行の暴力的な形態を世に知らしめ、この問題を大きな衝撃でもって広めたことは否めない。だが、「慰安婦」への強制の問題を、連行時の暴力の問題として狭く限定することの危険性は、韓国でも日本でも、早くから研究者や市民運動の中から起こっていた。そこに別の立場から批判を集中したのが秦郁彦氏であった。氏は、吉田氏が強制連行した済州島まで赴き、証言の真偽を確かめようとした。その結果を「昭和史の謎を追う−−第37回・従軍慰安婦たちの春秋」と題して『正論』(1992年6月号)に発表し、同島から「慰安婦」の徴集を示す証言が得られなかったとした。だが、秦氏自身が六〜九万人の韓国・朝鮮人「慰安婦」の存在を認めている人である。どうして日本に極めて近い済州島だけ一人の「慰安婦」も徴収されなかったのだろうか。そんな例外の地域があると考えるほうがおかしい。現に、尹貞玉・元梨花女子大学教授が1993年に同島で調査を行ったとき、島民の強い抵抗の中で一人の被害者と推定される証言者が名乗り出た。だが、周囲からの本人への説得と制止によって、それ以上証言をとり続けることを拒否された事実がある(日本の戦争責任資料センターと韓国挺身隊問題対策協議会による第二回「従軍慰安婦」問題日韓合同研究会)。性暴力の被害者すべてに言えることだが、被害を訴え出ること自体に大きな困難が伴う。ましてや儒教が強く残っている韓国社会では、さらに大きな障害となる。したがって、現在元「慰安婦」と名乗り出ている女性のほとんどが身寄りのない単身女性である。それに加えて、済州島という小さな島で名前を明らかにすることは、近隣・親戚に直ちに波及する大事件となる。そして同島は、韓国の中でも差別的に見られていることに留意すべきである。もし誰かが名乗り出れば、韓国語に翻訳されている吉田氏の著書への関心と合わせて、興味本位の視線が済州島の島民全体に浴びせられる危険性を危惧しない者はいないだろう。それを畏れ、島内には箝口令が敷かれてきた可能性を否定できない。要は証言も含め、資料批判が必要だということである。秦氏の論拠だけで吉田氏の証言を嘘と断定することはできないのである。ただし、吉田氏はこれらの批判に反論をしてきていない。私は吉見義明・中央大学教授と共に反論を勧めたが、態度は変わらなかった。その場で、我々が様々な質問をしたところ、証言に決定的な矛盾は見当たらなかった。ただ、時と場所が異なる事件を、出版社の要請に応じて一つにまとめたことを話してくれた。したがって、 吉田証言は根拠のない嘘とは言えないものの、「時と場所」という歴史にとってもっとも重要な要素が欠落したものとして、歴史証言としては採用できない というのが私の結論であるし、吉見教授も同意見と思われる。 国連人権委員会のクマラスワミ特別報告者に対して吉見氏が、その報告書の価値を守るため、吉田証言を採用しないよう手紙を送ったのはそのためであった(日本の戦争責任資料センター訳『R.クマラスワミ国連報告書』解説)。吉見氏はその手紙の中で「吉田氏の本に依拠しなくても、強制の事実は証明できる」と述べているように、多くの研究者の関心は、吉田批判がなされた当時すでに同氏の証言の真偽へ向いてはいなかった。むしろ「強制」の内容の方に関心が集中していたのである。次々と被害者が名乗り出ていたことで、統計的な処理も可能となり始めており、暴力的な連行そのものは限られたものであることが判明していたからである。たとえば、1992年末に市民や研究者の呼び掛けで「日本の戦後補償に関する国際公聴会」が東京で開かれたとき、韓国からの研究報告は、二六%が「奴隷狩り」であり、六八%が「だまされて」であったことを明らかにした(戦争犠牲者を心に刻む会編『アジアの声』第7集、東方出版)。台湾でもその数値に近く、さらに限られた数だが「自発的に」というものもあった。もし強制を狭く「連行」時に限定するならば、多くは何の問題もなかったことになる。だが、たとえ自ら志願したものであっても、だまされていても、現地に到着し、自分がいったい何をされるかが明確になった時点で、それを拒否し、自由に帰国できなければ「強制」である。そのことは、日本も加盟していた「婦女売買に関する国際条約」(1905年、1910年、1921年に締結)の1910年締結条約第二条が、
と定めていたことからも明らかである。ここでは、「詐欺」という方法を使って「醜行」(売春)させることを「一切の強制手段」とともに犯罪と認めているのである。だまされて出かけた多くの被害女性は、慰安所に到着した直後、抵抗と、将兵による暴力と強姦で始まったことを告げている(韓国艇身隊問題対策協議会・艇身隊研究会編『証言−−強制連行された朝鮮人慰安婦たち』)。詐欺が現実には強制の一変種であったことをよく物語っている。
さらに、その後も身体を拘束されて自由を奪われるなら、それも強制である。現に多くの資料が「慰安婦外出を厳重取り締まり」(「比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所慰安所規定」、吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店)などの規則で外出を規制し、彼女たちを監視し、閉じ込めていたことを記録している。ただ、場所によっては外出も比較的自由であり、一見して拘束のないケースもあった。しかし、そうした場合にあっても、すでに海外に移送されていること自体が拘束を意味した。自ら交通手段を持たず、帰国しようにも軍隊によって連れてこられているために出入国書類をもたない彼女たちにとって、慰安所から逃れることは直ちに解放を意味するとは限らなかった。むしろ言葉も通じない異郷で、殺されたり野たれ死にする危険と隣り合わせだった。
あるいは戦場にある駐屯地に連れていかれるような場合であれば、逃亡すれば「敵」と遭遇する危険性をもっていたのだから、軍の交通手段しか現実にない状況下にあって、慰安所に残る以外の選択の余地は彼女たちになかった。こうして海、大陸に遠く隔てられ、異境に連れていかれること自体、あるいは戦場そのものさえ、現実の強制手段となったのである。
これは、当時「からゆきさん」と呼ばれた女性たちの海外への人身売買を禁じるものであった。「醜業」とは売春のことであり、国外への移送そのものが、女性への強制力となっている事態を的確に述べている。こうした認識から1908(明41)年施行の刑法は、第二二六条で、「(日本)帝国外に移送する目的を以て人を略取又は誘拐したる者」を、通常の略取・誘拐より重い罪と定めていた。国外移送罪などの名前で呼ばれるこの条項の存在は、当時の社会の認識のあり方を浮かび上がらせるとともに、日本軍が「慰安婦」に対して行った行為が、当時の刑法にも違反していたのではないかという疑いを呼び起こさせるのである。
とある。未成年の定義は「二一歳未満」(1921年条約)であった。これまで名乗り出ている被害者の証言によると、朝鮮人慰安婦の場合は82%が、台湾についても50%が未成年で「慰安婦」にさせられている。大半の女性が未成年であった事実は、強制の有無にかかわらず、当時の慰安所制度の大半が無条件に違法であったことを物語っている。 |
公娼制の延長か? また、以前から行われてきた一部の批判には、「慰安婦」制度を公娼制の延長に位置づける見解があった。最近になって、藤岡氏も次のように述べていいる。 戦前の日本では、売春は公然と認められていた・・内地 で売春が営業として行われていたのと同じく、戦地でも 売春業者が男性の集団である軍隊を相手に商売をした。 これは違法なことでも何でもなかった。よい・わるいの 問題ではなく事実の問題である。日本で売春が法的に禁止されたのは、戦後何年も経ってからのことだ。 軍が関与したことが問題だという人がいるが、これはスジ違いである。文部省の建物の中に民間業者が経営する食堂がある。文部省の職員が主に利用するが、文部省が経営しているのではない。文部省はこの業者に建物の一部を提供し、水道・光熱などの利用の便宜を与えている 。そういう形で文部省は食堂に関与しているが、かといってこの食堂を文部省が経営しているのではない。・・戦地慰安所と軍の関係もこれと全く同じである。 さすが教育学者であり、たとえが上手い。納得する人も多いらしく、小林よしのり氏も「新・ゴーマニズム宣言」で同趣旨の見解を描き続けている。だが、ここには大きな嘘と間違いがある。
別の兵士の記録によると、たまたま空いていた慰安所の一部屋に閉じこもって、隣の部屋の一人当たりの所要時間(部屋に入ってから出るまで)を計ったところ、平均が五分であったという。一時間で一二人、五時間で六〇人が可能となる。たしかに、こうした極限状態がいつも行われていたわけではないとしても、もっとも厳しい体験が心と体の傷となって残る。ましてや未成年の、まだ性体験や、時として初潮もない少女が、このような所に入れられたら、その傷の深さは想像を超えるばかりである。しかし、現に名乗り出ている女性の多くは、そうした被害者なのである。 |
曇っている日本人の目 当時の国際社会からも不十分な人権保護規定しかないと批判されていた公娼制度であったが、それさえ無視し、違反して慰安所を作り、女性に対するジェノサイドならぬ「フェミサイド」(高橋哲哉)を行った軍隊と、それに黙認・協力した政府の実体がありながら、どうしてこのように国内からの追及の声が弱いのだろうか。その理由を考えるとき、歴史に対する無知に加えて、あらためて、公娼制度を含む男性中心社会とアジア蔑視の中で培われ、曇らされている目について語らねばならないように思う。
など、他にもさまざまな例を挙げて、国に責任はなく、「慰安婦」とされた人たちは「つくづく気の毒とは思うが、悪いのは現地の業者と売った親なのだ」(同前)と主張している。彼の漫画は影響力も大きいと思われるので、これらを批判しておくと・・・
今も日本国内に幅広く存在しているこうした誤解を解くためにも、政府は徹底した資料公開をする必要があるのだが、今はさて措き、公娼制のもとでさえ貸座敷主がどのような手口を使っていたかを知っておくことは無駄でないように思う。右の『生きている小説』にも「女の手取りは・・2円の女でいえば半分の1円は前借金へ入れ、残る半分の1円が手取りとなる、とこう聞かされたが、表面はそうだろうが、陰では勘定が別にあるらしかった」と書いており、また「ああいう女たちはみんなだまされて来ているのでねえ、この船でつれて来た女たちの顔というものが、当分のうち眼に残りましてねえ」という船長の話を載せている。
こうしたお金の流れの問題は、「慰安婦」問題ではまだ未解明な領域であるが、公娼制と同様に、ほとんど手元に残らなかった場合のあることが報告されている(川田文子『戦争と性』、西野留美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店)。軍票でなら大金を手にした事実も出てきているが、戦後、軍票は紙屑同然になった(吉野孝公『騰越』)。 「慰安婦」問題の歴史研究は、これからも進むが、その中で、国の責任と被害の実態はいっそう明らかになることだろう。教育現場では、そこから目をそらすことなく、むしろその事実から教育を出発させていただくことを期待している。 |