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【プロ野球】

「親分」大沢元日本ハム監督死去 78歳、胆のうがん

2010年10月8日 紙面から

 日本ハムなどで監督を務め、「親分」の愛称で親しまれた大沢啓二氏が7日、胆のうがんのため東京都内の病院で死去した。78歳。神奈川県出身。現役時代は外野手として活躍。1976年から務めた日本ハムでの第1次監督時代には、江夏豊をトレードで獲得するなどのチーム改革に取り組み、81年にリーグ優勝を果たした。最近は「喝」や「あっぱれ」を決めぜりふに、テレビ番組のご意見番的な存在として活躍していたが、病に倒れ、帰らぬ人となった。

 親分が、天に召された。歯に衣(きぬ)着せぬ言動で人気を博していた大沢氏。TBS系「サンデーモーニング」のレギュラーを務め、球界のご意見番として活躍していたが、最近は体調を崩し、ここ2週間は番組出演を控えていた。

 大沢氏の事務所によると、昨年10月に胆のうがんが見つかり、本人も知ったうえで闘病を続けていたという。9月23日に入院した時も深刻な状態ではなかったといい、枕元にボールを置き、パ・リーグが不人気だったころに2、3時間もファンにサインをし続けていた話などをしていた。しかし7日朝に容体が急変、帰らぬ人となった。

 大沢氏は1932(昭和7)年に神奈川県藤沢市で生まれた。6人兄弟の長兄で中日の選手だった清氏の影響で野球を始め、神奈川商工高、立大を経て、56年に南海に入団。59年は故杉浦忠氏、野村克也らとともに、日本一に輝いた。その59年に巨人と戦った日本シリーズ第3戦(後楽園)でセンターを守っていた大沢氏は、普通なら右中間を抜けている長嶋茂雄の打球を正面で好捕。打球方向を予測し、大胆な守備位置を取って、ピンチを救った。

 76年から指揮を執った日本ハムでは、江夏豊をトレードで獲得するなど大胆なチーム改革を断行し、81年にリーグ優勝。82年に西武と戦ったパ・リーグのプレーオフでは右手小指を骨折し登板不能と思われていた工藤幹夫を第1戦に奇襲先発させ、話題を呼んだ。

 93年に監督復帰。この年は2位になったが、翌年は最下位。最終戦終了後にグラウンドで土下座して、ファンに成績不振をわびた。この第2次日本ハム監督時代に、当時ロッテの伊良部秀輝を、打者がしびれるような直球を投げることから「イラブクラゲ」とニックネームをつけたのも大沢氏。ユニークなコメントでファンを楽しませた。

 破天荒な伝説も残っている。高校3年の神奈川大会で敗れた後、判定に不服を覚えていた審判をけりつけ、神奈川商工高をその後1年間の出場停止処分となった。日本ハムの監督だった76年は、危険な球を投げた阪急・竹村に激怒して殴り、退場となった。監督としての退場は通算7回。昨年に当時広島のブラウン監督に抜かれるまでは、歴代最多だった。

 94年にユニホームを脱いだ後は日本プロ野球OBクラブの理事長をこなしたほか、テレビのコメンテーターとしても活躍した。レギュラーを務めていた「サンデーモーニング」には9月19日が最後の出演となったが、日曜の朝になると「起きる、起きる」と言っていたという。

 3日の放送で司会の関口宏が「(今季の優勝争いについて)中日とソフトバンクが有利と言っていた通りになったことに『あっぱれ』をいただきたい」との大沢氏のコメントを代読。今季のし烈なV争いをズバリと的中させ、自らに少し「あっぱれ」と言ったのが、ファンに対する最後のメッセージとなった。

 

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