2010-07-13
■[コミック]『もやしもん』9巻発売に寄せて

『もやしもん』9巻が発売ということで、過去記事を再掲します。
- 作者: 石川雅之
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/07/01
- メディア: コミック
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何回か前の私のエントリで、ミスター味っ子2の事を話題にしましたが、今週のネタが絶対的に肯定される相手である消費者を断罪する内容だったので思わずイブニングを買ってしまいました。
今回の内容は前回のおさらいで、商品を買った(食べる)側は細やかなサービスを受けて当然だというスタンスは「驕っている」という味っ子の新主人公の陽太による消費者批判でした。
この三枚の画像の文章の要点を抜き出すと、不可能とも思える低価格の実現の為に、生産者の負担が増大して、生産者の生活がままならなくなっているにもかかわらず、消費者はそんなことを知ろうともせず飽食に明け暮れていると言ったところでしょうか。
私の実家の家業が車関係の仕事をしているので、豊田市の某大手車メーカーが古河バッテリーに或る要求をした時の話を私の父から聞いたことがありましたが、この農家の話そのものでした。
古河バッテリー(以下古河)「貴社の仕事の要求がムチャだったから500億の赤字が出ました。せめてバッテリーの値上げを考えてもらえませんか」
某社「それは出来ない、その代わりその500億の赤字を面倒見ようではないか。毎年赤字が出ても面倒を見ることを約束しよう」
古河「それでは利益が出ません」
某社「そうか、なら500億の赤字を抱えて倒産するか?」
以上のような話でした。この取引話の背景には、コストカットの為に中国でバッテリーを製作したため不良品が多数出たために豊田市の某車メーカーから契約を切られたGSバッテリーの穴を埋めるために古河が一人泥を被ったというどうしようもない現実があります。
しかし考えてみると、そこまで価格を維持して車の値段を抑えたとしても、この味っ子の話のように、一般の人はそんな事情は知る由も有りませんし、感謝もしません。
それどころか、その事を当然と思い不平不満をもたらす可能性があります。
この話では陽太君は、「生産者や店側が一生懸命に頑張っているなら、お客さんも少しでもそれを知る努力をすべきだ!!」
生産者や下請け、取引業者各々が色んな事情を背負っています。我々はそうした事を知る事も大事だと思います。
何故なら何も知らなければ、思い込み等で的外れな抗議や実力行使を行う可能性があるからです。
今回のミスター味っ子2で興味深かったのが、こうした触れるべきではなかった大衆を批難の対象にした事です。
奇しくも同じ雑誌のもやしもんも、前回から消費者や大衆を批難している事です。まるでシンクロニシティのようです。
美味しんぼなどで殊更取り上げられる無農薬野菜ですが、それを望んだ大衆はちっともその際のリスクを背負おうとしない現実がこの画像で露呈しています。
無農薬野菜の個別販売の為の購入者募集の際に、雑草抜きのボランティアをお願いしたところ、参加者はリスクを背負いたくないと大半が逃げ出して、残った人達も草刈の最中に
「こんな辛いなら、農薬で除草すればいいのに」
と言いだす始末。そりゃぁ農家の人も心が折れます。教授は70年代の話だと注釈を付け加えてますが、その頃の話だとしても何ら驚く事はありません。己は楽な場所に居て、その成果だけを受け取りたい、その気持ちは昔から変わっていないと思います。
それがイヤなら中国産の野菜を食べればいいと思います。私は貧しいから中国産の野菜や冷凍食品をよく食べてましたが。
そして、次の画像で、ついに教授はエゴが真の悪だと言及します。
以下の教授の言葉は実に重く、そして味っ子の陽太君の台詞が私の脳内でオーバーラップします。
「政府が悪い、農協が悪い、農家が悪いと誰かに悪をなすりつけ、知る努力をもせず求めるばかりの消費者という名の虚像が放つエゴが真の悪だ」
当然ゼミ生からは反論が出ます。
「し、消費者が悪いと片付けてしまうのは社会が成立しなくなるのでは」
しかし教授は冷静に返します。
「その(消費者)個々の要求が通るほど社会は甘くないし、それが通るような社会など成立しない」
誰かが言ってましたが、民主主義社会で大衆の全ての要求を通すよりも、独裁政権の暴君のわがままを聞いているほうが、政府や国体の負担は少ないと。
確かにその通りだと私は思います。映画逆襲のシャアでシャアは人類のエゴが地球を滅ぼすと言ってましたが、アレは話を大げさにしているので、実際は地球=日本、重力に魂を引かれた人々=エゴ丸出しの日本人と言う解釈で間違っていないと思います。
富野監督はエゴが肥大化したメガノイドが人類に脅威をもたらすダイターン3という名作を製作していますから、あの監督は監督也に色々思うところがあったんでしょう。
画像は掲載してませんが、教授の言葉の「だからこそ消費者は知ることが大事なんだよ。無知なままでは踊らされてつかまされても気づかないままだ」は、他のジャンル(例えば政治など)にも応用が利きます。
結局、今週のイブニングの二つの人気漫画のテーマは「知ること」だったわけですが、それは全ての事に言えると思います。
この画像はトライガンマキシマムと言う漫画の画像ですが、私たち自身、相手のことや背景を何も知らずに無自覚に引き金(殺人、抗議、嫌がらせなどのネガティブ行為etc)を引いているケースは多いと思います。
社会を構成する人達には色々な立場があります。そしてその人達には家族や友人、上司などもいます。
かつてソクラテスは「無知の知」という言葉を残しましたが、我々はせめて「無知の恥」とならないように心がけて生きたいものです。
追記
無知のまま引き金を引く行為の分かりやすい例として、マジコンなどに代表されるコピー問題なんかは分かりやすいですね。あれは製作者にお金が行き渡らず、正当な対価を払うことなくその成果だけをさも当然の様に受け取る消費者と言う構図は陽太君や教授が批難した傲慢な消費者のケースに当てはまると思います。
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『モテる』事を『普通』という曖昧な基準に置いてしまったが故に苦しんでしまうという話は私には無かった見方で新鮮でした。
それを踏まえた上で、私個人の実感でしか無いのですが、モテ・非モテに対する恐怖の裏側にあるもの(あくまで私に関して)について少し考えました。
モテ=普通とするなら、非モテの人間は普通の基準に達していないといいう理解があったのかもしれません。
たとえば、モテない原因の一つとしてよく挙げられるのがコミニュケーションの能力、いわゆるコミュ力というヤツです。
モテないという事は、当然持っているべきその能力を持ちあわせていない劣った人間であり、要するに自分は駄目なヤツだと落ち込んでいたのだと思います。
加えて、コミュ力だのファッションだの、要求される能力は非常に難しいけれど自分で身につける事が出来ない訳ではない。少なくともそう思える。
その能力獲得への努力も無しに何故自分はモテないのかと拗ねる事事態が自分が未熟である証拠のように思えていました。
まあ、それはそれで間違いじゃないんでしょうが、自分に出来る事を自分に可能な速度でやる、というような観点が抜けていたように思います。
とはいっても女の子にはやっぱりモテたいですけどね。
だって女の子って可愛いし、綺麗だし、そりゃあ良い所ばかりじゃないでしょうが、非モテの私なんぞにはその欠点を目にする機会もない訳で。
というか、もっと言うなら人生を共にする家族が欲しいんですよね。
別にお嫁さんだの配偶者だのそんなんじゃなくていい。
一緒に寝て、起きて、食べて、同じ屋根の下で暮らす人が。
良いことばかりじゃない、むしろ悪い事しかない可能性があるとしても、人との繋がりを絶たれた孤独な人生ってのはかなりキツイです。
一緒に暮らす煩わしさや苛立ち、そういうものの無い世界って空虚だと思います。(程度にもよるのでしょうが)
将来、ずっと一人で生き続ける自分を想像すると背筋が寒くなりますね。
で、その家族を作る一番一般的とされる方法が結婚だったりするわけで……ああ、もう……。
実際のところ、これまでの家族の形にとらわれない人と人との繋がりを模索するのが現実的なんじゃないかと思っているんですが、それでもやはりモテへの未練は断ちがたいです。
ご心中お察しします。私も去年の今頃まではそんな考え方をしていましたが、このエントリで書いたように、そうした「どうして俺は」をこじらせると、白面そのものになってしまいます。
現に、私は去年の春先に懇意にしてもらっていたアニメ誌女性ライターさんとこの件で論争をした結果、喧嘩別れをする形になってしまいました。
それ以後は私が何を言っても受け付けてくれなくなったので、そういう私の負の念が彼女を傷つけたのではないかと考えます。
後、コミュ力についてですが、散々コミュニケーションの大事さを説いている私が言うのもなんですが、マスコミや経済誌が吹聴しているコミュ力ですが、ありゃ嘘です。
なぜ断言できるかというと、それらは自前の努力で獲得できる後天的資質だという思い上がりだからです。
たとえば頑張れば誰でもマラソンで20キロを走れるかもしれませんが、そこまで人は頑張りません。向き不向きがあるし、不得意なものをそこまで頑張ろうという気力が湧かないからです。
コミュ力と言っても職人の国の日本で急にそれを必要なものだと言い出したのは、何かおかしいですし、家に帰れば飯風呂寝るしか言わないお父さんの子どもが、後天的な努力で「全員が平等に」アメリカンエンターテイナーみたいにしゃべれると思うほうがおかしいです。
もし全員がそうした努力をしたとしても、読み書きそろばんが標準装備された日本社会では、別の上位価値観が求められて、またそれをマスターできないものが苦しむだけの構図が再現されるだけです。
私が言いたいことは一言、村社会のカガミであるマスコミの価値観と、それを真に受けた母親の価値観に踊らされるなということだけです。
後は個人の心の中に吹く風は、己が何とかするしかないのですが、それを個人の問題や自己責任として切り捨てるこの社会の宗教の救済システムの機能不全もどうかと思います。
なんと言ったらいいのか分からないんですが、私は今まで一度も『モテたい』と思ったことがありません。だから自分が「非モテ」であることに不満というか苦痛を感じたことがないのです。
けれども、中学校からの友人に「お前彼女できた?」と訊かれたときに苦しくなります。別に友人でなくてもですが。私は『モテたい』が普通だと思っているので、尋ねられたとき「いいえ」と答えるのがつらいです。
中学生の時友達がモテたいとか彼女が欲しいと言っている中で、私はそういったことを思わなくて、高校生にでもなればそのうち変わるだろう、とか思っていました。そして、今に至ります。中学・高校とも、クラスの女子とほとんど話しませんでした。同性の友人とでさえ話すのが苦手です。コミュニケーションは難しい。
大学生になって初めて一人暮らしを始めました。土曜日と日曜日は他人と一切話しません(ひきこもりではありません)。モテたいとか彼女が欲しいとか女性と性交したいとか思ったことがありません。
だから怖いのは、『モテたい』と思うようになることです。私が『普通』になることです。今はそう思いませんが、将来いつかそう思うようになるのではないでしょうか。
世の中にそれほど不満はありません。しかし、『モテたい』と考えが変わったらどうすればいいでしょう。今まで女性と接したことがない(小学生は女性じゃない)ので、どうすることもできないと思う。簡単に変わることはできない。できない。それが、心配です。
あと、「光の側の人間」というのがちょっと気になります。今の私(モテたいと言う人の気持ちがわからない)は「光の側の人間」でしょうか?
コメントありがとうございます。
こうした「モテ」の話は私もあまりしたくはなかったのですが、「モテ」ない人へどや顔をして説教をする人を見て、違和感を覚えたのがきっかけでしょうか。
コンカツ市場もそうですが、恋愛と結婚を混同しているから余計に悲劇が蔓延しているような。私の予想では、後五年以内にコンカツで滑り込み結婚をした人は大量に離婚すると思います。マスコミがリードしたブームは成就したためしがないですから。
話を戻しますが、「モテ」たいという気持ちなどはどちらかというと文化的側面に負うところが多いと思います。
つまり、本能を除けば「男らしさ」の教育が施されないと、父親不在の半母子家庭では、「男らしさ」が去勢されてしまい、いわゆる「草食系」になるのではないかと。
つまり、性欲から女性にアタックして、振られてもめげずに再チャレンジするという文脈が存在しないと、振られる=全否定という風に受け止めるようになるのでは…。
ぜんぜん回答になってませんが、そんな感じでしかお答えできてなくてすいません。
光の側の人間については、下記ブログを参考にしてください。まぁ早い話が屈託がなさ過ぎる人という意味です。明るく前向きなのはいいけれど、その分人の痛みがわかりにくい人と思ってもらえれば。
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/searchdiary?word=%B8%F7%A4%CE%C2%A6
ただ、過剰なサービスを要求する消費者は論外ですが、その一方、
陽太くんや教授の論法も、少々強引な気がしないでもありません。
サービスとは、集客を目的とした営業手段のひとつなのですから、
どの程度まで広げるかは、提供する側に選択権があるのではないで
しょうか?
とくに陽太くんの主張の場合(掲載された画像だけでの判断ですが)、
問題となっているのは「店」と「生産者」の契約条件であって、
そこに消費者が介在することはできないはずです。
「生産者」も仕事でやっている以上、利益を追求するのは当たり前で、
より有利な契約を結ぶために努力するのは「生産者」の義務ではない
でしょうか?
それをせずに(この画像からは読み取れませんでしたので)消費者に
責任を押し付けるかのような発言は、教授の言葉を借りるなら、
それこそ「そんなモン知ったこっちゃねぇ」
ということになるでしょう。
このような「企業利益」のお話と、マジコンに対する意識は、
いささか次元が異なるように感じるのですが、いかがでしょうか。
コメントありがとうございます。私も味っ子の画像を断片的に貼っただけなので、物語が伝えたかったことを十全に伝えきれたかどうかは自信がありませんが、あの物語の中で、サイゼリアをモデルとした店が無農薬野菜をお客様のために安く提供するため、契約農家の暮らしをたちゆかせなくしているのに、受けて側の消費者が「どうせ中国産でしょ」と言い切ったり、安い商品を提供してもらいながらまだ文句を言い続ける姿がありました。
物語を盛り上げるための演出とはいえ、前作の味っ子で「お客を愛する」というスタンスだった先生にそこまでいわせる何かがあったというのは間違いないですし、日本とアメリカで世界の食料の大半を消費しているという現実をわれわれは認識すべきです。
企業利益の件に関して言えば、そうやって青息吐息で企業や下請けが血を吐いて賞品を作っても、それを受けて側の消費者が、「企業が潰れようがどうしようが知ったことか」と対価を支払わずに成果だけを横取りしようとする姿勢は、まさしく消費者の顔をした泥棒に過ぎません。
私が話題に出したコミュ力というヤツ、あれが本来何の為に存在するかというと、当たり前な話ですが人とコミニュケーションを取るためなんですよね。
でも何故か、私はそれをすっかり失念していた。
コミニュケーション能力について人並みでないという恥ずかしさ、改善すべき点があるにも関わらずその努力をしていない自分を情けないと思う気持ち。
でも、ちょっと待って考えるべきだったんです。
お前はそのコミュ力とやらで何をしたかったのかと。
『反社会学講座』という本に書いてあった事ですが、コミニュケーションという言葉、日本では細部に色々ニュアンスを含んだり、コミュ力が高いほどより上手く会話なんかが出来て、お話が円滑に進むみたいな話になってます。
でも、実際のところ、コミニュケーションの元の意味は単に『伝える』ぐらいのもので、それ以上でもそれ以下でもない。
口下手で上手く言葉が出てこなくても、とりあえず用件を片っ端から相手に言って聞かせる事ができる。
それでも物事は進むんだから、別にそれを必要以上気に病む事もなかった。
しかし、いつしか私は多くの人がやっているようにコミニュケーションを取れない自分は恥ずかしい存在で、それを克服する努力をもっとするべきであり、努力を怠る自分は怠惰な人間であるという結論に至っていました。
必要なのは何がしかの物事を人に伝える事であって、『コミュ力を持った恥ずかしくない人間』になるなどという訳の分からないものではなかった筈なのですが。
英雄になろうとした時点で英雄にはなれない。
黒を白に、白を黒にするスーパー弁護士の言葉は流石、含蓄があります。
モテも同じ事で、『非モテ』という恥ずべき存在から『モテ』になりたい。なるべき。なれないなら、お前はおかしい。努力が足りない。駄目人間だ。
元は異性に好かれたいっていう話だった筈なんですが、いつの間にか帝国臣民・非国民みたいな話になってしまっています。
女の子って可愛いな。
いいよな、付き合いたいよな。
いや、付き合うとなると大変だぞ。
そりゃ、既に女の子に好かれてる人間の言い分だ……。
みたいな話を馬鹿みたいにしてりゃ、それが一番間違いがなかったんでしょうが、どうしてこんな所に来てしまったんでしょうか……。
花の慶次の中に出てきたフレーズで「虎はなぜ強いと思う? もともと強いからよ」という身も蓋もないものがありますが、実際はそのとおりだったりします。
コミュニケーションが出来ている人はそれが自然と出来ているに過ぎず、自発的に努力してそれを何とかしようと思った時点で、亀はウサギにはなれないことを自覚すべきなのです。
ウサギと亀の童話は、ウサギが手を抜かないと亀は追いつけないというどうしようもない話だったりします。そもそも亀はウサギにと競争を挑むのではなく、泳ぎの競争や暑さの我慢比べなど、自分の得意領域で戦いを挑むべきだったのです。そこに「女を獲得したい」という本能的な空隙がある以上、コンカツ市場と同じで、砂漠で乾き死にしそうな人間に、グラム一万円で水を売りつけることに等しいのです。
第一相手にも色々好みがあり、また割れ鍋に綴じ蓋という適材適所のケースもあるのに、満遍なく誰からも三回は「モテ期」があるはずだという確証のない言葉に踊らされること自体がナンセンスです。
こういうと負け犬の遠吠えという人もいますが、なに、この世の人間が分かり合える、分かって貰えるという錯覚や期待があるから苦しむのであって、いわせたいやつには言わせておけばよいのです。
己の信じる価値観の中で納得をして幸せを掴むことこそが大事なのです。
それゆえ、荒木先生は『変人偏屈列伝』などの周囲の理解を得られなかったけども、自分の価値観を推し進めた人々を荒木先生なりの愛で描いているのです。