私は、日蓮正宗法華講の末席を汚すようになってから、もうすぐ半年になります。
当初、日蓮正宗法華講が創価学会を目の敵にするさまを見て、「世間はこの様子をどう見るのだろう」と考えたことがあります。
つまり、ちょっとした見解の違いで袂を分かった”元同門の徒”同士が、つまらぬ意地の張り合いをしていると見る向きも多かろうと、少しの不安を覚えたのです。
わが国は無宗教の人が多く、いちじ「チャペルでの結婚式」が流行ったのも、「おしゃれだから」という理由からでした(実は費用が安いという点も重要でしたが)。
日蓮正宗の教義は厳格であり、他宗他門を含めすべての別宗教を否定します。
天に二日(にじつ)は無いからです。
「本門戒壇の大御本尊を拝まない者はすべて地獄に堕ちる」と断言し、生半可なカルト宗教顔負けの徹底ぶりです。
しかし、宇宙は一つなのですから、そのルール(法則)も唯一のはずです。
「そのルールとはこれだ!」と指し示す者が、もしインチキ新興宗教の主であったなら、それを信じる人は不幸になるでしょう。
しかし、それが本物のお方すなわち本当の仏様であらせられるならば、それを信じるべきです。
私たち人間の究極の幸福のために、信じなければなりません。
そして、求めなければいけません。
自分自身の幸福のために、です。
誰一人として例外はありません。
幸福とは、お金をたくさん持つことである、家族と仲良く暮らすことである、社会的に認められることである、自分の好きなことをやることである、等々、幸福観とは人それぞれ違うものです。
しかし、我見に固執する者が本当に幸福になることはありえません。
ずば抜けて金運に恵まれる人、オリンピックで優勝するくらい運動技能に優れた人、世界に名を知られるほど頭の良い人、等々、誰の目から見ても「幸福」な人は大勢います。
それとは正反対に、貧乏、病苦、さまざまの苦境にさいなまれ、見るからに不幸な人もまた多くいます。
しかし、お金がありながら地位がありながら地獄を味わう人、幸福の絶頂にあるかに見えて耐え難い苦悩を抱えている人も多く、反対に、明らかに不幸な境遇であるにもかかわらず実は幸福感でいっぱいの人もいるのです。
「気の持ちよう」、「足るを知る」などの”いいわけ”で不幸な自分をごまかしたり、「運命」だと言ってあきらめることもできるでしょう。
そして、「人生は一度きり」と言って、好きなこと楽しいことばかりを追い求めるという生き方もあります。
しかし、これらはすべて「自分はこう思う、こう考える」という我見に過ぎないのです。
宇宙も、この地球も、私たちが創ったものではありません。
したがって、そのルール(法則)もまた、私たちの知らないところで出来上がったものに違いありません。
最も大切なのは、宇宙のルールを正確に知ることです。
知らないことを憶測や気分や人の意見によって決めたり、分かったつもりになったとして、それが当たっている(正解である)可能性はどのくらいあるでしょう。
無論、一部分は当たっていることもあるでしょう。
「真面目にやっていればいつか必ず報われる」?
マルでしょうかバツでしょうか。
「正しく生きれば幸せになれる」?
「良いことをすれば天国に行ける」?
賢明な方はもうお分かりのように、そもそも「良い」とか「悪い」とかいったことの定義が定まっていないのです。
「人殺しは悪いこと」。
では狂気の殺人者に対する正当防衛は?
「人に情けをかけるのは良いこと」?
情けがかえって相手のためにならないこともあります。
さあ!どうしましょう?!
私たちは、どんなルールに則って生きれば幸福になれるでしょう?!
「法律」なんてもちろん論外です。
国によっても違うし、時代によっても違います。
そうしてコロコロ変化するものが「真理」であるはずもありません。
真理は永久不変でなければ、過去・現在・未来のつじつまが合わなくなってしまうからです。
かのアインシュタインは、その真理(宇宙のすべてを矛盾無く説明できる単一の理論)を見つけようとしましたが、志を果たせずして去りました。
かつて釈尊(お釈迦様)は、「私が全人類を救うことのできる唯一の人間である」と仰せになりました。
釈尊は仏様であり、宇宙のルールを完全に知ったので、皆に教えることができるし、そもそも”幸福実現のシステム”はそうなっている(本仏に帰命して初めて幸福になれる)のだとお説きになったのです。
そして後には、「末法には私の教えが通用しなくなるから、上行菩薩の再誕を待ってそれに従え」と仰せになりました。
今がまさに末法の時代であり、上行菩薩は蓮長様というお坊様(後の日蓮聖人)としてこの世にお生まれあそばされました。
末法の御本仏日蓮大聖人その御方であらせられます。
こうして見ていくと、多くの方々からは到底信じてもらえない内容がいくつかあることに改めて気がつきます。
だから、この正しい仏教(本物の仏様の教え)を信仰する者は、人から謗られ、受け入れてもらえません。
しかし、この御法を護持する者は、必ず幸福になれるという確信が、私にはあります。
今の私は、それでも今は不幸だと思います。
まだ信心が浅すぎるからだと思います。
そこがまた難しいところで、人からこの御法が正しいと分かってもらえないところです。
やはり正法は解りづらい(解りづらくできている)のです。
ここで「創価学会」の話に戻しますが、池田大作氏はニセ本尊を大量生産して流布し、日本を魔の巣窟にしました。
そして、創価学会員の中から、精神異常者、精神病者、自殺者、不幸になる人を大量に出しました。
だから、何を措いてもこの人たちを先に救わねばなりません。
創価学会員の中には、魔の通力(偽りの神通力)によって一見幸福な竟界にある人もまた大勢います。
しかし、ここでまた「魔の通力」なのか「神通力」なのか、分かる人にしか分からないという厄介な面があります。
今は分からなくとも、いつか分かってくれるその人たちは、実は今世では数が限られています。
急ぎ急ぎ、「その人たち」との出会いを願い歩を進めるのみです。
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日蓮正宗は本当に正しいのか〜「分かる人には分かる」真理の不思議
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