はじめに
ダルク女性ハウスで二週間のフィールドワークをおこなったのは二〇〇三年冬のことである。私(大嶋)はその前年に札幌で「それいゆ」という女性のための施設を立ち上げたばかりで、薬物依存症の当事者であり施設長でもある上岡陽江さんの実践に学ぼうと思ったのだ。
当時、ダルク女性ハウスは荒川区の町屋にあった。まだ下町情緒の残るその道をメンバーと歩きながら感じた、かさかさとした寒さが今も記憶の底にある。その後何度も上岡さんやメンバーから聞き取り調査をおこない、そのたびにダルク女性ハウスに寝泊まりさせてもらうおつきあいが続いた。
彼女たちに話を聞くなかで、あるいは精神科病院や女子刑務所での出会いを通じて、多くの女性たちが理不尽な体験を生き延びる自己対処としてアルコールや薬物を使っていることを知った。そして、そのような自分自身を深く恥じていることも知った。
罪悪感と恥の感覚は事態をさらなる悪循環に誘い込み、彼女たちが表出する“症状という言葉”は他者を巻き込む。そこで付けられた「依存症」「境界性パーソナリティ障害」といった診断名は、彼女たちを救うどころか“厄介者”のレッテルとして機能する。再発すれば“恥知らず”の代名詞として使われる。
しかし、「女性嗜癖者の回復は難しい」などとわかったような顔で解説する前に、何が彼女たちの回復を難しくしているのかを探る必要があるのではないだろうか。
本書は、暴力をはじめとする理不尽な体験そのものを生き延びた
その後、今度は生きつづけるためにさまざまな不自由をかかえる人たちの現実を描いている。
上岡さん自身がそのように生きてきた当事者であり、同時に彼女たちの支援にも携わっている。私は精神科医療現場でソーシャルワーカーとして仕事を始め、その後民間カウンセリングルームや地域の社会復帰施設を経て、みずからが施設を立ち上げて現在に至る。
このように違う立場ではあるが、ふたりには共通点がある。第一に彼女たちの体験を特別な人に起こった特別なことと見なさずに、いくつかの条件が重なってしまうときに誰にでも起こりうると考えていること。第二に「当たり前に生活が送れる」ような変化は、長い時間経過のなかでしか起こらないと知っていること。第三に、だからこそ支援する人たちにも疲れや諦めが出やすいので、援助者自身が多くのサポーターをもつことを勧め、みずからも実践していることである。
本書はまた、理不尽な体験を生き延びている渦中のご本人が読んでくれることも想定して書かれている。日々の暮らしのなかで、きっと普通にできるはずと自分では感じることが思うようにならずに、苦労されているのではないか。そんな経験の全部というわけではないけれど、ここに書かれている具体的エピソードのいくつかに“自分”を見つけてくれたらいいなと思う。いまは出会っていなくとも、必ずつながっていける誰かがいるはずである。
上岡さんも私も、これまでつきあってきたたくさんの「その後の不自由」を生きる人たちを思い浮かべながら本書を書いた。彼女たちの、症状にかき消されがちな言葉を、ひとりでも多くの人に届けられたらうれしい。
大嶋栄子