陶磁の歴史

韓国陶磁の歴史

伊藤郁太郎

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朝鮮半島における近年の考古学上の収穫の一つは、土器の起源に関する新資料の発見である。いうまでもなく、陶磁の歴史は先史時代の原始土器をもって幕を開けるが、朝鮮半島の場合、櫛目文土器を最古のものとする見解が、従来の通説であった。ところが1969年から71年にかけて釜山市影島区東三洞貝塚における櫛目文土器の層の下から、尖底・円底無文土器や平底隆線文土器などが発見され、注目を浴びるところとなった。それらは櫛目文土器とは明らかに異なる特徴を持ち、その層位や伴出石器などから見て、櫛目文土器より古い文化層に属するものと考えられている。放射性炭素年代測定によると、紀元前4000年紀を示し、それを前提とする限り、西北シベリアの影響を受けたと考えられて来た櫛目文土器より、大幅に時代を遡ることとなった。これら先櫛目文土器と名づけられたものは、東三洞のほか、慶尚南道新岩里や咸鏡北道西浦項貝塚などからも発見され、最古の土器文化がひろい地域にまたがっていたことが推測される。そして、それらの中に含まれていた豆粒文土器が、わが国の長崎県泉福寺洞穴や福井洞穴などから発見される日本最古と考えられている豆粒文土器と類似することは、日本と朝鮮半島の交流の歴史を考える上できわめて興味ある間題を提出している。

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朝鮮半島における新石器時代の土器を代表するのが、櫛目文土器である。この名称は、1930年、藤田亮策氏によって名付けられたが、北方ユーラシア Kammkeramikに類似しているとの観点から、それを直訳したものである。「必ず二本以上の線又は点線が平行してつけられていることを条件」としたが、その後の調査で、必ずしもこの条件に当てはまらないものがあり、また、Kammkeramikの内容とも相違する点が次第に明らかにされてきたので、櫛目文土器の呼称の代りに、有文土器、あるいは幾何文土器と呼ぶ見解もある。いずれにせよ、朝鮮半島の櫛目文土器は、遠くスカンジナビア半島に端を発し、ウラル山脈を越えてシベリア一帯にひろがった文化と、直接つながりをもつものである。中国東北地方には、典型的な櫛目文土器文化は発達しなかったが、それは北から南への文化の伝播が早く、そこで定着する暇がなかったものと考えられる。これら櫛目文土器は、地域的や時代的にかなりの変化を見せるが、基本的には尖底の半卵形の器形を持ち、口縁部に短かい斜線文、胴部に綾杉文や斜格子文などを貝殻や骨片で押捺し、あるいは陰刻していることが特徴である。上限はほぼ紀元前3000年と推測され、紀元前1000年紀の初頭ごろまで、朝鮮半島のほぼ全土にわたって盛んに製作されたと見られている。

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紀元前1000年紀には、無文土器が主流となった。この時代は、朝鮮半島における青銅器時代とほぼ一致する。文様がないか、あるいはあってもごく少ない赤褐色の平底の土器である。成形にはまだ轆轤の使用は見られず、手捏ねか輪積みによるものがほとんどである。分布は、中国の東北地方、西は遼河から東は黒龍江・松花江にまたがる地方と深いつながりを持ち、櫛目文土器文化とは違った文化圏が形成されていたことがわかる。そしてこの無文土器は、さらに東に伝わり、わが国の弥生土器の母胎ともなった。

無文土器の遺跡からは、しばしば中国の影響を受けた黒色磨研土器と丹塗磨研土器が出土する。前者は、龍山文化の影響を受けたもので、咸鏡北道を中心として半島中部・南部でも発見され、ある程度分布はひろがっている。しかし、中国の黒陶のように轆轤は使用されず、また表面を研磨したものが少ない。後者は、仰韶文化の彩陶の変形と見られるものであるが、半島の北部、とくに黄海に面した地方から全く出土を見ないことから、中国からの文化の伝播経路についての間題を投げかけるものである。

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紀元前後から3世紀の終りごろまでは、三韓時代、あるいは原三国時代と呼ばれている。

この時期には、陶質土器が発達した。叩きだしによる縄蓆文や格子文などをともなう高火度焼成による硬質土器である。登窯や轆轤の使用もみとめられ、新羅土器の先駆ともなっている。この時期を、土器から陶質土器への転換期として捉えることができよう。

北に高句麗、南に新羅と百済が鼎立するのが4世紀から7世紀後半までで、この時期は三国時代と呼ばれている。しかし、6世紀前半まで洛東江流域に存続した伽耶は、その文化的発達は他の三国に劣らず、これを三国時代に加えるのが妥当であろう。

三国時代の土器は、資料的に整っていない部分もあるが、ほぼ二種類に大別できる。すなわち、軟質灰青土器と硬質灰青土器とである。これらを主流として、各国がそれぞれに特色ある陶器を発達させた。

1)高句麗

高句麗は首都を平壌に置き、その位置関係から他の三国に比べると、最も強く漢式土器の影響を受けている。すなわち、生産の主流を占めるのは灰青軟質土器であり、黒色磨研土器も一部見られた。また、表面に彩文をほどこした彩陶も、わずかながら生産された。高句麗の陶器では、黄釉陶の生産がきわだち、とくに器形では四耳壺が多いのが特徴である。

2)百済

百済は当初、都を漢城(ソウル)付近に置き、その後、公州、さらに扶余に遷都した。その間、主流を占めていたのは、硬質灰青土器であり、陶質土器の伝統を受け継いだものと考えられる。このほか、軟質赤褐色土器と、高句麗と同じく黒色磨研土器も生産された。陶器では、扶余時代の後半、7世紀ごろになって、緑釉陶の生産が始まった。その代表的作例は、東京国立博物館にある緑釉長頸瓶で、美しい釉色・器形・施文に当時の技術水準を見ることができる。百済に関しては、土器・陶器の発展もさることながら、その古墳から中国・越州窯青磁が発見されることに注目したい。すなわち、忠清南道天安市城南面花城里からの天鶏壺と盤口壺、江原道原州市富論面法泉里二号墳からの羊形器、忠清南道公州郡公州邑宋山里・武寧王陵からの広口六耳壺・盤口長頸四耳壺・燈盞などである。これらは、百済が中国南朝との交流に積極的であったことを雄弁に物語っている。

3)古新羅・伽耶

古新羅は慶州地方、伽耶は洛東江流域を中心に発達し、その土器生産には互いに共通するところが多い。これらは高句麗の土器とは異なり、百済土器ともやや相違を見せている。

これらの地方では、軟質赤色土器が普遍的に見られるが、それと同時に、硬質灰青土器も大量に作られている。器形・文様ともに多様化し、精巧をきわめたものがある。この時代でさらに注目したいのは、土偶および異形土器と称される鴨・騎馬人物・車輪などの副葬品で、その独特な造形は、古代土器の中でもひときわ異彩を放つものである。

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新羅が伽耶を併呑し、百済に引続いて高句麗を席巻して朝鮮半島を統一したのは、668年のことである。爾来、935年に、新羅最後の敬順王が高麗に降伏するまで、約270年間にわたって、統一新羅時代は中国・唐の文化の影響を強く受けた一大文化国家を形成した。それは同時に仏教への傾斜の時代であり、8 世紀には仏教の全盛期を迎えた。とくに仏国寺や石窟庵はそのころの代表的建造物であり、新羅美術の精粋を今日に伝えている。陶磁器についても、仏教の影響が明らかに認められ、それは火葬骨壺に典型的にあらわれている。8世紀ごろの骨壺は、無釉の灰青硬質土器の表面全体にさまざまな文様の印花文を押捺し、独特の装飾効果を見せるものである。また、黄褐釉や黄緑釉などの低火度鉛釉をかけた骨壺も、少なからず焼成された。このほか、副葬土器については、出土遺物が十分でなく、その変遷過程は明らかではない。ただ特記すべきは、1970年代の「慶州綜合開発計画」の一環として、1975年から76年にかけて実施された慶州市仁旺洞にある雁鴨池の発掘調査によって、20,000点に及ぶ遺物が出土し、その中に、2,000点近くの土器が発見されたことである。これらの土器は、大半が日常容器であり、従来まったく知られなかった器形も見出されて、統一新羅土器の資料に豊富さを加えた。

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高麗時代は、918年に王朝が建立され1392年に滅亡するまで、475年の長きにわたる時代である。この間、陶芸技術はめざましい進歩を遂げ、韓国陶磁史における黄金時代を築きあげた。それは青磁中心の技術確立の時期として捉えられる。高麗青磁の起源については、現在、まだ解明されていない部分を残している。しかし、中国の越州窯青磁の影響を受けて発達したものであることは、今日、疑い得ない事実である。最盛期の高麗青磁を焼成した生産地の中心の一つは、全羅南道康津郡大口面沙堂里であるが、その付近、150余箇所に及ぶ窯址においては、初期から末期に至るまでの青磁の変遷過程を連続的にたどることができる。そのうち、最古と思われるものが大口面龍雲里などの窯址であり、そこで越州窯青磁と類似したものが大量に発見されるのである。とくに「蛇の目高台」や双鸚鵡文などの彫り文様など、両者の区別がつき難いほど類似している。同様の蛇の目高台は、また京畿道龍仁郡二東面西里の白磁窯址においても発見される。この「蛇の目高台」をともなう碗の様式は、8世紀ごろから五代にかけて越州窯で見ることができ、何時ごろ朝鮮半島にその技術が伝播したかについては、9世紀前半説から11世紀前半説に至るまでの諸説がある。しかしそれを裏づける確実な資料がないため、現在のところ定説とされるものはないが、10世紀前半と見る説が、現在の段階では妥当なように思われる。それはまた、高麗時代における陶磁生産の担い手である「瓷器所」の成立ともあわせて考察されるべきであろう。高麗時代においては、陶磁などの特定産物は、王室直轄の「所」という生産組織で調達されていたことが、近年明らかにされており、その「所」の成立が、10世紀中ごろと推定されているのである。いずれにせよ、10世紀代においては、青磁生産の態勢は十分形を成していたと考えられる。

11世紀はその後半に至って、それまで契丹との関係を顧慮して正式な通交を見合せていた宋との関係が修復され、盛んに宋の文物が請来された時期であり、陶磁についても、越州窯のみならず、汝窯や定窯など多くの中国陶磁の技術を摂取し、陶磁発展の基礎を固めた時期と推測される。そしてやがて12世紀の最盛期を迎えることとなった。

宣和5年(1123)、高麗の都・開城を訪れた中国使節団の一員、徐兢という人物が著した旅行見聞録『高麗図経』に、そのころの陶磁に関するいくつかの記述が見られる。それによれば、青磁の美しいものは翡色と呼ばれ、塗金の器や銀器などより貴ばれていたこと、「精絶」と評されるほどの精緻な彫り文様をともなうものが製作されていたこと、中国、汝窯・定窯などの製品に類似したものがあったことなどを伝えている。また、王陵からの発掘例によっても、12世紀前半の翡色青磁が比類なく美しい釉色を示していたことが裏付けられるのである。また同じころ、高麗独自といわれる象嵌青磁を創出している。象嵌技法そのものは、既に唐時代の中国陶磁に見られるが、それはきわめて稀な例であり、12世紀中ごろから14世紀末まで陶磁生産の主流を占めた象嵌青磁は、やはり高麗に特有の装飾技法であったと考えるべきであろう。青磁釉の下で織りなされる白黒象嵌文様は、鮮麗でありながら沈潜した優美な味わいを持つものである。これらの翡色青磁と象嵌青磁の優品は、全羅南道康津郡大口面沙堂里と、全羅北道扶安郡保安面柳川里の二箇所を中心に主に生産された。12世紀から13世紀にかけて、このほか鉄絵具や白泥で文様を描くもの(鉄絵・白泥彩)、酸化銅の顔料を利用するもの(辰砂)、青磁の釉下に鉄泥をひくもの(鉄地)、三種類の胎土を練り合わすもの(練上)、金彩を加えるもの(金彩)など、さまざまな青磁が生みだされた。また、わずかながら優秀な白磁も、柳川里で焼成されている。

しかし、その後、1231年以来蒙古軍の侵略が相つぎ、30年ほどの間、江華島に遷都するなど苦難の時期を迎えた。それにも拘らず象嵌青磁は、14世紀末までに大量に生産されている。少くとも、1365年から1374年に至るころまで、官窯である瓷器所が存続していたことは、高麗恭愍王の王妃の陵墓である「正陵」銘をともなった青磁の皿の存在によっても、推測されるのである。それらは最早、材質・成形・施文・焼成などすべての点において衰退した姿を見せており、やがて朝鮮時代の粉青として転生して行くのである。

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1392年から始まり、1910年に終るという長大な朝鮮王朝の歴史のなかで、陶磁の生産がどのように展開し、盛衰していったかを明晰に跡づけて行くことは、今日の資料では不十分なところがあり、朝鮮時代の陶磁の歴史は、まだその全貌をあらわすに至っていない。しかし、この500年ほどの長大な期間を鳥瞰するとき、始めは幾つもの流れ(粉青・白磁・白磁象嵌・青花・黒釉・灰釉・泥釉など)がある中で、二つの流れ(粉青と白磁)が突出していることが判り、途中からその流れのうちの一つ(粉青)が途絶えを見せる。残る一つ(白磁)が最後までいくつかの支流(青花・鉄砂・辰砂)をともないながら滔滔と流れ続いているさまが、うかがえるのである。

朝鮮時代の前期を代表するのは、粉青である。1940年、韓国の美術史家、高裕燮氏によって名づけられた「粉粧灰青砂器」の略称であり、今日、欧米でも buncheong(粉青)として慣用化されている。日本では、俗に三島と総称し、時に三島と刷毛目とに分ける場合もある。鉄分を含む灰鼠色の胎土で成形し、青磁釉に似た釉薬をかけて高火度で焼成している点で、高麗青磁の技法をそのまま伝承したものである。事実、象嵌文様をあらわしたものについては、高麗の象嵌青磁との区別をつけることは困難であり、今後の研究調査によって、その編年を改めなければならない可能性もある。粉青の大部分は、ただ一点、釉下に白泥による化粧がけをほどこし、そこにさまざまな手法で文様をあらわすことによって、高麗青磁と一線を劃している。それにともなって、文様もまた、まったく新しい朝鮮的な意匠に変貌を遂げているのである。粉青は、その施文方法によって、次のように分類できる。

  • 1.象嵌(線象嵌・面象嵌・逆象嵌)
  • 2.印花
  • 3.白地(刷毛目・掻落・線刻・鉄絵)
  • 4.粉引

15世紀前半には、司院という官司が陶磁の生産を受け持って居り、その傘下に、磁器所が139箇所、陶器所が185箇所、合計324箇所の生産組織があったことが『世宗実録地理志』によってうかがえる。磁器所と陶器所でそれぞれどのような種類の陶磁を生産していたかについては、現在諸説があり、はっきりしない。しかし白磁が磁器所の一部で生産されていたことだけは、間違いないことと思われる。

とくに15世紀の白磁は、中国の白磁の技術を取り入れて純白の輝くような白磁を作りあげた。それらは、宮中用、あるいは中国への進貢用に製作されたもので、『慵斎叢話』という15世紀後半ごろの随筆集にも、「世宗朝(1419−1450)の御器は、もっぱら白磁を用う」との記述がある。これら上質の白磁は、139箇所の磁器所のうち、京畿道の広州と慶尚道の尚州および高霊の3箇所に限られていたが、やがて精良な白磁胎土の不足を来たし、15世紀の後半には、白磁の民間使用が禁止されるまでに至った。また、15世紀中ごろから、白磁の釉下に文様を描く青花磁器、すなわち染付が、広州官窯の一つ、広州郡中部面道馬里などで製作された。これらの絵付けには、都から画院の画家が派遣されて筆を取ったことが記録として残っており、それを裏付けるように見事な筆致で梅・竹・松などを描いて清新の気を漲らせたものが多い。しかし、いずれも宮中の御用品であり、民間に行きわたるほど量産されたものではなかった。

16世紀の陶磁生産の状況は、現在まだ十分には判っておらず、今後さらに詳しい資料が待たれるところである。

1592年、1597年の壬辰の乱、丁酉の乱から1627年、1636年の丁卯・丙子の乱までのほぼ40年間は、朝鮮時代の歴史のなかでも、政治・経済・社会・文化などあらゆる面で停滞を見せた暗黒時代であり、陶磁生産についても大きな断層を生じた時期である。この時期の前後では、陶磁の様相が一変してしまうのである。その最大の現象は、前期に盛んに生産された粉青の消滅である。そして、この時期以後、白磁が主流を占めることになる。各地で白磁の窯が興り、粗製の白磁が生産される一方、官窯は京畿道広州地方に集約されることとなった。そこでは前期と異なった器形・釉調・文様の白磁と青花がつくりだされた。とくに青花は、その抑制された寡黙で質実な表現により、中国陶磁の影響を完全に離れた朝鮮時代独自の美の世界を打ち立てた。近年、韓国国立中央博物館の鄭良謨氏、尹龍二氏の綿密な調査研究により、17世紀前半から18世紀に至る広州官窯の実態が明らかにされつつあり、朝鮮時代中期の陶磁の解明に大きく貢献している。17世紀にはまた、広州や忠清北道槐山などで、釉下に鉄絵具で文様をあらわす鉄砂がさかんになり、18世紀に入ると、銅分を含む顔料で文様をあらわす辰砂が作られたが、辰砂の生産地はいまだに不明である。

1752年、官窯は、京畿道広州郡南終面金沙里から分院里に移設された。この年以降、1883年に分院里窯が官窯から民窯に移管されるまでを、朝鮮時代後期と区分している。分院里窯では、多種多様な技巧をくりひろげた。それは、おそらく乾隆ころの清朝文化の隆盛による刺激や、英祖・正祖という英邁な国王の治下に当っていたことも影響しているであろう。とくに、中国からのコバルト顔料の輸入が潤沢になったため、青花の製作が盛んになったことは注目される。陶磁の用途も、酒器・食器・文房具・化粧道具をはじめ、枕側板・燭台・日時計・はかり・植木鉢・喫煙具など多岐にわたっている。文様も多様になり、描法は繁縟さを加えることとなった。鉄砂・辰砂・瑠璃、あるいはそれらの併用も見られ、装飾的効果を狙うようになり、陶磁器の工芸品化が進められた。19世紀後半になると、アメリカ・フランス・日本など外国勢力の侵入もあって国政は乱れ、1883年、広州官窯最後の砦・分院里窯もついに民窯に移管され、500年にわたる栄光の歴史を閉じたのである。

(大阪市立東洋陶磁美術館 名誉館長)