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【正論】東京大学教授・坂村健 難しい時代だから「正義」を語る
≪サンデル・ブームの背景≫
米ハーバード大の教養コースにおけるマイケル・サンデル教授の人気講義、『Justice(正義)』を元にした本が日韓両国で話題になっている。日本での書名は『これからの「正義」の話をしよう−いまを生き延びるための哲学』。政治哲学、応用倫理学、道徳哲学の分野にわたり、まさに、正義やモラルに関して突き詰めて考えるという内容である。
講義を収録した米国のテレビ番組も、『ハーバード白熱教室』の題名でNHK教育で放送され、本は日韓とも40万部を超すベストセラーとなった。興味深いことに、米国では白熱していないらしい。ランキングに載ったのは放映開始直後の1、2週のみだ。
とはいえ、これだけ「硬い」番組や本がこうも話題になるとは、どこのマスコミ関係者も思っていなかったようだ。火付け役はツイッターでの口コミで、むしろ日韓ではその人気に驚いたマスコミが後追いしている状況だ。
韓国の状況はよくわからないが、日本でこの番組や本が話題になっている背景に、政治でも経済でも社会でも難しい問題がどんどん増えているという現状があるのは確かだろう。簡単に答えの出ない社会問題を判断しようとするとき、判断のモノサシが必要になるが、それは綺麗(きれい)事のようでもやはり「正義」しかない。
日本では、「そんな難しいことはお上がうまくやってくれる」で何とかなってきた。だが、今や、年金の世代間格差など何ともならない問題だらけだ。例えば、本来は喜ぶべき世界の貧困削減と自国の失業者の減少が両立しないとしたら、どちらが正義なのか。まさに、日本は「正義の哲学」に目覚めざるをえなくなっている。
≪氾濫する分かりやすい解説≫
そして重要なのは、これが「難しい話を分かりやすく『難しい』と示してくれる」稀有(けう)な番組であり本であるということだ。
「難しい話を分かりやすく解説してくれる」本は巷(ちまた)に溢(あふ)れ、そういう解説番組も増えている。地上波が現実逃避的番組ばかりではなくなったのはうれしいが、いまだにマスコミは視聴者のレベルを低く見積もりすぎているのではないかと思う。「分かりやすく解説」は、結局問題の単純化であり、予定調和して一つの単純な答えに至る。それに対し、サンデル教授の本が「分かりやすく『難しい』と示してくれる」ということは、その問題がなぜ単純でないかを理解させてくれるという意味だ。
確かに、講義も、まずは問題の哲学的側面を明確にするため単純化して問題を提示する。例えば、「1人を殺すか5人を殺すかどちらかを選ばないといけないとしたらどうするか」という具合だ。大方の学生が「1人」を選ぶ。
だが、そこで終わらない。「健康診断に来た健康な1人を殺して臓器移植すれば、5人のけが人を助けられるとしたら」、「それは殺せない」となる。その両極端の間にいろいろなケースがある。ではどこで線を引くべきか。
この問いは決して単なる机上の空論ではない。アフガニスタンで秘密作戦行動中に偶然、遭遇したヤギ飼いを殺さなかったために、友軍16人を失うことになった米兵の正義はどこにあるか、といった重い実例も示される。
≪複雑な現実、単純化は危険≫
米国で大きな議論になったさまざまな実例を取り上げ、先人の提示したさまざまな「正義」を適用して違いを見る。そして結論に違和感があるなら、それをまた反映して考えを深化していく。
教授自身が講義で語るように哲学は危険だ。各自が「すでに持っていると思っていたモノサシ」の欠点を暴き、アリストテレス以来の多くの賢人がその問題で悩んでいたことが提示され、今も正解は決まっていないと知らされる。講義を受けた後の方が、より知的になったと思える半面、より不安になっていてもおかしくはない。
しかし、そもそも社会は複雑な問題で溢れているのであって、それを単純化してはいけない。難しい問題を難しいと理解し、なお咀嚼(そしゃく)する知的体力が今、日本に求められているのである。
著書では、決して絶対的ではないとしつつ、自身のモノサシも示される。一般に「コミュニタリアニズム」と言われる立場だ。
そこで提示される、過去の世代に対するコミュニティーとしての責任問題は、米国も含む世界の蛮行の中に慰安婦問題を入れていることもあり、日本でも話題にしている人がいる。しかし、よく読むと分かるが、サンデル教授は「過去に対する責任感」を「愛国心」と切り離されないものとして語っている。「愛国心」を否定しながら、「過去に対する責任感」をことさら言うのは、謝罪する主体と自らを切り離したいという責任逃れを感じさせて筋が悪い。
また、教授も「では、ハワイを返そう」とはいってないわけで、謝罪はあくまで謝罪。無限責任ではない。「謝罪の限界」を考えに入れた「正義」について、ぜひ教授に聞いてみたいところだ。(さかむら けん)