平和主義を唱える人たちへ
少し前の話になるのだが、駅前で辻立ちをやっていた共産党の市議会議員(多分)が「世界の全ての人が平和を望めば平和はやってくるのです。なのに・・・」とか何とか言っているのを聞いた。その時は「宗教がかってるなぁ」と思っただけで通り過ぎたのだが、後になって少し考え直した。それが実現可能だと思っている人は少ないにしても、「みんなが望めば平和になる」と考えている人、それを(無意識のうちに)前提にして平和や戦争を語る人は結構多いのではないか、と。
筆者はこの「みんなが平和を願えば平和は訪れる」という考え方がどうしても好きになれない。正直言って、思考停止の言い訳に使っているとしか思えないのだ。今回はそのあたりのことを考えてみたい。
結論から言えば、地球上の60億人の人間全てが、一人の例外も無く平和を心の底から望んだとしても、平和が訪れる事はありえない。平和を望むことと、平和という状態を作ることの間にはなんの関係も無いのだ。
試しに、ちょっとした思考実験をやってみよう。ある無人島に2人の人間が漂着したとしよう。この無人島には海の幸も山の幸もふんだんにあり、2人は毎日腹八分目くらいまでは食べることができる。ただし、食料は無尽蔵ではなく、2人が満腹になるほどは食料は取れないものと仮定してみよう。また、このふたりは心の底から平和を愛しており、自分の相棒を排除して食料を独り占めすることなど想像すら出来ない人畜無害な人たちであると考える。
この前提条件が、一般社会に比べて随分争いごとが起きにくい条件である事は読者の皆さんにも同意してもらえるだろう。では、この仮定は無人島の平和を保証する事ができるのだろうか?残念ながら答えはノーだ。
彼らは自分自身が平和を愛しており、相手を害する気持ちが全く無い事を当然知っているが、読心術をマスターしているわけではないので、互いのパートナーが何を考えているかは知ることが出来ない。だから、ふたりともパートナーが実は平和を愛していないのではないか、自分を後ろから刺すつもりなのではないか、という疑問を完全に拭い去ることが出来ない。もちろん、日々の会話の中で相手を害する気持ちが無い事はいくらでもアピールできるのだが、いくら口で説明してもその説明が嘘で無い事を証明する事は出来ないのだ。
さぁ2人の状況は非常に不安定だ。ふたりとも争いごとは好まないのだが、無防備にかーかー腹を出して寝ている間に訳も分からず殺されてしまうのはもっといやだと考えている(もちろん、たまには「殺すくらいなら殺される方がマシだ」と言う人もいるのだろうが、それを実践する人は常識的にも歴史的にも極めて少数なので、考えないことにする)。相手の事を信じたいのだが、信ずるに足る保証は何も無い。相手が平和を望んでいない確率は多分かなり低いのだが、馬券を買うのと同じ感覚で自分の命を賭けるのは馬鹿のやることである。
この場合、自分が「確実に」生き残るための唯一の方法は、相手を殺すことだ。相手が自分を殺そうとしているという疑念を100%払拭する方法が存在しないからだ。馬券と違って自分の命はかけがえの無いものなので、例え確率が低くても殺される可能性があるなら、自分が先手を打って殺してしまった方が良い。だから、ふたりがどれだけ平和を願っていたとしても、その彼ら自身が凄惨に殺しあう可能性は高い。というより、上の条件から導かれる唯一の結末は、無人島に着くなり互いに殺し合いを始めることなのだ。ふたりは自分たちの置かれた状況を考慮して「今後無人島で生活していく間に相手が自分を殺そうとする確率はゼロではない。それなら先手必勝だ」と瞬時に判断し、同時にナイフを抜くわけだ。
平和を願うふたりの間ですらこのザマだ。もっと人数が多かったら?話す言葉が違ってコミュニケーションに問題があったら?みんなが平和を望んでいたとしても、平和の維持なぞ絶望的だと思わないだろうか。平和を願うのは簡単だ。しかし、相手を信頼する事、信頼してもらう事は、ただ願うことよりもはるかに複雑で難しいことなのだ。そして互いを信じ合えないことこそが平和を壊す決定的な原因なのだ。
随分と突飛な事を言ってるな、と思われただろうか?そう感じるのは、筆者も含めて皆さんが法治国家に住むことに慣れているからだ。いくら殺される可能性があるからと言っても、先手を打って殺してしまっては懲役+殺人の前科で自分の人生は台無しだ。殺しても殺されても自分の人生はパァなので、法治国家に生きる文明人は若干の殺されるリスクを(無意識のうちに)ぐっと我慢して日々を平和に過ごしている。
一方、無人島では当然法律は存在しない(法律を守らせるための警察力が存在しない)ので、殺し合いが起きやすい。しかし、無人島でもふたりが殺し合いを始めないような状況を設定する事はできる。例えば、この無人島にはふたりがかりでならなんとか仕留められる猛獣が徘徊している場合。または、食料をゲットするためにはふたりが協力しなければならない場合。このような場合は、相手を殺してしまうと自分も猛獣に食べられてしまうか飢え死にしてしまうので、又相手にとっても自分を殺すと同じことが起こると確信できるので、ふたりは安心して平和をエンジョイすることができるのだ。
つまり、平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在することなのだ。共通の利害関係が平和のための決定的な要素、すなわち信頼を生むのだ。
残念ながら無人島に猛獣がいなかったとしても、共通の利害関係を作り出す事はできる。例えば、ふたりが自分の腹に小さな爆弾を埋め込み、互いにパートナーの心音が途絶えたら爆発するようにセットすれば良い。ふたりが殺し合いをすることはまずなくなるだろう。たとえふたりがどんな悪人であろうとも、ふたりは絶対的な信頼で結ばれるはずだ。一蓮托生、一心同体の間柄なのだから(ちなみに、「攻めてきたら全面核戦争してやるぞ」という『核による平和(相互確証破壊)』は、まさにこの考え方そのものだ)。
これでお分かりいただけたと思うのだが、例え平和を望んでいなくても、共通の利害関係があれば平和は維持される。平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たないのだ。
まぁ、誰かが教会辺りで必死に平和を祈ってたからといって誰かが困るわけではないので、別に平和を願うことを非難するつもりは無い。問題なのは、こういう感覚で政治や外交を語ってしまう人が少なくないことだ。「みんなが平和を願えば平和になる。私も平和を願ってる。それなのに戦争が続くのはどこかに平和を望んでない人がいるからだ。そうだ、ブッシュが全て悪いんだ!」ってな調子である。願えば平和になると思っているので、戦争の裏に渦巻く様々な政治的・経済的な利害関係など考えようともしない。この利害関係こそが平和をもたらすために最も大切な点であるにもかかわらず、完全に思考停止してしまうのだ。
さらに始末に悪いのは、こういう考え方をする場合「自分は平和を達成するための努力(=願うこと)をしているのに、それを邪魔する奴がいる!」というノリになりやすいことだ。だから自分は相手(ブッシュとか)をけちょんけちょんに非難する絶対的な資格があると信じ込んでしまう。そんなわけで、いわゆる平和主義を唱える人たちは大概独善的で、人の話を聞かない。その上思考停止しているのでは、議論が成立するはずが無い。
平和主義を広辞苑で引いてみると、「平和を理想として一切を律する思想上・行動上の立場」とある。この定義から言えば、極端な話、人類社会を滅ぼすほどの核兵器を用意することも、立派な平和主義なのだ。重要なのは、平和をもたらす思想と行動とはなにか、思考停止に陥ることなく真剣に考えることだ。
平和主義を唱える人たちへ。もう一度、この平和主義の言葉の意味を考えて欲しい。そして、平和をもたらすものがなんであるのか、感情論を排してじっくりと考えて欲しいのだ。そこを抜きにして憲法第9条を尊重せよといくら叫んでみても、憲法前文の「国際社会において名誉ある地位を」占めることなど、到底かなわないことではないか。
本日のまとめ
平和への願いが平和を生む事はありえない。平和のために必要なのはお互いが信頼しあうことだ。
信頼関係を作るもっとも簡単な方法は利害関係を共有すること。
Comments
平和について語るときに忘れがちなのは、「平和」の定義が人によって異なることです。
例えば、領土問題における日本にとっての平和と、中国・韓国・ロシアの平和の定義は異なります。パレスチナにとっての平和とイスラエルにとっての平和も異なります。一国内においても、インドネシアにとっての平和とアチェにとっての平和は異なります。
そのため、各国・各地域にとっての平和を追求すればおのずと衝突が起こり、究極的にはその衝突を解消するために武力(戦争)を用いなければならなくなることになります。
平和を語るときには、誰にとっての平和かをきちんと峻別する必要があるのです。
平和主義者の人たちが平和を語るときには、平和というものが全世界の人々にとって全く同じ意味であるということが暗黙の前提となっています。しかし、現実には、そのような意味での「平和」は存在していません。
平和主義者の論理は、実は最初から論理矛盾を抱えているのだと思います。
Posted by: buyobuyo | January 11, 2005 at 08:39 AM
buyobuyoさん、コメントありがとうございます。
恥ずかしながら、私自身も平和の定義というのは考えていませんでした(本文では世界に二人しかいないケースを考えたので必要なかった部分もありますが)。おっしゃるとおり、お互いの目的が違っている以上、その妥協点をどう探っていくかというのは相当に高度な作業なのでしょうね。このあたり、考えれば考えるほど難しいです。
Posted by: 馬車馬 | January 12, 2005 at 09:26 AM
たまたま流れてきて読みました。いいコメントだと思います。なぜなら、
・「平和を願う人たち」の多くは、非常に劣悪な社会的状況に生きている、
例えば、最貧国の住民に対し、いわゆる先進国の住民と同様に平和を願えと
要求したりはしないし、最貧国の住民が(すぐに)願うことが現実的だと
想像したりもしないのに、彼らがそう考えているかのように見せかけている
からです。こんなバカらしい見せかけは、今時なかなか真面目に書けない
ものです。でも、古典的ですが、基本は大事ですからね。
・彼らは、たぶん「世界の社会的状況・経済的事情を改善すべきだ」といった
内容の主張をするでしょうね。平和を願うことは、利害を問題にすることを、
どうしても含んできますから。あなたの、彼らの「願い」の内実を、ありえな
い位に形骸化させて、説得力を殺ぐ手際は、実におもしろいです。形骸化させ
たのは、同じように平和を「願っている」(はずの)あなたであって、彼らで
はないところがミソですね。つい、ニヤニヤしてしまいます。
「筆者はこの「みんなが平和を願えば平和は訪れる」という考え方が
どうしても好きになれない。」
は、伏線ってことですよね。読み返すと、この部分がすごく偽善的に響きます。
最高です。他にもいろいろ笑えたのですが、あまりに面白くて笑いすぎで疲れ
ましたので、これくらいにします。これからも、面白い芸を披露してください。
Posted by: 通りすがり | March 11, 2005 at 06:57 AM
通りすがりさん:
ちょっと文意がとれないのでお答えしかねますが(なんで突然最貧国の話が出てくるのでしょうか?)、どちらにせよ、通りすがりさんに一時の笑いを提供できたことをうれしく思います。では。
Posted by: 馬車馬 | March 14, 2005 at 12:40 AM
思考実験って、国を個人に例えるの大筋で見るにはは分かり易いですが、二人きりという条件にしろ無理があるのでは・・・
無知な「平和主義者」がいるのは事実ですし「みんなが平和を願えば平和は訪れる」なんてのは確かに偽善ぽくもありますね。
でも、「平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たないのだ。」とまで言い切るのは言葉のあやかも知れませんが、大袈裟、言い過ぎという感じがします。それを願って、あなたの言う結論「信頼しあうこと」にたどりついている平和主義者は多いのではないですか?
日本で、軽く「平和を願う」ってのを具体的に言えば、「昨日と同じ生活が出来る」、「悪い事する人は処罰される」、「人が殺される様なんて見たこと無い」こんな状態が、続けば良いなって意味だと思います。あなたが言う、法律がそんな意識をつくったのかもしれません。
この世に存在する国家はたくさんあり複雑です。あなたが例えた、個人間の関係のように。でも、法律をそこまで意識して生活しますか?もし、意識して無ければ、人と話してるとき、この人とは「利害関係を共有出来ない」って思ったらすぐけんか腰になりますか?法が無ければ「今後生活していく間に相手が自分を殺そうとする確率はゼロではない。それなら先手必勝だ」とまで思いますか?
人間は社会的動物です。例えば、原始時代、法律が無くてもそこまで人間は争い好きじゃなかったと思いますよ。
私は思考停止してますか?
Posted by: 始皇帝氏 | March 28, 2005 at 02:23 AM
始皇帝氏さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
頂いたご質問に順にお答えしていきます。
・世界に2人しかいないという条件設定に無理があるという点について。
これは、本文でも触れている通り、「人数が多くなればなるほど、信頼関係の構築は難しくなるだろう」という仮定に基づいています。ふたりであれば仲良くするかしないかの2択ですが、3人になるとAとだけ仲良くする、Bとだけ仲良くする、両方と仲良くする、Aと仲良くするがBにはそのことを秘密にする、などなど、各プレーヤーの行動パターンは一気に複雑化します。当然、そこには疑心暗鬼の入り込む隙間が増えるわけです。ですから、2人だけという条件に現実味があるか無いかは問題ではありません。むしろ、2人だけという非現実的な(平和になりやすい)仮定をおいても平和が達成できない以上、多人数ならなおさら不可能だろう、というロジックなわけです。
・これっぽっちの役にも立たないのは大袈裟、という点について。
ちょっと分かりにくいのですが、私は本文でまず両者が平和を願っていても平和にならないことを示しました。これは大雑把には「平和を願うこと」は「平和になること」の十分条件ではない、ということを意味します。次に、私は平和を望んでいない人たちの間にも平和が成立しうることを示しました。これは「平和を願うこと」は「平和になること」の必要条件ではない、ということです。そこで、「願うこと」は平和の必要条件でも十分条件でもない、つまり関係ない、ということを噛み砕いて書いたらああなったわけです。挑発的で気が引けたのですが、分かりやすさ重視ということでああいう表現をチョイスしました。気分を害されたのであれば申し訳ありません・・・
・法が無ければ「先手必勝」とまで思うか?という点について。
本文では、思考実験を単純化するためにお互いの利害関係をほとんどないものとして議論を進めました。もちろん、実際にはこの利害関係はものすごく複雑に絡まっています。例え法律が無くとも、警察がいなくても、昔から犯罪を犯したらリンチにあったり、村八分にされたり、人々は様々な社会的ルールを(明示的にも、無意識的にも)作って平和(というより、始皇帝氏さんがおっしゃるような、秩序)を維持してきたわけです。本文の例を使えば、互いの腹に爆弾を埋め込むとか、ひとりじゃ狩りが出来ないとかがこれに当たります。
私が強調したかったのは、人々がトリガーハッピーだということではないのです。人々に秩序をもたらしていたのはこのような社会の(明示的・暗黙的な)ルールであり、より広義には利害関係であり、個々人の「秩序が維持されたらいいな」という思いではない、ということが書きたかったのです。それは国家間関係でも同じです。そして、
そのようなルールがあってもなお、時には犯罪が、戦争が起こるわけです。これは、社会のルールや利害関係が何らかの形で破綻したことを意味します。であれば、平和を保つためにはルールや利害関係をどう改善すべきかを考えるべきであり、そこを無視して(例えば)単純にブッシュを非難するのは思考停止では、と書いたわけです。
もちろん、私は始皇帝氏(笑・・・っていいですよね?)さんが思考停止しているとは全く思いません。人間は社会的動物だ、と喝破されていらっしゃるとおり、そこが平和主義の出発点であるべきだと思うのです。恐らく、始皇帝氏さんが私の文章に違和感を抱かれるのは多分前提条件の設定の仕方(思考実験のやり方)が違うからで、その点は今私たちがやっているように意見を交換して共通点や相違点をあぶりだすことが可能です。私が議論にならない、と書いたのは、人間は社会的動物だ、という俯瞰的な視点を持てない方々のことです。
ところで、今週は多忙でエントリーをかけなかったのですが、始皇帝氏さんのコメントを引用しつつこのコメントをそのままエントリーにしてしまおうかと考え始めたところです。よろしいでしょうか?(まだ決めていないのですが)
Posted by: 馬車馬 | March 28, 2005 at 07:45 AM
馬車馬さん、おはようございます、
トラックバック乱打しております。非常に共鳴させていただきました。トラックバックさせていただいた記事ではちょっと物騒なことを書いておりますが、割と私の根っこにあるのはネットワークに対する興味です。
ストレンジアトラクターとかご存知でしょうか?「カオス」という比較的簡単な数式で表されるにもかかわらず非常に複雑な、予測がしにくい結果を生むというものなのですが、これをアクターというかエージェントというか、シュミレーションで生成することができるそうです。そして、どうも2人とか3人とかのエージェントモデルで、ごく単純な機能(e.g.市場が下がったらドルを買う、あがったら売る)しかなくとも、カオスが生じることが示されています。エージェントの数が増えれば、増えたなりの結果になるらしいのですが...
嗚呼、なにを言っているのか解らなくなってきてしまいましたが、馬車馬さんが展開されているのは十分有効な思考実験であり、たとえ2人の相互作用でも想いも寄らない結果が生じるかもしれないと、それぞれが期待してしまう(まあ、これ自体が相互作用なのですが...)ことは十分に合理性があることだと申し上げたかったです。
Posted by: ひでき | May 16, 2005 at 09:52 AM
はじめまして!たまたま検索していてこちらにたどり着いたのですが、大変、面白く、勉強になります。過去の記事を読むのが止まらなくなってしまいました。
この記事を読んで、「平和を保つために重要」なのは、記事内で語られているようなゲーム理論的な正解に気付くことがないほど人間が愚かであること、なのかもなぁ、なんて、ふと思ったりしました。というより、私は正解に気付かず寝首を書かれそうです(笑)。
・・・ゴミコメントで申し訳ないです。
今後も更新を楽しみにしていますね!
Posted by: Uジロー | May 22, 2005 at 11:13 PM
ひできさん、コメントありがとうございます。
カオスというのは名前は聞いたことはあるのですが、内容は良く知らないままです。ゲーム理論でも二人の相互作用の複雑さを記述することはできそうですが、多分モデルそれ自体が複雑になりすぎて使えないものになりそうですね。そういう分野はカオスなどの新分野の方が便利そうです。うーん、これはやはり教養として分かっておいたほうがよさそうですねー。
Posted by: 馬車馬 | May 24, 2005 at 07:22 PM
Uジローさん、はじめまして。コメントありがとうございます。いえいえ、ゴミコメントなんてとんでもない。
このエントリーの前後で書いた「サルをヒトにしたもの」の主張はUジローさんのご指摘に近いような気がします。人間、程よく合理的なくらいが一番幸せになれるようで(そういう論文もあるのだそうですよ)。多分私もうだうだ考えた挙句に睡魔に負けて寝首をかかれるクチだと思います(笑)。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by: 馬車馬 | May 24, 2005 at 07:29 PM
私は平和主義者なので反論します。
①思考実験について
コメントの最後のほうにも話題になっていますが、
無人島の二人はナイフを抜くか抜かないかです。
ここで、二人の選択肢は二つ、抜くか抜かないか。
2×2のマトリックスができます。
両方抜けば確率1/2で生き残ります。
両方抜けば確率1で生き残ります。
片方だけが抜けば、、例えば生存確率Aとします。
ナイフを抜いた場合、1/2+Aで生き残ります。
ナイフを抜かない場合、2-Aで生き残ります。
先手必勝ならばもちろん A=1 ですね。
ふたりはナイフを抜くかもしれません。
抜くかどうかAに依存します。
しかし、先手必勝でしょうか?
例えば、ナイフでなく核なら、、
両方抜けばどちらも死にます。
こんなマトリクスを考えるのは
不毛じゃないですか?
②平和主義が平和に貢献するのかどうかについて
まず人間は思考すると同時に話す動物です。
なぜ人間は話すのでしょうか?
相手に自分の意思を伝えるためではないのでしょうか。
平和主義とは立場です。
自分の立場を相手に伝えられない、
もしくはその部分について議論していない、
思考実験に意味はあるのでしょうか?
無人島で上のマトリクスしか考えず、
自分の意思を相手に伝えるという考えを
破棄してしまっているという時点で、
論理的に最適な戦略とはいえません。
言葉を借りれば思考停止ではありませんか?
本意ではないかもしれませんが、
「平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない」
という言葉は、今まで平和に貢献してきた人々への冒涜ではありませんか?
Posted by: 平和主義者 | August 17, 2005 at 06:06 PM
平和主義者さん、コメント有難うございます。
先ず1点目について。
攻撃のやりかたによってマトリクスが変わってくるというのはご指摘の通りです。ただ、私が本文であげた仮定は比較的一般的だと思っています。
で、平和主義者さんの挙げられた例についてなのですが、生存確率をそのままペイオフとして考えるという事ですよね?ただ、上の例だとAにどんな値をとっても生存確率が1を超えたり0を下回ったりして無効になってしまいます(そんなわけで、Aがいったいどのような状況を表す変数なのか、直感的に理解できないのですが・・・)。
そのあたりを無視して考えますと、A>1/2だと平和が唯一の均衡(ナッシュ均衡)になります。何故そうなるかというと、「相手が攻撃してきても自分はその攻撃を甘んじて受けた方が自分にとって得になる」からです。このような状況を仮定することはちょっと正当化しづらいのではないかと思います。
そんなわけで、私には平和主義者さんの仮定にはあまり意味を見出せないのですが、いかがでしょうか。
2点目について。
「話す事ができること」と「コミュニケーションが取れる事」は全く違う事です。いくら言葉を重ねても、相手が自分の言を信じてくれなければそれは独り言と変わりません。「自分は相手を殺すつもりはない」ということをどう相手に信じてもらうかが「話し合い」の場において最も重要で、かつ難しい事なのです。
そのためには、ただ相手に語りかけるだけでなく、相手が自分を信ずるに足る人間だと思えるような「何か」がなければなりません。それが、本文で再三強調した利害関係です。
ただ相手に自分の意思を表明するだけで状況が改善する場合(チープトークゲームと呼ばれます)もありますが、これが有効なケースは限られていますし、どちらにせよチープトークゲームが使用可能な状況に世界を誘導するという作業が先ず必要です。
そんなわけで、本文の例で話し合いの可能性が明示的に考慮されていなくとも、それで本文での例の一般性が大きく損なわれることはありません。
願うという作業は(少なくとも私の定義では)自己完結してしまっています。その願いが相手に届くかどうかだけが重要な問題であり、そのためには願うだけでなく、それ以上のアクションが重要になります。逆に、そのアクションが取られるなら、平和を願う必要は必ずしもありません。だから、「関係ない」のです。それが私が始皇帝氏さんへのコメントで書いた事の趣旨です。
ですから、平和を願う事は役に立たない、と主張する事が、平和に貢献してきた人への冒涜になるとは全く思いません。人類の歴史で実際に平和に貢献してきた人は、みな「どうやれば平和になるのか」を考え、実行してきた人だと思うからです。ただ願うだけでは何も解決しない、ということは、おそらくこういう人たちが一番痛感していたのではないかと勝手に想像しているのですが、いかがでしょうか。
Posted by: 馬車馬 | August 18, 2005 at 12:03 AM
個人的に割りと面白そうなネタなので、ちょいと横から口を挟ませていただきます。
まず、単純化した思考実験の価値についてですが、こういった実験は境界条件を調べる場合に非常に役に立ちます。もともとの馬車馬さんの想定では、「強制力が存在しない場合、平和を願うだけ、またはそれを口にするだけ(で、そのための行動をしない)では何の意味もない」という仮説を調査するために、強制力のない環境を想定して議論しているわけです。この場合、相手を殺す、という行動は「相手の寝首を掻く」という前提で話されています。つまり、ナイフを抜いた側が100%勝つわけです。これが、相手を殺させない強制力のある場合だと、相手を殺した後自分も損害を受けるわけですから、話がややこしくなってしまうわけです。
ところが、平和主義者さんの議論ではこの「強制力のない環境」という前提を最初から否定しています。言い換えれば、この思考実験が何のために行われているのか、ということを全く考慮していないわけです。馬車馬さんの議論では、「口先だけで平和を唱えるのではなく、それを実現するための代価を払おう」という主張になるはずですが、平和主義者さんの議論は「ナイフを抜けば生存確率1/2」などと、互いに平和を維持するために一定の代価を支払った状態で論理を展開しています。
これでは、話が通じるわけもありません。
それから、
> まず人間は思考すると同時に話す動物です。
> なぜ人間は話すのでしょうか?
> 相手に自分の意思を伝えるためではないのでしょうか。
意思を伝えるというよりは、自己の利益のためではないでしょうか?例えば、相手を騙して利益を上げるため。
まあ、それは極端な意見にせよ、人間が会話を発達させてきたのはそれが利益になるからです(このあたりの論理は遺伝行動学や進化生物学の常識ですね。ただし、会話している彼自身にとって、というよりは彼の遺伝子が繁栄するために、という受益者の微妙な違いはありますが)。そして、平和主義は利益を享受するための一つの方法論に過ぎません。今日の飯も食えないのに平和もへったくれもありません。このままでは今にも殺される、という今現在ダルフールの住民が陥っているような状況で平和主義など何の意味もありません。平和主義は、現状維持により自己の利益を維持しようという利己主義の極端な一つの形に過ぎないのです。もし、そうでないというなら、平和主義者は己が命も顧みず、ダルフールへ行くべきです。
いや、もちろん、本当にそうしろと言っているのではありませんよ。単に平和主義は利己主義の一形態に過ぎないことを理解していただければよいのです。そして、利己主義はそれ自体は悪いことではないのです。ただ、それにも気づかずに単に口先だけで平和を唱えることには実効的な意味は(自分自身を騙すことを除いて)まったくない、というだけのことなのです。言い換えれば、実効のある平和主義は、どのようにして戦争がおきるか、戦争を回避するために必要な物理法則はいかなるものか、ということを研究し、必要ならば金か血か命で代価を払いつつ、実際にこの世界で物理的に効果を発生する行動をとる必要がある、ということなのです。
Posted by: 鳳天 | August 18, 2005 at 11:30 PM
どうもです。平和主義者です。
確かに「強制力がない」という大前提があれば、反論の余地はありませんね。ただ、その前提がある思考実験が、今回の主張に対する思考実験の境界条件としてふさわしいのかどうかは疑問です。
*「境界条件」がここにおける文意からずれてなければ幸いです。
つまり、この思考実験の前提として、無人島の二人は互いに相手を信じることができないということがあります。それが、ナッシュ均衡であり囚人のジレンマですよね。しかし囚人のジレンマでは、囚人は互いに連絡を取り合うことが出来ません。つまりコミュニケーションできないのが前提なのです。
人間は根本的に分かり合えるのか?
少なくとも平和を主張している人たちは、伝え合うことが出来ると思っているのではないでしょうか。
つまりこの思考実験において有効な境界条件として選ばれるべき前提のひとつとして、もっとも意思を伝えやすい状況がなければならないと思いませんか。
次に、
人間は根本的に分かり合えるのか?どうかを議論しても仕方がないので、平和主義がどこまで実世界に貢献できるのか?ということについてですが、、
もちろん平和主義がひとつの利己主義であることにまったく異論はありません。では、平和主義は本当に役に立たないのでしょうか?
上でも書きましたが、もし実世界を囚人のジレンマのマトリクスにモデル化できるならば、そのジレンマを解消するもっとも有効な手段は囚人が愛し合う男と女であることであります。つまり、コミュニケーションであり、意思を伝えることです。馬車馬さんのチープトークゲームの例でも、コミュニケーションが不完全であることを前提としています。
人が行動決定を行うに際し、全てを論理的に考えれる程人間の頭は大きくありませんし、世界は単純じゃありません。少なくとも人間は、他人の意見を参考にして行動しています。平和を唱えることは、少なくとも相手に対して、「彼は平和を唱えている」ということを伝えることができます。
「平和主義を唱える」ことに意味がないという意見は、世界中で平和を唱えている人たちの利己的で、効果的な、世界規模の戦略を妨げているのです。極端に言えば、それはひとつの戦略ですから唱えている人がそれが効果的かどうかに関心を持っていなくても、代価を払っていなくてもいいのです。
余談ですが、この議論は、戦争を回避するために研究し、必要ならば金か血か命で代価を払ってきた人たちが構築したコミュニケーション手段のうえに成り立っているのかもしれませんね。実際、大部分はそうではないかもしれませんが。。
Posted by: 平和主義者 | August 19, 2005 at 08:05 PM
どうも、鳳天です。
馬車馬さんには、ご承諾も得ないまま勝手に書き込みを続けてしまっていて、申し訳ありません。
さて、平和主義者さん、おそらくあなたは文系のかただと思うのですが、いかがでしょうか?
> 確かに「強制力がない」という大前提があれば、反論の余地はありませんね。ただ、その前提がある思考実験が、今回の主張に対する思考実験の境界条件としてふさわしいのかどうかは疑問です。
え~と、思考実験における境界条件というのは「極端な状況を想定して、ある仮説がその周辺で破綻するか否か」をチェックするために行うものです。例えば、 x>=0 を想定して y=1/x という式の x=0 近辺での振る舞いを調べるようなものです。
馬車馬さんの当初の議論においては、「信じあえないのなら殺しあうことになる」という結論を引き出すために、わざわざ強制力のない環境を境界条件として仮定したわけです。で、それから「信じあえる状況を作り出すためにはどうすればいいだろう」という問題を提起し、「それには利害関係を一致させることが重要である」という結論に続くわけです。
この議論において強制力を設定することは、この環境における力学的構造を単に見えにくくするだけのことです。従って、強制力0という環境は、境界条件として正しいのです。
さて、その結果馬車馬さんの議論では「信頼しあえないとダメだね」という結論が出てきていますが、それに対して平和主義者さんは反論として「コミュニケーションによって信頼しあえるはずなので問題ない」ということを主張されています。これではあまりにズレています。ここは単にそれ自体(信じあえないとダメ)については認めて、「さて、では信頼しあうためにはどうしたらいいだろう」という方向で議論を発展させればよいのですが。
(さて、予断ですが、現実的問題として、分かり合った状態でも、いや、むしろ分かっているからこそその環境では殺すしかない相手、というものは確かに存在します(こいつは絶対に信頼できない、ということが身にしみてよくわかっているわけです)。貴方がそういう相手にまだであったことがないのなら、それはいかにも幸福な人生を過ごしてきたということであって、羨ましい限りです。)
> もちろん平和主義がひとつの利己主義であることにまったく異論はありません。
これはつまり、「自分が平和で豊かにに生きていくためなら、他人が目の前で飢えて死んでも知ったことではない」といっているのと同義ということは理解しておられるでしょうか?そして、それは当然のごとく戦争の理由になるのです。
平和によって、一方が肥え太り、もう一方が餓死してしまうなら、餓死するほうは当然平和を打ち破ろうとするでしょう。ですから、平和を維持するためには平和であることによって両者が共に利益を得ることが必要です(例えば豊かなほうが貧しいほうを雇って、高給を払うなど)。それこそが馬車馬さんのおっしゃっている「平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在すること」なのです。
で、「上でも書きましたが、もし実世界を囚人のジレンマのマトリクスにモデル化できるならば、・・・」以降の議論については意味が非常に取りにくいですので、言及は控えさせていただきます。
(なお、平和主義が進化的に安定でない(つまり、そのままでは滅んでしまう)戦略であることはコンピュータ実験により確認されています。そして、現在のところ、最強の戦略は「しっぺ返し戦略(またはそのバリエーション)」であることが知られています。これは、自分はまず最初に平和的に行動し、二度目からは相手の戦略をコピーする(相手が好戦的であれば、自分も好戦的になる)、という戦略です。この戦略は、多くの相手と引き分け、そうでない相手に対しわずかに敗北しますが、トータルで見ると最も勝っているという恐るべきもので、誰と戦っても決して勝たない者が最終的な勝者になるというこの世界の奇妙な構造を暗示するものです。)
Posted by: 鳳天 | August 19, 2005 at 11:27 PM
平和主義者です。
問題をはっきりしたいと思います。
「平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない」
なぜなら
「平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在すること」
という主張を私は否定します。
なぜなら、その根拠となっている思考実験から導けることは、
「信じあえないふたりの間に、平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在すること」
ということです。
さらに以上から導かれるのは、
「信じあえない世界で、平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない」
です。
そして、私の主張は、
「平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない」
という前提条件を無視した結論は、たくさんの人に悪い影響を及ぼす可能性があるので慎重に扱って頂きたい、ということです。
今回、馬車馬さんのブログに土足で踏み込み申し訳ありませんでした。特に支障がないのであれば、このまま建設的な議論を続けることが出来れば幸いです。
私は理系です。また、ゲーム理論の部分においては興味本位で書かせていただいた部分であり、上の反論における本質ではありません。
また、「自分が平和で豊かにに生きていくためなら、他人が目の前で飢えて死んでも知ったことではない」といっているのと同義である、という部分に関しては反論できません。
「平和主義が進化的に安定でない(つまり、そのままでは滅んでしまう)戦略であることはコンピュータ実験により確認されています。」というのは初耳でした。関連する情報、資料を教えていただきたいです。
Posted by: 平和主義者 | August 20, 2005 at 03:49 PM
どうも、鳳天です。
以後の返信ついては、馬車道さんのコメントを待ってからにしたいと考えておりますが、単なる事実関係の問題に過ぎない以下の件については解説をしておきます。
> 「平和主義が進化的に安定でない(つまり、そのままでは滅んでしまう)戦略であることはコンピュータ実験により確認されています。」というのは初耳でした。関連する情報、資料を教えていただきたいです。
実験場と、その中で行動する実験体群を用意します。
この実験体は、それぞれポリシーを持って他の実験体と相互作用します。この場合、ポリシーというのは平和主義とか戦争主義ですね(ハト派、タカ派という表現をしている本もあります)。前述のしっぺ返し戦略もこのポリシーの一つです。そして、この実験場内では高い得点を出した実験体のコピーを生産し、逆に低い得点の実験体を削除していきます。
さて、実験場内を単一のポリシーを持つ実験体で満たします。この場合は、平和主義というポリシー、すなわち、
・攻撃されても応戦しない
・相手とは交易を試みる
(囚人のジレンマでは、相手を信用する、という行動に相当する行動です。)
さて、彼ら平和主義者たちは、初期状態では高得点を得続けます。しかし、外部から騒乱要素として戦争主義者を1個体与えてやると事態は一変します。
全く反撃を受けない戦争主義者は瞬く間に大繁殖し、その一方で平和主義者たちは戦争主義者に滅ぼされます。まあ、コンピュータ実験などと大層な表現を使わなくてもわかる、当たり前のことですね。
と、このように、単一のポリシーで満たした実験場に騒乱要素を入れた場合に、当初のポリシーの持ち主が滅亡する場合があるポリシーを「進化的に安定でない」と呼んでおります。
ちなみに、戦争主義は進化的に安定です(ただし、得点はすさまじく低い)。そして、もちろんしっぺ返し戦略は進化的に安定で、しかも、高得点をたたき出します。
Posted by: 鳳天 | August 20, 2005 at 11:35 PM
鳳天さん、平和主義者さん、コメント有難うございます。リプライが遅れてごめんなさい。
お二人が議論を進めていただいたおかげで私も少し頭が整理できました(このコメント欄の書き込みにはもちろん私の承諾など不要です。お時間のあるときにでもご自由に使っていただければ幸いです)。
さて、私が考えた事は殆ど 鳳天さんがコメントしてくださっているので、それ以外の部分にのみコメントしたいと思います。平和主義者さんが提示された問題は、私のエントリーは「信じあえるふたり」の間では無効であり、「信じあえる世界を仮定しない」という点が致命的な欠点となっている、というものであると思います。
鳳天さんのおっしゃるとおり、これは境界条件の話であり、違う前提条件をもってくれば当然結論も変わります。この前提条件の争いというのは非常に難しい(論証できる部分ではないため、水掛け論になりやすい)ので、えてして「世の中考えは色々有りますからね」でおしまいになってしまうケースが多いと思います。
私自身は、「話し合えば信じられる」という仮定をおくならば、同時に「話し合いには一定のコストが伴う(時間的コストや、移動・翻訳のコスト、話し合いに出向いた瞬間殺されるリスク、などなど)という仮定も置かないと現実的ではないと思います。そうでなければ、世の中でこれほどいさかい(戦争や隣近所との喧嘩、裁判沙汰まで全て)が起こる事を説明できません。死ぬほど話し合えば分かり合えるはずであり、両プレーヤーにそうしない理由はないからです。
平和を考える際には、まず現状が「戦争の起こりうる世界」であることを認めるところから始めるべきだ、というのが私のポリシーです。そうでないと、平和以外の均衡はありえないのに平和にならないのは、ある種の既知外(均衡経路外の行動を取る人たち)が存在しているからという結論になってしまい、本文でも書きましたが「ブッシュが悪いんだ!」で終わりかねません。既知外の行動に対してはあらゆる論考は無意味ですので、議論するだけ無駄なのです。
もし平和主義者さんが想定されている「信じあえる」モデルで平和以外の均衡がありえるのであれば上で書いた事はちょっとハズシていることになってしまいますが・・・。
それから、『そして、私の主張は、(中略)慎重に扱って頂きたい、ということです』の文意が取れなかったのですが、もう少し説明を加えていただけると嬉しいです。
どちらにせよ、こういう古いエントリーでコメント欄が盛り上がるというのは書き手にとっては嬉しいものです。お二方とも、今後ともよろしくお願いします。
Posted by: 馬車馬 | August 21, 2005 at 03:14 PM
馬車道さんのお許しが出ましたので、もう少しの間続けることにします。
前回平和主義者さんがはっきりしたいとおっしゃって主張されたことの意味が、暫くは判らなかったのですが、思い当たるところがあったので、さらに構造化してみたいと思います。
平和主義者さんの理解としては、以下の通りでよろしいでしょうか?
馬車道さんの主張 {
平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない
}
前記主張の理由{
思考実験に基づき、平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在することである
}
平和主義者さんが上記主張を否定する理由{
上記主張の根拠となっている思考実験から導けることは、
「信じあえないふたりの間に、平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在すること」
および
「信じあえない世界で、平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない」
であり、
「この結果に同意できないという理由で上記主張を否定する」
}
平和主義者さんの主張{
「平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない」
という結論は、たくさんの人に悪い影響を及ぼす可能性があるので慎重に扱って頂きたい
}
ということでよろしいでしょうか?
私としては、平和主義者さんの主張に対しては、平和主義者さんご自身がご自身のための利益誘導であると言及しておられるのでどうでも良いのですが、「平和主義者さんが上記主張を否定する理由」については非常な問題があると考えておりますので。
Posted by: 鳳天 | August 24, 2005 at 12:28 AM
初めまして。ネット音痴なものでつい最近このBLOGを知り、ここ数日むさぼるように過去のエントリーから読ませていただいていました。とっても面白いです。自分には難しい箇所も多いですが。
「…ある無人島に2人の人間が漂着…食料は無尽蔵ではなく…と仮定」でふと思ったのですが、島に食料が無尽蔵にあると過程したらどうなるんでしょう?あるいは一人は無尽蔵であると信じており、もう一人を説得することで殺し合いを避けると考えているという状況では?
厳密な定義は一致しないと思われる社会主義者といわゆる「平和主義者」の層がオーバーラップして見えるのは、世界のリソースが無尽蔵であり言葉や態度で自分がそう信じている事をもう一人に示せば安定を保証できると信じているからなのかも?
Posted by: kozono | September 29, 2005 at 02:21 PM
kozonoさん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてごめんなさい。
実のところ、「満腹にはなれない」という仮定は、証明を簡略化するためにのみ必要なもので、あまり本質的なものではありません。
この仮定を置くことで、ゲーム理論の基礎の基礎である「囚人のジレンマ」と同じ問題にすることができるため、後々証明についての説明を求められたときに楽だなー、と思って付け加えておいたものです。この仮定がないと、いわゆる「不完備情報ゲーム」に基づいて議論をせねばならず、少し証明が面倒になります(難易度は低いです)。本文の説明はむしろこの不完備情報ゲームに基づいているため、証明もこの面倒なやり方でやっており、kozonoさんの注目された仮定はあくまでも「万が一説明を求められたときに説明の手間を省く」ためだけに用意しておいたものです。ややこしい説明で恐縮ですが、テクニカルな話だとご理解いただければ。
本文で取り扱った「疑心暗鬼」は様々な要因から発生します。この仮定から「相手は寄り多くの食料を求めているかも」と考えることもあるでしょうし、それがなくとも「相手は快楽殺人者かもしれない」と疑いを持つこともあるでしょう。それ以外にも疑心暗鬼の種は日常生活のあちこちに転がっています。そして、疑心暗鬼が生まれた瞬間本文で書いたメカニズムが働いて平和は消滅するわけです。
ただし、もし疑心暗鬼の種は食糧問題からしか生まれないと仮定できるなら、(食料が十分な状況では)本文での結論とは異なって平和は維持され得ます。
社会主義というのはある種市場経済という「世界の(人間社会の)法則」を行政や法律でコントロールしてしまえという意思の表れであり、ある意味この「法則」の力を軽視している部分があるのだと思います。平和主義者にしても、祈ればオッケーという考え方は、どうしようもなく戦争が生まれてしまうメカニズム(≒世界の法則)を軽視しているという点で、共通項があるのかもしれませんね。
Posted by: 馬車馬 | October 01, 2005 at 08:07 AM
馬車馬さんの議論はいつも論理的ですね。全くその通りだと思いながら読みました。抑止の理論には基本的に私も賛成です。
全ての国や指導者に平和的であれと要求するのもはじめから無理です。
そのため、むしろ性悪説をとり、戦争を起こすことが得にならないような
状況をつくる、つまり法治国家的な仕組みを作ることが必要だろうと思います。いわゆる平和主義の人たちにはその辺の発想が欠けていいると思います。
しかし、どうもそれも限界があり、法治国家の理論は国際社会では限定的にしか実行できないと思わざるを得ません。
つまり、イラクのクウェート侵攻は止められても、アメリカのようば最強の国の行動を国連なり他国の意見によって左右することは不可能だということが証明されたのがイラク戦争だったと思います。
国際社会における「法治国家」的な装置を考えようとしても結局大国は罰せられないことになります。
これはユーロ圏でドイツやフランスが安定協定を違反しても制裁金をとられにくいのと全く同じことです。
大国を左右できるのは内部の、自国民の世論以外にありえない。ですから特にアメリカなど民主主義体制をとっている大国の中で反戦イデオロギーを広めることは実際的には大きな力になりうるんですね。だから反戦活動家も意外と馬鹿にならないかと思っています。
しかし、9条の問題など、日本の国家戦略を考えてその中で決定されるべき問題で、「平和主義」を持ち出すとそこで思考停止になってしまうのが
まずいですね。それが馬車馬さんの一番おっしゃりたいことだと思いますが。
Posted by: のびい | October 02, 2005 at 02:21 AM
のびいさん、コメントありがとうございます。
このエントリーは特にゲーム理論のアイデアをそのまま拝借してきているので、論理武装の度合いが高めです。結論が極端なので、ちゃんと鎧を着込んでおかないと、と思いまして。
法は法を執行する強制力を伴うときにのみ効力があるもので、国際関係には適用しにくいですよね。国際法なんてのは単に道義的なものなわけで。だからこそ、大国の武力に押しつぶされないように周辺各国との利害関係は慎重に調整する必要があり、その努力こそが平和に繋がるのだと思います(例え、それが一時的な紛争状態に繋がったとしても)。
アメリカ内部の反戦運動をどこまで米国民の利害と結びつけて考えるべきなのかは微妙ですが(個々のケースでは彼らは必ずしも論理的に行動してはいないように見えますから)、戦略的な世論誘導も(難易度は高そうですが)重要な武器ですよね。
最終段落については全くおっしゃるとおりで、このような国家戦略と平和への訴求は表裏一体というか、同じ軸の上で議論せねばならないと思います。平和主義の一言で思考と行動の選択肢を制限するやり方は楽ではありますが(選択肢が減るので決断しやすくなる)、そういうやりかたは知的な怠惰として責められるべきではないのかな、と思うわけです(もちろん、一般の方々を責めるわけではなく、プロとしてこれらの問題を考えている政治家・官僚・各種専門家に限りますが)。
Posted by: 馬車馬 | October 04, 2005 at 07:04 PM
馬車馬さん
昨日書店の雑誌コーナーでThe Economistの表紙が富士山、The sun also riseと書いてあるのを見かけ、嬉しくなり思わず買ってしまいました。
11pだけはなんとか通して読んでみましたが、私にとって目についた点が2つあります。
ひとつは、日本の労働力人口の減少は、必ずしも悲観すべきではなく、むしろオートメーション化の進展により生産性の向上につながる可能性があるということ。
もうひとつは、日本はアジアで中国への力の集中を防ぐため、むしろ東アジア共同体(と名指しされてはいませんが)に積極的に加わってASEAN諸国を支援していくべきだということ。
特集の方の11pでは選挙ポスターが出ていて、小泉さんの写真の上に羽柴秀吉氏(なぜ吉の字が大きいのでしょうか)。しかし、打倒信長、決戦本能寺では、明智光秀です。こういうものを世界に発信してよいものでしょうか。
Posted by: のびい | October 08, 2005 at 03:59 PM
のびいさん、コメントありがとうございます。どうも体調不良が続いておりまして、リプライが遅れ気味です。すみません。
The Sun also Rises,私も最初のLEADERSのところだけ読みました(読売にもこの部分の全訳がありました。微妙にこなれない訳だったように思いましたが・・・)。オートメーション化による労働生産性の向上、というのは最近のEconomistのマイブームなのか、先週も似たような記事がありました。
ちょっとこの部分だけだと論拠が見えないので、後で特集部分も読むつもりですが、長期と短期の予測を分けたり、短期予想に対する楽観を排していたり、Economistらしいバランス感覚のある文章だったように思います。
今週末あたり、これをネタにエントリーを書こうかと思っていますが、さて時間が・・・
Posted by: 馬車馬 | October 13, 2005 at 01:08 AM
あー、そういえばEconomist誌は写真の使い方が結構いいかげんで、数ヶ月前にも「画一的な日本の教育」みたいな記事で制服を着た小学校の教室の写真があったのですが、あからさまに中国のそれだったことがあります。わざとなのかどうかはわかりませんが・・・(最近の日本の小学校の写真を撮って画一的と思わせるのは結構難しいでしょうから)
Posted by: 馬車馬 | October 13, 2005 at 01:10 AM
馬車馬さん、それはひどいですね(中国の写真)。中国でも日本でもイギリス人にとっては大差ないんでしょうか。
私も知らない人間からは普段確実に中国人と見られていますが。
政治的にはむしろ中国寄りの欧州ですが、中国からの輸入車は危険とか
中国では労災に対する保証がなく危険な工場で多くの人が腕を失うとかしたまま解雇され、使い捨てされるとかひどい内容のルポをテレビでやっています。事実なのでしょうが、私としてはむしろ早く中国が経済発展して
中身もまともな国になって欲しいと思うばかりです。
羽柴秀吉氏のポスターの件はThe Economistには落ち度はありませんが、
ただ、なんだかそういうのが日本として紹介されるのは恥ずかしくも思います。
Posted by: のびい | October 15, 2005 at 06:37 PM
人口減少社会で経済を成長させるというのは移民政策との絡みで
非常に大きなテーマですね。米国はあまり問題ではないようですが、
特に日本と西欧にとっては。
次のエントリーを楽しみにしておりますが、体調にはくれぐれもお気をつけて。
Posted by: のびい | October 15, 2005 at 06:58 PM
生産性をどう考えるかと言うのはその意味で大きなテーマなのですが、その辺りを膨らませていたら案の定更新できませんでした・・・。それ以前の問題として、週末体調崩す→週明けに仕事山積→泣、みたいな流れが出来上がってまして・・・
Posted by: 馬車馬 | October 18, 2005 at 05:53 PM
日本の平和主義者にはかねてから反感を持っていたので非常に面白く読ませていただきました。関連記事をTBさせてもらいました。
実は第一次世界大戦のあと、あんまりにも悲惨な戦争を経験したためヨーロッパやアメリカで、平和主義者が大増殖しました。その結果国際紛争の解決の手段を放棄するというケロッグブリリアン協定という協定が結ばれ、ほとんど世界中の国が調印しました。その結果どうなったかと言うと、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツからヒットラーが生まれ、より悲惨な第二次世界大戦が始まってしまいました。(詳細はTBの記事参照)
みんなが平和を唱えれば平和になるというのは経験上からも完全に幻想だと思います。
Posted by: 青い炎 | October 20, 2005 at 12:46 AM
でも、ヒトラーが平和主義者だったら第二次大戦は起こってないはずですよ(笑)。
ただ、基本的に全ての人が平和主義になることなんてあり得ないのでして、そういう事を前提にする事自体アホらしいですけど。
戦争が起こったきっかけというものをよく見てみると、結局戦争は勝てると思って始めている場合が多いんですね。第1次大戦ではオーストリアがセルビアに宣戦布告したのがきっかけですが、この時点では世界大戦になるとか自国が解体するとか全然想像がおよんでいないわけです。
ヒトラーのポーランド侵攻もまあチェコについては見逃されたから文句言わないだろうという風に思っていたと。
湾岸戦争なんぞでもフセインはクウェート侵攻してもアメリカは見逃してくれると思っていたから戦争を始めた。
なんで第二次大戦後大国間の戦争がないか。というと結局、核戦争になったらいかに恐ろしい結果になるか、ということをみなわかっているので戦争が起こらないわけです。
まあ、そういうわけで私は一定の核軍縮は賛成、平和運動(核の恐ろしさを訴えるなどなど)も賛成ですが核廃絶には反対です。わかりにくいでしょうかね。
Posted by: のびい | October 22, 2005 at 01:38 AM
青い炎さん、コメントありがとうございます。
結局のところ、問題なのは互いの信頼関係の醸成と、現時点での信頼関係(共通の損益があるかどうか)に対するシビアな状況判断なしに平和主義的な政策がとられてしまうことだと思います。
強硬策というのは多くの場合非常にシンプルで、こちらが攻撃したら相手が反撃するのは自明ですから、非常に容易に相手の行動パターンを読むことが出来ます。しかし、平和主義的な政策の場合、どこまでの損得を共有していれば大丈夫なのか、その辺りの見極めが非常にデリケートで、難易度が高い政策だと言えると思います。政策担当者はその辺りの自覚を持って平和主義を標榜すべきだと思うのです。
Posted by: 馬車馬 | October 22, 2005 at 09:55 PM
のびいさん:
その辺りの話は結構難しくて、ヒットラーが世界情勢を作ったのか、世界情勢がヒットラーを作ったのか。前者と共に後者も忘れてはいけないと思うのです(私個人としては、後者の考え方を使うことで政策における属人的な要素を排除できる=単純化できるので、後者の考え方を使うことが多いですが)。
上では強硬策は読みが楽、と書きましたが、のびいさんのおっしゃるとおり一概にはそうは言えなさそうですね。核による相互確証破壊のシステムがこの読みを単純にしている(=互いのプレーヤーの戦略を明確にしている)、という点で、これは平和主義的な政策と定義できると思います(本文でも書きましたが)。
Posted by: 馬車馬 | October 22, 2005 at 10:02 PM
数ヶ月前の東洋経済で紹介されていたのがきっかけで来ました。面白い記事ばかりで、いつも目からガサコソ鱗落としてます。この記事だけは少しひっかかるところがあったのでコメントしてみました。
「AとBが平和を望んでいること」が「AとBが平和であること(殺しあわないこと)」の必要条件でも十分条件でもないことには全く異論はないのですが、必要条件でも十分条件でもないから「全く関係がない」とは言えないのではないでしょうか?それを認めると例えば、アメリカの景気と日本の景気とか、性別と寿命とか、株価と金利とか、およそ世の中のすべての関係は「関係ない」となってしまいませんか?
やはり、AとBが「いつも罰せられない環境であれば人を殺したい」と考えている場合と「相手の殺意を確信するまでは殺したくない」と考えている場合とでは、無人島での結果は違うと思うのです。
Posted by: 通りすがり | October 24, 2005 at 11:11 PM
馬車馬さん:
あ〜すみません。おっしゃる通りです。例が悪かったです。
ヒトラーの場合は特に、どうして彼のような人間が政権を握るに至ったのか、
その社会背景の方がはるかに重要でしょう。
いわゆる平和主義の考え方だとその一番重要な部分をあまり見ようとしないことになってしまいますね。軍国主義が悪だとかレッテル張りをするだけで、
どうしてそうなったのか、そこに至る社会的経済的な背景の分析をしないですね。
そういえば、私が子供の頃はなぜかテレビでは悪と正義がはっきり分かれているヒーロー物の子供番組が多かったのですが、最近はなんだか意味不明なおかしい番組が増えているのではないでしょうか。結局、子供むけの番組も大人社会の縮図であって、当時は冷戦下だったからだなあ、、という気がします。いわゆる平和主義もそういう匂いが少しありますね。
Posted by: のびい | October 26, 2005 at 02:41 AM
はじめまして。郵政解散の際に初めて貴ブログを拝見して以来、更新されるのを楽しみにしている一読者です。
バックナンバーを辿っているうちにこのエントリーを見つけ興味深く読ませていただきました。
既に分かった上で放置していらっしゃるのかもしれませんが、「通りすがり」さんが随分前のコメントで書いていたのはこういうことだと思います。
「馬車馬さんが想定している平和主義者像は現実の平和主義者とは違い、あまりに単純で陳腐なものである。そのため、馬車馬さんの行う平和主義者への批判は、現実の平和主義者への説得力を持った批判となりえない」
要は嫌味をいいたいだけだと思うんですが、自分のことを頭がいいと思っている頭の悪い人が書きそうな、無意味にもってまわった言い回しがあわれを誘います…。
Posted by: 一読者 | October 28, 2005 at 09:26 AM
そうなんでしょうね。
しかも平和主義者の考える世界像が現実からかけ離れているという点には気が付いていないみたいですね。こんなに単純化したモデルでも成り立たないものが現実の世界で成り立つわけもないのに・・・・。
Posted by: bob | October 28, 2005 at 03:40 PM
通りすがりさん、コメントありがとうございます(お返事が遅れてごめんなさい)。必要条件・十分条件とより広義の関係性の話は結構難しい問題をはらんでいると思います。以下、ちょっとややこしいですけどお付き合いいただければ。
平和を祈ることが平和の十分条件であるということは、「皆が平和を祈っている」という事象の集合が、「世界が平和である」という事象の集合に完全に含まれている状態を指します(分かりにくいですが・・・googleで必要条件、十分条件、集合の3wordsで検索したらいくつか分かりやすい説明がありましたので、そちらもあわせてご覧いただければと思います)。
逆に、平和を祈ることが平和の十分条件であるためには、「世界が平和である」という事象の集合が、皆が平和を祈っている」という事象の集合に完全に含まれていなければなりません。
私が上で示したのはどちらでもない、ということですが、それは2つの集合が完全に分かれていると言うことを意味するのではなく、部分的にオーバーラップしている可能性は否定されていません。つまり、「皆が平和を祈っている」世界が、「平和になる」こともありうる、ということです(ただし、完全にはオーバーラップしていないので、平和を祈っていても平和になるとは限らない)。
この部分をみると、2つの事象が同時に起こっていますから、あたかも2つの事象に何らかの関係があるかのように見えます。しかし、この2つの事象が同時に起こったとして、そこにある関係とは具体的になんなのでしょうか。単なる偶然である可能性もあるのです。
私は、このようなつながりを「関係」とは呼べないのではないかと思います。
ただし、これらの議論は「事象」をどう定義するかに決定的に依存しているという点にも注意する必要があります。
日米景気の例で言うなら、アメリカが好景気なら輸出を通して日本にも好影響があるはずですから、アメリカの好景気は日本の景気改善の十分条件であると言えそうです。その意味で「関係」があります。ですが、日本の景気改善を、より狭い定義(=より小さな事象の集合)である「日本がバリバリの好景気になる」という定義に置き換えると、アメリカが好景気だからといって日本がそこまでの好景気になるとは限りませんから、十分条件とは言えませんよね(必要条件ではないのは自明ですから、関係ない、となります)。
つまり、この議論は究極的には、我々が「平和であること」、「平和を祈ること」とはそれぞれなんであるのか、どう定義するのかに決定的に依存しています。定義を変えれば、違う結論もありうるでしょう。しかし、その場合にはやはり必要条件であること、乃至は十分条件であることを示さないと、関係性の証明にはならないと思います。
最後の段落についてですが、相手の殺意を確認するまで殺さない、という仮定は、同時に(暗黙のうちに)「殺意を確認した後も人々に行動のチャンスがある」世界を仮定していることになります。一方、私のモデルでは相手の殺意を確認したときには死を免れないと仮定しています。前者であれば、おっしゃるとおり無人島の結末は変わると思います。
しかし、この無人島には「疑心暗鬼」は存在しません。相手の殺意を確認してからでも対処が可能ですから。だからこそ平和が維持できるのです。結局、世界平和の問題を考えるときに、疑心暗鬼が存在する世界としない世界、どちらを仮定したほうが蓋然性が高いか、という議論に帰着するわけですね。これはどちらが正しい、と言える問題ではありません(ロジックの問題ではないので)。私は存在する、と考えた方が蓋然性が高いと「感じて」いますが、それは他人に押し付けられる問題ではありません。各自が答えを出すべき話であろうと思います。
異常に長くなってしまいました。すいません。
Posted by: 馬車馬 | October 29, 2005 at 07:52 PM
のびいさん:
平和というのは時に薄汚い謀略によって守られたり、別の地域に紛争を「輸出」することによって守られたりするケースもあるわけで、善悪で考えてもそれは「現実」に対してなんら説得力を持たないのだ、という「感じ方」はここ10年ほどで次第に日本人に受け入れられてきたように感じます。
子供向けの番組が善悪定かならぬ、というのは面白いですね。結局、作っている大人の思想が反映されている可能性もありますけど。そのあたり、子供には世界が今どう見えているのでしょうね。自分が子供の頃どうだったのかを思い出せないのがちょっと悔しいですが。
Posted by: 馬車馬 | October 29, 2005 at 08:01 PM
一読者さん、はじめまして。コメントありがとうございます。
いや、実のところコメント欄全体を数日間放置しておりまして・・・(大汗)ごめんなさい。靖国ネタでコメントが急増した段階で処理能力を超えてしまいました。もともと頂いたコメントへの返事は遅れがちだったのですが・・・
それと、通りすがりさんへのコメントは長くなりそうだなと思ったので、週末に回してしまったという側面もあります。
結局のところ、こういった問題を考える人は皆なんらかの仮定を「世界」に対してしているので、それによって正解が変わってくるのはしょうがない、というか当然だと思います。そして、こういう間口の広い議論では、前提条件の洗い出しこそが一番重要になるのではないかと。その意味で、私は通りすがりさんの問いかけは有意義なものだったのではないか思っています。
しかし、ここまでディープになってくるともうエントリーにした方がいいのかもしれませんねぇ・・・。
Posted by: 馬車馬 | October 29, 2005 at 08:12 PM
bobさん、コメントありがとうございます。
自分が世界をどう捉えるか、どう考えるか、というのは平和主義の問題に限らず、議論の出発点であるべきだと思っています。しかし、現実には論壇と呼ばれる世界ですら、そういったプロセスが軽視されているように思えてなりません。いわゆるサヨクと呼ばれる人たち(というか共産党とか社民党とか市民運動家とか・・・)に至っては「語るに落ちる」としか言い様がないケースが多いですね・・・。「右翼と左翼」のエントリーでも書いたとおり、しょうがないという側面もあるのでしょうが。
Posted by: 馬車馬 | October 29, 2005 at 08:19 PM
馬車馬さんコメントありがとうございます。
私が言いたかったのは必要条件でも十分条件でなくても関係がある事象はあり得るのではということです。ご指摘の通りこの問題は「事象」をどう定義するかに依存するのは間違いないのですが、例えば「アメリカが好景気である」ことは「日本がバリバリの好景気であること」の必要条件でも十分条件でもないのは明らかですが「関係ない」とはいえないのではないかと思うのです。
しかし、上記批判は現実世界においてのみ成立することでこのモデルのように確率が出て来ない世界では的外れでした。また、無人島の問題に関しての批判も完全に私の誤りです。馬車馬さんの仮定では殺意の確認は出来ないのは明らかでした。また、これに加えて二人が一切わかりあえないという仮定であれば殺しあう以外の結果はないように思います。
ただ、これらの仮定に二人のうちどちらか一人以上が「自分だけが死ぬよりは二人とも死ぬほうがまし」と考える(ないし相手がそう考えるかもしれないと考える)と仮定した時点で殺し合いを防ぐ方法がなくなると思います(これは例えば異なる宗教間ではそれほど無理がない仮定でしょう)。
現実社会ではそこまで殺しあっていない理由は二人よりも複数の方が平和になりやすいということと、ほとんどの人がある程度平和主義だからではないでしょうか。私の定義では平和主義とは「相手を殺すことである程度の痛みを受ける、相手が生きていることである程度の喜びを得る」というものです。無人島の話に戻ればこの痛みと喜びが0ではないことさえ相手に伝えることが出来れば二人の利害が一致することになり平和が得られる可能性があることになります。二人のコミュニケーション能力が0であればやはり殺しあうほかないのでしょうが。
長文になりすいませんでした。
Posted by: 通りすがり | November 05, 2005 at 01:46 AM
普段、われわれが無意識のうちにとっている行動のひとつに、下手な相手には近づかない、というのがあります。自然界でも、単独で行動する肉食獣などは、なわばりというものがあり、お互いの縄張りを尊重することで相互の安全をはかっています。
相手の意思がわからないなら殺せ、というのは少し現実とかけ離れている気もします。相手を殺そうとすれば、相手から反撃を受けて自分の生命が危険になる可能性があります。そのため、関わらないのが一番リスクが少ないわけです。ただ、自分の縄張りの中だけではもう立ちいかなくなってしまうとすると、これはリスク覚悟で打ってでるしかないということになります。
この結果、太平洋戦争のような結果につながるということだと思います。
そんなわけで私は北朝鮮に経済制裁しろとか、そういう意見にはあまり賛成できないんですね。中国の油田の問題にしても、まああちらにしてみれば資源確保は経済成長を維持する上で死活問題なわけで。
靖国は、そういった意味では純粋に政治的なカードなので、
ある意味使っても深刻な結果につながらないカードといえるかもしれません。
Posted by: のびい | November 05, 2005 at 05:41 PM
通りすがりさん、コメントありがとうございます。
関連性の話については私も数理論理学をちゃんと勉強していないので、正直自信が無いのですが、米景気と日本の景気回復に関係がある(十分条件)ということが、米景気と日本の好景気の関係に錯覚を与えているのではないかと思ったのです。日本の好景気と景気改善には何らかの関係(好景気は景気改善の十分条件)がありますから。ただ、この2つの関係は米景気と日本の好景気の「関係性」を保証しているわけではないと思ったわけです(景気改善が好景気の十分条件であれば、関係性を証明できたのですが)。平和関連でも同様の錯覚が存在するのではなかろうか、と。
人が一切分かり合えない、というのは半ば仮定に属することですが、むしろ結論として導かれることでもあります。上でも書きましたが、何の裏付けもない言葉のやり取りがどれだけ状況を改善させることが出来るでしょうか。単純な話し合いが効力を持つケースが極めて限定的だからこそ(これはゲーム理論では比較的一般的な理解です)、我々は法律を作り、警察を作り、状況を改善させてきたわけです。ですから、「ふたりが分かり合える」状況を無条件に仮定してしまうのは問題だろうと思うのです。
痛みその他を相手に伝えることが出来れば平が維持可能だというのはおっしゃるとおりです。しかし、それは無条件に仮定できるほど簡単な作業ではないと思います。
そんなことはない、と思われるかもしれませんが、それは無意識のうちにふたりが「何らかの利害関係」を共有していることを仮定しているからではないでしょうか。現実社会で話し合いで状況を改善できるのは、実はあらかじめ我々が共通する利害をもっているからだと思います。現実社会では様々な要素が複雑に絡み合っていますから。
このエントリーでは、この利害関係の重要さを強調するために、敢えてそれが全く存在しない世界を仮定しています。だからこそ、結論が直感的に受け入れづらいものになるわけですね。
なお、この利害関係は両者が確認可能でなければなりません(虎がいたとか)。そうでなければ疑心暗鬼の対象になります。
換言しますと、私の興味は通りすがりさんが「コミュニケーション能力」と書いておられるメカニズムの中身なのです。人はどのようにして分かり合えるのか?ということこそが重要なのは通りすがりさんがおっしゃるとおりです。だからこそ、我々はもう一段深い思索を迫られているのだと思います。
ものすごい長文ごめんなさい。
Posted by: 馬車馬 | November 08, 2005 at 10:04 PM
のびいさん、コメントありがとうございます。
おっしゃることはよく分かります。ただ、このような抗議の安全保障問題を考えるときに、攻撃(というより報復)こそが最良策だと主張したのが今年のノーベル賞受賞者トーマス・シェリングです(いや、著書を読んだことがないので、Economistからの受け売りなんですが)。このモデルでは私は深く考えずに攻撃するか、しないかの2択を設定したのですが、果たしてこの選択肢が他のimplicitな選択しに比べて望ましいかどうかは別途検討が必要ですね。やっぱりノーベル賞記念ということでシェリングの本でも読むべきでしょうか。
逃げちゃえばいい、というのは結構難しいのではないでしょうか。そもそも、人が住みたいと思う場所は限られていますし(そして、通常はそこにキャパシティを超える人が殺到するわけで)、無人島の二人を国のメタファーと捉えるならば、国土を抱えて逃げるわけにも行きません。
追いつめてはならないというのは私も同感で、「どうあがいても死亡確定」となった人は、どんなコストの高いカードでも自在に切ることができるわけで(マイナス無限大-あるコスト=マイナス無限大)、日本はそこには十分に注意すべきだと思います。確かに、どちらにせよ靖国というのは平和なカードではありますね。
Posted by: 馬車馬 | November 09, 2005 at 12:12 AM
馬車馬さんお返事ありがとうございます。
利害関係を共有することが平和のために重要なのは間違いないのですが、利害関係を共有するためには「わかりあうこと」が必要だと思うのです。
「私はこの無人島にいる虎に食べられたくない」、「私はこの無人島にいる二人なら捕まえられる獲物を食べるのは好きだ」、「私は狂人ではなく、合理的な思考をする」等々、平和のために伝えなくてはいけないことはたくさんあります。
つまり、上記の内容は無条件に伝えられる(確認出来る)が、「私は平和主義である。どちらかといえばあなたが生きているほうが嬉しい。」という内容は絶対に伝えられない(確認出来ない)という仮定に合理性はあるのか疑問を感じたわけです。また、ここまでの話でお分かりだと思いますが、二人の平和主義者はあらかじめ利害関係を共有していると考えています。
わかりあうメカニズムは、私も大変興味があります。おそらく「思い込み」なんでしょうが。
Posted by: 通りすがり | November 10, 2005 at 05:15 PM
すいません。上の補足です。
「私は、(例えばもう家族に会えない以上)生きていたくない。しかし、一人で死ぬのも寂しいので、二人揃って虎に食べられるのは望むところだ。」、「私はベジタリアンなので肉は食べたくない。」と考えていたり、狂人である可能性はそれほど大きくはないかもしれませんが、極論と無視できるほど小さいとは思えません。相手のことが一切わからなければこれらの可能性は少なくとも0ではないので殺す以外の選択肢は選べないと思うのです。
要するに「平和」の必要条件は「ある程度はわかりあうこと」で、「平和主義者であること」、「利害を共有すること」は「平和」の必要条件でも十分条件でもないが、(ある程度は分かり合っている以上)正の相関係数を持つのではと言いたかったわけです。
Posted by: 通りすがり | November 10, 2005 at 06:01 PM
馬車馬さん。お返事ありがとうございます。
基本的には私も、平和主義者の主張自体は理屈としてはおかしいと感じているので、馬車馬さんと全く同意見なのです。
私が逃げる、と書いた意味ですが、通常、攻撃すると反撃を受けて自分も傷つく可能性が高まるという事がこのモデルにはうまく表現されてないんじゃないかということでした。
戦争を起こせば、起こした側も必ず被害を受けます。しかし、かつての帝国主義時代には、勝った側には戦後に賠償金や領土拡張など、それ以上のメリットがありました。
結局、そのメリットをなくすことが平和につながる、ということと私は理解してます。第二次大戦後、フランスはドイツに対する、中国は日本に対する賠償を放棄しました。これも歴史の教訓を学んだということでしょうね。
しかし、ゲーム理論というのは、その応用を考えれば、もはや経済学の域をはるかに超えていますね。
Posted by: のびい | November 12, 2005 at 07:52 PM
通りすがりさん、コメントありがとうございます
。
通りすがりさんが指摘された点は大変深い点を付いておられると思います。要すれば、我々は何を我々の「環境(全プレーヤーにとって既知)」と仮定するか、そして我々は様々な事象をどう受け止めるのか、という問題になります。
自分自身が合理的であるかどうかを問うのはトートロジカルになるだけなので無視することにしますが、相手と自分が本当に同じものを見たのかどうかを証明することはできません。
例えば、ふたりが同時に虎を見れば、通常は「ふたりが共通の敵を持つ」ことが共通の知識として共有されますが、本当に厳密に考えるならば、相手が自分の見たものを本当に虎だと認識したかどうかは本人にしか分かりません。相手が「虎を見た」と言っていても、それを信じる理由はありません。そこまで疑うのならば、共通の利害関係は「自分は平和を望んでいる」という想いと同じくらいに役に立たないものになるといえると思います。
(ただし、それでも「お互いがお互いの体に自分の心音をモニターする爆弾をセットする」のは有効でしょう)。
このあたり、どこまでを共有知識と仮定できるかは蓋然性によって判断するしかないと思います。通常は、自分の心の中のものは共有できないが、自分の外で起こった出来事については共有可能だと考えるとが妥当ではないかと思います。
ここでは、単純化の為に相手の人間性について「平和を愛するか、否か」の二種類の可能性しか想定していません。もちろん、それ以外に「虎に食べられたいと思っているか、否か」などなど、さまざまな可能性を想定することは可能です。ただし、これはゲームの解を累乗的に複雑化するので、そういう複雑さを仮定して得られる「実りある議論」が存在するか否かが問題になってくると思います。
分かり合う仕組みが思い込みだとは私は思いたくありません(もしかしたらそうかもしれませんけどね)。もしそうであるなら、世の中の仕組みの大半は極めてfragileであり、いつ壊れてもおかしくなく、しかも全ての崩壊は偶然に、理由なく発生することになります。これは、我々が社会の仕組みを改善させることがほとんど不可能であるという結論を示唆しています。さすがにそれはやだなぁ、と私は思うわけです。
後半部のご指摘は更に重要です。前回長くなったので書くのを止めたのですが、本文の結論を導くに当たって、私は「殺されることの効用がマイナス無限大である」と仮定しています。効用というのは幸せの度合いを表現した数値(正確には、実数とは限らないのですが)だと思ってください。
この仮定を置くことで、相手に殺される確率が極小であったとしても、その可能性をプレーヤーは無視できなくなります。しかし、この仮定がどれだけ蓋然性が高いかというと、結構怪しいのです。少なくとも、殺されるという事象が他の何よりも不幸せであるということは言えます。しかし、それが不幸せ無限大と言えるかどうかというと、それは分からないですよね。
ただし、マイナス無限大を仮定しなくても、大半の「殺される確率」について、私の結論は適合します。ただし、「殺される確率」が非常に低く、一方で一方的に殺されることの不効用がそれほど大きくなく、お互いが殺しあうことの不効用がそれなりに大きい場合、平和が保たれる可能性も出てくるはずです(このエントリーを書いた当時に作ったメモをなくしてしまったので、確実とはいえませんがほぼ間違いないはず)。
で、↑のようなことをぐだぐた書いても本質には何の影響もない場合には、マイナス無限大という「非現実的な」仮定を置くことも許されると私は思っています。
虎に食われたいと思っている人の存在を仮定することも出来るでしょう。それによってモデルの結論が変わるケースもあるかもしれません。しかし、それでも大多数のケースでは「信頼関係を醸成できるメカニズムがなければ殺し合い」という結論に代わりはないままだと思います。そうであるなら、そのような仮定はいたずらに問題を複雑化するだけなので、無視しても問題ないと思うのです。
なにしろ、共通の利害関係というのは所与の条件から選ばなければならないわけではありません。アイデア次第で無数の選択肢があるのですから。虎がダメなら他の手を考えればよいのです(例えば、お互いが同時に相手の腕を切り落とすとか。足だけでその後生活できるかどうかは知りませんが)。アイデアの数が無限大であれば、その中に通りすがりさんが指摘されるような問題点がないアイデアが存在する確率は100%になるのです。
Posted by: 馬車馬 | November 14, 2005 at 02:17 AM
馬車馬さん丁寧のご返事ありがとうございます。
おっしゃるとおり、【①二人にとって死はマイナス無限大である。②二人の「心の外の事象」は共有して認識出来るが、「心の中の事象」は一切共有出来ない。③二人は合理的な思考をする。④以上①~③は二人とも知っており、相手が知っていることも知っている。】という前提条件のもとであれば平和を達成するアイデアは100%存在するだろうし、本文での結論も得られると思います。
それに対して私は①~④は現実社会での平和を達成する方法を考えるモデルとして適切ではないのではないか(そして当然のことですが結論も違ってくるのではないか)と問うたわけです。
①は自殺者、自爆テロの存在と矛盾します。そういう少数(自殺を少数としてよいかは微妙ですが)の例外だけでなく、例えば私は人殺しの烙印を押され、家族も殺人者の家族という烙印が押されるのことは死よりも不幸です。こういう人はむしろ多数派ではないでしょうか。
③は宮崎勤やオウムや池田小学校のような事件を考えると楽天的過ぎる前提のように思います。また国家間の問題でも狂気が一切ない合理的な戦争というのはむしろ少ない気がします。ナチスをどう理解するかは議論の別れるところでしょうが、私には将軍様を信じきることは出来ません。またそもそも無神論者は少数派です(宗教=非合理というわけでもないですけど)。
②④に関しては馬車馬さんのご指摘のとおり、厳密な議論は長くなり不毛なものとなりがちなので前回の指摘に留めます。
②の問題と重なりますが、相手と同一の脳を持っていない以上わかりあうことは錯覚でしょう(盗聴されているという妄想を持った精神病者がたまたま盗聴されていたというように、愛されていると思い込んでいて実際に愛されていることはありえます)。結局、人間の認知では思い込んだり信じるということから抜け出せないでしょう。エスパーでない限りまさに心中するときにも相手が自分を愛していると断言することは出来ないはずです。我々の社会は極めてfragileであるからこそ、人間は宗教や法律やゲーム理論などを発明したのではないでしょうか。
とてつもない長文になりすみません。
Posted by: 通りすがり | November 14, 2005 at 04:42 PM
ちょっと誤解されているかもしれないので、今更ながら追記させていただきます。
私が言及した「通りすがり」さんとは、3月11日に書き込みをされている方であり、私の最初の書き込みの直前に書いていらっしゃる「通りすがり」さんとは別の方です(書き込みの内容からしておそらく)。
私が最初に書き込みを行った際に、第二の「通りすがり」さんの出現に気づいておらず、紛らわしい書き込みになってしまいました。
ご迷惑をお掛けし申し訳ありません。
Posted by: 一読者 | November 15, 2005 at 01:26 PM
経済ネタを探していたら、面白そうなものがあったので首をつっこんでみます。
皆さんが無人島の条件に色々考察されていて興味深いのですが、これが同じ状況で多人数になった場合はどうなるのでしょう?漠然と絶望的になると考えておられるようですが、根拠がないような気がします。
たとえば、10人がこの島に流れ着いた場合、全く逆の結果が産まれるはずです。おそらく、ここにいる当事者達の力関係はほぼ同等という条件でしょうから、他の9人を排除するのは物理的に不可能です。もし先に手を出せば、次に排除されるのは間違いなく自分となるため、合理的に考えれば手は出せません。ここで、積極的に他人を排除する意思がなければ(つまり平和主義なら)、この無人島は平和なままでしょう。つまり人数が増えた時点で馬車馬さんのおっしゃる利害関係が生じます。そしてここでその利害関係を崩すことができるのは、個人の狂気のみです。
まぁ、現実ではこれ以外に因子がいっぱいあるので、結果がどうなるかはわかりません。つまり、平和主義が平和をもたらすかどうかは、やってみなくてはわからないと思います。
て、考えてみたんですけど、どうでしょうか?自分としては、みんなが平和主義でかつ他にも色々やればいいんじゃないかな?と思うですが。平和主義だけで思考停止するのは、確かにいけないことですから。
Posted by: 一学生 | November 17, 2005 at 10:53 PM
>一読者さん
てっきり、私への批判だと考え、「ネットってのはむずかしいなあ」思ってました(ネット上に書き込んだのは初めてだったもので)。これからは通りすがり2と名乗ります。
>一学生さん
11/5にも書いたのですが、おっしゃるとおり複数の方が平和は達成しやすいと私は考えていいます。無人島のモデルではで「一晩に寝首をかけるのは一人までで、寝首をかくと証拠が残る。」という前提が必要ですが。
>馬車馬さん
11/14ではこれ以上言及しないと書いたのですが、私の突っ込みのキモなのでもう一度だけ「わかりあう」ことについて書かせてください(①③の突っ込みは利害を共有することが平和を保障しないことを示しているが、平和主義であることが平和に役立つことをなんら示せていないとが気になったので)。
分かり合うことはやはり錯覚だと思います。しかし、多少なりともコミュニケーションが取れた時点で、我々は相手に対しての何らかの印象を持ちます。この印象は思い込み(錯覚)の域を出ることはありえない(と私は思う)のですが、お互いに「相手は平和主義者だ。相手は私が平和主義者だと考えている。」と思い込めば平和は成立します。この思い込みは平和を望んでいるほうが相手に抱かせやすいと思うのです(ここは意見の別れるところだとは思います)。また数段説得力は落ちるとは思うのですが、自分が平和主義者であれば「相手が平和主義者である。」と思い込みやすくなるのではないでしょうか。
以上からプレイヤーに平和主義者がいることは平和の達成に正の相関があると言えると思います(必要条件、十分条件では有り得ないでしょうが)。
Posted by: 通りすがり2 | November 18, 2005 at 02:23 AM
最近このブログを発見して、以来毎日拝見させていただいています。内容が理解できているかはわかりませんが…(汗)
「複数の方が平和は達成しやすい」というコメントについて考えてみたのですが、これは平和主義とは何ら関係無いように私には思えるのです。
なぜなら島に流れ着いた人間で「全員が自分は死にたくないという思いを抱いている」という条件の下で議論をし、「殺人を犯したものは残った全員によって処罰される」というある種の抑止力を生み出すというのは合理的思考をもった集団を仮定するならば容易に想像できるシナリオで、平和主義者が一人もいなくても起こりうる事だからです。
こうして考えると、平和主義者なんていなくたって無人島での平和は実現しそうな気がします。
平和云々以前に日々の生活でさえ困難な人々がいます。また平和に対する考え方だって人それぞれかもしれません。そんな世の中で「誰しもが平和望む事で実現する平和社会」と、「全員が平和を望んでいるかどうかは判らないが結果として平和な社会」なら私は後者の方が圧倒的に実現しやすいと思うのです。もしそういった立場をとるなら、平和主義者がいることは平和の達成に正の相関があるとは言えません。
理論がめちゃくちゃで申し訳ないですが、私はそう思います。
Posted by: 浪人生 | November 19, 2005 at 05:24 AM
一学生さんの意見で10人になったら、、、というのも面白い想像と思いました。
ただ、人数が多くなればなったで、派閥ができる。
2手に分かれてで争ったりしちゃったりするんじゃないかなあという気も
いたします。
Posted by: のびい | November 19, 2005 at 05:56 AM
のびいさん、コメントが大幅に遅れてごめんなさい。
本文では一方的に殺されるデメリットは強調しましたが、お互いが殺し合いになったときのデメリットについてはあまり深く説明しませんでした。とりあえず、互いに殺しあうことのデメリットが一方的に殺されるデメリット(不効用)よりも小さい場合、同じ結論が維持されます。殺し合いのデメリットが殺されるデメリットを上回ると話が変わってきますが、あまり常識的な結果ではないですね(殺される方がマシ、というゲームになってしまうので・・・)。
殺すことによるメリットを減らす、というのは間違いなく有効な方法です。この結果、相対的に殺さないことのメリットが増加(=利害関係が共有)するわけですね。無人島に虎が生息しているような場合では、このような利害関係が所与の用件として与えられますので平和維持は比較的容易ですが、「不運にも」虎がいない場合は、人間は自ら知恵を絞って殺すことのメリットを減らしたり、殺すことのコストを増やしたりする必要があるわけです。前者は利益の共有であり、後者は損害の共有になる、とまとめてしまってもいいかもしれません。
ゲーム論は既に政治学でも広範囲に使われているようですね。社会学の分野でも応用されているそうです。
Posted by: 馬車馬 | November 19, 2005 at 08:53 AM
通りすがりさん、コメントありがとうございます(11月14日午後4時42分に頂いたコメントに対してです)。
1についてはおっしゃるとおりだと思います。ただし、殺されることの不効用と自殺・自爆することの不効用が同値である必要は特にないとは思いますが。むしろ、宅間のような人間の方が「死を恐れない」ということで厄介な存在だと思います。
ただし、どちらにせよ死がマイナス無限大の効用を持つ、という仮定は「相手が殺人鬼である確率が限りなくゼロに近くとも、ゼロでさえなければ疑心暗鬼が平和を壊す」という結論を単純化するための方便で、この仮定を削っても大半のケースで同じ結論が維持可能です。その意味で、この仮定は重要ではありますがcriticalなものではありません。
相手に合理性があるとは限らない、というのもまたおっしゃるとおりです。ただし、たとえ相手が狂気に侵されていたとしても、ある種の合理的選択を強制することは可能だと思います。どこぞの将軍様であろうと殺されるのはいやでしょうし。今回のケースとは関係ありませんが、死を恐れない人間に対しても、死を上回る苦痛を与えることで(我々の考える)合理的な選択を強制することも出来ます。釜茹で、のこぎり引き、市中引き回し、三親等に至るまでの死罪などのむごたらしい刑罰の数々は、社会秩序を維持するためには死をも上回る苦痛が必要とされた証左とも言えます。このエントリーでは平和を維持するためのスキームについてはあまり詳しく書きませんでしたが、このような苛烈な刑罰は間違いなく平和の為に必要とされたものでしょう。
話がそれましたが、私は相手の一見非合理的に見える行動が本当に非合理的なのかどうかは結構怪しいと思っています。例えば、「窮鼠猫を噛む」は必ずしも非合理的ではありません。その行動だけを取れば、天敵の猫に突撃するねずみは非合理的に見えますが、突撃しなければ殺される(=マイナス無限大の効用)ならば、そこに更に命の危険を積み重ねても状況はそれ以上悪化しません(マイナス無限大からどんな有限な数字を引いてもマイナス無限大のままですから)。ヒトラーも含め、多くの狂気(特に、国レベルのもの)は合理性で説明できる余地が残っていると思います。
最後の文章については同意です。このエントリーでは全てのケースで平和が壊れますが、両プレーヤーが勘違いや考え違いをした結果平和が維持されるケースを想定することは可能です。しかし、このような平和にはなんの裏付けもなく、いつ壊れてもおかしくありません。そのfragilityを解消するために様々な社会のルールが存在し、たとえ勘違いが存在しなくとも平和が維持できるようになっているのだと思います。
つまり、現代において平和を維持しているのは結局勘違いではなく、むしろ広義の社会システム(単なる利害関係の共有を含む)であるはずです。そうでなければ、人間社会ははるかに不安定になっているでしょう(この想定では平和は確率的にしか維持されないため。前回、思い込みとは考えたくない、と書いたのはこういう意味です)。そしてこう考えるならば、人間の認知の限界による平和という状態が想定できたとしても、それを存在しないものとして議論を組み立てることは特に蓋然性を失わないのではないか、と思うわけです。
Posted by: 馬車馬 | November 19, 2005 at 09:58 AM
一読者さん、ご丁寧にどうもありがとうございます。これですっきりしました。
改めて一読者さんのコメントを読み直しますと、「随分前のコメント」とはっきり書かれていたのですね。私もすっかり見落としておりました。失礼しました。3月に頂いた例のコメントに対しては、私も似たような感想を持ちました。(というか、どうにもコメントの意図がつかめないというのが正直なところですが)。
このコメント欄はコメント数と各コメントの長さがそれぞれちょっと半端ではないために、かなり見づらくなってしまっているのも原因のひとつなのでしょうね。これだけ長いときは掲示板のツリー構造の方が良いのかもしれません。
Posted by: 馬車馬 | November 19, 2005 at 10:10 AM
一学生さん、通りすがり2さん、コメントありがとうございます。
本文では特に説明することなく「多人数での平和はふたりの平和よりも難しい」としたわけですが、これにはいくつか理由があります。
まず、10人のうちの一人が裏切り、かつ犯人を特定できた場合に、他の9人(ひとり殺されていれば8人)がその犯人を排除する、というのは自明ではありません。もしかしたら、残りのうち4人が「そうだ、世の中は弱肉強食だ」と言い出して犯人側につき、蝿の王みたいな世界が現れる可能性もあるわけです。つまり、ここで「誰かが裏切ったら残りの人たちは協力してこの犯人を排除する」というルールが必要になります。同時に、「この報復行為に参加しない人間にも処罰を与える」というルールもないと、上で書いたようなケースを防止できません。更に、もし報復に参加しない人が出てきたときに、「報復に参加しなかった人に対する処罰に残りの全員が参加せねばならない」というルールが必要になり、「もしこの処罰に参加しなければやはり罰せられる」というルールも必要になります(以下ずっと続きます)。多人数での協力関係というのは、ちゃんと考えると極めて複雑な行為なのです(ちなみに、これは多人数での協力のための一条件にすぎません。また、ふたりしかいない場合は処罰の協力という概念自体が存在しないため、これらのルールは不要です)。
そして、普通の社会であればこれらのルールは警察力によって保持されるわけですが、無人島なり外交関係なりではこれらの警察力は存在しませんから、10人それぞれが自らの意思でこのルールに服する必要があります。そのためには、10人が協力することで得られる利益が、10人全員にとってはっきり見える形で存在しなければなりません。もし無人島に虎がいても、4人いれば対処可能だということが分かっていた場合、10人全体で共有できる利害関係とはならず、5人ずつか、4人6人のふたつのグループに分裂する可能性が出てくるわけです(上の段落で書いたルールの連鎖は、グループの構成人数が少なくなるほど達成しやすいことを確認してください)。
そして、通りすがり2さんが指摘されたような認知問題が生じるならば、共通利益に対する理解も難しくなりますから、ますます大変です。
なお、一見多人数の方が平和になりやすく見える最大の要因は、通りすがり2さんが指摘されている通り、ひとりが残りを皆殺しには出来ないという仮定によります。これによって、裏切りに対する報復、またはルール遵守に対する報酬が可能になります。ゲーム理論的には、一時点ゲームから繰り返しゲームへとゲームの構造が根本的に変化しているのです。「繰り返し」を認めることで「報復・報酬」が可能になり、多くの協力関係が保持されることは良く知られています。ですが、上で書いたとおり、そのためには協力によって得られる利害関係が共有されていること、そして不文律ではあっても裏切り者を処罰する社会的ルールが確立されていることが絶対に必要になります(実際、村八分に参加しない村人が嫌がらせを受けたりすることって多いですよね。)。
というわけで、多人数を仮定しても本文の結論である「平和の祈りには意味がなく、共通の利害関係とそこから生じる社会ルールこそが平和にとって決定的に重要だ」ということに変化はないと思うわけです。
Posted by: 馬車馬 | November 20, 2005 at 09:54 PM
馬車馬さんお返事ありがとうございます。これまでで最大の長文となってしまいました。無理に削って隔靴掻痒となるよりはましなのではと思ったのですが、ご迷惑なら言ってください。
今回のエントリーでの馬車馬さんの主張は
『【(無人島で平和、裏切りの選択肢を持った二人を仮定する。互いに平和を選んだ場合両者とも+a。一方が平和、一方が裏切りを選んだ場合裏切った方が0、平和を選んだ方が-Z。互いに裏切った場合両者とも-Z/2。ただし①Zは十分に大きな正数(書いてから気付いたのですが∞とすると均衡点が殺し合いとならないですね)。②a以外の条件は両者にとって「常識」。③両者は十分に賢く利己的。④aはZよりも十分に小さい正の数字。⑤相手はaの存在を認識できない。)というモデルの中では均衡点は「両者とも裏切り」になる。これはZより小さい限りaを大きくしても無駄である。均衡点を「両者とも平和」にするには裏切りを選んだプレイヤーに対して常に十分に大きく、両者にとって常識である-Yを付けることである。】よって現実社会においても平和の達成には、平和を願うこと(aの存在)は意味がなく、相手を殺すことによる不利益(-Yの存在)が重要である。』
であると理解しています。【】の中は全く同意なのですが、これを現実社会に広げてしまったことに反論したかったわけです。
①に対しては-Z(=死)を恐れない者もいると反論しました。これに対しては十分に大きなYを置くことで解決できるとの回答を頂き納得しました。②に対しては認知に関する問題を提示しましたが、不毛な議論となりやすいたとの回答を頂きここで議論しないこととしました。残るのは③~⑤に対しての反論です。
③に対しては、狂人の存在を提示しました。ただ、そのような極論をせずとも人間の多くの行動は非合理だと思います。そうでなくては宝くじがあれ程売れる理由が説明出来ません。(宝くじを買う人間にとっては「3億円=∞である」として一定の合理性を見出すことは出来ると思いますが、後出しジャンケンの印象は拭えません。)
④に対しては(馬車馬さんは考えないこととするといっしゃいますが)aがZよりも十分に大きいことは十分有り得ることだと思います。例えば、無人島での相方が妻や娘や(これを満たせる友人は本当に少ないですが)親友であった場合aの大きさを伝え切っている自信はないくとも、aがZよりも十分に大きいので私は裏切りを選べません。出会った日に妻や親友となる可能性は0ではないと思います。
⑤に対しての反論が最大の反論なのですが、人はある程度分かり合えると(思い込めると)思うのです。虎のいない無人島での相方が家族や親友であった場合と、虎のいる無人島での相方が筆談でしかコミュニュケートできないイスラム教徒であった場合とでは私は圧倒的に前者の方が安心出来ます。もともと家族や親友でなっかた場合でも、親友になったり恋人になったりする可能性は少なくとも0ではないと思います。そこまで親しくなれなくても殺しあわない程度にaの何%かを伝えることはもっと有り得るでしょう。また国家間においても裏付けのない宣言は有効です。スイスの「永世中立である」との宣言に裏付けはありませんが、周辺国は相当程度信じていると思います(この宣言は最早繰り返しゲームになっていると思いますが、宣言の当初はそうではなかったはずです)。裏付けのない宣言は無効とした方が良い場合もありますが、一般的とまでは言えないと思うのです。
おまけですが、現実社会ではほとんど常に例外が存在するので、十分条件とか必要条件と言った用語は使えないはずだと思います。
ゲーム理論に限らず理論とは複雑すぎる現実を「理解できない」で終わらずに「理解しようと努力する」ために発展してきたのではないでしょうか。理論と現実とが矛盾した場合、考え直すべきなのは理論であるのは自明であると思うのです。
複数のモデルに拡大した場合、累乗的に複雑になり、複数のモデルの方が平和を達成しやすいと言うのが早計であるというのはご指摘の通りだと思います。
現実社会での平和が確率的にしか保たれないと言うのは残念ながら事実だと思います。アメリカやフランス、ロシアといった大国が戦争に踏み切る確率は、0ではありません(明らかに戦争を起こした方が不利であったとしても、大統領が発狂したり機械が故障することは有り得ます。想像できた時点で確率は0でないのです。)。また、冗談のように思えるかもしれませんが、同様に0ではない可能性でこの世の中はただの夢かもしれません。
繰り返しになりますが、我々の社会は残念ながら極めてfragileます(嫌だと言う理由で否定してしまうのは如何なものかと思います)。人間はfragilityを嫌うため蓋然性を積み重ねるのでしょう。
Posted by: 通りすがり2 | November 21, 2005 at 01:37 AM
のびいさん、通りすがり2さん、馬車馬さん、検証していただいて、ありがとうございます。
人が自分の言ったことを考えてくれているのはうれしいですね。
一応、言い訳しておくと、上での理論は多人数だから平和になりやすいと言いたい訳ではありません。理論もなしに、多人数になると少人数よりも平和になる確率が少なくなるという考え方は、短絡的かなぁと思っただけです。後、処罰や復讐という意味ではなく、単純にリスクの点で排除するしないを決定したつもりでした。(派閥を考えてしまうとさらに難しくなるから)皆さんのいわれているとおり、初期条件で結論を左右する因子は変わってくるでしょう。
すでに指摘されている方もいますが、平和主義も平和を保つ一つの方法でしかありません。社会ルールや宗教、経済関係なども有効なのはわかりきっているのですから、『○○すれば平和になる!!』で思考停止するのはまずいなぁ、と思った次第です。
Posted by: 一学生 | November 21, 2005 at 05:00 AM
浪人生さん、コメントありがとうございます。それからリプライが大幅に遅れてしまって申し訳ありません。かなり忙しかったのと、お返事すべきコメントがどれも「ちろっと読んで5分で返事を書く」などということが出来そうにもないハードコア(笑)なものだったため、2週間近くコメント欄を放置という破目に相成ってしまいました。
今山を登りきって七合目まで降りてきたところですので、これからぼちぼちとお返事していくつもりです(そんなわけですのでどうかお見捨てなく→皆様)。
さて、浪人生さんのコメントについてですが、おっしゃることは前後半共にごもっともだと思います。結局、「多人数での平和はそれなりの合理的思考をもった人々によって維持されている」ということが暗黙のうちに仮定されていた(仮定の中身はNovember 20, 2005 09:54 PMのコメントで書きました)わけで、平和主義は(たとえ全員に共有されていたとしても)この平和に対してなんの寄与もしていません(例え寄与がありえたとしても、平和を構築するために必要とされていません)。
この事は、平和主義は平和には必要ないが、別の合理的な社会システム(広義の利害関係をベースとした)さえあれば平和が維持可能であることを意味しますので、関係ない、となります。
ただし、もし「全員ないし一部の人が平和主義を信奉していないと機能しない社会システム」のようなものが想定可能なら、平和主義は部分的ながら平和のための十分条件となり、「関係がある」ということが言えるのだと思います(こうなっても、平和主義は平和の必要条件にはなりません。また、利害関係の存在は依然として平和のための十分条件です)。
Posted by: 馬車馬 | December 01, 2005 at 03:17 AM
のびいさん、コメントありがとうございます。
上でも書きましたが、そのあたりが多人数の難しいところですよね。ただし、厳密に考えると「俺といっしょに新派閥作ろうぜ」という言葉に対しても「そう言っておいていざというときは自分だけ踏みとどまるつもりでは?」という疑心暗鬼が働くので、厳しく考えるなら「自分一人が離脱しても良い」と思えるような状況にならない限り離脱しない、という可能性もあります。どちらにしても、処罰に参加しない人間を罰する処罰に参加しない人間を処罰する・・・というややこしい仕組みが要るわけですが。
Posted by: 馬車馬 | December 01, 2005 at 03:22 AM
通りすがり2さん、コメントが大幅に遅れてしまってごめんなさい。やっと山を越えましたので、落ち着いてリプライを書こうと思います(まず、長文は全く問題ありません。それを言ったら、恐ろしく長いコメントを書いている私に跳ね返ってきますし(笑))。
まず、【】内についてなのですが、厳密には、そのようなマトリクスを2種類用意しています。ひとつは、【】内にあるような、平和なときよりも裏切った時のほうが利益が小さくなるケース。これが普通です。ただし、世の中には裏切った方が利益が大きくなる人(殺人鬼系)も一定確率で存在し、その確率qは全プレーヤーが知っていますが、実際に相対している人がどちらのタイプかは分からない、という想定です(これが疑心暗鬼の源です)。ゲーム論で言うところの不完備情報ケースを単純に援用したわけです。
で、これだと説明がややこしいので、本文で「裏切れば食料を独占できるという利益がある」という条件を追加し、2番目のマトリクスだけでも話が出来るようにしています(国のメタファーとしてはこれで十分なので)。ただし、こうしてしまうと疑心暗鬼の話は出来ませんが。
さて、③についてですが、人間は必ずしも合理的な選択をしないというのはおっしゃるとおりで、「実験ゲーム理論」の分野でも、ゲーム論のかなり基本的なアイデア(のいくつか)が必ずしも成立しないことが知られています。その意味で、我々ユーザーサイドは、理論が決して無謬ではないことに絶えず注意する必要があるのだと思います。
ですが、非合理な選択というのは一体どういうものでしょうか。それは、平和になるべき環境で殺人に走る人、逆に殺し合いが合理的な状況で平和的な態度を示す人の両方を指すのだと思います。そして、非合理的である以上、このような人がいつ、どのような状況で表れるのかは想像できませんから、「ランダムに表れる」と仮定するのはそれほど無理ではないと思います。で、2種類の非合理的な選択が同じ確率で表れると仮定できるならば、期待値には影響しないことになりますので、結論は変わりません(ただし、このモデルでは殺されることの不効用を無限大にしているので、このような非合理的な選択の存在は問答無用での殺し合いをプレーヤーに強制します)。
というわけで、「既存の理論からは非合理的にしか見えない」事象の合理性は大いに考えなければならないと思いますが、実際に非合理的なケースをマジメに考える必要はそれほどないように思うのですが、いかがでしょうか。
④について。もちろん、流れ着いた相手が家族であったときに殺しあうことはありえません。これは、あらかじめ利害関係を共有しているケースでしょう。私は「平和への祈りは、例えそれが世界中に広がったとしても世界を救えない」ことを示すためにこの無人島モデルを作りました。ですから、そのような利害関係がないケースだけを想定しています。家族であれば、平和を特に望んでいなくても、例えば利己的遺伝子的な理由で子供に手をかける可能性は無くなり、平和は保たれてしまうので、上の仮説をテストする環境としては適切では無いのです。
⑤について。前半部分は上と重なるので省略します。『国家間においても裏付けのない宣言は有効』との点ですが、本当にそうでしょうか。スイスの永世中立が信じられているのは、彼らが実際に安全保障条約などを一切締結しなかったからであり、自らを守るために軍備を整えたからではないでしょうか。そして、ああいう微妙な場所が緩衝地帯になることは周辺国にとっても必ずしも悪いことではなかった(=宣言を信じ、協力する理由があった)という点も挙げられるでしょう。スイスは明らかに自らの行動をもって中立宣言にコミットしたのであり、某国の社民党や共産党が主張しているように、誠意を持って宣言さえすれば平和を獲得できるというのはありえない議論だと思います。この宣言が受け入れられるには条件があるのです。
例外が存在するから必要・十分条件の議論は無意味だとは思いません。私は状況をある程度限定することでクリアな必要・十分条件を得ており、より幅広く「例外」を許容するならば、これらの条件が崩れることもあるでしょう。しかし、このような限定条件下での議論を詰めなければ、我々は「どんな状況が例外なのか」の定義すら出来ません。ですから、まず我々は限定状況での議論を優先すべきであり、それからそれをどの程度一般化できるかを考えるべきでしょう。
最終段落については私の本文での主張とほぼ重なると思います。利害関係を伴わない無垢の社会はfragileです。それを避けるべく我々は数千年をかけて社会システムを鍛えてきたのです。その果実である現代社会は決して単純な意味で「確率的にfragile」ではありません。大統領が発狂した場合に備えて副大統領がいるのも、このような確率的fragilityを排除するためでしょう。それでもなお平和が崩壊したのであれば、そこには何か「理由」があるのです(想定外の確率的事象の発生も含みます。これ自体が社会システムの欠陥という「非確率的」問題です)。
Posted by: 馬車馬 | December 04, 2005 at 11:19 PM
一学生さん、コメントありがとうございます&リプライが遅れてごめんなさい。
『理論もなしに~短絡的』という点は全くおっしゃるとおりです。そこまで書くと本文が冗長になってしまうので書かなかったのですが、一学生さんが指摘してくださったおかげで書くことが出来ました。当初、このエントリーは考えたことの2割くらいだけを文章にしていたのですが、皆さんからのツッコミを頂いたおかげで、ほぼ全て(というか、それ以上)を吐き出すことが出来ました。どうもありがとうございます。
何事も、思考停止してしまってはつまらないですよね。
Posted by: 馬車馬 | December 04, 2005 at 11:27 PM
仕事の合間に偶然たどりつきました。
お気に入りに登録して、じっくりと読ませていただこうと思っています。
今、時間が無くてみなさんのコメントをすべて読めないのですが
「平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たないのだ。」
というのは、願うだけで何もしないのは…って事ですよね?
願う気持ちから行動を起こしていけば、まったく役に立たないって事は無いですよね?
私は無知だから、これから時間のあるときに
ここに書いてあることを読んで、勉強しようと思います。
Posted by: 仕事中 | December 08, 2005 at 05:39 PM
〉仕事中さん
馬車馬さんの主張は『ただ平和の願っているだけでは平和は達成できないが、平和を願って共通の利害関係を持つように行動すれば平和は達成できる。ただ共通の利害を持つことが出来れば平和を願っていなくても平和は達成出来るのでやはり平和を願うことは平和の達成とは関係がない。』と言うことだと思います。(違ってたらすいません)
おっしゃるとおり、平和を望まない二人であれば利害を共有しようとしないかもしれませんね。
Posted by: 通りすがり2 | December 10, 2005 at 06:22 PM
仕事中さん、コメントありがとうございます。通りすがり2さん、フォローありがとうございます。
通りすがり2さんがお答えくださっているので、私から特に付け加えることはありません。ただ、今気がついたのですが、本文で私は利害関係を誰が作るか、という問題を考えていませんでした。部分的に私は神の視点で、「利害関係が存在すれば平和を願う2人の間にも平和が生まれる」と言い、今度は当事者の視点から「利害関係を自ら作ることで平和を維持できる」と書いています。この辺りはもう少し厳密に考えないといけないような気がしてきました。
ただし、「平和を望んでいなければ利害関係は発生しない」かというと恐らくそうではなく、例えばこの二人が「島ごと全てを吹き飛ばす爆弾」を作ることが出来るなら、相互確証破壊が成立して結果的に平和が保たれます。このとき、爆弾を作る動機は必ずしも平和のためではなく、相手だけがそのような爆弾を持つことは危険である、という単純な軍拡思想による可能性が高いと思います(今の「核による平和」も、平和の為に作られたシステムとは言いがたいでしょう)。
ただし、そういったメカニズムの中に平和を維持するメカニズムを見出し、そのシステムのより安定的な運営(改変を含む)を目指すには、まず平和を望む気持ちが必要でしょう。だからこそ、平和主義者の方々にはまず一義的には「平和への祈り」が無価値であることを認識していただき、それを前提とした主張・行動を「平和への希求をベースに」進めていただきたいなぁ、と思うのです。なんだか議論が入れ子構造になってきて、ちょっとややこしいのですが。
Posted by: 馬車馬 | December 13, 2005 at 01:41 AM
私も何げに流れてきた者ですが、真似してちょっと違った思考実験をしてみたいと
思います。
最初の例では無人島に漂着した2人がナイフを持っていて、互いに相手の考え(真意)
が判らないという条件でしたが、私もこれに加えて「2人ともナイフの達人でどんな
部位も一撃必殺で切り落とせる奥義を身につけている」という条件を都合よく追加
してみます(もちろん2人の実力は寸分違わず同じとする)。
さて、この2人が平和なんかこれっぽっちも願わない人間だとすると、2人が達する
合理的な結論は、最初の例にある通り速攻で相手を殺してしまう事です。私の例では
一撃必殺の奥義で相打ちになって島は確実に元の無人島に逆戻りです。
では2人が平和を強く願う者たちだったらどうなるでしょう? まずは、なるべくなら
相手を殺さずに済ませたいと考えるはずです。それは果たして可能かと考えれば、相手
の手足の1本も奪って1人では生きて行けなくすれば、自分の生存のため相手の生存を
望まざるをえない状況になると考えるでしょう。
そこで2人が早速その考えを実行すると、一撃必殺の奥義でそれぞれが手足の1本ずつ
を失う事になります。
しかしこの瞬間から利害関係が発生して、以後は相手を殺すという選択肢はなくなりま
す(ここでは怨恨は発生しないとする)。
さて、それでは「平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない」
と言えるでしょうか? この思考実験の場合、結果を見ればこうなります。
●2人が平和を願う人間でなかった場合・・・・2人とも死亡
●2人が平和を願う人間だった場合・・・・・・・2人とも生存
いささか強引ではありますが、平和を願う心がある場合とない場合とでは、おのずと
行動にも影響が及ぼされ、その結果が大きく変る可能性もあるという事です。
つまり、願う事にも一定の効用は期待できると言う事も可能なわけですね。
Posted by: くれい | January 16, 2006 at 12:32 AM
くれいさん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてごめんなさい。
さて、ご指摘の点ですが、平和への願いが利害関係を生み、それが平和をもたらす、だから願うことには意味がある、というのがご趣旨だと思います(ちなみに、そのご趣旨であれば別に特別なスキルは必要なく、互いに自分の腕を切り落とせばよいと思います)。
ただし、このくれふさんの議論には、やはり「互いが相手の腕だけを切り落とす時、自分は相手の腕を落とすのに相手は自分の胸を刺す」という可能性がゼロでなければなりません(=相手が殺人鬼である可能性がゼロ)。つまり、相手が平和を望んでいるという確信が無い限り、腕と命の交換という割に合わない取り引きに陥る可能性があり、この疑心暗鬼が「平和のための利害関係の確立」を妨げます。
その代わり、少し条件を限定して「片方のプレーヤーは、相手が殺人鬼でないことを"知って"おり、ただ疑心暗鬼にさいなまれてこちらを殺す可能性がある」という場合は、こちらが一方的に腕を切り落とすことで、相手に自分の「平和の願い」を伝えることができます(換言すると、平和への願いというのは、それくらいの事をしない限り伝わらない、ということです)。ただし、これは相手が殺人鬼でないことを知っている時にだけ実行可能です。
どちらにせよ、「平和への願い」それ自体が平和に対してなんらかの効力を持つことはなく、状況をかなり限定しない限り平和の維持に真に必要な「利害関係の確立」の役に立つとすら必ずしも言えない、ということなのかなと思うのですが、いかがでしょうか。
Posted by: 馬車馬 | January 20, 2006 at 07:40 PM
これ本当に面白いですね。
ただ、平和を願う世論はまったくな無駄と言うわけでもないと思います。「戦争を避けるべき」と言う認識がなければ、戦争を回避することは出来ませんし,むしろ積極的に戦争してしまいますし。
もちろん、「平和を願う」=「平和を達成」と同じレベル政治を考えてしまうことはとんでもない間違いですけど。それでも、主張なさるなら、「平和を願うこと」→「世界平和」ということを証明しなければならないでしょう。
僕は、「平和はもろく」「戦争に突入しやすい」と言うことが前提で考えています。国際社会に秩序を強制執行する、あるいは出来る存在なんてないわけですから。
「平和がもろい」と言う前提に立てば、馬車場さんの相互不信(非協力ゲームってことなんですよね)の前提はまったく持って正しいです。ゲーム理論はあまりくわしくないのですが。
もし平和を世の中を平和にしたければ、僕は、「共通の利害」を作ることが国際社会を平和にするために必要なんだと思います。相手を戦争でつぶすよりも、相手と協力して「平和」という安定状態を維持し、そこから平和の配当(自由貿易などによる果実)などを増やすことが大事なんではないですかね?
さらに戦争に訴えることのリスクとコストを上げてやることと。
いつも面白い論文有難うございます。
このブログ、友達にも紹介しときました。其の友達も面白いといってました。
またブログ、楽しみにしています。
Posted by: hiro | January 22, 2006 at 05:59 PM
どもども、私もリプライが遅くなってしまいましたが、平和主義というのは基本的に
性善説に立っているので相手に根源的な悪意があるという事は想定しません。
だから想定するのはあくまで偶発的な事柄による結果的な不幸のみになります。
最近の例で言えば、中国の軍事力は侵略の意図がないから脅威ではないとか表明した
どこかの政党と同じスタンスです。
平和主義自体が万能の処方箋でないというのは確かですが、それでもフェイルセーフ的
に社会を惨劇から遠ざける推進力になりうるという点で、それなりに価値を認められても
いいのではないかと思います。
Posted by: くれい | January 23, 2006 at 06:33 AM
hiroさん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてごめんなさい(体調崩してました)。
お褒め頂き恐縮です。個人的にもこのエントリーは結構気に入っています(直感的には突拍子もない結論を、それなりには説得的に説明する、というのが好きなんです)。
もともとの議論は、平和を願うことは平和を達成することの必要条件でも十分条件でもない、というもので、これを私が本文で「関係ない」と表現した結果、多くの方に違和感を感じさせてしまったようです(ついでに書きますと、コメントを頂いた後で私自身もより強く「関係ない」ことを論証できないか、というスケベ心を出してしまった、ということもありますが)。
基本的には、平和を願えば平和になる、という考え方が「戦争になるのはワルイ奴がいるからだ」的な発想を誘発してしまうのが一番問題なのだと思います。善人の間にも争いは起こりますし、全ての戦争は多かれ少なかれ「平和を望んでいる人たち」の間で行われてきたものでしょ、というのが「平和主義をとなえる人たち」に一番言いたかったことな訳です。。
Posted by: 馬車馬 | January 29, 2006 at 12:12 AM
くれいさん、コメントありがとうございます。
ある意味、私が書いたのはその性善説的な平和がほんのわずかな疑心暗鬼によって崩壊するもろいものであることを論証したもの、と言うことも出来ると思います。また、全ての戦争を偶発的な事故であると捉えるのは、戦争は避けることの出来ない天災の様なものと考えること(=どうしようもないと諦めること)であり、辞書的な平和主義の定義とはそぐわないのではないかなぁと思うのですがいかがでしょうか。
後半部についてはごもっともだと思います。その手の平和主義はフェイルセーフではないと思いますが、社会の規範としての存在意義はあるのだろうなと。ただ、社会の規範は社会のルールとは異なりますから、社会の規範が成立していることを前提とした議論はできないのだと思います(社会のルールは、逆に成立していることが前提になります。そうでなければルールになりませんから)。
Posted by: 馬車馬 | January 29, 2006 at 12:22 AM
金融の最後のところにコメント書かせていただきました。
現在大学では、恐らく、マネタリストかサプライサイド派の経済学の先生の授業を受けています。
昔読んだときは、経済さっぱりだったので、少しは分かるかな?と思いつつ読ませてもらいコメント書かせていただきました。
>hiroさん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてごめんなさい(体調崩してました)。
お気を付けください。
寒いですからね~。
この時期は…
>お褒め頂き恐縮です。
毎回楽しく見させていただいてます。
規制緩和すべきな物とすべきでない物のとことか、靖国カードのとこも、個人的にはなるほどな~って感じでした。
>個人的にもこのエントリーは結構気に入っています
たしかに、ここまで効果的に論証なさると気に入るかもしれません。僕はどうもそこまで理論立てて説明するのが下手くそんなものでして…
>(直感的には突拍子もない結論を、それなりには説得的に説明する、というのが好きなんです)。
なんとなくそういうのが好きそうな感じはいたしますw
>もともとの議論は、平和を願うことは平和を達成することの必要条件でも十分条件でもない、というもので、これを私が本文で「関係ない」と表現した結果、多くの方に違和感を感じさせてしまったようです(ついでに書きますと、コメントを頂いた後で私自身もより強く「関係ない」ことを論証できないか、というスケベ心を出してしまった、ということもありますが)。
僕の持論も馬車場さんとほぼ同じです。ただ、ここまで説得力をもって説明できるかと言えば出来ないので、「なるほど~」って感じでみらせていただきました。
>基本的には、平和を願えば平和になる、という考え方が「戦争になるのはワルイ奴がいるからだ」的な発想を誘発してしまうのが一番問題なのだと思います。善人の間にも争いは起こりますし、全ての戦争は多かれ少なかれ「平和を望んでいる人たち」の間で行われてきたものでしょ、というのが「平和主義をとなえる人たち」に一番言いたかったことな訳です。。
これはありますね。特に共○党系の方々とか…(いいのかな書いちゃって…)
戦争に至るまでは、もっと複雑の諸条件が重なり合います。
あまりにも単純化しすぎるのは、戦争を予防するのにも有害ですしね…
ところでmixiやってらっしゃいますか?
僕はいまmixiで靖国カードのことを議論しているので、mixiでもこのサイトをすこし紹介しておきました。
mixiやってらしたら、遊びに来てくださいw
Posted by: hiro | January 30, 2006 at 01:46 AM
hiroさん、コメントありがとうございます。
基本的にはこのブログは経済学を勉強したことがない人を想定して書いているのですが、一連のシリーズだけはちょっとその域を超えてしまっておりまして・・・。
>なんとなくそういうのが好きそうな感じはいたしますw
まぁ、天邪鬼と申しますかなんといいますか・・・。ひねくれ者としては某党の純粋無垢な考え方に突っ込みをいれずにはいられないのです。
それからmixiですが、私はやっておりません(すいません)。どういうものかも良く知らないのですが、なんだかブログのようなものだと伺っています。このブログだけでも管理で手一杯な現状、もうひとつブログを持つのは無理そうでして・・・。ごめんなさい。
Posted by: 馬車馬 | February 02, 2006 at 07:58 PM
1から順番に読み進めてここまでたどり着きまして、やっとコメントできるソフトな話題に。
これまでの記事が大変読みやすく、分かったような気になれるというのでふらふらと読んでいました。
というのも・きんゆ・といえば萬田とばかりに不勉強な者でしたから、大変勉強になります。
さてさて、筆足らずですが一つ。
無人島に2人、2人共が脳に障害をもっていて思考にも障害があり殺意を上手く認識できない。
というのが解の一つではないかと思うのですがどうでしょう?
平和主義者の人となりを見ていると実感できるかもしれませんが、ある種の階級闘争思想(戦争は偉い人、つまり頭のいい人がやっとるんじゃ、わしらは畑耕すだけじゃけのー、んだんだ。)があるように思います。
この人類の進化にとってマイナスの方向性を極限まで肥大化させるというのが平和主義という解なのでは?と思います。(善悪は別として)
一時期は流行った人間と環境の関係に対する不公平な物言いや、もう少し進むと共産主義下での犯罪発生率の低さや、見なければ敵はいないといわんばかりの某党もですが。
ポルポト氏やウジャマー村なんかもこの流れではないでしょうか?
この問題の最大の矛盾は、民衆に馬鹿になろうと言い出す奴は絶対に確信犯だという事でしょうね。
で、自分がどうかというと、マイナスの進化の必要性というのはありうるかもと思ってたりします。
資源は無限ではない、というのがその答です。しかし、人間はそういう無理だこりゃ的な壁をいくつも超えてきたのも事実ですね。
筆不精すいませんでした、ではでは。
Posted by: ひのき | February 09, 2006 at 07:31 PM
ひのきさん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてごめんなさい。
思考に障害がある、というよりも想像力がおっつかないという側面はあるのかもしれませんね。共産党好みの善良な農民ですら、所有地の境界線策定時には血で血を洗う揉め事になるのが普通です。そこで働くメカニズムをマクロに敷衍できていないだけなのではないかと思います。
確信犯・・・であるなら、それはそれで大したものではないかと。もちろん、多くの国民にとっては迷惑なわけですが、その気宇の壮大さは買います。
Posted by: 馬車馬 | February 14, 2006 at 07:37 PM
昨日、量的緩和で検索しててこちらのサイト拝見しました。
大変勉強になります。昨日今日と夜更かしして読みふけっております。
・馬車馬さんの提示されたモデルは、
平和を願う「だけ」では意味がない
ということは十分説明していると思います。
・0≦A≦2, 0≦B≦1, C=A+B なら、(B=1)は(C>1)の
「必要条件でも十分条件でもないが相関はある」になるでしょうか。
的外れだったらスミマセン。
・「宝くじを買うのは非合理的」と言うには、例えば
「合理的行動とは期待値最大を追求すること」という前提が必要です。
Posted by: 馬好き | March 11, 2006 at 05:26 AM
馬好きさん、コメントありがとうございます。
相関というのは結構扱いの難しい問題だと思います。風が吹けば桶屋が儲かる、というのも相関関係ではあるわけですから。
ちょっと提示していただいた例の意図が読みづらいので、別の例で説明させていただきます(とりあえず、各数値が定数であれば相関は無い(というか、そういう問題にならない)ように思えますが・・・)
A,B,Cという事象が存在し、AはBの十分条件でかつAはCの十分条件だとします。この時、BとCに直接の関係が全く無くとも、相関関係は観察されるはずです。このとき、BとCに「関係がある」と言えるかどうかは言葉の定義に依存するように思います。ただ、直接関係が無いことが明白であるのに、この相関を「関係」と言明するためには、なんらかの留保条件が必要になると思います(この場合、Aの存在とBCとの関係が特定されていなければ、議論としてはいい加減になってしまうでしょう)。
3点目はおっしゃるとおりです。ショートカットということでお許しいただきたく・・・。
Posted by: 馬車馬 | March 13, 2006 at 08:08 AM
馬車馬さん、私のつまらない発言にまでお返事ありがとうございます。
相関という言葉を使った私にも問題がありましたね。最近新聞記事等で「AとBに相関があることが分かった→Bを増やすためにAを増やせ」という論調をよく見かけます。明らかに少ない標本で結論付けることも多いですし、統計学は高校の必須科目にしてほしい。
3点目は他の方の発言だったと思います。失礼しました。
Posted by: 馬好き | March 15, 2006 at 01:39 AM
馬好きさん、コメントありがとうございます。
統計学については全くおっしゃる通りだと思います。この世で一番役に立つ学問だと思うのですが・・・。
Posted by: 馬車馬 | March 17, 2006 at 02:19 AM
今日はじめて馬車馬さんのブログを読ませてもらったのですが、このコメント欄の息の長さには驚嘆を禁じ得ません。すごいですね。
馬車馬さんの人柄を感じます。
ところで、いまさらではありますが、設例の中のふたりの登場人物の性質についてちょっと疑問があります。
文には「心の底から平和を愛しており、自分の相棒を排除して食料を独り占めすることなど想像すら出来ない」とあります。
しかし「相手を害する気持ちが全く無い」と言いつつ、自分の命を守るためには相手を害することはためらいません。
しかも自分の命が奪われる可能性がゼロでないというだけの条件においてすでにそうです。
本当にこの人たちは「心の底から平和を愛して」いる者たちを代表しているんだろうかと思ってしまいます。私の感覚ではせいぜい欲張りでないという感じです。
単に「合理的な」二人が、共存のための強制力と十分な情報を与えられていないときにどう行動するかの論証になっていないでしょうか。
最初のほうのコメントに「平和」の定義がないという話もありましたが、ここでは「平和を望む」の定義がないのではないかという気がします。
「皆が平和を祈っている」という事象と「世界が平和である」という事象との関係を論証するのであれば、思考実験として十分な条件を設定できていないということにならないでしょうか?
Posted by: 通りすがり3 | March 18, 2006 at 01:38 AM
はじめまして。いつも興味深く読ませていただいています。
馬車馬さんの提示されたモデルはわかりやすく、理論として共感します。
ただ平和を維持しているのは本当のところは偶然に頼らざるを得ないと思います。
この世界のすべては確率的にしかわからないし確実と言えることなど一切ないと思っています。
統計だってp<0.05で有意としても5%は間違いなわけですし。
ただ、馬車馬さんが言われるとおり、おそらくシステムが崩壊の確率を下げているであろうとは思います。
ついでにいうとひのきさんがいっていることを非常に黒いかたちで表現しますが、平和主義の価値は自分が信じることにはなく、他人に信じさせることにあると思います。
どなたかがしっぺ返し戦略の話をされていたと思いますが、反撃しない平和主義は鴨に他なりません。
であるならば利己的に考えれば自分が自殺志願者やマゾヒストでもなければ他者は平和主義であるに越したことはないでしょう。
その意味で平和主義を広める人々は我々を有利にしてくれていると考えれば街頭演説にも腹が立たないかもしれません。
このモデルを現実に適用する際の本当の問題は前提条件にあるのでしょう。
まず、おそらく人間はこれほど論理的に正しい選択をできません。それは、処理能力の問題で正しい解に到らなかったり、無意識レベルでの罪悪感による行動の制約がかけられていたりします(精神分析では超自我というのでしょうか)。
実際には、人間のある種の能力は病気の人でなくても普段考えているよりずっと低かったりします。
人間の行動はほとんど無意識によって決まり、意識というのはその一部分をダイジェストで見せられているに過ぎない。
何を言いたいのか良くわからなくなりましたが、要するに前提に反することはそう珍しくもないということでしょうか。
生きているより死んだほうがいいと思う抑うつ的な人、無意味に他人を信じる・・・というより他者を疑う能力の低い人、解を導くのに十分な能力のない人、これらのひとだけでも実は人類の50パーセントを超えかねないではないでしょうか。
ついでに、もし「平和を望めば平和になる」に近い考えを提示できるとすれば、倫理・道徳・教育等による洗脳を十分に効かせて(他者の命)×1>(自分の命)×(殺される確率)という式が、(殺される確率)が1に近づいても十分成立しうるよう価値観を刷り込むことにあると思います。
まあ「平和を望む」というよりは、「他者を大切に」そして「自分を粗末に」ということになりますが・・・。
ちなみに書いている内容からは誤解されるかもしれませんが、私は平和主義者です。思想はともかく、他者とのいさかいに絶大な苦痛を感じる無意識を持っていますので・・・。ですから他の皆さんにも是非平和主義者であってほしいと思っています。そうでないと私は搾取されるだけになってしまいます。
長文失礼しました。
今後も面白いブログ期待しています。
Posted by: めた | March 18, 2006 at 02:22 AM
通りすがり3さん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてすみません。余りにも忙しなく、落ち着いて物を考える時間が取れませんで・・・。
とうとう通し番号が3にまで来たと思うと妙な感慨があります。コメント数と長さの双方で間違いなくこのブログ随一のエントリーだと思います。
さて、ご指摘の点ですが、違和感を抱かれるのはもっともだと思います。ここでは平和を望む人とは、「二人が共に争わない状況が最善だ」と考えている人だと定義しています。にもかかわらず、自分が本来望まないはずの選択を「自発的に」選んでしまう状況がある、というのがゲーム理論のひとつの発見だったわけです。
ここで、殺される可能性があるのに「それも已む無し」、と思い切れる人がいるなら平和の可能性は高まります。しかし、私は「平和主義者」と言えども、「自分の命は他人の命よりも無条件で重要である」という原則は変わりないと思っています。
逆に、自分の命よりも他人の命を尊重する人ばかりがいる社会であっても、平和への願いは無意味になります。願いがあろうが無かろうが、社会は「平和的均衡」を達成していますので。
微妙なのは、「相手が自分を殺そうとしている」主観的確率が非常に低い場合ですが、このあたりは上のほうで議論があったので省略します。
私は、「平和の望む人が相手を簡単に殺すわけがない」という信念は、多くの場合「共通の利害関係」の存在を暗黙のうちに仮定しているように思えます。無人島の例がそれを助長してしまったかもしれませんが、これは隣り合う隣国のメタファーでもあるわけです。そこで共通の利害関係が無く、しかし疑心暗鬼は存在する2国の関係性を考えると、その脆さは自明のように思えます。
個人同士が向き合う状況であっても、そこになんの利害関係も無いなら、わずかな疑心暗鬼は平和主義者の間に血みどろの争いを生むのに十分なように思えるのです。第4段落の仮定を信じる限りは。
Posted by: 馬車馬 | March 27, 2006 at 10:47 PM
めたさん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてごめんなさい。
「他人を骨抜きにするための平和主義」というのは面白い視点ですね。どうせなら北京とかで辻立ちしてもらいたいものですが・・・。または、アメリカが日本に60年前に仕掛けたものの残滓といえるのかもしれません。やりすぎると陰謀観になってしまいますが。
合理的意思決定の限界についてですが、実際問題として人間はパターン学習をする生き物であるようですし、またいつも「全てを一から考える」のも、その労力を考えると非効率的です。その結果、置かれた状況を精査せず、「普段仮定できるような状況(この場合、一定の利害関係が既に存在する状況)」を仮定して、自分の行動を導いてしまうということはありうるのだと思います。
その結果、前提条件のまるで異なる戦略が採用されることもあるでしょう。エントリーの冒頭で紹介した共産党議員も広義にはそのパターンなのだと思います。
教育による「ある種の非合理的な行動」への誘導というのはひとつの手だと思います。ただし難しいのは、多数の人の中のたった一人がその教育から脱落しただけで、平和的な均衡が崩壊してしまうという点だと思います。
私も基本的には平和を愛する人間のつもりですので、周囲の人間もそうあって欲しいとは思います。ただ、どちらかというと他人が「こいつを殺すと後が面倒だ」と思ってもらえるようになりたいですね。私が社会において「生き」られるのは、結局他社との関係の上にでしかありませんので・・・
Posted by: 馬車馬 | March 27, 2006 at 11:34 PM
はじめまして。私も常々日本の非建設的な「自称」平和主義者様の街頭演説などに疑問を抱いており、馬車馬さんの主張には基本的に賛同です。ただ、決着した話を蒸し返すようで恐縮なのですが昨年9月末のkozonoさんの仰っていることが「戦争をしない」ことへのヒントになっているような気がするのでコメントさせていただきます。(ここのことは今日知りました)
最初の思考実験の中での「食べ物」とは現実問題における「その国の生活水準を維持するもの」にあたると思います。具体的には、古代においては食糧を生産する土地、貨幣経済形態が確立し国境を越えての貿易が行われるようになった中世では市場(植民地)、産業革命以降においては石炭・石油・鉱石などのエネルギーや資源、そして今後は水がそれにあたると思います。生活水準の向上に伴い生活に必要となるものの質、量が増大していき、それを得るための戦いも大規模になっていった、つまりアメリカのイラク戦争もアメリカ国民の生活に必要な石油を得る、という意味において「食べ物を手に入れる」ためと言えるわけです。
さて、単純に「食料」について考えた場合人間は農業という「技術」を使って生産性を向上させました。現在においてこれを当てはめてみればエネルギー効率を向上させる「技術」などがこれに当てはまると思います。
最初の思考実験において、無人島で相手と協力して農業をする、という考えが抜けていたと思います。資源そのものは確かに有限です。しかし「技術」によって資源の有効活用できる量を増やすことが出来ます。思考実験においては、例えば島には(一人が満腹できる量の食料を1とすると)1.4の食料しかない。これならリスクを犯してでも相手を殺して食料を手に入れないと餓死してしまうかもしれない。しかし農業なり、毒があって食べられなかった食べ物をどく抜きして食べられるようにするなりして島の食料を1.7にしてやれば、多少不満はあるかもしれないが相手を殺すリスクを犯すよりは相手とこのまま生活するほうがいい、という結論になってくると思います。こう考えると高い技術力を持つ日本が国際平和に貢献する潜在的能力はけして低くは無いはずです。エネルギーについては太陽光発電、波力発電、海面温度差発電、水資源については海水淡水化技術などを通じて発展途上国が戦争をする動機を下げることが出来るはずです。
そしてもうひとつ、ここまでの流れの疑心暗鬼について「相手が本当は何を考えているかはわからない」という話がありました。これ自体は賛成しますが私は相手の生活水準がある程度のヒントになると思います。今現在においてはインターネットというメディアの他の国の一般市民のHPを見ることによって相手の国の生活水準を推し量ることが出来ると言うことです。たとえば自分が、スーパーの惣菜コーナーで定価300円の海苔弁当を閉店直前まで粘って半額シールが張られるのを待って買ってきたとします。ここで隣のうちに住むやつがもしここ3日パンの耳だけで生活していたらこの弁当を奪いに来るかもしれない、という恐怖が発生します。しかしそいつがさっき88円のUFOを食った、ということが判れば「ここで俺が海苔弁当を食おうとしているのがやつにばれても、やつは快くは思わないかもしれないが奪いに来ることも無いだろう」という推測が成り立つわけです。また逆にパンの耳だけで生活している、ということがわかっていれば、すこし弁当を分けてやる(つまり弁当の奪い合いを避ける)という選択肢も生まれるわけです。以上、大学生としての実体験を踏まえたたとえでしたが、要するにネットという手段を通じて(ここ重要、一般市民がイデオロギーや国益などに関係なく発信する情報をそのまま見ることが出来るから意味がある。テレビや新聞が伝えてくる外国の状態は特に日本において操作されている可能性がある)相手の生活水準を知ることが出来ればお互い必要以上に緊張する必要が無くなると思います。馬車馬さんが最初に仰っていた「利害関係を共有すること」はかなり難しいことだと思います。しかし相手の実情を知るだけなら、安易であり、そこそこ効果のあることだと思います。(ネットについて考える場合、コンピュータリテラシーによる格差の発生という問題がありますがここでは無視しています)
以上2点は、あくまで戦争という状態を引き起こす可能性を「低減」させるだけのものであって完全に「駆逐」は出来ません。ただ、かなり減らせるのではないかと思いまがいかがでしょうか。
あと、平和主義についてですが、問題なのは平和主義ではなく「論理的にものを考え平和のために手段を選ばず行動していくことが出来ない(つまり感情論だけ)」ということだと思います。平和という状態は、時としてえげつない、なりふりかまわない手段を使わなければ維持できません。個人的にスウェーデンにとても敬意を持っていますが、この国は時として大きな声ではいえないような外交をしてきました。それでも「戦争をしなかった」というのはそれを肯定するに十分だと思います。感情論だけで動いてる人は、ただ願っていればそれで平和になる、と思っているようですがそれは何の意味もないことです。日本も外交においてえげつなさが必要なはずです。逆に論理的にものを考える能力とえげつなさを持った平和主義者なら、むしろ歓迎すべきだと思います。
今までの流れを無視して長々と書いてしまいましたが、インターネット素人のご無礼お許しください(書き込みするのはこれが初めてなんです)。 [以上、メールで頂いた内容を馬車馬が代理で投稿しています]
Posted by: Orca | March 30, 2006 at 07:29 AM
>Orcaさま
誤解なさっておられるようですが、ブッシュ政権は石油のためにイラクと戦ったわけじゃありません。これはアメリカ人の過去の占領政策を見ればわかりやすいのですが、過去百年において彼らほど領土強奪=資源強奪を罪悪視する人々はいません。
例えば日本がそうであって日本は無資源国だといわれますが、高品位の金鉱床を有する国です。アメリカの政府なり企業なり個人なりが手を出したなどと聞いたことがございますでしょうか。
今度のイラク戦争は十年前の湾岸戦争の後始末です、つまり停戦条約を守らない国家に対してどのような態度を取るべきかという問題です。そして9.11が全ての変えました。テロリストの手に化学兵器や核弾頭が渡ったら?その立証責任は条約上言うまでもなくイラク側にあったのです。
これはちょうど七十年前のドイツ問題と同じです。ベルサイユ条約を無視し、再軍備に踏み切った彼らをどうするべきだったか我々は知っています。戦争は悪だなどと念仏を唱えても仕方ありません。ドイツによるヨーロッパ支配という最悪よりはまだましな悪を選択せねばならず、日米英仏で戦う準備をすべきでした。
またスウェーデンのような中小国と日本とでは条件が違うことも考えねばならないでしょう。つまり小泉首相言うところの「奴隷の平和」に甘んじねばならない運命の人々もいます。ですが日本は大国であって、侵略戦争が起きた際傍観することは大変に危険な結果を生みます。つまり台湾人や韓国人に自国の独立を諦めさせ中国人の野心に油をそそぐことすらできてしまうのです。
Posted by: SLEEP | March 31, 2006 at 06:41 PM
Orcaさん、SLEEPさん、コメントありがとうございます。
現在絶賛多忙中の上、週末から一週間ほどネットから離れねばならなくなる関係で、リプライは来週末になってしまいそうです。ごめんなさい。
というか、いよいよ隔週刊体制に限界が来ているような・・・
*なんかココログの環境がおかしいような気がするのですが(妙なところが英語になっていたり)、それも来週末に原因究明作業にあたることにします。
Posted by: 馬車馬 | April 01, 2006 at 02:46 AM
Orcaさん、リプライが遅くなりました。
ご指摘の点は2つ、「二人がそれぞれ抱えている(戦略上の)環境を変える」ことと、「何らかのシグナルを発して疑心暗鬼を低減する」という点であろうと思いますが、基本的には私も賛成です。
先にモデル上の話から申し上げると、上のコメントでも出てきましたが、「殺されることの幸せの度合いをマイナス無限大と定義するならば、殺される確率や環境の改善、シグナルのやり取りにかかわり無く戦争が発生します。これが本文の主張を単純にするためのトリックです。殺されることは人生の他のイベントと比べるべくも無く(征服されることはその社会の他の可能性と比べるべくも無く)圧倒的に「いやなこと」であると仮定するなら、ほんのわずかな疑心暗鬼でさえあらゆる平和を崩壊へと導きます。ただし、この仮定がどれだけ正しいかは結構微妙ですし、証明しようの無いことでもあります。もし殺されることの幸せが有限の負の値をとるなら、Orcaさんの方法で平和維持の確率を高めることは可能だと思います。
その上で敢えてこれらのオプションの難しさを探るなら、以下のようなことが言えると思います。まず、相手の生活水準を高めることが戦争回避に繋がるのは、疑心暗鬼が「相手がこちらの資源を狙っているかも」というものの場合のみで、「相手が殺人快楽者かも」という疑心暗鬼には影響しません。また、相手の生活水準を上げることは、自国の「相手がこちらを狙うかも」という疑心暗鬼を減らすことは出来ても、相手国側が「我々に攻め込んでくる気かも」という疑心暗鬼を解消できるかどうかは微妙です。むしろ、無人島のリンゴを分け与えた分だけ先方の取り分は増えるわけで、その分「我々」が彼らに攻め込む合理的な理由はむしろ強化されるのです(その結果、彼らの疑心暗鬼はむしろ強まり、我々の疑心暗鬼もそれを反映して再度強化されることになります)。
平和維持、及びそのための信頼関係の構築の難しさは、両サイドの疑心暗鬼を同時に処理せねばならない点にあるとも言えます。
2点目についても同じことが言えます。相手の考え方を行動から類推できるかどうかは場合によります。何らかの極限状態になら無い限り観察しようの無い資質(快楽的殺人者)もあり、それを試すのはリスクが大きすぎるという場合もあります。ただし、そうでない場合もあるわけですし、こちらがより十分な情報を得ることで失うことは何もありませんので、大いにやるべきだと思います。
私もインターネット上の礼儀には疎いクチですが、少なくとも私はOrcaさんのコメントからほんのわずかな「無礼」も感じられません。どうぞお気になさらず。そのあたりをカジュアルにやれるのもネットのいいところだと思っております。
Posted by: 馬車馬 | April 07, 2006 at 07:50 PM
SLEEPさん、リプライが遅れました。
どちらかというとこれは別エントリ「指導者の資質(後編)」のネタかもしれませんが、日本のように決定的に他国に資源、資産を依存している国が一国平和主義を貫くのは非常に難しいと思います。本来は日本もアメリカと同じく「上品な傍観」よりも「粗野な(そう見える)決断」を必要とされる国であるのでしょう(現実的には今は無理ですし、アメリカがアジアへの影響力を保つ意思がある限りはその必要も無いと思いますが)。
あまり考えたことが無かったのですが、戦後のアメリカの対日・対韓政策は十分フェアと呼べるものだったと思います。ただし、逆にそのことが絶えずアメリカをして一国孤立主義へと誘う原動力になっているとも言える訳で、その辺りは難しいような気もします。日米共に主観レベルでは「相手により多くを支払ってきた」と思っているのではないかと思いますが、客観的にはどうなのでしょうね。米韓、米濠あたりだと明らかにアメリカの赤字に見えるのですが。
Posted by: 馬車馬 | April 07, 2006 at 08:23 PM
馬車馬さまお返事ありがとうございます。
思うのですがそれが自由というもののコストなのでしょう。とにかく兵士の海外駐留というのは金がかかります。またアメリカの一国主義というものは国力の賜物であって、中々変わりそうもありません。ジーコやペレを誰?という国です。そのうち没落するとか言う人もいますが、ここ百年間の歴史を鑑みれば妄想でしょう。
そしておっしゃられるように平和を守るために断固とした決意を示さねばならないのも大国の義務です。平和主義とは何かと根本に戻れば国境線の変更を武力や脅迫で行うな、つまり侵略やテロをするなの一言に尽きるでしょう。九条を絶対視するような人達というのは侵略と(防衛)戦争を混同してるんですね。そしてそのコアな部分に混同してない連中というのもいますが中共やソ連が心の祖国だと思っている売国奴です。
Posted by: SLEEP | April 08, 2006 at 10:46 AM
SLEEPさん、コメントありがとうございます。
この手の議論で難しいのは、自国にとっての平和と世界の平和が不可分でありながら、それでも違う概念であるということだと思います。そのうち改めて書こうと思いますが日本は世界で一番自国の利権を海外に保有している国です。その幅広い意味での国境(国益の境という意味において)を守ろうとすれば、アメリカ以上の軍事力を保有するしかありません。
しかしそれは明らかに非現実的である以上、我々はどこまで断固たる決意を示すべきなのか、そこには冷徹な線引きが必要だということでもあります。そのあたり、将来不幸にもアメリカの庇護から追い出されてしまったとき、日本は今のアメリカのやり様から多くのことを学べるのではないかと思います。
Posted by: 馬車馬 | April 09, 2006 at 04:14 AM
馬車馬さまお返事ありがとうございます。
愛・蔵太さんのHPで知りましたが、長崎平和推進協会というところが国民の意見が二分される政治問題(劣化ウラン、靖国、有事法制など)について言及しないように、という姿勢に転換したそうです。公共団体である以上当然ですがめでたいですね。
さて平和についてですが、おっしゃられるように自国の平和と世界の平和が異なるという不幸な状況はしばしば起きえます。つまりテロを自国が受けた場合どうすれば良いかという問題です。ご存知のように第一次大戦はオーストリア皇太子暗殺が引き金になりました。この際にオーストリアは何をすべきだったのでしょう?セルビアとの戦争でしょうか、経済制裁でしょうか、それともテロ黙認でしょうか。実際には経済制裁の後戦争となり欧州にとって最大の災厄とハプスブルグ帝国の崩壊が待っていたわけです。なかなかに難解な問いだと言わざる負えません。
しかしながらいくばくかの教訓も得られるでしょう。まずテロをやる隣国人セルビアです。連中がここ百年間やったのは民族浄化とテロ、血生臭い政争だけでした。充分に警戒すべきでしょう。
また同盟国たるもう一つの隣国ドイツの存在も忘れてはならないでしょう。ビスマルクは同盟とは馬と騎士からなると言ったそうですが、事実オーストリア人がこれっぽっちも望んでいない英仏との戦争はドイツ人が始めたのです。誰を同盟国とすべきか重々考慮しなくてはいけません。
また第三の選択肢であるテロ黙認ですが、これは国民国家にとって不可能に近いと言っても過言ではないでしょう。国民が国民を見捨てるようなことを我々は耐えられるでしょうか。多少の犠牲は覚悟してでも、となるのが普通ではないでしょうか。
月並みな言い方になってしまいますが、歴史の教訓とは重いものです。ですが誰を味方とし、誰を警戒すべきか教えてくれるものでもあります。
Posted by: SLEEP | April 09, 2006 at 11:51 PM
SLEEPさん、コメントありがとうございます。リプライが遅れてすみません。
少し前のNHKスペシャルで北朝鮮をやっていましたが、あれもさまざまな国にとって自国の平和と世界の平和が一致したり相反したりする面白いケースなのだと思います。さらに複雑に考えると、今の平和と将来の平和のどちらを優先するかという軸もあるわけで、そのあたりは実に複雑ですね。
歴史から考える、というのは重要な視点だと思います。実のところ、それは「過去の裏切りは許されない」という強硬姿勢に通じるものではありますが、私はそういう執念深さが社会に秩序をもたらしてきた側面は確実にあると思います(そのあたりは昔「サルをヒトにしたもの」で書きました)。
また、それは「今裏切ったら未来永劫、滅亡するまで許さない」という外交態度にもつながります。これも基本的には平和に資するものです。ただし、この「約束」にコミットするのは非常に困難ではありますが・・・。いつの時代も、強攻策の先送りには一定の利益がありますから(また、その利益は必ずしも軽視されるべきものでもないでしょうし)。
Posted by: 馬車馬 | April 17, 2006 at 09:27 PM
馬車馬さまお返事ありがとうございます。
小林よしのりの主張の一つに(同盟国の)日本が攻められたってアメリカ人は血を流してくれない(だから独立しよう)、というのがあります。ひどく馬鹿げた主張であって、朝鮮戦争や二度の大戦を知らないのでしょう。
またイギリス人はドイツのベルギー中立侵犯で参戦を決意しましたから、別にアメリカ人だけではないようです。
逆に言えば戦争の原因になるような裏切り、条約破りをやるのはどんな連中かを考えるべきであって、それはつまりマトモな先進国、民主主義国家ならそんなことはできないんです。と言いますのは先進国の国民はそのような不道徳を支持しないからです。もっとも例外は二度起きました。ドイツと(残念ながら)日本です。
いわゆる第三世界で戦争が良く起きるのもその点に原因があります。竹島のようにどちらかが係争地域に兵を入れると、片方が日本のような自制の効いた国でないと即衝突になります。隣人は選べないわけで中々にしんどい話です。
Posted by: SLEEP | April 21, 2006 at 11:18 PM
SLEEPさん、コメントありがとうございます。
国際関係にはあまり明確な法律がありませんから(国際法が日本では大人気ですが、あれを法律と呼ぶのには私はいまだに抵抗を感じています。便利な言葉なので使ってはいますが)。その意味では、横紙破りをしたくなるような「国際法」を作る側の責任も本来は存在するはずだと思います。結局はそのようなルールメーカーが先進国である以上、ルールブレイカーが途上国になってしまうのはしょうがないことなのかもしれないな、と若干同情的な気分になりました。
まぁ、一般論として、ではありますが。ルールブレイカーに直面するとやはりうんざりするのですけどね(笑)。
Posted by: 馬車馬 | April 27, 2006 at 02:35 AM
馬車馬さまお返事ありがとうございます。
ルールメーカーが先進国になるのはある種当然ではないでしょうか。つまり国際法を守り諸外国からの信頼を得て、自由貿易と国際交流をやることこそ発展の道です。また貧乏人が自分たちに有利なルールを作っても誰も従いません。
国際法に異議申し立てをすることは認められています。ただ自らの主張を通そうとすれば当然説得力のある言辞を吐かねばなりませんし、なるべくなら首尾一貫していた方が良いんであって、認められないからと言って駄々っ子になっても仕方ありません。
この点で明治の人々は偉大でした。伊藤博文はイギリス人にセルビアの山猿よりわが国の方がマトモと言って不公平条約を改めるよう要請したそうですが、山猿でもヨーロッパの一員だからと返答されてイギリスが嫌いになったそうです。
それでも日英関係で波風がたったのはわずかに二十年ほどの間でしたから、いかに暴力に訴えず信頼関係を守ることが大事かよくわかると思います。
Posted by: SLEEP | April 28, 2006 at 06:28 PM
SLEEPさん、コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、先進国がルールメーカーになるのは当然だと思います。ただし、そこでルールブレーカーが発生して困るのは結局先進国なわけです(特に日本)。アメリカですら、ルールブレークが多発すれば今のイラン・イラクのように頭を抱えることになるわけで。
あの時期の日本の粘り強い外交は素晴らしいものがありましたね。第1次大戦前後までに日本が世界的にも十分な敬意を払われるようになったのも、ルールブレークに短絡しなかったことが大きかったのだと思います。その後えせマキャべリストにかぶれてルールブレークへと舵を切り、手痛い教訓を受けることになりましたが・・・。ただ、敢えて鳥瞰すると、ルールブレークをされてしまった欧米列強が失ったものも同様に大きかったわけで、その意味では彼らは間違ったルール作りに対して責任を取らされたとも言えると思います。
Posted by: 馬車馬 | May 02, 2006 at 07:19 AM
平和を願うこと、つまり平和を欲することが、共通の利となれば、利害関係の一致となり、結果として実際の平和に貢献しませんか?
Posted by: 平和懇願者 | March 23, 2008 at 10:26 PM
すみません、上記のコメントは、短絡過ぎました。
この記事の思考実験、並びにその後の考察によって導かれることは、
『平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在すること』
ではなく、
『平和を保つために重要なのはふたりの間に共通の利害関係が存在すること、かつそれを互いに伝えられる事』
であり、結論は、
『平和を願う事は、実際の平和にほんのこれっぽっちも役に立たない』
ではなく、
『思考実験によって導かれた解に従って、世界の皆さんは必死で平和主義を唱えている(共通の利害を伝えようとしている)』
です。
Posted by: 平和懇願者 | March 23, 2008 at 10:56 PM
平和懇願者さん、コメントありがとうございます。
前半部分についてはおおむね同意です。私の議論では利害関係が事実として存在するならば、それが両者にとって自明のこととなっていることを仮定しています。実際は、共通の利害が合ったとしてもそれについての認識を共有していないケースはありえます。
後半部分についてですが、共通の利害関係の存在が前提条件になってはいないでしょうか。私はこの点は必ずしも自明ではないと思います。例えば、全ての領土問題はゼロサムゲームであり、それゆえに共通の利害関係が成立しえません。存在しないものを伝えることは出来ません。
更に言うならば、コメント欄の上のほうでも書きましたが、「伝える」ことの有効性は、ことリベラルな政治思想をお持ちの方の間では、過大評価される傾向が強いように思います。疑心暗鬼が成立しうる状況下において、ただ「伝える」ことで状況が改善されるケースは稀ではないでしょうか。自分がうそをついていないことの証明はそれほど簡単ではありません。
重要なのは平和主義を唱えることそれ自体ではなく、その理想が実現するための条件を整えることであり、伝えるべき言葉は理想ではなく、(潜在的)紛争当事者の本音です。ですから、例えば「不安定な国同士の政府首脳間でのホットラインの設置」が、平和懇願者さんの前半部分のご指摘から導かれる結論のひとつであろうと思いますが、いかがでしょうか。
Posted by: 馬車馬 | March 25, 2008 at 10:28 AM
平和懇願者さま、馬車馬さま
平和主義の問題は、相手方のいいなりになる宥和主義への道を含んでいる点でしょう。第一次大戦後にイギリスが陥ったパターンです。
かつてのドイツ人にとっては、東方への生存圏を拡大するというのが命題でした。英仏人にとってはポーランドやチェコを見捨てて良かったのか、ですよね。
ホットラインというものがあることの有効性そのものは否定しませんが、前提として対等な軍事力がなくてはいけないでしょう。外交においてしばしば小国の立場は無視されてきましたが、なぜかと言えば小国の軍事力では外交上の発言は裏付けされないからです。つまり侵略者にとりそのようなホットラインは小国を分断する道具になりえるのです。
Posted by: SLEEP | April 02, 2008 at 01:26 AM
SLEEPさん、コメントありがとうございます。
宥和主義それ自体は国家戦略上ひとつの選択肢であることは間違いなく、それ自体を否定するつもりはありません。しかし、ご指摘の点とも重なりますが、宥和すべきかどうかはイデオロギーではなく、国益の観点から判断されるべきであろうと思います。
小国の立場が無視される傾向があるのはもうどうしようもない事実ですから、そこは現実を受け入れた上で戦略を練るべきですが、ホットラインが即小国を分断する道具になるかどうかはもう少し考える必要があるのではないでしょうか。
Posted by: 馬車馬 | April 10, 2008 at 07:53 AM
初めてコメントさせていただきます。
別なブログのリンクからこちらのブログを知りまして、あまりの内容の面白さに時間も忘れて没頭し、ハイレベルな知的刺激に脳細胞が欣喜雀躍としております。まずは馬車馬さんに心より感謝を述べさせていただきます。
さて、今回のエントリーについて、何度読んで何度考えても、強く同意できる部分がある反面、どうしても腑に落ちない部分がありますので、それらについて自分なりの意見を述べてみたいと思います。
まず、どうしても違和感が払拭できない点が下記2点あります。
・無人島の2人がすぐに殺し合いを始めてしまう点
・「平和を願うことが、平和を実現することとは全く関係がない」という点
そして、自論を展開する前に簡単に独り言的な自己分析を。このあたりも若干意味があるかと自分では考えていますので、冗長かも知れませんが読み進めていただければ幸いです。
私は基本的に平和主義者です(と言っても「お前は平和主義者か」と問われればとりあえず「はい」と答える程度の平和主義者)。
たまに近所の教会でボランティアをすることがありますが、私自身はクリスチャンでも、その前段階のプレ・クリスチャンでもなく、今後その予定も今のところありません。なぜなら、皆一様に平和な世界というのはあまり自分の感覚に合わないと考えており(人の不幸を望んでいるわけではありません)、もしそういった世界に自分が置かれたらきっと仕事もせず毎日堕落してしまうだろうなぁ、と想像するからです。
私は無宗教で資本主義の普通のビジネスマンです。競技スポーツにも長く身をおき、適切な競争は個人の能力を高め、ひいては社会をより良くする力になると考えています。あと、麻雀と競馬も好きです。
数学、物理、科学全般には敬意を持っており、個人的にはアインシュタインを信望していますが、理系出身ではなく、ゲーム理論等については知識程度の理解しかありません。
上記をご理解いただいたうえで違和感の説明に入ります。
無人島の2人についてですが、自分の思考実験では何度試みても、どうしてもすぐに殺し合いになるというイメージが湧いてきませんでした(ただし、私の思考実験はロジカルなものではなく「光の矢を光速で追いかけながら観察したらどう見えるか?」的な思考実験です。どのみち今回の実験はほぼ実現不可能なので、想像でとりかかることはまずは的外れではないですよね)。
実際、本当に世界中からランダムに男を2人抜き出して無人島に送り込んだ場合、一両日中に殺し合い(もしくは片方が殺しに襲い掛かる)が生じるケースは非常に稀だと思います。根拠はありませんが(すいません)おそらく100サンプル程度のレベルではまず発生しないでしょう。これは多くの人が(根拠はないが)まずは共感できるイメージでもあると思います。
世の中には、疑心暗鬼が芽生えたらすぐに行動に出てしまう超タカ派の人間と、常に一様な平和を望む超ハト派の人間が存在するのは確かですが、そのどちらでもない中間層(時と場合によってどちらにも振れる)がかなりの割合でいて、実際はこれが圧倒的マジョリティであることは事実だと思います。
なので無人島に漂着した際に、すぐに相手のことが信用できないとしても、まず当初は(少なくとも一日や二日は)平和裏にスタートすると思うのです。人間だれでも、敵か味方かもまだ分からない人間を有無を言わせず殺しにかかるのはしんどい作業です。ましてや基本的に平和を望む2人であるなら尚更です。
そして、とりあえず最初は平和裏にスタートするということは、2者間でコミュニケーションを図る余地がまずはあるということです。
おそらく2人で島の状況を確認したり、協力して食料を確保したりする中で、1+1が2以上に成り得ることを考える機会もあるでしょう。つまりスタグハント的なモデルになるということです。そして2者間でコミュニケーションが取れる以上、スタグハントでの最適解は2人で協力すること、となるはずです。
ただし、確かにこれで信頼関係が築ける保証は全くない。時と共に上下関係が発生するかも知れないし、少なくともお互いの疑心暗鬼はずっと払拭できない。
しかし、人間は例え心から愛し合っている男女であったとしても、お互いの完全な本心は当人にしか分からないのだから(ここは私も同意)、結局のところ、いついかなるときも疑心暗鬼を完全に払拭することはできず、性格や状況によって多少はあるものの、全員が常に心に秘めているはずです。これは動物が生きていくための本能として考えても理解しやすいことだと思います。
ただ人間も動物もそれでは夜も眠れないので、皆適当なところで信頼の落としどころをつけているのだろうと思います(寝首をかかれる可能性はゼロではないが、まぁ大丈夫だということにして寝てしまおう、ということ)。
もし、完全に合理的な人というのがいたとすれば、その人は無人島に一人でいる時でさえ恐怖で一睡もできない、ということになりませんか(寝てる間に誰かが漂着してくるかもしれないので)?
では、どうやって2人がコミュニケーションを深めるのかというと、もちろんここでのチープトークは意味をなしません。ここで肝心なのは“伝える”ことではなく“伝わる”ことです。つまりtalkやnoticeではなく、realizeやawarenessが信頼を築く真のコミュニケーションだと思うのです。ここで大事な“人間性”という要素が問われます。実際の社会でもこれが肝心ですよね。
ではそれを具体的にどう行うのかという説明はここでは省略しますが、ここから先の思考実験にゲーム理論はどれくらいの意味があるのでしょうか。そもそも囚人のジレンマを理論構築に盛り込む時点で、思考の落とし穴というか、全体に負のバイアスがすでにかかっていると思います。
次に、「平和を願うことが、平和を実現することとは全く関係がない」という点。
私も「平和を願うこと」が必要条件でも十分条件でもないことには同意なので、本質的には同意なのですが、しかし上の方で平和主義者さんが言われる「たくさんの人に悪い影響を及ぼす可能性があるので慎重に扱って頂きたい」に一票なのです。
世の人間は皆さんのように高度に論理的な思考ができる人ばかりではありません。よって、「~全く関係がない」という提言は、まだ思考が未成熟な者(若年層など)には危険な勘違いを生じさせるおそれがあると考えます。
「利害関係が構築できない人間とは友好関係になれない。疑心暗鬼の元になるので環境が許せば排除したほうが望ましい・・」といった感じですね。皆さんにおいても、学生時代の親友は全て利害関係の上に成り立っていたのでしょうか? 必ずしもそうではないはずです。
私は、人間は平和な方が気持ちが良いので、基本的に平和主義であることが協調的な社会に寄与する影響はゼロではないと思うのです。
ただ、「願うばかりで何も行動しないのは最悪」という意見には私も心から同意します。
以上から私の結論を要約すると、
・現実の人間関係を説明するにあたっては、ゲーム理論はかなり野蛮な理論である(足りないものが多いという意味)。
・「平和を願うことが、平和を実現することとは全く関係がない」という提言は、思考が未成熟な人間に対しては短絡的な誤解を生じえる(中間のロジックが理解されていないとと危険)。
結局のところ、「適切な競争のある、適切に平和な社会」というのが私の理想なのですが、実現に向けての具体策は当然のことながら自分も分かっていません・・。
原則的には、人間は(というより動物は)本能的に欲深い(エサがあれば食べたくなる)ので、1対1なら折り合いもつけやすいものが、集団になればなるほどそれが難しくなり、諍いに発展してしまうのでしょうね。
もし、アインシュタインがこの議論に参加したら何と発言するかとても興味が湧きます。
すいません、最後は完全に論理的でなくなってしまいました(汗
素人考えの非常識な長文、大変失礼いたしました。
皆さんのご意見を伺えれば幸甚です。
Posted by: SEEBRA | June 19, 2008 at 01:26 PM
すぐに殺すとは思えない、というのはあくまで社会というものに属して生きてきたからだと思います。
ここは殺すまでの過程や、選んだ人間の個々の性質は問題ではないです。会ってその日に殺そうと、30年後に殺そうと
どちらも同じことです。二人の間ですら、平和は維持できなかった、という結論になります。
社会というものの抑えがすべてない状態での諍いは=死です。それは感覚的に理解できるのではないかと思います。
数学的な思考の基本的な技術として、物事を極端にする、単純化する、というのがありますが今回のはそれです。
人間とは、と考えるのはあまり意味がないことです。
むしろ全世界の平和を考えてるわけですから、世界でもっとも最低最悪で人間の屑二人を想定したほうがいいでしょうね。
後者については別の問題です。
「平和を願うことは意味がない」と教えると
「平和なんて考えなくてもいい」と思う子供やらが現れる可能性がある、ということを危惧されてるんだろうと思います。
が、それを理由にこのエントリの結論を否定することはできません。
むしろ難しいロジックだからといって敬遠して情緒的な平和主義を喧伝するからより平和が遠ざかるんだと思います。
難しいなら簡単にわかる工夫をしつづけるのが大人の義務です。
Posted by: TK | June 26, 2008 at 12:49 AM
SEEBRAさん、TKさん、コメントありがとうございます。
もたもたしている間にTKさんに回答していただきましたが、私の議論はある種の単純な極限状態を仮定して議論を起こし、そこから一般的な含意を引き出そうとするものです。ですから、実のところ、結論が現実的である必要は余りありません。「境界条件」という単語でこのエントリーを検索してみてください。似たような議論を別の方にもしていただきました。
それはそれとして、SEEBRAさんからは他にも色々と興味深いご指摘をいただいていますので、その点は改めてコメントを起こそうと思います。本当は今書こうと思ったのですが、半分ほど書いて力尽きました。TKさんへのリプライもそのときに(おそらく週末)改めてさせていただければと思います。
ただでさえ遅いリプライを更に延期してしまってごめんなさい。
Posted by: 馬車馬 | June 26, 2008 at 08:30 AM
SEEBRAさん、改めて、コメントありがとうございました。
遅くなりましたが、改めてコメントを。
まず、このエントリーで「一見非現実的」とも見える前提条件(無人島に二人だけ、しかも共通の利害関係なし)を設定したのには二つの理由があります。
ひとつは、「平和を願うという行為それ自体には何の意味もなく、実際の平和達成には何の役にも立たないのだ」ということを示すために、平和を願うという条件以外をすべて取り払い、平和を願うという行為が平和達成の十分条件とはなりえないことを示すため(必要条件でないことの証明は比較的容易です)。
もうひとつは、平和云々という議論は実際には国家レベルの議論が大半であり、無人島の二人を国家関係のアナロジーとして使うこと。国家関係においては、共通の利害関係の存在は必ずしも自明ではありませんし、利害関係の衝突と比して大きいという保証もありませんので、ここでの議論を必ずしも境界条件として扱う必要もなくなります。
ですから、現実問題として捉えたときにSEEBRAさんが違和感を感じられるのはある意味当然です。この無人島の例では、SEEBRAさんが仮定されたコミュニケーションの存在や共通の利害関係の存在を否定するところから議論を始め、平和への願い「だけ」では問題は解決し得ないことを示しているわけですから。続いて、平和への願いがなくとも平和になることを示すことで、平和への願いは(十分条件でも必要条件でもないという意味において)関係ない、と表現しているわけです。つまり、平和を考える際に平和への祈りを単体で考えることには何の意味もない、という結論がかなり頑健な形で得られるわけです。(これを「関係ない」と表現することについては議論の余地があると思います。)
様子見をするはず、とのご指摘ですが、何のために様子見をするのか、という点がまず問われるべきだと思います。様子見は、その結果として疑心暗鬼が解決するケースに限り、かつその間に相手に殺されない確証がある場合に限り、合理的な選択になりえます。前者については、相手が完全に擬態できる殺人鬼である可能性はゼロではないでしょうし、後者にいたっては、相手も「様子見するだろう」という確証が持てないから困っているわけで(そこまで相手の行動について類推ができるなら、無人島における恒久的平和を構築することは難しくありません。相手の行動が読めないからこその疑心暗鬼なのですから)。
平和裏にスタートする→コミュニケーションの余地あり、という議論をされていますが、むしろコミュニケーションによる問題解決の可能性がある→平和裏にスタートする、という因果関係ではないでしょうか。そして、コミュニケーションによって問題解決ができる可能性は、共通の利害関係がない状況では、必ずしも容易ではありません。利害関係なくして、口先だけで疑心暗鬼が解決するケースは理論的にはかなり限定的ですし(チープトーク)、歴史的に見ても(少なくとも国家間では)希少なケースではないかと思います。
信頼の落としどころがあるかどうか、というのは大切な論点です。我々も、日々事故にあったり殺されたりというリスクを抱えて生きています。しかし、そのリスクをすべて回避することはせず、適当なところでリスクを無視して生きています。これは、リスクを回避するコストが高すぎるからです。たとえば、相手が自分を殺すかも、という理由だけで相手を殺していたら、少なくとも法治国家では自分の人生は結局終了してしまいます。もちろん、法治国家に暮らしているという事実によってリスクそれ自体も低減されますが。私は無人島という状況を作る段階で、このリスクを回避するコストがかなり低いことを見積もっています(共通の利害関係が存在しない前提ですから、実際にコストは返り血の不快さとか、死体の処理くらいではないでしょうか)。つまり、信頼の落としどころというのは状況によって決定されるものであり、人間に固有に備わった性質ではないということです。
伝えることではなく伝わること、というのも大切な論点です。しかし、それだけでは信頼には足りません。相手に自分の真心が伝わっている、という事実が自分に認識できているということも同様に重要なのです。これがないと、結局疑心暗鬼の種が消えません。この複雑な認知問題を一挙に解決してくれるのが、例えば「目の前で牙を剥く虎」なのです。このような厳然たる「事実」を目の前にしたとき、「互いの疑心暗鬼よりも重要な問題が目の前にある」ということが自明の事実のして共有され、それゆえに疑心暗鬼が消滅します。だからこそ、本文では共通の利害関係という事実にかなりこだわっているのです。
それから、「負のバイアス」は意味がわかりませんでした。囚人のジレンマは私の仮定ではなく、仮定から導かれた結論であり、均衡なのですが・・・。
「論理的な思考ができない人間もいるので慎重に扱うべきだ」という点には申し訳ないのですが同意できません。この点についてはTKさんが書いてくださっているので繰り返しませんが、直截的な表現をお許しいただければ、そのような態度こそが世界的に見てもオールドリベラルの退潮を招いたのではないかと思っています(もう欧米ではニューレイバーのような新たな流れが定着しつつありますが、日本や大陸ヨーロッパではまだまだ時間がかかりそうですね)。ものの考え方それ自体にも、「適切な競争」は必要ではないでしょうか。子供(または、論理的思考が不得手な人たち)は我々の理屈は理解できずとも、そうするときの態度はよく見ており、そこから説得力の有無を判断しているのだと思います。
もうひとつ難しいのは、エントリーでどこまで書くか、という点です。このエントリーでは私はすべての仮定をちゃんと本文に書いていません。これはあまりほめられた書き方ではありませんが、読みやすさ、読者へのフック、といった点では明らかに有利な書き方でもあります。このエントリーを書いたのは4年前になりますが、私はその後「すべての仮定を余すところなく本文に書き記す」スタイルに変えていきました。色々と思うところもありまして。その結果、エントリーは大体3倍から4倍の長さになってしまっています。はっきりいって、読みやすい文章とは言えません(その分工夫もしてはいますが)。突っ込みづらい文章だとコメントも当然減ります。
どちらが「正しい」文章なのか?短い文章でfood for thoughtを提供することを重視すべきか?それとも一から十まで全てを書いてしまうべきなのか?私にはまだ結論が出ていません。
Posted by: 馬車馬 | June 30, 2008 at 07:47 AM
TKさん、コメントありがとうございました。
私の書きたかったことを簡潔に代弁していただいてありがとうございます。抽象化された議論に慣れてしまうと、「2日後だろうが30年後だろうが本質的に同じ」というタイムラインの単純化に慣れてしまい、畑が違う人に違和感をもたれるケースって結構ありますよね。最近(実社会のほうで)そういう説明をしないといけないケースが増えているので、色々と思うところも多いです・・・。
Posted by: 馬車馬 | June 30, 2008 at 07:55 AM
馬車馬さんはたまに音沙汰がなくなるので直接的な
お返事が聞けるのはうれしいですw
日本人はロジックとレトリックの違いを理解してない人が圧倒的です。それが問題なんではないでしょうか。
実は私はもともとがちがちのレトリック畑の人間です。
つまり文型ですね。算数は理屈を聞いてもきちんと教えない教師と親のせいで嫌いになってやりませんでした。
なのでロジックを覚えたのは最近のことです。
実はこの年になって数学の考え方と概念がどうも世の中では一番大事なのではないか、と気づいて今小学生の算数からやり直しています。すると今やっても解けないんですね。目から鱗の思考技術の塊で、やらなかったことを悔やみつつぽつぽつ勉強してます。これがまた面白かったりするんですよ。
そのうち数検でも受けようと思っています。
閑話休題
で、日本人は情緒的な人間が多いですね。
原因はマスコミと教育だろうと確信しています。特に
テレビメディアですね。
最近多い報道バラエティなども、前提条件や予備知識を視聴者にきちんと教えず、予備知識の段階であからさまに情報不足だったり偏向された情報を与えて大人数で騒がせる、というものばかりです。それで結論なんか出るわけがないし、最初から結論出す気はないんですね。たたく対象があって、テレビを見た人が「なんとなく○○は悪い」という印象を持つように仕向けてるみたいですね。
新聞もひどいものです。ある大臣が「産む機械」といったとかで引き摺り下ろされましたが、あんなにくだらないことがまかり通るなんて、と戦慄した記憶があります。ロジックにおいて、その説明のために用いる比喩が不適切というだけでそのロジックすべてを否定され、挙句失職するということがいかに狂気じみているか。それを数十年繰り返した結果、何かあれば「政治が悪い」、「戦争は悪」という短絡的な思考が蔓延しました。特に50~60代の思考停止っぷりは目に余るものがあります。挽回は相当厳しいでしょう。これはもはや情報の暴力といってもいいと思っています。
さて、というわけで
いまの日本人に必要なのは軍人的な思考じゃないでしょうかね。実利のために、目標を立てて、戦術を決めて、予行練習をして実施する。いらないものは切り捨てる。そういう考え方です。
こう書くと「軍人」という言葉に過剰反応する人がいるでしょうが、それが典型的なレトリック偏重人間というやつでしょう。私も私生活でかなりめんどくさい思いをすることは多々あります。言い方の問題はたいしたことではないんですがね。上っ面にとらわれて、もしくは捉えて騒ぐことは問題の本質を見えなくします。それは私の実体験に基づく確かなものです。私はそれでいかに損したか身をもって知ったおかげでようやくそういう思考法にたどり着くことができました。もちろん、まだまだ入り口に立っただけなので十分使いこなせてすらいないのですが。
馬車馬さんのエントリに関しては、いつもよくよく推敲を重ねたあとが見えるし、読み物として面白さを保ちつつ分かりやすいので今ので十分とも思いますが、もしかしたら
思考実験の際には、何が目的で、何が導き出せればそれを達成できるかまで説明する必要があるかもしれません。読み物としてはつまらなくなる(笑)気もしますが、案外自分の考え方の確認もできていいかもしれません。というよりコメントで結局説明する羽目になってるところを見ると手間としてはそのほうが楽チンかもw
しかし畑が違うから通じない、っていうのはどうでしょう。同じ畑ですら通じないことも多いです。むしろ通じる人のほうが稀という気もします。最近思うのは、そも日本語自体があまり理論的な言語ではないのかなと思っています。目的を取りにくい言語、とでもいいましょうか。かなり意識的にシンプルにしないとすぐに冗長になってしまううえに、なんとなく分かった気になってしまうってことはかなりありますよね。そも日本語自体が情緒的な人間を大量生産してる原因なのかも・・。
いまこそ明治のように、日本語そのものをもっと改造するときなのかもしれないですよ。
Posted by: TK | July 01, 2008 at 09:49 PM
TKさん、馬車馬さん
わざわざコメントをいただき本当にありがとうございます。
高度な思考のエクササイズルームを提供していただいたうえに、インストラクターまで努めていただいているかのようで、心から恐縮です。。
そのような気持ちもあり、私は最初の書き込みをする前に、馬車馬さんの全エントリーを(コメント含め)納得いくまで、全て複数回読み込んでいます。そしてそれぞれに自分の思索をやはり何度も色んな角度から巡らせ、その上で興味を抑え切れなかった部分について自分なりに慎重にコメントを構築し、書き込ませていただいた次第です(最後少しバテましたが)。斜め読みから得た安易な思い付きを書き込んでしまっては、こうした場では単なる闖入者であり、ブログ主である馬車馬さんに大変失礼になると考えています。
今回の書き込みも、すぐには実行はせずに皆さんの反応を待ってからにしようと、今まで自己懐疑をぶつけながら思考の洗い直しをしていました。また、くれぐれもいわゆる「喧嘩を売っている」ようなわけではないということを、まずは重ねてご理解いただきたいと思います。
以下、今回の私の考えとなります。
まず、TKさんの言われる「社会的抑制のない諍い=死」というロジックは全く同意です。異論はありません。
また「物事を単純化して思考する」という点も同意です。『シンプルな式は美しい』ですよね。これからのコメントの中でもこの点はより顕著にしていきたいと思います。
それから、最初のTKさんのコメントを読んだ際に、やはり何か根本的な意識のずれのようなものをまず直感しました。
それは、馬車馬さんやTKさんはいうなれば『プログラマブルな世界の理論(主にゲーム理論)』を用いて『アンプログラマブルな世界(=現実の人間社会)』を説明しよう(へ応用しよう)としていている、のかなと。この認識は合ってますでしょうか?
もしこの整理が正しいのであれば、私は『アンプログラマブルな世界』をそのまま自然法則的に説明しようとしているつもりなので、「平和実現について考える」という目的は同じでも各論がすれ違ってしまうのは、まずは仕方がないのかなと思います。ここは議論を重ねる上でとても重要ですよね。
ただ、その疑問提起は置いておいたとしても、まず誤解しないでいただきたいのは、私は最初のコメントで述べた2点の"部分"ついて違和感を持っているのであって、馬車馬さんの主張を全否定しているわけではないのです。
『平和を実現する最も簡単な方法は利害関係の共有(均衡)』という提言は、一つの真理にとても近いと共感します。
事実、コメントを待っている間に思考を洗い直ししている過程で、馬車馬さんとは全く異なる思考プロセスで(ゲーム理論を全く使わず)、私もほぼ同様の結論に達しました。これは自分でもかなり面白い体験でしたので後述します。
さて、先の認識が正しいと仮定すれば私の違和感はかなり薄れ、議論の全体像も見えてきます。
まず無人島の思考実験ですが、『プログラマブルな世界』についてのみ考察するのであれば、境界条件に着目するのも理解します。
単純化するとこれは、「無人島に降り立った瞬間に頭の中で"勝利のプログラム"が回るかどうか」だけの問題ではないでしょうか。いずれにしても疑心暗鬼は完全払拭できないので2人がハトか殺人鬼かも全く関係ない。
ただ、"勝利のプログラム"の先頭に「相手が死ぬと自分も死ぬ」というIF文が一行入っていればいい、ということでしょう。
プログラミング演習の問題であれば私もこれでマルだと思います。何も異論ありません。
そして私の所感では、皆さんの理論はこれが全てseedになっており、そこから応用しようとしているものの結局は脱却できていない(捕らわれている)と感じます。
信頼の落としどころ(馬車馬さんが言われるところの「街中ヘルメット理論」)については、私の自論と何ら相違がないように思われます。
「伝える」or「伝わる」の議論も、『プログラマブルな世界』においては抽象的な議論で定義不能でしょうから、冗長になるだけかと思いますので単純化(割愛)します。
「負のバイアス」については自分もちょっと舌足らずかな、とは思っていました(あと、この程度の示唆でどのような反応が返ってくるか少し興味があったという気持ちもありました)。
これは、本質的にはもちろん馬車馬さんへの反論ではないのですが、言いたかったのは『囚人のジレンマの登場人物は"囚人"である』ということです。これ、ちょっとずるい(不公平)じゃないですか。すでに悪い事をしてとっ捕まった奴=どうしようもなく利己的なダメ人間、という設定ありきの考え方だと思うのです。なので各自の最適解は当然裏切りである、そりゃそうでしょうと。
では例えば「誘拐団にさらわれた友人2人組のジレンマ」というのはどうでしょうか。人質Aには「人質Bの家族が震え上がってすぐに身代金を出すような秘密を教えろ」などと迫るわけです(要は裏切り提案)。以下、詳細説明は省略しますがこの場合、事態は『アンプログラマブル』な領域に入ると思います(「いや、それでも最適解は裏切りだ」と主張されるのであれば議論になりません)。
盲目的に"囚人"のジレンマのロジックを活用することで生じる負のバイアス(そこを意識していなかったのなら思考の落とし穴)、というのはこういった意味でした。
先ほど述べた私の所感は、このようなところからも生まれてきています。
この辺から私の主張の核心に入っていきます。
皆さんの考え方は全てユークリッド幾何学であり、"場"を考えないニュートン幾何学であると思います。チェスでどうやったら勝てるかは考えても、何故その2人がチェスを指す事になったのかは考えない(考えられない)。しかしながら我々人間が実際に生きている世界は『非ユークリッド幾何が支配するリーマン空間』です。
ボランティア、オープンソースプロジェクト、沈没しつつある客船において女性、子供から先に逃がそうとする行為・・等々、いずれも現実社会での実際の出来事ですが、これらを皆さんはうまく説明ができないでしょう。皆さんが説明できるのは、我先に逃げ出した船長(ゲーム理論で行動した)だけです。
ユークリッド幾何はとても素晴らしい学問で、大体のケースで非ユークリッド幾何と同じか近似の解が導かれるのも事実です。ゲーム理論を高度に使いこなせれば相場で6割勝てる(勝ち越す)ことが可能なのもそのためでしょう(ただし、その主な理由は高度に使いこなせない相手がいくつかへまをするから)。しかし、9割5分勝つことはおそらくできません。なぜなら相場は人間や自然によって動いており、ユークリッド幾何での解析には限界があるからです。
皆さんの主張を単純化すると、「コンピューター型人間」が理想、という考え方に行き着くような気がするのですが、これは大変危険です。
ちょっとしたバグや想定外のイベントをトリガーにして一気に全面戦争に発展してしまうのは、多くはこのタイプだと思います。リーマン空間における「三角形の内角の和は180度より大きい」という現実はユークリッド幾何(机上の理論)では理解することができず、こういった事象に直面した時のコンピューター型人間のフローはフリーズか暴走でしょう。
我々が生きている空間は明らかに『歪んでいる』のです。
「思考力にも競争力が必要だ」という意見、心から同意です(私はそれに反目するような意見は述べたつもりはありません)。
というよりも、何より思考力にこそ必要でしょう。ただし、その思考にもポートフォリオがあるべきだと思うのです。
「平和がいい」というテーマだけを与えて、そこへ至るパスは各自いろいろと考えさせることが重要ですよね。絶対解はない命題なのですから。
ゲーム理論は大変有益な理論だと私も思いますが、"それだけ"では実社会では絶対ダメです。情緒のない人間、理論だけの人間はコンピューターに劣る下等な存在です(もちろん、情緒だけでもダメですがこっちの方がまだましです)。
私は情緒と知力は正比例すると思います。偉大な数学者や物理学者は、高度に論理的である反面、深い情緒も持ち合わせていることは間違いないでしょう。高い情緒や人間性を持った人間は、理論の詰め込み型教育などせずとも、勝手に興味の範囲を広げ、自ら思考し、どんどん知力を高めていきます。私は学校教育では理論と同じくらいの時間を割いて、人間性を醸成できるような努力を慎重に行うべきと考えています。
殴り合いのケンカをしてしまった中学生に「利害関係を調整しろ」と説いてもほぼ無意味でしょう。もしかしたら私のことがPTAの役員か何かのように見えたのかも知れませんが、私が「慎重に」と述べたのはこうした自分なりの考えに基づいたもので、短絡的な発言ではありません。
この辺り、議論が少し拡散してきているようなので、今回の私の主張は一旦ここで筆を置きたいと思います。
蛇足ですが、「畑が違う」という思考には相対的な事象に対する思慮の浅さを若干感じます。
何が畑なのか、どこからが畑なのか、畑には必ず農夫しかいないのか、畑の外にいる人は必ず農夫ではないのか、今日農夫でなかった人は明日も必ず農夫ではないのか・・等々、自分が歪んだ世界に住んでいる事を認識し、大局に立った柔軟な考え方が必要なのではないでしょうか。
「畑が違うから大変だ」という発言は言い訳じみているし、そう定義することは結局自分の首を絞めることと同義だと思います。もちろん、ただの愚痴であればよいのですが(^^ )
また、「ブログをどう書くか」という点について。
私は馬車馬さんのポリシー(何を目的に書いているのか)を知り得ませんし、そもそも大先輩に提言などはできないのですが、「あるがまま」ではいけないのでしょうか?
以上、主張の部分を含め、失礼な発言をしてしまっていたとしたら心からお詫びします。
私のような人間の意見が、皆さんにとって何かほんの少しでもリフレッシュメントとして作用するとすれば誠に幸いです。
Posted by: SEEBRA | July 02, 2008 at 02:37 PM
TKさん、リプライが遅れて大変申し訳ありません。
仕事の方で予想外の出来事がいくつか起こり、しかも解決のためのアイデアが思いつかないというどつぼにはまり込んでおりまして、どうにもブログを開く気が起こりませんでした。ようやくそちらが一段落したので久しぶりにブログを開いたら、もう1ヶ月以上すぎてたんですね・・・。
数学を一からやるというのはおもしろいですよね。私も社会人になってから一念発起して解析学を一から勉強して、数学以外の論理展開のすべてがいい加減に見えてしまった時期があります(ちなみに、同じような理由で年をとってから数学にはまり込む人は結構いるのだそうです。ただ、研究者を目指すには10代から訓練してないとだめなのだとか)。あの時期に1日10時間以上ひたすら数学だけ勉強していた数ヶ月間は今でも財産になっていると思います。もちろん、ちゃんとした勉強をした人にはどうにもかなわないのですが。
テレビや新聞、特にテレビは、短期間で視聴者にわかった気になってもらわないと商売になりませんから、「とにかく分かり易く」が情報不足や偏向につながっているのかなと思います。正直、一部のケースをのぞいて、マスコミの人たちに世論を誘導しようというほど積極的なモチベーションはなく、彼ら自身も「世論」に流される人たちに過ぎないのではないかと。昔そんなエントリーをあげたことがあります。(真実を伝えられないジャーナリスト、など)
軍人的思考というか戦略的思考というか、ゲーム理論ですね、といってしまうと手前味噌が過ぎる感はありますが。レトリックの最適な使い方というのが自分にはまだわかっていない気がします。
推敲を重ねたといいますか、最近は脳内原稿を数ヶ月間放置するので、その間に自然と推敲が進んでいる気がします。確かに、本文で全て書いてしまう方が、手間としては楽な気がしますね。以前ビジネス英語の特訓を受けたときに言われたのが「文章からあらゆるサプライズを取り除け」ということでした。もう少しそのあたりに気を配った文章を書いてみようと思っています。
日本語の問題というか、論理的な文章を書く訓練よりも、随筆のような文章を良しとする風潮が問題なような気がします。英語でも無駄に長い文章、目的をとりにくい文章はたくさんありますし(文節の並べ方が間違っていたり、punctuationの使い方がおかしかったり)。随筆的な文章が悪いとまでは言いませんが、中学生くらいから、もう少しバランスのとれた訓練をしてもいいような気がします。
Posted by: 馬車馬 | August 21, 2008 at 08:26 AM
SEEBRAさん、リプライが大幅に遅れてごめんなさい。
人生の山場に差し掛かっておりまして、なかなかブログに書き込む精神的余裕が持てません。
プログラマブルな世界の理論、という表現はどうも直観的にぴんとこないのですが、ゲーム理論に限らず、多くの自然科学理論で行われているのは現実を分析可能な形に単純化して、そこに何らかの法則を見いだすということだと思います。そして、その単純化を体系立てて行うために公理系があるのだと思います(そうでないと「何でもあり」になってしまいますから)。ですから、そこで導かれた法則が即現実世界で通用するとは限りませんし、その必要もありません。重要なのは、そこからどのような含意が得られるかであって、きわめて非現実的な法則の方が現実についてより多くの物事を語ってくれる、というのはよくあることだと思います。ですから、SEEBRAさんのおっしゃる「『アンプログラマブルな世界』をそのまま自然法則的に説明しようとしている」というのが、具体的にどのような試みを意味しているのか、自然法則的とは何なのか、そのあたりがちょっとつかめませんでした。
なお、私も特定の公理系に基づいた議論だけが正しいと主張するつもりはありません。現在の経済学やゲーム理論が依拠する公理系が本当に信頼に足るものなのかどうか、絶えず検証されるべきだと思いますし、最近でもそのあたりの試みは盛んに行われているようです。世の中の見方は多種多様であるべきですよね。
あ、それから、私は特にSEEBRAさんに自分の考えを「否定された」と思っているわけではありませんよ。ある程度論点を明確にするために、コメント欄では直截的な表現を使うことが多いのですが、もし誤解を招いてしまったのであればごめんなさい。
私はプログラミングはTurbo Cで止まっている人間ですので(というか、プログラムはよく分かりません)、seedや勝利のプログラムという表現がよく分かりません(すみません)。
負のジレンマについてですが、囚人のジレンマというのは特に「プレーヤーが囚人であること」を仮定したゲームではありません。一定の利得構造(ここでの利得は金銭的な利益を必ずしも意味しません)の元では、互いに協力した場合に利益が最大化できると知りつつも、なお利益の低い結果へと陥ってしまうという状況を囚人のジレンマと呼ぶわけです。ですから、利得構造をいじれば当然違う結論も生まれてきます。要は、どちらの利得構造がよりfeasibleであるかが問題になるわけです。
ちなみに、私が誘拐団だとして、かつ二人の人質が互いに「相手の決定的な弱み」を握っており、そのどちらかまたは両方を知る必要があるなら、「相手の弱みを教えてくれたらそのまま解放、そうでなければ死ぬよりも苦しい拷問にかける」「教えないならおまえの家族も誘拐するか殺す」といったオファーをそれぞれ別室の人質に対して持ちかけると思います。そうすることで、互いが裏切ることが最適解になるような利得構造を作り上げることが出来るわけです。
私が本文で書いたような利得構造はそれなりにはrobustなものだと思いますが、同時に「死ぬことの利得はマイナス無限大」という仮定もおいています。個々人全てのケースでこの仮定が当てはまるかといえばNOでしょう。そこには一定の割切りがあります。このあたりは上で随分と議論がありましたのでそちらをご参照ください。
ボランティアなどの利他的行動は、ゲーム論であれなんであれ、合理的行動の範疇として理解されています。要は、他人の幸せが自分の幸せになるのなら、そうすることで彼らは自分の利得を最大化しようとしているのです。もちろん、この「合理的行動」は私が本文で仮定したケースとは大きく異なります。ただし、平和を願うことと利他主義とは(部分的に交わる可能性こそあれ)異なる概念ですから、私のエントリーでこの仮定を採用する意味はありません。
非ユークリッド幾何学、という表現でSEEBRAさんが言わんとしているのが特定の公理系のみに依拠した議論には限界がある、ということであれば同意します。そして、私は上で書いたとおり、限界が存在すると言うことが特に問題だとは思っていません。
私のエントリーからコンピューター型人間が理想、という考えにたどり着くのは少し難しいと思います。私にはその論理が思いつきません。若干議論から外れますが、「人間は予想外の事態に直面すると、ある種のパニックを起こす」ということを前提に組み立てられた経済学の論文もいくつかあります。これもゲーム理論の範疇で分析されているものです。
それから、私は別にゲーム理論だけでものを考えろと主張したことはありません。私個人は世の中にある社会分析のツールの中では一番有用なものだと思っていますから(統計関係をのぞく)、「大して有用じゃないのでは」という意見があればそれに反論することもあるでしょうが。
情緒だけの方がまだまし、というご意見は飛躍が大きすぎると思います。上等下等の議論をなさるのであれば、まず比較基準を明確にすべきではないでしょうか。そうでないと私からはコメントの仕様がありません。同様に、情緒と知力の比例関係についても、情緒の有無、更にその度合いがどのように定義され、どのように測られるのかが明確でないのでよく分かりません。ですから、一連の段落についてのコメントは控えます。
SEEBRAさんのおっしゃるとおり、我々が依拠するものの考え方は比較的根っこのところで異なるようです。このような場合は、自分がどのような仮定、どのような公理系に依拠して議論を展開しているのか、可能な限り明示する努力が不可欠です。非ユークリッド幾何学にしても、平行線の公理がないと言うだけで、明確な公理系に基づいた理論であると言うことは強調しておきたいと思います。そうすることで初めて、非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学との対比が可能になるのです。
最後に畑違いの件ですが、ある程度専門分野を突き詰めると、見えてくるのはその世界の複雑さです。特定の一分野についてだけでも、過去50年100年の間に天才秀才が積み上げてきた英知が詰まっています。それを何のバックグラウンドもない人に正確に伝えるという作業がどれだけ難しいか。分かり易く伝えるという作業は、情報量の削減を必然的に伴います。枝葉末節で若干の誤解を招こうとも、本質だけは明確に伝えなければなりません。そして、本質とは何か、という理解すら人それぞれなのです。
大局に立った柔軟な考え方、というのは聞こえはよいのですが、往々にしてそのような考え方は「実は何も言っていないに等しい」ケースが多いように思います。
とりとめもなく書き出したので、読みづらいようでしたらごめんなさい。
Posted by: 馬車馬 | September 17, 2008 at 07:58 AM
お疲れ様です。以前コメントさせて戴いた平和主義者です。
以前は、途中で議論を放棄してしまい、大変申し訳ないです。すでに4年ほどの月日が流れているのですね。大変興味深いです。
上のSEEBRAさんのコメントは大変興味深いですね。
今回コメントさせて戴いたのは、私も馬車馬様の論理に則り、少し思考実験的なもの(ユークリッド幾何学の枠内で)をしてみようと試みたからです。
思考実験の前提条件は、概ね馬車馬さんの前提条件と差異ありませんが、
加えて、平和主義者を仮定してみたいととは思います。というかどのように仮定すればいいでしょうか?
上述にあるような、平和主義者が唱えるだけで、行動に移さない(行動決定に全く影響を及ぼさない)ないしは相手が平和主義であるということを知っても、自分の行動決定に何ら影響を与えないという仮定である場合、そもそもこの議論の意味がないので、不可であることが言えます。
同じロジックで、戦争主義は戦争にまったく影響を及ぼさない、という事を結論付けることができるからです。
この結論に対して、私の考えはNoですが、もしYesであれば、そちらにフォーカスして議論するのも楽しいと思います。(上のコメントでもいくつか議論されているようですが・・・)
と、ここまで書いて、もしかしてそういうことをおっしゃっているのでしょうか?
そうすると、前提として平和主義者を置いている時点で、平和主義を唱えても意味がないのは、思考実験の有無に関わらず自明ですよね。。。。
○○主義が人間の行動決定に影響を与えないならば、人間の行動決定f(x)の結果として生じるある、状態S(x)(平和)にも影響を与えない・・・思考実験するまでもありませんね。。。
本題に戻りましょう。
では、○○主義が行動決定に一定の影響を及ぼすと仮定し、その中でも平和主義h(y)は特に平和という状態S(a)という均衡状態を保つためのファクターになりえないことを証明するのであれば、平和主義が均衡状態S(a)に、もっとも寄与しそうな前提条件をおく必要があります。。
(そのため、今回の前提として、もっとも平和になりそうな前提条件を置かれているものと理解しています。)
ただその制限として、たとえ平和主義者であっても生死の選択の前では殺すことを厭わないという記述が(本文中「殺すくらいなら殺される方がマシだ」...ならびに、コメント中「このモデルでは殺されることの不効用を無限大にしている」...のくだり)あります。。。
ということは、この前提条件は矛盾しているということになります。(というか、なってしまいました・・・)
この矛盾を少し拡大解釈し、平和主義者の仮定を、ある行動f(x_a)をとった場合の生存確率P_aから得られる期待値と、ある行動f(x_b)をとった場合の生存確率P_bから得られる期待値が同じ場合に、より平和主義な手段・行動f(x)を選択するとしましょう。
前提条件に基づき、最終的には信じあえないので、ふたりは殺しあう結果になるかもしれませんが、このモデルで結果に対する大きなファクターになるのは強制力(上述と同意で、社会的なものや法的なもの)になります。今回の前提では、まったく強制力がない状態を仮定されていますが、現実的には我々は時間という強制力を受けています。つまり時と共に生存確率は変化して行き、その変化もまた行動決定に影響します。
つまりこのモデルにあまりにも欠けているファクターは時間の概念で、ウサギが亀に追いつけないアルキメデスの矛盾と同じです。。
実は、最後の一文を詳細に書きたかった・興味深かったのですが、若干しりつぼみになってしまいました。また、詳細を別途コメントさせていただきたく。。
以上、長文・駄文ですみませんが、よろしくお願い致します。
Posted by: 平和主義者 | April 28, 2009 at 03:02 AM
こんにちは。
いつも楽しく読ませていただいています。
古いエントリーにいまさらなコメントで申し訳ないです。
エントリーの大筋には同意です。頷きながら読んでいたのですが、コメント欄まで見ていて少し違和感がありましたので投稿しました。
それは...
>>平和を望むことと、平和という状態を作ることの間にはなんの関係も無いのだ。
この結論を導き出すための論法として、コメント欄6番目の始皇帝氏さんへの返信で次のように述べられています。
-----
私は本文でまず両者が平和を願っていても平和にならないことを示しました。これは大雑把には「平和を願うこと」は「平和になること」の十分条件ではない、ということを意味します。次に、私は平和を望んでいない人たちの間にも平和が成立しうることを示しました。これは「平和を願うこと」は「平和になること」の必要条件ではない、ということです。そこで、「願うこと」は平和の必要条件でも十分条件でもない、つまり関係ない
-----
しかし、これは関係もないことの証明になるでしょうか?
命題の否定にはなっても、無関係の証明にはならないように思いました。
例えば、
70歳を待たずに癌で死亡したスモーカーに対して、「たばこさえ止めていればもう少し生きられた」という主張があった場合
タバコを止めていれば70歳以降生きていたとは限らない事を示し
・交通事故で死亡する例
・肥満体になり成人病が早期に悪化する例 など
さらに、タバコをすっていた場合でも、もう少し生きられる例を示せば
・定期的に健康診断を受けて、癌を早期治療した 等
タバコはまったく関係なかったとすることが出来るでしょうか?
平和を望むことが平和にこれっぽっちも関係しないことを証明するためには
「全員が平和を望んでいる」という因子を含んだあらゆる平和状態から、その因子を取り除いた場合に(平和状態が)崩壊or悪化する例が一件も無いことを示す必要があると思います。
でもこれは悪魔の証明っぽいですよね・・・
というようなものです。
一応チェックしたつもりですが、コメント欄に同じような書き込みがあったらごめんなさい。
長文失礼しました。
Posted by: hirohiro | May 08, 2009 at 08:30 PM
平和主義者さん、コメントありがとうございます。
まず、私は平和主義そのものの効果を否定しているわけではありません。(もちろん、主義そのものをどう定義するかによるわけですが)私が無意味であると主張しているのは「平和を祈ること」「祈ることそれ自体に何らかの意義ないしは価値を見いだすこと」です。平和という均衡状態を
維持するための努力が無効だと思ったことはありません(例えば、その努力の一例として互いに人類を破滅させうるほどの核兵器を用意することを挙げました。この核兵器が、平和を祈るという行動には決定的に欠けている、互いの信頼関係の創造を生むのです)。
もし、平和を祈ることが、「生死の選択の前であっても相手を殺さない(もう少し踏み込むと、自衛しない)」ことと同値であるとするならば、私の議論は崩れます。ここは前提条件の問題なので、どのように設定することも可能であり、「平和を祈る人であっても生死の狭間では相手を殺しうる」という前提が間違っているという議論は当然にあります。私は「平和を祈る人たち」にそこまでの期待はしませんし、そう言う(殺さない)行動は間違っているとすら思う性質の人間ですけれども。
すこしモデルを書き換えますが、プレイヤー(1,2)には二つの行動の選択肢x_aとx_bがあり、前者を攻撃的行動、後者を平和的としましょう。プレーヤー1の生存確率P_1は、自分の行動の選択x_1と相手の選択x_2の関数として決まります。P_1 = f_1(x_1,x_2) で、f_1は任意の関数です。平和主義者さんの設定と同じはずです(関数の定義と、選択可能な変数の集合と実際に選んだ変数の区別を明確にしただけです)。
プレーヤー1が平和を祈る人である場合、プレーヤーの選択した(x_1,x_2)が(x_b, x_b)であった場合、効用が最大になります(この場合の生存確率は1)。しかし、プレーヤー2が仮に好戦的な人であった場合、(x_b,x_a)という「相手の寝首をかける」選択の組み合わせがベストです。プレーヤー1にとってはこの選択の組み合わせは最低(仮定より)なので、エントリーではああいう結論になります(厳密には、これ以外に「互いのプレーヤーがどのくらいの確率で好戦的であるか」を表す変数が必要になり、そここそがある意味信頼関係を示す要素になるのですが、大枠では議論は変わりません)。
このモデルでは時間は明示的には組み込まれていません。重要なのはプレーヤーの行動であり、それ以外の要因による生存確率の変化を考慮する意味が見いだせなかったからです。より多くの要素を考慮するというのは、何となく一般化に繋がるように思われがちですが、実はその裏でより多くの仮定を必要とし、むしろ特殊解の分析になってしまいがちです。(これは受け売りですが。「ゲーム理論の蒟蒻問答」から引いています)
もちろん、より現実に即した仮定を追加することは望ましいことであり、その場合にモデルの結論が変わってくることはあると思います。その場合、「どういう条件で『平和の祈り』が有効になるのか」を示せることになり、それはそれで大変に有意義なことであろうと思います。
Posted by: 馬車馬 | May 11, 2009 at 03:22 AM
hirohiroさん、コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、「必要条件でも十分条件でもない」ということと「無関係である」ことが同値であるかというと、違うかもしれません。これを書いたときはこれが同値であることを何となく自明だと思っていたのですが、ご指摘の通り、本来はある種の「不可能性命題」の証明を必要とする話であって、私のエントリーでは明らかに不十分です。
あくまでも、私がおいた仮定と、それを無理なく拡張できる範囲内において「無関係」と言えるに過ぎない、というべきでした(「あらゆる平和状態」というstateが、このモデルでは1種類しかないので)。
別の状況を設定して、「平和への祈り」が平和という均衡状態を達成できることを示せれば、それは私のエントリーに対する反証になり得ます。例えば、殺されることの効用がマイナス無限大ではなく、ある有限の値である場合、平和を望む人たち同士の間で殺し合いが起こらない可能性はあります(互いに、相手も高確率でいい人に違いない、と信じている場合)。
ただ、そもそも、このモデルでは「平和を祈る」という行動それ自体が明示的には組み込まれていないので、平和の発生は確率論になってしまうんですよね・・・。その意味で、「平和を望む」ことそれ自体の影響をはかれないという不十分なモデルです。エントリーでは、殺される効用マイナス無限大、の仮定で、「平和が確率的に発生する可能性」それ自体がゼロになっているため、余り問題にならないんですが。
まぁ、不可能性の証明をやるのは流石に荷が重いので、その辺りは反証の存在の指摘を待ちたいと思います(いくつか上にもありますね)。
Posted by: 馬車馬 | May 11, 2009 at 03:42 AM
古い記事にコメント申し訳ありません
>>関係性の論理証明を求める方へ
関係性の論理的な証明を求めるコメントが多いようですが違和感があります。厳密で論理的な「関係ない」という証明は非常に難しく、反論するのであれば「関係があること」を述べる方が証明する義務があると思います。巷議論レベルでは「必要十分条件」で十分であり、異論がある側が「異論の証明」をするべきだと思います。
>>馬車馬さんへ
非常に理知的な態度には感服します。無関係な証明は「悪魔の証明」に近いわけです。まぁそれを馬車馬さんが正面きって論じられる立場にはないと推察できますので外野が応援します。
Posted by: wood | August 05, 2010 at 09:47 PM