「信仰の道に進みたい」という思いと、「タバコはやめられないだろう」という思いで葛藤していたのに、一瞬にしてその障害が取り除かれてしまいました。おかげで私は、直ちに入教することができました。 統一教会では、祈りの生活をたいへん重要視します。私も、毎日神様に祈るようになりました。しかし、悲しいかな、科学者の悪いくせが出てしまいました。 「神様に祈りが届いた証拠として、検証可能な物理現象でも起きれば信じられる。しかし、そういった報告は聞いたことがない。祈りは、祈る者の自己満足にすぎないのだ。世の中の諸問題は人間の努力で解決するしかない」 こんなふうに考えていました。 私を伝道してくれたOさん(1歳年上の男性)に、この思いをぶつけました。Oさんは、「祈り続けることで、きっと答えがみつかりますよ」と言いました。私は納得できませんでした。次第に、心がこもっていない、形式的な祈りをするようになっていきました。 そのころは、まだ新聞社に勤めていました。週に1回、「出張降版」というものがありました。私が勤めていた新聞社では、他社の業界新聞の整理(編集作業)も請け負っていたのです。ですから、降版(印刷直前の作業)をする日には、その会社へ出向いて作業していました。 ある出張降版の日。その日はスケジュールが詰まっていたため、近所のそば屋で昼食を食べながら校正作業をしていました。すると、また雷です。近くに落ちたわけではありませんが、やはりゾッとしました。瞬く間に、外は大雨。とても会社に戻れそうにありません。店には、傘も電話もありませんでした(当時は電話がないそば屋もあったのです!)。 私は困りました。自分の身ひとつなら、濡れるのを覚悟で走って帰ることはできます。しかし、大切な原稿やゲラ(チェック用の印刷物)を濡らすわけにはいきません。あいにく、紙の封筒に入れてきただけで、鞄もありません。夏だったので服装も薄着であり、衣類で原稿やゲラを守ることもできません。 印刷の時刻は刻々と迫ってきます。 そのとき、Oさんの言葉を思い出したのです。祈り続ければ、答えがみつかる……。私は、初めて真剣に祈りました。 「神様、どうか雨をやませてください」 そば屋の軒下に立って、雨が打ちつける地面を見ながら祈っていた私は、またもや背筋がゾッとする体験をしました。なんと、私の足下から、サーッと雨足が遠ざかって行くではないですか! これを科学的に説明すれば、単なる偶然ということになります。雨が止む時刻と私が祈った時刻が、偶然に同じだったということです。理性ではそう思っていながらも、「祈りが聞かれた」という思いで心は満たされました。 とにかく急いで帰らねばなりません。まさに、遠ざかる雨足を追いかけるようにして走り、会社の玄関に飛び込みました。そこでまた、科学者の悪いくせが出ました。こう祈ってしまったのです。 「本当に神様が雨をやませてくれたのでしたら、もう会社に着きましたので、どうぞ思う存分、降雨を再開してください」 冗談半分で祈ってみたのです。 しかし、そう祈った瞬間、会社の玄関に立つ私に向かって、そば屋の方から激しい雨足が再び近づいてきたのです。しかも、それから3時間、どしゃぶりが続きました…。 「神様は、祈りを聞かれるのだ。しかも、まるで嫌味か当てつけのように、どりゃぶりにするなんて…。神様も茶目っ気があるんだなぁ」 怖い神様から一転、楽しい神様に出会った日でした。 (つづく) |
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その2を探すのに苦労しました、でも1を読んだらどうしても2を・・。 |
miyukiy1025 2010/08/26 22:29 |
>その2を探すのに苦労しました |
小林浩 2010/08/27 05:29 |
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