期待がなかったわけではない。
自分が学んだ流派は故郷でも稀な至高の剛剣。自分を引き取った現当主には血を引く娘が一人いるものの――しかし女性の身で、百数名の門下生達を統括する事はできない。とすると、開祖の血を残すなら別の場所から養子をもらってくるか、もしくは門下生の中で剣腕に優れたものを娶らせる事になる。
『兄と戦え』
自分は――一緒に引き取られた義兄と思い慕う人と戦うことを命じられた。勝った方と、義姉と娶らせると。
勝つ自信はある。自分は六年前に今上陛下の天覧試合において、若年の身でありながらも自分を体躯、修行に費やした年数で上回る相手を次々打ち倒した。兄上は確かに強い。だが、今回ばかりは譲る訳には行かない。実力では自分が上位。十回試合をすれば七、もしくは八勝利する自信があった。なら後は不覚を取らぬように万全の準備を整えるべし。
己にとっては――剣は力であり、力は何か幸せを掴む道だった。
子供の頃は孤児院生活で、自ら食い扶持を減らす意味も込めて、義兄と共に引き取られた。幼少の頃は当然食べられるだけで幸せだった。歳を経るにつれ、食べていける事は至極当然の話になり、剣を振るようになってからは、現当主である義父に褒められる幸せも得た。自分の肉体が理想の速さへと近づいていく喜びも得た。
だから――幼い頃からずっと憧れだった人と一緒になる事が出来ると義父に言われた時は子供のように喜んだ。
だから――自室へと戻る途中で兄と姉が話しているのを見た時、その親しげな会話の様子に――二人が愛し合っている事を示す内容に、剣を振っていても幸せになどならないと自覚させられた。
力は何か無理を押し通すものであり――何かを勝ち得る為の手段。
自分の腕は、女の人の手を取る事よりも剣を振ることに向いている。子供の頃から鍛錬を続けて、自分の手をそう改造した。
そういう意味で、己は欲しいものを手に入れる事は出来なかった。少なくとも好き合う二人を引き裂くほど、自分の幸せを貪欲に求める事が出来なかった。ただ、お幸せに、と手紙を残し――親父殿と壮絶な喧嘩をして、軍隊に志願した。
子供の頃から親父殿が自分を養育してくれたのは、期待を掛けてくれていたから。流派を引っ張る次代の俊英になってくれると信じてくれたから。だからこそ信頼を裏切り、不義理を犯したことへの穴埋めの為に戦ってお金を貯めて、自分を育ててくれた親父殿に養育費の全てを返し自分の存在自体を無かった事にして欲しかった。
そうやって――南極に向かう船の上で彼は一抹の寂しさと共にある安堵感を自覚するのだ。
子供の頃から、義兄上も義姉上も好きだった。だから――別に良いのだ。二人が幸せに微笑んでいてくれる事が己の幸せであり、そこに己の姿は無くていい。幸福とは何も、自分自身が幸せになる事だとは限らない。幸せそうに微笑む二人のこれからの幸多きことを願うだけで、温かなものが胸に満ちる。
だが、同時に不思議と悲しいのだ。胸の隙間を抜ける風を感じるのだ。二人の幸せそうな姿を見ている事が自分の幸せだったはずなのに、二人を見ていると――同じ場所にいたくないと――逃げるように立ち去りたいと思ってしまうのだ。
掴めるのだろうか、幸せというものを。
今度は、失敗などせずに。この胸のがらんどうを埋めることができるのか。