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[15960] 戦慄! 筋肉主人公以外男装美少女戦記!
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:e5e739cf
Date: 2010/07/21 10:26
 スーパーダッシュ文庫でめでたく落選したので、続編をこっそり。うふ。
 ども、八針来夏です。以前四月頃に投稿させていただいていたお話です。

 選考の方もほとんど終了したようなので再掲載させていただきます。
 よろしくお願いします。

 
 2/5 以前掲載していたお話の手直し、修正バージョンを再掲載しました。

 6/9 タイトル変更しました。



[15960] プロローグ
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 14:03
 期待がなかったわけではない。 
 自分が学んだ流派は故郷でも稀な至高の剛剣。自分を引き取った現当主には血を引く娘が一人いるものの――しかし女性の身で、百数名の門下生達を統括する事はできない。とすると、開祖の血を残すなら別の場所から養子をもらってくるか、もしくは門下生の中で剣腕に優れたものを娶らせる事になる。



『兄と戦え』



 自分は――一緒に引き取られた義兄と思い慕う人と戦うことを命じられた。勝った方と、義姉と娶らせると。
 勝つ自信はある。自分は六年前に今上陛下の天覧試合において、若年の身でありながらも自分を体躯、修行に費やした年数で上回る相手を次々打ち倒した。兄上は確かに強い。だが、今回ばかりは譲る訳には行かない。実力では自分が上位。十回試合をすれば七、もしくは八勝利する自信があった。なら後は不覚を取らぬように万全の準備を整えるべし。

 己にとっては――剣は力であり、力は何か幸せを掴む道だった。

 子供の頃は孤児院生活で、自ら食い扶持を減らす意味も込めて、義兄と共に引き取られた。幼少の頃は当然食べられるだけで幸せだった。歳を経るにつれ、食べていける事は至極当然の話になり、剣を振るようになってからは、現当主である義父に褒められる幸せも得た。自分の肉体が理想の速さへと近づいていく喜びも得た。


 だから――幼い頃からずっと憧れだった人と一緒になる事が出来ると義父に言われた時は子供のように喜んだ。


 だから――自室へと戻る途中で兄と姉が話しているのを見た時、その親しげな会話の様子に――二人が愛し合っている事を示す内容に、剣を振っていても幸せになどならないと自覚させられた。


 力は何か無理を押し通すものであり――何かを勝ち得る為の手段。
 自分の腕は、女の人の手を取る事よりも剣を振ることに向いている。子供の頃から鍛錬を続けて、自分の手をそう改造した。
 そういう意味で、己は欲しいものを手に入れる事は出来なかった。少なくとも好き合う二人を引き裂くほど、自分の幸せを貪欲に求める事が出来なかった。ただ、お幸せに、と手紙を残し――親父殿と壮絶な喧嘩をして、軍隊に志願した。
 子供の頃から親父殿が自分を養育してくれたのは、期待を掛けてくれていたから。流派を引っ張る次代の俊英になってくれると信じてくれたから。だからこそ信頼を裏切り、不義理を犯したことへの穴埋めの為に戦ってお金を貯めて、自分を育ててくれた親父殿に養育費の全てを返し自分の存在自体を無かった事にして欲しかった。
 そうやって――南極に向かう船の上で彼は一抹の寂しさと共にある安堵感を自覚するのだ。
 子供の頃から、義兄上も義姉上も好きだった。だから――別に良いのだ。二人が幸せに微笑んでいてくれる事が己の幸せであり、そこに己の姿は無くていい。幸福とは何も、自分自身が幸せになる事だとは限らない。幸せそうに微笑む二人のこれからの幸多きことを願うだけで、温かなものが胸に満ちる。
 だが、同時に不思議と悲しいのだ。胸の隙間を抜ける風を感じるのだ。二人の幸せそうな姿を見ている事が自分の幸せだったはずなのに、二人を見ていると――同じ場所にいたくないと――逃げるように立ち去りたいと思ってしまうのだ。

 掴めるのだろうか、幸せというものを。
 今度は、失敗などせずに。この胸のがらんどうを埋めることができるのか。



[15960] 一番勝負――獣魔
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/03/01 16:12
 南極は寒いな。


 当たり前すぎてかえって間抜けに響く感想を呟きながら、戦堂新志(せんどう あらし)は輸送船のタラップを降りた。ペンギンに出会ったり、南極近くのデセプション島で海岸近くの温泉を掘ったりする休日のレクリエーションが今からひそかな楽しみではあったが、まず、着任の手続きと挨拶だ。

「ここが、南極か」

 背中に負う荷物を吊り下げながら長い船旅から、ようやく地面に足をつける。
 男性ゆえか、荷物は少ない。僅かな私物と着替えの衣服程度。……ただ、彼、戦堂新志がどの国出身であるのか無言のうちに、雄弁に語る武器が背に負う荷物の中には存在している。

 独自の文化を持つ弓国にしか見られない、僅かに反りの入った『太刀』。それも尋常な長さではない。全長209.1センチメートルもの全長を誇る鋼鉄の利器。並みの体躯では持ち上げ振るうことすら困難な大太刀であった。その白刃を納める鞘には降魔調伏の梵字がびっしりと彫り刻まれている。
 そして、そんな大太刀を背に負う男も、また並々ならぬ体躯の持ち主だった。時折、視線が周囲から突き刺さる。華美な美しさではないが、どことなく華のある雰囲気を持っていた。
 顔の造形は、際立って優れているわけではないが精悍さと稚気が同居している。両腕は過度の鍛錬によるものか、特に力を込めずとも力瘤が膨れている、その腕の太さから相当な膂力の持ち主であることが伺えた。
百九十を超える類稀な長身だが、横に広がった巨体ではない。細く絞まった体はまるで鉄柱の如き分厚い存在感を放っていた。彼の出身である弓国や海を挟んだ華帝国風の言い回しをするなら虎体狼腰と称される、力と敏捷に優れた戦士の肉体だ。万人が見ても威風堂々たる美丈夫であると頷くだろう。
 彼は他の仲間達と共に受付に整列する。港の入り口では数十名の各国の士官達がこの南極へとやってきた食い詰め者の志願兵達を値踏みするかのような笑顔を浮かべていた。

「さすが、国際色豊かな場所だわなぁ」

 感心したように視線を斜め上に向ければ、南極に軍を派遣している国家の旗がいくつも雄雄しく翻っていた。彼の故国である、長の鎖国をようやく終えた大きな鉄鋼資源と高度な技術力を有する弓国、産業革命で大いに機械文明を発達させた西欧のデュガン連邦、デュガン連邦から独立したインディアンと開拓の国であるアメリア精霊合唱国、世界最大級の膨大な人口と国力を有する巨大国家である華帝国。
 雑多な人種の坩堝であるここ南極は――まるで世界の縮図。
 そして世界の全てが総力を挙げて監視しなければならない奈落門がある場所でもあった。
 視界の遥か彼方に目をやる。南極点――そこは遥か地平の彼方に位置する場所であり、かつて大勢の探検家が挑み、破れ、そして帰還をもぎ取った場所でもあった。だが、今は栄光の足跡よりも強く印象に残るものが存在する。
 南極点を中心に広がる氷で出来た巨大な雪華。南極点より遥か彼方に位置する海岸の港からでもはっきりと目視できるほどの美しく、異様で危険な存在。
 かつての数十年前の『大戦』の折、南極深くから湧き出る『魔』を『奈落門』ごと封じるために英雄スピードガールによって放たれた極大魔術『氷結地獄の復活(コキュートス・リメイク)』の爆心地。その氷の花が咲く――うつくしくおそろしい大地が遠方に広がっていた。




『弓国出身の方はこちらにお並びください』

 港の一角にある大きい施設の中で数名の係員達が受付を行っている。聞こえてくるのはAIによる合成音声だが、いらっしゃーい、と歯をむき出しにして笑うのは全身を筋肉で覆ったむくつけのおっさん、本職の軍人ばかりだ。今回新しく南極を守護する防人前衛(サキモリ・ヴァンガード)の志願兵としてこの南極基地にやってきたのはおおよそ五百名程度。

 食い詰めたものや、脛に傷を持つものがやってくる場合がほとんどだ。命の危険は当然存在するが、しかし三年間の間は給料も出るし、任期が終わればかなりまとまった金が出る。
 とはいえ、弓国出身の志願兵はそれほど多くはない。新志を含めて五十を少し超える程度だ。それほど多くは無い列に並び、首に下げられた認識票を機械に通して、はい終わり。周りのメンツも一応促成とはいえ軍学校に叩き込まれ、見事合格した面子だけあって皆顔に自信らしきものを漲らせている。
 新志の番になり、他の連中の真似をするように認識票のコード部分をスリットに読み込ませ、刀を差し出し、鯉口を縛る組紐を解いてもらう。
 読み込み用スリットはPCに接続されており、係員が顔写真を確認し、確認終了のデータを打ち込んで終了のはずなのだが……係員の男性は表示されたデータに一瞬呼吸を忘れて、ディスプレイと新志の顔を往復させる。

「……戦堂新志?」
「ういっす」
「……十二歳の時にご父君と一緒に、陛下の御前で天覧試合に出た?」
「六年前の事なんてよく知ってますね。……此処じゃ内密で頼んますよ」
「……言っちゃ何だが……なんでこんなところに来たんだ?」
「ははっ。……そいつは家庭の事情という奴で。……もういいですか?」

 後ろにちらりと視線をやれば、怖いお兄さんが剣呑な視線を向けてくる。係員が言葉に詰まりながらも『あ、ああ』と答えれば、新志は一般人なら震え上がるような凶相から放たれる志願兵達の目線に対してにこやかに笑いながら手を振って去っていった。

 手荷物と刀の重みを確かめる。

 新志は吐く息が白く濁る、南極の白い大地に目をやる。
 剣術は好きだった。孤児だった自分を引き取り、剣の道を教えてくれた養父には感謝している。だがやはりあの家は自分がいるべき場所では無いと思う。自分のことを忘れて、兄上も姉上も幸せになってくださるといいのだが。そう考えて、息と共に呟く。

「さ、やるぞ。怪物どんとこいだ」

 そんな彼の呟きが聞こえたわけでは、まさか――無いだろうが。
 建物を出て、支給される防寒具に身を包んだ新志は、遠雷の如く遠くで響いていたジェットエンジンの排気音が徐々に近づいてくるのを感じた。
 何事だろうか? とその他大勢と一緒に視線を向ければ、一機の攻撃機がこちらへと接近してくる。南極で『奈落門』から出現し、侵攻してくる『獣魔』を迎撃するための戦闘部隊。その戦線の穴埋めなどの為に爆撃を投下する戦闘機。
 ただし、問題は戦闘機が煙を吹き、翼の下に異形の怪物がへばりついているという事か。
 一見してそれは蜘蛛と呼ぶに相応しい形状をしていた。計六本の巨大な足、三つの節に分かれた体躯、血のような紅玉の複眼――問題はそいつが象並みのサイズと、蟹のような巨大な鋏に、毒針と思しきものを先端に備えたサソリの尾を持っているということだった。普通の生命では決してありえない、恐らく南極大陸の深い氷の中で押し込められていた『魔』の眷属である怪物の一匹。
 すでに戦闘機の主翼部分は大破しており、煙が吹き上がっている。周囲の兵士達の叫びが聞こえた。意味までは理解できないが、言葉に押し込められた絶望の響きだけははっきりと理解できた。

 落ちるぞー! と誰かが叫ぶ。

 次の瞬間、腹に響くような重低音と共に戦闘機が地面へと叩きつけられた。

「どわっ……!」

 衝撃と爆発炎上による熱風――距離が離れていたから破片の巻き添えになるような事は無かったが、大変な事であるのは間違いない。
 戦場に来ることを決断したのは新志自身だが、それにしたって早すぎる。南極で更に数ヶ月の促成訓練の後で晴れて初陣となるはずが、初日からこれだ。ははは、いいじゃないか――自然と口元が笑みに歪む。自分が危険地帯の只中にいるということを改めて自覚した。
 地面に着地した獣魔――その周囲から悲鳴が湧き上がる。
 獣魔が蟹の鋏に似た腕を振り回すたびに、施設、建築物、人間、その全てが区別なく切断されていく。吹き上がる鮮血は南極の冷気によって地面に滴ると同時にすぐに凍りついた。その様子がどうにも現実感を削り落す。まるで目覚めながらスプラッタな悪夢の中に放り込まれてしまったようだ。

「下がれ下がれ下がれ! 死にたくなければ走るんだ!!」
「畜生、こんな所に怪物の宅急便かよ……!」

 その場にいた受付の軍人達が、志願兵達を先導しようとする。それに代わるように武装を持った兵士達が姿を現すが、明らかに力不足だった。
 魔腕が旋回するたびに――まるでばね仕掛けのおもちゃのように人の首が跳ね跳んでいく。
 今回の防人前衛(サキモリヴァンガード)には食い詰めた犯罪者や傭兵なども存在していただろう。恐らくそう言った輩に対応する意味で銃器を用意していたはずだ。だがそれはあくまで人間を想定して用意しているもの。
 そして獣魔に対して有効なものはアサルトライフルでは無くガトリングガン、手榴弾では無くグレネードランチャーやナパームだ。余りにも火力が脆弱すぎる。
 数名の軍人達が新人を逃がすために腰につりさげたサブマシンガンの引き金を引く。恐らく技量も相当なものなのだろう。相手の関節部分に集弾する技術は鉄砲に関しては素人である新志から見ても相当なものだ。
 だがどれだけ銃弾を浴びせようとも獣魔の再生能力は撃ち込まれた鉄量の破壊力をやすやすと越える。彼らも己の仕事が単純な時間稼ぎである事を理解しているのだろう。無理はせず注意をひきつける事に専念していた。

「……南極に来ていきなりか、いいじゃないか」

 新志は国元から持ってきた私物の刀を構えた。抜刀――その壮絶な腕力で振り抜いた。勢いに引かれて遠心力に引かれた鞘は明後日の方向に吹き飛んでいく。志願して此処にきたその辺のおっさんの脳天を直撃しかけたがもちろん新志は気にしなかった。している暇がなかった。

 柄のうちに収められた刃があらわになる。
 無銘ながらも業物。好き好んで死地に向かった義理の息子に対する最後の親心。鍛え上げられた凶剛鋭利なひかり。名刀利剣の威風を纏った堂々たる白刃が陽光の元に晒される。

 構え、振る――そして殺気を、貴様を斬るという抹殺の意思を飛ばす。

 効果は覿面だった。殺戮に夢中になり、逃げる時間を稼ごうとしていた軍人に襲い掛かっていた獣魔は一瞬静止し――まるで脅威の高い順から抹殺するつもりになったように、次の瞬間にはその脚をたわめて跳躍していた。
 刹那、視界が暗くなる。新志は相手が自分に狙いを定めたのだと気付いた。
 次の瞬間には間接から黒い剛毛を生やした蜘蛛モドキの怪物が眼前に着地していた。その赤い目、鮮血を思わせる複眼がぎょろりと不気味に蠢き新志を正面から見据える。そこには人間に理解できる意思らしきものは無い。ただただ、機械的に敵対する人間を戮殺する、不条理で、不気味で、不快な、おぞましき意志があった。
 前肢の巨腕に備えられた、蟹に似た鋏が動く。
 甲殻類の鋏のような、獲物を挟んで捕まえる為の鋏ではない。その刃は人間が練鍛した刀剣類と遜色ない凶器の輝きを有していた。捕獲ではなく惨殺、悪しき目的に特化した怪物のそれが眼前の獲物である新志を挟んで、ぶちりと上肢と下肢に両断するべく繰り出された。
『魔』の怪物にとっては眼前の矮小な人間が殺傷されることは既に確定事項に等しい――が、捕食でもなくただ惨殺するだけの自然の摂理から外れた怪物の一撃は――忌むべき予想を外れて、肉と骨を絶つ事無く、風斬りの音を立てて空気を挟むだけだった。
 死神の大鎌に頬を撫でさせるかのような最小限の動きで相手の一撃に空を斬らせ、反撃の為に構える。その刃の存在に、怪物はまるで怯んだように後ろへと一歩、二歩後ずさった。

 無理もない。

『魔』に対して一般的に使用される武器は、現在も発達している重火器や地上支援機からの爆撃だが、それは相手の接近を許す事無く遥か遠くからのアウトレンジ攻撃で撃退する事が可能だからだ。本来精神的な生物であるといわれる『魔』に対して有効とされるのは、銃弾よりも魔術による攻撃であり、そして刀剣による白兵戦なのである。
 銃弾は『魔』の、現実における肉体を物理的に破壊し、撃退できるが、その間、相手は強力な再生力を発揮し続ける。だが、人間がその腕に携え、振り下ろす刃に限って『魔』は人類に対しての圧倒的なアドバンテージである強力な再生能力を発揮することができない。『魔』を屠るためにもっとも重要なものは武器に込めた相手を倒そうとする意志の力であり、銃弾にはその意志の力を付加しづらいのだ。

「馬鹿、早く逃げろ!!」

 此処の現地の軍人たちがそう叫び声を張り上げるのも無理はない。怪物と人とでは隔絶した身体能力の格差があり、それを科学技術と人数で埋めて初めて互角になり得る。そんな怪物に対して、ただ大太刀一本で立ち向かうのは無謀を通り越して自殺行為ですらあった。 
 だが、大多数の予想を裏切り、再び前腕を振り上げ凶器の鋏を繰り出す『獣魔』に、新志は呆れた事に、真っ向から立ち向かい――更に呆れ果てる事に――人外の膂力に対して、人の身で正面から受け止めてみせたのである。

「……なるほど、強えぇな」

 相手の一撃を受け止める力と言い、その太刀の頑丈さと言い、十分常識の範疇を超えている。
 軍人達が囁く。すごい剣士だ、と。
 新志は、歯を剥き出しにして酷く楽しそうに笑った。びゅううぅ、と酸素を暴食し、四肢の細胞一片一片から筋力を絞りだすように力を込めて相手を押し返す。

「……だが、さっき俺の刀を見て怯んだだろう? 怯えの混じった一撃などが俺の命に届くものかよ……!」

 足を前に出し、より体勢を低く。力に正面から対抗するのでは無く、反らすように、受け流すように身を相手の鋏の下に滑り込ませる。
 下から上へ切り上げるように刃を鋏の付け根、甲殻類じみた装甲の隙間に突き入れる。瞬間、聴覚を揺さぶるかのような振動が耳朶を打った。
それが『獣魔』の苦悶の悲鳴であるのだと気付くのに一刹那。もっと悲鳴を上げろ、新志は獰猛に笑って更に刃を深く突き入れ、そのまま切り裂く。傷口が深くなるにつれ、腐敗臭と黒い鮮血が撒き散らされた。だが、苦悶の悲鳴をあげながらも、なお旺盛な抹殺の意思をあらわにし、『獣魔』はその後背にある巨大なサソリじみた尾を振り上げる。

「そんな見え見えの挙動なんぞ食らってたまるかぁぁぁ!!」

 蠍の尾の先端から毒を滴らせ繰り出されるそれを、両足をたわめ、爆発的な脚力で上空へと跳躍し、避ける。
 空中で構えを大上段へと変化。落下の自重と腕力の全てを叩きつけ、蠍の尾を両断し――それでも爆発的な斬撃の威力は止まる事を知らず、相手の胴体に半ばまで刃が食い込む。
 さらに上がる振動に似た悲鳴。絶叫の凄まじさは先程の比では無い。効いているな、笑みを深くし、そのまま新志は両腕の力に全力を込め、そのまま相手の腹をかっさばき、後ろへ跳んで距離を置いた。傷口からどこにこんな大量の血を体に蓄えていたのか疑問に思うような膨大な量の黒い血を流し、怪物は跳躍する力も失ったのか血溜まりの中でじたばたと足掻く。

「よぉーしよしよし、ちゃんと効くじゃないか……」 

 これまで修練してきた技術は南極の怪物達にも通用した。その事に満足の笑みを浮かべる。
 周囲からは相手にとどめを刺すべく正規の部隊が重火器を構えたまま姿を現しており、処理に関しては自分がこれ以上でしゃばる必要もないのだろう。安堵の息を漏らし、新志は、自分の肉体が緊張していた事をようやく思い出したように、尻餅を付いた。



[15960] 一番勝負後の顛末その1
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 14:13
 薄暗い部屋の中、一人の人間がディスプレイの前に立っている。
 その人物は、外見がどこをどう見ても可憐な少女の装いをしており、それが見事なまでに似合っているにも関わらず、実際に生まれ持った性別が男性であった。
 黒瑪瑙の目、柔らかに波打つ短めの黒髪、百五十程度の小柄な体躯をフリルの沢山付いた黒いゴシックドレスで覆う姿。十代ほどの年頃だろうか。彼は人々の目を引き付ける類稀な女性的美しさを兼ね備えていたが、生憎と瞳に写る色だけがその可憐な外見を裏切っていた。
 子供に見えてその実、目に宿る光は老獪な政治家のようであり、百戦錬磨の傭兵を思わせるふてぶてしさがある。少なくとも唯の子供とは呼べない、底知れない深さを称えた瞳の持ち主であった。

「……いやはや、驚いたね、これは」

 二次性徴もまだと思われる甲高い声にはありありと呆れと賛嘆の念が混じっていた。
 ディスプレイに写る光景。戦闘機に引っかかり、志願兵達の受付会場近くに落下した『獣魔』がどのように撃破されたのか、その詳細が映像には記憶されていた。その青年、戦堂新志が怪物に刃を突き立て打ち倒す場面で映像は終わり、薄暗い部屋に明かりが灯る。

「このまま危うく魔力という稀な資質を持つ人間を、一兵士として使い潰す所だった訳だ。危ない危ない」
『女性の魔力保有者が一万四千分の一という確立に対し、男性の魔力保有者は十億三千二百万分の一といわれています。男性の志願兵にチェックをする事は予算の面から考慮しても、ロスが大きすぎます』

 周囲の音声出力装置から聞こえてくる声。感情の揺れが感じられない言葉遣いから一種の人工知能からの言葉であると知れるだろう。
 女装の美少年は、くっ、と口元を楽しげに歪ませると頷いた。

「確かに。……否定する要素はないね。まぁ、弓国出身の魔力保有者は僕と彼で、公式に確認されているのはまだ二人しかいないのだけど。偶然なのかどうかは此れからだね……しかし、面白い経歴だ」

 楽しそうに呟く。

「……人対人ではなく、人対人外を想定した斬魔剣の系譜を源流とする戦堂一倒流に引き取られた孤児。それも次期当主と目された人が何で約束された栄耀栄華を捨てて志願兵なんかになったかは知らないけども……良いね。彼をこっちに引き込めば、我等が麗しき最精鋭、男装美少女達のためのもう一つの目的にも沿うことになる。……〈ジーニアス〉、今、彼は?」
『南極から、防人前衛(サキモリヴァンガード)弓国支部に転属処理が行われています。今頃はすでに帰国しているでしょう』
「……家出同然に弓国を出て三年間の軍属を覚悟した直後に、いきなり帰国だ。……さぞ、面食らっているだろうね」

 言葉の内容は同情でも、浮かぶ表情はまるで性質の悪い悪戯を仕掛けた悪童そのもの。女装美少年はくすくすと笑い声を漏らす。

「さぁ、早いところ迎えを寄越さないとね。……きっと彼、今頃もやもやしているよ」




「……おっかしいなぁ」

 どこかの誰かの予想通り、戦堂新志はもやもやしていた。
 そもそも、自分を育ててくれた戦堂の家には当主である父以外の誰にも志願兵として南極で怪物と戦うなど言わずに急いで出立した。きっと今頃兄上姉上は怒り心頭に達しているに違いない。
 ……その怒りから逃れる意味もあった。南極で三年間軍属として過ごせば、そう簡単には家族達も追ってはこられない。今から三年間、地道に働いていけば自分を育ててくれた戦堂の家に養育費纏めて返すぐらいの金は溜まる。そうすれば、晴れてあの家から自分の存在を抹消できるのだ。
 お金も欲しいし、家族から距離も置きたい。
 ……そのための南極の防人前衛に志願兵として参加した。
 その予想が大幅に狂ったのは到着直後からだ。勝手に戦ったことに多少怒りの言葉はあるだろう。トイレ掃除ぐらい命令されるかもしれない。とはいえ、自分は命を拾ったし結果的に被害を防いだ――まぁ功罪相殺で褒章も刑罰も無し……だといいなぁ、と考えていたのだがその後が予想外だった。
 すぐさま南極防人前衛の医療施設に叩き込まれ、なにやら訳のわからない機械に掛けられ白衣を着た科学者と思しき連中にいろいろ調べられたのである。

 新志は疑問に思った。かつての大戦時、人類艦隊の包囲を逃れた魔軍の首魁とも言うべき『暴悪』『嘲笑』『邪智』を司る三体の『魔元帥』によって生み出された『将魔』は、存在そのものを呪詛し現代医学では回復困難なダメージを与える霊的猛毒を発すると聞いたことがあり、自分もその毒を受けたのかと首を傾げた。一般知識としてそれに対抗できるのは国連の魔術師軍(メイガスフォース)のみ、とも聞いていた。
 しかし、聞けばどうやらそうではないらしい。そういった『将魔』は南極では確認されておらず、新志が戦ったのは中級獣魔。霊的猛毒の心配など無いと言う。
 ……とすれば、ますます訳がわからなかった。体の調査と並行して自分の処遇について雲上人とも言うべきお偉いさんが相談していたらしく、結果新志はそのまま弓国の防人艦隊支部へと転属を命令され、再び自分の体の更なる調査のための待機を命令されたのである。

「……訳分からん」

 新志は一人、自分にあてがわれた最低限の家具しかない殺風景な部屋の中で呟いた。
 軍隊生活という奴にこれでも新志は漫然とした憧れを抱いていたのである。凶相の同僚と寿司詰めにされながら鬼気迫る雰囲気の中食事をし、その最中で些細な事で乱闘になり、賭けポーカーをやっていかさまが見抜かれ乱闘になり、やれお前の面がまずいと乱闘になり、何でも良いから乱闘になり――とかそういう人生を期待していたのだ。いささか偏っているが。

 三度の飯より喧嘩とか勝負とかそういう事を愛している男なのであった。

 そんな理想の(?)生活に比べてこの研究施設は大変面白くなかった。何せ身の回りの世話をしてくれるのはみんな看護婦の女性の方達だ。荒くれ男が相手なら喧嘩を売ったり買ったり気兼ねなくやれるが、かよわい女性が相手ではそうはいかない。
 早く南極に戻してくれと言っても、何故か給料もちゃんと振り込まれている事を示されたため、雇用主に対して強く出る事が出来なかったのである。これが自分を虐待しているとかなら良心の呵責無く力尽くで脱出するなどが出来ただろうが、相手は雇用主としての義務をちゃんと果たしている。待遇もいいし飯も旨かったので、まさか『ケンカできない』という理由で文句など言える訳もなく日々の習慣であった筋トレに耽る日々を送るしかなかったのだ。

 そんな訳で。
 その日は延々と続くかと思われた退屈な今までと、かなり違っていた。

 ある日、唐突に突然にガチャリと扉が開いたのである。

「御免。失礼するよ新志ってうわキャアアァァァァァァァァァ!」
「いきなり入ってくんな! びっくりしたのは俺の方よ!」

 上半身素っ裸のまま腹ごなしに腹筋を千回行っている最中に扉が開き、中にいきなり入ってきた美少年がやけに甲高い悲鳴を上げた。そんな相手に対して新志は大声で応対しながらいやそうに眉を寄せた。
 何もかも突然すぎる展開に新志は腹筋をやめて呆れたように相手を見る。娯楽に乏しいこの研究施設ではやることが無い。暇で死にそうだったのも手伝って、いい機会だったから一日中全てを基礎的なトレーニングに費やすことは職員の人に言っておいたはずなのだが。新志はとりあえず起き上がり、タオルで練磨の汗を拭いながら尋ねる。

「……イキナリ入って来られて大変驚いたのはまぁこの際だから別に良いけど。……あんた、どこの誰よ」
「……むぅ?」

 至極まともな質問であるにも関わらず、不満そうに唇を尖らせる相手。視線は刺すように険しい。……とりあえず相手を観察する。いやに長いまつ毛の紅顔の美少年。新志と同じ弓国出身なのだろう、鴉の濡れ羽色の艶やかな黒髪を三つ編みにして背に束ね、その身を詰襟の軍服で覆っている。身長は男性としてはそれほど高くない。目測で百六十二センチと言った所か。体形までは分からないが俊敏そうだ。惜しむらくは体格だな、膂力に悩んでいそうだ。喧嘩好きの目線でそんなことを考えつつ、新志は服を着込んでいく。

 なぜだか顔を真っ赤にしたその美少年は部屋の隅ですーはー、すーはーと呼吸を整えていた。こちらを振り向く。何故か唇をかみ締め、睨み付けてきた。恨みがましげな視線に思わず怯む。

「……覚えていないのか」
「そもそも会った事あったっけ?」

 新志としては一体どうしろと質問したい気持ちだった。突然やってきて女性みたいな悲鳴を上げられ、先程から呪殺すると言わんばかりの怒りのこもった視線を向けられているのだ。

「なんで、なんで覚えていないんだ……ぼ、ボクは君の事忘れたことなんて無かったのに!」

 キッと、新志を睨む美少年。瞳の端に涙の粒が浮かんでいる。
 新志は、な、なぜ泣く、と呟いた。

「……ヒントをくれ」
「二年十一ヵ月二十四日! そこからずっと会っていないが――『絶対に忘れないから』と恥ずかしい言葉をのたまったくせに……! 実際に会ってみればそれか、この薄情者!!」

 ほぼ三年前? 新志は、ああ、と手を叩いた。三年前といえば、そう。また同時に仲の良かった親戚が、特殊な資質を軍に認められて徴兵されたのと同時期だ。その名前は――

「土蔵 珊瑚(つちくら さんご)か」
「遅いよ馬鹿!!」

 本当に不機嫌そうに瞳を怒らせる彼――懐かしさに新志は思わず頬を緩ませた。
 孤児院から引き取られた家の先。将軍家ご指南役の戦堂の家の親戚で出会った同年代の数少ない友人。一緒にいる時間が一番多かったのは兄と姉を除けば愛用の木刀と、仲のいい彼、珊瑚だった。
 新志は思わず両腕を広げて抱き締める。あまりの懐かしさに反射的に胸元へ抱き寄せ、背をぽんぽんと叩く。相手の背が低いので頭を抱えるような形になった。

「はは、懐かしいなぁ、サンゴ! こうやって会うのも三年ぶりか! 悪い悪い、気づいてやれなかった!」
「ふぇッー――……! い、良いから離せ、馬鹿!!」

 どん、と些か乱暴に新志の胸板を突き飛ばす珊瑚だったが、突き飛ばされた方はまるで気にした様子も無くからからと笑っている。

「あ、汗臭い、汗臭いぞ。……お、男臭くて、鼻が、ま、曲がりそうだ」
「そういうお前は相変わらずちっこいなぁ。ちゃんと飯食ってるのか? ……じゃ、ま、シャワーでも浴びてくるかね。客人を迎えるのにこんな格好じゃ悪いし」

 何故か顔を茹蛸のように真っ赤にしながら――羞恥によるものなのか、俯く珊瑚。
新志はなんで恥ずかしがるんだこいつ? と首を傾げたものの言葉通り、部屋に据え付けられたシャワールームでざっと汗を洗い流す。そして支給されていた軍服に着替えて再び部屋に戻った。
 珊瑚は先程からずっと顔を真っ赤にしたまま『あ、あんなにたくましいなんて……』とか呟いていたが、新志はさして気にしていない。俯いたままの珊瑚ではあったが、新志はさて、と居住いをただし、一個しかない椅子に相手を座らせ自分自身は低めのベッドに腰掛ける。男性として小柄な部類の珊瑚と類稀な長身の新志。身長差ゆえに目線はそれでも同じぐらいの高さだった。

「さてと。……旧交を温めに来ただけ――って訳じゃないよな? サンゴ、お前が来たのは一体何の用件なんだ?」
「あ、うん。……そう。ボクが来たのは――キミを迎えに来たんだ」
「迎えに? ……どこへ。俺の所属は南極防人前衛だぜ。……お前は確か、国連の魔術師軍(メイガスフォース)に所属しているんじゃなかったのか?」

 珊瑚の言葉に首を捻る新志。
 当時、十四歳という成人年齢を大幅に下回る若年で徴兵されたのは、彼が一万四千分の一と言う宝くじ並みの確立で発現する魔力という特異な資質を会得していたからだ。一応志願制という形を取ってはいるものの、その能力の希少性故に実際は強制に近いものだと言われている。だが、珊瑚は自分の意思で志願した。彼の妹が当時重病を患っており、治療には多くのお金が必要で、歳若い子供を戦場に立たせる代償として支給される膨大な給料がどうしても必要だったのだ。だが彼らは所謂エリート部隊であり、南極で鼻水を凍らせながら戦う自分ら南極防人前衛とは違うはず。
 新志のそんな疑問は恐らく想像の範疇だったのだろう。こくり、頷く珊瑚。

「南極防人前衛に、魔術師軍から正式に要請が来ました。本日13:00を持ちまして、戦堂新志は防人前衛から魔術師軍に移籍となります。拒絶は認められません」
「……なぬ?」

 新志は思わず唖然とした表情で聞き返した。

「先日、獣魔を南極で倒したよね?」
「あ? ああ」
「……いい? 普通は勝てない。パワーアシストアーマーの補助もなく、あんなものに生身で勝てないんだ。それこそ魔術師としての資質に恵まれでもしない限り。……あの獣魔、それまでにかなりの被害を出したタイプだったけど、キミが独力で撃破した」
「とってもがんばりました」
「その後数日の調査の結果、キミが魔力を保有している事が明らかになったんだ」
「……俺としてはどう考えてもただの筋肉の力で倒したようにしか思えねぇんだけど。俺、魔力なんか使ったか?」

 新志は思わず眉間に眉を寄せる。

「……しかし、なぁ。魔力と言うと、あの魔力?」
「うん」
「……南極で『氷結地獄の復活』でもって獣魔の巣を凍結させたあの伝説の魔術師、スピードガールと同じ?」
「うんうん」
「お前も一万四千分の一の確率に当たって、俺も一万四千分の一の確率に当たったって……知り合い同士が当たるなんて凄い確率だな」

 本当はそれよりも遥かに凄まじく低い確率なのだが、珊瑚は黙っておくことにした。
 新志は言葉の内容を理解したのか、眉間に皺を刻みながらも、言葉を吐き出す。

「……一万四千分の一×一万四千分の一の確立ねぇ」
「ボ、ボクとキミは、それだけ深い絆で結ばれているって事なんじゃないかな。……まさか、ボクと一緒にいるのは嫌なんて言うんじゃないだろうね?」
「いや……俺は」

 新志は言葉を切った。不意に表情に哀愁が漂う。普段は悪餓鬼じみた表情の多い男ではあったが、立ち振る舞いに気を付ければ十分堂々たる美男子で通る。そんな彼の横顔を見て何故か顔を真っ赤にし、あー、とか、うー、とか呻いている珊瑚。そういう反応をしている三年来の親友に気付かず新志は溜息混じりに息を吐いた。

「……どっちかというと、富札(宝くじ)に当たりたかったなぁ」
「…………」

 珊瑚は正座したままの新志の頭に、無言で手刀を入れた。


 
 魔術師軍(メイガスフォース)が設立されることになったそもそもの発端――南極に出現した奈落門と称されるそれが発見されたことが直接的な原因であった。
 それは南極に狙ったかのように落下した彗星による。
 1921年6月に制定された南極条約により、何処の領土でもないとされた南極ではあったが、墜落した隕石の調査の調査隊を派遣し――そこで南極独特に起きた異常を世界は知った。
 まるで墜落した隕石によって地獄の門が開いたかのように、獰猛にして危険な現地生物――長い間過酷な自然環境にあった事で人跡未踏の地とされてきたそこは、生物学上有り得ないと断言できるような異形の巣へと変貌を遂げていたのである。

 人類は共通の敵を得た。

 ――それはある意味では幸いだったかもしれない。共通の敵を得ることで人類はそれぞれの版図を奪い合う不毛な戦争の時代を継続することの愚を悟ったのだから。
 デュガン連邦、華帝国、アメリア精霊合唱国、そしてこの危急の事態に鎖国を止めた弓国は海を渡り侵攻を始める怪物達――『魔』と称された彼らを撃滅するために戦力を南極へと差し向けたのである。
 苛烈な戦い、多大な流血、そして彼らの巣と思しき――地球の中心核へと落ちていくような大穴は、極大氷結魔術『氷結地獄の復活(コキュートス・リメイク)』により閉じられた。それ以来、南極には各国の出した精兵により徹底した監視下にある。


 その南極監視のための志願兵として入隊するはずであった新志は、一転した自分の運命に呆然と佇むしか出来ることが無かった。
 弓国首都である統京(とうきょう)から飛行機で二時間のフライト。そう言われて新志が到着したのは大海原に浮かぶ人工島。上から見ればいびつなひし形に見える、かなりの大きさを持つ島だ。

「……何ともまぁ、ごつい眺めじゃないか」

 新志は呟く。呟くしかなかった。人工島らしくコンクリートで固められた湾岸がいささか無粋だが、あちこちには濃い緑が生い茂っており、海岸近くには平坦に整えられた芝生、見渡す向こう側には頑丈そうな施設がいくつも並んでいる。
 着陸した飛行機からタラップを伝って降りれば濃い磯の香りが鼻腔をくすぐった。青々とした海は陽光を孕んで輝き、波が真珠を並べたかのように美しく輝いていた。
 二人が降りた飛行機はそのままゆっくりと整備用の格納庫へ。その整備に携わるのは驚いたことに自動工作機械のみのようだった。どうやら機械の整備、修復などの雑事はAI制御される工作機械がすべて賄うらしい。
 このご時勢、工作機械一台を購入するより人を雇った方が安上がりな事は間違いない。何でわざわざ、と近くを通り過ぎる弓国の企業の八柴製を示すロゴをつけた清掃機械を見ながらそんな感想を抱く。
 その時、遠方から、耳に飛び込んでくる轟音に思わず目をやる新志。

「……うはぁ、すっげぇなぁ、あれ」

 流石に声に驚きの色を込めて呟く。
 魔術師軍の戦士は数こそ少ないものの、その特性から火力砲台と高速機兵と重装歩兵という背反する要素全てを高いレベルで両立させることができる最強の兵科であり、また同時に魔術はその攻撃に『意志』を乗せやすく、南極に出現するような怪物に再生力を発揮させないことから『魔』に対する特攻的な戦力でもある。そんな彼らの練習風景なのだろう。視界の遥か彼方では、爆炎が吹き上がり爆音が響き渡り青白い紫雷が走り雷の轟音が炸裂する。

「あ、迎えが来たよ。行こう、新志」
「ああ」

 頷いて珊瑚と一緒に迎えに来た車に乗り込んだ。運転手はいない。どうやらこれも一種のロボットカーらしい。とことんハイテクだな、旧弊な実家とは大違いだ、そんな感想を抱く。椅子に座ると不意に車内に据え付けられていたテレビ画面が映る。浮かび上がるのは女性らしきシルエット。人工知性が会話の際に表示させるものだ。

『初めまして、戦堂新志さん。私はこの人工島の制御管理を行う統括AIである〈ジーニアス〉と申します。ようこそ、魔術師軍へ。我々は貴方を歓迎します』
「……こ、こちらこそ」

 決められた反応をプログラム通り返すだけのものと違い実際に人格を持つ機械知性体は有機的な印象がある。一体どういうものなのかと質問されれば、俺は頭が悪いと常日頃から自覚する新志は上手く答える事が出来ないが、そのしゃべり方、言葉の選び方に何処と無く味があると思った。目の前のそれからも機械には出せない温かみを感じるのだ。かなりの高性能とあたりをつける。

『発車いたします、よろしいですか?』
「うん、お願い、〈ジーニアス〉」

 人工知能の操縦は教本に乗るぐらいに丁寧だった。
 そのまま車を走らせ数分。新志は目指すべきその施設の前に立ち――同時に眉間に皺を寄せて首を捻る。

「……学校? ……学校なの。ここ」

 日本の寺小屋などとは違う、西洋風の建築で建てられた建物。陽光をふんだんに取り入れた大きな四階近くはある学び屋。だが見かけは古風でも中は総鉄筋コンクリート製なのだろう、見かけより遥かに頑丈そうだった。

「学びながら戦闘に従事する。それが魔術師軍の基本形だよ。……南極の奈落門は四カ国艦隊が厳重に警備しているけど、大戦の折に人類社会に身を隠した三体の『魔元帥』は未だに撃破が確認されていないからね。……彼らの眷属に対して通常戦力じゃ歯が立たない。ボクらは実戦と座学で実力を磨かなきゃならないんだ」
「そんな生活をもう三年近くか。……はは、凄いじゃないか、サンゴ」
「撫でるな! ボ、ボクはもう子供じゃないのに……」

 ぽふぽふ、さわり心地の良い髪を撫でたら噛み付くような勢いで睨みつけられたので新志は手を素直に引っ込める。
 校舎に足を踏み入れ、歩き始める両名。中に入ってみれば、辺りから聞こえてくるのは座学を教習する生徒達の質疑応答と、恐らく先程新志に挨拶した人工知能である〈ジーニアス〉の返答の声が聞こえている。

「……とことん、自動化が進んでいるんだな」

 歩く際にちらりと中を見やれば、珊瑚と同様の詰襟の制服を着込んだ男子生徒達が熱心に授業内容を聞いて、勉強していた。
 授業でどれほどの知識を吸収し、実戦に生かせるかが生死に直結するだけあって聞き逃すような人はいないのだろう。そうそう見られない熱意の炎が全員の瞳に宿っていた。

(しかし、整備員のみならず、魔術師の卵たちに教える教師役すら機械で補うのか。……人を使えない理由でもあるのか?)

 首を捻りながらも前を進もうとした新志は、不意に自分の横顔に山のような視線が突き刺さっている事に気づいた。
 新志を見ている。男性のみで編成された魔術師軍、その中に同じような新規生が入っただけの有り触れた話のはずなのに、まるで珍妙な動物を見つけたように教室内にいた全ての生徒達の視線が新志に集中していた。目にあるのは悪意では無いが、かといって好意的に受け入れてくれているようにも見えない。まるで新たに入ってきた異分子を見るよう。

『皆さん、学習に集中してください』

 教師役を行っているジーニアスの声に弾かれたように眼を伏せ、集中する彼ら。だが表面上は学習に戻ってもちらちらとこちらの様子を窺っているのは変わらず、意識が新志に向いているのがはっきりと分かった。

「新志、……屋上に行こう」
「お、おい」

 まるで親友を耳目に晒し続ける事を嫌がるように手をむんずと掴み、無理やり引っ張る珊瑚。
 新志の返答など聞いていないというような頑なな背中、これから何処に行けばいいのか分からず、しかも案内してくれるのは珊瑚だけなので手を離すわけにはいかない。階段を駆け上がるように進んでいき、あけ放たれた屋上へと出る。
 扉を開ければ、ここにも海の匂いが濃い。風が新志の短く刈りあげた前髪を揺らす。
 珊瑚は手すりのある場所までとことこと歩き、振り向いた。先ほどまでとは違う、目に浮かぶ真摯な色、きりりと引き締めた口元に、何か大切な事を言い出すつもりなのだと察する。ああ、懐かしいな、新志は場違いな感想を抱いた。三年前も、彼は自分のうちに秘められた資質を認められ、魔術師軍に従軍することを告げたのである。誰にも相談せず、自分一人で。
 頑なとも言える決意の硬さ――三年来の友人が見せるその表情に、やはり変わっていないな、と改めて実感させられる。

「……君も気づいていると思うけど……」
「あ? ああ」

 正直何のことか分からぬまま適当な生返事を返す新志。間に言葉を挟む事を躊躇われるような空気、黙って先を促す。
 珊瑚は、意を決したように、覚悟したように口を開いた。

「……何故、女の子のボクが男子のみの軍学校で男の恰好をして生活しているか疑問だろうけども……」

 なぬ? と新志の声が漏れたが、小さな声だったのでそれは珊瑚には届かない。

「新志――今までボクはこの男性しかいない魔術師軍に所属している間、ひと時も気の休まる暇が無かった。だから、この凄い偶然で君が僕と同じ場所に来た事が本当に助かるんだ。妹の治療費もここでなら簡単に稼ぐことができる。……このまま僕の性別を隠すのを手伝って欲しいんだ」

 戦堂新志は、その言葉にかすかに目を伏せる。

「珊瑚……俺は、お前に、ずっと昔から思っていた事を言わなきゃならない。聞いてくれるか?」
「ふぇ?」

 土倉珊瑚は、三年越しの親友のその言葉に素っ頓狂な声を漏らした。
 そんな予定では無かったと言わんばかりに両腕をバタバタさせて、後ろに後ずさる。相手の真剣な顔立ちに、やばい、格好良い、と口の中で言葉をもごもごさせながら、頬が紅潮している事を自覚する


「俺は――子供の頃から……ずっと、そう、ずっと、お前の事を……」

 土倉珊瑚は耳元に引っ越してきたような心臓の鼓動音に慌てふためく。
 異様に真剣な表情を見せる子供の頃からの親友であった新志――そう思っていた相手と直接言葉を交わさなくなってから早三年。珊瑚は、その間に自然と仲の良かった幼馴染に対する感情が親友に対するものではなく、れっきとした異性に対するものに移り変わった事には、かすかな驚きはあったものの、素直に受け入れる事が出来た。

(馬鹿で脳筋な奴だけど……悪い奴じゃないし……それに、実は格好良いし……えへへ……)

 後ろを向く。真っ赤な顔を見られたくない。心音の鼓動が体の動きを支配しているような、不思議と心地よい感覚。今から相手に告げられる言葉を想像するだけで珊瑚は喜びのあまり無い胸がはち切れそうになってしまう。どきどきどきどき、ああ心音がやかましい、心臓止まればいいのに。死ぬような事を考えながら珊瑚は相手の告白の言葉を受け入れるべく、目を閉じて息を整え――さあぁこい、告白! と気合いを入れて振り向き、新志を見た。



 いない。



「……あれ?」

 いや――いなくなった訳ではなかった。
 いなくなった訳ではなかったが――その新志の様子に珊瑚の頭の中はますます混乱する。……思わず、恐る恐ると言った様子で、想像の斜め上を行く奇怪な体勢を取る新志に、尋ねた。尋ねずにはいられなかった。




「……あの、新志……な ん で 土 下 座 し て い る の?」




 そう、土下座。
 屋上に膝を折り曲げ、姿勢をただし、三つ指を突いて額を床に擦り付ける姿勢。
 それこそ諸外国の使者に『そんな侮辱的な姿勢など出来るか』と突っぱねられ続け、百年ほど前に廃止された姿勢であり――弓国に置いては最大級の謝罪の意を示す礼儀作法として知られているそれを――新志は実行していたのである。それこそ理不尽な命令であれば今上陛下の命であろうとも命懸けで断るような――命よりも信念こそもっとも優先するべきことであると言葉でなく行動で語るような硬骨漢である彼が。


 違う。


 珊瑚もそろそろ両者の間に存在する決定的な誤解を理解しつつあった。二人の感情の温度差を理解しつつあった。
 これは、三年来の異性の親友同士が、子供の頃から恋愛の感情を暖めていた幼馴染が、その淡い恋心を打ち明けるような珊瑚が夢にまで見た相手からの告白シーンという気恥ずかしさで身悶えするような場面では断じて無い。
 新志は叫ぶ。子供の頃からずっと胸に抱いていた恐るべき勘違いを――親友と思っていた相手を傷つけることは心苦しいが、ここで沈黙を護っていられるほど、大変失礼な誤解を黙っていられるほど、彼は器用な性格でもなかった。

「……俺……お前のことずっと男だと思っていたんだ!!」
「………………………………………………………………………………………………」

 死(シ)―――……………ン
 
 スゴイ規模の沈黙する土倉珊瑚に新志――土下座したまま冷や汗を流す。
 頭を地に擦り付け相手に謝罪するしか他は無かった。戦堂新志とて――相手の性別を間違えていたなんて誤解が最上級の無礼であることは知っていた。相手は自分の事を女性だと認識していること前提で話していたのだが新志としてはまさしく寝耳に水。大変驚いてはいたが、それ以上に謝ることこそが危急であると判断したのである。
 恐る恐る、親友、土倉珊瑚の顔を下からそっと見上げるように伺う新志。

「……な、なにも泣かなくても」
「泣いてない!!」

 新志の迂闊な一言にきっと瞳を怒らせて反射的に叫び返す珊瑚。拳を震わせ、先程までの期待が裏切られた事に対する失望感と――同時に相手の愛の告白なんてものを期待していた自分自身に対する気恥ずかしさ、それらがない交ぜになって胸の辺りに羞恥心と攻撃本能が合体する。

「よ、よよ、よくも乙女の純情を……!」

 瞳の端にぷくりと浮かぶ涙の粒。新志は、女を泣かせてしまったあわわわ、と呟きながら素早く起き上がり後ろへと後ずさる。将軍家ご指南役の家に引き取られ、その中でも剣才と膂力、悟性に優れ次代の剣豪として期待されていた彼であったが、今まで感じたことの無い次元の圧力、乙女の鬼気迫る黒い恨みの情念に怯む。

「そ、そもそも……ボクとキミが一緒にお風呂に入ったのは六つぐらいで最後だぞ! その辺の事情から察する事すら出来ないのかキミは!」
「おお、乙女の純情といっても、そんな見事な平面で女とどうやってわかれってんだお前は!」

 思わず相手の言葉に対して反射的に叫び返してしまう新志だったが、まさしく火に油を注ぐ結果になってしまったことを一瞬で悟った。珊瑚は顔を羞恥と激怒で真っ赤に染め上げ、ぎりぎりと拳を握りこむ。顔は真っ赤なのに、しかし今胸の中で渦巻いている感情に反し、表情は能面のように無表情であることがなおさら新志の恐怖心を煽った。

「この上……か、身体に対してまで侮辱するなんて……もういい、殺す」
「そ、そこまで言う?!」

 新志はなんか比喩表現抜きで珊瑚の背後の空間を捻じ曲げる乙女の怒りに冷や汗を垂らす。
 人対人との実戦経験なら山ほどある、怪物との戦闘は前やった。しかし癇癪を起こした子供のあやし方など剣の道一筋であった筋肉馬鹿にわかる訳は無い。ましてやその癇癪を起こした子供が人類の中でも個人が持ち得る最強の戦力を保有している魔術師である場合はどう立ち向かえと言うのか。
 とりあえず再び対人関係における最終奥義『土下座』だ。それで足りなければどういう手段を用いれば荒ぶる少女を静められるのか。まるで死の瞬間から少しでも遠ざかろうとするようにじりじりと後ろに引く新志は――不意に自分の後ろを脅かす脅威の気配に感づいた。

「へぇ。察しがいいね、君は」

 聞こえてくるのは涼やかな印象の少女の声だが――新志の五感が、瞬時に年経た猛虎と相対する事に似た戦慄を訴えた。
 黒いゴシックドレスを身に纏った可憐な少女という見掛けだが、どう考えても脅威になど成り得ないはずの少女に新志は身震いする。練り上げられた剣士としての直感が今警戒すべきは目の前の幼馴染ではなく背後の相手であると告げていた。
 少女は新志の反応にくすくすと笑い声を漏らしながら、唖然とした様子の珊瑚に声を掛ける。

「駄目じゃないか、サンゴちゃん。大事なお客さんに。……ちゃんと案内してあげたの?」
「あ、い、いえ」

 あわてた様子で背負っていた乙女の怒りを霧散させる珊瑚。
 そのゴシックドレスの少女は、そう、と短く告げると、警戒していた新志に言う。

「こんばんわ、新規生さん。……僕の名前は早乙女 光(さおとめ みつる)。ここじゃ珍しい女子の魔術師をやっている」
「あ? ああ。……戦堂新志だ。……こっちこそ宜しく」
「ん。……じゃサンゴちゃん。あと宜しく」

 は、はい、と反射的に答える珊瑚に満足げな頷きを残すと――そのままあっさりときびすを返して元来た階段を下りていった。

「……なぁ、サンゴ。ちゃんと女子の魔術師がいるんだったら……お前だって」
「あの人は特別」

 は? と思わず眉に皺を寄せて首を捻る新志。

「その物言いだと、武勲を挙げないと女の子の格好が出来ないといっているように聞こえるぜ?」
「兎に角駄目」

 どうして、と目で訴える新志ではあったが、つい先程まで相手に大変失礼な勘違いをしていたこともあって強く追求も出来ない。

「……ま、お前がそういうならそれでいいさ。……でも、サンゴ。お前ももうちょっと女の子らしい格好できればいいのにな」

 新志は素直に今の自分の心情を語る。
 たぶん自分が想像も出来ない理由で珊瑚は本来の性別を隠し、男として生きていかなくてはならないのだろう。大変だとは思うがどうやら自分はその問題の根本的な解決が出来るほどの力は無いらしい。殴って解決できる事ならいくらでも力を貸すんだが……そうぼやいた新志に、珊瑚は再び顔を赤らめて答える。

「そ、それは、キミがボクの女の子らしい格好を見たいって言うことなのかな?」
「まぁ、そりゃな」

 あっさりと頷く新志に、再び茹蛸のように真っ赤になる珊瑚。

「……あのさっき出会った早乙女ちゃんもずいぶん可愛かったしなぁ。野郎ばかりで暑苦しい所かと思ったけど、ちゃんと目の保養が出来て助かるぜ……って、何故そんな目で見る!!」

 珊瑚は再び沈黙。
 まるで汚物を見るような、激しい侮蔑の視線を向けられ新志は思わず怯む。 
 何故だ、いったいどうして。普通に出会った人の外見を褒めただけなのにどうしてこんな視線を向けられなければならないのか、新志は本気で訳が分からず動揺する。

「な、何でそんな刺々しいんだお前!」
「……別に」

 ぷぅ、と頬を膨らませ、馬鹿馬鹿しくてやってられないと言わんばかりに珊瑚は歩き出す。

「ちょ、ちょっと待てよ……」
「ついて来ないで!」

 一切合財の接触を拒否する厳しい言葉に、新志は思わず二の句を告げられず足を止める。そのまま土倉珊瑚は足早に階段を下りていってしまった。追いかける事も出来ず、伸ばした腕がなにもない宙を掴む。
 授業時間の終了を告げる鐘の音が、酷く空しく新志の胸中に木霊した。



[15960] 一番勝負後の顛末その2
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 14:17
 馬鹿馬鹿、新志の馬鹿。
 珊瑚は原因不明の怒りを胸のうちに抱えたまま、学園の校舎をのっしのっしと肩を怒らせ歩いていた。
 許せない、あの馬鹿、言葉には出さず口の中で罵倒の言葉を呟いては噛み砕く。確かにあの人、早乙女光は女性の珊瑚から見ても賛嘆に値するほどの美少女だ。
 だけれども腹が立って仕方が無い。自分みたいな女の子の前で、ようやく三年越しに再会できた幼馴染の目の前で他の女の子を褒めるような無神経が許せなかったし、同時に新志の発言は著しく珊瑚の女性としての矜持を傷付けていたのである。

「よりにもよって、ボクみたいな女の子じゃなくて、女装美少年を見て可愛いって言うなんて! そ、そんなこと、ボクに一回も言った事無いくせに!!」

 男同士の禁断の愛。そんなリアルボーイズラブの裏側でありそうな……男同士がくっついたために恋に破れた少女なんて、女性として最悪の形の失恋ではないだろうか。珊瑚は怒りの声を漏らす。
 頬を怒りの朱に染めて怒気を振りまくその様は怒っているというよりも、むしろ好きな男の子が他の相手に(しかも野郎に)奪われて拗ねている以外の何者でもなく、通り過ぎる校舎内の友人達からの楽しげな視線にも気づく事は無い。校内でも男性の入学は知られており、またその男が土倉珊瑚の幼馴染である事は知れ渡っていた。おまけに事前に珊瑚のそわそわした様子が広まっていた為、何があったのか、全校生徒が大まかな事情を察する事ができていた。

「怒っているね、サンゴちゃん」
「……早乙女さん」

 むー、と呻きながら答える珊瑚。廊下の隅に佇む声を掛けてきたその姿に先程の会話を思い出し、好きな相手を取られたような気持ちが湧き上がってどこかつっけんどんな態度が前に出てしまう。

 楽しげに笑うその姿から大抵の人間が騙されてしまうだろうが、珊瑚は知っている。ここにいる女性達がみな全て男装しているのは彼女達の仇敵である『将魔』、もしくは『魔元帥』の『呪詛毒』による呪いを防ぐためにまったく別の人間を演じているという事であり、それは彼女も同じであるということ、即ち異性装にて呪いを防いでいると言うこと。 

 そして同時に目の前の女性の姿をした彼が、人類救世の英雄の一人、伝説の魔術師スピードガールであると言う事はすでに全軍における周知の事実であった。知らないのは新入りの新志ぐらい。

 かつて世界を巻き込んだ『魔』との戦い。

 その中でも最悪の敵と目される『魔元帥』の危険度は、南極に存在する奈落穴から湧き出る『獣魔』とは比較にならないほど高い。それらが最も危険な理由は、本性を現さず、人類社会の中に潜み、ひっそりと眷属を増やして行くことにある。
『魔元帥』は人間を堕落させ、強大な力を与える代わりにその人間に犯罪を実行させる。それも一人や二人を殺すようなものでは無く、策謀を張り巡らせて膨大な流血をもたらそうとする。
 もちろん、それらの目論見は常に事前に見破られ、叩き潰されてきた。
 ただし『魔元帥』によって堕し、人間が変じた『将魔』は通常戦力では絶対に勝つ事が出来ないとされている。それは彼等が人間の霊体に対して作用する『呪詛毒』と称される不可視の霊的毒素を自分自身の周囲に散布しているからだ。
 かつて大勢の魔術師がその毒によって命を落とした。例えどれほど強固に、毒ガスなどのBC兵器に対する防御を固めようと、装甲を分厚くしようと、霊体に直接影響を及ぼすそれを防ぐ手立ては存在していなかったのである。
 だが、各国は呆れるほどの速度で対抗手段をかつての文献を総ざらいして見つけ出す。
 霊体の偽装技術。弓国の古い魔術に存在していた、本来の名前とは別の名前を用いる事により呪をその存在の本質にまで届かせないという先人の知恵。
 ……しかし、本来の名前とは別の、『隠し名』だけでは『将魔』の『呪詛毒』を防御することは不可能であった。名前を隠すだけでは、防ぎ切ることはできなかったのである。
 そんな絶望的な状況を打破できた理由。それは大戦の初期から参戦していた魔術師の一人である英雄スピードガールこと『早乙女 光』の趣味から発覚したのであった。
 その打破した手段とは、女装であった。彼は英雄と呼ばれるほどの高度な魔術の行使者であり、また同時に男性であるにも関わらず異性装をすることが趣味だったのだ、出撃する時もその恰好をするまでに。そして仲間が霊的毒素に苦しむ中、彼だけがなんら肉体にダメージを受けることなく帰還したのであった。

 要するに足りなかったものは演技だった。

 名前を隠すだけでは『呪詛毒』の霊体汚染を防ぐ事は出来なかった。あと一押しが足らなかったのだ。
 本来の自分の名前を隠匿し、別の名前を準備し、そして全く別の人物を演ずる。それも生半可な他者の演技では足らない。それこそ最初にこの手段を発見した英雄スピードガールと同じぐらいに徹底した演技を。
 そう――即ち、戦堂新志が入学した魔術師軍の学生であり、同時に危急の際には護国の剣の切っ先として武を振るう、対外的には男性のみで編成されている事になっている『彼ら』は皆全て。



 実は、全て男装美少女なのであった。
 


 早乙女光。
 如何なる手段を用いているのかは分からないが十代前半の肉体を保持し、この学園に置ける総指揮官とも言うべき立場にある最上位者。若年の美少女に見える老練な軍神。珊瑚は自分より遥かな上の地位にいる、やけにフランクな最高司令官に尋ねる。

「……本当に、新志を此処に連れて来た意味はあるんですか? 魔力があるのは……それも凄く強い力があるのは分かりますけど」
「……まだ疑問?」

 はい、と頷く珊瑚。それは最初から彼女の胸中にあった疑問だった。
 男性が女装をして違和感が無いかどうか、似合うか否かは、これはもう才能の領分の話だ。
 男性が女性の装いをすることが可能かどうかはその人の骨格が決める事になる。三十代になっても余裕の人もいれば、十代で、もう無理が出る人がいる。
 その点では、戦堂新志は完璧な不合格だった。百九十五以上の長身に過度ともいえるほど発達した筋肉を搭載する恵まれた体格。それは剣士としては類稀な資質だが、『呪詛毒』を避けるために異性装をする必要のある魔術師としては致命的な欠点だ。最初から彼は前線に立つ事はできないと言ってもいい。
 珊瑚は新志の剣力を知っている。才能ある子を引き取って育て上げる将軍家ご指南役の戦堂の家でも突出した剣才を誇る彼なら、剣士として大成することが出来るだろう。……何故その輝かしい未来を捨てて、南極防人前衛に志願したのかは分からないが、ここ、魔術師軍の一魔術師としてよりも武勲を立てる機会はずっと多いはず。
 此処に連れて来たことは彼にとって良くないことではないのか、と自問せずにはいられなかった。 

「でも、分かっているよね? ……彼がいないと、みんなの呪詛毒に対する耐性は失われることになる。君には面倒を掛けるけど、君ぐらいしかこの仕事を頼めないんだ」
「……は、はい。それは分かっています」

 こくり、と力無く頷く珊瑚。
 異性装によって『呪詛毒』に対する耐性を得るという特殊な魔術だが、それは自分とは違う人間を演じているという自覚によって発現するものだ。
 だから、他者に見られていないとその自覚が発生しない。
 自覚は、彼女たちの『身内』である同級生同士では当然発生しない。男装することが当然の環境ではどうしても気の緩みが出る。だから、まったく関係の無い男性という異物を混入させる事で皆に異なる自分を演じていると云う自覚を促すのだ。
 珊瑚は女性と知られている(実は新志は知らなかったのだが)自分が前に出て、新志から他の仲間達の性別を隠蔽するための工作をするように命じられていたのだ。もちろん戦堂新志と同室になることもそのための工作の一環だ。
 珊瑚のみは新志に女性であると知られているが、しかし彼女の場合はその主の『男性を演じる自覚』を『新志からは男性を演じる女性と思われている』という思考で緊張を保っているのだ。
 早乙女はかすかに笑いながら呟く。

「……それにね。サンゴちゃん。……僕と同じ十億三千二百万分の一以下の確立を潜り抜けた男性での魔力保有者なんて見逃すのは勿体無いし――それに、あの彼は……たかが呪詛毒ごときでどうこうできるタイプの漢じゃないと思うんだよねぇ……」





 戦堂新志は自分が馬鹿である事を理解している、まだマシな類の馬鹿であった。
 それゆえに、珊瑚が怒って自分の前から姿を消したことには、己の想像力、思考力の外側にある事が原因であるのだと理解する事ができたし、それに対し自分より頭の良い他者に素直に教えを請うだけの腰の低さも持ち合わせていた。

 これまでなら頭の良い義兄上と義姉上に質問し、教えて貰ったことを自分なりに解釈なり何なりして理解するところだが、生憎と今現在新志には自分と相手の事情を相談することができるような相手がいない。

「どうしろってんだ」

 ぼやく新志。この島全体を統括していると思しき人工知能である<ジーニアス>は自分の到着をすでに理解しているから、問題はそう多くはないだろうけども、ここからどこに行けば寝床にありつけるのか全くわからない。これだけ温暖ですごし易い気候でも、夜もそうであると限らない。野宿はできれば勘弁だな、ウサギとか猪とかいるかな、と新志は考える。
 二メートル近くの大太刀を手に携え、ここからどう動いたものかと悩んでいた新志は、そこで屋上への扉を開けて、つかつかとこちらに歩み寄ってくる人影に気づいた。
 身長は新志みたいに百九十五センチを超えるほどでもないが、それでも百七十五程度はあるだろう。凛々しいとか、格好良いとか、そういう形容詞が実に嵌っている立ち姿の人だ。

 デュガン連邦の旧貴族が身に纏うような白い礼服の立ち姿は絵画のように様になっている。まるで男装をした麗人と見間違うほどの秀麗な美貌、そう新志は思った。翠玉を嵌め込んだような美しい目、肩まで届く亜麻色の髪をウェーブヘアで纏めた、華やかな印象の美青年。貴族的なすっきりとした鼻梁、顔立ちは男女問わず、ぞくりとさせるような美しさがある。

 もちろん新志は、男装の麗人かと思った自分のその感想が、真実をこの上なく射抜いているなど思いもよらない。その人は自分の手袋を脱ぐと、新志の方へと投げつけてきたのである。ぺちり、と顔面に直撃する手袋。あきれたように睨み返す新志。

「いきなりなご挨拶だな。……デュガン連邦あたりだと、確かこれって決闘の申し込みだったはずなんだが。合っているかい?」
「然り。……戦堂新志だね? 私、アトリ=瑞島=レギンティヴは貴殿に決闘を申し込む!」
「わかった」

 その、呆気ないとも言えるほどあっさりした反応に、アトリと名乗った相手はあ、あれ? と、むしろ困惑を深めたらしい。こういう場合、初対面の相手がどうして自分に決闘を挑むのか、とか色々と質問される事を想定していたようなのだが、その反応は予想外だったらしくおかしなものを見るように碧玉のような目を向けた。

「……いや、まぁ決闘を申し込んで言うのもなんだが……随分と即断だね」
「脊椎反射で生きていると良く義兄上から言われている。自覚はあるぜ」

 からからと笑いながら新志は頷き、提げた太刀に手を伸ばす。

「じゃ、やるか」
「いやいやいや、本当に気が早いな君は!!」
「なんだ、やらんのか」

 まるでお気に入りの玩具を目の前で横取りされたような表情。
新志としては懐かしかったのだ。南極の防人前衛で自分の体をごちゃごちゃと弄り回された日々からずっと周囲の事情によってろくに喧嘩も試合もできず、闘争に飢えていた。そんな事態は実は物心付いたころから初めてで、けっこうストレスを感じていたのだ。そこに懐かしい勝負の匂いを嗅ぎ付けたのだから一も二もなく飛び付いてしまったのである。
 色々と想定外の相手にアトリは呆れたように眉間を揉む。

「……全く。君の兄君は君の事を良く分かっていらっしゃるね」
「自慢の義兄上だ。……一応俺が決闘を挑まれる理由を聞いておいて良いか?」

 まぁ、ここで試合う事ができず、武人としての欲求が満たせないのなら、次に興味を抱いたのは自分が決闘を申し込まれる理由だった。彼の言うとおり、相手は自分と全く面識の無い相手であり、そもそも恨みを買うような暇すらない新規生の立場なのだから。
 その反応にようやく、フッ、と気障ったらしい笑みと共に亜麻色の前髪を掻き揚げて、アトリは答える。

「いいだろう。そこまで言われては仕方ないね」
「いや、決闘挑むんだからその程度の事情の説明ぐらいするのは礼儀だと思うが。……まぁいいや」

 ぎろり、と睨まれ、新志は面倒になって続きの言葉を飲み込んだ。どうやらかの御仁、自分の話を中断させられるのが大嫌いらしい。

「……新規生の戦堂新志君。……君は入隊と同時にサンゴ君と一緒の相部屋になることは知っているかい?」
「いや、初耳だな」
「……それまで――彼と相部屋だったのはこの私だったのだよ」
「……まさかお引越しの苦労という余計な労働をさせた理由で、原因の俺に決闘を申し込んだのか?」
「どれだけ度量の狭い人間扱いされているんだ!! その侮辱、決闘を申し込むに値するぞ!」
「もうしてるじゃねぇか、決闘の申し込み」
「……あ、そうか。ごめん」

 何故か素に戻って謝罪するアトリ。

「と、兎に角だ。……良いか? 私が勝ったら、サンゴ君との相部屋の権利を私に譲って貰うぞ!!」
「なんで?」

 素直に疑問を述べる新志。その言葉に対する反応はいやに劇的だった。
 ほぅ、と陶然と頬を赤らめる。宙に愛しい相手の鏡像を幻視するようにいやにうっとりした表情を浮かべ、でへへへと涎を垂らしていた。元が秀麗な美貌を有しているだけにこの崩れっぷりはいっそ見事なほどだった。ぎゅっと己の両腕で、辛抱たまらないといわんばかりに自分の体を掻き抱く。妄想の相手を脳内でこの上なくきつく抱きしめているのだろう。冷静な目で観察する新志としては、たいへんだへんたいだ、と誰かに助けを求めたい気分であった。

「……ああ、サンゴ君のあの色っぽいうなじ、引き締まった手足、あの顔立ち……全てが愛おしく愛らしい。あれを同じ部屋で愛で続ける事が出来る相部屋という素晴らしき立場だったのに……な、なにがいけなかったんだろうね? 夜中彼のベッドの横に立ってハァハァし続ける事がそんなに罪だというのか……」
「自業自得じゃねーか。きっとそんなんだから部屋換え陳情されたんだぜ」

 新志は呆れた表情で呟いた。だがまるで、聞きたくない、といわんばかりに両耳に手を当て、叫ぶどこをどうみても変態にしか見えない決闘申し込み人アトリ。

「兎に角だ! ……私以外の人間がサンゴ君と一緒の部屋にいるだなんて耐え切れない! それゆえに、サンゴ君の同じ相部屋という席を取り戻す為に私は君に決闘を挑む!」
「……事情は分かった」

 まぁ理由は極めてアレだが一応筋は通っている。新志は頷く。

「じゃあ、日取りはそっちに任せる。決まったら教えてくれ」
「うむ」

 こくりと首肯するアトリ。
 そんな相手に新志は少し考え込んで――そこで何か恐ろしい事に気づいたように後ろへと後ずさった。
 先程まで会話していた土倉珊瑚は自分が女性であるという事をずっと隠し続けてきたと言っていた。もし目の前の彼、アトリが実は珊瑚が女性であると知っていたのなら、先ほどの会話で珊瑚が性別を隠すために協力してくれなどと言う必要も無いだろう。それならば、彼は珊瑚が男性であると思い込んだまま劣情を感じているという事であり。それはすなわち――

「……ん? どうしたのかね? 何故顔を青ざめさせて後ずさる」
「いやさぁ……まぁ、ちょっとなぁ」
「……そういう風に口ごもられると気になるね。何があったのだい?」

 新志はなんだが言い難そうにする。が、相手の視線に押され……おずおずと答える。

「……あ、いや。……だってお前。……ゲイなんだろう?」
「は?」

 まるで鳩が豆鉄砲食らったような表情で呆然と呟くアトリ。
 新志はなぜかお尻を押さえながら離脱する為の距離をじりじりと広げていく。

「だ、だって、お前! 男なのにサンゴの奴の事が大好きなんだろう!? それなら身の危険を覚えて当然じゃないか!」

 相手が一挙動で追って来る事が出来る境界線を抜けた――そう判断した瞬間の新志の行動は恐らく人生最速だった。後ろを見せ、幼少の頃から鍛え上げ続けた肉体に今こそ命を掛ける時と言わんばかりに溢れんばかりの筋力を行使し、百メートル九秒台のオリンピック級超健脚を発揮し、矢のような勢いで離脱したのであった。

「え、ちょ」
「いやぁああぁぁぁぁぁ! 来ないで頂戴、この変態!」

 アトリの声に何故か胡散臭いおカマ言葉で返答する辺り、戦堂新志のノリの良さが如実に表れていたがそんな事はどうでもいい。
 アトリは唖然とその背中を見送っただけ。 
 相手の恐慌状態の理由が分からず、その去り際の台詞が一体何を指しているのか理解できずに唖然としたまま見送っていたが、次第に時間が経つにつれ、脳細胞の理解が追いついていき、どんどんとその秀麗な美貌を激怒の朱に染め上げていったのである。

「だ、だ、誰が……、誰が!!」

 嗚呼、なんと失礼極まる台詞なのか。アトリは握り締めた拳を怒りで震わせ、怒号を張り上げた。

「誰がゲイだあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 そして、ようやく正気を取り戻して、失礼千万な台詞を吐いた新志を見つけ次第必殺すると先祖の祖霊に誓う。相手を追いかけ捕縛し、前言を撤回させて想像しうる最悪の殺し方をしてやるのだと息巻いて走り出すのであった。
 まぁ、ゲイは間違いでも、レズビアンではあったのだが。



 もちろん、ツッコミは不在であった。



[15960] 二番勝負――変態
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 16:25
 そんな訳で。

「なんて余計な事をしてくれたんだ!!」

 憤懣に満ちた叫び声が私室に響く。珊瑚は悄然とした様子で項垂れるアトリに怒鳴り散らした。
 ここ、魔術師軍の生徒達にして軍人である彼女達の住まいである寮の中、現在珊瑚を除くアトリとその他二名の戦闘小隊の少女達が少し広めの三人部屋に介していた。

 戦堂新志という外部からの男性、それも男性で魔術師という特別な資質を持つ青年を引き入れる事はこの魔術師軍における必要悪であり、同時に彼に珊瑚以外のメンバー全てが女性であるという事実を隠さなくてはならないという任務を背負っていた。お給料は一・三倍だが気苦労は二倍以上である。

「ご、ごめんよサンゴ君。……た、ただ、私がいたあのベッドにあの野人めが居座ると思うと居ても立ってもいられなくなって」

 野人め、と言ったあたりに憎憎しげな響きが篭もっている事を珊瑚は不思議に思った。まぁ、流石にゲイ扱いされれば怒るのも当然かもしれないが、もちろんそんなこと、珊瑚は知る由も無い。
 そんな二人の仲介に入ったのは、この三人部屋の面子の残り二人であった。

「まぁまぁ、サンゴもアトリも落ち着くがヨロシイネ」
「そーそー、怒りすぎると皺が顔に染み込んじまうぜー」

 同席の二人にむ、と未だ不満そうな表情を見せるものの、舌鋒を収める珊瑚と、ほっとした様子を見せるアトリ。

「……そうだね。……まぁ、起こった事は仕方ないと割り切るしかないか。ありがと、ジャニー、絶佳」
「別に気にする事ないデース。ミーも二人が仲悪いの見るのつらいデスね」
「そそそ、気にすることないない」

 珊瑚の謝罪を受け入れる両名。
 ジャニー=ジャック=ジェットラム。
 戦堂新志を除けば魔術師軍で最長クラスの百八十三センチの長身と蜂のように括れた豊麗な肢体の持ち主である女性。陽光を含めば燦然と輝くフロストブロンドを、緩いドレッドヘアでまとめている。青い目に褐色の肌、目鼻立ちの整った陽気な印象の強い顔のワイルドなアメリア訛りの美女だ。

 朱絶佳。
 この場所にいる四名の中で一番小柄な少女で、動作の端々がどこか野卑ているが、不思議と下品な印象の無い、からりとした爽やかさがある。体躯も貧弱で珊瑚より低い百五十五センチ程度だが動作は機敏で姿勢もよく、印象として小さい気がしない。華帝国の武術の中でも強剛の技と知られる鋼竜十八掌の伝承者ゆえか、小柄ながらも四肢は引き締まっている。
 それでいて、身に纏った高貴な雰囲気は誰よりも強い。それは彼女が大陸でも最大規模の巨大専制国家、華帝国の皇族、姫君の血筋である事が大きく関わっているのであろう

 この、戦時には四名で組んで戦う戦闘の最小単位、小隊を組む彼女らが一同に介しているのは――

「悪かったと思っているよぅ。……離してくれないか、サンゴくん」
「だめ」

 もちろん、いきなり編入初日から決闘を挑んだアトリ=瑞島=レギンディヴに対する弾劾裁判であった。
 既にこの事態を招いた彼女は罰として簀巻きにして釣られていた。ここで珊瑚の布団を使用してしまったらアトリ自身のアブナイ欲求が満たされて、イヤラシイ方向で元気になってしまうのでもちろん布団は未使用のものにしてある。

「まぁ……ここで戦堂氏が敗れたらとてもまずいデスネ」

 ジャニーは苦笑した。もしアトリが勝利した場合、この部屋に編入されるのは戦堂新志その人だ。それは魔術師軍の秘密を暴露する行為に等しい。

「彼と同じ部屋になったら、自室では全裸派のミーとしては大変ストレスが溜まってしまいマース。そうなればミーはこの裸体をどこでフルオープンすればイイデスカ……」
「今すぐ君を個室に移し変えたほうがいい気がしてきた。……あの、絶佳、ジャニーはいつもそうなの?」

 珊瑚の質問の言葉に素直にこくこくと頷く絶佳。……ただ、肯定してから少しは弁護しておくべきだと考えたのか、続けて言う。

「ややや、でもジャニーの筋肉はとてもエロエロしくて素敵なんだ! みんなも一度見たほうがいいって、マジでよー!」
「オーウ! アリガトヨ絶佳! ユーのその寛容さがミーにとっての最高の報酬ネ!」

 その言葉が嬉しかったのか、絶佳をその豊満な胸元で抱き締めるジャニー。絶佳が締め落とされる直前のレスラーのようにタップしているのが見えた。 
 ……同じ相部屋になった異性に女性である事を隠し続ける事はまず不可能だから、先手を取って珊瑚が女性であると知らせ、正体の露見を防ぐため行動しようと考えていたのであるが、その目論見はアトリに自重を促す暇もなく崩れ去った。流石変態。珊瑚は変な方向で感心する。

「……うう、やわらかいそのでかい二つのよりも、できれば腹筋に顔を押し付けたかったぜ。……でもさー、そんならアトリが手心加えればいんじゃねーの?」

 どうやらなんとかして双乳の締め付けから脱出したらしい絶佳の言葉に、珊瑚は眉間にしわを刻んだ。

「うう、嫌だ! 確かに私の発言が原因とはいえ、あ、あんな無礼者に破れるなんて嫌だ! 絶佳、君もそろそろ筋肉愛好の性癖をやめたまえよ!」
「なんだとー? あたしに死ねというか! せっかくアトリも国に捨扶持をもらって悠々自適の生活を送れるようになったら、あたしのマッスルハーレムの一員として囲ってやろうと思っていたのにー!」
「……今さりげなく驚愕の未来絵図を暴露された気がするデース」

 本気で敗れるのが嫌なのか、瞳の端に涙すら浮かべながら叫ぶアトリ。うがー、と両腕を振り上げて反論する朱絶佳。両名の会話の内容がそろそろ異次元の話を連想させるぐらいにわけの分からないレベルになってきたので聞かなかったことにしたい珊瑚。新志の奴、いったいどのような手段でアトリにここまで嫌悪されるようになったのか、後でじっくり問い詰めねば、と珊瑚は考えを続ける。そんな彼女にジャニーが質問の声を掛けた。

「ハイ? サンゴ、シンキングタイムですカ? アトリに手心を加えるように演技させればいい話デスよネ?」
「う、うん。……それが、たぶん、無理だと思うんだ」
「……そっかぁ? アトリは女好きの変態だけど、弱くないぞー?」
「……事実を言い当てているけど、女好きって言うのはこの場合なんか違うと思う」

 普通スケベな男性を指す言葉のはずだ。女性が好きな女性を女好きって言うのは少しおかしくないだろうか。珊瑚はまじめに考えようとしたが途中で面倒になってやめた。

「そ、そもそもそう言う朱絶佳も筋肉があれば男でも女でも良いと公言する変態ではないか!」
「馬鹿! あたしは美しいものが大好きなだけなんだ! そしていい筋肉とは男女区別無く美しいんだ! 即ちいい筋肉を集めるのは女性が宝石を集めたがるのと同じようなだけの、実にノーマルな趣味嗜好なんだ!」
「『いつか愛人ができたら大腿筋で膝枕してもらうぜ、うへへ』と公言する君のどこが変態で無いというのだい!?」

 朱絶佳とアトリの大変頭の悪い会話に激しい頭痛を感じつつ、一人まじめな表情で話を聞いてくれるジャニーに心の底からの感謝をささげる。

「あいつね。……なんかこう、手心を加えられるのがすんごい嫌いなんだ。こっちが手心を加えてもすぐに見抜くし……そんなんだから子供の頃から大人の人に『手加減するな』って怒鳴っていつもボロボロんなってたし。多分あの頑固さは一生ものだと思う」
「ふはははは、それなら遠慮なく私が叩きのめしてやるぅぅ!!」

 会話を打ち切り、やけに元気に高笑いするアトリに対して、珊瑚は首を横に振った。

「いや、……アトリが魔術を使えば問題なく勝てると思うけど。剣に限って言うならたぶん無理だと思う」

 え? と意外そうな顔をするのは珊瑚を除く全員だった。
 無理もない。この場にいる全員は歳若いが既に二十を超える実戦を経たプロフェッショナルだ。自分自身に倍する巨体の『将魔』との戦いなど飽きるほど経験している彼女等だが、その中でもアトリの刺突剣の腕前は抜きん出ている。

「アトリが、剣に限れば負けるでスカ?」
「そ、そんな! サンゴ、私があんな筋肉だけの野人めに負けるって言うのかい?! ひ、ひどい侮辱だよ!」

 憤りの余り体を揺らすアトリ。ぶーらぶらと、揺れる簀巻き。

「あいつに負けても恥にならないよ、アトリ」

 表情を消した真剣な眼差しで、旧友の武技を崇拝するような心酔者の如き眼差しで、一切合財の茶々を入れるつもりのない本気の眼差しで、珊瑚は言う。

「あいつは剣に限って言うなら、戦堂一倒流の総帥が自分を上回ると仰った、文字通りの大剣妖だよ」
「……んー、そんなら悩む必要なんてないんじゃねーの? 素直に勝ってもらえればー?」

 うん……と考え込むように眉を寄せる珊瑚。

「でもそれでも、魔術という手段を使わぬまま勝利しても、あいつは絶対に自分の勝利を認めない気がする……あいつ、すがすがしい馬鹿だから」




 なんだか、とんでもないところに来たなぁ、というのが、素直な感想だった。

『どうしましたか?』
「いえ、なんでもありません」

 次の日の翌日、結局その辺で野宿した戦堂新志は、自分が在籍する事になる教室への通路を先導してくれる自動機械と、その機械を制御している〈ジーニアス〉に返答しながら廊下を歩いていた。デュガン連邦のパブリックスクールを思わせる作りで見かけは年季が入っているようだが、建物としては非常に頑丈なのだろう。拳でこんこん、と壁を小突きながら考える。
 もちろん、とんでもないところに来たなぁ、という感想を抱いたのは昨日の決闘を申し込まれた変態騎士アトリの件についてだ。
 ここ、魔術師軍に所属する魔術師達はみな全て男性で構成されている(と、新志は思っている)。一部、土倉珊瑚という稀な例外があるが、それはあくまで例外だ。それ以外は全員男性なのだから……同じ校舎で野郎同士が寿司詰めにされていれば、一人ぐらい寵童趣味に走る奴がいても無理はないと思う。
 目下の不安要素は、そういうボーイズラブに走った薔薇男衆がいったいこの学園の何割を占めるかどうかだ。
 想定しうる最悪のパターンは教室全員が新志の後ろの貞操を狙う集団。しかも一人一人が馬鹿げた戦力を有する魔術師。もし全員が新志に肉欲を抱いてそういう行為を強要し始めたら、新志はかなりイヤな悟りを開いてしまうだろう。人間不信に陥ること必至。新たな学び舎に来て一番最初に人工知能な先生と相談することが性的暴行というのもアレである。

「……まさに地獄だ」
『なにか言いましたか?』
「きっぱり空耳です」

 まったく、彼にとってそういう趣味の人が自分の人生に絡んでくるということは予想外だった。そういう趣味の人を否定するつもりも無い。ただ肌には合わないのでできるだけ遠いところで幸せになってくださいと言うのが本音である。

(……軍隊に慰安所が併設されるのは普通の話だが、とことん機械化無人化を徹底しているここに陰間茶屋を入れる訳もないしなぁ)

 そんな訳だから、自分は野郎同士の愛欲の戦いに巻き込まれてしまう羽目になるのだ。

(……いや、待てよ?)

 だが――その時、脳裏に閃く天啓。
 きっとアトリと名乗ったあの決闘を申し込んだ奴は、本当なら男性より女性が好きな普通の性嗜好だが、性別を隠している珊瑚の事を本能で見抜き、男性が好きな煩悶にもだえ苦しみながら、『可愛ければ男でも女でもどちらでもいい』という性別を超越した、愛の悟りを開いてしまったのだ。
 だからこの学園にホモはいないのだ、うん。
 新志のその考えは正確な情報に基づいた推測ですらなく、もはや彼自身がそうであって欲しいと欲する願望でしか無かったが……とりあえずアトリに出会ったら確認してみようと心に決める。

『こちらです。どうぞ、お入りください』
「ええ」

〈ジーニアス〉にそう答え、指示された教室の一つに入る。
 見えるのは、四十人前後の魔術師達。誰も彼も既に実戦を潜り抜けたもの特有の自負を目に宿している。これほど深い自信を帯びた目をしていた人間は、戦堂一倒流の中でもごく一部、高弟とされる人たちしかいなかったのに。とりあえずこちらを見る目には、情欲に爛れた淫靡な目つきはひとつも無い。まずは、後ろの貞操に関しては安心してよさそうだった。ホモが少なくて良かった、と安堵の息を漏らす。

(にしても、この目に宿る自信。それだけ戦士としての質が高いって事なんかね)

 ぐるりと見渡せば、土倉珊瑚とアトリ=瑞島=レギンディヴの姿も見えた。珊瑚はこくり、と頷き、アトリはこちらを睨んできた。

「ども、こんばんわ、戦堂新志です。……えーと、お願いします」

 それほど弁が立つ訳でも無い新志はまず無難な言葉を掛ける。……全員が全員、それを黙って聞いている。まるでこれから轡を並べる新志がどの程度の実力を備えているのか、戦友として迎え入れるに足る実力を持っているのか推し量ろうとしているかのようだった。

『……では、サンゴさんの隣の席へ』

 指示されればそれに素直に従い、着席する。

「よろしく」
「ん」

 短い返答の言葉を返して、新志はさて、と呟いて、どういう事を学ぶのか、と身構える事にした。






 そして……授業後――


 戦堂新志は、真っ白に燃え尽きていた。

「……すまんが、なんの授業だったのかぜんぜんさっぱりだった」

 簡易ディスプレイ上に表示されるのは理系。熱力学、物理学、哲学的な事に至る専門的な知識。授業の最初からそんな知識を要求されたのである。自分が操る魔術がどのような現象を経て発現するものであるのかを知る事は、彼らが扱う魔術の力をより消費を少なく、より高度に鍛え上げてくれるため、とにかく情報を詰め込むのだ。
 前半はそれらの情報を詰め込んだ後、人工知能である<ジーニアス>がそれぞれに相応しいカリキュラムを組み立て、個人授業に移り変わる。とはいえ、魔力の保有が確認されたとはいえ、新志が一体どのような属性を持つ魔術師に成長するのか指針らしいものも存在しておらず、結果各種分野の基本的な所から勉強を始めたのであるが。

「あー、知恵熱熱い知恵熱熱い」

 世辞にも頭が良いとは言えない戦堂新志は<ジーニアス>の動かす自動機械が持ってきてくれた氷嚢を自分の頭にぶら下げて項垂れていた。隣の席の珊瑚も、おおよそ想像は出来ていたのだろう、苦笑しながら新志に言う。

「まぁ、新志は基本的に脳みそ筋肉だしねぇ」
「……お前みたいに忍者小説読みまくるだけで良いなら俺も乗り切る自身はあるぞー」

 扱う魔術の形式が、弓国特有の密偵、暗殺者を兼ねる『忍』をモチーフにしている珊瑚は新たな魔術形式を会得する為と称して、ずっと忍者小説を読みまくっていたのだ。うらやましい、新志は素直にそう考える。

「……そんなんなら俺も剣豪小説ばかり読みまくればいいと思う」
「ははは、生憎だけどね! こう見えて珊瑚君は一般的な専門分野の基礎を学び終え、その末に今の授業体系がもっとも効率がいいと結論付けられたのだ! 君とはそもそも頭の出来が違うのだよ!」

 新規生として編入された新志ではあったが、生憎と会話を交わすほど親しい人間は珊瑚だけ。そして頭に手をやり、さも可笑しげに笑うアトリはそもそも親しいと呼ぶことが出来るのか大変微妙な間柄であった。ただし、友人を新しく作るのであれば、珊瑚と仲の良い面子から徐々に輪を広げていけば良いのは確かであり。

「アハハ、まぁミーも授業の前半部分は正直何がなにやらさっぱり、お手上げデスネ」
「あー。気にしても仕方ねー。たいていそんなもんだって」

 氷嚢を頭に付けた新志に声を掛ける二人組。おっきいのとちっちゃいの、簡単に言い表せばそうなってしまう。実はバストサイズもそうであるとは新志は想像すらしていない。
 にこやかに笑いながら握手を求めてくるのは、この教室で新志に次ぐ長身の人物と、新志の胸までしかない小柄な赤い目の美少年だ。差し出された手を取り新志は苦笑する。
 長身、金髪碧眼、褐色の肌色、おまけに寒くないのかヘソ出しルックのその人。蜂のように括れたおなかの辺りがいやに艶かしい。新志、同性に色気を感じてしまった自分自身を恥じるように頭を掻く。

「そも、俺としては自分自身に魔力があるって言われても、自覚も無いんだがなぁ。空も飛べねぇし、ビームも出んぜ?」
「や、そんな面白い奴いねーよ」

 小さい方の人の言葉にあらそう、と答える新志。まずは挨拶と口を開いた。

「戦堂新志。そっちの土倉珊瑚とは同郷だった。いろいろ至らねぇとは思うが、よろしく頼む」
「ミーはジャニー=ジャック=ジェットラム、ネ。……こっちのが……」
「朱絶佳だ。よろしくなー、アンちゃん」

 朱絶佳は黒髪にポニーテイル。体躯は小柄だが、半ズボンから覗く生足に付いた筋肉の質から、なにか、やっている事が伺える。あと、見事にすね毛が絶滅していた。男性ホルモンが大丈夫かしらといらぬ心配をしてしまう新志。
 短く名乗る絶佳の、差し出された手を取り握手する。
 そこまでは普通であったのだが、相手はまるで値踏みするかのようなやけに真剣な眼差しで新志を見ている。具体的には首の周りの筋肉とか手首辺りとかを。……流石に愛玩動物を愛でる手つきで二の腕を撫で回したあたりで新志は、うひぃ、と声をあげて手を引っ込めた。
 アハハハ、とやけに陽気に笑うのは、アメリア訛りの強いジャニー。じっと、熱っぽい眼差しで新志の筋肉をまじまじと見る絶佳。

「悪いネ、新志。……絶佳は華帝国の皇族出身で、使用人の女性以外と話したことが極端に少なくて。男性のいい筋肉を鑑賞してしまう癖があるデス。……これでも大分マシにはなったんですけどネー」
「そ、そうだぞー、この頃は初対面の男性に脱げと命令するだなんてしなくなった」
「……あの、絶佳、まず涎を拭いて」

 珊瑚のその言葉にハッとした様子でハンカチで涎を拭く絶佳。
 新志はその言葉が意味するところを正確に理解し、慄いた様に珊瑚に呟いた。

「あのさぁ、珊瑚。アトリ以外は普通の奴なんだよなぁ?」
「……自信を持って、はいと言えない自分が辛い」
「……初対面の相手に脱げと命令するだなんて……いったいどうなってやがる」

 変態などアトリ一人で十分なのに、大きな嘆息を漏らす新志。気を取り直すように、答える。

「……じゃあ生まれた時から周りはハーレムだらけだった訳かよ。そいつは羨ましいねぇ。……ま、よろしく頼むわ」

 実際は真逆であった。
 朱絶佳は、実は華帝国における皇族の血筋、皇太子に当たる。祖父と父も皇帝としての地位を大過なく勤め上げた、名君と言っていい人物であり、彼女は母親に愛されて育った。
 もちろん、幼少の頃の朱絶佳の世界とは母親と彼女に仕える女官達の住まう後宮のみであり、はっきり言えば、ちゃんとした男性らしい男性を見るのは実に久しぶりだったのである。もちろん、彼女達の上官に当たる地位にいる早乙女氏は確かに男性であると知ってはいたが、しかしかの御仁は下手な女性よりも女性的な装いを好んでいるし、それが非常に似合っているために異性であるという実感が湧き難かったのだ。
 ちゃんとした男性的な堂々とした体格の人物と出会ったのは、祖父や父親などの肉親を除けばこれが初体験だったのだ。目に宿る色が珍獣を鑑賞するような興味のひかりを色濃く浮かばせたとしても仕方の無い話だ。
 絶佳は汗を拭うように額を拭いた。紅潮する頬を隠すように、新志に背を向ける。

「ふぅ、危ないところだったぜー」

 新志、首を傾げて、なぜか自分に背を向ける相手に質問する。

「何が?」
「危うく結婚を申し込むところだったー」

 新志は危うく噎せて死にかけた。

「な、ななななな」

 珊瑚は余りにも唐突なその言葉に顔を真っ赤にして、酸素不足の金魚のように口をパクパクさせる。
 ほんの数日前にようやく再会できた幼馴染なのに、いきなり横から出てきた同僚にかっ触れてたまるもんか! と、顔を紅潮させながら叫ぶ珊瑚。

「だだ、駄目だよ! そ、そういう結婚なんてのはもっと段階を踏んでから! ちゃ、ちゃんとお話をして、仲良くなって、お付き合いして、そっからだから、け、結婚なんて早すぎるよ!」
「いやー、別に愛人契約でも構わないぞー。それにあたしが欲しいのは筋肉であって。ただの体目当てで」
「ま、ますます不潔じゃないか!」

 絶佳の言葉に、ななな、と言葉に詰まる珊瑚。確かに絶佳は筋肉大好きな性癖の持ち主で、新志は要塞のような筋肉の持ち主だけど、こんな直接的なプロポーズに出られるとは思っていなかった珊瑚。どうしよう、どうしようと心の中で考える。
 だが、そんな二名の会話を断ち切るように、鉛のような溜息が響き渡る。
 新志は、二人に背を向け、陰鬱なオーラを体に纏い、絶望に濡れた眼差しで虚空を見上げていた。その彼の余りの豹変振りに困惑する珊瑚と絶佳であったが、二人を諭すように、ジャニーは言う。

「……ユー達。大切な事を忘れているデスよ。弓国では、そもそも男性同士では結婚できませーン」
「「あ」」

 そりゃ新志もどんよりするだろう。いきなり男性に結婚を申し込まれ、三年来の友人であるはずの珊瑚はまずそこを突っ込まず、新志が、まるでちゃんとしたお付き合いの手順を踏んで求婚すれば男性との結婚を承諾するかのように勝手に言いだしたのだ。


 男性同士なのに。男性同士なのに。男性同士なのに。


 もちろん珊瑚を責めるのは酷というもの。まだ新志が来て日は浅く、絶佳をはじめとする同僚達が女性であると思わせなければならないが、動転してその事を忘れてしまっていた。
 それに新志は知らないが、この魔術師軍の中でも絶佳は仕草、所作から一番男性的な振る舞いができるが、華帝国における姫君であることは周知の事実。その気になれば実家の財力で若いツバメをいくらでも囲うことができる。そういう裏づけがあるから、珊瑚は柄にも無く新志を取られると思ってあせってしまった。
 だが、珊瑚にホモ扱いされた新志の精神的ダメージは想像以上に大きかったのだろう。
 結局遠い目をしながら、心でしくしくと泣きながら、次の授業が始まるまで絶望の深い溜息を吐き続けていたのであった。





 
「あんたはアメリア精霊合唱国で、そっちの朱絶佳は華帝国……で、俺の決闘の相手のあんたは……」

 喉元過ぎれば熱さ忘れるという言葉を地で行くように、新志は精神の均衡を取り戻していた。肉体がタフなら精神もタフなのか。珊瑚のチームであるジャニーと絶佳、そしてアトリと話をしている。

「デュガン連邦の旧貴族をやっているよ、戦堂新志」

 答えるのは、アトリ。無意味に薔薇を持っている。

「あ、ああ」
「なぜ尻を防御するのだ君は!」

 後ろの貞操を守ろうとする新志。
 警戒する新志を睨むアトリ。標準を超える美形だけに本気っぽい殺意を孕んだ視線はある種の危険な迫力を醸し出していたが、新志は少し首を傾げて呟く。

「……にしても、なんつうんだろうな。……なんかこう、やけに標準以上の美形が多いな。それも皆線が細いし、髪、結構伸ばしてる奴多いし」

 何の気なしに呟いた言葉ではあったが、少し離れた場所から観察している人間がいれば、全員の背筋が緊張で帯電するのが見て取れただろう。
 世界各地から集められた魔術師としての資質を持つ人間ばかりなのだから、髪の毛の色が国際色豊かなのは当然だが、こうも美形ばかりというのは腑に落ちなかったらしい。

 新志は思う――もう少しむくつけな大男でもいれば自分も楽しい生活を送れたかの知れないのに、主に肉体言語的な方面で。

 珊瑚が口を開く。秘密の発覚の危機に足元に震えが走っているのは、幸い机に隠れて新志の位置から見える事は無かった。

「か、髪の毛が長い人が多いのは……一説じゃ魔力の総量に髪の長さが関わっているって研究もあるから、みんな伸ばしているんだよ。……じ、実際にはそんなに大差ないらしいけど……ちょっとした願掛け、かな?」
「うん。命に関わるんじゃ、神頼みに縋りたくなるのも当たり前の話か」

 納得したように頷く新志。上手く話を逸らせたか? と期待する一同だが、しかし新志はそんな彼女達の願いを無視するように続ける。

「……不自然なぐらいにみんな綺麗だよなぁ」

 まるで心臓を氷の腕で鷲掴みにされたような感覚。そんな彼女達の心情を無視して新志は言う。

「……なぁ、こんな美形ぞろいのとこなんだから、きっと毎日ウハウハなんだろう、アトリ」

 そんな緊迫した空気の中でも瞬時に自分の性嗜好に関わる妄想を脳内で展開できる恐るべきエロの速度は、間違いなく彼女が超一流の変態であることを示すものであった。
 頬がだらしなく緩み、目尻が悦楽で垂れ下がり、周囲にピンク色の空間を展開するように、淫蕩な笑顔を浮かべる。男女問わず蕩けるような媚笑で悩殺するようないやに色っぽい表情。アトリはぺろりと赤い舌で自分の指を舐めた。

「ああ、まったく持ってその通りだねぇ……こ、こんな四方八方美味しそうな人だらけのパラダイスに来られた事を私は……」

 ゾクゾクと、背中に感悦の波が押し寄せているのか、口元から涎をじゅるりと零しながらアブナイ台詞を口にし、自分の指をちゅぱちゅぱと舐めている、感極まったかのように己の体を掻き抱くアトリは。




 教室に誰もいない事に遅まきながら気づいた。





 全員、ドン引きである。



 戦堂新志は逃げ込むように教室の外側の窓の縁に掴まりながら、教室の中に入る前に自分が抱いていた楽観的予想が、所詮ただの願望でしかないことをはっきりと突き付けられ、戦慄の冷や汗を流した。

「……やはり……そっちの人だったのか」
「アトリ……キミって……」
「オゥ……ミーもイヤラシイ話は大変大好物ですが、流石にちょっと引きましタ」
「うわぁ、へ、変態だー」

 廊下側の天井に張り付いて逃げている珊瑚。新志と同じく教室の外側の窓に掴まっている絶佳、廊下に逃げ出した教室の全生徒の中にいるジャニー。

 新志と珊瑚とジャニーと絶佳は――かなりいやそうな表情で同じ意見を吐いた。

 戦堂新志にとって、アトリ=瑞島=レギンディヴとはこの男性ばかりの魔術師軍の中で、男が好きな男性である事が確実になってしまった。もしこれで彼が珊瑚にのみ、えっちな気持ちになる性癖の人であるならば、まだ彼は外見の男装に関わらず珊瑚の真の性別を本能で見抜いたノーマルな人であると自分を信じ込ませる事も出来ただろう。
 だが、先の告白はその願望に似た予想を完璧に覆す、紛れもない変態の証明であった。

 新志を除く三名はもっと簡単だ。
 三人が全員男装が義務付けられたこの魔術師軍に属するものの、実に平凡な性嗜好の持ち主であり、彼女のその告白に身の危険を感じたのである。流石に白昼堂々犯行に及ばれるとは思わなかったらしい。
 アトリは流石に自分の失言に気づいたのか、顔を真っ青にする。

「ち、ち、違うのだよ、これは……!」

 眉間を揉む珊瑚。

「……ボクの部屋から出て貰ってよかったかも知れないね」
「ヘイ、サンゴ。アトリの監視はミーに任せてクダサーイ。とりあえず以前から興味津々だった亀甲縛りから試すデース」
「四肢の動きを封じる経穴もあるぞー」
「ああ、自由が!! 比喩表現じゃなくて物理的に私の自由が奪われようとしているぞ!! 
 ……あはぁぁぁん興奮するぅぅぅ!!」
「……そこで興奮するから変態扱いされる事にどうして気付かないんだコイツ」

 流石に呆れて疲れたような言葉しか出ない新志。
 周囲にいた同じ教室の同僚達も今のやりとりを聞いていたのだろう。みな一様に戦慄の表情を浮かべていた――が、わらわらといつものように教室に戻り始める。こんな恐怖にすら人間は慣れるものなのかと、新志はある意味感心した。

「……アトリが恐ろしい変態サンと分かったところでデスが」
「いや、ジャニー。あんたもアトリと同じぐらい大概変態だと思うぜ。亀甲縛りって……」

 新志はぼそりと呟いたが、ジャニーからの返事はかなりキレのあるいいパンチだった。

「ミーが気になっていたのは別の話デス。新志。ユーは昨日何処で寝泊まりしたですカ?」
「あ、それはボクも気になってた。……新志、ボクと相部屋になったのに、何で何処にもいなかったの? ……まぁ、君、体力お化けだし、滝に打たれながら一晩寝て過ごしても翌日けろりと起きそうだからあんまり心配しなかったけど」
「そこはかとなく、お前が俺の事をどう考えていたのかよく分かったよ……。そして俺の顔面にめり込んだパンチに対しては慰めの言葉も謝罪の台詞も無しなのは何故?」

 新志の言葉に何を言ってるんだコイツ、と言わんばかりの侮蔑の眼差しを向ける珊瑚と絶佳とジャニー。

「いや、新志。いくらなんでもアトリと同格の変態呼ばわりは失礼だよ!!」
「そうだぜアンちゃん! こんな変態とあたしらの中じゃ比較的普通なジャニーを一緒にするなんてあんまりだぜ!」
「ミーの魂を汚される前に正当な報復をしたまでデース! ミーは謝罪しまセン!!」
「……みんなの心がひとつになってるんだが、なぁ、アトリ。お前本気で嫌われてるんじゃないのか? 少しは怒ったら?」
「………………嗚呼、みんなの侮蔑の視線と言葉が突き刺さる! き、気持ちいいよぉ!!」

 新志は両手を挙げて、俺が悪うございました、と謝罪した。とりあえず嬉しそうに悶えている変態はさておき、困ったな、と呟いてから新志は答える。

「いやなに。……そもそも、アトリと俺が決闘する理由は何だ?」
「……サンゴねーちゃんとの相部屋の権利だなー」

 ああ、と絶佳の言葉に頷く新志。

「じゃあ、勝利した訳でも無いのに、俺が上がり込む訳にもいかんだろう」

 え、とこの事態を招いた張本人である、一人エロ妄想に悶えていたアトリは予想外の言葉に言葉を失う。
 確かに、挑んだ決闘でアトリが勝利すれば過去と同じように珊瑚との相部屋になる。だが決闘を行いそれが実行されるまでは珊瑚の部屋に新志が居座るのは、わざわざ口頭で確認するほどの事でもない至極当然のことなのだと考えていたのだが。

「……じゃ、昨日は?」
「近くの森で過ごした。なに。夜露がしのげりゃ大概どうとでもなる。……腹は減ったけど」 

 アトリは困ったように表情を曇らせたが、躊躇も一瞬だった。
 新志の前にすっくと進み出て、頭を下げる。

「すまなかった」
「いきなりだな。……なぁおい、俺は何に対して謝罪されているんだ?」

 本当に不思議そうに小首を傾げる新志のその反応に、この男が本気で何に対して謝られているのか理解出来ていないことがはっきりと分かった。確かに、新志が指定された珊瑚の部屋に泊まるものと考えるのは常識の範疇である。だが、目の前の男はこちらが一方的に仕掛けた決闘の、勝者の権利として賭けられた部屋での生活を享受することを自ら拒み、野宿することを選んだのである。
 アトリが身勝手な理由で挑まなければ当然の権利として屋根のある宿舎の下で生活できるのに。新志は応える。

「約束したじゃないかね。勝った方が珊瑚との相部屋の権利を手に入れるって」

 新志がとった行動は確かに愚かに類する行為ではあるが、アトリは目の前の男が、約束を守るためなら自分が有する大抵のものを切り捨てる類の男である事をただの一言で理解した。羞恥心で耳元まで紅く染まる。己自身が恥ずかしい。アトリは自分を恥じる。

「ね、アトリ。わかったでしょう? ……こいつはそう言う類の馬鹿だって」
「……久方ぶりに出会った三年来の友人の評価が暴落してんなぁ」

 呆れたように呟く新志。珊瑚はいやに楽しそうに微笑んだまま。

「……なるべく早めに場所の使用許可を貰うようにする。だから新志、次からは珊瑚の部屋に寝泊りするようにしてくれたまえ」

 幾らなんでも決闘の日まで野ざらし生活を遅らせるのは自身の騎士道にも良心にも反する。
 新志は、しかし、と眉間に皺を刻んで答える。

「……いいのか?」
「良い訳ない!! ……良い訳ないが……!」

 拳をぎりぎりと握り締めるアトリ。瞳には血涙を流すかのような憤懣に満ちた眼光を見せるが、しかし、二言を翻す事はなかった。新志、気を使って言う。

「やっぱりやめた方が……」
「新志。それ以上は失礼だよ。……そりゃ君が妖怪並みの体力の持ち主である事はボクもよくわかってる。でも、万全の調整で決闘に臨まないということは、ひいては相手に対する侮辱にもなるんだよ?」

 珊瑚の言葉に、はっとしたような新志は直ぐに首肯する。

「……それも、そうだな。悪い」

 新志は素直に謝罪の言葉を掛けてアトリに対し頭を下げた。どういう言葉が新志を操縦するのに向いているのか、幼馴染である珊瑚は良く理解していたのだろう。うん、と満足そうな笑顔を見せる。

「それじゃ、どこで寝泊りすればいいのか、部屋教えてくれ」
「分かった、案内するよ」

 そう言い、教室を後にする新志と珊瑚。その背中を見送りながらアトリはぎりぎりと手のひらを握り締めるのであった。その前で話し合う絶佳とジャニー。

「なー、ジャニー」
「オゥ、ナンですカー? 絶佳」
「ここはやっぱり男性女性の異性の人達が、一緒の部屋に住んでいるということは、同棲しているということには、触れないほうが良いのかなー」
「あの二人を見ている限り、イヤラシイ方向に発展することは無さそうですガ……口に出さないほうがよろしいデース」
「ところで家令に言われたけど、男の人と女の人が一緒の部屋で生活するのはいけないと教えられたけど、どうしてさー」
「子供は知らなくて良いのデス」
「……あたしは子供じゃないぞー」

 頬を膨らませる絶佳に、ジャニーはからからと朗らかに笑い、無理やり会話を打ち切る。
 もちろんそんな会話を聞かされ、嫉妬に狂うあまり気絶したアトリがその辺に転がっていたが、二人とも当然のように無視する方向であった。







「ねぇ、新志」
「おう」

 廊下を先に歩いていた珊瑚は、後ろを付いてくる新志に声を掛けた。先日、この魔術師軍へと編入されてからほぼ一日が過ぎようとしている。夕日が沈む光景だけは世界共通であるんだとどこかで安堵しながら新志は答えた。

「……さっきの話なんだけど。勿論、この魔術師軍に属するのはみんな男性なんだけど、そう前置きするんだけど」
「おう」
「……髪が長くて顔も線が細くて綺麗だったら、女性だと疑わなかったの?」

 新志は、まるで今まで気づかなかった真実を指摘されたかのように、ああ、とぽんと手を叩いた。珊瑚自身、それが非常に危うい言葉だと理解してはいたが、並外れて鈍感なこの親友、この程度では真実に辿り着かない事を良く理解していた。剣以外、強くなること以外のことには幼児並みの鈍感さしか有していないのだ。
 その鈍感さは幼少の頃から一緒に生活していた珊瑚を数日前まで男性だと確信していた事からも伺える。

「だってなぁ、珊瑚」
「う、うん」

 新志のどこか真剣な眼差しに、やばい、格好良いかも、と呟いた珊瑚。頷く。
 ……だが、次の一言を聞き、彼女の表情は凍えるような無表情へと凍結されることになる。

「女の人って胸が膨らんでいるじゃないか」
「…………」

 先程まで出会っていた皆の胸が皆平等に平坦なのは理由がある。
 性別を隠匿する為の無駄技術。かつて弓国では胸元を締め付けるサラシなどが用いられており、魔術師軍でも数十年前までは胸元を締め付けて隠匿するのが主流であったが、しかしジャニー・ジャック・ジェットラムのような豊満な体形の人からはこの手法は大変不人気であったし、また体形の成長を阻むその措置に対する不満の声は昔からあった。
 そんな訳で、一昔前ならサラシを巻いて締め上げなければならなかった胸元だが、早乙女氏と<ジーニアス>が一体どういう技術を用いているのか分からない『亜空間格納ブラジャー』なる非常に胡散臭い代物を開発した為に胸を締め付けられる苦しさからは解消されていた。

 素晴らしき技術の無駄遣い筆頭ではあったが、今では誰もがそのお陰で胸部に息苦しさを感じることは無くなっていた。同時に皆外見的な豊満さは規格化されたように真っ平らになった。
 どんな巨乳も、どんな美乳も、戦場ではみな平等に貧乳――珊瑚は、ここは胸に対する劣等感に悩まされる事がない理想の職場、夢にまでみたパラダイス、悩み無きおっぱい共産主義(バスト・コミュニズム)が具現化した世界と考えていた時期があった。それだけに帰還し、『亜空間格納ブラジャー』を外した後は理想とかけ離れた、富めるものと貧しきものの間にある絶望的な格差という過酷な現実に苦しめられたのだが。
 そう、その素晴らしき技術の無駄遣いの恩恵を受ける事が出来なかったのが土倉珊瑚であった。まったいらな体形、膨らみなど皆無の胸元を覆うには超技術の恩恵を使う必要など無いと断言された――『亜空間格納ブラジャー』は必要ない、と支給されなかったかつての屈辱が蘇る。



「……もういっぺん言ってみろ」
「え?」

 新志はその冷たく凍える声色に、自分が地雷を踏んだ事に気づいた。
 周囲が男性と扱っているなら、自分も珊瑚の事を男性として扱うべきと考えた男は、珊瑚が男装美少女であるという事をすっかり念頭から消していたのである。やべ、と遅まきながら気づいたが、それ故に自分の発言が乙女心と言う奴に対して腹切って詫びねばならぬ最上級の無礼であると理解するだけに、失言を取り成すには千言費やしても尚足りぬと自覚させられたのだ。

 冷や汗が流れる。

「……ボクのどこが洗濯板だ! ボクの何が男性服売り場だ! ボクの体が断崖絶壁だと?!」
「……あの、なんか私怨混じってない?」
「黙れ馬鹿!! 平坦胸の女性全てに変わって天誅を下してやる!!」

 あれ、性別隠匿しなきゃならないのに大声で叫んでいいのか? と新志は気が気でなかったが、しかしそんな事情などまるで頓着しない珊瑚は口元から明らかに人間ではない呼吸音を漏らし、背筋に闘気を立ち上がらせて近づく。まるで首に縄付け囚人を引く地獄の獄卒の如き暗黒の威圧を立ち上らせる。戦慄する新志、ここまで接近されては対人関係における必殺技『土下座の構え』に移行する事すら出来ない。とにかく逃げよう、即断し、逃げ出そうとする。だが、それより早く、珊瑚の一撃が放たれた。

「死ねぇぇぇぇぇぇぇえええええ!!」

 新志の体は珊瑚の小柄な体躯からは想像しがたい八つ当たり千パーセントの超常的な力で跳ね飛ばされる。




 あーれー。




 新志はやけに余裕のある悲鳴と共に窓から落ちた。







「で、生きていたの?」
『はい』

 魔術師軍の中でも特別な地位の人間しか入る事を許されない特別な部屋の中で、ゴシックドレスの偽美少女、早乙女光と〈ジーニアス〉は会話を交わす。
 大きなスクリーンに表示されるのは、新規生として編入された戦堂新志が受けた授業の内容とその結果だ。

『既存の魔術系統で彼の得意分野に当てはまるものは存在していません。あえて初期適正が似ている人がいるとすれば……貴方です、光。いえ、魔術師スピードガール』
「身体系能力に特化している、か。……とはいえ、男性の魔力持ちが僕と彼しか存在していないのなら、必ずしもそうであるとは限らないけど」

 恐ろしく低い確率で生誕する男性での魔力持ちは――現在二名しか確認されておらず、まともな統計データを採ることが出来ない。

「適正のある方向を探すまで授業内容で調査か。……その方向で頼むよ」
『了解しました』

 人工知性にしては人間くさい言葉の響き。ディスプレイの電源が落ちる。明かりの一切が失われ、薄暗くなった一室で、彼、早乙女光は一人ごちる。

「……『将魔』の持つ呪詛毒は、男性のままでは防ぐことはできない。とすれば、彼を女装させる必要が出るけども」

 異性装をすることで呪詛毒を回避するシステム。早乙女は戦堂新志の女装姿を想像して……腹の底からこみ上げる爆笑の衝動を堪え切れずに思わず吹いた。
 そのまましばらく爆笑して、爆笑しすぎて、呼吸を忘れてあやうく死に掛けたがとりあえず持ち直し、いまだ痙攣を続ける肺と横隔膜を宥めつつ、何とかシリアスに呟こうとする。

「……さ、さて。どう、転ぶかな……ぶふぅ」



 失敗した。



[15960] 二番勝負――本番
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/06 00:48
 南極で『魔』との戦争が勃発した際――小さな島国、弓国に恐るべき剣法が誕生する。

 戦堂一倒流。

 または、戦堂逸闘流。

 歴史は浅く、今を遡る事五十年程度前、大戦初期を設立時期とする。
 創意した人物の名称が残っていないのは、野に隠れ、細々と伝承されてきた当時の斬魔剣法の各流派、その総帥達が奥義の秘匿をやめ、お互いの保有する術理を全て公開して最強の一流派を創作せんとしたからであった。それぞれが高い矜持を持つ武術家達が隠匿をやめたのは当時の今上陛下が、最強の斬魔剣法の作成の必要性を説いて回ったと言われているが、それは定かではない。
 人間同士の戦いであるならば――言葉が通じる以上、交渉で戦いを回避することも出来るが、怪物が相手ではそうもいかない。闘う以上結果はどちらか一方の死であるのだから、敗北する事は絶対に許されなかった。
 
 とはいえ、思考錯誤の末に南極に存在する『獣魔』を打ち滅ぼす剣法を編み出したものの、それは到底常人には会得しえぬ怪物剣法へと変貌してしまったのである。

 かの流派は怪物に対し、有効な負傷を与えるためとして全長二メートル近くの刀を普通の『太刀』とする。それ故に、体躯、膂力において恵まれぬものは当流派の門を叩く事すら許されない。幼少から、かの剣技を練磨し続けた人間でも、体格が、膂力が足りなければ門弟からはずされるという苛烈な時期もあったと言う。
 鍛錬は巨刀を振るう為の筋力の増強と、精緻極まる剣技の研鑽に重点が置かれており、戦場でこの流派の門弟と出くわした際、ほぼ全ての敵が、一撃の元に下されている。極めるには天性の膂力、精緻な剣技への悟性豊かな才能に恵まれている事が必要不可欠とされていた。

 強靭な骨格、類稀な体力を付け、それに精妙な剣技を会得させ――更に最新鋭のパワーアシストアーマーを装備させる。彼ら戦堂一倒流の高弟一人が剣闘部隊一個中隊に匹敵すると謳われるのは法螺ではないのだ。

 一撃で倒す。それゆえの一倒流。
 この怪物剣法が南極での戦いのみならず、弓国における最強の剣技を決するための天覧試合において実際に用いられた時、他流派は全て敗北。当時の将軍家ご指南役を蹴り落とし、かの流派がその地位に着くことになる。
 また、流派高弟は『巨刃衆』と呼ばれ、今上陛下と将軍家直衛の最精鋭部隊、恐るべき剣妖集団として他国にも知られているのであった。





「……なんだか、めちゃくちゃ危険な相手に喧嘩を売った気がするね」

 校舎の一角、資料室で情報をディスプレイに呼び出した、アトリ=瑞島=レギンディヴはいにしえの軍略家に習い、戦堂新志の体得する流派の事を調べて、結果出てきたその内容に戦慄を禁じえないでいた。
 そもそも珊瑚と一緒の部屋に住む相手と言うことで挑んだ決闘ではあった。頭に血が上った彼女は相手の事をろくすっぽ調べもせずに決闘を申し込んだものの、この事実を先に知っていた場合、果たして挑戦したかどうか。

「……いやいやいや」

 そんな事は無い、と考え直すアトリ。そもそもこの試合は愛(と書いて肉欲と読む)が賭かっている。愛(と書いてただれた肉欲と読む)を貫き通せないなど騎士道の名折れ、必ず勝たねばと気合を入れなおした。彼女もデュガン連邦に脈々と伝わる刺突剣の使い手。剣技が経た歴史の古さでならば負けなどしないはず。
 自分も剣士のはしくれ。強敵を前にすれば奮い立つし、彼女の先祖たちが連綿と伝えてきた剣術の矜持を背負ってもいる。背中を見せる事を恥とする騎士の出でもあった。ならばまず訓練だ。練習量こそが、経験の数こそが実力を決する。

「There is no royal road to learning、さぁ、頑張るぞ」




 とはいえ、少なくともそれだけ狭き門とされる戦堂一倒流の門弟、それも総帥からその実力が超一流であるとお墨付きを貰うような人間が、鍛錬の汗を流す事を厭うはずはなかった。確かに、体格に優れた人間でなければ門を叩くことすら拒まれる狭き流派ではある。だが、だからと言って天性の体格に胡坐を掻いたままで、次期総帥と目されるほどの立場に行けるほど剣の道は甘くない。
彼のその姿勢は『学問に王道なし』と先ほど呟いた彼女自身の主義にも反さない。
 だから、たった一人で体育館の中に設けられた鍛練場で上着一枚になって太刀を振るう対戦相手の姿を見ても特に驚きはしなかった。

「やぁ、精が出るね」
「……ん? ああ、アトリか」

 アトリはぐるりと周囲に視線を巡らせるが、誰もいない。いつもなら十人前後の人間がトレーニングに励んでいるはず。……その姿が全く見えないのはやはりこの学園での数少ない男性である彼の存在を警戒しているからなのだろう。新志は太刀を振るう手を止めた。国本から持ってきた二メートル近くの大太刀を鞘ぐるみにし、周りには重しを付けて負荷を上げている。うっすらと汗を掻いた肌を見れば、魔術による身体強化を得ない場合は、上下させる事すら難しいそれを片手一つで振るっている。

 下から上へ斬り上げる。びゅう、と巻き起こる風、風が孕む音の重さ、音の重さから想像できる破壊力。……なるほど強い、とアトリは笑う。
 鞘に重しを付けてこの剣速。剥き身の刃なら壮絶な速度で敵対者の肉を断ち、骨を断つ、恐るべき剛剣の業だ。

(……と、すれば、勝機は初撃を回避し、新志の懐に飛び込んでからで決まるね)

 強敵に対する敬意と畏怖の念を抱きはした。だが、アトリは経験から長獲物の弱点を熟知している。長大な武装は射程と威力に優れるが取り回しに難があり、内に入られれば脆い。
 ……ただし、そんな事はアトリならずとも、ある程度の眼力があれば分かる。戦堂一倒流が恐れられるのはそういう小手先の術理でどうこうできる相手ではないからのはず。

「攻略方法は見えたか?」
「え? ああいや……って、何故?」

 だから新志の言葉に素直に頷き――同時に何故わかったと問いたげな視線を向ける。
 新志はぶるぅんと、風を切ると形容するにはあまりに荒々しい剣風を引き起こしながら言う。

「その目、良く見たことがある。……俺が体得した術理の隙を探ろうと知恵を巡らせる剣客のそれだ」

 断言する。そしてその断言が正しい事をアトリは認めざるを得ない。観察者の目で試合相手を見るつもりの意識でアトリは答えた。

「戦う相手に対して自分の剣速を平気で見せるのは、圧倒的実力差からくる自信かい?」
「家で、あの戦堂の家で楽だった相手は一人もいなかった」

 新志は、続けて剣を振るう。

「ただしな。アトリ。……俺は、自分の術理を隠匿するとか、そう言う七面倒臭い小細工より、一回でも多く素振りをしたい」

 ぶるぅん。剣風が頬を撫で、前髪を揺らす。

「悟性に恵まれ、剣才豊かな次代の天才だなんて言われてはいるが、姉上や兄上は俺より才能があったと今でも思っている」
「……では君が、その才能があった人達より先んじて戦堂一倒流の次期総帥候補になった、他者に勝る点はいったいなんだと思うんだい?」

 これは、アトリ自身の純粋な好奇心からくる言葉だった。果たしてどのような言葉が返ってくるのか興味深げに見つめるアトリの前で新志は剣を振るう腕を止め、少し考え込むように天井を見やった。

「……筋肉だな」
「はぁ?」

 そして予想の斜め上を行く言葉にアトリは目を丸くする。『信念』とか『気力』とかそういった精神論が出てくると思えば、帰ってきたのはこの上ないまでの筋肉信仰だ。呆れたような言葉が出たのもいたしかたない。

「俺は、義兄上義姉上に比べれば、剣技では負けていた。……俺が勝っていたものは、剣を振るう楽しみを早くから見つけていたことだと思う」

 全力で振りかぶる太刀を、両腕の筋肉を躍動させ、空中で静止させる。
 重量も速度も乗った大太刀の斬撃を腕力で停止させる。それも切っ先がまるでぶれることなく、空中で完全ともいえるほどの静止、それがどれほどの筋力を要するのか理解するアトリは思わず目を剥いた。

「子供の頃、最初に渡されたのは……餓鬼には不釣合いな馬鹿でかい木刀。一日それをずっと振り続ける事を指導された。

 振るい続けるうちに木刀がすっぽ抜けなくなる。
 振るい続けるうちに下肢のふらつきが無くなる。
 振るい続けるうちに切っ先が泳がなくなる。
 振るい続けるうちに全身が安定する。
 肉体が理想に近づいていくその感動があったから、その感動を得るためにたたき上げ続けた筋肉だけが、あの二人に勝っていた点なんだろう」
 旋回する大太刀。横薙ぎから斜めよりの斬り落とし、下段から頭上への切り上げ。剣風が巻き起こすその音それ自体に剣士の本能を戦慄させる霊的な力が宿っているかのよう。それ以上は新志も答えようとはせず、ただ斬撃の速度を己の理想に近づけるようにひたすら両腕に過度の負荷を掛け、筋肉を疲労させ、更に太く強靭に再生させるべく鍛錬を繰り返す。

 その求道の姿勢に、これは手ごわいな、と一言呟くと、アトリは自分も同様に鍛錬すべく、練習用の模擬剣を静かに構える。誇り高い武人として公平を期すために、自分の修錬の姿を見せ、己も手の内をある程度晒すのだ。互角の立場で戦うために。






「デハ、これより戦堂新志、アトリ=瑞島=レギンディヴの御両名の決闘を行うデース。両人ともオカクゴはヨロシ? 遺書カイタ? トイレ行っタ? パンツのゴム紐シメタ?」
「万全、問題ねぇよ」
「こちらもだ」

 この魔術師軍の若人が連携戦闘に励むために作られた巨大なグランドの中心で戦堂新志とアトリの両名は共に模擬刀を携え、決闘の始まりを今か今かと待ち望んでいた。

「それにしても、案外暇人が多い」

 半ばあきれ気味で、決闘場の周りをぐるりと取り囲む見物人の量に声を漏らす新志。
 外部と閉鎖された環境ゆえにこういった一種の娯楽には飢えているのだろうか。先程から自分に突き刺さる視線の量に辟易しつつそう考える。もしくは、轡を並べることになる新志がどの程度の強さであるのかをこの一戦で推し量ろうとしているのか。

「こらー! そんな事よりボクの今現在の姿を見て先に何か言うことがあるだろうがー!!」

 新志の呟きにうがー、と声を張り上げて叫ぶのは、今回審判役を務めるジャニーの足元で何故か簀巻きにされたままの珊瑚であった。がるるる、とうなり声を上げるようにする彼女に座り込んで語り掛けるジャニー。

「オウ、サンゴ、いけませんデース。ユーは今回二人が奪い合う為の報酬、おとなしくしてもらわないと困りまス」
「サンゴくーん! 見ていてくれたまえ、私は今日勝って君をモノにして見せるからね!!」
「……あの、キミが勝ってもまた元通りの部屋割りになるだけなんだと思うけど……ねぇ、新志!! キミも何か言えよ!!」
「まぁ、男同士の友情の範囲でとどめとけよ、お前ら。正直な話、リアルボーイズラブな同級生は友達に迎えるには……ちょっと、つらい」
「許さない! ジャニー! 今すぐ手かせ足かせを外せ! あの馬鹿を殴ってやる!!」

 珊瑚の性別を隠さなければならないと思っている新志からすれば、割と上手いことを言ったつもりではあった。しかし、珊瑚からすれば大変面白くない台詞ではある。新志は自分の事を女の子であると知っている。そしてアトリを男の子(実際は女性)と信じているのなら、男女同衾の立場になってしまうというのに、新志ときたら嫉妬の様子などひとつも見せない。その様子を見せられれば珊瑚からすれば胸の奥からいらいらと腹立たしい嫉妬の気持ちが湧き上がってくるのだ。
 なんで怒られなければならんのだ、本気で不思議そうな表情を見せる新志は、珊瑚をどうどう、と宥めていた審判役のジャニーをちょいちょいと手招きする。面白そうな表情で近づく相手にそっと耳打ち、珊瑚を指差した。

「……なぁ、なんで俺は怒られているんだ」
「いや、この状況、新志は悪くないデース」
「だよなぁ」
「……でも新志が悪いような気がしないでもないデース」
「???」

 首を捻る新志。

「ところで、いつも一緒にいる絶佳は?」
「ああ、絶佳なら、屋台で見物客に混じって本格中華を振舞っている真っ最中デスね。一度試食して見るとヨイです。花よ……花婿修行で相当料理の研鑽を積んだそうですカラ」
「ああ、あの炎が竜になっているところ?」
「イエスイエス」

 遠方の無駄に格好いい調理風景を遠目にしながら新志は、自分が今手元に携える獲物を握る。
 竹刀だ。一昔前の木刀ではなく、相手を力いっぱい叩いても決して命を奪うことの無い練習用のものだが、新志が今回握るのはこの決闘のために用意された二メートル近くの竹刀だ。
 目の前に佇む対戦相手であるアトリも同様。先端をゴムで包んだ、総樹脂製の模擬剣。
 ただし、世間一般的な試合と違うのは、両名ともその体を防具で覆ってはいないということ。お互いにただの一撃も入れさせないという強烈な自負から来る防具なしの姿であった。

「では。両名とも、開始線へカモーン」

 ジャニーの言葉に従い、二人は相対する位置へ。両名の間に存在する空間は三メートル前後。

 お互いに、構える。

 新志は、竹刀を大上段の位置へ。ここから真っ向に振り下ろす以外に有り得ない、それゆえに怒涛の剣速と威力を有する構え。アトリは相手の斬撃に対し半身に構え、切っ先を突き出すようにする。腰にはもう一刀予備の模擬剣を吊っている。
 そして、両名の視界にはお互いに剣を携え、勝利を奪わんと欲する敵のみが投影される。周囲の喧騒も遥か遠くへ、意識の外へと運ばれていき、聴覚を閉めるものは風の音と自分自身の心臓の音のみへと絞られていく。一が千に拡大されるような精神の集中が始まり、舌先に飢えを感じる。

「はじめっ」

 開始を告げる宣告を、全身の細胞で聞く両名。
 新志の攻撃に躊躇は無い。踏み込んで、馬鹿馬鹿しいほど鍛え上げた肉体が許す限りの最速で真っ向から振り下ろす。単純明快であるだけに対処の手段も限定される。後退か、横方向への移動か。想定できる相手の対処に対して山ほど斬撃軌道の選択肢を脳裏に広げながら新志は一撃を繰り出そうとし、視界に写る相手の行動に目を見張った。

 アトリはすでに斬撃の動作に移っている。

 早すぎる。アトリの全身の運動と共に繰り出される刺突の一撃は三メートル程度の距離を一速で飛び越えるほどの鋭さを誇る事を、練習の姿を見て知っていたが、新志はそれより速く相手の間合いの外から一撃を振り下ろす事ができる。あまりにも早すぎる攻撃の動作に新志は一瞬、不信感を抱き……次の一刹那で相手の目的を見抜き、馬鹿げた反射神経で対応する。

 それは斬撃の動作ではなく、投擲の為の動作だった。

 風音を立てて胸元へ飛来する刺突剣の一撃を大太刀の柄でもって弾く。が、防御に集中したためか、アトリに懐に踏み込ませてしまった。相手は同時に腰に下げた予備の模擬剣を引き抜いている。

「殺った!」

 相手の叫び声が響き渡る。なるほど上手い対処だ、新志は感心する。
 大太刀の間合いからの攻撃。それを避けるため相手は武器を投げるという手段でこちらの射程距離外からの攻撃を実行して見せた。尋常な剣士であればあるほど、その思考の硬直を突いた一撃は有効に働くだろう。
 アトリは息も発さずに殺しに掛かる。狙いはこちらの心臓、右の胸板。
 新志は相手の攻撃を半身になって避ける。掠めた、皮膚が焦げるような錯覚。
 距離が近すぎて斬撃は振るえない。だが、もちろん凡百の剣士から程遠い新志は――右腕に竹刀を保持したまま反撃に転じる。新志は更に突撃、お互いに吐息が交じり合うような肉迫戦。

「ぬっ!?」

 さすがに意外そうな声のアトリ。斬撃のためのスペースを得るため後退するかと思えば、逆に踏み込む相手。しかし怯む事無く超接近距離を拒むような横薙ぎの一閃を放った。新志はそれを深く地を這うような低空突撃へと体勢を切り替えて回避。それに更に迎撃を加えるアトリ。鉄の肘で新志の額に痛撃を打ち込まんとする。

 命中、衝撃。だが、脳髄を保護するため分厚い頭蓋骨で防御された頭はその一撃に耐えて見せた。新志、そこから飛び上がるように相手の腹腔目掛けて前蹴り、足刀を繰り出す。アトリは呼吸を殺す一撃に、反射的に後方へと後退しやり過そうとして――相手が構える竹刀の殺傷半径に誘導されたことに気づいた。

 再び大上段の構え――首切り役人が罪人の頸部を刎ねんとするかのような位置関係。まるで土壇場の光景。
 瞬間的にアトリの背筋に冷たいものが走り抜ける。

(な、に?!) 

 背筋にぞくりと冷たいものが走る。戦場にて幾度も獣魔を狩り殺し、将魔を打ち破り続けた歴戦の彼女は――実戦でも滅多に感じぬような危機感を覚える。まるで裸で獅子と同じ檻に同伴するような恐怖感、脳天から股間までを真っ二つにされ、空気の寒さを臓物の暖かさで感じるような錯覚、口内に刃を捻じ込まれ脊椎を破って血濡れた白刃が己の背から生える予感、相手の持つただの竹刀が恐るべき戮殺の大魔剣へと変じたような野生的直感。
 新志の剣速は鋭く、アトリの迎撃より早く体に届く。どうやっても回避はできないと確信させるほどの速度。尋常な剣術でこれを回避する事は不可能であった。

 それゆえに、常識から外れた魔術師相手にはまだ迎撃の余地が残されている。

 アトリの細胞の一片一片が主の意向を裏切り、超常の力の引き金を引く。
 戦慄、讃嘆、驚愕――それらすべてに先んじて行動として具現するもの。理性を生物としての防衛本能が圧倒し、意識もせぬまま口唇から力ある言葉を唱える。物理現象へと干渉し強力な力を発揮するその魔術の技の行使、本来ならば『魔』との戦争にのみ用いられるべきである力――純粋な剣術の試合にその力を使うことは、唐手の試合の最中に拳銃を引き抜き、相手を撃つ蛮行に匹敵する。そして、そんな蛮行を実行せねば危ういと彼女の全身が告げていた。

「なにっ!?」

 新志は思わず瞠目する。
 繰り出した竹刀の一撃がなにもないはずの空間で、まるで百キロで暴走する車両が見えざる腕によって強引に停止させられるのに似た、不可解な減速を強制させられたのである。本来ならばアトリの脳天をしたたかに打ち据えるはずだった一撃は、しかしその剣速の理不尽とも言える低下により、割り込んだ模擬剣に防がれてしまう。同時に驚いたのは、巨刃を振り回し、精妙無比な剣技を操る新志の右腕がまるでひきつったかのように握力を失い、竹刀を取り落としかけたこと。右腕に視線をやり、言葉を呑んだ。
 まるで一瞬だけブリザードの中に腕を突っ込んだようにびっしりと霜で覆われている。
 氷結、そういう力か――瞬時に理解。自由にならない右腕を抱えたままで――対応できるわけがない。その直後のアトリの動きは本人が意識したものというより、視界を横切った勝機を逃すまいとする、戦士の本能に忠実に従ったが故の無意識の行動であった。

 すっ、と――新志の目の前、眉間に模擬剣の先端が突きつけられる。

 だが、勝者であるはずのアトリの方がむしろ敗者であるかのように青ざめていた。尋常な剣術の勝負であるにも関わらず、相手の剣圧に押され、無意識に禁じ手を使用してしまったことは騎士として名誉にすら関わる行為だ。

「す、……すまない」

 自分自身の行為に失望したように蚊の鳴くような声を漏らし、模擬剣を取り落とすアトリ。
 新志は不可解そうな疑問の目をアトリに向ける。凍りついた指を何とか動かそうと力を込めた。

「アトリ……分かっているデスね?」
「……もちろんだとも」

 反則負け。その一部始終を見ていた全ての人間が同じ感想を抱いていた。
 確かに戦堂一倒流は強い。戦堂新志は常人が届く極限まで鍛え込まれており、その実力は賞賛に値する。
 だが、それでも、アトリは彼に対して手心を加えるべきであった。魔力という力を行使する魔術師軍の人間は常人とは次元の違うハードルから進むことができる。
 彼女が全力を出した場合、勝利するのは当然の話。人が無手で獅子と戦った所で勝利など覚束ないように、魔力という力を持ち出せばアトリが勝つのは当たり前だ。それを知るゆえにアトリはつい反射的にとはいえ、自分が行使してしまった力の強力さに項垂れる。
 ジャニーは勝者の名前を告げようとした。

「……勝者、戦堂――」
「馬鹿言うんじゃねぇ」

 ……それ故、言葉に明確な怒気を孕んだ新志の声に、ジャニーは思わず勝利者の宣言を中断させられる。
 戦堂新志は、取り落とした竹刀を、震える指先で持ち上げる。半身を覆う氷結は、肉体の奥底から湧き上がる激怒の熱気で溶かし、彼はジャニーを睨み付けた。

「……さっきの何処が、勝利者の姿だ?」

 なるほど、確かにその通りではある。
 新志の体の半身を覆う氷結の余波、眼前に突きつけられ、寸止めされた模擬剣の先端。これが尋常な勝負であれば新志の敗北だろう。

「新志、それは違うデスよ。……アトリはそもそも今回の戦いでは魔力を行使することは禁じられていましタ。そもそも魔力を使用された場合、新志が勝てる見込みワ……」
「……舐めやがって」

 新志は、本気の激怒を瞳に揺らめかせて、剣呑極まる笑みを見せる。
 むき出しにした歯が、刀剣を連ねた剣山のように見える。半身を縛る氷結を激情の炎で融解させ、なおも闘志を顕わにするようにアトリを睨んだ。ただしそれは――魔力という禁じられた手段を使ったことに対する怒りではなく、そんな手段を封じて勝利した事を悔いる相手に対する怒りだった。

「舐めやがって」
「そ、そんなつもりでは……」

 繰り返される言葉に戸惑ったような反応しかできないアトリ。
 怒りを笑顔で彩る新志の表情は、まるで獲物を前にした餓虎を連想させるような凶相であり、実力では彼を遥かに上回るはずのアトリを思わず怯ませるほどの威圧を有していた。

「舐めているだろうが……ここにいる奴等全員、俺を舐めているだろうが!!」

 大気を震わせるような大音声。見物に来ていた全員が、暴力的な肉声に圧倒され、思わず耳を押さえる。新志は竹刀を握る手に力を込める。悲鳴を上げるようにみしみしと音を立てていくそれに一瞥もくれずに叫んだ。

「さっきから黙って聞いてりゃどいつもこいつも全力で戦えば俺が負けると前提に話している! まぁ、負けたんだけどな!!」
「……いや、そこは自慢にならないと思うけど」

 珊瑚の言葉に、しかし、新志は怒りを収める事はない。
 結局のところ、彼ら全員、実戦ならば新志が負けると思っているわけであった。無理はないだろう。彼ら全員が人類にとっての脅威『将魔』を打ち倒すことのできる唯一の戦力であり、また同時に通常戦力とは隔絶した力を持つ。それは慢心ではない。彼らは全員が全員最強であると呼ばれるだけの実力を備えている。

 だが、腹が立つ。

『魔力を使っていないのだから、勝てないのは仕方がない』
『貴方はよくやった。ただの人間のままで、魔術師を追い込んだのだから十分過ぎるほど強い』
『貴方は強い。私達はそれより遥かに強いが、その強さを誇っていい』

 ――失礼な言葉だ。それが新志を嘲って笑う言葉ではなく、純粋に賞賛を込めた言葉であるのだからなおさら腹が立つ。
 戦堂新志とて自分の剣技に対して深い自負を持っている。

「ここで俺が敗れたのは、アトリが魔力という名前の強力な武器を出したからじゃない!!」

 叫ぶ。腹のうちの憤懣全てをぶちまけるように彼は叫んだ。

「魔力を行使してきた相手を打ち破ることができなかった俺が、弱かったから敗れただけだろうが!!」

 そして、振り向きざまに、自分の体を凍らせた決闘相手に言う。
 びくり、と、声を聞いた全員が慄然とする。確かに魔力を使えない新志だが、その雄たけびから、彼が魔力を持つ魔術師軍の戦士に対して、生身のままで勝つ気でいたのだと――人と獅子に例えられるような絶望的な戦力差を本気で乗り越えてみせるつもりでいたのだと理解させられる。

「覚えておけよ、アトリ。……世の中、生き永らえる事より――手心を加えられることの方をこそ、死に勝る恥辱と考える人種もいる」

 にやり、と強烈な敵意を笑顔の形に浮かべたまま、新志の両足が、自分の体重を支えることを堪えかねたようにゆっくりと崩れ落ちた。ジャニーに抱きとめられながら、新志はアトリを指差したまま、言う。

「……お前の勝ち。……そして、先に言っておく」

 ひどく楽しそうな声色で、新志は告げた。

「……お前に、決闘を申し込む」

 その一言だけを告げ――彼は意識を失った。
 



「ふむ」
「おーう、どーしたよ、ボス」

 先程から中華鍋を振り回し、火がドラゴンのように見えるような超派手な調理風景を見せ付けていた絶佳は、青椒肉絲をぱくつきながら両名の決闘を見物していた早乙女の箸を操る手が止まっている事に気づいて首を傾げた。ちなみに早乙女氏、黒いゴシックドレスが汚れるのを嫌ってふりふりのエプロンをつけている。黒の達筆で『漢』と書かれているのが激しくシュールだった。

「……ううん。……いやね」

 早乙女には、どことなく切り札を使用してしまったアトリの心情が理解できてしまう。
 あの上段からの打ち下ろしの一撃に入った時、早乙女は一瞬、この距離からでも凄絶な威圧感に気圧されるような感覚を受けた。目の前で相対していたアトリにしてみれば、目の前に突然大砲が砲門を向けているような必殺の存在、絶命の恐怖を感じたのだろう。
 むぅ、と唸って、医務室に自動機械で運び去られていく新志を見守りながら機械的に箸を動かす早乙女。そんな彼に話しても無駄だと考えた絶佳は数名の有志と後片付けを始めだした。早乙女は思考に没頭する。

「……アトリ、彼女の魔術特性は『氷結』。……しかも、通常の氷結と違い、彼女のは運動エネルギーにすら影響を及ぼすものだけど……人間の筋力で、あの堅牢無比な氷の盾をわずかとはいえ食い破った?」

 早乙女は眉間に皺を寄せたまま呟く。なら、考えられるのは。

「魔力を――相殺する魔力?」

 まともな人間の範疇の筋力で、アトリのあの強力な防御を突破することは不可能に近い。だが、同時に何の魔力の発現も感じられなかった。

「いや、違う……」

 首を横に振る。自分の仮説を否定する。

「……彼の魔力から感じるものは、魔術の無効化空間なんて格好いいものじゃない」

 形良い顎に手をやり、考え込む。あやふやな第六感が感じる形の無い感覚を言葉にすることで、明確な形に、理解できるように変化させるかのよう。



「彼の魔力から感じるものは……魔術の無効化空間なんて格好いいものじゃない。
 あれは、もっと原始的で、暴力的で、単純で――分厚い力だ」



[15960] 三番勝負――氷使い――前哨戦
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 14:42
「ミーにとって……まさしく絶望の日々でしタ」

 何故か真剣な表情で、先日と同じように珊瑚をはじめとしたいつもの面子が部屋に集まる中、ジャニー・ジャック・ジェットラムは遠い目をしながら呟く。

「新志がミーと絶佳のいるこの部屋の住人になることが決定してから、はや三日。思うままに全裸になれない日々。……ミーがフルオープン形態の際、アラシがやってくるというお色気ハプニングを発生してみたいという気持ちも無い訳ではなかったのですガ……」
「あの、ジャニー。冗談だよね? それって結構魔術師軍にとって致命的な事態なんだけど」

 流石に珊瑚も戦慄したかのように冷や汗を流しながら確認するが、ジャニーは妙に艶っぽい表情で微笑むだけ。肯定も否定もしなかった。アトリ、今回は素直に座布団の上に腰掛けながら言う。

「いや……というか、ジャニーは全裸派が事実であったことの方が私は驚きなんだが」
「ジャニーは、ひと脱ぎ一万円だぞー」
「……え、金取るの?」
「ノー。むしろ金を渡してでも見てもらいたいデース。……体の奥底から湧き出るムラムラを抑えるため、今も新志がいないタイミングを見計らって下着姿で生活しているのですガ」
「……話を進めたまえ脱ぎたがりの見られたがり!」

 そう言うなら何故アトリはジャニーの豊満な胸の魅惑の谷間に紙幣を挟んでいるのだろう。珊瑚はそう思ったが、話を中断することを嫌ってとりあえず突っ込みをやめた。

「まずは下のズボンから脱ぐのだよね?! 靴下は脱いではいけないよ!!」
「話を進めろって、脱ぐほうの話を進めろという内容だったのか!!」

 やっぱりツッコミを入れるべきだった。後の祭りと理解しつつも珊瑚はアトリを簀巻きにして……さぁこれでシリアスに話ができるぞ、と安堵のため息を吐いた。ちなみに簀巻きにされる際、始終興奮した表情を浮かべていたアトリはその後、押し入れに放り込まれている。『なるほど、放置プレイだ! ああ、スス、ステキー!!』とくぐもった感悦の声が聞こえてきたが、全員無視の方向であった。

 さて、と珊瑚は、数日前にこちらに住むことになった新志の簡素な身の回りの品物が詰まった鞄を見て嘆息を漏らす。

「あいつ、夜中は出歩いているんだったっけ?」
「イエス。……基本的に食堂には来るし、授業も受けるデスガ……それ以降、自由時間では彼は姿を見せませン。この部屋に来たのも最初に荷物を置いて、そのまま太刀一つ抱えて出かけたっきりデス」
「道で会っても『よう、元気か?』と答えるだけだー。……ああ、あの筋肉がムチムチ動くさまを思うまま鑑賞したいのによー……」

 珊瑚とジャニーは絶佳を簀巻きにして物置に放り込んだ。『ああ、暗いし狭いよー! せめてあたしの私物のマッスル肉襦袢を装備させてよー!!』と聞こえてきたが当然無視だった。
 むぅ、と、残った比較的に真面目な人間二人は眉間に眉を刻む。珊瑚は部屋に一台ずつ据え付けられた通信機をオンにした。

「〈ジーニアス〉は新志の居場所を知っているんだっけ?」
『はい』

 その質問の珊瑚の言葉に、部屋に置かれた通信機器の端末が起動し、返答が返ってくる。

『ただし、本人の意向により、知らせる事は許されていません』
「だよね」

 この統合AIはこの島で絶大な権力を持つが……当然誰かに肩入れすることは無い。彼女がまだ伝える必要がないと言うことは、差し迫った生命の危機でも無いと言う事なのだろう。ということは、実際に出会って話をするなら自分で見つけなければならないという訳だ。

「何をやってるんだか……」

 珊瑚は呟く。
 ……いや、正確には何をやっているかなど分かりきっている。彼自身が一週間後と限定したアトリとの次の試合に備えて訓練を続けている以外に無い。但し珊瑚は、今回ばかりは彼の努力も身を結ぶまいと思っていた。
 魔力を行使し、全力を発揮するアトリの戦闘力は、剣に限った勝負の時とは比べ物にならない。強化される身体能力、広域を蹂躙する寒風、運動エネルギーを凍らせる氷結、これまでの獣魔、将魔との戦いにおいて堅牢な鉄壁と強力な斬り込み役を両立させてきたその実力は、この魔術師軍の中でも極めて優秀な部類に入る。
 可能性があるとすれば、新志が己の内に眠る魔力の使い方を体得し、同じく魔術師として対等の立場に立つこと。
 隔絶した差を埋める才能を彼は有している。なら、後は新志次第。ただ、信じるしかなかった。





 酸素が欲しい、休息をとりたい。そういった全身の細胞が欲する欲求を、肉体を統率する強烈な意志が殲滅する。
 新志は一人、月下の元、誰もいない丘の開いた場所でその両腕に構える太刀を振るう。一閃ごとに凶風が逆巻く。……が、万全の体調で繰り出すほどの激しさはそこには無い。刃を握る掌は過度の練磨で引き攣る。掌には肉刺(まめ)が出来、それでもかまわず振り続けた結果皮が破れて血が流れる。
 近代スポーツ学をかじった人間から見れば、それは明らかなオーバーワークだ。
 休息は食事と僅かな睡眠。後はその四肢を練磨し続けるのみ。どくんどくんと心臓の鼓動は激しく高鳴り、大動脈を破るかと思うほど激しく脈を打ち続ける。尋常な目的意識では到底続ける事など出来ない苛烈な修行の光景であった。
 ある程度体を動かし――自らに数分の休息を許す新志。そのまま大の字に寝転がれば、全身の筋肉が文字通り悲鳴を上げた。
 修練に伴う心地よい疲労感と、筋肉がより太くより強靭に再生していく事を思い新志は満足感と共に思考する。全ては勝利する為。肉体を鍛えると共に、休息の数分は脳髄が戦術を練るための時間でもあった。

「……さて、どう攻略したもんかな」

 一人呟く。
 自分から申し出たアトリとの再戦であるが、しかし新志には未だ相手のあの氷結の盾に対する対処法を見付けてはいない。
 相手は自分の突きを正面から受け止める事の出来る盾を、ノーリアクションで生み出す事が出来る。竹刀のような軽い獲物であれば、なおさら突破は困難だろう。真剣ならどうだ? 総鋼鉄の刃ならば突破できないかな、と思考し――アトリが魔術師軍の戦士であり既に実戦をくぐったことのある人間だということを思い出した。実戦で通用しない技を磨く必要はない、防げるものだと仮定するべきだろう。

 ならば、余計に対応は難しい。

 相手は思考の引き金と二言三言の発音で盾を生める。そうさせないためには相手の意表を突く技で打つ必要がある。

「……となりゃ、振り下ろしから山返しの連携か」

 そう呟きながら起き上がり、大太刀を構えた。勝利のための策略は組み立てた。後は実現可能かどうかを試してみる。相手の氷結の盾を避けるため、意識外からの攻撃でないと駄目だろう。脳裏にアトリの反射速度を思い描きながら考える。
 新志が狙うものは、相手に捌かれた初撃の次だ。間合いを微妙にはずし、相手が氷結の盾ではなく、避けを狙うような微細な距離に斬撃を放つ。それも出来るだけ凄まじい速度で――そして地面に叩きつけてはならない。新志の剛剣は振り下ろせば刃が地面にめり込んでしまう。だから地面ぎりぎりで一撃を振りおろして腕力でそれを停止させ、即座に切り上げる必要がある。狙うのは峰打ちの一撃。襲うべきは――相手の股関節。金的。

「……うっ」

 新志はいくら勝つためとはいえそこまでやってしまっていいのだろうか、と少し悩んだ。
 無理もない。男性として股間に誤って一撃が入れば、と想像する。男性としてそんな部位に一撃を貰ったら効く。否、効きすぎる。勝っても他の魔術師軍の男性から非難轟々だと思う。むしろ狙うのは股間ではなく、相手の股下からすくい上げての体勢崩しを狙うべきだろう。
 正面――大上段から下段へと振り下ろす。地面と接触する数センチの位置で一撃を静止させそのまま上へと鋭く跳ね上げた。

「駄目だ」

 脳裏に浮かべる敵手の残影、イメージの影は、新志のその一撃を見事に避けた。跳ね上げるという試みは悪くないが、やはり振り下ろし、振り上げるまでの慣性モーメントがネックになる。振り下ろした一撃を即座に振り上げるためにもっと力が要る、それが新志の結論だった。
 脳裏にその欠点を補うための手段をいくつか描きながら考える。
 結局――勝敗を決するのは筋力。自分の一番好みの力だ。新志は相変わらずの結論に苦笑する。
 膂力、相手が付け入る暇のない筋肉量こそ、他者より秀でるほぼ唯一だと考える新志は自分が自分より上回る筋力に出会った場合どう闘うのかと想像して――無意味な過程と考えないことにした。


 休息終わり。そう決めて起き上がろうとしたところで足音が近づいてくる。

「また――効率の悪い修行をしているね」
「……誰だ」

 聞こえてくるその声。艶やかな少女の姿をするのはこの学園ではたった一人しか存在していない。
 新志が以前屋上で出会った黒いゴシックドレスの少女、早乙女光――新志は不愉快そうに眉を寄せると、再び立ち上がってから剣を構える。

「アトリ君の魔術のタイプは、『停止』による原子間運動の強制停止、それによる強力な凍結能力だ」
「へぇ」

 まるで興味なさそうに、再び剣を振る作業に没頭する新志。

「行き着けば時間すら凍らせるとは言うけどね。……彼女は強い。運動エネルギーの停止に、敵対者の呼吸の停止、そして心臓の停止。……今のままじゃ、君では勝てないよ」

 その言葉だけは聴き捨てならなかったのだろう。斬撃が、まるでビデオの停止ボタンを押したように空中で停止する。
 目に浮かぶ剣呑な煌き。自分の剣腕に絶対の自負を持つ剣士が、矜持を傷つけられ、激烈な怒りを無表情の中に潜ませている。だが――並みの人間ならその圧迫感に堪えられず怯むであろう壮絶な眼光にも臆することなく、むしろ自分にそんな視線を向けられる漢がいたことを喜ぶように彼、早乙女は笑って見せた。
 新志は相手に笑う。餓虎を連想させる攻撃的微笑。

「……最初出会った時から、五感が囁いていた。あんた、めちゃくちゃ強いよな。アトリと比べてどんなぐらいに強い」
「僕の方がめちゃくちゃ強いねぇ」

 そうか、と新志、満足そうな笑顔。そして――携える剣の切っ先を向け、言う。

「では、あんたを倒したら俺はアトリなど歯牙にも掛けないほど強いって訳だ?」
「……さえずるじゃないか、小僧」

 その美少女そのものの細面に酷く酷薄な表情を仮面のように浮かべた早乙女の反応は劇的だった。お互いに審判もおらず開始を告げる者のいない野試合では、両者の合意こそが開始の鐘となる。まるで打ち合わせたかのように両名は胸の奥に闘志を着火し、全身を緊張。

 ……そして初動の速さで新志は絶望的なまでに敗北を喫していた。

 それまでの過度の鍛錬で、全身が疲労の極みに襲われていた……などという言葉などまるで言い訳にもならない。新志が認識したのは、腹腔を強打した、可憐な少女の装いを大きく裏切る剛腕の一撃――それも横隔膜を強打し、意識よりも呼吸を奪う地獄の苦しみのようなボディブローだった。

「……っ……っぁぁぁぁぁああああああ!!」

 臓腑に突き刺さる暴虐の一撃、腸を抉り、腹から背中へと拳でぶち抜かれたと幻視するほどの重い一撃だった。
 それでも、歯をかみ締め、口の端からよだれをこぼしながらも、両足に有らん限りの気合を込め、地面に接吻するという無様だけは起こさなかった。

「ローギアモードとはいえ、僕の『縮地』込みの一撃によく持つ。臓腑まで鍛えこんでいるか、流石は戦堂一倒流」
「…………はっ」

 ぜぇぜぇ、と時間が経つにつれ、呼吸できない地獄の苦しみも鍛えまくった臓腑の強靭さにより少しずつ楽になっていく。だが、新志はくそ、と息を付いた。
 ある程度気力で肉体の疲労を押さえ込む事は出来るが、流石に今の状態から更に酷使を続ければ、あちこちの筋繊維が断絶し、アトリとの勝負自体にすら参加できなくなることは必至。早乙女に挑んで、本番のアトリとの戦いに出られないのでは意味はなくなってしまう。

「平時ならば、魔力の扱い方を理解している人間は、身体能力の強化を行える。魔力を炎や雷の形で射出するなどより簡単な技法なんだがね。それでも――元の体を君ほど鍛えまくっていれば、今の一撃でそこまで苦しむことも無かったはずだ」
「……やり方をっ……しら……ねぇし……知る……気も、ねぇ」

 荒々しく呼吸を繰り返しながら言葉を返す新志。その返答に――冷ややかな眼差しと、かすかな笑みを浮かべる早乙女。

「人間、勝つ事自体は簡単だ。……ただし、勝ち続ける事ははるかに難しい。その場合、もっとも重要な要素とは圧倒的な力ではない。……常に状況に適合し、最善に変化し続ける事だ」

 一歩、二歩、と歩みながら言う。

「戦堂一倒流が今最強と称されるのは、それらが時代の流れに適合して生誕した力であるからこそ。……新志、君は自分の中の魔力という資質を正しく理解し、この魔術師軍の中に適合した戦力になるべきだ。手を取れ。そのためのやり方を僕が教えてやろう。
 まずは、一足飛びだ。こっちへおいで」

 そういいながら差し出される繊手。先程新志の腹に痛撃を埋め込んだ拳とは思えない、手弱女そのもの手だった。筋肉はうっすらと付いているが、それでもあれほどの力を生み出せる訳が無い。魔力を如何なる手段かは知らないが利用し、馬鹿げた威力を生み出していたのだろう。
 彼女程度の細腕で、あれほどの一撃を繰り出せたのだ。
 新志が彼女と同じ術理を体得すれば、どれほどの一撃を繰り出せるようになるのか、心のどこかで沸き立つものがある。提示された最強への近道に震える心がある。

 差し出される手に、自分の腕を伸ばし――しかし、新志はその手を途中で止めた。

 引っ込められる新志の手を目を丸くして見つめる早乙女。え? え? と自分と相手の手を困惑したように行き来させ、何故何どうしてと言わんばかりに目を剥いた。

「へ? 受け取らないの? 何で?」

 新志は、あー、疲れた、と呟きながらその辺の地べたに腰を下ろした。
 大の字に寝転がりながら、頭上の星に目を向ける。めきめきと全身が疲労困憊し、引きちぎれた筋繊維が体中で悲鳴を上げる。食事をとりたい、休養したい、ここぞとばかりに全身の細胞が欲求不満の大合唱を上げる中、新志は早乙女に首だけ動かして視線を向けた。
 スカートの中身があと少しでのぞけそうな位置関係。

「……見えるぜ」
「生憎だが、僕は生涯ただの一度とてパンチラを恐れたことはない」
「恐れろよ!!」

 なんだか外見通りの子供扱いされた事に早乙女は少し懐かしそうに笑って答える。

「要するに君は、僕があんまり無防備にしていたら貞操に傷がつくと心配してくれている訳か」
「まぁ、そうなる」
「心配しなくていい。僕のパンチラを見た奴は全員抹殺してきた」
「怖ぇよ?!」
「僕の(股間の野獣)を見た奴は全員恐怖の悲鳴を上げていたよ。『パンチラを見たら死ぬ!』とどいつもこいつも目線を逸らさせるぐらいの異名を持つまで苦労したね」
「…………えー」

 なんだその異名は。後ずさる新志。余計な体力を使ったせいか、疲れたような声を漏らす。

「……スマンすけど、車、呼んでもらえるか?」
「構わないけど。……その前に僕の質問に答えてもらえる?」

 強さを求めるその性分なら誘いに乗ると思っていた早乙女は面白いものを見つけたように、愉快そうな笑顔を閃かせて首を傾げる。悪戯な子猫を連想させる外見だが、子猫の皮をかぶった獅子の類である事は、先ほど腹に打ち込まれた一撃の重さから間違いなかった。恐らく――彼女に師事すれば新志は長足の進歩を遂げる事が出来るのも、また真実なのだろう。だが、新志は目を伏せて応える。

「俺は……知ってるとは思うが、戦堂一倒流の総帥の候補だった」
「うん。知っている」

 その情報は隠匿されている訳でもない。多少剣に覚えがあれば、将軍家ご指南役の若き天才児、次代の剣豪と目された人の名前を知ることが出来るはずだ。その情報は陸の孤島であるここでも入手できるほど有名。それゆえに早乙女は彼が何故志願兵として南極に来たのか不思議であった。

「その、一派の流派の総帥の座にまで手に掛けた男が……あんたに師事しては――我が流派全てがあんたに敗北したのと同じになってしまう」
「……余計な矜持を持ってるじゃないか」

 早乙女は、口元に亀裂のようなどこか不吉さを連想させる笑みを見せた。

「意地を張れるほど五体満足じゃなかろうに。……つねに最強であるとは変化し続ける事だ。最強の斬魔剣法の後継者なのだから、もう少しいい加減に生きたら?」

 へろへろになった新志のあごに繊手を這わせる。唇の朱色がいやに艶めかしさを感じさせる。妖艶な美少女(本当は男)の細い腕が、新志の喉元を、猫を可愛がるようにくすぐる。だが新志の双眸は早乙女の目を正面から見据えたまま。どこか皮肉げな笑顔を見せる。門派の名声を汚す相手に対し、礼節を保ったまま激怒の燐片を見せるような笑い。

「先日さ、アトリに質問された。俺が他者に勝る点はいったいなんだ? と」
「なんて答えたんだ?」
「剣を振るう楽しみ……そして、もうひとつ、今思い出したよ」

 ぎらり、と目の色が、猛虎のそれへと変じた。ぞくりと早乙女は戦慄にうなじが逆立つ思いを覚える。

「……自分の強さに絶対の自負を抱いている相手を、自分がこんな奴に負けるはずがないと俺を見下している奴を、負けるなど絶対にありえないと考えているような、この魔術師軍の連中のでかい鼻っ柱をへし折りまくってやることさね」
「ふっ……」

 その言葉に、早乙女はくく、と笑い声を覗かせる。最初、小さな含み笑いだったそれは時間を経るに連れ、堪え切れぬ、耐えきれぬと言わんばかりの爆笑へと変貌していた。

「ははっ! なるほど! ……そりゃあ僕に師事される訳にはいかない! 君が打倒を目指す力で僕を打倒しても仕方ない訳だ!!」

 さも楽しげに笑う相手に苦笑しつつ、新志は言う。

「お気に召した答えでようござんした。……車呼んでくれ」
「……くくく、いいよ。ああ、笑った笑った。久しぶりに小気味いい返事を聞けたよ」

 言いながら携帯用の通信機のスイッチを入れる。恐らく〈ジーニアス〉に通じる回線か何かだったのだろう。新志はここ数日過度の鍛錬の熱が残っていた疲労塗れの体を横たえる。土の冷たさも今では心地よい。気を抜けばすぐに夢の国に旅立つように意識がまどろみ始める。
 ロボットカーの稼働音がこちらへと近づいてきた。

「そんな無防備な格好していたら僕が襲うよ?」
「……童貞喪失の危機は男の子の憧れ」

 寝ぼけた頭で答える新志。その返答にげらげら馬鹿笑いをしているという事は理解できたが、追及する気力も残っておらず、新志はそのまま深いまどろみの中に落ちて行った。





「あー、わらった。三年分ぐらい笑った」

 新志がロボットカーと、その中の運搬機械に連れて行かれるのを見送り――早乙女は表情を改め、ふぅ、と息を吐いた。
 早乙女が彼を殴りつけた拳が赤く腫れている。

「……にしても。ローギアモードとはいえ、僕の拳を腹に入れられて、吐かないなんてね」

 早乙女はその気になれば、マッハ1、音の壁(サウンドバリア)、マッハ3、熱の壁(ヒートバリア)まで突破することが可能だ。スピードガールという通称は伊達ではない。とはいえ、物理保護なしでトップスピードになれば大気との摩擦熱で確実に全裸になるので使用できないが。魔術師スピードガールという英雄の二つ名をもつ彼の一撃は、鋼板を飴細工のように捻じり曲げる。そんな自分の拳を受けても、悶絶しても気絶に至らないとは驚嘆に値するタフネスであり、同時に一つの疑問も沸く。

「鍛えているとはいえ――硬すぎる」

 そう。新志の腹に拳を埋めた際、彼が感じたのは金剛石の塊を殴打したような凄まじい強剛の手ごたえだった。
 確かに、彼には魔術師としての資質がある。だが、現在の彼は魔力という強力なハードウェアを搭載しているものの、それを有効活用するためのプログラムデバイスが完全に抜け落ちたような状態にある。使用するにせよ、ある程度の習熟が必要であり、魔力を操るためのプログラムデバイスは実地での経験、他者からのアドバイスによって開花する。今の彼は徹底して経験が足らず、簡単な身体能力の強化すらできないはず。
 いや、決め付けるのも早計かな、とも考える。何せ、魔力は基本的に手足の延長上。使用に訓練が必要とはいえ、本能のレベルで直感的に魔力を扱って見せたという例がない訳ではない。

「……戦堂新志、いったい何者なのかな」

 考えこむその言葉を聞けば、新志は、あんたに言われたくない、と返答するだろう。
 早乙女は思案する。
 打撃の瞬間、物理障壁の存在は無かった。とすれば、純粋にあの異様に硬い手ごたえは、筋肉の硬さだったという事になる。

「……『筋肉』?」

 とすると、下手な装甲板よりも彼の筋肉は硬いという事になる。
 ……いくらなんでもそんな訳はないだろう、常識通りの反応をし、結局――早乙女はそう考えなおした。



[15960] 三番勝負――本番
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 14:55
 アトリ・瑞島・レギンディヴにとっては先の試合ほど悔恨の残る内容は無かった。自己嫌悪に陥り、屋上で一人悔恨の記憶にさいなまれていた。何故あんなことをしてしまったのかと。
 それこそ、格下の相手に決して使用するべきではない氷結の魔術。しかも術を放った瞬間に自分の敗北を認めなければならないにも関わらず、相手の眉間に剣を突き付けてしまった。

「……はぁ」

 故に、彼女にとって、新志との再戦は正直大変気が重くなる内容だった。誰もいない屋上でため息を吐く。こんなことになるのなら決闘など挑むのではなかった。
 戦堂新志からの決闘の申し込み。
 真剣勝負――文字通り、両者とも実戦で用いる刃引きされていない、本物の刀剣を使用すること。そして、アトリは魔力の解放を認められている。

「差がありすぎるのだよ」

 そう、どう考えても魔力を操る事のできるアトリと新志では絶望的な戦力差が存在しており、新志が勝利するなど有り得ないと断言できる。ここまで差があるにも関わらず、新志は間違いなく手心を加えることを望まない。まるで包丁で蟻の解剖を行うような、酷く難しい力の微細な加減を要求される状況に、アトリは頭を悩ませていた。
 一番良いのは新志自身から決闘の要求を取り下げてくれることだが、しかしそれは有り得まいと短いながらも彼との会話の中で感じた人柄から分析する。とすれば、ここは自分から引くしかない。もちろんアトリにとって戦わず、相手に不戦勝を譲るということは後に彼との間に遺恨となって残るだろうし、勝負に出ないことは自分が臆病者であると吹聴するようなもの。できれば避けたい。

「いや、ここで私が意地を張る訳にはいかないのだよ」

 アトリは自分の心を納得させる。
 刃を交えず敗北することは恥辱であるが、自分の名誉を優先し、相手を殺傷してしまうことは取り返しのつかない最悪の事態だ。不名誉であるものの、あえて汚名を受け入れる覚悟を決めるアトリは……そうと決まれば何処に身を隠すかと考え、そこでつかつかと屋上へあがってくる足音に気づいた。

「……絶佳? 君が何故」
「お迎えだぜー」

 一体何の迎えだろう、アトリは首を傾げる。決闘の日は明日であり、今やるべき用事など存在していない。

「見たほうがいい。……正直、鼻血が出るほどセクシィーな筋肉だったぜー」

 一体何の事なのかわからないまま――まぁどうせ筋肉なんだろうなぁ、と思いつつアトリは絶佳に連れられて屋上を後にした。





 到着した先は、以前新志と会話した鍛錬場であり、同時にそこには既に何十人かの先客が興味深そうに鍛錬場の中心に立つ男の姿を見つめていた。戦堂新志は相変わらず私物の真剣を腕力に任せ、びゅうびゅうと振り翳している。

「……な」

 アトリは……魔術師としてではなく剣士としてその光景に戦慄を禁じえない。

「……早く、なっているでしょ?」

 そっと、傍に近づいてきた珊瑚は、中央で滝の如く汗を流しながら剣を振るう新志を慈しむような、優しげな眼差しで見つめている。
 そう、確かに剣速が数日前アトリと相対した時よりも恐るべき進歩を遂げていた。間合いは短いが手数に優れる刺突剣を用いれば、魔力抜きの尋常な試合の場合、以前なら相手の一斬に四撃を捻り込む自信があったアトリが、今では一撃足りとて相手の肉体に刃を放り込む隙を見出せないでいた。たった数日で強くなっている。

「……ミーにも勝るとも劣らない良いボディをしているデス。これは全裸ライバル出現デスね」
「とても良い筋肉だぜ。……やっばいなー、本気で愛人契約を持ちかけようかなー」

 躍動する四肢。剛力を吐き出す筋繊維。暴力的なまでの躍動。
 虚空を薙ぐ斬撃が撒く風、太刀を握る四肢から滝の如く流れる汗は足元を濡らしている。唯数日の期間にしてこの長足の進歩。アトリは同じ剣士として、憧憬を禁じえない。魔力などという不確かなものなどに頼らずとも、人間は筋肉一つで全て打倒することが可能であるのだと叫ぶかのようであった。

「アトリ。あいつと、全力で戦ってやって」
「……いいのかい?」

 その発言に対して、アトリは二重の意味で驚愕した。
 一つ目は、珊瑚が幼馴染であり――おそらく憎からず思っている男の生殺与奪を、その時の武運に委ねるという決断をしたこと。
 もう一つは、アトリ自身の言葉。ほんの数分前までは不戦敗を覚悟していたはずなのに――全力で戦っても良いという言葉を受け、自分自身の声にありありと喜悦の響きが含まれていたことに対する驚きだった。まるで己の中の剣士としての本能、荒ぶる獣性を存分に解放して構わないと言われ、歓喜する剣妖の気質が表に立ち上がるよう。
 ごくりと、生唾を飲み干す。

「あの、新志を――彼を好き放題にしていいって?」

 極上の美女を猛る欲望のまま陵辱しても良いと言われたような――酷く艶かしい感情の色がある。アトリのその様子に珊瑚、ちょっと嫌そうな表情を見せたが、言を違えることはなかった。ジャニーと絶佳、両名も面白そうに見ている。

「世の中には――生き永らえる事よりも、手心を加えられる事の方をこそ死に勝る恥辱と考える人間がいる。……あいつは、それなんだ」

 虚空を薙ぐ一閃。頸部を刎ねる断頭断命の乱舞。弓国に置ける人対人外を想定した剛剣の極み。四肢の制御から無駄という無駄を徹底して省き、殺傷に足る最短の斬撃を最速で繰り出す。研鑽された剣技はある種の舞踏を連想させる。装甲と肉と骨を絶ち、切断音と断末魔を纏う、絶命へと誘う冥府の舞踏だ。
 勝てるのか? と自問自答するアトリは、自分の揺るぎなき勝利への確信がその自問自答で揺らいでいる事を自覚した。

「わかった」

 ならば、全力を振るう事に最早迷いはなかった。

「よう、なんだか……いやに嬉しそうな笑顔だな」

 新志はまるでアトリの心境の変化を察したかのように鍛錬をやめ、太刀を鞘に収めて、笑いながら歩み寄る。
 先ほどまでいた場所を、清掃機械が掃除を始めるのを横目に見る新志。そんな彼に対して返答したのはジャニーと挙手する絶佳だった。

「ああ、盗み聞きしたところによると――サンゴがアトリに『新志の事を好き放題にしていい』と言ったそうデース」
「あたしも参加したーい」

 確かに――盗み聞きした程度ならそんな風に聞こえるかもしれない。珊瑚はなぜよりによってそこだけを教えるのだと思い二人を睨むが、両名とも知らん顔。そして、新志は、文字通りの意味に取ったのだろう。青ざめていた。

「あ、あの」
「う、裏切ったな! サンゴ! お、お前、俺の貞操を売ったんだな?!」

 新志にとってその言葉は最早恐怖ではなく死の確信だった。実にノーマルな異性愛者である新志は、三年来の友人と信じた相手の余りにも非道な台詞にがたがたと震え、後ろに下がる。

「ま、まだだ、負けていない! 確かにアトリ、お前は強いが……! 俺も戦堂一倒流後継の一人! むざむざヤられると思うなよ!!」

 アトリの事を男性と思い込みそして同性愛者と信じている新志からすれば、敗北とはすなわちアトリに貞操の危機を迎えさせられるということになってしまう。普通に綺麗な女の子が好きな新志としてはそれは絶対に避けねばならない。めらめらと目に闘志の炎を燃やすが、正直それでも変態騎士アトリの傍にいるのは嫌だったのか、尻を守りながらそのまま見事なムーンウォークで離脱するのであった。
 うあああ、嫌われた、嫌われた、と悔恨の涙にくれる珊瑚。その肩をいい笑顔で慰めるように叩くジャニーと絶佳。

「まぁ、気を落とす事はありまセン」
「そうそう」

 もちろん元凶である二人のそんな白々しい言葉など届くはずもない。
 アトリは泣き出した珊瑚を慰める二人を押しのけて、これを機会にいい仲になりたいなぁと思いながら慰めの言葉を掛けるのであった。




 戦堂新志といえば暇な時間は始終筋肉を鍛えまくっているイメージが魔術師軍の中では広がっているし、それはほとんど正解であった。が、だからといって休憩を挟んでいないわけではない。そしてその運動量に見合ったすごい量の食事を取るし、鍛錬の疲れから来るものか、寝付きも良い。布団に入れば数分も経たずに寝床から寝息が聞こえてくる。
 ましてやそれが、明日決闘ともなれば、早めに体を休ませておこうとするのは当たり前の話だ。

 しかし、と土倉珊瑚としてはどうにも複雑な心境であった。
 アトリとの決闘を経てようやく新志は夜露に打たれる野ざらしの生活から屋根のある暮らしに変わった。その分珊瑚とは生活の密着度も急上昇している。もう少しどぎまぎして貰わないと、自分が本当に女性として見られているのか不安にもなってしまう。しかもこの朴念仁の場合、珊瑚が女性であるという告白を完全に忘れてしまいかねないほどに自然に珊瑚を男性と扱う。この前一緒に花を積みに――手洗いの事――行こうぜと言い出した時は危うく殴りかけた。

「……ほんとにもぅ」

 嘆息を漏らしながら、呟く。
 幼い頃――先代の将軍家ご指南役の地位をもぎ取った振興の家である戦堂の一門と、家内から数多くの情報収集を専門とする特殊技能者『軒猿』やら『忍』やらを排出してきた、決して表には出てこないが弓国における重要な地位を堅持し続ける闇の一門。
 とはいえ――家の看板に『ここは忍者屋敷』などと書いている訳でもない。……逆に書いてあるような屋敷はアトラクションなどの遊興施設だ。
 
 だから、見かけは古い武家屋敷の家と、同じく古い武家屋敷に住まう子供同士が出会ったのはそんなに偶然でもない。
 にょきにょきと高層建築が、たけのこのように生えるご時世で古臭い作りの家に住まうもの同士、子供のころにはおかしな共感があったものだ。

「……ねぇ。新志」
「……ん」

 眠そうな声が下の二段ベッドの方から聞こえてきた。どうやらまだ完全に眠っていなかったらしい。

 珊瑚は思い起こす。

 親の言葉というものは幼い子供からすれば絶対的な影響力を持つ。それは珊瑚にしても例外ではなく――彼女の母親である人が、戦堂の家を成り上がり者と罵倒しているのを何度も聞いた。戦堂一倒流に将軍家ご指南役の座を奪われた連城双闘流から嫁いできたのだから珊瑚の母親が戦堂一倒流に敵意を抱くのも無理は無い。ただしそれが娘に直接受け継がれてしまうというのは――余り良いことではなかっただろう。
 母親から受け継いだ敵意の矛先は、同い年の少年に向けられた。純白の布が何色にも染まってしまうのと同じように、母の悪意に幼い頃の珊瑚も染まってしまっていたのだ。

 その頃の新志は余り多弁な少年ではなかった。

 戦堂の家に引き取られた時、孤児院とは違ってちゃんとご飯が出る。当然飽食が許される訳ではないが、収入が人々の善意で賄われる孤児院では時折食事の量が極端に少なくなるなどはよくある話だったのだ。そんな訳だから、もし近所の子供と何らかのトラブルや揉め事を起こしてしまえば再び孤児院に放り込まれてしまうかもしれない。
 余り他の人と話さず、ただただ飢え死にせずにすむ境遇を守っていけるように努力するだけ。人並みに友達を得る事よりも、そちらを気にする、余裕の無い子供だった。
 その分、鍛錬に関しては熱心極まっていた。子供の頃から頭ひとつ抜けて大きい子供。そのくせ腕力に鼻を掛けてこない相手は珊瑚にとって格好の標的だったろう。

 状況が変わったのは、珊瑚が新志に些細な事で礫を投げた事。

 珊瑚としては苛める事の延長上として行った事なのだったが――新志は真っ青になって、泣きながら逃げ出したのだ。額から流れる血でいじめられていることを家人に悟られ、家を追い出されることを何より恐れたのだろう。今までどんなに意地悪をされようともうめき声ひとつあげない相手だと思っていたのに、あんなにも震えて怯えてしまった相手に、逆に苛めていた珊瑚の方が罪悪感を募らせるほどだった。
 新志が泣いたのはその一回だけ。それ以降は二度と泣くことも無かった。

「……新志の兄上と姉上の件……聞いた」
「……そうか」

 新志は短く答えるのみ。
 子供の頃の珊瑚を嗜めたのは、新志の義兄と義姉だった。義兄の方は同じく戦堂一倒流に引き取られた孤児だったため、余り立場として強くは言えない立場だったがそれでもきちんと怒っていたし、戦堂の直系である新志の義姉は、例え引き取られた養子でも家族のように扱う公平な人だった。
 珊瑚をしっかりと窘め、謝罪させ、友達として関係を始めさせたのは彼女のおかげだ。そのことに対して、珊瑚は感謝してもしきれないと思っている。
 だから――珊瑚は土倉の実家から教えられた、戦堂新志の余りにも突然な南極防人艦隊への志願に関わる説明を聞き、その事のあらましを理解することが出来た。
 新志と義姉と義兄と、その三人。その三人の輪の中で何があったのか、分かってしまった。

 
 あさましい。珊瑚は自分自身をそう思う。


 新志の出奔の一件で三名の関係は大きく狂ってしまい、新志は一人魔術師軍に在籍することになる。それは珊瑚自身の恋の成就にとっては益になることだ。喜んでしまう自分自身の自分本位な考え方に珊瑚は己の心を窘めようとして、それでもやはり抑えきれぬ喜びを自覚してしまう。

「……帰りたい? あの家に」

 質問の言葉が自然と口を突いて出る。
 彼の剣士としての未来を考えるなら、家に帰り、魔術師軍ではなく陛下を守護する戦堂一倒流の最精鋭部隊、巨刃衆に入ればいい。総帥の座を自ら投げ捨てたものの、その剣力は万人の知るところだ。

「……いや、俺が帰れば流派が二つに割れかねない……それに……」

 それに――続きの言葉はいったい何なのか。だが珊瑚の疑問を無視し新志はそのままうつらうつらと、夢の世界へと迷い込んでいった。珊瑚も静かな寝息へと変わった彼の呼吸を聞いて――そのまま眠りに付いた。 






「と、言う訳で、前回に引き続き、ミーが司会進行を勤めさせて頂きマース」

 前回とは違い司会進行役に相応しい燕尾服に身を包むジャニー。相変わらずのヘソだしスタイルなので、その括れたお腹がへんに艶かしいから正直新志はやめて欲しかったが、口に出すのも恥ずかしいので黙ったままで、肩に抜き身の大太刀を乗せ、鞘を背負っている。相も変わらず周囲には大勢の人の山。全員が全員、居住まいをただしているのは、会場の温度がどこか凛とした冷気に包まれているのは――両名とも真剣を用いるからであろうか。

「両名、誓約状を」

 眼前に立つアトリも本気で相手をすることを決意したのだろう。今度用立ててきたのは、刺突剣は門外漢である新志ですら剣士としての本能を魅了されるような威風を纏う名剣。それを腰に下げ、体の要所を守る部分鎧を装備し、肩までかかる長い髪を結い上げている。その様子に新志は満足の笑みを浮かべながら懐から書状を取り出し、審判役のジャニーに手渡した。

 それはアトリも同様。

 ただ、『不遺恨(うらみをのこさず)』と大書し、自分の血印を押せば、試合後の内容に関して本人はもとより関係者全てがこの試合で文句を言うことは許されなくなる。決闘に伴う最悪の事態に陥っても何も文句を言わないという証文だ。
 アトリの方はデュガン連邦の形式に則っているから細かな内容は違うだろうが、似たようなもの。二つを広げ内容を確認するジャニー。こうなった以上、例え両名が死亡したとしても、どこからも文句は出ない。
 魔術師軍の事だから優秀な医療器械と回復のための魔術も存在しているだろうが――それでも死亡する可能性はあるのだ。

「では、開始線へ」

 お互いに五メートル距離を開ける。……尋常な試合であるならば、これは間合いが長い新志が有利と見るはずなのだが。そうは行かないだろう。
 すらりと引き抜かれるアトリの刺突剣。ぎらりと輝く禍々しい剣氣、獲物も使い手も超一流である事が、背中を撫でる冷たい風で知れる。新志は応えるように大上段の構えへ。各種試合の中で新志がもっとも好む単純明快な超攻撃的体勢。

「始め」

 試合が――始まる。
 両名とも携えるのは刃引き無し、文字通りの『真剣勝負』。
 先に攻撃の挙動を見せたのは――アトリ。とはいえ、尋常な剣術ではない。ただ、唇に二言三言の言葉を乗せ、超常の異能を用いて勝負をつけようとしたのである。
(どうせ――この攻撃すらしのげないのであれば、切り結ぶ意味すらない!)
 手心など加えることが無礼。最初から非礼無きよう必殺の意思を持って戦う。初手より全力の攻撃を仕掛けようとしたアトリ――だが、新志の行動は、その彼女よりもっと直接的だった。
 呼吸をする――練り上げた膨大な肺活量を誇示するように新志の腹腔が膨れる。空気を暴食し呼気を貯め――そして


威矢亜亜亜亜亜(いやあああああ)あぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」


 鼓膜を強打する凄まじい咆哮にアトリは一瞬身が竦むのを感じた。腹のうちに溜め込んだ呼気を怒号で放つ大喝は、敵手の意志を一瞬とは言え空白に染め上げるほどの威力を持っている。口蓋から放たれるそれは、耳朶を揺さぶり、鼓膜を貫通し、聴覚を殴打する、無形の攻撃に等しかった。
 唐手における『威吹』、示現流における『猿叫』――数代前のある華帝国武侠の絶招、獅子咆神功を源流とした、先の二つに通ずる戦堂一倒流咆哮術『獅子脅し』である。

(意識を――飲まれた!)

 観客の皆がその怒号に一瞬とはいえ意識を断たれた。最も近く被害の大きい場所にいたアトリ、意識を揺さぶられて詠唱が途切れさせられた――間合いを計りなおすように後方へと後退する。それを追うように咆哮を張り上げながら新志は躊躇いのない突撃――かすかに身を屈め、跳躍と共に大上段の一撃。
 相手を装甲ごと両断する、落雷に似た剣閃に対して、アトリはしかし冷静に対処。

 掲げられる不可視の盾。運動エネルギーを暴食する氷結の鎧に新志の斬撃は速度を食われる。その稼いだ数秒でアトリは鋭いステップ。魔力によって強化された彼女の速度は以前よりはるかに速い。一瞬で体を新志の背後に滑り込ませ、刺突を放つ。

「ちっ?!」

 肩口への一撃は身をかがんで避け、腹への一撃を半身になって避け、もう一度来る突きの動作を、蹴りを放って回避を優先させ、打たせない――反撃の一閃が準備できた時には、すでにアトリは強化された脚力を武器に、その射程から逃れている。

「俺の一撃の隙に、二刺放って、なお一余る速さか。すげぇな」

 新志――素直な賞賛の言葉。アトリ――笑顔で返す。

「本気を出した今の私は凡百の剣士が相手なら、一斬の隙間に十突(じゅっとつ)捻じり込む自信がある。……誇れ、新志、君も凄い」

 言葉の交錯はそれで終わった。
 新志は既に太刀を振り上げ、叩き上げた脚力のみを武器に突撃。アトリは刺突剣を謡うように先端を揺らし、詠唱。斬撃と共に開放する。

「凍えろ、止まれ、停止しろ」

 放たれる異能の力。新志を中心に広域を爆撃する猛烈な氷結の旋風。殺傷するほどの威力は無い。だが体に軽い凍傷を引き起こし、相手を苦悶でのたうちまわらせるぐらいの威力はある。試合で許されるパワーでは無かった。

 肉体から熱を奪い体力を剥奪する一撃に対し、新志は剣を地に突き立てる。

 周囲の観客からの驚きの声――新志は剣を棒と見立て棒高跳びする要領で空中へと退避していた。そのまま空中から重心を操作し、空中から横殴りの一閃。
アトリはそれを体裁きで避け、刺突剣を構えなおす。間髪いれず飛来する再度横薙ぎの斬撃を回避、そう思った瞬間には既に斬撃を放つ体勢にある新志。二メートル近くの大太刀を振り回しているとは信じがたい壮絶な連撃だった。だが、アトリの体を捕らえるはずの今度の一撃は、運動エネルギーを食らう氷結の盾に阻まれ、その身には届かない。

 しかしそれでも、新志は口元に笑みを浮かべたままだった。にやり、アトリの背筋を寒くさせるような笑顔。

「……2.7か、3秒ってところか」
 何気なく口に出されたその言葉に、アトリは戦慄する。
 新志が呟いたのは、大技――あの氷爆の一撃を放った直後、運動エネルギーを食らう氷の盾の再展開に必要とした秒数。恐るべき慧眼だ。

(あの瞬時に私の防御が回復する数秒を悟った? ……くっ、これでは迂闊に大技を繰り出せない。手堅く小技で攻めて……)
「察するところ時間を見切られ、大技を禁じて小技を繰り出すべきだと判断したってとこかね」

 まるで読心術でも心得たかのように、内心を言い当てられ、アトリははっきりと背筋に震えを感じた。例え超常の異能がなくとも洞察一つで相手の攻め手など読めると言わんばかりの新志にアトリ、どうすればいいのだ、と自問する。
 彼女が今まで相対してきた獣魔や将魔は強力だが、こちらの動揺を誘うような発言をする手合いはまず皆無だった。人対人ではなく人対人外の戦いは数多く経験すれども、このような心理の陥穽を突く敵手はまったくの未知。刺突剣を握る掌にじっとりといやな汗が粘つき始める。





「……なかなかどうして、心理戦じゃないか」
「あたしとしては、動く筋肉が見れないから少し不満だぞー」

 観客席で両者の試合を鑑賞していた珊瑚と朱絶佳は、停止した両名の動きを見ながら呟く。

「迷ってるね、アトリ」
「どんな卓越した武術も迷いが生ずれば威力半減だもん。……人間同士の喧嘩ってのをわかってるなー、あのあんちゃん」

 こくり、と珊瑚は頷く。

「……朱絶佳はどうすればいいと思う? こういう状況」
「基本的な肉体のスペックは力以外、アトリがほとんど凌駕してるんだもん。あんちゃんの言葉全部を頭の外に押し出して、最初から仕切り直すべきだとおもうなー」

 確かに、珊瑚は両名を見て同意する。
 そもそも一撃の重さは新志が上回るが、スピード、魔術による攻撃範囲の広さ、手数はアトリが圧倒している。真っ正面から切り結ぶ必要はない。アトリは落ち着くべきだ。

 そう考えていた珊瑚、絶佳の前で、両者の決闘に動きが出た。
 
 もともと、アトリの運動エネルギーを凍らせる氷結の防御は長期戦には向かない。
 彼女のそれは通常の魔力による防御壁と違い、攻撃を仕掛けてきた相手の四肢の末端にダメージを与える一種の攻性防壁でもある。攻撃を仕掛けた相手の四肢を凍らせ、深い損傷を与える凶悪なカウンター攻撃だ。そのかわり、魔力の消耗も多く、連続展開には向かない。
 もちろん常に同じ手段が通じる相手ばかりではない。が、そういう将魔との戦いでは、前面に鋼竜十八掌という強力な武術を体得する朱絶佳や、速度に関してはこの小隊の中で最高の珊瑚に任せアトリは強力な氷縛魔術の準備に入っていた。そうやって、前面の二人が動きを防いでいる間にアトリが相手を拘束。そして後方で超強力な化身魔術を放つジャニーの攻撃で仕留めてきた、というのが必勝パターンであった。
 そのため、氷結の盾の持続力には問題があったものの、それをチームワークでカバーしてきたためそれは問題視されず――しかし、そのために今回その弱点が露呈される結果となった。



 剛風――斬撃が風を孕む。

 まるで剣風自体に人を打倒する圧力が存在するのかと錯覚するような音。新志の一撃。小細工なしの一撃。相手が異能の盾を展開するならばそれを圧倒する暴力的な手数で攻めにかかる。

「ぐぅ?!」

 受け止めるアトリのなめらかな白磁の如き肌には冷や汗が浮いている。
 新志は運動エネルギーで持って受け止められる事を承知の上で攻撃を仕掛けてきた。相手の一撃に、運動エネルギーを凍結させ、剣速の緩くなったそれを刺突剣で受け流す。その動作が完了したと思った次の瞬間には、既に新志は斬撃を射出する態勢へと動いている。
 再度斬撃が飛来。アトリは対応のため再び運動エネルギーを凍らせ、その刹那に生じた隙間に体を捻じりこんで回避――踏み込もうとする。だが、それより早く新志は自ら突撃、頭突きで懐への侵入を排除――再度斬撃が放たれる。今度は崩れた体勢では回避できない――反射的に相手の斬撃を高出力の凍結バリアで防御。

 新志は一撃を停止させられたと見るや、即座に攻撃態勢に移行している。
もはや白刃の風車、戮殺の旋風の域。

 相手が凡百の剣士であるなら、アトリもその卓越した剣技を以って迎撃する事ができる。だが、新志の剣はまさしく剛剣の極み。下手に防御しても剣ごと頭蓋を割られるような超重の斬撃。魔力による異能の障壁を用いなければ受け流すことすらできない。相手の弱点に対して猛攻を仕掛ける新志の姿は剣士というよりも、必ず勝利を得んとする戦士のそれであった。
 アトリの腕は、異能の盾を突破してなお悪鬼じみた威力を持つ斬撃を捌く事で疲労の極みにある。握力はすでに限界近く。掴む剣を手放しかねない。

(押し……斬られる……?!) 

 ごく少数の人数が開花させる超常の異能を、唯の人間が毎日朝夕剣を振り回し続けて、血の滲むような努力を重ね、丹念に積み上げられた何の変哲もないただの『筋肉』に圧倒されようとしている。ただのものすごい漢が、超常でも奇跡でも何でもないその体格に許される極限まで搭載した『筋肉』の質と量のみで、魔術師を凌駕する光景に、観客の全てが驚愕を隠しきれない。



 ここまでくれば、もはや『筋肉』という名前の魔術、『筋トレ』という名の奇跡であった。



(負ける……私?)

 超常の異能を駆使しても、戦堂新志という剣士を止められない。
 その内心を見透かしたように、新志は短く言う。

「生憎と、力しか能がなくてな……その力の土俵で戦えば、そりゃお前が負けるさ……!!」

 その短い言葉の中に押し込められた新志の不満にアトリは剣士の本能を以って理解する。

 ……そう、アトリはやはり慢心していた。

 超常の異能の持ち主であるから、相手と正々堂々勝負しなければならないと思い込んでいた。そんな事、目の前の彼は望んでいないのに。相手はこちらの弱点に対して全力で攻めかかった……何故? 決まっている。

(ああ、私に――勝ちたがっている。新志の奴め、……私にそんなに勝ちたいんだな……!)

 甘い恋のような疼きが胸を刺す。恋と呼ぶには激しく暴力的ではあるが、相手しか見えていないという点では、まさしく同様であった。二人は恋するように、お互いしか認識していない。

(ああ、勝ちたいとも……珊瑚君との同室も重要だが、今は君に勝ちたい!)



 たんっ、とアトリのその柳のような細い肢体が後方へと跳ねる。



 これまでの戦いがインファイター同士の力と力のぶつかり合いであるならば、アトリのその戦術の変換は、真っ向からの斬り合いでは勝利することが難しいと判断し、ヒットアンドアウェイに切り替えたのと同様でもあった。脚の速さを生かし、手数で攻める。力という局面において敗北を潔く認め、形振り構わず勝利に邁進する姿に新志は、にぃ、と深く笑う。

「認めたか」
「ああ。……慢心は消したよ」

 新志の小さな呟きに短く答えるアトリ。余裕などない、本気の表情で新志を見た。
 瞬間、踏み込む。新志の二メートル近くの刃は使い手の周囲を旋回し、白刃の結界を形成するかのように動いている。アトリは、剣の結界に踏み込む事を最小限にとどめその新志自身の肉体の中枢――頭、腹などの体幹ではなく、四肢の末端、大太刀を握る新志の腕に狙いを切り替えた。
 閃光のような刺突――新志はそれを太刀の鍔で防御する。アトリはまだまだ繰り出せるはず、相手の追撃に注意しながら迅速な反撃の挙動に移った新志は不可解そうに眼を剥いた。アトリはあと二撃繰り出せる速度と剣腕を持つにも関わらず、反撃を恐れるように引いたのである。
 今さら臆した? ……いや、と、新志は脳裏に浮かんだ疑問を即座に否定した。そういう相手でない事は剣を交えれば理解できる。となれば、これは恐らくアトリの勝利への布石なのだ。あらゆる状況に対応できるよう五感を集中させ――そこで新志は両腕を濡らす水の存在に気づいた。服に、肌に微かに水滴が付いている。見ればアトリの刺突剣の刀身も、露のような水滴がこびり付いていた。

 常日頃から頭が悪いと公言する本人の脳細胞より速く、知覚と運動神経を統合する小脳が、危機に対し即応する脊椎が、全身の細胞が危機を訴える。新志自身の意識よりも無意識が迅速な対応を見せていた。

「だが、遅い!!」

 しかしそれでも、間に合わない。
 後退――新志は今までの攻撃主体の重心から、後退と横方向へのステップを重視した防御主体の構えへ重心を変化させようとする。だが、みすみすそれを許すアトリではなかった。迅速な突撃、刺突三連。どれもが新志の腕を狙ったもの。それも本命は刺突による直接的な攻撃ではない。真に恐るべきは、刺突に絡められた寒風の魔爪、冷気の斬撃であった。

 斬撃に仕込まれた氷結エネルギーが、新志の濡れた腕に襲い掛かる。

 凍結――皮膚に吸い付いた水滴は、新志の指先を凍てつかせた。痛みに似た冷気が走る。

 大太刀を振り回し、精妙な剣技を駆使する指が、極端な温度の低下によって錆びたように動きがぎこちなくなる――それこそがアトリの狙いだった。

「これで剣速は半減。……とはいえ、咄嗟に片腕を切り捨てる判断の速度はさすがだねぇ……!」
「いいハンデだ」

 それでも強気な台詞は変わらない。 
 新志は相手の目的が凍結による掌の性能劣化を狙ったと判断した瞬間、利き腕の右を後ろへ退避させ、冷気から逃れさせている。とはいえ、左手はすでに死に体。剣に添える程度のことしかできない。
 剣を振るう――不利な状況を打開するには攻撃しかないことを知り尽くしたように一撃を放つが、剣の速度が大幅に低下している事は否めない。アトリはもはや異能の盾も展開せず、後方へのバックステップでそれを回避し、左側へ移動。その挙動、視線の動きから――今度は残る一本の腕を凍らせ、完全な勝利を狙っている事が伺えた。

(外堀内堀埋めてとどめか、手堅い)

 それだけ評価されている――愉快であった。超常の使い手であるという心理的優越感を叩き伏せ、本気にさせた。それだけで心は愉快痛快である。

(……だが、やはり勝ちたいな)

 新志は素直に、そう思った。





「詰み、かな」

 珊瑚の言葉に絶佳も、そうだなー、と同意の声を示す。

「あのあんちゃんは凄い剛剣使いだけど、さすがに片腕を封じられてアトリに勝てるほどじゃないだろうしなー。……いやでも、すげー健闘だぜ。三重花丸だ」

 それは珊瑚も同感。こくりと首肯する。
 だからこそ敗北したとしても胸を張ってくれれば良いのだが、あいにくと珊瑚は戦堂新志という漢を知っていた。多分死の一秒前であろうとも戦術を練ってすべてを覆す大逆転を狙い続けるのだろうと。
 だからその目に、片腕を封じられて大幅に戦力を削られたにも関わらず尚も双眸に轟々と闘志を燃やすその姿に、ああ、やっぱり、と内心つぶやいた。そして次に行った新志の行動に絶佳が、訳がわからないと言うように呟く。

「刀を、……収めたぁー?」




 新志は背に負う鞘を空中へと投擲。回転しながら落下するそれを迎えるように太刀を天に掲げれば、まるで切っ先と鞘の口元に磁石でも仕込んでいたかのように、鞘は太刀を吸い込みその中へと納める。長大な二メートル近くの大太刀は、新志が背負っていた鞘に納刀され、その白刃の切れ味を封印する。そのまま、新志は鞘ぐるみのままで剣を構えた。
 もちろん、刃物から鈍器に変わったところでその獲物が有する破壊力は損なわれない。速度と重量があれば人体を破壊することはたやすいが、しかしこの場合は無用の長物であるはず。むしろ鞘の余計な重量で剣速が更に落ちるはずだ。理解できない、アトリの顔にははっきりとそう書いてあった。だが、相対する新志の表情は真剣そのもの。

「……外道の技を使う」

 短いその言葉に、アトリは眉を寄せた。片腕を封じられ、戦力は半減したにも関わらず、相手の顔に浮かんでいた表情は、憐憫そのものであった。だが、この状況で勝ちを得る手段など存在しないはず。どんな策があろうとも踏み潰す、そう決意し、仕掛ける。
 新志は、ひゅっ、と息を吐き、太刀を振り下ろした。

(だが早い!)

 しかし、気が急いたのか、焦ったか、その一撃はアトリ自身の四肢の急制動で十分回避する事が出来る。地を蹴り、速度を落とし制動――目の前に振り下ろされる一撃を避けて見せた。
 既に一撃は地へと叩きつけられ、そこから持ち上げようとしても、間に合う事はない。アトリは勝ち名乗りを上げるべく無防備な相手の眉間に刃を向けようとした。
 だが、瞬間――地に落ちた筈の太刀が、アトリの想像を絶する速度で跳ね上がった。
 早すぎる。
 そう考えた彼女の目に――地に落ちた太刀を、鞘に覆われたそれを足で蹴り上げ、アトリの脇に滑り込ませた新志の姿が見えた。鞘に収めたのは、斬撃を蹴って跳ね上げる際、自分の足を切り裂かぬため――片腕しか使えないのであれば、足を使うのだと言うような奇襲にアトリは脇に鞘ぐるみの一撃を滑り込まされる。

「きゃっ……!」
「投げるぞ、アトリィィィィィ!!」

 鞘に横腹をくすぐられたようなひどく可愛い声が漏れ、一瞬羞恥で顔が赤くなるが――すぐにそんな余裕は無くなった。新志はそのまま太刀を肩に引っ掛け、梃子の原理でアトリの体を投げ飛ばしたのである。
 空中へと投げ出された失調感――次の瞬間、その体は地へと墜落する。その身に絡んだ鞘が空中で体勢を立て直すことを許さない。そのまま受身で衝撃を殺したものの――アトリの体は背中から地面へと打ち付けられる。肺腑から酸素を強制的に吐き出させられるような衝撃。受身は取ったが、苦しみは消えない。息を吐きながらもすぐさま戦うために起き上がろうとして。

「これで、詰みだな」

 鞘ぐるみの太刀を眼前に突きつけられた光景に――アトリは自分が敗北したことを悟った。





「勝者、戦堂新志ネ! はい、両者の健闘を拍手ヨ!」

 審判役のジャニーの言葉を待つまでも無かった。既に魔術師軍の観客達からは拍手が巻き起こっている。
 新志もアトリも全力を出し切った。どちらが勝利してもおかしくは無いぎりぎりの勝負だったと理解するからこそ、お互い自然に敬意を示すべく握手を求める手を差し伸べていた。お互いの手を握り合う。

「強かったぜ」
「君もね」

 新志とアトリ、試合った二人は、ある種の共感を抱きつつ笑いあう。

「凄かったよ、二人とも」
「やー、よくあんなに動けるよなぁ、あんちゃんも」

 拍手と共に歩み寄ってくるのは珊瑚と絶佳の二人。珊瑚は表情に素直な賞賛を、絶佳は口元に出来のいい玩具を見つけたような笑顔を浮かべている。どちらも両名の戦いを見て感じ入るものがあったのだろう。

「さて……ではこれで珊瑚の相部屋の権利は新志のものデスね」

 あ、と、今ようやく思い出したかのように手を打つ新志。そういえばこの試合の発端はアトリが珊瑚との相部屋の権利を賭けての勝負だったのだ。アトリはさすがに失ったものの大きさを想い悔しそうな表情を浮かべたが、それも一瞬。何か大切なものを諦めたような笑顔で勝者を祝福する。

「勝者の権利だ。素直に受け取りたまえ」
「ああ」

 新志は頷いてから、珊瑚を見て首を捻った。

(……今から思うと、ここまで奮戦して欲しい物でもないよなぁ)
「なんかすっごい失礼な事を思われている気がする」

 なんだかとても不満げな表情で新志を睨む珊瑚。読心術を疑うような正確な洞察だった。とはいえ、結局新志が欲しかったものはアトリに勝利することであり、今の今まで忘れていたのは仕方が無いだろう。

 拍手は続いている。

 超常の技に対して常人が持てる限りの力を尽くせば勝てる――それは常に強力な実
力を持つ将魔との戦いに赴く彼女らにとって、一つの励ましになることを新志は知らない。敬意のこもる拍手を受け、新志はみなに一礼し、その場を後にした。





「ヘイ、新志。ところで質問デスが」

 決闘場を後にし、一応念を押して医療室に足を運ぶ最中、ジャニーが口を挟む。

「最後の決め手になった一手の前、アレは言うほど外道でも無いと思うですガ?」
「それは私も気になっていたよ。……鞘に収めたのは地面にたたきつけた一撃を、蹴り上げて返すため。その一撃で私の体を捕まえて投げ飛ばす。……槍術の『山返し』の亜種かな? まぁ見事に引っかかった訳だが、しかし正当な技だと思うのだよ」

 審判として近くにいたジャニーは新志の言葉を聴いていたのだろう。投げかけられる疑問の言葉にアトリも不思議そうに質問する。

「……お前ら、俺を軽蔑しないか?」

 だからこそ、新志の言葉の内容が理解できず、みんな仲良く首を傾げた。



「正確に言うと、本来の目的は――『金的』――だったんだ」
 




 ()―――……………ン






「あの時は、一撃で勝敗を覆す技を、と思った。……地に叩きつけ、蹴り上げて刃を起こす。その起こした一撃で相手の股間を強打すりゃどんな強豪もノックアウト確実だったが……流石に俺も男の子として躊躇わざるを得なかった。まぁ、山返しだったのは――ある意味、一番理想的な決着だったな」

 なるほど、それはまさに外道の技であった。
 どんなに鍛え上げても強化することの出来ない部位。確かにそこを打たれれば悶絶必死。一撃で勝負が決まっただろう。だから、新志は危うくその危険極まる技を危うく掛けられるところだった相手の反応に、目をぱちくりさせた。

「あの――アトリさん。……なんで顔を真っ赤にして俯いていらっしゃるの? いや、そりゃお前が俺を殺したいほど憎むなら理解できるけど……どうして恥ずかしそうなの?」

 言うわけにはいかない。この学園の秘密に関わる情報なのだから言うわけにはいかない。言うわけには行かないが……あと少しですごいセクハラ行為をされるところだった。アトリは耳まで真っ赤。とても恥ずかしそうに、もじもじしている。
 ただ、新志の背後に佇む三人の目が、なんか氷点下に成りつつある事は理解できた。

「新志、死ね」「ユーは最低デース」「あんちゃん、見損なったぜ」
「……いや、確かに自分でもその手段を取るのは最低だと思ったし、結局使わなかったのに……どうしてみんな俺をいまにも絞め殺しそうな目で睨むの?」
「……あ、あやうく、こ、股間を狙われかけただなんて、私を上回るいやらしさだ。……わ、私は……は、辱められてしまった。うえぇぇ……もうおよ……お婿に行けないよぅ……」
「してねぇだろうが!! 未遂だろうが!!」

 しかし、全力で否定しても意味不明の冷たい視線は決して収まる事無く……新志は結局針のむしろという言葉をその身で実体験しながら医務室に向かうのであった。
 怪我の治療より、過度のストレスによる胃潰瘍をわずらっていないか検査して貰おうと心に決めて。



[15960] 三番勝負後の顛末
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 14:59
 ――とはいえ。




 勝ったといっても別に劇的に生活が変わる訳でも無い。


 この学園に入ってからずっと寮に入らず野宿していた新志が、ようやく正式に天井のある場所で眠るという程度の話だ。普通の人からすれば大変な変化だが、何につけても大雑把な新志本人からすればあまり大差ないらしい。
 授業も引き続き受けてはいるものの、相変わらず内容もさっぱりで理解できない事ばかり。ただ、やはり筋肉馬鹿らしく、新志は体を使うための、筋肉の構造に興味を示していた。どの筋肉を動かすことで斬撃が早くなるのか、この手の授業はフィーリングが重要らしく、そのまま現在では筋肉と骨格にかかわる事を学んでいる。あとは個人的な興味で星の運行などなど。ブラックホールすげー、と頭の悪い感動を見せていた。

「うううううう。……負けたから致し方ないとはいえ、残念なのだよ」
「我慢できなきゃまた喧嘩を買うぜ」

 一番変わったものと言えば、新志とアトリが割と仲良くなったことだろう。今日も今日とて新志の机に前のめりになって項垂れながら愚痴を零すアトリを面倒そうに新志は見ていた。また珊瑚にすげなく扱われたらしい。
 以前なら新志もアトリの事を変態と見ていただろうが、実際に剣を交えてみて、その人柄に対しいろいろと思うところがあった。苦笑いを浮かべながらも拒んではいない。

 ふむ、と、新志は呟いた。

 数日話してみて、この変態騎士の性格はなんとなくだが理解しつつある。それゆえに、アトリになら、珊瑚の本当の性別を告げてもいいのではないだろうかとも。言動も行動も変態だが、しかし最後の一線は紳士。もしこれで珊瑚の性別が本当は女性であると知り、諦めるならそこまで。ここで珊瑚の真実の性別を知り、それを受け入れるかどうかは……アトリが両刀使いであるかどうかにかかっているのだ。

(……なんつー結論だ)

 新志は、げっそりした気分でそう考えた。
 もちろん、新志はアトリが男装した女性であることなど知る由も無い。彼の中ではアトリ(男)、珊瑚(表向きは男性だが実は女性)と思っており、アトリは知らないだろうが、実は二人はノーマルな異性愛と信じているのだが……実際はどちらも女性であるなどまさしく想像の遥か彼方を行っているのであった。

 当然、真実など知る由も無い。

 ただ新志はいつも珊瑚にすげなく扱われ、新志の机で滂沱の涙と愚痴を漏らすアトリが正直うっとおしくなって……ではなく、友人のためにその背を一押しする事に決めたのであった。


「なぁ、アトリ。……お前、このままで良いと思っているのか?」
「うぇ?」

 以前のような真剣勝負ではなく、お互いに防具をつけたままの練習試合の最中に新志は考えを言うことにした。共にこの魔術師軍の中でも最高クラスの剣士である二人は、腕を磨く意味で戦える練習相手が、魔術師軍の待機部隊の中にはあまり数がいない。もちろんここ唯一の公認の女性(と新志は信じている)早乙女ならばさぞ良い練習相手になるだろうと思っているが、実現するとも思っていなかった。
 アトリは意味が分からず首を傾げている。

「珊瑚の事だよ。……お前、告白したのか?」
「ええええぇぇぇぇぇ???!!!」

 相手の反応はいっそ分かり易いぐらいに恋する乙女であった。いや、れっきとした男性に乙女は失礼だよな、と新志は、心の中で実は不必要な訂正をする。
 顔は耳まで真っ赤になっているし、足は落ち着き無く試合場の床を何度も踏みつけている。ああ、こいつは本当に珊瑚の事が好きなのだと、新志は少し嬉しくなってしまった。彼にとって、珊瑚は大切な親友であり、保護対象だ。そして彼女を好いてくれる男がいる。アトリが相部屋を追い出されたのは新志にも責任の一端がある。なら後押しぐらいはして見せようと心に誓うのであった。

「し、しかし、サンゴ君は……」
 勝負では迅雷のような踏み込みを見せたアトリも本気で恋を適えるための行動には二の足を踏むらしい。そこがおかしくて、ほほえましくて、新志は思わず笑ってしまう。

「そりゃあいつもお前がちょっとアレな変態であることも理解しているだろうが、しかしこっちに来てから結構長いんだろう? 本当に毛嫌いしているなら話もしないはずだ。心のそこから嫌ってる訳じゃないって。思いのたけをぶつけてみろ」
「そ、そうだね」

 ……あ、やはり変態という部分は否定せんのだな、と思ったが新志は突っ込みをやめた。

「よ、よし。……でで、では、ちゃんとラブレターを書くことにしよう。凄まじい甘さに読んだ人が血を吐いて死ぬような凄い奴を」
「お、おう」

 まぁ、前向きになった事自体は大変結構だ、と頷く。
 今から恋文、しかも読んだら人が死ぬような凄い奴を書きに行くのだろう――新志はなんかおかしくないか? と自問自答したが、面倒になって考えるのを止めた。


 さて。
 もし、アトリと珊瑚が相思相愛になった場合、自分が採るべき行動はどういったものだろうか。

「やっぱりお邪魔虫にならないようにすることだと思うんだ」
「だからといって即決即断が過ぎマース」
「うん。……もう少し脊椎反射で生きる癖は改めた方が良いと思うぞー」

 アトリをけしかけてから次の日。戦堂新志は授業後にこの魔術師軍の中での数少ない友人であるジャニーと絶佳、そして本来はアトリが住まう三人部屋にお邪魔していた。本来なら三人で使う部屋だが、もとより人の出入りが少ない組織。心持ち広めに設計された寮の入居できる人数はなかなか多い。連帯感を育てる意味も兼ねているから、むしろ、現在珊瑚と新志が住まう二人部屋の方がむしろ数は少ないのだ。

 さて。ジャニーがいつものように半裸になろうとして、そのタイミングでいきなり新志がやってきたので……ノックして中に入るまで台風のような騒動が部屋の中で繰り広げられていたのだがもちろん新志自身はそんなことなど知る由も無く。多少乱れた髪の毛で応対する二人は新志の言葉に嫌そうな表情を向けた。

「……しかしサンゴが、このことを知ったら多分凄く拗ねると思うのデスが」
「だよなー。……あんちゃん、全然気付いていねーし」
「なんでここであいつが拗ねる話になるんだ」

 新志は二人の幼馴染の親友に対する妙な予想に首を傾げる。……とはいえ、余り責められるものではないかもしれない。何せ三年ぶりに再会した相手をここに来るまでずっと男性だと信じ込んでいたうっかりな男だけあり、珊瑚が女性であると知った今も感覚としては自分と同年代の友人という気分しか持ち合わせていないのである。
 その反応に顔を見合わせ仲良く溜息を吐く二人。新志はしかし弁護に回る。

「でもな。……あいつがサンゴの奴の事を好きだってのは本気だと思うんだ。……例え険しい道の恋でも応援してやりたい」
「まー、その辺は確かだと思うデスがね」
「結果は……こればかりはサンゴねーちゃん次第だしなぁ」

 三人は、お互い顔を見合わせる。
 とはいえ、絶佳とジャニーは多分その告白が失敗するであろうと予想していた。ここで成功する可能性があると信じているのは戦堂新志だけである。愛とか真心が、これまで積み重ねてきたアトリの評価を凌駕すると信じているのは彼だけであった。


 ……だから、割と近くにある、現在珊瑚と新志が入居している部屋から、泣きながら大きくなってくるアトリの声が聞こえてきたとき、新志は駄目だったか、と残念そうな表情を見せ、絶佳とジャニーは、ああ、やっぱりと諦めたような表情を浮かべた。

「うわああぁぁぁぁん! 駄目だった、駄目だったのだよ!!」
「アトリ! 泣くなら俺の胸で泣け!!」

 部屋に飛び込んできた、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったアトリに対してそうまっすぐに答える新志。ひし、と抱き合う二人。
 本来の性別を考慮するなら長身の男性と長身の女性のお似合いカップルがひしっと抱き合うシーンなのだが、生憎とここに恋とか愛とかそういう要素は微塵も存在していなかった。あるのはただ、恋に敗れた漢と、その恋に破れた心の痛みを、ただ黙って受け止める漢という、非常に漢臭い光景であった。
 新志の胸の中でびーびーと泣き続けるアトリ。
 清楚な容貌をくしゃくしゃに歪ませ、涙を流す相手の肩をぽんぽんと叩きながら新志は言う。

「何も言わなくていい。楽になるまで泣け」

 その好意に甘えるように涙を流して、その手に持っていた封筒をはらりと落とすアトリ。ご丁寧にハート型のシールがついていたのでそれが珊瑚に渡した恋文だったのだろう。なんとなくそれを手に取る絶佳とジャニー。

「うううぇぇ、何で、何でこうなってしまったのか分からない……私の何がいけなかったのだろう……。君の言葉通り、全力で恋文を書き上げたというのに……」
「いいやお前は頑張ったぜ。……好きですって言葉を言うことがどんだけ大変かよく分かる」
「でも酷いのだ!! 珊瑚君は、一行も見なかった!」

 新志は大きく目を剥く。いくら執筆者が変態とはいえ、想いのこもった恋文に対してそれは余りにも失礼な対応だった。
 そんな本気の号泣を続けるアトリと新志を尻目に、ラブレターを手に取ったジャニーと絶佳。二人はそこで変な声を漏らす。

「……WHY? ……中にお手紙が入っていませーン」
「あるのは、メモリーチップだけだぞー?」
「手紙自体は珊瑚に渡しただけじゃないのか?」

 新志の胸の中でぐしぐし泣いていたアトリは袖で涙を拭ってから答えた。

「総計500KBの恋文なのだよ」
「恋愛小説でも出版しろよお前!!」
「中身は私と珊瑚君の愛の絡みを描いた十八禁小説だったのだ……」

 新志は――愕然とした表情。己の拳を強く握り締める。

「……何故だ……何故俺はコイツの恋を信じてしまったのだろう……分かっていたはずなのに……コイツが変態などと分かっていたはずなのに……」
「サンゴ君もひどいのだ!! 私が……この魔術師軍で回し読みされる超エロス人気作家『クリスチーネ瑞島』が全身全霊をこめて作り上げた鼻血確実の作品だったのに……! 『ボク、まだ十七歳だからそういうの読めないんだ』と一行も見ずにつき返したのだよ!!」
「…………まぁ、クリスチーネ瑞島先生には後でサインしていただくとして」

 新志、ジャニーと絶佳に視線で助けを求めるが、どちらも両手を高々と上げて降参している。
 無理も無い。立場が違えば新志も同じような反応を見せただろう。二人を責める気にならなかった。

「……うう、君を恨むよ、新志。……君の助言を聞いたばかりにこんな目に……」
「……流石に俺もお前がそこまで変態とは予想しなかった」

 どうやらどうしようも無いらしい。そこまで考えた新志は、ふと背中に怖気を感じる。背筋に氷の塊が滑り込んだような感覚……アトリも同じ気配を察したのか、顔を強張らせる。そしてなぜか絶佳とジャニーは、後ろー、後ろー、と指差して叫んでいた。


 は? と首を傾げる新志とアトリは仲良くゆっくりと振り向き。



 そこに能面のような無表情で、アトリの影の中から上半身を引っ張り出している珊瑚の姿があった。




 気配など微塵も感じなかった。……いつの間に。思わず呟く新志。

「ど、どうやって……」
「ボクの魔術。忍法影潜りの術だよ。相手の影、二次元に潜むの」

 ずずず、とゆっくりとアトリの影から姿を現す珊瑚。
 何か、怒っている。彼女を中心として空間そのものが怒りの圧力で歪んでいるかのような圧迫感を感じる。そして、その激怒が新志とアトリの二人に向けられているのはまず間違いなかった。ひぃぃぃ、と呟き、恐怖からか、すがりつくように思わずお互いを強く抱きしめる新志とアトリの二人。それを見て珊瑚の不愉快そうな眉が更に高角度に跳ね上がった。

「……いつものアトリと違い、ずいぶん直接的な行動に出たと思ったけど。……後ろで糸を引いていたのは新志だったんだね。ふーん、へー」
「……あ、あの。……自己弁護して宜しいでしょうか」
「……簡潔にどうぞ」

 ここで相手の心に強く訴えかけなければ死刑執行されてしまうような気分で新志は言う。珊瑚の目は恐ろしく冷たい。アトリの氷結魔術もこれに比べれば真夏のような過ごしやすさだろう。
 ……もちろん、珊瑚の不満は新志が、彼女の片思いの相手が自分と他の人とくっつける為の算段をしていたらしい、と会話の内容から察した事であった。乙女として心が痛まぬはずがない。

 三年間の壁は大きかった。子供の頃から既に、珊瑚は自分でも熱っぽいと思う視線を新志に向けていた自覚があったが……彼にとってはまだ珊瑚は年少の面倒を見なくてはならない被保護者に対する感覚しかないのだろう。
 本当なら、今新志と抱き合っているアトリを引き剥がして、その胸板に顔を埋めたい欲求がある。頬を擦りつけたい欲求がある。接吻したいという欲求は子供の頃から既にあった。早熟にも程がある。
 アトリは大切な友人だが、新志の事に限るなら譲る気は無かった。新志の胸の中に他の女がいるのが本当は我慢ならない。
 でもそれをする訳にはいかない。ノーマルな新志からすれば、あくまで野郎同士で抱き合っているだけであり、胸の中にいるアトリが女性の装いをすれば、とてもきれいに化ける美人であることなどまったく想像していないのだろう。だから此処で嫉妬を見せる訳には行かない。許された怒りは、許された攻撃の手段は――そう。

「……新志って……そんなにボクをホモにしたいの?」
「…………ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!?? ゆ、許してくれぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

 自分の罪深さを心の底から後悔する死刑囚のように、今まで謝罪と自己弁護に徹していた新志は青い顔をして震えた。確かに、男性であると偽らなければならない(と新志は思っている)珊瑚からすれば、アトリと結ばれる事が、珊瑚にとっては同性愛にふけることと考えられても仕方が無い。今まで言葉を尽くして謝罪していたのを全て馬耳東風と聞き流されていた事は気付かず、がっくりと地面に膝を突く新志。

「それにそんなにアトリと熱烈に抱き合ってさぁ。……新志って、実はそっちの人だったの?」
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!」
「ち、違うよぅ、サンゴ君!」

 新志は倒れた。

 倒れたまま……泣いた。アトリをその辺に置き去りにしてハラハラと滂沱の涙を流す。

「……じゃ、仲良くしなよ。二人とも。つーん」

 わざわざ効果音付の捨て台詞を吐くと、珊瑚はそのまま部屋を後にしていった。一緒にジャニーと絶佳も部屋の外に出て行く。

『ヘイ、珊瑚。すみませんが今日はミーと絶佳をそっちの部屋に泊めて貰えないですカ?』『あ、いいよ。大歓迎』『あたしも今日はあの二人の近くにはいたくないぞー』とか会話も聞こえてきたが……もちろん、恋に破れた変態騎士と、ホモにされた剣豪二人は自分に降りかかった災難を自覚するのに精一杯で気付くはずもない。


 お互いを見つめあう。
 


 何故か――泣けてきた。二人は瞳の端を決壊寸前の堤防のように涙で潤ませ、お互いに歩み寄って、ひし、と抱き合う。

「うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁあ」
「びえええぇぇぇぇぇぇぇぇっぇえ」

 



 そうして。

 



 気合を入れすぎた恋文のせいで拒絶された変態騎士と。

 



 
 三年来の親友にホモ扱いされた鈍感剣豪は。

 




 そのまま一晩中目が真っ赤になるまで泣き腫らし続け、お互い最も恥ずかしい泣き姿を見せあい。





 二人は。







 親友になった。  

















 薄暗い暗室の中で――早乙女はディスプレイに目をやる。
 先の決闘で取得したそれらデータを編纂、そこから戦堂新志がどういう魔術を扱うのかを予想しようというものだった。〈ジーニアス〉の声が響く。

『……先のデータから結論すれば、彼の魔術は恐らく極端な成長性と判断されます。通常の筋力の鍛錬の効率を超える成長速度、そして膨大な魔力の出力による身体能力の強化ではないかと推論いたします』
「……ふむ」

 早乙女は書類に目をやったまま、否定も肯定もしない。

『貴方の意見は? スピードガール』
「……彼の魔術適正は――一番最初の頃の僕に似ている、って言ったね?」
『はい』
「最初、音速域にまで達する事が出来た僕だけど――最初は酷かった。自分自身の肉体の防御がまるで不完全で、全力を出したら、体のあちこちが傷だらけになった。多分、それと同じ。戦堂新志のあの異常な急成長率は、魔術の発動に耐えうる発射台を作るためだと思う」




 一泊の沈黙。




『魔術師軍の中でも、フィジカル面では最高の肉体を彼は持っています。……それでも耐え切れない大出力魔術だと?』


「そう。……恐らく彼の魔術は、馬鹿げた筋力による次元境界線の歪曲。






 すなわち――」










[15960] 死番勝負――魔元帥『暴悪』
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 15:11
 薄暗い暗室の中、横たわる巨躯がある。

 天蓋付の豪奢な寝台の上に横たわるのは、その大きな寝台のほぼ全てを占拠する巨体の男性であった。天井を見上げるものの、その視線には全て見通すような英明な知性の光があるが、同時に何も目に入っていないように見えた。

 睡眠でも休息でもない。ただ思索に没頭していたその巨躯の男は、遠慮がちに暗室の扉を叩く音に面倒そうな視線を向ける。

「開いている。入りな」

 おずおずと扉を開けるのはホテルのボーイ。
 光が差し込めば、巨躯の男が居座る暗室の中を飾る内装の豪華さに、ここが最上級ホテルのスイートルームであると分かるだろう。ボーイは、この気難しげで金払いのいいホテルの上客の機嫌を損ねぬように心底気をつける。何せ渡されたチップの額からして他の客と桁が違う。

「は、はい。……言付けを頼まれております。読みます。……『帝国にて動きあり。罠の危険高し』」
「……くそが」

 不機嫌を濃縮したような怒気交じりの男の言葉に、ボーイは自分が途方もない失態を犯したのかと自己を省みたが――どうやらその呟きはもたらされた報告に対する自嘲交じりのものであったらしく、彼は忌々しげに直立した。
 自分以外の全てに見上げられる事に慣れきったかのような均整の取れた巨躯。目に浮かぶのは凶暴な獣性とそれを統率する知性。理性ある魔獣を連想させる男であった。

「……俺の衣服を持ってきてくれ。それと今日でここを引き払う。清算を頼む」
「は、はい。分かりました、エルムゴート様」

 その言葉にボーイは忠実な従僕を勤めながらも、内心落胆を感じていた。金払いの良い上客――それもチップをはずんでくれる相手が引き払うのは個人的に残念であったが、もちろん客の意向に逆らえるはずもない。
 出来るなら次回もこちらに止まって欲しいものだ、と考えつつボーイは部屋を退室する。

 もちろん彼は気づいていない。もちろん巨躯の男も気づかせていない。

 彼がエルムゴートと呼んだその巨躯の男は人類の仇敵である『魔』の中でも最悪の部類に入る怪物であり、彼が一度その体に宿す力を行使すれば――ボーイ自身の生命どころか、彼が住まう都市全てが半壊させられる事を。

 だが、彼はそれを実行する力を有しながらも実行しない。

 彼は自分の実力を知悉していた。もちろん彼が無作為に力を振るっても、恐らく人類全体に相当のダメージを与えられると言う事を。
 同時に彼は膿んでいる。恐らく個人で世界を滅ぼす可能性を有するが故に彼は、彼自身が好む肉と命を削りあうような壮絶な死闘に飢えていた。力が有り余るが故に、全力で力を行使する機会をまったく得ることがなかった。
 本来ならば誰よりも死闘を好む戦闘狂である彼が、おおっぴらに魔術師軍と戦わないのは――もしかすれば彼の眼鏡に適う未来の強豪がいつか輩出されるかも知れぬと思うからだ。

「……それとも、やはり貴様しか居ないか? 早乙女。……いや、英雄スピードガール」

 前大戦からの知己であり、そして至高の強敵の名を呟き、まるで古い友人に会うことを楽しみにするように――『魔元帥』エルムゴートは凶笑を顔に浮かべた。





『作戦内容を伝達します』


 いつもと違う空気。
 その場にいる魔術師軍の全員の表情に浮かんだ鋭い緊張の色は神経をささくれだたせる。ざっと見てミーティングルームに集合したメンツの数は戦堂新志と珊瑚達以外にも他五小隊、二十五名近くが参加している。流石に全員軽口を叩く気はない。目に浮かぶ色は戦士を思わせる覚悟があった。

『華帝国現皇帝陛下崩御の情報が入りましたが、これは帝国内に蠢動する将魔を発見し、打ち倒すための囮作戦です』

 華帝国。世界の中でも最も巨大な国土、国力と、専制君主制という制度を未だ採用している巨大国家。
 奇跡的にも賢王の政治が数代に渡って続いたという幸運に恵まれ、今だ存続を続けているが――巨大な権力を血縁によって継承できる立場をめぐって相当数の将魔が、次代の皇帝の地位を狙って暗闘を続けているらしい。

『作戦指揮担当は先行して華帝国に移動しているバーチェッカに。……そして、今回の作戦の肝、それはここにいる朱絶佳に次の皇位が継承されるという情報が流布されていることです』

 作戦全体としてはそう難しいものでもない。
 珊瑚を隊長とする小隊員の朱絶佳は、華帝国の皇族の血筋に連なる。生まれた順番ではなく、能力で決定される事もまた専制国家が長寿を誇る事になった理由の一つだろう。
 朱絶佳は男(実は女性)の皇位継承者の中では中堅の位置になる。皇族の一人が一兵士として人類全体のために闘っているという美談ゆえにだろう。もちろん家臣の意見もある程度参照にしなければいけないが、それでも、皇帝の指名権は強大だ。ここでその指名に堂々と異議を唱えるか、闇で陰謀を張り巡らすかを見極め、一斉にその中に潜む将魔、ならびに不穏分子を一斉摘発するつもりなのだ。




「では、ボクらはおとり役ということですね?」

 ブリーフィング終了後、いつもの面子の中で指揮官役を務める珊瑚は<ジーニアス>を通して伝えられる命令に確認を取る。

『はい、皆様には、華帝国首都である咲京へと向かって頂きます』
「もちろん命令とあれば従いますけど……敵勢力は現れますか?」
『まず間違いなく。……ただし、この班では絶佳様が皇族という立場故、それを利用いたします。次期皇帝という情報を信じた相手の行動を待ち、その行動を元に、犯行勢力を補足します』

 あくまで魔術師軍としてではなく、華帝国皇帝の子息として、その友人として動け、と言う事らしい。珊瑚は眉間に皺を刻み、声を潜めて尋ねる。

「……でも、新志は――」
『共に連れて行け、という早乙女氏の命令です。……ただし、呪詛毒の対処方法がまだ確定していないために、珊瑚さんの小隊はあくまで敵の人間の部隊に対する囮です。……敵もここで将魔を繰り出すほど馬鹿ではないと思われますし』

 珊瑚は困ったような表情をする。軍隊はもちろん上官の命令に絶対服従が常であり、皆が信頼する早乙女光は前線を知る得がたい指揮官だった。判断に誤りがないと信頼できる人であり、だからこそ、普通ならば異議を唱えるであろう命令にも従っている。
 戦堂新志がもし将魔と相対した場合、彼は『呪詛毒』により、戦うことすら出来ず即座に絶命させられる。そして珊瑚をはじめとする全員が使用している『異性装による霊的汚染の回避』という手段が使えない新志はそれに変わる『呪詛毒』の回避法が見つかっていない。何か早乙女にも考えあってのことだとは思われるが。
 本来ならば、珊瑚達のチームはこれから南極に行く予定であった。
 人類最大級の通常戦力が集う南極では常に敵が存在しており、強力な後方支援を抱えた通常戦力をバックアップにして戦い、戦場の空気に慣れさせるのである。魔術師軍は休暇と自己鍛錬を目的とした学園での生活、世界各国に配置する戦闘巡回、南極での防人前衛との共同戦の三つのローテーションで回されている。
 と、言っても今回南極での実戦訓練は無視しても良い内容だ。新志は既に南極で実戦を経ている。
 通信を終え、教室に戻って集まっている他のメンバーに歩み寄り、言葉を向けた。

「ボクらの行動が決まったよ。……明日から華帝国首都の咲京へ行く。……作戦内容は索敵。ただし……華帝国皇族の絶佳のボディガード、知人として同行する形をとるよ」

 全員の視線が、椅子に腰掛けていた絶佳に集中。思わずきょろきょろと周りを向いた。

「あたしかー。……うーい、じゃー了解」
「いい偽装だね。護衛として行けるなら、それに越したことはないよ」
「絶佳を守るボディガードとしてデスネ。……それなら新志はさしずめ筋肉大好きな絶佳の愛人扱いデース」
「はぁ、じゃあ俺は脱げばいいのか?」
「え? そ……それはボクも是非見た……ち、ち、ち、違う!!」

 何故か怒り出す珊瑚。怪訝そうな顔をする新志。冗談あったのデスが、と呟くジャニー。

「そうでス新志。脱ぎたがりな人はミー一人で十分デース」
「……え? 俺ジャニーが脱いだところ一回も見たことないぜ? いつもちゃんと服を着ているし、普通に真面目だし、そんな事ないんじゃないのか?」

 新志は首を傾げた。何気なしに呟いた褒める言葉に対し……何故かジャニーは劇的な反応。

「OH!! ミーは挑戦を受けましタ!! 『自室では全裸派』のプライドをガードするため、ここで受けてタタネバ、オンn……」
「ああごめん! ボクはジャニーと大事な用件があったのでこのまま失礼するね新志!!」
「そして私もジャニーに話があったからちょっと失礼するよ新志君!!」
「おい、ちょっと待て! その前に自室では全裸派の意味を教えてくれよ、気になって夜も眠れなくなる! もしかして数日前まで俺はすごい危険人物と同室だったんじゃないのか?!」
「NO!! 放してくだサーイ! ミーのジャスティスが汚される前に新志を犯るデ……モゴモゴモゴ」

 閃光の早業でジャニーの口を抑えて、御輿のようにえっさっほいさっと抱えあげて教室を後にする珊瑚とアトリ。
 なにやらとてつもなく危険な事実の尻尾を踏んだような気がした新志ではあったが……まあいいや、と思いながら再び椅子に腰を下ろした。
 ふと、見れば……一人だけ残って何か考え込むようにしていた絶佳。思わぬ里帰りで落ち着かないのだろうか、悩みを抱えたような表情。新志は首を傾げる。自分を見る視線に気付いたのだろうか。おもむろに絶佳は口を開いた。

「なぁ、あんちゃん。……あんちゃんって、弓国じゃ最大規模の流派、戦堂一倒流の総帥候補だったんだよな。……それなら、どうして南極の防人前衛に入隊したんだー?」
「え? ……なんでいきなり」
「権力も財力も……目の前にぶら下がっていたのに、なんでわざわざそれを捨てるような真似をするんだよー」

 新志にはもちろん理由があった。戦堂一倒流の剣士として流派頂点を極めてみたいという気持ちは存在していたが……ただ、新志にとって流派最強の称号より、名門当主として得られる権力と財力より、優先するべきものが存在していただけだった。

「……お金が無いのは厳しいんだぞー、あんちゃん。お金なんて無くっていいって言う奴は、一度素っ裸の一文無しで寒空の下を三日ほどさ迷えばそんな妄言なんて吐けなくなるんだ」
「……実体験に基づく台詞か?」

 新志の何気ない言葉に……絶佳は一瞬で顔を青ざめさせ、立ち上がる。
 そして何も言わず、その場を後にした。




 まずい、まずい、まずい、下手を打った。絶佳は一人廊下を早歩きで進みながら考える。
 彼女には、戦堂新志の考えが理解できない。華帝国の皇族、低いながらも皇位継承権を持つ彼女の傍には、権勢のおこぼれに預かろうとする人間が存在していた。
 それだけに、戦堂新志という男が理解できない。掴み取ろうと思えば得られたものを自ら投げ捨て、わざわざその身一つで命の危機のある戦場に志願するのか。

「くっそー。……へましたよなぁ」

 先ほどの場合、もっとマシな言い訳など後で考えてみれば山ほど浮かんでくる。だが、あの刹那では――ずっと昔から隠し通してきた事実を言い当てられ、思わず背筋に恐怖が走り、ただ逃げると言うことしか出来なかったのである。性格からして言いふらすような男ではないと分かっていても、だ。

「……母様」

 絶佳は、呟く。

 自分を養育してくれた、不幸な人の名前を呟いた。
皇帝が血筋を残すために後宮を設け、親子ほど歳の離れた兄弟を残す。華帝国の皇族、朱絶佳が生まれ育ったのは、そういう環境であった。

 他者に傅かれる事が当たり前の環境で育ったにも関わらず、朱絶佳は大分素直に育ったと言ってもいい。得意なのは料理ぐらいで、昔は目覚めたときに布団から這い出るのも、衣服を着るのも、みんな召使にやって貰わなければ何も出来なかった彼女が家人達に人気があったのは、単に、何かして貰った時にありがとうとちゃんと言うように躾されたからだった。それだけだったが、それすら出来ない兄弟ばかりしかいなかったのだ。

 だが、実際は……本当の生まれは違う。

 朱絶佳が生まれたのは、とある寒村であり、平民どころか、明日餓えるために今日生きるようなひどい環境の僻地を故郷としていた。
 一応生まれ持った性別は女の子であったものの、ぼさぼさの黒髪に痩せ細った体。生まれ持った生命力の全てを幼い頃にすり減らして、そのうち襤褸切れのように死んでしまうのだろう。幼い頃の絶佳はそう考えていた。

『ああ――愛しいやや子や、どうしてこんなところにおるのかえ?』

 そんな絶佳を地獄の境遇から救ってくれたのは、心を病んだとある婦人だった。華帝国の皇族、皇帝の第四婦人。
 近年に産み落としたはずの愛児を盛られた毒によって失い、婦人自身も毒を盛られ、なんとか命を取り留めたものの、彼女はそれ以降心の均衡を崩してしまっていた。

 男児ゆえ、帝位を狙うものの魔手が伸びたのだろう。まことしやかな噂が流れる。

 愛児の死を受け入れる事が出来ず、近隣で見かけた子供の頃の、襤褸を着た少女を見て、どうして失った子供の影をそこに見たのだろうか。絶佳は今も自問するが答えはでていない。
 暖かい布団においしいご飯。華帝国皇族の身分と、心を病みながらも自分を愛してくれた母様。どうして自分は女であると言い出せようか。あなたの子ではないのですと言い出せようか。
 その母様も、数年前に亡くなった。元より心も体も強い人ではない。毒の後遺症とバランスを欠いた心のままで、絶佳の事を自分がお腹を痛めて産んだ子供であると間違えたまま、最後まで息子と信じた絶佳の身を案じて眠るように息を引き取った。
 皇帝の身分に興味はなかった。元々最悪の境遇を知っている絶佳は既に今の状況だけで十分過ぎるほど恵まれていたのだから。


 ただし華帝国の皇族として魔術師軍に属する絶佳には目標がある。


 母様が産んだ愛児に毒を盛って殺し、母様を不幸にした下手人。
 その下手人がいなければ、絶佳は心を病んだ優しい母に愛されることもなく襤褸切れのように死んだだろうが、殺らずにはいられない。
 夜眠れない時に子守唄を読んでくれた母様。でも本来その歌を聞かされるべきは自分ではない。子守唄を聞かされるたびに涙が出た。母様は心配そうに絶佳に尋ねるのだ。

 どうして泣くのかえ? と。

 泣いたのは、歌を受け取るべき人は本来自分ではないからだ。母様が本来歌を語って聞かせる相手は自分ではなく、騙していることが申し訳なくて。でも、自分ではないのです、母様と――そう彼女の誤解を解く言葉をどうしても言うことが出来なかった。その愛を、自分が掠め取っている事実が、そして真実を知られる事で愛されなくなる事が怖くて。
 

 だからせめて、その愛に報いたくて。

 絶佳は、今も母様とその子を、『朱絶佳』を、殺した相手を探している。





 絶佳の性別を見抜き、そして魔術師として引き抜いた早乙女光。世界各国の要人に顔が利く女装の美少年を装った老獪な軍神。彼の手回しにより、絶佳は男性として、皇位継承権を持つものとしての立場を得ることが出来た。
 その彼に、入隊する際の条件として突きつけたのが、母の死を招いた奴が何者であるのかを調べ上げる事。

 絶佳の望みは唯一つ。

 母の愛児を殺し、そして母の心を壊して死なせた宿敵を、屈辱を与えて殺すことである。





 あくまで今回の行動は、朱絶佳の私的なものであるというのが表向き。
 全員が在籍する魔術師軍の人工島から一番近場の統京を経て飛行機を乗り継ぎ――華帝国首都である咲京まで移動する。
 魔術師軍は本来戦闘を専門とする。人類社会に潜んだ将魔の存在は各国が抱える専門の調査機関と、魔術師軍の中でもほんのごく一握りである未来予知を専門とする魔術師が感知しそれに対応して最適な部隊を派遣するというのが常道であった。
 今回の時点では危機の存在を予知した訳でもない。ただし、皇帝崩御という自体が招く混乱に乗じて、人から堕し、破滅をもたらすために行動する将魔が出現する可能性が高いと目されるために先手を取って出撃するのだ。
 何も事件など存在せず、唯の人間同士の後継争いで終始するかも知れず、手ぶらで帰る羽目になるかもしれない。

「……そうなればいいけれど」

 珊瑚は一人呟く。外に目を向ければ、空路として華帝国首都にもっとも近い空の玄関口である大玲国際空港へと旅客機が着陸するため、ゆっくりと高度を下げている光景が広がっていた。あと一時間ほどで着陸のために座席でシートベルトを付けねばならないだろう。隣に目を向ければ、戦堂新志は横になって寝ている。どこでも眠ることが出来るのは戦士としてなかなか得がたい資質だと珊瑚は思った。少なくとも先を思って不安で寝付けない珊瑚自身はそうではない。

「……本当に、大丈夫なのかな」

 新志は女装できない。
 それゆえ呪詛毒を回避する手段をもたない。将魔と戦いになった場合において、新志は、生身のままでアトリに匹敵する剣豪という立ち位置から一気に足手まといに成り下がる。新志がそれを知れば、自分達だけを戦わせることを由とせずに、絶命までの数秒間で将魔を打ち倒してそのまま笑いながら死ぬぐらいの行動を取るだろう。そういう男だ。

 もちろん、新志を除く皆はそんな事など望んでいない。

 なんとかして新志を後方に置く手段を考えないと……と思うものの、道中幾ら考えてもいい手段など思い浮かばないのであった。

「む? サンゴ君。新志に何かするつもりなのかい? 落書きならぜひ一口乗せてくれたまえ」
「あ、アトリ?」

 今も眠っている新志の顔を心配そうに覗き込んでいた珊瑚に声を掛けるアトリ。顔にはどこか面白そうな表情が浮かんでいる。
 先日の決闘の一件から新志とアトリ、両名の距離は近くなったように思う。アトリは新志の事を野人呼ばわりしなくなったし、新志はアトリを前にしても尻を防御しなくなった。やはり先日の500KBの恋文の後、一晩二人仲良く泣き明かしたのが大きかったのだろう。ちなみに500KBの恋文の内容は有料で希望者に配布されている。勿論、内容はアトリと珊瑚をモチーフにした濃紺な女性同士の絡みだったらしい。念のため『戦堂新志のみ販売禁止』と名指しされたものの『アトリが、珊瑚の事を男性だと思っている』と信じている新志は――

『……金を払ってもらっても男同士の濃密な描写なんて見たくない……というか、そんなのを見たがる人間と思われたのか、俺は……よし、死のう……』と、凄くダウナーな反応を見せ、結局早乙女氏に一発殴られて宙を飛んで海に落ち、この前ようやく復活したばかりであった。

 そんな訳で、なぜか新志とアトリの仲は良い。雨降って地固まるの典型だった。

「落書きするつもりは無いよ。……新志が将魔と戦って無事ですむか考えていた」
「……そうだね」

 その事はアトリにとっても懸念なのだろう。同意し、口を開く。

「私にとってはそれも懸念の一つなのだがね。……絶佳の様子が、どこか不安そうなのだ」
「里帰りなのに……? ナイーブになってるだけかも知れないけど……一応気は付けておいたほうが良いね」
「うむ」

 故国に帰るのだ、喜びはあっても不安になるなどそう無いと思うのだが――珊瑚の言葉に頷くアトリ。

「それにしても、アトリと新志、いつの間にかずいぶんと打ち解けたね」
「ふふ、それはそうだろうね。なにせ……お互い恥ずかしいものを見せ合ったのだから」

 アトリ・瑞島・レギンディヴの認識ではお互い恥ずかしいものとは――二人してお互い泣いた姿を見せ合った――だった。珊瑚の認識では――文字通りお互い恥ずかしいもの(イヤラシイ方面限定)を見せ合った――だった。

 両名の認識は致命的に食い違っていた。もちろんアトリはちゃんと新志に対して魔術師軍の秘密を堅守しており、冷静に考えれば珊瑚の誤解は検討はずれもいいところなのだが、頭が沸騰した珊瑚が気付くわけもない。
 その後、戦堂新志は目を覚ました途端、珊瑚に人を呪い殺しそうな激しい視線を向けられ、そのまま再び夢の世界へと逃避したくなった。もちろん元凶のアトリは気付く由もなく、そのままシートベルトをジャニーに嵌めて貰い一人拘束プレイと悦に入る。

 一生妄想のネタに困りそうにない女だった。


「ところで、前々から気になってたんだが」

 とりあえず怖い表情で自分を睨む珊瑚から逃げてきた新志は、アトリとジャニーの座る席の隣――少し元気の無い絶佳と席を交換してもらい、そちらに居座る。今向こうでは小隊の隊長として珊瑚が絶佳を少しでも元気付けようと話をしているはずだ。その間、蹴り飛ばされるような勢いで追い出された新志は――ふとした疑問を、二人にぶつけてみる事にする。

「……俺の受けた教育じゃ、そもそもデュガン連邦とアメリア精霊合唱国の人間ってのは大概仲が悪いって聞いたんだが」

 事実である。
 西欧に存在するアトリの故郷、デュガン連邦の前身にあたるアーメスタ皇国は覇権主義の侵略国家であった。
 香辛料、金銀、そして奴隷。二百年ほど前までは彼らは世界の半分近くを席巻し、そして植民地から富を搾取し続けた。そんな彼らが新たに目をつけたのが、香辛料の流通ルートの開拓途中で発見された、今ではアメリアと名付けられた新大陸だったのである。

「あー、それは無いデス。何せ、アトリはデュガン連邦の旧貴族、名誉ある騎士の方を祖父に持つデス。戦争初期にアメリアに味方しくださった家系だし、そもそも個人を恨む気持ちはありませンデス」
「うむ。私も最初は同じチームを組む際、受け容れられるか不安だったが、そんな不安は瞬時に払拭されたのだよ」
「なるほど、変態同士、気があった訳か」

 新志は二人に怖い目で睨まれた。

「しかし、侵略された国と侵略した国の子孫が顔をあわせて一緒に戦うってのもすげぇな」

 感心した様子で頷く新志に――それもそデスね、とジャニーは頷く。

「そもそもミーも、旧アーメスタから流れてきた人と、アメリア人の間に生まれた混血デス。……周知の通り、アーメスタはどんどん大きくなったデスが、その食糧生産力を人口が圧迫するようになり、移民船団を構築したデスよ。その中の一人が、ミーの曾曾爺さんデス」

 新志はなるほど、と頷く。それならジャニーのフロストブロンドの髪――デュガン連邦で見られる頭髪の色と、褐色の肌――アメリア人に見られる人種的特長を兼ね備えている事も理解できる。
 ――覇権主義で知られるアーメスタであったが、アメリア大陸の環境を調査した結果、人が住む事に適さない過酷な環境であることを知った。純血のアーメスタ人が行けば苦労すると分かっている新大陸への入植を嫌った結果、彼らに征服された被征服民が大勢アメリア新大陸に向かう結果となったのだ。

「その中には、当時から冷や飯食いだった旧貴族のご先祖様の何人かも何人か向かっているからね」

 アトリがそう付け足す。新志は首を捻りながら尋ねた。

「旧貴族って――そういやどういう意味なんだ?」 
「侵略国家になった国家総体の意思に逆らい、自国領土を安堵することに全力を尽くす。古めかしいノブリス・オブリージュを守り続ける黴の生えた時代遅れの騎士達の総称だよ。……でも私はこれを誇りを込めて名乗っているのだ」

 そういえば、最初出会った時点で『旧貴族をやっている』と名乗っていたが、これのことだったか、と新志は今更ながらに思い至る。……アトリがご先祖の事を誇りに思っている良いシーンなのに先ほどまで拘束プレイと悦に入っていた訳だから、いまいち感動が薄れるのだが。新志はそう思った。もちろん口にはしない。ここ数日で新志の空気を読むスキルは急速成長中だった。

「最初、アメリアに入植したアーメスタの被征服民と、精霊と竜を信奉していたアメリア人は最初こそ衝突すれども、すぐに打ち解け仲良くなったデス。
 アーメスタ本国も監督は征督府に一任し、膨大な税金を納めさせていた訳ですガ――その状況が変わったのはアメリアに膨大な貴金属鉱床が存在していることが発覚してからだったデス」
「……そいつは――まずいな」
「ええ、かなり不味いデス。それまで膨大な税収で満足していたアーメスタ本国は本国直轄の軍勢を派遣し、アメリア人に過酷な労働を強いて貴金属の採掘を始めましタ。垂れ流される鉱毒で生態系が汚染される事もかまわずに効率のみ重視したやり方だったそうデス。
 ……アメリア人と話し合いで土地を譲ってもらった初期の入植者はこれに反発しましタ。本国よりもアメリア人との生活で心情的に彼らに近くなっていたご先祖様は、でもアーメスタ本国の軍隊に弾圧されたデス。
 結果、初期入植者とアメリア人は手を組んで、本国軍隊に対し、独立戦争を始めましタ。
 しかしアーメスタ本国軍は世界全土に侵略の手を伸ばしていた精強な軍隊デス。戦争当初はアメリア連合軍の敗北続きでしタ。でも――それが覆ったのが、五つの山の頂におわす、偉大なる竜王様達の参戦だったデス」

 それは、聞いたことがある、と新志は頷く。

「確かアーメスタ本国もドラゴンの存在は掴んでいたけど、全然信じていないんだったっけか」
「イエス。……千年を閲する竜王様方のご出馬により、当初優勢だったアーメスタ本国軍は絵に描いたようなボロ負け。最新の武装で固めた彼をけちょんけちょんにぶっ飛ばしたそうデス。その事実が信じられなかった本国軍は――それでも黄金に欲の皮が突っ張ったか、更に増員しましたがそれも壊滅したデス」
「……ま、結局大負けが重なったアーメスタ皇国は借金が膨らみまくってね。人手を軍隊に奪われ、度重なる増税で貧困に苦しむ民衆に私のご先祖様達、旧貴族は戦う手段を教え――結局アーメスタ皇国は瓦解。新しくデュガン連邦として生まれ変わり、アメリア精霊合唱国と友好関係を結んだわけだ」
「そんな訳で、アトリのご先祖様が皇国を滅ぼしてくれたおかげでミーのご先祖様も助かった訳ですカラ、歴史的にも友好関係を結んでいるデスヨ」

 その血にも深い歴史があるものだな、と新志は今更ながらに思い知らされる。
 逆に弓国は国自体を閉じており、華帝国との交易ぐらいしか外との交流は無かったはずだ。ただし、それゆえにこそ――外国に情報の一切合財を持ち出せず、鎖国していたためにアーメスタからの船が来なかったとも言える。
 貿易を行えばそこにどういう作物が収穫でき、何が特産であるのか、技術レベルはどの程度なのかある程度推測はできるものだ。
 最初は商人、次は宣教師、最後が軍隊というのが、侵略に置けるパターンであったから最初の段階で商人の来訪を拒絶したことにより、アーメスタから植民地政策の標的にされなかったとも言える。

「アメリアの竜信仰は昔からあったが、その戦争を機に信者も爆発的に増えたっていうけど……そりゃそこまで明快にご利益あれば当然か」
「神威とも言えるご威光を見せられたのデスから当然ですネ。……とはいえ、その戦争から二十年後に竜王様方は皆寿命を迎えられ、亡くなったデス」
「うむ、話には聞いているよ。確か現在でもその竜王様方のご遺骨は信仰の対象として崇められているとか……」

 そう繋げたアトリの言葉に――しかしジャニーは表情を急に曇らせる。まるであまり話題にしたくない事実に触れられたかのようだった。思わぬジャニーの様子に、アトリも思わず言葉を詰まらせる。

「……確かに竜王様方の遺骨は現在も信仰の対象として祭られているデスよ。……ただし、本来なら火、水、風、土、雷、それぞれの竜王様方のご遺骨があるはずですガ――火竜王様のご遺骨は五十年前の魔との大戦の折に盗まれ、未だに奪い返されぬままなのデス」

 奪われた? 予想外の言葉に新志とアトリの二人は思わず顔を見合わせる。
 大まかながらも高名なその生物に対し、新志はある程度の知識を持ち合わせていた。固体によって大きさに差異はあるものの、平均して全長は五十メートル前後の巨大な生物だったらしい。その骨格ともなればサイズだって相当大きいものになるはずだ。
 それを盗む? どうやって? 正直なところ想像すら出来ない。

「盗んだ犯人も判っていますガ――ミーの一族は未だにその相手を捕まえることすら出来ていませんデス」

 犯人の名前が判っているのならば、後は捕まえるだけ。
 だが、それが適っていないのであれば理由は二つ。
 相手の所在地が未だに明確にされていないか。
 相手の名前もはっきりしているが、その犯人があまりにも強力すぎて捕らえる事が出来ないでいるか、だ。
 問いたげな二人の視線に気づいたのだろう。ジャニーはいつもなら陽気さで彩る表情を、静かな怒りを孕んだ無表情に変え、短く言った。

「信仰の対象であるご遺骨を盗んだのハ……魔元帥なのデス」



[15960] 死番勝負――索敵舞台
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 15:23
 魔元帥。
 南極大陸より湧き出す魔の勢力の中でも最悪の首魁的存在。
 三十年以上前の大戦の折に、英雄スピードガールの極大氷結魔術により七体のうち四体は撃破されたものの、残り三体は未だに人類社会に潜んで機をうかがっている。

『嘲笑』を司る魔元帥、『三日月の亀裂』。

『邪智』を司る魔元帥、『万剣の茨』。

『暴悪』を司る魔元帥、『爛れる鋼鉄』。

 その三体が他の将魔に比べて非常に危険であるとされる
 最たる理由は、彼らが恐ろしく理性的に策略を張り巡らせる点に尽きる。
 通常、魔に憑かれ、将魔へと堕した人間は大抵、意志力が弱まっている。魔は人間の理性を減退させる副作用も持つのだ。彼らは大抵が理性による行動の抑制という抑えが効かない。
 将魔の大半は、自分自身が得た強大な力に酔いしれ、発作的に犯罪になるような事を実行する。そしてそんな将魔は魔術師軍によっていち早く刈り取られるのがオチだ。

 ただし、魔元帥は違う。

 彼らは滅多に表に顔を出さず、ただ策を動かし人類同士の同士討ちを狙う。南極が防人艦隊に封殺されている以上、数で圧倒的に人類に劣る彼らは総力戦となれば勝ち目がないことを熟知しているのだ。
 しかし、歴史上姿を現す事はごく稀だが、魔元帥が目撃された際の外見を示す資料は残っている。

『嘲笑』の魔元帥が変身して出現した際、現れたのは純白の翼を持つ天使と見間違うまでに美しい5メートル近くの巨大な男性の姿。ただしその影には、不吉な三日月を連想させる亀裂のような笑みが浮かんでいたらしい。

『邪智』の魔元帥が変身して現れたときは、血の如き赤色で染め上げられた巨大な薔薇に身を包んだ妖艶な女性の姿。ただし全長一キロ四方を、茨の変わりに剣を生やした蔦で多い尽くすほど巨大だったという。

 ――そして、『暴悪』の魔元帥は、刃を思わせる鋭い鱗、背中からは燃える灼熱で形成された魔力の塊である炎の翼を広げ、口蓋から灼熱の吐息を漏らす、全身を溶岩の鮮血で満たした五十メートル級の巨大な火竜の姿へと変身したらしい。
 




 新志がジャニーの言葉から連想したのが、その最後の一つである暴悪の魔元帥の事だったのは至極当然の話であった。
 眉間に皴を刻みながらも、さて、と新志は一人、先に空港のホームに出る。
 戦堂新志が扱う大太刀は二メートル近く。無銘ではあるが相当の業物であり、勿論魔術師軍に所属する以前から戦堂一倒流の人間として刀剣所持許可証を発行されている。が、普通の人からすればやはり間違いなく凶器。添乗員や警備員から毎回誰何の声を掛けられ、それに応じて毎回許可証を見せるのも面倒な話なので、新志の大太刀、珊瑚の忍具、アトリの刺突剣、ジャニーの戦斧など凶器類は専門の入り口で受け取ることが決まっている。まるで獲物を使わないのは、鋼竜十八掌の使い手である絶佳ぐらいのものだろう。

 荷物の類は珊瑚、アトリ、ジャニーの三名に任せ、新志と絶佳の二人は今回、一足先に空港を降りて足を捜す事になっていた。

「あー、いたいた」
「……なんだ、新志のあんちゃんかー」

 絶佳は視線を向けて答えた。雑踏の中でも分厚い存在感と長身で、あちこちからじろじろと好奇の視線を浴びている新志は目立つ。多少元気のなさそうな声で呟く絶佳に、新志は首を傾げた。小柄ながらも動的な力に満ちた絶佳なら、いつものような筋肉大好き発言が飛び出るところだろうが……どうも心此処にあらずといった感じだった。

「なぁ。……なんか悩み事でもあるのか?」
「……」

 絶佳は、肯定も否定もしない。ただ沈黙するだけ。数日前、〈ジーニアス〉に言われた作戦内容を思い出す。

 絶佳が魔術師軍に入隊した理由は二つ。華帝国皇族の一人が一介の兵士として『魔』との戦いの最前線にいるという美談、宣伝材料としてだ。そして、もう一つは、彼女の本来の性別の隠匿を、魔術師軍が積極的に手伝ってくれるということだ。心を病んだ優しい母様がついた嘘を、彼らはより強く強固に塗り固めてくれているからだ。
 最前線に赴く華帝国の皇太子。この国では絶佳はちょっとした有名人だ。いつの時代も戦う皇子様は人気者らしい。
 ほしいものは財力と権力。そのために至尊の冠を目指す。財力があれば、心を病んだ母様をもっと良いところの医者に見せられたかも知れない。権力があれば、その力に任せて母様とその愛児に毒を盛ることを支持した犯人を見つけ出せるかもしれない。

 一般の戦力に対して不意打ち程度なら遅れをとる仲間達ではないし、それに影から皆を守るものもいる。身の安全に関しては心配しなかった。
 ……だから絶佳は相手がこうも直接的な手段を用いてくるとは思っても見なかったのである。


 荒々しい軍靴の音。周囲から人々が蜘蛛の子を散らすように引いていく。華帝国の軍服、手には暴徒鎮圧用のゴム弾を打ち出す銃を構えている。数十ほどの人数であり、新志と絶佳の二名なら突破も不可能ではないのだろうが、この場合もっとも恐れるべきは、国家の命令を忠実に実行する軍隊が敵に回っているということの方だった。
 周囲からの不安の視線を一身に浴び士官と思しき男が前に進み出る。

「皇太子殿下であらせられますか?」
「そ、そうだぞ。……物々しい、何の用だ」

 こくりと頷く士官。

「貴方に対して、皇太子殿下の偽者……という疑いが浮上しており、貴方の身柄を拘束するように命令されております」

 びくん、と背筋に電流が走ったような驚愕。
 両足に震えが走る、背筋に冷たいものが流れる。絶佳は自分の両足を震わせる恐怖を意志の力で押し殺し、堂々と頷いた。この事態を早乙女も察知しているだろう。皇帝の近臣とも太いパイプを持つ彼なら即座に自分達を解放させるための行動を始めるはずだ。

 それになにより此処で暴れだしたら、周囲にいる民間人を巻き込む可能性もあった。

 幼き頃、食うことだけを考えなければならなかった時と違い、長い間かぶり続けてきた皇太子としての仮面は意識せぬまま本物のようになじみつつあった。隣でゴム銃を向けられても、冷ややかな眼差しを向け、不敵に笑う新志、それを掣肘するために絶佳は言う。

「……あんちゃん、ここは従おうぜー」
「承知した」

 両手を挙げ、万国共通の降参のポーズを取る両名。

「さすが、潔いですな。……では、お連れいたします」

 満足げに頷く士官。絶佳と新志の二人はそのまま軍に先導され、空港から連れ浚われていった。




 もちろん珊瑚、アトリ、ジャニーの三名は一部始終を目撃していたものの、食い止める手段を持ち合わせてはいなかった。

「……ちょっと参ったね、これは」
「サンゴ君。<ジーニアス>に通信を入れた。早乙女さんは〈ジーニアス〉と『天才』バーチェッカに全権委任、折衝を始めたよ。本人は既に行動を開始しているらしい」

 外に出た三名、流石に呆然としていたのは本当に一瞬だった。既にこの時点でそれぞれが出来る事を始めている。
 その中でも一番目立った行動をしているのは、口笛一つでいまや大勢の鳥類を己の傍へと集め、鳥の女王のように両手両肩に鳥の羽を休めさせているジャニーだった。

 その辺の売店でたくさん購入したビーフジャーキーを代金としているのだろうか、まるで言語を超えてお互いの意志を疎通させているかのように次々と鳥を飛ばしている。

「伝令、監視、この変にいる鳥に片っ端から声を掛けましタ。新志と絶佳の行き先、監視して貰えまス。……これ経費で落ちますヨネ?」
「勿論落ちるとも!」
「但し、鳥サンが監視できるのはあくまで車両デス。鳥からすれば人間の顔の見分けなんて付かないから、補足するなら早いほうがヨイデスネ」

 勢い良く頷く珊瑚。竜と交感するアメリア精霊合唱国の、祖竜の霊を己に降ろす化身魔術の使い手であるジャニーなら動物と会話することぐらい朝飯前であるのは事前に知っているのだが、いつ見ても驚く光景だった。鳥とは遡れば、始祖鳥、そして始祖鳥は竜から分かれた種族と聞いている。竜の眷属であるならば意志の疎通も容易いのだろう。

 まずは新志と珊瑚の現在位置の確認は果たせそうだ。それなら次は両名に接近するための足の確保である。そう考え込んでいた三名の前に、いきなり小型軍用車両がドリフトしながら凄い勢いで停止した。操縦しているのは、少女じみた美貌の美少年。

「足がいるかい、皆さん」
「え? ……早乙女……いや……早乙女さん?」 

 一瞬顔を見て、彼女達の総指揮官の名前を脳裏に浮かべ、身に纏った男性の装いでそれはない、と判断し、いややっぱり正しいと訂正した珊瑚。ネクタイシャツとジーンズを履いた唯の美少年となった早乙女は、にやりと笑って己の服の襟首をつかみ、引っ張り、服を振り解けば、いつもの黒いゴシックドレスの姿へと瞬時に早着替えする。

「……何というか、どうやってジーンズの下にスカートを格納していたのかとても不思議デス」
「……ま、早乙女氏の事だし気にしても仕方ないとは思うけどね」

 ジャニーとアトリの言葉を笑いながら聞いていた早乙女。不意に笑顔を消して真剣な眼差しで言う。

「みんな、良く自制した」
「……早乙女さん、どういう事態なのか……説明して貰えますね」
「勿論。……道中説明しよう。みんなの武装は全部後部座席の下に収めている。装備しながら聞いてくれ」

 そう言いながらアクセルに足を叩き付けるように踏む。勢い良くエンジンが咆哮を上げ、乗員を乗せて最大速度での疾走を開始する。  




 囚われ人となった絶佳は、新志と一緒に中はそれなりの広さがある護送用の車両の中に押し込められている。
 会話すら憚られる空気の中、絶佳は端然たる態度で与えられた椅子に腰掛けていた。

「先に言っておきますが。魔力を使用した場合、こちらの男性の生命は保証できません」

 両腕を後ろに回された指錠で拘束された新志のこめかみへ部下に拳銃を向けさせたまま、士官が冷ややかに告げる。
 とはいえ、新志に関して絶佳はあまり心配していない。確かに魔力の防御障壁も張れない魔術師として落第生の男ではあるものの、そういった表面的な部分を突き抜けて彼は強くあると確信させるところがあった。
 絶佳にとって今は自分の事を心配する事で精一杯だった。

(どうしよう……)

 早乙女の有能さに関しては疑いを抱いてはいないが、しかし間に合わない可能性もある。
 軍を動かして、自分の身柄を拘束した敵が、いったいどこまで己の秘密を掴んでいるのか分からない。いったい何者が、自分を捕まえたのか、そして自分を捕まえた相手はどこに連れて行こうとしているのか。

 まずい。不安は募っていくばかり。

 女性であることを暴かれれば、絶佳は全てを失う。
 母様を騙す為に男性であると偽り続けたこと、絶佳を捕まえた敵は、きっとそれを皇太子の身分を偽り豪奢な生活を続けるためだったとか適当な文句をつけてくるだろう。それに魔術師軍のメンバーが実は女性であると発覚し、大々的に報じられれば下手をすれば将魔から人類を守るための護国の剣たる魔術師軍そのものが瓦解する可能性すらあるのだ。

 最悪の状況。ここから力で脱出することすら考慮しなければならない。

 時間が経過していけばいくほど悪い状況に対する想像は募っていくばかり。実際には三十分も過ぎていないにも関わらず、絶佳にとっては既に何時間も経ったように感じられる。
 ぐるぐると回る思考は、車が停車するのと一緒に途切れた。
 外へと出るように促され、電気の光に慣れた目が黄昏時の光を眩しく感じる。

(……体感時間でおおよそ一時間半程度、周囲には森ばっかりか。どこぞの貴族様の私的な持ち物の別荘かね?)

 視線をぐるりと周囲に向けておおよその距離を掴みながら新志は注意深く建物を観察する。
 周囲には華帝国のあちこちから集められた木々、草花が添えられた庭園。弓国でも見た鑑賞魚も泳ぐ池もある。問題は大きさで、庭のみの広さで大豪邸が建てられそうだ。
 その向こう側には赤色で染められた豪邸が鎮座している。
 華帝国皇族である『朱』姓は王族にのみ許されるものであり、赤色は皇帝に連なる一族にしか使うことは許されない。もし家を赤く染めたらそれだけで凄まじい罰金を取られるだろう。
 なら――新志と絶佳の前にあるその宮殿は王族の誰かが建造したものだと判断できる。

「……兄上の差し金か」

 どことなく怯えの透けて見える絶佳の言葉に新志はどうやってこの窮地を抜け出るべきか迷う。
 力押しによる脱出は――不可能とは言わない。朱絶佳も魔術師軍の戦士だし、新志も腕には覚えがある。しかし絶佳のこの国での王族という立場を鑑みれば、先に聞いた『皇族ではない』という疑いを晴らさなければならないだろう。

(……頭を使う戦いなんて、俺は頭突きしか知らんぞ?)

 よりによって一番の力馬鹿である自分にこんな状況が回ってくるなんて。内心非常に困り果てながら新志は後ろにいる兵士に言う。

「……なぁ、おい。もう観念しているから、この指錠、もういらんだろう? 外してくれないか?」
「……信用できない」
「あっちこっちに兵士を潜ませてもまだ安心を得られないのか?」

 兵士の顔が一瞬驚愕に歪む。
 新志は鷹のように視線を巡らせながら、ひい、ふう、みい、と数えつつ周囲の気配を探り当てていく。獣魔の中には姿を巧妙に擬態させる種も存在するというから、戦堂一倒流にはそういった技術も存在しているのだ。
 だが、新志の出自を知らない人間からすれば、何らかの魔術でも使ったと踏んだのだろう。何せ魔術師軍の中で戦う絶佳皇太子と共にいた人間だ。そう疑うのは自然な成り行きだっただろう。

「かまわぬ、外してやるがよい」
「で、殿下?」

 躊躇った兵士に対して声が響く。
 思わず新志と絶佳は視線をそちらに向けた。

「岳連兄上……なのか。……あたしをここに連れてきたのはー……」
「……久しぶりだな、弟よ」 

 会話――ではある。だが、同じ血を引くにも関わらずここまで情愛の感じられない会話など新志は生まれて初めて聞いた。
 絶佳の声に篭るものは不可解。予想外の相手が現れた事に困惑を隠し切れていない。
 それに対して、絶佳の兄であるというその王子の声に篭っていたのは――冷酷でも憎悪でもない、正でも負でもない。まるで初対面の人間と相対したような無関心の響きだったのである。正規軍を動かし、絶佳を誘拐させるようなことまでしておいて、だ。
 朱岳連、そう呼ばれた男性を見て、新志は思わず眉を寄せた。
 中肉中背。過度の飽食を楽しめる皇族の座にありながらその身には肥満と怠惰が刻まれていない。いや、皇族であるからこそ、民衆の範とならねばならぬと戒めているのかも知れなかったが。かといって全身に練磨の結晶たる筋肉も無い。頭髪はお寒い限り。なんとも印象に残りがたい――凡庸な風体の人だったのである。
 
 しかしだ。
 新志は警戒を深める。武技も無く、英知も感じられない。
 だが、その目が新志に警戒させる。
 それは猜疑に囚われた人の目だ。何もかも疑うかのように濁り切った、ありとあらゆる事柄が自分を貶めようとするように錯覚する猜疑と疑念で飽和した色を成していたのである。

(……哀れな目だ)

 新志は内心呟く。
 皇帝の血筋というものがどういう具合に重荷なのかは分からないが、しかし、皇帝の血筋こそが、彼の精神に多大な負荷を与えていることは一目瞭然であった。
 だが、哀れみはしても同情はしない。自分達に銃口を突きつけて無理やり連れてこさせたのは間違いなくこの人物であるのだから。

「……兄上、まずはあたしをここに連れてきた理由を詳しく知りたいんだけどさー」
「相変わらず蓮っ葉な口の利き方だな。私は王位継承権がお前より上なのだぞ?」
「かといって、一番って訳でもないだろー? それに、今広がっている噂、知らないのかー?」

 絶佳の何処か嘲笑を含んだ笑みに、岳連皇太子は微かに唇を噛む。早乙女が現在華帝国上層に撒き散らした『次期皇帝が朱絶佳に指名される可能性が高い』という噂を指しているのだろう。

「……私はお前に関心など無い。だが華帝国の王子、それも次期皇帝に指名されるやも知れぬものが、下賎の生まれであるなど許されるはずがない。父上も許してくださるだろう」

 だが――今まで静観していた新志は流石に言葉を挟まざるを得ない。

「なぁ、何故密室で事を運ぶ?」

 まるで路傍の石が言葉を発するのを目にしたように、不思議そうに目を向ける岳連皇太子。無感動に告げる。

「直答を許した覚えは無い、控えよ」
「……いや、そいつの言葉は正等だぜ、皇太子殿下」

 響き渡る第三者の声――それに対する絶佳と新志の反応は劇的だった。
 その声の主に対し、即座に構える――本気の戦闘態勢。
 新志も行動――指錠が引きちぎれる音と、人間が殴打される轟音と、兵士が苦痛の呻き声を上げて崩れ落ちる音とが、ほぼ同時に重なった。
 黒い髪に浅黒い肌、体を覆うのは高級感漂う純白のスーツ。口には高級葉巻。背にはブランドもののライオンの毛皮を仕立てたコートを袖に通さず肩に掛けている。体格は相当大きい。戦堂新志を上回る二メートル以上の巨体、それもただの巨体では無く、生まれ持った天性の張身に飽き足らず徹底して鍛錬を重ねた姿だ。洗練された巨体の男性の立ち振る舞いには高貴さすら匂わせている。
 だが――違う。二人は、目の前の男が巨体という評価に収まらない途方も無く危険な相手であると直感で理解した。白いスーツはまるで己の中に潜む巨大な獣性を隠匿するための拘束具のようであり、目に映る英明な知性の光には何処か禍々しい色も混じっていた。圧倒的な『暴』の氣を孕んだ笑みを浮かべる。まるで即座に戦闘態勢に移行した二人を感心したように言った。

「……落ち着きな、お二方。俺は何もしてねぇぞ」

 それは、確かにその通りである。葉巻を銜えたその巨躯の男の両腕はポケットの中に納められており、鋭利な凶器を出したとか、敵対的な行動や侮辱的行為を働いたとか言うわけでは絶対にない。
 ただし、魔術師軍の戦士として幾度も前線に立った絶佳と、戦堂一倒流の剣士として過酷な修行を積んだ新志の両名は、目の前の相手が恐るべき強敵であることを本能に等しい部分で察知したのである。首筋に白刃の冷たさを感じるように絶佳は、冷や汗で体を濡らしながらも尋ねた。

「……あ、兄上。その男は……」
「ああ、紹介しておこう。……エルムゴート=アンセムという。私の客人だ」
「お初にお目にかかりますなぁ。殿下……と、そっちのでかいのは?」

 と、その巨躯の男エルムゴートから物言いたげな視線が新志に飛んでくる。
 さて、新志は一瞬なんと答えるか迷った。ここで言いよどんでいるようでは不振人物扱いされるかもしれない――記憶の中から自分が絶佳と行動する際にどういう立ち位置にするか会話していたはずだ。その内容を記憶の中から掘り起こす。
 そう――確か……『いい偽装だね。護衛として行けるなら、それに越したことはないよ』『絶佳を守るボディガードとしてデスネ。……それなら新志は差し詰め筋肉大好きな絶佳の愛人扱いデース』――だったはず。新志は相手に不審を覚えさせないために、即座に答えた。

「戦堂新志――絶佳の愛人だ」
「………………」

 エルムゴートはちょっと黙ってから眉間を揉んで、何か非常に意外な言葉を吐かれたように首を傾げた。
 もちろん、予想の斜め上をいく言葉に絶佳は物凄く怒ったような目で新志を睨んだ。顔は耳まで真っ赤になっており、羞恥によるものか目尻には涙まで浮かんでいる。握り拳がぷるぷると震えていた。

「別にそう驚くほどではない、エルムゴート卿。絶佳は男女かまわず筋肉がある人間が好きで仕方ないらしいからな」

 岳連皇太子の声はそんな状態でも感情が微動だにしていないのか、冷静で平静そのもの。おお、大物だ、と新志は少し感心する。だが、次の言葉にはさすがに新志も自らの先の発言を悔いることになった。

「……絶佳、お前の事を調べるのは後回しにしよう。部屋は……愛人なら一緒の部屋でいいな。ゆっくり休め」  

 あ、と間抜けな声を上げる新志と絶佳。そんな二人など何処吹く風と立ち去っていく朱岳連とエルムゴートをしばし立ち尽くしたまま見送り、二人は機械人形さながらのぎこちなさで振り向いた。
 絶佳の朱に染まった顔が、怒りと羞恥で震えている。
 仕方ないといえば仕方ないかもしれん、と新志は先の自分の発言を後悔した。何せ兄にホモと思われてしまったのだから。どうすれば許してもらえるだろうか。


 とりあえず飛んできた拳は甘んじて喰らう事にした。





 先に新志と朱絶佳を誘拐した軍の車両――それを追うのは早乙女が一体何処から調達してきたのかまるで分からないジープ。
 軽快なエンジン音をかき鳴らし、全力で直線の行動を進んでいた。

「と、これが今回の事情だね。……一番の予想外は、相手がここまで直接的で短絡的な行動を取ってくるとは思わなかったことだった。二人の身柄を危険に晒しているのは全面的に僕の責任だ、謝罪するよ」
「……今は、進む方が先決です」

 突風が頬を撫でる。
 早乙女の言葉に短く答えて、珊瑚は新志の愛刀を胸に掻き抱きながら、胸中に浮かぶ不安を押し殺す。今現在では二人と合流することが先決であるものの、不安を隠しきれるものでもない。

『通信を傍受しました』

<ジーニアス>の言葉に全員が緊張する。本体は、今頃人間顔負けの交渉で華帝国の将官と交渉の真っ最中であり、その端末、全体の意識の数パーセントかで<ジーニアス>はこのジープ据え置きの通信機で電波傍受を続けていたのである。

『輸送中の絶佳、新志の両名はこの先四キロの地点にある皇族の離宮に連れ込まれた模様です。また、バーチェッカから今回朱絶佳の捕縛命令を出した人間と、それに関わる人物を現在芋蔓式に捜索中と連絡が入りました』
「囮としては上々の成果だけれども……気になるね」

 アトリの言葉に、全員が同意の頷きを見せる。人間を堕落させ、魔へと落とす恐るべき敵、魔元帥は、華帝国の帝位禅譲に際し、より多くの混乱と破壊を撒くため人間を将魔へと変えているだろう。今回の皇帝の病はそういった輩をあぶりだすための罠。現在では上手く行っていると見ていい。相手がそこまで直接的な行動を取るという予想外の事態さえなければ。

「この敵は馬鹿と言ってもいい」

 早乙女の言葉には、疲れたような響きがありありと浮かんでいた。
 次期皇帝と指名された相手に対する直接的な暴力の行使、おまけにそんな命令を実行したという事実に対する隠蔽もおなざりだ。事実<ジーニアス>と華帝国の諜報機関は今現在着々と成果を挙げ続けているという。馬鹿の相手は疲れる、と呟く早乙女。
 新志と絶佳が連れ浚われてしまったという事態さえなければ、概ね理想的な事態の運びであった。素直に喜ぶ事が出来ないのは、飛行機の中で絶佳が見せた、少し気落ちした表情が心に引っかかっているからであろうか。






 まずい、まずい、本当にまずい。朱絶佳は耳まで真っ赤になりながら独白する。
 戦堂新志には出発前にも一度こんな具合で戦堂新志に迂闊な質問をしてしまったせいで狼狽した。しかしそれは自分自身の出自に関する秘密を迂闊に漏らしてしまったことへの恐怖であり、そして今絶佳が感じている恐怖はまた別の種類の恐怖……というよりは羞恥であった。

 絶佳とたまたま一緒に居た為に連れてこられた戦堂新志。

 別にすぐに生死が関わる訳でも無し。しかし――『女性として』は非常に危険な事態だった。

「……寝ないのか、絶佳」
(だ、誰のせいだよー!!)

 半分寝惚けたような新志の言葉に絶佳は内心強い苛立ちを感じずにいられない。
 彼女の兄である岳連は非常にいらぬ気遣いを見せたのか、もしくはただの嫌がらせなのか――新志の自己紹介の言葉、『愛人』という内容を真に受けて自分と彼の寝室を同じところにしたのである。

 戦堂新志は最初こそ驚いたものの、すぐさま落ち着きを取り戻した。

 もちろん実際には愛人関係などではないのだから、一緒の布団で眠ったとしても別に情事に耽る必要などない。清く正しく次の日の朝を迎えればいいのである。



 だがしかし。



 朱絶佳はそうはいかない。

 何せ彼女は新志と違い、互いが異性であることを知っているのだ。それに対して新志はお互い男性同士であると信じてるのだからますます都合が悪い。普通男女が一緒の部屋に押し込められれば男の方はソファーで寝るべきじゃないのかよー!! 、と内心相手を罵倒していたが、もちろん絶佳は一緒の布団で寝ることを拒める立場ではない。
 そんな心情を知る由もなく新志は寝床ですでに横になっていた。敵中に囚われの身になっているにも関わらず、この豪胆さは見習うべきだろう。

 そんなわけでベッドのふちに居座りながら絶佳はどうしよう、と何回か自問した。そして、とりあえず珊瑚がいる方向に適当にアタリを付けて、サンゴねーちゃんごめん! と謝罪してからおっかなびっくりと布団に入ろうとしたところで、新志の声が響いた。

「……寝れないのも……当然だよな」
「え? あ、ああ」

 どうやら新志は絶佳がなかなか寝床に潜り込まないのは、今日の事態の急変に心が落ち着いていないからだと考えたらしい。そういう形で誤解してくれるなら幸いだと考えた絶佳は新志の言葉に同意の頷きを返す。

「……帰国してみたら、いきなりこの有様だ。びっくりするのも無理はない」
「え、あ、うん。……正直言うとさ、あたしの上の兄達の中で、そんなに岳連兄上に対しては悪い感情はなかったから、ちょっと驚いてなー」

 妾腹の子供として他の兄弟からいじめられていた記憶はある。
 ただし、岳連は兄として決して無道な人物ではなかったのだ。絶佳がいじめられていたら彼女を庇ってくれた。勉強を見てくれてもいた。そんなにも悪い心証を与えた覚えもないし、与えられた覚えもない。
 それゆえに、今回の暴挙に走ったのが彼であるという事が信じられない。新志も横になりながらそれに頷く。

「……あの殿下の事もあるが、客人と言っていた男も気になるな」

 絶佳もそれに対してはまったくの同感だった。

「……新志のあんちゃんが一億九千マッスルだったのに対して、あのおっさんは二億三千マッスルだったもんなー。危うく結婚を申し込むところだったぜー……」
「……なにその驚愕の新単位。あとやっぱり基本的に体目当てなんだな絶佳」

 ある意味いっそすがすがしい変態ぶりだが、と、新志は逆に感心してしまった。

 だが――新志も絶佳のその評価を内心では認めていた。

 相手は自分を上回る巨体に加え、その生まれ持った天性の体格を更なる錬磨で磨き上げた類稀な本物を感じさせた。断じてただの客人などでは無い。恐らくあの男こそが、岳連殿下の知恵袋、腹心的な立ち位置の人間なのだろう。
 新志はそこまで考えて――不意に自分の口元が愉快げに歪められている事に気づいた。

(……喜んでいるのか、俺は)

 戦堂新志は今までの人生において、速度、技術、膂力の三つのうち、速度、技術で他者に引けを取った事は幾度かある。だが、力で劣った経験は今まで存在していなかった。
 剣速と威力を重視する斬魔剣法の、戦堂一倒流における頂点に近かったのだ。弓国人の中でも有数の力持ちに数えることができるだろう。
 だが――如何に努力しようとも、人種的な壁は乗り越え難い。
 エルムゴートと名乗ったあの巨躯の男もまた天性の膂力を持った男だった。
 試したい。剣士としての第二の本能とも言うべき闘争本能が着火する。心ゆくまで全力をぶつけ合い、力の全てを出し切りたい。
 ……そこまで考えた新志は、必ずしも自分があの男と戦う必要など考え直す。思わぬ場所で思わぬ敵手とめぐり合えたことを喜んでいる自分自身のはやる心を押さえつけ、新志は言う。

「……兎に角さ。そもそもあの岳連殿下は絶佳が皇族じゃないって確かな証拠を掴んでいるのならもっと堂々と糾弾すればいい。……それをしないってのは、きっと相手にもこちらを堂々と糾弾できない理由があるはずなんだ」

 新志が岳連殿下に『何故密室で事を運ぶ?』と糾弾したのはこれが理由。もし絶佳が真実皇族の血を引かぬのならば、それを証明するはっきりとした証拠を掴んでいるのであれば、絶佳を裁判に掛ければいい。……華帝国の次期皇帝と現在噂されている人物が実は真っ赤な偽者であると知られれば皇室の権威に傷が付くやも知れないが、それだけだ。他者に玉座を譲るよりもはるかにいいと考えても可笑しくない。

「うん……分かってる」

 ……その筈なのに、絶佳の言葉はあまりにも力が無かった。
 まるで相手の糾弾が正当なものであると認めているようにも思える気落ちした様子に、まさか――と、漠然とした不安が新志の胸中を侵食するが、それを振り払った。






「ああ、まったく……」

 朱岳連は一人、杯を傾ける。
 喉を焼くような老酒を流し込みながら、彼は自分の義理の弟となる人物の事を思い出した。
 
 ――本当は、皇帝の地位など、彼は興味が無かったのだ。何せ、本来ならそれは自分に決して手の届かぬものであるのだから。
 彼は過去を思い起こす。
 
 彼は――後宮に召抱えられる前の不義によって生を得た子供であった。
 そして何食わぬ顔で皇帝以外の男性との間に生まれた子供を、母は皇帝の息子として育てたのだ。……今は昔とは違う。血液からその子供が皇族の血を引いているかどうかを調べるための遺伝子鑑定などの技術も存在する。それを鼻薬を嗅がせて岳連の母親は黙らせた。
 子供の栄達は母親の栄達でもある。岳連は母親の出世のための道具であり、彼自身もそれを受け入れた。母親がひどく利己的な理由で自分を大事にしていることは肌で実感できたが、それでも彼はいつか母親が自分のことを本当の意味で愛してくれるのだと信じたし、そのための努力を惜しむことは無かった。

 状況が変わったのは、母親に本当に皇帝の血を引いた子供が生まれた時からだった。
 こうなると、岳連はもはや邪魔者でしかない。岳連の弟が特に生まれつき病弱と言うことも無く、また幼少から才気の燐片を見せるようになってくれば、岳連は母親にとっての弱みの種でしかない。もし彼が皇帝の血を引いていない人間だと発覚すれば、母子もろとも処断されるだろう。
 母親の決断はすばやく、そして冷徹であった。

 
 岳連は毒を盛られた。


 それも母親自ら振舞った料理に、毒が盛られていた。
 皇族は、毒殺を恐れ、事前に毒見役をさせるものもいるが、誰が実の母親が息子を殺めると予想するだろうか。彼女の行為は人としての当然の信頼を裏切ったものだった。

 苦痛と絶望の中で岳連は思う。
 何故ここまで苦しまねばならないのだと。死への絶望と、母親に裏切られたという二重の絶望。

 彼は欲した。

 いかなる手段にも殺されぬ不死身の肉体を。

 彼は欲した。

 どんな裏切りにも耐えうる超人の精神を。




 そして、『魔』と会合し、将魔へと変身し、母と弟を屠った。

 

 将魔――そうなってから、彼は生まれて初めて精神の安堵を得ることが出来た。
 母親のためと貪るように勉学に励んだ時期もあったが、皇帝になれと急き立てられる必要も無くなり、彼の目には優しさが生まれる。もう脅えずともよい、恐れずともよい。皇帝になる道は自ら捨て去った。そのおかげで彼は何者からも狙われることはなくなった。その頃に、彼は絶佳と出会った。妾から生まれた子だと馬鹿にされる事の多かった弟をかばうことが多かったのは、その境遇に、常に何かに脅え続けていた自分自身の過去を重ねてみていたからか。
 
 だが――状況は再び変化する。
 絶佳が――彼の弟が魔力に目覚めた。

 そう――この世で唯一、不死身の肉体と超人の精神を持ち得た自分を抹殺する事の出来る魔術師軍の戦士へとなったのだ。
 
 嫌だ――岳連は母親が死ぬ前までずっと感じ続けていた恐怖を思い出す。嫌だ、嫌だ、嫌だ、再び兎のように脅えながら暮らさなければならない日々に戻るなど絶対に我慢できなかった。

 幸いだったのは、その自分をも殺すことが出来る魔力に目覚めた腹違いの弟が魔術師軍として前線に出馬し、自分と接触する機会が極端に失われたということだろうか。絶佳がずっと前線に出て、そして願わくばその前線で他の将魔との戦いで戦死する事を願ったが、そんなにうまく事は運ぶはずも無く。

 そして最悪の報告が齎される。

 朱絶佳の皇帝就任の噂――岳連にとってはそれはかつて克服したはずの恐怖を呼び起こすもの以外の何者でもなかった。
 弟が皇帝になるのはいい。それに文句をつけるつもりは無かった。だが――魔術師軍の一員でもある彼が、将魔へと堕した自分を見逃すとも思えなかった。無敵の肉体も、それを上回る強力な力に焼き滅ぼされるかもしれない。だからこそ、難癖にも等しい理由で彼を拘束し、亡き者にするべく画策を始めたのだ。
 相手がこちらを魔ではなく、人として陥れようとしていると、勘違いしているうちに。
 もう、殺すしかない。殺される前に殺すしか、安堵を得る手段は彼には存在していなかったのだ。




「……深酒は禁物だぜ、皇太子」
「……承知している」

 特に憎くも無い弟を殺す――それを実行するため、良心を酒で狂わせようと考えていた岳連は、部屋に堂々と足を踏み入れるエルムゴートに返答する。だが杯を傾ける手が止まる事は無い。

 母を殺したときも、弟を殺したときも、理性を狂わせる憎悪は心に溢れており、良心の痛みを感じる暇などなかった。だが、今度は自分自身の命を守るため、特に憎くも無い腹違いの弟を手にかける必要があるのだ。殺さなければ殺される。宮中での暗闘の歴史を再現するかのように許されざる決意を胸に秘め、彼は心を酒を使って狂気で満たしていく。

「……貴殿は手を貸してくれるのだろうな?」
「かまわんよ? 貴下の獣魔ぐらい、腐るほどある。全部くれてやっても俺には痛くも痒くもない」

 エルムゴートの言葉に岳連は安心したように頷いた。
 華帝国の中では岳連は食客であるエルムゴートに敬語を使われる立場であるが、しかし周りに誰も人がいない場合はその立場は逆転する。
 魔としての序列――力のみが尊ばれる暴力の階級、すなわち純粋な力の量でならば、彼と岳連の間には埋めようの無いほど隔絶した差が存在していた。ただし――魔元帥エルムゴートには他の将魔にはない特異な性癖がある。
 戦闘狂――それもただ単なる戦いを好むのではなく、肉と命を削りあうような壮絶な死闘を欲するところがあった。『嘲笑』『邪智』の魔元帥ですらも実際に武力を用いることはあってもそれを目的にすることは無い。彼らは目的達成のために力を行使するのみだ。だからこそ、彼は目的と手段が完全に逆転している。ここにエルムゴートがいるのも――連れ浚われた魔術師軍の戦士が仲間を助けに来るからだ。

「ああ、それと――お約束の物です」

 岳連は手元の資料を相手に渡す。
 資料の内容は絶佳と共にこの華帝国へとやってきた魔術師軍の人間達。哀れにも魔元帥の享楽のために供せられた生贄たちだ。
 彼は無表情のまま一枚、二枚と捲っていたが――不意に三枚目を捲ったところで思わぬものを見たように目を見開いた。

「……ジェットラムだと? また、懐かしい名前が出てくるじゃねぇか」

 苗字が既知のものだったのだろう、かすかな微笑を浮かべながら一枚を捲り――その口角は更に笑みの形に深く釣り上がる。思わぬ場所で思わぬ相手と出くわした幸運を喜ぶように彼は笑った。最上級の獲物と出会った狩人を思わせる笑み――肉食獣が獲物をにらむ際はこんな表情になるのだろう。相手の本能に生命の危機を刻み込み、心魂から震え上がらせる恐るべき笑顔だった。

「……来たか、早乙女」

 浮かぶのは笑顔だが、その皮一枚下には溶岩の如き猛々しい戦意が漲っている。
 早乙女光。
 全大戦における最大の英雄であり、現在では魔術師軍の重鎮としてもっぱら後進の指導に勤めている。最近では戦場に顔を出すことも滅多に無くなったのだが――その顔は確かにかつて戦場で幾度も交えた至高の強敵のもの。望外の幸運にエルムゴートは、押し殺しきれぬ感情を笑いに乗せて放った。



 まったく――望外の幸運であったとエルムゴートは笑う。
 今回彼は、華帝国の次期皇帝と噂される今の事態に慌てふためき軽挙妄動する輩を掣肘するために行動しているのだ。華帝国のような権力を集中させた国家は、名君が君臨すれば栄えるが暗君が立てば国家が病む。そして病んだ国が屠る人の数は、将魔や獣魔が行う虐殺の数千倍。

 その作戦に対し、放たれた絶佳王子は魔術師軍の罠だ。
 この華帝国には数名の将魔が存在する。その中にはこれが罠と見抜けぬ間抜けもいるだろう。そういった連中も狙うべき絶佳王子がいないのであれば、軽挙妄動したくとも不可能だ。それでも下手な行動を行って正体を見破られて潰される連中もいるだろうが、それならそれで一向に構わない。そんな雑魚など生きていても足手まといにしかならぬと最初から切り捨てる腹積もりであった。
 とはいえ、ただただ血沸き肉踊る戦闘のみを願うエルムゴートにとっては、人類に敵対する事などどうでもいい。今回彼を動かしているのは彼と同格の『邪智』の魔元帥『万剣の茨』であり、彼自身は他の将魔がどうなろうと知ったことではない。ただ、絶佳王子を誘拐した際に出くわすであろう魔術師軍の精鋭と戦いたいだけである。

「岳連もどこまで役立つかねぇ」

 言わば表向きの主犯である彼を唆したのは絶佳に対する本能的な恐怖を誰よりも強く持っていたということと、他の将魔達と比べて脆弱な力しか感じることが出来なかったからだ。それならば使い潰すことに躊躇いを覚えることもない。


 それにしても――と、エルムゴートは少し考え込む。

 絶佳と一緒にいた長身巨躯の男――戦堂新志。
 弓国で名高い斬魔剣法。その名前を姓に持つところから出自は簡単に察することは出来た。だが、彼にはなんら魔力の胎動も感じることが出来ず、それが彼に疑問を抱かせる事になる。 
 情報では魔術師軍に属しているらしい。何らかの魔力の胎動を感じさせるかと思ったが、そんな様子もない。……まぁ力を隠しているというのなら、突いてみれば本性を現すかもしれない。それに例え、本当に魔力をひとかけらも持たない雑魚だったとしても、今近くには早乙女という至高の強敵が近くに来ているのだ。死合う相手には事欠くことはなかった。



[15960] 死番勝負――前哨戦二連
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 15:37
 上空を鳥がぐるぐると旋回している。
 森を抜けた向こうには前面には赤色で塗装された豪奢な屋敷が建っていた。

「……静か、だね」

 珊瑚の言葉に、全員は無言で首肯する。
 静かだった。静か過ぎた。夜ならば動物や昆虫の鳴き声、生き物が草を踏み地を走る音がもう少し頻繁に聞こえてくるべきなのに、そこはまるで一切合財の生命が存在しないことを示すように、不気味な静寂に包まれていたのである。

「……ふむ。ここまで静かなのも妙なのだよ。……まるで猛獣を他の生き物が避けるのに似て誰もいないみたいだ」
「周辺にも、人間の見回りなどが確認できないデス。……遠目に確認しても、屋敷の使用人程度すら、見あたりマセンです」

 アトリは車両の上から周囲を見回し、ジャニーは双眼鏡で屋敷の内部を見回す。
 全員が、言葉にはし難い第六感で――建物に存在する嫌な気配を感じていた。どことなく近寄る人間たちを不安にさせるような、生命の本能を刺激する不吉な印象。
 警備の人間すら一人も存在しておらず、まるで外敵の侵入など微塵も拒むつもりがないようにさえ思える。ただし、三箇所程度明かりのついた部屋があることから完全な無人ではないらしい。
 ここに到達するまでに幾度か周辺を固める軍隊と接触した。
 本来なら珊瑚をはじめとする全員が今すぐ強行突破して新志と絶佳を浚った相手を追い詰めたいと思っていたが――流石にそれは魔術師軍と華帝国の関係を激烈に悪化させかねない。ただでさえ、現在は共同作戦を展開中なのだ。

 しかし、痛かったな、と早乙女は考える。

 本来囮役を務めるはずだった絶佳がいち早く誘拐されてしまったために、思ったより反応を始めた相手が少ない。この国の諜報機関と魔術師軍の面子は優秀だから、それでもおかしな動きをして見せた相手は現在さまざまな角度から調査されているだろうが。

「いっそ、堂々と乗り込んでみるか」

 早乙女の言葉に、珊瑚をはじめとする全員は無言のまま頷く。
 外周から相手の行動を調査しようとしていたが、ほぼ無人という建物が、どうにも不可解だった。まるで忍び込むならばどうぞ、と言わんばかりの無防備さが却って奇妙である。空城の計を気取っているのか、とも思える。

 それに――珊瑚は恐らく問題が無いとたかを括っていた。

 魔術師軍の戦士に、英雄スピードガール。これを押し留められる戦力など存在しないといってもいい。相手が罠を張り巡らせるならその罠を正面から打破する事ができる。早乙女の武勇はそう確信を抱かせるほど際立ったものだったのだ。

「それにしても、この犯人は腹が立つデス! 是非最悪の私刑『フルヌードスイング』を叩き込まなくてハ!」

 ぷんぷん、と怒りの声を漏らすジャニー。もちろん珊瑚もそれに突っ込んだら負けとなんとなく理解してはいたが、突っ込まずに進んでジャニーのテンションが落ちるのも良くないと考えなおして、一応質問を口にする。

「……あの、ジャニー。具体的にはそれどういう刑罰なの?」

 待ってました、といわんばかりに表情をキラキラさせてジャニーは答えた。

「ハイです、まず相手を全裸に」
「ごめんもういい」

 珊瑚は即座にストップした。やはり地雷を踏んだことに小さく嘆息を漏らしつつ、そのまま進む事にして――珊瑚は、先ほどの何も問題がないと踏んだ自分自身の判断が誤っていたと知った。




 堂々と、ゆっくりと、前から王者のように歩いてくる巨躯の男。それが纏う壮絶な暴の威圧に全員が言葉を失う。

「夜分遅く、当家に何の御用か?」

 誰何の言葉は、この屋敷に住む人間なら当然の反応だが、全員それが擬態の類であることを見抜いた。
 巨躯の男の口元に刻まれた凶笑は、まるで獲物を前にした猛獣のようであり、その男が放つ気配は他者の下につく事を良しとしない、凶暴なものに満ち溢れていた。明らかに戦争や殺し合いを知っている類の人間。
 敵だ――早乙女を除く三人に共通して芽生えた明確な言葉。
 だが、そんな三名を押し留めるように早乙女は先手を取って答えた。

「始めまして。僕は早乙女光と申します。エルムゴート卿」

 早乙女は――瞬時に相手の事を見抜いていた。
 そして見抜いた上で、今目の前の巨躯の男と交戦してもまず勝利する事は不可能であると思い知らされた。
 推測ではない。確信である。
 かつて南極大陸で絶望的な死闘を演じた相手――三十年ぶりの凶敵との再会と、未だ微塵も衰えぬ魔人の威圧。



 過去の経験からくる、敗北の確信であった。



 珊瑚の歯が、恐怖で鳴る。

 それが自分が予想外の凶敵と相対したが故の恐怖の歯鳴りであることを――自分自身の恐れが音になって具現したものであることを遅まきながら気づいた。闇雲な暴発によって攻めかかり掛けた珊瑚はそれを必死に食い止める。
 ここは既に魔人の射程。
 下手な反応を見せれば一息で抹殺されるだろう。
 珊瑚は、それゆえに――この魔人の射程に足を踏み入れたまま冷静に話を続ける早乙女を、よくやる、と感心した目で後ろから見守った。

「こちらの屋敷の主人は今眠っておられるゆえ、ご用件は明日以降にお願いしたいのですが」
「承知しました」

 ぺこり、と頭を下げた早乙女――巨躯の男は、特にそれを追いかけることもなく、礼にかなった動作で頭を下げてその場を後にした。
 心なしか、早乙女の足音が早い。珊瑚は今この事態が緊急であることを理解した。相手が此方を何事もなく帰そうとしているのは――奴が、早乙女に対して足手まといを戻してからもう一度来い、と言っていることを悟ったのである。


 魔元帥――よりにもよって最悪の相手。しかもその最悪の相手が新志と絶佳のすぐそばにいる。
 子供の頃から好いていた男と、数多くの実戦をくぐりぬけた戦友があの怪物の射程に収められている。人質だ――事態が容易ならぬ方向へと転んでいた事を理解した珊瑚とアトリは、胸中の恐怖を押し殺すことに必死で。

 魔元帥をにらむジャニーの瞳の奥に尋常ならざる敵意が宿っていることに、ついぞ気づく事ができなかったのである。 
 



 
「奴は、人質を取る類の男じゃあない」

 そう告げた早乙女に、珊瑚とアトリ、ジャニーの三名は怪訝そうな視線を向けた。
 既に二人は怪物の虜囚。これを使えば、少なくとも自分達の行動を阻害することができるだろうに――三名の、言葉に出されずとも、抱いた疑念を察したのか、早乙女は首を横に振った。

「奴の名は魔元帥エルムゴート。……元帥級の敵の中で、もっとも単純明確な物理力と好戦的な気質を持った相手だ。求めているのは強い相手のみって類の奴でね。……少なくとも、奴の目的は勝利じゃなくて、死闘であり、人質取って僕にフリーハンドで戦わせないとかそういう細工をする奴じゃない。逆にそういう余計な事をした奴が焼き殺されるのを一度見たことがある」
「……デハ、二人の身柄は安全と見ていいデスか?」
「ある意味、信用できるね」

 早乙女のその言葉に安堵の息を漏らすジャニー。
 兎にも角にも、戦力が不足していたが――他から廻す余裕がない、というのが実情だった。
 基本的に魔術師軍は三つのローテーションで運営されている。
 世界各国に点在する基地などから将魔、獣魔の存在を索敵しつつ移動する戦闘待機。
 数少ない未来予知系の能力を用い、事前に敵の出現に対応して戦力を集中させておく攻撃。
 最後が、休養と勉学を兼ねての学園での待機だ。

 今回、早乙女達は華帝国での戦闘に供えて行動を行っている。本来なら学園での待機予定のメンツも狩りだした。
 相当大規模な戦闘になると踏んでおり、魔術師軍以外の通常戦力としては最大レベルの威力を持つ支援攻撃機も何機か準備されているだろう。だが、現在は少し事情が違っていた。最初、絶佳を囮としてあぶり出しを行うはずが、いきなり誘拐されてしまったために思ったより行動を移す相手が少なかったのである。
 そのため予想よりも大きい戦力が現在暇をもてあましているはずだ。
 ただし――相手が魔元帥となると、早乙女も戦力の投入を躊躇う。魔元帥は今までの将魔とは次元が違う相手。下手に戦力を投入しても、果たして勝利できるかどうかは微妙なラインだ。
 もちろん早乙女も手をこまねいていたわけではない。
 魔術師軍の中で、魔元帥すら相手取る事ができる可能性を秘めた人材はいる。
 戦堂新志――未だ魔力の完全覚醒にはいたっていないが、予想が正しければ彼は絶対的な力を持つ魔元帥との戦いにおいて切り札的存在になってくれると確信していた。

 だが、間の悪いことにその切り札である新志は現在囚われの身。

 予期せぬ場所で魔元帥の存在を発見し、全員一時的に善後策を練るため都市部へと帰還した。皆が皆、帰る途中は押し黙っていたが――疲れているのは確かだったためにすぐに寝入ったのを確認し、早乙女は部下の信頼できる数名に魔元帥の存在と最悪の場合――自分が抹殺された際の指揮権限の引継ぎを済ませて、栄養剤を自分自身に投与してから出撃準備と遺書の更新をしておいた。
 早乙女光はまず、珊瑚達を一時的に味方部隊に預けてから、単独で出撃し、魔元帥と交戦して新志と絶佳を救出する腹積もりであった。通常戦力では魔元帥も当然備えている呪詛毒で死亡するために使用できない。魔術師軍の少女達は立派な戦力だが早乙女はそれを今回用いるつもりはなかった。敵は魔元帥。下手な戦力を引き連れた場合はむしろ足手まといに成りかねない。きっと珊瑚達はその行動を怒るだろうが――部下をこんなところで一人も死なせるつもりはなかった。



 珊瑚達を味方の部隊が一時的な本拠として接取している施設に預け――敬礼を返されてから早乙女は一人行動を開始する。
 正規軍の何人かが可憐な乙女の装いをする早乙女を見て怪訝そうな表情を見せたが、そこは嘆息と共に繰り出す階級賞の力で黙らせ、彼はここに来るまでに使用していたジープに乗り込もうとして――きちんと止めておいたそれが無い事に気づく。

「あれ?」

 ちょっと困ったような声を漏らす早乙女。仕方ない――誰が使ったのかは分からないが、別の車両を適当に融通してもらおうか。そう考えた早乙女の疑問に答えるように建物の中から駆けてくる珊瑚とアトリ。あ、やばい見つかった、と思った早乙女に珊瑚の声が響いた。

「さ、早乙女さん! ……ジャニーの姿が無い!!」

 その一言で盗難の犯人が誰であるのかを察した早乙女。痛烈な舌打ちを一つ漏らす。
 そして最早こうなっては仲間の安否を心配する珊瑚とアトリは決して置いて行かれることを了承しないだろう。早乙女は嘆息を漏らしながら――どの車両を使うか見定める事にした。




 ジャニー=ジャック=ジェットラムの家系は代を遡ればアーメスタ貴族の傍流に繋がるらしい。
 だが――貴族にしては溢れるほどの冒険心と、奇跡のような平等意識を備えたそのご先祖様は変わったことに自ら進んで当時新大陸であったアメリア大陸へと進んだ。
 そんな酔狂であった曾祖父に当たる人の兄――その人物は、軍人だった。
 弟と同じく貴族にしては溢れるほどの冒険心と、貴族にしては奇跡のような平等意識を備えた男だった。
 
 貴族にしては溢れるほどの冒険心――窮地、危地を、遊戯の会場と勘違いした子供のような冒険心と共に嬉々として暴れ廻る。アーメスタ貴族として不利極まるアメリア解放軍を見捨ててアーメスタ本国軍と合流する道もあっただろうに、ただ敵が多いと言う理由でアメリア解放軍に属し、自分自身で数多の敵を殺戮し、貴下の部隊を手足の如く用いて殺戮を繰り返し、敵からも味方からも恐怖された悪鬼。屍を積んで川を赤血で満たした魔人。全体的に劣勢であったアメリア解放軍の中で異常な戦渦と戦火と戦果を待ち散らした恐るべき軍事的才幹の持ち主。
 貴族にしては奇跡のような平等意識――敵も味方も、人種も歴史も何もかも区別せずに等しく価値がないとうそぶき、一切合財の捕虜を拒絶、虐殺した。
 
 ジャニーの血筋にはそういう魔人の血が流れていた。実力はあれども人望は無い――アメリアが解放されてからも、そのジャニーにとっての大叔父はその戦場を求める気質を忌み嫌われて新政府での役職を剥奪され、追放された。意外な事に彼はその時点ではなんら不満を漏らすでもなく、ただ不吉な笑みを浮かべて去っていったらしい。

『戦狂い』と称されただけあり、戦場の無い場所に飽きたのだろう――実際にジャニーの大叔父は、その後アーメスタの内戦でも弱い方の味方に周り、悪魔のような暴れぶりを見せ付けたという。

 そこからの足跡は一時的に途切れる。

 アメリア精霊合唱国の解放戦争と、アーメスタ皇国の内戦とデュガン連邦の成立に関わった生き字引――まさしくそこで人生を終えていれば、戦争の歴史を知る重大な生き証人として、表の歴史に名前は残らずとも裏の歴史の軍人として一部の人間に名前が知られたかもしれない。
 だが、その名前は人類全体の最悪の敵として今も知られていた。
 アメリア精霊合唱国解放戦争から五十余年。最早当時の戦争を知る人間も数少なくなり、偉大なる竜王達の遺骨は人々の信仰の象徴として祭られ続けていた。

 そこに現れたのだ。

 あの戦争から五十年以上が過ぎ――かつては戦場を駆け抜けた勇敢な戦士達も時には抗えず老いていき、または寿命を迎えて櫛の歯が抜けるように天寿を全うしていく中で、その男だけはまるで時から切り離されたように全盛期の若々しい肉体を維持したまま、鮫のような笑顔を見せて……ずっと昔に道の別れた年老いた弟を躊躇い無く惨殺し、信仰の象徴を守る戦士達を皆殺しにして火竜の遺骨を食ったのだ。
 ジャニーは子供の頃から、時折一族の古老達から向けられる視線の意味がよく分からなかった。なぜ自分や父母が周りの人々から心無い仕打ちを受けなければならないのか――どうしても理解できなかった。
 戦狂いの血縁――ずっと昔の、書物でしか知らないような大昔の人間が自分達に祟っているのだと気づいたのは、魔術師軍に編入されることが決まり、父母と別れるその前の夜だった。
 彼女の一族は、大叔父が行った蛮行でずっと苦しめられていた。
 だから心に誓っていた。
 敵はかつての二度の人間同士の大戦を潜り抜けた、鮮血塗れの暗黒の軍神であり、そして人類の敵対者である『魔』の中でも最も恐るべき『暴悪』の魔元帥、『爛れる鋼鉄』――エルムゴート=アンセム。
 勝利できるなど考えていない。ただ一族の無念を晴らすため、命と引き換えにしてでも誓って相手に痛撃を叩き込んでやる所存だったのである。


 ジャニーが無断で拝借したジープは、帰り道を逆送し停車する。
 門扉は既に開け放たれていた。まるで敵手を招きいれ歓待するようだ、とジャニーは一人
く。

 侵入した彼女の全身を覆うのは竜麟の鎧。竜の遺骸から集めた鱗を重ね合わせたものだ。頭には太古の地層から発掘された、双角を生やした竜の頭蓋骨をまるで兜のように被っている。それら竜骨を用いた装備は己の肉体に宿る雷竜の霊との親和性を上昇させ、より高度な力を引き出すためのもの。体を覆う竜麟の鎧と竜爪の手袋はすでにジャニーの実際の肌のように感覚がつながっている。神経が通っているかのようにしっくりとなじんでいた。雷竜の霊との親和性が非常に高まり、完全に鎧と手袋を自分の肉体と誤認している証拠だ

「……あん? なんだ、予想外じゃねぇか」

 面白くなさそうに、屋敷の正面、階段で腰掛ける巨躯の男――魔元帥エルムゴートがさも期待はずれだと言わんばかりに呟いた。実際――彼はジャニー=ジャック=ジェットラムに関する資料を見て、確かに大昔、自分の行った悪行を思い起こしはしたが、所詮それだけだ。過去の自分が行った所業も、それに伴う恨みも正直興味の外にある。相手の実力などは一見して見抜いていた――自分の命にまるで刃は届かない。まったく問題外の雑魚、ジャニーに対してはそんな意識しかない。まるで命令するように、彼は手を振った。

 暗がりから、獣魔が姿を現す。

 早乙女との一対一を邪魔する無粋な魔術師軍を足止めさせる為に用意したのは人間サイズならば一飲みできそうな毒々しい鱗の色の巨大な蛇だ。口元からちろちろと舌を伸ばし、奇怪な声を漏らす相手。口蓋から覗く双牙から紫色の如何にも毒々しげな色の液体を滴らせている。

 直立する獣魔の大きさは二・五メートル近く。全長に至っては五メートル近くあるだろう。常人ならば腰を抜かし失神してもおかしくないような怪物だが……生憎とジャニーはこの手の相手との戦闘経験は既に腐るほど積んでいる。今更怯む道理など無かった。

「オオオォウウウ!!」

 ジャニーは躊躇い無く、エルムゴートと自分の間にいる獣魔へと突進していく。 
 一応人語の体裁をなしているが、まるで竜の如き雄雄しき咆哮。否、その声を張り上げるジャニーは今実際に彼女の部族が信奉する祖竜の力をその身に宿し、人間と竜の力を合一させているのだ。ジャニーが扱う魔術。アメリアに置ける、太古の地層から発掘される竜骨を用いた化身魔術とは、四大と称される炎、水、風、土の力を行使する祖竜と他一種、雷の祖竜の力を借り受け、その身に宿し、竜の権能、魔力を模倣して敵対者を討ち滅ぼす力を得るものだ。
 瞳孔が爬虫類のように細まる。彼女の部族に置ける、轟音と雷鳴を司る雷竜の霊がジャニーの体に入り、力を貸している。軽いドレッドヘアは今や獅子を思わせる蓬髪となって四方に広がり、毛先は帯電しているのか、時折ばちばちと雷火を放っている。竜麟の鎧を纏った長身が踊るように跳ねた。
 凄まじい電熱を帯びた戦斧の一撃が、ジャニーに尾をぶつけようとした獣魔を逆に真っ二つに両断。傷口を焦がされ悪臭を放つ獣魔。人外の生命力でじたばたと足掻く敵の脳天に斧を叩き込んでとどめを刺す。
 ジャニーが一動作で戦斧を振り回し、敵を高熱の刃で寸断する。筋肉馬鹿の新志を除けばジャニーはこのメンバーの中で最大級の火力とパワーを誇っている。彼女の一撃は獣魔相手にも十分な威力を発揮していた。
 手をひるがえし、敵との間にイオンの道を生み出す。本来雷は絶縁体である大気を貫くことはできない。落雷は、絶縁破壊という、絶縁状態を馬鹿げたエネルギー量で強引に貫き発生している。当然人の身で、かつては神の叫びに例えられるような落雷現象を真似る事など出来ない。当然、事前に雷の通るイオンの道を作らなければならない。普通なら詠唱の量も二種類。放つまでの時間も増大するが、雷の祖竜が憑いた彼女は手足の延長のように紫電を操ることが出来ている。
 絶対回避不可能な光の速度で直進する雷の一撃が、獣魔の身体を焼き焦がした。

 強敵とみなしたのか、数体の獣魔が一斉に迫り狂う。相手の一撃を回避し、ジャニーは躍りかかった。肉食獣の域にまで伸びた鋭い牙をぐわりと広げ、肉食獣そのものの動作で相手の首に噛み付き、まるで獲物に牙を突き立てた鰐のように野生の噛筋力と自重を利用して、空中で回転し、肉を引きちぎって見せた。

「マッズッ……!!」

 ちょっと味見してしまったのか――血と悲鳴を上げて崩れ落ちる野獣の身体にとどめの一撃を見舞う。獣の本能と筋力を獲得した今のジャニーは十分剛剣の部類に入る技の持ち主だ。旋回する戦斧はまるで罪人を処刑する首狩り斧の如き重厚な威圧と破壊力をいかんなく発揮し、雷鳴の如き声を張り上げながら打倒していく。

「……なるほど、少しは使えそうかね」

 口元に狂猛な笑顔を浮かべてエルムゴートは笑う。
 早乙女との決闘の前に肉体を慣らしておくのも悪くないだろう――実の弟の孫に当たる相手が自分に刃を向ける今の事態にすらなんら感慨も感じず、ただ死闘を欲する戦闘狂の思考で彼は己の右腕をかざした。腕が灼熱に覆われ――その超常の業火が消え去ると、そこには肉厚の刃をいくつも連ねたような爪を帯びた爬虫類そのものの片腕が顕現している。エルムゴートが限定的に己の体のうちに取り込んだ火竜の肉体の一部を顕現させたのだ。ジャニーは憤りで歯を噛み鳴らしながら相手を――魔術師軍としての敵である魔元帥を、一族の仇である大叔父を睨み付けて叫ぶ。

「大叔父……! オマエのせいで、ミーの祖父も、父も――皆要らぬ苦労ばかり背負わされタ……!」
「口を動かすより手ぇ動かしたらどうだぁ孫よ! 憎い仇の男は既にお前の間合いだぜ!!」

 もちろんジャニーもエルムゴートも共にこれ以降は言葉を交わすことは無い。肉厚の戦斧と、竜の爪へと変化した腕がぶつかる。
 金属音同士が混じりあう激しい衝撃が両名の腕に走る。
 一見して互角――両名とも間合いを空けて、相手の隙を伺うように移動を始める。だが、ジャニーはこれが互角でも何でも無いことを悟っている。祖竜の加護を受けて強化された彼女の肉体は平時とは比べ物にならないほどの筋力を得ていたが、それですら魔元帥が片腕で放った一撃にすら互角にしか持ち込めないのだ。

 遊ばれている――その覚悟はしていた。

 ジャニーより遥かに実力上位である早乙女ですら勝利できるか分からない相手なのだ。もちろんその辺りは最初から覚悟していたはず。……ただ、相手の顔面に浮かぶ笑みを凍りつかせ、一発戦斧か拳かどちらかをぶち込んでやれるならそれで本望と考えているのである。
 戦斧を振るう――全開で。一秒を過ぎるごとに、ジャニーの実力を見定めるためか加速していく爪撃。その致死の乱撃を掻い潜り気迫を込める。
 斬殺の魔爪を避け、戦斧を竜の加護を得た膂力で全力で叩き付ける。新志が来るまでは珊瑚の小隊の中で一番のパワーファイターだったジャニーの一撃は早く重い。しかし相手の爪撃はそれを上回って鋭く重い。

 通常死合では巧遅より拙速。

 技術よりも斬撃に込められた死の速度こそがもっとも重要であるが、魔元帥エルムゴートのそれはすでに超巧速の域。積み重ねてきた地力の次元が違っている。それでいて相手は魔術も、魔としての真の姿も現してはいない。

 それでも願う、それでも切り込む。とどけとどけ肉にとどけ奴の命に届いてくれと唇の中で呟き、他の竜王様方も御照覧あれと祈りながら、ジャニーは相手の斬撃を大きく仰け反って交わす。脊椎に雷光の速度で命令が伝達。二言三言の呟きとともに超常の異能の引き金を引いた。
 彼女の前髪で雷光が弾ける。

「ぬっ?!」

 相手の視覚を奪ったためか――この程度で相手の網膜を焼ききれたかは分からないが、目を閉じ確かに一瞬隙を見せるエルムゴート。迷う暇は無い。ジャニーは横殴りの一閃を相手の顔面目掛けて全力で叩き込んだ。  





 屋敷の外側で鳴り響く音に――新志と絶佳は直ぐに気づいた。
 絶佳は自分が皇帝の一族でないことがばれてしまったのかと不安でいまいち寝付けず、新志は幼少の頃からの訓練で、剣戟の音、銃火の響きに即座に意識が覚醒するよう徹底した訓練を施されている。
 両名とも誰かが闘っているのだと気づけば判断は早かった。即座に跳ね起きる。絶佳は自分の衣服が乱れて性別が新志に発覚してしまうようなことはないかを確かめ、新志は枕元にあるはずの大太刀をいつもの習慣で探そうとして枕の上の方に手のひらを繰り出して壁にぶつけた。ベッドの装飾が少し欠けてしまい、これ俺が弁償するのかなぁと情けない思いを抱きながらも周囲を確認する。

 ……そもそも、新志も絶佳もこの時点ではまだ相手が魔であるという確証を得られないままであった。

 確かに絶佳を連れ去った岳連殿下はまだ将魔であるか獣魔であるか判別することは出来なかった。相手が人間として行動を――絶佳が皇太子ではないという疑いを持ち出してきたがために、こちらも人間の対応手段で乗り切ろうとしていた。早乙女らが自分たちを政治的な手段で助けてくれるのだと思っていた新志であるが、しかし実際、彼らは実力行使で二人を抹殺しようとしていたのである。魔元帥エルムゴートは二人を懐に囲い込むことで強力な敵である英雄スピードガールこと早乙女光と交戦する機会を得て、朱岳連はエルムゴートに魔術師軍の足止めを頼み、その間に自分の命を脅かす朱絶佳を殺そうとする。

 ……もちろん朱岳連が実際に絶佳を殺してしまった場合、疑いがかかることは必死なのだが、将魔へと堕し、すでに精神の均衡を失いつつある彼は自分の向かう先が結局破滅であることを理解できていない。心も力も弱い最低ランクの将魔であると魔元帥に見切りを付けられ、いずれ見殺しにされる運命であると理解していなかった。同じ魔に属するもの同士とは言え、そもそも他者の苦痛など省みず我欲を満たすことを最優先させる将魔や魔元帥が協同して事に当たるわけなどないのだ。
あるのは、ただ利益が合致している間の一時的な協力体制のみなのだから。

 しかしそういった思考などすべて脳髄からかなぐり捨てて新志と絶佳は行動を始めていた。
 剣戟の音、そして雷が爆ぜ、大気が弾ける音。誰かが戦っている――いったい誰が、という疑問に答えたのは、絶佳だった。

「ジャニーの魔術、雷走らせるあれか……!」

 自分の出生の暴露に対して恐怖を抱いていた絶佳であったが、戦の気配を感じ取っただけですでにその表情は恐怖に脅え震えるものではなくなり、戦士のそれへと移り変わっている。走り出す絶佳に新志も無言で追従。絶佳の後を一緒に走り、大広間を抜け外の庭園へと続く廊下を走り、戦場へと到達した二人が見た光景。
 エルムゴートの顔面にジャニーの戦斧が見事に突き刺さっていた。

 勝った――そう新志と絶佳は戦友が勝利したと確信し。

 だが、ジャニーのみが、その表情に苦しげなものを浮かべる。まるで直撃した一撃が不発であったのだと苦々しげに認めるように。



 一撃は確かにエルムゴートの顔面に命中している。相手の顔面に一発確かにくれてやった。だが、柄に感じる手ごたえは、肉を切り裂き骨を砕き相手の命を奪う確かなものではなく、強靭なものに食い止められたかのような激しい抵抗感……!

「アゴ……デスか!」

 エルムゴートの口内、白く並んだ虫歯ひとつない歯が戦斧に噛み付き完全に静止させている。
 人間の首を刎ねるに十分な威力を持つ一撃をすら静止させる顎の筋力で戦斧を止めたままエルムゴートはその魔腕を振りかざす。ジャニーの両腕は戦斧を握っているのに対し、エルムゴートは両腕が自由だった。戦斧を捨てて即座に後退という選択肢は最初からジャニーの考えにはない。この一撃を避け得たとしても無手ではどう足掻いても相手の猛攻を凌ぎ切れない。

「ふっ!!」

 息を吸い、地を蹴る。横薙ぎに振るわれる魔腕をジャニーは戦斧の柄を鉄棒の逆上がりする要領で上空へ逃げた。そのまま落下の勢いで相手の頭部に浴びせ蹴りを打ち込む。衝撃で口から離された戦斧を構えなおすジャニー。

「ジャニー! 大丈夫なのかよー!!」

 そこで向けられる大きな声。
 今は屋敷の中で寝入っているはずの朱絶佳が自分の身を案じ、大声で叫んでいる。
 微かな躊躇が胸の中に生まれた。
 一族の仇である目の前の男に一発食らわせてやれるのなら命など惜しくないと考えていたが、戦友の命が無事であり――そして絶佳がジャニーの私戦に付き合う必要がないということを自覚した瞬間、生への渇望が生まれる。

「余裕だなぁ、孫」

 呆れたようにも侮蔑にも取れる声が聞こえ、ジャニーは己の腹腔に突き刺さる拳の重さを感じた。
 でかい金槌で肺腑を直接殴られ全ての空気を叩き出されたような激しい衝撃、内臓が驚愕し縮まったような苦しみ――声には出ない。エルムゴートの放った拳は相手の腎臓を強打する打ち方。皮膚的な痛みではなく内臓を痛めるような腎臓打ちだった。唯の一発、唯の一発が持つ重い衝撃はジャニーの足を一発で止めてしまう。全身を鎧う竜鱗の鎧の硬度も無視して突き刺さる痛みに、ジャニーはたまらず膝を突いた。

「……なんだこりゃ。糞弱ぇぞ畜生。……ほんとにあいつの血を引いてるのか? 貴様の祖父は今のお前よりずっとイキが良かったぜ? ……ま、いいか」

 無造作に告げる。まるで今から虫でも踏み殺すような気楽さでエルムゴートは口蓋を開いた。吐いた呼気が余りに高温のために空気が蜃気楼のごとく揺らいで見える。
 相手の喉奥がやけに明るい。まるで太陽でも呑んでいるかのように胃から巨大な光源がせり上がってきている。それが火竜の属性を、遺骨を食うことで強引に奪い取ったエルムゴートのファイアブレス攻撃であることを悟ったジャニーは、生存本能に弾かれ、腎臓に重く響いたままの衝撃を意志力でねじ伏せて逃げようと立ち上がった。そこに庇うように飛び込む影。
 火を吐いた――火炎放射機でもこうは行くまいと思わせる凄まじい灼熱の炎。周囲でジャニーとエルムゴートの戦いを邪魔せぬように下げられていた獣魔の何匹かが巻き添えで燃やされるが、実行した本人はなんら気にした様子も無く、灼熱に呑まれたはずの相手を見た。
 そう、直撃する瞬間、両者の間に割り込んだその人影は驚くべきことに原型をとどめていたのである。

「……あぶねぇなー、おっさん」

 朱絶佳は――立っていた。魔元帥の放つ一撃に対し、骨すら融解させる膨大な熱量に対して顔を顰め、額に汗を張り付かせてはいたものの、生きている。その両腕から湧き上がる黄金の炎が、魔元帥の炎を受け止めていたのだ。

「……なるほど。俺にとっちゃてめぇは相性が悪いらしいな」
「あたしにとっちゃやりやすい相手になるんだけどなー」

 朱絶佳はかすかに笑う。
 彼女の魔術である敵のエネルギーの総量に関係なく吸収する、『炎を燃やす炎』炎燃火(えんしょうか)――その発現である黄金の炎がジャニーを庇う朱絶佳の双掌で荒れ狂う。
 彼女は珊瑚の小隊では一番背丈が低いが――その技巧と魔術は意外な事に防御に優れた適正を見せている。鋼竜十八掌という強剛の拳法に加え、彼女が発現する魔術の炎燃火の特性は、純粋なエネルギーの塊を燃やすという特性を持つ。炎、冷気、雷、レーザー。それが純粋なエネルギー攻撃であるならば、彼女はその攻撃がどれほど膨大なエネルギーであろうとも燃やす事が出来る。燃やすというよりも、純粋な形のエネルギーを吸収するといったほうがわかりやすいだろう。そしてエネルギーを得て膨れ上がった炎はそのまま朱絶佳が有する攻撃力として使用できる。その卓越した武術と魔術により――朱絶佳は金城鉄壁の守りを発揮する事が出来るのだ。

 朱絶佳は動いた。

 先程までに陰々欝々とした心情であったが、今は脳髄にエネルギーを回している暇が無い。未来に対して思考する暇など無い。勝ち得なければそもそも未来のことを思い煩う暇すらないのだ。
 そのあたりの切り替えは素早い。迅速とすら言っても良かった。


 
 エルムゴートと朱絶佳の相性は――先の発言どおり朱絶佳の方が圧倒的に相性が良い。相手の灼熱の温度にお構いなく炎を燃やせる絶佳――それに対し、攻め手の一つを封じられたエルムゴートはその鋭い爪による白兵戦しかない。
 だが、正統派武術を学んだ朱絶佳にとっては白打の間合いこそが真の射程距離だった。
 大気を割り走る魔爪の一撃。その爪に触れた風にすら切れ味があるのだと錯覚するような凄まじい刀勢に対して絶佳は片腕を上に構え、その爪の一撃を拳で払いながら相手の顔面目掛けて打撃を突き刺す。
 鋼竜十八掌の奥義の一つ――相手の攻撃の初動に合わせて拳を打ち出す一種のカウンター攻撃『遡竜猛撃墜』は相手の顔面に食い込んだ。手応えあり――そのまま踏み込もうとする絶佳に対し、エルムゴートは小さく嘆息を漏らす。

「……しかし悲しいかな。パンチが軽い」
「なら、百発食らわせてやろうかー……」 

 軽い訳が無い――絶佳は拳で将魔を多く打倒してきた。その中でも会心の一発だと思うぐらいにきれいに入ったのだ。入ったのに――相手は微かに怯む様子も見せない。
 確かに絶佳はエルムゴートと相性が良い。
 だが――それでも足りない。地力の差が多すぎる。その相性の良さも勝敗を覆す決定的な要因にはなりえないだろう。相手が未だ魔元帥と知らぬ絶佳ではあるが、しかし敵との間にある力の差を先の手応えから理解していた。いやな感じの汗がじっとりと背筋を濡らす。



 
「ギエエエェェェェエエエエエェェェェェェェェェエエエエ!!」




 その時だった。
 全員の思考を一時中断させるように、獣魔の物凄まじい悲鳴が聞こえたのである。
 そこにきてようやく絶佳は自分が新志の存在のことをすっかり忘れていたことに気づいた。同時に背筋に氷塊が滑り込むような恐怖を覚える。確かに戦堂新志の実力は知っていた。南極で初陣の際に単独で強力な獣魔を屠り、アトリに勝利した剣技を持っていることから実力を疑ってはいない。だが、それはあくまで得意の武器である大太刀を携えていたからだ。珊瑚達と離れ離れになった現在では彼が扱える大剣などどこにも存在していない。大丈夫なのか、と考える絶佳は思わず目の前の魔元帥に注意しつつ、新志のいる方向に視線を走らせ、思わず絶句する。

 新志は無手のままでも戦っていた。

 ジャニーとエルムゴートの戦いを邪魔せぬように命令された獣魔は、それならば戦いに参加していない人間を丸呑みにして飢えでも満たそうと考えたのだろう。その蛇にしかみえない胴体をくねらせ、口蓋をいっぱいに開いて戦堂新志を飲み込もうとする。
 人外の異様、人間を捕食する邪悪な意思――常人なら恐怖に金縛りにされてもおかしくない光景ではあるが、新志は一人冷静だった。

 相手の上顎を右腕で掴み、同時に振り上げた右足で相手の下顎を食い止める。地に付く足は左足一本。相手の飲み込みを支えきれずに押し倒されかねないが、新志は躊躇うことなく力を込め。




 そのまま恐るべき破壊を実行した。
 



 右腕を上に持ち上げるように力を込め、右足は大地を踏みしめる様に下へと伸ばす。
 肩、肘の筋肉。そして大腿の筋肉がそれぞれ躍動し、丹念に積み重ねられた筋力が爆発した。新志を飲み込もうとした獣魔の口蓋が限界まで広げられる。――蛇を模した形だけあって獲物を飲み込むため顎が大きく開く。だが、新志の筋力が齎す破壊はそれだけで終わらない。相手の限界まで広がった口蓋に対しさらに力を込め、顎を裂き、そのまま獣魔の体を真っ二つに力で引き千切ったのである。

「うっそー?!」

 絶佳は自然と驚愕の叫び声を張り上げていた。そんな彼女の目の前でもう一匹の獣魔が突撃する。 
 口蓋を開ければ真っ二つに引き裂かれる。先程の光景を見て学習したのか、その獣魔は角を槍のように見立てて一直線に襲い掛かった。

 新志の対応は早い。

 戦堂一倒流は基本的に人対人外を想定して戦うが、それでもある程度対人戦の訓練も行う。この場合は長槍を相手にする訓練が役立った。体を半身にして投射面積を削り相手の攻撃の狙いを目から察する。
 新志は横へと滑るようにして回避した。
 獣魔からすればまさに消えたようにすら見える鋭い移動――だが、新志の反撃はまさにここからだった。

「捕まえたぜ!!」

 相手の頭部を捕らえる――それも、普通に掴むなどではなく、相手の頭部を脇に挟み右腕で挟み込んで補綴し、左腕と右腕をクラッチして相手の頭部を締め上げる所謂ヘッドロックの体制に持ち込んだのだ。もちろん獣魔はその尾を振り回して逃れようとするが、新志の肉体はまるで地に根が生えているかのように微動だにしない。
 そのまま、彼は大きく息を吸い込む。肺腑を酸素で満たし、全力を振り絞る前準備を終わらせ――締めた。


 ヘッドロック。


 プロレスの基本技として知られる代表的な一つであり、相手の頭部、こめかみを締め上げ激痛を与えるものだ。

 もちろんプロレスにおいては地味ながら相手に激しい痛みを与える技と知られており、この技一つで相手からダウンを取るヘッドロックの名手も数多く存在する。

 だが、それはあくまでルールに基づいた闘争であるレスリングの話だ。
 実戦において間接技などは有効であるが、悠長に相手の降伏を待っている暇など無い。そもそも相手は大勢いる。動きを止めた新志などただの標的でしかなく、事実彼を狙おうと数匹の獣魔が突撃しようとして――動きを止める。

「ぬああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」

 膨張する。全身の筋肉が鋭く尖るように、力瘤が浮かび上がった。
 新志の叫び声に、ぱきぱき、ぱきぱきと、まるで乾燥した白木がへし折れるような音が鳴り響く。
 絶佳も、エルムゴートも、そしてようやく臓腑を食い破るような衝撃が和らいで回復したジャニーも、それがいったい何の音であるのか最初理解できなかった。
 新志から鳴り響く音――どこにそんな音を鳴らす機関が存在するのだ? そう全員が疑問を抱き、その音が獣魔の頭部から鳴り響いている事に気づいて、驚くべき答えに遅まきながら気づいた。

「マサカ、……ず――頭蓋骨にヒビが走る音だと言うデスか?!」

 新志は締める。
 確かにヘッドロックはプロレスでも有名な基本技――だが、新志のそれはもはやヘッドロックにしてヘッドロックに在らず。ただの人並み外れた腕力が、常人を大きく逸脱した筋肉が、相手に激痛を与えるだけの技を、恐るべき必殺技へと昇華させているのだ。
 鋼鉄の大胸筋が、獣魔の顔面を圧迫する。右腕の上腕二頭筋が、その力瘤が質量保存の法則を越えているのかと錯覚するかのような勢いで膨らんで獣魔の頭部を押しつぶす。右腕としっかりクラッチされた左腕が更に深く締め付ける。力を込めるごとに鋼じみた硬度が更に硬くなっていると思わせる筋肉が、戦堂新志の右腕を恐るべき殺人万力へと変化させている。
 ぱきり、と西瓜でも割れるような音。その獣魔は目鼻を内側から爆発させられたように鮮血を撒いた。凄まじい業に――獣並みの知性しか持たぬ筈の獣魔は、いや、同時に獣の本能を有するからこそ獣魔どもは新志の常識はずれの膂力に恐れをなしたのか踏み込んでこない。

「ぐ、ぐはははははははは……!! お前、本当に人間か?」

 思わぬ強敵の出現に対し、戦闘狂らしい喜悦交じりの哄笑を張り上げながらエルムゴートは絶佳、ジャニーの二人から視線を外して戦堂新志に向き直る。
 本気で自分を倒そうとした絶佳とジャニーの両名の殺意を受けながらも――彼はまるで背を向ける事に躊躇がない。まるで珍しい玩具を見つけた子供のような楽しげな笑みで言う。

「獣魔の頭蓋骨を腕力で押しつぶす――魔術師軍の戦士と幾度も交戦してきたが、貴様ほど力に特化した相手は初めてだぜ、戦堂新志」

 新志は構える。
 例えもっとも得手とする大太刀がなくとも十二分に戦える事は、今目の前で証明してみせた。だが、そんな相手に対しエルムゴートは嗜虐的に口を開く。

「だが、魔力の資質なきお前が呪詛毒に絶えられるか?」

 その発言に対して新志は怪訝そうな表情を浮かべるだけだったが――絶佳とジャニーは文字通り凍りついた。
 呪詛毒――獣魔以上の将魔クラスの敵が使用する、魔が人類に対して保有する、通常兵器に対する凄まじい再生能力に並ぶ絶対的優位性の一つであり魔術師軍の戦士達が男装を強要される最大の理由だ。
 毒と呼称されるものの、無味無臭。しかしその致死率はほぼ九割であり、将魔らが発動すると決めた瞬間に、本人を中心に百メートル四方の生命体は確実に死滅する。エルムゴートはもともと今回呪詛毒を使用する予定はなかった。今こちらに向かっているであろう早乙女が何らかの手段で呪詛毒を防ぐ手段を開発している事はずっと昔から承知の上だ。エルムゴートを初めとする三体の魔元帥達の中では、魔術師軍がなぜ呪詛毒を防御できているのかは未だに最大の謎の一つである。だが、恐らく彼らが保有する魔力をなんらかの形で利用して、呪詛毒を防ぐ術を開発しているのだろう、というのが大まかな見解だった。
 そして、呪詛毒は発動させるのもわずかではあるが体力を消耗する。早乙女という至高の強敵と交える前に無駄な消耗をすることは出来うるなら避けたかった。
 目の前の男、戦堂新志は何の魔力の胎動を見せていない。
 朱絶佳と同行していたから、魔術師軍の関係者であるはずだが、少なくとも魔力を生成できぬのであれば呪詛毒で即死するはずだ。

 だが――エルムゴートには奇妙な確信があった。
 敵である戦堂新志――獣魔の頭蓋骨を腕力で破砕し、力の領分において自分に迫るほどの能力を見せた男が、呪詛毒と言うたかが毒程度で死亡する筈がないという、絶対の強者が己の認めた好敵手に対して抱くような奇怪な信頼を持つに至ったのだ。
 
 呪詛毒を開放――エルムゴートの意思に従い、魔元帥としての悪しき力の一端が解き放たれる。
 不意に大気それ自体が重くなったかのような錯覚が周囲に撒き散らされるだろう。常人ならば即死する凄まじい呪詛の渦――魔術師軍の戦士ですらも気分が悪くなる事があるそれは、姿もなく、匂いもない。識別する手段は第六感に頼らざるを得ない無味無臭にして致死性を帯びた悪意の霧は瞬時に新志を初めとする全員を飲み込んだ。
 血を吐き、地に倒れ伏す相手の姿を想像したエルムゴートは――

「……? なんかやったのか、おっさん」
 
 不可解そうに眉を傾げる戦堂新志にますます笑みを深くする。

「は、はは、良いぞ小僧! 俺の呪詛毒を、魔力なしのままで受け流すかよ――!!」
「呪詛毒? ……ああ、なんか背筋がちくちくするような感じのこれがか?」

 相手に言われ、ようやく今自分が致死の渦の中に飲み込まれた事を自覚した新志は――つまらなさそうに吐き捨てた。

「食らってみると――案外大したことないな」

 大した事ない――その答えが気に入ったのか、エルムゴートはげらげらと馬鹿笑いを張り上げ、ジャニーと絶佳は慌てた様子で新志の傍に駆け寄る。もはや周囲を固める獣魔達は獣の本能で、この戦場がすでに自分たちが乱入できるようなレベルでなくなっている事を理解したようにするすると蛇体をくねらせて引き下がっていく。

「あ、新志! ダイジョブですカ!!」
「あんちゃん……なんで生きてるの?!」

 両名からすれば至極当然の疑問――しかし新志からすればまるで生きている事自体が不可解な事態なのだと言われているようであまり面白くない。
 嫌そうに眉間に皺を刻みつつ、答える。

「まるで死ぬことが当たり前のような事を言いやがって……」
「い、イエ……まさニ……」

 ジャニーも絶佳もその事実を信じ切れてはいないが――しかし両名とも今までの常識を盲目的に信じて実際に起こっている事実を否定するほど頭が固い訳でもなかった。
 それに――なぜ新志が呪詛毒の直撃を受けて平気でいられるのかは不明であるが、しかしこれはこれで好都合であると二人は気づく。

 魔術師軍の構成員が全員男装美少女であることは新志以外には周知の事実だが、その確信である呪詛毒の防御手段に関してはまだ新志に教えられないままでいる。当然だ、呪詛毒に対する防御手段を教えるということは、魔術師軍のメンバーが全員女性であることが発覚してしまうし、そうなれば『同じ場所で異性が存在することによって自分が異性を演じているという緊張感を強化する』という手段が潰えてしまう。
 だが、理由は不明なままであるものの――新志が女装せずに呪詛毒を防御できるなら、適当な嘘をついてごまかすことが出来るし――なによりも筋骨隆々の青年である新志の女装姿なんて大変見苦しいものを見ずにすむならそれに越したことはないのである。

「さてと。……まぁ、正直状況が急変していて驚いてはいるんだが、考えるのは早乙女に任せとくかね」

 そして、構える新志。
 相手が魔元帥であるということは知らずとも、相手から放たれる凄絶な暴力の気配から実力の程は推察できるはず。それでも引く様子を見せぬのは実力に自信があるのか、もしくはただの負けず嫌いか。
 だが、ジャニーも、絶佳も――既に自暴自棄な思考をすることは止めていた。
 ジャニーは一族の復讐の為に命を投げ打ってでも戦おうとした――実際に戦ってみても勝ち目がない事が、理性ではなく感情で理解できてしまった。絶佳は自分の正体が発覚したことを恐れたが――相手が魔に属するものであることを知り、相手に対して人に対して、裁判や交渉で解決しようとしたら殺されるような相手であることを理解した。

 逃げなければならない。
 そう二人は言葉を交わすまでもなくお互い視線のみで意思を疎通させた。

 だが――二人がこの場から撤退しようと判断したのは、確かにこのまま戦い続けても勝利など覚束ないと判断したからであるが、それと同じぐらいに大きな理由がもう一つあった。
 戦堂新志――未だに魔術に目覚めはしないものの、その圧倒的な膂力のみで獣魔を屠る人間離れした力の持ち主。彼の戦う姿を見て二人は思ったのだ。巨大な基礎工事を思わせるように、基本的身体能力が既に人並み外れているこの男が、才能の固まりじみた怪物が真に目覚めれば、才能に加え、更に魔術師としての能力が積み重なればどれほどの化け物に成長するのかという純粋な好奇心が芽生えたのである。
 当然問題は残っている。
 そもそも戦闘狂と名高い魔元帥が獣魔の頭蓋骨すら力で押し潰すほどの男を見逃す訳もない。

「早乙女を待つつもりだったが……はは。こりゃ溜まらん、殺すぞ小僧!!」
「出来るものなら、な!!」

 相対する巨体と巨体――まるで土石流同士が正面からぶつかり合うような激しい迫力が両名にはあった。魔元帥の右腕に備わった火竜の鍵爪は既に掻き消え、今は鉄の塊のような拳が振り上げられている。

 激突。

 お互いに繰り出した鉄拳はぶつかり合う。どちらもその拳に激しい衝撃を受けているはずだが両名共そんな痛みなどものともせずに突き進む。
 戦堂新志の身長は百九十六センチだが、エルムゴートはそれを上回る二メートル以上の巨体。
 骨格が巨大であればあるほど積載できる筋肉の量も重量も増える。それは打撃戦においては絶望的とも言える壁。ボクシングが厳格な階級制に縛られるのは当たり前の話なのだ。
 だが――それでも新志は正面からの激突に当たり負けしていない。重量の差を、気力と筋肉の質で押さえ込んでいた。
 単騎であの怪物を相手に戦線を構築する新志の後ろで、朱絶佳は己の手のひらのうちに炎燃火を吹き上がらせ、ジャニーと視線で意思を交わす。
 逃げ出すための隙を作る必要がある。
 そのためには出来るだけの大威力を、相手が防御に専念せねばならないような一撃を放たなければならない。

「ジャニー!」
「わかっているデス!」

 朱絶佳の魔術は一言で言えばエネルギー吸収能力だ。そしてその吸収したエネルギーを炎の形で一気に開放するもの。もちろんそれはジャニーが雷竜の加護を得て放つ雷撃も吸収し、燃料を得た炎が激しく、大きくなることと同じく朱絶佳の炎も巨大化していく。
 エルムゴートは後方で完成しつつある炎の量に気づいていないはずがないのだが、恐らく今は新志と殴り合いを演じることに喜悦を感じているのだろう。さも楽しげな表情で殴り殴られている。

「あんちゃん! 逃げるぜ!」

 拳の交錯――新志が一撃を貰いながらも後ろに退いた。その後退に合わせるように朱絶佳が前に出る。白打の応酬の中、リズムを読み新志の後退に即座にタイミングを合わせる事が出来たのも彼女が能力的に魔術よりも武術に傾斜しているからなのだろう。エルムゴートは不愉快そうに舌打ちを漏らした。

「おいおい、お呼びじゃ無いぜ殿下!」
「奥義……!」

 だむ、と朱絶佳は地に伏せる虎のように体勢を低くする。頭上をエルムゴートの拳が通り過ぎた。そのまま猫科の猛獣が四肢をたわめ膂力を爆発させて飛び掛る動作に酷似した攻撃を主体とした構えである『捨身伏竜』へ。その両腕に飾り布のように炎燃火の灼熱が纏わりついている。
 朱絶佳は拳を打ち放つ。相手の肉を打つために殴るのではなく、相手より奥の目標に対して威力を突き刺すように――マラソンの選手のクラウチングスタートのように突撃、斜め前方に打撃を放った。

「紅蓮、重爆とおおぉぉ――――……!」

『捨身伏竜』の構えから繰り出される奥義『紅蓮重爆突』。
 蓄積された灼熱のエネルギーは打撃の先端、拳に纏わりつき――インパクトの瞬間、それは指向性を帯びた爆発的な火力になる。斜め方向へと打ち出された奥義の一撃はエルムゴートの体躯を浮き上がらせ爆発的な炎の圧力でその体を吹き飛ばした。

 だが――それでも、直撃でも足らない。

 火竜の遺骨を貪り食らった事で、エルムゴートは熱と炎に対する絶対的とも言える耐性を獲得するに至っている。受けたダメージは拳と爆発の圧力のみであり、命にはまるで届いていなかった。空中で体勢を立て直し、着地。そして小生意気にも一発を己に叩き込んだ朱絶佳に報復をくれてやろうとしたところで、三人が尻尾を巻いて逃げ出しつつあることに気付いた。

「……ああ、逃げたきゃ逃げればいい。俺は後ろから撃つだけだ」

 凶笑が自然と浮かび、みしり、と血柱が頭に走る。逃げだした相手に対する憎悪を射出するための術式を半ば本能じみた部分で組み立て始めていた。先ほどまで朱絶佳に放っていた炎とは次元の違う、本気の一撃だ。

「……鎧を貫け門扉を破れ!! いかな装甲もいかな護りも焼き焦がして穿って打ち抜くのみ!!」

 逃走を図る三名――彼らに投射すべき力が具現する。
 まるで砲弾を模した灼熱。溶岩で形成されるそれは、魔元帥エルムゴートが金属噴射(メタルジェット)を内蔵した戦車の鉄鋼弾を参考に編み出した魔術だ。

「貫通せよ、火神の砲弾(キャノンボール・オブ・イグニス)!!」

 その空中に浮かぶ溶岩の砲弾を彼は全力で後ろから殴りつける。まるで拳銃の弾丸が撃鉄によって着火するのと同じように発射と同時に螺旋を描いた安定した弾道で放たれた。

 それを防ごうと己の両腕に灼熱を纏わせたのは朱絶佳。純粋なエネルギー攻撃に対してならば完全な防御を誇る彼女の魔術を発動しようとし――だが、それを新志は食い止めた。
 本能的な域での直感――炎に対して鉄壁である朱絶佳に対して同じ手を使うほど温い相手とも思えず、そして視界の彼方でエルムゴートが嘲笑の笑みを浮かべる様子を見て、確信に至ったのだ。

「……あたるな、避けろ!!」

 ジャニーは新志の言葉に即座に従い身を投げ出すように射線から飛びのき、絶佳は新志に抱きかかえられて一緒に避ける。
 その判断は正しかった。絶佳の魔術は炎を燃やせるが、固形物は不可能だ。そして魔元帥のその一撃は純粋な炎ではなく溶岩にて形成される一撃。もし絶佳が正面から受け止めようとすれば、目標の接近と共に砲弾内部の膨大な溶岩が撒き散らされ致命傷を浴びていただろう。

「……なんてものを撃ちやがる」

 新志の苦々しげな声、絶佳はその視線の先を追い、絶句する。
 この屋敷の周囲をぐるりと取り囲む頑丈そうな塀は完全に大穴が穿たれていた。その威力の傷跡は直撃したなら確実に三人を絶命に至らしめただろう。
 だが――今は逃走しなければならない。これ幸いにと塀に穿たれた大穴を使って外の森へと三人は逃げ出したのであった。



[15960] 死番勝負――前哨戦決着
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 15:49
「ちと、遊びが過ぎたかね」

 相手が逃走したのであればそれをわざわざ追いかけてまで仕留める意思はエルムゴートにはない。
 それはより実力ある相手と戦いたいという戦闘狂らしい考え方で追撃を中止した。早乙女が来るのにここを離れるわけにはいかない。相手が逃げ出したことによる興醒めで、彼は急速に冷静さを取り戻しつつあった。
 戦闘の余波でいまだに周囲には炎が燻ってはいる。屋敷自体には火が廻っていないことは幸いだった。エルムゴートはそのまま屋敷の中の朱岳連のいる部屋へとずかずか入り込み――予想通り寝室の片隅でがたがたと震えている男に侮蔑の視線を向ける。

「……貴様の弟が逃げた。追って殺せ。そうしなければ貴様は身の破滅だ」

 絶佳を直接誘拐した時点で彼が破滅なのは間違いないが、均衡を失った精神はそれにすら気付く事は無い。だが、それでも自分が誘拐した相手が逃げ出し、官警に保護されれば朱岳連も破滅する。それはあまりにも明快な破滅の図式だった。

「……む、無理だ」
「貴様には魔としての力をくれてやった。それなりに強いはずだが?」
「む、無理に決まっている! や、奴等は獣魔や将魔を狩り殺す魔術師軍なんだぞ?!」

 やはりか、とエルムゴートは呆れたような目を向けた。
 華帝国における目眩ましとして利用してきたが、やはり自分の生命が掛かっている場面では二の足を踏んでしまうのだろう。
 エルムゴートは小さく溜息を漏らし、そのまま蹲って震えている相手の顔面を蹴り飛ばした。将魔でも今はまだ変身していない。中には変身せずとも凄まじい異能を振るうものもいるが、少なくともこの皇子にはそんな能力は存在しなかった。結局彼は怯えから将魔へと変じた。それゆえに自分を殺せるかもしれない相手と戦うのなど絶対にごめんなのだろう。戦闘の際の轟音は凄まじいし、絶佳が、彼の弟が逃げようとしていたなど気付いていたはずだ。己が絶対に傷つかないと確信できない限り彼は実際に暴力を振るうことは出来ず、それだったから自分の母と血を分けた弟を殺める事が出来たわけだ。

 恐らく今まで他者に足蹴にされたことなど無かったのだろう。欠けた歯のあたりを抑えながら呆然とした表情でエルムゴートを見やる岳連。エルムゴートは言う。

「貴様の母親は貴様を殺そうとした。……そこで魔の力に目覚め変身したのはいい。だが、結局貴様のそれは魔という力に逃げたのみだ。そこになんら努力もなく貰いもののように力を得たから貴様には肉体を支える自信の背骨がそもそも存在しちゃいねぇ。……いいか? 逃げた先にあるのは結局戦場しか存在しない。どこかで立ち向かうしかない。……敵に襲われないよう兎のように生きていくのもかまわんさ。だが、それならもっとやりようはあったはずさ。帝位を捨て民草として生きていく手段もあったはずだ」
「わ、私は皇族だぞ、そんな今更市井にまぎれるなど……」
「偽者の癖にか?」

 その言葉ひとつで朱岳連は凍りついたように表情を強張らせる。

「……結局貴様は決断したことがない。皇族だから今更市井にまぎれられない? 違うな。貴様は新しい環境を、変化を恐れる。新しいもの、未知なるものに恐れを抱いているだけだ。そうして逃げ回っただけだ。
 ……だが、小僧。もう逃げは許されんぞ。逃げれば殺す。今が人生のツケを払う時だと気付きな」

 魔人の凶笑に睨まれ、最早蛇に睨まれた蛙のように怯え竦むしか出来なくなった相手に小さく嘲りの吐息を漏らした。
 後ろで岳連の嗚咽のような呟きが漏れるが、彼は最早相手のことなど思考の片隅にも留めてはいない。質量保存の法則を無視し、自己の肉体を魔へと作り変え変身を始めた岳連を無視し、エルムゴートは来るべき戦いに備える。

   


 戦堂新志にとって深い森の中というのは恐れるものではなかった。
 戦堂の家に、一緒に引き取られる事になる兄。春には笹の葉が敷き詰められた地面の間からちょこんと頭を出した筍を見つけ出し、目印をつけるのは二人の仕事だった。勿論、危ない傾斜に頭を出す筍だってあったのだから、時折滑り落ちそうになった事もあったが、体格も完成した今の新志にとって、山は姿を隠すにはもってこいの環境だ。
 当然、森から脱出する事も考えなけばならないのだが、新志はそれに対しては心配していない。珊瑚を初めとする彼らは今も自分らを敵方より早く見つけるために行動しているはず。最初は二人と合流したジャニーが通信機器の類でも携えていないかと思ってはいたが、残念ながら所持していないらしい。もともとエルムゴートと交戦した際、最初から命を捨てて掛かるつもりだった彼女は不退転の意味も込めて救援を呼ぶための連絡のための道具を用意していなかったのだが、この場合それが仇となった。

 三人は共に森の中の大樹の陰に身を寄せている。

 新志にとって今一番の懸念は、先ほどから何か思いつめたようにうつむいた朱絶佳の事だった。どうしようか? と視線で意思を交わす新志とジャニー。

「……なぁ、絶佳。……どうしたんだ」
「考えてもいれば、絶佳は今回の作戦の最初から様子がおかしかったデース」
「……うん」

 その様子といい、何かあった事は明白であり、そして、絶佳のその変化の原因。
それは間違いなく、絶佳が皇族の血筋ではない疑いがあると言う、彼女の兄の言葉に起因するものであった。

 即ち、皇帝の血筋では無いという言葉。気にならないといえば嘘になるが、かといって人が隠している事を無理やり問い詰めて口を割らせるというのは新志の嫌うところ。だが問いたげな空気から、相手が何を考えているのか察したのか、絶佳は口を開いた。

「……あいつの言ったとおり。あたしは……別に華帝国皇族の血筋って訳じゃないんだー」

 鉛を吐くような、重々しい感情の色がそこにあった。

「親も知らないような生まれのあたしだったけど、あたしを拾って養育してくださったのが……皇族の血を引くお方だったんだ」

 ぼつぼつと過去を話す絶佳。新志はそれをただ黙って聞いている。

「……力、欲しいなぁ。財力でも権力でもどっちでもいいから」

 語り終えてから絶佳は、溜息と共に呟いた。
 後にも先にも絶佳の望みはただ一つだけだ。母を殺した相手に復讐する力と、自分の出生の秘密を隠し通す力、その双方。

「……それだったら、ミーも人のこと、言えないデス」

 絶佳の言葉を聞き終えてから沈んだ様子で小さく口を開くジャニー。

「みんなで戦ったあの男の名前はエルムゴート=アンセム。……魔元帥にしてミーの一族の仇敵なのデス」

 飛行機の中で話した一族の仇であり、そして大叔父に当たる男。その相手を倒すためならば命も要らぬと戦いを挑んだが、敗れ去った。

「本来なら、二人助けるために行動するべきだったデスが、自分の復讐を優先させてしまい……ミーは周りが見えていなかったデス」

 確かに思い起こせば妙な点はあった。新志と絶佳を助けに来たのであれば、たった一人だけというのはおかしいし、合流したときは相手と激しく交戦していた。だが、それも憎悪に目が眩んでいたというなら理解できる。絶佳は小さな声で呟いた。

「……ごめんな、新志のあんちゃん。あたし、前に変な事聞いちまった。……でも、だからあたしは、前どうしても理解できなかったんだ。……どうして、目の前にあった地位とか権力とか、そういうものを全部捨てて南極の防人前衛なんかに志願したのか……」

 新志は少しの沈黙の後、少し考え込むようにして口を開いた。

「……じゃ、良い機会だし、お前らに、ちょっと昔話でもするかね。
 知っての通り、戦堂一倒流は弓国最強の剣技として知られている。
 とはいえ、剣として大きく剛剣に傾斜しているため、極めるには天性の体格と優れた筋力が必要になる。……一応夜寝る前には牛乳一気飲みとか義務付けられていたけども、な。それでも体格に優れて、おまけに剣士としての実力を備えているなんて一握りだ」

 ふぅ、と息を漏らした。絶佳の目ではなく、木々の隙間から見える星空を見上げる。

「……そんな訳だから、子供の頃の修行は余り筋肉をつけすぎたら背が伸びにくくなるから、本格的なのはある程度骨格が完成してからだったな。『練り上げ』と呼ばれる、体格には不釣合いな木刀を構えて一日中振り回していたけどあれは単純に、数を取った弟子をマンツーマンで面倒を見られるほど上の世代の人がいなかったからだった」
「……それじゃ、そこで頑張ったから、戦堂の家の養子になったのかー?」

 こくり、と頷く新志。

「孤児院から引き取られた、見込みのありそうな子供。その中から過剰で厳しい訓練についていくことが出来た十数名が戦堂の苗字を名乗ることを許された。……俺と、兄上、同じ孤児院から一緒についてきた仲間で残っているのはそれだけで、そこでようやく、俺は……姉上と出会ったんだ」
「お姉さん、デスか?」
「ああ。とはいえ、姉上は俺みたいに孤児院から上がってきた餓鬼とは違って、戦堂一倒流総帥の……親父殿の唯一のご息女だった。姉上の実の母を亡くされた後は、親父殿、後添えを貰う事もなくずっと寡夫を通していられたな」

 懐かしい思い出を反芻しているのか、新志は少し照れくさそうに笑う。彼は珍しく、大きくなってから思春期の憧れだった人を語る事に一抹の気恥ずかしさを覚えていた。

「……姉上も、兄上も、強かった。
 親父殿は厳しい人だったけどそれ以上に、家族と接する時も根っこからの剣士だった。
 何につけても優先する事は剣。剣技を冴えさせれば、親父殿は心から褒めてくださったが……しかし、それ以外にはまるで興味なし。……戦堂の家で親父殿に愛されたいと願うなら、ただ、剣を振る以外の手段は無かった。
 歳月が過ぎ、冬を越し、春を迎え、初めて屋敷に上がった時は、あんなにも高く感じた敷居を一跨ぎで上がれるぐらいに体が大きく、大人の体格に近付くぐらいに時間を重ねた。そして引き取られた孤児の中で残った、俺と兄上が……親父殿に呼び出された」

 何か、微かに苦さを感じさせるような表情を浮かべる新志。

「……聞いての通り、戦堂一倒流は剛剣の流派。
 姉上の剣才は俺を上回るほどの巧みさであり、また女性としても類稀な長身だったが……悲しいかな、膨大な門弟を抱える戦堂一倒流の総帥を張るには武威が足らない。男だったなら、きっと、何の問題も無かったろうにな。……戦堂の血筋を絶やす訳にはいかぬ。それが親父殿の最初の言葉だった。二人で、立ち会え。そして勝った方に戦堂一倒流の総帥の地位を与え、姉上を娶らせると」

 ふ、と懐かしむように笑った。

「……俺は、なんというか、まぁ、奮い立った。正直姉上は厳しい人だったが……美しかったし、子供の頃からの憧れだった。初恋だったんだろう」
「そ、そうなのかー」
「……デハ、新志は、その兄上との勝負に負けて南極防人艦隊に入隊したデスか?」

 正直目の前の男が誰かに敗れるなど、絶佳にもジャニーにも想像も出来なかった。だが、それなら理解も出来る。好きだった女性が、兄と呼んだ人と一緒になった姿を間近で見せられるなど、辛いだけだろう。恋を振り切るために南極防人前衛に志願したんだ、と二人は予想したが、新志は首を横に振った。

「俺は、勝つ自身があった。兄上は強い。確かに強い。だが、その技はむしろ技術に比重が置かれていた。戦堂一倒流は人対人外を想定するために、精緻な技術よりも剣速と膂力の方を重視する傾向にある。剛剣と剛剣、ぶつかり合えば勝つ自身があった。確かに至高の剛剣同士のぶつかり合い、防具を用いても、竹刀を用いても命を奪いかねない力の持ち主同士だったが、俺は上手くやる自信があった。兄上に勝利しつつ、尚且つお互い無傷で勝つ自信があった。
 ……今から思えば、姉上に好かれているという自信だけが無かった」

 どちらも何も答えない。ただ黙って新志の言葉に耳を傾けているだけ。

「俺は、逃げたのさ。……明後日が、兄上と門派総帥の地位と姉上を賭けて戦う大切な一戦の前。……偶然にな、屋敷の隅でお互い抱き合う兄上と姉上の姿を見てしまった。
 ま、考えてみればそんなにおかしい話ではない。兄上も姉上も年頃の男女。俺は……兄上と姉上の恋路の邪魔をする立場になってしまっていた。……姉上に必勝の誓いを告げる兄上と、それに微笑んで頷く姉上。その日のうちに、俺は勝負を辞退し、南極の防人前衛に行くと言い、むちゃくちゃ怒鳴り散らす親父殿を筋肉の力で説得して家を出た」
「……馬鹿じゃないのか、新志のあんちゃん。あとそれ説得じゃなくてただの家庭内暴力だよ」
「生まれて初めての親子喧嘩だ。勘当されることも狙いのうちだったしな」
「……説得の手段すら喧嘩になるとは、荒っぽい一族デース」

 話し合う新志とジャニーの言葉を聴きながら絶佳は、唇を噛む。目の前に、望めば手に入る大切なものがあった。絶佳は権力や地位があれば幸せになれるという思いでここまで来た。権力や地位があれば、母様は生きていたし、母様の愛児もきっと生きていたに違いないのに。地位や権力があれば、二人は今も生きていたに違いないのに。
 だから絶佳には自ら地位も名声も、好きだった人すら諦めた新志の行動が理解できなかった。

「なんで……なんでそこで譲るんだよ!! 好きだったんなら、取れば良かったじゃないか! 遠慮なんかする事ないんだよ!!」
「……はっきり言うんだな、絶佳」

 罵倒に近い剣幕で怒鳴られてはいるが、新志は、優しげで、少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべるだけ。

「……でもな。俺は……姉上が好きだったが、兄上の事も好きだったんだよ。
 俺の幸せは、俺と、兄上と、姉上と、子供の頃みたいに一緒に仲良く剣を振るっている事だった。……兄上との勝負を逃げたことで、俺の事はどう思われているかは分からない。でも、二人が幸せそうに抱き合う姿を見て……ま、いいかって気持ちになったんだよ」

 新志はゆっくりと、立ち上がる。絶佳を置いて、前へ。

「俺の幸せは二人が微笑む姿だった。その幸せそうな光景の中に俺は入っていなくていい」 

 拳を握り込む。愛用の太刀は無いが、しかし戦堂一倒流総帥の候補にまで成り上がった剣士の両腕は、ただの殴打でも人を殺傷させるほどの鈍器ともなりうる。
まるで、森の奥に両名の生命を脅かす外敵の存在を見抜いていると言わんばかりに、夜闇の深遠へと視線を走らせる。

「幸せの形は人それぞれだ、絶佳。日常を家族と健やかに暮らすことに幸福を見出す人もいる。世界を手に入れるため戦火を広げ、多くの幸福を焼き尽くすような許されざる形の幸福もある。
 ……だが、絶佳。権力も財力も強大な力だが……そもそも力って奴は何かを排除し、何かを得るためのものだ。権力を求めるのもいい、財力を貯めるのもいいさ。……だが、その力を求めた最初の気持ちって奴だけは絶対忘れるんじゃない。権力の、財力の、奴隷になるな。
 強いだけってのは、空しいぞ。今の、俺みたいにな」






 ジャニーが単独で突出した――冷厳な軍隊組織であれば見殺しにしてもおかしくない重大な軍規違反であるが、三人はそれを咎めるようなつもりはなかった。いつもなら一歩引いた場所で主に変態的な発言をかますアトリと絶佳のブレーキ役なのだが、そんな彼女が行った無謀な突撃にもきっと訳があると珊瑚とアトリは信じていた。
 彼女らを統括する立場の早乙女も何もいわない。二人がはぐれた三人を無事救出するまで引き下がる事が無いと知るため最初から説得は諦めてるのである。

「……歓迎が来たかな」

 三名が駆るジープのヘッドライトの角度を上に挙げれば――最早人を装うことをやめたのか、何匹もの獣魔が道路をふさぐように展開している。珊瑚、漆黒の出で立ちに、腰に下げた忍刀を確かめる。アトリ、部分鎧を纏い、刺突剣を鞘から抜き放つ。戦闘準備。

 だが――先手は敵からだった。

 視界の遥か彼方、発砲に伴うマズルファイアと同種の光が闇の奥で広がり、瞬時に砲弾が両者の間に存在する距離を凄まじい速度で突き抜け飛来する。
 そんな相手の先手に対して、一瞬早く早乙女はハンドルを回して敵の砲撃から車体を回避させていた。通り過ぎた砲弾はその弾体から散弾を撒くように金属噴流の嵐が地面を焼き焦がした。

「火神の砲弾による長距離砲撃か。エルムゴートめ、こちらに気づいたな?」

 更に深くアクセルを踏み込む。

「……即効で敵戦力を駆逐後、二人を迎えに行く」
「「了解」」

 唱和する三名の返答に、にやりと笑い号令を掛けた。

「では、遊んできな」

 ハンドルを切り、間近な獣魔……まるで頭から槍の如き角を生やした蛇じみた形状の相手に対してぶつけるような位置へ合わせる。
 瞬時に全員全方位へと四散。それに遅れて獣魔に衝突するジープが、その身を単純明快な大質量武器として盛大に衝突させた。苦悶の声を上げるその獣魔の頭上に着地した早乙女、軽く靴音を鳴らすように相手の脳天を踏み潰してみせた。
 戦闘を開始。

 


 敵を扇動し動かすにせよ、敵の一部がここまで馬鹿だとは予想外だった。珊瑚からすればそんな言葉で終わらせられては堪らない。
 覆面で顔の下半分を覆い、まずは手近な一匹へと矢のような速度、全身を傾斜させ地球重力を利用するかのようなその疾走の速度、まるで自分自身の影すら引き離すかのような凄まじい勢いだ。

「シュウウウゥゥゥゥ!!」

 口元からちろちろと舌を伸ばし、奇怪な声を漏らす相手。口蓋から覗く双牙から紫色の如何にも毒々しげな色の液体を滴らせている。
 直立する獣魔の大きさは二・五メートル近く。全長に至っては五メートル近くあるだろう。常人ならば腰を抜かし失神してもおかしくないような怪物だが……生憎と、珊瑚も皆も、この手の相手との戦闘経験は既に腐るほど積んでいる。今更怯む道理など無かった。
 獣魔の尾が旋回する。
 直撃すれば生木さえもへし折る法外の膂力。だが、その一撃は空を薙ぐのみ。手ごたえの無さに獣魔は周囲を見回し、頭上へと視線を巡らせる。

「残念、下だよ」

 しかし珊瑚の反応は獣魔の予想を超える。薙ぎの一撃を二次元空間潜航でやり過ごす忍法『影潜り』の術にて回避。そしてその影の中から復帰した珊瑚の手の中には伸ばした短槍が握られていた。鋭く投擲されたその一撃は相手の下あごから上あごを貫通する。敵の主要の攻撃手段――口蓋による噛み付きを封じ、後はとどめをさすだけ――と判断した珊瑚の前で、獣魔は己の頭部の角、その先端を珊瑚に向ける。
 予想外だったのはその次の瞬間。まるで角の底部に強力なスプリングでも仕掛けられていたかのように、獣魔の頭部から角が凄まじい勢いで射出されたのだ。

「――っ……忍法」

 双掌を前に繰り出し――まるで戦車砲を思わせる破壊的質量の一撃を受け止める。
両腕の中に作り出した影の中に、射出された角を受け止め――本来相殺不可能な大質量と運動エネルギーを、そっくりそのまま、跳ね返す。

「木の葉返しの術!!」

 一発きりだが絶大な威力を誇る一撃の破壊力は、攻撃を繰り出した獣魔本人の肉体で証明されることになった。獣魔の鱗を貫き胴体を貫通。それだけでは足らずに、その後方にいた獣魔の体を巻き込み破壊する。珊瑚――即座に叫んだ。

「アトリ!」

 無言のまま頷く戦友。鞭のように繰り出される獣魔の尾撃――それに対しアトリは悠然と構えていた。剣士にとって反撃のために相手の射程ぎりぎりを掠めるように間合いを保つのは既に第二の本能の域。
 かすかに後方へと後退する彼女の眼前を尾が凪いだ。生木を粉砕する一撃を掠めさせるように避けるアトリ。相手からすればすり抜けたように見えるほどの最小の動きで回避し、そのまま前に出る。当然即座に反撃しようとした獣魔は再び尾の一撃を見舞おうとしたが、その尾が、交錯の刹那で凍結されている事に気づいた。その相手の隙を見逃すようなアトリではない。彼女はそのまま相手の尾を駆け上がり頭上へと飛び乗り、刺突剣の切っ先を獣魔の眼球に向けた。 

 人ならざる悲鳴が響き渡った。

 突き刺す刃は獣魔の眼球を貫き――アトリはそこから相手の脳髄に冷気を放ち、重要な臓器を最小の消耗で破壊してそのまま着地する。
 その着地の瞬間を狙ってきた獣魔を縫いとめるように、珊瑚の掌から飛刀が相手の影に突き刺さった。忍法影縫いにて全身を金縛りにされた獣魔の顔を撫でるようにアトリの刺突剣が舞う。そのまま氷結させた相手の顔面に止めといわんばかりにアトリは長い足を翻した。

「セアアァァァ!!」

 顔面狙いのハイキックで頭部を蹴り砕く。崩れ落ちる相手には目もくれずに新手に即応するため両の眼で相手を補足。
 蛇体を蠢かせる相手はまだ数多く残っている。徐々に包囲の輪を詰めようとしているが、アトリと珊瑚の素早い動きを捉え切れていないのだろう。二人は視線を通わせ無言のままに連携。普段は変態とそれに狙われる普通の人という図式であるが、戦場ともなれば以心伝心の如くお互いを援護し合い、獣魔の包囲をかみ破り続ける。






 朱絶佳とジャニーの二人は、先行する新志の後ろから森の奥を見る。
 悪意、敵意、害意、森の奥底から漏れるその邪念はかつて皇族として皇宮にあがった際に向けられた兄弟達とその取り巻きから発せられるもの。ある意味懐かしいとすら思える、玉座に群がる妖怪共の体臭であった。
 刹那――剣光が夜闇の中に煌く。

「どおおおぉぉぉぉぉぉ?!」

 それは森の奥底から投擲される剣。三メートルを超える長大な清龍刀が木々の隙間を縫って飛来し、戦堂新志の体を巻き込みそのまま吹き飛ばしたのである。……吹き飛ばした? 絶佳は剣に巻き込まれて木々の一つをへし折っていった新志の姿に思わず呆れたような声を漏らした。無理も無い。巨大な剣が凄まじい速度で射出されたのだ、巻き込まれた新志の肉体は胴体から引きちぎれて両断され、無残な屍をさらすのが余程自然だ。……だが鼻に付く鮮血の臭いも何も感じられない。なら、多分生きているはずだ、と絶佳は算段を付ける。

『なぜ……何故……何故だ』
「……出たな」

 絶佳は森の奥底から聞こえてくる不気味で奇怪な哄笑の音に不愉快そうに眉を潜めた。
 姿を現す相手……とりあえず、人型であることだけは伺えた。まるで全身の皮を剥いで筋肉をむき出しにしたような三メートル半を越す肉体。鮮血が通うピンク色ではなく、無機質な灰色であることだけが生理的な嫌悪感を少しだけ和らげてくれている。落ち窪んだ眼窩の奥には仄暗い妖火が点っていた。ほとんど骸骨と同様の頭部、そして両肩から生えているのは四本の腕。それぞれに三メートルを超える直剣を握り締めている。ただし一本は先ほど新志に投擲したのだろう。腕のひとつは空手だ。

『殺さねば、殺さねばならない。絶佳、お前を殺さねばならない、そうしなければ私は一生安心することが出来ない』

 絶佳は軽く目を細めた。将魔へと変貌した人間は時折本来持ちうる理性や判断力を著しく減退させる事があるという。まるで何かに脅えているような、焦躁に駆られているような、ある種の不安を抱えた言葉の響きだった。

「堕した代償かー……やだなー、なんか……あたしの似姿みたいだ」

 小さく息を吐く。最初の気持ちは帝位と権力を握って母を殺した相手を探し出して屈辱を与えて殺すこと。だが、そのため皇帝になるという目的を掲げていた絶佳は、今理性を失った眼前の怪物が自分自身に重なっているような感覚を覚え、不愉快そうに眉を寄せる。

「……そもそも、何故ユーは絶佳の事をそこまで排除しようとするデスか?」

 絶佳の横を固めながらジャニーは彼女の疑問を代弁してくれる。それは確かに朱絶佳にとっても確かな疑問。
 絶佳は皇族の血筋ではない。だが、それならば正々堂々その事実を公表すればいい。そうしなかったのは、相手にも何らかの弱みがあるか、証拠など最初から存在しない言いがかりに等しいものであったか。

『私は皇族ではない』

 告げられる言葉は意外なものだった。

『私は母が、他の男に産ませた子供であり帝位継承権を持たない。……だが、母は実際に皇族の血を引く息子を産めば、後は用済みと私を殺そうとした。……そして』

 その後何が起こったのかは、将魔へと変貌した姿を見ればわかる。

『私はお前を殺さなければならない。次期帝位など望んだことはただの一度もないが、お前は私を殺せる力を持っている。だから殺さなければならない』

 何たる奇しき縁か。
 絶佳は内心告白された真実の内容に、驚きを感じていた。この場にいる二人は共に皇族であると周囲から認められているが、実際はそうではないという。共に嘘偽り。公になれば処断は免れない立場。

「……じゃあ、あたしが実は皇族ではないという疑いが掛かっていたって話は?」
『お前を招き寄せるための方便。確かにそういう疑いがあったのは事実だが、それも確信に至るほどではない』

 将魔は蠢き始める。三本の腕に掴んだ剣。一撃に込められた膂力は未熟な技術を補って余りある。頭上から、右斜め上から、左斜め上から――それは斬撃による飽和攻撃だった。
 だが、その回避不可能の攻撃を、絶佳は構え――そして全周囲から迫る白刃を、両腕を円環となし、全てはじき返してみせる。鋼竜十八掌に置ける防御主体の構え、『千刃墜地』だ。

「……じゃあ、心置きなく、か」

 絶佳は呟く。返答を期待したわけではない質問だったが、その将魔は、骨と脳髄だけになった顎の骨をかちかちと鳴らした。

『おまえ自身に恨みはない、私は海辺に咲く草花のように、物置に入れられた時代遅れの玩具のように誰にも知られずひっそりと生きたかったのだ』
「……おーけー、やっぱり、あんたとあたしはちがう」

 絶佳は目を細めて低く構える。『千刃墜地』から攻撃を主体とした『捨身伏竜』へ。
 戦堂新志は言っていた。力には目的がいる、と。絶佳は皇帝になって、権力という力を得て、もし復讐を果たしたら、自分はどうするのだろうか、ということを今の今まで考えた事が無かった。皇帝は振るう権力は絶大だが双肩に掛かる重責がある。母の仇を討って……母の仇を討ったとしても絶佳の人生は続くのだ。物語のように、復讐を果たして全てが終わるわけではない。むしろ復讐を果たしてからの人生の方が長いに決まっている。

『違う? 何が?』
「……何で、逃げなかったんだ、兄上」
『何故』
「生きるだけが目的なら、皇族の位を捨てて、ただの人として生きる手段もあったはずデス。……ユーの発言は、疑問がありますデス」

 援護の反論は絶佳の後方から来た。

「生きたいだけなら、もっと迷惑のかからない手段があったって事さ……!!」

 瞬間、巨大な飛鉄塊が絶佳の頭上を通り、彼女の眼前に直立していた将魔の胸板に直撃――その灰色の筋肉を貫通し、切っ先が相手の背中から生えた。

『ひ? ひ、なんだ、なんだこれは?! 私の剣か?!』
「さっきの返礼だ。手放してしまえば、そりゃ投げ返されるな」

 声を返すものは、ただ一人しかいない。
 新志は刃を投擲した体勢でそこにいた。その体を将魔の剣によって吹き飛ばされ、その辺の木々にしたたかに背中を打ちつけられたはずであったが、もはやすでに己の両足で直立するほどに体力を回復させている。

『なぜ、なぜ生きている?! 確かにあたった手ごたえはあった。私の一撃を受けて……なぜだ?!』

 狼狽の声の中に明らかに新志を脅威と感じてか、驚きの色を含ませている。戦堂新志は己の胸元を誇示、服に大きな傷跡がある。紛れもなく先ほどの一撃で衣服に大穴が空いていた。……だが、飛来する巨剣が与えた被害は、ただのそれだけであった。まるで信じられないものを見るような目で絶佳とジャニーは新志を見る。彼女の扱う鋼竜十八掌は鋼気功にて全身を総鋼鉄化する武技。だからこそ、あれほどの大質量を跳ね返す硬さを実現することの難しさを知る。
 己の胸元を親指で示し、戦堂新志は答える。

「簡単じゃねぇか」

 まるで何でも無い事のように。

「……大胸筋がなければ、即死だった…………」
「あるよー!! 大胸筋は常にそこにあるよー!!」

 確かに……筋肉で刃を防いだのだろうが、それをさも当然の如く受け入れる事は普通不可能なのである。将魔もそう考えたのだろう、ふざけるな、ふざけるなと叫んで、己の肉体を刺し貫いた剣の柄を手の一本で掴んで、引き抜こうとする。……が、それを黙ってみているほど絶佳もジャニーもお人よしではない。

 地を蹴る。低く、弩を絞るように蓄積された筋力を一挙に開放。地を蹴る際に摩擦熱で地面が焦げる。爆発的な脚力で踏み込んだ。狙いは敵の肉体に突き刺さった剣の柄。相手の体に突き刺さったそれをさらに相手の肉体の奥に突き込むように拳を繰り出す。

『捨身伏竜』の構えからのみ繰り出す事ができる、速度と威力、その双方を兼ね備えた奥義のひとつ『射竜重迫突』――その一撃の重さは凄まじく将魔の腹を貫通し打ち貫いた。その体を刺しぬいた刃を通って、ジャニーの口蓋から吐き出される雷のブレスが全身に走る。

『ひひ、ひぃぃぃ! い、痛い、何故だ、何故痛い?! 私は人間を超えたはず、不死身の肉体を得たはず、それがどうしてこんなにも痛みを感じるのだ……!』

 激痛に悲鳴を上げる将魔。そのあまりの激痛に一本清龍刀を取り落とす。太刀とその性質は大きく異なりはするものの、同じ刀に類する武器。戦堂一倒流の術理でも扱うことは可能だ。一度二度振り下ろし、、新志は大太刀と異なる感覚をすり合わせる。

「……魔に対する特効的な攻撃手段は白兵、そのぐらいは覚えておけよ」
『ひ、黙れぇ!!』

 将魔の両腕の筋繊維がぶちぶちと血を流す。本来の筋力よりもより強い力を求めたがために、両腕の筋繊維が千切れるが、それを『将魔』の驚異的な生命力が千切れた端から再生させ復元させているのだ。将魔の両腕に携える清龍刀が旋回する。先ほどの比ではない速度、両側から迫る斬撃を、新志は正面から正々堂々、真っ向から受けて立つ。
 大きく息を吸い、吐き、敵から奪った剣を構え……彼は、凄まじい速度で両側から迫る斬撃を――ただ、単純明快に相手より二倍早く動く事で、正面からの力押しで撃破する。

『馬鹿な、馬鹿な……!!』
「四本腕に変化したにも関わらず、人が使うことを想定して設計された独膂刀法をそのまま用いれば齟齬が出るのも当然の理!!」

 馬鹿な、と言いたくなる気持ちも確かに理解できる――絶佳はその常識外れの筋力に顎が外れる思いだ。相手が一秒で一斬切り込むのならば、戦堂新志は0・5秒で一斬振っている計算。どこまでも力技。そして――すでに驚きっぱなしで絶佳は忘れかけていたが、新志は異性装無しで将魔が周囲に放出する呪詛毒に耐えていた。もう下手なことでは驚けない気持ちだ。

 だが、それゆえか、絶佳は自分が油断していたことを悟る。

 水晶がひび割れるような音と共に、新志が奪った剣に亀裂が入った。
 凄まじい速度で振るわれ、撃ち合わされる剣――使い手よりもまず獲物が根を上げたのだ。目の前には敵の二刀、これぞ天佑と将魔は嵩にかかって攻め立てる。それに耐え切れず、剣が水晶の砕ける音に似た破壊音を残し、半ばからへし折れる。新志は忌々しげに叫んだ。

「……っ、駄剣がっ!!」
『や、やった……グボゥ!!』

 恐らく剣がへし折れた事で勝機と踏んだのだろう。だが、自分を守る盾であり相手を攻める武器である剣がへし折れたにも関わらず新志の行動には微塵も遅滞が存在していなかった。刃を捨て、そのまま豪腕を相手の顔面に叩き込んだのだ。

『ば、馬鹿な、馬鹿な……!』
「剣が折れたから拳だ。……順番どおりじゃねぇか、何がおかしい?」

 戦堂新志はそのままただ硬いだけの拳骨を握り締めてとどめの一撃を放とうとする。だが、それを押し止めたのは朱絶佳。目で、なぜ止めると尋ねる新志に絶佳は口を開く。

「新志、ジャニー。……あたしがやる」

 哀切の響きと共に前に進み出る絶佳。目に灯る断固とした決意の光に二人は無言のまま手出しを控える。

『馬鹿め、馬鹿め! 何故一人で……!!』
「偽者とはいえ、兄弟だったからな!!」

 再び将魔の剣が旋回し振るわれる。乱舞する大剣の一撃で周囲の木々を巻き込みながら放たれるそれ――しかし、その一撃は、まるで風に揺れる柳のような振る舞いの朱絶佳の身体をとらえる事は無い。自重を打ち消し、素早く動くための軽身功――鋼竜十八掌の奥義『迷乱竜巻』だ。その自らの体の自重を極限までゼロに近づけるかのようにふるまう絶佳は――刃の隙を突き、跳躍。
 相手の髑髏じみた頭部に、木の葉のような軽やかな動作で着地した。とん、と掌を相手の額に押し当てる。

「……貴方はどうかは知らなかったけど……あたしはそんなに嫌いじゃなかったぜー」

 全身から放つ剄力を一点に集中。表面的破壊では無く、重大な内傷を負わせる鋼竜十八掌最大奥義『万竜砕震掌』。その一撃は頭部の頭蓋を粉砕。再生を許さない素手での攻撃によりもはや蘇ることもなくそのままゆっくりと崩れ落ちた。そのまま風に揺れる木の葉のように緩やかに着地する絶佳。

「よう、無事か、絶佳」
「お疲れ様デス」
「……いや、どっちかってーと、あんちゃんの方が元気な事の方が心配だけど。……体、どっかおかしくない?」

 いんや何も? と首を振る新志にますます絶佳は怪訝そうな表情を深める。何せ異性装せず将魔と戦ったにも関わらず平気の平左な表情に絶佳は真面目に考えるのがいささか馬鹿らしくなってしまう。何せ大戦初期の魔術師軍にとって一番の懸念であった『呪詛毒』を平気で乗り越えてしまっているのだから。
 新志は打ち倒された将魔を見て首を傾げる。

「二人から見てこいつは強かったか?」
「ノー。……格別に弱い、とまでは言いませんデスが」
「……元より、他と争う事を嫌っていらした。魔へと堕す際、力に一番影響を及ぼすのはその人の心のありようだからなー……」

 いろいろと、内心含むところもあるのだろう。両手を合わせて黙祷を捧げる絶佳。
 その様子を黙って見ていた新志の耳に、遠くから突如として凄まじい爆発音が飛び込んできた。遠方に見える火柱。鬱蒼とした木々の隙間からでもはっきりと確認できる大きさだ。

「爆発?! 何が……」
「……炎……それも普通の炎じゃないデス。……あの男が、誰かと!」

 言うまでもない。先ほど交戦したあの男と誰かが戦っている。それも、先ほどまでまったく用いなかった大火力が全開で用いられていた。あの怪物にそこまで本気を出させる事ができるのは、大戦時の英雄である早乙女のみ。
 ジャニーの言葉に二人は一も二もなく賛同。状況が動こうとしていることは間違いない。三人は矢のように駆けた。



[15960] 死番勝負――本番
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/03/04 14:58
 魔元帥。恐らくこの地球上における生態系の頂点。魔へと堕した人間がその力を貯え、上の階位へと上昇した姿。その戦闘力は通常の将魔とは比べ物にならず、かつての大戦の折には大勢の若き魔術師が命を散らした。本来ならば七体存在していた魔元帥は、かつての南極の決戦の時、スピードガールとその戦友達が共同して放った『氷結地獄の復活(コキュートス・リメイク)』を浴び、一網打尽にすることが出来た。

 踏み込んだ庭園の奥底、階段に腰掛けていた凶熱の魔人は亀裂のような笑顔を刻む。

 単騎で踏み込む早乙女の眼前にあるその相手は、かつての決戦ですら討ち取る事が叶わなかった難敵であるということ。珊瑚もアトリも将魔の始末に追われている。すぐにここには来ないはず。かつての仇敵を睨んだ。

「よぅ、久しぶりじゃねぇか」
「……貴様がこんなタイミングで来たのは、策謀転がしが趣味の魔元帥、『万剣の茨』の差し金か?」
「然りよ。華帝国側の罠にうかうかと乗って、大火に化ける前に行動してしまう輩どもを制肘のためにきた。ま、たまには同属同士、共食いも悪くねぇと思ったが、かかっ……予想外の大物たるお前に出くわしたのは幸運だったぜ」

 英雄スピードガールと、魔元帥『爛れる鋼鉄』のエルムゴート、共に――お互い幾度となく死闘を演じた経験故に、刹那の油断がそのまま死命を分けることをはっきりと理解していた。両者とも躊躇いは無い。最初から全力を発揮する。

「トップ・ギア!! スピードガール、マックスヒィィィィィト!!」
「地を払え、炎の大蛇!! 灰と屍と焼殺の残り香を添えて我が進む道を舗装すべし……」

 躊躇いなく、早乙女は己の身体能力増強系、最大出力を即座に開放。外見に似合わず鍛え込まれた肉体だが、それでもトップギアを用いれば一週間近くは断絶した筋肉の痛みで体が火照ってろくに眠れなくなるだろう。だが今は明日の事よりも闘って勝って生き残ることを考えなくてはならない。

「奔れ、地を這う爆炎(グランドナパーム)!!」

 魔元帥、エルムゴートが手を振りかざす。瞬間、彼の正面に立つ全てを飲み込み灰で舗装するかのように、炎が直進した。地と大気を舐めながら高熱と灼熱を撒き散らし一直線上に連鎖爆発が発生する。
 攻撃それ自体は単調。横へのわずかなステップ、必要最小限の回避で避け、矢のような勢いで反撃、突撃。地を蹴る――大地が摩擦熱で燃えた。
 スピードガールはその気になれば様々な属性の魔術を行使できる非常に高レベルな万能型だが、その中でももっとも好んでいたのは最初期から変わらず凄まじい速度を生かした猛攻だ。
 爪先から足へ、足から腰へ、腰から肩へ、肩から膝へ、膝から――拳へ、力を伝達する、見事なまでの関節の連動。
 魔力による馬鹿げた身体能力の強化、その強化された筋力を理想的な伝達で打撃として繰り出す――比喩表現抜きで音の壁を突き破り叩き付けられる軍神の豪腕。それを防御する不可視の力場、エルムゴートの肉体を鎧う防御障壁だ。
 それを、拳に込められた運動エネルギーで強引に貫通し、相手のガードの上から殴りつける。

「は、ははっ、相変わらず華奢な見てくれに騙されそうな拳じゃねぇか」
「……貴様は相変わらず、遊びが多いな、エルムゴート!!」

 至近距離は早乙女の独壇場とも言える。相手が呪文詠唱のために一言二言言葉を紡げば、早乙女は山ほど相手を殴る機会を得る。こういう場合、小柄な早乙女の拳は巨体の新志や魔元帥エルムゴートと違い、腕が短いため打撃の回転速度が上がる。そして早乙女のそれは既に連射という次元ではなく、まさしく拳の壁ともいうべき密度を誇っていた。

 衝撃音。まるで千億の像が一斉に地を踏み鳴らしたかのような音。インパクトの際の音がほぼ同じ瞬間に重なっているためにただ一つの音のように聞こえたのだ。拳の一撃一撃が獣魔を屠るに足る重さ。過剰殺戮を思わせる猛攻。
 だが、それでも殺れない。

「……早いが、軽いねぇ」

 拳の弾幕に全身を打たれながらも、巨躯の魔元帥は己の顎と腹に腕を絡ませ急所を防御。全身を鎧う魔力による防御障壁を逐次再形成しながら己の肉体の頑強さを以って未だ直立している。しかし英雄の拳が軽い訳がない。一撃一撃が、必殺のものだ。この場合、恐るべきなのは早乙女の豪腕の乱射を受けつつも意識を失わぬ魔元帥の強健さであった。
 エルムゴートの口蓋の奥、炎を呑んだような光量がせり上がり、口元の周りがあまりの高熱で歪んで見える。瞬間、口から膨大な量の灼熱が噴出された。

「……っ!!」

 早乙女の判断は早い。自分の得手の距離を捨て、圧倒的なアドバンテージである速度で後退、相手の炎から逃れる。だが、それこそが相手の狙いでもあった。

「神をも炙る炎の飛沫、飲み干し咀嚼し蹂躙すべし!! 焼けよ爛れよ紅蓮の波頭、怒涛にて焼き払え、波打つ岩漿(ボルケイノ・ウェイブ)!!」

 右腕を振り上げ、大地を殴打――地面が揺れ、撓む。まるで液状化した地面がエルムゴートに殴られた地面を基点に徐々に高波になっていくかのよう。そしてその高波は三メートルを上回る溶岩の波頭となって、エルムゴートを中心に溶かし、飲み干し、押し潰していく。

「くっ?!」

 早乙女は空中へと退避。幾度か相対した事はあったが、やはりこうしてみるとその破壊力は怖気立つほど凄まじい。早乙女の戦闘スタイルが速度を生かしたものならば、魔元帥エルムゴートのそれは圧倒的な面の制圧能力。相手に一ミリも回避スペースを与えず力で押し潰していくものだ。
 早乙女も、魔元帥を一撃で仕留める魔術をもっていない訳ではない。南極大陸に聳え立つ氷の雪華――極大魔術『氷結地獄の復活(コキュートスリメイク)』。
だが、あの一撃は周囲の環境すら激変させるほどの大威力であり、それに今現在連れている珊瑚達も巻き添えにする可能性だってあるのだ。
 その躊躇を見透かしたような攻撃が来る。

「我に数は意味を成さず、ただ雑兵無形を焼き払う!! 圧する灼熱は万の軍勢を押し返し、躯の山を築いて積む!! 圧殺せよ、蹂躙せよ、火炎球・乱数射撃(ファイアボール・ランダムシュート)!!」

 エルムゴートの頭上に形成される火球の群れ――十や、二十ではきかない。恐らく百に迫るほどの数、それら一つ一つが任意で炸裂し、熱波と衝撃波を撒き散らすのだ。相手が絶対に回避できないように繰り出される戮殺の嵐――己一人を殺すために放たれる偏狭質的重爆撃――早乙女は着地。溶岩に舐められた地面が高熱を発している。
 突進。地を衝撃波で削りながら相手に肉薄しようとする・だが、それを阻むように、加速する早乙女を追って火球が迫る。爆発、衝撃、一個の意思の元統率された攻撃は、火力の分厚さで接近を阻もうとするが、早乙女は急加速、急停止、高角度旋回、三次元機動を織り交ぜ前進しながら回避。相手の喉笛に喰らい付こうとする意思と、相手の必殺の意思を避ける回避動作を絡めた攻防一体の移動だ。魔力による防御障壁も使えないわけではない。だが魔元帥を倒そうとするならば、全ての力を攻撃に振り分けなければ到底覚束ないだろう。

(抜けた!!)

 弾幕をくぐりぬけると同時に全身に魔力を賦活。己の全身を一本の槍に見立てるような突撃――音速突破。
 繰り出された拳。エルムゴートの厳重な魔力障壁を突破し、相手の頭に突き刺さる。早乙女は踏み込んだ至近距離から再度相手の顔面に拳を連射しようとし――激痛と共に己の繰り出した腕が何かに捕まったことに気づいた。
 恐怖で泡立つ背筋――魔元帥の反撃の拳が、回避できない早乙女の腹を穿った。

「ぐはっ?!」

 ……咄嗟に身体強化と防御障壁を張り巡らせたが、それでも体格で早乙女を凌駕する魔元帥の豪腕を防ぐことはできない。臓腑を破られたかのような激痛が走る。何故捕まった? 脳内で乱舞する疑問。回答は眼前にあった。早乙女の拳を顔面に喰らったエルムゴートは、瞬時にその鮫じみた歯の揃う顎で早乙女の腕を噛んで動きを止めていたのだ。血が流れる。

「く、くく」

 微かな嘲笑。瞬間、拳が降り注ぐ。
 片腕を封じられ、体勢の崩れた早乙女は防御することもままならない。頭、顎、胸、腹、連拳が食い込む。激痛、苦痛、焦燥――わずかな動きの停滞で一気に危地に追い遣られる。

(相手の……基本的な生命力を甘く見たか?!)

 ほぼ全ての将魔、獣魔を一撃で屠る早乙女の拳。当たれば必殺という慢心が存在していたのか、そう考える彼の体を噛んだ顎で地に叩き付けるエルムゴート。そのまま腹を踏みつけ、動きを封じる。

「くく……情けねぇ。魅力が無くなったな、スピードガール!! ……魔術師軍で後進の指導などせず、己の力量のみ磨いていればこんな無様はさらさずに済んだものを……!!」

 言葉の中に含まれる明らかな苛立ち。かつて自分を苦戦させた強敵があっさりと危地に陥った事に本気で腹を立てているように叫びながらエルムゴートは右腕を掲げた。灼熱が右腕に絡みつくと同時に、指先が火竜の魔爪へと変化していた。
 そのまま踏みつけた早乙女に対し、鋭利な刀剣を束ねたが如き魔爪を振り下ろそうとした――だがその瞬間、彼方から延びた鎖鎌が絡みつく。怪訝そうな視線を相手に向けるエルムゴート。

「……無粋な真似を……!!」

 右腕を拘束された一瞬の隙を突き、早乙女は瞬時に相手の踏み付けから辛くも脱出した。舌打ちをもらすエルムゴート、その魔爪でもって切断する。

「…………すまない、正直助かった」
「構いません……アトリ、覚悟はいい?」
「……珊瑚君とならどこまでも」

 部下が勇敢なのもこういう場合は考え物だな、と早乙女は思う。珊瑚、アトリはその上官である早乙女の援護に来た。……もちろん、二人とも今自分がどういう相手と相対しているかぐらいは理解していた。魔元帥エルムゴートと言えば、かつての大戦の折、魔の側の最悪の敵、純粋な力だけなら三体の魔元帥の中でも最強と恐れられた敵。早乙女すら圧倒する戦闘力を考慮すれば、正直自分達が加わってどうこうできる次元ではない。

「……アトリ、あいつの溶岩を凍らせる事はできる?」
「正直な話、扱える力の桁が違う。摂氏千度を摂氏八百度にするぐらいで、結局致命傷には変わりない」
「早乙女さん、戦えますか?」
「……胸骨と肋骨が何本かへし折られたね……騙し騙しで一五分ってところか」

 だが――その目に戦慄と恐怖はあれども、絶望の色には染まりきっていない。

「……戦力差を理解しているが、まだ勝負を捨てていねぇ。強くなる奴の目だ……なぁ、おい」
「……なに?」

 背に忍刀を負い、答える珊瑚。

「気力も意思もある。……だが戦力が致命的に足りていねぇ。……見逃してやる。早乙女を置いて逃げろ」

 珊瑚達は沈黙する。それは相手の発言を聞いて受けるに足る内容か吟味しているのではなく、むしろ何を言っているのか理解できないからだった。珊瑚は口を開く。

「……なんで、そんな提案を? ボク達は魔術師軍だよ? 貴方たちの敵に、なぜ」
「貴様らが糞弱いからに決まっているじゃねぇか。……それとも、どう足掻こうがひっくり返せない戦力差が見抜けぬほどの節穴か?」

 一瞬、全員が全員呆然とした表情。次いで、最初に響いたもの。それは、くすくすと笑うアトリの声だった。

「ああ、なるほど……私は今……ようやく新志のあの時の気持ちが理解できたよ」

 こくりと頷き、同じ気持ちであると告げる珊瑚。今なら理解できる。自分達が人類との敵対者と戦う為に練り上げてきた力が侮辱された事による怒り。エルムゴートは不愉快そうに言う。

「雑魚をいくら踏み潰そうが腹の足しにもならねぇ。求めるのは強者のみだと言うのに、なんで死に急ぐ?」
「世の中、生き永らえる事より、手心を加えられることの方をこそ、死に勝る恥辱と考える人種もいる。ボクもそう在りたいだけだ」

 そうか、と答えるエルムゴート。返答はいっそ素っ気無いぐらいであり、口蓋から灼熱の塊を発射する。
 だが、割り込むようにその灼熱の塊を真っ向から打ち落とす炎。黄金に燃えて輝くその炎は魔元帥の一撃に命中し、そのまま炎を喰らうように飲み込み消える。それに続くように雷の槍がエルムゴートに突き刺さった。それは、間違いなく敵のエネルギーの総量に関係なく『狙ったものだけを焼却する、炎を燃やす炎』炎燃火(えんしょうか)と呼ばれる朱絶佳の魔術であった。

「やーごめん、やっとついたぜー」
「お待たせしましたデスね」

 いささか能天気にも思える返答。華帝国到着前に見せていた憂鬱の陰りはどこにもない。いつもの明朗な笑顔がそこにある。なら、彼女がそこにいると言うことは……。

 歩く。堂々と。戦堂新志は相手の意表をつく必要も無いと叫ぶようにまっすぐ堂々と魔元帥の下に歩み寄る。負傷した早乙女を見て相手が尋常ではないと確信を深めたのだろう。新志はただ前進する。エルムゴートも堂々と自分に向かってくる相手に楽しげに笑った。

「やはり、生きているな。しかし何故呪詛毒が通じん? ただの一般人が」
「……どうでもいいじゃねぇか、そんな事は」

 意表を突かれたようにエルムゴートは思わず目を剥き、次いで、それもそうだなと同意した。

「魔力は使えるか、貴様」
「殴る方が得意だ」

 なるほど、と笑う魔元帥の顔面に豪腕が炸裂した。
 戦堂一倒流剣士の拳は相手が並みの男ならば、それこそ気絶どころか絶命にすら届きかねない一撃だが……魔元帥のその首の太さ、タフネスは、反撃するだけの余力を与えている。戦いを始めた二人を見守る皆には、エルムゴートが魔術による物理障壁も身体強化も全てカットしている様子がはっきりと見えた。楽しんでいることがありありとわかる様子で、エルムゴートはげらげらと笑いながら拳を打ち込んだ。

「んぐっ……!!」

 顔面に飛来する拳、新志は驚愕と共に、反射的に自ら頭をまわして衝撃を受け流す。新志の拳が完全に決まって反撃された経験は一度も無かった。まともに決まればどんな相手も今まで一撃で打ち倒してきた新志にとって初めての経験。凄まじい戦慄と共に、強敵の存在に歓喜が湧き上がる。その光景を見て肝を冷やしたのだろう、アトリは持ってきていた大太刀を投げようとする。が、新志は片腕でそれを静止。

「今、太刀は無粋!」

 その反応に、さも愉快そうに笑うエルムゴート。

「ぐ、ぐははははははは!! 魔元帥を相手に非武装を貫くか、いいぞ小僧。そこまで気合いの入った男はここ数十年一度も出くわさなかった!」
「魔元帥だかなんだか知らんが――俺は拳で挑む相手に拳で答える以外の礼儀を知らん!」

 再度、剛腕が交錯。両雄の顔面にめり込んだ。


 
 戦友を助けるという行為は前線に置ける魔術師軍全員の第二の本能にまで高められた行動であり、当然珊瑚を始めとする全員が新志を助けるために飛び込もうとした。だが、早乙女はそれを止める。

「やめろ」
「……どうしてっ?! どいてください、早乙女さん!」

 睨みつける珊瑚の表情はこれまで仲間に見せてきたどの表情よりも激しい怒りを帯びている。だが対する早乙女の表情は酷薄とも言えるほど平静を保っていた。

「残念だがね……珊瑚、君達が例え全員で掛っても魔元帥を倒す事は不可能だよ」
「……そんな事はわかっているのだよ。だからと言って――手をこまねいてなど……」
「駄目デス」

 横から口を差し挟むアトリ。それをジャニーが制止する。
 この場において彼女ほどエルムゴートと戦いたいという激しい欲求を持つものはいない。だが、無理だ。彼女は復讐の熱に駆られるままに挑み、危うく命を失うほどにまで追い込まれた。……その事実が彼女をどこまでも冷静にさせる。
そう、命と引き換えにしてでも敵の顔面に痛撃を食らわせてやるという意思は今や静まった。火竜の遺骨を強奪されたことは無念であったが、しかしそれはあくまで過去の事。今ここにある命たちを彼女自身の無謀のために危険にするわけには行かない。その思いがジャニーを自分自身でも酷薄と感じるほど冷静な判断力を与える。

「憤りは分かりまス。……しかし、魔元帥を見てくださーイ。相手は遊んでいまス。何の魔術を用いずにただ純粋な殴り合いを楽しんでいル。……なら――ここは我々の中で最強である早乙女が回復するまでの時間を稼いでもらうのが……悔しいですガ、一番勝率の高い手でス」

 かちん、とジャニーの歯を噛む音が響いた。全員が全員、悔しいのは同じだったが、相手が魔力無しの純粋な殴り合いに興じているからこそ今の時間が稼げている。珊瑚は見守るしかできない自分を責めながら新志を見て、そこでようやく一つの事を思い出す。

「……新志、なんで平気でいられるの?」

 珊瑚は壮絶な殴り合いを開始する新志と魔元帥エルムゴートを見守りながら――結局、呪詛毒に対する対処を行っていないにもかかわらずに生きている彼に、唖然とした表情。

「ん、さっき、あんちゃんとあたしは、魔元帥に将魔と二回戦ったけど、全然『呪詛毒』が聞いていなかった」
「……結構。予想通りうまくいったみたいだな」
「早乙女氏、あなた、ある程度予見していたので?」

 絶佳の言葉に、ふ、と笑う早乙女。アトリが怪訝そうに口を挟む。

「以前のアトリとの試合で得たデータをもとに分析したんだよ。戦堂新志の魔術の特性は『力』。それも通常の魔力による身体能力強化では無く、むしろその膨大な魔力の出力は成長性へと割り振られていた。一度の敗北から、まるで復讐を誓うように爆発的な肉体の成長を引き起こす。彼が、魔元帥や将魔との戦いで呪詛毒を受けても平然と立っているのは、その恩恵だ」
「恩恵って、……どんなよー?」
「致命的な殺傷兵器である『呪詛毒』。けた外れに強力だが、あれも所詮本質はただの呪いでしかない。桁外れに強力な精神力があれば原理的に抵抗は可能だ。……彼のはそれだな。自分自身が克己の汗を流して得た肉体が、飽くなき鍛錬を経て得たこの四肢が、たかが目にも見えない、霊体汚染などという訳の分からない毒などで命を失うはずがないという――思い込み。
 自分自身の肉体に対する不死身の信仰心が、積み上げた鍛錬の歳月のみが可能とする自負心が、呪いすら捻じり伏せている。ブラシーボ効果、ここに極まれりだよ」
「そんな……そんな力技で凌駕できるものなのか?!」

 アトリの驚きの声に、早乙女は笑いながら頷く。

「我々は知識があるから、その知識ゆえ事実を理解できない。……彼は生きている。それが証拠だ」
「……理屈は、ワカリマシタです。……ですが、早乙女、ユーはわかっているハズですヨ?」

 だが、その説明を聞いてもなお不安そうな表情をジャニーは浮かべていた。まるでそこが完全な死地である事を知って行かせた非道な上官を責めるような眼で、ジャニーは早乙女を睨む。

「新志では……魔元帥に勝てない。ユーもそれを、その理由を理解しているはずデス」
「……そうだね」

 肯定の言葉に、珊瑚、アトリ、絶佳の表情が凍りつく。だが、絶体絶命を肯定しつつも早乙女の表情にはかすかに笑みが浮かんでいた。

(……そう、新志は負ける。……新志が魔元帥と互角に戦えているのは、純粋な戦闘狂である魔元帥が自らの能力をセーブし、身体能力のみで戦っているからだ。それでも、そこまでハンデを付けて貰っても新志は負ける。負ける理由がある。……しかし、そこからだ。エルムゴートは強い。恐らくこの場にいる全員で掛っても勝率は一割以下。将魔を狩っている貴下の魔術師軍全部隊を投入しても、奴が魔としての真の姿を現せばそれでも勝利できるか不明だ。……だが、新志の覚醒した魔術ならば、魔元帥すら一撃で倒すことができる……)

 早乙女の凄まじいところは本来偶発的な接触であるはずの魔元帥との戦いすら、瞬時に将来を見据えた策に組み込んでいるということであった。
 戦堂新志の秘められた魔術。それが開花すれば、以降『魔』との闘いに置いて切り札となり得る。そうでなければ、魔元帥との戦いを通じて新志の中の力に目覚めさせるため、戦闘不能のふりをして後ろに下がっているわけがない。珊瑚達が、新志がこの戦いを切り抜けることのみを願っているのに対し、早乙女はこの状況すら奇貨とし、将来の布石としている。
 もちろん新志の生命に危機が生ずれば、即座に早乙女は割って入る所存であったが、戦は水もの。もしかしたら間に合わず新志が殺される可能性もある。
 早乙女は、腹に巻いた自裁用の刃の存在を確かめる。
 既に彼は一軍の統率者として――自分の賭けで部下を見殺しにしてしまった時は、諸事を引き継いだ後に、介錯なしで割腹して果てるほどの覚悟を決めていた。




 巨躯の男二人――どちらも両腕の筋繊維の太さは常人の域を超えている。ARMと言う単語が、『腕』という意味に『武装』という意味も共に併せ持つ事を証明するかのように、両名、拳はすでに凶器の域。新志の拳がエルムゴートの顔面に突き刺されば、相手は拳に酔う事もなく、正確に新志の下腹を豪腕で打つ――臓腑を掻き回すような衝撃で、肺の中の息が吐き出される。どちらも尋常なタフネス、腕力では無かった。
 打ち込まれた拳はお互い、真綿に水を染み込ませるように、己の肉体を重く感じさせていく。それを、酸素を暴食し活力へと変換し痛みを騙し、筋繊維を総動員して腕力へと変える。
 エルムゴートは己の胸板を殴りつけた剛拳にたたらを踏みながら、さも楽しげに笑う。己自身も手痛い被害を受けているが、それすら愉悦と感じられるのか、目には明らかな喜色があった。

「はは、いいぞ、良いぞ貴様!!」

 踏み込みながらエルムゴートは右からの打ち下ろしの拳を放った。その大振りの一撃を受ける新志。……が、しっかりと受けたにも関わらず、相手の壮絶なパワーにガードがこじ開けられた。その隙間を縫うように、鍵爪のような構えの左腕が頭部を掴む。仰天したのはその次だ。類稀な長身に見合った百キロを超える新志の肉体を、片腕一本で持ち上げて見せたのだ。両足が大地を踏みしめぬ事に一瞬不安感を覚え――次の瞬間、背中から地面へと叩きつけられる。

「がはっ……!!」

 自らの腕力を誇示するような凄まじい力技。それでも意識を刈り取られる事は無い。叩き上げた四肢が衝撃を吸収してくれている。新志は即座に直立。間合いを開けながら距離を測る。
 腕力において自分と互角――いや、恐らくそれ以上の相手。

「……次はどうする?」

 相手の声に新志は笑いながら、両腕を誇示。組み合う事への誘い。明らかに――自分が不利な土俵であるにも関わらず、だ。エルムゴートも凶笑を浮かべながら、そうでなくてはな、と笑い、掌を組み合わせる。
 術理など入り込む余地のない、ただ純粋な力と力の鍔迫り合い。がっぷり両腕を組み合わせ、新志とエルムゴートは力と力のぶつけ合いを始める。がちん、と奥歯を噛みならし、爪先に力を込め肉体の筋力全てを総動員。手と手が絡む。拮抗する筋力、両名とも動きは静止だが、それはほぼ互角の力と力がぶつかり合い、一見して動いていないように見えるだけ。その実恐るべき戦いが始まっていた。それは、微かにでも繰り出す力が劣れば即座に地に組み伏せられてしまうような――静的な死闘の幕開けだった。



「勝てないって……どうしてなのだい? ジャニー」

 この場で最も戦堂新志の実力を肌で知るアトリには、その発言が俄かには信じられない。それがジャニーのみの発言なら、そんな訳はない、と笑って否定することも出来ただろうが、歴戦の勇者である早乙女の肯定もあるとなると無視する事など出来ない。ジャニーは真剣な表情で力をぶつけ合う新志を見る。

「新志は、強いデス。まさしく天から授けられたような剛力、膂力、そして膨大な量の筋肉を搭載可能な恵まれた骨格。……弓国人の平均身長を大きく上回る巨体。……それこそ、今まで自分に匹敵する巨体と戦った経験すら乏しいはずデス……」

 そこまで言われて、残る三人とも勝てない、と断言された根拠に思い至ったのだろう、全員が蒼白になる。

「……新志ハ、自分を上回る速度の持ち主と戦った経験があるデショウ。自分を上回る技量の持ち主と戦った経験もあるデショウ。……ですが、弓国人として類稀な体格は……新志に――自分を上回る巨躯の敵を与えなかったはずデス。
……現在まで信じ続ける事が出来た筋力を上回る筋力の持ち主。新志にとっては今まで自分にとって利点であった全てが、自分自身に跳ね返ってくるハズ……。あの魔元帥は、新志にとって、まったくの未知の相手なのデス」



[15960] 死番勝負――決着
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 19:36
 骨が軋む、筋肉が膨らむ、血流が沸騰する。
 膂力と膂力の鍔迫り合い――この上なく全力で力を振り絞っているにも関わらず、目の前の強敵、魔元帥は今もなお巨大な力の壁として新志の前に立ちはだかっている。ジャニーの発言を聞いていたわけではないが、新志は相手が自分を上回る力の持ち主であることをその手ごたえで理解していた。もちろん、彼の戦闘力は力が全てではないが、しかし大きな比重を占める要素であったことは間違いない。
 力と力では、新志は勝てない事を重々承知している。新志は速度でも技でも破れたことはあっても、力で敗れたことはなかった。
 ならば、本来なら、力で相手を圧倒してきた自分が、されて嫌な事がこの場合の対処法としてそのまま使える。今までの自分の戦歴の中で、もっとも苦戦した戦いこそが参考になる。

「……くく、腕四つ組み合って……俺とここまで張り合う奴がいるとはな……今日はいちいち驚く事ばかりだぜ」

 だが、それでも新志は本来ならば不利な土俵で相手と組み合っている。
 

 こだわっていた。


 真っ当に考えるならばここで力勝負は不利。速度か技術か、まともにぶつかり合わずに手段を変えるべきだ。それをしなかったのは、もし新志が戦術を変えてしまえば、目の前の男に一生適わぬような気が、目の前の男に敗北を宣言したような気がしたからだ。
 不利がどうした、体格の差がどうした――ここで真っ向から立ち向かわぬ事は、戦堂新志という男が、戦堂新志でなくなってしまうような、存在意義に関わる重大な問題に思えたのである。

 そう――相手が筋力で上回るなら……それを上回る筋力を腹のそこから絞りだすまで……!

 地を蹴り、踏みしめ、顎を噛み、僧房筋から肩へ、肩から腕へ腕力を伝える。かすかにだか、均衡が相手の方向へと揺らいだ。

「……俺に体格で劣り、筋力で劣り――何が……ここまでお前を駆り立てる?!」

 エルムゴートはじりじりと拮抗から自分の方へ押し込まれる両腕にかすかに目を細めて言う。
 新志は小さく笑うのみ。子供の頃から、ずっと剣を振ってさえいれば幸せになれると思っていた。だが、それはもう誤りであると知った。今新志に残されているのは誰かを守る為に練り上げた剣でしかない。それゆえに自分の背後、仲間達を守る事がもし出来なければ、それは子供の頃からずっと積み重ねてきた日々がまったくの無意味であるのだということになってしまう。それは死より耐え難い――そう考えていた新志の眼前でエルムゴートは大きく後ろへ頭を振りかぶる。
 次の瞬間、相手の頭突きが新志の額に叩き付けられた。脳天で火花が散るような衝撃、頭蓋にひびでも入ったのかと思うような激痛が走る。……事実、新志の額は割れ、鮮血が流れ始めている。だが、それでも新志は笑ってみせる――意地を張る。

「貴様……技に逃げたな?」
「見事な膂力だ、そんな脆弱な体格で、感心するぜ、小僧!」

 お互い両腕で力比べをしながらの戦い。それは両者とも回避する事も防御することも許されない――原始的なまでに野蛮な戦い。技巧が関与することを許されない、気力と体力の恐るべき削りあいだった。
 頭突きが衝突――新志も戦槌を振り下ろすように自分の頭を相手の頭蓋にぶつける。
 両雄、共に流血。額から鮮血を流しながらも、壮絶な脳天の衝突をやめようとはしない。格闘というよりはむしろ、水牛が角と角を角付き合わせる事に似た、己の頭蓋骨を武装とし、どちらがより色濃い雄であるのかを比べ合わせるような、野蛮でありながらも――遺伝子が記憶する、人が獣であった時代を想起させるような壮絶な死闘であった。
 流れ出る鮮血は額を濡らし目に入って視覚を阻む。頬を伝い流れる血は地に滴り落ち、大地を赤く濡らす。それは一時的とはいえ人間の力へと能力をセーブした魔元帥とて同様。真紅に染まる視覚野。だが、頭突きを放てば確実に直撃する逃げることを許されない死闘ゆえ命中率は変わりない。……それでも歴然と存在する、巨躯が生み出す体力の差と、肉体を支える気力が勝敗を決する。そう――エルムゴートが新志の体力と気力を凌駕した。

「……くっ?!」
「ここまでか……見事だったぜ!!」

 新志――とうとう意志の力でねじ伏せてきた疲労と激痛が堰を超え、決壊する。相手の膂力が新志の筋力を凌駕し、そのまま強引に上空へと投げ飛ばされた。かすかな失調感と共に――視界を巡らせれば、珊瑚達が驚きの表情でこちらを見ているのが伝わる。
 受身だ。思考よりも細胞が反応し、背中から地に墜落する衝撃を僅かながらも吸収。……だが地に打ち付けられた際の激痛が思考を許さない。疲労困憊の域にある肉体は衝撃を吸収することも無く、ダメージを四肢に分配する。
 額から流れる鮮血を拭う事も無く、エルムゴートは懐から葉巻を取り出し、火をつけて咥えた。……新志はそれで、相手がすでに尋常な殴り合いをするつもりが無い事を悟った。

「魔力らしい反応もなく、ただ筋力で人間を突破したこの俺にここまで食いつく、か。なぁ、おい」
「……あ?」
「貴様、将魔になる気はないか?」

 新志――眉を寄せ、不可解そうに相手を見る。

「だ、駄目! 新志、そんなの……絶対駄目!」

 後ろ側、後方で耳をそばだてていた珊瑚の悲鳴じみた声が聞こえてきた。だが、それに対して新志は珊瑚を手で静止する。

「どういう、事だ?」
「通常、将魔の能力とは、人間だった事の資質に大きく作用される事になる。肉体的に強力であれば俺のように身体能力的な物理力に特化するし、精神に強い情念、意思、妄執、それらを含んでいれば、一筋縄ではいかない特異な能力を獲得する事が多い。貴様は、ここで潰すには惜しい。……魔の軍門に下れ。そうすれば上手く行けば俺を上回る武力を得られるかも知れんぞ?」

 新志はぜぇ、はぁ、と荒々しく呼吸を繰り返す。一秒でも早くスタミナを回復させようと酸素を取り込み、喋るのも億劫そうにしながら答えた。

「……何故……敵に……塩を?」
「なに……俺を倒せるかも知れねぇ相手がいねぇと人生に張り合いがねぇんでな。……で? 返答は?」

 エルムゴートからすれば、新志が受けようと受けまいと構わないのだろう。煙草の煙を燻らせながら相手を見下ろしていた。まるで見下される事が気に入らんと言わんばかりに両足に力を込め、新志はよろめきながら立ち上がる。ぜぇ、はぁ、酸素を取り込む。酸素を取り込む。暴食する呼気でもって少しでも多く体力の回復を図るかのよう。新志は答える。

「……さっき絶佳に、偉そうな事を言っちまったんだよ。力だけじゃ、結局幸福にはなれねぇと。力だけってのは、淋しいぞって。……その舌が乾かんうちにもう力求めて主義変えるのも情けねぇし……れに、な」

 にやり、と新志は笑った。

「……自分の強さに絶対の自負を抱いている相手を、自分がこんな奴に負けるはずがないと俺を見下している奴を、負けるなど絶対にありえないと考えているような、てめぇみたいな奴の鼻っ柱をへし折る事が――大好きでな」

 エルムゴートは葉巻をぷっと吐き捨て、凶笑を浮かべる。それも予想の内だったのだろう。

「そうか、なら死ね」

 瞬間、土砂が爆発したかのような勢いで突進。先程までとは違う――強大な魔力による身体能力を併用した速度。それに対し、新志はすっと構える。荒々しい拳の一撃を必要最小限の動作で回避し――そのまま投げた。膂力ではない――相手の速度を利用した体術の一種だ。だがエルムゴートはその投げられた勢いも利用し、再び体勢を戻す。

「……はん。多弁を好む性格にも思えなかったが……ただ一撃を練る為の呼吸と休息を求めて言葉を重ねたか。……いいねぇ、絶体絶命の淵に立たされているにも関わらず、最後の一秒まで諦めぬ精神……だが、貴様が受けた体に受けた負傷はもはや気力でどうこうできる次元でない事も理解しているはずだ」

 再度、突撃する相手、今度は体重を乗せた殺しの一撃ではなく、手数と速度を乗せた牽制打。まるで鉛のように重くなった両腕を酷使し、体力を振り絞りながら払いのける。だが――そのうちの一つが新志の防御を掻い潜り迫る。その一撃は、新志の視界を阻むように広がり、次の瞬間にはその阻んだ視覚の隙を突いて、エルムゴートは新志の背後へと回りこんでいた。

 耳の裏を、殴り抜かれる。

「……っが!!」

 戦堂新志は自分の頭を打ち抜き、脳髄を酩酊させる一撃に――まるで両足の骨格全てが抜き取られたように膝を突いた。それでも、即座に体勢を立て直そうとする。脳髄の命令を待たず、肉体が戦闘態勢に即座に移行しようとする。
 口を開き、空気を取り込み、全身の細胞に酸素を行き渡らせる。肉体を賦活させ、気力を奮い起こし、起き上がろうとする。だが、まるで先ほどの一撃の衝撃が脳髄から脊椎を走り、両足に直立を命令しようとしても、まるで三半規管を狂わされたかのように起き上がれない。後頭部を軋ませる打撃の痛みが全身に絡みつく。

「……近代ボクシングにおける禁じ手の一つ、ラビットパンチだ。効くだろう?」
「へっ……」

 呼吸と鼓動に答えるように、全身に激痛が走る。
 腹腔に埋まった相手の拳が鍛えに鍛えた腹筋の装甲を貫き、臓腑に衝撃を浸透させている。今更打たれた肝臓が足に来た。両腕も疲労の極み。額からはだらだらと鮮血が滝のように流れていた。お互いに頭突きをぶつけ合い、額が切れて出血している。疲労物質は全身に飽和し、このうえない生命の危機に本能が即時撤退を推奨する。

 だが、逃げる事は許されなかった。

 早乙女はエルムゴートの豪腕を浴び、戦闘不能。珊瑚達は手出しできない。もし珊瑚達が自分らの魔術を用いれば、敵は躊躇う事無く珊瑚達を遥かに上回る超常の異能を行使するだろう。新志が戦えたのも、敵が『対等の条件で戦う』という戦闘狂なりの美学を持つがゆえだ。それゆえ、新志は敵と人類の敵対者である『魔』の中でも最悪の相手、魔元帥となんとか渡り合えている。相手が美学を放棄し、その悪夢じみた大火力を行使すれば、一瞬で新志達は消し炭にされているだろう。
 そして相手の目的が『遊び』ではなく、『抹殺』にシフトされれば――すなわち新志が気絶すればエルムゴートは遊びを放棄して全員を殺しにかかる。自分が戦えなくなれば即座に。

 新志は敵手の禁じ手によって震える体をなんとか動かし戦おうとするが、しかしエルムゴートは新志との戦いに興味を失ったのだろう。最早新志は死に体。そして彼は強敵を嬲り殺しにする悪趣味は持ち合わせていなかった。それでも魔爪の一撃を用いずに打撃で止めを刺そうとする姿勢は、彼が邪悪ではあるが、同時に戦士の栄誉を知るが故であろうか。

 飛来する拳大の弾丸、相手の打撃を両腕を持ちあげ受け止めようとする。

 だが、度重なる疲労がその防御の遅滞となって現れた。



「がっ……」


 勝敗は一撃で決した。 

 新志の顎先を打ち抜く拳は彼の脳髄に激しい振動を与え、肉体を統括する中枢神経を切断し意識を切り離す。
 如何なる鍛錬でも決して鍛え得ぬ顎先。どれほど努力しても防げぬ致命的な結果。神の設計の不備を突いた拳により、新志は崩れ落ちる。

 うそだろ、うそだろ、うそだろ……――?! 焦燥と恐怖が空白に染まる意識にかすかに刻まれるが、肉体と切り離された意志は空白へと飲み込まれる。
 完全なる気絶の一撃で新志の意識は断絶され――地面へとその五体は墜落しようとし――。





 そこで新志の意識が――――暗転する。









 ………………………
 …………………
 ……………
 ………
 …







『君のやる課題はこれだ』

 言葉が、響き渡る。
 恐らく自分よりずっと年上の男性が――戦堂一倒流に新たに入った少年に対して差し出したものは、子供が扱うものとしてはいささか大きすぎる木刀だった。こんなものを渡されてもどうすればいいのかわからない子供である新志は自分を指導する男性に困ったような視線を向ける。そんな反応も予想済みだったのだろう。

『この木刀を握り、一日五千回の素振りを行う。それが終われば道場を雑巾掛けする。それで君の一日の修行は終わり。いいね?』

 今この流派に入門してきたばかりの子供にとって、五千回という回数は最早未知の領域だ。本当にやり遂げる事が出来るのかな、とどうしても不安に思ってしまう。差し出される木刀の確かな質感と重さに、不安は倍増していく。
 そんな反応に指導者である人は微かに苦笑しながら新志の手をとり、木刀を握らせる。

『握りは、そう――そうだ。しっかり力を込めて滑り落ちないように。やってみるんだ』

 おどおどとしながらも――振り下ろせば、下半身がふらつく。勢いで木刀がすっぽ抜けそうになる。こんな具合で本当に五千回もの回数をこなすことが出来るのだろうか。少し泣きそうになる。

『……心配するな、最初は皆そんなところだ』

 新志の表情から不安を見て取ったのだろう。励ますようにその人は笑った。

『……今日出来なかった事は。明日できるかも知れない。明日できなかったことは、明後日できるかもしれない。積み重ねろ。十年後、泣いているか、笑っているか、決めるのは君自身だ。諦めず腐らず日々を重ねろ。今日のこの日が、君の出発点なのだ』


 
『……いいか? まずは、しっかりした太刀の握り方から……』
 











 エルムゴートは見事に決まった一撃で撃墜され、地に堕ちる強敵を見下ろし、小さく――囁くような声を聞いた。
 その瞬間己の腕に、思わぬ負荷を感じる。掴まれていた。

「……な、に?!」

 それは完全に予想外の事態だった。
 完璧と言っていい手ごたえと角度。確実に相手の意識を刈り取ったはずの男は――崩れ落ちる体を押し止めるための支えを、エルムゴートの服の袖に求めたのである。
 馬鹿な――エルムゴートはおろか、戦いを見守る者達ですら驚愕を覚える。新志は完全に気絶していた。無意識のうちに頭部をかばうことすらできないほどに。
『勝負あり』の気絶――新志は頭から墜落した。動けるわけがない。だが、新志は――腕一本だけとはいえ、無意識のまま幾万回繰り返した太刀を握る動作をなぞるように動いた。
 体力だろうが気力だろうが根性だろうが耐えられない、相手を戦闘不能に陥れる魔性の拳を受けながらも新志はなおも闘志を手放してはいない――それはまるで戦堂一倒流に属し、護国の剣士として剣の鍛錬に打ち込んだ日々が、流派の思想が、決して引けぬ最後の一線から後退せぬように、細胞一片一片にまで闘魂を注入したかのよう。

「……まずは太刀の握りから……!!」

 新志はその次の瞬間に気絶から回復した。そしてエルムゴートは、久しぶりに服の下で冷や汗を感じた。この距離は不味い。片腕は掴まれ脱出できないし、もう一方の拳は相手の突撃に間に合わない。次の瞬間に迫りくる痛みに耐えるために四肢を緊張させる。
 新志が状況を理解するより早く全身が勝手に動いた。意志の主導を待っていてはこの最大の凶敵に勝てぬと、本能が運動神経を司る小脳に、脊椎反射に肉体の全権を委任する。





 放つのは技。





 基礎の中の基礎。子供が同じく子供に対し戯れで放つようなそれ。
 そして使い手が超一流であれば相手に降参を強いることすら可能な基礎にして王道。

「決まった……デス……!!」

 ジャニーが手に汗を握りながら叫んだ。
 魔元帥の頭部に絡み付く恐怖の殺人万力、胡桃の殻を割るような致命的な破壊をもたらす――破壊的ヘッドロックが魔元帥の脳髄に噛み付いた。

「ぐ、ぐわああぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁ!!」

 噛み付いた――そう、まさしくその形容がふさわしい。新志のその頭蓋骨を砕く壮絶な圧殺攻撃に、エルムゴートが、あの化け物が激痛に堪え切れず悲鳴を上げている。魔元帥といえども変身をしていない今の状態は、人間離れした身体能力を持っているが、しかしそれでも新志の筋肉に板挟みにされれば相当のダメージを受けるだろう。
 だが――尋常な戦いをするつもりは、もう、無いのだろう。
 魔元帥の灼熱の異能が発現する。エルムゴートの肉体それ自体が灼熱の塊と変じたように、肌を焼くような高熱の熱波が吹き荒れ始めた。

「ッ……!!」

 肉が焼かれる音が、エルムゴートの頭蓋を破壊せんとする右腕から響いた。
 痛み――生きながら体を焼かれる激痛はこれまで受けてきた痛みとはまた別種のものだ。打撃の痛みは最初が一番痛いが、それ以降は痛みは少しずつ引いていく。だが、体を焼かれる痛みは延々と続く異種の痛みだ。
 だが、新志はここで決着をつけねば自分に二度と勝機が訪れない事を悟っていた。例え、新志はこの状態で、今だ自由なエルムゴートの両腕が魔爪に変じ、自分の腹腔を貫き腸を抉り出されようが相手の脳髄を破壊するまで締めあげる事を止めない覚悟でいた。

「ぐ、な、なぜ……ここまで……やれる……?!」
「ここで俺が敗れたら……お前はみんなを殺す……だが、お前は心底化け物だ……だから……」

 熱気が肺に満ちるのも構わず酸素を取り込み、新志は叫びながらさらに強烈に締める。

「俺は……俺自身の痛みに負けないぐらいしか……勝つ手が思いうかばな……がっ?!」

 だが、その瞬間、右腕を焼かれる激痛とは別種の激痛が新志のクラッチした腕に走る。

 その拘束が緩んだ一瞬――肉体の反射行動に付け込むようにエルムゴートは殺人ヘッドロックからあっけないほど簡単に脱出した。

「……て、めぇ」
「……認めるぜ、今本気で死を覚悟した。が……生憎とこういう小技も役にたつもんだろう?」

 激痛が鼓動のリズムを刻みながら新志の右腕に走る――有り得ない方向にねじ曲がり、間接を増やされたようにへし折れた小指を痛みが責め苛んだ。
 会話で相手の意識を引きつけながら新志のクラッチした右腕の小指を折り、予想外の激痛により、肉体が反射的に竦んでしまった。その隙に脱出。新志に匹敵、凌駕する馬鹿馬鹿しいほどの腕力に隠れた悪辣な小技にたまらず膝を付く。最後の好機と意気込んで仕掛けた技すら破られ、落胆が胸の中を覆いつつあった。

 総じて老獪、狡猾。純粋な物理的破壊力のみならず心理戦に小技まで使いこなす。力だけではない。本当に強い、本気の賞賛が浮かび上がる。

「……いやはや……本気で驚いている。人間を突破し、魔へと堕し怪物的な身体能力を会得したつもりだったが、これほどまでとは思っていなかったぜ? 誇るがいいよ、貴様は今までの戦いの中でも最高位の相手だ」

 周囲に視線をやれば、地を払う溶岩流の一撃で焼け爛れたアスファルト、まるで偏狭質的な爆撃を受けたかのようにクレーター痕が地に刻まれている。

「……俺も……俺を上回るパワーと出会ったのは……初めて、だった……よ」

 新志は起き上がろうとし……失敗する。後頭部と顎に受けた恐るべき剛拳は新志の肉体の主導権すら剥奪していた。エルムゴートは悠々と再び新しい葉巻を咥える。
 あと、十数秒。それだけ時間を拾うことが出来れば、新志は肉体の制御を奪回する。舌で舐めて奥歯が残っているかどうか確かめる。歯があるかないかでは衝撃に対する耐久度が大幅に変わるからだ。鼻にも血は詰まっていない。呼吸をすることに支障は無い。酸素を暴食できるかどうかは運動全般に関わる事だ。肉体はぼろぼろだったが、闘志はまだ尽きてはいない。剣折れ槍砕け拳割れようとも顎で喰らい付くが如き闘志を自由にならぬ肉体に込める。

「……だが――流石にもう起き上がれまいよ。殴り合いの愛おしい時間は既に終わった。善戦だったぜ、小僧。せめて敬意を込めて最大級の火力で屠り去ってやる」

 エルムゴートが動き、大きく距離を開けた。腕を掲げる。その掌に凝縮されるのは巨大な溶岩塊だ。超高熱と大質量。どうやっても食い止める事は適わぬ凄まじいパワー。
 間に合わない。例え肉体の制御を取り返したところで、あの溶岩の爆発からは逃れられない。もしかしたら、自分ひとりぐらいは生き延びられるかもしれないが、そんな情けないことでどうする。
 思い起こす。剣を振ることで幸せを掴む事は出来なかった。なら自分が積み重ねてきた武は何かから誰かを防衛する力しか、意味が残っていない。剣では幸せになれなかった。それならここで珊瑚らを守れないということは、新志の今までの人生全てを否定されることに等しい。
 幾千回、幾万回、鍛錬を続けた。あの一番最初に教えられたとき、十年後、泣いていないために。十年後。笑っているために積み重ねた年月が無駄になってしまう。

(……俺が、生まれて初めて木刀を握ったあの日から……どこまで来た? どこまで来ることができた?)

 両足に力を込める。いつも寝床から起き上がる時の当たり前の動作で敵と相対する。両足が笑っていたし、脳髄は震えたまま。平行すら保てず、揺らぐ体を気力で補正する。敵のかすかに驚いたような表情。だが、すぐに冷静さを取り戻す。まるで貴下の万軍に号令するように手を振り下ろした。
 迫る溶岩の火球。直撃すれば後ろの皆を巻き込み――骨も残さず灼熱に飲み込まれて燃え尽きる。
 こちらへと直進する死。ああ、どうして俺はこんなところで戦っているのだろうか。ほんの数十日だった、ひどく遠く思える平和な日々を、剣を極めれば幸福になれると信じていた戦堂の家での日々を思いながら新志は過去を思う。だが、そんな本人の意思を超えて、細胞が、肉体が――ただ丹念に鍛え上げた筋肉が、今が、自己の危機であることを知る。
 肉体のうちに厳重に管理されたその力は、脳髄に宿る精神すらも触れえぬ超弩級の絶対的破壊力であった。そして――今その枷を外さなければ、自らの存在すら焼却されることを細胞が、本能が理解した。力を縛る鎖が千切れる。


 がしゃこん、と、新志は自分の両腕に砲弾が装填された音を確かに聞いた。


 今まで本能のまま使用していた身体能力の成長性という魔力。
 その魔力を操るためのデバイスに――新たな機能がインストールされていくような感覚。視覚が広がり、聴覚が鋭敏に。口内の鮮血の味がはっきりと分かるような、感覚が洗練され研ぎ澄まされるよう。
 新志は、自分の意思から離れたように、前へと差し向けられる己の掌を、不思議そうに見る。溶岩で形成された焦滅の塊をまるでただの掌で受け止めるかのような姿――過去を思い起こしながら――小さな声で、謡うように呟いた。





 戦堂新志は――魔術の詠唱を開始する。




 それは力だ。
 純粋で圧倒的で暴力的で濃密な――強大なパワー。
 右腕を差し出す――その掌に大砲が――いや、もっと恐るべき超兵器が内蔵されているようにその先端を指向する。


 迫る熔岩塊――あらゆる抵抗を食い破り、押し潰し、焼き尽くす圧倒的な一撃。だが――不思議とその右腕に蓄積された力は、魔元帥の一撃すら確実に打ち砕けるという、本人にも何故なのか理解できぬ、奇妙な確信を抱かせていた。

「……握り……潰す」

 すぅ、と――囁き、戦堂新志は――力を解き放った。




 潰れる。潰れる。潰れる。潰れる。潰れる。潰れる。潰れる。潰れる。潰れる。潰れる。




 それは――その半径に巻き込まれた物全てを例外なく圧縮する、滅びの同円心だった。
 新志を、珊瑚達を焼き尽くしてなお余りある熔岩の一撃が消滅する。
 大地が、地面が――真球の形に大きく抉り抜かれる。
 振り下ろした魔元帥エルムゴートの右腕が、不可視の魔刃に腕を切断されたかのように、失われている。彼の体内を流れる熔岩の鮮血が傷口から溢れた。そのあまりの傷口の鋭利さに――腕を失った激痛すら感じられないのか、不可解そうにエルムゴートは首を傾げる。口にくわえた葉巻が眼前で荒れ狂った強大な力に先端を切断されていた。
 その滅びの同円心の中心に位置する――豆粒のような黒点。
 それは光では見ることのできない物体、周囲に輝きが満ちているからこそ、その球体の存在を確認できる究極の漆黒、超重の黒体。本来ならば星辰の彼方でのみ確認される理論存在。星を呑む底無し穴。光すら脱出不可能のシュヴァルツシルト半径、超重力の渦に引きずり込むが故に、何もかも抵抗を許さず、全て消滅させる必滅の一撃。その黒点は――まるでその存在自体が夢うつつのものであるのだと言うように消え去る。だが、決して消えぬ超重力圧縮の傷跡が――新志の魔術が発動したのだという明確な証拠を残した。

 早乙女は、顔を抑え、たまらん、と呟き、げらげらと狂人の如き禍々しさで笑いながら叫んだ。彼は、自分と部下達の生命を掛け金にした博打に勝利したのだ。

「は、ハハ――はははははははは!! ……凄い、見事だ! 
物理障壁だろうがなんだろうがお構いなしに破壊する――究極無比の一撃、魔元帥すら即死させる必殺の魔術! ははは! ……完成した、完成したか!! 筋肉の力で強引に超重力崩壊を引き起こし――擬似縮退を出現させる戦堂新志の魔術――超重力握殺(ブラックホール・スクウィーズ)が!!」





「ぐ、がああああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!」
「新志……新志!」

 笑い声を張り上げる早乙女を無視し、新志の今まで聞いた事の無いような激痛に耐えかねる悲鳴に珊瑚は思わず駆け寄った。

「……ぐ、くく……今の一撃――恐らく、反動だな……。右腕の筋肉が全部断絶しやがったか」
「そんな……?!」

 珊瑚は愕然とした声を上げた。激痛に耐える新志のその右腕。あちこちで内出血している。……だが、ここまで酷い反動を要する魔術など前代未聞だ。新志はもはや右腕は動かんと切り捨て、まだくすくすと笑う早乙女を睨む。

「……あんた、知っていたな?」
「ああ。多分そうなるという程度には。まぁ、これで君も晴れて魔術師として覚醒した訳だ」
「威力は絶大だが……反動がでか過ぎて、一発撃つごとで片腕がイカれる馬鹿みてぇな魔術だけどな。後でごめんの一言が欲しいぜ、たく」
「では、誠意を見せるため、後で僕のスカートの下(の股間の野獣)を見る許可を与えよう」
「……それはっ! ……わ、分かった、あんたの誠意は受け取った。謝罪を受け入れよう」

 顔を赤らめて俯き頷く新志。受け入れんなよ、と珊瑚を始めとする男装美少女達の視線が絶対零度に冷え切っていたが、本人は気付かなかった。新志は激痛に顔を顰めながらもかなり頭の悪い返答。そして己の右腕から流れる熔岩の鮮血に、凶笑を浮かべるエルムゴートを見た。

「はは、痛てぇ、痛てぇぞ畜生がああぁぁぁぁぁぁぁああ!! これほど血を流したのも、久方ぶりだ! ……やはり戦いって奴はこうでなくちゃあなぁ! 俺を一撃で殺す可能性を持った魔術師……目に狂いは無かった、緊張感のある人生は大好きだねぇ!!」

 片腕を失い、今エルムゴートは壮絶な激痛にさいなまれているはずだ。だが、流血しながらもその旺盛な闘志は衰える事を知らず尚も膨れ上がっていくよう。同時に切断された腕から灼熱が噴火した。血の代わりに魔元帥の体内を流れる溶岩が内なる力に押し出され何か明確な形へと変貌を開始する。



 炎の嵐が吹き上がり、巨大化する。それは瞬く間に山野を覆いつくすような大火となり、赤塗りの屋敷を飲み込み木々へと飛び火する。野鳥が飛び立ち獣が逃げ惑い、灼熱の爆心地から少しでも離れようとする。



 声が響いた。



「戦堂新志!! この勝負は貴様の勝ちだ……! それゆえに……貴様を俺の敵と認めよう……ここから先は……手抜き無シダゼ!!」
「っ!! みんな、ここから離れろ、奴が『変身』するぞ……!!」



 早乙女の言葉に弾かれるように全員どんどん膨れ上がる灼熱の渦から逃げようと走り出した。
 右腕を激痛にさいなまれながらも振り向いた新志は炎の渦の中から顕現するそれを見た。

 徐々に上へとせり上がる溶岩は徐々に頭部らしき形へと変形――鍛造された鋼鉄の盾を並べ立てたが如き鱗、刀剣を連ねたような牙、口蓋から漏れる灼熱、憤怒と憎悪を両眼に宿し――炎の渦の中から過去と幻想、伝承を住処とするはずの竜の頭部が姿を表した。その竜頭の口蓋が喜悦に歪む。流れる血があるのなら、自分のものでも、他人のものでも、どちらでも一向に構わないと笑うかのようだった。


 四足歩行の巨大な蜥蜴――その牙爪の先端は焼きごてのように赤熱し、地を踏めば地面を焦がす。背には灼熱で形成された巨大な翼を羽ばたかせ、腰から伸びる長大な尾は強大な鈍器としての威圧を放っていた。
 両肩、両足には漏斗状の機関があり、そこからは時折炎が吹き上がっている。だが、その右腕は人の姿を取っていた時の負傷を引きずっているのだろう、先端から肩の付け根近くまで完全に抉り取られており、傷口からは溶岩の鮮血が滴り落ちて地を焦がしていた。

 早乙女が引きつったように笑う。


「……さぁみんな、覚悟を決めろよ……!!」

 頭部から尾まで、推定全長五十メートル。頭部の高さは二十メートルぐらいだろうか。
 恐らくそれが――アメリア精霊合唱国に存在し、アーメスタの侵攻を食い止めたとされる竜王の姿。その遺骨を食らうことで手に入れた力と姿なのだろう。禍々しいまでの威圧、相手の頭を掴んで無理やり地に押し付けて平伏させるような暴悪なる力の顕現。

 魔としての真の力を振るうための姿へと変身し、魔元帥エルムゴートは嘲笑に似た咆哮を上げる。

『死力ヲ尽クセ、闘志ヲ燃ヤセ、全力デ戦エ……!! ソウスリャ即死ノミハ免レルカモ知レンナァ、オワハハハハハハハハハハハハハハハハ……!!』
「……本番だ! 『本気の』魔元帥エルムゴートを倒すぞ……!」


 早乙女のその言葉に――全員が、引き攣った笑みと共に頷いた。



[15960] 死番勝負――ドラゴン
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 16:14
 その戦いは、その異常は――恐らく華帝国の正規軍にも伝達が伝わっていたのだろう。先の時点で火球やら溶岩やらが吹き荒れ、森のいくつかに飛び火すれば目立ちもする。

 そして、早乙女もこういった最悪の事態にある程度の備えはしていた。華帝国正規軍の対地攻撃部隊に、異常を発見しだい対艦ミサイルで武装した戦闘機のスクランブル発進を要請していたのである。

『ナタ1より各機へ。……攻撃目標のサイズは確かか?』
『大きい……この距離でもあれだけ大きく見えるのか……』 

 夜闇を飛翔する四機。横一列編隊(アブレスト)で飛行する黒く塗装された重攻撃機部隊はその優れた武装積載量に搭載可能限界まで長距離対艦ミサイルを搭載している。それこそ戦争の際にでも用いられれば相当の被害を与える事が可能であり、それを運用する彼らも水準以上の技量を有していた。

『管制よりナタ隊各機へ。魔元帥の呪詛毒効果範囲は距離千。接近は厳禁。その内に入った瞬間呪詛毒にて即死させられます、留意してください』
『ナタ1より了解。……聞いたな、野郎ども。魔元帥だかなんだか知らんが、俺たちの仕事はいつもと同じ。腹に抱えたこいつらをぶちまけてやることだ』

 各員の復唱を聞きながら隊長は全機を先導する位置に移動。前方の巨大な怪物を睨んだ。

『全武装使用制限解除(オールウェポンズフリー)』

 全武装に架せられた電子の戒めを解く。武装選択スイッチを操作し、全機全てが腹に抱えた対艦ミサイルの攻撃準備に入った。

 HUD(ヘッドアップディスプレイ)に敵を捕らえる。ロックオンマーカーがGT(グランドターゲット)ヘキサで補足されたドラゴンに照準を固定――攻撃可能を示す電子音(オーラルトーン)が鳴り響いた。トリガーを引く。
 機体下部からパイロンより切り離されたミサイルはロケットモーター点火。凄まじい速度で空中を駆ける。
 それに続くように後続の機体も次々とミサイルを射出。膨大なミサイルの数による飽和攻撃(サチュレーションアタック)。全機、攻撃の結果を確認せずに反撃に備え、即座に回避機動へと移った。




「撃った……!」

 アトリが頭上を飛び越える軌道で発射されたミサイルに対して思わず叫ぶ。
 白い雲を引きながら飛翔するミサイルは美しい。それは狙いを過たずにドラゴンへと変身した魔元帥へと直進する。
 だが――その巨体でも百殺すると思えるほど膨大な数のミサイルに対して魔元帥は残った左腕を掲げ、地を踏み鳴らした。同時に魔元帥をミサイル攻撃から守るように地面が膨れ上がり溶岩の高波となって盾と変じる。
 直撃すれば戦艦でも撃沈する対艦ミサイルも分厚く粘ついた溶岩の障壁を貫通する事は出来なかったのだろう。いくつも爆発四散する。しかし、その爆発で切り開かれた爆炎の花道を通ってミサイルが直撃する。

「よし!」

 思わず歓声を上げる新志。
 着弾したミサイルの一撃は魔元帥の装甲じみた竜鱗を吹き飛ばし肉を抉る。
どてっぱらに大穴が開いた。いくら相手が人外の怪物と言えども腹に穴が開けば無事では済むまい。
 そう考えた新志であったが、自分以外の全員が難しい顔をしたままでいるのを見て、いやな予感を覚えながら再び魔元帥を見る。
 

 腹に開いた大穴は、目を離した一瞬で再生し、ほとんど塞がりかけていた。

「なっ……」
「新志、忘れていたでしょ。……獣魔は通常兵器に対するダメージなら強力な再生能力を発揮する事が出来るって」
「……ましてや相手は魔元帥なのだよ。通常兵器のダメージを受けた際の再生パワーは瞬時に復元するレベルだ」

 珊瑚とアトリの言葉に新志は確かにそうだったが、と喘ぐように呟いた。
 なるほど、これはひどい――新志は科学技術の結晶、強力なミサイル兵器の直撃を受けながら何事もなかったかのように完全な再生を遂げた相手を見て呟いた。

「……通常兵器では倒せねぇのか、あれは」
「んー、通常兵器でもっとも強力なのは燃料気化爆弾だけども、あの魔元帥は炎と熱に対して不死身みたいな耐性があるからなー」
「熱核兵器ならもしかして効くかもしれませんデスが、しかし細胞の一辺でも残っていたら瞬時に再生デス。ぺんぺん草一つ生えないほど国土を蝕んだにも関わらず相手は健在……なんて事になったら笑えませーン。試す訳にも行きませんデスし」

 そりゃそうだ、と新志は呆れたように笑った。

「結局――彼ら空軍は、言っては悪いが数十秒を稼ぐために呼んだものだ。だが、こう見えて状況はまだマシなんだよ?」
「あの怪物でまだマシ……」

 呆れた様な新志の言葉に、早乙女はかすかに笑って答える。

「本来の奴はあの火力、防御力に加え、マッハ一・五での高機動能力と、ヘリ並みの小回りを持っていた。あの漏斗状の機関は高機動用の大推力スラスターだ。……だが、右腕を失った時点で重心バランスは大いに崩れている。奴のスピードは君が知らぬうちに封じているのさ。後は爆撃編隊並みの攻撃力と要塞並みの防御力が相手だ。なかなか信じられないほど好条件なんだよ?」
「火力と防御力でも十分脅威っぽいけどな」
「だが、我々は新志、君という相手の防御力などお構い無しに握りつぶす大砲を備えている……よし」

 先ほどエルムゴートに受けたダメージが回復したのか、早乙女は腕をぐるぐると回して自分の体が戦闘に耐えられる事を確認した。
 そして、ドラゴンへと変身した仇敵へと視線を向けようとした――ところで、再び攻撃軌道に乗った戦闘機に思わず、といった感じで罵声を張り上げた。

「っの馬鹿が! 無茶だ、下がれ!!」

 例え彼らが戦闘機乗りの中で一流に類する技量の持ち主だったとしても、『魔』と対する経験は恐らくほとんど存在せず、あれほど打ち込んでも倒せなかったという事実が相当腹立たしかったのか、残ったミサイルを撃ち込まんとしているのだろう。その展開の速度、呼吸、彼らが高度な訓練を積み、一流となったエリートであることは間違いない。

 だが、それでも引くべきだったのだ。

 魔元帥はその牙の居並ぶ口蓋を九十度近くまで広げる。同時に胸元が膨らんだ。それを見て舌打ちを漏らすのは早乙女。叫んだ。

「皆、伏せろ! 爆風の咆哮(ダイナマイトハウル)』だ!!」
 
 ――ごわああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!――

 即座に地面へと倒れこんだ全員――その頭上を熱気を帯びた凄まじい衝撃波が薙ぎ払っていく。
 咆哮に伴う突風。それだけでなく――その叫び声に含まれる声は、まるで人間が肉食獣を恐れていた時代、未だ捕食される側であった頃の記憶を遺伝子からむりやり引きずり出すような絶対的捕食者の咆哮だった。理性では御しきれぬ生物としての本能が全員にここから逃げ出せと警告し続ける。

 だが、地面に足をつけていた新志達はまだ幸運だった。

 攻撃態勢に入っていた戦闘機はその腹部に抱え込んだミサイルを発射する前に、咆哮によって発生したランダムな大気の流れにより機体の制御を失い、そのまま地上へと墜落。もしくはその魂魄を破壊するような恐怖をもたらす咆哮によって気絶したパイロットは、そのまま地面へと衝突した。
全滅――ただの一声で、華帝国の対地攻撃部隊は壊滅させられてしまったのである。
 珊瑚は――炎の塊となった戦闘機の残骸に哀悼を向けると、恐怖を振り払うように叫んだ。

「新志、ブラックホール砲撃の射程は?!」
「さっきの一発で魔力の七割を持って行かれた。砲身になる左腕も一発しか持たない。効果範囲は左腕から七メートルを中心に直径五メートルを握りつぶすしかできない。……急所は?」
「うん、あの竜頭になる!」

 珊瑚の言葉に、そうか、と頷く新志。ごく自然と自分が扱える魔術の効果範囲を言葉にした己が信じられない。
 なるほど、魔術師として覚醒するとはこういう事か、と素直な驚きを胸にし――敵を睨み付けた。

「早乙女さん、新志を魔元帥の懐に送り込む。手伝って!」
「小隊指揮官としてはだいぶ鈍っているからね。君に任せるよ、了解」
「それから新志へのパ、パンチラは厳禁!」
「従おう」

 即座に不満そうな声を上げる新志を、珊瑚は睨み付ける。俺怪我人なのに、という呟きは無視。新志は自分がトラウマになりかねない恐るべき光景から庇われているなど知る由も無かった。


 地響きが起こる。目障りな蝿を叩き落し、魔元帥が三本の足でゆっくりではあるが、こちらへと前進を始めていた。

「寸劇ハ終ワッタカ貴様ラ。……フザケルンジャネェェェェェェェ!!」

 魔元帥エルムゴートは咆哮と共に、竜の頭が口蓋から灼熱を漏らし、何かを吐きかけようとする動作を見せる。
 新志、そして彼を守る珊瑚――二人は一斉に走り出した。
 この最後の勝負――エルムゴートの懐に新志が飛び込めば、残り左腕に装填されたブラックホール砲撃が勝負を付ける。逆に言えば、もし外してしまえば基本的な実力で全員を上回る真の力の発揮を始めた魔元帥エルムゴートに対し珊瑚達に勝ち目は無い。これはそういう綱渡りじみた戦いだ。
 邪竜の姿へと変貌した魔元帥の口蓋が開く。牙の隙間から洩れ、吐き出されるもの。膨大な量の熔岩をぶつけるマグマブレス攻撃。如何なる鋼板も溶解、破壊する超高熱の質量の一撃だ。
 珊瑚は戦友を信頼する。

「早乙女さん!」
「任された!!」

 珊瑚の言葉に矢のような速度で音速を突破し突撃。衝撃波で大気を震わせ、早乙女はその今にも熔岩を吐きかけそうな竜の顎を下から殴り上げ、致命的な熔岩のブレスの射線軸を強引にずらした。
 あさっての方向へと吹き飛ぶ熔岩流が、地を舐め、木々を焼き尽くす、凄まじい光景が後ろに広がる。だが、顔面に集る蝿を払うように――魔元帥は口蓋より再び短く咆哮、その爆風に似た衝撃で早乙女は吹き飛ばされていく。

 新志と珊瑚は早乙女の作ったその隙間から相手に接近する。だが、それでもブレスから外れた熔岩の飛沫が新志と珊瑚の頭上へと降り注いだ。しかし――二人は足を止めない。
 珊瑚は戦友を信頼する。

「アトリ!!」
「ブレス自体は防げずとも、飛沫程度なら凍らせられる!!」

 アトリの刺突剣から繰り出される氷結の旋風は熔岩の飛沫を凍てつかせ、唯の石の塊へと変えていく。運動エネルギーを凍結された飛沫は、地球重力に引かれ正しく地に落ちていく。
 その飛礫の中をまったく速度を落とさず突っ走る新志と珊瑚。
 だが、それと同時に刀剣の域にまで達した、触れ得る全てを惨殺するが如き威嚇的形状の鱗――それに覆われた巨大な竜尾から散弾じみた勢いで鱗が刃の雨の如く一斉に射出された。
 珊瑚は戦友を信頼する。

「ジャニー!」
「二人が抜ける隙間ぐらい、押し通しマース!」

 ジャニー、祖竜の加護による膂力と、獣の反射神経の鋭さで降り注ぐ刃の如き鱗の散弾を逸らし跳ね返す。
 接近を許すまいとエルムゴートの頭上で瞬時に三百に迫る数の火球が形成される。早乙女との戦いでの遊びなど微塵も無い。明確な殺意を持って戦堂新志目掛け、火球が一斉に射出される。

「絶佳!」
「あいよ任されたぜー!!」

 絶佳の手から広がる黄金の炎が膨大な灼熱の雨を吸収し、その膨大なエネルギーを吸収した己の炎をそのまま目くらましとして叩き込んだ。
 だが、自分自身の強大な熱エネルギーにも何の痛痒も感じた様子も見せずに――切断された右腕の傷口を新志に向けた。溶岩の鮮血を吹き上げようとするのだろう。
 珊瑚は己自身の力量を信頼する。

「忍法、影分身の術!!」

 跳躍。同時に空中へと十八体もの数に己の姿を増やした珊瑚――その数の多さに幻惑される魔元帥。
 それによって稼いだ一瞬で、新志は魔元帥をその射程内におさめる事ができる。
 珊瑚は、自分の役目が終わった事を確信し……しかし、変貌した魔元帥の眼差しが数多の分身の中から実体を見抜くように珊瑚を睨み、竜尾が自分を抹殺しようと動いている事に気づいた。敵の尾の太さは一抱え以上もあり、そして表面は刃のように鋭い鱗で覆われている。桁外れの大質量たる竜尾の一撃。珊瑚は、このタイミングでは己がもはや如何なる回避手段をも持ち合わせていない事に気づいた。戦友の誰も珊瑚を救う事ができないことに気づいた。

 エルムゴートの凶笑。ここに来て、魔元帥は恐るべき冷静さを発揮している。このタイミング、珊瑚を救う事が出来るのは新志だけであり、そのためには切り札であるブラックホール砲撃を使用するしかない事を理解していた。悪魔の二者択一――珊瑚を救うか、魔元帥を倒すか。
 珊瑚は、新志なら自分を救う事ができると分かっている。
 だが、ここで新志が魔元帥の竜尾に対してブラックホール砲撃を仕掛けると言う事は自ら決定打を捨て去るという事であり、右腕のみならず左腕も壊れた新志はもはや一発も攻撃できなくなる。……そうなれば、後に残るのは全滅という最悪の結末だ。なら――仕方ない。ここで珊瑚を見殺しにすることが、みなにとって一番良い結末。死に際の集中力というものだろうか。珊瑚は自分の涙腺を刺激する涙の衝動を自覚し、新志を最後に目に焼き付けようとして――



 その目が、まるで諦めていないことに気づいた。珊瑚の命も、魔元帥を倒すことも、何一つ、取りこぼす気がないことを。多分死の一秒前であろうとも戦術を練ってすべてを覆す大逆転を狙い続けるのだろうということを。


 その目一つで新志は己の心の内を証明していた。


 新志は、魔元帥の射程内に収められ死ぬ覚悟を決めた珊瑚を見て、心の中の冷えた部分が昂ぶるのを感じる。
そうではないはずだ。子供の頃、積み重ねていたのはこういう状況で涙しないためだ。
 珊瑚と自分の距離はあまりに遠く、彼女を竜尾の一撃から助けるにはブラックホール砲撃しか存在しない――本当に?



 本当に命と勝利を天秤に掛けた二者択一なのか?



 今の自分は魔力という今までにない力を、可能性を得た。
 そこから己のやれることを再検索する。本当に――本当に打つ手はない?



 否。



 新志は魂に火が付いた目で珊瑚を見――すぅ、と息を吐く。
 思い起こすのは数週間前――アトリとの決闘の直前、一人で剣速を上げようと努力していた時だ。そこで新志は早乙女に話しかけられ、戦った。結果は惨敗だが今はそれはどうでもいい。




 模倣する。




 あの時の早乙女を模倣する。




 自分に反応すら許さず腹腔に一撃を埋めた早乙女を模倣する。
 出来るはずだ、今ならば。魔力という力に目覚めた今ならば、出来るはずだ……!



 新志の巨躯が、文字通り地を蹴り凄まじい神速で宙を舞った。



『ナニ……?!』



 驚愕の声を上げる魔元帥の眼前で珊瑚の体を抱きかかえる。
 珊瑚は、右腕の筋繊維全てが断絶し、まともな力すら残っていないはずの新志の両腕の中に抱えられる。激痛で新志の顔が歪んだが、しかし満足そうな笑顔だった。好きな男の腕の中に抱えられていると思うだけで、こんな状況であるにも関わらず胸の中に幸福感が沸いてきた。現金な自分に珊瑚は苦笑する。

「真似たのか……僕の魔術の『縮地』を、あの時の一見で、真似てみせたのか……! はははははは、この……天才めが!!」

 本来の使い手である早乙女からすればいろいろと無駄の多い、不満のある速度だが――それでも、容易く真似られるようなものではない。ぞくぞくとするような喜悦を感じ、その底知れぬ才能に早乙女は笑う。

「頼むぜ絶佳!!」
「あいよ!!」

 新志は叫びながらその胸に抱えた珊瑚を絶佳へと投げる。なぜなら――

『ドコマデモ予想ヲ覆スナ、楽シイゼ小僧!!』

 ぐわりと開いた邪竜の口蓋が新志を噛み殺さんと迫ったからだ。
 魔元帥の判断は正しい――この場合下手に距離を開ければ、体勢を立て直した新志のブラックホール砲撃を受けて絶命する。それならば砲門である左腕を己の頭部に向けるより先に殺す。迷いのない必殺の一撃。ここにいるのが新志だけであれば、勝敗は決していただろう。

 だが、ここにいるのは新志だけではない。

「……ミーの代わりに、奴に一発食らわしてくだサーイ!!」
「おうよっ!!」

 竜の加護を受けた筋力でジャニーはその手に携える戦斧を新志に向けて投擲する。
 それを生き残った左腕で受けとける新志は、今まさに自分を噛み殺そうとする邪竜の牙に対して垂直に立て、つっかえ棒の代わりとして防いだ。凄まじい咬筋力に鉄製の戦斧の柄が曲がるが、砲撃の数秒を稼げればそれでいい。

『オオオオオォォォォォォォォ!!』

 新志は自分を噛み殺そうと締まる口蓋の奥から溶岩が競り上がってくるのを見た。
 最後の足掻きだ。噛み殺せないなら焼き殺すまでと言わんばかりの相手に、新志は言う。

「とどめだ……!!」

 魔元帥の喉奥から迫る溶岩のブレス、そしてその長い首に向けて一撃を放つ。

 その全てが超重力の渦に握り潰される。 

 空が見えた。

 新志はそのまま引きちぎれた魔元帥の首から飛び出し、脱出する。
 眼前に広がる魔元帥の巨体は、さすがに首を刎ねられれば動くことも出来ないのだろう。歩く活火山を思わせる巨体が、重力に抗する力すら失いゆっくりと崩れ落ちる。新志も空中から地面へと落下するが、満身創痍のその身は受身をする余裕すらなくなっていた。大地に背中から叩きつけられて衝撃で肺腑から酸素の全てが吐き出される。

『……見事ダゼ、小僧……』

 ……だからこそ、倒したはずの相手からの言葉に、新志は凍りついた。
 痛みに悶えつつ振り向けば、首を刎ねられた魔元帥の竜頭は大地に晒されているが――それでもなお、目に愉快そうな色を浮かべている。まだ生きているだと?! 新志は必死に起き上がろうとするが、一度勝利の確信を得たことで安堵した肉体は既に休息を切望しており、腕を動かすことすらままならなくなっている。
 魔術師軍の人間にとって魔を倒すこととは相手の脳髄を完全に破壊し再生不可能とすること――強靭な生命力を持つ将魔との戦いで彼女らはそのことを理解している。
 だが、元は剣士である戦堂新志にとって相手を殺すという事は、すなわち首を刎ねるということであり、その感覚の齟齬が致命的な失敗となった。
 首を刎ねられていまだ生きている――しかしさすがに魔元帥と言えども、打つ手は存在しないのだろう。
 新志に対する賞賛の言葉を最後にその全身が燃え上がる。
 ただし――燃える勢いと速度が尋常ではない。重油の海に引火したように炎が物凄まじい勢いで燃え広がっていくが、新志は既に連戦でぼろぼろになっているためまともに歩くことすら出来ないでいる。やべぇな、こりゃ、と一人ぼやいた。
 だが、それは諦観に満ちたものではない。
 彼は必ず誰かが自分を助けに来てくれるものと戦友を信じることが出来る幸福な男だった。この窮地にあっても未来があると確信できる明日のある者だった。

「新志!!」

 膨れ上がる灼熱に飲み込まれかけた新志の体をかばう様に珊瑚が飛び込み、猛火を吹き払う勢いで、それに続いた早乙女は拳風の嵐で自壊と共に灼熱を撒き散らす魔元帥の最後の嫌がらせじみた炎から二人をかばう。
 新志の肉体は珊瑚の体で抱えられるほど軽くはない――と言いたいところだが、魔力による一時的な身体能力の強化に加え、火事場の馬鹿力的な要素も加わっているのだろう。歯を剥いて自重の二倍近くの新志の巨体を持ち上げる様は、本人はきっと不細工と恥ずかしがるかもしれないが、格好いいと思った。

(……ぐ、やべ)

 同時に保護されたという意識が、限界を超えた疲労となって意識に靄を掛ける。
 いい角度で一撃を貰った時に感じるものと同じような――ああ、これは失神するな、という確かな確信の中で、新志は不意に鼻腔をくすぐる甘い香りを感じた。甘い、少女の匂い。初恋だった姉上と同じ、甘い香り。

(……そうか、そう言えば……)


 新志はここに来て……ようやく、知識ではなく、土倉珊瑚が……幼馴染の親友ではなく、少女であることを、女性であることを、実感として受け入れる事が出来た。



(……こいつ……ちゃんと女の子だったんだよなぁ……)



[15960] 魔元帥戦後の顛末――ひとまずの、むすび
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/08 21:31
「……あー、生きているのか俺」

 戦堂新志は、目を覚まし、間抜けな声を上げる。
 思い起こすのは先の戦いの最後の最後。灼熱の渦の中で何とか命を拾ったことを思い出す。部屋の内装を見れば魔術師軍の本拠地、人工島の中の医療施設、その内部だった。近くで稼働していた治療用機械が微かな駆動音を鳴らして新志に近づく。〈ジーニアス〉の声が響いた。

『お目覚めになりましたか?』
「へ、ああ。〈ジーニアス〉、あれから何日?」
『丸三日、あれから経過しています。……今から新志が目覚めたことをお伝えします』

 そう言うと〈ジーニアス〉は新志の両腕の様子を確かめる。新志の両腕は包帯で巻きつけられ、天井から吊り下げられていた。最後に気絶した時の状況を思えば無理もない。手首に刺された点滴の針を取り換え始める〈ジーニアス〉の操る治療用機械がういーん、と音を立てて動き出した。

 まず、やってきたのは早乙女だった。いつもの黒いゴシックドレスに身を包み、新志の枕元に病人用の見舞品のフルーツを持った籠をその辺りに置く。

「やぁ。お互い生きていて何よりだったね」
「……説明、頼めるか?」

 想定していた質問だったのだろう。早乙女はこくりと頷いた。

「とりあえず、魔元帥は倒した、はずだ」
「……生きてる疑いでも?」

 まるであの怪物がまだ生きていると考えただけで言葉に陰鬱な響きが籠る。

「あの灼熱の渦の跡地にはエルムゴートの死体があるはずなんだが、見当たらなかった。……確認殺害には至らなかった以上、生きているかも? と見なすべきだね」
「……あれが?」

 新志はまた病状が悪化しそうなことを、と楽しそうに呟いた。あっさりと表情に込められた感情が歓びに裏返る。かすかに笑いながら早乙女は答えた。

「とはいえ、あそこまで深手を負わせたのは多分初めてだ。そうすぐに復活はしてこないからそこはそこそこ安心していい。……ああ、それから今回の華帝国内における作戦は成功。内部の反乱勢力はほぼ壊滅した。内定が頑張ったみたいだね。……にしても、あの怪物とやりあって、生きているかもしれないといわれたのに、うれしそうだね、新志」
「ああ」

 新志は酷く楽しげな笑顔を浮かべる。

「……俺は、この体格故に、力で互角の試合をした事がなかった。生まれて初めてなんでな。この体格が、この膂力が卑怯にならない相手ってのは」
「君の本当の強さは筋力でも魔力でもなく、その折れる事のない魂の強靭さなのかもね」

 ふ、と呆れたような、感心したような微笑を浮かべる早乙女。続けて言う。

「……君の魔術、超重力握殺(ブラックホール・スクウィーズ)は局所的な超重力崩壊を引き起こすが、魔力の消耗も激しく、また現時点では腕の筋肉が断絶するために使用には仲間の小隊員の意見を仰ぐこと、いいね?」
「了解。どっちかというならマッスルブラックホールの方が似合っている気がするけどな」

 早乙女は、なぜかその言葉に眉間にしわを寄せて考え込むような表情。

「……どうした?」
「……いや、余りにハマりすぎていて、まるで他の案が思い浮かばなかった」

 なんだそりゃ、と答えた新志は、そのままベッドに背を預けたまま、自分の左腕を見やる。魔術の反動でしばらくは使い物にならない腕。休養を要する腕。そして珊瑚を助けた腕。

「早乙女。……済まなかったな……」
「なぁに。……気をつけろよ、新志。……エルムゴートは今まで僕に対して執着していたが、これ以降は君にも嬉々として仕掛けてくるはずだ。それも以降はあの大火力を初手から振るうことも躊躇わないだろう」

 新志は頷いて、答える。

「了解。……その時は手伝ってくれ」
「ふっ、任せてくれ」





 恐らく〈ジーニアス〉は先に早乙女に連絡した後、他のメンバーに連絡を伝えたのだろう。早乙女が姿を消してから足音が響いてきた。
 ただし、珊瑚、アトリ、絶佳、ジャニーの四名だけの足音では絶対にありえない、群衆が群れを成して歩いているかのような膨大な靴音が響いてきたのだ。新志は何事かと首を傾げる。そうこうしているうちにがらりと扉が開いたが、中に入ってくる珊瑚を除く戦友達の背後から、魔術師軍の同僚達が中の方へ大量の視線を投げかけてきたのだ。そのあまりの密度と量に思わず何事かと怯んでしまう。新志の内心を察したのか、ジャニーが口を開いた。

「今回ユーはヒーローね! 何せ素手で魔元帥と殴り合いをして引き分けに持ち込み、おまけに撃退に追い込むなんて魔術師軍の中でも前代未聞の快挙、みんな興味津津でやってきたですヨ!」
「魔元帥と交戦した事も内輪じゃ隠す事でもないしなー」
「うう、私はサンゴ君一筋だから……う、羨ましくないんだからね! 新志が他のみんなにモテモテになっても全然羨ましくないんだからね!!」
「男にモテモテになっても正直微塵も嬉しくねぇ……」

 げっそりとした様子で呟く新志ではあったが、実は大勢の女性に興味を抱かれているとは欠片も思っていない。
 もともと新志が興味を抱かれる下地は出来ていた。最初から魔術師軍の唯一の男性として、異物として認識されていた。実際、新志の剣力を認める目はあったものの、親しく言葉を交わすのは珊瑚を始めとする一団と早乙女程度。……だがここにきて『魔力無しの素手での殴り合いで魔元帥を退けた』という敬意に値する事実が、これまでの悪い方向での意識を裏返す結果になったのだ。今新志の病室の周りにいるのはその興味が抑えきれずにやってきた一団である。
 と、そこで新志は、珊瑚の姿がない事に気づいた。

「あれ? サンゴの奴、どうしたんだ? ……体、悪いのか?」
「ノープロブレム。サンゴは特に怪我も無く、簡単な検査だけで済みました。今新志に食べさせる為の病院食を作っている最中でース」
「ああああ、う、羨ましい、切ないよぉ。サンゴくんの手作り病院食。……私も今から魔元帥と魔力無しの素手での殴り合いを演じてくれば作ってくれるかなぁ」
「……いや、アレ、化けものだよ。あんなのと殴り合いなんて、死ぬ死ぬ、絶対死ぬよー」

 部屋の片隅で陰鬱なオーラを纏いながら、アトリが何やら無謀な挑戦を口にしていたが、朱絶佳が呆れたように否定する。うあああぁぁあぁ妬ましいと叫び声を上げているアトリ。自分の指を咥えながらやけに切なそうなねっとりとした視線を向けてきた。いやに艶めかしい。どぎまぎしつつ新志は話題を変えようとする。そういえばと、ちょうど良く思い起こす疑問が一つ存在していた。
 新志の体が思ったより汚れていなかったのである。三日間意識を失っていたのだから、誰かが自分の体の清拭作業をやっておいてくれたのだろうか。質問する。

「なぁ、ジャニー。一つ聞きたいんだが」
「オゥ、ヒーローから逆インタビューでス。今なら何でも答えますデス」
「じゃ、お言葉に甘えて。……三日間気絶していた俺の体を拭いて下さったのはどなた?」

 流石に手間を掛けさせたのだからお礼を言わないと。医療用機械もそんな細かい事ができるのかわからなかったので質問してみる。ジャニー、なぜか真剣な眼差しで答えた。

「……筋肉大好きな絶佳が新志の全身を拭こうとするのを止めるのは骨が折れましタデス」
「あー、くそ、思い出しただけで腹が立つぜ……折角、あんちゃんの筋肉を合法的に愛でる絶好の機会だったのに……」

 新志は、自分の知らないところで危うく純潔が汚されるところだった事実に戦慄の冷や汗を流した。魔元帥という、魔術師軍の一員としての初陣の相手として、あまりにも厳しすぎる強敵にやっとの思いで引き分けに持ち込んだのに、気絶した後の貞操すら保障されないのだろうか。新志は、この職場にはイヤラシイ意味での危険がいっぱいだと再認識した。溜息を漏らす。

「……じゃあ、結局俺の体を拭いてくれたのはいったい?」
「もちろん早乙女さんに決まっているじゃないか…………あ」
 
 そこまで言って……アトリは新志の顔色が羞恥の赤色で真っ赤に染まってしまったことにより、自分の発言が大変危険なものであったことに遅まきながら気づいた。もちろん、新志の体の清拭作業は同性である早乙女がやるべきなのは当然の話である。朱絶佳のような筋肉フェチはともかく、珊瑚をはじめとする年頃の少女達に異性の男性の体を隅々まで拭くなどあまりの恥ずかしさで耐えられる筈がなかったのだ。
 ただし、戦堂新志にとって、早乙女は女性であり、それ以外は男性だという認識だ。
 
 アトリは、やっちゃったー、と頭を抱えた。貴方は少女に寝ている間の三日間、体をくまなく拭かれたといったようなもの。新志は、な、な、と壊れたスピーカーのように連呼する。

「ば、ば、馬鹿な……な、なんでそこで早乙女に、女性に任せるんだ!!」

 あまりの恥ずかしさに新志は耳まで真っ赤になって、全員に叫ぶ。

「ど、どうしてそこで女性に俺の体を拭かせるんだよ! そこは男同士のお前らが俺の体の清拭作業をやるべきじゃないか!!」
「////////////////」「////////////////」「////////////////」
「だからどうしてそこで全員頬を薔薇色に染めて恥ずかしげに俯くんだ! なんで男同士でそんなあからさまに照れるんだよ、意識するんだよ! 俺の裸なんかでなぜそんな反応!? 実は『戦慄! 全軍ボーイズラブ軍団!』とかそういうオチが待ち受けているのか?!」

 新志は、なぜか全員恥ずかしそうにして新志をちらちら盗み見る三人に叫んだ。もちろん三人ともちゃんと女の子であるのだから、自分の裸ぐらい見ても良いという相手の言葉に、実際の光景を想像してしまって照れているのだが。新志は呻く。

「くそっ……おしまいだ。明日から早乙女とどんな顔をして会えばいいんだ……。こうなったら傷物にされた責任を早乙女にとってもらうしかないのか……」

 知らぬが仏とはまさにこのことであった。もし――本当に早乙女に責任をとってもらったとしても、最後に待ち受けているのは真の地獄。ベッドの上で対面するのは最強最悪のラスボス、スカートの中の股間の野獣なのだから。

「……さてと。絶佳がなにやら新志と話したいことがあるそうなので後は任せるデス」
「私とジャニーは外で待っているのだよ」
「この話の流れで筋肉フェチと俺を一緒に?! お、俺の貞操はそんなに価値がないか!!」

 ……新志はぎゃいぎゃいと叫ぶが、二人は知らん顔で外に出ていく。……あいつらは鬼か、と新志は呆れたように呟きながらベッドに背を預けた。絶佳は言う。

「あんちゃん、ありがとうな。……今回の作戦……いろいろ、助けられたぜー」
「ん? ……ああ。なにせ戦友だからな、あんまり気にするなよ」

 思ったよりまともな発言に安堵して応える新志だったが、絶佳の真剣な様子に言葉を切る。

「……どうした?」
「……あんちゃんが眠ってる三日間……ちょっと考えていた事があるんだ。聞いてくんない?」

 もちろん、と即答する新志。絶佳はありがとう、と頷いた。

「あんちゃんのお兄さんとお姉さんの話を思い出していたんだ。……なぁ、そのお二方って、いい人だったのかな」
「良い人さ。……あの二人がいなきゃ、今の俺は無かった」 

 新志は即答。――そっか、と頷く絶佳は、正面から相手を見据える。

「……やっぱりさ。あんちゃん、貴方のとった行動は間違っているとおもうんだよー」
「……なに?」

 絶佳の予想していなかった発言に思わず驚きで目を剥いた。

「どうして、そう思う?」
「……あんちゃんさ。……お兄さんと、お姉さんが幸せになることが自分の幸せって言ったよね? ……それは、そのお二人には当てはまらないのかな。……そのお二人は……あんちゃんの幸せを願わないような人だったのかな。……あたし、お世辞にも頭は良くないけど。……あんちゃんが自分から身を引いた心も分かるつもりだけど……。でも、そのお二人は本当にそれで――あんちゃんの事を忘れて幸せな結婚なんてできるのかな」
「……出来るさ」

 新志は、思わずそう答えたものの、自分の言葉に驚くほど力がこもっていない事を自覚する。

「出来ないよ。絶対に出来ない。自分達の幸せの為に犠牲になってくれなんてお兄さんは頼まなかったよ、きっとお兄さんとお姉さんだって……自分達が幸せになる光景に――きっと新志の事も入れてくれるよ。だって……それじゃ、あんちゃんの幸せはいったい誰が望むんだ。自分一人が犠牲になれば四方八方全部丸く収まるだなんて馬鹿な考えだよ。……ちゃんと、話せば良かったんだ。二人の結婚を認めるなら、ちゃんと二人と話して……お兄さんお姉さんと三人で親父さんを説得すれば良かったんだ」
「……だが――俺は」
「あんちゃんは、お兄さんを馬鹿にしている」

 思わぬ言葉にハッとした様子で絶佳を見る新志。

「世の中、生き永らえる事より――手心を加えられることの方をこそ、死に勝る恥辱と考える人種もいる。それなのに、あんちゃんは、お兄さんに手心を加えた。戦って、勝った訳でもない癖に。これじゃ、お兄さん、可愛そうだよ。ちゃんと話した方がいいし、なにより、今までずっと弟として可愛がってきた相手が披露宴に出てくれないなんて、きっと悲しいよ」
「……間違ってた、って事なのか……俺は」
「間違いまでとは言わない。……でも正解じゃなかったと思うな。一度、弓国に行って――そんで話をして? ……んで、またあたしたちの魔術師軍に帰って来てくれると……嬉しいかも」

 はにかんだような笑顔を浮かべる絶佳に新志は――微笑んで、頷いた。最初は南極防人前衛へ逃げ出すように志願して、そこで獣魔を破り思わぬ経緯から魔術師軍へと入隊させられ――怒涛のような状況の変化に苦笑する。
 切っ掛けは兄と姉からの逃避だったのかもしれない。自分はここにいてはいけないと思い込んだのも、二人から必要とされないという思いを肯定されることからを恐れていたのかもしれない。今から思えば、何たるざまだ、と新志は笑った。結局のところ新志は自分の大切な人と向き合う事を恐れていたから……逃げるように家を出た。
 だが、まだ大丈夫。まだ祝いの言葉は間に合うはず。その勇気を絶佳から貰った。自分の気付かない所を教えて貰った。戦堂の家に帰ることはできない。魔術師軍に深くかかわりすぎたし、新志は新しく出来た仲間達が大好きだ。だから今度休みを貰おう。そう、決意する。
 きっと、挙式やら披露宴やらは終わっているだろうから、まずは服を新調しておめでとうと言わなくては。新志は感謝の眼差しを絶佳に向け、それじゃ、と退室する相手に手を振って見送った。





「新志、起きているデスか?」

 病状の身の上ではやることも思い浮かばず。さりとて<ジーニアス>仕込みの勉強は難解すぎてまた知恵熱が出てきかねない。
 どうしようかと考えている新志の病室のドアを叩いたのはジャニーだった。

「……三日間は倒れこむように気絶していたが、流石に目が覚めていると傷口が熱を帯びるな、ちょっと寝辛い」
「ご愁傷様デス」

 かすかに笑いながら答えるジャニーの表情に、一族の仇敵を追いかける事に駆られた激情は無い。ジャニーは少し改まった様子で口を開いた。

「魔元帥と、エルムゴートと単騎で闘ったことを家族に言いましタ。……一族の仇敵を倒しきれなくて。汚名を濯ぎ切れなくてすみませんデシタ、と謝ろうと思っていたデス」
「なんか言われたのか?」

 相手の、どこか楽しげな、うれしげな口調に新志は尋ねる。

「……敵討ちなんて無茶な真似はしなくていい、と言われたデス。そもそも魔元帥との一件はお前が生まれる前のごたごた。そんな無謀な真似をして無駄に命を散らさないでくれ、と言われましタデス」

 なるほどな、と新志は納得したように笑った。
 魔元帥と、ジャニーの一族の間に存在していた遺恨。信仰の象徴を奪われば復讐を誓うのも至極当然だ。しかし――自分たちの子息が、先祖の失態を償うために命を無為に投げ捨てようとするのも、やはり違う。

「……今から思うと、ミーの父母はどちらも口に出して先祖の屈辱を晴らしてくれと言った事無かったデス」
「そうか」

 そういう話は新志も思うところがある。
 先ほど絶佳に言われたこと。
 自分達の義兄と義姉――その関係を守るために新志は一人出奔した。だが、ここで自分が義兄、義姉と話し合う場を持つことは出来なかったのだろうか?
 そうすれば、少なくとも父親に不義理をして出奔する事は無く、二人の前から姿を消す必要も無かったかもしれない。人は一人では視野狭窄に陥る時がある。だが、他者と相談すれば案外あっけなく解決のための手段が見つかる場合だってあるのだ。ジャニーは先祖の屈辱をすすぐ為に、エルムゴートと単身で立ち向かった。そこに存在する絶望的な実力の壁を理解しながら、命もいらぬと。だが、両親が子供にそんなことを望むはずがないのに。
 話すということは、大切なのだな、と新志は遅まきながらに悟る。

(……そういう意味じゃ、魔元帥や将魔より獣魔の方が恐ろしいのかもしれねぇ)

 魔元帥エルムゴートや将魔であった朱岳連は、邪悪ではあったが知性を有していたし、言語による意思の疎通が可能だった。それに新志は将魔や魔元帥はどれほど強大であっても人類を絶滅させる事はないと思う。世界中から生肉業者がいなくなれば肉が食べられないように、人類が絶滅すれば、文化的な暮らしを営むことが不可能になる。せいぜい奴隷にされるぐらいだろう。
 だが、基本的に貪り殺すしか出来ない獣魔は、言語による意思の疎通が出来ない。
 そう考えると――将魔などより、獣魔の方がよほど恐るべき敵じゃないのか、とも思えてくる。

「……話すってのは、大切だな」
「……そうデスね」

 しみじみした様子で呟く新志にジャニーも同意の頷きを見せた。
 新志の抱いたものはコミュニケーション不可能の怪物に対する恐怖を込めた呟きであったのに対し、ジャニーの同意は恐らく父母と会話をせぬまま強敵と戦い、死んでいたかもしれない自分自身に対する自嘲的なものだったのだろう。
 だが、それでもいい、と新志は思う。

 抱いた結論は、結局同じなのだから。





 部屋を遠慮がちにおずおずと開ける音と共に――中に入ってくる珊瑚。手にもつトレイの上には病院食。歩くたび、背中の三つ編みが可愛く揺れた。

「新志。ご飯を作ってきたよ? 食べさせてあげる」
「え? ……いや、そういうのは〈ジーニアス〉の自動機械がやってくれるもんじゃ……」

 思わずそう答えた新志の耳に、病室の外から突然雷が大気を走る音が響き渡った。

『オゥ、ノー! ミーの魔術が暴発して介助用ロボットの電子回路を焼いてしまいマシタ!』
『ああ、私の魔術が暴発して介助用ロボットの電子回路に水を!』
『サンゴ君を応援したい気持ちは分かるけど、二人とも減給だね。〈ジーニアス〉、差っ引いといてくれ』

 ジャニーとアトリが外で何かやらかしたらしく、その後の早乙女の、楽しげな声の裏に刃物を潜ませたような邪悪な響きに、二人は、わーん、と声を上げて減給を嘆きだした。

「そんな訳だから、ボクが食べさせたげる。新志、今腕が動かなくて食べられないでしょう?」
「え?! グルになってやらせたのかお前?! いや、……しかしだなぁ」
 
 新志は少し困ったように眉間にしわを寄せた。珊瑚は不思議そうに首を傾げる。そもそも腕の筋肉が殆ど断絶している新志は箸を持ち上げる動作にすら痛みを感じる。ならば他人の介助――それ専用の装備は今さっき二人に壊された――は受けるべきだ。そういう場合新志はあまり遠慮しない。医者の前で服を脱ぐ事に羞恥心を覚えないように、当たり前の行為であるからだ。だからなおのこと、珊瑚は新志の反応が良く分からない。少し不機嫌そうに眉を寄せる。

「もう、どうして嫌がるのさ。もともと新志は怪我をしたらご飯をたくさん食べて寝て直す人なんだから、子供みたいな我儘言っちゃ駄目だよ」

 新志はいや、その、と彼にしては珍しく歯切れの悪い言葉で、微かに顔を赤らめ躊躇いながら答えた。正直なところ、困っていたのだ。此処にきて戦堂新志は、幼馴染の親友がちゃんと女性である事を遅まきながら理解し……女性手ずから食事を食べさせてもらうという行為に耐えようもない羞恥心を感じていたのである。
 珊瑚は不思議そうにしている。今の今まで友人扱いされ続けていたために新志がまさか自分の事を女性と意識し始めていたなど予想の外。むーと頬を膨らませる。

「食べないと大きく……いや、十分大きくなったね。食べないと怪我が治らないよ?」
「……いや、あのな……」

 どうもこの親友は新志が食べないと鼻でも摘まんで呼吸を封じ、無理やり粥を口に含ませるという暴挙に出かねないという雰囲気を纏っていた。新志は珍しい事に口ごもりながら答える。

「……女性に手ずから食事を食べさせられるって……ちょっと恥ずかしいじゃないか」

 珊瑚は、新志の発言に最初何やら怪しい生物でも見たかのように目に疑問の色を浮かべ、遅まきながら内容を理解したのか――顔の表情がでれっと崩れた。頬がだらしなく緩み、目尻が下がる。何がそんなに嬉しいのか急に、にこにこ……ではなくにへらにやにやとしだしたのだ。新志は、脹れっ面で言う。

「……何が可笑しい」
「え? あ、うん、別に何も可笑しくないよね、えへ、えへへへへ」

 明らかに可笑しく感じているようだったが、それが何なのか分からない。早乙女やアトリ達が自分の顔に落書きでもしたのかと思ったが、それなら最初にリアクションが来るはずだ。

「ただ、ちょっと凄く嬉しい事があっただけ」

 自分が恥ずかしがる事がどうしてそんなに嬉しいのか新志にはさっぱり分からなかったが……しかし、相手が喜んでいるならそれに越したことはなかろうと考えなおす。

「新志。……ありがとう。ボクの事、助けてくれて」
「……気にするなよ」

 わざわざ珊瑚の言葉が何を指しているのか確かめるまでもなかった。新志は頷く。

「咄嗟で思考の割り込む隙もないぐらいの脊椎反射だった。魔元帥は倒し損ねたし、あれとまた戦って倒せるかは分からないけどな。でも、珊瑚。俺は後悔する事だけは、きっとない」
「うん。うん。……ボクも、尾で殴られかけた瞬間――これで新志とお別れと思うと、本当に一瞬だったけど、泣きそうになったんだ。……魔元帥はまだ生きているし、華帝国も全部解決した訳じゃなさそうだけど……ボクも新志も、どっちも生きている」

 新志は頷いた。強敵である魔元帥は倒し損ねたが自分達も生きている。姉と兄、その二人に話もせず故郷を出奔した。だが――大丈夫。生きているなら、困難に対して対抗策を練る時間もあるし、本心をさらけ出し、素直になれば、兄と姉ともきっとやり直せるはず。

「サンゴ。今度休養を取ったら二人で弓国に行こうぜ。一緒に兄上と姉上に、挨拶に行くんだ」
「……うん」

 まずは自ら捨ててしまった家族の絆を取り戻す。
 新志の言葉に、珊瑚は満面の笑みで頷いた。            



[15960] 五番勝負――サムライ
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/05 19:32
 魔元帥との死闘から二週間が経過した。
 基本的に怪我は食って寝て直す戦堂新志だが、5日ほどで食事と睡眠だけの生活に嫌気がさしたのだろう。すぐに鍛えてぇ、と呟くようになってしまった。とはいうものの、その体に受けたダメージは非常に大きく、医療ロボットを操る<ジーニアス>は当然新志に普通の生活に戻る許可を与えなかった。

 なにせ両腕の筋肉断絶に加えて右腕には火傷。額からは流血。体や顔面には嫌になるほど拳が打ち込まれて青痣だらけ。最初華帝国の緊急病院に運ばれたときは医者も唖然としていた。とはいえ、呆れるほどの生命力ゆえか――あっさりと魔術師軍の本拠での治療のためにベッドごと動かしていいと言う許可が出たのだが。医者も呆れたように笑いながら名患者だった、と見送ってくれたそうである。



「……暇だ」

 医療施設の一角で新志は退屈を持て余す毎日だった。
 面会謝絶は気絶していた三日で解け、珊瑚を初めとする同僚も見舞いに来てくれるものの――やはり皆それぞれの生活があるために、ずっと付きっ切りと言う訳にはいかない。

 珊瑚自身は『……病人食を作ったら、変態騎士に全部盗み食いされたから簀巻きにして吊るすんで忙しい』と怒りにまみれた言葉を吐くし、その変態騎士本人であるアトリは、以前ふと外を見た時、木から蓑虫のように簀巻きにされて吊り下げられていたりした。時折外から『も、もうしないよぅ……たすけて~……』と涙声が聞こえてくるが無視であった。
 朱絶佳は『あんちゃんの体の清拭作業を手伝うぜー、じゅるじゅる。……あ、ごめん、ちょっと涎拭くよー』と言い出して新志を恐れおののかせているし、ジャニーは両親に一族の仇敵である魔元帥に一撃を叩き込んだ事を報告しに一時帰国しているらしい。そのついでにヌーディストビーチで命の洗濯をしに行くらしい。新志は、お、俺も行きたい、と懇願したが聞き入れられなかった。



 あいつらシリアスできないのか、とぼやかざるを得なかった。



 この状況でやれる暇つぶしといえば、テレビを見る事や、または漫画や小説を読むなどのインドアな行為に限定されるものだが、生憎と体を動かすこと以外に余暇を潰す手段を知らない新志は――物心付いてから初めて得た、鍛錬よりも休息することを要求される日々に困惑を覚え始めていた。両腕は未だに完全ではないものの、両足は既に躍動を求めるように疼いている。

 とはいえ、以前腹ごなしに腹筋を千回こなしたのが不味かったのか、今では<ジーニアス>が医療ロボットで監視しているから簡単な室内での運動も出来ない。

「暇だ……」

 また言った。
 やるべき事は完全な体の回復。眠る事が出来れば一番良いが、生憎とあの激闘の疲労は完全に抜け切っていた。どうにかならないかな、この暇。新志はつまらなそうに天井を見上げた。

 いつもと同じと思っていた日がちょっと変わったのは、ここからである。

 こんこん、と控えめなノックの音が響いた。
 新志は、あれ? と考える。彼の知り合いの珊瑚やアトリ、絶佳にジャニーは部屋の主の意向など無視して扉を開けるものだが、このノックには中の人間をおもんばかる殊勝の響きがある。誰だ? と新志は考える。魔術師軍における知り合いなど同僚四人と早乙女、あと<ジーニアス>しかいないはずだが。

「どうぞ」

 短く返答すれば。ゆっくりと扉が開いた。

「あ、あの、初めまして」
「失礼致すでござる」

 入ってくるのは、二人。さて。新顔であった。

 一人目――いささか声の小さめな挨拶をした人影。何故だが知らないが美形の多い魔術師軍の中でも、特に少女的な風貌の人物であった。
 日本人形のように切りそろえられた短めの亜麻色の髪。水色の大きめの瞳に、小柄な体格を魔術師軍の制服に包んでいた。なんとなく気弱な雰囲気を持ってはいるが――早乙女を除けば誰も付けていない正規軍の階級章を付けている事から見た目通りの人材でないことが伺える。何せ首元につけられた階級賞は少佐待遇。一つ部隊を任されてもおかしくはない。

 二人目――弓国でも古めかしい部類に入る言葉使いの中肉中背の人物。こちらは目元が剃刀のような鋭さを連想させた。

 背中まで滝のように伸びた鴉の塗れ羽色の髪をポニーテイルで一括りにして下げている。黒瑪瑙の鋭い眼差しは――敵意とも困惑とも取れない感情の色が浮かんでいる。腰にはニ刀の脇差、小太刀二刀。袴姿。弓国における典型的な武人の装いだ。足運びにぶれはなく、相当な剣腕の持ち主であることは疑いようがない。
 一人目が深々と丁寧に頭を下げ、もう一人の方は軽く会釈する。

「は、初めまして。じじ、自分は、バーチェッカ=イアサントと申します!!」
「拙者は、連城 斬絵(れんじょう きりえ)と申すものでござる」
「……連城?」

 新志――その言葉がどこかの記憶に引っかかりを感じた。
 いったいどこで聞いたものだったのか思い起こすように考え込み、眉間に皺を刻んだ。しばらくしてから思い出し――ますます困惑の度合いを深める。

「……連城双闘流。……ああ、驚いたな。あそこの宗家の人がまさか正面から会いに来るとは。きっと嫌われているもんと思ってたんだが」

 新志の言葉に含まれた驚きの意味を正確に汲み取ったのだろう。斬絵はかすかに頬を綻ばせて答える。

「確かに戦堂一倒流に将軍家ご指南役の地位を奪われた事を恨みに思う方は拙者の一族にもいらっしゃるが、少なくとも拙者自身が生まれる以前の遺恨を持ち出すつもりはないでござる」
「そうか。助かる」

 新志は安堵したように頷いた。
 連城双闘流――戦堂一倒流が出現するまで弓国において最強と謡われていた剣術だ。術理は剣術というよりも剣術を含めた体術を追求しており、その術理の精妙さは他の追随を許さない。新志が過去、天覧試合に出場した際の決勝戦の相手が、かの流派だった。

「……で、その遺恨満載の人と、そっちの小さい人――バーチェッカ?」

 そっちの彼が何のためにわざわざ新志を訪ねてきたのかが分からない。
 不思議そうに首を捻る新志の疑問に答えたのは、バーチェッカでも斬絵でもなく、会話を黙って聞いていた〈ジーニアス〉だった。

『バーチェッカ=イアサント。先の華帝国における討伐戦において、前線に出た早乙女氏の代理として魔術師軍全軍を総括していた人物です。階級は少佐。通称『天才バーチェッカ』と内外では……』
「おおお、恐れ多い呼び名であります!!」

 顔を赤らめながら、背筋にスプリングでも仕込んでいたように勢いよく背を伸ばすバーチェッカ。どうも他人から褒められる事に慣れていないように見受けられる。新志はこくり、と頷いた。
 遅まきながら――華帝国における戦闘の総指揮官を務めたのがバーチェッカという名前である事を思い出したのである。とはいえ、見たままでは珍しい階級持ちとは思えない。他国の軍隊と連携をとる必要がある場合、作戦指揮官が無官では都合が悪いという事で少佐扱いされているのだろう。
もちろん、あの早乙女がそれだけで実力のない人間を高い地位につける訳もない。
 アガリ症な外見からは予想できないが、相当に有能な人物なのだろう。

「……それは分かったが……じゃ、総指揮官と、あまり仲のよろしくない流派の人が俺に何の用なんだ?」

 特にこの二人とは面識もない。見舞いに来て貰うほど縁深い訳でもないので新志は首を捻りつつ訪ねた。その言葉に応えるように前に進み出てくるのはバーチェッカ。顔は緊張で赤らんでいるものの、しかしその視線はしっかりと新志を見返している。

「まず、私の要件からであります。……戦堂新志さん、今回は私の采配ミスで危地に追いやり誠に申し訳ないです」

 ぺこり、としっかり九十度、角度のついた礼に、新志は困ったような表情を浮かべた。魔元帥との戦闘は、あのあと早乙女とも話したがあくまで突発的なものだ。誰が浚われた先に最終ボス的な相手が待ち伏せしていると想像できるだろうか。
 だが、全体の作戦指揮を行う人間――即ち朱絶佳を囮にして華帝国内の反乱分子を刈り取ろうとする作戦を立案した人間としては、仲間が窮地に落ち込んだ事は、自分で自分が許せないのだろう。

「あんまり気にするもんじゃねぇとは思うけどな。初陣であんなバケモノと当たるんだから、俺は運が悪かったが――どっちかというなら悪運なんだろう。なんとか生きて帰っているんだから、それでいい」
「あ、ありがとうございます」

 恐縮した様子のバーチェッカに新志は頷きつつ背中をベッドに預ける。
 次いで、バーチェッカの後ろにいる斬絵に目を向けた。

「……で、斬絵の用件はいったいなんなんだ?」

 新志の言葉に――斬絵はこくり、と頷いて、そっと一枚の折りたたまれた紙を差し出した。
 包帯ぐるぐる巻きにされた腕でめくってみれば、何故か着物姿の娘さんが移っていた。なんだかお見合い写真みたいだなぁ、という感想を抱きながら新志は言う。

「こりゃまた別嬪な娘さんで」
「……そ、そんな、は、恥ずかしいでござる」
「??? なんでお前が恥ずかしがる」

 新志は怪訝そうな表情で顔を赤らめている斬絵を見た。もちろん魔術師軍全軍が男性(と思い込んでいる)なのだから、目の前にいる連城斬絵とて男性だろうに。なぜ他人のお見合いっぽい写真を見た感想で照れるのだろう。不思議そうにしている新志に説明したのは、傍にいたバーチェッカだった。少し慌てた様子で口を開く。

「じ、じ、実はこちらの写真の方は斬絵さんの年の近い妹君でして」
「へぇ。可愛らしい妹さんがいらっしゃって羨ましい」
「……か、可愛いなどと……拙者、た、ただの武辺者ですゆえ」
「……いや、だからなんであんたが照れるんだ」

 まったく持って不可解な反応を繰り返す斬絵に新志の眉間の皺はどんどん深くなるばかり。
 話していてもらちが明かないと思ったのか、バーチェッカが前に進み出た。

「実はこちらの写真――お見合い写真なのであります!! (……実は斬絵さん本人なのでありますが……)」
「へぇ。……初対面だが、とりあえずおめでとうございます。……で、なんでそんな事を俺個人に言う。戦堂一倒流の剣士としてなら切磋琢磨してきた流派の目出度き祝い事、祝辞の一つでも読み上げるところだが……一個人に打ち明ける事か?」

 どうにも戦堂新志には要領が掴めなかった。
 もし兄と相対して戦堂一倒流総帥にでもなったなら結婚式の出席にでも参加する必要があるかもしれないが、今の自分は流派から放逐された人間だ。なぜわざわざ祝い事を自分に教えるのかがわからない。
 そんな新志の疑問を封じるようにバーチェッカは言う。

「戦堂新志さんが疑問に思っていることは大体わかるのであります!! 流派を離れた自分にどうしてわざわざ声を掛けるのか理解できないのでありますね?!」
「まさに」

 肯く新志。

「逆であります! 新志さんが戦堂一倒流を離れたからこそ、連城双闘流は声を掛けたであります!」
「どういう事情か、説明してくれるんだな?」
「はい! ……貴方は連城双闘流を退け将軍家御指南役を承った戦堂一倒流の総帥候補にまで成り上がった御仁。それに対し連城双闘流はかつては隆盛を誇った流派ですが、往時に比べればどうしても勢いが足りないのであります」

 バーチェッカが、一国のお家事情にまでやけに詳しい事を新志は感心していた。この辺の理解の深さが天才と称される所以なのか、新志は黙ったまま先を促す。

「だから、外部から気合の入った血を取り入れようと言う話なのであります。
 なんでも早乙女さんや、珊瑚さんを初めとする方に話を聞いたところ、新志さんは『筋肉の力でありとあらゆる無茶無理難題を解決する男』とか」
「……あいつらが俺の事をどう思っているのか良く分かったよ……」

 少し愕然とした様子で呟く新志。

「と、言うか珊瑚と知り合いか?」
「はい。魔術師軍の中でもトップクラスの有能さと変態性を併せ持つあの三名を貴下に加え、見事に手綱をとっている時点で尊敬に値するであります!!」

 アトリ=瑞島=レギンディヴ。刺突剣を扱う剣士。冷却の魔術を駆使する。珊瑚に懸想している真性の変態。また珊瑚に出したラブレターの中身は全て十八禁小説だったことからも伺える本物。
 朱絶佳。鋼竜十八掌を扱う華帝国皇族。エネルギー吸収能力を持つ炎を操る。筋肉マニアであり新志の体を隅々まで拭こうとする真性の変態。
 ジャニー=ジャック=ジェットラム。竜信仰による一種の憑依魔術を駆使する常時ヘソ出ししている人。比較的三名の中では常識人だが、『自室では全裸派』と自ら公言しており、ある意味一番の危険人物かもしれない。真性の変態。
 戦堂新志は――はて、ここで同僚達の弁護をしておくべきなんだろうか、と思ったが、三人の事を思い出して、バーチェッカの言葉もいちいちごもっともだと考えたので、力強く肯いた。



 さて。



 新志は――なんとなくではあるもののそこまでの会話で事情はある程度察っしていた。
 つまり、勢いの無くなった連城の一族に外部から強力な武芸者の血筋を取り入れるつもりなのだろう。……確かに戦堂一倒流の総帥候補ならば剣腕は問題ない。種馬としては最高級だ。
 その策謀の生贄となるのが、連城斬絵の妹――なるほど、確かにこれは兄として一言言ってやりたくもなるだろう。
 義兄と義姉の関係を崩したくないために自ら進んで貧乏くじを引いた新志としては同情を禁じえない。意に沿わぬ相手と無理やり婚姻させられるなど耐え難いに違いない。新志はそう考え、次の言葉を待った。






 
「すなわち、新志さんと斬絵さんを結婚させようとしているのであります!!」
「ええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ????!!! どどどどうしてそこからいきなり『男』と結婚する話になるんだよおいいいいいいいぃぃぃぃぃぃ!!」






 新志は吹いた。思いっきり――吹いて吼えた。
 その指摘でバーチェッカも自分の物凄い言い間違いに気付いたのだろうか、すぐに土下座した。
 
「あっ……すみません間違えましたー!!!」
 
 こうして――戦堂新志は生まれて初めて他人から土下座された。
 ……とはいえ、珊瑚相手にはすでに何度かやっているから世間一般として珍しいのかそうでないのか良く分からなかったが。


 ちなみに。

 途中から説明を引き継いだバーチェッカに全て任せていた斬絵は、ものすごい言い間違いに対して新志のシーツを分捕って頭を隠してから突っ伏して悶えていた。覗く首筋の辺りまで真っ赤になっていた。






 新志は思う。




 まて、そこは男同士で結婚させられるという凄い間違いに対して、怪我人である自分に変わり、激しい突っ込みを入れるシーンではないのだろうか。それなのにどうして物凄く恥ずかしがっているのだろうか。

 そして脳内に閃く最悪の予想。



(……こいつ、まさか――…………アトリと同じ男が好きな……?!)



 もちろん、斬絵自身、魔術師軍に属しているために、男装美少女であり。
 んなこたぁないのだが。

「……あ、あの、新志殿。貴殿、何ゆえ尻を庇うのでござるか」
「お、俺の傍に近寄るんじゃねぇぇぇぇぇ!!」

 声がかなり裏返っていたが、構うことなく新志は盛大に拒絶した。
 無理もないが。



 

『つまり。斬絵殿はなんとしても妹さんの結婚を阻止したいのであります!』
『……戦堂一倒流総帥に近き男であり、また魔元帥と徒手にて互角の戦いを演じる武芸者に勝ったと在らば――新しい血を入れるなどと考えている親類連中を黙らせることが出来るでござる!!
 戦堂新志殿――!! 拙者は貴殿に一騎打ちを所望するでござる!!』


 つまりは、そういう事だ。
 新志は一人天井を見上げながら考え込む。妹さんが意に沿わぬ結婚を強いられている。しかもその相手は新志自身。
 勿論今のご時世では家の為に結婚相手を決めるなどという前時代的な考えは駆逐されつつあるのだが、生憎と古来から続く連城の一門にはそういう前時代的なやり方が正しいと信じている親族が多数いらっしゃるらしい。斬絵の妹はそういう言葉に強く否定できない、ということ。
 どうにかしなくてはならない。幸い試合の日時は新志の両腕が完治してからおいおいと決めるのであり、それほど差し迫った話でもないが。

「ジーニアス。試合可能になるまでどのぐらい時間がかかる?」
『おおよそに見積もって二週間です。新志が余計な運動をしなければ、と付きますが』

 皮肉も含めるぐらい優秀な人工知能に苦笑しながら――新志はどうしたものかな、と考え――その時、不意に医務室の扉が開いた。
 



「うう、羨ましくないんだからね!! 新志が結婚しても羨ましくないんだからね!!」




 偽ツンデレ台詞と共に、やってきたのは、布団だった。
 具体的に言うならば簀巻きにされたアトリがごろごろと転がりながら医務室の中にやってきたのである。どうやって扉を開けたのだろうか、と新志は思ったがそろそろツッコミに疲れてきたので発言を控えた。

「アトリ。……お前今の話どこから聞いてたんだ?」
「新志が斬絵嬢と結婚するという話からなのだよ!!」

 とりあえず医務室の中でごろごろされるのも迷惑と感じたらしい<ジーニアス>の動かす医療器械が簀巻きにされたアトリを開放する。すっく、と立ち上がれば男前なのだが、簀巻きにされて吊り下げられていた影響なのか、頭には蜘蛛の巣が張っていた。こいつ何日放置されていたのか、と思ったが、新志は再びツッコミを控えた。
 なにはともあれ――ベッドに背を預けたまま尋ねる。

「なぁ、バーチェッカと連城斬絵って、どういう奴なんだ?」

 新志の発言に、ふむ、と肯いたアトリはそのまま見舞い客用の椅子に腰掛けて、傍に置いてあった果実の盛り合わせからりんごを取ってナイフでむき始める。

「まずはバーチェッカ=イアサントなのだね。……彼はデュガン連邦出身の魔術師で、趣味は戦史研究とチェスと囲碁。先日までは華帝国での作戦で総指揮官をやっていた人材なのだ」
「どのくらい強い?」
「かなり」

 アトリの発言は端的だったが、言葉の端々に押し込められた賞賛の念の強さは、思わず新志が目を見開くほどに強い。

「本能で魔術を操るみんなとは違い、早乙女氏と同じく系統だって組み立てられた四大に対する高度な理解力を持つ上に、戦術戦略でも一級。あの早乙女氏が指揮官能力は自分より上だと一任するレベルなのだよ。……一番得意な魔術は瞬間移動だね。パワーは兎も角精度がばかげている。以前は体に命中した銃弾を、方向だけ変えて瞬間移動させ跳ね返すなんて荒業をやっていたのだからね」

 アトリの言葉に新志は黙って肯く。緊張ばかりしているような外見からは想像できなかったが、相当の強者なのだろう。

「……まぁ、バーチェッカは系統だった属性の魔術を、私達は本能やフィーリングで扱う魔術を、そして新志は筋肉なのだがね」
「……だめだ、反論が思い浮かばない」

 うーん、と頭を抱える新志の前で、アトリは剥き終えたりんごを自分ひとりで全部食べた。自分で食うんかい、という突っ込みは当然黙殺される。

「そして連城斬絵なのだが……此方は新志の方が詳しいかな?」
「いや、俺が知っているのは連城双闘流であって、斬絵自身じゃねぇ。こっち、魔術師軍での戦績を知りたい」

 心得た、と頷くアトリ。

「……連城斬絵は、バーチェッカ貴下の小隊に属する戦士だ。得手は小太刀二刀。術理のみを比べるなら――多分新志よりも上でないかな」
「不思議じゃねぇな」

 魔術師軍の中では戦堂新志の剣を実際に受けた経験があるのはアトリのみ。かつて剣を交えた変態騎士がそう言うのであれば、おそらくそれは正しいのだろう。使いこなせば最強と言われる小太刀二刀流の流派。伊達に弓国最強の座を長年占めていたわけではないのだろう。

「総指揮官であり、強力な万能型魔術師でもある『天才』バーチェッカ。剣術の腕前では最高の『遅速斬殺』の連城斬絵。全長二百五十センチ、総重量五百キロを越える四脚騎馬型パワーアシストアーマーを操る南極サキモリヴァンガード上がりの『ケンタウロス』イェン=ルイリー。狙撃銃の専用弾丸を拳銃で強引に発射するという無茶な扱いをする『加速』使いのラーマイア=メディル。……それが二人の所属する小隊なのだよ。多分連携じゃ、魔術師軍では一番強いね」
「それに対してうちは――忍術を使う『影潜りストーカー』こと珊瑚。『同性愛者』のアトリ。『筋肉フェチ』の朱絶佳。『自室では全裸派』のジャニー。……かっこよさ勝負では最初から勝敗決まってるな、これ」
「其処に『ありとあらゆる無茶無理難題を筋肉で解決する男』戦堂新志が加わるのだよ。我々の敗北は確定だ」

 バーチェッカらが言っていた言葉の供給源はやはりこいつなのか、と新志は薮睨みの視線をアトリに向けたが、本人は意に介した様子もなく、ははは、と朗らかに笑って今度はオレンジにかぶりついている。

 しかしまぁ――と、新志は呟いた。

「……困ったな」
「具体的には?」

 端的なアトリの言葉に新志は、ふむ、と呟いた。

「……俺は、勿論連城の家の婿養子に何ぞ行く気も無い。斬絵の妹君だって話した事もない相手に嫁ぐだなんて不愉快極まるに違いない。……それを拒絶するならば、斬絵との勝負に敗北するのが良い手なんだがな。俺は既に縁を切られた身の上とは言え、戦堂一倒流の高弟。既に一門とは関係ない身の上だが、俺の敗北は流派の敗北と看做す輩もいるだろう。……恐らく連城の一門の方々はそうなさるだろうな」

 将軍家御指南役の座を奪われて久しく、それを恨みに思っているのならばこれ幸いにと喧伝されるだろう。

「勝利すれば、連城の家に巻き込まれることになる。
 負ければ、看板に泥が付くか。難しいのだね」

 アトリも今の事情を理解し、困ったように眉を寄せた。そんな親友に新志は言う。

「アトリ。俺の剣速を魔術師軍で一番熟知しているのは多分お前だ」
「とはいえ、二度とやりたいとは思わないのだよ」

 両者は以前、珊瑚との同室の権利を賭けて決闘を行っている。一度目はアトリ、二度目は新志が勝利した。その戦いの中でアトリは新志の剛剣に何度も身を晒していた。肌で新志の剣腕を熟知する第一認者であることは間違いない。

「……手を貸すなら……斬絵に手を貸してやってくれないか?」
「ふむ?」

 敵に塩を送るような発言をする新志に対してアトリは少し面白そうに微笑みながら小首を傾げた。

「連城の家に取り込まれるのは嫌ではないのかい?」
「……今の俺はかなり矛盾した状態にあるんだよ」

 新志は心底困った様子でため息を吐いた。勝利も敗北も――どちらも新志にとってはあまり好ましくない状態。正直どういった選択が一番良いのか本人も納得できていないのだ。

「アトリ、正直に答えてくれ。俺と斬絵、どっちが強い?」
「君だね」

 アトリの発言には躊躇いが無かった。
 実際両名の戦いを見たことがあるアトリは、まず十中八九新志が斬絵を下す事が予想できる。勿論斬絵も相当な使い手ではあるのだが――新志の剣腕を実際に体験した身としては、やはりどうしても軍配は目の前の剛剣使いに上がってしまう。
 当然だが、如何に練達の双刀でも、間合いの外の敵を斬る事は出来ない。
 そして両名が扱う獲物は小太刀と大太刀。間合いがどちらが長いかは言うまでもなかった。
 だが――。

「でも友人として忠告するなら――戦う前にどうするのか、迷いは捨てた方がいいと思うね」
「……そうだな」

 もし、新志が敗北するとすれば、勝利していいものかどうかと迷うその心のために負けるのだろう。如何なる達人も迷いがあれば威力半分。
 だが、そんな敗北は、戦うどちらも望んではいない。戦闘に勝利することが欲しいものを勝ち取るための手段であるとするならば、この戦いは既に新志には敗北以外の選択肢は無い。あるのは、どちらの敗北を選択するという本人にとって非常に馬鹿げたものだ。

「じゃ、大人しくしたまえよ。斬絵と話してくる」
「頼む」

 新志に一声挨拶して、アトリは医務室を後にした。



[15960] 五番勝負――作戦会議
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:8fdbf1f3
Date: 2010/02/15 15:31
 戦堂新志の病室から抜け出たアトリは――さて、と一言呟いてから、まずは珊瑚に話をするために歩き出した。
 新志自身は自分と関わりがあるわけではないので詳しくはなかったのだが――実は土倉珊瑚と連城斬絵は親戚、それぞれ従姉妹に当たるのである。珊瑚が斬絵の父親の妹の娘に当たる血筋で、新志がここ魔術師軍に編入される以前から二人が親しくしているのは知っていたのだ。案外そっちにいるかもしれない。
 まずは珊瑚と話そう。以前珊瑚に送り出した愛情(とかいて肉欲と読む)を込めたラブレター事件以来、珊瑚のアトリを見る眼差しは変態を見る険しさを帯びていたし、大好きという感情が溢れすぎてついつい珊瑚が新志のために作った病院食を盗み食いしてしまい、しばらく簀巻きにされて釣られていたからきっとアトリに対する好感度は、更なるマイナスへと落下を続けているだろう。
 
 だが、それがどうした。
 
 まったく自己の行動を悪びれもしないアトリ。きっとこれからも変態的行動に手を染めて嫌われて、喉元過ぎて暑さ忘れて、性懲りもなく同じ事を繰り返すのだという事が簡単に予見できる女であった。
 とりあえず、新志という同居人がいなくなって現在は一人部屋になっている二人の部屋の扉をに手を掛ける。

(ふふ、数ヶ月前は私とサンゴくんの部屋だったのだがね)
「失礼するよ、サンゴくん。斬絵嬢がこちらに……」

 と中へと入って、アトリは――ちょっと押し黙った。
 新志と珊瑚の寝床である二段ベッド――珊瑚の指定席である上のベッドに珊瑚が鎮座していた。そしてそんな珊瑚に見下ろされる形で斬絵が正座させられていたのである。
 させられていた――と強要されたかのように思ったのは、何故だか斬絵がお白砂で捌きを受ける罪人のように見えたのであった。何かとてもまずい事を追求されているように、表情が不安だらけ。アトリはこの光景をなんだか知っているような気がして少し考え込んだが――しばらくして、自分で回答にたどり着いた。

(……ああ、そうだ。この位置関係。なんだか牢名主と新入りの囚人みたいなんだね)

 珊瑚の表情は険しい。
 殺意とか憎悪とかそういう激しいものではなく、お気に入りの玩具を取られた拗ねている子供という辺りが一番的確だろう。
 それも仲の良い従姉妹に掠め取られたような気持ちなのだろうか。珊瑚は中に入ってきたアトリの存在にようやく気付いたように、口を開いた。

「ああ、アトリ。来てたの……なんでボクの方を見てデレデレしてるの?」
「ハッ!!」
 
 拗ねているサンゴくんも可愛いなぁ――とか考えていたアトリの内心が表情に浮んでいたのだろうか。珊瑚の発言に慌てたように正気に戻るアトリ。

「す、すまないサンゴくん。……べ、別にサンゴくんが怒っている姿もかわいいなぁ、とか考えていたわけではなくて……」
「……まず、よだれを拭きなさい」

 だらー、と口内から唾液が糸を引いているのを見て、流石に珊瑚も非常に嫌そうに引いた。

「……で、アトリ。なんか用? ボク、今から従姉妹の斬絵に拷も……尋問しないといけないんだけど」
「拷問っていったでござる! 今拷問って!!」

 上座から見下ろしつつそんな怖い事を言う珊瑚に流石に泡を食ったように斬絵が叫ぶが、もちろんそんな悲鳴混じりの相手の言葉など何処吹く風。珊瑚は二段ベッドの上から軽やかな動作で地面に着地。綿毛が地に落ちたように静かに斬絵の横に座った。
 嘆息を漏らす珊瑚。

「……まぁ、事情は聞いているんだけども」
「サンゴくんも悋気の虫をどうにかしないといけないと思うのだよ、斬絵もまさか本気で新志とくっつきたいと言う訳ではないだろうし、新志の方も斬絵のことも男性と思っているようだしね。だからサンゴくんも気にする必要は無いよ」
「うう、理屈はわかるのでござるが、なんだか微妙な気分でござる」

 斬絵は正座させられたまま、悲痛な呻き声を漏らした。
 無理はないかもしれない。魔術師軍の全員が、将魔の呪詛毒から命を護るため男装している事に気付かれていない事は、異性装――違う自分を演じているという自覚で呪詛毒に対する耐性をつけている彼女らにとって最重要事項。決して戦堂新志に気取られてはならない事実であった。

 しかし、それはそれ。

 実はちゃんと女性である身としては、当然複雑であった。
 未だに珊瑚を狙っている変態騎士としては、珊瑚が新志に好意を抱いているというのは業腹ではあったが、こればかりは人の意思でどうこうしようが無いことも理解していた。ただし、基本的に新志は魔術師軍の人間とは全員男性と思い込んでいるのであり――基本的に恋愛感情に発展することは無いと思われた。
 そう――新志が相手の事を女性と認識しなければ、彼から誰かを好きになるという事は有り得ない。だから珊瑚は斬絵に嫉妬などしなくてよいのだ。

「つまり――新志のことに関して言うならば、サンゴくんの最大のライバルは、早乙女氏という事なのだ!!」
「男性を恋敵に持つという時点でボクの女性としてのプライドはすごい勢いで激減中だよ!! しかも勝って当たり前で、もし負けでもしたら死んでも死に切れないよ!! うわあぁぁあぁぁん!!」
「た、確かにそれは本気でキツイでござる!!」

 アトリの発言にうわああぁぁぁぁ、と突っ伏す珊瑚。斬絵も自分の身に置き換えてみてショックを受けているのだろうか、なぜか貰い泣きをしていた。
 そう言われてみれば――と珊瑚は思い出す。
 あの強敵、魔元帥エルムゴートとの戦いで早乙女は新志の魔術『マッスルブラックホール(本気で正式名称になった)』には、使用に腕の筋繊維断絶という過酷な反動を予想していたにも関わらずそれを伝えなかった。新志も、状況が状況だったので特に追求こそしなかったものの、面白くなかった事は間違いない。
 だが、早乙女は『侘びとしてパンチラ一回』と言い、新志も『わ、わかった。あんたの謝罪を受け入れよう』と大変頭の悪い返事をしたのである。
 新志は魔術師軍の中で一番女性と見ているのは、実は女装美少年である早乙女ではないのだろうか。珊瑚は、なんだかどんどん腹が立ってきた。

「……おのれ早乙女」
「サンゴ殿、そんな本気で嫉妬したら男を恋敵であると本気で認めてしまうようなものでござる! しょ、正気を取り戻すでござるー!!」
「でもまぁ、早乙女氏が男好きであるだなんて事実は……ない……よね?」

 しかしそれを面と向かって確かめられるものはいるのだろうか。薄ら寒いような表情になった珊瑚と斬絵を見て、アトリは自分自身の舌の迂闊さに思わず舌打ちを漏らした。
 考えてみれば、魔術師軍の総指揮官である早乙女はそっちの趣味はあるのだろうか、ないのだろうか。
 必要に迫られて男装している魔術師軍の戦士と違い、早乙女は最初自分自身の趣味嗜好として女装していたと伝え聞いている。男性という自分自身を否定しようとして女性的な外見を装っているとすれば――早乙女の恋愛対象になる相手が男性であったとしても、そう無茶な推論ではない。
 そんなことは有り得ない――と否定したくても、その否定を信じきることが出来ない。三人は恐るべき事実の尻尾を掴んでしまったような気持ちで、ぶるり、と背筋を震わせるのであった。






「しかし、実際拙者も困っているのでござる」

 既にアトリが入室してからずっと正座を続けているのだが特に脚が痺れている様子も見せず、脚を崩しもせず斬絵は言う。
 身体に一本芯が入っているように、ぴんと姿勢が伸びているので実際の身長、百六十七センチという数値に比して背が高く見える斬絵は嘆息を漏らした。

「……ま、まぁ確かに新志殿は婿として十分な資格を備えてはいるものの……あの、サンゴ殿。お願いだから鎖鎌は仕舞って欲しいのでござる……」
「真面目な話……連城の家からそういう要請があって、新志は従うかな? 早乙女氏は許すと思うかい?」
 
 その言葉にするすると鎖鎌を仕舞いながら答える珊瑚。

「この場合、戦堂の家から放逐された事が逆にプラスだね。無頼の剣士である事の方がむしろ身軽で断りやすいとボクは思う。……問題は、新志が戦堂の本家に負い目を感じている事が不安要素かな。あと、早乙女は許さないだろうね。そこは確信できる。……でも婚約ぐらいは譲歩するかも」

 新志は家出同然に戦堂の家から出奔した。もちろんそれは彼の義兄、義姉の幸福を願っての行動だが――今まで自分を拾い育ててくれた恩義ある実家に不義理をしたことには変わりない。
 もし戦堂の実家から斬絵と一緒になれと言われても、その義理堅さから受けてしまう可能性もあるかもしれないのだ。本当は思い慕っていた義姉の恋を優先して自分の幸福を切り捨てて出奔したという前例もある。有り得ないと断言することはできなかった。
 ただし、早乙女は魔術師軍から新志を引き抜くことは決して許すまい。
 新志は魔術師軍の中でも最大級の破壊的魔術、『マッスルブラックホール(正式名称になっちゃった)』の使い手。核爆発すら筋肉で握り潰す男。強力な敵、魔元帥すら一撃で撃滅できる力の持ち主だ。そんな彼を結婚などで遊ばせておくなどしないだろう。だが――戦闘に支障の無い程度なら。実際に戦う事はやめないが、戦後結婚する事を確約する婚約程度ならば許してしまう可能性はある。
 どっちにせよ、珊瑚にとっては看過できない事態だ。

「……結局、どっちに転んでも新志殿にご迷惑をお掛けする結果になるのでござる。せ、拙者のような武辺者を娶る新志殿も不憫でござるし」
「まぁ、斬絵は綺麗だと思うのだがね」

 言いつつアトリが拾い上げたのは、医務室でバーチェッカが新志に見せたお見合い写真であった。
 白無垢に身を包んだ装いは可憐の一言。凛とした雰囲気は抑えられ、恥ずかしげに俯く写真の中の彼女を見比べつつ、アトリは言う。

「……でも、それは兎も角。今回私が来たのは斬絵の支援なのだよ」
「?」

 ようやくここにやって来た本題を思い出したようにアトリは続ける。ここにやって来た敬意。新志が何を考えているか、先程の会話の内容の全てを伝えた。





「むぅ。……それは有難いでござるが……」
「私の面倒は考えなくていい。何せ私と新志は一緒にエロ本を読むぐらい仲の良い親友なのだからね!」
「……どんな状況なんだよアトリ……」

 確かに――新志とアトリは、以前珊瑚へのラブレターの一件からとても仲が良い。
 が、しかしアトリの言葉は流石に意外だ。新志は確かに普通に女性が好き。アトリは同性愛者。確かにどっちも共に女好きなのだが――よくエロ本を一緒に読んで気まずくならないなぁ、と珊瑚は妙な感心をした。流石、次元の違う変態。納得する。

「……でも、確かに新志も負けることの出来ない立場だよね」
「うう、まさしく穴があったら入りたいでござるよ……」
 
 立場が無いとはまさにこの事と言わんばかりに小さくなる斬絵。自分の実家が掛けている迷惑の度合いにますますしゅんとする。
 
「しかし参ったね。これ」
「新志に勝ったとしても……戦堂一倒流の看板に泥が付き、負けたとしても、結婚。あるいは婚約なのだよ」
「出来れば今すぐ実家にとって帰して親族連中の頬を張ってやりたい気分でござる」

 はぁ、と大きく嘆息を漏らすアトリ。

「勝負には勝つか負けるか引き分けかそのぐらいしか無いのに……どうにならないものかな」
「うん。……ん?」
「左様でござ……ん?」

 アトリが何気なく呟いた言葉――本人としては特に深い意味を込めたつもりではない愚痴に似たそれなのだが、珊瑚と斬絵の二人は先程の言葉の中に何か聞き逃せない重要なものを感じたようにお互いの顔を見合わせた。

「ごめん。……アトリ。もう一回」
「りぴーと、あふたー、みー、でGOZARU」

 二人がどうして真剣な眼差しで自分を見つめるのかは判らないが、珊瑚に頼られているというだけでフィーバーしてしまうというたいへん簡単な精神構造をしているアトリとしては断る理由はなにもない。

「勝負には勝つか負けるか引き分けかそのぐらいしか無いのに……」
「そう――そうだよ!」
「左様でござるな……引き分けという手があったのでござる!!」

 まるで地獄の釜の底で縋るべき蜘蛛の糸を見つけたように珊瑚と斬絵は仲良く手を取った。

 





 引き分け。相子(あいこ)。相打ち。互角。



 試合ではそう多くは無いが――実力伯仲と見なされる結果である。お互いに急所に攻撃を決め合う、あるいはどちらも戦闘続行が不可能と見なされる、審判の裁定によって決定される。
 では――今回の事態、新志と斬絵の勝負がもし引き分けという結末を迎えた場合はどうなるか。
 連城双闘流は、将軍家ご指南役という誉ある地位から蹴落とした戦堂一倒流の総帥候補と互角であると自尊心を満たすだろうし、斬絵自身も、新志と互角の剣力を持っていると強弁し――婿取りなど不要、と断る理由にもなる。

「そこは拙者が『拙者より強い相手でなければ結婚など御免でござる!』と強弁すれば良いので御座る!」

 戦堂一倒流も、連城双闘流と互角であるとなれば、まず面目は保たれる。新志自身は既に放逐した身であり、流派とはなんら関係なし――彼が引き分けという結果に追い込まれたのは破門され、修行を怠ったためという事が出来る。

「うん、行ける。これなら斬絵も結婚しろなんて言われず、戦堂一倒流の看板にも泥が付かない!」

 行ける、と斬絵と珊瑚の二人は確信する。 
 確かにこの手段ならば――引き分けに持ち込めば双方遺恨無くこの事態を収拾できる。そう喜ぶ二人であったが――ただ一人、切欠となる言葉を漏らしたアトリは一人浮かない顔であった。
 その様子に気付いた珊瑚は言う。

「……アトリ? どうしたの、なんか難しそうな顔して。いつもみたいな変態的な表情はどうしたの?」
「……いまサクッと酷いこと言ったでござるな」
「うん。ちょっと考え事でね。いつもの表情をしている暇が無いのだよ」
「……しかもアトリ殿も実に普通に認めているでござる。これが普通でござるか、あなおそろしや……」

 さすが、バーチェッカすら扱いに困ると漏らした変態と、その変態の手綱を取ってみせる珊瑚。自分とは比べ物にならないスルー能力であるのだなと、斬絵は変な方向で感心した。
 アトリは眉間を揉みながら言う。

「……うん。確かに引き分けって手段は有効だよ。……でもお互いの未来が掛かっているとはいえ、新志が……あの剣術馬鹿が八百長を受け入れてくれると思うかい?」
「……あ」
「それは……そうでござるな」

 新志は馬鹿だが、事勝負に限って言うならば真摯極まりない。
 アトリとの戦いでも、彼女の反則行為である魔術の使用ですら、己の敗北と自ら断じた。確かに受けてくれるかどうかは不明であり、もし八百長を持ちかけた場合、新志自身が頑なになる可能性もある。

「でも……やっぱり進歩は進歩でござるよ。アトリ殿」
「……斬絵」
「先程までは、どうすれば良いのか迷い戸惑っていたのでござるが、お蔭で何をすれば自分が一番望む結果を得られるのかわかったのでござる。……そう、即ち八百長無しで、新志殿と戦い何とか引き分けに持ち込み……」

 と――斬絵は言ったが、その言葉はどんどん尻窄みになり、頼りなく言葉が途切れる。
 自分でこれからやるべき事を確認して――その困難さを再認識したようにどんよりと表情を曇らせたのだった。

「新志殿と……引き分けにする。……戦堂一倒流総帥候補まで行き着いた彼を相手に……手加減……」

 自分が望む結果を引き出すために必要な条件を口に出して、アトリも珊瑚も引きつったような表情を見せた。
 戦堂新志――怒涛の剣速を駆使する剛剣使い。相手の防御など剣速と威力で全て叩き潰し押し潰す、悪鬼じみた豪腕の持ち主。最悪の怪物、魔元帥エルムゴートを相手に素手で互角に渡り合った筋肉馬鹿。あの苛烈な剣を相手に――引き分けに持ち込む。
 それがどれほど困難極まる行動なのか。
 どんな勝負もそうだが、実力伯仲の人間が相手を殺さずに終らせる事は、ただ殺して勝つより遥かに難しい。実行するには相手より数段上の技量、実力を要する。ましてや相手は斬絵よりも実力が上と見なされる相手である。難易度は唯の勝利よりも数段上に跳ね上がっている。
 そんな斬絵の暗くなった表情を見ながら、アトリは励ますように言った。

「斬絵、とりあえず指針は決まったし、新志のあの剛剣にどう対処するのか練習しなきゃ」
「……と言っても、新志殿のあの剣を再現できる相手など……ああ、いや、いる事はいるでござるな」
「え? ……あれをかい?」

 事前に練習試合を申し込もうにも新志は未だ病状である。
 否定しようとした斬絵であったが、そこで脳裏に閃くものがあったのか、同意するように彼女は頷いた。
 確かに生身で新志の剣を再現する事は不可能だろう。一度正面から新志の打ち落としと戦ったことのあるアトリはそう思う。例えていうならばあの真っ向唐竹割りの一撃は、落雷。あるいは山崩れ。おおよそ自然界の脅威と同じ人の力では抗し得ぬ印象を受けたのである。
 だが、ここは魔術師軍。世界各国から異能を持つ女性を集めた最精鋭。新志の剣の再現をするのは――何も人間でなくてはならないと決まったわけでもないのである。

「バーチェッカ隊長に許可をもらって……拙者の戦友、パワーアシストアーマー使いの『ケンタウロス』、炎 瑞麗(イェン ルイリー)に一手、指南を願うでござるよ」



[15960] 五番勝負――戦友帰還
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:6cd04321
Date: 2010/02/15 20:38
 パワーアシストアーマー。
 着用者の身体能力を上昇させるために装着する、マスタースレイブ方式の動甲冑。これの装着で着用者は本来の身体能力に加え、機械に底上げされた腕力で本来扱えない重武装が運用できる。
 世界各国で研究されている武装であり――獣魔との戦闘において白兵戦部隊はこれを着用して戦場に望むことになる。
 有名なのは弓国のパワーアシストアーマー『刃車(はぐるま)』。
 戦堂一倒流の門弟によって編成される弓国最精鋭部隊『巨刃衆』が扱うことでも有名なパワーアシストアーマーで、オプション武装の一切を排除して重量負荷を低減。機動力をランディングキャタピラで補い、大太刀のみを武装として多大な戦果を挙げている。

 それに対し、華帝国の『黒影号』は馬を模した多脚型を採用することで足回りへの負荷を抑え、武装積載量を増強しさまざまなオプション火器を採用している。高機動力と打撃力を両立させた機体は華帝国におけるベストセラーであるが、ただし多脚型を採用したことにより、機構が複雑化。整備が幾分か難解なものになっていた。

 しかし――魔術師軍においてはパワーアシストアーマーを実際に運用しているのは、バーチェッカ貴下の小隊員であるイェン=ルイリーしかいない。整備の方もそれ専用の工作機械が張り付いて十全な状況を保持し続けていた。
 彼女は、バーチェッカからの連絡を受けてだろう――その四肢をインナースーツで覆った人影が殺風景な野外の練習場のたたずんでいる。

「……事情は既に理解」
「急な頼みを引き受けて頂いて申し訳ないでござるよ、ルイリー」

 気にするな、と言いたげに首を横に振る彼女――イェン=ルイリーは魔術師軍の中でも珍しく、もともとは軍属上がりだ。南極の防人前衛(サキモリヴァンガード)所属で、そこで獣魔相手に戦績を重ねているうちに魔術師としての資質が認められたらしい。
 切れ目の怜悧な印象。百七十後半の長身をボディラインがくっきりと浮き出るようなインナースーツで覆った彼女は凍りついたような無表情の中、小さな声で呟いた。

「それに少し興味在り」
「? なにがだい?」

 今回新志と引き分けに持ち込む為に、斬絵に協力する事になった珊瑚とアトリに向けられた視線――微かに目を細めて言う。

「私のみが戦堂新志の剣速を再現可」
「左様でござる。ルイリーの『黒影号』ぐらいしか新志殿の剣速を再現できぬと考えたのでござるが……それが何か」
「逆に言えば、戦堂新志は私の剣速を再現可」
「……なるほど。確かにちょっと気にはなるかな」

 ルイリーの獲物とも言うべきパワーアシストアーマーは着用者の身体能力を劇的に向上させる。普通に考えるのであれば人間の腕力でパワーアシストアーマーを凌駕することなど絶対に不可能と断言できる。


 それがただの人間ならば。それがただの筋肉ならば。


 だが、戦堂新志の筋肉はなにもかもが規格外。唯の筋肉しか取り柄がないはずだが、その唯の筋肉こそが一番恐るべき武装なのだと言うことを珊瑚とアトリの両名は痛いほどよく理解できた。だからこそ、常識的に考えて絶対にありえないと断言できる、自分と同じ剣速を生身で出す新志に興味を抱かれても無理からぬ話だった。

「一度、アームレスリングをしてみたいかも。これを纏って」
「……普通に考えると無茶苦茶なんだけどね……」
「……もしかしたらパワーアシストアーマーと力比べして勝つかも、て、気持ちを否定できないのだよ」
「……あの、ご両人! そんな怪力無双な相手と戦わなければならない拙者のやる気を削ぐような発言は控えてほしいのでござるよ!!」

 もちろん斬絵の声など今更気にする事もない。ルイリーは両足を撓めている愛機の中へその体を滑り込ませると、内側から閉鎖ボタンを押す。同時に鋼鉄で形成され電気信号で制御される鉄脚の騎馬、人の上半身を持つ人造のケンタウロスは、有機的な生物であると錯覚させるような滑らかな動作で直立する。
 彼女専用にカスタマイズされた『黒影号』は、重火器のハードポイントを排除し、火力装備をできなくした代わりにより、より一層の重装甲とパワーを得ることに特化した機体だ。
 ルイリーの指先の動作に従うように、腰部にマウントされていた三メートル近くの巨大な長獲物、総鋼鉄製のハルバートを構える鋼のケンタウロス。アトリと珊瑚の二人は邪魔にならないように離れた場所から観戦に入る。
 内部から電子機器を通してルイリーの声が響いた。

『では。いざ』
「……お願いいたすでござる!」

 小太刀を二刀構える斬絵。相手の長大な獲物に比べればどうしても見劣りしてしまうが――元々人との戦いを想定していた小太刀二刀流から派生した流派が内包する術理の豊富さは、獲物の射程の不利を補って余りある。
 ルイリーが操る鋼のケンタウロスの前足が跳ね上がり――まさしく馬のように後ろ足のみで体躯を支える。ただでさえ巨大なパワーアシストアーマーが三メートル近くの高度に上半身を持ち上げる。そのまま前肢ごと墜落するような勢いで、ルイリーは両腕に構えるハルバートを振り下ろした。

 斬絵は小太刀を構え――その迫り来る怒涛の一撃を凌ぐべく、精神を集中した。







 それからなんだかんだあって三日後。

「ヘイ、新志!! タダイマデース!!」
 
 馬鹿に陽気な声と共に新志の病室の中に沢山の紙袋を抱えて入ってきたのは、彼の同僚であるジャニー=ジャック=ジェットラム。チョコレート色の褐色の肌はここ数日の休暇のお蔭か、更に浅黒く焼けている。相変わらずヘソ出しの格好がいやに艶かしいその友人は――きっと故国でヌーディストビーチにて命の洗濯をしてきたのだろう。全身から生気とか生きる気力とか性的欲求を解消して満足しきっているとか、そういう感じのもんがあふれ出ていた。

「だれかと思えばジャニーじゃねぇか。とりあえずヌーディストビーチの空気を感じさせる一品があれば分けて欲しいのですがどうでしょうか!!」

 新志は土下座した。

「……ユー、なぜそこまで必死で下手に出ているのですカ。でもまぁ、新志のお土産はヌーディストビーチらしく……」
「おお、そういう裸のお姉さんが写ったお写真なのでしょうか」

 普通に期待に目を輝かせる新志。ジャニーは――がさごそと袋を漁った。

「大切なところをかくすためのイチジクの葉しかありませんデスねぇ」
「流石自室では全裸派!! これはこれで意外だなぁ!!」

 そもそもイチジクはアメリア精霊合唱国にあるのだろうか。新志は少し考えたが面倒になって考えるのをやめた。
 はぁ、とため息をつきながら――イチジクの葉以外のお土産の荷物を見て不思議そうに首を傾げた。まさか中身全てイチジクの葉とかそういうものではあるまい。新志は質問する。

「それじゃあこの他の大量の荷物は?」
「アア、ヌーディストビーチらしく、むしろ裸よりもエロイヤラシイ水着デス」
「な、なにぃ?!」

 俄然食いつきだす新志。

「そ、それはもちろん早乙女にも大変エロイヤラシイ水着を買ってきたという事ですよね?!」
「オゥ……それが早乙女は事前に『僕の分のお土産は無用だよ、愉しんでおいで』といわれていましたから用意していませんデス。ですからそれ以外の仲間の分デスね」

 その返答に途端テンションが落ちたような新志は――そこでなにやら聞き捨てならない事実に目を剥いた。胸中に沸いた最悪の疑念を――おそるおそる確かめるように口を開く。

「……あの、ジャニー。一応まさかとは思って聞いておくんだが……」
「ハイ、なんですカ?」
「……裸よりエロイヤラシイ水着って……誰の分の?」
「HAHAHA、勿論――新志以外の魔術師軍の知り合い全員分デース!!」

 新志は想像した。
 下手な裸よりエロイヤラシイ水着――を装着した魔術師軍の男性達の姿を。
 下手な裸よりエロイヤラシイのだからきっと――股間の紳士を強調するかのような超ハイレグパンツとかなのだろう。実際の光景を想像した戦堂新志は、脳内に浮んだその恐るべき光景に恐怖と戦慄の汗を流した。
 股間の膨らみを堂々と強調するかのような水着で肢体を包んだ男達、むき出しにされた尻の群、波と戯れる野郎ども――新志は脳髄に閃くモノスゴイ光景に血を吐きたくなった。震える指先をジャニーに突きつける。

「……おっ、お前……な、なんて恐ろしっ、い……」
「……オゥ……新志もきっと喜ぶと思うデスが」
「喜ぶか!! 俺が好きなのは普通に女性だ!!」
「そう言いますが、魔術師軍のメンバーは皆顔が良いデス。案外危険な魅力に嵌まってしまうかもしれないデース」
「……決してあり得ないと断言できない自分が怖い」
 
 ジャニーはにやにやと人の悪そうな笑顔――勿論魔術師軍全軍がうら若き女性で編成されている事を知っているジャニーは、下手な裸よりエロイヤラシイ水着を身に纏った同僚達が勢ぞろいすれば、男性にとってどれほど蠱惑的な光景が現れるか知っている。だが、全員男性と信じている新志からすれば――それはまさしく暗黒の楽園。大変気持ち悪いこの世の地獄。南極の戦場とてそこまでオゾマシイ場所ではないだろう――真剣に吐き気を覚えているらしい新志は、ようやく包帯の取れた腕で自分の胸を擦っていた。

「まぁ、早乙女にも悪いし、ちゃんとエロイヤラシイ水着を通販で買ってプレゼントするデスよ!!」
「ありがとうございます!!」

 そこで土下座する新志。
 先程までの蒼い顔はどこへやら、表情は気色に満ちていた。

(……実際新志が、エロイヤラシイ水着を着た早乙女を見たらどうなってしまうのか見てみたい気もするデース)
「ジャニー。お前今俺に対してとても恐ろしい事を考えなかったか? なんか不自然な寒気がするんだが」
「気のせいデス」

 きっとそんなものを見たら、水着の記事一枚に覆われた早乙女の股間の野獣を見てしまったら――新志は心に深い傷を負うに違いない。
 それはそれで面白そうだと思った、外道なジャニーであった。







「ところでデスが、新志」
「あん?」
「もう腕は良いのですカ?」

 包帯の取れた手で自分の胸を擦っている時点で新志の腕がほぼ回復している事を見て取ったジャニー。そう質問する。
 新志もこくりと頷きつつ、自分の腕をぐるぐると回してみる。うぃーんと音を立てて<ジーニアス>の操る医療器械が近づいてくる。

「特に問題はねぇかな」
『日常生活に支障がないレベルには回復しました。しかし念のため、あと数日は剣を握らないで下さい。下肢の軽い運動程度ならば許可します』
「話が判るな」
『許可しないとまた何か運動しそうでしたので。先に許可を与えておきました』
「OK、快気祝いに5キロほど走ってくるかな」
「……相変わらず体力だけは馬鹿げていますデース」

 早速室内で準備運動を始めている新志を見て流石に呆れたような声を漏らすジャニー。
 
「フムン。では快気祝いに新志にプレゼントデース」
「おお、なにかな」

 差し出された紙袋の中身を出してみる。
 新志は、股間の膨らみを隠す以外はヒモ同然の布地しかないTバックデザインのものすごい水着を手に入れた。
 




 見なかった事にして袋の中に戻す。





 そのままためらわずゴミ箱へシュートした。
 
「人が折角プレゼントしたものを本人の目の前で捨てるとはどういう了見デスか!! ユーは礼儀というものを知らなさデス!!」
「……快気祝いにこんなもん贈られたらショックでまたベッドに逆戻りして寝込むわ!!」
「先程の新志の発言、『ヌーディストビーチの空気を感じさせる一品』と言ったから、要望どおりヌーディストビーチの空気を感じる逸品を出したまでデス! ミーは悪くありまセン!!」
「確かに風通しだけは良さそうだな……」

 新志は疲れたような声を漏らして――物は物だが本人の目の前でプレゼントを捨てるのは失礼だと考え直したのか、それをゴミ箱から拾い上げた。

「……仕方ないから後でアトリとか朱絶佳にくれてやろう」
(ミーはもしかして新志にモノ凄いセクハラをさせてしまったのデショウカ)
 
 勿論真相を告げる訳にはいかない。それになんだか面白そうだ。
 ジャニーは、一人ニヤニヤしながら新志を見守る事にした。








「最近、なんだかんだでアトリと珊瑚と斬絵は来なくなっているんだよなぁ」
「決闘の噂は聞きましたデス。無理も無いと思いマス」

 まず新志とジャニーは朱絶佳に会いに行く事にする。
 最近は新志の体の清拭作業を手伝うためにマメに足を運んでいた筋肉マニアだが、最近では新志が介助の必要なく入浴できるようになったためやってくる回数が激減した。
 友人のはずなのに。新志は友情のはかなさに改めて愕然とする。

「……やっぱり何より優先するのは筋肉なんだよなぁ……」
「そういう子ですので仕方がありませんデス」

 医務室に押し込められてしばらくいけなかった室内の練武所に向かえば、朱絶佳は大勢に混じって模擬試合の真っ最中だった。邪魔をするのも悪いので、一段落付いたら話しかけることにする。
 そう思っていたが――試合が終われば先に声を掛けていたのは朱絶佳だった。戦いつつも新しく練武所にやってきていた二人の姿を見つけていたらしい。拳術家らしく視界が広いな、と感心する新志。

「おおー、あんちゃん。もう良いんだ?」
「おう」
「それはつまりもう二度とあんちゃんの清拭作業を手伝えないと言う事かー。残念だなー。じゅるじゅる」
「……あの新志。怖いのは判りますガ、ユーの方が身長も横幅も大きいデスからミーの後ろに隠れても無駄デス」
「ならなんか秘術とか使ってでかくなれよ!! あの化け物の血引いてるんだろ!! ほら早くドラゴン変身!!」
「むしろ魔元帥エルムゴートの血を引いているということはミーにとってマイナスなんですガ……」

 ジャニー――流石に嫌そうな表情を見せながら新志をずい、と前に押し出す。
 筋肉云々は兎も角、戦友の身体が治ったのは素直に喜ばしいのだろう。絶佳は嬉しそうに笑いながら言う。

「で、あんちゃんどうしたんだー? 身体が治ったって知り合いに話して回っているとか?」
「なに、ジャニーからプレゼントを貰ったんだが、いらないので譲ろうかと」

 そう言いながら朱絶佳に先程の紙袋を手渡す新志。わー、なにかなーと言いながら中身を見る絶佳。









 新志は殴られた。















「あ、あ、あ、あんちゃんは変態だよー!!」
「男同士のジョークアイテムのはずなのにどうしてツッコミがこんなにも暴力的で激しいのだろうか」
(……いや、例え、男同士だったとしても殴られるかも知れないデース)
 
 顔を真っ赤にしてプルプルと震える可憐な少年と、顔面に一発叩き込まれても小揺るぎもしない筋骨隆々の青年と、その後ろに付いて歩いて笑いを押し殺している褐色の肌の元凶――もちろん新志が殴られたのは、このうち自分以外の二人の性別が実際は女性であるからだった。
 友人の女性にエロイヤラシイ水着を男性が送ったらそりゃ怒られる――当然新志はそんな事実など知らないのであるが。納得以いかなさそうな表情で呟く新志。

「まぁ、仕方ないしアトリ辺りに回すしかないかなぁ。あいつはうちの小隊の中で一番のエロ男爵だし問題ないだろう」
「……………………」「……………………」
「……あの、なんで二人して俺に何か物言いたげな眼差しを向けるの?」

 いくらアトリがエロ大好きの変態だとしても一応は女性なのだ。こんな羞恥プレイな水着を渡されて平静でいられるのだろうか。それはそれで興味があるなぁ――とアイコンタクトで意思疎通を交わす、息ピッタリの二人であった。
 さて――無自覚セクハラを繰り返す恐るべき存在と化した新志とそのお仲間二人の変態御一行であったが、流石にアトリがドコにいるのか判らないのでは行き先がわからない。斬絵の練習の手伝いをしてやってくれと頼んではおいたから、今も自分を倒すための練習に励んでいるのだろうが、戦闘を目的とした組織だけあってそういう施設は多い。どこに足を運べば良いかな、と思っていた新志――そんな彼に声が掛かった。

「おおっ、新志さんではありませんか! お体はもう宜しいのですか?!」
「OH、バーチェッカ、相変わらず書類と格闘でスか?」
「……見ているだけで頭が痛くなるぐらいに分厚いなー」

 ぺこん、と勢い良く頭を下げるのはバーチェッカ。胸元には書類の類を抱えている。

「ああ、お蔭様でな。……ところで、アトリの奴が何処にいるのか知らないか?」
「む? アトリさんですか? それなら、自分の小隊の斬絵とルイリーとサンゴさんと一緒に訓練に励んでいるそうですが。場所はここをまっすぐ行った先の野外訓練場ですよ」

 さすがにここで指揮官と言う要職に付いているだけのことはある。その少女的な風貌とは裏腹に脳内は冴え渡っているのだろう。新志は頷いた。

「ありがとう。助かったぜ……ああそうこのみず……ごふぅ!!」
「新志! いくらなんでもバーチェッカにそういうモノを見せるのは許されませーン!!」
「あんちゃん、やっていいことと悪い事があるぜー!!」
「え? ええ? い、一体何事なのですかー!!??」

 キケンな水着、もしかしたら貰ってくれるかなぁと思った新志であったが――さすがにそれは見逃せまいと判断したジャニーと絶佳によってそれは事前に食い止められた。
 その仲間の突然の凶行に新志は不意を討たれて倒れ付す。
 ジャニーと絶佳は、バーチェッカに一礼した後、そんな新志を粗大ごみを引きずるようにずりずりと両足を引きずっていくのであった。
 そして引きずられながら、ばいばーい、と手を振る新志に、手を振り替えした後、バーチェッカはそのまま何事も無かったように仕事に戻る。その辺の冷静さ、流石指揮官であった。






 もちろん――戦堂新志の剣速を再現可能、といっても、あくまで再現できるのは剣速と威力のみだ。
 上半身を跳ね上げて振り下ろすハルバートの一撃は重い。だがその予備動作という点に関しては、パワーアシストアーマーの方が遥かに大きい。新志の剣を直接受けたアトリとしては、実際はもっとモーションの小さい動きで振り下ろしてくると言う事だった。

『……続行?』
「無論でござる!!」

 ルイリーの言葉に勢い良く応える斬絵。
 だがそれを差っ引いても、相手の攻撃が壮絶な重さを有している事実は変わらない。既に幾度も相手の攻撃をいなし続けてきた斬絵はそれでも訓練を続投する。
 新志の攻撃で恐ろしいのは一太刀一太刀の重さもあるが、その凄まじい剛剣を振りながらも試合中まるで剣勢が衰える事を知らない事もある。タフネスという点では女性と言うハンデもある斬絵。もし勝ちを得るのであれば、相手の剛剣を受け続けるより先、動きの精度が衰えないうちに短期決戦を仕掛けるしか無かった。しかも其処に相打ちという要素を持ち込まなければならない。難題は山積みのままであった。
 そんな斬絵のアドバイザーとして参加していた珊瑚とアトリの二人は、やって来た三人に、おや、と声を上げる。

「あれ、新志。そっか。体治ったんだね?」
「やぁ新志。……に、二人もか。ふふ、小隊勢ぞろいだね」
「心配掛けたな。……とはいえまだ本調子でもねぇから、精々林檎を握りつぶす程度しか……」
「……それでまだ本調子でないから嫌になるデース」
「……まぁ筋肉でブラックホールを発生させる男からすればたいしたもんじゃないのかもしんないけどー」
 
 復帰を祝う言葉が途中から呆れ半分のものに変わっていく。ジャニーと絶佳の言葉に苦笑する珊瑚とアトリは――戦う相手である新志の前で練習をするのも相手に情報を与えるものと判断したのか、練習を切り上げて此方へやってくる。
 新志――少し感動した様子で、華帝国のパワーアシストアーマー『黒影号』を見上げた。

「へぇ……頭部パーツの形状からして初期ロット版か。最初期の量産型じゃない試作型か。やっぱり名機はオーラが違うな」
『……一目で見抜かれたのは初めて』

 平坦なルイリーの声に微かな驚きが含まれている。実際他のメンバーからすると、何が通常版と違うのかさっぱり見当が付かないのであるが。

『……後で話をしてみたい』
「降りてくれれば良いと思うが?」

 不思議そうに首を傾げる新志ではあるが――この反応に困ったのは斬絵を始めとする皆であった。
 なにせパワーアシストアーマーを着込んでいる彼女は、機体から出れば、素肌の上に直接纏うインナースーツしか着込んでいない。幾ら亜空間格納ブラジャーと言えども明確に女性のシルエットを見せ付けられれば新志が気付く可能性があった。
 絶佳とジャニーは瞬時に視線で会話を交わす。

「そういえば、あんちゃん! アトリに譲るもんがあるんだろー??!!」
「早速渡して下さいデス!!」
「……フム? なにか知らないが……何を譲ってくれるのだい?」

 後を押すような二人の言葉に、面白そうな表情のアトリ。
 ほれ、と新志は紙袋を差し出す。受け取った中身を改めるアトリ。さぁくるぞくるぞ、となんだか愉しんでいるような表情のジャニーと絶佳の目の前で、アトリは応えた。

「……あー、悪いが既にこの水着は持っているね」
「「「「「「え?」」」」」」

 見事なTバック水着を広げたアトリの発言に――全員引きつったような声。
 アトリは、ふぅ、と残念そうに続ける。

「最初はサンゴくんに渡そうと購入したものだったんだけど――流石に一時のテンションから回復すれば私も二の足を踏んでしまってね。今では私物の物置の一番奥……って、あれ? ちょ、ちょっと、なんでみんな逃げるんだい?!」
『……色々と身の危険を……』
「ちょ、ちょっと酷いよ!! それ普通に酷いよ、うわー!!」

 どどどどど、と騎馬そのものの動きで逃げ出すパワーアシストアーマー『黒影号』と、その中から響くのはルイリーの怜悧な声。ただし言葉の中にはやはり怯えが多く混じっていた。『黒影号』の背中にかなり無理やりみんな仲良く乗り込んで逃亡する姿を遠くに見つけ、思わずハブられた寂しさで追いかけようとするアトリ。
 そんな相手をすごいスピードで引き剥がしながら――絶佳とジャニーは、騎馬の上でハイタッチする。あのままルイリーの生身を新志に見られたら、だいぶ困っていた事になっていただろう。

「……流石変態だぜー」
「頼りになるデース」

 だが、だからこそ――自分たちの予想を上回る変態発言で状況をうむやむにしてしまったアトリの変態性には感謝するしかない。新志といえども、アトリのあの台詞の中、ルイリーと会話する事など考えることも出来まい。

「……変態も、状況によっては役に立つのでござるなぁ」
「……ボクも今知ったよ」

 斬絵と珊瑚の二人も――追いかけているうちにつまずいて転んだアトリを見ながら呟く。
 アトリは自ら変態そのものの発言をして新志の追及をなかった事にしてくれたのだ。自ら犠牲になって新志の追及をかわし、魔術師軍全体の秘密を身体を張って護ってくれたのだ――と、みんな、そう考える事にした。
 その献身に感謝するように、うわーん、お、おいてかないでーといじめられっこのように声を上げるアトリに対して敬礼する男装少女達。




















 

 新志は――あれ? ここってみんなで敬礼するようなカッコいいシーンなの? ――と疑問に思ったが、周囲の仲間達の空気に押されてツッコミを控える事にした。
 彼は、空気を読んだ。



[15960] 五番勝負――本番
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:6cd04321
Date: 2010/02/20 13:41
「そもそも、魔術と言うものは本来どんな人も相応に所有していた力と言うのが最近の定説であります!!」

 わざわざ掛けた眼鏡をくいと吊り上げて、椅子に座ったまま難しそうな表情をしている戦堂新志に聞きやすい大きな声で説明を続けるのはバーチェッカ=イアサント。その学識も知性も十二分に教師役を務めることができる能力なのだが、生憎とその幼い容姿を見れば――ただの子供が背伸びして授業しているようにしか見えない。
 しかし外見的な幼さも相手の説明を要求した新志にとっては文句など出るはずもない。いや、実際に教師役としては非常に有能なのだ。先程から脱線を繰り返している事を除けば。しかもその話し方といい、噛み砕いた授業内容は十分面白く、新志はその脱線を愉しんでいる事に気付いていた。

「じゃあなんで魔術は俺らみたいな数少ない人間にしか使用できないんだ?」
「その辺を話すには、そもそも魔術がどうやって使用できるようになったのかを解説しないといけません!」

 新志の言葉に――再び脱線の予兆的な発言が出てくる。
 が、新志はこくり、と頷いてGOサインを出す。

「……新志さん。貴方は隕石ってなんだと思います?」
「あん? ……宇宙からの飛来物?」
「そうですね。それも間違っていないのであります!!」

 うんうん、と頷くバーチェッカ。

「では、世界とは一体何を指して言うでありますか?」
「……この惑星?」
「左様です!! では、隕石とは――我々が暮らすこの惑星とは全く異なる物理法則が支配する異世界からの漂着物と考える事はできませんか?」

 ん? と新志は得心が行ったように目を見開いた。

「……魔術とは――そもそもこの世界、というよりはこの惑星の物理法則には存在していなかったが……この世界とは異なる物理法則が支配する世界からの漂着物である、隕石によってもたらされた?」
「正解です!」

 クラッカーが弾けた。
 ……何処に隠し持っていたんだろう、と思ったが新志は口を出すのを控えた。

「かつて世界を塵の雲が覆いつくしました。当時、地球全体を席巻するほど存在した恐竜は――隕石落下に伴う冬の時代を迎え大勢が死滅したそうです。その際粉みじんに砕けた隕石は極小の塵と化して地球全体に散布されたと考えられているのであります」

 新志は――その言葉の中に含まれた奇妙な内容に思わず首を傾げる。

「……死滅した……って。なんか生き証人がいたような言い方だな。あんまり詳しくは無いが、確かそれって万単位で昔の話じゃなかったのか?」
「ええ、ですから――アメリア精霊合唱国の竜王さん方にインタビューしたそうなのです!! 当時の研究者が!!」

 そういえば知性のある凄く長生きしそうな存在がアメリアにはほんの百年ほど前までご壮健だった事を新志は思い出した。
 
「そもそも、アメリアの竜王さんも、その隕石がもたらした違う惑星の物理法則の影響を受け、殺戮の冬を生き延びた数頭の恐竜が変化したものらしいのですから。
 そんな訳で――昔は、男性女性関わりなく魔力を用いる事が出来た人は事の他多かったそうなのです。それが、年々減少化の一途を辿りました。ただその原因も現在は不明なのです。……南極に落下した隕石に対し人類全体の主としての意識が対抗するため力を一点に集中させているというのが学説なのですが」
「南極に落ちた隕石か」

 こくり、と頷くバーチェッカ。

「この両名には何らかの因果関係があるものと考えられているであります。獣魔が地球原産の動植物と告示した形状をしているのも恐らく人間の根源的な恐怖心が彼らの姿形に影響をしているのでしょう」
「……で、そろそろ本題に戻してくれ。早乙女とバーチェッカ、あんたが使う魔術ってのは別物なのか?」

 新志が最初感じた疑問とは――単一の力しか使用できない新志達と違い、各種属性の魔術を使用できるという早乙女とバーチェッカは、一体何が自分たちと違うのか、という単純な疑問に対する回答を求めただけであったのだが。時間を見れば既に数時間が経過している。以前聞いたのは、早乙女とバーチェッカは四大を収めているという事実だけであり、何が自分達と違うのか――という点だった。

「要するに、自分と早乙女氏が扱う魔術は古典的な、技術としての魔術。それに対して、皆が持っているのは二つとして同じものは発現しない――個人個人の特色、その人のみにしか扱えない異能のようなものなのであります」

 この解説に辿り着く道のりを思い出し、新志はようやく終わったと息を漏らした。

「話を戻します!」
「……いや本題がずれている! 俺が教えてもらいたい事はもう終わった!!」

 どうやらバーチェッカは説明大好きという性質を持っていたのか――新志の静止に対して少しむくれた様な表情。

「え? ここからが面白いのでありますよ。すなわち、隕石とは違う世界の物理法則を内包しており――それを経験則で知った当時の権力者は星辰の彼方より飛来した隕石で武器を作ったのであります! 流星剣、隕鉄剣と呼ばれたそれは古来より王権の象徴であったであります! 例えば、弓国の護国神宝は世界でも有数の二メートルを上回る大太刀――」
「はぁ、……天下大逸刀(てんかだいいっとう)だろう?」

 新志の言葉に――バーチェッカは少しきょとんとしたような表情を浮かべた。自分の解説が途中で止められたのは兎も角、彼女の言葉を先取られたことが信じられないように目を剥く。

「隕鉄を原材料として叩き上げられた大太刀の『天下大逸刀』は、今上陛下より戦堂一倒流総帥に信頼の証として下賜された至高の宝重だ。神域に安置されたあれは年に一回二回、お倉より出される代物でじかに見たのは俺も数回だけどな。……確かにあれは剣士としての本能が大きく揺さぶられる」
「……し、信じられませんです!」

 何か物凄く信じられないものを見たと言わんばかりに驚愕の声を上げるバーチェッカ。
 新志は首を傾げた。

「なにをそんなに驚く」
「あ、新志さんが――頭が悪い事には定評のある新志さんがそんな事に詳しいなんて……!!」
「……お前が何に対して驚いているのかなんとなく判ってしまった」

 新志は頬を掻いた。
 確かに魔術師軍の中ではフィジカル面は最高ランクだが座学では見事なまでに最下位を張っている戦堂新志なのだから、きっと馬鹿に思われていたのだろうなぁと納得はできる。納得はできるが面と向かってそれを指摘されるとなんだか情けなくなってくる戦堂新志であった。








「……あー、知恵熱熱い知恵熱熱い」
「……なんで説明を受けていただけの新志が知恵熱出すの?」

 机の上に突っ伏して頭の上に氷嚢を乗せ、うーんうーんと呻き声を上げている新志を見上げながら珊瑚は少し呆れたような表情を見せた。

「……脳みその容量が5キロバイトの俺に何を期待している」
「さすがにそれは卑下しすぎだと思うけどさ。……新志、結局斬絵さんとの勝負、どうするの?」

 目下の最大の悩みである連城斬絵との勝負――新志は頭痛の種を思い出したように眉間に皺を刻んだ。

「……俺は手加減できない性分だ」
「……じゃ、斬絵さんの妹さんと結婚するの?」
「……それは困る」

 選べる事が出来ればいい。だが、この場合どちらも正解ではない。未だに新志は困惑の渦の中にあり、自分が行動するための指針を得ることが出来ないでいる。
 ……アトリにも言われたが、新志は自分が中途半端な心理状態にある事を自覚していた。勝っても負けてもどちらも地獄。見知らぬ女性の未来のために敗北するか、一度は捨てた流派の看板を護るために勝利するか――彼にとってはどちらもおいそれと譲る事の出来ない話である。そもそも義兄と義姉の恋を護るために出奔したのだから、彼にとっては一度も会った事が無く話した事の無い女性のことも同じく心配だった。だが、戦堂一倒流の総帥候補として敗北すれば実家の捨ててきた家族にいらぬ迷惑を掛ける。

「……なんでこんな頭を使わせるんだ。俺に出来る頭の使い方なんて頭突きしかねぇぞ」
「それ、頭を使うとはいわない」

 珊瑚の言葉にも――力なく項垂れたまま。新志はため息を吐いた。










「って感じで新志は迷っている」
「朗報と言えば朗報なのだよ。……とはいえ、削げたのはあくまで精神面。物理的な脅威は未だ健在だ」

 野外の練習場で斬絵とルイリーが訓練を続けているのを見ていた珊瑚とアトリは――再びパワーアシストアーマーの圧倒的な暴圧に押し負けて吹き飛ぶ斬絵を見た。
 訓練の結果は――正直厳しい。
 新志と同等の出力のパワーアシストアーマー『黒影号』の一撃は、小太刀を持って相手の攻撃を逸らし捌いて懐に飛び込もうとする斬絵をその体躯ごと吹き飛ばした。空中へと跳ね飛ばされる斬絵――だが猫のようにその四肢を大地に対して平行に保ち着地。小太刀二刀を構え――既にその時点で四脚騎馬型の正面突撃力を生かし間合いを詰めていたルイリーのハルバートを受ける。

『……続行?』
「……いや、よくわかったのでござる」

 電子音声を通して響く彼女の声に――斬絵はどこかさばさばとした表情。
 中断と見て水とタオルを差し入れにきた珊瑚とアトリは彼女の言葉に首を傾げる。彼女も今回の話の犠牲者だ。何せ勝たねば新志と結婚。……珊瑚が見たところどうしても嫌――と思っているように見えないのが気になるのだが。
 斬絵は謝辞と共に水を含んでから、なにがわかったのだろう? とクエスチョンマークを頭の上に浮かべた全員に言う。

「拙者がまともにやっても新志殿には勝てないということがよく判ったのでござるよ」
「新志はやらないぞ! 先にボクが唾付けたんだ!!」
「……サンゴくん、サンゴくん、本音本音」
『……みんな気が早い』

 斬絵の発言に憤然とした様子で顔を真っ赤にする珊瑚とそれをどうどう、と後ろから掴んで制止するアトリ。ルイリーも待機モードに移行して『黒影号』の内部から身体を表す。傍に置いてあったコートを羽織った。

「これまで私と百以上試してみた。斬絵が懐に飛び込めた回数はゼロ」
「……新志殿は正統派の剛剣使いでござる。そして大上段の構えに絶対的な自信を持っているとも伺っているでござる。……ならば、その初撃を何とかかいくぐって懐に飛び込む。……小太刀二刀の我が流派の真髄は接近戦。其処ならば如何様にも料理できる術理を満載しているのでござるが……」
「結果は先の通りか。新志の剣は強力だからね。私も剣を投擲するという手段でしか踏み込めなかった」

 武器を投げるというのは確かに有効な手立てである。だが、その手段は既にアトリが使用しているために新志の中には心構えができているだろう。思考の硬直、意表をつかなければ奇襲は成功しない。アトリに抑えられた珊瑚がぎゃあぎゃあと騒ぐ。

「じゃあどうするのさ! このままじゃ結婚だよ、それでいいの斬絵!!」
「……い、いやまぁ拙者としてはそれはそれで悪く……あ、あの、サンゴ殿。その爆弾はどこから……」
「危ないね。サンゴくんが身体に危険なものを身体をまさぐって隠していないか確かめよう。ほーら身体検査だよ、ぐふふ」
「……アトリ。セクハラをしてはいけない」

 頭に血が上っているためかアトリの行為に気付いていない珊瑚。状況にかこつけて息を荒くしながら珊瑚の身体をまさぐるアトリ、そんな彼女をルイリーは相変わらずの無表情のまま止めた。
 自分ひとりの発言によって引き起こされた目の前の堂々としたセクハラ行為に若干引いていた斬絵であったが、苦笑を浮かべて応えた。

「落ち着いてくだされ、サンゴ殿。……拙者は正統派な小太刀二刀流では到底勝てぬといったのでござる。手段を正統派以外に求めれば手段が無いわけでござるよ」

 その言葉にセクハラが止んだ。
 アトリも絶好の好機であるにも関わらず驚きの目線を斬絵に向ける。無表情のままアトリを止めようとしたルイリーも目を剥く。正気に戻った珊瑚は自分の胸の中に手を入れたアトリを鎖分銅で締め上げてその辺に転がした。鎖がごつごつして結構痛いはずだが大丈夫だろう。アトリは快悦の表情を浮かべていたが、全員無視であった。

「……とはいえ、これは奇剣邪剣の類。できるならば使いたくは無かったのでござるが」
「……どうするの? 斬絵。ボクにはまっとうにやって新志に勝つ手段なんて思い浮かばないんだけど」

 頷く斬絵。

「新志殿は、正統派な剣に拘らぬでござる。……例え相手が正式な剣術勝負では違反行為とされるような行動でも『それもまた実戦』と受け入れるところがあるのでござるよ」
「それは確かにそうだね。そうでなきゃアトリとの試合を自分の敗北にするわけもないもん」
「為ればこそ、邪剣が生きる」

 人の悪そうな笑顔を浮かべる斬絵に珊瑚は尋ねる。

「引き分けに、出来る?」
「……恐らく勝敗は一撃で決まるでござるよ。……まぁご覧あれ。戦堂一倒流とは違い、対人戦を源流にする連城双闘流が蓄積する、膨大な搦め手の一端をお見せいたそう」









 練武場に人が集まる。そういえば以前の試合もこんな具合に大勢居たなぁと思いながら、新志は己の背中に引っさげた模造の大太刀を叩く。

「そんな訳で、今回もミーが司会進行を務めさせて頂きますデース」
「だからヘソだしはよせと……もういい」

 相変わらずヘソだし燕尾服のジャニーの言葉に新志は声を掛けるが――もう毎度の事だと諦めることにしたのか、軽く嘆息を漏らすのみだった。ぐるりと周囲を見回し観客を見てから――彼の闘う相手である斬絵が立つ場所を見た。
 まだ――誰も居ない。

「ジャニー。斬絵は?」
「時間は正確に通知したデス。……絶佳に呼びに生かせたのでスが」

 既に、試合の開始予定時刻を過ぎている。ほんの数分ではあったが、試合を仕掛けた側の相手が試合の時間に遅れるなど――名門連城双闘流の人間のやることとは思えない。

「……いや、これも策なのか?」

 自分が勝利する事にも敗北する事にも納得が出来ない新志は今回敢えて自分の剣速を熟知するアトリに敵側の支援を頼んだ。これも自分に勝利するための術なのだろうと考えて新志は軽く呼吸する。その時、ようやく対面に進み出てくる人影の姿を視界の端に捉えた。
 同時に――ざわめきが大きくなる。
 それは確かに、新志が予想だにしなかった展開であった。
 連城斬絵はいつもの姿で歩み出る。



 いつもの姿と違っていたのは――斬絵がこの試合に臨むに当たって、獲物として選んだものが扱いなれた小太刀二刀流ではなく――新志と同じような大太刀だったからである。




 時間が経つにつれ、ざわめきは大きくなっていく一方。
 これは無謀だ――というのが観戦する魔術師軍の戦士達共通の思いだった。斬絵の剣は大きく技術に傾いている。至近距離での手数は新志を圧倒的に上回るだろうから、彼女が如何にして懐に潜り込むかが試合の焦点だったはずだ。
 だが、彼女は扱いに習熟した小太刀二刀流ではなく、使い慣れぬ大太刀を選択している。
 それに対して――戦堂新志は戦堂一倒流の総帥候補。同門との鍛錬試合の中で大太刀を相手にした試合はそれこそ星の数ほどこなしているはず。

 斬絵のそれはどう考えても悪手。

 だが――新志は相手の眼差しに浮ぶ自信の光に気付いたのだろう。自ら敢えて不利な『はず』の獲物を携えてきた相手に疑問の言葉も投げかけず、ただ表情に面白そうな色を浮かべると、背に負う模造の大太刀を構えた。
 斬絵も同様に――大太刀を構える。
 両名――自分達二人を取り巻く雑事の全てを念頭から吹き飛ばして、酷く楽しげに笑った。両名はどちらも名門流派を代表する剣士――おいそれと他流対決などできぬ身の上であるが、此処に至って望外の機会を得た。流派の名誉とか結婚とかそういう事が心の中の比重を占める割合がどんどんと軽くなり――ただ勝ちたいという願いだけが鋭く尖って両名の心理を満たす。
 やはりどちらもその根っこは剣士、ただ剣を冴えさせるためにのみ心血を注ぐ剣妖の眷属であった。

「はじめっ」

 両名の闘志を肯定するようにジャニーが試合開始の号を飛ばす。
 新志――大上段の構え。猛虎が四肢を撓めて獲物を狙う姿と同質の、彼が好む単純明快な超攻撃姿勢。
 それに対し、斬絵のそれは――明らかに大太刀を使っているとは思えない奇怪な体勢だった。
 まるで大太刀の扱いなど知らぬとばかりに――柄頭は下を向き、納刀されたままの刃は真上。勿論柄を握る腕は片方一本で、もう一本の腕で鞘を掴んでいる。大太刀を振り回すには片手では到底力が足りないはず。
 新志は大太刀の常道から離れた――どころかまともに抜刀すら覚束ないはずの相手の構えに困惑する。

(……なんだこれは。……納刀のまま構えたが抜刀術? いや、それなら柄頭は俺を向くはずだ。そもそも大太刀で抜刀術はできん。抜きつけて足狙いの下段か? ……それなら大太刀の長さが邪魔になる。まともに抜刀すら出来ないはずだ。こんな構え、あり得ない。馬鹿か?)

 剣士として習熟しているからこそ――相手の奇怪な構えが何を狙っているのか理解できない。
 じりじり――と僅かな足の運びで斬絵は間合いを詰め始める。連城双闘流の剣士である彼女は相手の剣から間合いをミリ単位の精度で見切る事が出来る。それに対して人外の化け物を相手取る事を想定して設計された戦堂一倒流は大雑把な間合いの取り方しかできない。精密に相手の間合いを計るとかえって攻撃を受ける可能性があるためだった。当然新志もある程度間合いは図ることができるが――その精度は斬絵ほどではない。
 新志と斬絵は見合ったまま動かない。
 新志は――相手の悪手としか思えない武器の選択と意味不明の構えに困惑し攻める機会を見出せない。
 そして斬絵は――彼女も絶対の自信が存在していなかった。

(そのまま、そのままでござるよ)

 斬り結んでの真っ当な勝負では斬絵は自分が勝てないことを熟知している。
 だが――彼女の願いどおり相打ち、引き分けで勝つには相手の思考の隙を突く奇襲しかないのだ。そして相手が自分の剣理に合わない奇怪な構えと武器を警戒し、超攻撃態勢である大上段から相手の行動に即応できる正眼に構えた場合、その瞬間奇襲は失敗する。斬絵は自分の望む形に引き分けるため、ぜひとも新志には大上段に構え続けてもらわねばならないのだ。
 射程を詰める――じりじりと見ている人間の方が緊迫した空気に胃の痛さを覚えるほど空気が張り詰めている。両名から発散される緊迫した雰囲気によって全身の毛穴を針で突かれているような錯覚を覚えながら観戦する魔術師軍の戦士達。




 刹那――斬絵が動いた。
 ミリ単位で相手を射程に捉えたと確信した同時――新志はその初撃を出遅れた。間合いの取り方では斬絵が上。新志は雷光の速度で全身を緊張させる。
 奇怪な構えの大太刀を抜く――否、それは観戦する全員の目を欺く擬態だった。






 抜く――ただし、柄頭が向く下ではなく、上に。






 鞘に収められた刀身を抜いたのではなく――柄に見える部分に納められていた模造刃を抜いたのだ。
 大太刀ではなく――斬絵がこの試合に用いたものは、大太刀では無かった。刃を握る柄に見えた部分こそが真の凶器。



(不覚……ッ! 大太刀ではなく、大太刀に偽装された『薙刀』かっ!!)



 上段から新志の脳天狙いで迫る薙刀の刃。
 向こうが刀ではなく、長獲物を準備してきた事は新志の予想外。新志の剛剣の射程を掻い潜りながら懐に飛び込むことが実質的に不可能と判断した斬絵は初撃に全てを賭けることにしたのだ。相手の意表をつく偽装された薙刀を用いて、新志が用いる大太刀の長射程を上回る長々射程からの攻撃を仕掛けたのだ。 
 だが、新志はこの構えでは自分も大太刀を振り下ろすしか手段が存在していない。
 敵の攻撃に対応するため、野獣の反射速で全身が駆動する。






 斬絵は、勝った、と確信した。
 この場合彼女の勝利とは引き分け、相打ち。
 そして勢いの付いた薙刀の一撃は新志の脳天を先に打ち据えるだろう。新志の落下を開始した大太刀の一撃も、十分速度が乗っている。実戦と仮定するならば、斬絵の一撃は相手の頭蓋骨を破壊するだろうが、例え脳髄を破砕されようとも、彼の筋肉は与えられた命令である全力の振り下ろしを実行し、お互いに頭蓋が割れる結果をもたらすだろう。
 新志自身は納得しないかも知れないが――珊瑚やアトリ達、彼の仲間は斬絵側。彼を説得するために協力してもらう手はず。
 


 勝った――そう確信した斬絵の薙刀に掛かる手ごたえ。


 
 防がれていた。
 斬絵の薙刀の一撃は――振り下ろす途中の新志の大太刀、その柄頭で受け止められていた。
 脊椎に走る戦慄、胸中に沸く驚愕――薙刀の模造刃を、柄頭で打ち落とす。線を点で受け止める恐るべき超反射。此方が擬態と戦術を用いて挑んだ勝負に対して、ただ単純な反射神経で対応された。

「これで、詰みだな」

 剣風が頬を撫でる。
 斬絵の額のすぐ傍に、新志の模造刀が寸止めされた。

「勝者、戦堂新志デス!」

 ぺたん、と斬絵は座り込む。
 術理を尽くして実力を上回る相手に勝とうとしたが、失敗した。

「……つくづく、化け物でござるなぁ」
「何を失礼な。ほら、立てるか?」

 悔しい。はらわたが煮えくり返る。こちとら何度も練習して――邪剣の類にまで手を出してまで引き分けに持ち込もうとしたのに相手はそれを台無しにしたのだ。

「見事だったぜ。ああいう手段もあるものかと驚いた」
「……負けたのであらば意味はないでござる」
「珊瑚とは以前から話していたんだがな……今度、弓国に行く」

 ? と意味が読めず、首を傾げる斬絵。

「とりあえず土下座でも何でも良い、お前の妹さんが結婚せずに済むように話すよ。……悪いな」
「あ、あー……」

 斬絵は――その事実をすっかり忘れていた事に気付いた。
 剣士としてこの相手に一撃を入れてやりたいと思ってはいたが、それも全て結婚とか戦堂一倒流の看板に泥を塗らないため。そう、結婚。――その事実を思い出し、斬絵は顔を真っ赤にする。

「……でも――妹が貴殿の事を気に入ったら宜しく頼むでござる」
「普通のお付き合いもできねぇ軍属だから無理だとは思うがな。……ま、普通にお友達からだろう。いや、軍属だから文通かな? 俺は筆不精なんだが」

 そんな風に話していた斬絵と新志だったが――なんだか微妙な表情を浮かべてアトリと絶佳とジャニーの三人がやってくる。
 新志――三人の表情に怪訝そうな顔を見せた。

「……なんだ、その何か言いたげな顔は」
「面倒臭いのデ、今からご祝儀を渡しておくデース。二万円で構わんデスか?」
「……これで新志がくっついたのでサンゴくんは一人身だね。フフフ」
「新婚旅行するならうちで話を通して皇族専用の施設を用意するぞー」

 かなり微妙な表情を向ける新志。冷やかされていると理解して斬絵はますます顔を赤らめた。
 だが――そんな事、まずはさておきと言って、ジャニーは続ける。

「さて。今からシリアスな話をするデス」
「は?」

 何がシリアス? と考えた新志は、同僚の三人が自分の後ろを指差しているのに気付いて振り向いてみた。




 悋気の鬼と化した珊瑚が其処に居た。




 背筋からは暗黒闘気を放出し、口内からは、げはーげはーと明らかに人間ではない呼吸音が漏れている。足元には魔元帥エルムゴートとの戦いですら使わなかった巨大な蝦蟇蛙を召還しており、伸びる舌が鞭のように振るわれて床を粉砕している。観客達はわーわー、と声を上げて避難を開始していた。
 新志を睨む珊瑚。頭には二本角が生えているような気がした。
 
「……結婚って……結婚って……そんなに斬絵と結婚したいのか新志ぃぃぃぃぃ!!」
「だ、だれが男なんぞと結婚したいものかぁぁぁぁぁぁ!!」

 物凄く危険な真相すら暴露していた珊瑚だったが幸い新志はそれに気付いた様子も無く叫び返す。
 珊瑚は続けて叫んだ。

「じゃ、じゃあ早乙女と結婚したいのかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「……はっ、そ、それはっ……!!」
「そこは否定しろよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 図星を指されたように怯む新志。珊瑚はキレた――無理もないが。
 
「ええいもう! キミみたいな奴なんかとボクの従姉妹でもある彼女とけけけ結婚なんて認めやしないぞ! 早乙女なんかとの結婚は更に許さない! なんかこうとにかく許さない!! キミには子供の頃から唾付けといたのに結婚なんて絶対、ぜぇぇったい許さない!! 殺せぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 珊瑚の号令と共に跳躍する巨大な蝦蟇蛙。その上で鎖鎌をひゅんひゅん鳴らして振り回す、真っ赤な顔の珊瑚。
 新志は凶悪な質量のボディプレスを仕掛けてくる蝦蟇蛙から逃れると――どうやら一切合財の交渉は通じないものと判断したのか、わひゃー、と大声を上げて100メートル9秒台のオリンピック級超健脚を全力で発揮し、逃げ出した。
 その背を、まてー、と声を上げて追いかける珊瑚。

「「「「…………」」」」
 
 斬絵とアトリとジャニーと絶佳の四名は――とりあえず台風のような勢いで去っていった二人をしばらく黙って見守っていた。が……しばらくして、誰かが帰ろっか、と言い出し、そのまま新志が追われていることを頭から放り投げて――後ろから悲鳴とか爆発音とか聞こえたが気にせず――寮に戻る事にした。 
 薄情な、と思えるが、誰だって犬も食わない痴話喧嘩などに関わりたくないのであった。



[15960] 五番勝負後の顛末
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:6cd04321
Date: 2010/02/24 23:44
 もし。


 もし――あの時獣魔が志願兵の入隊の受付に乱入し、それを新志が撃退しなければどうなっていただろうか。
 新志は全てを捨ててきた。
 家族も、剣士としての名声も未来も、義父の信頼も、義兄も、そして――初恋の人すらも。
 その事実は心を責めさいなむだろうが、新志は痛みには慣れている。肉体の痛みは兎も角、心の痛みはそれほど慣れていないが――そのうちきっと慣れる。そうでなければ困る。

 
 全て捨てて三年間の軍属が終わり、それなりに纏まった金が手に入ったら――剣しか知らない自分はどうするだろうか。
 結局傭兵じみた事をやって、腐って逝くような――そんな予感がある。


 ただ、これだけは確実だ。軍人としての任期がひとまず終われば――きっと暇を貰って弓国に帰るのだろう。
 そして――かつての自分の家であり、自ら捨て去った家門を覗き見るのだ。

 戦堂一倒流総帥として門下生を指導する義兄。その傍で今年三つになる愛児を胸に抱き、幸せそうに微笑む義姉。義父はその様子を見つめながら軒先に腰を下ろしている。


 その幸せそうな光景に自分の姿は入っていなくて良い。


 新志は――その一瞬目蓋に刻み込んだ光景を胸に過去を懐かしむ。未来ではなく過去に生きるのだろう。その思い出を一生の全てとして、胸に寂寞の風を吹かせながら微笑みつつ死ぬのだろうと――そんな漠然とした予想を抱いていた。




 なんと幸せに満ちたあまい夢なのか。

 


 なんと現実を見ていないあまい夢だったのか。





―――――――――――――






 戦堂新志が嫉妬に狂った珊瑚に追い回されてから早三日。
 生憎とそれだけ時間が経過したにも関わらず、土倉珊瑚の悋気の虫は止むことを知らなかった。授業中新志の方向に殺気混じりの薮にらみの視線を向けるし、目線が合えば怖い目で睨まれる。斬絵と話そうものならどこからか手裏剣が飛んでくるし、トイレに行こうとしたら『へ、変態!』といつの間にか新志の影の中に忍法影潜りの術で潜り込んでいた珊瑚が怒り出す。夜中に視線を感じて目が覚めれば忍法分身の術で十人ぐらいに増えた珊瑚が新志を包囲していたりもした。その状況のあまりの恐ろしさに気絶したのは幸いだったかもしれない。
 対人関係における必殺技である土下座の構えすら通用せず、新志の精神はこのところやすりがけされるように磨耗していく一方であった。
 
 
 兎に角――現在の状況において新志は精神を休めるための孤独な時間、あるいは珊瑚が冷静な判断力を取り戻すまでの冷却期間をおく必要があった。それも出来るだけ早く。
 珊瑚と仲の良いアトリ、絶佳、ジャニーの三名は話しても無理だろう。
 とすれば事情を理解しており、なおかつ悋気の鬼と化した珊瑚から庇ってくれそうな人間は――。





「すみません、家出してきました」
「……いや、事情はなんとなく理解しているのでござるが」
「大変困惑」

 唐草模様の古めかしい風呂敷に私物一式を詰め込んだ新志は、玄関先で情け無さそうな声と表情で訴えた。その相手の様子に苦笑した二人。とりあえず座布団を勧めてくれる斬絵の言葉に従って非常に慣れた様子で正座して腰を下ろす。
 一緒の部屋に住んでいるのだろう。応対は斬絵に任せてルイリーは小さなキッチンに入ると暖かいお茶をテーブルの上に置いた。
 新志――懐かしい故国の匂いに思わず顔をほころばせる。

「ああ、よく飲んだな、これ」
「拙者もどうも飲むのはこれで無いと気がすまないのでござるよ、手を煩わせてすまないのでござる、ルイリー」
「気にしないでいい」

 あまり表情を動かさないイェン=ルイリーではあるが、一応歓迎はしてくれているらしい。

「それに新志とは、以前話をしてみたいとは思っていた」
「ああ、言っていたな、そういや」
 
 こくり、とルイリーは頷く。
 あまり揺れ動かない黒目、乱雑に刈り揃えた短めの黒髪に、元軍人らしく引き締まった四肢。口数と表情こそ少ないものの、確かな実力は味方にある種の安堵感を与えるだろう。静かで無口な狼の風情だ。
 相手は華帝国出身のサキモリヴァンガード上がりの元軍人。南極での戦場で魔力が確認されて魔術師軍に編入されたという経歴は新志と似通っている。ましてや新志はサキモリヴァンガードに志願しなければパワーアシストアーマーを着用し、戦場に立つ事になっていたこともある。共にパワーアシストアーマーを使用する人間同士、共感するところがあった。

「……そ、そうでござるな。拙者としても新志殿と結婚のことに付いて話し合わないと」
「……お前の妹との結婚の話じゃないか。事情を知らない第三者がいたら怒られるぞ。そして事情を知っている人間でも相手が珊瑚だった場合やっぱり怒られるぞ」

 薄ら寒そうな表情を見せた新志は周囲を不安げに見回すが、幸い珊瑚は現在の時点では新志の影に潜ったりしていないらしい。
 
「まるでストーカー被害にあった落ち着きの無い人みたいでござる」
「言い得て妙」
「…………」

 斬絵の言葉に同意の頷きをするルイリー。新志としてもまったくもってその通りだと思ったので何もいえない。
 先日、アトリとの会話で珊瑚の事を冗談交じりに『影潜りストーカー』などと評したバチが現在進行形で当たっているのだろうか。もしそうだとしたら先日のうかつな自分を絞め殺してやりたい気分である。
 新志――ずず、と故国でよく愛飲した梅昆布茶を傾けながら口を開いた。

「そう言えば――質問なんだが。試合では使わなかったものの、斬絵。お前の魔術ってどんなんなんだ? アトリの奴は『遅速斬殺』とか言っていたけど」
「ふむ」

 その言葉に無言のまま厨房に行って戻ってきたルイリーはその手に一つ、林檎を持ってくる。
 実演でも見せてくれるのか? と思った新志。目線で合図すると、ルイリーはそのまま林檎を空中に放り投げた。即座に小太刀二刀を抜き放ち振るう。走る鋼鉄の銀線は林檎をすり抜けるように走り――そのままぽてん、と机の上に落下する。

「四回か」
「さすがに、動体視力は相当なものでござるな」

 頷く斬絵。そう言いながら新志に林檎を手渡す。
 細片に分割された林檎――少し力を込めればばらばらにされた林檎に崩れると思った新志だったが、その林檎は何も刃を入れられていないように、一個の固体として新志の軽く込められた力に予想外の抵抗をする。

「あ? あれ?」

 新志は思わず声を上げた。
 先程新志は確かに林檎を分解する斬絵の剣閃を視認した。刃が林檎に潜り込んだのは間違いなく、既にこの林檎は分割されているはずなのに。
 首を捻る新志の目の前で、斬絵は少し得意そうな表情を見せながら――残り一センチほど残して納刀された小太刀を見せた。

「何だ、その意味ありげな間は」
「これが拙者の魔術。『遅速斬殺』でござるよ」

 そう言いつつ、ぱちん、と小気味良い音を立てて小太刀を納めれば――その林檎はようやく斬られた事を思い出したように、それぞれに分割される。新志は――感心したように細分された林檎を手にとってみる。切り口は滑らかそのもの。分子細胞をまったく損なわず、切り口同士を押し付ければ再び繋がるような鮮やかな太刀だった。

「すごいのは判る。『切断』という事実を任意のタイミングで発動させられるって事か。だが――正直役に立つのか?」
 
 相手を切ったのならば即座に相手にダメージを与えることが出来るほうがいいのではないか。新志は首を傾げたが、斬絵はこの反応に特に気を悪くした様子も無く――再度小太刀を横薙ぎに振るった。剣風が軽く飛ぶ。
 そんな様子を見守っていたルイリー――先程斬絵の斬撃の軌道に向けて割り箸を差し出した。

「第一斬目を斬殺発動」

 そう斬絵が告げた瞬間――何もない空間に突如白刃の気配が現れ、割り箸を半ばから断ち切る。
 その刃の位置、斬絵は横薙ぎに振るった軌道と同一。そこまで来て新志は斬絵の魔術の恐ろしさを認める気になった。
 空振りに見えた剣――だが実際は不可視の刃、斬撃の機雷となって空間に存在している。相手がこの魔術を使用した後に接近すれば、いとも簡単に攻撃を受けてしまうだろう。少なくとも初見の相手には到底回避できない恐るべき業である。

「試合にこれを使われていたら、勝負はどう転んだか判らんな」
「それはないでござろう」

 だが、新志の驚き含みの言葉に斬絵は苦笑しながら否定する。

「加減も効かぬし、試合では不向き。たとえ実際に使用できたとしても早乙女の縮地を模倣できる貴殿相手では瞬時に間合いを詰められて終わりでござる。おたがい何でもありだったら――拙者はますます勝率が下がっていたでござる。それにお互い剣士同士、魔術を混ぜるのは純粋な勝負の味わいに濁りが出るでござるよ」

 斬撃を地雷として空間に設置できる斬絵の遅速斬殺。だが言い換えればそれは一度空振りの動作を行わなければ発動は出来ない。それに対し、新志が魔元帥戦で模倣した早乙女の縮地は瞬時に相手との間合いを詰める魔術。新志にとってこれほど相性のいい魔術も存在しないだろう。斬撃の威力は踏み込みの速度も関係する――本家本元の早乙女のように音速を突破するとまでは行かないが、それでも新志にとって十分な威力の魔術だ。

「それにマッスルブラックホールは試合で使われたら一発で終わりどころか拙者確実に死ぬでござるよ」
「そりゃそうだ」

 新志の最大の魔術――マッスルブラックホールは威力は究極無比だが、片腕が使用不可能になるという大きなデメリットが存在する。破壊力、効果範囲は兎も角――継戦能力という点においては落第点。二発のみ発射できる最終兵器のような扱いだ。
 とはいえ、新志のその強力無比な豪腕と剣術があれば――そうそう引けを取るとも思えない。




 そんな事を考えていたら――不意に部屋に据え付けられた内線が呼び出し音をかき鳴らす。
 手すきのルイリーが立ち上がって内線を取り三言ほど話して――切る。

「斬絵。連城本家から連絡。至急国際連絡用の通話機へ来てくれと」
「……なんと、リアクションの早い」
「うげ。……できれば斬絵の妹さんの話は一生忘れて欲しかったのに」

 先日の勝負の結果は――既に連城本家へ通達済みである。もちろん弓国へ帰国した際、新志は頭を下げるつもりではあったものの――やはりその事は面倒ごとに類するので出来れば忘れていて欲しいというのが正直なところだった。
 きっと斬絵も妹さんと新志の婚約など嫌に違いない――と思っていたのだが、意外な事に新志の発言に対して斬絵傷ついたようなは表情を見せたのである。新志の発言を責めるような、失礼な言葉を窘めるような、そんな非難の瞳に浮んでいた。何故かその眼差しに――悋気の鬼と化した珊瑚と同質の輝きを見て、新志は背筋に薄ら寒いものが走るのを感じた。

「あ、新志殿はそんなに拙者……の妹を娶るのが気に入らんでござるか」
「……一度もお話した事すら無く、政略結婚で輿入れする事に幸せがあるようには思えねぇけどなぁ」
「では、会話して気が合えば?」

 ルイリーの言葉に新志は、意外そうに首を捻る。どうもそういう事は考えていなかったらしい。むぅん、と呟いた。

「そう、だな。……まぁお互い気が合えばだろうが、そこんところはまだまだわからんし」
「いやいや、きっと気が合うでござる!! 拙者……の妹は剣術談義大好きでござる!!」
「……だからなんでそんなに妹さんを売り込むのに必死なんだ!! あといちいち『拙者……の妹』と言葉を空けるな!! なんかお前を娶る話になっている気がするぞ!!」

 なぜか新志の反応に異常な食いつきを見せる斬絵。新志は困惑の叫び声を張り上げる。
 斬絵としては――いずれ正式に新志と一緒に断りに行くつもりだが、現在の状況では新志は自分の父母に挨拶した後、斬絵の妹(という設定の斬絵本人)に会話もせず去る可能性がかなり高めであることを何となく理解していていた。ここで逃してなるものか、と妙な気迫を込めてなんとしても斬絵の妹(という設定の斬絵本人)に会うよう確約してもらわなければならない。
 と考える斬絵の肩をとんとん、と叩くルイリー。

「斬絵、急がないと」
「あ」

 その言葉で今現在呼び出しを受けている事を思い出したのか、用件を思い出して斬絵は慌てたように部屋を後にした。




「で……こっちで使っている『黒影号』は武装を大太刀一つにして稼働時間、パワーを稼いでいるんだが――やっぱり華帝国はでかいだけあって装備が潤沢だな。火力もばかばかしい」
「コストパフォーマンス、整備性という二点に関しては弓国製の『刃車』が優秀。増産と整備が容易という点は脅威」

 新志はほんの数日程度しかサキモリヴァンガードとして南極での戦いに参加しなかった――しかもその大半が医務室での魔力の保有を確かめるための作業に費やされた――と言っても、書類上は軍人であり、ルイリーは各国から派遣される正規軍人として南極の獣魔の侵攻を抑えるために闘っていた。
 お互い軍人であったが、それ以上に二人の会話が弾むのはパワーアシストアーマーに関する話だった。
 新志は男児の常として、ああいう強そうな機会に憧れを持っていたし、ルイリーも軍人としてパワーアシストアーマーには愛着を感じている。だが、魔術師軍としてはあまりこの手の話題が出来る人はそうそう多くないのである。

「しかしこういう話を出来る人がいるとは思わなかった」
「私も。感動」

 拳を付き合わせる二人。
 
「メカや歯車は芸術品。魔術師軍は居心地いいが、装甲のメタリックカラーの光沢やアクチュエーターの駆動の美しさを語り合えない人がいないのは至極残念と思っていた」
「……ま、まぁ、そうだな」

 無表情のなかの眼差しにも喜びの色がある。新志は機械は好きだがそこまで機械大好きというわけでもない。しかし同じものを好きな人間同士、予想外の場所で同好の士とめぐり合えた歓びはある。そう考えながら新志はルイリーと握手を交わした。





 と――その瞬間、まるでタイミングを見計らったように聞きなれた珊瑚の声が響き渡った。

「新志ぃぃぃぃー!!」
「ご、ごめんなさぁぁぁぁぁぁぁい!!」

 戦堂新志は――珊瑚の声に反射的に土下座の構えに移行してしまった。最早第二の本能の域の超反射に目を丸くしているルイリー。
 だが、その声を掛けてきた珊瑚は玄関で靴を脱いで新志のその体勢に怪訝そうな顔をする。

「なにしてんの、新志。……そんな場合じゃないよ!!」
「左様でござる、新志殿」
「斬絵……お前、ここ教えたのか」

 ここに非難してきたのは悋気の鬼と化した珊瑚の魔の手から逃れるためだったのに、あっさりと自分を裏切った相手に新志は思わず非難の声を上げようとして――そこで失敗した。
 珊瑚も、斬絵も――どちらも真剣な眼差しを向けていた。顔は青ざめてすらいる。
 相手の雰囲気、眼差しには――冗談や嫉妬など微塵も心に入り込む隙がなかった。そこまで張り詰めた様子であったのだ。

「おいおい、……斬絵。ご本家への言い訳は良いのか? お前の妹さんの……」
「……正直、それどころではなくなったのでござる」

 事此処に至って――新志も、珊瑚と斬絵が何か只事ならぬ事態によって神経が異常ともいえるほど緊張していることを察した。
 居住まいをただし、崩していた正座を元に戻す。聞く姿勢になった新志に二人も、対面に腰を下ろした。

「先程の電話は――拙者への弓国への一時帰還命令でござった。それも、連城本家からではなく、弓国政府。今上陛下からのご勅命でござる」
「……陛下の?!」

 予想外――まさしくそんな大きいところからの命令など新志は予想だにしなかった。思わず声が大きくなる。

「拙者への命令は――ある人物の抹殺」
「いい? 新志。……落ち着いて聞いてね?」

 その言葉から、新志はもたらされた報が、恐らく想像しうる最悪の内容を帯びていた事を理解する。理解してしまう。

「……戦堂一倒流の本家で、殺傷事件があったのでござる。……犯人は、弓国の護国神宝『天下大逸刀(てんかだいいっとう)』を強奪しそれを止めに入った家人の数名を斬殺、負傷者を大勢出してそのまま逐電いたした」
「前総帥の戦堂刃馬(せんどう じんま)様……新志の義父上は、今上陛下より譲られた『天下大逸刀』を奪われたままでは流派の面目に関わると、弓国最精鋭の巨刃衆の中でも最高位の剣腕を持つ高弟三名、石動、御堂、阪杉を呼び寄せ、犯人を三人で囲んだ」
「結果は――全滅でござる」

 新志は――声も無く、それを聞く。
 今告げられた名前は戦堂一倒流門弟の中でも最高位の剣力を持つ人間達だ。自分とも面識のある人間が死んだ? その唐突で突然で理不尽な報告に、新志はただ黙って聞く。
 早鐘のごとく鳴る心臓の音が煩わしい。
 珊瑚と斬絵の――知り合いの門弟が殺されたと言う事実より、まだ悪い報が残っているといると言わんばかりの態度によっていつの間にか掌に汗が滲んでいた。目蓋の奥が熱い。酸素が粘性を帯びたように喉奥に絡みつき、酷く息苦しく感じる。死刑囚が処刑の瞬間を待つ事に似た恐慌を伴う沈黙が肌に突き刺さる。言ってくれ、早く言ってくれという想いと、いやだ、聞きたくないという相反する想いが胸を内側から押し潰していく。

「……相手の剣力は尋常ならざるものゆえに、連城双闘流の高弟である拙者が呼ばれもうした。……その、下手人を殺せと」
「……敵の、名は?」

 新志は――喘ぐように呟いた。
 だが――新志は理解している。それが実行する事が出来たのがたった一人と理解していながらも、それを否定して欲しかった。
 戦堂一倒流に譲り渡された護国神宝である『天下大逸刀』は厳重な管理体制にある。並みの泥棒では触れる事すら出来ないはず。そして数年に一度の祭事以外では決してあれは倉より持ち出されない。



 
 逆に言えば――特別な祭事があれば、『天下大逸刀』は倉より持ち出される。







 そう――戦堂一倒流総帥の就任式のような特別な行事があれば。



 


 珊瑚は言う。斬絵は言う。


 かつて故郷に置き捨てた――大切な家族の名前を。


 幸せになってくださいと――それだけ書置きを残して逃げるように去った、その人の名を。


 





 
 
「敵の名は戦堂一倒流、現総帥。戦堂 実光(せんどう さねみつ)」









 新志は、胸を刺されたような表情で、歯をかみ締めながら――その名を聞いた。










「貴殿の、義兄上でござる」



[15960] 六番勝負――同門対決――義兄
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:6cd04321
Date: 2010/03/01 16:19
 戦堂新志の表情から笑顔が完全に消え去ってから二日が過ぎた。
 今や本来彼の気質を構成する陽性の気配は完全に減退し、全身からは凄愴の気配を発している。
 弓国へ向かう機上の人となった珊瑚率いる魔術師軍の小隊、そして連城双闘流の高弟であり今回の話を伝えた連城斬絵は困りきったように隣の席のアトリと朱絶佳に声を掛けた。現在では遠目から新志に他の客員の視線が向けられている。無理もない、身長百九十を越える堂々たる体躯の男は全身から剣氣をその身に揺らめかせているのだ。その氣に当てられて不安を感じる人間は大勢いるのだろう。事実――普通の一般人よりも遥かに荒事に慣れているはずの斬絵自身もどことなく落ち着けないでいる。旅客機の中に充満する張り詰めた空気を感じていた。

「……新志殿、あんな具合になってもうずっとでござるな」
「食事もまともに取っていないね。……昨日は何も言わないまま訓練場の一角で正座していただけだったよ」
「全身から剣氣が滲み出てるなー。……あんちゃんほどの剣士が、自分自身の剣氣を制御できないほど動揺しているって事だけど……」

 どうしても話題は暗いものへと傾きがちになる。
 アトリも、朱絶佳も――魔元帥との勝負の後でお互い新志が何故戦堂一倒流の総帥の座を捨てて南極防衛前衛(サキモリヴァンガード)に入隊したのかその経緯を伝え聞いていた。
 ……どうか、幸せになってくださいと――それだけを願って故郷を出奔したというのに、その結末が義兄の突然の狂乱。

「……あんちゃん、気にしてるよなー」

 朱絶佳の顔も、新志同様に暗い。
 かつて魔元帥の戦いの後、彼女は新志の行動に疑問を呈した。勝負もせずに、勝手に幸せを願われても――相手の人が本当に幸せに慣れるのか? 義兄と義姉は新志自身の幸福を本当に願っていなかったのか? と。新志の中では今まさにその言葉から来る罪悪感と不安が渦巻いているのだろう。
 まさか、自分が義兄――戦堂実光と戦わず、逃げた事が今回の事件の原因になっているのか。
 
「……こればっかりは、我々が口を挟める問題ではないね」

 アトリの言葉に二人が頷く。
 新志は今、一見してみれば何事も語らず沈黙を護っているが――それは限界まで張り詰めた風船を思わせる危うさがあった。なんらかの衝撃で破裂してしまうような、そんな危険な印象を与えたのである。何が出来るのかはわからない――戦堂一倒流のかつての総帥候補同士の戦いに部外者が立ち入るわけには行かないが、傍にいることで手助けになることがあるのかも知れない。心配で仕方のない珊瑚貴下の小隊員は全員が全員新志と共に弓国を目指していた。
 まずは――新志の実家。戦堂一倒流の内部における最悪の裏切りの現状を知る必要があった。



 戦堂新志は――昨日も今朝も、ろくに睡眠が取れていない。目元には微かに隈が出来ているが、元より人類の限界に挑むような絶大なタフネスを誇る男は二日程度の睡眠を得ていなくとも活動に支障は無かった。
 それよりも、早く家へ。旅客機の速度が生ぬるく感じる。
 ――三年間の軍属を済ませて、義兄と義姉の二人がいる実家へは――門から中の様子を覗き見るだけしか新志は自分に許すつもりではなかった。それが、まさかこんな形での慌しい帰国になるなど――あの日、総帥を決定する戦いから逃げた時は想像すらしていなかった。

(……どうして、こんな事に)

 心の中を締めるのはただその一文。
 義兄と義姉の幸せのみを願って行った行動が、この最悪の事態を招いた原因なのか――と考えずにはいられない。

「……結局、新志の方には帰還命令が来なかったんだね」
「……どういう事なのデスかしら」

 隣の席に座る珊瑚とジャニーの両名も表情を曇らせている。
 本来ならば――弓国へと招聘されたのは、連城斬絵のみ。珊瑚の方は隠密、密偵の名門土倉の家の子女であるからこそ戦堂一門に起こった事件に付いて伝え聞いていたが新志には結局何の連絡も無かった。
 巨刃衆の中の高弟三人で掛かって逆に返り討ちに逢うような相手――戦堂実光と戦って勝ちを得られる可能性の人間は五本の指を出ない。
 新志と実光の義父――戦堂刃馬。だがもう老齢著しく最盛期――魔との大戦の折に天下大逸刀を振るい猛戦した武威は最早失われているとされる。
 そして実光と戦堂一倒流の総帥の座を巡り戦うはずだったにも関わらず、義兄と義姉の恋の邪魔をすることに気付き自ら勝負を捨てた戦堂新志。

 
 戦堂一倒流として、天下大逸刀の奪還は危急の話だ。
 もっとも確実に取り戻し、そして今回の事件を引き起こした実光を倒すには、戦堂新志を呼び寄せてこれに当てるしかない。
 だからこそ――妙なのだ。
 もっとも確実に流派の裏切り者を抹殺するならば新志以上の適任はいない。それをしないのは――破門した相手である戦堂新志を呼び寄せる事は面子に関わるからだろう。だが、そんな体面を気にしている状況でないことも確かだ。

(……義父上、貴方は――)

 心の中に最悪の予想が芽生えている。
 考えた。足りない脳みそで新志は幾度も考えた。そしてその予想に行き着いたとき、新志は自分の想像を必死で否定しようとして、否定しきれるだけの要素がない事を悟った。
 戦堂実光を抹殺できる実力の持ち主は、後一人はいる。
 戦堂一倒流の総帥、戦堂刃馬の実の娘にして――新志の初恋の人。義姉の、戦堂椿(せんどう つばき)。



 まさか。そんな馬鹿な。
 


 新志は胸中に湧き出た最悪の回答を必死で否定する。
 


 そんな戦いを許してはいけない。握る拳に自然と力が篭る。
 それはすなわち――お互い同士を想う、恋人達に殺し合いをさせるというあまりにも無惨な話ではないか。
 それだけはいけない。
 それだけは――決して許されてはいけない。





 

 旅客機を降りた後――珊瑚は、空港から出ると非常に大きな高級車が止まっているのを見つけた。
 アレがそうかな? と首を傾げる斬絵。そんな視線に気付いたのか、案内役と思しき女性はこちらにつかつかと歩み寄り、びしりっと敬礼してみせる。野暮ったい黒縁の眼鏡の奥の黒い瞳、結い上げた黒髪。OLを思わせるスカート姿。彼女が運転手なのだろうか、その腕はドライバーグローブに覆われている。
 
「連城斬絵様ですね? 今上陛下『威剣乃命宮(いつるぎのみことみや)』様のご勅命に従い、宮中より貴方を案内するように仰せつかりました鶴木美津子(つるき みつこ)と申します。……そちらの方々は――戦堂一倒流の方ですね」
「判るか」

 新志を見て言う美津子に短い声で返答する新志。いつもなら愛想笑いの一つでも浮かべるところだが、今の彼の表情は険しさに満ちている。そんな新志に少し可笑しそうに微笑む美津子。感心したのは新志を除く全員であった。素人ならば、到底近寄りたくないはずの気配の彼を前にしてまるで落ち着いた様子である。宮中でも信頼されている人材なのだろう。

「はい。……先程から抜いてもいないのに凄い剣圧。まるで抜き身の刃のようです。事情は聞いています。平静でいられないのも判ります。しかし一般人の方にはそんな事はわかりません。出来るなら、抑えていただきますか」
「ごもっともだ。……連れて行ってくれるか?」
「勿論です。お乗りください」

 ばたん、と扉を開ける美津子。
 アトリは、へぇ、と感心したように声を漏らす。車体を構成する材質に興味を持ったらしい。指先で撫でている。

「……防弾車か。一国の機関が扱うには張り込んだね」
「今上陛下が外にお忍びで出る際のご愛車ですので」

 え? と思わず声を上げてしまったのは斬絵と珊瑚の二人。そんな雲の上の人が乗る車を借り受けていいのだろうか、と顔を見合わせたのは二人のみで、そんな事を気にする精神的な余裕がない新志は大太刀を車のトランクに入れてさっさと乗り込んでいる。弓国人ではない他のメンバー――全く動揺していないのは同じく華帝国の皇族の血筋である朱絶佳ぐらいで、皆、うわぁ、と言いたげな顔のままその中に乗り込むことにした。
 



 
 見慣れた光景、見慣れた風景。車体が道路を走っていく。
 防人前衛(サキモリヴァンガード)に志願し出立する時は、最後の見納めになるやもしれぬと想った故郷の姿に新志はただ黙って慌しい心臓の動きを自覚する。
 緊張しているんだな、俺は。そう自問しながら考えていた。
 帰ったらなんて言えばいいのだろう。そもそも、今回の事件が無ければ帰るつもりなど無かったのだ。帰ったらなんて言えばいい? 逃げ出してすみません? でも俺は貴方達の恋路を邪魔したくなかった? 私心は無い、自分の行動が義兄上を追い詰めてしまったのかもしれないがそれだけは信じてくれ?

 幾ら頭の中で言葉を捻くり回そうがいい言葉なんて思い浮かぶ訳が無かった。思考に費やす事の出来た車での移動の時間はあっという間に過ぎて、新志が気付いた時には既に車は――懐かしい門扉の前に停車していた。
 立ち上がる。新志は故郷から持ち出したほぼ唯一の私物である大太刀を――義父が家を捨てて家族を捨てて兄と姉を捨てて――そこまでして二人の幸せを願った新志に最後の餞別として渡したそれを手に、緊張した面持ちで門扉の前に立つ。ここまで車両を運んできた美津子はそのまま車両を裏の駐車場に止めるために車を発進させた。

「新志……」
「……ああ」

 珊瑚の声に小さく新志は応えた。
 逃げるように去った家の門扉――去る時、さようならと告げたその門をゆっくりと新志は開けて、周りの仲間達に――じゃ、行ってくる、と短く告げると足を踏み入れた。
 珊瑚達はそれをしばらく黙って見守る事にする。新志は――かつて一度捨て去った場所に来た。向けられる視線は冷たいか暖かいか、相手の心は憤りか歓迎か。その全ては新志が自分の身で受けるものだ。

「あんちゃん、大丈夫かなー」
「……少なくとも、あの報を受けた直後よりは幾らか持ち直しているように見えるね」

 朱絶佳は心配げに呟き、彼女の言葉にアトリは腕を組んだまま応える。

「一度捨てた家族にどの面提げテ、という気持ちもあるでしょうガ」
「……一度生まれた亀裂は容易く修復はできぬでござる。……しかしそればかりは気長にやるしかないと拙者は考え申す」

 ジャニーは独白し、斬絵も小さな声で応え、新志が帰ってくるのを待つ。
 帰還は――早かった。

「おおおおぉぉぉぉぉぉおおお??!!」

 大声での驚愕の叫び声と共に戦堂新志の百キロを越える巨体が宙を舞い――吹き飛ばされてきたのである。
 入っていいぜ、と帰ってくるだろし――長ければ一時間ぐらいは時間が掛かるだろうと思っていた珊瑚達一行であったがまさかいきなり吹き飛ばされて帰ってくるとは思わなかった全員、わー、と声を上げ、慌てて散会する。

「いててて」

 背中から落下し、地面に強かに身体を叩き付けた新志はだれも巻き込んでいないことを周囲を見回して確認すると、困ったようで泣きそうでもある苦笑を浮かべながら――正門からやってくるその人を見つめた。
 清冽な印象の美貌。弓国人の女性としては長身の百七十センチ後半のしなやかな猫科を思わせる長身。身体を袴姿で覆った当流派の剣士なのだろう。その人は涼やかな細面に静かな怒りの気を込めて口を開く。

「なぜ帰ったのですか、新志。当流派の道場では、お前の名札は既に外されています」
「……承知しております、義姉上」
「そもそも剣氣すら御せぬとは。精進を怠っていたようですね。貴方は道端で人斬りでもしたいの?」
「……言葉もございません」

 ああ、この人なんだな――と珊瑚を覗く全員が、その人、戦堂 椿(せんどう つばき)のある種の美しさを纏った立ち姿を見上げた。新志がまるで勝てない事を認めているようにやり込められている。
 可愛いや可憐――というよりも凛々しく、美しいや麗しいの言葉などが相応しい長身の麗人は厳しい眼差しで義弟を見下ろしていたものの、周囲に人が新志を避けた体勢で座り込んでいる事に気付き、申し訳なさげに眉を寄せて――その中に見知った顔を見つける。

「あ……珊瑚?」
「お、お久しぶりです、椿さん」
「……ごめんなさい、新志以外だれもいないものと思っていたんだけど」

 それにしても体重百キロを越える戦堂新志を吹き飛ばすとは。さすが、この弟にしてこの姉あり。腐っても戦堂一倒流の子女なだけはあり、その剛力は女人であっても十分健在であるようだった。
 珊瑚――この中で直接的に彼女と知り合いであるのは新志の幼馴染である彼女だけ。声に応えるように立ち上がって挨拶する彼女。それを見て自分本来の役目を思い出したように斬絵も立ち上がり挨拶する。

「お初にお目にかかり申す。拙者、連城双闘流高弟、連城斬絵と申します。今上陛下のご勅命により参上いたした次第。そして此処にいるのは――拙者との友誼に応じ、はせ参じた戦友でござる」
「……なるほど。承りました。……では当家は、客人として貴殿を歓迎いたします、戦堂新志殿」

 その言葉は刀剣で肉を抉られるよりもより強く新志の心を抉った。表情が苦悶で歪む。
 帰ってきた家族ではなく、客として扱われる――覚悟こそしていたものの、やはり面と向かって言われれば堪える。

「あんちゃん……」
「くそ……面と向かってだと、やっぱきついな」

 不安げに見上げる朱絶佳に新志は無理やりに笑顔を作ろうとするが、それは余計に痛々しさを増すだけ。
 斬絵は――心配げな視線こそ新志に向けたものの、戦堂 椿に続けて口を開く。

「それで――如何なる状況であったか聞いて宜しいでござるか?」
「……まず客間にお通しします。どうぞ」

 そう言い、一行を先導するように歩き始める椿。その一行の一番後ろを新志はなんとも言えない表情で付いていく事にした。
 




 
 戦堂一倒流は往時であれば門弟二百近くを道場に抱え込んでいる。巨刃衆として実戦に出ている高弟を加えればもっと数は増えるが――流石に先にあった事件のこともあり、今は道場を閉じているようだった。
 門弟二百名――と聞けば多そうに聞こえるが、戦堂一倒流の対立流派である連城双闘流はもっと大勢の門弟を持つ。
 戦堂一倒流は弓国最強ではあるが、弓国最大ではないのだ。巨体という天性の才能を要するこの流派は極めようとするなら――やはり体格に恵まれていなければならない。他国に比べて平均身長の低い弓国ではどうしてもものになる剣士の数は少なかった。

 客間に通された全員――新志を除く全員にはお茶と茶菓子が振舞われていた。

「……義姉上。俺の分は」
「数が足りません。我慢なさい」

 客人として扱うんじゃなかったのか、と思った新志ではあったのだが勿論それを実際口に出せるわけもない。むしろ嬉しさを感じている。客人としてではなく、多少の迷惑ならば許しあえるような間柄であるような気がしたのだ。かすかに顔を綻ばせる新志に対し、むすっとした表情を見せる椿。
 ただ懐かしそうな視線を家の柱――傷を付けてお互いの身長を比べあった成長の後を確かめる。最後につけたのは今上陛下の前で行う天覧試合の直前。その頃には新志は義兄と義姉の身長を上回っていた。
 そう考えていた新志――思い出を振り返っている彼を現実に引き戻すように障子が開いた。

「おう、帰ったか馬鹿息子」
「……馬鹿ってのは否定できねぇんだが。……只今戻りました。義父上」

 そう言いながら新志は深々と頭を下げてから頭を下げ――頭を上げて、そこで義父を見、言葉を失う。
 義父――戦堂刃馬はそれほど身長に恵まれている体躯ではない。むしろ平均的な体格しかないが――まるでその体格に圧縮ゴムを押し込めたようなはちきれんばかりの肉体の持ち主だった。禿頭に浅黒く焼けた肌、目は小さく細い垂れ目。何処となく愛嬌のある壮年の男性だ。
 新志が言葉を失ったのは――その義父の右腕が本来あるべき場所になにもなく、傷口には今も包帯が巻かれている事に対してだった。
 新志は、今にも泣きそうな顔で立ち上がり、義父の腕が本来あった場所に手を伸ばす。何もない。子供の頃自分を抱え上げた腕、自分を叩き上げた腕は――もう未来永劫失われてしまったのだと考えただけで、悲しみが押し寄せてくる。

「……義父上。……無いのか、腕。……本当に……義兄上が……」
「ああ」

 新志は――此処に来て、冗談のようにしか思えなかった報告が心底真実であるのだと突きつけられた。
 もしかしたら今回の事件は自分を担ごうとしている周りの仲間達が酷い嘘をついているんじゃないかと考えたことがあった。だが――此処にいたり、その悪夢のような凶報が真実であると理解できてしまう。戦堂一倒流前総帥、その片腕を奪う事ができる剣士が何人いるのだろうか――自分を含めて、弓国では片手の域を出まい。

「突然斬りかかって来た実光の天下大逸刀に対して、咄嗟に鞘ぐるみのまま受け太刀したが――強烈な刀勢に巻き込まれ、受け太刀ごと腕を斬り落とされた。食らってみて今更天下大逸刀の脅威を思い知ったぜ」
「……すぐに門下生に父上を任せ、私が彼を追いました――でも、既に彼は姿を消した後だった」
「無茶だろう、義姉上!! 義兄上が――あなたに襲い掛かるかもしれなかったんだぞ……」

 思わず新志は声を上げてしまう。既に義父に刃を向けることすら躊躇わなかった義兄が、義姉に刃を向けない保障など無い。そこから来る心配の言葉に対して、椿は冷たい眼差しのまま応える。

「お前に心配される理由はありません。……私は、戦堂一倒流の子女として、父上の代わりに彼を――討たねばならないのですから」
「義姉上!!」

 思わず声を荒げる新志。
 義父は確かにもう駄目だ。片腕で戦堂一倒流の刀勢を支えられる道理は無い。だが、その代わりを義姉が勤めるなど、新志にとっては絶対に許されていい話ではなかった。二人の幸せを願って自分の幸せの全てを投げ打って、得たものが――愛し合うもの同士がお互いに殺しあう最悪の悪夢。それだけは絶対に許されてならない。

「……その辺りの事は、きっちり話し合って決めるべきだと僕は思うね」

 その会話の焦点を――新志と、頑なな態度を崩そうとしない椿の二人から客間の中央に持っていくような――涼やかな声が、障子を開ける音と共に響いた。黒いゴシックドレスの少女――魔術師軍の総司令官であり、かつての戦争における最大の英雄は、真剣な眼差しと表情で客間に座る。

「早乙女?」

 なぜ、彼が此処に。全員の視線が集中した刹那で入り込んできたのか、困惑した様子で声を上げる新志に対し早乙女は無言のまま頷いた。
 
「魔術師軍が此処にいるとすれば、理由は一つだろう?」

 そして、言う。
 できるならば、新志も、椿も、父の刃馬も聞きたくなかった言葉を。
 早乙女は、無慈悲に告げた。

「戦堂実光は、すでに将魔へと変貌している可能性がある」



[15960] 六番勝負――疑念疑惑
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:dd6adfee
Date: 2010/03/05 00:56
 どうにも、土倉珊瑚にとっては――戦堂新志の義姉である戦堂椿の行動が信じられなかった。
 彼女は厳しくはあるが理不尽ではないし、元々情愛の深い人だ。新志が自分と義兄を捨てて出奔した事を聞いて動揺した事は手に取るようにわかるが、自分自身の感情に任せて他者に当たるような性格の人でないことは昔から知っていた。そもそも新志に意地悪を繰り返していた珊瑚を窘めて、友人としての関係を作ったのは彼女なのだからそういう意味でも恩人である。
 話をしよう――きっと今の彼女は新志からの言葉には頭を引っ込めた亀のように頑なな態度を取るだろう。でも、彼女と幼少の頃からの付き合いのある自分なら少しは打ち解けてくれるはずだ。子供の頃からお邪魔しており勝手知ったる我が家のように渡り廊下を歩いていた珊瑚は――同じように前からやってくる椿の姿を見つけた。

「……珊瑚、ちょうど良かったわ」
「椿さん」

 こちらを見つけて、綻んだような笑顔を見せた彼女に珊瑚は、相手も自分と同様話し相手を求めていたことを悟った。





「……おい、早乙女、貴様」
「一発殴らせてやるからまずは落ち着け、戦友」

 それこそ泣く子も黙るような鋭い眼差しを受けながら――早乙女は戦堂一倒流前総帥、戦堂刃馬に冷静に応える。彼の小さな体躯は既に襟首を掴み上げられ、空中へと持ち上げられていた。
 この場に新志を始めとする人間がいれば刃馬の凶行を制止しようとする人間がいたかもしれないが、今は刃馬の私室の中のその出来事。急須でお茶を自分の茶碗に注いでいる、今上陛下の運転手である鶴木美津子を除けば誰もいなかった。片腕を失っているとはいえ、戦堂一倒流前総帥の腕は一本でも十二分に常人の両腕分の働きをこなす。刃馬は手を離し、忌々しげに舌打ちを漏らす。

「やめじゃやめ。……相変わらず女人の格好がしっくりしすぎておるから俺ぁ貴様を殴ると女殴っている気分になっちまうんじゃい」
「済まないね。古い戦友の前だが、もうすっかり慣れて普通の格好の方が違和感があるんだよ」
 
 戦堂刃馬と早乙女光は――旧来の友人同士、お互い会話を続ける。
 戦堂刃馬はかつての魔との大戦の折、戦堂一倒流の剣士として天下大逸刀を手に地虫の如く際限無く沸く獣魔を斬り続けた巨刃衆指揮官であり、早乙女は魔術師軍の中でもトップクラスの術者。故国も同じとあって、古い親友ともいえる間柄であった。
 とはいえ――本来通常戦力である戦堂刃馬は、魔術師軍の最重要秘密である異性装という手段で呪詛毒を防ぐという事実を知らないのが当たり前であるのだが。魔術師軍最大の秘密、それを知る二人に対する信頼は別格なのである。

「……俺ぁだいぶ老けたが――お前はあんま変わらんなぁ。……お前に付けられた心の傷が今も疼く」
「……僕もまさか一瞬の隙を突いてああも見事に押し倒されるとは思っていなかった」

 早乙女も刃馬も過去の情景を思い出しているのか――少しげっそりした表情であった。

「……ああ麗しき乙女の花園と勇躍突撃すれば――待ち伏せしていた股間の野獣!! うぐはぁ! 思い出しただけで心の古傷が胸を抉るわい!!」
「自業自得だ馬鹿め」
「……大戦時からの戦友とお伺いしていましたが、やはり仲が宜しいんですね」

 信頼が別格というよりはただの事故かもしれなかったが。
 お茶を啜るのは、先程から空気のように座布団に腰掛けている鶴木美津子。ただの運転手ではなく――実質的に今上陛下の代理人として顔を出しているからだ。魔術師軍総指揮官、巨刃衆元指揮官という弓国軍部においても強大な影響力を持つ二人であろうと無碍に出来る相手ではなかった。
 
「……勿論男同士の友情じゃがなぁ」
「男女の友愛ではないよ。もちろん」

 嘆息を一つ漏らし――先程までの緩んだ空気など吹き払うように刃馬は言う。

「……先の発言、どういう意図だ。実光が将魔になっているとはまだ確定しておらぬだろう」

 魔に対するために設計された斬魔剣法――その現総帥とも言うべき人物が既に魔の軍門に下っている。最大の侮辱とも言える発言に刃馬が怒りを覚えるのも無理は無い話だった。静かな怒気を揺らめかせる相手に早乙女――悪かったな、と頭を下げる。

「それに対しては謝罪するよ。……だが、可能性は依然と残っているし――それにお前の娘、椿嬢を送りこせないための説得にはこれしか無かったんじゃないか?」
「……口惜しいのぉ。……俺も不覚を取らねば、椿と新志にこんな役目――負わせずに済んだんだが」

 今更ながら、片腕が切断された事を悔やむように刃馬は呟いた。自分は最早剣士として半分死んだようなもの。いかに高性能な義手も、苛烈な鍛錬を経て得た戦堂一倒流剣士の豪腕には比べようもない。
 そして――戦堂椿は剣士として十二分な実力を誇るが、しかし将魔の呪詛毒に抗する手段は何も持ち合わせてはいない。そうすれば結果的には新志のみが戦堂一倒流の剣士として義兄を倒しに送る事ができる。
 両名の発言を黙って聞いていた鶴木美津子は、茶碗を置いて尋ねる。

「そもそも……今上陛下のご勅命は戦堂実光の抹殺、そして譲り渡された天下大逸刀の奪還です。戦堂実光を倒すには、戦堂新志殿をぶつけるしか他無い。……刃馬様のご心痛はお察しいたしますが……なぜ、彼を帰還させる事を躊躇ったのですか?」

 自分の仕える主の意向を正確に通達するが――流石に兄弟同士を殺し合わせるという惨忍な事実には罪悪感を覚えているのだろうか。表情が曇っている。だが、彼女の発言も道理であった。現在既に戦堂一倒流の高弟三名が斬殺されている。普通に考えれば必殺ともいえる戦力を投入したにも関わらずだ。最強の手札を切らない相手の考えが彼女にはわからなかった。
 嘆息交じりの吐息を漏らし、刃馬は呟く。

「……自分が実光を討つ――そう強弁し、新志を呼び寄せる事を最後まで拒否しておったのは娘の椿じゃよ。……わかっておる。これは俺の不明が招いた不手際じゃ。新志は呼ばざるを得ない。馬鹿息子しか実光を斬れぬ。椿を無碍にしなせとうない。……じゃが娘の気持ちも判らなくもないんじゃ」





「……最初は――本当に驚いたわ。……実光、あの人の試合の当日、時間になっても新志は姿を現さず――妙に思った門弟を呼びにやれば残されたのは書置き一つ。父上は難しい顔をしたまま実光を総帥に任命する事に決めた」
「……はい。その辺りは新志から聞いています」

 珊瑚の言葉に椿は軒先で月光に当たりながら頷いた。空には雲ひとつ無く、柔らかな輝きを放つ月がある。
 
「最初は、私も実光も呆然とした。義弟が――私達にとっては大切な義弟であり恋の最大の障害であった新志が自ら勝負を投げた。……喜ぶべきだったのか。それとも悲しむべきだったのか。……実光は最初、荒れたわ。棚から牡丹餅でも振ってきたかのような幸運……新志が全て捨てて不幸になって得られた幸運を、あの人は素直に受け取れなかった。
 父は新志が何処に行ったのか話さなかったけども、実光も軍部にはそれなりに伝手とコネがあった。南極防人前衛に行った事までは突き止めたから違約金でもなんでも払って改まって勝負だあの馬鹿め、と息巻いていたけど――魔術師軍に編入されたと聞いてもう新志を連れ戻す事が出来ない事を悟ったの」
「……それは」

 珊瑚は、思わず口をつぐむ。
 魔術師軍は得難い戦力を、そして珊瑚は子供の頃から想っていた相手を身近に得たが、それは同時に彼らから義弟を奪う結果になった事を思って俯いた。

「……もうどうしようもない。新志の……義弟の気持ちは涙が出るほど嬉しかったけど素直には喜べなかった。
 私は……実光がわからない。……新志の事を思うと心は痛んだけど同じく好いた人と一緒になれる幸せも確かにあった。彼も――戦堂一倒流総帥としてその任を引き継ぐ事を受け入れたはずなのに……はずなのに、どうして……」

 受け入れたはずなのに――家人数名を斬殺し、父の片腕を奪ったその凶行が未だに信じられないのだろう。
 これに関しては……もう凶行を実行した実光自身に問いただすしか疑問を解消する手段はないのだろう。珊瑚は言葉を続ける。

「……ねぇ、椿さん。……どうして――椿さんは、新志にああも辛く当たるの?」
「……ふふ、やっぱり判っていたのね?」

 はい――そう頷く。
 
「……だって。
 ……これ以上、新志に、あの子に迷惑を掛けられる訳無いじゃない。辛い言葉をぶつけて、全て忘れて今の彼の居場所に帰って欲しかった」
「めい……わく?」

 意味がわからないと言わんばかりに珊瑚は首を傾げた。
 迷惑という意味なら――戦堂実光と戦いその凶刃に斃れること以上など、新志にとって存在しないだろう。……そこまで考えて、新志もそうであったことを悟った。二人の幸せの為にかつて自分自身の幸せの全てを故郷に捨ててきた事を思い出した。
 新志も、椿も、同様に――自分の幸福を、自分の生命を度外視している事を珊瑚は理解した。

「……今から覚えば、私と実光は勇気が無かった。父に、一緒になりたいと言って言下に拒絶されるのが怖かった。
 そして実光も戦堂一倒流総帥の立場などは別に欲しくも無かった。彼が欲しいのは私だけだった。……父上から次代の総帥の座を新志が引き受け、その次の代の総帥の座を――新志の甥に当たる、私と彼の子に引き継がせるという手段だってあったはずだった。戦堂一倒流総帥の座と流派開祖の血を残す事は不可分じゃなかった。
 ……私と実光はその事に思い至らず――新志一人に気を使わせて、彼を不幸にさせてしまった」
「……それはっ」

 新志は不幸ではない――珊瑚はそう言いたかった。
 魔術師軍の中でおかしな仲間達と一緒に生活して、ちゃんと明るく笑っている新志の事を知っている。一緒に強大な敵と立ち向かった戦友がいることを知っている。
 でも――彼女にとっては、戦堂一倒流に引き取られた孤児だった頃の彼の姿を知っているからこそ、また一人ぼっちにさせてしまったと悔いているのだろう。

「……実光は、彼は、もう斬るしかない」
「……ッ……」

 珊瑚は言葉を失う。
 椿の言葉は真実だ。彼は既に家人数名を斬殺し、戦堂刃馬の腕を斬りおとし、巨刃衆高弟三名を返り討ちにし、天下大逸刀を強奪した。殺傷した人間の数を考えればどう考えても死刑か無期懲役。一生自由が許される事は無い。
 だがそれが事実とはいえ、もう殺すしか手段が無いとはいえ――それを恋人である彼女の口から告げられる事は珊瑚にとっても衝撃だった。聞かせられない、こんな話新志には絶対に聞かせられない。

「でも――私達は既に新志にこれ以上ない迷惑を掛けた。私達二人が新志に負けたとしても結婚できる道を考えて――もっと早く、新志に私達二人が好き合っている事を教えればあんな家出同然の真似をさせることはなかった。……私達のせいなのよ、新志が剣士としての未来を捨てたのは、私達の責任。
 そんな私が――新志に、あの子に敬愛していた義兄を殺せと……そんな事言えるわけないじゃない。……わかっている。あの人を止めるには最早刃に頼るしかなく、私では力不足。……私に出来るのは、あの子を呼ぶことをやめさせて刺し違える覚悟を決めるだけだった。……でも、実光が、彼が既に将魔になっていたとしたら、もう命を刃にしても届かない……」





「……今回の一件。どうも、腑に落ちないんだよね」
「なにがじゃ?」
「聞かせて頂けますか? スピードガール」

 早乙女は一人戦堂椿の意志を、刃馬から聞いていたが――聞き終えてから、一人呟いた。その言葉に同席している二人から質問の声が飛ぶ。

「戦堂実光が狂乱したのが――何故、今なんだい?」
「それは天下大逸刀を奪うのが目的では?」
「……いや、そりゃねぇと思うなぁ」

 美津子の言葉に否定的な言葉を返す刃馬。

「そもそも天下大逸刀は戦堂一倒流の総帥に今上陛下から譲与されるもの。……つまり実質的にあの刀は実光のものとも言う事ができる。わざわざ今回のような殺傷事件を引き起こさずとも手中に収まるものじゃ」
「とすれば――実光氏が今回の凶行に及んだのは、僕んとこの戦堂新志との決着をつけるためとも言える。……結局果たせなかった義弟との勝負をするために」
「……そうですね。魔術師軍の所在、所属は実光氏のコネクションでは辿りつけないでしょう。……ですが、自分自身が事件を起こせば破門されたとはいえ新志氏を呼び寄せるほか無くなる」

 美津子は――自分の手元にある資料を確かめる。ここ数日で発生した殺傷事件。それらの中には戦堂実光を抹殺するために動いた高弟三名の死と共に、彼の所在地を調査するために行動していた弓国の諜報機関の人間のものもある。
 早乙女は、形良い顎に手を当てたまま呟いた。

「何故、今なんだい? ……戦堂新志は確かに実光氏との勝負を捨てた。……剣士として矜持を傷つけられて我を忘れるほど激昂するのも無理はない話だ。……だが、それはもう二ヶ月近く前の話だ。怒りってのは時間が経過すればするほど薄れていく。……新志に勝負を投げられたのが理由とするならば、あの日勝負を投げられたその日にこそ凶行に走るべきじゃないのか?」
「……そうじゃな。……実光は荒れてはいた。新志は自分では勝てぬと踏んだのか――同情で勝ってなんになると当り散らしておったものの、一週間も経てば次第に義弟の思いを受け入れるようになっていた」
「……では、何が理由だとお考えなのですか?」

 早乙女は、美津子の手元にある資料を要求する。
 机の上に置いておかれた詳細な資料――戦堂実光が行ったと思しき殺傷事件の詳細な資料だ。早乙女はまず、戦堂一倒流の高弟三名の死亡所見を広げた。

「戦堂一倒流の高弟三名の直接的な死因は極めて鋭利な刃物による切り傷、それに伴う失血」
「……うむ」
「ひるがえってこちらはどうだ?」

 早乙女は次の資料を――弓国政府の諜報員達の死亡所見を示した。

「口内からの大量の吐血。過度の精神的ストレスから来る内臓の損壊……将魔の武器の中でも一般人に対して極めて凶悪に働く呪詛毒の類で死亡している。……なんでわざわざ殺しの手口を変える?」
「……実光氏の目的は戦堂新志のみ。そう考えると――すでに将魔に変貌しているならば、なぜ尋常な立ち合いでわざわざ殺したかという疑問が残るのですか?」
「……早乙女……おぬしの所見は?」

 少し考え込んだままの早乙女は――しばしの沈黙の後、自らの疑念を言葉にする。




「……実行犯は二名いる」




 その言葉に――同席する二人はしばしの沈黙を続けた。

「……戦堂一倒流高弟の三名を殺傷したのは実光、彼だろう。……だが弓国の諜報員を呪詛毒で殺して回っているのは恐らく別の相手だと思う」
「……なんじゃと?」

 刃馬――早乙女の発言に、かすかに掌に力を込めた。それだけで、彼の全身から僅かに暴の気配が滲み出る。
 早乙女――自分自身の予測予想によって不愉快な記憶を想起させられたように眉間に皺を刻みながら呟いた。

「そして……刃馬、覚えが無いか? 嘗ての大戦の折、幾つも性格の悪い策略でこちらに痛手を負わせてくれたあの女。理性で押さえ込めるはずの憎悪を無理やり想起させ、同士討ちを酒盃を仰いで鑑賞するようなあいつ……」
「ジェーン=ドゥ! あの外道か!!」

 早乙女の言葉に思い当たるものが存在していたのか――刃馬は机を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
 その名前には同席する美津子も聞き覚えがあったのだろう、かすかに顔色を青ざめさせていた。

「……ジェーン=ドゥ、誰でもない女……まさか……『邪智』の魔元帥、『万剣の茨』!……そんな相手が弓国に?」
「確証なんてない、ただの当て推量だ。……だが――もし奴が相手ならば」

 忌々しげに早乙女は呟いた。

「……この状況。もしかしたら魔元帥エルムゴートを倒した新志を警戒して彼一人を狙い打ちにしているってことかもしれない」






 
 戦堂新志は――かつてそうであったように、一人道場で正座していた。
 幼少の頃から幾度もそうしてきたように、至極自然にその光景に溶け込んでいる。幼少の頃と違うことがあるとすれば――自分の名前が既に外されているという事なのだろう。

「新志殿、御用とは?」

 夜も静まった頃――斬絵は一人新志に呼ばれて道場に足を踏み入れる。その事に気付いたように新志は瞑っていた目を開いた。立ち上がり、振り向く。

「斬絵、悪いが一手、連城双闘流を教えてくれ」
「なぬ?」

 新志のその言葉に斬絵は思わず尋ね返してしまう。
 彼は戦堂一倒流の総帥候補、今更他流派の技を付け焼刃で身に着けなくともいいはずだ。だが、そんな彼女の考えを無視するかのように、新志は竹刀を二つ握っている。本来戦堂一倒流では使用されない小太刀の長さの竹刀に、どうも本気らしいと悟る。

「今更拙者が貴殿に教える事もないし――ここに拙者の技術を教えればむしろ邪魔になると思うのでござるが」
「……天下大逸刀は名剣だ。……俺の大太刀も、受け太刀すれば斬鉄される恐れがある」
「……それは、確かに」

 斬絵は新志の言葉に頷く。
 新志が会得しようとしているのは――本来とは違う切断された大太刀の重量と間合い、そしてその間合いでこそ使える術理なのだろう。確かにその指南役としては斬絵を上回る師匠はいないはずだ。だが、自分の流派とは全く違う設計思想の術理を覚える事は、剣士にとって誇りを傷つけられる行為であるはずなのに。

「……義兄上は確かに狂乱なされた。……だが――できるなら義姉上と話す時間を作って差し上げたいんだ。連城双闘流は片手一本の小太刀術には多くの投げ技、締め技が存在すると聞く。……可能ならば――生け捕りの手段も学んでおきたい」
「……委細承知」

 それとも他流派の人間に教えを請うほどまでに思いつめているのか。
 斬絵は、小さく頷くと、放り投げて寄越された小さめの竹刀を受け取る。戦堂新志のあの体格と強力を考えるなら小太刀の大きさの竹刀は玩具の如き頼りなさであった。小太刀を専門とする斬絵にとって彼本来の獲物である大太刀と比べれば威圧感は遥かにぬるいが、指導する以上は全力で行かなければならない。
 戦堂新志との試合では、必死になって相打ちになるように努力した斬絵だが、今回はその戦堂新志に実戦での生け捕りを指導する嵌めになるとは予想外にもほどがある。だが試合での相打ちと実戦での生け捕りは、当然ながらその難易度は雲泥の差がある。なにせ、しくじれば――死ぬのだ。



 そして、そうならないように。



 新志と斬絵は、構えた。



[15960] 六番勝負――魔元帥沢山
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:9d24c8e7
Date: 2010/03/09 14:40
 さて。
 戦堂一倒流の本家に滞在させてもらっている身としては食事洗濯の世話などを全面的に依頼するのは流石に気が引けた。そもそも男装しているものの、実は女性という隠し事がある身としては家人に知られず下着の替えをこっそり調達することは困難を伴う作業である。洗濯で干す事もできはしない。
 魔術師軍の本拠地である島ならばそういったこまごまとした雑事は<ジーニアス>の操る自動機械が行ってくれていたが、流石に他所様の家でまかせっきりというのも申し訳ない。



「そんなわけで世話になりっぱなしも悪いし、料理でも作ろうと思うんだけど。料理できる人手を挙げてー」
「はーい」
「おーう」
「「「…………」」」

 珊瑚の挙手に応えるように手を挙げたのは朱絶佳、新志のできる組二名で、アトリ、ジャニー、斬絵のできない組三名は沈黙したままであった。
 新志は道場の中、斬絵に強かに投げ飛ばされた身体を起こす。先程まで切断された大太刀対小太刀という想定で訓練を続けていた新志と斬絵であったが――この勝負は以前の決闘の結果と違い、新志の全敗であった。
 大太刀を扱う事を想定した戦堂一倒流が本来の実力を発揮できないというのもあるだろうが、ここまで一方的な展開というのも予想外だったのだろう。観戦していた仲間達は少し驚いたような表情を見せている。

「しかし、これはまた凄い。……新志の筋肉を完全に封殺している」
「締め技とか投げ技とか、なんか剣術っていうより剣術絡めた格闘技って感じだなー」
「サスガ、弓国元最強デス」
「……自分の間合いで拙者が敗れたらちょっと切ないでござるよ」

 とはいえ、褒められること自体は嬉しいのだろう。かすかに照れたような笑みを浮かべている斬絵。
 
「ところで、新志。君が料理できたなんて――けっこう意外だね? ……林檎を調理するって、握力で握りつぶしてジュースにするって事じゃないのだよ?」
「それはそうデスね。人生の持ちうる時間の全てを筋トレにつぎ込んでいると思っていたデス。なんだか作るお出汁は汗の味がしそうで食欲が失せましタ」
「あんちゃんが料理をしているのが想像できないぜー。包丁の柄を握りつぶしたり、まな板ごと台所を切断したりしてない?」
「……お前らなぁ」

 アトリ、ジャニー、絶佳のあんまりと言えばあんまりな台詞に新志は流石に傷ついたような表情を見せた。
 頭を掻きながら説明する。

「……戦堂一倒流ってのは、確かに弓国最強の流派だけどな。でも連城双闘流に比べれば規模は小さいんだぜ?」
「あれ? ……あたし、確か今上陛下の御前試合で勝ったことがあるって聞いたぞー?」
「戦堂一倒流は最強であるが、最大ではないのでござる。……扱うのに巨体という天性の才能を要求する流派より、誰にも扱える流派の方が門弟も多くなるでござるよ」

 説明を引き継いだ斬絵の言葉に同意するように新志は続ける。

「……そんな訳で、連城双闘流よりも門弟の数は少ないから月謝も少なめだし――そもそも義父上も料理人をわざわざ雇うのを嫌っていらしてな。料理は基本的に当番制なんだよ。しかも作る分量が門弟百名分とかそういう次元だから……俺が作れる料理って寄せ鍋百人分とかカレー百人分とかシチュー百人分とか豚汁百人分とかうどん百人分とか炊き込みご飯百人分とかそういうのしかできねぇんだよ」
「……なんか被災地の炊き出しとかに役立ちそうな料理技能デース」

 できればそんな必要は一生無いほうがいいなぁ、とジャニーは思った。
 そんな会話を続けていた新志は――そうだな、と懐かしそうに笑う。

「たまに実家に帰ったんだし――久しぶりに料理でも作るか。お前ら何か食べたいものとかないか?」
「私は刺身がいいね」「ミーは一度湯葉というものヲ」「あたしはあんちゃんの筋肉があれば白飯五杯はかるいぞー」
「全然協調性ないなぁお前ら! あと絶佳! お前のそれは確実に却下だぞ!!」

 新志は大きく嘆息を漏らしたものの――どうやら仲間達の意見を聞いていてはまとまる話もまとまらない事を理解したのか、料理を作る人間の意志を優先する事にしたらしい。

「じゃあ普通に炊き込みご飯で。ちょっと材料でも買ってくるかな」

 ぶーぶーと非難が上がるが新志はそれを特に気にした様子もない。そのまま道場を後にした。
 その背を見送りながら珊瑚はこれはこれで良かったな、と考える。義兄が狂乱し、その刃を大勢に向けた事実に新志の精神はこの上なく落ち込んでいた。だからこそたまには剣以外の事を考えて空気でも抜ければいい。
 そんな事を考えていた珊瑚は――なにやら斬絵がうずくまっている様子に気付いた。

「斬絵? どうしたの? なんか頭を抱えて。具合でも悪い?」
「……いや、考えてみると小太刀は扱ったことはあっても、包丁を手に食材を相手にしたことは無いと思ったのでござる」

 憎からず思っている相手は――大勢用の料理しか作った事がないとしても、料理は料理。斬絵より台所においては遥かに格上だ。……そういう点で女性としてどうだろうか、と落ち込んでいるらしかった。
 新志が料理が出来ると知り、どうにか上手くやる手段は無いかなぁと考える斬絵。なにせ新志は斬絵の妹(のふりをした斬絵本人)の事を普通のお嬢さんと思っているところがある。ならば料理ぐらい出来なくては恥かしいではないか。

「うう、拙者武辺者ゆえ料理など学ばずとも結構と考えていたでござるが、こんなところで裏目に出るとは……」
「てか、斬絵。連城双闘流もそんな事すっかり忘れていると思うけど。……キミ、まだ新志のこと狙っているの?」
「あ、あの! これは失言でござって! ……って、珊瑚殿! その明らかに拷問目的の責め石は一体何処から!!」

 戦堂一倒流がこんな具合になってしまっていては、流石に連城双闘流も斬絵の結婚話などは控えるつもりらしい。その辺りに関する話はあれ以降ぷっつり途切れたままであった。
 どうもいつの間にやら恋敵が出現していたらしい。嘆息を漏らしながら珊瑚は夜叉の眼差しで斬絵を睨みつけた。







「おう、ちょっとお邪魔するぞ、お嬢ちゃん達」

 そんな具合に話し込んでいた珊瑚達は、この屋敷の主である戦堂刃馬の姿を見つけ――次いでその発言の意味を理解して文字通り息を呑んだ。
 その緊迫した空気の意味を悟っているのか――刃馬は笑ったまま落ち着け、と言った。

「心配すんなや、お前さん達。……俺は『知って』いるんじゃ」
「……そう、ですか」

 思わず緊張していた珊瑚はその言葉に安堵したように――明らかに拷問目的の責め石を捨てた。

「あれっ?! 今の責め石ってその場の勢いでそこら辺の空気から沸いて出たものじゃなかったでござるか?!」
「……あたしも、あくまでその場限りの一発ネタで既にどっかに消えているもんだと思っていたんだぜー」
「……ああ、珊瑚君に拷問に掛けられて……そ、それはそれで美味しい! よ、よし! 私も新志にモーションを掛けてみたら珊瑚君に嫉妬混じりの攻撃を受けられる! 今度新志を押し倒そう!」
「……アトリがそれをしたら新志は本気で後ろの純潔を護るために舌を噛みかねないデース」

 背景の言葉など無視して珊瑚は、昔から世話になっていた刃馬の言葉に――思わず安堵の声を漏らした。
 今でこそ、おおっぴらに新志に好意を打ち明けられない立場にこそなっているが、子供の頃から知っている親しい人に秘密を持たなくていいという事実に思わず珊瑚は、内心の心情を吐露する。

「じ、刃馬さん、本当なんですか?!」
「ああ、もちろんじゃ。……早乙女の正体も知っておる。新志のやつめ、戦堂一倒流から離れたと思ったらこうもめんこい娘さん方と一緒に居たのか。……まぁ、本人も知っておらぬならば喜んではおるまいが」

 普通に可愛らしい女性と言われて、いつもは男装こそしているものの――ちゃんと女性である全員は流石に照れた表情を見せる。魔術師軍に編成された事は後悔していないが、そのために切り捨てたものがあるのも確かで、刃馬の言葉はその切り捨てた喜びを思い出させてくれるものだった。
 珊瑚は――思わず口を突いて出る不安を吐く。
 魔術師軍に編入され、それ以降からずっと心に抱いていた不安を――相談しようにも、事情を判ってくれるのは同年代の仲間達であり、歳経た人生の先達には相談できない事を口にする。魔術師軍の指揮官である早乙女も人生の先達である事は間違いないが、少なくとも彼には相談できない。

「あ、あの、刃馬さん。……話を、話を聞いてください!」
「うむ。……俺に出来ることであれば、なんでも応えようぞ」
「新志――あいつ、魔術師軍にちゃんと女性の外見をした人が早乙女しかいないからって――早乙女に心惹かれているかも知れないんです!!」

 刃馬はがっくりと膝を突いて、漢泣きした。

「あ、あの馬鹿息子が……父の悪いところなぞ真似せんでも良いではないかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 刃馬のその叫び声に、早乙女と刃馬の両名の間にあった事実を――魔術師軍の少女達はなんとなく理解してしまい、なんだかかなり嫌そうな表情を浮かべるのであった。









「お車、宜しいのですか?」
「ああ、歩きの方が楽でいい。ありがとう」

 食材の買出しに出かけると言う新志に対して鶴木美津子は車を出そうか、と言ったものの――新志としてはただの買出しでわざわざそこまでしてもらうつもりもなく、やんわりと断っておいた。
 そんな新志の背中を見送りながら、美津子は戦堂の家の外周をぐるりと歩き始める。 
 今回の事件に魔元帥が関わっている――そう考えるならば相手はここも何らかの手段で監視しているのだろうか。そう考えると、何もせず運転手としているのも聊か退屈。歩いてみる事にした彼女は角を二つほど曲がった先、その向こう側から来る二つの人影に――まるで存在の分厚さが違う二名の姿を見つけた。

 一人は王者のように堂々と歩いてくる巨躯の男――大きい。弓国人としては恐らく極めて高い部類に入る新志よりも高い二メートルを上回る巨体。その四肢は、巨体という天性の才能に飽き足らず修練を続けた特有の強靭さがある。纏う壮絶な暴の威圧は陽炎のように周囲を圧迫している。白い紳士服はむしろその男の凶暴さを封じ込めるための拘束具のようですらあり、眼差しには鬼すら怯ませる鋭さがあった。口元に葉巻を咥えて、時折思い出したように口から煙と炎を吐いている。

 もう一人は、その巨躯の男に比べると柳のように細い人物。身長は百七十程度だがあまり肉がついていない針金のような印象。皮膚の色素は非常に薄く、白磁に近い。まるで月光のみを浴びて生き続けてきたかのようなある種の幻想的な雰囲気を纏っている。身に纏うのは黒い法衣に金色の糸で竜の姿が刺繍された衣服。ここが華帝国であるならば皇族にのみ許される刺繍の入った衣服を纏う事は不敬罪で牢獄にぶち込まれても仕方のない行為だ。
 女性か男性かと判別できないような柔らかな口元。どちらとでも言えるような――いずれにせよ、非常に際立った美しさの口元であった。
 異彩を放っているのは、その人物の目元がアイマスクの類で完全に覆われている事。手首には手錠――それも皇族に連なる貴人にのみ用いられる竜の精緻な彫り物が刻まれた美術品としても一級品の代物が嵌められていた。人中の竜を縛ることができるのは、やはり竜のみという華帝国の思想ゆえの処置だろう。
 首にはまるで奴隷にでも嵌めるような首輪とその先から繋がる頑丈な鎖。先は何らかの刃で引きちぎった後がある。
 装いこそ貴人だが、各種拘束具を見るならばそれは明らかに犯罪者に対する処遇であった。

 鶴木美津子は――その二名の人影を見て、思わず声を上げる。

「……魔元帥エルムゴートに……拘束されていたと聞く朱月慧(しゅ げっけい)皇子?」
「正確には、『暴悪』の魔元帥と『簒奪』の魔元帥だがな――ああ、皇子。警戒はいらねぇぞ?」

 エルムゴート――二ヶ月前に華帝国において新志を始めとする魔術師軍と死闘を繰り広げた化物。英雄スピードガールですらまともに戦えば敗北は必死であるという事を覚悟した、圧倒的な物理的破壊力を持つ怪物。新志の持つ魔術『マッスルブラックホール』がなければ確実に敗れていた強敵。
 その彼は、鶴木美津子を示しながら――共に行動していると思しき朱月慧、そう呼ばれた相手に言う。

「こいつも――魔元帥だ」





 鶴木美津子は――エルムゴートの言葉が真であると肯定するように、何でも無い事のように振舞う。

「始めまして、月慧皇太子。……魔元帥の一人、鶴木美津子と申します。……本名を名乗らない事は勘弁してくださいね」

 軽い会釈と共に微笑んで挨拶する美津子に対し、月慧皇太子は――微かな微笑と共に応える。

「些少な事は拘らずとも良い。貴様は俺様の臣民で無いのだし、貴女様は俺様と力において同格の存在。むしろ今の俺様は彼の助力なくば故国を脱出することすら不可能であったろう。……確かに首を刎ねられ半死半生のエルムゴート様を助けたのは俺様だが」
「……ああ、なるほど。……その手錠が華帝国製の隕石を原材料にした――我々魔の力の殆どを減退させる『縛竜索』なのですね?」

 思ったよりも声が高い――これは男性なのか女性なのか本気で判らないな、と美津子は考える。
 エルムゴートは口元から炎を漏らしながら続けた。 

「その用で来た。……ここに天下大逸刀はあるな?」
 
 エルムゴートの言葉は質問というより確認であった。
 護国神宝であるならば防備も完全――確実に安置されているそれは軍隊でも奪取不可能だろう。……だが、その言葉に鶴木美津子は頭を振る。

「……いえ、生憎と戦堂一倒流の内部のごたごたで今は一人の慮外者の手にあります。……こちらでも捜していますけれどね」
「なにぃ? ……まずいな。おい、月慧。すまんが本命の手段が使えなくなった」

 その言葉――恐らく両名とも何らかの目的があって天下大逸刀を求めてこの国にやってきたのだろうが、しかし目的の品が無いと聞いてエルムゴートは忌々しげに舌打ちを漏らした。だがそんな彼の発言に気を悪くした様子も無く、月慧は口元に笑顔を浮かべて応える。

「気にするほどの事ではない。……俺様はこう見えて幼少の頃より今の状態であった。それが今では長らくの幽閉よりようやく解放され、自由に歩く権限を得ている。眼こそ開けていらぬが、四方を海で囲まれた大地は香る風すら違うと愉しんでいたところである」

 目的が達成できない事すらも、旅の楽しみがまた増えたと言わんばかりの様子。全く気にしていない相手にエルムゴートはふん、と息を漏らす。

「……ああ、後。貴方を一度倒した戦堂新志は今帰国しています。……逢いますか?」

 かすかにエルムゴートの口元が凶笑で歪むが――彼は卓越した戦闘者であると同時に激情を御する透徹した理性の持ち主でもあった。優先順位を間違う事もなく応える。

「いや、今は月慧の目的を終わらせるほうが先だ。……おい、殿下。此処が駄目だったとなると、次の手段だ」
「なんと。もう行くのか、貴様は俺様の旅情を満たすためにもう少し――」

 特に会話する意味などないと考えたのか――エルムゴートはそのまま大股で歩き出し、朱月慧皇太子は目を塞がれているにも関わらず、その後ろを正確に追っていく。
 その背を見送りながら、美津子は――さて、ここでエルムゴートが攻撃を仕掛けなかった事は幸いだったのか、と戦堂の本家の屋根を見上げながら皮肉そうに微笑んだ。







 買い物を済ませた戦堂新志は自宅に帰宅すると――なぜか義父が、新志を見て目頭を押さえていた。布で自分の溢れる涙を拭っている。
 新志――思わず何事かと思って言った。

「……義父上」
「お、おう」
「……なぜ俺の姿を見て涙を流しているのですか」

 その辺りで感極まったのか――刃馬は背中を見せ、その場を立ち去った。
 刃馬は新志が――早乙女の事を可愛いと思っている今の姿を見て過去の自分を重ね見たのである。もちろん戦堂新志――彼の義理の息子が魔術師軍の中で果たす役割の重要性は理解している。
 だが、父親として、息子が決して心惹かれてはならない相手の事をかわいいなぁと思っている事を聞かされ、その先にあるものが股間の野獣であることを知っている男として――息子のその行く末を思い涙を流さずにはいられないのであった。
 

 そんな父親の背を見送りながら、意味がわからず新志は首を傾げた。



[15960] 六番勝負――決闘依頼
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:9d24c8e7
Date: 2010/03/13 14:01
「……義父上は何故泣いているんだ?」

 漢泣きしてそのまま新志の前から姿を消した義父の刃馬の背中を見送った後、不可解そうに彼は首を捻った。
 流石に敬愛する義父が自分の将来――恐怖の『股間の野獣エンド』へ向かうかもしれないと珊瑚らに教えられて息子の未来を思い涙を流していたなどまさしく想像を越えているのであった。
 だから新志としては義父が涙を流していた理由は、自分と義兄と慕った人が戦わなければならないという残忍な成り行きにどうしてもあふれ出る感情が抑えきれなくなったのだろうと考える。普通に考えれば、それがまともな思考である。もし真実を新志の立場で言い当てられる人間がいたらいたらで普通ではない。
 袋には炊き込みご飯の買い集めてきた材料百人分。特に頭になにも考えずに購入したら――きっちり膨大な量を買い込んでいた。そんな量を一人で持ち帰る辺り流石仲間達から『筋肉』と認識されている戦堂新志であった。

「……それにしても、なぁ」

 新志は少し可笑しさを感じてしまう。
 二ヶ月ほど実家を離れてはいたものの――子供の頃からの習慣はそう簡単に拭い去れるものではないらしい。とりあえずこの買い込みすぎた食材の大半は冷蔵庫に押し込めて人数分の調理に取り掛かろうとした新志は、同じく台所に入ろうとしていた義姉の椿の姿に気付いた。
 偶然。
 ただの偶然ではあるが新志にとっては二度と続いて欲しくない偶然でもある。戦堂の家に帰ってきて受けた言葉と行為で新志はやはり少なからずショックを受けており、また義姉の悪罵の言葉を受ける事を、父母の叱責から逃れようとする子供のように恐れていたのである。思わず言葉も掛けず、台所から立ち去ろうとする新志。

「お待ちなさい」
「……はい」

 だが、義姉のその一言で新志は金縛りにでもあったように動きを止めた。
 材料を指差しながら、椿は言う。

「これだけの量だもの。一人では下ごしらえも大変だろうし手伝いなさい」
「……はい」

 そうと言われれば新志としても逃げるわけにはいかない。
 新志に調理の手伝いを命じた椿自身は早速包丁を手に皮むきを始めている。刃馬はこういうことには娘といえども特別扱いする事はなく、椿も同様に食事当番の中に組み込んでいた。新志も椿も、料理は大勢の量を作るために大雑把過ぎると思われがちだが子供の頃から積み重ねてきた包丁の扱いは堂にいったものであった。珊瑚も子供の頃、ここの家の台所を手伝った経験がある。
 包丁を動かしながら椿は、口を開いた。

「……魔術師軍の方は職場として良い?」
「……は? はい」

 新志は唐突な義姉の言葉に思わず尋ね返したが――意味は理解したので思わず反射的に応える。
 あの場所は時々後ろの貞操の危機に常置陥っているような不安こそあるものの、信頼できる戦友らが揃っている。南極防人前衛で剣を振るうよりも天下万民のために練磨した剣術を扱えるのは剣士として望むところ。不満など無かった。

「そう」

 椿は――そう応えてから黙々と皮むきを続けている。新志も同様に黙々と続けていた。既に下ごしらえの材料は現在いる人間の分量より多く皮を剥かれている。お互い何か言いたいのにいえない両者。
 新志は自分が下手な事を言って義姉の機嫌を損ねる事を何よりも恐れていた。それと同じぐらいに、椿も会話のきっかけを失っていた。何しろ最初、彼女は義弟に対して手酷い言葉をぶつけている。出来るなら今の彼の居場所で魔術師軍にずっといて、自分と実光の事を忘れて充足した日々を送ってくれると良いと考えていた矢先に――やはり、新志は帰ってきてしまった。
 新志が実家に帰ってきて、どのような言葉を投げかけられるか不安だったのと同じように、椿も恐らく帰ってくるであろう義理堅い義弟にどのように接するべきか迷っていた。唐突に事前の報も無く帰ってきた新志に対してああも厳しい発言と行動を取ってしまった事を、一人の時はいつも後悔していたものだ。もっと穏やかな拒絶の手段もあったはずなのに、と。

「サンゴも、あの子も一緒だったのね」
「稀な偶然でしたが、右も左もわからぬ場所で知り合いがいたことは感謝しています」

 両名とも会話を滑らかにするための潤滑油を求めていた。子供の頃ならば、普通に実光の事に話が移り変わりそうなものだったが、今では彼の名前は一種の禁句。両名とも腫れ物を扱うように、自分の唇にその言葉を戒めさせていた。

「大事にしなさい。あの子はとても良い子よ」
「……あの、義姉上」
 
 その言葉である事実に思い至ったように新志は思わず応える。包丁を握る腕が止まった。

「義姉上は、……その、サンゴが最初から女性だったと気付いていらっしゃったんですか?」
「は?」

 まるで予想外の事を質問されたように椿は間抜けな声を上げたが、時間が経つに連れてその質問の意図を理解し――急に偏頭痛でも覚えたかのように眉間を揉んだ。

「新志。……念のために聞いておくわね。……もしかして今まで気付いていなかった?」
「……義姉上は気づいていらした?」

 子供の頃、泥んこになって遊んだ仲の良い幼馴染が実は女性であり――新志はその事実を魔術師軍に編入された当日まで知らなかった。珊瑚に直接教えられて――そして実は男性であると勘違いしていた事を正直に告げた際物凄く気炎を吐かれたものだが、どうも椿の反応を見るに彼女も理解していたようだった。
 空は蒼いものかと尋ねる人間がいないように、椿や実光など新志の近しい人たちがそれを口にしなかったのはあまりにも自明の理すぎてわざわざ確認する必要がないぐらいに当然の認識だったらしかった。……なるほど、これが普通であったなら珊瑚が編入された当日怒り狂ったのも当然かもしれない。

「本当に――馬鹿ですね。……もう少し頭を鍛えるようになさい」
「頭突きの練習でもせよと?」
「冗談の練習も追加しておきなさい」
「……かしこまりました」

 さもおかしそうにくすくすと笑い声を上げる椿に、新志もかすかに微笑んだ。 義姉がそういう表情をしてくれるのは、彼にとっても――思わぬ行幸だったのである。

「本当――こんな鈍い義弟でサンゴ、あの子に悪いぐらいだわ」

 子供の頃から彼女が義弟に対してそういう熱っぽい視線を向けていたことを知っていた椿は思わず苦笑する。子供の頃からそんな珊瑚の事を陰ながら応援していた事を思い出す。
 そんな察しのいい彼女だから、椿は新志が自分を時折憧れのような眼差しを向けてくれる意味を理解していた。
 相手の恋心を理解できない鈍感極まる義弟と、相手の恋心を理解しつつもそれに対して何もしなかった椿。それぞれどちらのほうがより罪深いのか。
 昔――義弟の恋心を失わせるように行動すれば今のような状態にはならなかったのか。
 悔やんでも悔やみきれないがもう遅い。遅すぎる。椿は、再び包丁を黙々と動かす作業に没頭した。







「そんな訳で話し込んでいるうちに、いつもの癖で百人分作っている事に気付いたんだ」
「ノルマは一人五杯です」
「「「「「途中で気付けよ」」」」」

 業務用の大釜の中でほかほか湯気を立てる膨大な量の炊き込みご飯を前にした珊瑚達五名は思わず突っ込んだ。早乙女も刃馬も全員どうすればいいのかと困ったように顔を見合わせていた。




 とりあえずどのくらい貪ればいいかなぁと考えていた新志は――門の方からやってきた美津子の姿に気付いた。
 その手には文。今しがた郵送されてきたものらしいそれを――どこか張り詰めたような表情で手に持ってくる彼女に、新志は、来るべきものが来た事を知った。
 実光の目的が義弟の新志であるならば、勝負を申し出てくるはず。その文に達筆で『果たし状』と書かれた文章を見れば内容は読まずとも理解できる。

「義姉上」

 新志は――発言してみて、自分の言葉が酷く強張っている事に気付いた。緊張している。動揺している。良い匂いを上げる香気豊かな夕食の香りも感じ取れない。

「私も行きます」

 椿の言葉は端的でありながら、その短い言葉の中に不動の意志を込めている。
 眼差しに宿る炎に新志は説得の手助けを求めるように早乙女と刃馬に視線を向けたが――両名も彼女に感じたものは新志と同様だったのか、首を横に振るのみだった。
 
「……くれぐれも、危険な真似はなさらぬようにお願いします」
「もちろん」

 頷く椿に新志は――考え込む。これはやはり難しい。最悪義兄を斬らなければならない新志であったが、少なくとも彼女の目の前で恋人が斬死する光景など見せたくない。やはり斬絵との練習の中で体得した術理にて生け捕りを狙うべきだろう。自ら危険な選択を課す事に決め、新志は触れる手付きで、義兄からの果たし状を受け取った。







 この時、椿が同行することを頑なに拒めば。


 

 あんな無残な光景など――見ずにすんだのに。





































「珊瑚くん」
「はい」

 早乙女の言葉に――いつものフランクな口調と違い、最高指揮官の威厳の篭った魔術師軍総指揮官としての言葉に珊瑚は姿勢を正した。

「君に特別な仕事を与える。……君にしか出来ない仕事だ」
「内容は?」

 珊瑚の言葉に、早乙女は一瞬、彼女に課すあまりにも過酷な任務に苦渋の表情を浮かべたが心を鬼にするように応えた。

「……耐えること、だ」





[15960] 六番勝負――本番
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:9d24c8e7
Date: 2010/03/17 09:21
「少し寒いかな」

 戦堂実光は一人――竹林の隙間から月光を見上げながら呟いた。
 手には弓国の護国神宝である天下大逸刀を握り、自分を斬りに来るであろう来客を待っていた。
 自分と義弟の新志を孤児院から引き取ってくれた大恩ある義父を斬り、暴挙を止めようとした顔馴染みの家人を斬り、その暴挙を行った実光を流派の名誉を護るために使わされた三名の使い手を斬り――不義不忠の極みだという事を、戦堂実光は良く理解しつつもそれを後悔することがなかった。
 
「……こんなに寒く感じるのは、どのくらい久しいか」
 
 実光が物心付く頃に覚えている記憶は――自分の後をとことこと付いてくる義弟の新志の面倒を見てやる事と、幾らか大きくなった義弟と一緒に竹やぶに入って春になると同時に芽吹く筍の芽を見つける事は、孤児院での彼の仕事だった。
 掘り出すのも専用の工具など無いから、どこかの工事で捨てられたピッケルを拾ってきてそれを使っていた。寒さと餓えは自分達二人にとっては非常に親しいものだった。

 戦堂実光は――子供の頃に一度、剣以外の道に進まないかと周囲の大人達に勧められた事がある。
 毎年、墨と硯を使って毛筆で新年の抱負を書き上げるのだが実光の書き上げた書を見た高名な書道家が、彼の書には気品があると言って養子にならないかと誘われたのだ。義父の刃馬は最初難色こそ示したものの、どうするかは実光自身に決断を任せる事にした。
 もちろん、実光はそれを拒絶した。
 その頃には既に、実光は自分の義弟に勝ちたいという執念の炎を内に燃やすようになっていたのである。
 きっかけは子供の頃――自分のような年少組が眠りに付き、大人達が宴会で騒いでいた時にその話す言葉の内容を盗み聞きしてしまったことがある。

『実光は百年に一度の天才だ。……そして新志は千年に一度の天才だ。……天も無常な計らいをするものよなぁ。お互い違う時代に生まれていれば、戦堂一倒流はそれぞれ稀代の当主を持つことが出来ただろうに……』

 義兄である実光を差し置き、天覧試合に出て並み居る敵を全て打ち倒し優勝する義弟の実力は疑いようが無かった。
 実光自身――もちろん新志に対して嫉妬心に身を焦がし、夜眠れない日々があった。新志は根っからの天才であると同時に剣やら勝負事が三度の飯よりも大好きという男で趣味が己を鍛える事だという性格だけあり――練習量という点でも実光が舌を巻くほどだった。新志は自分に与えられた巨体という天分にまるで奢る事無く己を苛め抜いていた。
 一度も、本心を義弟に伝えた事は無い。自分はお前が妬ましくて仕方が無かったという思いは醜いものであると実光自身自覚していたしそれを恥じていた。
 義弟の事を、嫌いになれれば良かった。新志が嫌な男であるならば――実光は己の中に封じ込めた嫉妬心を素直に曝け出す事ができただろうに。だが新志は、彼の義弟は――良い奴だったのだ。
 新志はその剣才と違い、子供の頃から驚くほど我欲の薄い性分であった。物欲も少なく、色を好む事もない。せいぜい人より大食漢である程度か、あるいはひたすら鍛錬と勝負を好むぐらいであり、気性も穏やかで己の力を頼んで暴を振るうこともない。
 だが、実光は――心のどこかで望んでいたのだ。
 新志が、実光の恋人になった椿が掛かっているのならば――戦堂一倒流剣士の目指すその最高峰、総帥の地位ならば義弟も今度は本気で椿を得るために戦いを挑むであろうと思っていたのだ。
 実光と椿は恋人同士だった。最初のきっかけは一人、夜半誰も寝静まった頃に剣を振るっていた自分に掛けられた言葉で――偶然が幾度か続き、一目を忍んで出会うようになった。だが――実光は新志に対して嫉妬心を抱いてはいたものの、同時に彼になら椿を任せても、まぁ許せると、そう考えていたのだ。
 義弟に対する自分自身の嫉妬心は、彼の人格には関係ない。新志が良い男である事は間違いがなかった。
 だから――許せる。
 己の中の椿に対する未練、そして新志との戦堂一倒流総帥の座を賭けた決闘。これに負けたときは――実光は、幼少の頃から密かに続けていた書道の道に進むという選択もまだ残っているかな、とそう思っていた。恋に破れたなら、椿の傍にいることは辛い。だから勝ちたい。義父から『新志と戦え』と命ぜられ、彼は椿に必勝の誓いを告げ――運命の一戦を迎えたのだ。




 だが。



『どうか、お幸せに』



 勝負すら、起こらなかった。



 新志はその剣才と違い、子供の頃から驚くほど我欲の薄い性分であった。物欲も少なく、色を好む事もない。せいぜい人より大食漢である程度か、あるいはひたすら鍛錬と勝負を好むぐらいであり、気性も穏やかで己の力を頼んで威を振るうこともない。
 だから彼は全て捨てたのだ。
 自分と椿――二人に気を使って、剣士としての未来の全てを自ら投げ打つぐらいに我欲が乏しかった。実光は戦堂一倒流総帥の立場になった――勝利を譲られたのだ、乞食のように。
 実光は新志との決着をつけるべく四方八方に手を尽くしたが――既に彼が国家から独立した戦闘組織である魔術師軍へと編入されたことを知り、もう連れ戻せなくなってしまった事を悟る。
 一度は新志に対する激怒を飲み込む事に決めたのだ。
 義弟は馬鹿だが――しかし物の道理はわきまえている。ただ、今回ばかりは新志は行動を間違えたのだ。すっぱりと斬られたほうが心の傷は治りが早い場合もある。だが実光の秘めた決意は達成の機会を永遠に失った。彼のやり場の無い感情は開放の機会を得られずにぐずぐずと醜く腐り始めていたのだ。
 新志が自ら勝負を投げ捨てたのは愛ゆえだった。愛ゆえに新志は――実光の心を理解しきることが出来ずに勝負を投げたのだ。
 実光は――最初それでも自制しようとした。椿は傍にいる。戦堂一倒流の総帥になった。満たされている。自分は満たされている――そう必死に自分に言い聞かせようとした。胸の中に広がるやり場の無い虚無を抱えたまま、自分は幸福であるとそう考えようとした。





――そのしがらみから、あんたを解き放ってあげようかぁ? ――




 声が響いたのは、一体何時頃からだったのだろうか?
 新志と戦う手段はある――あったが、実光はそれが椿と添い遂げることが叶わなくなる行動であると知っていた。義父に対する最悪の裏切りであると知っていた。自分の周りの全てを不幸にする破滅の渦であることを自覚していた。
 何者をも引き換えにしてでも新志と戦いたいという暗黒の欲求と――それに鬩ぎあう理性。


 その囁きの声が、魔性の力が実光の心の中の拮抗する理性と感情のバランスを崩した。



 敬愛する義父を斬った。
 子供の頃からの顔馴染みの家人を斬った。
 兄弟弟子を三人斬った。


 やり直すには何もかも遅すぎた。


 そして新志を斬る。あるいは斬られる。どちらの結末であろうとも実光の心の中にぽっかりと開いた虚無は埋まる。

 もはや椿と添い遂げることは不可能だ。それだけが――実光の心の中の最後の暖かな光の一欠けら。自ら捨て去った恋が、疼くように心を突き刺す。
 だがそれ以上に彼を突き動かすものは義弟と斬り結ぶ、許されざる歓びであった。そして願わくば最後は斬り死にすることを臨んでいた。
 剣に生き、剣に斃れる。
 今更捕まって罪を償い喪に服するなどという生き方など選べるわけが無い。己は既に外道の身。許しを求めるなど白々しいにも程がある。最早自分は徹頭徹尾邪悪として生きていくより他無いのだ。
 今では、彼を理性から解き放ってくれた声に感謝すらしている。彼の背を押したのは、その魔性の声の主である事は間違いないのだから。
 全てを振り捨てて、此処まで来た。実光は天下大逸刀を強く握り締める。


 戦堂新志は、戦堂椿は気付いていない。
 義兄が最早義弟との勝負のためならば己の何者をも投げ打つ剣の冥府魔道へと自ら堕していることに。その事実に、何も後悔など感じていないことに。
 誰も――その孤独に気付いていなかった。





 指定された場所は、かつて新志と実光が子供の頃を過ごした孤児院のあった山だった。
 もう既に孤児院自体は取り壊されているが、二人が遊ぶために駆けた山野は未だ手付かずのまま青々とした木々を広げている。車の中からその懐かしい山々を見上げ、新志は車両を降りる。

「ご武運を」
「ああ」

 恭しく一礼する鶴木美津子。彼女からすれば今上陛下のご心痛の種となっている今回の事件の早期解決を望んでいるのだろう。
 新志は立ち上がり、大太刀を握り締めた。
 天下大逸刀は至高の名剣。できるならば正面から数合打ち合える大太刀があればよかったのだが――それ以外の武器となると、他の弓国護国神宝しか存在せず、流石に許可が下りる事は無かった。

「じゃ、行くか」
「……サンゴくんがこの場にいないのは、幸いかも知れないね」
「……そうですね」

 アトリの言葉に椿は頷く。
 珊瑚は今回――新志と実光の決闘の場には姿を現していない。魔術師軍総司令官である早乙女に命令を受け、現在単独でとある仕事を任されているらしい。
 それはそれで良かったかもしれない。 
 珊瑚は、新志の同僚の中では唯一実光と面識のある人間であり、彼と新志が殺しあわなければならない現状は目の当たりにするにはあまりにも過酷な話だろう。

「……彼、実光氏がもし将魔となっていた場合でも――新志が一人で戦うというデスね」
「……もし、という事はござらぬ、ご油断召されぬよう」
「あんちゃん……無理は駄目だと思うぞー」

 ジャニー、斬絵、絶佳の言葉に新志は無言のまま首を横に振る。
 こればかりは仲間の手を借りるわけには行かない。戦堂一倒流の剣士の不始末は同じ流派の剣士が始末をつけなければならない。新志は真剣な表情のまま――竹林の中へと足を踏み入れた。
 進むたびに地面に降り積もり、枯れた茶色の笹の葉が音を鳴らす。割と滑りやすい足元であるが、流石に全員が武術の体得者。足取りが怪しくなる事は無かった。むしろ面倒なのは移動を妨げるように生え伸びる幾つもの竹であるだろう。新志も実光も共に戦堂一倒流剣士。竹に邪魔されて剣速が鈍るという事はないがイレギュラーな状況であることは間違いない。
 進む。
 新志は進む。早鐘のように心臓は波打つ。子供の頃の思い出の場所を血で穢す事になるのか、ここが義兄を失う悪夢の場所になるのか、もしくは俺の終焉の地になるのか――新志は義兄を生け捕るための技術をある程度斬絵から学んでいたが、所詮付け焼き刃。結局は状況に合わせて行動するしかない。義兄を斬る可能性も頭にいれなければならなかった。

「……来たか」

 新志達一行以外の――第三者の声が響いた。
 月光に照らされた竹林の奥で――剣魔と化した義兄がのそりと腰を上げる。服についた笹の葉がぱらぱらと零れた。
 新志の義兄――戦堂実光は、少なくとも彼がこれまで実行した凶行に比べてその表情は穏やかですらあった。新志ほどではないが、弓国人として十分長身の部類に入る百八十近くの体躯、優しげで柔和さすら感じさせる顔立ち、戦堂一倒流剣士として胴着姿の上からでも十分判る二の腕の太さ。
 その表情が狂気すら感じさせない冷静なものであるからこそ――彼が実行した悪逆の行いがより一層不気味さを増す。まるで彼は、一時の激情に駆られるまま義父を斬り天下大逸刀を奪いそのまま引き返せない狂気に引きずられたまま家人を斬り同門を斬ったのではなく、透徹した理性を保ったままこれほどの大殺戮を冷静に実行したかのようだった。
 それゆえ、彼の心の歪みがより一層深く感じられる。新志は――俺は、義兄上の何を見ていたのだ? と今更ながら愕然とする思いであった。

「……久しいな、新志」
「……お久しぶりです、義兄上。……あの日はもう一生会わぬつもりでありました。このような事態に相成り、残念です」

 実光は――もうこれ以上の会話の必要を見出さなかったのだろうか。
 彼は優しげにすら思える微笑を浮かべたまま、片腕に持つ天下大逸刀の柄を掴んだ。

「義兄上!」
「話す言葉など、お互いにないだろう?」
「私にはあります!」

 緊迫する両名の間に割り込むのは椿だった。
 鎖帷子と鉢金を巻いた戦装束はかつての恋人を斬らねばならないという悲壮な覚悟からくるものだった。それでも――それでもこれが最後になるかも知れぬと覚悟を決めて言う。

「……実光。……どうして?」

 口に出すのは――愚問。
 そして椿自身もそれが愚問と知りつつも尋ねずにはいられなかった。

「……椿。……私は、後悔はしていない。ただお前と添い遂げることが叶わなくなったただ一事を覗いて」

 先程まで見せていた冷徹な意志の中に――悔恨の表情がよぎる。
 剣魔と化した実光の、一瞬見せた人間の表情に椿は言う。

「もう、……私は貴方を救えないのですか?」
「……積んだ屍が多すぎる。正道に立ち返るのであれば、私が斬った者の墓の前で腹を捌いて詫びるより他無いだろう」

 死者は二度とよみがえる事は無い。実光は自分の勝手な行動によって斬り殺された人々の事に対して本気で申し訳ないと思っていたが――その彼らを斬ってでも実現したい思いがあっただけだ。この勝負が済めば、実光は先程自分自身で述べたように――彼らの墓の前で腹を斬って詫びるつもりであったのである。
 
「……貴方の望みは――もう斬り死になのですか?」
「……ああ」

 実光は頷いた。椿の頬を伝う涙に、残った良心の残滓がかすかに疼いた。
 椿は思う。彼を――義弟に取られたのだと。実光は椿と一緒に暮らしていくという明るく幸せな未来よりも、そこには破滅しかないと理解しつつも新志との勝負を望んだのだ。
 捨てられた――そう考えたのは一瞬。結局、実光は新志や椿が思っているよりも遥かに剣士であったのだ。ならば、彼の望みを叶えることが彼女に出来る最後の事なのか。
 椿は、かすかに微笑んだ。

「……結局、私は貴方を新志に取られたのですね」
「……すまない」

 実光は心からの謝辞を込めて頭を下げた。
 確かに彼女を一生愛すると誓ったにも関わらず、裏切るようなこの結末。実光は新志を見た。天下大逸刀を鞘のまま構える。新志は――その会話の中で義姉が義兄を説得する事を諦めたのだと悟った。自然と表情に苦渋が満ちる。
 かつて新志は自分が一人身を引けば――二人は何の気兼ねもなく一緒になれることが出来ると考えた。
 誤りだった。新志はやはり二人にとってもとても重要な男であったのだ。彼は自分自身の二人に対する影響をあまりにも過小に見積もりすぎていたのだ。こんな結末を望んだ事は今までただの一度も無かったのに。だが、もう事態は引き返す事が出来ない域にまで到達している。もう、どうしようもないのか――拳を握り締めた。

「新志――もう、諦めなさい。……彼の望みは、貴方との立会いです」

 悲しげに首を振る椿に、新志は歯を噛む。
 自分の行動の結果がここまで無残な状況をもたらしてしまったと考えると――やりきれなかった。自分を見る悲しげな表情の椿、そしてその後ろから新志を見る実光。

「まだ、踏ん切りが付かないか? 新志」

 静謐な狂気――その時、実光が浮かべた表情を、新志は一生忘れることができないだろう。
 実光は天下大逸刀を半ばまで抜き放つとその刃の峰を指で掴み、そこから更に鞘より刀身を抜き出し、空中に一瞬浮いた大太刀の柄を改めて握り直す。自らの身長を越える大物を凄まじい速度で抜刀した。


 なにを。


 そう新志の声が口の中で押し殺される。
 
「なら――背を押してやろう」
「……義兄上――?」

 振り上げられる天下大逸刀が月光を反射し――透明な銀光を放つ。至高の名剣のみが持つ威風を刃に漂わせ露になる刃は、触れた風にすら切れ味を持たせていると思えるほどの威圧を有していた。
 椿は振り向きつつ、抜刀され振り上げられた刃の存在を見上げたが――実光がなにをしようとしているのかが理解できない。
 
 
 新志は、この現在の状況に対して無能だった。あまりにも無能すぎた。


 義兄がなにを望んでいるのかを、家族に対する愛情で目が曇り――察することが出来ていなかった。
 既に大勢の人間を殺した義兄を未だに生け捕るなどと甘すぎる修行を積んでいた――もう殺すしか手段などなかったのに。
 義兄が既に剣魔と化し――情愛の全てを切り捨ててでも新志との戦いを望んでいる事を察する事が出来なかった。






 義兄が新志と戦うためならば――恋人すら凶刃にかける恐るべき魔人へと変貌していたことを察することができなかった。



「……さね……み……」


 椿は――振り下ろされた天下大逸刀と、青々と生い茂る竹の葉を染め上げた真っ赤な色を見上げ、自分が袈裟懸けに斬られた事を理解できないような、不思議そうな声を上げた。後ろから、斬られた――そう考えが及んだ時はもう全て手遅れであった。
 恋人を止めたいという思いを、恋人の心を安らげるにはもう新志と戦うしか手段が無いと考えた椿は――自らが、実光によって新志を本気にさせるための犠牲の供物に捧げられたのだと、血が失われ急速に衰えていく思考の中で考えた。

「そん……な……」

 実光の放った一撃は椿の肩の骨を粉砕し、心臓を後ろから切り裂いた。椿は小さな声を漏らしながら、どうして? と問いかけの眼差しを実光に向けるために振り向こうとして――その程度の力すら既に失われてしまったことを悟る。
 致命傷――もう如何なる神医であろうとも匙を投げるより他ない傷に、椿は――最後まで現実を受け入れることが出来ず、前のめりに崩れ落ちる。

「あ」

 新志は――最初それを見たとき、心臓が止まるような思いを受けた。
 その現実が信じられなかった。だくだく、どくどくと流れる赤色は彼女の纏う胴衣を赤色に染め上げ――幼い頃義兄と一緒に遊んだこの地が死と血で満ちていく。

「あああ……」

 血液が逆流する。目の奥が火のように熱い。全身の毛穴から鮮血を噴出すようなおぞましい感覚。
 歯が鳴る――がちがちと歯が鳴る。

「ああ……ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~!! ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁ嗚呼あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 悲鳴のような声が――どこかで聞こえる。新志はそれが最初自分の口内から絞り出されたものであるのだと気付くことが出来なかった。
 新志は信じる事ができなかった。
 義兄は剣士だった。人間としても尊敬出来る男だった。子供の頃からずっと敬愛していた相手だった。あの人と義姉が一緒になるなら諦める事ができると思える人だったのだ。
 だからこそ――戦う前に、ただ話をすることを求めた義姉を、刃を抜いてすらいない椿を――後ろから斬り殺すという剣士の風上にも置けぬ外道を実行して見せた義兄に目も眩むような失望と絶望を覚えていた。そして自らの判断のしくじりによって、よりにもよって義姉が目の前で義兄に斬殺されるという悪夢としか思えない光景を見せ付けられた。
 
「あああ……あ、愛して……あ、あ、あ、あ、ぁぁぁ、ああああああ~~!! 愛して……あ、愛していたのではなかったのかぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

 炎のような戦意。
 その凄まじい激怒の本流に――実光は己の中の暖かな最後の光を、自ら斬り捨てた事への悲しみを、一滴の涙と共に振り捨てた。
 浮かべるのは魔性の笑み。恋人をすら自ら斬った、悪鬼羅刹、外道の証明。

「愛していた。愛していたさ。だが……お前が私と椿の幸せを願って、自分の全てを捨て去ることが出来たように――私も、お前と戦うためならば何もかも捨て去ることが出来たというだけの話なのさ」

 その一言で新志は激発した。己が持つ大太刀を抜刀することすら忘れて突撃する。
 戦堂新志はこの瞬間――確かに発狂していたと言ってもいい。正気を失っていたといってもいい。目の前で義兄によって義姉が斬殺されたという悪夢そのものの現実。それを未然に防ぐ事が出来なかった己自身の無能に対する怒り。この期に及んで義兄を生かして捉えるなどと抜かしていた自分自身に対する失望。ただ話をしただけの義姉を、恋人を無慈悲に斬殺してのけた義兄の非道。
 それらの膨大な感情は戦堂新志の脳内で飽和し――彼を一時的な発狂状態に至らしめた。
 義兄を捕らえるなどという甘っちょろい事はもう念頭から消し飛んでいる。義兄との間に対話する時間を作る最大の理由であった椿は無残な斬死を遂げた。感情を抑える理性の箍は一瞬ではじけ飛んでいた。
 新志は激怒する。自らの脳髄を満たす激怒の量は既に飽和しきっており、この憎しみを暴力という形で放出せねば己の脳髄が自らの憎しみの量で内側から頭蓋骨を破裂させてしまう事を悟っていたからだ。

「ああああぁぁぁぁああああああぁぁぁ!!」

 もう幾ら悔いても悔いきれない最悪の状況で新志は人語に似た野獣の咆哮を張り上げて抜刀すら忘れ、一直線に実光に踊りかかった。

「……抜かぬか、新志ぃぃ!! なおも私を愚弄するかぁぁ!!」」

 だが大太刀なしとはいえ、新志の四肢を覆う殺意の奔流は、実光へと吹き付ける憎悪の風は――護国神宝、天下大逸刀の備える霊格を以ってすら耐える事が困難だった。攻撃せねば確実に殺される事を悟った実光は天下大逸刀を大上段に構え――突撃する新志に対して打ち下ろす。





 戦堂新志は――この勝負に出る出立前、天下大逸刀の切れ味に対してどう対抗するべきか幾度も思案したものの、結局有効な手段を見出す事が最後まで出来なかった。
 一度でも受け太刀すれば――戦堂刃馬のように刀勢を押さえ込めず刃を斬鉄されて大太刀ごと斬殺されるだろう。受け太刀は厳禁。回避しつつ勝機を計るしかないと考えていた。
 この状態は悪手――新志は武器であり防具でもある大太刀を抜くことなく義兄に踊りかかっていた。無手の人間が剣の達人に対して勝利を得んとするならば、片腕一本を犠牲にする必要がある。新志の筋肉は生半な刃など通さぬ装甲じみた硬度を誇るが相手は至高の宝剣である天下大逸刀。鋼鉄の筋肉ごと斬られるだろう。


 だが――無手の拳士には、ただ一つだけ――剣士には無い理想の防御手段が存在している。
 狂乱しながらも新志が天下大逸刀に対抗するためにとった選択はそれであった。


 もちろん、新志自身もその理想の防御が決まれば、確実に勝利することが可能である事を理解していた。だがその防御の成功には文字通り神業の如き集中力が必要とされており、天才と称される戦堂新志ですらその実行には二の足を踏み、剣術で実光に勝利するための道を選んだのである。
 だがそんな計算など一瞬で吹き飛んでいる。新志を支配するのは刃を抜く事すらもどかしいと思える激情であり憎い相手を殴りたいという単純で凶暴な暴力衝動であった。自らの精神に飽和する憎悪で支配された新志はその激怒すら――剣技を以って制御し義兄の恐るべき断頭断命の一撃を防御する。

 
 頭上より落雷の如き勢いで迫る剣閃に対し、新志は両腕を伸ばした。
 

 天下大逸刀の弱点――というよりは、剣という白兵武器が抱える構造的欠陥。刃という属性を帯びるならば絶対に避け得ない弱点。いかに古今無双の名剣であろうとも決して逃れ得ないもの――それが狙い。

 


 新志は天下大逸刀の刀勢に対して頭上で拍手をするように――挟み込み、そして鬼神の握力を持って、義兄の剣速を至高の名刀が帯びる質量と威力を握りつぶした。

 
 



 拳士が真剣を携えた剣士に対して行える究極の防御手段。実戦での使用は絶対に不可能とされるような神業。






 真剣白羽取りの妙技である。





 刹那でもタイミングを計り損ねれば振り下ろされた一撃は新志の頭蓋を割るであろう恐るべきそれは――義姉を殺された事実により、もう殺されても構わないという自暴自棄のみがもたらす胆力が、自分自身の生死を度外視した事による冷静さが――雲耀に例えられるような戦堂一倒流の振り下ろしの一瞬を見切る力を彼に与えたのだ。
 
「……っ!」
「ぬああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 腕力勝負――相手が普通の太刀ならば膂力に任せて新志は刀剣をへし折るほどの力を有していたが、相手は金剛不壊の名刀。
 それでも新志の握力に押され、僅かに実光の体勢が崩れた。
 踏み込む――地面を覆うような枯れた笹の葉が、その踏み込みに伴う風で宙に舞う。そしてもう一方の足で以って、足刀をがらあきとなった実光の腹腔に叩き込んだ。

「がはぁ……!!」

 その凄まじい一撃は実光の腹腔をぶち破り、新志の爪先が背中から生えたのかと錯覚するような衝撃をもたらした。吐瀉物を撒き散らしながら実光の身体がくの字にへし折れる。
 新志の憎悪の連撃は収まらない。靴の裏が竹林の隙間から覗く月を見上げるように足を振り上げた。くの字にへし折れ、頭の位置が下がった実光の後頭部に情け容赦のない踵落としを叩き込む。
 地面にたたきつけられる実光の頭――そのまま天下大逸刀を手放した実光。その義兄の後頭部に目掛けて新志は――悲憤と激怒の全てを込めるかのような渾身の膂力を以って拳を振り上げた。力瘤が盛り上がり、はちきれんばかりに膨張する。戦闘力を失った義兄に対し素手での撲殺を実行しようとしている。

「……新志殿……!」

 斬絵の力の無い叫び声が上がった。
 実光は既に戦闘力を新志の一撃で奪われている――これから行われるのがもう処刑であることを悟り、斬絵は叫ぶ。それを実行してしまえば新志が苦しむ事を理解していた。
 だが、同時に致し方ないとも――全員が思っていた。
 義姉を眼前で殺された――もうこれは、お互いのどちらかが死ぬまで収まりが付くわけが無い。だから斬絵も、力のない声で――それを見るしか出来なかった。見守るしか、もうできないと悟るがゆえに。

「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 絶望と悲嘆に満ちた、悲鳴にしか聞こえない叫び声を上げながら――戦堂新志は、かつて義兄と呼んだ大切な人の後頭部へ拳を振り下ろし――その壮絶な鬼神の腕力で破壊した。






 戦堂新志が正気を取り戻したのは――全てが終わった後だった。
 憎しみの奔流のまま、義姉を殺した義兄を殺した。椿は――まるで不思議そうな表情でうつ伏せに倒れ、実光はその頭を地面に埋めるぐらいに殴られ耳から血を流している。
 新志は――先程までの脳髄を焼くほどの憎しみのまま振るった自分の拳を、茫洋とした眼差しで見つめた。
 
「あね……うえ……」

 椿――赤く染まった胴衣。もう何も写さなくなった瞳。義姉。新志の初恋の人。

「あに……うえ……」

 実光――新志との決着を求めて自ら冥府魔道へと堕した人。新志が幸せになってほしいと願った敬愛する義兄。



 椿はもう失血量からみても、斬られた部位からみても、ほぼ即死。実光も新志の膂力で後頭部を殴られたのだ。脳内出血に至るであろう凄まじい衝撃による内傷は彼を絶命に至らしめる。
 斬絵は、アトリは、絶佳は、ジャニーは――ただ、この無惨な結末を見届けることしか許されていなかった。新志に掛ける言葉すらなくただ、うごけない。
 新志は――自らの体重を支える気力すら失ったように、膝を付いた。四つんばいに腕を突く。肩が嗚咽で震えた。

「……俺は――義兄上と義姉上に幸せになって頂きたかった」

 自然と――ぽたぽたと、頬を伝って熱いものが地面に滴り落ちる。

「……俺が――身を引いて、二人が幸せになってくれるなら――それでいいと思っていた」

 拳を握り締める。やり場の無い怒りが――こんな無惨な結末を回避できなかった自分自身の無能に対する怒りが迸る声になる。その光景に麻痺していた心が、凍りついた感情が悲嘆の熱を帯びる。

「……なんだ、これは……!! なんだ、これは!!」

 目頭が熱い。涙が溢れて、二人の――屍を、まともに正視することが出来ない。やり場のない絶望をぶちまけるように地面を殴りつける。

「お、俺は――……二人に幸せになって欲しかった!
 ……俺が身を引けば、邪魔者はいなくなるから――結婚できると、幸せになってくれると思っていたのに……! 家族も、剣士としての名声も未来も、義父の信頼も、義兄上も、そして――初恋の人すらも――全部捨てて――――――――――――――――……その結末が……これか! こ、こんな……無惨なものが、こんな残忍な終わりが、俺の愛の結末だっていうのか!!」

 頭をかきむしる。破れた皮膚から僅かに出血しているがそれに気付く事ができないほど新志は平静を欠いていた。

「……う、うう、うら、裏目に出るにしたって……限度ってもんがあるだろうが……!!」

 声が震える。

「こ、こんな……」

 指が震える。

「こんな……」

 自分の行った行動の――二人が幸せになってくれると信じて行った行動のそのあまりにも無惨な結末に新志の精神は耐え切れない。自分があの日、義兄と戦いさえすれば――二人のどちらもが死ぬなどという最悪の結末を回避することが出来たのに。
 だが――どれほど悔やんでも悔やみ足りぬがもう遅い。


 なにもかも手遅れなのだ。

 
 新志は涙腺が壊れたようにぼたぼたと涙を零しながら――地面に突っ伏して、心の痛みに耐えかねたように、悲鳴の絶叫を張り上げた。 





「こんな馬鹿なぁぁぁあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁ!!」



[15960] 六番勝負後の顛末
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:657b66fe
Date: 2010/03/18 20:46
 早乙女光は――戦堂一倒流候補達の最後を、その正視に堪えないあまりにも無惨な結末を見守りながらもその表情を微塵も揺れ動かす事が無かった。
 彼らの様子を観察するために遠方の木々の天辺――爪先で木の頂点に立ち、腕を組みながら結末を見守っていた。
 新志の慟哭も、実光の外道も、椿の惨死も――まるでこの魔術師軍総司令官の精神に毛ほどの動揺ももたらせないのか、彼はただ黙って部下の遠吠えに似た咆哮を聞いている。彼は、一部始終を見ていた。そして音速域に達する神速の移動術を体得する英雄スピードガールである彼は椿を救うことも、実光を撲殺しようとする新志を制止することも、実行しようという意志があれば実行できたはずである。
 だが、彼は全く動かなかった。
 勿論、思うところはある。戦堂新志の絶望と悲嘆の篭った叫び声は、聞く人間に彼の千切れるような心の激痛を訴える痛みが篭っている。そんな声を上げる彼を助けることが出来る立場にありながらそれを実行しない――それは在る意味では生半な精神力では耐えることができない苦痛を伴う行動だった。
 見殺しにする事が必要であると――信じることが出来る強靭な精神か、あるいはその絶望の悲鳴を楽しむ事が出来る悪逆の精神か、この状況を止める立場にありながらも逢えて黙って見ていることが出来るのは紛れもなく、そのどちらかであり早乙女は前者であった。

「ここからだ」

 早乙女は拳を握り締める。
 彼は自分の行動が正しいものであると、八割方の確信を持っていたが――助ける事のできた相手を助けないという事ほど自制心を要する事態は無い。親友である戦堂刃馬――その愛娘と義理の息子二名に降りかかったあまりにも残酷な結果。こんなもの、刃馬には絶対に見せられないな、そう考えながら早乙女は非常に徹する。
 誰もがこれで終わりであろうと確信する状況の中、早乙女は待つ。彼には確信があった。


 敵が来るという確信を。


「むしろ……ここから先が、本番だ」








 あまりにも――酷い。
 その場に居合わせた魔術師軍の少女達――歴戦である彼女らが全員言葉を失うほど、戦堂一倒流総帥候補の戦いの結末は無惨と凄惨と陰惨と悲惨を極めた。
 悲嘆の慟哭に打ち震える戦堂新志を慰める言葉など、彼女達の誰も持ち合わせてはいない。
 子供の頃から一緒に過ごしていた義兄と義姉。その二人の幸せを願った結末が――幸せを願った義兄の手による義姉の斬死、そしてその義兄をほぼ狂乱していたとはいえ、新志は自らの手で殺める結果となった。

「……あ、……あんちゃん……」

 朱絶佳は蒼白な表情のまま、膝を付いた新志に近寄ろうとし――躊躇う。
 彼女は、華帝国での動乱の際――新志と一緒に逃げたとき、彼の義兄と義姉の事を教えてもらった。全てが決着したあと珊瑚と一緒に二人の結婚を祝おうと心に決めていた矢先だと言うのに、この結末。二人の幸せを願ったにも関わらず、これは新志があまりにも報われなさ過ぎる。
 戦堂の家を捨てる決断こそ間違っていたかも知れないが、少なくともその行為に私心はなかった。二人が幸せになってくれるようにという願いの篭った純粋な思いからの行動であったのだ。それなのに――まるでその思いを裏切るような、想像しうる限りの最悪の結末。
 報われない。

「……こんなのって……ないよ」
「……ここまで――最悪とハ、思っていませんデした」

 蚊の鳴くような絶佳の呟きに応えるジャニーの表情に浮ぶ表情も苦々しさを通り越して、間違えて毒を含んだぐらいに苦渋に満ちていた。彼女も新志の義兄と義姉の事を直接彼の口から聞いていた。
 今回の状況ならば――戦堂実光の説得が難しいというのは彼女達の共通した認識。だが、まさか――実光が椿を斬殺するまで、外道に落ちていたというのは予想外だった。実光は、椿や新志の証言から察するに、新志との決闘のためならば如何なる悪逆にも手を染めるが、しかしそれ以外――椿に対する愛情のみは本物であると思っていたのである。
 なんという見通しの甘さだったのか、と今では悔いるより他無い。
 アトリは、胸の前で十字をきり――共に過ごした時間こそ短かったものの、しかしその人柄に好感を抱いていた椿のあまりにも無残な最期に、せめて魂の安らかなる事を神に祈る。

「……サンゴくんがいないのが――せめてもの救いなのかもね」
「……左様でござるな」

 アトリの言葉に、斬絵は頷く。
 彼女達の中で戦堂の子息らと接する機会が多かったのが土倉珊瑚その人だ。
 幼少期から新志と実光、椿、その三人と一緒に行動する事のあった珊瑚が――子供の頃の思い出を共に過ごした大切な人々がお互いに殺し合い、殺されるこの今の情景を見たらどんな気持ちになってしまうのか。この場所にいなかった悪夢の中のほんの僅かな悪運を喜ぶべきなのか。
 斬絵は鉛のような嘆息を吐いた。
 戦堂一倒流は――これからどうなってしまうのか? 連城双闘流の古老達は、敵対していた流派の後継者達に起こった悲劇をいかに受け止めるのか。もし自流派の古老らにこの不幸を喜ぶ奴がいるのなら――本気で小太刀を抜かずに済ませる自信が無い。
 これは本来――斬絵に託された仕事でもあった。新志が倒されれば、斬絵がこれに当たるはずだった。だが自分では実光と天下大逸刀に勝つ事はできなかっただろう。斬絵はこのあと控えているであろう、戦堂刃馬殿の悲嘆の涙と絶望の量を想い、帰還する足が鈍る事を確信した。
 葬式の準備なんて――ましてや憎からず想っている相手の大切な人々のそれを手伝うなんて――辛い。
 全員の胸の奥に重い――あまりにも重い塊が圧し掛かっている。
 斬絵は、その胸の重い塊を少しでも軽くしようと再び嘆息を漏らした。

 そして長い長い嘆息の後、斬絵とアトリはお互い顔を見合わせて意を決した。

 とうとう我慢しきれず泣き出してしまった絶佳の嗚咽の声を押し殺すように、胸に抱きしめるジャニー。ここは任せて、と目線で合図するジャニーに頷きを返して二人は新志に声を掛けるべく歩き出した。
 絶望に暗く沈む気持ちは良くわかる。もう何もしたくないぐらいに落ち込んでいるのも理解できる。死にたいような気持ちに囚われているのも承知している。
 だが、新志はまだ生きている。
 死んでしまった二人の分までこれからも生きていかなくてはいけない。戦堂一倒流の生き残った最後の息子として――そこまで考えて、アトリは――これから先、新志はどうするのだろうかを想像した。
 戦堂一倒流総帥として、魔術師軍の戦士という立場はもう辞するしかないのだろうか――そう考えると、アトリは更に落ち込むような気持ちになる。

(……それは嫌だね)

 もう既に、新志は魔術師軍の中でもその明朗な人柄と魔元帥を退けたという実績から、彼女達の精神的支柱の一つとなりつつある。それと同時にアトリも親友と呼べる間柄の男が去るのは残念だ。男装による呪詛毒への防御を高めるという最初の目的も達成されなくなる――そこまで考えて、アトリは不謹慎だな、と自分を戒める。今はそんな自分本位な事を考えているような時ではなかった。
 二人の屍をこのまま野ざらしになどしておけるわけがない。傷口を拭い、塞ぐ。生前と同じようなお化粧をする。綺麗にしなくてはならない。椿――今生ではこんな事になってしまったが、せめて来世ぐらいは――そう考えていたアトリは自分が思考の沼にはまり込んでいた事に気付き、斬絵と一緒に新志に近づこうとして――それを見た。
 斬絵の足が止まっている。思考していた自分と同じように何か考え事でもしていたのかな? と前に回りこんだアトリは、斬絵がまるで洞穴のように唖然と口を開けているのを見た。

 一体なにが? その視線をアトリも追う。




































 










 ゆっくりと。












 だが確実に。




























『戦堂 椿』が。

















 
 起き上がっていた。










































「は?」












 それは一体――誰の漏らした呟きだったのだろう。
 アトリなのか、ジャニーなのか、絶佳なのか、斬絵なのか――だが、全員が全員、その疑問の呟きを漏らしたのは自分だと確信するぐらいに共通する思いはたった一つ。

 なんだ? これは――という、現実に対する疑問だった。

 言うまでもなく――戦堂椿がその身に受けた一撃は致命傷だった。体からあふれ出て竹林を赤く染める出血の量も、体に刻まれた大きな切り傷もなにもかもが命を奪うのに十分すぎるダメージだった。そして椿が死に際に見せた表情は演技ではない。命を奪われた人間が見せる――自分になにが起こったのかを理解できていない、あるいは信じることが出来ていないまま暗い暗黒の淵へ連れて行かれるような表情だった。
 新志は――そんな義姉に気付いた様子もなく悲嘆の涙を流している。呆然自失で自分のすぐ傍の状況が見えていないのだ。
 彼女達は――全員が全員目の前のそれが本当に現実であるのかを疑っていた。まるで目覚めながら悪夢を見ているような現実離れした光景だった。
 椿の衣服は自身の鮮血で染め上げられており、その真紅が月光で照らされる。
 もしもの時のための護身として着込んでいた鎖帷子は切断され、断面の鎖が揺れている。その双眸は何かを探すかのように周囲を彷徨っていた。

 おかしい。
 
 致命的におかしい。

 死者とは動かないから死者であり、生命活動の一切合財を停止しているはずのそれは屍。動くわけが無い。
 だがそれなら、彼女の体の視覚的な情報のすべてが死を告げているにも関わらず動くのは一体なぜなのか。
 刻まれた傷跡が痛々しい――だが死者が歩き出すというまるで三流のホラー映画にしか思えないあまりにも現実味を欠いたその光景に、冗談としか思えない現在の状況に――この場を支配する凄絶な邪気に、彼女達は呑まれていた。

 おかしい。

 心の中でそう理性が絶叫するものの――肉体はまるで金縛りにあってしまったかのように動く事が出来ない。
 アトリはそれが――最初自分が現状を受け入れることが出来ず惚けているだけなのだと想ったが――それが本当の意味で呪縛され、動けなくされている事に気付いた。何か魔的な力で動きを封じられている事を悟った。
 そんな彼女の前で戦堂椿の屍の――焦点が合った。
 ゆっくりと近づく実光に彼女は――頭を地面に叩きつけられた彼には見向きもせずに、その手に携えていた天下大逸刀を手に取った。

(!! …………違う、違う! 違う違う違う違う違う!! これは――彼女は『椿』さんではない!!)

 その椿の屍の行動に――アトリは、その屍を動かしているものが椿ではなく、もっと別の唾棄すべきなにかである事を悟った。彼女がもしどう考えても実現不可能な絶対に起こりえない奇跡やらなにやらが起きて生きていると仮定しても――それならば彼女が真っ先に実行するべきなのは、今まさに救いの言葉が必要な戦堂新志に慰めの言葉を掛けることである。死んだ実光の前で手を合わせ、哀悼を示す事である。それが出来るはずなのに、それをしないなんてこの数日間で接した彼女のなりひとを思えば絶対に有り得ない。
 なのに――なのにこれではまるで、実光のことなど、新志の事などまるで意識しないなど、外道の行いではないか――!!

(……動かない、動かない! 何故なのだ! いつ、いつ仕掛けられた?!)

 アトリは警告を発しようとする。注意を促そうとする。

 だが、不可解な事に声帯も動かず指一本すらままならない。
 動くのは精々視線と瞬きぐらいであった。それがまるでこれから実行される光景をしっかりと見せつけようとする悪意の篭った行為であるように思えた。
 アトリをはじめとする彼女達はこの時点で――自分達が椿の体を操る邪悪な意志の姦計に嵌まった事を悟った。恐らく彼女以外の全員がそうなのだろう。この異常事態に対して呻き声一つ上げていないことがその証明である。
 戦堂椿――その肉体を操る何者かは、天下大逸刀を持ち上げて、項垂れる新志を見下ろした。

(……きっ…………貴様っ!!)

 その位置関係を見て――斬絵は自身の脳内で罵声を炸裂させた。
 絶望にあらゆる気力と意志を失い項垂れる新志と、その傍に佇み天下大逸刀を振り上げる椿の体を操るなにものか。

(よりにもよって……悪辣な!! 見せ付ける気か、拙者らが無力感に苛まれるのを愉しむつもりか……おのれええぇぇぇぇぇ!!)
 
 それはまるで、目隠しをされ首を差し出す死刑囚と首切り役人の位置関係――土壇場、処刑場の光景ではないか。斬絵は自分自身の血液が、恐怖と憎悪で凍りつく音を聞いた。今、まさに自分達を拘束している敵は――目の前で新志の首が刎ねられる光景を見せつけようとしているのだと悟った。

(あんちゃん! 敵だ! 敵なんだ! 気付いて、気づいてよぉ!!)

 絶佳はジャニーの胸の中で振り向いた状態のまま金縛りに合い、必死に警告を発するが――茫然自失のままの新志はそれに気付く事が出来ない。声帯一つままならない彼女ではなにも出来ない。……新志の大切な人が殺される光景を黙って見ているしか出来ず、そして激怒で歯噛みしたいのに、それも叶わない。

(畜生! 畜生、こんな、目の前で――目の前で今度はあんちゃんが殺されるってのか! またあんなのが繰り返されるなんて……こんなの嫌だ、嫌だ、嫌だ!!)

 無力感と絶望感で、一度静まったはずの涙の衝動がまたぶり返してくる。そして恐らく絶望の涙が、今自分達を捕らえた相手を喜ばせるだけだと悟り、このくそったれな奴の喜ぶ事など何一つしてやらんと絶佳は涙を押し殺し――椿の屍に怒りの眼差しを向けた。 

(……これガ――早乙女の言っていた、『新志への狙い討ち』という奴デスか!)

 ジャニーは――早乙女と刃馬と美津子の教えられた会話の内容を思い出して、その予想を伝えられたにも関わらず察知し食い止めることが出来なかった自分自身に腹を立たせる。
 油断するべきではなかった――今回の戦いで魔術師軍の役目はただのお目付け役と、実光が最悪将魔へと変貌していた際の戦力と考えていた。甘すぎる、勝負が終わったと考え気の緩んだこの瞬間に敵は襲ってきたのだ。そして相手は非常に性格の悪い事に自分達の動きを封じてこれから先の処刑を見守らせようとしている。

(……このままデ……終われませんデス! こんな無惨を繰り返させてたまるかデス!)

 ジャニーは全身に力を込め、完全に動きを封じられた現状で視線のみを動かしこの金縛りを解く手段を模索する。
 指一本動かせない状況だが、しかしこのまま黙っていいようにされてたまるかという怒りを動力源に四面楚歌の中必死に脱出路を探し始めた。

 そして――彼女達は見る。

 此方を向いて嘲るような笑いを浮かべる椿の顔を。
 醜い。
 清楚で凛としたその顔立ちは生前となんら変わる事が無いのに――心の醜さが浮き彫りになっているかのように、その整った顔立ちを邪悪に歪ませている。まるで椿の体を操る何者かの精神の悪影響を受け屍の表情が穢されているようだ。

「そこで見てなさい、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」

 アトリは――その声帯は同じなのに、言葉からしたたるような悪意の量でこうも毒々しく響くのかと愕然とする思いだった。
 腐汁の滴る毒液のような高密度の悪意が込められた言葉。耳の中にヘドロでも流し込まれているような不快感。文字通り手も足も出ない彼女達を肴にこれから起こされる更に無残な結末を期待するような嗜虐的媚笑。
 その笑みで――魔術師軍の少女達は理解した。
 この絶望的な結末を迎えた事件の主犯がついに姿を現したのだと。この陰惨な悲劇を更に黒く絶望で塗りつぶすために許されざる演出家が舞台に上がったのだという事実を。
 推理でも洞察でも慧眼でも直感でも天恵でも無く。
 ただ、そのおぞましい笑顔と言葉を聞くことで全身に這い上がる――家屋に隠れ住む害蟲が全身にたかるような堪え難い嫌悪感によって彼女達は理解したのだ。







 こいつが、一連の事件の真の黒幕なのだと。











「……あ?」

 新志は――そこで周囲の空気が変わっている事に遅まきながら気付いた。
 平時の新志ならばここまで反応が遅れる事も無い。椿の屍が不気味な復活を遂げた瞬間で抜刀と誰何の声を上げることぐらいはやってのける事が出来た。だが、流石の戦堂新志といえども義兄と義姉の死という結末を見せ付けられて平静でいられる訳が無かった。
 そして呆然としたまま、天下大逸刀を携える椿の姿に気付き――なにが起こっているのか理解できないまま首を傾げた。

 その新志の頭を、椿の足が踏みつけて地面との接吻を強要する。

「……な? なにが? なにを……?」

 新志はまだ義兄と義姉の死という精神的ショックから完全に立ち上がれてはいない。
 椿は言葉こそ厳しくとも理不尽な事はしなかった――それが自分の頭を踏みつけている。義姉がこんな事をするわけが無い。ではこの義姉はいったいなんなのだ? 疑問が脳内で乱舞し、困惑が新志の行動を掣肘する。現実的な防御手段を取る事が出来ない。何故? 何故? 何故? まるで石像のように一切の動きを止めている仲間達。だがその眼差しと一瞬目線が合い――今は動かなければならない状況なのだと教えられ――そして理解し。

「ヒヒひひひひひひひひひひひひひひひ……!!」

 そのけたたましくあざ笑う声で、なるほど――これが心底、椿ではないのだと理解した瞬間には、戦堂新志の肉体も仲間達同様に金縛りを受けていることに気付いた。
 振り上げられる天下大逸刀――月光を反射し凶剛の光を放つ。
 新志は己の全身を硬直させる――防げるか? いや、無理だな、と流石に戦慄が大きい。自分の筋肉を彼は信じていたが相手は護国神宝、天下大逸刀。いかに筋肉に力を込めて鋼化させようとも限界がある。

(……今回は流石に――『僧房筋が無ければ即死だった』とかは言えんか……?!)

 新志は目を剥いた。
 アトリを始めとする魔術師軍の彼女達は――次の瞬間、金縛りから脱出した。否、彼女達の努力によって呪縛から逃れたのではなく、その呪縛を仕掛けた相手が自ら解いたのだ。
 アトリは――どこまでも自分達を嬲るつもりの嗜好の相手に激怒を感じる。振り上げられ、振り下ろされる天下大逸刀を止める手段は無い。アトリの冷却の風も、朱絶佳の踏み込みも、ジャニーの雷光も、斬絵の剣戟もなにもかもが遠すぎる。なにもかもが手遅れ。
 もう――如何なる努力をしようとも決して届かないと確信するからこそ、この性格の悪い、否、悪すぎる相手は彼女達を解放したのだろう。完全に金縛りで拘束されるよりも僅かでも新志を助け出すための自由が与えられていたほうが――

「いヒヒひひひひひひひひひひひゃはははははははは……!!」

 助けられたかもしれないのに――助けられなかったという演出の方が、より絶望が色濃くなるから。


「新志ぃぃぃぃ!!」

 誰かが叫んだ。
 誰も――間に合わない。新志は動けず、仲間達は届かない。もう、誰も助けられない。

 そう。ただ一人を除いて。






 新志の『影』が、爆発した。







 それこそ――忍法影潜りの術による、二次元潜行からの脱出、潜められた悪意の刃より新志を護る――早乙女の仕込みであった。
 その新志の影の中から――巨大な蝦蟇蛙と、その上に跨った土倉珊瑚が姿を現し――天下大逸刀ではなく椿の肉体に対して蝦蟇蛙の巨体で体当たりを仕掛けたのである。
 
「きつかった……!! ……本当にきつかったんだ、早乙女さん! ……耐える事が仕事って……こんなの、もう二度と嫌だ!!」

 珊瑚は――ぼろぼろと涙を零しながら、蝦蟇蛙の勢いに押し倒された椿を睨んだ。もうその眼差しにかつて幼少期を共に過ごした椿に対する優しさは無い。今回の事態を引き起こした外道に対する抑えきれない怒りがあるのみだ。
 
「なるほど。なるほどなるほど。……あんたを戦堂新志の影の中に配置していたわけね? これは失策だったわ、ふふ。早乙女め、どこまで食い下がるわね」

 椿ではない。椿の姿をとった敵は――口元に妖しげな微笑を浮べ、その全身から――剣のような鋼鉄の茨を凄まじい勢いで幾つも生やして自分の体を押さえ込んでいた蝦蟇蛙を串刺しにする。明らかに人間ではない異形の力に珊瑚は歯を噛む。

「……体から幾つも剣みたいな茨を生やす――やっぱりお前なんだな、『万剣の茨』!!」
「ご名答。……褒美はなにがいい? 斬死か串刺しか八つ裂き? それともあんたを解体(ばら)してきれいに並べてあげようかしら?」

 珊瑚は自らの忍法で生み出していた蝦蟇蛙を消すと――その眼差しに怒りを浮べ、新志には指一本触れさせまいと表明するように忍刀を構えた。
 彼女は――『忍者』という言葉どおり、苦痛に耐え忍んでいた。
 珊瑚は今回の一部始終を、新志の悲鳴と慟哭を全て聞き――それら全てを聞きながらも一切合切の手出しをすることが許されていなかった。本当は誰よりもいち早く新志の傍に駆け寄って慰めの言葉を掛けたかった。それを耐え忍んでいたのは、ただ偏にコイツを表に出すため。自分達が殴れる位置にまでおびき寄せるために自分の身体が削られるような心の痛みに必死に耐えてきたのだ。

「……早乙女の読みでは――今回の事件は魔元帥エルムゴートを倒した新志を狙って起こされたという事だった……。
 ボクが新志の中でずっとむちゃくちゃ我慢していたのも――お前が、こんな事態を引き起こしたお前が! 新志を確実に殺すために出てくるのを――お前を舞台に引きずりだすためだった! ……鬱憤堪ってるんだ! 覚悟しろ!」

 珊瑚は叫ぶ。その毒々しい悪意から新志を護るように吼えた。

「邪智の魔元帥『万剣の茨』――ジェーン=ドゥ!!」



[15960] 七番勝負――魔元帥『邪智』
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:657b66fe
Date: 2010/03/22 16:45
 早乙女光は――自分の行動が到底褒められたものではないことを知っている。
 例え、人類の仇敵である魔元帥を討ち果たす好機が訪れたのだとしても、彼が部下である珊瑚に戦堂椿の見殺しを命じたのは事実だ。それが違うと彼は知っていても、新志にとって
 そして――早乙女自身も、魔元帥が新志を狙ってくる事をこそ予想はしていたが、そのための手段まで完全に読みきっていたわけではなかった。ただ、今回の事件と彼が過去経験した事件はどこか共通するものを感じていたのである。
 どれほど扱う道具、画材を変えようとも、同じ画家が書いた絵画にはその根底に流れる筆遣いが共通するように早乙女は今回の事件にも同じ外道が組み立てた悪辣な罠を肌で感じていた。

 魔元帥ジェーン=ドゥは――ただの一言で言い表すならば卑劣であり、もう一言付け加えるならば臆病でもある。
 彼女が用いる罠は、本来ならば何の問題も無く終わるはずであったほんの小さな炎に油を一滴注ぐ事が多い。彼女自身は自ら演出家を自認しており、そしてその中でも出演者たる人間の悲嘆と絶望の物語を――最後に英雄が死んで終わるような演出を好んでいる。
 早乙女自身――かつて一度彼女の罠に嵌まったことがある。
 南極での決戦の折、彼も無傷で勝利できたわけではない。ただ、人質を取るという卑劣な手段を相手は取ってきた。今から考えても冷や汗が出るような状況であり――あのとき、魔元帥エルムゴートが早乙女との純粋な勝負に水を差されたことを激怒して一時的に味方に回らなければ相当に危なかった。
 
「……今度は、そうはいかないぞ」

『邪智』の魔元帥には個人的な遺恨がある。その辺りは既に恨み骨髄に達していた。彼が内に秘めるのはこうなる前に事前に阻止できなかった己自身の無能に対する怒りと、こんな悪辣な策略を仕掛ける相手に対する深い嫌悪であった。




 戦堂新志はこのとき困惑の只中にあった。
 義兄の凶刃に掛かった義姉の無惨、その絶望に打ちひしがれていたのに――その義姉はまるで生前と変わることなく起き上がっていた。致命的に違うのは自分自身に対する暴行、そのなりひとからは想像も出来なかった悪意に満ちた言葉の数々。新志は混乱しており冷静に嗜好することが出来ないでいる。

「……なんだ、これは。……なにが一体どうなっているんだ?!」

 珊瑚は新志の声を背中で聞きながら、戦堂椿――否、その姿のみを真似た邪悪な敵を睨み据えた。

「どうもこうもしないわよ。……気付いているんじゃないの? 私は貴方の義姉である戦堂椿じゃないのだと」
「……なぜこんな、こんな事をした!!」

全員の心情を代弁するような珊瑚の大喝。
 その言葉は予想外だったのだろうか――椿の姿をとった魔元帥ジェーン=ドゥの毒々しい悪意の篭った言葉から新志を護るように立ちはだかる珊瑚に、忌々しげな視線をたたきつけた。

「……戦堂新志、その男を抹殺するためよ? 決まっているじゃない」
「……俺……を?」

 呆然とした様子で新志はその言葉に反応し静かに俯いた。下を向く。かすかに震える。
 ジェーン=ドゥは目を細め、鼠を嬲る猫のような残虐な笑みを浮かべる。相手の心の傷の数こそ我が歓びと言わんばかりの表情。

「……我々魔元帥達の中でも最大級の物理的破壊力を誇る魔元帥エルムゴート……単細胞の戦闘狂とはいえあの男を倒すブラックホール砲撃は脅威だわ。……そのために私は――戦堂新志の事を調べたわ。……はは、そしたらざくざくでてきた、私好みの悲劇のネタがごろごろしているじゃないの、あははははは!」
「……ネタ?」

 がちん、と誰かが歯を鳴らす音が響いた。

 魔元帥ジェーン=ドゥは機嫌良さげに言葉を続ける。恐らく――この非道な言葉も、こちらの神経を逆なでする発言も全て故意。自分達の激昂と憎悪すら愉しんでいる愉悦交じりで人を殺させ絶望に叩き込む、最悪の悲劇の演出家、自らの手を汚す事すら嫌って悪辣な罠を張り巡らせる最悪の部類の殺人者であるのだろう。

「戦堂実光はねぇ――新志に対して激怒はしていた。腹のうちでは物凄く怒ってはいたけど――それでも彼は自分の中に醜いものを押さえ込む理性の持ち主でもあったわぁ。……もちろん、それじゃああんまりにも面白くないから、その彼の理性の箍を私の力で無理やりに取り外したんだけどねぇ」
「……お前」

 笑顔が浮ぶ。椿と同じ顔のものとは思えない毒々しい微笑み。
 珊瑚は――思い起こす。あの、正気を保っていた椿さんが打ち明けた己の中の心のうちを。椿は、実光の狂乱の原因がわからないと嘆いていた。彼は新志の――間違ってはいたかもしれないけど、真剣に自分達の幸せを思って行動した事を受け入れて戦堂一倒流総帥として生きていこうと、その悔しさを心にしまって立派に生きていこうと決断したはずだったのだ。
 それを、こんなわけの判らない部外者に良いように引っ掛けまわされ、あんな結果をもたらされたというのか。
 珊瑚は己の握り締める拳が震えている事に気付かない。

 きりきりと、何かをすり潰すような音が響いた。

「私の目的は戦堂新志の抹殺――でもねぇ。お仕事って、やっぱり楽しめないと駄目だと思うのよねぇ、ひ、ひひ。
 ……戦堂実光に天下大逸刀を持たせて戦わせたわけなんだけど、まさか奴自身が自らの手で椿を斬殺するとは私も予想外だったのよねぇ。こういうハプニングがあるから――人を陥れるのってのは面白いわぁ!
 でも――たった一つ心残りがあるとすれば、愛する男に斬り殺された椿が、死に際にどんな表情をしていたのかわかんないって事よねぇ?! ……ねぇあんた達、椿の今わの際の表情って誰か写真に撮ってない? この体は椿の意識で動かさせていたから、私自身自分の顔見れなかったのよねぇ……あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」

 珊瑚を始めとする全員が言葉を挟めないでいる。
 相手の言葉に困惑しているとかそういう話ではない。単純に、相手のあまりにも下劣な発言の数々に脳内が沸騰していてまともに話せる自身が無かったのだ。この場の全員が怒り心頭に達していたのだ。

 きりきり、きりきりと――何かを押し合わせるような音はますます強くなる一方。

「……それにしても、戦堂実光も案外だらしないわよねぇ。……折角天下大逸刀を持たせてやったのに、義弟一人斬り殺せないんだもの」
「……それで納得がいったよ」

 珊瑚はもうこれ以上相手の下劣な発言などに耳を傾けたくないと言わんばかりに告げる。

「実光さんがやった事は許されない事だった。誤った事だった。
 ……でも――あの人が新志と互角に戦いたいって気持ちは紛れも無く本物だったはずだ!! ……お前なんだな? 実光さんの心に干渉して、互角の勝負で挑むなら普通の大太刀で以って戦うべきなのに――実光さんに天下大逸刀を持たせたのは、お前なんだな?!」
「ご名答よぉ? ……本当にねぇ、実光の奴は新志を斬り殺したら自分で殺した奴の墓の前で腹を切るつもりだったってのよ!! ……馬鹿じゃないの? 馬ぁ鹿じゃ無いのぉぉぉおおおおほほほほほほほほほほほほほ!! 最初から自殺するつもりだったなら、殺しなんかしなきゃいいのに、ってってもさせたのは私なんだけどねぇ!! 笑える笑える!! 
 最初から自殺するつもりだったし、生き残った方は殺さなきゃならない。お互い普通の大太刀同士じゃ戦堂新志の勝ちは確実だったから少しは賭け要素が出るようにしたんだけど――実光がここまで弱いとは予想外だったわぁ」

 珊瑚は――底冷えするような眼差しで、告げた。

「……最後に一つだけ聞くよ。……早乙女さんから教えてもらった。
 お前の変身能力は――変身する対象を己の体の中に取り込み、自分の触手の一本をその対象があたかも自分の体を動かしているかのように錯覚させるやり方だ。そしてある時期が来ると同時に触手を操る権限を本人から奪い取って行動を開始する。あらゆる探知をすり抜けるお前固有の特殊能力だ。
 ……椿さんは――お前の体の中に取り込まれているんだな? ……いつ、摩り替わった!!」
「戦堂一倒流総帥の授与式――戦堂椿本人が、『すぐに門下生に父上を任せ、私が彼を追いました――でも、既に彼は姿を消した後だった』って言っていなかったかしら? ……一人になる瞬間、あの時以降よ」
「……そして、椿さんは、ほんの数分前までお前の体内で自分の体と思い込んでいたお前の体の一部を動かしていた」

 珊瑚は確認するように言う。
 新志の影の中で見たあの光景――椿のあの信じられないものを見たような表情。あれは、演技では絶対に有り得ない。

「……つまり、お前の体内でまだ生きているんだな?」
「ええ、そうよ? ご名答よ? ……そして――そんなハッピーエンドの芽をこの私が許すと思う? ……あはははははははは!! 戦堂椿は既に用済み。私の体内でゆっくりじっくりと消化して滋養の一つにして差し上げるわ! そしてお前達はその事を知りつつも実力が足らずに私を殺せない!」

 きりきり、きりきりと――先ほどまで聞こえていた歯軋りの音が更に続く。

 かすかに地面が揺れ始める。戦堂椿の足元の土砂が爆発した――そう思った珊瑚達が見たもの、それは椿の下半身から伸びる、大蛇の如き緑色の蔦であった。
 同時に彼女は人間の姿を既に破棄し――人類の敵対者、魔としての真の力を発揮するための姿へ変身を遂げている。
 戦堂椿――否、その姿を掠め取った『邪智』の魔元帥であるそいつは上半身を緑色の衣で纏い、下半身を花弁で包み込んだ姿に変えた。赤い花をあしらったドレスにも見えないことは無いが――相手のその下劣な精神を知った珊瑚達にはそれが既にただの毒花にしか見えなかった。その華のような下半身からは剣のような茨を生やした蔦が伸び、地面に吸い込まれている。
 植物を模した『邪智』の魔元帥はその己の周りに、蠅取り草をより一層凶悪な肉食獣の口蓋に似た形状へと変化させたように見える触手を幾つも生やす。そして椿の姿をしたジェーン=ドゥは哄笑を上げながら告げた。

「ここまで私が今までつらつらと冥土の土産を聞かせてやったのは何故だと思う? ……私は絶望にまみれる顔も苦痛に破れる悲鳴もダイスキだけどさぁ。……一番好きなのはねぇ、憎い憎い仇を目前にしながら、復讐を成し得ずに憎い憎い仇に殺されていく奴の無念と悲鳴なのよ!!
 私を殺したくて殺したくて仕方の無い奴をぶち殺す! 憎悪を晴らせず、仇も討てず、痛みと傷みと悼みの中殺されていくお前達の無念と憎悪が好きで好きで好きでさぁ……あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!! 悲鳴を上げろ、苦痛の声を漏らせ、自らの無念の涙を飲め、己が血液に彩られた死に装束を着飾って絶望のまま死に晒せ!!」

 大地を剥ぎ取りながら膨大な量の触手が珊瑚達を包囲するように広がっていく。 
 その包囲網の分厚さ、珊瑚達を抹殺するには十分すぎる量だと知る魔元帥ジェーン=ドゥは珊瑚達の恐怖を押し殺したような表情を干渉しようとして――相手にまるで恐れも怯えも見当たらない事をいぶかしんだ。
 いかに精兵魔術師軍でも目前に迫った確実な死を前に平静でいられるわけが無い。それが不満である彼女は――見た。





 俯いたままの戦堂新志の全身から青白い光が発せられているのを。




「なに……?!」
「……生憎だけどさ。ジェーン=ドゥ。……お前は、新志の事を、一つだけ読み違えたみたいだよ」

 その青白い光の中心――戦堂新志の周囲に、恐るべき現象が発生していた。
 青々とした笹の葉を茂らせる竹が――どんどんと生きたまま腐れて逝く。蒼い光の線に触れた笹の葉が――斬られた。
 戦堂新志という大剣士の全身から発せられる光――前代未聞の現象。


 それこそ――肉眼による目視が可能な域にまで高められた超高密度の『殺気』であった。
 

 全身から発せられる凄愴の気、そして義兄を狂乱させ義姉の心を弄び、それらを楽しむ外道に対する大激怒が――ただの怒りのみで物体を切断し、周囲の木々に生きる事を諦めさせていくという恐るべき現象を発生させていたのである。
 戦堂新志は――俯き、伏せていた姿勢からゆっくりと起き上がる。きりきりと歯軋りの音を立てながら立ち上がった。

 睨む。それだけで、視界内に存在していた全ての竹が生きる事を諦めて腐り果てていく。

 珊瑚達のような生きる気力に満ちた生物ならば兎も角、周囲の環境に流されるしかない植物にとって、新志の気はまさに有害そのものであった。
 その全身から発せられ、周囲の竹を腐らせ枯らせた凄愴の剣氣、殺気は――引き抜かれた大太刀に集中していく。歯軋りの音を立てる。顔に浮ぶのは鬼神の表情。肉眼で目視可能となったそれを構えたまま、新志は――どこまでも殺意に満ちた、聞くだけで震えが走るような声を漏らした。

「……ぐだぐだ、言わん」

 大太刀を、構える。
 現れるのは、鬼のつら。

「ぶち殺す」

 戦堂椿の顔のまま、魔元帥ジェーン=ドゥは自分の背筋を走った恐怖感に戦慄した。
 馬鹿な――ただの剣士に自分が恐怖しているのか、と驚く。有り得ん、と口走る。


 彼女の読みはほぼ、完璧だった。
 戦堂新志を抹殺するには――まず精神面から攻めるべきであった。彼はその強大な意志力とその意志力を支える自負の源である筋肉によって強大な力を誇っている。確実に抹殺するには彼の精神を一度絶望の只中に叩き落す必要があり、そのために用意された策謀は見事に千載一遇の好機を彼女に与えた。
 土倉珊瑚にそれを邪魔された事は残念だったが――彼女はそれはそれで仕方ないと考えている。
 魔元帥『ジェーン=ドゥ』は、早乙女が評する通り臆病者であった。珊瑚達が魔元帥本体と考えている椿の体は彼女にとってはただの末端の触手、人間で言えば髪の毛に等しいものであり幾ら切り捨てても問題は無い。彼女の本体と、その中に囚われた戦堂椿の本当の肉体は、膨大な量の土砂に護られた地中深くに存在しており、彼女を殺すことは単純な物理的戦闘力しか持たない魔術師軍には絶対に不可能なのだ。




 不可能なはずなのだ。




『邪智』の魔元帥ジェーン=ドゥの仕掛けた策略はほぼ完璧であった。
 戦術家ではあっても策略家ではない早乙女光は彼女の仕掛けた罠を見破れたわけではない。ただ過去対戦した時の経験から戦堂新志を狙ってくる事だけを読み、そして彼の命を護るために珊瑚を新志の影の中に潜ませた。ぎりぎりで最悪の事態のみは避けることが出来たが――それでも『邪智』の魔元帥たる彼女を倒すには至らない。
 ジェーン=ドゥはここで失敗しても再び姿を隠せばいいと考えていた――この時までは。
 戦堂新志の必殺の気迫を受けるまでは。



 ジェーン=ドゥは、たった一つだけ――致命的なミスを犯した。


  
 戦堂新志は――歩み出る。
 それだけで――周囲の木々が腐れ逝く。常識を超えた絶大な殺意の量に――死などもっとも縁無きはずの魔元帥は、はっきりと死の恐怖という認めたくないものを感じていた。
 ジェーン=ドゥはたった一つだけ、失敗をした。



 戦堂新志の激怒の量を。



 その怒りの量の桁数を。

 
  
 


 あまりにも甘く見積もりすぎていたのである。 



[15960] 七番勝負――取引
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:657b66fe
Date: 2010/03/27 14:13
「……うそ、あんちゃんなんかでかくなってない?」

 その異常性に気付いたのは、この中で一番無手での戦いに長けた朱絶佳だった。格闘武術を体得する彼女が相手の身長、体格という殴り合いにおいて重要なファクターを見間違うはずがない。珊瑚達よりまえ、最前線に進み出る新志の背中を見守りながら――アトリは頷く。

「……うん、確かのようだね」

 アトリは最初は戦堂新志の全身より放出される激怒の気、魔元帥に向けられるプレッシャーが飛び火して自分達の視覚に影響を及ぼしているのかと思ったが――どうも錯覚ではなく戦堂新志の肉体が比喩表現抜きで大きくなっている事に気付く。 
 全身の筋繊維に込められた力により筋肉が隆起し、衣服を内側から押し上げる。剣撃の威力を生む後背筋が膨張し、肩幅が僅からながら肥大化する。強靭な部位を更に強靭に作り変えるべく――戦堂新志の筋肉は、その膨大な激怒の量に耐えうる肉体へと己を作り変えるかのようだった。 
 歯の鳴る音は、激怒のまま斬りかかる自分自身を戒めるよう。
 みしみしと全身の骨格がきしむような音は、まるで膨張する筋肉に骨が圧迫されているよう。
 全身より吹き荒れる殺意の風は、夜の冷気を上回る。
 携える太刀――銘こそ無けれども、刀身に纏う使い手の剣氣によって蒼い燐光を放っていた。
 
「……新志。好きに暴れて。援護する」
「……ああ」

 口内から声を漏らせば、吐息にすら殺意が滲んでいるのではないかと思えるような声色の新志。
 珊瑚は部隊の隊長として――新志は今回単独で好きに暴れさせたほうが良いという判断をする。下手に連携を強要させてその激怒を押さえ込ませるよりも大暴れさせたほうが効果が高いと考えたのだ。同時にその言葉は新志に対する言葉であると同時に、彼女達の仲間に対する命令でもある。全員が武装を構える。珊瑚は忍者刀を、アトリは刺突剣を、絶佳は拳を握り固め、ジャニーは竜骨の兜を目深に、斬絵は小太刀二刀を。

「気に入らないわ、不愉快だわ……貴方達……何本気で勝てるとおもっちゃってるわけぇぇぇぇぇぇぇ!?」
「新志を切っ先に、ボクらで傷口を広げる! ……大丈夫、相手が魔元帥だろうと、先頭は奴より強い!!」

 魔元帥ジェーン=ドゥの叫び声と同時に、周囲に控える蠅取り草に似た大顎の触手が牙を剥く。
 新志は前進――その両腕に携える大太刀を握りつぶすぐらいの握力で補綴し、体ごとぶつけるような突きの構え。両足に爆発的な脚力を込め自分を飲み込み咀嚼しようとする大顎の触手に対して、その口蓋が締まるより先に自ら飛び込む

「おおぉぉぉぉぉぉ!!」

 否――飛び込むというよりも、むしろ突き抜けた。
 早乙女光の魔術である『縮地』の模倣――それに加算された大太刀の質量は相手の触手を貫通し、一撃でぶち抜いて見せた。

「き、貴様……私の腕の一つを……!!」

 まるで威嚇するように、他の大顎触手は顎を音高くかみ合わせ、カシャン! カシャン! と人食い蝦蛄貝を思わせる異音をかき鳴らす。だが、そんな恐慌をもたらす音など新志の激怒にまみれた精神には意味を成さないのだろう。全身より青白い殺気の光を放ちながら新志は構える。そんな彼を半包囲するように他の数本の触手が持ち上がった。その中でも一際大きい鳳仙花の種に似たものを先端につけたそれが新志に先端を向ける。まるで先端部が種を飛ばして砲弾とするかのように口を開いた。
 周囲からの十字砲火――新志の突出を援護するかのように、ジャニーは雷竜の権能を用いその腕に紫電を凝縮。

「横方向からは押さえ込みまス、新志、そのままデス!」

 同時に彼女の雷竜の遺骨より――紫電が迸り、鳳仙花の種に似た触手を薙ぎ払うように焼き払った。
 半分を焼き払う彼女の行動に追従するようにアトリは前へと飛び出し、刺突剣を構える。切っ先に氷結の冷気が渦巻いた。

「攻撃の足を止める、そのまま行くよ!」

 射出される鳳仙花の種を模した生体砲撃の乱射――アトリは全員を庇うように強力な氷結の盾を顕現させ、砲弾の運動エネルギーを凍りつかせて弾速の鈍ったそれを置き去りに前進する。
 どこまでも攻撃偏重の連携――その彼女らを引っ張っていくように戦堂新志は突撃する。生体砲撃を行う触手に対して大太刀を横薙ぎに構え――大木を立つ心構えで振った。
 青白い剣氣が膨張する。二メートル近くの刀身はその切っ先から更に殺気の刃を伸ばし、六つ以上あった、一つ一つが丸太ぐらいの大きさの触手を纏めて両断してみせた。いつもに比べて、更に切れ味が増している。彼の激しい激怒の感情が、凄まじい力を与えているのだ。

「小生意気な……本気で倒せると思っているのぉぉぉぉ?!」
「……思ってるさ」

 魔元帥ジェーン=ドゥは新志の低い声に思わず怯む。相手よりも何倍も巨大な質量を誇る彼女は確かに自分よりも遥かに体躯に劣る敵に気おされていた。戦堂新志の殺気による気当たりは凄まじく、常人なら気死しているだろう。
 表面上は声も低く言葉数も少ない。だが、まるで黒く冷え固まった溶岩の中には赤く焼け爛れた高温のそれが詰まっているように、一見冷静に見える新志の内面には桁外れの激怒がなおも赤々と煮えたぎっていた。
 それでいて全身を動かす動作は冷静怜悧。激怒したとしてもドアを蹴破って室内に入る人間がいないように、彼がここまでの人生で得た鍛錬の経験、戦堂一倒流の剣理がその動作の全てを効率化させている。 
 戦堂新志――敵の士気の要はこの男であるという事はまず間違いがない。

「……失礼な餓鬼ぃぃぃ! 無惨な屍へと微塵に刻んであげるわぁぁぁぁぁ!!」

 椿の顔を掠め取った魔元帥の触手が動き出す。
 その腰から地面へと吸い込まれる蛇体を思わせる部位から剣の茨を張り巡らせ、新志を囲むように、蛇が獲物をその体躯で絞め殺すように――周囲の青竹を切り裂きながら迫る。新志は咄嗟に彼を援護しようとした仲間に叫んだ。

「ここは俺で良い……」
「あんちゃん!」
「あははははは、殊勝な男――そのまま膾にしてあげるわぁぁぁ!!」

 朱絶佳の言葉に新志は迫る敵の蛇体から生える剣の茨を睨んだ。全身に力を込め、その目元と口元――鋼鉄に匹敵する筋肉の鎧が存在しない部位を自分の腕を巻きつけて防ぐ。
 全身に対する絞殺ではなく、巨体から生える剣の茨を用いた偏狭質的なまでの刺殺攻撃。
 魔元帥ジェーン=ドゥは新志の肉体を完全に蛇体で締め上げ、刺し殺した事を確信し、より確実に抹殺しておこうと一層締め付けを強めようとして――まるで動かない事に気付いた。

「なに……?」

 ジェーン=ドゥは自分の体躯による締め付けの威力を知っている。相手が装甲車だろうともばらばらに刻みながら小さな鉄塊に圧縮する威力を持っているそれは人間の人体が防げる威力ではない。にも関わらず――締め付けているにも関わらず、むしろ内側から膨れ上がる戦堂新志の絶大な筋力によって、締め付けが引きちぎられようとしていた。
 だが、ここで締め付けに拘らず、次なる手を即座に打てる判断の速度は確かに彼女が下劣外道であるが同時に人類の強大な敵手――魔元帥の一人であることを示すものだった。
 戦堂実光から奪ったままの天下大逸刀を振り上げ、壮絶な筋肉の力で締め付けを引き剥がした相手に振り下ろしたのである。
 天下大逸刀は隕鉄剣、その切れ味は新志が持つ大太刀とは比べ物にならず――たとえ受け太刀をしたところでその受け太刀ごと切断する切れ味がある。事実拘束から筋肉の力で解き放たれた新志は間髪いれずに迫り来る天下大逸刀の一撃に対して、脊椎反射で受け太刀をしようとしていた。

(……はは、殺した、殺したわ!!)

 流石に戦堂新志が至高の剣士であろうとも、弓国護国神宝を相手に対抗できるわけがない。斬殺される新志の屍を思い、ジェーン=ドゥは殺人の喜悦と、自分の命を脅かす敵を倒せた確かな安堵を覚えつつ振り下ろし――その腕に肉を切る感触ではなく鋼鉄の手ごたえを得た。驚愕で目を見開く。

「なっ、なぜ……なぜ斬れないぃぃぃぃ!! 銘すらない凡刀一つぅぅぅぅ!!」

 戦堂新志は大太刀の中で一番頑丈な部位、鎬に手を添え、片手念仏鎬受けを以って天下大逸刀の壮絶な刀威を押さえ込む事に成功していた。新志は――馬鹿にするようにかすかに鼻を鳴らす。

「義兄上相手ではこうは行かなかっただろう。義姉上相手でもこうは行かなかっただろう」
「なにぃ?!」
「……だが、自分で手を汚しもせず、後ろで糸を引いて殺し合わせる事を好むような卑怯者の剣が、俺に届くと思ったか?」
「ぐ、くっ?!」
「……獲物が至高の名剣でも、使い手がなまくらならそりゃなぁぁぁぁ!! 絶佳ぁぁぁぁ!!」
「応よぉぉぉぉ!!」

 その新志の後方から走り込んで来た朱絶佳は新志の背中を駆け上がり、肩を足場にするように――至近距離から椿の顔を奪った魔元帥の顔面に蹴りを叩き込んだ。
 体勢の崩れた相手に対し、新志は下から大太刀を切り上げて――天下大逸刀を持つ相手の腕を切断した。
 
「いぎぃぃぃ!! よくも、よくもぉぉぉぉ!」
「……そしてそのまま頭上ご注意だぜー!!」

 絶佳の言葉の意味を理解する事も無く――魔元帥ジェーン=ドゥは空中へと跳躍しその手に携える刃を構えた珊瑚と斬絵の姿を認めたが、反応するには何もかも遅すぎた。人体で言えば急所に当たる部位――そこに突きこまれた忍者刀と小太刀二つ、致命傷だ。
 鮮血を吹き上げながら崩れ落ちる相手――珊瑚は呟く。

「……簡単すぎる。……まだ終わっていない!」

 以前戦った際の強敵――魔元帥エルムゴート程ではないにせよ、この相手も魔元帥の一人。過去の大戦で早乙女が苦戦し、結局取り逃してしまった相手とは思えないほどあっけなく倒された相手に珊瑚はそう断言。
 その言葉に是と応えるように――少しずつ地面が揺れ動く。
 次いで、地面が爆発した――それも先ほどとは比べ物にならない膨大な量の触手が姿を現す。その数によるものか、地盤が歪められ、僅かながらも地震が引き起こされ、新志達のいた山が崩落を始める。山崩れが起きようとしていた。

「……ッ義兄上!」

 実光の屍が、その山崩れを避ける事も出来ずに飲み込まれていく。その戦堂一倒流総帥を追う様に、先ほどジェーン=ドゥの腕から斬りおとされた天下大逸刀が落下していく。
 それを止める手立ても時間も新志には許されていない。崩落が収まったその向こう。土煙の中から幾つもの蛇体を思わせる触手が姿を現している。物量が先ほどの比ではない。先ほどとは別種の触手も幾らか見受けられた。

「って訳で……残念でしたぁぁぁぁぁ!! 生憎とあんたが今さっき倒したのはあくまで分身の一つ、触手の一本! ……判るかしら? 要するに本体を倒さないと無限の数を相手取る事に……」
「……ならば貴様は、無限回数の斬死を繰り返せ!」

 全ての戦いも努力も無駄であったと嘲ろうとした言葉に対する凄まじい気迫――魔元帥ジェーン=ドゥは思わず息を呑む。
 普通ならば、無限に湧き出る敵戦力というのは悪夢そのものの状況であるはずだ。どんな戦士であろうとも尽きる事のない敵の物量など、肉体的な原因以前にまず先に心が折れる。戦場では闘志を手放したものから死していくはずなのだ。
 にも関わらず、戦堂新志はああも盛大に叫び返した。無限の数を相手取るなど――誰もがしり込みする状況であるのに、相手の気力はまるで衰える様子を見せない。
 ここまで来て――彼女も認めたくない事実を認めつつあった。戦堂新志を抹殺するために策を張り巡らせ、その過程で彼女自身も楽しめるように罠を仕掛けた。人の大切にしていたものを無惨に踏みにじり、あざ笑うような悪辣な罠を。



 それが竜の逆鱗であるのだと、途方もない化け物の尾を踏んだのではないのかと――今更ながらに思い始めていたのである。









 土砂に押されて――戦堂実光は今や死に瀕していた。
 だが、それでも彼の中にあったのは死に対する恐怖でも、生に対する執着でもなく――不可思議な満足感であった。
 恋人を殺してまで得た義弟との対決――敗北に終わりこそしたがさばさばした感覚のまま、彼は永劫の眠りに付きつつあった。体の大半を埋める土砂の重量も、その冷たさも、最早死に瀕した体には些細な事。義弟が彼の後頭部に打ち込んだ拳は、彼の命を完全に絶とうとしていたのである。
 少なくとも――新志は自分の事を敵と認めた。逃げられるような事はなかったのである。
 悪鬼羅刹、地に堕ちた外道としての最後だが――少なくとも彼の心を蝕んでいた腐りゆくような思いだけは綺麗さっぱりと消失していたのである。

 不意に――人の気配がした。

「ああ、生きていましたか」

 かすかに残った視覚で見上げれば――ドライバーズグローブを嵌めたスーツ姿の運転手の女性……鶴木美津子は楽しげな瞳で今や死に瀕している実光を見下ろす。

「天下大逸刀を奪い、家人を殺し、門弟を殺し、恋人を殺す。……裏切り者の最後としてはまぁ、誰にも見取られず死に絶えるというのは相応しい幕引きかもしれませんね」

 実光は応えない。
 実際彼自身も――誰だか判らない女のその言葉には全面的に同意見だったのである。
 己は己自身の許されざる望みのまま外道の所業を実行した。新志と本気で戦ってみたかったという欲求は彼にとっては何よりも優先していたが、斬り殺された人間からすれば、そんなものは彼自身の我侭であった。
 だが、我がまま、心そのまま行動してその結末として死ぬのであれば納得できる。実光は眠気に誘われるように――目を閉じようとする。

「貴方を唆した相手――ジェーン=ドゥですが」

 その女――鶴木美津子の言葉も彼には届かない。
 本心を解き放ってくれた相手のことなど、今更彼にとってはどうでも良い話なのだ。

 だが――その一言は、決して彼にとって看過しえるものではなかったのである。



「貴方が全てを裏切ったのは――ジェーン=ドゥが貴方の心を操ったからだと、言っていますけど?」


 
 下劣外道、悪鬼羅刹――山のような悪罵の声を向けられるのは、至極当然のことだと考えていた。彼はそれに相応しい所業を行ったし、自らの罪を自覚していた。呪われるのも憎まれるのも当たり前のこと。

 だが――その一言だけは、彼にとって決して許せないものだったのだ。

 自分は望んで外道に落ちた。
 きっかけは自分を唆した相手かもしれない。だが、家人を斬り同門を斬り恋人をすら斬ったのは彼自身の決断によるものだ。
 新志も、椿も――彼にとっては掛け替えのないものであったのだ。その家族を大事にするという感情よりも、本気での新志と死合いをしたいという彼自身の暗黒の欲求によって全てを斬り捨てたのだ。自らの大切なものを斬り捨てたのは、彼自身の判断なのだ。


 それが――自分達三人とは全く関係ない第三者が引き起こしたものだと思われている?


 戦堂実光は外道であった。
 だが――自分が外道に落ちたのが、彼の大切なものを自ら斬り捨てたのが、第三者によって自分の心を弄くられたからと思われることだけは決して認めるわけにはいかなかったのである。彼は自ら進んで外道に落ちた。他人に操られて外道になったなどという主体性のない男と思われる訳にはいかなかったのである。
 その憤懣の思いの激しさ――新志に殴られ死に瀕した肉体に再び活力を注ぎ込むほどの凄まじい感情の奔流に鶴木美津子は嫣然と微笑んだ。

「……そこで提案なんですけど」

 彼女が手を振りかざせば、近くの土砂から天下大逸刀が浮き上がり、その手に納まった。

「貴方、将魔になる気はありませんか?」



[15960] 七番勝負――山返し(追加分あり)
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:657b66fe
Date: 2010/04/06 21:30
 まさしく破壊の突風、斬断の風車。
 新志の大太刀が旋回するたびに邪智の魔元帥ジェーン=ドゥの触手が次々と両断されていく。当然相手もそれを許さず抹殺のための触手を幾つも伸ばし包囲せんとするのだが――戦堂新志の周囲を固める彼女達により、包囲網は食い破られている。
 隆起する筋肉より搾り出されるその膂力は最早人間の範疇に留まらず――今や戮殺の大魔刀へと変じた無銘の業物は恐るべき威力を発揮している。
 刀とは――達人の手にあればそれは『戦堂新志の刀』という名刀に生まれ変わるかのようでもあった。
 魔刀が旋回する。斬撃の軌道に存在していた魔元帥の触手と青竹をもろともに巻き込み両断していく。殺気の光を帯びた銀の刃がすり抜けるたび、斬られた事を思い出したように触手どもは斜めへとずれ、血煙を撒きながら滅び去る。

「……しつこいしつこいしつこいしつこい!! これほどの数で押されながら、これほど長く戦い続けながら――なんで心が折れないの、なんでまだ戦えるの!!」

 魔元帥ジェーン=ドゥは苛立たしげな叫び声を上げる。
 その策と罠で簡単に嵌め殺せると思っていた戦堂新志の頑健極まる抵抗はまさしく予想外。剣勢は時間を幾ら掛けようとも決して衰える様子を見せない。逆に時間が経過すればするほど新志はジェーン=ドゥの触手の攻め手の手段を看破し、その無尽蔵の体力でもって切り刻んでいく。
 下手な術理より――こういう一晩中戦い続けようとも決して燃料切れを起こさない絶大なタフネスの方が恐ろしいことは往々にして存在する。技術ではない、技巧ではない――無尽蔵の体力と肉体に疲れなど感じさせない桁外れの量の激怒が揃ってこそ実現される、敵対者を永劫に斬り続ける剣魔剣妖へと新志は変貌していた。
 その彼と共に従う仲間達――ジェーン=ドゥは狙う相手を変える。敵を倒すならばまず外堀を埋める、そう考えて戦術の変換を始めた。
 




 新志を剣の切っ先に見立て、周囲を固める彼女達はその新志の突撃によって刻まれた方陣に穴を開けていく。
 だが、珊瑚は――これは少しマズイかな? と内心疑問を抱き始めていた。陣形の切っ先である戦堂新志に対しては心配はしていない。彼の存在は今や不倒の巨木に似た絶対的な安心感を仲間たちに与える士気の柱としてしっかりとそこに存在していた。
 その彼と戦列を並べる事――それはまるで自分達に不敗の信仰を抱かせるほどの強烈な力がある。自らが敗死することなど微塵も考えない無敵の剣士の存在は味方にとって麻薬にも似た高揚と戦意をもたらす効果があった。

 それが珊瑚にとっての懸念事項。
 
 そういう精神的な高揚によってもたらされた全能感は、破綻が訪れた瞬間糸が切れるように終わりを迎える。
 それにこの戦いでは――魔元帥の本体、中枢となる部位が何処なのか未だに不明なのだ。魔元帥エルムゴートはこういうからめ手の一切は用いず正面からの力で捻じ伏せようとした。ある意味弱点の特定は簡単だったが、魔元帥ジェーン=ドゥは脳髄に当たる部位が未だに不明なのだ。
 明確な勝利条件が判明しない戦いを延々と続行し続けるのは本来下策。可能ならば一旦撤退して再起を図るのが妥当なのだろうが――今回ばかりはその選択は存在していなかった。
 一つはここで魔元帥ジェーン=ドゥを取り逃がすこと。犠牲者をその身に取り込み、完全ななりすましを行う相手の力はほぼ完璧な偽装の力であり、相手の正体を暴きたてて力の勝負に持ち込めた機会を逃すわけにはいかない。それに相手のその外道極まる行為には全員のはらわたが煮えくり返っていた。
 二つ目はここで逃げてしまえば――有効活用の手段がなくなってしまった戦堂椿が確実に殺されてしまうということ。
 新志は義姉を眼前で斬り殺された――二度もあの絶望と悲嘆を味あわせるわけには行かないと珊瑚は決意していたのである。

 撤退は論外。 

 ならば急遽相手の弱点を看破しそこを狙う必要があった。それも至急に。
 だが弱点と思しき椿の姿を真似た人型は幾度斬り捨ててもまるで影響がないのか――以前敵の攻勢は衰えないままだった。

「……あははははは……どこまでもしぶとい輩ぁぁぁぁ!!」
 
 椿の顔をした人型触手はその腰から生える真紅の花弁を、まるで蕾のような姿に戻していく。
 攻撃の予兆? そう考えた珊瑚は――その毒々しい色の蕾が高速回転の異音をかき鳴らす様に思わず目を剥いた。三角錐を思わせる形状に変化した毒花の蕾は――まるで回転させた蕾を岩盤穿孔機(ドリル)のように回転させ、正面から一直線に突撃させてきたのである。
 まずい――敵の意図は読めた。
 巨大な威力を持つ突進で此方を回避に専念させ、お互いの連携をとらせない腹積もりなのだろう。流石にあれほどの速度、質量ともなるとアトリの運動エネルギーに対する氷結でも停止させられない。
 一時散会を命じようとした珊瑚――だが、その己の四肢が不屈の要害だと言わんばかりの新志は、自らの大太刀を地面に突きたて、両腕を誇示するように構えた。
 その行動のみで珊瑚を始めとする全員が――


 あの筋肉の後ろにいれば絶対安全確実無敵という根拠無し意味不明の確信を得た。


 そして――そんな馬鹿げた確信を得るほど戦堂新志冗談じみた筋肉の力を知らないいたって常識的な魔元帥ジェーン=ドゥは相手の無知をあざ笑いながら皆殺しの好機と笑い声を張り上げる。

「あら、抉り殺されてくれるの? ……いいわぁ、無惨に散り飛べぇぇぇぇ!!」
「ふんぬああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!」

 嘲りと共に、土砂を撒き散らしながら正面から突っ込んでくる岩盤穿孔機に対して新志は――正面から迎え撃った。
 岩盤を刺し穿ち、大穴を開けるドリル――むしろその正面に立つ無謀に対する結末とは、四肢が千切れ飛び鮮血の塊がこびりつくような無惨な光景が現れるほうがまったくもって普通であった。

 そして戦堂新志の筋肉はどこまで行ってもまったくもって普通で無かった。その常識的な無残な光景を文字通り筋肉の力で無理やりに捻り伏せる。

 凄まじい高速回転の異音――そこに触れたものは鋭利な刃と化した花弁に巻き込まれずたずたに切り刻まれる。
 その結末の方がよほど自然であるにも関わらず。


 その高速回転の刃は、戦堂新志の指が掛かった瞬間――その凄まじい剛力によって強制的に制止されられたのである。
 
「なっ」
「おあぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!」
 
 あらん限りの気合を込める戦堂新志。全身から膂力を搾り出すように背筋の後背筋が膨れ上がった。
 そして回転とは逆方向に力を込める。相手の高速回転を制止させるどころか――回転の力とねじる力が拮抗したのはほんの一瞬。今度は逆に新志の膂力がそのドリルを逆回転させるべく力による圧倒を始めたのである。
 機械的なパワーをすら単純な筋肉の力で上回る――常識を捻り伏せ、勝利を力づくで強引に己の下へと引きずり寄せる無類の腕力。

「あぎゃぁぁぁぁぁああああ!!」

 そのまま腕力で捻り斬った。

 高速回転と鬼神の豪腕――勝ったのは恐るべき事にただの筋肉。魔元帥ジェーン=ドゥは逆にその体を自らの高速回転によって損壊させられる。その捻じ切られたドリルに似た花弁をほうり捨てながら新志は応える。

「縊り殺してやるから、さっさと来いよ」

 相手の激怒の視線にもなんら同様の様子を見せずに手招きし、新志は応える。
 そう思った新志は――次の瞬間、足元の地面がかすかに震えるのを感じた。敵の足元からの強襲――流石に新志と言えども足元からせまり来る敵を捕らえられるわけがない。これは止む無し――咄嗟に散会する全員の前で、ドリルと化した人型の触手が二つ地面を突き破って姿を現した。
 
「血液混じりの喘息に苦しみながら息絶えなさい!!」

 同時に地面から姿を現したジェーン=ドゥが全身の蛇体から紫色の煙を吐き出す。
 毒々しい色――触れた青竹が一瞬で腐れた光景を見れば、それが呪詛毒よりも凶悪な、むしろよりBC兵器などの毒ガス兵器に近い代物だと察する事が出来た。
 此方の連携を切り崩させるための敵の攻撃――だが、新志はまるで敵の攻撃の全てを正面から打倒する事を自らの任と心得ているのか、引く様子を見せない。後退するような冷静さも焼け付くような激怒と共に持ち合わせているはずなのに、その必要がないと言わんばかりに。

 模倣する。模倣する――あの時の、魔元帥エルムゴートを模倣する。
 
 明らかに致死性の毒霧攻撃――しかしどれほど毒性が高かろうが、所詮気体という括りからは逃れられる訳もない。
 ならば、その毒霧を吹き飛ばすような衝撃が存在すれば良い。そして――かつて交戦した世界でも恐らく稀であろう戦堂新志と腕力の領分で互角の戦いをして見せた魔元帥エルムゴートとの戦いで、この状況に役立ちそうな技があった。
 すぅ、と大きく息を吸い込む。酸素が酷く美味く感じる。肺腑が膨れ上がり、詰め込めるだけの空気を詰め込む。
 その動作――以前アトリと戦った際、相手の気勢を挫くために用いた戦堂一倒流咆哮術『獅子脅し』と酷似していた。周囲を固める彼女達もそれを思い出した。
 だが、戦堂新志が今回用いるのはそれではない――用いるのは凶敵魔元帥エルムゴートが華帝国地上攻撃機部隊をただの一声で殲滅した、大気をかき乱す高熱の衝撃波、空を焼き肌を焦がす灼熱の魔技、魂魄を破壊する魔性の咆哮。

威矢亜亜亜亜亜(いやあああああ)あぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」

 新志の咆哮――その雄たけびから発せられるのは耳を劈く轟音だけではない。明らかにただの発声とは違う――他者の精神を強打する力を帯びた無形の攻撃だった。
 高熱を帯びた衝撃波は吐き出された毒霧を一撃で霧散させるほど激しいものだった。

「ダ、爆風の咆哮(ダイナマイトハウル)?! き、貴様、魔元帥エルムゴートの力をすら模倣して見せるというのかぁぁぁぁぁあ!!」
「……やってみると、案外できるもんだな」

 口内より僅かばかりの炎を漏らしながらかすかに笑う新志。

「新志! ……やるならやるで一声掛けてよ」
「……ちょっと耳がいたいのだよ」
「……頭が、まだちょっとくわんくわんしてるぜー」
「最早筋肉で再現できる域ではありまセーン」
「……耳鳴りがまだするでござる」
 
 至近距離で耳を劈く咆哮を聞かされた珊瑚達もある意味で被害甚大ではあった。
 新志――笑い顔と同時に攻撃。未だダイナマイトハウルの動揺から覚めやらぬ彼は魔元帥の蛇体から生える剣の茨を駆け上がり、相手の人の部分へと跳躍した。
 大太刀を握り、振り下ろそうとするその瞬間――椿の顔を真似たジェーン=ドゥは言う。

「……新志――なにをするの?」
「!? ……義姉……う……」

 まるで今自分が置かれている状況が飲み込めていないような素直な驚きの表情を見せるジェーン=ドゥ――それを下から見上げていた珊瑚は、それがまさに椿そのものの反応であることを見て取った。その表情――幼い頃から一緒に育った新志にはあまりにも見慣れたものだったのだろう。
 これが相手の悪辣な罠の一つであるのだと理解していても――どうしても太刀を振り下ろせない。
 一瞬――動揺した新志は思わず攻め手を止めてしまう。
 そしてその一瞬で、もう一本存在していた人型の触手は後ろから新志の体に手を回し――三メートル近くの高度から手近な地面目掛けて頭から相手の背中をたたきつけるバックドロップを見舞った。

「ぐあぁぁっ……!!」
「あはははは、あははははは! ……ひっかかった、ひっかかったぁ! ……今や椿の意識は私の中に溶け込んでいるのに、それでもこういう手に引っかかるなんて馬鹿が……色々護らなきゃならない男って本当に面倒臭いわねぇ……あはははは!!」

 新志と言えども地面を凶器として叩き付けられ、痛みに顔をしかめるが――そういった心を弄ぶ行動に対し、再び激怒を徐々に活性化させていく。
 だが――魔元帥ジェーン=ドゥは悟ったのだろう。戦堂新志の心を砕くには肉体的な手段よりも、彼の義姉を利用する方が効率が良いと考えたのか――その椿の顔をした人型の触手は言う。

「……どうして――どうして行ってしまったの……新志」

 先ほどまでの此方をあざ笑うような悪意はなく――ただただ、静かな悲しみに満ちた声。
 その言葉を発する相手こそ――魔元帥ジェーン=ドゥであったが、無駄に他者の激怒を掻き立てる下劣な響きはそこには存在していなかった。恐らく相手の体内に囚われたままの椿の言葉を――決して彼女が口には出さない思いを表に現しているのだという事を悟った。
 世の中には真実こそが、もっとも無惨に心を抉る場合があるのだと知るジェーン=ドゥらしい卑劣な手段。

「……貴方が行かなければ、ここまで酷いことにはならなかったはずなのに。貴方のせい、貴方のせい……貴方のせい! どうして、実光と戦ってあげないの?!」

 新志は――反論もせず、ただ黙ってその言葉を聞く。

「貴方が余計な気を利かさなければここまで酷いことにならなかった! 新志のせい、こんな事になってしまったのは、新志のせいなのに!! 貴方なんて――貴方なんて!」
「新志……! これは違うよ、こんなの、椿さんじゃない!」 

 珊瑚は――これが椿の本心などではない事を知っている。誰しも心の奥底には理性の鎖で決して口にはしない醜い想いを飼っているものだ。これは彼女の暗黒面の奥底、煮固まった本人すら口に出す事をはばかるどす黒い悪意の凝縮だ。恐らく一生――こんな醜いものを口にするつもりなど椿にはなかったはず。
 だが――その暗い憎しみの一面こそが新志の闘志を萎えさせ、絶望の奥底に叩き落すと知るが故、ジェーン=ドゥはそれを口にさせる。

「新志なんて――南極に行かなければ、実光がここまで苦しむはずなかったのに!! こんなことになるぐらいなら貴方なんか――最初からいないほうが良かった!」
 
 その言葉――魔元帥に無理やり引きずりだされた言葉とはいえ、確かに椿の醜い内心の吐露だったのだろう。ジェーン=ドゥは、その言葉が戦堂新志に与えた心理的ダメージがどれほどのものかをその表情から探ろうとして。
 怒りでも憎しみでもない――静謐な表情でジェーン=ドゥではなく、椿を見るように口を開いた。

「……義姉上。俺は間違えたかもしれません……」

 それが椿の完全な本心でないことは新志はよく判っていた。こんな直接的な悪意の言葉を使うような人ではないと理解していた。
 最初は――義兄と義姉の仲を引き裂きたくなかった。
 義兄と義姉の恋を護るために取った行動は間違えいだったのかもしれない。義兄の間にあった溝は、新志が勝負を投げた事で大きくなってしまった。

 話し合う、罵り合う、殴り合う――そして分かり合う。

 その辺りのことをすれば、もしかしたら元通りになったのかもしれない。胸にわだかまる暗い感情を吐き出してもらえれば、解決できたのかもしれない。だが、今や溝は致命的に広がり――殺し殺されなければ解決しない域にまで行き着いていた。それは新志自身のおろかさが招いた結末かもしれない。
 荒ぶる心のまま――椿の顔を盗む敵を見た。
 自然と――新志は自分が微笑んでいることを感じる。

「あの日――斬絵との勝負が終わり、義兄上が狂乱したと聞かされたあの日以降、俺は幾日も困惑と煩悶で眠れぬ夜を過ごしました。あのときの決断は間違えていたのではないかと頭を掻き毟り、何日も胸がちぎれるような思いに苦しみました。自分が間違えなければこうにはならかったのではないかと、そう考えました。
 ですが――そう、ですが。……俺は、あの時ああしておけばと後悔するのは、もうやめます。その決断は誤りだったかもしれないが、その時決断を誤ったおかげで俺は掛け値なしに自分を褒めてやれることが一つだけあったから」

 こうなってしまった事は悲しい。
 だが――新志は、もし過去にさかのぼり、魔術師軍に編入される以前――戦堂一倒流総帥を決定するための義兄との試合をする日にさかのぼる事が可能だったとしても、それをしないだろう。
 一生に一度の選択がもたらした――恐らく人生の分岐点に戻る機会を得れば、誤りの中で繋いだ命を自ら投げ捨てる事になるのだから。

「……なぜなら――俺は、こいつらを」

 背中に感じる仲間たちの存在。

「あの日――戦堂一倒流総帥を決める日に、道場ではなく、南極にいたから……魔術師軍に編入されたから……」

 剣を握り締める。椿に呼びかける。

「助ける事ができました。恐らく俺がいなければ――恐るべき強敵に全滅させられていたであろうこいつらの事を助けることが出来ました。貴方なら、よくやった、と。俺の事をそう褒めてくださるように思うのです、義姉上。……今、そこからこいつらを助けたように助けます」

 地を踏みしめる。大太刀を構える。迷いの微塵もなくなった表情。

「嫌われたままでもいい。貴女のことを、助けます」

 椿の――そのもっとも醜い感情の言葉ですら全く動揺しなかった戦堂新志。その答えに――再び体の主導権を奪ったジェーン=ドゥは忌々しげに睨む。もっとも相手の心に痛撃を与えるはずの言葉に対し、新志はまったく動揺を見せず彼女の事を助けると宣言して見せた。面白くない、面白くない。ここは相手の意思も行動も全て無駄であると宣言しなければ気がすまなかった。椿を助けることなど絶対に不可能であると知らしめてやらなければ気が済まなかった。
 
「助けるぅ?! 無理無理! あたしの本体は――この地中奥深くよ! お前が幾ら触手を切り倒そうが、所詮無駄な努力であると知りなさいぃぃぃ!!」
 





 そして――魔元帥ジェーン=ドゥは自らの失言により、最大最悪の墓穴を掘ってしまったのである。






 自分は大量の土砂に護られている――この戦いでは自分は絶対に殺されることはないという確信から、彼女は自らの本来の位置、急所の場所を教えてしまったのである。
 だが、これは本来ならば教えてもなんら問題のない事実。如何に戦闘力が高かろうとも、彼女を覆う山は如何なる手段を用いようとも覆せない鉄壁の守りなのだ。


 その相手が――戦堂新志という稀代の筋肉でさえなければ、弱点を曝け出したとも言えぬ言葉だったのだ。


 戦堂新志は――その言葉に絶望するのではなく、諦めるのではなく――ただ一言、そうか、と応えるのみであった。
 そこから先の行動は――ジェーン=ドゥの理解の範疇を超えていたのである。大太刀を仲間に預け、地面に指を突き立て、力を込め始めた。
 その行動が本気でなにをしているのか理解できない彼女は――いぶかしみ、そして気付く。
 戦堂椿の肉体を捕らえた魔元帥ジェーン=ドゥ。その本体は地中深くに存在しており、単純な攻撃しか出来ない魔術師軍の戦士達は彼女の本体を攻撃する事はできない。
 戦堂新志の剣腕に圧倒されつつも彼女が未だに余裕を保っていられるのは、自分が必ず殺されないという生存の確信があったからであった。
 だから――戦堂新志は、その大前提を覆そうとしているのだ。すなわち――地面をひっくり返して、魔元帥ジェーン=ドゥの本体を地表に引きずりだそうとしているのだ。意識して嘲る必要もなく、腹の底からわいて出る爆笑の衝動のまま大笑いした。

「ぶ、はははははははははははははは!! 馬鹿?! 馬鹿なの?! 笑い殺すつもりなの? 本気で頭が狂った?! 私の本体を覆う土砂が一体何トンの重量があると思っているの?! あははははははは!! あんたが力自慢なのは知っているけど、ここまで頭が悪いとは予想外だったわ!! ははははははは……は……」

 ジェーン=ドゥは――そこまで笑ってから、戦堂新志のその愚行に対して全く止めようともしない魔術師軍の戦士達を見て一抹の不安を覚える。
 確かにジェーン=ドゥを倒すにはその本体を引きずりだすしかない。
 だがそれを筋肉の力で実行しようとするなど馬鹿げている。
 馬鹿げているはずなのに――珊瑚を始めとする魔術師軍の戦士達は、新志のその行動を止めもしない。まるでその筋肉が、膨大な土砂の量をすら凌駕すると確信しているかのように。

「何やってるのよあんたたち。……どう考えても無駄じゃないの!! 何故止めない!」
「……お前も――確信が持てないんじゃないか? ジェーン=ドゥ、もしかしたら――戦堂新志の筋肉ならもしかしたらっていう不安を抱いているんじゃないの!!」

 珊瑚が代わって怒鳴る。
 新志は指を地面に突き立て――山一つ分の膨大な量な量の土砂に対し、歯を剥いて満身の力を込めた。
 誰もが不可能だと判断する大無謀。
 絶対的質量を誇る大地に挑む筋肉の無茶無理。
 如何に努力しようとも徒労と断言できるはずの蛮行。






 普通ならば嘲笑うことが可能な――発狂したとしか思えない無謀極まる行動。







 で、あるにも関わらず――魔元帥ジェーン=ドゥは新志の行動を愚行だと笑うことが出来ない。






 そして――魔術師軍の中での戦堂新志の仇名を――『ありとあらゆる無茶無理難題を筋肉の力で解決する男』を知る仲間たちは、彼の無謀にしか見えない行動に、全幅の信頼を置いていた。
 戦堂新志の筋肉には、生半な常識など通用しないという事実を知っていたのだ。





 まさか、まさか、まさか――この男の常識を超えた位置にある絶大の筋肉ならば、如何なる無理難題であろうとも、山を一つ人間の腕力で動かすという絶対不可能ですら、筋肉の力で持って打破してしまうのではないか……!!

「おおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおぉぉぉぉおおお!!」

 あらん限りの気合を込める。
 地面が裂ける。大地が悲鳴を上げる。地形すら変化する。山を一つ持ち上げるという超絶の蛮行を達成しようとする無謀極まる大筋肉――その絶対不可能の言葉が、筋肉の力によって無理やり捻じ伏せられようとしている。何処までも力技、不可能を可能とする筋肉の脅威に常識が破壊される。あらゆるものが筋肉で捻じ曲がる。
 周囲にはその絶大な膂力で持ち上げられる土砂が、新志の魔力によって固定化され自らの自重による崩壊が食い止められる。此処で土砂自身の重量で崩れ落ち、狙うべき敵が再び隠れる事を恐れたかのような無意識の行動であった。



 この一件の後、弓国はたった一個人の筋肉によって未曾有の混乱に陥った。


 亀裂が走る、地震が起こる、天災にすら匹敵する現象がただの筋肉の力によって引き起こされようとしていた。
 もし神の視座を手に入れた存在が実在するならば、そのあまりにも馬鹿げた行為にひっくり返っただろう。新志達が戦っていたその山――その中腹から上が全て持ち上がる。事実この光景を遠方から見ていた弓国住人の幾人かが神代の御世の光景がこの世に復活したのかと警察に電話を掛け、回線が一時的にパンクするほどの事態を起こした。
 魔元帥と戦堂新志――その両名が放つ邪気と殺気により山を棲家としていた生き物は皆全て生物の本能に従ってその場から急ぎ離れる。恐るべき魔性の力と恐るべき筋肉の力――二大超暴力がぶつかり合うことによる破壊の余波から逃れようとして周囲の山々の獣は山から人里へと泡を食って逃げだし、突如動物達が狂乱していた事により付近住民はパニックに陥った。
 同時刻、国全体のそれら全てに存在する様々な動物園ではまるで獣らが申し合わせたように狂乱の叫び声を上げ一時的に大パニックを引き起こした。家屋に住む鼠などの獣も――首都近くで巻き起こった圧倒的筋肉に恐怖したかのように群を成して海へ逃げ出す。まるで大地震が発生することを予見し、その震災地からいち早く逃げようとするように。死こそ、大暴力の恐怖から逃れる唯一の手段というように。
 人間が失った第六感ともいうべき生存本能を強く残した動物は皆例外なく、戦堂新志による筋肉の暴威に狂乱の様子を見せ――本能が弱体化した人間はそれを気付くことはなかった。


 気付いてしまったのは――徐々に大地が持ち上がるという光景を目視してしまった人々であった。
 勿論彼らはその馬鹿げた光景を見た。そしてまず自分の目が壊れた事を疑い、次いで自分が正気であるかどうかを疑った。
 そしてひときしり自らの正気を疑った後、携帯電話の機能で画像を取りつつ、警察に電話をしたのである。


 当然ながら警察の反応は現実的で冷淡であった。無理は無い。
 山が持ち上がる? そんなこと現実にあるわけが無い。いい医者を紹介してやるから病院にいけ。

 応対した警察官の対応は皆同様であったが、しかし同様の内容の通報件数が一時間で百件を越えるに至って――どうやら真偽は兎も角只ならぬ事態が進行していることをようやく悟った政府は調査のためのヘリを飛ばし始めたのである。
 それと同様に、マスコミのヘリも周囲の旋回を始めた。
 のちに大地がひっくり返った光景――そのニュースは三日三晩マスコミを賑わせ、偶然膨大な土砂がひっくり返る光景をリアルタイムで録画したその男は、たまたまそこにいたという幸運でもって一躍千金を獲得し、その光景は世界的規模のニュースとして大々的にクローズアップされることになる。

 もちろん、この圧倒的な筋肉がもたらした驚愕の真実は隠匿された。
 そもそも真実を――『山を筋肉でひっくり返した』――とつまびらかに明かしたところで誰もが信じるわけも無く、むしろ山々の地殻変動による異常現象だかなんだか適当な理由をつけて説明するほうが国民にとっては受け入れやすかった。
 また、当然ながら一部の弓国政府高官などにはこの一件の事の顛末などが明らかにされたが――誰もが『……カバーストーリーの方がまだ現実味がある』と慨嘆したという。この一件は長らく政府関係者内でのタブーとされ、事件より数十年後、政府関係者の告白により明らかにされ――そしてその告白した事実の内容はトンデモ本扱いされるという結末を迎えたのであった。
 ただ――その本の内容を証明するようにこの時戦堂新志がひっくり返した山は後に『新志山』と改名された事は一体なんなのかと、多くの真相を知らない関係者を悩ませることになる。




 
 直径にして一キロ、総重量にして10億tを超える土砂の塊が――身長がほぼ2メートル、体重が百キロを越える程度の――比較すればまさしく小粒にすら劣る塵程度の大きさの人間が持ち上げている。蟻は自分の総重量の数倍の大きさの物体を持ち上げられるというが、これはそれどころではない。
 まさしくこれが神代の時代であるならば神話の英雄が成す所業としか言い様の無い筋肉による大膂力であった。

「……馬鹿な」

 ジェーン=ドゥは思わず唖然と呟く。
 徐々にではあるが、彼女の本体を覆い隠す膨大な土砂が新志の筋肉によって僅かに浮き上がった。一つの山が、一個人の単純な腕力によって持ち上がっている。物理法則を完全に無視した事態――それこそ世界に共通する物理法則すら筋肉によって力づくで捻じ曲げられているかのよう。
 魔元帥ジェーン=ドゥは新志の力は、その強靭な意志力によって強度が変化すると分析した。
 ならば――義兄を陥れられ、義姉をつれ攫われ怒り心頭に達した戦堂新志の、ジェーン=ドゥを倒したいというその強大な意志力は一体どれほどの力技を可能とするべきなのか、もっと考えるべきであったのだ。
 筋肉が膨張する。絶対不可能を破壊する筋肉の威力が常識を打破するその光景の凄まじさ――敵味方問わず誰もが言葉を呑んだ。




「馬鹿な……!」
「マアアァァァァァッスル、天地返しぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいい!!」



 轟音と共に、山が一つ、常識と共に裏返った。



 まるで卓袱台でもひっくり返すように、人類の常識を超えた超絶の筋肉によって山が一つ力づくで持ち上げられた。
 そしてそれにより――むき出しになるジェーン=ドゥの本体。彼女を護るはずだった膨大な量の土砂、大地の護りは全て筋肉の力によって屈服したのだ。
 ひっくり返った地面の土砂が崩れ落ち、あちこちで凄まじい量の土砂が崩れた。
 現れる本体――緑色の体毛と脚部に見える部位から植物の根のようなものを生やした、巨大な口蓋の怪獣がその亀裂のような目を開いた。最早直接的な戦闘は避けられぬと、先ほどよりも大量の触手を全身から伸ばし始める。
 ジェーン=ドゥは――その本体から新たに伸ばした人型の触手で新志をその恐怖の心理のまま震える指先で挿した。

「お、おまえ……おまえ……」

 恐怖を言葉にするように――叫んだ。


「ほ、ほ、本当に人間かあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 その反応、無理もないや、と内心同意する珊瑚達。新志は、荒く息をつきながら、ふ、と笑う。
 

「ふぅ……魔元帥に言われるのは、二度目、だな。……その台詞……だが、そうだな」

 苦笑しながら応えた。

「最近、自分でもちょっと自信が無くなってきたかも知れない」

 新志の自嘲気味の台詞に、あー、確かに、と仲間達全員が呆れ笑いと共に頷いた。
 そして新志は仲間に渡した己の大太刀を返してもらう。そのまま相手に処刑宣告でもするように自分の喉元を掻っ切る仕草を見せる。

「さぁ、同じ舞台だ、ジェーン=ドゥ。……お互い命を掛け合う殺し合いの舞台にようこそ。……義姉上を返してもらうぞ!」
「……ひ、ひいいいぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 自らの死が掛かった戦場に力付くに引きずり出されたことで、ジェーン=ドゥは今度こそはっきりと恐怖の悲鳴を張り上げた。



[15960] 七番勝負――決着
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:657b66fe
Date: 2010/04/03 13:59
 魔元帥ジェーン=ドゥは、幾度も幾度もこんなはずがないと繰り返した。

(どこから――どこから読み違えたの!!)

 彼女の陰険無比な策略は見事に図に嵌まった。戦堂新志は義姉と義兄の死を前に絶望の淵に叩き落され、一度は全ての力を失い――首を叩き切る絶好の機会を一度は得たのだ。
 彼女の目論見の最大の誤算は――自身の残忍性から早乙女によって新志の死によってこの一連の事件に幕を下ろそうとしたその行動を読み切られ、恐るべき剛力の持ち主である相手をむざむざ生き残らせてしまった事にある。
 ジェーン=ドゥは、地中からその己の巨体をゆっくりと直立させる。
 まるで植物の根のように見える足、幾つもの蔦が絡まって出来たような胴体、獣の口蓋にしか見えないそこからは獲物に喰らいついて溶かし吸収するための酸性の涎が滴り落ちていた。地面に触れると同時にじゅうじゅうと焦げるような音が響き渡る。その本質は植物だが、しかし本体が獣の姿をとっているのはその禽獣にすら劣る下劣な精神を表しているかのようでもあった。
 
「……よう、……やく出てきたなぁ……大将。義姉上の所在は、貴様を捌いて確かめるよ」

 戦堂新志――大太刀を片手にゆっくりと歩み寄る。先ほどの筋肉による絶技、『マッスル天地返し』は凄まじいパワーだが流石に怪力無双の戦堂新志といえどもその負担は大きいのか、荒々しく呼吸を繰り返した。だが、膝は突かない。戦闘体勢を解除し休もうとはしない。肉体に疲労こそ覚えれども、闘志はまだ萎えない。
 幾度も酸素を貪る。その四肢に飽和する疲労物質を除去し、酸素を体に行き渡らせようと呼吸を繰り返す。
 そんな新志の脅迫に似た言葉にジェーン=ドゥは、相手に百倍する巨体を誇りながらも――自分の方が遥かに巨体という事実に全く安心を得る事が出来なかった。
 彼女はこれまで悪逆非道の限りを尽くしてきたし、そのたびに流される他者の涙に愉悦を感じる最低最悪の精神の持ち主でもあった。その全ての罪を纏めて裁くように、対抗不能、制動不能の筋力の持ち主が歩み寄る。

「おのれぇぇぇぇぇぇ!!」

 ジェーン=ドゥの本体は怪獣を思わせる巨体の口蓋をぐわりと開き、そこから強酸の霧を吹きかけようとする。
 相手が筋肉による強靭な装甲を全身で覆おうとも、これは効く――だが、魔術師軍の戦士は一人ではない。この相手は自らの手に負えない力が相手であるならば素直に仲間を頼ることが出来た。
 
「アトリ!」
「任せたまえ……!!」

 全てを溶解させる腐食の霧に対して珊瑚が号令を掛ける――前に進み出たアトリはその刺突剣を振るう。停滞と静止――原子間運動に影響をもたらし、ありとあらゆるものを冷却、氷結させる彼女の凍える魔風が吹き荒れた。
 腐食の霧――溶解性の液体を霧状に噴霧されたそれは、アトリの力により液体から固体に固められていく。対象に付着し溶解させる溶解液も固体に変えられてはその威力を発揮しようもない。その氷の粒と化したそれの中を新志は突進する。
 それを迎え撃つように幾つも触手が鎌首をもたげた。まるで獲物を虎視眈々と狙う毒蛇の群を連想させるそれに対して新志は、体力五割か、と呟くと大太刀を構え走りつつ突撃。
 高速での移動術である早乙女からの模倣版『縮地』は新志自身の足に与える負担が大きい。自分で習い得た技ではなく、盗んだものなので多用できるものではなかった。
 
『……戦場で、個人の勇を誇るな。所詮一人で行ける場所など精々たかが知れておる』

 かつての大戦で武勇を振るった義父の言葉を思い起こす。
 滾るほどの激情――義兄を恐るべき剣魔へと変貌させ、義姉を一度死に至らしめた無惨を思うだけで胸の奥底から尽きる事のない怒りが湧き上がる。されどもその激情を束ねる芯は透徹した理性。任せるべきところは仲間に一任し、戦堂新志は己が攻撃力の全てを前進に振り分ける。 
 全面から幾つもの人型触手が再び蕾の姿に戻る。高速回転の異音をかき鳴らし、岩盤穿孔機の姿へと代わり、正面から突撃してくる。
 
「来るな来るな来るな来るなぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「……貴様も必死だな」

 今度は正面から受け止めるという事はしない。巨大なだけあり攻撃は大振り、見切る事は容易かった。必要最小限の横方向への移動でその攻撃を避け、相手の本体へと突進する。
 大太刀を構え――再度踏み込みを見せようとした。
 
「うっ?!」

 突如、後ろで珊瑚の驚きの声が響く。
 先ほど新志を抹殺せんと無作為に放たれたように見えたドリルの乱撃は、新志の視界から外れたと思った次の瞬間に、一個の明確な意思に統率されたように珊瑚を轢き殺そうと狙いを変えたのである。

「貴様がいなければ、私が本体を晒すこともなかったのに、死ねぇぇぇぇぇ!!」

 戦堂新志を一度抹殺する好機を手に入れておきながらそれを失ったのは、魔術師軍の総指揮官である早乙女の読みと、新志の影の中で息を潜めていた土倉珊瑚の尽力あっての事である。そして今自分を追い詰めている戦堂新志が先に死んでいればジェーン=ドゥはこうも恐怖を感じる事はなかっただろう。
 半ば八つ当たりに近いような攻撃でありながらも――指揮官である彼女を正確に狙うその眼力、確かに邪智の名を関する魔元帥というべきだった。

 そして――この場に彼女を支援する戦力が現れたのも、また邪智ゆえの悪辣さが呼び寄せたものだった。

 漆黒の影が飛来し、その携える大太刀で以ってドリルに似た触手を全て横薙ぎに叩き切って見せた。質量、威力とも尋常ではない攻撃を全て纏めて振り払うその膂力、剣力――どちらも尋常な威力ではない。
 携えるのは――弓国至高の名刀、天下大逸刀。構える人間は――既に人間を止め、それとは違う別種の人類へと己を変えていた。
 全身を覆うのは外骨格を思わせる漆黒の装甲。その体全てがまるで鋭利な刃物を思わせるように鋭く尖っている。さながら全身を刃物で構築すればこの黒い剣魔へと姿を変えるのではなかろうか。そこまでいって――珊瑚はその黒い人影を見て思った。
 その身長――戦堂新志とまるで測ったかのように同じ。
 まるで人外の怪物へと堕ちた際、その人が昔からずっと抱えていた戦堂新志の恵まれた体格、身長に対してずっと抱いていた嫉妬心が裏返ったかのように身長がまったく同じだった。まるで測ったかのように身長が同じなのは、体格という努力ではいかんともし難い天性の巨躯を――義弟と互角の条件で戦いたいという彼の狂おしい欲求が形を成したかのようだった。

「……実光さん?」
「久しいな。珊瑚君」

 その言葉には――影の中で盗み見た、狂気混じりの行動からは想像できない驚くほど静かなものだった。
 幼い頃、一緒に遊んでもらった年上のその人の――なんの罪も知らない無垢だった頃を思い出し、珊瑚は不覚にも涙腺が熱くなるのを感じる。

「……どういうこと、どういうことなの?! お前は将魔になどなっていなかった……誰が、一体誰が……!」
「伝言を一つ頼まれている。『わが国の愛すべき臣民を、忠勤なる国家の奉仕者をよくも無碍に殺してくれましたね』と、な」
「……?! ……そうか、『睥睨』ね!!」

 その言葉の内容は新志を始めとする全員が理解できなかったが――この近くに魔元帥が他にも存在しているかも知れないという情報に、緊張で四肢を帯電させる。
 
「……奴は手を出すまいよ。それに既にこの場所から遠く離れている」

 そういいつつ――将魔へと変貌を遂げたその人、戦堂実光は悲しげな眼差しで義兄を見る新志に視線を返した。
 無言のまま――実光は新志の横に並ぶ。


 兄弟が、戦列を揃えた。


 眼差しは、敵へ。二人の大切な人を攫った相手に対してならば――遺恨の全てを後回しに出来るのだといわんばかりに敵を同じものと見定めた。

 敵の敵は味方。

 本来ならば、新志と実光。家族という立ち難い絆で結ばれた二人は常に助け合うことのできる立場だったはずだ。共に剣を並べ敵対の力に対し戦う戦友になれたはずだった。

 恐らくこれが、義兄との生涯最初で最後の共同戦線であるのだろうな、と思いつつ、新志は短く頷いた。将魔へと変貌してしまった義兄。いずれにせよ、魔へと堕してしまった以上――魔術師軍の戦士として再び殺さなければならない。
 二回も義兄を殺す。その事実に心のどこかを悲しみで凍てつかせながら、同時に剣士として再び強敵と交えるという否定し難い本能を胸に覚えつつ、新志は言う。

「行きます、義兄上」
「判った」

 両名は――共に剣乱竜巻と化して、魔元帥へと挑みかかった。
 
「……馬鹿な。実光! ……あんたを心の枷から解放してやったのはこの私よ! ……何故私を斬ろうとする!」

 とうとう自ら将魔へと堕してしまった実光は、ジェーン=ドゥの言葉に微かに侮蔑の笑みを浮かべながら触手を切り払う。剣撃に遅滞は存在せず常に動き続けるその姿、たとえ新志よりも実力下位だったとしても――それでもやはり彼が戦堂一倒流総帥を張るに足る剣腕の持ち主である事は疑いようがなかった。

「そうだな。私は――ある意味では貴様に解放された。この私の心を腐らせるものを解き放てたのは貴様のお蔭というのは確かにそうだ。……だが、それは同時に貴様によってもう一つ、大切なものを捨てさせられたともいう事ができる。恨みも感謝も互角だ。どうでもいいというのが本心だ。だがな」

 実光の手にある天下大逸刀の威力は凄まじい。
 本来刃を向けらるべき相手――魔元帥に振るわれる事で刃自身が猛り狂っているかのようだ。これで実光が魔の軍門に降りさえしていなければ素直に喜ぶ事が出来る光景だったかもしれないが。

「貴様は――私の狂乱の全てが、貴様の力によるものだと思っているそうだな」
「そ、それが……!!」
「大間違いなのだ」

 刃のような声。

「私は何もかも捨て去った。家族も、愛も、未来も――なにもかもだ。それら全ては私にとっては掛け替えのないものであった。そして、それら全てを捨て去ってでも私は新志と命をかけた戦いをしてみたかった。
 ……だが、その決断が、貴様のような第三者の目論見によってもたらされたなど決してあってはならない。私は私の意志によって愛を斬り捨てた。罪も罰も全て私のもの、勿体なさ過ぎるから貴様にはこの罪を一欠けらもくれてはやらん」

 家族を愛していた。
 だが、その愛よりも許されざる欲求を実光は優先した。そしてその決断が他者によってもたらされるという事実は――まるで彼にとって他者の精神操作如きで決断してしまうほど軽いものであったという事になる。
 だからこそ実光は全身全霊をもって魔元帥ジェーン=ドゥを否定するのだ。あらゆるものを斬り捨てたが――それは全て彼自身の望みによるもの。かけがえのないものを斬り捨てたのは、そのかけがえのないものよりも大切な――新志との死合いを行いたかったから。誰にも理解されない、されるべきではない理由で彼は魔の軍門に降った。
 だ断じて他者に唆され実行したという訳でないと叫ぶような――歪んだ彼の愛の証明なのだった。





「全員動くな!!」

 魔元帥ジェーン=ドゥは大声を張り上げた。声には恐怖の色こそ含まれているものの、まだ逆転を狙う――賢しらぶった響きがあった。

「今更命乞いか? 生憎血祭りと決めているんだ……が」

 物騒な薮睨みと共に応える実光は――そこまで言ってから、ジェーン=ドゥの胴体に浮ぶ琥珀色の液体の詰まった球を見て、思わず動きを止めた。それは彼だけでない。新志を始めとする全員が、再び相手の異能によって金縛りにあったように動きを止める。
 その琥珀色の液体――まるで膝を抱えた胎児のように目を瞑る戦堂椿の姿がある。
 そしてもはやなりふり構っていられないほどに追い詰められたのか――自らの胴体ごと食いちぎろうとするように肉食獣の大顎に似た口蓋の触手が、がしゃん、がしゃんと異音をかき鳴らしている。
 人質――品性下劣な相手が最後に取るのはやはりこういう手段か、新志はここまで来て、と舌打ちを漏らした。
 新志がこの戦いにおいて一番取り戻したいのは、未だ魔元帥の胎内で赤子のようにまどろむ彼女のこと。なにがなんでも無傷で助け出す――このぐらい予想できただろうに、俺の馬鹿め、と内心舌打ちを漏らしながら新志は歯を再び噛み鳴らす。

「……まず、武器を捨ててもらおうかしら」

 新志達が、椿の生存を優先した事でようやくその冷静さを取り戻したのか――死にかけの人間が九死に一生を得ればこんな具合になるんじゃないかという安堵の響きを含ませたようにジェーン=ドゥは言う。
 忌々しく、腹立たしく思えども――それでも従わざるを得ない。
 携える大太刀を投げ捨てようとした新志は――不意に、自分の手の甲に水滴が落ちるのを感じた。風が水気を含んでいる。来るべき豪雨と雷鳴を予感させる、涼しさを通り越して肌寒さを感じさせる風が吹き抜けた。
 その次の瞬間――音を蹴り飛ばして、小柄な人影がその戦場に飛来する。

「そして――そういう手を貴様が取る事も織り込み済みだ」

 早乙女光――超音速の移動術である『縮地』を以って瞬時にジェーン=ドゥ本体の懐に飛び込んで見せた。
 
「き、貴様……スピードガアアァァァァァァアル!! またしても貴様なの!」
「……生憎こっちもお前に対しては遺恨満載でね。機を狙っていたよ」

 今やこの不利な状況から脱出するため人質にとった戦堂椿を奪い返されるわけには行かない。早乙女を食い殺そうと触手が殺到する――が、戦堂の二人の兄弟は、ゴシックドレスの美少年の意図を正確に読んだのだろう。その手に携える大太刀で触手を斬り飛ばしていく。その隙に懐から取り出した自決用の懐剣を閃かせ、琥珀の水球から早乙女は椿を引きずり出す事に成功した。
 新志と実光――任せると投げ出された彼女を、二人はお互い飛び込んでその身を受け止める。

「よ、よくも、よくもよくもよくもおぉぉぉぉ! お前の入れ知恵さえなければ戦堂新志を即刻抹殺できたものをおおぉぉぉお!!」
「……雨風を率いて参れ、稲光を撒いて来たれ、雷雲招来」

 狂乱の態で絶叫する魔元帥ジェーン=ドゥに対して早乙女は力在る言霊を呟く。
 その声に応えるように――水気を含んだ風の勢いは徐々に強さを増していく。かすかに肌寒さを感じる冷風が、大災害の気配を孕んだ魔風へと変じていく。早乙女の意志に呼応するように本来ならば有り得ざる勢いで黒雲が天に覆い広がる。
 そこまで来て――新志を始めとする魔術師軍の全員が、それが早乙女の魔力によってもたらされた、超常の黒雲であることに気付いた。かつて南極で放たれた絶対零度の魔術、『氷結地獄の復活(コキュートス・リメイク)』に匹敵する大威力の極大魔術を行使しようとしているのだ。

「一神闘滅、十魔降伏、百鬼滅殺、千邪断斬、万怪駆逐!!」

 ごぶり、と早乙女は己の口内から鮮血を吐いた。驚きの眼差しで彼を見る部下を心配無用と手で制しながら彼は詠唱を続ける。
 天空に黒雲を招来するほどの天候すら一個人の力で変える絶大な力は、やはり彼の全身の魔力のほぼ全てを消費しても尚足りぬほど膨大な消耗を強いるのだろう。魔力だけでは足らず、その己自身の生命力すら贄に捧げ――空を覆う黒雲を広げる。
 雷光が黒雲の中で激しく瞬いた。自然災害とも言うべき落雷現象を個人で行おうとする早乙女に対して魔元帥ジェーン=ドゥは恐慌の咆哮を張り上げながらその巨体の口蓋を広げて襲い掛かる。だが――もう遅いと言わんばかりに拳を突き出した。彼の脳内が多大な力の消耗に悲鳴を上げるようにずきずきと頭痛を繰り返し、脳神経の何本かが切れるような錯覚を覚える。破裂した眼底の毛細血管から血が流れ、目じりから鮮血の涙となって滴り落ちる。

「雷冥神君の威声と共に汝に怒りの槌による重罰を下す! 堕ちろ、怒槌(イカズチ)、神鳴り落とし!」

 瞬間――耳を劈く桁外れの轟音と共に至近距離で雷光が炸裂する。
 ジャニーが雷竜の加護と共に繰り出すそれとは比べ物にならない――自然現象としての落雷による一撃。本来ならば制御不可能の指向性を持たないまま荒れ狂う絶大な威力は早乙女の力によって誘導され、この場でもっとも巨大な存在である魔元帥の巨体へと突き刺さった。

「ぎ、GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」

 落雷による膨大な電力が全身を打ち貫いた。
 衝撃――全身のあちこちから植物の特性を持つが故に発火していく。触手の先端全てが力の全てを失い倒れ伏す。苦悶の声を漏らしながら、ジェーン=ドゥの本体がゆっくりと地に崩れ落ちた。
 
「ああああああぁぁぁぁぁ、こんなぁ、こんな馬鹿なあああぁぁぁぁぁぁ」
「……そりゃ、さっきの俺の台詞だ」
「この戦いはそもそも、私と新志の戦い、この戦いに割って入るものは、魔元帥であろうと許さん」

 戦堂新志は義姉を仲間に預け、短くそう呟いた。実光も共に天下大逸刀を手に駆け寄る。
 全身から焦げ臭い煙を吐きながらも未だなお命を繋いでいる相手の生命力を褒め称えるべきだろうか。最後の足掻きと起き上がろうとするジェーン=ドゥの本体に対し、新志は相手の腹腔――恐らく脆弱であろう、先ほどまで椿の体を収めていた液体の袋から突進しはらわたをぶち抜く。
 そして跳躍した実光は――天下大逸刀を振り下ろす。
 真っ向唐竹割り――至高の名刀によって放たれた一撃は、ジェーン=ドゥの本体の頭蓋を破壊し、最早魔元帥であろうとも再生不可能の致命傷を与えた。
 

 巨体が――ゆっくりと傾いた。
 かつての大戦の折、人類側に様々な悪辣な策略を用いて辛酸を舐めさせた謀将は――策略を力で捻じ伏せる膂力に敗れ去り、遂に滅び去ったのだ。その植物を思わせる巨体は生命を失い黒い煙とも言うべき塵状へと姿を変えていった。
 恐らく、常ならば――その魔元帥の死と共に散っていくそれらは空気中へ散っていき次第に消滅していくのだろう。
 だが、この場に存在する将魔、戦堂実光は――まるで本人の意思とは関わりなく磁力を帯びた磁石に砂鉄がまとわり付くように彼を中心に渦巻いていく。
 
「……さぁ――最後の幕引きを始めるか」

 戦堂実光は、弟を見――その手に携えていた天下大逸刀を地面に突き刺す。
 黒い装甲に見える外骨格は更に強靭に、更にまがまがしく変化。背中からは――まるで刀剣で構成されたかのような鋼の腕を広げる。それは百剣で編まれた翼にも見えた。その剣の翼が炎のように揺らめく。魔元帥ジェーン=ドゥをその身のうちに取り込んだのだと誰もが直感的に理解した。
 ジェーン=ドゥは倒れた。だが同時に――それは人類の仇敵、魔元帥に新たな名前が加わった瞬間でもあったのだ。


 そして――己が得た膨大な力、その優位の全てを捨て去るように、実光は人の姿へと戻り、魔元帥と堕した代償に得た自身の異能を用いて大太刀を出現させる。
 最後の最後は――互角の条件でという彼の欲求から来る行動なのだろう。


「私の名は、戦堂実光!
 ……不義不忠、戦堂実光!!
 ……そして人類の敵対者、『裏切』の魔元帥――戦堂実光! 魔術師軍の剣士、戦堂新志――お前に勝負を申し込む!」
 
 新志は大太刀を構える。目を伏せ、息を吸い、心を落ち着け、そして応えた。

「義兄上。俺の言葉はもう、御身には届きますまい。御身の望みが斬り死にならば、俺に出来ることは全身全霊を以って貴方を倒す事。何も申し上げません。義姉上が気を失っている間に、全てを終わらせましょう」

 本気の本気――その双眸に必殺の気迫を込め、新志は言う。雨の中でもまるで衰える事を知らない炎の如き戦意。

「死んで頂く」

 その言葉に実光は、ようやく望んでいたものが手に入ったのだと心からの笑みを浮かべた。



[15960] 八番勝負――魔元帥『裏切』
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:657b66fe
Date: 2010/04/05 16:48
 共に、どちらからか申し合わせたわけでもなく、両名は大太刀を構えた。
 早乙女の極大魔術『神鳴り落とし』による余波として出現した黒雲は豪雨と暴風と雷光を引きつれ、新志と実光の体を殴りつけるような雨風を受けながらも微動だにせず見合った。
 
 二人の全身より発せられる殺気は大気を青白い氷に変じさせてしまったのかと思えるほど静かで冷たい。
 もはや両名ともこの戦いに水を差す輩がいれば、たとえ味方であったとしてもその存在を一顧だにせず即刻斬殺すると思えるような凄まじい剣氣を放っている。
 そして両名のいきさつを知る新志の仲間達は――未だに気絶したままの椿に外套を着せ、体温が下がらぬように雨風を避けるための即席の天幕を張り巡らせていた。
 此処から先は――男同士の決闘。割り込む事は仲間であろうとも許されない。

「……あんちゃん、大丈夫だよなー。ブラックホールあるし、負けなんて……」

 朱絶佳が一人、不安そうに呟く。
 普通ならば戦堂新志の剣腕に全幅の信頼を置く彼女らだが――そんな彼女らであったとしても、今の彼の相手である戦堂実光に対して新志が勝つ姿は容易には想像できなかったのだ。今回ばかりは、新志の義兄の実力が――その身のうちより湧き上がる必殺の剣氣が、最高潮まで高められた実力が義弟と匹敵する域まで達していたのだ。
 魔元帥による精神操作がはずれ、心のどこかが自由になったのか。先程までとは違うある種の凄みが感じられる。

「……イエ、今回に限るならマッスルブラックホールは下策デス」

 だが――朱絶佳の、願望混じりの言葉にジャニーは短く楽観論を斬り捨てる。
 早乙女も、口内から溢れた血を拭い去ってから言葉を続けた。

「……そうだね。マッスルブラックホールは今回は使用できないだろう。……あれは威力こそ超強力だが、しかし剣技ではない。手のひらを突き出し、狙いを定め、握りつぶすという三つの動作が必要とされる魔術だ」
「増してや敵は戦堂実光。……そんな大きな隙が出来た瞬間に斬り殺されているのだよ。……片手で相手の刀勢を防げるほど、手ぬるい相手でもないしね」

 楽観論は仲間達の言葉によって否定される。朱絶佳もそれは確かだと思った。新志の敵は強い。勿論彼女も、いや彼女の仲間らも今すぐに彼の援護に回りたいと思っているが、新志は――いつもはどんな悪戯でも大概の事を笑って見過ごすような男だが今回だけは手出しすれば相手が誰であろうとも斬り殺す類の怖さを持っていた。

「大丈夫」

 そんな朱絶佳を勇気付けるように珊瑚は言う。

「きっと――大丈夫だから」

 それは自分から言葉にすることで――その不安を掻き消すように、信頼を形にするようでもあった。彼女自身、確信が持てない新志の勝利を信じようとする行為だった。

「……そうだねー」

 だから、朱絶佳もそれを否定せず、不安を殺して頷いた。






 寒い。
 比喩表現抜きで寒い。

 滝のように降り注ぐ豪雨は新志の衣服を濡らし、叩き付けるような風は、濡れた体をどんどんと冷やし――新志の体力を大幅に奪っていく。
 実光の全身から吹き付けるような殺気の風――新志も同様に必殺の意志を相手に叩きつけている。僅かでも実力下位であるならば、その殺意に気死するかのような気迫の鍔競り合いが行われる。ある意味では刃を交える以前から既に戦いは始まっていたと言ってすらいい。
 両名とも踏み込みを見せれば大太刀の間合いへと達する距離。
 だが――両名とも隙を見出せないでいる。刃を振れば即座に反撃が来る事をほとんど本能で理解している新志と実光。
 剣速と膂力で勝る新志と、彼の天性の剛力に対抗するために技術を高めざるを得なかった実光。お互いにお互いの手を知り尽くした両名は動く事が出来ない。剣術での試合で相手の剣技を知っているというアドバンテージは非常に大きい。そういう意味では――幼少の頃より同じ家の下で一緒に暮らしていた血の繋がらない二人の兄弟ほどお互いの剣を知るものはいなかった。

 すなわち――勝敗を決めるものが存在するとすれば、新志が戦堂の家を出て――その間に過ぎ去った二ヶ月間。その二ヶ月間、相手が知らぬ月日の間にどれほどの進歩を遂げているのかが生死を分かつ鍵となるのだろう。

 持久戦は――お互いに望む事ではない。

 雨風が奪う体力と、冷気によって精度を失う指先――両名とも失われるもの。
 だが、だからといってお互い無策で突っ込んで倒せるほど甘い相手ではない。

 それを知るからこそ――新志も実光も――戦堂一倒流の剣士が得手とする大上段ではなく、どちらもお互いの行動に即応できるように正眼に構えていた。天に大きく掲げれば落雷を招く可能性もあるからだが、それと同時に僅かな隙、防御の遅滞が死を招くと理解しているからだった。

 戦況は停滞。

 まぶたで瞬きをする刹那で勝敗が決するような、空恐ろしくなるほど張り詰めた緊張感の中――両名はどちらも石像と貸したように動く事はなかった。

 

 焦れたかのような動きを見せたのは天である。
 まるで弓国でも至高の高みにある剣士二人の戦いを観戦に来た軍神が変化しない戦場に苛立ったかのように――状況に一石を投じたのである。

 稲光が走った。

 それも――耳を劈くような轟音と共に付近の木々の一本に命中した雷。それが放つ膨大な光の量は二名の視界を一瞬眩ませるには十分なものであった。
 もしこの落雷が、一方の背中で起こったのであれば――どちらかは視界を焼かれて視力を一時的に失い、どちらかは背中を向けたままで視覚を保ち隙を見せた相手を斬り殺していただろう。だが、天の軍神がそれはあまりに不公平と感じたかのように、至近での落雷は公平に二人の聴覚と視覚を一時的に麻痺させる。
 だが、両名とも視界を焼かれつつも、それでもお互いが一瞬目を細めたのを確かに見届けていた。
 躊躇いはどちらもない。
 殺気の応酬ではなく刃の応酬。

 遂に――戦堂一倒流総帥を決めるあの日、行われるはずだった戦いが本格的に始まった。


 
 実光が動く。
 まるで拳法のような鋭い踏み込みを見せ――そのまま正眼から一直線に突きが繰り出される。新志の喉笛を刺し貫くための一撃に対し、新志本人は鍔でそれを受け、刺突の軌道を逸らす。走る衝音、鉄と鉄が絡み合う剣戟の歌が奏でられる。
 新志の動きは、太刀を上に持ち上げ軌道を変えるのと同時に太刀を振り上げるための動作も兼任していた。

 振り上げられる大太刀――兜割り。

 剣の格が互角であれば――速度と膂力の乗った一撃で斬鉄できるという自信があればこその選択。新志の後背筋が膨れ、破壊力を生むべく力が篭る。
 直撃すれば受け太刀ごと相手の頭蓋を粉砕する鬼神の一刀に対し、実光は横方向へ滑るような移動。

「おああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 全身の筋肉に力を要求するような大喝と共に繰り出される刀勢――空振り。
 実光は新志の剣を受けではなく避け――空振りになった刃が地面に突き刺さり隙を見せることを期待したが、外したと思った刹那で己の剣を豪腕で持って制止させ、伸びきった体勢を力ずくで立て直した。

「……流石は――千年に一度!」

 あれは――真似できぬわ、と笑う。尋常な剣士であれば必ず存在する隙を、力ずくで潰してしまう天性の強力。強力の体幹。
 かつて自分と新志を評した義父の言葉を思い出し、実光は全身を独楽のように回転させながらその遠心力を込めた全力の振りを見せる。逆風の太刀――まるで降り注ぐ雨を切り裂くような凄まじい剣風を帯びたその一撃。だが放った瞬間には新志はその巨体からは想像できぬ軽翔さで後方へと宙返りし、刃の間合いから逃れていた。
 
 

 手ごわい――今更ながら新志は義兄の実力を侮っていたのかと、評価を上方に修正しなおしていた。
 十回試合えば六回勝つようになり――十回試合えば七回勝つようになり――新志が義兄との試合を少しずつ敬遠するようになったのは一体どのぐらい前だったのか。
 あの頃の自分がどれだけ間違っていたのか新志は今となっては良く理解できる。
 義兄の面目を潰したくないという思いで試合を避けていたが、それは義兄からすれば耐え難い恥辱であったに違いない。
 強い。
 その恥辱を糧に、義兄は新志が瞠目するほどの実力を身につけていた。これほど強ければ――恐らく戦堂一倒流の総帥を決定付けるあの試合の日に戦っても、新志が負ける可能性は十分にあった。雪辱を晴らす機会を――こんな形でしか得る事が出来なかった義兄に心の中で謝罪しつつも、新志は大太刀を構え直す。

「威矢亜アアァァァァァァァァァァ!!」

 大喝と、迅雷の如き踏み込みと共に繰り出される――実光の兜割りに対し、新志は精密にその間合いを測る。受け太刀では自分の太刀は折れる。ならば避けてのち応復の斬撃を以って決着を。
 降り注ぐ迅雷の如き振り下ろしに対し、新志は恐るべき精度を以って見切り――相手の刃で自らの産毛を斬らせるような神業の避けを実行しようとし。


 自らの脊椎に走る恐怖の衝動に従って――見切りではなく、全速での回避を選択した。


 だが――その回避ですら避け得ない驚くべき変化を、実光の剣は見せた。
 振り下ろされる最中の斬撃――それが突如として刺突へと変化したのである。

「なにっ?!」

 新志は己の喉笛に殺到する一撃を避けるべく横へ逃れたが――致命傷こそ避け得たものの、右肩に一刀を浴びてしまう。刃が突き刺さった。
 火箸を突っ込まれたような灼熱感――ずぼり、と肉から刃が引き抜かれ、熱いものが弾ける感覚がした。仲間たちの押し殺した悲鳴が――今は遠い。
 痛みを受けながらも――新志は先程見た変化の一撃を分析していた。
 途中までは普通の兜割り――問題はその剣の変化。振り下ろす最中で更に一歩踏み込み、速度の乗った一撃を――強引に刺突へと変化させたのである。
 これは避けられない。術理の正体を知らぬまま戦えば――初見の相手にとってはまさしく一撃必殺となるであろう恐るべき魔剣だった。
 技の実行は、言うだけならば簡単だ。
 だが、振り下ろしてから突きに変化させるならば兎も角、勢いの乗った刃にそんな無茶な変化を持たせるなどどれほどの剛力が必要なのか。術理を理解できたとて、実行できるかはまた別問題。増してや扱う獲物は大太刀――だが、と新志は考え直す。
 実光はそれを実行して見せた。
 新志ほど筋力に恵まれない彼がこんな力を要する技を会得した――そのためにどれだけの努力を代償として支払ったのか。

「……あの日、総帥を決する戦いでお前に見せるはずだった――秘剣、捩れ竜だ」

 確かに初見殺したるこの技――総帥決定戦にて繰り出されていれば義兄に敗れていた可能性も十分にあった。
 新志は再び剣を握ろうとして――右の腕の筋力が僅かに鈍っている事に気付いた。先の突きで――力が僅かながら鈍っている。

(……まずいな)

 一人呟く新志。義兄は強い――その強敵に対しては僅かな不調ですら生死を分かつ可能性があった。
 その刀勢は流石に左腕一本で凌ぐには限界がある。死ぬかな――他人事のように呟きながら、新志は踏み込んでくる実光の刃を片腕一本で逸らし受け流すように動いた。
 だが――勝機と踏んだ実光の一撃は鋭かった。
 自らの体躯ごと、魂ごと投げ打つような凄まじい正面からの打ち込みに対して――その激しい感情を受け流す膂力を半分封じられた新志は耐え切れず、逸らす事に失敗した一撃は――新志が南極に出立する直前義父である刃馬から手渡された無銘だが業物であった大太刀が斬鉄される結果をもたらした。

 死の予感。

 刹那――目蓋の裏を走馬灯に似た幼き日の情景が走った。懐かしい情景だ、と――死に瀕した人間が感じるという臨死の集中力の中、そんな事を考える。
 横方向への避けと逸らしを併用した新志は体こそ無傷ではあったが、大太刀は最早小太刀同然の刃しか残していない。二度と受け太刀は不可能――この小太刀程度の長さの刃でどう戦う――小太刀? 新志の脳裏に刹那の閃きが走った。

 斬鉄された刃――垂直の断面。
 
 武器が破壊されたという事実は、戦堂一倒流剣士にとって魂とも言うべき大太刀が斬られたという事実は――それは実光に勝利の確信を抱かせるに十分すぎる結果であり、戦いを見守る彼女たちにとって戦友の斬死を予感させる最悪の光景であった。
 




 そう。




 新志が武器を失うという結果に面してなお――勝利の可能性があると確信を抱いていたのは。
 実光との戦いに際し、彼が扱うであろう天下大逸刀に対抗するため――最初から大太刀が斬鉄されることを考慮した訓練に付き合っていた、ただ一人――連城斬絵ただ一人だった。

「新志殿――! 今でござる!!」




 斬鉄された事により両名の位置はお互い真横。
 剣を斬られた新志は最早実光の太刀を受けきることは不可能。武器を折られた事による精神的ショックは――如何なる剣士であろうとも逃れ得ない――はずだった。
 
 だからこそ――新志のそこからの行動は、頭で考えていたというよりも、この事態を想定して幾度も体に馴染ませた動作を忠実に実行しようとする無意識の動きであった。
 新志は刹那の一瞬で小太刀程度の長さになった刃を手放し逆手に握り返す。
 この肉薄するかのごとき至近距離で有効なのは威力に優れた長射程の大物ではなく、取り回しの効くナイフのような短い獲物。
 斬鉄されたことをすら――この状況では有利であると、文字通りの意味で逆手に取る。
 新志の太刀を斬鉄したことで伸びきった実光の体、そのまま即座に二の太刀を浴びせようとした彼に対し、新志は刃のほとんどを切断されたために――取り回しやすさを手に入れた、大太刀の垂直に切れた断面を以って。


 実光の顎を殴打した。


「がっ!?」
 
 次の瞬間、彼の脳裏に訪れたのは困惑と驚愕――そしてそれに勝るものは、いったいどうやって反撃を受けたのかという疑問だった。
 酩酊するように両足に力が入らない。顎を打ちぬかれた事による衝撃を気力で補正しつつ、彼は――その手にあるへし折れた太刀片手になおも闘志を衰えさせない義弟を見て――ああ、なるほど、といやに落ち着いた様子で敗北を確信しつつ納得した。
 戦堂一倒流ではない――至近距離で相手よりも斬撃を先に届けるために刃を逆手に持つのはむしろ連城双闘流の技術だ。新志も戦堂一倒流から離れていたこの二ヶ月で随分新しい進歩を遂げたのだな――と、弟を愛でる兄のような優しげな表情を自然と見せていた。
 瞬間――平衡感覚が失調し、背中に大地を感じる。


 そして降り注ぐ雨よりもずっとずっと冷たい刃が喉元を走った。


 命が迸る。







 新志は刃を受けた右腕で、顎を打たれて酩酊した実光の頭を掴み、地面に引きずり倒す。


 

 そこから無意識に、恐るべき強敵の命を疾く絶ち勝利するため――義兄の首を、刃で掻っ切った。




 びしゃり、と大動脈を切断され――実光の喉元から鮮血が吹き上がり、雨で濡れた新志の顔を血生臭く染める。
 そのまま再び逆手に持っていた大太刀を順手に持ち変える。

 反射的に義兄の首を掻っ切った新志。
 もうどうやっても助からない致命傷――新志は気道を切られたことで、掠れたような声しか出ない義兄を見た。子供の頃のような――何の罪も知らなかった無垢な眼差しで、上達の早い義弟を褒める優しげな眼差しで――実光は新志を、大切な義弟を見上げた。
 目尻から流れるのは雨粒か、頬を伝う熱いしずくは涙なのか――それはもう新志本人にしかわからない。
 
「……義兄上!」

 鳴き声にも、遠吠えにも聞こえる叫びが――雨風にも負けず劣らず響き渡った。
 苦しませるのは忍びない――介錯の刃を掲げる。

「……刹那、走馬灯を垣間見るほど――お強うございましたぞ!!」

 そして新志は。
 満足げに微笑む義兄の首を。




 刎ねた。









「……新志」

 珊瑚の声が響く。

「……風邪、ひくよ?」

 早乙女が召還した雨風はまだ止む様子を見せない。新志も、返事する様子を見せない。
 

 結局のところ――今回の一件では、最初から誰もが無事ハッピーエンドを迎えるという結末は存在しなかった。
 戦堂一倒流内部での騒乱は、同じく戦堂一倒流剣士が主犯を斬り、全て解決。そういう事になるのだろう。珊瑚は鞘に収められた天下大逸刀を両腕で重そうに抱えたまま、新志の傍を動かない。
 将魔、そして魔元帥『裏切』――に変貌し、魔へと堕した時間が一日も過ぎていなかったためにその肉体は『魔』へと変質していなかったのだろう。屍はまだ人のままだった。
 魔元帥『邪智』によって引き起こされた今回の事件――実光は不本意に感じるかもしれないが、彼はジェーン=ドゥによって錯乱し、そして新志によって討たれた。流派の名誉を護るためそういう筋書きが用意されているのだろう。 
 だが――実際にこの事件に関わった人間にとっては、そんなことでは済まされない。新志が心に負った傷は何よりも深かった。

「……今が、雨でよかったよ」

 新志は兄の屍を抱えたまま起き上がった。
 己が刎ねた首元を布で縛り、外見だけは生前と同じように装う。新志はそのまま――仲間達の場所へ、何も掛ける言葉が見つからないまま沈黙する戦友らのいるそこへ歩き始めた。
 その後ろから付いて歩きながら、珊瑚は新志の言葉の意味を理解する。
 かすかに震える背中。嗚咽を押し殺し歩く新志。


 涙を隠してくれる雨が、その冷たさが、今は不思議と心地よかった。



[15960] 同門対決後の顛末――ひとまずのむすび
Name: 八針来夏◆0114a4d8 ID:657b66fe
Date: 2010/06/08 16:10
 あの日から一ヶ月が過ぎた。

 勝負が決着した数日後に、戦堂実光の葬儀は死体がないまま執り行われた。
 死亡した時点で魔の眷属へと堕していたことが確認されていたので、その遺体は特殊な焼却施設で細胞レベルまで完全に破壊しておかなければ復活する可能性があったためである。
 今のご時世に置いて、死体がないまま行われる葬儀とは――見れば参列者に不安を与えるような惨死体か、上記のような理由による特殊な事情を持つ死体かのどちらかになる。

 戦堂一倒流総帥が魔へと堕した。

 そういう悪評はあるものの――喪主を務めることとなる刃馬、新志の両名はその評判を粛々と受け入れた。お互い、義理の息子、義理の兄――その胸のうち、その苦悩を理解してやる事が出来なかった事を心より悔いていた二人は反論するつもりも無かったのである。
 戦堂一倒流の隆盛を快く思っていなかった連城双闘流からは今回の事件に大きく関わっていた連城斬絵が名代として出席した。彼女はここで無礼な発言をするようなものが自流派にいれば名誉に関わるかも知れぬと古老らを信用していなかったし、当事者の心理を良く知る者として参加しておきたかった。
 少なくとも――今上陛下よりの信頼が損なわれた事は確かであるらしく、これまで戦堂一倒流総帥に下賜されてきた天下大逸刀は召し上げられる事になった。





 戦堂椿は、あの事件の後、すぐさま病院に搬送される事になった。
 肉体的な外傷はなんら問題はない。実光との決闘の前に斬殺された彼女は魔元帥ジェーン=ドゥのただの分身であり、その胎内に監禁されていた彼女は今回の一件ではもっとも肉体的な被害を受けていなかった。
 一番懸念されていたものは、精神的なショックである。
 魔元帥ジェーン=ドゥが行った、戦堂椿に対する成りすましの能力は対象を己の胎内に捕縛し――その捕縛された人間の意識を使って姿と行動を真似ると言うものである。少なくとも行動の違和感、言動の矛盾から偽物だと判断することはまず不可能の能力。なにせ行動しているのは本人そのものなのだから。

 だからこそ、新志は椿のことが一番心配だった。
 義兄であり、彼女の恋人であった戦堂実光――出来るならば説得したいと考えていたその彼に斬り殺されてしまった。

 その事実を忘れているのならば、まだいい。

 だが、もし――もしも彼女が助けようとしていた実光に斬り殺されたという事実を覚えていたら、新志はなんと言えばいいのか。



 

 なんと言えばいいのか判らないまま――戦堂新志は病室の中の椅子に腰を掛け、義姉が目を覚ますのを毎日毎日、待っている。

「新志。……いい加減、休まないと体に悪いよ?」
「……病院だから倒れてもすぐ処置してもらえるんじゃないのか」
「……そういう後ろ向きな安心より倒れないようにしなよ」

 食事もおなざりで睡眠も纏まった時間をとっていない。
 土倉珊瑚も同様に新志に付き合って椅子の上で腰を掛けていた。馬鹿な事を言う新志の頬を抓りながらも、視線はベッドの中で未だに夢の中にまどろむ義姉を見る。
 今回の事件で結局戦堂の子息ら三名のうち一人は鬼籍へと名を連ねることになってしまった。新志自身、敬愛する義兄の首を自ら首を刎ね、椿も未だに昏睡状態から目を覚ます様子は無い。
 アトリ達、仲間らは二人に気を使って斬絵の仕事を手伝ってこちらには来ていない。かつて過去に椿と時間を共有した事のある人間だけにさせておこうという気遣いだった。

「……義姉上、覚えていなければいいんだけどな」

 新志は一人呟いた。
 記憶と精神に介入する魔元帥の力によって、記憶に混濁、あるいは忘却などの事態が発生する恐れがある――似たような過去の症例からそういった副作用が明らかにされているが、それらを回復する方法などは現在も研究の最中だ。
 もし――戦堂椿が魔元帥ジェーン=ドゥに囚われた時からの記憶を失っているなら、戦堂実光が刃馬の片腕を斬り、そのまま失踪する辺りで止まっていると言う事になる。
 記憶を全て失っているならばそれで良いと、新志は思っていた。
 恋人の刃にかかり一度殺されたなどという最悪の記憶など無いに越した事はない。増してや実光は新志との勝負を、椿とのこれからの生活よりも優先したのだ。思い出さないほうがいい記憶など幾らでもある。

「……どうかな」

 珊瑚は新志の独白に小さく応えた。
 実光は――歪みきっていたとはいえ、戦堂椿の事を愛していた。彼が魔を斬る斬魔剣法の流派総帥という立場であったにも関わらず将魔として復活し、ジェーン=ドゥを斬ったのは彼が愛を捨てる事を他者の精神操作によって決断したのではないと証明したかったからだ。そう誤解される事が何よりも耐えがたかったからだ。
 誰に誤解される事を? 新志? それとも自分? ……いや、やはり椿なのか?
 しかしその真相を知る機会は最早永遠に失われた。戦堂実光はもう死亡しており、それを聞く機会が得られるとするならば自分が死去する時だろう。
 
 真実を知るべきか。知らざるべきか。新志と珊瑚は、沈黙を守る。





 戦堂椿が目を覚ましたのは、それから数日が過ぎてからだった。
 いつものように林檎を剥きつつ、見舞いに来て、目を覚ます場所に居合わせていた新志と珊瑚――大慌てで新志は百メートル九秒台の超健脚を発揮して医者を呼びに行こうとし、そして珊瑚が呼び鈴を鳴らした方が速かった事に気付いた。

「先生……義姉上は!」

 しばらく時間の掛かった検査が一段落してから、新志は今一番気になっていた事を尋ねる。
 今や戦堂の家の三人のうち、一人はおらず――椿に何かあれば、心が潰れるような思いを抱くだろう。心配げな新志の目線に医者の先生はうむ、と手元のカルテを見ながら応える。

「ああ、母子共に健康そのものだ。……なんの問題もない。少しの間は検査入院が必要だろうが、すぐに退院できるよ」

 よ、良かった――と新志は安堵の息を漏らしながら壁に背を預けようとして、なにやら聞きなれない言葉が混じっていた事を思い出す。
 聞き間違いか? と思いつつ、同席していた珊瑚を見れば――そちらも同様に驚きの表情で新志の視線で応えた。……聞き間違いじゃない? と思いながら新志と珊瑚はお互いの頬を抓りあった。痛い痛い、呟きながら恐る恐る手を挙げて再度質問する。

「あ、あの……先生。母子共にって……あ、義姉上は――妊娠なさっているのですか?」
「あ? ああ。……妊娠三ヶ月目だね。おめでとう」
 
 予想外――というほど予想外ではない。
 義兄と義姉は目出度く結婚していた。そういうこともあるだろう。新志は――そうか、と応えようとして、その自分の声が涙声になっている事に気付いた。
 
「……そう……か。……俺……叔父さんに……なるのか」

 義姉は今、その体に新しい命を宿している。
 義兄は死んでしまった。だが、それとは別に新たな命がこの世に生を受けた。義兄の生きたその確かな証があることとに対する喜び。自分がまだ十代後半であるにも関わらず、もう甥っ子に当たる子供がいることに対してなんだか酷く老けてしまったような不思議な感慨。めでたしめでたしなんて存在しなかったこの一連の事件の最後の最後で訪れた――掛け値なしに喜ばしい出来事。
 目頭が熱い。このところ涙腺がぶっ壊れたみたいに泣いてばかりだな、俺は――と、心のどこかで冷静な自分がそんな呟きを漏らしていた。

「よ。良かった……ほんとに……」
 
 珊瑚も、同様の感慨に囚われているのだろう。
 子供の頃から自分と一緒に遊んでくれた年長者の大切な友人二人。その二人に子供が出来た。実光は――大切な人の一人はいなくなってしまったけど、でも生きた証はそこにあるのだろう。

 それと同時に――新志は、とうとうその時が来たのだと思った。
 義姉が果たして、義兄との一件を覚えているのかどうか。躊躇は本当に一瞬。剣術勝負とはまた別種の緊張を胸に抱きながら新志は言う。

「先生……義姉上と……話は、できるのですか?」
「ん? ああ。できるよ。あまり長居はしないようにね」

 不思議そうに首を傾げる珊瑚の言葉に同意する医者の先生。
 どういうことなんだろう? と不思議そうに首を傾げるが――それが本人の望みとあっては否定する要素は何も無かった。新志は珊瑚に頷いてから、義姉のいる病室の中へと入っていった。




 良く考えてみると、戦堂椿――その人本人と出会い、話すのは弓国に帰還してからこれが最初という事になる。
 新志が会話したのはジェーン=ドゥによって意識を転写された本物となんら代わらない偽者。果たして義姉はあの一件を覚えているのか。緊張で微かに心臓の鼓動が早い。何処となく落ち着かない感覚。掌の内側が痒いような妙な気分。
 戦堂椿は――ベッドに体を横たえたまま、新志を見てかすかに笑った。

「義姉上……」
「お帰りなさい。新志。……叔父さんなんて、まだ実感沸かない?」

 既に医者の先生から教えられ、自分が妊娠している事を知っていたのか――あるいは事件が発生する前から気付いていたのだろうか。
 その事を新志は聞く勇気を持たない。ただ少しだけ照れ臭そうに笑いながら頬を掻いた。

「……名前、考えないといけませんね」
「実光と一緒に――考えたかったわね。新志――私、全部覚えているわ」

 思わず息を呑む新志は――そうか、それもそうか、と頷いた。
 義兄に斬り殺されたなんて事実、魔元帥に言いように利用されたなんてことは出来れば知られたくは無かった。だが、もう覚えているというのであれば、隠す意味は無い。

「新志。……実光はどうなったの?」
「……俺が斬りました」
「……そう。……ごめんなさい。辛い役ばかり、押し付ける結果になってしまって」

 椿の申し訳無さそうな眼差しに新志は――いえ、と首を横に振った。
 その現場を見る機会は、椿には無かった。振るった拳の手ごたえ、義兄の首を掻っ切った感触。自分でも思い出すだけで目頭が熱くなってくる。新志は自分が強い事を知っている。肉体的な意味だけではなく、精神的な意味でも。あと一週間ほどすれば、この漣のように心を侵す感傷の波も失われていくのだろう。
 だが、それは少なくとも今ではないのだ。

「……珊瑚も、迷惑を掛けたわ」
「迷惑なんて、……そんな」

 その言葉に珊瑚は慌てたように首を振る。

「……新志。そして、ね。……私は――貴方にとても酷い事を吐いたことも覚えている」

 背筋に冷たいものが走る感覚――新志と珊瑚は息を呑んだ。
 魔元帥ジェーン=ドゥが彼女に叫ばせた最悪の言葉。心の奥底に永久に封印されるはずだった――彼女の一番暗い感情。もっとも恥ずべき感情をむき出しにしてしまった事を思い出し、新志は言葉を考える。彼女を気負わせない言葉を――口にしようとするが、上手く舌が回らない。ジェーン=ドゥが椿を利用していたのは、実光に斬り殺されるまでと考えていた二人は――そのことも彼女が覚えている事に狼狽し、そんな二人を慰めるように言葉を続ける。

「……でも、新志。私はお前を誇りに思うわ」
「え?」

 困惑したように首を傾げる新志。

「戦堂一倒流としては――お前が流派を捨てたのはマイナスだった。それは間違いないわ。
 ……でも、お前があの日、間違えたお蔭で助かった命もあるのよね。……ね? 珊瑚」
「はい、……はいっ」

 こくん、と珊瑚は頷く。
 新志がいなければ――華帝国での戦場で、魔元帥エルムゴートと遭遇した自分達は確実に殺されていた。あの戦闘狂のこと、少なくとも早乙女は確実に抹殺されていただろうし、珊瑚貴下の皆とて命の危機だった。それを助けたのは、紛れもなく、彼なのだ。
 何度も何度も、新志を弁護するように頷く珊瑚に小さく、嬉しそうな微笑を浮かべる椿は――そっと、ベッドの傍に、お守りのように布で包まれたものを取り出す。
 本来なら――病院ではなく、戦堂一倒流の道場の壁に立てかけられているべき、戦堂新志の名札だった。

「義姉上、これは……」
「出奔し家を出て破門された時、捨てられるはずだった――でも、処分できなかった。もしかしたら、帰ってくるかも、そう考えて実光と一緒にずっと大切に保管していた」

 新志は俯く。
 目元が熱い。泣きそうな衝動に襲われながら、目元を押さえた。
 家に不義理をして出奔していった――でも彼女はいつか自分が帰ってくる事を考えてずっと、いるべき場所を取っておいてくれたのかと歯を噛む。

「新志。お前は、剣士だわ。誰かの命を戦って護ることの出来る剣士よ」
「……そうありたく思っております」
「お前は――やっぱり、戦堂一倒流にいるべきではない」
「……っですが」

 単純な拒絶の言葉ではないのだと信じたいが――やはり、一瞬背筋に震えが走る。片腕を失い息子を失った義父。恋人を失った義姉。大切な人々を残していいのか――少なくとも南極防人前衛に編成された時ならば躊躇いなく帰国を決断できただろう。だが、今は彼は共に戦うべき戦友がいる。
 不安そうな眼差しの珊瑚。
 義弟と珊瑚の不安を溶かすように、椿は微笑む。
 
「きっと。……そういう、誰かのために戦う星の元に生まれている。お前の剣は人に教える剣ではなく、人を助ける剣。
 ……新志という剣士を手放す事は、戦堂一倒流にとっては多大な損失でしょう。でも天下万民の事を考えるならば、きっとその方がいい。……戦堂一倒流は護国の剣のその切っ先。斬魔剣法の後継者にとって魔術師軍ほどその設計思想に沿う組織は無いわ。あの人たちを助けたようにもっと大勢を助けなさい。
 戦堂一倒流は大丈夫。父上は片腕を失ったといってもまだまだ現役。それに――私にはこの子達がいる。この子達がいるかぎり、私は強くなる」

 いとおしげにお腹を撫でさする椿に――新志はなんとなくではあるものの、自分が叔父になる事を実感した。これで、義姉のお腹がマタニティドレスが必要なぐらい大きくなればその感覚はもっと強くなるのか。
 憑き物の落ちたような笑顔で、言う。自分を誇っていいのだと認めてもらって――胸のつかえが取れたよう。
 
「義姉上――いつか、魔との戦いに決着が付いたら、帰ってきます。いつか、帰ります」
「では、その日まで――お前の名札を掛ける場所は空けて待っています」

 人生の岐路ともいうべきあの日の決断は間違いだったかもしれない。
 だが、あの日の決断を間違えていたお蔭で救えた命も存在した。決断の全てが誤りだった訳ではない。自分の名札を見つめながら――子供の頃、壁の一角に備えられたそれを見てまるで一人前の剣士になったような幼い誇らしさを思い出し、新志は頷く。

「行って参ります」
「帰ってくるのを待っています」

 帰る場所は――義姉と義父と仲間のところ。
 もう迷う事は無かった。





 勿論椿が目を覚ました事は――おまけに孫が出来たことは、戦堂刃馬にとってこの暗い話が続く日々の中で掛け値なしに喜ぶ事が出来る話だった。
 当然新志と同じように今すぐにでも見舞いにいきたい。事実本家に戻った斬絵を除く全員は慌しく病院に出発した後である。
 行きたいが――大戦時からの戦友である早乙女に強く言われ、今は道場の中で早乙女と対峙していた。珍しい事に常に女装をしていた彼が、実に普通に男性用の袴を着込み、正座している。

「……で、何の用じゃい。俺は今から孫用の玩具やらおむつやら手配しに行かねばならぬという重要な用件があるのじゃがなぁ」
「気が早いにも程があるが……その、子供に関するの件が一つ」

 早乙女の目は鋭い。
 あまり良い報告を持ってきたのではないのだな――と、刃馬は長い付き合いで理解した。

「君の娘――戦堂椿は、時間にしておおよそ一週間、魔元帥ジェーン=ドゥの胎内に囚われていた」
「……聞いておる」

 事の顛末は既に早乙女から聞き及んでいる。娘が摩り替わっていた事は勿論ショックだったが、早乙女を責める気は無い。むしろ摩り替わられていた事を察せなかった自らの不明を恥じるばかりである。

「専門の医者からの意見なんだが――君の孫は、囚われていた時に魔の影響を受けていた可能性がある」
「……具体的には?」
「不明だ。妊娠していた女性が魔の胎内に囚われていたなどという話は前例が全く存在しない。ただし間違いなく子供は何らかの影響を受けている」
「……産むのを止めろと言って聞く娘ではないわい。俺に似て頑固なところがあるんでな」

 刃馬の反応は早乙女にとっては十分予想内だった。
 魔の影響を受けた胎児がどのようになるのかは全く不明だが、かといって悪い影響が出ると決まった訳でもないのだ。この時点で最後の手段を取るなど早計に過ぎるし――それに、きっと彼は最後の最後まで娘の意志を尊重するだろう。

「で――男性の衣服を着込んでいるのは、俺が気兼ねなく殴れるようにとの心遣いか?」
「……ばれていたか?」

 少し困ったように早乙女は笑う。
 刃馬は、ゆっくりと立ち上がった。この男は、ジェーン=ドゥの手をある程度読みながらも部下の珊瑚に手出しをさせなかった。
 目の前で椿を斬り殺された新志のその絶望と悲嘆、そんな光景を止めることが出来たにも関わらず黙って見殺しにした冷徹、我慢を強制された珊瑚の苦痛――確かに魔元帥ジェーン=ドゥを表舞台に引きずりだして倒すには相手をある程度油断させる事が必要なのだろう。
 黙ってあんな絶望を味方に味合わせた責任者としてその怒りをぶつけさせようとしているのだろう。
 だが――それよりも、刃馬は早乙女のその行為が一種の贖罪行為である事を見切っていた。罪の意識を肉体的な苦痛で少しでマシにしたいと考えているのだと理解した。

「……お前、楽になりたいんじゃな?」
「……恥ずいな。見抜かれていたか」

 少しだけ――困ったような笑顔を浮かべる早乙女。

「……僕は指揮官だ。そして指揮官は最大効率を求めて最悪部下に死ねという命令を下さなければならない。……大戦時から生き延びた不敗の軍神という仮面は外せない。僕が指揮官であるならば大丈夫という信仰は保たれなければならない。……だが、せめて一発、殴られておきたい。君の息子と娘を危険に晒した下劣な指揮官として、その父親にね」

 部下の命を預かるという重責――しかも今回はジェーン=ドゥを倒すために自ら部下を撒餌にしたといっていい。その非道に対して彼は報復を望んでいるのだ。自分の非道な行いで軋む良心を少しでも楽にするために。

「実際は、部下を窮地に晒し続けることに罪悪感を覚え――部下達が生き残った事を誰よりも喜んでいる。……まだ気にしているんじゃなぁ。南極で――氷結地獄の復活(コキュートスリメイク)を放つ際に――巻き添えにせざるを得なかった……ミスティ嬢を」
「ミスティとサンダミオン教授には地獄で詫びるさ。……すまないが、顔は控えてくれ。部下を怖がらせたくない」

 ここだここ、と自分の腹を挿す早乙女にわかった、と刃馬は答え――彼は残された最後の腕に力瘤を浮かび上がらせるほど力を込めて、拳を振り上げた。制裁を受けたほうが気が楽になる場合もある。親友を、少しでも楽にするために。 


 彼は、早乙女を殴った。
 







「新志殿」
「よう」

 病院を出てきた戦堂新志はおっとり刀で駆けつけたらしい仲間らを代表して言った斬絵に気付いた。
 一応連絡しておいたのであるが、同様に駆けつけた他の仲間らと斬絵は合流したらしくみれば見慣れた戦友らの顔がそこにある。

「あんちゃん、椿さん、元気だった?」
「ああ」

 朱絶佳の気遣わしげな上目遣いに新志は応える。
 病室の方、義姉が入院しているところに辺りをつけて目線を向ける。

「ならば早速見舞いだね」
「とはいえ、あまり大勢で押しかけるのも良くないかもしれないデス」
「……そんなにすぐ帰還するわけじゃないし、大丈夫だよ。なんかお土産買う位の余裕はあるしね」

 珊瑚の言葉にそれもそうか――と頷く一行。
 それならば早速見舞いの品物を買おうと言い出して歩き始める一行を見送りながら新志は少し一歩離れた場所に立つ。

「で、新志殿。……貴殿は、以降どうなされるのでござるか? 家に残るのか、それとも」
「ん?」

 魔術師軍に戻るか否か――新志は、ああ、と頷く。
 一度もう二度と戻らないと心に決めた戦堂の家――だが、あの家との絆がまだ強く残っているのは確かめられた。今から帰還するのは魔術師軍の本拠地だが、最後に帰ってくるのは幼い日に自分を引き取ってくれたあの家。
 今すぐに帰るわけには行かない。自分の剣は仲間らを、ひいては誰かを護るためのもの――その全てが終わったらあの家に帰るのだ、叔父さんになって。

「義姉上に尻を叩かれたよ。お前らと共に戦うべきだと。……珊瑚達に言付けを頼む――義姉上は見舞ったし、義兄上の墓に参りに行くってな」
「承知いたしたでござる」
  
 こくり――と頷く斬絵は見舞い品を買いに出かけた仲間たちの所に走っていく。
 その彼らに背を向け、新志は一人歩き始めた。

 全てが上手くいった訳ではない。だが祝福するべき事はあった。決断を間違えたと考えたが、間違えたために救えたものもあった。
 今自分が帰るべき場所は魔術師軍の本拠地であり最前線。その前に花を添えて線香の一つでも上げよう――そう考えながら、戦堂新志は歩き始めた。


 足取りに、後悔はない。
 彼の心情を代弁するかのように――空はどこまでも晴れやかだった。




















































 その意識は薄暗い闇の井戸の奥底へと引き込まれ――もう二度とよみがえる事も無く、消え去るはずだった。
 その意識は法と道徳に背を向け、自らの心の望むまま許されざる欲求に従い、様々なものを斬り捨ててきた。
 義父を、家人を、同門を――そして愛しい人を。

 そこまで斬り捨ててきてようやく手に入れた義弟との戦い――彼は心のどこかで負けを求めていたのかもしれない。負けることで、死ぬ事で自らの罪を清算しようとしていたのかもしれない。
 それでいい。
 彼は死んだ。あれだけ外道の所業に手を染めたのだ――行き着く先はきっと地獄の底。
 満足する死を迎えた実光――そう呼ばれた男は未だに意識を持っている自分自身を不思議に思う。神仏や輪廻転生を信じていたわけではないが、死亡したにも関わらず意識を保つ自分自身を不可解に感じた。
 まどろみに似た、意識がおぼろげな感覚。
 死んだはずだ――そう考える。義弟の振り払った刃は彼の喉笛を切り裂き、そして首を刎ねるために振るわれた斬首の一撃は自分の命を確実に奪い去ったはずだ。間違いない。


 間違いないはずなのに――。


「……何故――私は生きている?」

 戦堂実光は――確かに自分の喉元を切り裂いた刃の冷たさを覚えていた。
 鮮血が溢れ、命が体から零れ落ちていく感触。言葉を紡ぐことも無く死んでいくはずだった自分。確かにその体は魔へと堕したが、白兵武器ならば将魔や獣魔はその圧倒的な再生能力を発揮できないはずだ。その法則からは魔元帥も逃れえぬはず。
 ならば――何者かが自分を生かしたという事になる。
 全く見知らぬ室内。清潔であり、生活空間というよりは祭事式典で使うような――貴人が顔を隠すための御簾がある客人と会うためのような部屋だった。

「……誰かは知らぬが、余計な真似を」
「ふふ、随分と恩知らずですね」

 一人言に対して帰ってくる期待してなかった返答。
 実光は刃物そのものの鋭い眼差しを相手に向けた。声の主――OLを思わせるスーツ姿にドライバーズグローブを嵌めた女運転手とも言うべき格好の女性、鶴木美津子は、戦堂一倒流総帥の殺気を涼しげに受け流しながら――その手に携えていたものを彼に放り投げる。鞘の中に収められたそれ――戦堂一倒流総帥に授与される至高の名刀、天下大逸刀であった。

「……貴様、誰だ。何故天下大逸刀が此処にある。何故、私は生きている……!」

 鶴木美津子は嫣然と微笑みながら、結い上げていた髪の毛を下ろす。
 かすかに波打つその黒髪が垂れ下がる事に――まるでその髪が銀糸へと変じるかのように色彩を薄れさせていき、処女雪の如き銀色へと変わっていく。

「天下大逸刀が此処にあるのは――当然の事かと思いますよ?
 なにせ戦堂一倒流総帥ともあろうお人が今上陛下のご信頼の証として下賜された天下大逸刀を非道な行いに用いたのですから、管理不行き届きとして召し上げられるのも至極当たり前かと」

 その言葉に対して――実光は言葉を噛む。
 確かに――その可能性は考えていた。自分の行った行為で死後迷惑を掛ける事も。だが、自分はいずれにせよ死を以って詫びるはずだった。そういった悩みもない無へと誘われるはずだった。
 あのまま死ねたならば――満足して死ねたはずだったのだ。

 それをこの女が台無しにした。
 全身から凄愴の気を発し、実光はひどく手に馴染む天下大逸刀を抜き放つ。
 同じ部屋の下に恐るべき剣鬼がいるというにも関わらず、その相手が激怒と必殺の気を撒いているにも関わらず――鶴木美津子は気付いていないのか、あるいは気付いていても恐れるに足らぬと見なしているのか、楽しそうに微笑ん