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[21628] 鉄音同盟(仮)
Name: せる◆accf7c71 ID:4cf09cd3
Date: 2010/09/01 15:33
はじめましての方ははじめまして、せると申します。

注:今作は氷室SSです。
士郎×氷室を不快に思う方、回れ右でお戻り下さい。
ここから先は危険です、地獄です。
また、以前投稿した「氷室恋愛劇場」とは何の関係もございませんのであしからず。

それでは皆様方、どうぞ、宜しくお願いします。





『鉄音同盟(仮)』




 鉄を打つ音にも種類がある。
 ただ武器を打ち鳴らす音にも理はある。

 剣戟は何の為に。
 歯車が回る意味は何故に。
 機械が織る夢は何処に。

 自明だ。
 無為なる赤鉄には一片の意義を。

 剣戟は守る為に。
 未来の為に、歯車は回れば良い。

 美しい鐘の音が鳴る。
 そんな明日を、織れば良い。


  *                 *                 *


 さて少し唐突だが、此処である偉人に曰く。

『世の中は、君の理解する以上に栄光に満ちている』らしい。

 また、こう言った者もいた。

『森の分かれ道では人の通らぬ道を選ぼう。すべてが変わる』そうだ。




 古来より、知らぬもの、未踏の領域に価値を見出すのは人間の性である。
 開拓という言葉と共に、西へ西へと謳いながら馬を駆けた映画などがあるように。
 多くの冒険者が停滞した既知を忌み、多くの賢人が隠された未知を求めた。
 その試作と思索の果て、世界の法則は徐々にではあるが解かれつつあるのだ。

 ――そう、解かれつつあると思っていた。

「はは……」

 女史、などという呼び名が笑わせる。何のことはない。私も所詮平和ボケした日本人で、情報でしかモノを知らない一衆生の一人だったのだ。
 この国には既知しかないと、狭い常識だけで狭い世界を規定し、忌むどころか疑いさえしなかったのは紛れもなく己の落ち度。
 物理学者たちの名の下に、世界が理路整然とした神の箱庭であることを妄信していたのだ。
 何が才媛だ。本当にそういわれるほどの頭脳を、否、精神を持ち合わせていたらなら、私はきっと、あの狭く優しい世界に還ることさえできただろうに。

(嗚呼、井の中の蛙、頭でっかちの夢想家――氷室鐘の大バカ者め)

 目の前の現実に、私は半ば現実逃避のようにそんな事を考えていた。
 何せ他にやることがない。
 足は震えて動かないし、目は地面に転がったリアル志向のマネキン人形に釘付けだし、おまけに――ああ、これが致命的なんだが――もう既に、頭の上で化け物が腕を振り上げていたので。

 現状から結論を出すのは簡単だ。どうやら数秒後、私はこの薄汚い路地裏で死ぬらしい。
 阿呆らしい、馬鹿らしい。
 化け物に襲われて死ぬ? なんだその犠牲者Aのテンプレートは。
 如何様な罵倒と嘲笑を以ってしても飾るには足らぬ、惨めで愚かな滑稽劇(スケルツォ)
 それほど意義深い人生ではなかったが、まさかこんな三文芝居で幕を下ろすとも思わなかった。


 どうしてこんなことになったのか。
 私はこの今際の際で、そんな使い古された問いを脳裏に浮かべたのだった。



[21628] 鉄音同盟(仮) ―ラーメンは憂鬱な味
Name: せる◆accf7c71 ID:4cf09cd3
Date: 2010/09/01 15:26
 空は連日続く曇天。秋も終りを迎え、気温は下がる一方で、暖冬で知られる冬木の街と言えども外套が必要な季節となった。
 虫の声が鳴りを潜めるのと同じ様に、普段の大学に漂う喧騒も、僅かに鈍くなっている。
 周囲にいる学生達は皆似通った微妙な視線でディスプレイを見遣りながら、取り繕うような会話ばかりだ。

 理由は明々にして白々。
 無論天気のことでも、寒くなってきたからでもない。
 その表情に張り付くのは一様の不安でもあり……そして何よりも、恐れである。
 平穏を取り繕った中に混ざるノイズ。誰も彼もが互いのそれを見て見ぬ振りしながら、今日というありきたりな日常を回している。

 そんな雰囲気の中、俺は食堂で一人、微妙な気分でラーメンを啜っていた。
 マズイと評判の汁物をわざわざ選んだのは、美味い物を食べようなんて気力がない為だ。
 無力な俺は廃棄物処理でもしているのがお似合いだ。
 だからさっさと昼食を終わらせよう、そんな益体もない事を考えていると、今日何度目かの視線を感じた。
 魔術使いなんて自分でもどうかと思うことをやっているお陰で、視線だとか殺気だとかフィクションの世界でしか使わないものにも敏感になってしまっていた。
 微かな苦笑を抑えながら振り返る。
 後ろの席についていた数名が、物珍しげに俺を見た以外は何もない。当たり前のこと。
 これが、ただの思い過ごしならいいのだが。

『――十一月十日未明、冬木市深山町の路上で男性の遺体が発見された事件で、警察は遺体の状況などから同事件を、冬木市における一連の犯行に類するものとして正式に発表しました。警察は近隣の住民方に注意を呼びかけると共に――』

 不意に耳に届いた声に、胸が重たくなる。これが周囲の不安の正体、そして俺の気力が減退している理由だ。
 視線を送れば、そこには食堂の隅に設えられたディスプレイ。中で、キャスターの女性が淡々と言葉を連ねていた。
 この冬木の町に舞い降りた、新たな災厄――連続殺人事件の犠牲者は、これで延べ四人になる。
 その誰もが若い世代だ。男でも苦々しく、女性ならその恐怖は推して知れることだろう。

 ……せめて、遠坂がいれば。そんな泣き言を、思わず呟いてしまいたくなる。
 無力感を、味も判らないラーメンの不味さで押し込めた。詮無きことだ、どうにもならない。
 何故なら、アイツは今倫敦に留学中だからだ。
 自分の管理地がこの状況では気が気ではないだろう。それでも帰ってこれない状況に業を煮やしているのは彼女である。
 アイツ自身が一番悔しいはずなのだ、考えなしの俺でも、簡単に帰って来いなんて言えるはずはない。
 手が塞がっているのは何処も同じ。詳しくは知らないが、それなりに難しい状況なのだろう。
 いつも電話で聴く声は、疲れているのを隠すような声音で。
 まあ、現代のリアル地下ダンジョンらしい時計塔にいるのだから、そりゃ何もない方がおかしいのだろう。

『けれど衛宮くん、貴方一人でどうにかしようなんて考えないで。ただの殺人事件なら警察に任せなさい。そうでないなら、なおさら私の帰りを待って。良いわね?』

 遠坂の忠告が脳裏を過ぎる。が、

(遠坂、悪い。でもそれは無理な相談だ)

 それが出来るなら、衛宮士郎はわざわざ魔術使いになんてなっていない。
 遠坂凛が帰ってこれないからこそ、衛宮士郎が踏ん張らなければならない。
 それが、衛宮切嗣から引き継いだ正義の味方としての信条。そして遠坂凛の弟子としての心情。
 師の誘いを蹴ってまでわざわざ冬木の街に残ったのだ、ここで日和見を決め込んでは、俺は俺自身に申し訳が立たない。
 衛宮士郎の意志は鉄と同義だ。心に座る自分以外の誰かの為に、ただ平和という夢を織り続ける機械。
 今更誰に確かめるまでもない。やることなど決まっていた。

 問題となるのは現実的な手法だ。手掛かりらしきものは何一つない。巡回程度なら警察だってやっている。マスコミとて最近は良く見かける。それでも新しい情報はなく、事件は被害者の数でしか進展しない。
 組織的なローラー作戦が効果を上げていない以上、俺個人で連日のように続けている夜歩きも、そろそろ見直すべきかもしれない。やれることがこれしかないから、そんな行動ではこの事件は解決できない。
 俺がどういう人間かなど、現実を前には何の意味もなさない。それを打ち破る行動を起こすしかないのだ。
 危機や困難に直面した時、羽が生えること。それが英雄の条件だとするならば、俺はその器ではないだろう、だが黙っていることもまた、出来ないのである。
 かといって現実は一向に崩れてくれない、俺は俺なりにどうにかするしかないのだが、その手法が思いつかない――。
 そんな益体も無い物思いに耽っていると、不意に隣から声を掛けられた。

「――やあ衛宮、同席して構わないかね」
「……ッ。ああ、別に良い、けど」

 続いていた憂鬱な思考は、その会話で断ち切れた。代わりに少し、戸惑いが声に出る。歯切れの悪い返答になる。
 だがそれも仕方がないだろう。現に、少し見渡せばこちらを怪訝に見ている人間はちらほらいた。
 周囲には空いた席なんていくらでもある。同じ講義を受けている、見知った人間もいくらかはいる。
 それでもその美しい女性――氷室鐘が隣を選ぶほど、彼女と交流を深めた記憶はない。
 訝しげな視線を送ると、氷室は少し意地の悪い笑みを浮かべた。

「そう邪険にしなくてもよいだろう。穂群原から同じ法学部に入った、数少ない友人ではないか」
「別に邪険になんかしてないぞ。ちょっと珍しかっただけだ」
「ふむ、それは失礼」

 クク、とまた常の笑み。
 奇妙な口調、奇妙な空気、奇妙な間合い。
 これが初登場ならすわ新手の敵かと思うところだが、彼女は確かに、その言葉の通り同級だった。
 尤も、高校時代は同じクラスになったこともなければ、特に親しかったわけでもない。
 友人の友人という表現が正しいところだが――ああでも、あの奇矯な黒豹を友人と言っていいかは迷うぞ。
 

「そういえば、講義以外で君とこうして肩を並べるのは久しぶりだな」
「あ、ああ」

 ……というより、あったっけ? 
 そんな言葉が口をついて出そうになるのを、俺は寸でのところで抑える。
 そういう如何にも考えなしな物言いで、何度も遠坂にヤキを入れられた記憶が蘇ったからだ。いくら俺が間抜けでも、相応の痛手を負えば学習はするのである。
 が、彼女はそんな俺の対応を見て、その笑みを苦笑に変える。

「いや、覚えていないならいいさ。ふと思い出したので口に出してみただけだ」
「……スミマセン」

 バツが悪い気がして顔を背ける。誤魔化すように不味い麺を啜る。当然、となりの勘の良い佳人はクスクスと笑う。まるで子ども扱いだった。
 なにやってんだ俺、と内心で頭を抱えた。
 居心地の悪い状況を脱出する為、俺は多少強引に話を変えることにする。

「で、どうしたんだ。何か用があったんじゃないのか?」
「用というほどでもないが、君が浮かぬ顔をしていたのでね。何か悩みがあれば聞こうと思ったまでだよ」

 顔に出ていたらしい。俺はしばし返答に悩んだ。
 ここで殺人犯をどうやって捕まえるか考えていた、なんて言うわけにもいかないだろう。
 良くて笑い話だ。これ以上変人扱いされても仕方ないし、自分で不審の種を撒く必要はない。
 友人という評価さえおぼつかない彼女相手ならば尚更である。

「いや、特には。ただ夕飯は何にしようとか考えてた」
「ふむ、そうか。それならば良いのだが」

 告げながら涼しい顔で箸を動かす氷室嬢。煮魚定食なんて不人気メニューも、彼女が食していると不思議と美味そうに見えてくる。
 尤も、俺個人は嫌いじゃないんだが、煮魚定食。
 昨今進んでいる和食離れという問題と、このラーメンの不味さは基本的に別次元の問題である。

「しかし、不思議なことを言うな君は」
「なんでさ?」

 全然不思議そうな顔をせずに、何気ない口調で唐突に氷室が告げた。
 己の心拍が乱れたのが判る。だが、特に不自然なことを言った覚えはなかった。
 普通の大学生なら主夫臭い発言だと思われるが、俺の場合それは今更だからである。
 が、氷室はそこで笑みを消した。
 その目には、人の奥底を探るような暗い光。
 僅かに厭な感覚を覚える。

「人は普通、飯のことを考えるとき不味いものは選ばない。そうだろう?」
「む」

 自分の前にあるラーメンを見る。
 確かに、こんな不味い代物相手に夕飯もなにもない。
 細かいところに気付かなかった、衛宮士郎の落ち度だった。

(というか、本気で不味いしこれ)

 いくら憂鬱だからといって、わざわざ選ぶことはなかったはずなのだが。
 人間、自嘲状態に陥ると碌なことをしないらしい。

「ふふ、衛宮、君は隠し事が上手くないな。それと、誤魔化し方も」
「……ほっとけ。こいつはただの興味本位だ」

 また目を逸らす破目になった。クスクスと隣から笑みが洩れてくる。
 冷淡な優等生の鑑みたいなヤツだと思っていたが、意外なことに、氷室は良く笑うヤツだった。
 尤もそれは明るく朗らかな笑みではない。どちらかというと、雰囲気通りの冷たさを残している。
 その中に少しだけある意地の悪さが、どこか遠坂に似ている気がした。

「まあ、それはそれとして……」

 何を考えていたかなど話せる訳もない。俺は早々に話題を切り替えることした。
 幸い同級の氷室ならば、世間話程度のネタには事欠かないのだから。
  *                 *                 *

 その先はとくに他愛のない話が続いた。
 授業の内容や世間話の類だ。先ほど見せた氷室の眼つきが少し気になったが、それも舌に残るスープの不味さには敵わない。

「……と、長話が過ぎたな。そろそろ昼も終わりだ」
「そんな時間か」
 
 確かに、時計を見ればそろそろ次の講義が始まる時間だった。
 周りの学生たちも既に移動を開始している。 

「私は次の講義があるが、君はこれからどうするのかね」
「次は休講だから、買い物でも行こうと思ってるけど」
「……ああ、また伊野教授か」

 今時の、そして公立の大学としては珍しいが、伊野教授は良く講義を休む。
 研究に没頭していると発表が近いとかそういうのでもなく、単純に己の都合らしいから始末が悪い。
 悪い意味でオールドタイプな人間だ。
 アレで此処では重鎮で通ってるのだから、学生の身としては溜息をつく他はない。

「そういうことだ――と。じゃ、後でな」
「ああ、また後で」

 立ち上がり、一つ手を振って踵を返した。
 彼女とは採っている科目が重なっていることが多い。確か、四時限目も同じ講義だったはずだ。
 だから俺はそう軽く告げて、すぐにこの後の行動について考え始めた。

「――ああ、衛宮、最後に一つだけ」
「ん? なんだ?」

 唐突に、背後から氷室が声を掛けてきた。
 まるでコロンボみたいな言い方だな、なんて思いながら振り返ると、

「ほら、最近この辺りは物騒だろう?――通り魔には注意したまえ」
「……っ」

 ああ、分かった。辛うじてそんな返答を搾り出すのが精一杯だった。
 彼女の眼には、先ほど見た鋭い光が宿っていた。



[21628] 鉄音同盟(仮) ―自殺志願者の切実な事情
Name: せる◆accf7c71 ID:4cf09cd3
Date: 2010/09/05 01:58

「……ふむ」

 早足で食堂を出て行く衛宮士郎を見ながら、私は一つ頷いた。
 先ほどまでの状況を頭の中で再構築してみる。結果、灰色。
 何とも煮えきれないが、こうなるだろうなと何となく予想していた。

 事の発端は噂だ。最近衛宮が夜に出歩いているのを良く見る。そういう話を複数人から聞いた。
 無論、大学生ともなればそんなものは当たり前だ。普通に考えれば、しない方がおかしい。
 けれどそれだって場合による。例えばあまり飲み会に参加したりしない人物が、度々繁華街でウロウロしている、なんてことになれば話は別だ。

 ……そう、吸血鬼、なんて物騒な通り名の殺人犯がいるこの町では、特に。

 本当に吸血鬼が存在するなど在り得ない。なのにそんな命名がされた理由は諸説ある。
 犠牲者は夜にしか出ないという、ある意味当然の事実もあれば、死体が動いているとか被害者の血が抜かれているとか、無駄な装飾としか思えない眉唾な話まで。
 虚実入り乱れてその真相は闇の中だ。問題なのは、それだけ騒がれ警戒されている中で尚、事件が止まらない事である。

 憶測は憶測と共に恐怖を呼ぶ。恐怖はさらなる憶測の温床となる。
 端的に言って、今冬木の夜はフィクションの中と変わりがない。あからさまに危険な誰かが一人いる、故に何があっても、そんな場所にいる方が悪いことになっている。ならば君子危うきに近寄らず、だ。
 賢明な人間ならば、そういう不確定な要素には近づこうと思わない。解らないからこそ、藪の中には蛇がいると知っているから。
 
 なのに彼は藪を突く。鬼か蛇しかいない夜を歩く彼は、私の目にはとても怪しく映ってしまう。
 それに加え、単純な引っ掛け――否、ただの注意に、こちらが驚くほど動揺していた。
 こんな反応まで揃ってくれば、なるほど、彼が犯人かもと思えてしまうのは無理もない。

 だが――。

(例え誰が怪しかろうと、こんなことは一大学生の仕事ではない)

 考えることでもない。本当に怪しいと思ったのなら警察に行けば事足りる。
 事実のみを伝えれ、後は善良な一市民として煉瓦の家に篭るべきだ。

「それに」

 私は衛宮士郎という人間の人となりを、少しだけだが知っていた。まだ高校時代、ほんの少しだけ袖触れ合った縁で。
 風評通り、アレはいわゆる善人だ。それも利益云々を度外視するお人よしに分類される。あえて狭くカテゴライズするなら重度の、という表現が付く。
 その人格から考えれば連続猟奇殺人など似合いはしない。絵にならない。まだ要らない正義感を発揮して犯人を捕まえようとしている、と考える方が筋が通る。馬鹿馬鹿しいが、まだ。

 無論そんなものは仮に口にしたところで冗談にしかならないし、本気ならばそれこそ笑い話だ。
 探偵ごっこが通るのはフィクションの中以外にありえない。本職である警官たちからすれば、そういう自殺行為は職務遂行の邪魔でしかない。そんなことは如何なお人よしでさえ判るはず。
 結局、どの可能性もまともに考えればありえない。
 残るのは奇妙な事実だけで、それを意味づけする材料など私の手には存在しない。

「やはり、わからんな」

 そういう結論に落ち着く。判り切っていた事だ。
 彼が犯人とは考え辛い。元々本気で疑えるわけもない。状況を振り出しに戻すしかない。

 それでも、私には考え続けねばならない理由があった。
 唇を僅かに噛む。忸怩たる思いが胸中に広がる。

「……由紀香」
 
 親友が行方不明になっていた。
 例えこれが自殺行為だと解っていても、私は彼女を助けたいと願っている。

  *                 *                 *


 ――故に、氷室鐘は行動をせねばならない。

 衛宮士郎の背後をつけながら、私は己を今一度叱咤する。
 善人だからなんだ? 知り合いだからなんだ?
 それは彼の怪しさに目を瞑る理由になりえるのか?
 私は衛宮士郎ではない。だから彼が何を考えていたかなど知りはしない。
 善人にしか見えない彼の行動に、悪意がなかったとは限らない。
 普段の私なら己の私見を信じもしよう。

(……だが今は一刻の猶予もないのだ)

 当たり前だ、殺人鬼がいる街で親友が行方不明なのだから。
 他の何を優先してでも、氷室鐘は彼女の無事を確認せねばならない。
 小さな異常でも見逃せないし、時には藁にだって縋る。善良な友人を疑いもする。馬鹿馬鹿しかろうと探偵の真似事もする。
 非情の誹りは後に受けよう。人の善い衛宮に恨まれようとも、他に候補がいない以上、今だけは彼を犯人と仮定する。

 だから、せめて衛宮。

「後で、私に謝らせてくれよ」

 そう小さく呟きながら、私は彼の後をつけるのだった。



[21628] 鉄音同盟(仮) ―かくして彼女は遭遇せり
Name: せる◆accf7c71 ID:4cf09cd3
Date: 2010/09/08 14:15
 ――その結果がこれだ。
 目前には酷く生気の欠いた男性が立っている。
 肌蹴た服の下に見える首元には、まるで渾身の力で噛み付いたような歯型。
 中でも都合四箇所大きく開いた穴はなるほど、吸血鬼に噛まれた被害者そのものと言えた。
 暗いので断言はできないが、私の目が腐っていなければ頚動脈が完全に断ち切られているように見える。

 結論、どう見ても普通の人間ではない。

 証拠に、私の隣には頭から血を流して倒れている男性の死体。食事中だったのか知らないが、首には噛み千切られた後が生々しく残っていた。
 頭の方は完全に陥没していて負傷というよりは破壊跡、検死の必要すらないだろう。
 そしてどうやら、次にそのようになるのは私らしい。

 この怪物のどこがお人よしの衛宮士郎だ。私は回想の果てに自嘲する。
 死ぬ寸前で頭がおかしくなったのか、震える身体とは裏腹に思考は実に悠長である。
 お陰で、さてどうしようか、なんて思う余裕さえあるのだから困ったものだ。

 だがまあ、悪あがきも、悪くないだろう。たとえ現状がどうだろうと、動かないよりは動くほうがいい。それが頭の中だけであってもだ。
 だからせめて、現状を変えうる可能性を模索しよう。諦めるのはその後でいい。
 逃避の傍ら、簡単な分析と情報把握はもう済んでいる。
 言葉に直せば短い。化け物、死体、私、これで全部だ。不幸中の幸いか、由紀香でも衛宮でもない見知らぬ誰か。
 どう見ても死んでいるので、これ以上の文句は私以外からは出まい。
 その私も今は我慢するだろう。我慢するので、早く何か方策を考えろ。

(……そう、例えばこんな言葉もあったか)

『あなたが現状を変えられる唯一の人間だ』

 後半何か違う趣旨の言葉が続いた気がするが、それはこの際関係がない。
 必要なのは、今此処で私を助けられるのは私だけという、頭を抱えたくなる事実だけだ。
 現実が私に示すたった二通りの選択肢。無論選ぶ方など決まっている。
 ……尤も、どちらを選ぼうと最終的な結果は変わらないと思うのだが。

(しかし、案ずるより産むが易しとも言う)

 予想はいらないし、結果も後で良い。決して易くなくとも、やる前に決めて掛かるのは愚行と言える。
 一般論からいえば、オムレツを作るには、まず卵を割るべきだ。
 例え腐っているのが判っているとしても、観測してみなければ始まらない。

 では問うぞ、私。そう貴様にだ、氷室女史。
 散々考える時間は与えただろう。さっさとこの問題に答えたまえよ。

 ――さて、私が今、ここで採るべき選択は?

 時間の流れが現実に戻る。
 目の前には相変わらず腕を振り上げたままの怪物。
 けれど停滞はここまでだ。走馬灯だか何だか知らないが、これ以上の引き延ばしては認められない。
 かくして、凶腕は振り下ろされる。それが降り切った時、この頭は潰れた石榴のようになるだろう。

 私は自分の色素の薄い髪が気に入っている。普段はパっとしない灰にしか見えないが、陽光が照らせば銀にもなる。そんな昼行灯な具合が愛らしい。
 ゆえにこの髪が血と脳漿と地面の埃で泥塗れになるなんて、そんなことは許されない。
 否、許さない。
 だから、断じて震えている場合ではないのだ。
 この命の瀬戸際に於いて、頼るものなど己の心以外に何がある。
 生きるのだ。目前の死など見るな、考えるな。それはおぞましく、目を惹いて離さないが、全くもって不要な代物だ。
 ……足元には影がある、ただそれだけを知っていれば良い。大切なのは、その影を作り出す未来という頭上の光に他ならない。
 そう信じて、私は振り下ろされる死神の鎌を、その先を睨んだ。

(ドアを叩け――)

 覚悟がほしい。さすれば、と声にならないほど小さく続ける。
 同時に死の腕が振り下ろされて、

「――開かれん!」

 その凶手が我が身を引き裂く前に、全力で体当たりを敢行した――!

 耳元をおぞましい速度で何かか通過する。けれど、それに怯えていたら意味がない。歯をかみ締め、目前の化け物に肩口から突き飛ばす。
 三年間続けた高飛びのお陰か、身体能力は未だ錆びついてはいなかった。
 自分でも予想以上の衝撃に息を呑む。
 だが、ぶつかった瞬間、化け物が僅かに怯んだのがわかった。体勢が崩れ、腕が逸れる。

 成功、という二文字が脳裏に流れた。私は石榴にならず未だ呼吸を続けている。
 良く動いた。これだけでも高校三年を慣れない運動に費やした意義はあった。私は今心の底から己の身体を褒め、あの奇矯な友人に感謝する。
 だが感動している暇はない。咄嗟に身体を翻し、次の一撃が届かない位置まで後退した。
 これで、何とか土壇場はやり過ごせ――、

「……っぐ!」


 けれど同時、肩に酷い鈍痛が走った。
 思わずその場に蹲りそうになるのを、歯噛みして耐える。
 近づいたことで即死は免れたが、避け切ったわけではなかったらしい。どうやら腕の根元辺りが肩に触れていたのだろう。
 力学など持ち出さなくても解る。普通そんなところが当たったところで威力など伝わらない。けれど元の力が大きければ、いくら効率が低かろうとそれなりの威力になるのは道理だ。

 ……人間の頭蓋骨を素手で叩き割るほどの暴力、改めて相手の化け物加減を実感した。

「ぅぁ、ぁ」

 人語に変換できない呻き声を上げて、化け物が姿勢を整える。
 その隙に逃げ出そうにも、この路地裏の先は行き止まりで、唯一の出口は化け物が守っているのだ。

(どうするべきだ? どうすればいい?)

 まだ先には逃げられる。けれど、ここを退いたら逃げ道そのものから遠ざかる。
 数十秒逃げおおせたところで、その先はジリ貧以前の問題だ。背が壁に触れた時、私の死は確実なものとなるだろう。

(……だが、それでも)

 ジリ、と音を立てて踏み込む化け物。私は仕方なく同じ歩数後退する。
 動き自体は鈍重だ。闇雲に突っ込んでくるのなら、例えこの狭い路地でも何とかかわせるかもしれない。
 けれど化け物はそうしなかった。知能があるのか、はたまた元の知能(・・・・)が残っているのか。
 鈍重な動作で両手を広げ、逃げ道を塞ぎながらゆっくりと距離をつめてくる。一度捕まればあの怪力だ、決して逃げ出せはしないだろう。

 その様は映画の屍人そのもので――だからこそ、たった人間一人分の壁を突破することができない。

「ぁ、ぁぅ、ぁ」

 そして一歩。また距離を詰められる。これをあと数十度繰り返したとき、逃げ場と共に命運が尽きるのだ。
 唇を僅かに噛む。焦りに飽和しそうな思考を、なんとかギリギリのところで繋ぎとめる。

 ここが考えどころだ。生き残る為に、どうしても一度この怪物を突破する必要がある。
 だがこの怪物は慎重だった。相手の勢いを躱す手段が使えない以上、私に実現可能な方法など限られている。
 蒔寺ならその身のこなしで強引にすり抜けることも可能だろうが、こと平面の動作に於いては、私は彼女の足元にも及ばない。

 ――平面?

(そうか、それなら)

 一つの事実に気付いた。怪力の化け物は、その実それほど大きくはない。逸る心を抑え、距離を保ちながら背後を一度振り返る。
 視線の先には隙間無く連なるビルの外壁。
 この空間は袋小路で人が通れそうな隙間はなく、およそ常人には登れそうな場所も無い。
 周囲に足場になるものも存在しない以上、あちらから逃れる事は不可能だ。

 だが、

(距離はおよそ十メートル、地面は硬いコンクリートだが、幸い今日の私は運動靴だ)

 同時に、邪魔になるようなゴミも、踏んで怪我をしそうな硝子片なども存在しない。

「これならば」

 いける、と直感した、その時、

「っ、ぁ、ぅぁ……!」

 一瞬の隙を見抜いたのか。それとも単に焦れただけか、とにかく私の気が逸れた瞬間怪物が大きく踏み込んできた。
 慌てて上体を後ろに退く、鼻先をゾっとする速度で何かが通過した。
 中空を薙いだのは怪物の左手。私の首を落し損ねたそれは狭い路地の壁を直撃し、コンクリートの壁に亀裂を走らせた。
 次瞬、その腕が厭な音ともに砕け血が噴出する。皮膚を突き破った骨はこの世のどんな白よりおぞましい。
 もし反応が遅れていたら首から先がなくなるか、良くて顔の皮が剥がれていただろう。

 ――戦慄が、一斉に背筋を駆け抜けた。

「う、あ、あぁあああああああああああ!」

 私は恐怖に突き動かされるように逃げた。
 怪物に背を向けて全速力で走る。みるみるうちに逃げ道から遠ざかっていることは、まだ理解できている。
 一刻の猶予もないと感じた。これ以上アレと対峙を続けていたら精神の方が保たない。
 頭の冷たさを保っていられるのはあと数十秒。その先を越えてしまえば、もう身体からは生きようとする気力さえ失われるだろう――。

 そしてドン詰まりに辿り着く。振り返れば十数メートル先から徐々に距離をつめる怪物がいた。その表情は、自分から網にかかった獲物を見るように喜色で歪んでいる。

(まだこの距離があるうちに。まだ私の脚が走れるうちに)

 知らず、唇をかみ締めた。痛みが最後の後押しをしてくれる。
 私は自暴自棄紙一重の覚悟を決め、

「……行くぞ、私」

 怪物の元へ一直線に駆け出した。



[21628] 鉄音同盟(仮) ―鬼ごっこ終了
Name: せる◆accf7c71 ID:4cf09cd3
Date: 2010/09/13 15:25
 衛宮士郎は正義の味方である。
 冗談ではない。だが、冗談にしか聞こえないのは事実だ。自覚もある。
 だからそれを人に告げることはあまりない。
 大抵の場合、衛宮士郎という名を変人の枠に分類されるのがオチだからだ。
「それがまさか裏目に出る日が来るとは」
 俺は先ほどまでの出来事を振り返っていた。



  *                 *                 *


 つけられている。そう判断するのには時間は掛からなかった。
 今日大学で何度も感じた視線。昼に一度外を出たときもついてきた視線。
 同じものが、もはや深夜に差し掛かろうというこんな時間になってまでついてくる。
 大学にいる内は何度か消えたものの、一度出るとなればそれは確実に追ってきた。
 あまりに怪しいので数時間に渡って連れ回したのだから、それでも諦めない根性には鬼気迫るものがあるだろう。

 それは、お世辞にも熟練されたものとは言えなかったが、確実に慎重ではあった。
 魔力の流れなどは感じられない。頭と勘と身のこなしは多少良い素人が、精一杯気配を消してついてくる。
 表現するならそういう評価が妥当である。

 そして、今この街で他人を付け回すような存在に、俺は心当たりがあった。
 気づかないふりを続けているのは、俺の方こそが相手に用があるからだ。その為にわざわざこんな時間まで待った。
 噂では、犯人は吸血鬼という。本当にそんな存在であるならば、俺程度では気づくことはできなかったかもしれない。
 だがこの殺人犯は人間らしかった。それが同じ大学生であることに衝撃は受けたが、ここで俺が何とかすれば惨劇は終わるのだ。
 ふと、遠坂凛の忠告が脳裏に過ぎる。

 ――人間ならば警察を。
 それは危険なことはするなという意味もあるだろうが、さらに深い意味がある。

 魔術は秘匿されなければならない。無闇に人の前で使ってはならない。
 それは、相手が害意あるものでも変わらない。否、害意があればあるほどタブーとなる。
 俺があからさまな魔術で犯人を取り押えれば、無傷で捕獲できたとしても、犯人は警察へその事実を語るだろう。

 それは本気にされはしないだろうが、一般人へ情報が流出することへの言い訳にはならない。
 いずれその情報は協会へと伝わり、俺の存在は露呈するからだ。
 土地の管理者であった遠坂でさえ知らなかった魔術師、衛宮士郎。

 それが一般人へ魔術を行使した愚か者ともなれば、彼らはその存在を無視すまい。
 そして、聖杯戦争の記録を詳細に分析されれば、遠坂でさえ誤魔化せはしないだろう。彼女にどれほどの迷惑を掛けるか、想像もできない。
 投影魔術。それも、唯一にして無二であろう宝具の投影。万能の魔術師をして解剖してやるとさえ言わしめた異能だ、連中が実行しない保障はない。

 元々、魔術師は魔術師以外に関わることは自殺行為だ。
 よほど巧くやれる自信があるなら別だが、俺にその能力があるかは疑問である。
 土地の管理者であり、正当な魔術師の遠坂凛がいれば話も違ってだろう。が、遠い倫敦からでは隠蔽できるとも思えない。

(それでも、止めるわけにはいかない)

 その論理は、魔術師が己の身を守る為のものでしかない。
 衛宮士郎は魔術使いだ。術理をただ道具として行使する者。手段が目的の上位に来ることはありえない。
 原則は、見られたならば殺せ。だがそんなものは当然許容できない。
 だから俺にできるのは、事が発展しないよう、精一杯の用心さを働かせることだけなのだ。

 故にできることも、やれる状況も限られる。
 それらを満たすには、第一に隠密に行動することだ。人がいない方へ誘いこむために、徐々に裏道の方へ逸れていく。

 夜半も過ぎた繁華街。最初はまだ周囲に満ちていた喧騒も、もはや意識の内より遥か遠く。
 今この場で大声を出しても届くかどう。、仮に届いたとしても、どこから来たものかなど判るまい。
 況や、助けなどありえない。それは、見られることも邪魔が入ることもないことを意味する。
 安全確保という見地からすれば、俺の行動は愚か者のテンプレートだ。自殺志願と言っても間違いがない。
 生粋の通り魔ならば、殺人が目的ならば、この好機を逃しはすまい。
 だがそれは、俺にとっても同じことなのだ。 

「……この辺りでいいか」

 急にペースを速めて路地を曲がる。背後で尾行者が慌てる気配が手に取るように解った。
 やはり予測通り、魔術師や怪物の類とは思えない。
 そのまま進みもう一つ路地を曲がって、物陰にしゃがみ込んだ。
 見失ったのだろう、慌しい気配は俺が曲がった方には来ずに、そのまま直進していく。
 既に時間は遅い。殺人鬼が蔓延る街で、こんな路地裏に人はこない。現に耳を済ませてみても、人がいる方向からは向かってくる気配など感じない。
 今なら、やれる。

(このまま背後から虚をついて、一撃で捕らえる)

 魔術の秘匿以前に、犯人が人間なら、出来れば殺したくはない。
 投影はせず、折りよく足元に転がっていたゴミの中から、長めの棒切れを手に取った。

「――同調(トレース)終了(オフ)

 二年前までは殆ど成功しなかった強化の魔術も、今では軽い集中だけこなせるようになった。
 遠坂のお陰で、精度自体も聖杯戦争の時より更に向上している。
 本来木製のそれは、精錬された鋼の塊以上の強度を誇る。
 筋肉自慢の大男が鉄槌で掛かってきたところで、この棒切れ一つで受けきれるだろう。
 人間一人相手ならば、これ以上は必要がない。長物の投影など以っての外である。

 よしんば何らかの武術の達人だったとしても、得物をもって奇襲して抑え切れないということはあるまい。
 無論、この行動自体卑怯だと思わないでもなかった。だが、俺程度の腕ならば、正面から戦うより背後から決める方が相手の安全を確保できる。
 己の信条を真に貫くならば、この程度の泥は飲み込むべきだ。
 そう胸中で何度も確認し、絶対に逃がさぬという覚悟を決めた。最悪の場合、手足の二、三本は諦めてもらう。
 一般人とて殺人者は殺人者だ。新たな犠牲者を出さぬ為ならば、命の保証すら俺には確約できそうにない。

「よし、いくか」

 一つ呟いて、俺は物陰から走り出した。
 未だ相手の気配は捉えている。戸惑っているのか、先に進むことなくうろついている。
 まるで酷く怯えながら手探りで探しているようだ。機嫌が悪いのか、その癖妙にやかましい物音がする。叫び声のようなものも聞こえる。
 だから、接近は滞りなくできた。完璧ではないが、気配の消し方は心得ている。
 一つ後ろの角にいるのに、相手はまるでこちらに気づかない。今襲えば、確実に先手を取れるという確信できた。
 だから俺は、あえてすぐに行動しなかった。先手はとれるが、大きな怪我はさせないに越したことはない。相手の体形程度は知っておきたかった。ゆっくり、角から顔だけだして確認する。

 ――だが、そこではなんと、

(……なんでさ?)

 同じ大学に通う同級生が、得体の知れない人間に飛び蹴りをかましていた。



[21628] 鉄音同盟(仮) ―翼、生えず。
Name: せる◆accf7c71 ID:4cf09cd3
Date: 2010/10/06 12:16
 会心の手応え――否、足応えを感じ、私は内心、喝采を上げた。
 元陸上部にして高飛びのエース、氷室鐘はそこら辺にいる成人男性より、遥かに動ける一般人である。
 それでもこんな急場で、人間一人を越えるジャンプができるとは思えない。第一背面飛びなんてやろうものなら、マットのない地面の上で芋虫になること請け合いだ。

 だから私が敢行したのは高飛びではなかった。
 学生時代、戯れで大会にて披露した正面飛び。冗談ながらも己に合うと感じたそれを応用し――目の前の怪物を渾身の力で踏み付けたのである。

 正面飛びは、元々設備が不十分だった昔に於いて、安全に着地する為の技だった。
 怪物を障害物に見立て思い切り踏み付け、蹴り飛ばしても、私の身体能力と経験ならばそのまま飛び越して着地できる。
 その発想は天啓であり、この場に於いてたった一つの解答だった。
 状況を考えれば、今この瞬間、この私の為に考えられた物とすら言ってしまって良いだろう。

 かくして私は異常なる死を飛び越えて着地し、そのまま走り去ろうと――。

「………………え?」

 そのまま走り去ろうとした私の足首を、何か強烈な力が締め上げた。

 激痛と、働いていた強い慣性に逆らえず、私は無様に倒れ伏す。
 咄嗟に顔を庇おうとして、硬いコンクリートへと肩口から強かに打ち付けた。
 僅かに肌が裂け、血が流れ出したのを感じたが、今はそれどころではない。

 後ろを見れば、倒れたままの怪物が私の足を掴み、喜色に歪んだ顔で炯々と目を光らせている。
 捕まえたと、捕食者が舌なめずりをしているように。

 足を捕らえて離さない締め付けが、秒刻みで強くなる。骨が上げる悲鳴も比例してけたたましく。
 それは後数秒で、破砕音という断末魔に変わるだろう。

(……結局、私には翼などなかったか)

 万事休す。今度こそそんな諦めが、絶望となって私の心を押し潰した。
 だが、その時、

「――ハッ」

 鋭い掛け声が耳に届いた。次瞬、強烈な打撃音と共に、私を死へと引きずり込もうとしていた激痛が消える。
 半ば呆然としながらその場で顔を上げると、そこには木の棒を竹刀のようなに構えた――。

(……衛宮、士郎?)

「大丈夫か、氷室」

 あまりのご都合主義的な登場を信じ切れず、半ば疑問で構成されたその視線に、彼は確かに反応して見せた。

「悪いが、ちょっと待っててくれ」

 思考が追い付かない私に、彼はそう続けて路地に踏み込む。
 何も考えないまま視線で辿ると、先ほどの化け物がゆっくりと起き上がろうとしているところだった。 
 そこでやっと、一連の現象を理解する。
 足を掴まれた私を庇い、衛宮はその手に持った棒切れで相手を殴り飛ばしたのだ。
 聴こえた音からすれば、人間など撲殺していてもおかしくないほどの一撃。殺人、或いは未遂。そんな場違いな単語が脳裏を過ぎった。

 当然そんなものは一瞬で霧散する。相手が化け物であることを思い出したからだ。

「衛宮! 待て、ソレは」
「大丈夫だ、解ってる」

 危険だ、という警告を遮って、彼は冷静な声音で告げた。
 同時、半ば予想していた通り、怪物は何事もないように完全に立ち上がった。
 見た目はどこにでもいそうな成人男性だ。普通ならば殴った方が驚くだろう不自然な頑丈さだが、あくまで人間でしかない。
 それに対し、初見のはずの衛宮は何の迷いも感じさせない滑らかさで、追い討ちを駆けに踏み込んだ。
 覚えるのは――酷い、違和感。

(……待て)

 目前で展開する様子の不自然さに、私は先ほどまでとは違う焦燥と疑問に囚われる。

(何か、何かおかしくないか?)

 あくまで比較の問題だが、日本は平和な国だ。
 法と秩序に守られている故に、個人は武力を必要としない。必要とする場面も想定しないで生きていける。
 少なくともそういうことになっている。そういう約束事の上に成り立っている。

 だから今の私のような状況に陥るのは、徹底的に運に見放されているか頭が悪いかのどちらかだ。
 ……いざという時の覚悟? 持っている方がおかしい。建前はどうあれ、実質それが正しい生き方のはずだ。

 故に例え有事だろうと、平然と人の形をしたものを殴り殺せる日本人など私は見た事がない。
 仮にそれで死ななかったとして、更に追撃できる非情さを、彼が持っているなどと考えたこともない。
 なのに、起き上がりかける怪物の隙を見逃さず、衛宮は更に打撃する。

 ――なればこそ、衛宮士郎の振る舞いは、怪物に劣らぬほど異常なものだと言えるだろう。

 ドゴン。文字にするならばそんな表現が似合う音が轟く。再度、怪物を衛宮が殴り飛ばした音だ。
 得物を下から振り上げ、顎を盛大に吹き飛ばしていた。人間の固い頭部に幾度も叩き付けられているのに、何故木製のそれが砕けないのか。それすらもよほどありえないと思えた。

 友人が人間の首を砕く様が、私の目に確かに焼きつく。
 殺意以外を読み取りようのない光景だ。厳しい表情で、それでも躊躇なく行動する衛宮に、私は恩知らずにも恐怖を覚える。
 だが、それも一瞬後に聴こえた彼の呟きに戦慄し、掻き消えた。

「やっぱりこれじゃ駄目か」
「……っ、馬鹿な」

 張り詰めた声で吐き捨てる衛宮。その表情の厳しさは、敵意ではなく僅かな恐れと、多量の悔しさを湛えていた。
 だが私にはその表情の意味を考えることはできない。それどころではないからだ。
 何故なら、あの一撃をもってしても尚――。

「いき、ている?」

 返答を期待して問うた訳ではない。不死身らしいことくらい、遭遇した時から知っていたから。
 ただ、それでも目前の光景が信じられなかっただけ。
 怪物は……折れた首を真横にかしげながら、空ろな表情で立ち上がっていた。


  *                 *                 *


 状況を理解して飛び出したわけではなかった。
 何故氷室がここにいるのだとか、俺をつけていたのは彼女だったのかとか。
 そんなことを考えている時間はなかったからだ。

 氷室が倒れている。彼女が蹴り飛ばした相手が、倒れながらも彼女の足を掴んでいる。
 それだけ見れば、一体どちらが危険なのかを判断することはできないかもしれない。或いは、わりと壮絶な痴話喧嘩と見えないこともなかっただろう。
 だが俺は直感した。この状況はもっと抜き差しならない何かであると。

 何故なら、俺は氷室一人分の気配しか感じていなかったからだ。
 あれだけ騒がしい音がしていたのに、俺にはそこに二人いるという発想が浮かばなかった。
 それはつまり、片方が異常な存在であるという事実を指し示す。
 氷室の表情は焦燥していた。それを確信の材料とし、間髪いれずに背後の男を殴り飛ばした。
 人間ならば死んでいてもおかしくはない。だが、それでも手加減はできなかった。
 言い知れない危険を、目前の男から感じる。
 
 ――これは、生きている人間ではない。

 経験がそう告げている。それは聖杯戦争で見た、あの人骨の兵どもと同じ。
 目前の男……否、ソレは、キャスターが使った手駒に良く似ていた。

 生者の気配がないのは当然のことだろう。氷室が立てる音に紛れてしまえば、俺に補足できるわけもない。
 つまり死者。遠坂凛の講義を思い出す。吸血鬼に噛まれた、哀れな人間の末路。

(出来損ないの、吸血鬼、か)

 ならば衛宮士郎は容赦しない。哀れな怪物となってしまった誰かに悔しさを感じても、それで錆びる覚悟などない。
 故にさらなる一撃を。襲い掛かってくる怪物の顎をかち上げる。骨を砕く鈍い感触も手を緩めるには至らない。
 仰向けに吹き飛ぶ死者。背後の氷室から感じる怯えは、恐らく俺に向いているものもあるだろう。

 だが、それでも尚起き上がりかける怪物を見て、また違う怯えへと変わった。
 呆然と問いかけてくる氷室に、俺は何も答えることはできない。
 一般人に目前のソレが何であるかなど、説明することは不可能だからだ。

 ――それに。

(俺自身、実際に見るのは初めてだ)

 動く屍。話に聞いた通りだ。生存に必要な人体の機能など既に無意味となっている彼らは、例え全身の骨を砕こうが滅びない。
 半ば判っていたとはいえ、やはり打撃では殺せない。

「仕方、ないか」

 一つ小さく溜息をつく。手に持っていた棒切れを足元に放り投げる。その様は、機から見れば生存の放棄に見えただろう。

「……衛宮、何故」
「悪い氷室、今は何も言えない。けど、出来れば目を閉じていてくれ」

 問いかける彼女の声を遮り、意識を己の遥か裡に埋没させる。
 瞑想は一瞬。設計図は既にある。手順も厭になるほど覚えている。
 つまりそれは。

(創造理念を鑑定し、基本骨子を想定し、構成材質を複製し、製作技術を模倣し、成長経験に共感し、蓄積年月を再現する)

 速やかに工程を終了した。その間、一秒にも満たない。
 俺だけが可能とし、俺が持ちえる唯一の魔術。何度も使うなと念押された、絶対に人に見られるなと厳命されたこと思い出す。

 今最も正しい選択肢は、一般人である氷室を連れ出し、一度遠くへ逃げることだ。
 しかし、コレを放置すれば、早晩さらに死人が出る。目を離した時、もう一度見つけられる保障はないのだ。
 見られてはいけない魔術と、魔術を使わざるを得ない怪物。

 ……選べるのがどちらかしかないというのなら、そんなのは既に決まっている。

 危機、苦難。そういう難事に直面した時、問題を一足で飛び越える飛躍を見せる事。それが英雄の条件というなら、俺はそんな器ではないのであろう。
 ただの凡夫だ、俺にはできる事しかできないし、やれることをやるだけ。
 看過などできない以上、結局俺には自分を無視する以外に選択肢がない。

 けれどきっと、セイバーなら頷いてくれるだろう。
 最初は難しい顔をしていても、シロウなら仕方ない言ってくれる。何よりも換え難い誓いを知っているから。

 その選択が師であり友でもある、遠坂凛への裏切りとなることは解っていた。
 何度も胸中の少女に謝る。
 過去の、今も、恐らく未来でさえ彼女の言う通りにはできないことを、謝る。

 だからせめて、可能なら見てくれるなと背後の少女に願いながら――。
 

(遠坂、悪い。俺はこういうヤツだから)


 ――こいつは、ここで仕留める。

「――投影、開始」
「――――――!」

 空の両手に現れた二振りの幻想を振り上げた瞬間、背後で押し殺した悲鳴が上がる。
 見られていたか、と乾いた声で胸中で呟いた。
 当然だ。死の瀬戸際で目を瞑るなんて、生存を諦めていない限り不可能だ。
 彼女はきっと目を見開き、俺の挙動の一つすら取りこぼさず見ていたことだろう。

 衛宮士郎は魔術使いだ、保身の為に目的を犠牲にする者ではない。
 だから氷室鐘が見る前で、その両手の力を持って、向かってきた死者の両腕に刃を走らせ、

「眠れ!」

 無防備となったその首に向かって、躊躇無く弓兵の剣を振り抜いた。




[21628] 鉄音同盟(仮) ―解らない人たち
Name: せる◆accf7c71 ID:4cf09cd3
Date: 2010/10/06 13:03

「氷室、大丈夫か?」


 言葉と共に私に差し出された手に何も答えることなく、ただ呆然と見つめていた。
 今のは一体何だったのか。その疑問に答える為の、現実的な理由を大急ぎで探している。

 試行しては失敗する(トライ&エラー)

 錯誤に囚われた思考は、ビジー状態のコンピュータと何ら変わりがない。
 それでも私は、常識という己の地盤が幻想に過ぎないという事実に、未だ抵抗するつもりでいたようだ。
 あれだけの事があって尚、目前で起きた異常に折り合いをつける為に必死に思考を続けている。

 例えば先ほどの怪物は薬物に犯されたただの人間で、トリップ状態だった為に筋力の制限が掛かっていない火事場の馬鹿力状態だったとか。
 或いは衛宮が持っていたのは特殊な加工で木に見せかけた鉄製のイミテーションで、コンクリートに叩きつけても罅も入らない頑丈なものだとか。
 しかし、

(駄目だ、それでは説明がつかない)
 
 上記のどちらが正しくても意味はない。本当におかしい部分は別にある。
 例えばソレは誰がどう見ても首が折れていたのに動いていた怪物だったり、

「衛宮、君は手品が得意なのか」
「……それは」

 ……今はもう無手の彼が握っていた、あの無骨な双振りの曲剣だったり、だ。
 手品というものは基本的に視線の誘導に終始する。
 派手に、或いは巧みに。観客の視線を種から逸らしながら堂々と小細工する。性質上、誘導に付き合わなければ大抵は看破できるものだ。
 間違っても、何もない空中から本当に物質を取り出せるような手法は存在しない。

 私は見ていた。死の瀬戸際にいたのだ、例え動けずとも、動けぬからこそ必死だった。目前で起こった事象を、何一つ見落としていないと断言できる。

「動いていたのは人間だった。ただし最初から死体だった。衛宮が持っていたのは棒切れだったし、あんな大きな刃物を二つも隠せるような服装には見えない。鞄さえない。大体、君はあの瞬間無手だった。なのにその両手には博物館にでもありそうな刃物が現れて、しかも霧のように消えてしまった。――これは何だ? 夢か? 幻か? 一体何の冗談だ?」

 事実をただ羅列するだけで眩暈がする。悪寒が心胆から湧いてくる。
 気持ち悪い、座りが悪い。
 夢だと言われたならその通りと頷くしかないはずなのに、これが現実だということを足の痛みが執拗に訴えてくる。

 神は何処だ。もし今この場にいたのなら、襟首掴んで世界のあらましを吐かせるところだ。
 だが当然、そんなものはこの薄汚い路地裏にはいなかった。いるのは、私と、衛宮士郎という友人だったはずの得体の知れない誰かだけ。

「正直気が狂いそうだ。……だが」

 だが、と。そこで私は言葉を切る。
 今ここで現実の在りかを問う意味を、今の己は見出せない。

 そんなことはどうでも良いだろう? もっと大切なことがあるだろう?
 何故私はこんなものに遭遇したのだ? ――理由があるだろう氷室鐘!

「私は君に訊かなければならんことがある」
「……何だ?」

 理不尽な現実に、当り散らしたい衝動が全身を駆け巡る。この状況を心の底から破棄したい。
 だが、そんな心情は全て些事だ。

「こんな現実は認められない。狂っているならそれでいい、夢であるならそれがいい。しかし、しかしだ。……もし、私の気が狂っていなかったなら?」

 告げるだけで背筋が凍る。その可能性が最も怖い。
 夢物語でも、己が存在している場所であることに代わりはない。
 だから、だからこそ私はそれを認めなければならない。何故なら、

「彼女は……由紀香は何処にいるのだ!?」

 このおぞましい非日常に。悪夢が如く、狂気のような現実に。
 親友が、巻き込まれているのではと――そんな懸念が、私の頭を支配していたのだった。



  *                 *                 *


 こうして一日の回想は終了する。
 氷室の話を訊いて解ったのは、三枝由紀香が行方不明である事。
 俺の挙動不審な行動が原因で、氷室を危険に晒した事。加えてどうやら、俺は手品師には向いていない事、だ。

 そのどれもが簡単には見過ごせない。

 言うまでも無く、三枝の安否は俺にとっても最優先にしたい。
 知り合いが死者に成り果て、他者を襲っているなど許容できる現実ではないのだ。当然彼女自身の安全も無視できるものではない。
 しかしそれと同じくらい、今ここにいる氷室の安全も大事である。
 こんな状況でうろつくなど問題外だ、すぐ家に帰すべきなのは解っている。

 ……だが、じゃあ何故お前は大丈夫なんだと問われると、俺がどういう人間かを開示する必要に迫られるだろう。
 既に彼女は危険を承知で、犯人かもしれない相手を追って――考えられない話だ!――こんな所まで来ている。説明無しには到底納得などすまい。
 無論、遠坂はそれを許しはしないだろうし、俺にもそんな気はなかった。
 一度魔術行使を見られているのだから、とはならないのである。これはこれで、後で確実にどうにかする必要があるのだ。

 理想的な展開は、氷室が余計な詮索をせず家に帰り、今日の事は忘れて全て俺に任せてくれることだ。
 だがその為にどう話せば、彼女の理解を得られるというのか。

「あー、氷室、大体の話は分かった。それで訊くんだが、このまま黙って家に帰ってくれる気はあるか?」
「……馬鹿にしているとしか思えない提案だな」

 俺の切実な問いに対し、氷室はため息を吐いてそう呟く。

「不可能だ。まず私にはこの二つの死体について警察に通報する義務がある。加えて、君という極めて不審な人間を許容できるほど悟った人間でもない」
「だよ、なぁ」

 極めて不審。改めて言われるまでもなく己の不自然さは理解している。
 少なくとも、一般常識に則って考えれば、即通報されてもおかしくはない。
 目の前で人間の首を刎ねたのだ。彼女から見れば、経緯はどうあれ俺は殺人犯に相違ない。悲鳴を上げられないだけでも御の字だ。

「助けられた事は理解している。礼は後に何度でもしよう。君を疑うのもとりあえず止そう。――だが、説明だけはしてもらう。衛宮、私には君しか、由紀香に繋がる鍵がないのだから」

 絶対に逃がさん。言葉にはせずとも、強い意志を込めた瞳で氷室は告げる。
 一般人の身で、こんな状況に遭遇しながらここまで他人の事を思える。
 それは氷室鐘という一つの人格が、類を見ないほど強固である証左に他ならない。
 口下手な俺に、この真っ直ぐな意志を誤魔化す事は出来そうにない。どこぞの弓兵や神父ならともかく。
 それに、警察を呼ばれて困るのは俺だけだ。この交渉においてイニシアティブは彼女にある。

 さて、どうしたものかと俺は悩んだ。現状は手詰まりだ。話すことも話さぬこともできない。
 こういう小難しい状況が得意なのは俺ではなく遠坂で――。

(となると、それしかないか)

 ――やはり、当然の結論を下すしかないようだった。

「氷室、すまん。悪いが今は話せない」
「……ッ、衛宮! そんな言い逃れが通ると、「まず第一に」」

 彼女の抗議を強引に遮る。説得など元々不得手だ。確定情報を押し付けて条件を飲ませるしか方法が思いつかない。

「此処にいるのは危険だ。いつさっきの同類が現れるか分からない。第二に、俺には色々表沙汰にできない事情があって、理由はこんな場所じゃ話せない。だから、今日はここまでって事だよ」

 有無言わさずという調子で押し付ける。氷室は一度言葉を失い、けれどさらに視線の力を強めた。

「しかし、こうしている間にも由紀香が危険に遭っていたらどうする! 私にはこれ以上彼女を放っておくことなど出来ない!」
「ああそうだ、本当は俺だって今すぐ見回りを再開したい。必死こいて街中走り回りたい。通行人片っ端から捕まえて問い詰めたい。知り合いが危険かも何て言われて黙ってられるか。けどな、」

 そう、けど、だ。
 けれど、だからこそ、彼女の言葉には頷けない。

「第三に、もう夜も遅い。言っとくけど氷室――正直俺は、少し頭にきてるんだぞ」

 そこまで言ってから、一度だけ言葉を切る。
 多少気障かなと思わないでもなかったが、現状最も優先するのは、やはりこれしかあり得なかった。
 ただやはり少々恥ずかしいので、俺は僅かに視線を逸らしながら続ける。

「女の子が、こんな時間にうろつくべきじゃないだろう」
「……は?」

 さっきまで死にそうだったクセに、氷室はまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、そんな単語を漏らした。
 案の定と言うか何というか。
 こういう無謀な事をする人間は、当然のように、そんな当たり前の常識さえ忘れている。

 本当に、もっと自分を大切にしてほしい。
 氷室がどれだけ三枝を大事に思っているかは知らないが、俺からすれば知り合いなのはどちらも同じだ。
 加えて彼女は同じ学園を卒業し、同じ大学の同じ学部に入った同級生。今日だって昼食を共にしたばかりだ、無視も軽視もできる筈がない。
 氷室が三枝の無事を祈るように、俺も目前の少女の安全を願っている。
 だから憂い無く三枝を探す為に、彼女には無事でいてもらわなければならないのに。

 こんな簡単過ぎる方程式も――彼女は言われるまで解らない。

「場所が悪いし時間切れだ、何を言われても答えられないし認められない。俺は今から、あんたを送らないといけないんだから」

 思わず吐いて出そうになるため息を我慢して、必要なことは全て告げた。
 視線を戻すと、氷室はいつの間にか俯いている。怒っているのか、悔しいのか、その肩が一度だけ震えた。
 だが、それもすぐに治まる。彼女は一つ長い長いため息を吐いて、

「……承知した、確かに君の言う通りだ。彼女の為と騒いでも、私が他人に迷惑を掛けて良い道理はない、な」
 
 告げると同時に顔を上げた彼女の頬は、何故だか少しだけ赤くなっていた。浮かんでいるのは自嘲するような微かな笑み。
 だが、次の瞬間にはそれも元に戻っている。

 そこにいたのは、俺が普段知る通りの冷静な氷室鐘だった。


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