きのう情報通信政策フォーラムのシンポジウムで、個人情報保護法の話が出た。ゲストのScott Cleland氏は、グーグルがヤフーの検索エンジンになったら個人情報を収集して独占すると警告したのだが、日本人は今ひとつピンと来なかった。個人情報保護法に違反する大きな事件が起こったことがないからだ。
それは当たり前だ。個人情報保護法では5000人以上の個人情報をもつ事業者はすべて規制の対象になるが、この場合の個人情報とは個人名を含む。企業のコンピュータに5000人の人名が入っていないことはまず考えられない(たとえば年賀状ソフトには4000万人の住所氏名が入っている)ので、すべての企業は個人情報取扱事業者であり、ほとんどの企業は違法状態なのである。
それは当たり前だ。個人情報保護法では5000人以上の個人情報をもつ事業者はすべて規制の対象になるが、この場合の個人情報とは個人名を含む。企業のコンピュータに5000人の人名が入っていないことはまず考えられない(たとえば年賀状ソフトには4000万人の住所氏名が入っている)ので、すべての企業は個人情報取扱事業者であり、ほとんどの企業は違法状態なのである。
すべての企業は個人情報目的を特定し、それを本人に対して通知・公表し、本人の同意なく利用目的以外に利用してはならない。たとえば企業のサーバにある顧客の名前を営業に利用するときも、すべての顧客の同意が必要である。そんなことは不可能だからほとんどの企業は違法状態で、所管官庁も見て見ぬふりをしている。しかし生命保険のように基準が変わって法律を厳格に適用すると、ほとんどの企業が行政処分の対象になるだろう。
思えば2003年に個人情報保護法が国会に提出されたのは、日本が「コンプライアンス不況」に陥る最初の兆候だった。そのとき私を含む一部の人が反対したが、与野党もマスコミも「プライバシー保護」の大合唱で、民主党は政府案より規制を強化する対案を出した。著作権法で検索エンジンが違法だということが問題になって今年改正されたが、もはや日本で検索エンジンを開発する企業はない。
内閣改造で馬淵澄夫氏が国交相に就任したが、そのとき彼の功績として「耐震偽装」事件があげられていることに唖然とした。これは姉歯元建築士の個人的な犯罪で、彼以外には誰も建築基準法違反で訴追されなかった。ところが馬淵氏などが「建設会社による組織犯罪だ」として国会に証人喚問し、建築基準法に不備があると騒いだため法律が改正され、その実施が間に合わなくて住宅着工が半減するなど、日本経済にも影響が出た。
プライバシーを守ることがいいか悪いかときかれれば、悪いと答える人はいないだろう。建物が地震に強いことがいいか悪いかという質問も同じだ。事件が起こると、社会的コストを考えないで悪い奴をたたき、「政府がしっかりしろ」と求めて規制を強化させるのが、民主党やマスコミの常套手段である。このような過剰な正義のコストが、社会全体への「課税」としてすべての国民の負担になっていることに彼らが気づかないかぎり、「官製不況」は深まる一方だ。
思えば2003年に個人情報保護法が国会に提出されたのは、日本が「コンプライアンス不況」に陥る最初の兆候だった。そのとき私を含む一部の人が反対したが、与野党もマスコミも「プライバシー保護」の大合唱で、民主党は政府案より規制を強化する対案を出した。著作権法で検索エンジンが違法だということが問題になって今年改正されたが、もはや日本で検索エンジンを開発する企業はない。
内閣改造で馬淵澄夫氏が国交相に就任したが、そのとき彼の功績として「耐震偽装」事件があげられていることに唖然とした。これは姉歯元建築士の個人的な犯罪で、彼以外には誰も建築基準法違反で訴追されなかった。ところが馬淵氏などが「建設会社による組織犯罪だ」として国会に証人喚問し、建築基準法に不備があると騒いだため法律が改正され、その実施が間に合わなくて住宅着工が半減するなど、日本経済にも影響が出た。
プライバシーを守ることがいいか悪いかときかれれば、悪いと答える人はいないだろう。建物が地震に強いことがいいか悪いかという質問も同じだ。事件が起こると、社会的コストを考えないで悪い奴をたたき、「政府がしっかりしろ」と求めて規制を強化させるのが、民主党やマスコミの常套手段である。このような過剰な正義のコストが、社会全体への「課税」としてすべての国民の負担になっていることに彼らが気づかないかぎり、「官製不況」は深まる一方だ。
コメント一覧
貸金業法の改正にしてもそうですが、政府がどこまで「親心的」良心で民間に介入するかというのは線引きが難しいですね。
経済だけでなく、一般生活でも、一握りの低脳さんたちのせいで
快適さが損なわれることを多くの人が経験しているように思います。
つまるところ社会的なコストを無駄に上げて、生産性を低下させているのは国民自身のモラルなのかもしれません。
そう考えるとそれを自身でチェックして是正できない日本人は自分で自分の首を締め上げているだけなのでしょう。
国だけでなく大半の日本企業の内部でもこういった過剰コンプライアンスで現場は非常に迷惑してます。
ご指摘のようにやってる本人たちが「善意」なのが救い難いですね。説得しようにも聞く耳持たないですから。ほとんど「信仰」ですよ。まぁ、逆にそれがないと彼らが職を失うという救い難い状況でもあるんですが。
リベラルな人たち(特に法律脳の人たち)は、何かあるとは「政府のせい」にし、個人の犯罪も「社会全体の責任」として、最終的には「政府がしっかりしろ」と言います。
しかし、それは結局、政府次第で社会はいくらでもよくなるという国家の神格化に他ならず、彼らは「国家の監視」をやっているつもりで、結局は、国家の保護なしでは人間が生きられない社会を作っている。
subjectになるつもりが、be subject toになっているという、有名な話ですね。
前々からLiberalと称する連中のどこが自由主義なのかさっぱりわからなかったんですが、tanu77さんのcommentを見てよくわかりましたよ。
社会規範の維持というごく特種な一面において、政府の関与を極端なまでに否定するだけで、自称Liberalの本質は無自覚な社会主義者そのものだ。
>・・・(たとえば年賀状ソフトには4000万人の住所氏名が入っている)ので、
>すべての企業は個人情報取扱事業者であり、ほとんどの企業は違法状態なのである。
個人情報の保護に関する法律施行令(平成一五年十二月十日政令第五百七号)において、
「不特定かつ多数の者に販売することを目的として発行され、
かつ、不特定かつ多数の者により随時に購入することができるもの又はできたもの」
例えば、カーナビや電話帳は除外されます。
4000万人の住所氏名が入った年賀状ソフトが市販のものなら対象から除外ですね。
>過剰な正義のコスト
極端なクリーン信仰に基づく正義ですね。穢れを嫌う日本人ならではという気がします。
ただ、この信仰が日本人を作り、安心・安全という日本ブランドを創造してきたという一面もあるので、完全に捨て去るには惜しいし、その期待もできません。
まずは、クリーン信仰を相対化するための何か別の判断枠組みを自分の脳髄あたりに埋め込むことから始めてみたいと思います。
覚束無い自分の足元を、国に支えてもらうのではなく、自分たちが手作りする社会で支えられるようになるために。
多くの法律や規制が、数千万人に1人ぐらいしかいない犯罪者を出さないために作られていて、そのコストが残りの数千万人に薄く配分させられてますよね。
そういう法律が1つだけなら確かに1人当たりのコストはそんなに多くないのかもしれませんが、個人情報保護法やSOX法、世界会計基準など次々に増えてくると、さすがに企業の販管費として見えてくるようになってきたと思います。
民主党的には雇用が増えてOKなのかもしれませんが、株主から見ると利益率の低下なので問題です。だから誰か問題提起しても良さそうなものですが… おそらく多くの株主は、気がついたとしても話題にできない。ある種のあきらめ感があるように思います。
訴訟大国のアメリカでは、判例を重ねすぎてだいぶキツそうに見えるのですが、それでもちゃんとイノベーションが起こっているのは規制の対処法がうまい(逃げ道を残している)のだと思います。フェアユースも導入できない日本人にはマネできないのではないでしょうか。
法哲学や法と経済学は(未だに)最先端の学問ですが、それを扱う人間のスペックが低いために、法的な集権主義・家父長主義が横行するのでしょう。また、法律脳による「正義」がウケるという日本はまだまだ発展途上国で、市場ベースの社会になるには世代交代が必要でしょう。
耐震偽装だけではなく、BSE、livedoor、シンドラーエレベーター、比内地鶏、福知山線、船場吉兆、生協餃子、農水省事故米、東京都妊婦たらい回し・・・学問的な解決策を無視して騒ぐだけ騒いで風のようにさって往き、残るのは顔のみえない正義とコンプラ、そして儲かるのは弁護士と検察と公務員と馬淵のような政治家。
高度に発達した分業によって成立する社会においては、一人一人の仕事の内容を完璧にモニタリングする事は事実上不可能なので、姉歯事件の際の世間の反応はむしろ合理的と言えるのではないですかね。
つまり分業を成立させるにはお互いの仕事に対す「信頼」が必要であり、それを裏切る者を見せしめにして吊し上げるのは、モニタリングコストを軽減する効果があるハズです。
問題なのは人々のそういったある種の防衛本能によるヒステリックな反応を利用して己の影響力の増大を狙う役人と彼らと結託する政治家や役人の手先であるマスコミの存在ではないですか?
池田先生のブログは政治家や官僚も読んでいると聞きましたが、彼らに少しは反省してもらいたいとおもいますが、「そんな事を期待するだけ馬鹿を見ると」というのが池田先生のブログの読者の皆様の共通認識ですかね。
小学生のころ、学校で先生から「悪法も法なり」という話を聞きました。
そのとき、子供だったのでうまく説明できなかったのですが、なんとなく違和感が残りました。
いまは大人になったので説明できます。
「悪いとわかっているなら直せば?」
いつも先生のブログ楽しく拝見しています。先生が仰ることに全く同感です。
どのような制度(又は制度がない状態)にも、必ず、良い点と悪い点が併存している。これを数値化し、前者が後者を超過していれば、論理的には、当該制度は必要。もっとも、人間、杓子定規に物事を考察できないため、良い点6、悪い点4の制度を、感情論から廃止してしまうことがあるが、それを非論理的な判断として糾弾することは困難。この非論理的な判断が、「大衆迎合」。このように、大衆迎合は、一定程度までなら許容される。
ところが、日本はこの大衆迎合が為政者に及ぼす影響が強すぎ、良い点8(又は9)、悪い点2(又は1)の制度ですら、その2や1を感情的に批判して制度そのものを破壊してしまう。為政者(エリート)の役目は、本来、大衆を説得して、制度を存続させた上、2や1の悪い点を、いかに1や0に近付けるかであるにもかかわらず。
「水戸黄門」がパチンコ台のキャラクターになるようでは、日本も「法の支配」が根付いているとは言い難い気がする。
ヨーロッパでは「私法」を中心に「法」が発展したのに対し、アジアでは「公法(律令)」を中心に発展した。欧米人にとって「法」とはむしろ日本語における「ルール」のようなもの。一方、アジア人にとって「法」とは「有無を言わず守らなければならないもの」というイメージが強い。本音のところで「法の支配」に対する不信感があるのだと思う。
ただ、これは帝国主義によってアジアを植民地化していった西欧に対する(無意識的)不信感だともいえる。
イギリスは革命によって行政権(王権)を抑制する議会政治を発展させた。ところがその民主的な議会によって無理難題を押し付けられたアメリカは、議会に対する不信感から大統領を発展させた。
市民革命を成功させたはずの西欧諸国が、その民主的な手続きを踏まえた上で、アジアやアフリカ諸国を植民地化していった。そのことが「法の支配」や「民主主義」に対する拭いがたい不信感を生んだのではないだろうか。