15645e1e2a54319b3e-m今、検察の起こしている「犯罪」は底なし沼の様相である。おごれる者久しからずの理のように、不動の絶対的権力はないということである。永久機関が物理的に存在しないがごとく。

戦前は軍部に癒着し戦後はGHQの助力を受けて、検察権力はあるとき政治権力をも超えた。国民の代表である政治家、とりわけ田中角栄から繋がる系譜に対しては、特に厳しかった。それでもマスコミを通して、ある意味政治権力を超越し「正義の味方」として巨悪を退治する桃太郎役を見事に演じてきたのである。しかしその活劇もやがては暴かれることになってしまった。

絶対的権威=検察は太陽が東から昇るように不変の真理を照らしているとずっと思われてきた。それは力道山という北朝鮮人の空手チョップが巨大な体躯の「ガイジン」をばったばったとなぎ倒すように、頂点に上り詰めた政治家や実業家を次々と監獄に押し込めたのである。しかし人民の喝采は彼らを増長させながら、またいっぽうで彼らを追い込んだ。手柄を立てることがノルマになっていったのだ。

本来、警察の地道な捜査を裁判にかける為の「代書屋」さんにすぎない小役人がいつのまにか絶大な権力を得たのはなぜだろう。それは特捜部という張子の虎が自分の描いたシナリオに基づき、犯罪と思しきものを有無を言わさず立件してきたからである。捜査の素人が逮捕権を与えられ、強引に冤罪を創作してきた時代も永遠ではなかったのである。アウシュビッツも731部隊も永久には続かなかったように、非人道的冤罪製造機関=検察特捜部もいつか終わる時はやってくるのである。

かばかりか、、、

検察のシナリオにそって犯罪が作られるだけではなく、報道も自らのシナリオによって作られている。記者やディレクターのシナリオに合致しないものは捨てられ(場合によっては捏造され)てニュースも創られるのである。いうまでもなく証拠によって犯罪が構成され、具体的取材によってニュースが出てくるというのは「理想」であり「建前」であって、そんな現実は少なくとも僕は見た事がない。

それでも中には基本に忠実な検察官やジャーナリストがいることも知っている。でも自分を含めて「冷や飯」を食うヒトと「暖かい飯」を喰うひとが現状明らかに分かれているのが、現実追従派と理想派の差であるとは思いたくない。でも現状はそうだと思わざるを得ない。

いまはただ、、、、検察の再生と報道の再生を祈るばかりだ。不倶者としては。